HOME

山之内俊夫氏


Tweet


山之内 俊夫 i2018 インタビュー 2018/09/26 +川口有美子・井上武史・田原 聞き手:立岩真也 於:宮崎 ※
病者障害者運動史研究
◇文字起こし:ココペリ121

■1995年

立岩 …いたってのは、どういうふうにいたんですか。

山之内 なかなかもう(笑)、インタビューしがいありますよ。

立岩 うん、インタビュー。ちょっと今、回してますけど。僕、去年の5月か6月かな、たこの木の人にインタビューに行ったんですよ。話、聞いて。もうテープ起こししたんですけど。それは島田療育園ていうところの話。島田療育園闘争っていう話を石田圭二さんっていう方に聞いたんですけど、その時に多摩の人たちと会って。で、今…。まあそれはどうでもいいんです。それは僕が知ってるんで、聞く必要がなくて。え、何? もともと?

山之内 そうそうそう。僕は、だから95年ですよ。

立岩 95年に、何やったんですか?

山之内 別府の国立の、リハビリテーションセンターにいた時に…、を抜けなきゃいけないって話になって。出るっていう話になって。当時、インターネットとか普及してなかったでしょう?

立岩 そうですね。

山之内 で、実家に帰るか、入居施設等を探すか、どっちかしかないって…。

立岩 実家はもともと宮崎は宮崎?

山之内 宮崎ですね。

立岩 で、帰るか、どうするか。

山之内 はい。リハビリテーションセンターのケースワーカーに退所後の相談をした時に、まあ、そのどっちかぐらいしかないかねって言われて。どっちとも嫌だったので。何か無いのかなと思ってあれこれ探してたら、北九州の向坊さんっていう人、知ってます? 浄土真宗の…。お坊さんみたいな名前なんですけど向坊弘道さんっていって。頚損なんですけど、北九州で一軒家で自立生活…、一人暮らしをしてて。自費でヘルパー雇って。で、ネパールに仏教センターみたいな、障害者でも行ける、作ったり。あとフィリピンに、日本の障害者が、寒い冬、フィリピンで、年金だけだとほら、向こうでヘルパーさん雇って。そういう道を作ったりした、まあちょっと、面白い人だったんですけど、その人を紹介してもらって。

立岩 色々探してって、その向坊さんっていう人にまずは着き、

山之内 まずは会って。北九州まで会いに行って。

立岩 北九州? 北九州に住んでおられたんですか。

山之内 はい。もう亡くなったんですけどね。その向坊さんが支援したのが、藤木徳雄さんっていって。やっぱり頚損で、重度の頚損の人で。その人は筑波の施設にずっと入所してて。「もうここで死ぬんだったら、3日生きるだけでもいいから娑婆に出たい」とか言って。で、「かたつむり」さん。

立岩 国立の?

山之内 はい。国立の「かたつむり」がその藤木さんを支援して、で、その筑波の施設を飛び出して、「かたつむり」に身を寄せて。で、「かたつむり」から多摩市にアパートを借りて一人暮らしを始めた人がいてですね。

■自立ステーションつばさ・木村英子
 木村英子:1965年横浜市生 http://www.arsvi.com/w/ke04.htm

立岩 「かたつむり」と多摩って、関わりがあるんですよね。

山之内 そうですね、はい。多摩の「自立ステーションつばさ」っていう団体があってそこの代表の木村英子ちゃん…、

立岩 あのね、木村英子っていうのは今の名前で、僕は彼女がまだ20歳の頃に聞き取りに行ってんねん。まだ名前は…、
 →◇1986/03/** 赤窄英子・外山博美(介助者)・安積  聞き手:石川・立岩 紙のみ34p.[01] 文字化:立岩

山之内 赤窄(あかさこ)…、

立岩 赤窄。赤窄っていう何か変な名前やったから、珍しい名前やったし、それも覚えてて。ほんまに何ていうかな、始めたばかり。あの人がそんな立派になるとは思いませんでした。そしたら、ねえ。それが木村英子でしょ。

山之内 そう。で、その木村英子と筑波から出た藤木徳雄さんっていう頚損の人が、二人で多摩で始めたんですよ。だから「かたつむり」の暖簾分けみたいなかたちで作ったのが「自立ステーションつばさ」で。

立岩 両方、頚損やった?

山之内 えっと…、そうですね、藤木さんは頚損で。向坊さんが藤木さんを紹介して。「東京にこんな人がいるよ」と。

立岩 ああ。藤木さんが赤窄さんと暖簾分けで多摩に来てたと。

山之内 作ったばっかりだったんですよ。

立岩 で、藤木さんを向坊さんが知ってたと。

山之内 はい。[00:05:01]

立岩 そんなんで、向坊さんに紹介されたんですか。

山之内 はい。

立岩 「多摩に、こんなんあるよ」って。

山之内 はい。「こういう人がいるよ」って。

立岩 それが95?

山之内 95年です。

立岩 そうですか。

山之内 それで、東京まで、つい飛んで行って。で、藤木さんに会いに行って。そしたら、赤窄さんとか、木村英子さんとか、「つばさ」のメンバーがみんな勢揃いで。で、まあ「東京でとりあえず自立生活してみたら? で、何年間か生活していっぱい学んで、それから宮崎に帰ったらいいよ。」って言われて。それでね、簡単に何かあの「もう、気合だけ持って東京出て来な。」みたいな感じで言われて。

立岩 で、ほんまに東京に住むように、長く住むように…、

山之内 で、僕それから、はい。もうだって、僕は行くとこなかったので、家にも帰りたくなかったし施設にも行きたくなかったので。それで、「東京にこういう支援してくれるとこあるから東京で暮らすわ。」って親に言って、東京に行ったんですよ。

