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永山昌彦氏インタビュー

2018/09/26 聞き手:立岩真也 於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所

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永山 昌彦(1954〜) ◇病者障害者運動史研究
◇永山 昌彦 i2018 インタビュー 2018/09/26 聞き手:立岩真也 於:於:宮崎市・障害者自立応援センターYAH!DOみやざき事務所
◇20180928 永山昌彦氏 120分 文字起こし:ココペリ121

立岩 文科省の科学研究費研究の一環で、何の一環かっていうと、患者団体とか障害者団体の運動の歴史のことを調べようというんで、僕は一応代表なんですけども、十何人、今、研究者がいてやってるっていう。まあ、言うたらそれだけです。話せばいくらでも…、っていうのはあるんですけど、今回、何で? …っていうのは、ついでってこともあるんですけど、宮崎に何年前でしたっけね、呼んでいただいたじゃないですか※。
※立岩 真也 2014/11/15 「自己責任について考える」,於:宮崎市清武町文化会館 小ホール

永山 4年前ぐらいになりますね。

立岩 そうですね。そん時に僕の話、僕がそこで何を話したか何も覚えてないんですが、着いた晩にみんなでというか3人でというか焼酎呑んで鳥食って、まあいい気分だったんですけれども(笑)。その時に、子どもの時に親に連れられて、訓練というのか療法というのかそういう所にだいぶ長く行ってたんだよっていうお話をなさっていて、それが記憶に残っていたんですね。今、色んなこと調べてるんですけども、一つに50年代60年代生まれ…もっと後の人も含むんですけれども、子どもの時にどういう訓練であるとかあるいはどういうかたちの治療、リハビリテーション、っていうのを聞いてるとこもあるんです。で、一昨日、久留米でお伺いした中山善人さん※っていうのは、横田弘さんのあとの青い芝の代表を長いことなさったんですけれども。まあその話も聞きましたけどね、ちょっとびっくりしたのは彼はさっき言った53年生まれだから一つ違いですけども、子どもの時に東京のほうで脳性麻痺の、脳外科というか脳を、頭開けて手術すると治るっていう話を聞かされて、本当に千葉の順天堂大学の、(?)の施設まで行って。3組、行って。自分は結局、色々考えて…考えてっていうか親が考えたんだと思うんですけど、やめたと。だけれどもその3人行った1人は、やって。どうも予後が経過が思わしくなくって、でも生きてはいるけどねっていうような話聞いて。最初、脳、頭開けるっていうんでロボトミーとかそういうのをちょっと思ったんです。そうではなくて頭に電極を差し込む…、そんなの聞いたことないなと思って、でもあったらしくて。それね、実は荒井さんっていう、まあ元々は文学なんだけど横田さんとか花田春兆さんとかそういう人と付き合いがあって、そういう本を書かれてる荒井裕樹さんという研究者がいるんです。彼が福岡で、今、メーリングリストやってるものですから、聞いた話で福岡でそういう話を聞いたというのをメールで聞いたんですね。で、その人と中山さん、別の人なんですけど、一昨日、久留米着いて「いや、実はそういう話を九州で聞いたんだけど。」つうと「いや、僕も知ってるよ。」って「僕もやりそうになったよ。」っていう、まあそれは1例というか一つのことなんですけども、53年、4か、で、あの時どこに…、割りと長いこと行ってらっしゃったんでしたっけね。
※中山善人 1953〜 http://www.arsvi.com/w/ny08.htm

永山 小学校3年の時に、まあそれは、そげん長くはなかったんですけど、3ヶ月間ぐらい。母子入園で。別府の亀川病院。

立岩 あ、やっぱそれは覚えてた。やっぱり別府でよかったんですね。別府の亀川病院?[00:04:59]

永山 亀川病院っていう、あの、国立だったと思うんですけど。行って、温泉プールで足を…、足に重りをつけてこう足を動かす訓練だとか、無理やり股を開いて。あの、痛かったのなんだっけ(?)、…ていうのをずっと、母親が先生から習いながら一緒にやるっていうことをやってましたね。で、さっきのその頭につける…、頭の話なんですけど、うちもね病院には行かなかったんですけど、頭に電極をつけるといいらしいという話があって。

立岩 あ、そうなんです? 聞いたことあるんだ。

永山 ええ。あります。であの、こんなね、機械。何か、今でいうドライヤーみたいなやつに針がいっぱいついてて。ドライヤーみたいな形のやつに、先っぽに針がいっぱいついてて。で、それを電気に通してこう頭につけるといいよ、って言われて、何か言われたみたいでですね、親が。だからかなり高い医療器具だったみたいだけど。

立岩 それはそうか、頭を開けるわけじゃなくて、頭の上からっていうか。

永山 うん。上から。

立岩 何かそういう、こう…、

川口(有美子) 痛いの?

永山 どうだったかな。

立岩 やったことないんですよね?

川口 やったことはない?

永山 ピリピリはしてたと思うっちゃけど。

川口 やったことあるの?

永山 やったと思う。

川口 ピリピリした?

永山 うん。

川口 電気、流して?

立岩 一つですか? 二つ? こんな感じですか? 一つですか?

永山 一つだと。

立岩 電気通して。

永山 うん。

立岩 電気コード、そのドライヤーみたいな…、

永山 そうそうそう。

立岩 電気コードになってて。

永山 うん。

立岩 頭にあてるんですか。

永山 つける。あてるって感じやった。

立岩 それとその、わざわざ千葉の順天堂…。「順天堂って御茶ノ水にありますよね。」つったんだけど、「そうなんだけど、その施設は千葉にあったような記憶があるな。」と彼はそう言ってましたね。でまあ、とにかくそういうことがあったと。じゃ、それはそれで聞いたことあるんですか?

永山 私、そういう機械を買わされたというか、買って。

立岩 買ったわけだ。買ったから持ってたんだもんね。

永山 持ってて。

川口 高かった?

永山 高かったと思う。値段はちょっともう覚えてないけど。

立岩 昨日、中山さんっていうのは結局やめたんだけれども、どうもコミュニケーションとかそういうのに障害が返って出るっていう話も聞いたみたいで、それでビビってっていうかやめたみたいで。やめてよかったつってましたけど。でも一時はその気になって、何かその3組、親子連れが、ひと月ぐらいで千葉に滞在したんだそうですよ。で、1組は、やったと。それで、やっぱお金はすごいかかるって言われた。で、そのおじいさんが田畑売ってそれに当てるからっていう、一時はそこまで話がいってたって聞きましたけど。だから、もちろん保険の効く医療ではなくて、自由診療みたいなそういうものだったんでしょうけどね。よくはやっぱりそういうのって聞いたことなかったからっていうんで、この間、例えば相模原で、あった時に、例えば若い世代だと熊谷晋一郎さん、それから僕と同じ歳だと尾上さんがいて、やっぱり彼らは施設でそういうリハってあったりってことを、結構、嫌だった(?)ので。で、必ずしもその、プラスというよりは、特に熊谷さんなんかは本に書いてますけれども結構辛い思いをしてっていう。

永山 僕、小学校5年から1年2ヶ月ぐらい整肢学園に入ってたんですよ。

立岩 整肢学園っていうのは、最初にできたのは東京ですけれども、それは?

永山 父母の会なんかがすごく力入れて、どうしても作らせなくちゃいけないということで運動をやって、やっと宮崎でも、っていう、

立岩 宮崎で。

永山 うん。宮崎県内で、できたんです。1ヶ所ですね。ちょうど宮崎空港の近く。全寮制で。宮崎市内にいても全寮制で、中に入らなくちゃいけいっていう。あって、そこ入りましたね。1日に2時間ぐらいリハビリがあって、それこそ股裂ですね。無理やりの股裂っていうのをさせられて(笑)。もう痛いのなんのって。もう嫌で嫌で。とか、あとですね、立位の訓練をしなくちゃいけないってなってる。で、下が板になってるんですけど、その上にこう、腰までのギブスをつけられてそれに足を縛られて。で、訓練する。リハビリの時間以外の時は、授業受ける時は立ったまま授業受けろ、って。[00:10:47]

立岩 立位を保…、

永山 保ったまんま。

立岩 できるようにってことで。

永山 できるようにって。

立岩 こういう、補装具みたいなのをつけて、こう、立ってその状態でいるっていうことですか。

永山 だからだいたいほら、脳性麻痺の人って足がまっすぐ伸ばされんじゃないですか。それをがんじがらめにして伸ばしてするから、それだけでも痛いんですよね。それで1時間とか2時間、立ったままでいなくちゃいけない。

川口 拷問だね。

永山 もう、拷問なんですよ。くい込んでくるし、勉強どころの話じゃないですね。机が、立ったままの机が置いてあるんだけど、何かそれで勉強しろって言っても。

立岩 机はあるけども、机に椅子が無くて、

永山 もう、立ったままの。

立岩 立って机に向かうみたいな、そういう姿勢というか。

永山 そうです。姿勢をとれという感じ。

川口 それでよくなった人いるんですか?

永山 いや、分かんない(笑)。

川口 エビデンス無いことやってたのね、じゃ。

立岩 そのエビデンスの無いことが結構な期間続くっていう謎。それってどうしてなの? ってことがあるんだよね。

川口 謎だね。それはでも、医療だったわけ? ん? 何だったんでしょう…。

井上(武史) 熊谷さんて、おいくつですか?


立岩 熊谷さんはですね、今、僕、脳性麻痺者列伝じゃないんですけど(笑)、生まれた年が早い順番に50人ぐらい、僕(?)しかできないかもしれないですけど(笑)、脳性麻痺の人を並べるっていう仕事をしていてですね※。仕事じゃないんですけど(笑)。趣味かもしれませんけど(笑)。一番上が花田春兆さん。1925年。それからやっぱ青い芝の高山久子さん。ていう、まあちょっと青い芝系の人たちが、20年代30年代いて、それからあとは30年代になって横塚晃一であるとか、横田弘ってのは35年生まれ。で、あとは40年生まれは八木下浩一。それから三井絹子が45年。新田勲が40年。そのぐらいの感じなんです。で、60年代…、あいだちょっと50年代あけて60年代は、尾上さんが60年。この辺からちょっと…、僕は古い人が好きなわけじゃないんですけど(笑)多いんで、ちょっと分からないんですけれども、熊谷さん※は、もうそれから言ったらだいぶ上、77年生まれなんですね。
※脳性まひ http://www.arsvi.com/d/cp.htm
※熊谷晋一郎 http://www.arsvi.com/w/ks19.htm

永山 ですよね。若いですよね。

立岩 でしょう? だから彼が77年生まれだから、もう80年代入ってますよね。そういう意味で言えば、60年代からいったらもう20年は過ぎてるわけじゃないですか。でもそんなにね、そこがどのぐらい…進歩だかなんだかわかりませんけど。ね。(?)。

永山 リハビリして何か頑張れとか、涙流すほど、何か、喚くほど良くなるっていうような、何かそんな信仰、

川口 スポ根? 星飛雄馬みたいな?

立岩 うん。大リーグ養成ギブスですね。

川口 ああいう感じで考えられてたと。

永山 うん。

川口 うん。

井上 (?)の女性の脳性麻痺のスタッフで、40歳…、たぶん熊谷さんと同じぐらいの年齢の人が、その、立ってるっていうのをやってたって言ってたと思うので、少なくともその世代まではそういうリハビリが続いてたんだよ。

立岩 うん。それは、一昨日、会った…、やっぱ中山さんも同じこと、おっしゃってます。その、立位の訓練っていうのをかなりやってたということは言ってましたね。それがさっき言った、5年生?

永山 5年から6年の1学期までいました。

立岩 ちなみに、学歴というか学校歴というかは、えっと…、

永山 まずは、通常、普通どおりに江平小学校という公立の、おふくろが送り迎えと、ずっと付き添いをするっていうことで、普通学校に行ったんですよ。[00:15:05]

立岩 何小学校って?

永山 江平小。

立岩 えひら? どういう字を書くの?

永山 さんずいの。…に、たいらですね。江平小学校。

立岩 ああ、はいはい。宮崎ですか?

永山 宮崎市内。ええ。街の中にあります。…に行ってて。で、2年生…、で、3年生で別府に行くので、病院には学校が無かったんですよね。

立岩 ああ、その別府の温泉の所には、

永山 うん。学校が無くて、1年休学。小学校休学なんですよ、僕。

立岩 小学校休学っていうのはできるの?

