発行に当たって この本のタイトルは、まだ、「障害者はあたりの前の姿で」生きていく事が出来ているのか?さらに、親等、健全者の顔色や言葉を見て生活しています。なぜ、障害者は毎回ように「ありがとう、すみません」と言うわなければならのか、だから「卑屈な姿で」生きていかなければならないのか。この差別社会で「正々堂々」と生きることができないことへの問題提起です。誰も、語らなかった青い芝運動、私は、敗戦後8年後まだ、経済的に豊かではありませんでした。1953年8日11日に生れ、私が生きてきた中で社会とは、文化とは、自然とは、人間の関係性とは、本当に共有できるものは何か、私は、脳性マヒ者として生きていくことを通していくことです。  優生思想の中で物を作ることや覚えることが体や頭が拒否しているという価値観の見方もあります。今の社会の一方的な価値感で図ることが障害者差別でしかありません。青い芝の運動の中で脳性マヒ者として開き直ることで生きていくことで、これからも自らの生き方を模索することが出来るように生きるようにしたいです。1979年、自立生活に入り、1990年、ひとみと結婚、親やきょうだいから反対されました。今に至っています。私は一日でも脳性マヒ者であることを自覚し、悔いのない生活をおくり、死んでいきたいものです。 この本のタイトルは意味をさしています。「おれさまだって人間さ(健全者と同様差別ない者としてあつかわれたい)は優生思想の対決の闘いの中から、あくまで個人の見解と見方であります、優生思想(出来る・出来ない)価値観との対決から見えて来たものがあります。私の体験からと全国青い芝の障害者解放の理念と優生思想の社会状況は、不透明な情勢は私たちにとっては厳しいものがあると言えます。 この本が一人でも多くの人に読んでもらうことによって、昭和から平成、次の年号まで私は生きることになります。障害者解放運動並びに真の人権がある社会保障が開ければという願いを託して私はこのような本を出版ことになりました。 1.幼少年期 僕は、姉、兄3人のきょうだいの末子として生まれました。僕は未熟児で生まれたそうです。風にあててはいけないといわれ蚊帳の中で過ごしたと伝え聞いています。一向に首が据わらなかったらしくて家族が皆おかしく思ったそうです、九州大学病院に診てもらったそうです。その時、始めて脳性マヒと診断されました。あと何年の命と告げられたそうです。それから、母は、あらゆるところの病院や施設を廻ったと聞いています。かすかにに覚えていることがあります。それは、線路に座り込んで死んでしまおうと言うように、「母ちゃん死ぬのはいやだ」というたように覚えています。それだけこれからどうしょう、ショックがあまりにも大きかったと思います。でも、将来ことを案じてや生活を不安を感じて「幸せ」だと考えてしまい障害児殺しが後をたちません。幸か不幸かは「誰」が決めるでしょうか、ひとつとして久留米に親せきの部屋を借りて「ゆうかり学園」に通園しました。そのころから、姉が母の役をして家事等をしていました。また、きょうだい達には、早くから僕の面倒を見るように母は教え込んでいました。その後、ゆうかり学園に入園しました。しかし、すぐに熱を出したために、親はみかねて退園をさせました。そして、頭を手術すれば治るということで祖父が田畑を売り千葉県の病院に行きました。そんなに障害が重く無いということで頭を手術することによって悪くなると診断されました。その結果でハビリをしました。帰って来ると祖父が病気になりました。数年後亡くなりました。また、祖母も病気になり、父は仕事に行く前も、帰って来てからも山の作業や田畑の作業をしていました。僕の介護等したことがありませんでした。母も同じく昼も夜も田畑の作業や機織りの仕事もしていた。仕事におわれて父の仕事は夜遅く家族一緒に御飯を食べることなどありませんでした。きょうだいを学校に進学させていました。家の中は大変だったです。父は、母と違い反対にやさしく仕事の帰り玩具を買って来てくれるのが楽しみだったです。 母は、しつけ、庭で厳しくリハビリをさせていました。三輪車をこぐこと等、座ることができない僕にすわるように木の机や椅子を作り座わらせていました。勉強も厳しく、このころから胃が痛くなりストレスによる胃かいようになりました。 2.小学校時代 僕は、学校へ行きたくなり、どうしても、近くの友達が学校に行っているから親に学校に行きたいと言いました。学校に掛け合ってくれて2年遅れて小学校へ入学することができました。始めは、自転車の後ろに乗り通学していた。学校の中は祖母が付き添っていました。その後、4年生ごろから一人での学校生活を送りました。祖母には昼食の時だけ来てもらいました。その後母が車の免許を取りに行きました。その当時、女の人が車の免許を取ることなんてめずらしいことでありました。当時は、家に車があることもめずらしいことでありました。母の車の運転で通学となりました。母は、僕に勉強させることも厳しく、宿題などしなければ殴られていました。友だちと遊ぶのが楽しかったです。友だちに勉強を教えてくれました。友だちから勉強を教えてもらうこともありました。友達でも、きたないとか、車いすをひっくり返されたりしまた。差別をされたこともありました。 先生は絵の時間に展覧会に出す大きい紙を持ってきましたが、僕だけ普通画用紙のサイズでみんなと違っていました。そして先生は皆が書いた絵には評価をしましたが、僕が書いた絵だけは評価しませんでした。そのことに対して僕は必死に書いたのにと思いました。先生に「何ですか?」と食い下がりました。先生に対してなんてことを言うのか親から怒られました。卒業が近くなり、友だちが一緒に中学へ行こうと声をかけてくれました。中学に行けるものと信じていました。しかし、親は「もう、遠くなるから中学には行かせることはできない。」「もう少し身体を良く治すことだと施設にいくように進められました」言ったから地域の中学を断念するしかありませんでした。このようなことで、インクルーシブ教育(障害児教育)に拘る理由になっています。 3.施設での生活(中学時代) 中学校は家族から「もう少しリハビリをするように」と言われたので、家から離れた県立新光園という施設に入所しました。 担任は、尾道から普通の高校から赴任して来られた教師でした。僕がクラスの中で一番の{重度障害児}でした。これでも、言語障害が酷くて分かりにくかったらしくてその当時は手首を固定すればどうにか文字が書けていました。車椅子に付けたテープルに固定してくださいと言うのになかなか伝わりませんでした。一時間かかかってやっと分かって貰えることがしばしばでありました。学校では、不得意な科目が多くて社会科だけが好きでした。御前中だけ授業を受けてトイレという理由をつけて施設に戻っていました。夕方に教師が来て勉強を教えてもらいました。 この当時、担任の教師達は普通の学校では当たり前なのに修学旅行に連れて行くために校長や園長に交渉し、勿論保護者付きで長崎へ修学旅行が実現しました。多分、施設内学級では初めてだったと思います。地域社会に出す一歩たったと思います。これまでは母だけだけが介護等は全部行っていました。 始めて父が修学旅行に付いて来ました。父の介護で不安に感じていました。その時になれば、とても嬉しい思いあります。 施設に入所したての時は、同じ障害者同士だから「お互いのことをよくわかり合えるだろうなあ」と思って期待していましたが、実はそうではありませんでした。「僕はこれができる」、「あれができない」というようにできないことに対する差別意識を障害者同士でもっていて、さらに、できる人を優遇するような差別構造があったのです。障害の重い人は、差別されました。もちろん、職員をことを言うから影響を受けざるを得ませんでした。 施設生活では、自由な時間とは学習時間とか全然ありませんでした。風呂に入るのにも10名ぐらい一緒に入なければなりませんでした。芋荒いと一緒で入った気になりませんでした。風呂ぐらいゆっくりと入りたかったです。また、食事を廊下で食べさせられたりしました。施設自体が狭いという理由もありましたが、基本的には、食事をするときに職員の目が届くという理由からでした。そかし、障害の軽い人や比較的動ける障害者は、食堂でたべさせられていました。動けない人は廊下だったのです。本当にこれで良いのかと考え始めました。そこで、自治会をつくろうと画策しました。しかし、職員から反対され、しかも、親が呼び出さ家に連れて帰られました。 卒業する前になるになると養護学校の高等部でも良いから来たくて担任に話をしました。当時は寮に入ることになるから身辺のことが出来なければだめと言うことになりました。卒園してからもあきらきれずに地元の定時制高校へ行きたいと親に伝えましたが、もう学校に連れて行くことは出来ないと言うことでした。今だに、後悔しています。 4.詩集 詩集クラブに入りました。毎週のように新聞に掲載されました。詩の世界は現実から逃避するみたいで私には遭わないと感じ現実的な自立生活に入ると書けなくなりました。 雨の日にも晴れの日も そしてくるしいときでも りっぱな花にさいた そしてちろうとしている 第二の花は四月一日 さこうとしている 第三、第四の花をさかせよう りっぱな人生を あるこうよ 人間はひとり 今、ぼくは、人間はひとりということに気づいた なぜだろう.. 生まれてきたいじょう死ぬときもひとり だけど、生まれてくるときは、無いしきに生きることしか考えない あまえている 人間ひとりということをわすれる大きなしょうがいがあれば、 人間ひとりということを、思い出す 日なたぼっこ ぼくは、今日で十六才になった ぼくは、一五年間 なにをしただろうか それは自分でも分からない 病院生活と 小学校生活しかしていない 生まれてすぐ死ぬところを、 神が助けてくれた せいいっぱい生きなければならない 一六才といえば 青春時代だ 今はぼくにとって、 第三の人生とも言える 助け合う心は 人よりいっぱい もっているはずだ 体がわるくても 生きることをわすれては いったい青春とは、 なんだろう ぼくの青春とは、 なんだろう    一人の少年 ぼくと同じ年だ 口がきけない だけど ぼくとかれはいつのまにか 心がつながった うまくつながるためには 二十分|?三十分のさんぽである ぼくがいけない時は、 ペットまでが来てくれる ぼくが好きであるということだ かれの心はわかる かれは友だちをさがしていたんだ これからも 手をつないでいこう    日なたぼっこ 白いかおをした ねこたちは 青空をおおいながら ベランダに出ていく ねこたちは ままごとをしたり 読書したりしている 一メートルのベランダで あそんでいる ねこたちは自由なものだ めったに太陽の光はあたらないのに ねこたちは、はしゃまわっている あのねこたちの白いかおが あかくなっている とうぼうしゃ とうぼうしゃは、しずかにさっていった おれは、とうぼうしゃのいる所をつきとめた さっそく手紙を書いた ある日、 手紙が来た 名前も場所も書いていない なぜだろう わからない 君は、ここでのしごとが、まんぞくではなかっただろう 今は、ぼくたちより、ひどい子をせわしている このとうぼうしゃ、ほんとうにやさしい ある夜 とつぜん あらわれた 話したかったけど、 びっくりしてなにもいえなかった おれたちを、愛しているにちがいない 世界一のとうぼうしゃ、ありがとう タカノリよ なにもわからない。タカノリ。 だけど、音楽がなるとひょうしをとる てをたたく リズムをとる体をうごかす きらいな音楽がなるとひょうしをとるのをやめる 音楽を愛している おふろにはいったとき、なにもわからないことば、うたっている タカノリよ。うらやましい。 音楽一つを愛している。 ぼくたちは、よくがあるからなにもかもやる ひとつのことならしゅうちゅうされる。 タカノリのようになりたい 人間によくがないなら、どんな世界になるかなあ。 欲がない人間ってつまらない だろう。 かわいそうだ。 タカノリの世界は小さい。 かわいそうだ。 タカノリよがんばれ。 5.「立ち上がろう会」の背景と結成 卒園して、家に戻って来ましたが、何かをすることができるのかを考えました。その時、朝日新聞の声の欄に、「在宅成人障害者への対策を講じようと障害者の手で訴えていこう」という投稿をしました。この記事が「声」の欄に1972年10月19日付けで掲載されました、その後その記事を読んだ同じような境遇におかれている仲間たちからのものすごい反響がありました。  施設を卒業した卒業生は、当時高校に行けなかった人たちが多かったのです。元担任の呼びかけで一緒に集まって学習会をすることにしました。そこで、施設にボランティアに来ていた学生と、福岡で月に二回の学習会を始めました。学習会では、国語や算数などの勉強を養護学校の教員と一緒に勉強しました。19歳の時です。僕は、小学校は就学猶予で、中学校も一年待ったので合計で三年遅れてしまいました。その時の学生ボランティアの人たちは、九大とか西南学院大等の学生でした。その後、『さようならCP』の上映運動に来た人も一緒に活動や勉強会をするようになりました。その時に、横塚晃一に声をかけられ、いきなり、神奈川に来て活動をしないかと言われました。 この人たちとは、年代があまり変わらないので、一緒に勉強をしようということになったのです。学生のアパート、下宿で酒を飲みながら色々な話、ビートルズ、ボブディラン等を聴くことやジャーズ等、障害者が置かれている立場の話をすることが楽しみでした。この学習会を組織するために定期的に会議を開きました。そして、会の名称を「立ち上がろう会」として。通信を発行しました。  この他は、活動資金確保のためにカンパをしたりしました。いざ、街に出ると車いすでは動きにくいことを痛感しました。そこで、「街に出ようの運動」を始めました。「今まで電車やバスに乗ったことがなかった」とか「どんな要求を出したらいいのかわからない」という仲間たちと定期的に街に出て、感想を出し合ったりしました。すると、「バスの出入口の階段が高すぎる」「出口が狭すぎる」「階段に困る」など街の構造自体が障害者を閉め出していることがだされました。これらの問題は、現在に至っても改善されていない問題です。また、手荷物料金を要求されたり、バスの乗車拒否をされるなかで、乗客拒否に対しては、「僕らにとっては車いすというのは体に一部ある」という話し合いを西日本鉄道に申し込んだりしました。この交渉では、車いすで乗り込みやすいバスに構造そのものを変えることを要求しました。 この西鉄との闘争は、福岡青い芝の会が設立された後も「西鉄闘争」として引き継がれていきました。全国青い芝の会が取り組んできました。川崎バス闘争がありますが、僕たちは、川崎のバス闘争のずっと前からこういう取り組みをして来ました。今から振り返ってみても、かなり先駆的な取り組みだったと思います。 「立ち上がろう会」の特徴は、僕のような障害(CP)だけでなく、視覚障害や精神障害の仲間たちと一緒に活動しようとしていたことです。 無条件乗車を勝ち取っていく闘い [西鉄との闘い] 全国青い芝の会が行った川崎バス闘争は川崎バスの乗車拒否に対してバスを止めて抗議したことは、全国の障害者団体に影響を与えました。どこにも乗って良いはずなのにけがをするのは乗客もします。駅員がいちいち行く先を聴いてきます。健全者だったたらきっぷを持っていれば、聴くことはありません。言葉がいえても介護者に聴くことがもっとも、差別行為だといえます。 福岡では西日本鉄道との闘いは1973年からはじまりました。