立岩 で、その、赤窄さんとかつばさの人が。

山之内 はい。最初、体験室があって。そこが面白くって。あそこ、ほらやっぱり、三井さんとか新田さん系の流れだから、何も言わずに体験室行って。その時はスタッフがね、正確に言うと代表の木村英子の旦那がその日は介助してくれるんですけど、次の日に朝、まあ来るけど、「ワープロを打てる?」って言うから「ワープロ打てます。」って。そしたら、「これでワープロとか使って、ボランティア募集のビラ作ったらいいよ。俺、介助するのは明日までだからね。それ以降、自分で生きなよね。介助見つけな。」って言われて。で、何のことか分からなかったんですけど、とりあえず「はい。」って言って、ビラをこう書いて。で、それをバーッと印刷して、膝の上にポンと置かれて、本当に駅前にポンと置いていかれて。もうそっからは全然訳が分からないまま。これ本当の話なんですよ。

一同 (笑)

立岩 2日目から。

山之内 はい。

川口 大丈夫だったの?

山之内 誰か見つからないともう家にも帰れないという。必死。

川口 えー。何か、そういう番組があったね、昔。

山之内 必死で、本当に。

川口 猿岩石みたいな(笑)。

立岩 そんなTV番組があった?

山之内 「こんにちは。」って。「すいません、読んで下さーい。読んで下さーい。」って言って。

川口 見つかったの?

山之内 もうそれが本当にいるんですよ。ビラもらって、何時間もおって、「あ、まだ、あの人ここにおる」って気の毒に思ったのか、「何かお手伝いしましょうか?」って言って。じゃあ、まあちょっと時間、何時間あるから部屋に上がってこれまでやったら、みたいな感じで。ごはん、ちょっとね、買い物付き添って準備してくれたり、ちょっと着替えを手伝ってくれたり。そしたら本当に何人か徐々に増えてきたり。当時、僕、95年だったから同級生が東京の大学にまだ何人かいたりしたので、

立岩 あ、そうですか。何年生まれなんですか?

山之内 68年生まれ。そうやって、東京の大学に行ってた友達と。あ、明日来る奴も引っ張り出されたわ(笑)。

立岩 その頃の、たまたま東京にその時、宮崎から、だっけ?

山之内 はい。高校の時からの。

立岩 高校の時の友だちが東京おって。へえ。

山之内 そうやってまあ、何て言うかね、初めは滅茶苦茶やなと思ったんですよ。気軽に…、まあ、こうゆう、するからそれでもよかったら来なっていうのは別だけど、「えー、もう着替えだけ持って来ておいで。」なんて言ってて、いきなり「探せ。」ってあんまりだなって思ったんですよ。

立岩 それはあんまりですよね。

山之内 でも、そしたら…、今度は逆の立場になってというか、1、2ヵ月過ぎて、そしたらね、やっぱり木村さん「よう頑張ったね。」って、「えっ?」って。「実はずっと見守ってたのよ。」みたいな感じで。で、僕みたいな特に中途の障害持ってたら、やっぱこう介助が必要っていうのを人にちゃんと伝えるっていうのが自立していく上で一番大事だと。で、制度なんかどうなるか分からんって。制度なくなったら地域で暮らせないっていうのは本当の自立じゃないって。どんな人でもボッとひっ捕まえて介助者にしていくぐらいのバイタリティがないとあかん、みたいな話をされて(笑)。[00:10:14]

立岩 たぶん僕らがインタビューしてから10年は経ってないんじゃないですか。86年かな、赤窄さん。とんがった感じが、確かしたんです、その時も。とんがっ…、何か、あのように(?)、とんがった女の子やなとは思ったけど、まだ自立してなか…、

山之内 はい。

立岩 するとかしないとか言ってたんじゃない…、

山之内 はい。三井絹子さんのところに住まわせてもらってたんです。

立岩 そっか、急激に偉くなってた(笑)、(?)、10年経つ間に。

山之内 あの時はね、本当、言われました。やられました。「あのねえ、」とかって。「首〔頚損〕の連中はさあ、」。

一同 (笑)

立岩 そう。頚損ばかにしてる。差別してるよね、あいつら。

山之内 「何かね、あれなんだよね、中途半端なんだよね。」って。

立岩 「中途の奴は中途半端なんだよね。」的なことを言うよね。

山之内 うん。「健常者にもなりきれねえのに、障害者にもなりきれねえ。」みたいに。でもですね、その辺すごく…、最初に、そういう新田さんやら三井さんやらの…、ね、本当、僕も何回も会ってこう、知ったから。そこはすごく最初のスタートとしてすごく良くって。頚損やったら頚損で固まりがちでしょう。それが、脳性麻痺の青い芝の会とか、府中療育センター闘争の話とか。 あと面白かったのが、国立で措置制度でヘルパーを利用してた「かたつむり」のメンバーが派遣されたヘルパーと揉めて、それでそのメンバーの子は「すごく怖かった。」 ヘルパー側の言い分は、別にその何かこう「物をこうポンと置いてその音が大きくなっただけで、威圧したわけでも何でもない。」ってそこで言い合いになって、そこで大きく揉めて。で、行政に抗議に行って、行政側は「別にそんな現場誰も分からないんだから、抗議とか謝罪とかしようがない。」って言って。「謝罪しろ。」「いや謝罪する必要はない。」みたいになって。それで姉妹団体のうちにも「今から国立市役所に集合。」って動員かかって。で、有無を言わさず国立市役所に行って、で、そっから交渉、何時間。で、障害者の窓口、行って「占拠しろ!」って。

川口 そういう時代。

山之内 で、5時が終わっても引き上げない。警備員が来ても動かない。で、一晩。まるまる一晩、そこ占拠して。そしたらMXテレビとか取材に来て、取材に来たら「わっ、来た。」って感じで、こちら側の主張ワーッと話をして。で、翌日さすがにその次の日の朝も僕らが陣取ってるから、さすがに向こうは根負けをして、「そこはもう何があったか分からないけれども、こういう事態になったことを陳謝します。」って言って。「まあ謝ったな。じゃあもう引き揚げようか。」って言って。

立岩 市役所が?