永山 できるかどうかは分かんないけど(笑)。

立岩 でも、そうなったわけですね。

永山 そうなったんですね。

立岩 で、それも彼に聞いたんだけど、知らなきゃ、何かどっかにあるよって聞かなきゃ行けないじゃないですか。それは誰に聞いたんですか、ってなことを聞いて回ってるんですけども、3年生の時に、とりあえず順番にいくとね、その別府の所に行くっていうのは、どういうこう話が…、

永山 えっとですね、うちのおふくろが父母の会の役員をしてたんです。父母の会。肢体不自由児…、

立岩 肢体不自由児の父母の会ですね。

永山 …父母の会ですね、なんかに入ってて。でその、交流会があったりとかそういうのがあって、そっから情報が入ってきたんじゃないかなと思いますね。

立岩 なるほど、なるほど。それで、ご両親はいらし…、お父さんもお母さんもいらっしゃった?

永山 はい。その当時はいましたね。

立岩 やっぱり相談か何かしたんですかね。

永山 うん。だと思いますね。

立岩 そん時、聞かされはしましたか? その、行くかとか、行かないかとか、行くことにしたとか。

永山 行くことにした、みたいなことは聞いてた。

立岩 うん。そんな感じですか?

永山 そんな感じだと思います。行くか行かないかっていうより、

立岩 …っていうよりは、今度行くことにした。

永山 うん。行くことにしたからみたいだった。

立岩 小学校3年生?

永山 3年生の時ですね。

立岩 10歳とかですか?

永山 9歳です。で、約3ヶ月か4ヶ月行って、病院に行って帰ってきた時に、復学は途中からだからできないので。

立岩 1年ずれるっていうことになるわけですね。

永山 1年ずれるっていうかたちですね。

立岩 それが別府の、何…、えっと?

永山 亀川。

立岩 亀川? かめは、つるかめのかめですか。

永山 鶴亀の亀。普通に。

立岩 …の、さんぼんがわのかわ?

永山 ええ。亀川温泉ってあるんですけども。リハビリテーション病院があったんじゃなかったかなと。そこでまた復学して。で、江平小学校に行って4年…、3年、4年また。

立岩 3年生と4年生を、あそうか、1年休学してるから、3年生と4年生、やって。

永山 そうですね。だから、クラス、同級生としては1年ずれるわけですね。

立岩 そうですね。同級生は上の学年になってしまうんですね。

永山 で、新しい同級生と会って。で、5年生の1学期からその整肢学園。

立岩 その整肢学園っていうのは、学校というか、

永山 …は、併設やったですね。

立岩 施設があって学校があって。隣にあるみたいなそういう感じですか?

永山 そう、そんな感じです。

川口 私も質問していいですか? そういうふうに自分だけ転校したりっていうのはその時どういうふうに思ってました?

永山 いや、やっぱり寂しかったですよ。

川口 寂しい。友だちと別れて?

永山 友だちとね。あの結構、うちは開かれてたんですよ。親が特にうちを家を開放してっていう感じで。僕自身がこういう障害者でなかなか外に出ないから、近所の子たちが集まってっていうのを容認してたっていうか。

川口 お父さん、お母さんが?

永山 うん。…な感じのとこだったから。その代わりその子たちとは離れ離れになるっていうか。

川口どう思った? それは治療のためだからしょうがないって思って行ったんですか? それとも分かんないで行ったの?

永山 どうなんだろうな。まあ、言われれば仕方ないかみたいな感じなのかもしんないですね。

立岩 んー。で、1、2…、3年生の時に休学して行き、1年ずれて、3、4年やり、5年から整肢…、

永山 整肢学園ね。[00:20:01]

立岩 整肢学園か。…の、で?

永山 で、5年生と6年生の1学期から行って。で、さっき言ったような訓練を受けて。ほとんど全寮制で。夏休みが2週間ぐらいしか家に帰れなくて。冬休み、1週間ぐらいかな。

立岩 夏休みはそもそも、そのぐらいしかないってこと?

永山 夏休み自身は、だから学校的には1ヶ月半ありますよね。40日間ぐらいありますね。そん中の盆を挟んで2週間ぐらいしか家に帰ってはダメって。

立岩 帰ったらダメなんですか?

永山 うん。

立岩 それはその、学校の授業は無いけれどもリハがあるとか、そういうことですか?

永山 ええ。

立岩 ちなみにどのくらいの規模っていうか、例えばどのくらい子どもがいたとか覚えてらっしゃいますか?

永山 (?)。50〜60だったと思いますけどね。

立岩 全部、色んな年齢、合わせてってこと?

永山 合わせて。小学校と中学校…、

立岩 小、中ぐらいの年齢の人。

永山 …が、いましたから。

川口 みんな、脳性麻痺?

永山 いや、色んな障害も。

川口 筋ジスとかもいた?

永山 筋ジスはいらっしゃらなかったですね。ただその、股関節脱臼の子たちだとか、アキレス腱がちょっと伸ばさなくっちゃ、ちょっと手術しなくちゃいけないっていう方とか、やったと思いますね。だから僕が入った頃って、割りと今はその、整肢学園というか子ども療育センターになって重度の子たちが多いけど、当時はそうじゃなかったですね。割りと軽い子たちが。

川口 みんな身体障害? 知的障害とかは無い?

永山 身体障害ですね。

川口 身体障害の子ども。同じ学年? 色々?

永山 うん。色々。

立岩 全部合わせて、ってことですよね。

永山 うん。

立岩 例えば、その永山さんが…、その、隣の養護学校っていうのは、基本的にはその、そこの施設でリハやってるかたちですか。

永山 うん、養護学校っていうか、近くの小学校の分校だったですね。

立岩 ああ、そのパターンですね。それもあるみたいですね。そうすると、例えばその分校の1学年、1クラスだと思いますけど、それはだいたいどのぐらいだったと?

永山 えーとね、5〜6人だったと思います。

立岩 5〜6人ね。そうするとそうか、小学校の分校と、

永山 中学校の分、

立岩 中学校の分、合わせると50とか60とか、それぐらいの数になる。

永山 うん。で、毎週水曜日が手術の日だったですね。

川口 手術の日?

永山 うん。…てのがありました。

川口 それは何? 一人ひとり手術されるの?

永山 うん、(?)、色んな人が手術される。

川口 こわーい(笑)。ちょっと、何かそういうのって…。

永山 普段は、その、アキレス腱を伸ばすとかいう手術はあるし股関節の手術もあるけど。僕も足の指を切ってるんですよ。指の筋を切ってるんです。脳性麻痺やから、こう指がグッて曲がるじゃないですか。グッて曲がって、靴を履いたりとか、あと、ギブスでやる時になかなか立つのが大変ですね。緊張とかグッて指が曲がってそれで立つって大変だから指を伸ばそうと。無理やり、(?)、指をやるっていうかたちだったので、この辺まで痛かったです。

川口 そりゃ、痛いよ、もちろん。

井上 今、そこら辺、どうなって?

永山 全然。それで、それは手術したほうがいいっていう話になって。で、左足だったんですけど、足のこの、ここの筋を切れば、

川口 今、どうなってるの?

永山 もう切れたままです。だから、絶対曲がることはできないですね。

川口 じゃ、伸ばしたまんまなのね。

永山 伸ばしたまんま。

川口 曲げられないで。

立岩 足の指?

永山 親指の、この筋です。

立岩 親指のとこですね。ああ。

永山 …を曲がらないようにするっていう手術をされて、

川口 筋切られたら曲げられなくなるもん。動かせなくなるのにね。

永山 だから、踏ん張るとかできないですね、もうね。力が入んなくなるからね。

川口意味ないよね。ふーん。わけわかんない手術ですね。

立岩 先週ね、仙台行ったんですよ、講演に。で、及川さんっていう、

永山 ああ(笑)、はいはい。ええ、ええ。

立岩 人に会って、彼はね、聞いたら78生まれって。でもやっぱりそれを切る手術をしてて足が曲げられないっていう。伸ばしたまんまですごい困るって。それは彼の連れ合いが言ってましたけど。伸びない、左(?)、とかこう。飯食べたりする時すごい不便っていうか困ったことに。だから、さっきの話じゃないけれども、そう、50年代60年代だけっていうことでもなくて、彼は78年生まれなんですよね。

永山 そうですね。それから、整形と、何か養護…、その、療育センターっていうかそういう整肢学園っていうのがイコールみたいなとこがあったので、やっぱり手術しないとダメだっ…、[00:25:05]

川口 儲かんない。

永山 うん。いけないってとこがどっかにあったんじゃないですかね。結局、親指も曲がんなくなったけど、他の指は全然曲がるから、全然、何の意味も無かったわけですよ(笑)。要は。

井上 そうですよね。整形医学の基礎から勉強してこいみたいな話になってくる。

立岩 そこの、まあ言ったら専属のお医者さんみたいなのがいるんですよね?

永山 ええ、いますね。

立岩 そこの中に外科医というか、

永山 外科医ですね。

立岩 手術ができる人というか手術をする医師がいて。

永山 そうですね。ええ。

立岩 それが毎週水曜。全部で50〜60人いるじゃないですか。そうすると例えば1年で50週ぐらいあるじゃないですか。で、どうなんですか。毎週水曜日は一人ずつぐらいとか、そんなイメージですか。

永山 だって…(笑)、ただ、その…うん、まあそんな感じだったですね。ただ、アキレス腱をちょっと伸ばすとかいう手術をする人たちって、ちょっとリハビリしたらすぐ退院ってなるので、割りと軽い人たちっていうのはそんなに長い期間いないので、そういうあのあれは、あったんですね、入れ替えは結構あったような気が。

立岩 ああ、入れ替わり立ち替わり。

永山 うん。

立岩 筋ジスの人もアキレス腱切られてるんですよね。どうも。それは年配の60年代の終わりぐらいから…。

永山 僕も足がこうなってるので、切ったほうよりも(?)、伸ばしたほうがいいじゃないかっていう話はあったみたいですね。アキレス腱を。

立岩 あ、そうなんですか。

永山 うん。

立岩 そういう話もあった。

永山 あったみたいです。そこまでは至らなかったですけど。

川口 何でこうなってちゃダメなわけ? こう。介護しやすいとかそういうこともある? 例えば。

永山 立たせようとするからじゃないですか。

川口 立たせよう、立たせるメリット…。

立岩 人間は二本足の動物だから。違うかな。

川口 そういうことなの?

立岩 違うかな。

永山 だと思う。

川口 そういうことなんですか。要するに、こう曲がってたりするよりは、

永山 うん、だから立って歩けるようになるっていうのが、すごく大命題になってた。

川口 だってさ、切っちゃったら動かなくなるのが、歩けるも何もないじゃん。そんなの、

井上 それを何か補装具で固定してみたいなイメージじゃないでしょうか。

川口 あ、補装具で固定すれば。でも、要するに体を補装具に合わせてるわけでしょう。そういうことでしょ。要するにね。補装具に合わせてた体を作るって感じだね。入るようにね。

永山 そうですね。そんな感じ。うん。

立岩 ちなみにその、親指の手術をなさったのは、5年生に入るじゃないですか。

永山 ええ。

立岩 それは、だいたいいつ頃、どのくらい期間その整肢学園。

永山 …はね、1年2、3ヶ月ですね。

立岩 ああそうか。小学校終わるまでには出てた?

永山 出てましたね。それから本当だったらもうずっといる人が多いんでしょうけども、うーん、僕は何かね、やっぱりあんまり合わなかった(笑)。集団生活が。

立岩 全寮制か。

永山 うん。で、体、壊してしまって。膀胱炎をやったりとか色んな病気ができてきて。で、親がもう見かねて「もう退所させます」みたいな感じだったですね。

川口 そこに行かないでずっと家にいる子もいたんですか?

永山 あの、重度の障害者は受け入れてなかったと思います。

川口 もっと重度の人は受け入れない?