その当時、障害者は、ほとんど交通機関は、使っていません。車イスの料金を請求されました。乗車を拒否されことにより西鉄との交渉をしました。同時に車椅子が乗りにくい為にバスの改良も求めていき、その結果バスの床を低くし、手すりをずらし車椅子を乗りやすくしました。私達と交渉を行うのでは無く介護者とのやりとりでありました。当事者抜きの交渉でした。その事に怒りを感じました。今思えばそのことが障害者への差別だと言えます。1979年再び西鉄との交渉に入りました。私が自立した後再び一人乗車を拒否され、無条件乗車を勝ち取っていくため交渉、抗議を行いました。「乗客皆が介護者である」事を認めさせることを獲得目標にしました。西鉄に対しても抗議のためにも、市民にも詠えるために街頭で抗議の無届デモを行いました。市民の方にも分かってもらうためにビラ配付もしました。これは事故や乗り降りの時介護が居てもほかにも手伝ってくれる人がいなければならないです。何人も介護者を確保できるわけではありません。誰でもが介護者でなければなりません。 さらには、定期券は特定の介護者でなければならなかったのに対して、不特定多数の介護者が使える物でなければなりません。これに対する交渉も行いました。認めさせました。 更にはバスも乗車拒否の交渉を行いました。これらを勝ち取っていくために交渉をねばり強く行きました。交通アクセスを考える時、電動車椅子が登場して以来、エスカレータやエレベーターが必要とされようになりました。行き先を聞くことや車両を指定することを駅員の一方的な発想の下で強要するのは差別であり許すことはできません。私は乗客に手伝ってもらい階段を降りて杳としている事に対して障害者自身が選択していかなければなりません。このような闘いを行いました。その結果交通などのバリヤアーフリー法が施行されましたが、交通バリヤアーフリー法が施行されても解決はされてはいません。今でも、飛行機の乗車拒否もありました。 今でも、普通に、公共交通機関に車椅子が乗れるわけでもありませ自由に使える交通機関ではありません。仲間が亡くなっために、昨日久留米駅から新幹線を使って新尾道まで乗車券を買とすると早く乗ろうとしましたが、デキでも良いから車いすを置くこと良い座席に座れば認める。あくまで「個室」乗車券を発行しませんでした。乗りたい時に乗るが無条件乗車です。時代は老年化が進み街の構造を変えて行かなければなりません。田舎はまだまだ、バスやトイレ等使うことが困難です。田舎には施設が建っています。入所者はどうやって外出すれば良いのでしょうか、地域移行と言いながら出来る訳ありません。面会に行こうと思ってもなかなか行くことができません。都会には人が沢山います。その人達が手伝えばすみます。公共交通機関に対する「合理的配慮」とは言えません。たが、一方的な設備だけではなく多様な設備でなければなりません。様々な人の社会活動にはなりません。 2018年8月 空港会社は、車いすまま乗れる整備を行うようになったが、これも、一人の障害者が乗車拒否に遭い、タラップを抱えられて目的地まで行かれました。行動自由を奪っています。バリアフリー法施行されて何年経つでしょうか?国連障害者権利条約の中に記載されている障害者の行動の権利{自由}に反しています。日本の障害者差別解消法の中の「合理的配慮」は、どこへいく。2年後のオリンピック、パラリンピックを迎えために多く外国から避難を避けるための対応しかありません。 6.大阪旅行  初めての抗議行動 ?大阪府教育委員会に対して? 1975年の冬、私は、初めての介護なしの旅行をしました。その当時付き合っていた彼女と一緒に行く事が出来るから、「うきうき」した心で出かけました。新幹線が博多まで開通した直後だったから興味深く感じました。しかし、新幹線に乗ったとたん鉄の扉の部屋に通された。わたしたちは客と同じ空間に乗れるものだと思っていました。乗客に何か困ったと頼むこともできません。旅は客とのかかわりを作るチャンスまで奪っています。 関西には多くの障害者が自立生活者を生活していると聞き、自分も自立生活やりたいと思っていました。将来は結婚を彼女としたいと夢を見ていたのです。初めて自立生活している澤田さんは、言葉が言えなくてもちゃんと健全者に伝えて文字版で表して表現でした。いつも笑い顔でしたが、怒る時は厳しく怒っていました。  二人とも亡なくなられました。野田さんから明日、大阪教育委員会との抗議行動があるから参加するようにとすすめられ、私たちは、「ただただに自立生活を見に来ただけです」と言うと野田さんは「抗議闘争」参加しなかったたら何十万人の障害者を殺すことと一緒だ」と激しく言われました。そんなものかなあと、思い首を傾げながら参加していきました。 最初、私は何もわからないままでした。「車椅子の教師を創る中東闘争」でした。抗議行動で問題となっていたのは車椅子の障害者が教職の採用試験を受け、試験は合格になりながら、大阪の教育委員会が採用通知を送ってこなかった事だった。こどもに対しも差別意識を変革につながることでした。これらに対して抗議闘争に入り二日三日、座り込みになりました。私は、いつの間にか最前列になって守衛との合間をぬって転がって事務所の奥へと入り込み、事務所の奧に行かされました。後方には100名以上の障害者に押されて事務所に入り込みました。3日になってしまった。僕は何も知らないのにこいつが主犯だと言うわれてしまいました、その内に警察、機動隊に排除され手足をつかまれて、雪の中庭につれ出されました。それまで警察は全ての人のためにと「役に立つ人」だと思っていました。それのことは違っていました。 その時、闘争に参加するかどうかということが、差別されていることを見のがすかどうかということだったのです。仲間の思いを軽くしか受け止めていない自分が問われていきました。自分が恥ずかしい思いになった。同時に腹立たしい気持ちにもなりました。やること見ることが新しい事ばっかりです。 大阪から帰ってきてから私は、自立生活について、介護者に提起していきましたが、何のために、何をもってやるのか、私には何も言えませんでした。「家を出て行きたい」ということだけでした。それだけでさえ私にとってはきついものでありました。 7.全国青い芝の会の発足 1957年東京青い芝の会が40名か集まり結成しました。当時の活動はお茶飲み会や文芸活動を行っていました。その後自分達の於かれている立ち場等話をするようになり、 1966年茨城県のお寺の住職指導で「マハラバ村コロニー」を設置し、脳性マヒ者の自立生活を仕組み、役場に対して生活費の保障ために生活保護を要望していきました。たが、主導権争いが耐えなかったために1969年自然消滅しました。 1969年「青い芝神奈川連合会」会長横塚晃一(母よ殺すな)の著者、神奈川で起きた母親よって子を殺した事件に対して回りから減刑嘆願運動が起きました。障害児殺し刑を軽くなることは差別そのものだとし、裁判所に当たり前の刑を求める要望書を提出していきました。横田弘は全国に青い芝の会の運動を広めるためにドキュメンタリー映画監督原一男(さよならCP)を作る。体を張り脳性マヒ者が告発する様子を描かれています。その後関西青い芝では地域の運動を描いた。「カニは横に歩く」りぼん社制作 1973年全国青い芝の会総連合会が結成しました。会長 横塚晃一 1977年横塚晃一会長同じ年に死去、健全者組織解散運動を巡り、その後の組織の在り方を繰り、地方の組織から組織の再編を求められました。 再建委員会になりました。再建委員会の代表に旧福島青い芝の会白石清治が選ばれました。私も再建委員会に入り、しかし、綱領に沿った組織になってしまいました。脳性マヒ者の現実的な生活の要望とは違い、優生思想との対決姿勢は依然として強く、組織離れは続く一方でした。だからといって優生思想との闘いは必要なことです。 まだ。自立生活から、2年目にしかなりませんでした。筑後地区で活動を行う矢先でした。これから組織を広めて行こうと思っていました。 2018年4月12日に松本孝信はこの世を去りました。私とっても全国青い芝とって大きな存在でしたと言えます。{事務局長}優生思想からくる差別に対して体を張って闘いと言葉を創り出しました。例えば、「共生共育」という言葉も地域で誰もが「生き、育つ」教育界・社会に提言してきました。79年養護学校義務化に反対するために対抗していくためた具体的尾道に障害児と健全児の一緒の「うさぎとかめ保育園」を創りました。 脳死、臓器移植に反対し、医学の倫理は人を殺す結果になり得る自然の倫理を歪め、病、障害の痛みと病気と付き合うことが自然の倫理でもあり、自然淘汰であると提言していました。最低限の延命治療で終わり、死後の顔に表れていました。松本孝信の2ヶ月間の闘病生活もその通りだと言えます。 福岡からも支援に入り、関西からは松本孝信、古井は、鹿児島県、長崎県に組織作りを行いました。時には強引なやり方で組織を創ったことも言えます。仲間に対して厳しく、ついて行けない仲間もいました。一方では、仲間の重いでした。何かあれば、電話や駆けつける行動とっていました。社会的反することもありました。介護者から聴いてびっくりしたことがあります。(尾道の商店街を裸で自転車で走る)セクハラ行為等も多いかたです。また、「チンチン」にようどチンキをぬらたらしました。 「温泉に連れて」行ってくれと頼まれました。それが全国青い芝の三役の誘いに関西青い芝から二人が来ました。その内の一人が松本孝信でした。介護者が居ないからと断りましたが、どうしても福岡から出てほしいとのことでした。私が必要だからと言われて再建委員会の一人として福岡から最初は相模原市に事務所がありました。その後、埼玉に移転しました。埼玉一ヶ月一回は行くことになりました。{事務局会議,カンパ活動、各問題についての見解書や要望書}作り、年に二、一回は北海道から鹿児島まで振り分けて三人で行かなければならないでした。活動費は全部支援金で補っていました。はじめは支援金が多くてだんだん少なっていきました。自分達で出すことが多くなりました。交通費も出ていました。ひたすら修行だと思っていました。毎回ように一人1000円毎日夜食を造りや、大会等の会場探し、会長の顔だけだと思っこともありました。酒を飲んで寝ていると話に入らないと、言われて起こされていました。私がそれだけ自立していないと思います。自分の考えを出す事が出来ないではないかと考えました。差別意識の変革は脳性マヒの言葉を聴くことからはじまりです。 私が連れてきた介護者も話しに入ら出来なかたら帰れて言われていました。 「全国青い芝」から健全者組織、介護者組織関西健全者組織「ゴリラ」を始めとして、各地の青い芝の会も介護者組織を解散させました。福岡で言えば「ヒトデ」も解散させました。運動に対しても口を出すようになりました。さらには、独自で組織を創りました。主体が奪うばわれてしまい解散に踏み切ったと言えます。寝たきり脳性マヒ者の自立生活に影響を与えたと言えます 水平社宣言は部落解放運動の宣言でも、人間解放の宣言でもあると思われます。これに学び40数年前に青い芝の会の運動は、行動綱領を創りましたと言えます。横塚、行動派、横田 詩人の行動綱領+青い芝運動は哲学だと言えます。 行動綱領 一 我らは脳性マヒ者として自覚する 我らは現代社会にあって『本来あってならない存在』とされつつ自ら位置を認識しそこに一切の運動の原点を置かなければならいと信じ且つ行動する。 一 我らは脳性マヒ者として強烈な自己主張を行う     我らが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。我らは、強烈な自己主張こそがそれを成しうる唯一の路であると信じ且つ行動する。 一 我は愛と正義を否定する 我らは、愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であるとを信じ、且つ行動する。 一 健全者文明を否定する 我らは、愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であるとを信じ、且つ行動する。 一 我らは問題解決を選ばない 健全者のつくり出してきた現代がわれら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常的生活の中から、我ら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ行動する。 綱 領 一、特殊部落民は部落民自身の行動によって   絶対の解放を期す 一、吾々特殊部落民は絶対に経済の自由と職業の   自由を社会に要求し以て獲得を期す 一、吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の   完成に向つて突進す 宣 言 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。  長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、 多くの人々とによってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い 効果を齎らさなかつた事実は、夫等のすべてが吾々によつて、又他 の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そして これ等の人間を勦るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落さ せた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら 解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。  兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であ つた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であ つたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取ら れ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、 そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの世の悪夢のう ちにも、なほ誇りうる人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そし て吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうた のだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その 荊冠を祝福される時が来たのだ。  吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。  吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によつて、祖先を 辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何 んなに冷たいか、人間を勦はる事が何んであるかをよく知つてゐる 吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。  