山之内 市役所。

立岩 それの首謀…、一番ワーワー騒いだのは誰なんですか、英子さんですか?

山之内 えーっと英子さんに三井さん。三井さんと…、三井さん(?)かなあ。

立岩 絹子さんまだ元気…、

川口 元気だったねえ。

山之内 あ、もうめちゃめちゃ元気でした。引かないっていう。本当にね、あの、あーっ、というかその…。

立岩 やる時はやるよなこの人たちは、っていう感じですよね。

山之内 うん。だから、そっか、このエネルギーがその最初、変えた、ね、変えていった、府中療育にしろ、東京都の座り込み闘争にしろ、やっぱこれぐらいの何かこうエネルギーがないと最初のひと山動かすのって、ねえ、難しかった…。

井上 95年やったらもう20年以上経ってるわけですよね、それから。

立岩 うん。始まってから(?)、25年経ってるよね。

井上 まだ、そういう何ていうかな、熱気が全然冷めんとその時代まで来てるような感じやもんな。

山之内 うん。ただもう本当ねえ、「かたつむり」こう、色んな人が入っては辞め入っては辞めっていうそのエネルギーにもう圧倒されちゃって、そこにもう…、

立岩 いや、そうやと思う。うん。辟易って言うか。

山之内 そうそうそうそう。「人間関係にもう疲れちゃって」って言って。

立岩 それは分かる。濃すぎるんだよ、何か。濃度が。[00:15:13]

山之内 おーっ。濃かった。本当に濃かった。でもその時に言われてたのが、ちょうどその時期の時ってほら、組合とJILが分かれるっていう時期だったから。僕、全然そこ分かんなかったんですよ、まだ。何でこの人たち揉めてるんだろうぐらいにしか全然思ってなくって。JILのそういうアメリカのCILをこう持って来て、ピアカウンセリングとかILPとかそういう用語を使って、もうちょっとこうシステマチックに自立をやっていこうっていう…、まあスマートにね、言い換えれば。そういう運動の展開に対しての批判というか…、批判ていうかな、所謂リーダーみたいなかたち、ピアカンとかILPのリーダーになれるそういう能力のある障害者、そういう人が給料とかを貰って、ほかの障害者をサポートするっていう、ある意味健常者の社会のシステムをついに障害者が取り入れちゃったのかっていう、そういう批判っていうのかな、(?)ですね。

立岩 だと思う。だから、僕らが86、7年ぐらいに聞いた時は。でも、その時点で既にそういう若干、色合いの違いっていうかそれはあったんですよ。

山之内 はい。ありましたね。

立岩 あったけど、でも、僕が三井さんたち、赤窄さんとかに聞いたのは、安積のつてやったし、また別系統の中西さんとかそっち側に行ったのもそうやったから、まあそういうぐらいの感じで温度差はあるけどそれなりに伝わった(?)。共存してたっていうか。

山之内 そうです、そうです。

立岩 それが90年を越えると段々かたちができてきて、あるいはかたちの違いとかなってきて、色んなことがごちゃごちゃ重なって、結構対立がはっきりしてきて。で、組合と協会みたいな。

山之内 全身性介護人派遣事業が、東京都がどこもやるようになって、ダイレクトペイメントみたいなかたちで介護料が個人に入るわけですよ。緊急一時とか色々な制度があったんですよ。介護料が個人に入って、その個人が介護者に払うっていう、そういう意味での介護保障が結構進んできてたんですよね。そうするとやっぱり中西さんたちは出た介護料をきちんと事業として適正に運営していこう、それがやっぱり行政の信頼を得て更なる介護保障につながるってたぶん考えたと思うんですけど。組合は、いわゆる介護料入ってきて、中には一緒に色んな所に行ったりするのにやっぱり費用がすごくかかるわけじゃないですか、何をするにしても。介護料だけじゃない部分のかかるところにそういうものを回してってっていうことになって。そこに対する批判みたいなのがJIL側のほうからもあって。そこら辺がちょっと対立の溝を深めた一因かなあって今になって思って。

立岩 それがあるでしょ。そうなんですよ。それは本人たちも正直言って「この人たち何でケンカしてんねん。」っていう、そんなに分かってない、気にしてないですけど、でも実際あって。仰ったのは、まあ半分以上そんな感じだったね。それからあと、東京では東京でやれてることを地方にどうやって広げていくかっていうところの方針の違い。まあ正直、ぶっちゃけ言ったら新田さんは「まあええわ。」っていう。でも、今、協議会とかで大野さんなんかはどうやって全国に広げていくかっていう、そういう頭ですよね。そこの違いもあった。

山之内 ありましたね。

川口 そういうの、大野君が首謀者だった?