永山 受け入れてないと思います。

川口 ああなるほどね。

立岩 (?)、ね、何かそういうことをやったら何かっていう。それは、3年生の時に別府に行かれたのは、まあ親が何か情報仕入れて、相談してのことらしいってことでしたけれども、整肢学園に行く時ってのはどんな具合だったか、記憶ありますか。

永山 だから、結局親がその役員をしてたりしてて、なかなか重度の人を受け入れないというのもあって、やっぱり重度の人を受け入れるようにというような運動をしてたみたいなんですよ。

立岩 ああ、親御さんがね。

永山 親御…、親たちが。

立岩 あ、お母さんが。

永山 お母さんも含めてね。そういう障害団体がやってたように、障害持ってた、脳性麻痺だとかあんまり動けない人たちを受け入れて行くっていうことになったみたいです。そん中の何か、割りと、

立岩 あ、じゃあ、そういうちょっと重い子でも受け入れてくれてっていうような、ある種、運動の一環みたいなことも含めて、うちの子どももっていうような。

永山 うん。そんな感じだった。だから、やっと順番が回ってきたぞ、みたいな。

立岩 じゃあ、行った時はそれなりの、ある種の成果というか希望がかなったっていうふうに思われたんですよね。

永山 まあ、親たちは思ってたでしょうね。[00:30:00]

立岩 ちなみに、もしお聞きしてよければ、横田弘さんのうちは畳屋さんで(笑)。昨日、一昨日、聞いた中山さんは、兼業農家だったのかな。あの、永山さんちはどういう?

永山 うちはですね、親が野菜の行商をしてたんですよ。野菜とかの行商をしてて。で、やってたもんですから。

立岩 それはお父さんもお母さんもですか?

永山 うん、親父がやってて。

立岩 お父さんが。

永山 うん。やってましたね。

立岩 それもちょっと気になってね。その、二日前に聞いた中山さんはそうやって、結構、1週間に1回とか2回とか、そうやって、そこそこ行き帰り何時間かかかる所に通ってたってわけですよ。それは誰が…、まあお母さん、(?)ですけども、で、やっぱり勤め人だったらできないよなとかって、(?)ですけど、

永山 そうですね。

立岩 それは、お母様は、その、

永山 ええ、毎週来てくれてました。土日。日曜日が面会日だったのかな。日曜日と何曜日かがあったと思うんですけども。で、来てくれてましたね。

立岩 その当時の…、僕は、宮崎、全然土地勘が無いんですけれども、その、空港の近くにあったっていうのは、例えばご実家というか家からお母さんどういうふうにいらしてたんですかね?

永山 何か、バスか何かで来てたかもしれないですね。

立岩 お母さんはその時に定まったお勤めっていうのは、もう、

永山 もう、無かったですね。

立岩 それで1週間、1回。

永山 うん。1週間に1回来てくれて。で、あの、まあ県内全域から来てるわけじゃないですか。で、差し入れとか絶対ダメなんですよ。うん、みんな平等にしなくちゃいけないっていうので。で、親もしのびなかったんだと思うんです。それでバナナとかね、そんなのコソッと持ってきて、看護師なんかが見えない所で、食わしてくれたりとかそういうことしてましたね。

立岩 ふーん。ちなみに山之内さん、二つ目、三つ目の病院かな、お母さんやっぱりしょっちゅう来てたというふうに。その時自分は何か腹立ててというか落ち込んでたりとか腹立てたりしたんで、そんなもん持ってくるなみたいに毎回言って母親泣いて帰って、それであとでというか今になって非常に悪いことしたなっていう話、後悔してるって仰ってましたね。

永山 でも僕も彼ぐらいの、20歳過ぎて21、22ぐらいだったらそう言ってたかもしれないですね。まだ小っちゃかったから。

立岩 あ、そうですよね。

永山 うん。

立岩 小学校5、6年か。

永山 だから11歳から12歳…、12歳から13歳ですかね。1年遅れですから。

立岩 そうすると、まあとにかく嫌気がさした集団生活に馴染めなかった。体のほうもむしろよくなくなったっていう。膀胱炎って何で…、

永山 結構、尿器で夜とかおしっこ取るじゃないですか。なかなかその、尿器を捨ててくださいとか言えなくて。で、そのままこう、下に置いてて、溜まったやつにまた夜中おしっこしたりしてそれがこぼれるんですよね。そういうの何回も繰り返していったりとかなんとかあったりして。で、膀胱炎とかになったんじゃないかなと。

立岩 ああ。

川口 じゃ、ヘルパーさんの数って何人?

永山 ヘルパーっていうよりも、看護師さん。うん。

川口 看護師さん。一人で何人ぐらい?

永山 何人ぐらいなんでしょうね。夜とか少ないと思いますよ。

川口 いないよね。おうちにいたらマンツーマンだもんね。お母さんいてお父さんいてみたいな。

永山 うん。

井上 山之内さん…、

立岩 山之内さん、それ、同じこと言ってましたね。やっぱ、おしっこ我慢して、

井上 うん。

立岩 ほんでとにかく看護師が、すごい、(?)。

川口 ああ、もうダメだ。私、腹立ってきた。本当に。

永山 (笑)

川口 この話はどこでも、未だに同じだしね。ありゃー。何だと思ってんだろう、本当に。

永山 そうですね。

立岩 えっと、戻ってその、最後の小学校6年生っていうのは、

永山 また、江平小学校に戻って。[00:35:04]

立岩 そのあと、学校っていうものは永山さんの場合はどんな具合だったんですか?

永山 ええ、あとはですね、だから戻った時についていけなかったのよ、勉強が。それこそ痛い目を(ママ)あいながら授業を受けてるから全然頭に入ってないんですよね。で、僕のその学力に唖然として、親が。「これは大変だ」で、家庭教師をあれしたりしてくれてやっと追いついたっていうか感じだったですね。で、中学校に上がるのに結構揉めて、やっぱり中学校のほうでは特殊学級のほうに入るようにとか言われてて。でも、それは違うって親が頑張って。で、クラスを1階…、だから1年から3年まで1階でしてくれたですね。1階(回?)だけかな。小学校の時に1階だったのかな…。うん、1階だったですね。1年から3年まで、1階でね。

立岩 「1かい」というのは「1かい2かい3かい」の「1かい」?

永山 そうですね。うん。

立岩 それはどういうことです? つまり、中学校はちなみに何ていう中学校?

永山 東中学校。

立岩 東中学校。宮崎東中学校とかそういうのですか。

永山 そうです。はい。

立岩 その宮崎東中学校っていうのは、1学年、何クラスあったと…?

永山 当時、7クラスぐらいあった。

立岩 ああ、結構大きいですね。

永山 あったんですね。まだ人数が多い頃だったからね。270〜280人いましたね。

立岩 そうするとね、例えば、普通だったらと言ったらあれかな、1年生は1階とか2年生は2階とか、そういうのはあるんですか?

永山 あったですね。

立岩 それを、その…、

永山 1階に。

立岩 永山さんが所属するクラスを、3年間、1階にするっていうある種の配慮というか。

永山 …は、してくれですね。

立岩 そういうセッティング、それをしたと。その、中学校3年間は、普通?

永山 そうですね。ただ、移動教室があって、美術室とか技術室とか音楽室とかに行かなくちゃいけない時にはクラスメイトが全部してくれてました。

立岩 その頃の永山さんのその移動っていうか、どのぐらいこの、どういうふうにこう、手段っていうか移動してた…?

永山 …は、ですね、あの、手回しの三輪車って分かります?

立岩 はいはい、こういうやつで。

永山 あの、三輪車で、片方でハンドルを持って、片方でこう回すっていうやつがあって、それで学校に行ってました。

立岩 学校にそれで、三輪車で行ってた?

永山 うん。三輪車で行ってました。自分で押すというよりも友達が押してくれて。

立岩 三輪車に乗って、自分でも漕げるけれ…、

永山 まあ、漕ぎながら、

立岩 漕げるけど、友達が、

永山 押してくれて、それで学校に行って。学校に車いすが置いてあって、で、それに乗り換えてっていうかたちで。

立岩 じゃあその、学校の中での移動も、自力プラス…、

永山 うん。ただ、トイレとか行く時には段があるので、友達が結構、押してくれました。

立岩 3年間か。それは中学校3年間の時には、病院に行ったりとかっていうのは無かったんですね?

永山 …は、無かったですね。

立岩 全然、無かった?

永山 もう、無かったです。

立岩 もう、そういう意味での、体をどうこうっていうのは、

永山 …も(もう?)無かったです。

立岩 もう諦めちゃったんでしょうかね。例えば親はどうだったん…、それ、何か親から聞いたことありますか?

永山 いやあ。無いけどでもその集団生活で、体、壊したとかいうのはあって、この子はそういう施設に入る子じゃ無いんだっていうのは思ったかもしれないですね。ただ、体を鍛えて歩けるようになるっていうのは、親にとってはやっぱり一番大きな何か目標みたいなとこが、この子を歩けるようにするっていうのは目標としてずっと持ってたと思います。

立岩 うちのね、一昨日聞いた中山さんは、施設、そういう機関みたいな所に行って、自宅でできるリハビリ…運動っていうかそういうのを教わってそれで戻ってきて、そんで家で…、まあ、彼はもっと小っちゃかったと思うんですけれども、三輪車、その写真ありましたけど、三輪車に足を固定できるというか、こう、足をこう入れて漕げるようなやつで歩行訓練的なことをね、と仰ってましたけど、永山さんの場合に、施設行ってからはもうそれで…だけど、そのあとも何か家庭できる的な、家庭で運動的なことって、おやりになったんですか。[00:40:06]

永山 うん。だから時たま、やってましたね。やっぱ親が一緒になって。

立岩 それはどういうものだったか、記憶にありますか。

永山 あのね、手を繋いで歩くとか、立ち上がるとか。そういうのはやってましたけど。

川口 お母さんと?

永山 うん。お母さんとですね。

川口 永山さん、ご兄弟は?

永山 いないんですよ。一人っ子。

川口 じゃ、お母さんも、

永山 つきっきり、つきっきりですね。 

立岩 それは中学校ぐらいまでは、やってたっていう感じですかね?

永山 …は、思います。



立岩 話、ずっと戻しますけど、一番最初の別府のね、その3ヶ月でしたっけ、その時のことについて、ちょっと記憶にあるみたいなという…、何かありますか?

永山 記憶に残ってるってことっていうのは…、えっと…うん、あの、おふくろと二人で親子で入院だったので、で、親父は一人だったんですね。であの、何かある日ね、朝方早くに病院の窓ガラスがトントンて音がするんですよ。したら、坊主頭の親父がいて(笑)、びっくりしたんです。

立岩 こんな感じだった?

永山 うん。そんな感じ(笑)。で何か夜行で、次が土曜日か日曜日だったんじゃないですかね、で、思いついたって言って父ちゃんが来て。で、一緒にその、びっくりして嬉しくて。親父とおふくろと3人で、あの、別府の旅館に1泊して。で、別府のその何かあの、地獄巡りをしたっていうので、すごい思い出がありますね。嬉しかった。

立岩 ああ。その話は聞いた記憶があるけどな、僕その、宮崎の夜にさ、焼酎飲みながらさ。その辺は何か記憶に残ってるんだよな、たぶんな。

永山 すごく嬉しかったですよ。

川口 大事に大事にね、育てられたね。

永山 うん、そうやんね。

川口 永山さんの今の人間形成って、やっぱり愛情たっぷりにお父さんとお母さんにね育ててもらって。

永山 だからすごくそれは嬉しかった。

川口 そうだと思うよ。

立岩 宮崎と別府って、どういうことになってたっけ? 列車で?

永山 今でこそ電車で3時間だけど、当時は電化もしてないし。やっぱ4時間とか5時間かかったんじゃないですかね。夜行電車が結構あったので。夜行の急行とかもあったので。

立岩 夜着くのに、お父さん、

永山 夜こっち出て、夜中走って、朝方、着くっていう。

立岩 ああ、朝方、現れたのか。

永山 朝方現れたから、夜中乗ったんでしょうね。

立岩 夜中に乗って、朝方現れて、で、その日に、

永山 泊まっ…、

立岩 その日、朝、現れて、1晩泊まったんですか?

永山 泊まったんですね。土日ぐらいかな。

立岩 じゃあ、実質、二日ぐらいいたっていう感じですか。

永山 二日ぐらいいましたね。

立岩 その時に地獄巡りをし、

永山 うん。を、した。

立岩 ふーん。それはその、施設からしたら、ある種、外泊みたいなことになるんですね?