水平社はかくして生まれた。  人の世に熱あれ、人間に光あれ。  大正十一年三月 水 平 社 人間解放で一致する運動だと思います。障害者の差別は優生思想がもたらす差別意志気と言えます。だから、優生思想との対決の姿勢を崩さずに行ってきました。「哲学と現実の連れは必ず生じる」ものです、いかに現実の問題に近づけかが問題であると言えます。運動体であれば当然、綱領や宣言は必要不可欠なものです。 1976年全国障害者解放連絡会がっこう会の八木下浩一関西解放委員会(新左翼派)中心に準備会を創り、全国青い芝は教育問題では一致していました。全国障害者解放委員会を結成しました。 全国障害問題研究会は発立保障論を述べ専門性を求めていき、障害を軽減する事は差別はなきなると考えていました。「分けて教育」することが良いことだと主張していました。施設作り,養護学校義務化に賛成していました、(共産党)融和主義との対立していくためでもありました。全国障害者解放連絡会発足、楠敏夫氏が中心になり、優生思想に反対、養護学校義務化反対、障害者差別を許さない等を掲げて活動をしてきました。初めは横塚晃一が代表幹事になっていました。全国に広めて行くためにブロックを創りました。私も九州ブロックの代表幹事になりました。青い芝の会との関係は、一致していましたが、新左翼の運動が強く{天皇性打倒}すれば人民の解放あると言うてました。被差別者を利用して、労・農・障の連帯を呼びかけ「三里塚闘争や狭山闘争」に何も知らない障害者や労働者を参加させていきました。左翼同志の内輪の闘いになっていました。新左翼側の力が強くなり、全国青い芝の畧「全障連」との綱領をめぐり、議論が深まらずに全国青い芝は組織的に引いてしまいました。 何のために行う事をやろうとしているかが見失う危険性があります。 福岡青い芝の会発足  福岡青い芝の会を創るために関西青い芝の会から派遣され会員が来ました。最初から、いきなり青い芝の会を創れと言われても、やっぱり地域には地域の特性があるので自分たちは自分たちの運動を行っていかなければならないと思いました。しかし、当時、ボランティア的な学生と解放運動を進める学生がいました。これまで通りの「立ち上がろう会」の運動を遂行していく学生と青い芝の会をつくることに積極的に活動しているのと二通り通りになってしました。為に、対立していくようになりました。当時付き合っていた彼女も青い芝の会をつくる事に賛成しました。さらに、九州青い芝の会を作る為に具体的に福岡で長沢さんが自立生活を始めました。介護者組織障害者の手足となる「ヒトデ」をつくり、介護手配等を行っていました。活動拠点になる事務所をつくり、そうしたなかで僕は考えました。 けれど、行政交渉とか、厚生省交渉とか、障害者の立場を明らかにし、「障害者はあってはならない存在」として排除する社会に対して優生思想との対決(差別との闘争)をしていかなければならないと考えていきました。したがって、福岡青い芝の会をつくることによって、自分たちの考えが生かされるんじゃないかということに逆になったわけです。僕の場合は、誰かに影響されて運動にかかわるようになったというよりも、「立ち上がろう会」などの運動のなかで僕自身が考えて運動を組み立ててきました。始めから福岡青い芝の会をつくることを賛成したわけではないと言えます。差別されている認識にたっていなかったと思います。 1977年3月福岡青い芝の会を設立しました。僕は最初の活動として8ミリ映画「でんでらりょうば」を作りました。活動の様子を撮りの費用が当時10万円かかる大きな活動をまかされました。シナリオ作りからはじめ、学生に活動の様子をカメラに収めてもらい、夜に映像と音合わせやフイルムを繋ぐ作業をしました。完成まで一年かかりました。 交流キャンプ開くことになりました。 1回目は、志賀野島国民休暇村で開きました。あちこちのキャンプ場に行きました。多い時は100名以上の参加がありました。中学生も学校よっては人権教育一環としてキャンプに参加していました。中学生の急性アルーコル中毒者が出る等知的障害者行方不明になったりしました。警察に捜索を頼んだこともありました。長崎や鹿児島から参加あり、生協のトラックを借りて車いす、荷物を運んだりしました。バス三台借りきり、準備も大変でした。福岡県内の団体や企業周り支援金を集めていました。約70万円集めていました。たが、青い芝のキャンプを通して、自立生活に入った多くいます。様々な人が参加し、施設の中から自立生活に踏み切った障害者も多くいます。健全者も障害者に関わる事もできるよう多く創りだしてきました。しかし、だんだん人数が少なくなり、理由として障害団体も多くなり、それぞれよってキャンプが出来るようになりました。最近では障害者がキャンプをできることが難しくなっています。ごろりんハウスに引きつがれています。今回で37回になります。 その当時、介護者や会員を増やすために上映会を開きました。会員を増やしていくために在宅訪問を行った結果なかなかうまく行きません。訪問しても、親の差別で家の子は何も分からないから等、世間的に悪い、門前払いで本人に合うことができずに帰って来たりしました。近い者は(家族)差別者であることを認識しました。 福岡市に対して生活保護、福祉電話を勝ち取る活動をして自立生活を認めさせて行きました。79年養護学校義務化{分ける教育}に対しての自分たちで学習会等を行いました。福岡県内教育委員会に対して交渉や抗議を{消火器を振り回す}行いました。義務化よって障害児を振り分け地域から存在が否定される等で交渉を求めていきました。 介護者組織「ヒトデ」を拡大するために各大学で講演会やチラシ撒きでした。家に帰るのはほとんど夜中で朝早くから出かけていました。親からは何をしているかと怒られていました。介護者に迷惑をかけてばっかりでどうしょうもない。 事務所は狭くて男女ごろ寝で今のようにセクハラという言葉がなかったために平気でセックス行為もありました。いつのまにか、福岡(箱崎)の屋台、居酒屋で介護者と一緒に酒を飲むことが楽しみになっていました。活動の資金を集めるために福岡天神街で毎週カンパ活動で10万入ることもありました。行政から補助を受けることよって妥協していく道を作る事になります。 前文に示しているように在宅から地域社会で地域の中で自立生活者を創り出しました。介護には健全者の組織が(介護者)が必要です。健全者は組織が大きくなれば力を持つようになり、関西青い芝の会が寝たきり脳性マヒ者の介護にはいっていた「ゴリラ」を解散させました。その理由として、健全者の方が力を持つことになり、脳性マヒ者の主体性が奪われてれいく危険があるという理由で解散させました。 東京青い芝会は最初から生活保障の運動でした。全国大会や委員会で対立していくことも「しばしば」でしたが、優性思想の必要性も指摘もありました。大阪青い芝会関西地区でも障害者の地域づくり等に進んで行きました。後、青い芝の会運動の低下につながっています。 現実的に、会員に子どもが産まれるも多くなり、会員の要望は生活保障と介護保障なのです連日、夜遅くまで自立の在り方や自己主張とは等運動方針の会議で方針を話し合い、次の朝、県教委に押し掛けたり、各地で集会を頻繁にひらいたりしました。本当に闘争に明け暮れていました。 福岡青い芝の会を設立した当初は、僕と古賀君とあともう一人、一年間の専従として大阪豊中市の長沢さんが来ていました。ちょうど、養護学校義務化間近だったので、県教育委員会に対しても義務化阻止闘争を行っていました。連日、夜遅くまで自立の在り方や自己主張とは等運動方針の会議で方針を話し合い、次の朝、県教委に押し掛けたり、福岡各地で集会や学習会を開いたりしました。本当に闘争に明け暮れていました。自立生活を始めた仲間の生活用具として、福岡市福祉課後に久留米市に対しても同じで「福祉電話」の必要性を求めて交渉しました。このときは、「福祉電話」を設置するために年齢制限があったのです。「60歳以上でなければ、できない」という対応に対して、自立障害者にとって介護者との連絡のために電話は必需品であることを訴え来ました。 活、会員になってくれと説得しました。そのような活動の結果、家には動の一つとして、在宅訪問でした。障害者のいる家を一軒一軒まわって居ません。わが屋の「こ」は何も分かりません。合うことを家の人から断られてしまったりしました。会員は急増したのですが、福岡は少し強引にやりすぎたと思います。つまり、「青い芝」の形だけをつくることになってしまったのです。中身がなくなってしまいます。運動のなかで一人一人の方向性や、その人が何を考えているとか、その人の自立生活を具体的に運動によって応えていくことが難しかったのです。親のお金使って生活をするのは自立生活ではない。保護でなければならない。行政との闘いになっていない。親との同居は自立生活にはなっていない。と言う批判をしていました。今、考えると余りにも強引なことで主体性をどう創って行くのかが問題なのです。  本当に福岡青い芝の会の本当に活動ができたのは、7、8年だと思います。活動が休止状態になってしまいました。正直なことをいうと、関西青い芝・広島青い芝の会からのやり方を合わせなければいけなかったのです。こういう点では、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)とかJIL(全国自立生活センター協議会)DPI{障害者インターナショナル}運動は優生思想との対決も含まれて生活保障中心をもっていると思います。  こういった状況のなかで、福岡青い芝の会だけではなく、九州では長崎と鹿児島に青い芝の会を創りました。同じような問題に直面していました。それぞれの組織と問題性活動の活性化させるためにテコ入れしたのですが、地域での活動保障が根付かなかったです。介護問題を含めて。リーダー的な人が育たなかったのが現実です。例えば、長崎は1978年に発足しましたが、島で生活している人が多く街へ出ることが困難さや住宅が階段の上に多くありました。活動がやりにくい所もありました。10年ぐらいしか活動が続かなかったようです。したがって、89年には活動休止状態になってしまっています。広島や福岡から人を派遣して、活性化を図りましたが、残念ながらできませんでした。鹿児島は3年ぐらい遅れて同じような道をたどったのです。「青い芝」は、差別と闘っていくということがまずあっても、綱領に反することは絶対にやってはいけないという方針がしっかりとありました。だから、個々人の生活保障の要求に応えていないところがあると思います。つまり、綱領だけに縛られてしまうのです。一方、障害者への差別は依然としてなくならないので、差別に対して闘うことはまぬがれないのです。青い芝の会がやってきたことは、このような意味においては正しいし、必要だったと思います。つまり、優生思想との闘いや、教育の中で「共生共育」という思想をつくり出してきたことは、青い芝の会が確になってやってきたと言えます。しかし、そした運動は、自分の生活とかけ離れたことなので、運動から会員が離れていませんが、自分の生活と離れたところにあると思えます。  1998年11月に会長を辞めました。今は全国青い芝の会の一人の会員として「青い芝」の発展のために、こういう発言をしてもよい時期に入っていると思います。 このような見解は、僕が全国青い芝の会会長だったということを考えると言ってはいけないことかもしれません。 哲学と現実を見据え、健全者より生活費は沢山かかります。服や靴等すぐに痛みます。健全者より生活必需品等が沢山の費用がかかり生活保障に力を入れなければなりません。 知的障害者への差別と偏見 福岡青い芝の前事務所に知的障害者が来ていました。北九州から遊びが好きでいろんな所に遊びに一緒に行きました。お酒も好き。焼鳥屋でお酒を哺乳瓶で飲んでいたからお店の人がびっくりされました。「飲ませて良いの。」と聞かれたこともあった。彼女はとてもひとが大好きで人懐こいが、嫌いな人とはぜったい話そうとしません。好きな人とは体を寄せ合って話しかけます。言葉が伝わりにくいが、しかし、言葉の表現は彼女なりの表現で行います、例えば鳥ご飯を指し「こけここご飯」と言い、私は始め何のことだろうと思っていました。彼女のひとつの文化と言っても良いでしょう。私にとって彼女と付き合って今まで抱いていた障害者観が問われていきました。例えば女性の介護が少ないという事で、施設に追い込んで行った事は、問われなければならなりません。 1982年から86年にかけて、福岡の介護者の多くが新左翼の人で占められていました。私たちの解放運動と新左翼の運動の違いは新左翼の運動は天皇制を頂点とした体制や国家権力、一部権力者を批判し「糾弾」という暴力で訴え正当化を図ろうとする者です。自らの差別性を問うこともなく、「テロ」と言う言葉は使うことはありませんでした。そのために、青い芝運動は新左翼で過激派としか見られなかったです。「よど号」事件で北朝鮮に逃亡した赤軍派らしきも介護に入っていました。障害者を始めとして差別者を利用して来た事も事実であります。 障害者の実体調査に対しての闘い反合理化闘い 81年、86年旧厚生省は障害者の実体調査を行いました。その時の調査は何点かの問題があった。 @ 障害者本人に聴き書き込んでいくのでのではありません。 A 家族が書いていくものであります。 B 障害者の要求を反映されるとは思えません。 調査することによって福祉の充実を楯に捕り隔離と抹殺の政策を作ろうとするものであります。私たちは実対調査に対して県への抗議や交渉を持ち県庁に座り込んだ。簡単に「共闘」することは団体の危険性を伴っています。{政治的利用}共に自体労労働者組合(自治労)との話し合いを進めていきました。合理化につながり多くの労動者を首にする結果になる事を予想していました。今やこんな事を問題しなくなっていますが障害者の雇用問題とっては切る事はできないはずです。 郵便番号は部落の地名総鑑が作られていたようになる危惧を招いています。今では郵便番号を書くのが当たり前になっていますが、 障害者が郵便を振り分ける仕事になるのに番号を書く事によって仕事を奪って来ています。拒否していく事によって何も新たに作らなくても良いと思います。他にもこういった物が沢山あるのではないでしょうか?働く場を作らなければといいながら奪う結果になっています。私たちは何も働く事が進路ではないといえます。 このような、国の事業を民間企業へ渡すことに経済の発展を求めて来ました。国鉄を初めとして民営化になりました。多くの労働者が職を失いました。労働者への差別だと言えます。 今や、何も疑問を持たずに郵便番号やパソコンでメールのやり取り等行っています。情報は無闇に飛び交っています。自由に生活していると思われていますが、誰からも管理されています。危機感を持たずに生活していることは恐ろしいことです。 人との関係を切って生きていると言えます。 9.自立生活 僕は今も自立した「自分らしい生き方」を模索しています。いつの日かしようと思っていました。しかし、その当時組織を創る為に大阪から来ていた事務局長に対して反感をもっていました。地域の人ではないので私たちはどうも馴染めないところもあります。さらに言葉が激しくいつもせめられているみたいでした。今もそういった意識がある。他の地域の人から言われたりすると「何が分かるか」という気持ちになりました。地域にはその地域性があるとおもいます。さらには黙っていると、「そんなに自信がないのか」とよく言うわれていました。