立岩 いや、大野君が首謀者なわけじゃない。

山之内 川元さん、とかね、小平の。

立岩 川元、高橋、

川口 あ、川元さんね、一緒にやってた時の、ってことね。[00:19:54]

立岩 …あの辺と。でも、その辺の話って色々聞いていくと結構面白くて、どっちかいったら人間関係主義の関西の部分、だから兵庫青い芝の福永さんとかに、3月に郡山、僕、しゃべりに行って、そのあと飲んで、聞いたら、福永さんところに修さんたちが来て1ヵ月ぐらい説得して…、されてというか。で、(?)、そっち行くぞってなっていった。たぶんJIL系のそういう人たちだけが来たら、関西のあの濃い人たちが、(?)と。けど、そうじゃない、高橋さんとか、ああいうふうに来て、これはこれでやるしかないぞっていう話になって、関西が、ある部分もそれに乗ったみたいな。そんな話聞いたことないよっていうのをちょっと聞きました。まあ色々、裏っていうか色んなことあったんやなと。(?) だから、深田君っていう立教出た研究者がずっと新田さんのところに入り浸りで、1冊本書いてるんですよ。そこの中に分裂の話出てくるんですけど、あの辺はやっぱり氷山の一角とまで言わないんだけども、全体の一部。尚且それを新田さんたちがどう見てるかっていうのがメインだから。まあ、あの謎っていうかは、まだちょっと、(?)。

山之内 ああ。でも、何となく覚えてるんですよ。行って一番後ろでこう座って、全然もう…、だから勿体なかったなあと思って。ねえ、あれ記録したら貴重な、今となっ…、

井上 誰も分かんないですよ、(?)。

立岩 わけ分かんないですよね。

■新田勲

山之内 別れたあと、1回、僕、新田さんに呼ばれたんですよ。北区の自宅に。呼ばれたことがあって。行って、で、「組合の活動をちょっと頑張らにゃいかん。」みたいな感じで話を聞いた(?)ことがあって。何かもうレジェンドみたいな感じだから(笑)、ものすごい緊張して、新田さんに呼ばれて、…と言われて行って、で足文字でこう「ピー」ってされて、目の前で。「はあ。はい。はい。」ってなって。

一同 (笑)

山之内 何を話したかは、本当覚えてないんですけど。ただ、ものすごい緊張したのを…。

川口 そんなに緊張する人なの? あの人。

山之内 いやいや。そうでもないんですけど、もう僕らの中ではいつも東京都の交渉と厚労省と交渉で、一番前に来て。

川口 そっか、そうなんだよね。

山之内 (?)、足で、(?)。

川口 足でね。

山之内 「うわっ! うわっ!」ってやってるから、もう…、そういう人だったからですよ。

川口 そうそう。

山之内 今となったら、本当に貴重でしょ?

川口 私、でもあの家に入り浸って、行くとご馳走してくれるから(笑)。私、新田さん、すごい気に入られて4番目の奥さんにされそうだったのよ、本当に。「導尿して。」とか言うから、「ちょっと私導尿はしないんすけど。」みたいな(笑)。

山之内 あの、『愛雪』。

川口 そう。『愛雪』も、もう家に、来るまで(車で?)何かもう、

山之内 あれ読んで、もう、おかしかったっていうか。

川口 『愛雪』の資料も全部見せてもらった。全部、取ってあるの、ラブレターは全部。そうなのよ。

山之内 あの、恋に対するエネルギーもすごいですね。人を好きになって。

川口 だって、あれを書くために治療をいったん停止したんだよ、癌の治療を。癌の治療をしてると抗がん剤で吐いちゃって書けなくなるから1回止めて、書き上げてからまた治療を開始したっていう。あれだけは書かなきゃいけないっていう(笑)。

立岩 まあな。(?)な人やったな。

川口 最後、楽しかったなあ、新田さん。でも、怖いんだね、やっぱりね。

立岩 怖いですよ、やっぱ。

山之内 いや、当事者からするとね。

川口 そういう歴史知らないから。私、「ただのおじちゃん」だから。

立岩 だから全然、この辺から入ってくる人は、「ただのよだれ垂らしたおっちゃんやん」みたいな感じやん。

川口 ヘラヘラ、ヘラヘラして。

山之内 さんざん聞いてるから。だって、「今のこの介護保障制度は誰のおかげだと思ってんの。」っていう話から、聞いている人だからですね。本人は絶対に言わないですけど、周りからすごく。

川口 私にはヘラヘラ(笑)。ヘラヘラおじさん。

山之内 ああ。女性には。

川口 女性に優しいの。

立岩 そうそう。

山之内 ですね。

川口 うん。優しかったよ、本当。ある意味(?)、モテるの分かる。すごい優しいし、うまく喋れないけど、もう目で来るから。ワーッて。うん、あれで騙されちゃうんだなあと思って。[00:25:00]

山之内 確かになあ。

立岩 はいはいはい。

川口 うん。本当に何かねえ…。かわいいじゃん、何か。

立岩 そうね。かわいげがあったよね。

山之内 はい。お茶目な、って感じですかね。

川口 かわいい。

立岩 怖いけど。

川口 優しいよ。優しい人だなあと思った。

山之内 ちょうどいい時代ですよね。95、96…、98年までか。98年までいたんですよ。

■高橋修

立岩 私はちょうど、そうね、その辺りに、95年から松本行ってるから、東京からはしばらくいなくなってるんだよな。そうですね。でも時々中西さんとかに呼ばれて、あと、立川も運営委員も、とか続けてたんで。

山之内 まだ、高橋さん、バリバリご健在で。

立岩 高橋さんも、(?)。やっぱり一番、そうそう…。中央線だから立川とか八王子とか通るじゃないですか、あずさが。そんでギリギリ最終のあずさで帰れるって帰るとか。そういう感じでしたね。

山之内 高橋修(?)さん、一緒ですよね。

井上 いや、あのー。

川口 高橋さん会ったことある?

井上 全然、(?)。たぶん。

山之内 声が大きくてね、もう。交渉の時にもうすごい迫力だった。

川口 高橋さん?

山之内 高橋さん。

井上 本の中でしか知らない。

山之内 本当にね、魂を…。

川口 高橋さんの介助したりしてたんでしょ?

立岩 高橋さん、介助はしてないよ。介助してないけど、まあ一番長く付き合った。そして…、

川口 あの中では仲良しだったの?

立岩 一番、仲良かったね。うん。あの時は介助した。一緒にイギリス行った時は、同衾してた。同じ部屋だった。

川口 え、中西さんとは、やっぱ対極な感じ?

立岩 対極じゃないよ。そこが面白いんだよ。

川口 似てる?