永山 そうですね。

立岩 外泊許可が出たんだ。

永山 うん、出たんでしょうね。

立岩 その別府の病院っていうのは、例えば同伴で親子一緒に行くわけですよね。そうするとそこに何ヶ月もいるっていう時の居住空間つったらいいのかな、

永山 あのね、僕はベッドで、母親は何かベッドの下に、横に何か引いてっていうか。

立岩 あ、そのパターンか。何か引いてね。ああ、じゃあ昔の家族付き添いに近いような。

永山 そうですね。

川口 ああ、私もやった。うちの母がALSの時はここにダンボール引いて、下で寝てたよ。吸引の度に起きなきゃいけないから。20年前は。

立岩 じゃあそういう母子…、何かそういう部屋があるわけじゃなくて。

永山 うん。もう10人ぐらいの部屋に。

立岩 10人。

永山 うん。ぐらいだったと思います。結構大きな。

立岩 10人部屋に親が1人ずつ付いたら20人て感じですよね。

永山 うん。そんな感じだったと思います。

立岩 ふーん。じゃあ本当にある種、病室っていうか、

永山 そうですね。

立岩 居住の空間っていうより、

永山 …ではないですね。

立岩 病室ですね。じゃあ3ヶ月、お母さんは床で寝泊まりという。

永山 うん。寝泊まりしてたんですよね。

立岩 それがその、温泉プールみたいな?[00:45:04]

永山 はい、あったです。

立岩 今で言えば、温水プールみたいな?

永山 温水プールですね。浮力があるから足が動かせやすいというような理屈やったですね。それから、足に筋力をつけるんでしょうね。足に重りをつけてバタバタしろ、って。

立岩 足に重りをつけてバタバタするのを、例えばそれはまあ一人ではできないじゃないですか。誰がこう、体を支えて?

永山 いたと思います。指導者が。

立岩 指導の、そういうインストラクターみたいなそういう人がいて。

永山 うん。いて。まああの、浮き袋つけて。

立岩 浮き袋つけるでしょう、浮き袋つけて、こうまあ、浮きますよね。でその、足に何かそういう重しみたいの、つけてやるんですか。

永山 重りをつけて、それで足を下のほうで、こう、

立岩 こうやると。バタバタと。

永山 うん、こう。バタバタと、歩くような。

立岩 歩くような、そういうこう、前後に動かすようなことをしていた。

永山 うん。そんな感じです。

立岩 それはその…、まあ覚…、でも本当によく覚えてらっしゃるなあ。というか、僕は本当に子ども頃のことは何も覚えてない人間なので、あの、もしですけど、、どのぐらいのスペースというか。分かんないよね。

永山 ああ。覚えてないな。

立岩 ね。僕、母親の実家が漁師だったんですけど、ちょうどその漁師の家の真ん前が銭湯で。で、うちの爺さんに、行くと必ず銭湯に連れられて風呂に行ったんです。本当にこのぐらいの子どもの時は何かすっごい大きい、  

永山 大きく感じますよね。

立岩 大きいお風呂だなって思ってたんだよ。それが大学生かな、もう大学終わってからかな、行ったらものすごい小っちゃい銭湯だったの(笑)。本当、たまげてさ。「こんな小っちゃかったけな」って思ったけど、そういうのってあるみたい。

永山 うん。あるある。

立岩 子どもにとってみれば。

永山 うん。

立岩 で、小学校の校庭とかもさ、小学校の時、何かすごい広大に思えるけど、大人になって行くとどうも小っちゃいんだよ。

永山 そうそうそう(笑)。

立岩 そのスペースのことは別として、その、一つのプールみたいな所に同時に何人か子どもがこうやって、

永山 いたんだと、やってたと思いますね。でまあ、温泉だから暖かくなるから、筋肉も柔らかくなるから、その股裂も楽になるというような発想ですね。

立岩 股裂ってさ、お相撲さんはやるじゃないですか。あの人たちはあの人で。あの人たちはもう職業柄やらざるを得ない。どう?

永山 えっとね、足を曲げて、ここでこう開くんですよ。

立岩 足をこう、この膝の所で曲げるんですか?

永山 いや、こう広げるっていうか。

立岩 ただ広げるんですか?

永山 うん。

立岩 こうやって。こうじゃなくて?

永山 いえいえ。寝てて。

立岩 寝てる?

永山 うん、寝てて。仰向けになってて、足をこう膝を立てた形で。

川口 あ、膝を立ててこうやる。

立岩 ああ、体をこう。ね…、あお…、えっと…、

井上 ああ、(?)って、割るんだ。

川口 足を…。それで、

立岩 こうして?

永山 うん、そうして広げていく。

川口 これ、意味あるの?(笑)

立岩 カエルみたいになるね。

永山 うん。で、ここが地面についたらいいと。

立岩 え。つかないんですけど。

川口 (笑)

永山 そこまで、こう、力入れるっていうか。

川口 それ意味無いでしょう。何?

永山 だから、脳性麻痺ってエックス脚が多いじゃないですか。

立岩 ああ、はいはい。

永山 エックス脚になる人たちが多くて、こう、締めてしまうっていうのがあるの。

川口 こうなるから、こう。

永山 うん、広げるっていうことなんでしょうね。

川口 あーれー。どういう根拠があってそういう…。

立岩 それはさ、だけど仰向けになるわけだから、プールの中じゃできないじゃないですか。水の中でのバタバタはプールの中でやって、でまあそれで上がって、プールサイドっていうかそういう所でそういうのやったんですかね。

永山 プールサイドだったかどうかは覚えてないけど、まあ、

立岩 訓練ですか。

永山 訓練。

立岩 そこの、ちなみにその病院っていうのは、そこはあれですか、子どもも大人も?

永山 子どもたちだったですね。

立岩 子どもだった。

永山 うん。僕がいるとこはね。

立岩 それはでも、障害自体は色々ですか?

永山 いましたね。

立岩 脳性麻痺だけ…、

永山 だけじゃなかったです。

立岩 …ていうわけじゃなくて。そん時、でもまあ、お父さんとのいい思い出は、まあそれは確かにそういうことは記憶に残ると思いますけど、他に何かそういう、感想っていうのかな。どういう感じだったかって、何か記憶にありますか?

永山 まだ母親と一緒だったから、すごく、あれだったですね。

立岩 孤独というか一人っきりっていう感じではなかった。[00:50:00]

永山 感じではなかったですね。で、宮崎の人も何人かいたので。

立岩 ああ、同郷の。はいはい。10人部屋の中にも宮崎の人がいた。

永山 うん。一人二人いたと思いますね。

立岩 で、それはその、三月(みつき)で帰ってきたっていう…、その次の、整肢学園は、まあ言ったら体のあれでもう嫌になってということでしょうけども、その3ヶ月っていうのは、その、ワンクールっていうか、その…、

永山 だったのかもしれませんね。ちょっとその辺、(?)、分かんないけど、覚えてないけど。何か、基本は親にリハビリの仕方を教えるっていうのが、一つのそこの病院の考え方。

立岩 中山さんもそういうこと仰ってましたね。何週間か行くんだけれども、それでもうやめて帰ってっていうよりはそこでやり方教わって、あとは自宅でやってください、みたいな。ですからそういう意味で言えば、お母さんは言われたものを、宮崎に、

永山 そうですね。うん。足首をこう、あの、アキレス腱を伸ばす…、

立岩 アキレス腱を伸ばす。こう伸ばすんですか?

永山 いや、立ったまま…、寝てて、おふくろがここと足首を持ってこうやって。

立岩 ああ、足。こことここを伸ばすみたいな。お母さんが、何となく(?)、するっていう。

永山 ええ。…って感じだったですね。あと、もう、股裂ですね。親もそれならできた。

立岩 股裂と、アキレス腱。

永山 はい(笑)。よくやってました。

立岩 ちょっとプロレスっぽいな(笑)。いや、あのね、ちなみに古井透さんっていうリハビリテーション…、PTの人がいて、それで鎌谷正代っていう青い芝じゃちょっと有名な当事者がいて。それがなぜか夫婦なんですよ。で、十何年前に彼…、彼はPTなんだけど、やっぱりおかしなリハって随分あるってことは彼自身が感じていて。で、もっと(元?)脳性麻痺の認知障害(二次障害?)の、(?)。でまあ、そのこともあって十何年前に、僕が京都に来たあたりですね。少しリハビリテーション、特に脳性麻痺の、まあ話してもらって。それでちょっと知り合いなんですよ。だからその、鎌谷正代も知ってて。ああ、そうだ、あんたも会ったよね、一緒に。で、まあその夫婦、僕、知ってて、少し話聞いたことあるんですけど。今度、障害学会っていう学会の一つのシンポジウムがリハビリテーションなんですよ。古井さん、もう1回来てもらって、僕はちょっと司会みたいなの振られているので、まあちょっとそんなこともあってね。まあ元々、関心あって、もう20年ぐらい前ですね、こういうことを誰か調べてくんないかなあっていうことを本に書いたことがあるんですけど、それから誰も調べてくれなくて(笑)。こんなこと忙しくてなと思うんだけど、まあ、これからちょっとあとに続く人もいたらいいなと思って、できるときに聞いとこうとお伺いしてるわけですけど。うん。だいたい分かりました。そのあとの、人生長いですけど、永山さん、

永山 はい。

立岩 で、普通中学校行って、まあそれなりに…。で、普通学級3年間続けて、

永山 うん、行って。高校行く時も色々あって。で、商業高校に行きたかったんですけどね、でもそろばんができないとダメとか何ができないとダメとか言われて、そこを断念せざるを得なくて。で、私立の大淀川を越えたとこに、今は無いんですけど、

立岩 「しりつ」って、私立(わたくしりつ)?

永山 私立(わたくしりつ)の高校があってそこが受け入れてくれるっていうことがあって。ただ、おふくろは車の運転を持ってないので、親父がですね本当に愛されてたんだと思うんですけど、その行商を1回やめて、サラリーマンていうかちょっと自由のきくサラリーマンみたいなことを始めて。で、僕の送り迎えを。

立岩 聞いて良ければ、何ていう名前の高校だったんですか。

永山 宮崎高等学校。

立岩 宮崎高等学校っていうのが、私立であるわけですね?

永山 あったんです。もう、すぐ無くなりましたけど。

立岩 無くなったんですか。中学校ってまあ入試無いじゃないですか。高校の時の入試っていうのはどうしたんですか?

永山 まあ、推薦で行きましたけど。[00:54:59]

立岩 ああ、推薦でね。普通科みたいな。

永山 普通科だったですね。

立岩 ふーん。宮崎は何か公立学校が威張ってるみたいなことが(笑)。山之内さんが、何か公立学校は結構進学で厳しいんだって。

永山 普通学校は特にそうですね。それから、普通学校にもう行こうかなあと思って普通科の学校にちょっと打診したんですけど、もう普通科は競争だからあなたのことなんて加勢なんてできる人たちいませんよとか言われて。

立岩 それは公立の?

永山 公立の。

立岩 宮崎の、

永山 公立も私立もだったですね。

立岩 それは、本当に言われた?

永山 言われた。

立岩 それはその、例えば親が言われたとか? 自分で?

永山 いや、親が。

立岩 親が言われてきたっていうようなことを、親から聞いたってことですか。

永山 そうですね。

立岩 でもまあ、そこの私立の宮崎高校はどうやら受け入れてくれるっていうようなことで、推薦で、高校入る。

永山 はい。

立岩 …と、1年遅れてるってことですよね?

永山 そうですね。

立岩 ということは。そうするとまあ、15、16か、16とか。

永山 うん。16、17、18ですね。16、17、18で卒業する時には19ですかね。

立岩 19か。そうですね。で、高校は、まあ無事にというか。

永山 そうですね、無事にっていうか、まあ結構県内各地から来てる…、ちょうど入学者数がグーンと減った時代だったんですよ。その宮崎高校ってのが人気が無くなって。だから引き受けてくれたっていうのもあると思うんですけど。それから、県内各地から来てて寮生活してる子たちがいて、で、その子たちがよく面倒見てくれたり。

立岩 そうですか。

永山 うん。学校行って、クラスは上だったんですけどね、1階じゃなくて3階とかだったですけども。

立岩 うん、どうしてたんですか、その階段て。

永山 行くときはですね、親父がついて行って「お前、訓練じゃ。」とか言われて。あの(笑)、階段を手すり持って、上がっていって。でまあ、授業を受けて。あと、降りたりする時は友だちがね、車いすの階段昇降ですよ。あの、斜めに上げて。あのこう、1段ずつ落としていくっていう。

立岩 車いすで、

永山 車いすで。

立岩 車いすをこう、一つずつこうやっていくみたいな感じで。

永山 うん、やっていく。で、そういうのをマスターしてくれて。誰も教えたわけじゃないんですけどね。

立岩 ちなみにその時、手はどうだったんですか?