自信がないわけでもないです。  また「障害者の差別性も見抜けんのか」「感性がない」とかいわれ等、自分では頭が良く廻るほうではないと思っていました。その人の地域性や生活背景があると思っていました。一人一人の受け止め方もまちまちで、それを如何に尊重していくかであります。その事を抜きにして運動の拡がりはないのではないか、やろうとしている者を切っていく結果になるのではないか思われます。 僕たち活動している者は他の障害者に対して、差別とされた自覚を促さなければなりません。そのことは同時に運動の厳しさであります。それが行き過ぎると活動に参加しにくくなると思う、自分も他の人に対してそのように言っているが、そのことを問い返しているつもりでありました。しかし一人一人を十分尊重できている考えかというと、その当時も今もあまり変わっていません。 僕に向かって福岡青い芝の会の事務局長から「あなたの年齢では、意識が変わらないから自立は無理。」と言われ、こんちきしょうと思いました。歯を食いしばり日々を送っていました。 僕は、これまで付き合っていた彼女と別れることになりました。彼女とは、結婚まで考えていました。一緒に活動をするのがいやで誰もいないところで何かやってやろうと思いました。筑後地区で障害者解放運動する者がいないから久留米で自立生活を行いながら運動を行うことにしました。福岡では、これまでなんでも介護者によって決められていました。例えば、自立する時の部屋探しや、介護者も本人が決めるのではなく、健全者組織が介護者が決めていました。他の仲間が福岡で自立生活を送っていたが、僕は何かおかしいなと感じていました。 1979年自立生活をはじめました。彼女から付き合うや結婚することを断われたから自立生活をすれば賦活するのではないかと思っていました。部屋探しから始めました。ところが久留米市内の不動産屋を回っても「危ない」とか言われて部屋はなかなかみつからなかったのです。仕方なく介護の人を「きょうだい」といつわり部屋を借りることがでました。 僕は同時に朝倉市役所に行き住民票を久留米市移すと共に、準備ができてから親やきょうだいに自立する事を伝えました。親等は差別者であることを自覚しておくべきです。本人の意思を無視し、自分の考えを押し付けることや親離れ、子離れが出来ないことが差別だと言えます。「勝手にしやがって」「介護者はどうするのか」と言い、私は説明を行なって行きました。しかし、私の声を聞こうとしない事に対して怒りを感じていました、最初から反対されると思っていいましたが、「ここまで来てやめることはできない。」そんな気持ちで、家に誰もいない時を見図らって家を出る準備をしていました。荷物は布団、テレビ、本などでワゴン車一台しかなく、洗濯機や冷蔵庫、食器等は譲ってもらったり、中古で買ったりしていました。 自立生活をするためには介護者がいります。介護者も二人ぐらいしかいませんでした。その時の久留米地区の解放研の人達が久留米西鉄駅前で毎月23日に狭山差別裁判事件のビラと一緒上映会のビラ配付をしていました。私は、トイレに行きたくて、そばに居た男の人に頼みやってもらったが、私の言葉が分からずおどおどしていました。「でんでらりょうば」を久留米の公民館で上映会を行いました。部落解放運動と連帯して活動を行っている人や、大牟田の高校教師、県職員、生活協同組合の職員人が参加しました。その当時は障害者のことなど問題意識がなんかなくて、「とにかく関わってくれ」と言うしかありませんでした。 今でもその人達と関わりがあります。お金もなく介護者に10万円借りて家の敷金に当てました。お金を借り事も恥ずかしい思いも忘れて、無我夢中でした。 私は生活する上で生活費を勝ち取らなければなりません。行政に自立を認めさせていく事になります。行政とぶつかり、生活保護を取るのに親、きょうだいの収入などを調べる。生活保護を受ける事自体世間から偏見で見られることから、親きょうだいは反対をしまいました。久留米市では「重度障害者」に生活保護を支給するのは始めてでした。なかなか出そうとしなかった。又、生活保護は受給者に対して「○○を持ってはならない」等、生活を監視していくものです。そこで青い芝の仲間と「障害者にも生活保護を出せように」と交渉を行ないました。更には久留米市では、その当時は、福祉電話制度は高齢者の一人暮らしでしか出しいませんでした。制度通用していなかったのです。僕たちの生活にとって必要な「福祉電話制度」には年齢や台数の制限がありました。まず制限を撤廃させる交渉を行った結果、制限を緩和させていきました。  2005年、生活支援課(保護課)は警察権力を行使した。自立生活において重要なのは住居であり、住居を探すことは大変なものであります。家主の差別的扱いや自分の住みたい所に住むことが出来ません。二人の3万7千円で生活保護法の範囲の家賃で、住居を探すことの難しさがあります。これまでに5回引っ越しをしました。そのたびに生活保護課からなんだかんだと言われてきました。この度は、変わる準備の前になぜ話をしなかったのかと、保護課は家賃が高すぎると言てきました。普通の生活保護世帯の家賃まで引き下げるというような納得できない解答を出してきました。そのために交渉していたが、話がすすまず、電動車いすで保護課の職員に詰め寄り、職員の胸に軽くあたり、その反動で机にあたり、カンウンターにあたり、傷をつくったためにケースワーカーが警察に通報しました。久留米市生活保護課は、警察に公務執行妨害と器物破損で逮捕させました。障害者(脳性マヒ者)を逮捕することは前代未聞の事件であり、全国の仲間から日本で初めてではないか英雄だと思え、介護付きの護送であり、介護者に聴く始末でした。警察官は、何も出来ない有り様でした。はじめての経験で、警察官の取り調べは、始めは言わなくてもいいところはいわなくても良いと言いながら、話を誘導させていかにも話すようにさせていていきました。それは鮮やかなものでした。事実を如何に言わせるかが驚きました。 保護課は条件を一部変更し認めて行きました。 この事件が10日程立って新聞記事になりました。このことについて僕に対して「わがまま」「あまえ」「逮捕されるのはあたりまえだ」と僕が作った作業所の職員が言いだす始末でした。障害者の気持ち等を踏みにじる発言でしかありません。同時に行政に加担するものであります。同じ職員でもこのようなことを認めるわけにはいきません。 仲間から障害者が逮捕されるなんて日本で初めてだから英雄だと思え、その後書類送検のために検察庁の取り調べになりました。全国青い芝の会からや他からの抗議や市議員の動きで保護課は事件を取り下げるようになりました。 介護通して健全者との関わりを作るためには差別してきたことを自覚させていくことです差別性を変革していくように問いかけています。具体的に障害者の自立生活(介護)を通し差別感の変革を促すことです。障害者とどのようにしてつき合っていくのか。これまで、健全者として生きて来た中で障害者に対して固定概念や先入観が差別性があります。このような意識を説くためには、同じ生活を送ることといえます。たとえば、介護の中で一緒に風呂に入り裸のつき合いをしていき、その人どうつき合って行くのかが問われます。 現在の自立生活者 僕が自立生活を始めて40年近くたつ中で障害者が自立生活を行って来ました。今は違って来ています。自立生活を送っている人が本当に「主体性」のある生活を送っているのでしょうか。どんな形で生きていこうが良いとは思うが、ホームヘルパーやケアホームや(福祉サービス)住宅を使おうが良いと思いますが、支援者やヘルパーに依存していると思われます。障害者の自立生活は「自己主張」を行って「主体性」を創り維持していかなければなりません。 支援者やヘルパーがやることが利用者の「声」を聴かずになっています。何でもしてあげることがサービスだと思い、利用者が出来ることはせさないことが「主体性」を奪う結果になっています。だからこそコミケイーションがいかに必要です。利用者の自らの存在を回りにどれだけ与えていくか確かに毎日介護者を探す事は容易なことではありません。 このことが健全者の差別性を暴いて行く事が私たちの「生存権」や「生活権利」を認めさせていくことです。これまで抑圧されたことや差別されたことに怨みを持ち生きていく事が解放されることではないでしょうか、しつこいようだが、別に、「何もしなくても主体性を持った自立生活」を送り、「生きていくこと」が自立生活運動です。 私は始めて交流キャンプの支援金要請書に行ったと時のことです。非差別出身者との出会いでした。その時の話は忘れることはできません。「何をしにきたのここは、どんなところか知っていますか」聴かれました。キャンプの支援金を集めています。分かりません。説明すると誰から言われた。「俺たちこそエタ、非人」と言われてきた「部落民」だと言われました。同じ人間だろう、同じ「血」が流れているのにこれが差別やろう、あなた達も私も差別被差別の関係であると言われました。それから差別の学習会を開くようになりました。毎日、自分が差別をしてないかと考えなければなりません。このようなことが差別認識を変革していくことだと確信を持って言えます。このような人はいないだろうけれども、それくらいの差別の認識を持つべきであろう。差別の認識は被害者でもあり、加害者でもありそれが差別と闘いと言えます。 私たちの運動は自らの生き方を模索と追求し、その差別意識を変革していくものです。介護に入っている学生や障害者を三里塚闘争等に連れていきました。集団で居なくなり介護をすっぽかしたり、障害者を利用し主体性を奪い、青い芝の運動にも口を出そうとしたり、彼たちは私たちの言うことを聞こうとしないこと危険性を重視しました。そのため私たちは青い芝の会の会則は政治的、宗教的利用を許さない事を明言しています。私たち障害者の主体性を保持していくために会則に従い介護から切り放して行きました。 優生思想と医療の倫理を訪う 1968年札幌医科大で日本で初めての和田医師よって心臓移植がなされました。水死事故で21歳の青年の心臓取り出し他の人に心臓移植がなされました。 @ ドナーは多弁障害(発立障害のひとつ)として考えられます。 A レシピエントは水死なのか、 B 心臓病の患者は移植をしなければならなかったのか? C ドナー探しではなかったのでないか、 本当の真相は明らかになっていません。数々な分からない治療を行ったみたいです。病理解剖もなされなかった。詳細ことは分からずいたっています。医療殺人事件といえます。医学モデルが盛んな時代でした。「優生思想」に基づいた医療には反対です。 優生思想と医療に隠された「母体保護法」 優生保護法は削除されたが、母体を守る立場から「母体保護法」  1997年10月施行されました。 母親から生命を守る立場から胎児時に中絶をして良いという解釈が出来ます。すなわち「こ」が生まれてくること否定していく結果になると思われます。意見は賛否両論有ると思われます。 2006年3月尊厳死を肯定するような事件が富山県射水市民病院で終末医療を受けている患者に外科部長が(50)人工呼吸器を外され患者7人が死亡しました。しかし、その真相については今の段階でははっきりとはしていません。議委員や政府の動きは臓器移植が進んでいない中なんとかしょうとしています。 2006年2月、自公両党が検討を進めてきています。臓器移植法改正案の詳細が6日、明らかになりました。 臓器移植の推進を目的に「脳死は人の死」と一律に定義したうえ、本人の事前の意思がなくても遺族の同意だけで臓器提供を可能とする。来月にも議員立法での国会提出を目指しています。 現在、死亡宣告は通常、心臓停止で行われ、脳死は臓器を提供するドナーに限って認められています。 脳死を例外なく人の死と規定することは、医療現場などへの影響が大きく、さまざまな議論を巻き起こしそうだ。改正案は、肝臓の一部を父親に提供した経験を持つ河野太郎衆院議員(自民)らが中心になって作っています。年5件程度しかない脳死臓器提供を増やす為、提供の条件を緩めるのが狙いがあります。具体的には、現行法が求める「本人の提供意思」を外し、本人が事前に提供を拒否していない限り、遺族の同意だけで提供を可能にするものです。ただ遺族の同意であります。  2018年8月医療費の財源の軽減を行う事を再び「安楽死」法案を国民民主党の代表戦に掲げられた。 1995年に入って阪神大震災がありました。このことは優生思想と関係ないとはいえません。今世紀最大の被害となりました。電気、ガス、交通が遮断され家は破損し、街は焼け野原となり、その中で障害者たちは自分たちの命を守るためにいろんな手段を行使し、二千人余りのボランティアを確保し、多くの仲間の命を守りつづけていました。 いち早く行政は救済しなければならないはずなのに、生活保護をうちきったり、ヘルパ?を派遣しなかったり、障害者の存在を認めていないと言える。震災のなかで助けられても病院の中で飲み食いもできず四日間も放置され施設へ入れられた障害者がいたことも伝えられていました。次から次へと病院へ運ばれていきました。本当に生きられる人も亡くしていったのではなかのでしょうたか。震災で亡くなった五千人の大半は老人や子供であり、助かった者は若い人だと言う。「震災」と言いながら「人災」とも言える行為があったのではないしょうか、  この17年間に日本列島は災害が頻繁に起きています、中越地震、北部九州震災、大分、福岡豪雨、北海道震災と続き、その度に論じられるのが高齢者をどうすれば良いのか、障害者のことは、置き去り担っていないか、阪神大震災後から17年前とどう変わたのか、「良いか,悪いか」自分達の身は自分達で守ると言うことになっています。運動として成り立っています。兵庫青い芝の会、全国青い芝の会の役員が震災の犠牲になり亡くなった。安否確認作業から避難所創り、行政交渉大半が被災地の自立生活支援センターが行っています。「良いことか、悪いことか」福祉ボランティアから災害ボランティアへ移り変わっていったと思います。福祉ボランティアが少なくなり、若い人に差別の認識を変える事ができなくなっています。私達とって怖いことになります。今起きている事件をみれば弱い者が一段と弱い者を痛みつける傾向になっています。 優生思想を次長しています。佐賀のバスジャックから新宿大量殺人事件、事件が起きるたびに事件を起こした者は精神鑑定を受け精神障害者としてレッテルを貼られ、精神障害者は犯罪を起こすと言い差別と誤解、偏見で見られています。新たなる優生思想の差別構造となっています。 亡くなった仲間への思い 1995年3月、同級生であった仲間が施設の中で死んでいきました。彼は30年あまり施設生活でありました。私が思うには、彼にとって青春があっただろうか? 施設から出て恋愛や結婚をしたかったと思います。葬式もろくにされず友にも見送られずに死んでいった事は余りにも淋しいものであります、私には何も言えることではない。思私の自立生活は一人でも多くの仲間が地域で自立生活を行い、生活を営むために、私は解放運動をしてきたのにもかかわらず、彼を孤独な死に追いやってしまいました。私は今まで何人の仲間を殺して来ただろうか。こうやっているうちにも死んでいっています。  先日も施設生活40数年過すごさせられ、やっと自立生活へと変わっていました。自分がしたい事をやりたいという気持ちが先に立ち生活が「むちゃくちゃ」なり、ローン崩れなり、へルーパにはすぐに気に入らなかったら怒る理由は私には分かります。40数年も社会から遮断され、人間関係も創りきれなかったのです。