立岩 似てないよ、あんまり。中西さんはあんな感じでヘラーっとしてるでしょ。高橋さんはもっと、(?)。何ていうかな、いや、濃い感じじゃないんだけど、武闘、武闘系ですよ。

山之内 武闘系ですね。

立岩 違うんだけど、でも高橋さんはそういう色んな人たちがいる中で、じゃあどうしようかって新潟から出てきて考えて、結局まあこれでいくしかねえなって思って中西スタイルっていうか。どっちかと言うとそっちのほうに付いて。だから介護保障協議会と組合が割れた時も、協議会に行った、組合から出たわけだよね。それを詳しく、生前、語ることは無かった。

■川元恭子/大野直之
 川元恭子:自立生活センター・小平代表

川口 中西さんとして(?)、その、川元さん、大野さんっていうのは、あとからこうなったの? 最初から一緒に…、

立岩 中西が始めて、大野さんが高知大学卒業して来るのはそのあとだろう。

川口 中西さんと高橋さんから呼ばれたの?

立岩 誰が呼んだか知らないけれども、もう始まったとこに呼ばれ…、

川口 川元さん…、

立岩 川元さんかもしれないね。川元さんが呼んだのかもしれない。

川口 川元さんが呼んできたの?

立岩 うん、その可能性…、いや、そうだと思う、最初からあっちだったから、八王子とかじゃなかったから。

川口 うんうん。川元さん生きてたら面白いのにね。

井上 川元さん、そんな昔から色々やってたんですね?

山之内 川元さんは、たぶん介護保障協議会かな…、ん? 何か、JIL…。最初もともとは東京の制度が進んできたっていうので、東京に全国から集まって来て。で、それがまずいからやっぱり地方でも自立できるようにノウハウを伝えて行こうっていうので、それで募集をして当事者の職員として来たのが川元さんだったんですよね。

立岩 うん、そうだと思う。だから最初からそんな目立つポジションというか、存在感とか、そういうんじゃ無かったと思うんだよね。だからあそこで長いことやってる中で、存在感、増してったっていうか。

山之内 川元さんはでも言ってたけど、その時に分裂してて、僕も川元さんいるの知ってて、川元さんも「組合のほうに全然、場違いな人が一人いるなって思って覚えてる」っていう、(?)、昔話してて。あの時に分裂の危機で。「自分は地方の障害者の自立をやっていくのをテーマにしていこうと思って、で、そのままそこで続けていって、それが推進とかに繋がっていった。」とは言ってたけど。川元さんはもう本当に、自分の小平の団体も持ってたけれども、地方のそういう相談とかはもう本当に本当に頭が下がるっていうか夜中だろうが何だろうが、疲れてるなとか嫌な感じとか1回もなかったですね。それ、みんな口揃えて言ってましたね。「ごめんね、今ちょっとミーティング中だから。夜の10時ぐらいになるけどいい?」って言って。夜の10時からでも電話で1時間ぐらい相談聞いたりとかしてたし。言ったら厳しいことも言うんですけど最後は必ず元気づけるような送り出し方をするし。実践の細かい実務面も小平の担当者を紹介して「こいつに聞くといいよ。」って言って、あらゆるその情報を惜しみなく伝えていくっていう。川元さんに感謝してるっていう全国のCILの人もたくさんいると思いますね。ある意味、今、全国に100ヵ所以上センターがあって、間違いなく、一人の功労者ですよね。川元さん。うん。[00:30:54]

井上 2010年に「知的」の取り組みについて教えてもらいに、「グッドライフ」と「たこの木」と「小平」と3ヵ所回ってた。ほんで、やっぱりほかの職員が全員帰っても一番遅く残って、ずーっと相手してくれてたのよ、川元さん。その翌年か何かJILの中で会って挨拶したら「誰でしたっけ?」って言われたの、めっちゃショックやったけど(笑)。

立岩 こんな顔しててな。

一同 (笑)

山之内 その時にだから、たこの木さんもちょうど多摩市で、活動でやられてたので。で、たこの木とつばさと多摩市に対しての交渉はだいたい一緒にいつもやってたんですよ。



立岩 じゃ、一緒にやったんだ。その時、そうやって厳しすぎるところから始まって数年そういう…。いつから来たんですか?

山之内 僕はだから当初から東京に長くいるつもり無かったので、3年いて。で、1年、僕ね、ずっと旅行して回ってたんですよ。ネパールからインド行って。カンボジアとか。

井上 現地の介助者、連れてだよ、しかも。

山之内 うん。

立岩 アジアか。

山之内 行ってたんですよ。で、99年の末ぐらいに日本に帰って来て、いったん宮崎の実家に戻って。99年の年末やったんですよね。2000年…、2001年か。2000年は、その旅行記を出版しないかとか言われて、それでずっと何か色々やってて2000年丸1年潰れて。で、2001年に今のアパートを見つけて一人暮らしを始めて。当時が、1日2時間、週5日だったんですよ、宮崎のヘルパーの上限が。支援費(?)、前あったので。でも全然足らないので、それ以外を、その時にやっぱりつばさ方式でビラ配って、大学回って、近所の色んな弁当屋さんとかに置いて、色んな人に来てもらって、1年ぐらい生活して。あ、他人介護加算取ったんですよ、生保取って。大臣承認はたぶん宮崎で一番最初、僕だと思うんですけど。それで14万円ぐらいで一人ちょっとフリーターの男の子を雇って、

立岩 14、月入って、その他人介護料が…、はいはい。



山之内 それで一人男の子を雇って。で、ちょうど2002年のあのキャンペーンやってたんですよJILが。支援費制度が2003年に始まるので全国でCILでやりませんかっていう。で、永山さんと中西さんは昔ちょっと知ってて。

立岩 永山さんは中西を知ってたんですか。

山之内 うん、あの、ダスキンでアメリカにちょっと視察に行ったことがあって。

立岩 永山さんが?