永山 手はね、今よりも動いてましたね。

立岩 筆記ってようなことはしたんですか?

永山 できましたね。ただ、よく破ってました。解答用紙を。

立岩 ああ。こうなって。

永山 うん。とか、力が入りすぎて(笑)。昔、藁半紙だったじゃないですか。あれでこう書くとビリって破れて。…ってのはよくあったですね。

立岩 で、高校出て。高校出たのが19歳。

永山 ですね。19ですね。

立岩 何年だ? 千九百…、

永山 54足す20引く1だから、73か。

立岩 そうか73年。まあそれから人生長いので、もう、どこから聞こうかなって感じなんですけど。ざっくり言ってそれから何してる感じでしたっていうか…。

永山 そこからは、えーと、まあ家が、親父が行商してて、そのあと店を始めたんですよ。ちょうどここで。

立岩 八百屋さんっていうことですか?

永山 八百屋を始めたんです。

立岩 はい。「ここで」っていうのは?

永山 ここの土地で。

立岩 ここ? 事務所が建ってる、この敷地というか。

永山 うん。ここがうちの、元々の家があった。

立岩 ああ、そうなんですか。

永山 ええ。で、それを中学校3年ぐらいの時かな、1年か2年ぐらいからまあおふくろが店番をしてっていうかたちで始めたんですね。…から、まあやってて。で、高校を卒業して。で、親が店を継がせようと。店を継いで商売を。商売ていうか、専売ものがあれば食うには困らんだろうと。タバコ販売とかお塩の販売とかしてれば。

立岩 専売ね、はいはい。ありましたね。

永山 よく、ありましたよね。

立岩 専売公社って、はいはい。[00:59:58]

永山 でまあ、障害者の場合は規定がちょっと低くなるんですよね。

立岩 専売の取り扱いの塩とか煙草とか。

永山 タバコ屋との間が300メートルぐらい離れていなくちゃいけないのが、1割減で許可するとか。

立岩 1割減、270メートルとかですか(笑)。

永山 で、許可するとか何かあったような気がします。その辺が。でもここは、店がそこにタバコ屋さんがあって、もうここじゃできなかったんですよ。

立岩 なるほど、専売のほうはね。

永山 うん。専売の。それでほかのとこに、今、僕が住んでるとこにお店をもう1軒出したんです。

立岩 ああ、ここのお店は維持したまま、

永山 維持したままっていうか、えーと何ていうかな…、それはその後か…。あ、ごめんなさい。で、高校卒業してやっぱりそういう勉強しなくちゃいけないって、やっぱり経済系とか商学の勉強をしようということで親と話しながらそういう展望の中で大学を探したんだけど、なかなか県外に行くっていう情報もないので。で、日向学院の短期大学っていうのがあったんですね。で、それは夜間部しか無くて。夜間部しか無いのでそこの夜間部に行って昼間はリハビリをしようということで。で、大島っていう所があるんですけどね。ここから歩いて30分ぐらいのとこ。もとは障害を持った人が結構集まってる時期があって。そこにリハビリのために午前中だけ行って。午前中行って午後帰ってきて勉強して、夜その夜間の短大に。

立岩 それは近いんですか?

永山 大学は近かったですね。短大は近かったです。2年間行って。で、そのあとどうしようかっていうので、今度は通信教育の大学の3年生に編入したんです。大阪学院大学ですね。吹田にある。…の通信学部が一番スクーリングが短かったわけです。夏の2週間ぐらいで済んだので。やっぱり親が一緒について行くので大変だっていうのがあって。で、一番短いとこを探して、そこに編入したんです。編入して、スクーリングは母親がついていって。旅館借りて2週間ぐらい行って。その、小学校3年生の頃と違って体がもう、ずいぶん大きい。ね。やっぱ大変だったと思うんですけども、まあおふくろと一緒に行って2年間スクーリングを受けて。で、無事なんとか卒業できたんですけども。卒業した年にですね、おふくろが亡くなるんですよ。

立岩 ああ、そうなんですか。

永山 元々あんまり体の丈夫な人じゃなくて、で、がんの、子宮がんになってしまって。開いたけどもう癒着してて無理だったので。で、おふくろが亡くなってしまってですね。で、親父と二人きりの生活になった。その亡くなる前くらいにスクーリングに行く頃にですね、今、僕らが住んでる所に店を作ろうっていう話になって。で、店を作って。タバコの許可は出たんですよね。で、始めたんですけども、まあおふくろが両方の店を見なくちゃいけないっていうとこがあって、おふくろ自身が新しい店の基盤を作るっていう。僕はこっちのお店のほうでちょっと店番をしながら。

立岩 こっちの1番目の所で。[01:04:47]

永山 …で、ちょっと留守番をしながらやってたんですけど。その辺の負担もすごくあったんだと思うんですよ。両方切り盛りせないかんし、借金して家を建てたってのもあるし頑張んなくちゃっていうのもあったのかなと思うんですけど。で、体壊して亡くなって親父と二人になって。でもう、こちらの店をたたんで。

立岩 はいはい。

永山 吉村町だったんですけどね、今住んでる所。そっちに二人で移って店番をしながらやってたんですけど。

立岩 で、ここはどうなさったんですか?

永山 もう、人に貸してって、感じで。

立岩 貸家っていう。

永山 貸家をしてて。で、おふくろが亡くなった次の年に、わたぼうしコンサート※が宮崎で初めて、
https://tanpoponoye.org/wataboshi-list/festival/2015/03/11101688/

立岩 あ、そうなんですか。あれはその頃始まるわけですか?

永山 宮崎ではですね。始まったのはその5年ぐらい前からですかね、3年か4年かぐらいだったような。そん中で、宮崎でもするっていうのがあって。それで、僕が、おふくろが亡くなったあとだったので、それで父母の会の人たちもそのコンサートの実行委員会に入ってらっしゃって。で、「何か詩を出さんか。」っていう話があって。で、おふくろのことを書いて詩を出したんです。したらそれが入選して、わたぼうしコンサートの、宮崎の第1回に入選曲として発表されて。

立岩 あ、そうなんだ。

永山 うん。それでその頃ちょうどその、わたぼうしコンサートをやった中に、赤十字の奉仕団とか色んなボランティアの人たち関わって、若いボランティアの人たちが関わって、その中で、まあ、おふくろが死んで3年目ぐらい経ったぐらいに、宮崎で車いすガイドブックを作ろうっていう話が出てきて。それでその、当事者の人たちも関わらんといかんからというので声がかかった。で、そういう例会とかに顔を出して行ってですね。そういう中で、あのまあ若い連中と、今まではちょっとお店なんかで子どもたちか主婦かとの関りだけだったんだけど、同じような年代というか自分よりちょっと若いくらいの年代の連中と関わりができて。で、送り迎えをしてくれたりとか一緒に活動するとかいうことがあって。そん中で、わたぼうしコンサートでも裏方として関わるようになって。で、中で、3回目だったですかね、わたぼうしコンサートの3回目で、宮崎の3回目で、何ていうかな、そういう、当時(?)、遊びフォーク(?)でもして…、遊びフォークって言っていいか…、何かこうお店の留守番をしたりそれだけじゃ飽き足らんで、何かやれるんじゃないかと思ってて。で、わたぼうしコンサートに関わったその音楽をやってる連中を、結構いたので。してほら、どっかのディスコ借りてディスコパーティをやろうと言って(笑)。それから(?)、4回か5回やったんですよ。

立岩 ディスコ、流行ってた頃? え? 

永山 流行ってました。

立岩 それ、何年ぐらいなの?

永山 何年ぐらいになるのかな。

立岩 54足す20いくつかなって話になる。

永山 25、6だね。80年ぐらい。81年とか、82年(?)とか。

立岩 はいはい。ディスコ流行ってました。

永山 流行ってましたよね。1回ディスコに行ったら全然その違和感が無くて。

一同 (笑)

永山 周りの連中も何か一緒になって遊んでくれたので。全然知らん連中が。それもあって、何かな、「あ、面白いやこれ。」と思って。「これ、俺一人じゃなくてほかの連中もこういうの経験すると面白いよなあ。」とか思って。で、企画して。で、わたぼうしコンサートをやってる連中、音楽をやってる連中とかに声かけて、「わあ、それ面白そうなことやろうや。」って話になって。で、ディスコパーティーを何回かやって。何かそんな活動をしてた。もう、遊びから入った(笑)。[01:10:02]

立岩 80年ぐらいですね。

永山 うん。

立岩 はいはいはい。

井上 宮崎市内にディスコがあった…、

永山 …あって。うん。貸し切って、やってました。

立岩 ああ。じゃあ、そこらってわけじゃなくて、ディスコのちゃんとしたっていうか、ミラーボールとかあったりするんですか。

永山 うん、あったりして。

立岩 ああ、ああ。ジュリアナの頃ですよね。

井上 もうちょい前じゃないですか。

永山 もうちょい前ですね。

井上 トラボルタのディスコの映画があったじゃないですか。

永山 うん、うん。

立岩 トラボルタね。ありましたね。

井上 『サタデーナイトフィーバー』※。
※1977 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC

川口 私たちが行ってた頃だ。そうだね。へえー。それ、何か取材されたり、新聞に載って記事になったりしたの?

永山 あったですね。

井上 それ、障害者の人を対象にっていうこと?

永山 うん、障害を持った人もそうだし、ボランティアで関わってる連中も関わって。で、よくみんな盛り上げなくちゃいけないってのがあったから、みんなで女装して踊ったりとか。

立岩 永山さんも女装したんですか?

永山 ええ、しました。よくやってた。

一同 (笑)

川口 それが、いくつの時?

永山 25、6…、7ぐらいだったな。

川口 やばいわー。それ、自分が遊びたい盛りだよね(笑)。

永山 女装したまま街の真ん中を歩いてみたりとか。そんな何かハチャメチャなことやってましたね。

(猫の声)

川口 さっきからね、猫がね、すごいいっぱいいるの。

永山 うん。行ったり来たりして。

立岩 いっぱいいる?

永山 うん。すごく。

立岩 僕がちょっと目についたのは、うちの猫と似たような。

川口 茶色のと黒いのといた。

立岩 茶色だったんだけど。いるね。

永山 で、そんな中、何か目についたのか、昔、日本青年奉仕協会ってジバ(JYVA)っていうのがあったじゃないですか。その連中が何か宮崎に面白いやつがいるっていうのを何か、ちょうど、わたぼうしの会ができてJYVAとの関係もできたりして。JYVAとたんぽぽの家って結構近かったじゃないですか。それもあって。

立岩 ありますよね。はいはい。

永山 あったですね。もう今は解散して無くなってますけどね。そこが目につけてくれて。それでですね、28か9ぐらいの頃だと思うんですけども、今度は青少年育成国民会議っていうのが文部省…、

立岩 青少年育成…、

永山 …国民会議っていう団体があって。文部省の外郭団体があって。社会教育と社会福祉を海外に行って勉強するちゅうのがあってですね。時間大丈夫ですか?

立岩 僕はぜんぜん大丈夫なんですけど。永山さん大丈夫ですか。

永山 ああ大丈夫です。もう止まらなくなってくる。

一同 (笑)

永山 で、それであの、そこがそういう海外に行くっていうのがあって。社会教育系と社会福祉系の連中を連れて行くっちゅうのがあって。それであの、障害を持った当事者が二人ぐらい団体の中に入るっていうことになって。で、JYVAの方から推薦してもらって。で、研修に参加させてくれたんですよ。

立岩 研修場所は東京?

永山 研修場所は静岡で。で、行先はフランスだったわけです。

立岩 フランス行ったんですか。

井上 へえ。

永山 うん。初めての海外旅行。うん。フランスに行かせてもらった。その時に色んな人たちが、社協の連中とか全社協とか県社協とか色んな人たちが関わってて、参加者の中にいたりとか社会教育系の人がいたりとかしてて。…とか、活動、ボランティア活…、まあ、障害を持った人たちがボランティア活動をやっている人たちも関わってて。で、行ってですね、静岡で2週間ぐらい…1週間か、研修をやって。そのあと、2週間フランスに行くっていうのがあって。で、行って帰ってきたんですけども、その時の仲間がですね、東京にヒューマンケアができたと。

立岩 もうそうか、その頃になると、もう86年ぐらいになってるわけですよね。

永山 なってる。

立岩 フランスではちなみにどういう、視察みたいな感じのやつ?