それが分からない人が大半です。ただの「わがまま」としか片付けています。死の時近親者は、誰も来なかったのです。駆けつけたのはへルーパ事業所のへルーパだけでした。通夜、葬式も行われませんでした。近親者こそ差別者と言えます。 早期発見医療について抗議及び質問書 日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会  私たち全国青い芝の会は、半世紀以上に渡り、障害者の自立と解放を目指し、解放運動を続けてきました。それは健全者社会に根強くはびこる優生思想との闘いでもあり、脳性マヒ者を始めとしたすべての障害当事者の生存権と、生活権の確立を目指し活動を行ってきました。 近年の先端医療技術進歩によって(?)今までは社会で当たり前に生活してきた 新たな障害名をつけられ地域社会から排除されている今日この頃です。 マスコミ報道によると、当時の、厚生労働省が脳性マヒ者の早期治療のための大阪大学医学部を始めとしいくつかの研究機関が、臍帯血幹細胞を使っての早期の治療を認可したことが大きく報道されました。 この事は、我々脳性マヒ者にとっては自己否定に直結する行為だあると。断言することを、断固として容認することはできない。強く抗議するとともに速やかに、認可を取り消し研究自体の中止を各研究機関へ通達されることを要求するものである。 なぜ。我々がこうした要求をするかと言えば。過去同じような研究が、いくつも実施され、その都度我々の仲間脳性マヒ者たちのモルモットのような実験材料とされてきた。忌まわしい歴史があることが明らかであることは貴省も承知しているものだと、我々は認識している。 1950年代から始まる脊髄へのパンピング注射を皮切りに、60年代初めには、当時アメリカで開発されたロボトミー手術が、脚光を浴び、日本でも順天堂大学を始め、幾つかの機関で実施されたが、何らかの効果を元にされずに、逆に障害が重度化していたことが現実に我々の仲間の多くは莫大な手術費用を使ってまでも行われてきた経緯があるにも関わらず、今回の研究がやはり旧優生保護法がうたっていた不良な子孫の出生防止を目指していることは、明らかであり我々脳性マヒ者の立場として到底容認することはできない。 今の日本の社会状況のうわべだけをみれば、バリアフリーや地域での自立生活の促進などが行政などからも言われているが、こうした研究が進むことによって、いかに障害者を社会から消し去ろうとしているかということは飽きれ家である。 心臓移植よる殺人事件 1968年脳死・臓器移植は札幌医大の心臓移植から始めて以来、水死とされた青年をドナー対象に仕立て人体実験を行いました。しかし、治療という名のもとで裁かれてもいません。それから筑波大・岐阜大が障害者に人体実験をされたことは、よく知られています。阪大では電話で殴られて殺されるという事件に犯罪に巻き込まれた被害者から臓器が摘出された。犯罪者や犯罪被害者が対象とされていきます。 さらに九大医大の肝臓移植が成されたがその時、千里救命センターではぜんそく患者の人が腎臓を摘出されたが、他の臓器も取られていたことも明確になっていま。家族の同意を得て臓器を摘出したとされています。しかし、患者の死を目前にして家族は動揺しています。医者は「臓器移植をしないと死ぬ人がいる」「外の人を救うことになる」とか言って同意を迫る。同意書にサインしたが家族は何がなんだか分からなかったということが多いといえます。 外国に臓器を求めて移植手術に出かけていています。 患者が増えてきたために移植法案を作る事を急いだ厚生省は脳死・臓器移植臨調を設置し二年に渡り審議を行なました。当初から、移植のための脳死判定を作るのではないと言っていたが、答申を見れば脳死と臓器移植はきちんと結び付けられています。家族の尊託を認めているが、しょせん、周りの者で意志が決められるものでありません。「生かすのも死なすのも」周りの者に決められてきた私たちはそのことにも怒りを感じてきています。臓器移植に対しては私たちが個人的に「何も言うことは」できません。人を殺してまで生きようとしていいのでしょうか? 私は患者として生き行く社会であれば人の命を取ってまで生きる事ではなく、具体的に言えば、労働の価値観や社会のシステムがととのえば患者と付き合える関係性が作られれば移植などされなくても良いと考えられます。また人間の死は自然の摂理に従う事が必要ではないかと考える。科学万能主義が自然の倫理、医学の倫理を歪め人の行き方まで変えようとしています。法律で決める事は国が決めつけることになります。 また、末期医療の技術進歩により、人工呼吸器等が開発される中で、安楽死・尊厳死の思想が論議されるようになりました。アメリカのカレン裁判以来「死ぬ権利」という言葉が誕生しました。そもそもそんな権利はありません、苦しむ事を避け死を選ぶだけだと思いますが。インホンドコンセントが重視されているが、これも死を直前に変わることはないのでしょうか。 92年、最近、臓器移植のために臓器がねらわれているといわれ、新しいことだととらえられているが別に今更なことではないといえます。東海大でガン患者が痛みを避ける為に医者によって薬物で殺されてしまいました。アメリカ、オーストリアで成立した州法では、寝たきり障害者には「死の権利」が「与えられ」ました。こうして命の質が選ばれようになりました。死の医療であるといえます。 農業の変革より企業として成し遂げようとする中において益々、自然を壊して、自然界の倫理まで人で犯しています。               食料危機を予想しバイオテクノロジー開発が進み、動植物の品種改良によって美の感覚や形感覚まで変えています。その事は形が整のっている物が良いよいと言う価値観が生まれ障害者を排除の思想がひろまっていく事に違いないと私たちは危惧しています。 出生時診断は羊水検査、エコ診断、遺伝子組み換えは、癌・エイズ撲滅が目的とされているが実際には、母体保護法の中に於いても{優生保護法}と同じく障害児の出生防止などのための実用化が急速に進んでいます。例として鹿児島大では、遺伝子操作は癌・エイズ治療薬開発に利用とするとされています。今ところ臨床応用として遺伝子治療に用いられています。今回の遺伝子診断は受精卵の遺伝子を取り出し、調べ、筋ジストロフィーの撲滅をしようというものです。このような命の選別に止まらず、取り出した遺伝子を組み換えて人間を改造することにつながっていくものといえます。 厚労省・文科省が遺伝子治療臨床応用ガイドラインを発表して以来、このような危険な研究・治療について、各大学から厚労省に認可申請が次々と出しています。 医者・専門家などと論議していき、市民、患者同志が学習や情報を提供していくことは本当にインフォームドコンセントが成り立つことだと言えます。そのことなしに、障害者の生存権は守られなければなりません。 2006年2月、自公両党が検討を進めてきています。臓器移植法改正案の詳細が6日、明らかになりました。 臓器移植の推進を目的に「脳死は人の死」と一律に定義したうえ、本人の事前の意思がなくても遺族の同意だけで臓器提供を可能とする。来月にも議員立法での国会提出を目指しています。 現在、死亡宣告は通常、心臓停止で行われ、脳死は臓器を提供するドナーに限って認められています。 脳死を例外なく人の死と規定することは、医療現場などへの影響が大きく、さまざまな議論を巻き起こしそうだ。改正案は、肝臓の一部を父親に提供した経験を持つ河野太郎衆院議員(自民)らが中心になって作っています。年5件程度しかない脳死臓器提供を増やす為、提供の条件を緩めるのが狙いがあります。具体的には、現行法が求める「本人の提供意思」を外し、本人が事前に提供を拒否していない限り、遺族の同意だけで提供を可能にするものです。ただ遺族の同意だけでの臓器提供には、脳死となった人を死者として扱う法律規定が別途必要になる。そうでないと生きた患者から家族の同意で臓器を摘出することになり、厚労働省臓器移植対策室は「人権侵害」とことを言っていますが、この改正案は、「脳死体とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう」 との規定を置き「脳死は人の死」と明確に定めています。また現行法は、脳死判定の実施には脳死者本人の意思と家族の同意を義務付けているが、改正案はこの規定を削除。家族や本人の意思と関係なく、医師の判断で脳死判定・死亡宣告ができる制度にしようとしています。さらに改正案は、臓器提供者本人が、生前に書面で自分の親族への移植を意思表示した場合、それを認める規定を新設しています。現行法のガイドラインは、公正な移植の実現のため、移植を受ける患者を医学的な優先順位などに基づいて選ぶと定めております。このことを受け自民、公明両党の有志議員は3月31日、二つの臓器移植法改正案を衆院に提出しました。臓器提供者の不足で低迷する脳死臓器移植の拡大が改正の狙いだが、提供に本人の意思が必要かどうかで意見が割れ、法案は一本化できませんでした。採決では両党とも党議拘束はかけない方針。法案は、河野太郎衆院議員(自民)、福島豊衆院議員(公明)らがまとめた家族同意案と、斉藤鉄夫衆院議員(公明)らによる年齢緩和案。家族同意案は「脳死は人の死」を原則とし患者の意思が不明でも、家族の同意で年齢にかかわらず臓器提供を可能とする。年齢緩和案は、移植に限り「脳死は人の死」とし、提供者の意思表示を必要とする現行法の考えを踏まえたうえで、提供の年齢制限を「15歳以上」から「12歳以上」に緩めています。また両案とも、親族に対する臓器の優先的な提供意思を示すことができます。両案は昨年8月、国会に提出されたが、衆院解散に伴い審議入りせず廃案となりました。一方、「脳死は人の死」とする考えに反対する民主、社民両党の有志議員も対案提出に向けて準備を進めています。民主党も党議拘束はかけない見通し。現行の法律では、臓器提供に本人の書面による意思表示が必要なうえ、年齢制限もあって臓器提供は伸び悩み、小児脳死移植の道も閉ざしています。このような形で臓器移植法を改悪しようとしています。 日本の社会は、高齢化が進む中、尊厳死という形で再び法制化になっています。また、世界の動き中において遺伝子を何の疑問も持つこともなく加担に操作しようとしています。どこまで科学はいくのか。人間の倫理、自然の倫理を歪ませるれば良いのでしょか、  2006年2月日本産科学科医は慢性流産に対して胎児診断を認めるという見解を出しました。慢性流産だけに治まるのでしょうか。ますます、障害の早期発見に拍車をかけることになるでしょう。私達は医療が持つ障害を無視していく行為に対して厳しい目でみなければなりません。 我々は、あくまで脳性マヒ者として生きていくことがこの社会にとって大事なことであるか身を持って証明してきた。 以下、貴省に対して質問を行うので、真摯な対応を要求するものである。 1、 脳性マヒ及び障害者の生存権をどう捉えているのか? 2、 脳性マヒ及び障害者の権利をどう捉えているのか? 3、 国連の「障害者の権利条約」を認めるのか? 下文は障害学からメール引用です。 院移転記念講演で話に対して立岩真也の質問状 小川恭一氏誉院長宛て公開質問状 添付書類 立岩 真也 2017/12/31 兵庫県立こども病院名誉院長小川恭一殿 貴殿は、兵庫県立こども病院から刊行された『兵庫県立こども病院移転記念誌』(2016年)に収録された「兵庫県立こども病院誕生当時のこと」という文章において、「当時の兵庫県知事金井元彦氏は、小児医療に深い関心を持ち「子供に障害が起こってしまってからでは遅すぎる。予防は治療に勝ることを真剣に考えるべき」という信念を持っておられ、本邦では初めてのユニークな県民運動となった「不幸な子供の生まれない施策」を展開されました」と記されています。  これは当時の兵庫県知事の信念を紹介した箇所ではありますが、その信念とその施策について肯定的であることは、この文からもまた前後の文脈からも明らかです。さてそのようにとりあげられている「不幸な子供の生まれない施策」(「不幸な子供の生まれない運動」)は、その重要な一部に、優生手術(断種・不妊手術)、出生前診断(当時は羊水診断)を含むものでした。むろん、1965年にこの病院に心臓外科部長として務め始め、その後院長を務め、現在は名誉院長である貴殿が、この運動において、これらが行なわれていたことを知らないはずはありません。しかしそのことにはふれられておらず、そして、その全体が肯定されています。これは不可解に思われます。  それでも一つ、貴殿にとっては不名誉なことであると思いますが、すっかり忘れたというわずかな可能性はあるのかもしれません。しかし、それは忘れられてよいようなことでないと考えます。▼もし、忘れてしまっていたのであれば、そのことをお知らせください。そして、その忘却についてかつて院長であり現在名誉院長である貴殿がどのようにお考えになるかをお知らせください。…1▲  ただもちろん、そのようなことは普通にはありえないことだと私も思います。とすると、知っているが書く必要がないと考えた、順序を逆にすれば、書く必要がないとは考えたが、もちろん知っていたということです。まずそのことが不思議に思われます。出生前診断、選択的中絶の是非については種々の議論があります。ここでは貴殿がそれに反対するべきであると言いたいのではありません。優生手術についても、当時の優生保護法において認められていたこともあります。ただ、だからといって積極的に推進すべきだとはなりませんし、全国的にも法の範囲を超えてなされていた事例があることが近年ようやく明らかにされてきたこともあります。だからこそ、この実践が責任ある人々によって、当時どのように理解されていたか、またどのように理解しているのかが問われているのです。これらの実践を肯定するか否定するかという以前に、▼全体を知っているにもかかわらず、その部分にはふれず、しかしその全体を肯定するというのは、事実を不正確に伝えており、また不誠実であるとも思えるのですが、無知であったいうわけではない(はずの)貴殿はなぜそのような記述をされるのでしょうか。その理由を示してください。またその姿勢についてお考えを示してください。…2▲  そしてさらに、とくに不思議なのは、この「施策(運動)」の全体を「小児医療」として括っていることです。「小児医療」がときに「予防」としてなされ、また機能することがあることは認めましょう。しかし普通、予防にしても、まず人がいて、初めてその人に対して、予防も治療も成立するもののはずです。次に、中絶手術にしても断種手術にしてもそれは医療技術を用いてなされるものではあり、その限りにおいて「医療」と呼ぶことを認めるとしても、この「施策(運動)」の一部であった優生手術・出生前診断の対象とされたのは子どもではありません。それは少なくとも子どもの生命を救ったりしようとする営み――それが普通には小児医療と呼ばれる営みであるはずです――ではない。▼にもかかわらず、貴殿は「小児医療」と書かれています。このことをどのように考えておられるのでしょうか。お示しください。…3▼  貴殿は兵庫県立こども病院の役職、院長を務めた方であり、名誉院長です。私は2017年から、障害と人間、障害と社会との関係について過去を検証し、現在を調査し、未来を展望すべく研究する人たちの学会である障害学会の会長を務めることになりました。私たちに求められる検証には、重要な立場にあった人が過去そして現在をどのように把握しているのかを確認することも含まれます。