山之内 はい。

立岩 あ、そう。

山之内 はい、アメリカに行ってます。尾上さんと同期だとか言ってた。

立岩 あれ? だけど中西、尾上は行ってないんじゃないかな、ダスキン。

山之内 たぶん、何かそんな関係じゃないかな。

立岩 でも、その関係者いっぱいいるから、樋口恵子とか、安積とか、いっぱいいるから、その、たまたま、(?)…、

山之内 中西さんから掛かってきて、「今何してるんだ?」って掛かってきて。当時永山さんはNPO宮崎と官製NPOのスタッフをやってて、「そんなことやってるよりもセンターやったら。」みたいなこと言われたって言って。

立岩 永山さんが中西さんに言われたんですか?

山之内 はい。

立岩 へえー。

山之内 それで、僕も、もう自立生活始めてて。

立岩 でも、永山さんはどういうふうに知ったんですか?[00:34:57]

山之内 最初は、東京に行く前に共通の知り合いがいて、1、2時間会ったことがあったんですよ。その時にちょっと話をして、「ああ、感じのいい人がいるな。」って思って。でまあ、宮崎に戻って来て一人暮らし始めてCILを作ろうと思った時に、仲間をどうしようかっての、もう真っ先に永山さんが浮かんで。で、永山さんとコンタクト取ったら、永山さんも中西さんからそういう話が来て、僕も、

立岩 順番的に言うと、作ろうと思った。思って、

山之内 僕はそもそも作ろうと思って宮崎に戻って来て。

立岩 作ろうと思って宮崎に戻って来て、ほんで?

山之内 永山さんも、いつか、今は官製NPOで働いているけれども、そういうものを宮崎で作りたいなってずっと思ってて、しかも中西さんから2003年から制度が変わると。

立岩 中西から言ったのは永山さんのほうに言ってた?

山之内 はい。永山さん。それで、会って。

立岩 どういうふうに会ったの? そういうのを聞いて、(?)、

山之内 もう宮崎ってせまいから、永山さんのずっと仲のいい友達に友井絹子っていうさらに年上の女性がいて。もう10年以上前、癌で亡くなっちゃったんですけど。その3人で作ったんですけどね。

立岩 あ、最初の最初が?

山之内 はい。その友井さんとうちの母ちゃんが知り合って仲良くなってっていうのもあって。でまあ、僕は前から永山さんは知ってたんだけれども、さらにちょっとこう知る機会が増えて。で、友井さんの所で食事会みたいなことをやった時に永山さんも来て、僕もいて。で、二人でそういうかたちで盛り上がって、友井さんと一緒に3人で、

立岩 やろうと。

山之内 うん。そういう、こう…、

立岩 それ、何年だったか覚えてます?

山之内 それがもう2000年だと思います。で、2001年に一人暮らしを僕が始めて。

立岩 話したのは2000年。

山之内 ぐらいだと思います、はい。

立岩 一人暮らしが2001年。

山之内 2001年。で、CILを立ち上げる前に宮崎自立支援研究会っていう、そういう組織だけを立ち上げて、将来こういう団体を作りたいと思いますっていう。でまあ、「カンパ下さい」みたいな。そのカンパで勉強会、東京行ったりとか色々しようかなと思って。それを最初に作って、そしたら川元さんとかと紹介してもらって。で、2003年の支援費スタートと同時にヘルパーの派遣事業とかできるように勉強会やるからっていうことで、それで、結構しょっちゅう行きましたね、東京やらあちこち行って。その時に一緒に立ち上がったのが沖縄の「イルカ」さんとか鹿児島の「てくてく」さんもそうだし、

川口 同期?

山之内 同期、同期。

川口 イルカ? ふーん。

立岩 一気に全国展開しようっていう波っていうか。

山之内 そうです、うん。はい。そん時集まって。

立岩 好機だっていうことと、今の時期にやんないと他に取られてしまうっていう危機感…、危機感と両方あるんですよね。

山之内 その時、中心になってたのが、川元さんであり大野さんだったんですよ。

川口 「全国に100ヵ所、立てるぞ。」って言ってた時の波で、立ったんだ。

山之内 そうそうそうそう。

井上 去年15周年だったんですよ。だからその人たちが。

山之内 で、2002年に設立総会を開き、尾上さんに来てもらい、2003年にヘルパー派遣事業をスタートして、実質的に活動がスタートした。

■2003

川口 ふーん。2003で支援費制度が始まってそれに併せて。さくら会も同じよね。さくら会も2003年だから、じゃあ大体あの支援費に合わせて、ワーッとこう、できたっていう時なんだね。

山之内 そうです。パーッと。はい。そうなんです。

井上 ちなみに僕が職員になったのも同じなので。同期感がある。

山之内 ですね(笑)。

立岩 そうかそうか。2003年か。

山之内 あの時はもう本当、全然分からなかったから。何が何だかっていう。もう無我夢中っていうのもあったけど、何か高揚感があったんですよね。

[00:39:55]
川口 よく頑張った。

山之内 本当に。

川口 本当ね。

井上 でも私…、

川口 デモの時、来てたの? 厚労省の周り、ぐるぐる回るの。

山之内 はい、あの、グランドデザイン?