永山 そうですね。社会教育系と社会福祉系の両方。

立岩 フランスのそういうところを見て回って。

永山 うん、見て回ってって感じ。

立岩 で、戻ってきた、[01:14:59]



永山 …きて、次の年かその次の年ぐらいだったと思うんですけど、…と、「ヒューマンケアができたぞ。」っていう、「こんな面白いのが団体ができたぞ。」っていうことで聞いて、そこに見に行こうと思って。であの、倉庫みたいな、八王子の、

立岩 もう始まったばっかりのっていう感じです?

永山 行ったのは、始まって2年ぐらいだったと思うんですけど。

立岩 うんうん。まだ、まあ、しょぼかった頃ですよね。

永山 ええ。あの、中西さんがまだバリバリ若かった頃(笑)、行かしてもらって。で、話をいっぱい聞いて。宮崎でもこういう団体ができるといいなと思って帰ってきたことを覚えてる。

立岩 ああ、そうだったんですか。

永山 ええ。でその後ですね、この中西さんからその2年後ぐらいに連絡があって、「今度アメリカにキリン財団の方からお金が出て、アメリカのヒューストンとセントルイスとかに行くけど、お前行かんか。」っていう電話があって。で、「あ、それ行かせてください。」つって行って。で、行ったんですよ。で、その時に一緒だったのが、今、DPIの、誰か…名前が出て…(笑)、今の事務局長の、

立岩 佐藤?

永山 佐藤くんじゃない。佐藤くんの前…、後? 前?

立岩 佐藤くんの前は尾上〔浩二、1960〜〕
尾上。

永山 うん、尾上くんと。一緒だったんです。

立岩 ああ、尾上さんはそれ一緒に行ったんですか。

永山 一緒だったんです。で、尾上くんもねワープロ持ってね。

立岩 ワープロ持って(笑)。

永山 もう、すごいんですよ。

立岩 うん、尾上といえばワープロですよ(笑)。

永山 うんうん。もう、こう議事録を打つのがバーって打ってて。それ見て、「あ、すげえやっちゃ。」とか思い(笑)。

立岩 そうそう。親指シフト仲間なんですよ。まあどうでもいいですけれどもね(笑)。ああ、じゃあ尾上さん、ああそうですか。

永山 うん。その時に尾上さん知って。だったですね。で、行って帰ってきて。ただ、仲間がいないとこれ一人じゃなかなかできないよなっていうのがあって。で。地道に仲間探しというか、同じような思いを持ってる人間を探していくっていうか話していくっていうか。

立岩 アメリカへ行ったのは何年だっちゅうの覚えてますか?

永山 あのね、何年だったかな。

立岩 まああとでこっちで調べてみますけど。

永山 ああ。

立岩 はいはい。でもまあ、その頃ですね、86年は越えてるわけですよね。

永山 越えてると思います。

立岩 86年を越えて、中西からそういうのがあって。

永山 ええ。

立岩 で、アメリカ行って戻ってきて。で、自分でもやろうと思って、仲間探しという、そういう…。

永山 仲間探しと、まあ宮崎、なかなかそういう障害者運動が全然盛んなとこでもないし、どっちかっつうとその、青い芝とか言うと何かものすごく、

井上 過激派みたいな。

永山 過激派みたいな感じでみんなが捉えていたとこがあったので。全然、根づいてなかったんですね。宮崎の中で、そういう障害者運動っていうのが。だからその中で立ち上げるって結構あれだなっていうのがあって。…から、もうちょっと時間かけてっていうことでやってる中で、嫁さんと知り合って結婚するんですよ。24年前かな。

立岩 24年前に結婚した。

永山 ええ、して。で、周りの連中から、「お前、稼がんといかんが。」つって、あの、ちょうどボランティアコーディネーターっていう仕事があって。ボランティアに関わることもうずっとやってたので。で、ボランティアコーディネーターに就…。

立岩 それは宮崎市の?

永山 市の社協ですね。

立岩 市の社協が委託されてるみたいなやつですか。

永山 うん、そうですね、そこのコーディネーターとして働いてたんですけれども。で、そしたら2001年ぐらいに中西さんから電話があって。「お前、何してるんだ。」つって。「ボランティアのコーディネーターやってます。」って。「お前、そういうことやってる場合じゃねえ。」とか言われ(笑)。「宮崎で立ち上げろ。」っつって。「俺が行くから、俺たちが行くから。」 ちょうどオルグで回し始めてた頃ですよね。[01:19:49]

立岩 ああ。2001、そうか。それも山内さんと話してたんだけど、やっぱりそのあと支援費とかごちゃごちゃあって、JILとかが全国行脚っていうか、ちょうどその頃ですね。そうか、じゃあ結構、経ってるんですね? その、

永山 うん。経ってるんですよ。

立岩 最初に中西さんから言われて、次に言われるまでに結構な時間、(?)ますよね。

永山 結構、時間かかって。

立岩 その間のボランティアコーディネーターというのは、有給の、

永山 うん。そうそう。

立岩 お金、月給っていうか…、

永山 月給もらってっていう感じ。

立岩 …かたちの出る仕事で、

永山 うん。

立岩 だけど、じゃあ結構、長い、そういう感じで、助走というのは10年…、

永山 …近くあったんですね。

立岩 あったんですね。そんでまあ中西が、そういう叱咤激励か何かもしててそれで、でまあ、

永山 うん。叱咤激励。脅迫というか(笑)。

立岩 脅迫ですね、それはね。はいはいはい。

井上 その10年の間はもう無理かなみたいな、

永山 うーん、無理かなっていうか、なかなかその、運営したりとか色んなこと考えると、なかなかこう、帯に短したすきに長しみたいなとこがあって、なかなか踏み切れなかったっていうのがあって。で、そのうちに山之内くんが東京から帰ってきて。で、彼が東京に出て行く時もうちに1回来てるんですけども、なかなか宮崎の中でまだそういう生活をサポートするボランティアってなかなか育成できない段階なんだっていう。その時はまだ就職してなかったので。ただ単に僕の地元意見として「なかなかそこは難しいよ。宮崎中ではまだ難しいよ。」という話をさせてもらったんですね。

立岩 その難しさって、その、帯に短し…、例えば人材的なことですかね? 一緒にやる人として、いいパートナーというか…が、っていうところでっていうような…、まあ、色々ありますよね、お金、場所、人、その他って。

永山 そうですね。…と、あと自分の踏ん張りでしょうね。

立岩 踏ん切りというか、踏ん張りというか、そういうことですかね。

永山 踏ん切りみたいなとこもあったんだと思います。で、それで山之内くんが帰ってきて、まあ山之内くんと何回か話す中で、やろうっていう話になって。で、踏ん切りがついて。

立岩 山之内さんと話したのは、中西さんが2番目…2度目というか、やってきたのの前後で言うと、どっちなんですか

永山 どっちですかね。えーっとね、その前だと思います。

立岩 中西電話の前?

永山 うん。

立岩 …に、山之内さん、来て、

永山 うん。で、

立岩 …と再会というか会って、やろうみたいな話。

永山 で、僕はボランティアコーディネーターやってたので、彼が宮崎に帰ってきて、「誰かいませんかね。」って訪ねて来たことある。その、ボランティアだとか、

立岩 ああ、ボランティアコーディネーターをやっているところにというか、

永山 うん。

立岩 そこに山之内さんやって来て、まあ、ある種、相談を持ち掛けたっていうことですか。

永山 うん。

立岩 じゃあ、山之内さんはその時点でもう自分がやる気で、

永山 うん。まあ自分の生活をきっちり決めなくちゃいけないので。

立岩 自分の生活を、支える…、

永山 …支えるためのボランティアっていうか。

立岩 あ、そういう感じか。そういうものがいるから相談に乗ってくれ的なことでやってきて、そういう過程の中で二人でやろうか…、

永山 もう一人いるんですけどね。で、三人で、まあそういう自立生活センターとかできるといいよねって話をしながら。

立岩 してたら、

永山 で、電話があって。

立岩 それが来た。

永山 ええ。で、だから重なったんですよね。だからちょうど潮が満ちてきたっていう感じかな。だったと思うんですね。それで僕もコーディネーター辞めて。で、1年間準備をして。まあ最初のお金が要るので親父に頭下げてお金借りて(笑)。で、山之内くんも親父さんからお金借りて。二人でお金借りて。で、最初の2ヶ月、給料払うのにね、どうしてもお金が必要だからというのでお金借りて。ええ。「金利無しね。」とかいう、都合のいいこと(笑)。

立岩 二人でいくら借りたか、お覚えになってます?

永山 えっとね、僕が親から300万で、山之内君が100万ぐらいだったかな。それぐらい借りて。

立岩 あの、僕が呼んでいただいた時に、一緒で、おでんかな、ご飯食べたとこあるじゃないですか。ここの前の事務所?

永山 はい。[01:25:01]

立岩 っていうか、最初の場所はどこだったんですか。

永山 最初はここだった。最初はここで、昔の建物。

立岩 ああ。その、八百屋さんやってた同じ建物ですか?

永山 違います。最初はね、やってたのはお店をしてたって言ったじゃないですか。だからお店のあとだったんですね。それから土間があって。で、土間と、上に上がって、っていうことで改造して作った、もう、昭和初期の家。

立岩 お店としても使ってた。で、そのあと貸しに出してた。で、それを、

永山 …が、ちょうど空いてたので。

立岩 空いてたので、それを改装して、まあ木造2階建てっていうか、そういう。

永山 うん。親父に「1年間、家賃無しね。」って。

立岩 そういう(笑)。そうか、家主さんは、

永山 うん、親父だから。だから1年間は家賃ちょっと免除してっていうことなんで。で、1年間準備をして。で、まあ家賃を払えるようなかたちにして。で、お金も、ね、家賃もただにしてお金も借りてってね(笑)、すごく都合がいい(笑)。

井上 愛され続けてたわけだ。

永山 うん。

立岩 なるほど。それで1年準備してお金借りて場所、そうやって改装したりして始めたのは何年だろう。

永山 えっと、2002年。

立岩 ちょうどその頃で。最初からやってた事業っていうのは何ですか? 介護派遣はその時点で、

永山 2002年から始めましたね。

立岩 最初からやってた。

永山 うん。で、まあ自立生活センターとしては、もう2001年から話をしながらやってたんですけども、どうしても宮崎はほかに何もないので、自分たちで立ち上げないとこれはできなかったので、それからもうヘルパー派遣も一緒にっていうことで始めましたね。ただ、人を雇うのも初めてだし、その、ね、労務とか経理とかもしたことなかったので、もう暗中模索やったですね。で、家も昔の家だったから、もう山之内くん、ぬくいのだめ…暑いのだめだから裸になってやってました(笑)。

立岩 ああ、そう。体温コントロールできない(笑)。

川口 昨日、辛かったね、きっとね。

立岩 そうか(笑)。

川口 暖房入れちゃったからね、私が。

永山 上半身裸になって彼もやってて。お客さんが来ると「きゃあ!」とか言われて。

一同 (笑)

立岩 その、例えばスタッフというかあるいは介助者というのは公募…、募集というか。

永山 そうですね、募集してやってますね。

立岩 そういうのの、ヤッド(YAH! DO)、ヤッドは最初からヤッドでいいんでしたっけ? ヤッドって何なんですかね。何ですかっていうか(笑)。

永山 あのね、「やるぞ」っていう。

立岩 やっど! 宮崎弁ということですか?

永山 ですね。

立岩 ふーん。で、ちょっと見、英語に見えるみたいな。

永山 そうそうそう。

立岩 ちょっと、その辺をねらいました?

川口 ヤ!ドゥってね。

永山 ねらいました。ヤ!ドゥって。中身もそうでしょ。もう、やるぞ、DOやから。

井上 ああ、なるほど。

立岩 で、最初、こうやって(?)、見えてきて(?)、そういうかたちで始めて、まあ、あ、そうだ…、だいたい宮崎の、これまでのこういうことやってきたよ的なパンフレット、何かそういうのって作ったことあるんですか?