より広く、優生手術が実際にどのように行なわれてきたのか、それに関わった人たちが何をどのように考え何を行なったのかは、現在においても様々な壁に阻まれ、明らかになっておらず、ようやくその一部が本学会員を含む研究者らによって明らかにされつつあります。その解明が妨げられないこと促進していくことは、研究者たち、また学会によって求められていくだろうと考えます。ただ、この質問状はまず貴殿個人に宛てた質問でありますから、学会会長からのものといたします。障害と人間、障害と社会のあり方に関わる重要な問題が、以上に指摘したように扱われていることについて、どうしても公人としての貴殿に説明を求める必要があると考えたのです。  この文書とそれを収録した記念誌に批判がなされ、質問がなされたことは知っています。それに対する対応が、その機関紙のHP掲載中止というものであったことも、この質問状を出す一つのきっかけでもありました。2017月12月1日付の『毎日新聞』に掲載された私のコメントにもあるように、私は、削除すればよいとは考えません。書かれたものは書かれたのです。その事実は事実として残し、その上での対応がなされるべきものと考えます。しかし病院側の対応は残念と言う以外にないものでした。いったいこのようなできごとを、問題となった文章の著者であり、そして幾度も繰り返しますが、その病院の院長であったそして現在も名誉院長である貴殿はいったいどのように捉えておられるのか。2018年1月20日までに御回答いただきますよう、要請いたします。質問1あるいは2にお答えください。そして質問3にお答えください。送付先は障害学会事務局(〒162-0801東京都新宿区山吹町358-5国際文献社アカデミーセンター内)とさせていただきます。  なお「小川恭一氏宛て公開質問状」で検索するとこの文章をご覧になることができ、そこから関連する情報も得ることができることを申し添えておきます。 回答  2018/01/19 立岩真也殿 貴殿からのご質問にお答えいたします。  「不幸な子供の生まれない運動」については、当時、出生前から母体と胎児を保護するという考えが背景にあったものの、障害児を不幸な子供としていたこと、また、精神障害者等に対する優生手術が行なわれていたことなどについては、現在では不適切であると考えています。  寄稿文中の「ユニークな県民運動」については、当時、他県で行なわれていなかった兵庫県独自の施策であることを示す表現として用いています。このことも含め、病院設立当時の時代背景として当時の歴史的事実を記載しましたが、その説明が不十分であったとおもわれます。  なお、様々な病気や障害に向き合っておられる子供さん達の「最後の砦」として高度専門医療を提供するという兵庫県立こども病院の基本姿勢は、設立当時から変わることはありません。  2018年1月  ※この返信には題などはありませんでした。「回答」としたのは掲載者です。 立岩真也(障害学会会長)→小川恭一(兵庫県立こども病院名誉院長 青い芝の提唱は医療の倫理として、病気は直すことが出来るが障害は直す事はできない。社会に「障害は個体から産まれる個性」であると提言を行いました。医学モデルから社会的モデルへの一歩だったと言えます。今でも、医学の中では反対者が多くいます。 健全者文明を否定する綱領に則している行動と捕らえられる広島県尾道市の会員で電動車いすに電車に轢かれて死亡されました。機械文明から殺された言うことで電動車いすを海に投げ込んだことは、賛成・反対が全国の障害者団体に波紋が広まりました 障害者虐待防止法 障害者に対する虐待が障害者の尊厳を害し、障害者の自立及び社会参加にとって障害者に対する虐待を防止することが極めて重要であること等から、障害者に対する虐待の禁止、障害者虐待の予防及び早期発見その他の障害者虐待の防止等に関する国等の責務等を規定した。平成23年6月17日に参議院本会議にて成立。法律公布日は平成23年6月24日、本法律施行日は平成24年10月1日である。略称は障害者虐待防止法 虐待防止法が施行されても障害者は何も言うことができません。 福岡・佐賀では施設では虐待事件が後を絶ちません。分かっているだけでも大きい虐待事件が三件あります。 2004年頴田町でのカルタス事件元女職員が入所者に暴行した。 2007年佐賀の5人の警察官による知的障害者殺害事件2011年無罪の判決となっている。私は真相究明するために支援団体や父親に面会を求めて行きました。 2013年福岡県小郡市社会福祉法人リプロでの千枚通しで、ダーツで虐待7名の利用者に対して行う、傍聴に参加しました。全面的に認めたものの余り反省の色は観られなかたとおもいました。 いろんな人との出会いはできました。 1981年大牟田の高校の教師が私を高校に連れていったりしていました。大牟田は三井三池企業が占める炭鉱の街であります。戦前後日本政府や企業によって労働力を確保するために中国・アジア、朝鮮半島などから強制労働に連行し強制労働をさせていました。そのまま帰れずに残り生活している人が多くいます。二世、三世の高校生が定時制高校に通っていました。県教委は定時制の統廃合が打ち出してきました。それを反対していくために家を創りそこを拠点としきました。教師、生徒やいろんな人が集まり学習や廃品回収活動を行っていました。その時出会った青年がいました。見た目には何も感じられず、すごく頭のいい青年に観えました。時々学校を休み、よく聞いてみると精神病院に通っているとのことでした。青年は私の家で生活をしていたこともありました。その時は仕事も行き、哲学的な文書を書いていました。はつらつとしていた。再び家に帰り家に閉じこもりがちなり、ついに母親を刺し殺しました。人間関係がうまくいかなく、今の社会の弊害だといえます。また、1981年介護者の目の悪い弟が家を出て行方不明になっていて探していると聞いていました。ある日、精神病院に入っていたところを探し求めて、私の家に連れて来ました。今とは全然違い、痩せていました。今はふくよかであります。何を聞いても黙っていて話そうとしませんでした。 時が立つに連れて、ぼそぼそと話してくれるようになりました。幼いときから家族がばらばらでお父さんはいつも酒を飲み、家族に手をあげ、お母さんは肺結核で亡くなり、きょうだい三人は施設で生活を送り、彼は目が悪いため始めの施設から移り、別の施設で生活を送ることになったそうです。そのため家族的なところが好きです。大人数の時は食事も進み、彼は政治のことや芸能界の話が好きであり、私は時々頭の中をのぞきたい。さらにエッチなビデオが大好き、目が見えないと言いながら、女の人はすごく見えるみたいです。「あの人がいいな」といいながらそれだけでおわるのです。彼はものすごく純粋な人である。始めはお姉さん、お兄さんと生活をしていました。一人で自立生活していくことになりました。生活保護を取り、偽って部屋を借りることになりました。これからも付き合っていくでしょう。 宮崎県立病院の精神障害者への透析拒否事件 1991年、宮崎県立病院で精神障害者に対して人工透析拒否事件がありました。宮崎県立病院並び宮崎県に抗議を行いました。全国青い芝から九州だから差別事件に関わることになりました。抗議と裁判の傍聴に行きました。当時は精神障害者団体が九州には少ないこともありました、拒否の理由として治療中に暴れるため、透析治療にあたいしない、社会復帰が出来ないという一方的な価値観で殺して行きました。私が裁判を傍聴して分かったことは、医者がカルテ事実を書いていなかったことや、透析をすれば良くなられたと思っていました。死亡することが分かっていながら透析治療を行わなかったことは医者としての職務を放棄と殺人事件捉えられます。まさに、全ての障害者、精神障害者に対する予断と偏見です。裁判闘争になりました。毎回私は傍聴に参加しました。医者は社会に価値ある命だけを救うものではないといえます。 ここで言っておきたいことは、医者は自分の領域でしか物事を判断せず、患者の生活背景などを知ろうとしていません。病気になる要因は何であるのか分からないのではないでしょうか? 医学の分野しか学んでいないため人間観、人権感覚を養う事もできない医者の為に、患者を人間扱いしないことは医学の倫理をゆがめる結果になっています。 叔母は精神障害者でした 僕の叔母は精神障害者で毎日卓袱台をひっくりかえしたり、暴力を振るったり、夜徘徊したりして、家族がどうしようもなく、最後は、僕の父が精神病院に入院させました。だが、病院に入ってからも毎日のように父の職場や家に電話がかかり「何かを持って来るように」とか、「迎えに来てくれ」など全部家族の者が行っていました。父以外にも叔母、叔父がいたけれど何もしなかったために、父はきょうだいが集まるたびにあまり飲めない酒を飲み、「俺だけが障害者を二人も見なければならないのか」と愚痴をよく言っていました。 叔母の症状は病院に入っていても、重くなっていく一方で、はじめは家事も出来ていたが、だんだんと家事も出来なっていきました。また病院に入院している年数が長くなり、叔母は、祖母や父から何も出来ないからと叱られるばっかりでありました。僕は、「そんなに怒らなくても」と言っていきましたが、家族は耳を傾けることなく終わっていきました。叔母は次第に自分で生活することに自信が無くなっていくのが感じられようになりした。さらには、薬の副作用のためでもあると考えました。夏、冬に帰って来るたびにテレビを見ていて、何もしない時間が多くなり、意識がだんだんはっきりしなくなってきました。そんな叔母を観ていて、僕は病院だけの生活で良いのか考えました。もう1回地域で生活をすれば、「生き生き」と地域社会で生きて、社会参加できるのではないかと思いました。このような体験のなかで僕は自立生活を始めてから一緒に生活しようと思うようになりました。このようなことを父に話すと「これ以上他人」に迷惑はかけられない」と言い簡単に僕の話を打ち切りました。それから3年後病院で亡くなりました。私は叔母の死原因を突き止めるために、父親にカルテの開示等を求めて死の原因をはっきりさせようとしましたが、そんなことはしなくて良いと反対されました。結局、分からず亡くなりました。「宮崎県立病院の透析拒否事件」に関わりました。私は、このような体験がなかったら「障害者運動」等を行っていなかったと思います。 優生思想と医療 1995年に入って阪神大震災や地下鉄サリン事件があり、このことは優生思想と関係ないとはいえません。 今世紀最大の被害となった。電気、ガス、交通が遮断され家は破損し、街は焼け野原となり、その中で障害者たちは自分たちの命を守るためにいろんな手段を行使し、二千人余りのボランティアを確保し、多くの仲間の命を守りつづけていました。 いち早く行政は救済しなければならないはずなのに、生活保護をうちきったり、ヘルパ?を派遣しなかったり、障害者の存在を認めていないと言える。震災のなかで助けられても病院の中で飲み食いもできず四日間も放置され施設へ入れられた障害者がいたことも伝えられていました。次から次へと病院へ運ばれていきました。本当に生きられる人も亡くしていったのではなかのでしょうたか。 震災で亡くなった五千人の大半は老人や子供であり、助かった者は若い人だと言う。「震災」と言いながら「人災」とも言える行為があったのではないしょうか。 また、一つの例としてあげるならばオウム真理教地下鉄サリン事件においては事件の真相は、まだ、はっきりとは言えませんが、しかし、この事件を通して見えることは、社会から閉じられた集団・施設のなかで、競争や差別思想が「自由」に増殖する危険性であります。 私たちも基本的な思想は、共同生活や共同生産を行っていくことです。競争社会や優生思想社会を否定されてきています。互いの存在を否定することなく認め合う社会や団体を作り上げることです。 事件がオウム真理教は優れた学力を持った人や現実社会で地位を獲得しようとしている人達を集めていきました。特に理科系医学系の学生を集めていきました。研究者は生産に結びつかない物や社会に役にたたない物を作ることも多いといえます。そのために疎外感を生み出しやすいです。そこで「人のために役に立つ宗教上に必要とする」と言い、研究心をかき立てています。戦中の七三一部隊が行った毒ガス開発や捕虜の人体実験と同質と言える行動を取らせたと解釈されます。それ以上のものとも言える。学力が優先する競争教育であるからだと言えます。人とのつながりが作れずに、宗教という人が集まって行く所で関係性をつくろうとしました。 遺伝子操作を利用していきクローン人間を作り出そうとしていたことも新聞報道などが伝えられています。特定の人達が宗教を楯にし、生き延びようとする考え方こそ優生思想そのものだと言えます。さらには地下鉄サリン事件を機にして政府、権力者は破防法を適用しようとしています。「尊厳死法案」はその当時、自民党の議員だった「日本医師会に族する議員」が法案を出し可決されました。敗戦後GHQの下で引き継がれ日本の経済成長ために残しました。そもそも、「旧優生保護法」はナチス・ドイツのファシズムの思想と結合によって生まれました。その思想を組み「国民優性法」を戦後まで持ち越したものであります。民族の優秀性を保持することや国益を目的としている。1945年に優生保護法が制定した後、人口問題審議会を設置していきました。同法は人口操作や「社会にとって役に立たない物」を「闇に葬る法」です。これまで障害者は優性保護法を盾にされ「治療」という名の下で命や臓器までも奪われています。  1990年、岡山「大佐荘」養病護施設で起きた事件は明らかに女性障害者に対する差別であり、岡山県、施設に抗義活動を行いました、岡山県は差別とみとめました。厚労省に対して優性保護の意見具申を出されていました。その事件の中身を次のようなことです。子宮摘出がなされた事は新聞報道で取り扱われてきました。私たちは、施設職員や親から一方的な価値観で切介護者も居ないから断類や子宮摘出をされています。それは、「社会に役にたたないもの」「治安維持」いう、障害者を人間としてみない優生思想の価値観を根拠に非人間的な扱いをしてきたと言えます。世界人口会議カイロで開かれた。日本の優生保護法が問題になりました。諸外国から日本のナチスである言われ優生保護法の存在があることで非難を浴びました。また、同法と母子保健法のセットで「不良子孫の出生防止」、母子の「心身の健康育成」と称した早期発見、治療、胎児の時からの羊水検査、エコー検査、じゅう毛診断、人工流産剤といった、様々な障害者の存在を否定し抹殺していく行為が行われています。今後、母子保健法の中の検診制度や母子の心身の健康、発達のための制度が悪用されるならば、今の遺伝子相談を利用し遺伝子診断が用いられ遺伝子治療が横行していくであろうといえます。 2018年2月現在新聞記事等よると宮城県女性障害者が強敵不妊手術(優生手術)を受けたとしたとして国に訴訟と実体を要望しています。宮城県知事は認めています。議委員たちも重い腰を揚げ出した、強制不妊手術を受けた人は16000人とされているが、それ以上であると言えます。東京では70歳の男性が養護施設に入ったために「優生手術」を受けていました。非人間的な扱いをされてきた訴訟したことでやもえず社会に出て来たこのような形で出てきたことは非常に残念な思いがする。明治から始めから断種法名前を変え国民衛生法敗戦後、優生保護法となりました。 1953年らい予防施行され、目的として、患者の医療を行い、福祉の増進を図るとされていました。 平成8年らい予防法が廃止されました。