川口 そうそうそう。

山之内 行きました、行きました。

川口 ああ。

立岩 やっぱり行ったら気持ちいいかなと思いつつ、家でパソコンでホームページの更新を、1日4回ぐらいやって。

川口 担当してたよね。

立岩 担当してた。

川口 私、先頭歩いてたからね。

山之内 ああ、そう。だって、あれさ…、

川口 ALS、先頭歩けって言われて。

山之内 宮崎でほら、やっと何かこう、何て言うかな、それまでこの長時間の交渉やった時に、

川口 そうだよね、半年でね。

山之内 「は?」っていう。

川口 そうだよ。

山之内 「24時間?」って。「何、寝言言ってんですか?」って。本当これみんなに言うんですけど、宮崎市の職員が、「僕らだって自分らしく生きる権利があるじゃないですか。」って僕、言ったら、交渉の場で、そしたら、「障害者の人たちって権利ばっかり主張して義務果たさないですよね。」って言われて、「え?」って、「どういうことですか?」って言ったら、「義務って勤労とか納税のことですよ。」って言って。「え、どういうことですか?」って。「いやまあ、上のほうでね、そういう意見もあるっていうことですよ。」っていうようなあしらい方をされたんですよね。当時。それが何かようやくちょっとこう行政の場合でも変わってきて、「あ、地域で暮らすっていうのが何となく日本全体の流れになりつつあるのかな」っていう、そういう認識に少しは変わってきたなって思う頃にグランドデザインや、みたいなのがポンと出てきたから。

川口 そうだよね。あん時、私と川元さんが、中西さん指令で、「女性が攻略しろ。」って言われて。「厚労省、どんな手使ってもいいぞ。」って言われて、二人で毎日毎日行ったの。そしたら厚労省も「女ばっかり出しやがって。」みたいな(笑)。それで、もうすごい腹立って私、(?)に噛みついたもんね。

山之内 ありました、ありました。うん、あの時はね。

川口 もうすごかった。でも楽しかったな。あれで何か、バレー(?)、できちゃったよね。バレーができたのはあの頃だった。

山之内 まさか…。あれ、生活保護も障害者加算を削減しないのは、また、あの時みたいに取り囲まれると嫌だからっていう話、聞きますけどね。

川口 そんなふうに言われた? あの時みたいにというか。ごめんね(笑)。

山之内 いや、僕は嘘か本当か分からないけど。

川口 でも、覚えてる人まだ…、あ、そっか、いるけど、みんなでも偉くなっちゃって、総括審議官とかなってるよ、土生さんとか。あの頃の課長補佐やってた人たちが。もう20年…、ねえ。

山之内 そっかもう、平成18年ぐらいでしたよね、あれ。10年以上ですね。

井上 平成18年って、何年やっけ?

山之内 2006年じゃないですか。2006年ぐらいです。

川口 2006年ぐらいだから、ねえ。

山之内 ですです。

川口 あの時すごかった。占拠したもんね。車いすでエレベーターみんな乗っちゃって動かないようにして。あとFAX攻撃(笑)。今そんなことしないじゃん。

山之内 しない。田原さんも行ったよね? あれ。

田原 うん、真冬。ね。

川口 あ、本当? 来てたの?

田原 真冬に来たの。

川口 楽しかったですよね。

田原 うん。

立岩 何年?

川口 真夏と真冬とやったのよ。私は日焼けが怖くて操は顔が怖くて(笑)。それで一緒に練り歩いてたけど途中から脱落して、厚労省の一番上のレストランから上から見てたらグルグルグルグルグルってもうすごいとぐろ巻くみたい。でも、報道をちゃんとしてもらえなかったじゃん、あん時。

山之内 そうでしたね。

立岩 2003年でしょ。

川口 そう。最初の半年で制度破綻したとかって言われて。使い方にモラルがないとか言われ、すごいこと言われて。

山之内 言われたですねえ。

川口 うん、あの時。

山之内 だからね、僕らも…、

立岩 上限設けると言われ出したのが2002年の暮れ時、11月、12月。で、その翌年だよね。

川口 そう。あん時に…、

山之内 僕、本当ね、そうなのよ。あの時スタートした時に、宮崎だけじゃなくて、川南(かわみなみ)とか色んな、宮崎市以外の所でも自薦で一人暮らししたいっていう人たちがいたので、その市町村ごとに時間数の交渉を本人と一緒に行ってやってたんですよね。で、なかなかやっぱその、いきなり24時間ていうのが難しくて、何回も行って話をしてっていうのをやってきて、そのたびに何か財政のこととか他者とのバランスていうようなこと言われて。その時にまだ僕も未熟だったっていうか、そういうふうに言われるとなかなかそこから更にその上を行く論理の展開の仕方っていうのがなかなか浮かんでこなくって。その時に僕、立岩先生の、あのホームページ見て。[00:45:25]

立岩 はい。

山之内 あそこを見てそれをコピペして、メモ帳に貼り付けて。交渉に行く前に「こう言われたら、ああ、こう返そう。」って、もう本当にそうだったんですよ。

立岩 ああ。なるほど。

川口 そう、先生がずいぶん、こう、パーッって流してくれて。あれ読んで行ってたね、みんなね。

山之内 そうそう。あれはもう本当に。

川口 そうよ。うん。あれ読んで私たちも行ってたし。

山之内 もうあの、かたつむり方式に障害福祉課を占拠して、ガーッていうやり方をね。

川口 そうだった。あの時は、(?)だった。

山之内 そのやり方ができなかったとしたら、もう、納得、ねえ、(?)。

川口 でも、あのやり方をしてる一方で、大野さんたちは、(?)を呼んで、ちゃんとこうやって話、してたんだよね。全然違う分担でやってた。

立岩 このごろ、ほんとそれ言うのよ。複数の戦術とかが無いと大きいものは動かないから。うん。一方で役人接待する人もいれば、暴れる奴もいれば、いじめて(?)何か言う奴もいれば。全部合わせてってようやく勝てるからね。だから大切なのは、組合と協議会の間に色々あったけど、決定的に分裂しないことだよね。