永山 昔作ったですね。ここ最近は無いですけどね。

立岩 そうですか。いや、あの、もしそのうち、いただくことが…。

永山 うん、年に1回ぐらいは色んなシンポジウムやったりとか。ピアカンの集中講座は毎年やらせてもらって。あと、普段から相談は受けてますけども。あとは色んなシンポジウムをやって。

立岩 僕らが呼んでもらったのは、あれは主催はヤッドじゃなかったでしたっけ?

永山 いや、ヤッドです。あれが、まあ、ね、出生前診断と尊厳死と命の尊厳と。そこで立岩さんに来ていただいてっていう感じで。[01:29:56]

立岩 なるほど。で、まあそこの、元八百屋さん…元貸家の所で始めるじゃないですか。だけどその…、何年だったんだろうね? 呼んでいただいたの。

永山 もう、4年…、4年?

立岩 まあそのぐらいだと思うんですけど、その時は、あそこのちょっとだだっぴろいみたいな何か、でもちょっといい感じの事務所の。

永山 江平のほうかな。

川口 何かスーパーの隣だったね。

永山 うん、あれは、江平のほうですね。

立岩 県からちょっと安く借してもらうみたいなことだって、山之内さん、仰ってたな。

永山 そうそう。そうなんですよ。で、昔の店がね、お店だったとこがどんどん手狭になってどうしようかって話になって。っで、後ろに、要は倉庫にしてる建物を代わりに建て替えたんですよ。これも親父をだまして(笑)、お金…、

立岩 親父さん、金持ってますね。結構(笑)。

一同 (笑)

永山 出させました(笑)。で、作らせ…作って。ここでやってたんですけどここもどんどん手狭になって。

立岩 ああ。もとの家の裏…裏というかに、新棟というか新たな棟、建ててそこでもやってたけど、それも狭くなる。

永山 なって。それで物件を探してて。そしたら江平の所に…、それが江平小学校の近くなんですよ。江平にいい物件があって作ったんですけども、というかここに移ったんですけども、台風が来ると水が上がってしまって。あの、後ろの駐車場大きかったでしょ。あっこへ水が入ってくる。

川口 えー。どういうふうに? 

永山 何かね、溢れて。

川口 溢れてくるのか。

永山 溢れてくるみたいで。台風来るたびに、このくらい浸水するんですよ。今まで2回ぐらいあって。

立岩 3センチとか4センチとか。

川口 大変だ、それ。

永山 だから、これはもう災害とかあった時に拠点にはなりきれんなと思って。

川口 それでこっちに。

永山 うん。で、それもあって。同じような家賃払ってずっとここの建物、ここに建てたほうが。で、自分が使いやすいようにするというのと、まあ災害時にみんなが拠点として使えるようにとか泊れるようなちょっとスペースも作ってやれるようにっていうことで考えたわけ。

立岩 ここが、オープンが…その着工というか、いつから?

永山 着工したのは去年の9月からですね。

立岩 去年の9月から工事になって。

永山 工事、1回、建物全部壊して、10月ぐらいから建て始めて…10月じゃないな11月ぐらいになるね。だから、なかなか建築許可が下りなくて。1ヶ月以上かかって。で、着工始めて。結構時間かかって。で、5月かな6月か…、うん、5月。今年の5月に引っ越してきた。

立岩 …ていうのが、これ。

永山 これです。

立岩 でまた、ここで再出発というか、

永山 そうですね。

立岩 …ていうのが、(?)。ああ。何か、ずいぶん借金してるんだって。そうなんですか。

永山 うん。ただ金利はすごく安かったんですよ。金融公庫さんから借りたので、本当に1パーセントとか2パーセントの金利だったので。5300万か。

立岩 5300。

永山 うん。

立岩 で、まあそれをだんだん返して。

永山 だんだん。20年で。20年だけど、もうちょっと早めにもう返し…とれる(?)かなとか思って。

立岩 ああ。繰り上げ返済みたいな。そういうことですか。

永山 うん。…な、かたちでやって。あの、あまり借金残すと後輩たちが大変(笑)。ある程度、引退するまでにはある程度払えるといいなと思って。

川口 いいよね。さくら会の別荘にしたい。

永山 うん。いいよ、いいよ。

川口 さくら会の別荘にするね。

立岩 ちゃんと高く、宿泊料取ったほうがいいですよ。

川口 宿泊費、取っていいから(笑)。

永山 ね、宮崎に遊びにきてもらうといい。

川口 せっせ遊びにくるから。ここだったら、ここに、操さんや岡部さん、ね、私たち上に布団を借りて、どっかから。みんな雑魚寝して、全員で。20人ぐらいで来ても泊まれるね。

永山 うん、全然、大丈夫。

川口 あとは何だ、東京が被災したら逃げてこようかな(笑)。どうやって逃げてくればいいのかなって(笑)、ここまで。

立岩 太平洋を泳いでくる。[01:35:01]

川口 船チャーターして(笑)。

立岩 そうね。たどり着けば何とかなるからね、たどり着くまでがね。あの、いや、やっぱ知らなかったですね。本当にこの頃、聞いてみるもんだってのを本当に思うこと…、思うことにしてるというか聞いてみるとそう思うので、そう思ってて。いや、ああそうだったんだと思うことばかりだったんですけど。だからうん、キリもないでしょうけれども、今の時点でというか、振り返ってということですかね、ちょっと、今、思っていることとか何かそういうのってありますか。

永山 今、思ってることですか(笑)。

井上 残す言葉みたいな(笑)。

永山 どうなんでしょうね、あの、まあ基本、10数年この、YAH!DOみやざきの活動をやってきて、まあ、代表は岩切さんに代わってあれしたんですけど。

井上 え? もう代わってるような?

永山 うん。

井上 あ、そうなんだ。

永山 で、僕はその、「PAみやざき」※っていうヘルパー派遣のほうの法人を別に立ち上げたんですよ。で、そっちのほうをまあ、代表というかたちになって。
※2002〜 https://activo.jp/users/89009

立岩 もう立ち上がってるんですか?

永山 立ち上がってます。PAみやざき。

立岩 Personal Assistant のPA。

永山 うん。

立岩 宮崎、漢字?

永山 平仮名。

立岩 平仮名、はい。色々難しい…。

永山 いや(笑)。

立岩 ちゃんと聞いとかないと。PA、ひらがな「みやざき」ですね。

永山 はい。

立岩 それの代表、もうすでにやって、

永山 うん、やって。ええ、YAH!DOみやざきのほうは岩切さんに代表になってもらって。僕はもう、(?)、理事として。その自立生活運動に関しては、やっぱり岩切さんに先頭に立ってもらおうっていうことで。

立岩 岩切さんのフルネームって。

永山 岩切文代ですね。

立岩 ふみよ? 「ぶん」ですか?

永山 文です。「よ」は代わるです。代ですね。

立岩 はいはい。…に、代表は、やってもらって。で、PAみやざき。

永山 うん。まあそんな感じでやってるんですけど、まああの、こういう活動をずっとやってきて、今ちょうど僕も何の縁か知らないんですけども、宮崎市の自立支援協議会の会長を6、7年やってるんですよ。

立岩 何協議会?

永山 自立支援協議会の会長をさせてもらってて。色んな障害者団体の人たちとかも知り合いになったし、あと、農業生(?)ともパイプがしっかりできてきて。まあそんなのもできてきたので、これを上手く活かしながらそれを推進していかないといかんなとは思っていますね。上手に活かしながら関係を作りながらちょっとずつ変えていく、宮崎を変えていくっていうのをかたちにしていかないと。

立岩 そうか、結構長い時間かけて、ゆっくり人脈というか、

永山 そうですね。

立岩 まあ人徳って部分もあると思いますけど、これね、そうやってつながりを多くして、太くしてきたってことですかね。

永山 そうですね。まあそれを、今からそれを上手に活かしながら、ちょっと宮崎の中の推進をしていかんと、

立岩 育ってきたものを、そうやって(?)使って、

永山 うん。

立岩 育てるみたいな感じですかね。

永山 そうですね。

立岩 どうですか、今の、仲間であったり後輩のほうがもう多くなってきたと思いますけれども、皆さん?

永山 そうですね、今は若い子たちがちょっとずつ頑張ってきてくれてるんで。

井上 そうなんですよね。

立岩 うんうん。

永山 ちょっとずつ尻を叩きながら(笑)。ね、あの、やっぱ楽しみを持たないとね大変なことばっかし…、

川口 大賛成。まじめなことあんまりやらないで、楽しいことをしたほうがまとまるよね。

永山 うん。ね。でもね何か、言ってしまうのよね(笑)。こう…、

立岩 叱ってしまう?

永山 …とね、まあ、今、褒めながらかな、とか思いながら。

井上 それがなかなかね。

川口 なかなかね。でもでも、

立岩 まあでも、永山さん、できるよね。

川口 永山さん優しいから。

永山 いやいや。

川口 温かいしね。うん。それは見習わないとね。

永山 いやいや(笑)。そんなことないですよ。

川口 見習わないといけない。[01:40:01]

立岩 ちなみにその、大学とかを、成人してからも夜間の学校行ってる間に午前中に、そのリハビリっていうんですか、行かれたっておっしゃってましたけど、それはどういう感じのものだったんですか?

永山 それはね、今までのリハビリと違って力を抜くとかリラックスすることを主にやってましたね。だから平衡器官、使って歩いたりとかしてましたけど。

立岩 それも中山さん、同じこと仰ってましたね。やっぱ、体、傷めつけてもしょうがないけど、やっぱ、体、辛いには辛いんで、やっぱこう弛緩っていうんですかね、緊張の緩和みたいなものは楽になるから今でもそれはやってるって仰ってましたね。そうですか、分かりました。それからもう一つ、本当、些末なことなんですけど、僕ぐらいであれば…ていうか、50…とか60年代ぐらいになると、ボイタ法とかドーマン法とかボバース法とか、そういう僕は今でも区別がちゃんとついてないんですけれども、そういうこう、カタカナ語のね、そういうものが入って、そういったものをお母さんお父さん聞きつけてっていうのが時期があったらしいんです…、そういう記憶は無いですか?

永山 あのね、名前は聞いたことあります。ドーマン法とかね、話では聞いたことありますけど、それがどんなものですかというと、あんまり覚えがないですね。

立岩 じゃあ、名前は聞いたことあるぐらいで、自分が今やってるものが何だかんだっていうような聞かされかたはしなかったっていう感じですか。

永山 無かった感じですね。

立岩 分かりました。僕はひとまず満足でございます。

永山 (笑)

立岩 何か、井上さん、聞くこととかないですか。

井上 いや、聞くことじゃないんですけども、ディスコっていう辺りから、何となく、それまでの障害者運動の雰囲気がガラッと変わったような印象があって、それはたぶん、うちのメインストリームとかがやってるトライとか、新しいタイプの障害者運動に変わるようなその辺が分岐点になったのかなって、ちょっと思いながら聞いていました。

永山 うんうん。そうですね。

立岩 80年ですよね。80…、そうなんですけど(?)…、

井上 まあでも、そうじゃないのも片方でありますよね。まだ80年代辺りだと、まだまだ。

立岩 うん。研究っていうか、結構、私たちのせいもあるんでしょうけど、70年代のちょっと派手なというか暗いというか重いというか、そういうのはまあまあそれなりにこの10年、20年こう、書いたのも出てきて。でもそれとはまたちょっと、同じところもあるし違うとこもあるような、そういうものって、80年代っていうのは、あんまりまだこう…。

永山 そうですね。

立岩 あと、それも昨日…一昨日なんですけど、(?)というか、東京大阪中心で、それ以外色々あった所っていうのはまだ、っていうような感じでした。

永山 そうですね。…から、障害者運動みたいなとこが、宮崎なんかじゃなかなか芽生えなかったところで、要は、わたぼうしコンサートなんかも含めて、若い連中と関わる機会が障害者の中に出てきてボランティア活動とかにちょうど接点が僕らに出てきたってところ、大きかったかもしれないですね。一緒に…、

井上 国際障害者年は80年…、

永山 そうね、81年ですね。

井上 81年ですね。それは結構、色んなものの転換点になってるような気がしますね。

永山 そうですね。うん。83年に東京行って都庁に行ってですね。都庁で、何かすごく怒ってる障害を持った人がいて誰だろうと思って、あとで話を聞いて色々話したら、 〔花田〕 春兆さん〔1925〜2017〕だった。

立岩 春兆さん。その時は何を怒ってたんですかね。

永山 あのね、障害者絵巻みたいなのを作ってらっしゃって、それを展示するにあたって、あの、「いざり車」とか、そういうのが書いてあって、それを都庁の職員が「これは差別用語だから出せません。」とか。

立岩 ああ。「いざり」とか「えざり」とか、そういうやつね、うん。

永山 うん。「そういう言葉は使えません。」とかいう話をしてて、それに猛烈に怒ってらっしゃった春兆さんがいて。

立岩 それで怒ってた。ああ。あの人も言葉の人だからね。そういうのはちょっと我慢ならんかったんでしょうね。花田さんって何かヘラヘラっとした顔していますけど、結構怒る時は怒るんですよね。[01:45:09.320]

永山 怒るんですよ(笑)。

立岩 割りと。いや、花田さんこの頃ちょっと僕も…。もうでも、彼も亡くなって。

永山 ですね。

立岩 僕の列伝の中で一番やっぱり、1925年なので一番最長老というか。でもやっぱ、長生きしたら得ですね。

永山 長生きは、

立岩 数年前まで生きてたわけだから。

永山 うん。長生きされましたよね。

立岩 何か無いですか? 何かあります? ついでに。ついでにって言うと失礼ですけど。

■永山一家

川口 奥様との出会いは?