元ハンセン病患者さんが国家賠償訴訟を熊本地方裁判所にお越し、訴訟に勝ち取られました。治療として強制不妊手術を受けられています。隔離と家族と引き裂かれた差別歴史は計り知れないものです。ハンセン病の人たちと苦しみや哀しみは同じと言えます。 私達障害者、特に知的障害者対して強制不妊手術が行われました。「重度女性」の生理の始末に困る等、コミニーケイションが取りにくい人達を差別し、置き去りしたことは許すことは出来ません。 「強制不妊手術」はネット書き込みあったからではなく国、厚生労働省伝える権利を奪われた結果であり、これこそが、優生保護法は障害者への差別であり殺人法だと言えます。生理の始末が面倒くさい。等言われて、恋愛や結婚もできなかった。できる子もできなくなった。障害者の青春を返せと言いたいものただの謝罪と国は当然保障をやるべきであります。1945年から1996年「優生保護法」がありました。母体保護法に移行した時に謝罪と保障を行うべきであったが、母体保護法にも母体に影響があれば堕胎をして良いという文言上残している。今でも、胎児に異常があればこれを使っています。優生保護法の犯罪性を青い芝は40数年に渡り問題提起を社会に行ってきました。国、厚労労働省は把握しています。 全国青い芝は常に伝えてきました。 西日本新聞が連載で優生保護法について私もインタビューを受けました。 施設解体は自立から始まる 筆文 中山ひとみ 私は1958年7月15日生まれの現在60歳です。 奈良県吉野郡野迫川村で生まれました。 これまでの生い立ちについて書いていこうと思 私は生まれて1ヶ月たってから、高熱を出してしまいました。その時の発熱が原因で脳性麻痺になり障害者となりました。私の家は、田舎だったから昔は障害児が生まれたら、あそこの家には方端がおると周りから言われていました。だから、両親は私を隠そうとしました。それからいっとき病院に検査の為、入院させられていました。色々な検査の後、五ヶ月後に退院しました。退院してからは色んな病院にかかりました。 5歳くらいまで病院通いが続きました。その後私の兄弟が生まれました。 7歳の時、小学校へ行きたかったけど、行かせてもらえませんでした。 やがて、私の兄弟が学校へ入学しました。 私は両親に何故私だけ学校に行けないのと言ったことがあります。両親からは、病気でみんなに迷惑がかかり恥ずかしいからと、行かせてもらえませんでした。 暗い部屋で毎日生活していました。両親がよく私の事で喧嘩をしていました。 母親が私を殺そうとしたこともあります。親子心中しようとしたことも何度かありました。 私の家に児童相談所の人が来られて、親と私で話し合いをしました。 私から、もう家にはいたくない、施設に入りたいと言いました。もうちょっと待っていたら新しい施設ができるから、施設の見学に行くようにしましょうかと言われました。お願いします。と言いました。 家にいたら殺されるから、早く出たかったです。まだ施設がどんな所か知らなかったので、半分嬉しいような、悲しいような気持ちでした。 そんななか、施設ができあがり、見学に行く事になりました。 見学に行ってみると、まだベッドががら空きでした。 その後、施設に入る為に、色々な手続きをしました。 入る前に施設から言われた事があります。女の子だから、手術をして生理がこないようにしておいて下さいと言われました。経済的に厳しかったし、まだ年齢的に早かったので、手術はしませんでした。 三ヶ月後、入所しました。一ヶ月間、中々馴染めませんでした。いつも家に帰りたいと、職員に言ってました。よく怒られていました。 その後、新しい職員が入ってきました。その職員は優しくて、色々教えてくれたり、話を聞いてくれたりしました。 三年後、施設の保母さんから勉強を教わっていたけど、中々覚えないので、暴力をふるわれていました。頭をスプーンでおもいきり叩かれたりもしました。 それが、とても嫌でしかたありませんでした。食事介助では、ご飯の中に全てのおかずや薬を混ぜられ、口へいっぱい詰め込まれました。そして、お茶で流し込まれました。全然美味しくなかったです。食事の量は、体重が増えないように、少ししか食べさせてもらえませんでした。夜中にお腹が空いて空腹で眠れない日も度々ありました。それから、お茶もおトイレが近くなるからと、あまり飲ませてもらえませんでした。おやつは、毎日リンゴばかりでした。微熱がある時も、水分を摂らせてもらえず、体がだるかったです。そこの施設では部屋は男女混合で、ベッドはいろんな種類があり、私は子供だったので牢屋みたいなベッドがある事にビックリしました。髪型は、いつも刈り上げみたいな形にさせられました。着るものは、ジャージかスエットで下着はおばさんが履くようなものばかりでした。それと、お風呂も混合でした。それから、寝っきりの子供が移動する時、タイヤの上に板を打ち付けて、その上に寝かせ、紐で引っぱっていました。オムツ交換も何も隠さずしていました。お客さんが来ても、平気で交換していました。私は何かおかしい事に気付きはじめました。 その後、私と同じくらいの年の看護師が看護学校からアルバイトに来ました。色々話をしたり、一緒に歌を歌ったりしました。  やがて私が二十歳になり、本当は施設を出て行かなくてはならない年齢になりました。保護者が施設の職員に呼び出されました。継続しますか?他の大人の施設に行きますか?と聞かれました。今だったら空きある施設がありますよと言われました。 一度、見学と面接に行かれたらどうですか?と言われました。考えさせて下さいと言いました。施設の職員からあなたはここには合わないから、なるべく出て行くように言われました。そう言われたから、私なりに一ヶ月くらい悩みました。その後、見学と面接に行きました。年齢が様々で幅広くいろんな人達がいました。私はビックリしました。どうして、おじいちゃん、おばちゃんから若い人まで同じ施設に入っているのか分かりませんでした。 私は断ろうかなと一ヶ月くらい迷いました。本当は家に帰りたかったけれど、家に帰ったら親から殺されると思い、よく考えました。 結局、施設に入る事に決めました。 新しい施設では、女性の障害者では私が一番若い障害者だと言われました。あんた、よくこんな施設に入って来たねと入所者の人に言われました。私が二十歳の終わり頃、好きな人ができました。でも、施設では恋愛とか結婚はできませんでした。今でもそうです。私は、それはおかしいと思います。 結局、彼氏は施設から、追い出されました。私は、悲しかったです。暫く落ち込みました。その時、施設に学生ボランティアの松浦さん達が二ヶ月くらい泊まり込みで来ていました。それから私の考え方が少しずつ変わってきました。 その後、新しい職員が入ってきた時、ビックリしました。 前に学生ボランティアに来た松浦さんでした。なんかやろうと思ってる人だと私は感じました。毎日同じ生活が嫌になってきました。なんか問題をおこしてみたいなーと思うようになりました。その時、松浦さんから施設の中でなんかやらないかと声を掛けられました。施設の問題を演劇でやらないかとのことでした。15人位集まって意見を出し合い、話し合いをしました。その結果、演劇をやる事に決まりました。みんなで考えて台本を作りました。五ヶ月位かかりました。それから、一年位練習をしてクリスマス会や奈良の市民会館で披露しました。職員からは、大反発を受けました。昔の職員は、利用者から先生と呼ばれていました。先生と呼ばれると、とても嬉しそうにしていました。私は、おかしいと思っていました。ある女性職員から、おトイレ介助の時、私に向かって、ひとみさんは、結婚も出来ないし、子供も生む事が出来ないから、生理があっても迷惑と思わないですかと言われました。私はあなたも結婚して出産し、同じように生理があるじゃないのと思いました。私は隠れて一人で泣きました。それから、もうこんな施設には一生おりたくないと思うようになりました。松浦さんに相談に乗ってもらいました。一回どこかに遊びに行きたいと話をしました。昔は、外出する時、保護者か、兄弟か、親戚の付き添いが必要でした。嘘をついて、親戚と言って外出届けを出していました。私の最初の外出は大阪でした。友達に介護者を紹介してもらい、初めてバスや電車に乗りました。大阪の難波へ行きデパートの高島屋に初めて行きました。いろんな物が売ってあり驚きました。いろいろ買い物をしました。食べ物もいろいろある事を知りました。何を食べたら良いか分からなかったです。美味しそうな食べ物が沢山ありました。迷ってしまいました。何を食べたか覚えていませんがとても美味しかったです。あまりにも楽しくて一日があっという間に過ぎていきました。そこからは、問題を頻繁に起こすようになりました。 施設の友達に奈良青い芝の会の松川さんがよく面会に来ていて、私にもよく声を掛けてくれました。松川さんから一度私の家に遊びに来ないかと言われました。それで、行ってみる事にしました。初めて人の家に行きました。私は松川さんが家族と暮らしていると思っていました。ところが松川さんは自立生活をしていました。私よりも重度な障害者だったから、ビックリしました。それでも一生懸命介護者を探して生きていく事を私に教えてくれました。 いろんな人に出会い、私はこのままで良いのか悩むようになりました。少しずつ施設のあり方に疑問を感じていきました。外泊や外出が多くなり、施設の職員と喧嘩をする事が増えました。門限を破る事も多くなりました。怒られる事も増えてきました。そして、私の施設仲間からも、頻繁に外泊、外出の相談を受けるようになりました。外泊、外出の経験がある私は、その人達に介護者を紹介したり、アドバイスをしたりしました。その事で、私は園長から呼び出され、余計な事を他の利用者に教えないで下さい。迷惑です。と言われました。私は、ああ、そうですか。と、どうでもいいような返答をしました。その後、自分の施設に一生いるべきか、それとも社会に出てもまれるべきか、どちらか選ばなきゃならない時がきました。自立することに保護者はすごく反対していました。なんでこの子がこんな風に変わってしまったのか分からないと言って私は両親から怒られました。お願いだからおとなしく施設におりなさいと言われました。でも、自分の人生は自分で決めることだから、何も反対して欲しくないと私は言いました。しかし、両親は許してくれませんでした。私も諦めませんでした。最終的には、施設の指導員が、ここは、ひとみさんには向いてないから出て行って欲しいと両親に話をしました。 両親がこんな風に育てた覚えはないとぼやいていました。とりあえず、三ヶ月間外泊っていう形で施設を出ました。その間にアパートを25件探しましたがなかなか難しいことでした。障害者は危ないからと断られる所がほとんどでした。二ヶ月かかってやっと住む所が決まりました。介護者が兄弟と嘘をついてくれて、一緒に住むという事にしてくれたので、借りることができました。敷金や家賃もその介護者が貸してくれました。生活用品を揃える為に介護者とお店に行きました。何を買ったらよいのかいまいち分からず、松川さんとか色んな人に聞きながら買い物をしました。あっという間に三ヶ月が過ぎ、もう一度家族と施設の人と私で話し合いをしました。家族からはお願いだから大人しく施設にいてと言われました。やっぱりなと私は思いました。もうアパートも契約をしているのに、三ヶ月たてば施設にはいられません。家族が施設の人に頭を下げてお願いだから何とかできないですかと尋ねました。施設の人はもう本人が アパートを借りている事を両親が知らなかったとは思っていませんでした。ビックリしていました。飽きれて、嫌々ながら施設を出る手続きをして、出て行きました。その時、父親は怒った顔をしていました。それからすぐ、施設からアパートに引っ越しをしました。引っ越しをしてから、色々手続きとか、生活保護課との交渉に三ヶ月かかりました。お金を持っていたら、保護費がでなかったから、誰かの名前で口座を作って、手元のお金が百円しかないようにしました。家族にも調査が入りました。家族は、知りませんと答えていました。兄弟も同じように答えました。 その後、四ヶ月かかって、やっと生活保護がおりました。 そして、青い芝の活動や、介護者探し、大学に講演に行ったりなど、在宅訪問、施設訪問等をして色んな人と出会いました。自立生活をする中で、一番困ったのは、人間関係でした。介護に入る約束をしていたのに突然キャンセルされる事もあり、本当に困りました。一日中、介護者が来ない日もありました。一ヶ月に五回位、そんな日があり、その時は、一日、飲まず、食わずで、おトイレは、おまるを横に置いて、自分でしていました。慣れない生活で体調が崩れ、お腹の手術もしました。それでも、施設には戻りませんでした。病院に入院してる時、家族が来て、お願いだから施設に入って欲しいと言われて、私は頭にきて、もう帰って、来なくていいから、やかましいと両親に言いました。 その後、退院して一時松川さんの家にお世話になっていました。一ヶ月ぐらいしてから自分のアパートに戻りました。やっと、体調が戻ってまた色んな活動を始めました。介護者と旅行にも行きました。きついこともあるけれど、楽しい事も沢山ありました。 そんな自立生活の中で、私はある男性に恋をしました。その人は、健常者であり、介護者でした。私は、思いを告白しました。返事は、友達としてしか思えないという答えでした。この男性には健常者の彼女がいて、きっと私が障害者だから、一人の女性として見てもらえなかったんだと思います。男性からは、僕は一人息子なので、将来、両親を見なくてはならないと言われ、障害のある私には、それが出来ないと言われているのが伝わってきました。その事で、私は、ひどく傷つき落ち込みました。思い悩んで、駅のホームから車椅子ごと線路内に飛び込んでしまいました。その時の介護者は、その男性の彼女でした。顔は傷だらけになり、救急車で運ばれ、数日入院しました。顔を二カ所縫う大怪我でした。みんなビックリしていました。周りの人達は、理由が分からず本当に驚いていました。退院して、少しずつ元気を取り戻していきました。その後、元気になって、また、活動をやるようになってきました。私は初めて青い芝の全国大会に行きました。初めて色んな人に出会って、みんなから、色々学びました。もっと、自分の事を出さなきゃいけないなと思いました。考えさせられました。そして、奈良の青い芝の会の会長を引き受けてみようと思いました。他県の青い芝の人達からは、まだ早いと反発を受けました。よく分かってないから、ダメだと言われました。松川さんに相談をしました。松川さんは、じゃあ、もうちょっとしてからやって欲しいとの事でした。その代わり、夏のサマーキャンプを手伝って欲しいと頼まれました。初めは松川さんと一緒にキャンプのカンパ集めに回りました。キャンプの場所を下見にも行きました。私に出来るかなあと思いました。何も分からなかったから、きつかったです。一時、悩んで落ち込みました。キャンプは何とか成功しましたが、終わってから、暫く青い芝の活動をお休みしました。私の中で考えたいことが沢山あったからです。考える中で、私は、青い芝の会をやめようと思いました。それは、考え方が合わなかったからです。松川さんに相談しました。いっとき休んでいいから、ゆっくり考えて欲しいと言われました。半年ぐらい休みました。その後、悩んだ結果、復活する事にしました。あっちこっち活動に出かけました。青い芝の全国大会にも行きました。二回目は、だいぶみんなと話せるようになりました。やっと、奈良の青い芝の会の役員を引き受ける事になりました。あちこち行ったり、会議に参加したり、色んな県を回りました。松川さんから、青い芝の会のことを色々学びました。