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中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第1回]」を読んで
村上 潔
(
MURAKAMI Kiyoshi
) 2018/10/02
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last update: 20181224
◆中村佑子 2018/01/06 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第1回]」
『すばる』40-2(2018-02)
: 218-232
▼2018/10/03
「女性性」の可能性を拡張する、という目論み。それはありえる/あるべき重要な意志かもしれない。ではそこに「容れられる」者は誰か。男性も。ノンバイナリーな人も。その包摂の機能は、女性性の何によるのか。身体ではないだろう。しかしアイデンティティでもないはずだ。形而上的な認識論でどうこう説いても始まらない。どう考えるのか。つまり、すんなり通りそうで通らない話になる。それはそれで/それが正解ではある。しかし一応は何かの回路を通しておかねばならない。身体性の不確定さ、という回路はある。しかしそれは個体性の制約を受ける。その個体性を「つなげる」のは難しい。もう一つは、社会的に置かれた位置(立場)というのがある。これも個別状況に依拠することになるが、身体性よりは先に進める可能性が高まる。ではそれは、「弱者」とか「マイノリティ」といった括りでいいのか。それは決定的にまずい。そうした枠組みにもとづく包摂がいったい何を再生産するのか。注意深くあらねばらない。それは、どんな属性をもって(もたされて)いるか、どんな能力をもっていないのか、という基準ではなく、どんな空間に生きているのか、どんな時間を過ごしているか、といった次元で量るべきものなのだと思う。するとそれは往々にして不可視だ。ではどう捉えるのか。そのとき、書かれたものや表現されたもの、そして書けなかった・表現できなかった身振り・手振り・口ぶりといったものが媒介となる。最終的には、それらを「読む」側の問題にかかってくるのだ。その読む側に求められる力というのが、とりもなおさず「女性性」や「母性」ということになるのだろう。
◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」(『すばる』2月号)読了。普遍的な問いかけを身の回りの事例収集から辿り直す試み。ウェブ上で読める私の書き物で関係しそうなのは→@
http://www.arsvi.com/2010/1401mk1.htm
|A
http://www.arsvi.com/2010/1401mk2.htm
|B
http://www.arsvi.com/2010/1604mk11.htm
|C
https://antigentrification.info/2018/01/12/20180112mk/
[2018年1月29日19:54 https://twitter.com/travelinswallow/status/957930004716838913]
◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
@yukonakamura108 そういえば、1月に講義で『苦海浄土』を取り上げたのですが、中村さんが連載でやろうとされていることの根幹は、どうしてもここにつながってくるように感じます。未分化な時間、死者たちとの交感、社会化しえない自然と人間が形成する秩序、そしてそれを「わたし」が語ること。
http://www.arsvi.com/d/2017qasmk.htm#15
[2018年2月3日11:20 https://twitter.com/travelinswallow/status/959612436528508929]
◆20181001
「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読んで【集約】」
■引用
「そのとき〔=臨月〕の私は、自分の中心にうごめくエネルギーにうちのめされ、何かとてつもない――大海のようでもあり、深い夜の森のようでもある――「広さ」のなかに、身体ごと漕ぎ出していくような感覚をもっていた。自分ではどうすることもできないものに、ただただひれ伏し、雨粒をうけとる手のひらのように、やさしく開いて、身体ごと未知なるものになげうっていた。|自分を奪われるようでありながら陶然ともするこの不思議な感覚は、私の身体に大いなる秘密があることを告げるに十分だった。|それ以来、「母になるとはどういうことか」そのことがずっと頭をもたげたままでいる。」(p.218)
「「母」と言ったとたん、社会的な構造の問題に、からめとられてしまう危険をも感じ▽△ている。それでもなお「母」について考えていきたいのは、いま感じていることは妊娠、出産を通して初めて体験する感覚ではなく、少女時代からずっと感じてきたことだと気づいたからだ。」(pp.218-219)
「例えば身体のなかにいつもゆらゆらする水がたまっていて、あふれだすのを待っているというような感覚が、十代のはじめのころからあった。お風呂に入ると、身体の中の水は飽和状態をむかえ、水の物質性に身体が共振するかのように、かんたんに涙があふれだす。そういう時は、お風呂の洗い場でうずくまる。なぜこんなにも涙があふれるのだろう。なにか具体的な理由があるわけではない。大人になりきって、社会での場所を見いだすようになってからなくなったと感じていたのだが、妊娠を機に一気に感覚が戻り、水への反応はより強くなった。もしかしたら、自分の身体が社会化したことで、いっとき止んでいただけだったのかもしれない。[…]|それは、いってみれば自分というものの輪郭が閉じないという感覚である。身体の中心に、ぽっかりと空いた場所があり、常になにかを待っている。それは、私がいつか性的にも他者を迎え入れ、自分とは異なる個体を宿す場所を持つという、つねに他者への「可動態」に身体が開かれていることへの震えのようなものなのかもしれない。私は「私」だけではいられず、「私」という円環で閉じたものだけで完結できるわけではないという畏れにも似た感情。|女性の身体は、本質的に受動性である、内なる裂け目をはらんでいる。母になるということは、女性が潜在的に持っていた感覚を現実化し、先鋭化する事態なのだと。」(p.219)