永山 (笑)

立岩 それ、専門だよね。

川口 担当(笑)。

永山 奥様との出会いは、何ていうかな、僕、もう今、20何回、30回…、なるんですですけど、県のボランティア協会ってとこが、ふれあいの旅っていうのを始めてるんですよ。昔のひまわり列車みたいなやつを宮崎でもやりたいなと思って。で、それを始めたんですね。宮崎で。共同募金会あたりからお金もらって。日帰りのほうから始めて、1泊旅行したりとかして。そういうのを始めて募集して始めたんですけれども、それのねボランティアで関わるようになって。ボランティアを募集して、で、関わって。うちのかみさん、和裁師なんですよ。家で人に会わなくて一人でこう、ちまちまする仕事をしてる人で。で、何か忙しさに紛れて飯も食ってないとかいう話があって。したら、飯食いに来いとか言って、いう話をして。その頃、僕、一人暮らしを始めたところで、周りはその、荒くれ男どもの酒飲み場になってまして。

立岩 永山さんが彼女に、飯食いに来い、つったということですか。

永山 うん、そうだね。

川口荒くれ男の中に(笑)。

永山 荒くれ男の中に(笑)。それでね、まあ色んな出入りがあったんですけどその中の一人だったんですね。色んな男女が入れ代わり立ち代わり来てたので、その中の一人だったんですけど。1回その、それこそ今回の入院の前の入院の時なんですけどね、…に、あの喉チンコにばい菌が(笑)、ばい菌の話ばっかり(笑)、…入って、

井上 そうなんや(笑)。どういうことなんやろ(笑)。

永山 扁桃炎になって。

立岩 扁桃炎ですね、はい。

永山 うん。で、腫れて熱が出て、病院行ったら即入院ってなって。でまあ、一人暮らししてたもので。で、家のパジャマとか持ってないじゃないですか。もうあんまり無いですけど、もう、ごろっと寝て、起きるみたいな感じで、だったので。そしたら彼女が色んな物を持ってきてくれたりとかして。で、病院に寝間着とか持ってきてくれて。病院の中でトイレに行きたくなって、一人の時にね。して、粗相をしたんですよ。ちょっとウンチをもらして。で、あの、看護師に言えなくて、そのパンツをちょっとベッドの下に置いてて。で、この始末しなくちゃいけない。始末して…いかないけど(?)、頼む人がいない事態。…して、ちょうどかみさんが来て、ねえ、何か自然に言えたんですね。うん。「ちょっとウンコがついったっちゃけど洗ってくれる?」とかいうことを言えたんです。したら「いいよ。」って簡単に言ってくれて。何か、その辺でこう近づいた感じやったですね。

川口いい話だね。

井上 ウンコの縁みたいな話だね。

永山 ウンコの…。

川口 看護師さんに言えないのに、言えたの?

永山 うん。

川口 面白いね、それ。

永山 面白いね。何かこう、許せたんでしょうね。自分の中でも言えたし、相手も何かそれに対して、

川口 自然な感じになってったんだね。

立岩 そうか。(?)お話ですね。へえ。それで、その辺りからちゃんと…、ちゃんとというか付き合うという。

永山 そうですね。

立岩 結婚ていうのはしたんですか?

永山 ああ、しました。

立岩 そのウンコ事件の、どのぐらいあとです?

永山 えっとね、結構、早かったですよ。

井上 事件になってしまったけど(笑)。[01:49:59]

永山 次の年か。ウンコパンツ事件の後で(笑)、5月か6月ぐらいだったと思うんですよ。で、次の年の1月に結婚式。

立岩 ああ。半年とか7、8ヶ月後とか。

永山 うん。早かったですね。

立岩 それは何歳というか何年? どっちでもいいですけど。

永山 僕がね、結婚式を挙げたのが41歳。で、相手が26歳でしょ。14違う。

立岩 今でもその和裁の仕事はなさってるんですか。

永山 …は、もうあんまりしてないですね。

立岩 ああそうですか。何? 何っていうか、何されて…、

永山 もう、パートに出てます。週に2回ぐらいパートに出てる。時たま何か仕事が入ってくるみたいで、時たまやりますけど。

立岩 ああ、その和裁? 

永山 うん。

井上 和裁っていうのは、着物を作る?

永山 そうそうそう。着物を縫う。今の人ね、和裁師も昔は何か仕事になってたみたいだけど、今は既製品が多いし着物着る機会も無いし。

立岩 そうですよね。ちなみにお母さんは本当に早くに亡くなられたということですけれども、お父様は?

永山 …はね、3年前になります。

立岩 3年前に亡くなられた。

永山 うん。

立岩 急な病だったんですか?

永山 えっとね、大腸がんになって、それは摘出して終わったんですけども、そのあとに急性白血病になってそれで亡くなったですね。

立岩 なるほど。山之内さんのお母さん、本当に突然亡くなられて。

永山 うん、母さん、突然だったみたい。びっくりやった。ちょうどうちの娘が大阪の専門学校に入学っていうので引っ越しの手伝いで行ってたんです、みんなで。その時に電話がかかってきて。で、慌てて次の日に帰ってきました。びっくりしました。

立岩 「詫びられなかった。」とか言って、「今でもそれが、」とか言って。

永山 でしょう。

立岩 「おかず持って来るって来たのにすげなくしてしまった。」って仰って。え、で、娘さん、いらっしゃるんですね。

永山 うん。

立岩 へえ。え、お子さんは?

永山 …はね、4人なんです。

立岩 えー。生産性、めっちゃ高い。

一同 (笑)

永山 生産性、高いでしょう。あの、障害年金もらってますから(笑)。子どもたちが税金払ってくれるでしょう。

立岩 性別、順番に言うと、

永山 男、女、男、男ですね。

立岩 上が何年生まれで、下が何年?

永山 上がね、平成何年だ? 平成6年か…5年か。6年ですね。

立岩 94だっけ?

永山 だから23ぐらいですかね。

立岩 一番上が23。下…、上を二つ抜いちゃいけないけど、一番下の子が今、

永山 今、中学校2年生です。

立岩 あ、本当にまだお父さんですね。

永山 まだ、お父さん。

立岩 24? 上が24?

永山 23です。23だね。

立岩 23だと、もう学校は終わって、

永山 終わってて、学校は大学行かせてたんですけどね、留年から留年をして、3年留年してもう我慢できんって言ってやめさせました。今はバイトしてます。

立岩 大学中退。

永山 中退。

立岩 バイト。

永山 2年生から3年生に上がれなくて。

川口 見どころがあるかもよ。

永山 3回続けたので、それを「もう我慢ならん。」ちゅうて。

立岩 それが長男坊か。

永山 長男坊。

立岩 で、長男坊…男、女か。次の女の子は…、

永山 次の女の子はその大阪の専門学校行って、本当は動物園の職員になりたいっつって、言って入っていったんですけど、その前に高校を農業高校行ったんですよ。で、その時に仲良くなったやつがいて。

井上 やつがいて(笑)。

永山 はい。やっちまって。で、卒業はやっとできたんですけど、卒業した時はもう臨月が近いという…。で、もう…、

立岩 え、孫、できちゃったの?

一同 (笑)

永山 できちゃった。今、4カ月。

川口 可愛いい。いやいやいや。

立岩 じゃ、その孫付きは、何、専門学校行ってる?[01:54:58]

永山 いや、もう卒業して。その彼氏の実家が、牧畜じゃないけど酪農やってるんですよ。酪農っていうか、仔牛の生産ですね。

井上 宮崎ですか。

永山 宮崎。

井上 宮崎牛?

永山 宮崎牛になるのか何になるのかよく分かんないけど。面白い子でね、うちの娘は。その農業高校に行ってた時、酪農班に入ったんですよ。酪農班に入って、本人は牛乳が嫌いなんです。

一同 (笑) 

永山 でも酪農。チーズとか、こう、作ってたんだけど、私は食べれませんっていう。

立岩 今それ、やってるわけだ。乳牛なんですかね?

永山 乳牛じゃなくて、肉牛の生産ですね。

立岩 動物が…、そうか。うちのも、そういう傾向があるな。動物園の飼育員って何かちょっといいかなって思うってのあるかもしれないですね。

永山 うん、あるんでしょうかね。

立岩 あると思いますけど。いい仕事と思いますよ。

永山 うん。

立岩 じゃあ、そっちはまあ諦めて、っていうか。で、そっちの農場というか、そっちの仕事を一緒にやってて、お孫さんというか。子どもは男女どっちですか?

永山 男の子だね。

立岩 4カ月、男っていうのが、4カ月前に生まれた。

永山 そうそうそう。

立岩 で、1個、2個でしょ。3人目は?

永山 3人目がね、工業高校の今、3年生で。ちょうど就職のための面接が終わったところですね。

立岩 決まり…、

永山 ま、一応決まりそうなんですけど、どうなるかは。

立岩 宮崎に、いそうですか。どっか行きそうなんですか。

永山 いや、県外みたいですね。

立岩 宮崎の人って、やっぱり県外というと大阪とか多いんですか?

永山 大阪、多いですね。結構多いですね。

立岩 で、その三男坊というか3人目も、

永山 3人目は2年生で、勉強大嫌いで高校もどこ行くか分かんないんですけど。

立岩 ああそうですか。一番下の子ね。

永山 一番下の子。で、もう体重は俺よりも増えて(笑)。昔ね、小学校、何年の頃だったかな…、小学校3年の頃まだ生きてた爺ちゃんの財布からお金盗んで、自分、何か買ってたみたいで。それが発覚して怒って。「お前、精神から直さなあかん。」とか言って、柔道始めさせたんですよ。無理やり。

立岩 ああ。お爺ちゃん、怒って。

永山 うん。今も、やってるんですけどね。(?)。

川口 何段?

永山 やっと1級になって。まあなかなか行こうとしないのを、こう尻たたいて行かせるから、あれなんだけど。

立岩 4人か。4人、多いなあ。

永山 多いですよ。

立岩 貢献してますね(笑)。孫が、宮崎?

永山 いや、日向の方ですね。

立岩 日向って、ここからだと、どのぐらい?

永山 ここからだと1時間半ぐらいですかね。下道で、1時間半で。あいつがいるとこはちょっとその山奥のほうだから、ちょうど…、それこそ諸塚とか椎葉とかに…、だから約2時間ですかね。

立岩 見せにきたりしました? その孫。

永山 ええ、ええ。帰ってきてます。

立岩 何回も来ました?

永山 うん。何回も。

立岩 …とまあ、そういうことで。ファミリーヒストリー。

一同 (笑)

川口 大事なあれね。

立岩 大事な、ね。確かに。ファミリーヒストリーを聞いてしまいました。ありがとうございました。

永山 いいえ(笑)。こんなので役に立ってる?

立岩 いや、本当に良かったです。ありがとうございます。ちょうど…、今、1時間59分41秒です。あと15秒足すと2時間ちょうどで、とってもキリのいいところで。

井上 ありがとうございました。

立岩 もう2時間まで回しますね。何か嬉しいです。2時間ちょうどって。あんまりやったことないです。

一同 (笑)

[音声終了]


UP:20181020 REV:20190802, 0925
永山 昌彦  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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