山之内 うんうん。あ、そうですね。

立岩 うん。流儀は違うと、何かムードも違うと、でも、っていうところで押さえられれば、それなりに闘い…、戦が違う…、(?)、でもまあ、(?)って言えば同じ構造でね、ていう話になるから。だから、違うのは別にいいかもしれない。場合によってはやり方で対立しても別に構わない。あると思うんですよね。

川口 でも、尊厳死の話とかいうと同じ、一緒に…、

立岩 だから、そういうことあるわけ。

川口 うん。一緒にやってるよ。

立岩 だから、結局、一番…、そういうところでは一緒にやるよっていう。まあ、この前(?)、井上さんに聞いた時もそうでさ、国境って、民族の 違いとか国の違いよりも、障害者だっていう共通性の方が強いと。だからそれは非常に正解というか、そりゃ(?)、あるな、ありうるなと思って。そういうことだと思う。だからそれは非常に大切なことで。ですよ。だからまあ…。

■明日のこと・雑談

山之内 ビール飲みます? まだ? まだっていうか…。

川口 明日早いからもう行ってチェックインして早く寝て用意しないと。

山之内 うん。

立岩 ただ明日いればいいの? 明日はどうするの。

山之内 はい。明日ね、

立岩 ていうか、「何時ロビー」とかそういうのあんの?

山之内 ヤッド(YAH!DO)がね、朝9時ぐらいにもうスタートして、10時に僕もここ来ます(?)。10時10分ぐらいかな。なので、もしも早く起きてあれするんだったら、ここに来といてもいいし、電話1本くれれば行きがけに迎えに行くし。

川口 ここ、タクシーで来れる?

山之内 歩いて10分ぐらいですよ。

川口 歩いて来れんの? あ、本当?

山之内 うん、全然近いですよ。

川口 気を抜く会ですね、明日は。

山之内 とりあえず、10時過ぎにここをみんなで車で出て、パキスタンのハビブさんが11時まで工場で仕事があって、そこまで行って工場を見学して、そっから椎葉村に向かう。椎葉村に着くのはたぶん4時とか、それぐらいなので椎葉村着いて、ちょっともう日暮れの山の奥をちょっとしばらく散策をして。その夜は龍神館ていう有名な宿があって。

立岩 ええ、そういうとこだって、それは聞いたんですよ。はい。

山之内 そこで一泊して、次の日は椎葉村をぶらぶら見て。で、また車でこっちに行って。万が一のことも考え、ちょっと早めに出ようと思うので、まあ1時か2時ぐらいにはここ戻るような感じで帰って。で、飛行機が夕方?[00:50:13]

立岩 そうですね。

山之内 空港まで30分なので、午後の時間は2、3時間は十分あると思うので。永山さんとか、金曜日はもうここに来るって言ってたので、よろしければインタビューで。

立岩 でも、何かもっと何か楽しいことしたいんであれば、私は今日もう既に仕事をしてしまったので(笑)。うん、だから、分かり…、じゃ、ここに来て誰かがいるかなっていうような状況でちょっと聞いて、まあなるようになる的な感じですかね。

山之内 とりあえず、明日、あの、まあ疲れてたら今日、今からホテルの方に行くんで、1回行ったら…、道、結構まっすぐなんですよ。ほぼまっすくなんですよ。そしたら、朝準備して。でも、そうやね、あ、荷物がある…。

川口 でも、10分ぐらいでしょ、歩いて。全然平気。

立岩 荷物は、今日ちっちゃい荷物だから全部移動すればいいんだ。

井上 チェックアウトしないとだめなのか。

山之内 そうですね。

立岩 チェックアウト、あ、そっか。

井上 うん。帰ってこないもん。

立岩 今、登録はいいんだっけ、1泊しかしないわけだね。

川口 チェックアウトしてここに集合。

立岩 で、明日はその村のそこだから。そうですよね、荷物全部持って出るってことですよね。

川口 ここに10時?

山之内 はい、10時に来てもらえれば。10時でもいいし、その前に来てもいいし。で、フルーツ大野はね、たぶんね、朝の時間は、ちょっとやって…、

立岩 それは完全に無視。

川口 そんな10時なんて無理だと思う。また来た時に行きますから、いい。

山之内 金曜日帰って来て、ちょっとここでみんなでインタビューしている時に、

川口 ちょっと女の子だけで行ってくるとか。

山之内 うんうん。そんな感じですね。

川口 こっから歩いて行けるの?

山之内 車で行く。10分ぐらい。

川口 車で行かなきゃだめ?

山之内 うん。

川口 あ、そうか。

立岩 何なのそれ、どういう食い物?

川口 いや、別に。何かすごいね、すごいパフェが。

立岩 いっぱい乗ってるってことですか?

川口 そうそう。

立岩 分かりやすいな。

川口 有名なのよね。

山之内 あのー、結構値段もするんですけどね、マンゴーパフェとかね。

川口 宮崎行ったら食べておいでって。

立岩 まあいいです。僕はどこ行っても酒は飲む…、人のことはどうこう言わないけど。そう、最後ですが、あれはまだ使ってない? これから使う?

山之内 暖炉はね、これから使います。

井上 何か、燃やした跡なかった?

立岩 でも、まだ使ってない。

川口 どれぐらい使うの? ちょっと燃やした?

立岩 ちょっとだけやってみた。

山之内 火入れ式を(笑)。

川口 火入れ式。はあー。

山之内 ピザ焼けるかなとか、色々。

川口 何かできるの? この中で?

立岩 ここに置くんだよ。ピザ焼けるはずだよ。

山之内 2枚焼けますよね。

立岩 今、薪ストーブの研究ちょっとしてるんです。

山之内 ああ、そう。

川口 これ煙突もあったかいわけでしょ。

立岩 あのね、(?)のやつは、そういう、(?)、ここで熱を…、

川口 ふーん。いやー、いいなあ。


[音声終了]


UP:20181025 REV:20190731, 0801, 02
病者障害者運動史研究 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)