「そのとき見えているものが何か、言葉ではなかなか捉えきれないが、都市を歩いていて、ときに人々のあからさまな欲望やクリーンな冷気に傷ついている自分がいた。いまの自分にとって息つける場所がない。私たちの日常性を支配しているシステムや、社会を内側から規定している思考のパターンに覆い尽くされて、深く息ができない、自分にとってのエアーポケットを探したいという感覚。その感覚は、ぶ厚い情報の雲に囲まれている現代社会のなかで日ましに強くなっている。」(p.219)
「自分の輪郭が閉じないという原生的な感覚は、私たちの社会を成り立たせている主体の安定性をおびやかす。それは心身の不安定さを抱え、社会の弱者として、周縁に追いやられる者の行き場のない虚無と近しいものだ。|この主観的な感覚を普遍化して「女性」を主語として語る危険を、たしかに感じてもいるが、それでも書くことで、もしかしたら同じように感じて苦しむ人への私信にはなるかもしれない。そして、こういう身体感覚や時間感覚からひもとく、「女性性」とはなにかということについて、男性や、あるいははっきりと性を規定しにくい人たちとも一緒に考えていきたいと感じている。いま私が「女性性」と呼んでいるなにかは、男性のなかにもあるといつも感じるし、この「女性性」の可能性は、社会のなかで生きにくさをもつすべての人に開かれていると感じている。」(p.220)
「妊娠出産期の女性たちの言葉、その数が少ないのだ。[…]妊娠出産期を、「女性とはなにか」という視点で、存在論的に考察した文章を私は読みたかった。」(p.220)
「最初私は、この時期の女性は、現実的なタスクに追われて、抽象的な思考ができなくなっていくのだと思っていた。[…]目の前で起こるのは、毎日が「初めて」に満ちあふれた赤ん坊の、喜びや恐れと共にある時間だ。その体験の総量を、言葉にしないまま、できないまま、これまで女たちは黙ってこなして来たのかもしれない。記録されていない言葉。それがあるのだということを知った。|しかしそう考えて、私は、ひとつの言葉を思い出した。▽△「女は存在しない」。[…]ラカンは[…]女性が「言葉の本性によって排除されてしか存在し」ないことを表現した。」(pp.220-221)
「母子一体の絶対的な享楽は、なかなか他ではあり得ない状態で、現実界には本当は位置づけられない、場所を持たない概念とも言われる。|私は気づいた。妊娠出産期の言葉が少ないのは、ただ女性たちがタスクに追われて忙しいからではなく、この社会システムが要請する「言葉」では、本質的に形容不可能だからではないかと。」(p.221)
「妊娠出産にまつわることは、ぬるぬるする濡れたものとひたすらつきあって行く数年間であるといえるが、この現代都市はどうだろう。ぬるぬるしたものからはどんどん遠ざかり、あるいは忌避し、乾いて、交換可能なもので満たされて▽△いる。そうした生や死の営みがもつプリミティブ性を排除し続けて来たのが現代社会だとしたら、私が全身で息苦しさを感じていたのは、システムによって固定化された日常に風穴をあけたい、その欲望の裏返しだったのだろう。[…]この体験から、この社会の固定化された日常を内破できないだろうか。一見退行ともいえる繭のなかの時間こそ、いまの世界を更新して行く可能態の役割を果たすのではないかと。|この奇妙で豊饒な時間を、これまで女性たちはみんな黙って体験して来たのだ。」(p.222-223)
「出産で自足していく女性というのは、私たちの身体が元々もっている「他者性を招き入れる潜在性としての場所」つまり子宮が、実際に他者を宿すことによって、現実と一致し、安定を得る、というところもあるのではないか。妊娠によって潜在的な場所だったものが顕在化し、そこで宿した他者と出産を経て実際に対面する。他者性を招き入れることができる場所、というのは女性の身体にとって、轟音のようなノイズで、それが妊娠出産というプログラムを実際に進んで行くことで静まりかえり、なにか無のような自足の時間にたどり着くということがあるのではないかと。」(p.226)
「女性が理性的に生きようとするとき(私自身もそうありたいと常に努めているが)、身体が自分の脳を裏切ってくるという感覚がある。[…]創造のエネルギーを孕んだ、カオティックで猛々しいノイズと、精密にプログラム化させた静かな無音のような状態、この両翼を進んでいくのが、女性の身体であると言えるのかもしれない。」(p.226)
「女性の権利を社会構造的に考えすぎることの落とし穴のようなものがあるかもしれない。女性はそもそも身体ごと潜在的な超越性に触れ、そもそもが真の実存なのではないだろうか。轟音と無音を一挙に引き受けている女性の身体というものを受け入れる場を、社会の方が持たないのかもしれないと。」(p.227)
「産まれた直後の赤ん坊には、この世に送り出された瞬間に、何十億年にわたるこの地上のすべての時間が折り畳まれて、なだれ込んでくるというイメージをもった。」(p.230)
「分娩台のまわりにかつて死んだ女たちが集まってくるような気がした。[…]私のまわりには死んだ女性たちの親しみのこもった感情がただよっていた。[…]もし私も今日命を落としていたら、この世に風や砂や水紋のようなものとして残って、ずっと娘のそばで見守るのだろうとも思った。」(p.232)
「娘と自分との境のなさ、痛みそのものに自分がなること、連綿とつながる女性たちの営みの、流れのなかにある自分……。こうして、自分というものが一時代を生きる、限られた個人であるような気がしていた私は、どこまでも吹いていく風の微細な揺らぎのような、漸次的な流れのなかにしか自己はないのだと感じるようになる。」(p.232)
■言及
◇立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《比較家族論(S)》
「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」
(担当:村上潔)
*作成:
村上 潔
(
MURAKAMI Kiyoshi
)
UP: 20181002 REV: 20181003, 1224
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