そんな中、松川さんから、この頃、福岡へ行く回数が増えてませんか?と聞かれました。そんな事無いです。と私は言いました。まだ時期が早かったから、本当の事が言えませんでしたが、実は、その頃、私には付き合っている人がいて、遠距離恋愛をしていました。三ヶ月間、色々、悩みました。もう、いよいよ、奈良青い芝の会の人達に隠せなくなりました。一度、みんなに集まって欲しいです。とお願いしました。みんなが集まる前に、松川さんだけに、話をしました。松川さんは、困った顔をしていました。付き合ってもかまわないけど、あと一年半はいてほしい、もう一度、ゆっくり考えてほしい、そして、まだ、みんなを集めるのは早いと言われました。遠距離恋愛は経済的にもきつく、考え悩むようになりました。六ヶ月間くらい悩み続けました。もう私もそんなに若くなかったので、このまま、独身でいるべきか、結婚をするべきか悩みました。でも、松川さんを裏切ることが出来なかったです。私は、松浦さんに相談しました。今まで色々あったから、自分で決めた方がいい、たとえみんなから反発を受けても、乗り越えるか、乗り越えないかは、自分次第ですと言われました。やはり、みんなから、大反発を受ける事となりました。みんな、とても怖かったです。私は、覚悟を決めました。色々言われても、自分で決めた事を貫く事にしました。周りから反対されましたが、本人同士の事だから、自分達で決めていかなきゃいけないと思いました。家族からも結婚を反対されました。相手の兄弟の義理のお兄さんの奥さんから、子供を作ったらダメとか、子供が出来たら歪んだ子に育つとか言われ、私の家族の事も調べられました。部落出身の人だから、籍には入れられないとも言われました。その為、八年間、籍を入れませんでした。それが、差別です。やっと、九年目になってから自分たちで籍を入れました。久留米に来てから、久留米弁を理解するのが難しかったです。それから、友達もできず寂しかったです。隠れて泣いた事もありました。奈良に帰りたいと思った事も何度もありました。やっと、慣れてきて、友達もできました。学生の介護者も増えてきました。十五年間、学生達が関わってきてくれましたが、最近の学生はあんまり来てくれなくなりました。障害者の意識も考え方も変わってきました。昔は、きつくても施設から自立をする人が多かったけれど、今は、きついことをやりたくない障害者が増えてきています。いくら施設が奇麗になっても、ずっと生温い生活のままでいいのかは、私は分かりません。施設で生活していたら、制限される事も多く限られた事しか出来ませんでした。だから、私は、施設を出たかったです。今まで施設から自立していった人は、今、施設で暮らす障害者を自立させる為に一回集まって話し合いをした方がいいと思います。  ☆{4年前に脳内出血と脳性マヒの二次障害も倒れて依頼言語が上手く言えなくなり、意思がわからさにもどかしさを感じていようだ。} 20.法の危険性 2016年自立支援法が施行される 2015年後の障害者総合支援法 措置制度から支援費制度、自立支援法、障害者総合支援法が入ることによって介護が福祉サービスにされ金銭で買うことによって一緒に行うことが少なくなりました。それよって人間関係が薄くなりました。一緒にご飯やお酒を飲むことや時間から時間に終わります。厚労省は介護保険制度と一緒にしようとしていました。たが、65歳になれば介護保険が優先なり、このことで彼方此方で市との交渉をしています。多くの障害者団体が反対しました。一部変えただけです。初めは、介護は入れる人も選べる事業所も選べることでした。遠い所に行くことができません。都会では、交通機関がたくさんありますが、地方ではありません。時間も制限はなかったはずでした。移動介護の時ヘルパーの電話番号も聴く事も出来ません。まったくの嘘をつかれています。ヘルパーが車を使うこともできません。差別性を追求するこができなくなってきていることも事実です。これでは、ヘルパーの差別的を変革することはできません。地域の中での施設と同様と同じと言えます。地域移行と言いながら施設、病院の広い敷地に生活介護や就労継続B型や就労継続、A型は授産施設が名前を変えただけであるといえます。 70年代のイタリヤの精神病院解体、養護学校解体をしています。真の地域の中に生きていくためには、精神的訓練、経済的訓練の場が必要であると言えます。これは、相談員は真の社会を生活営むために社会的モデルは早急に必要なことだと考えます。 金儲けために福祉サービス業に参入してきたために障害者の人権など知ることなく事業を行われています。福祉サービスの時間数基本は自分で創り自分と相談員が入り生活ことだから時間数を決めるべきです。 介護保険が入ってきます。介護保険になると時間が切れて何もすることが出来ません。会議等に参加することもできなくなります。 久留米市健康福祉課様 障害福祉サービスと介護保険についての要望書              2018年1月19日 日頃より福祉施策について市民の方に対して大変御磁力ありがたく思っています。  私達は地域で安心して暮らしていく事を求めて来ました。「真の共生社会」なることを信じて生活や社会参加を行って来ました。  さて、障害者の方が六五歳を迎えるだんだんと増えて来ていると思えます。介護保険制度では、介護保険か優先になっていますが、「重度障害者」介護保険だけでは自立生活はできません。  これまで通りの「福祉サービス」{重度訪問}制度が理想的なものであります。それが出来なければ介護保険と福祉サービスと併用でしか有りません。 介護保険では移動介護等が入っていません。  たとえば、ヘルパーが二十四時間必要な人には、介護保険では何パーセントの福祉サービスで何パーセントとして百パーセントしなければならないです。全国各地で行政と話し合いが始まっています。 広島介護保険の負担をめぐって裁判闘争になっています。福祉サービスと同様にならなければなりません。  この様にならないために早急に話し合いが必要になります。  今後話し合いを要望いたします。 障害者権利条約 障害者権利条約(しょうがいしゃけんりじょうやく、英語: Convention on the Rights of Persons with Disabilities)は、あらゆる障害者(身体障害、知的障害および精神障害等)の、尊厳と権利を保障するための条約である。日本では障害者の権利に関する条約(しょうがいしゃのけんりにかんするじょうやく)と、日本国政府によって訳されている。 この条約は、21世紀では初の国際人権法に基づく人権条約であり、2006年12月13日に第61回国連総会において採択された。日本国政府の署名は、2007年9月28日であった。2008年4月3日までに中華人民共和国、サウジアラビアも含む20ヵ国が批准し、2008年5月3日に発効した[1]。2017年11月現在の批准国は175カ国である。なお欧州連合は2010年12月23日に組織として集団的に批准した[2]。 2013年12月4日、日本の参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立に伴い、国内の法律が条約の求める水準に達したとして、条約の批准を承認した[3]。日本国の批准は2014年1月20日付けで国際連合事務局に承認されている。 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(しょうがいをりゆうとするさべつのかいしょうにかんするほうりつ、平成25年法律第65号)は、障害者基本法の基本的な理念に則り、全ての障害者が、障害者でない者と等しく、基本的人権を享有する個人としてその尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有することを踏まえ、障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本的な事項、行政機関等及び事業者における障害を理由とする差別を解消するための措置等を定めることにより、障害を理由とする差別の解消を推進し、もって全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする、日本の法律である(法律第1条)。障害者差別解消法などと略される。 ネットから引用 日本政府は差別あることを前提として「差別解消法」を創りました。 国連障害者権利条約は、法は全ての障害者に対して権利として与えて行く法なければなりません。差別を解消すれば良いということではないと言うことではありません。日本政府並びに厚生労暑認識の誤りであると言えます逆であります。差別が存在する限り権利という言葉はありえません。 残念ながら、各地で条例がつくられていますが、障害者権利という言葉は、はいっていません。 だからこのような実対があります。障害者の生活に対しては生活保障がなければならないです。今でも生活保護を使わなければならないです。そもそも生活保護は、一時的な救済措置です。障害者の生活保障ではありません。その為に自立手当が必要であります。私たちは行政に対して本気で要求して行かなければなりません。 自立生活が変えるもの私は大学に介護者探しに30年近く行ってきました。ただ介護者探しにいっているわけではありません。大学に障害者の存在を示すためでもあります。ビラまきして大学のなかで講演会等の企画を行う事によって活動の存在が示されます。学生は勉強、研究するだけではありません。私たちと学生といっしょに活動することによって学生が活動する結果にもなる。大学のあり方高校のあり方すなわち教育内容を変えさせていくものであります。いじめや体罰が続発しています。いまの学校は障害者が行きやすい所ではないといえます。しかしながら能力や競争・効率の論理は人との関係を切って行くものであるといえます。優生思想社会を支えていくものであるとことを認識していかなければなりません。それには、私たち障害者が教育に参加していくことで変えさせていくものであります。 何時の時代に介護者探し 僕たちが外に出るためや自立生活者の生活を行うために介護手配(シフト作り)をしていきました。38年前に行っていた介護手配は今やヘルパーの事業所が行っているシフト作りと、まったく一緒です。その当時は、家にもあまり電話もなく、勿論、携帯電話もなく、事務所来た人をつかまえ介護に入れ、足りないところは、そのころは、夜中に学生の下宿を訪れ明日の15人ていどの介護を決めていました。自立生活者、在宅障害者を支えていく介護者全くの無料のボランテイアであり、介護者は、自立生活者の生き方観ることによって差別的な価値観変革を求めていくことを目指して行った。しかし、介護者が誰もいない日々もつづいたこともあつた。得に昼の介護がいなく昼の間寝るしかありませんでした。(夏は脱水症状になり倒れたこともありました。)夜間活に活動をしなければならなかったです。 その結果作業所(ごろりんハウス)を始めてからヘルパー、有料介護を使うようになったました、青い芝の運動とかけ離れていると今まで言ってきたことと違うじゃないかと仲間と意に反すると言うわれて来ました。ヘルパーも健全者だから、差別意識を変革させる事が必要です。私は同じように意志気変革をさせて移行としています。また、自分で探さなければ自分に合った人は来ません。自分に合っていない人にやってもらうことは自分らしい生活なんか出来きません。介護者から生きたしかばねになる危険性をはらんでいます。 やはり、私の家でのヘルパー問題があります。ヘルパー不足のために満足にお風呂に入れない状況が続いています。このようなことなら、自立生活が危ない。また、施設に彫り込まれていくのか、これまでより福祉の状況は悪くなり、学習だけに終わっています。「だれため、なんのために」福祉の仕事をやるのか、「福祉は必要悪」だと世の中に伝えてきました。相手のことを感じずに人権・虐待が汚行する結果となっています。 21.障害児者殺しと優生思想  1956年日本において障害者団体として生まれた日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会はこれまで日本の障害者運動のリーダー的な存在を果してきました。私は、1998年まで日本の障害者運動を行なってきた全国青い芝の会に所属し、会長として活動を行なってきました。福岡埼玉一ヶ月一回通う事になりました。全国青い芝の会は、この間すべての障害者の生存権を確立することを目的にしてきました。日本では、1996年までドイツの国民優性法に基づいてつくられた優性保護法があり、敗戦後の日本の法律として存在した。その法の中に第一条の『不良な子孫の出生防止』は、すべての障害者を抹殺してきました。私たちは、この法律があるために撤廃を求めてきました。 福岡で小1男児殺される 2008年 9月 19日 (金) きのう夕方、福岡市西区にある公園のトイレの脇で小学1年生の富石弘輝君が倒れているのが見つかり、病院に運ばれましたが死亡が確認されました。弘輝君の首には絞められた跡があり、福岡県警は殺人事件と断定し捜査を始めました。調べによると死因は窒息死で、ひものようなもので絞められた可能性が高いということです。 逮捕の母親「子供殺し自分も死のうと思った」 2008.9.22 12:34  福岡市西区の小学1年、富石弘輝君(6)が殺害された事件で、22日逮捕された母親の薫容疑者(35)は、福岡県警の調べに対し、首を絞めて殺害したことを認め、「育児に悩んでいた。自分の病気のこともあり将来を悲観し、子どもを殺して自分も死のうと思った」などと供述している。  調べでは、薫容疑者は18日午後3時20分ごろ、自宅近くの小戸公園トイレの障害者用個室で弘輝君の首を絞め殺害、トイレの裏に遺棄した疑い。弘輝君の携帯電話を首にさげるためのひもが凶器に使われたとみられる。携帯電話は近くの雑木林に捨てたという。  薫容疑者は「最初から殺すつもりで公園に行ったわけではない」と計画性は否認、殺害後は「見つからないようにトイレの裏に隠し、被害者を装うため周囲の人に捜してほしいと頼んだ」としている。 殺害された男児の携帯電話発見 福岡市の公園内で 2008年9月20日(土)11:57  福岡市西区の公園で小学1年富石弘輝君(6)が首を絞められ殺害された事件で、福岡県警捜査本部は20日までに、首からつるすひもが凶器に使われたとみられる弘輝君の衛星利用測位システム(GPS)機能付き携帯電話を公園内で発見した。弘輝君が見つかった現場からなくなっており、捜査本部は、犯人が携帯電話のひもを使って弘輝君の首を絞めた後、どこかに捨てた疑いがあるとみて捜索していた。 福岡市西区・小1殺害 公園内で携帯発見 福岡県警 凶器は首ひもか 2008年9月20日(土)10:30  福岡市西区の小戸(おど)公園で近くの市立内浜小1年、富石弘輝(こうき)君(6つ)が殺害された事件で、弘輝君が所持していたとみられ、事件後に無くなっていた衛星利用測位システム(GPS)機能付きの携帯電話が公園内で見つかっていたことが19日、分かった。福岡県警は、遺体の首の絞められたあとの形状から、凶器に使われたのは、この携帯電話のネックストラップ(首に提げるひも)だった疑いが強いとみて調べている。  県警によると、弘輝君は普段から、この携帯電話をストラップで首から提げていた。母親(35)と一緒に小戸公園を訪れた18日も同様に使用していたとみられるが、事件後に携帯電話がストラップごと無くなっていたため、県警は18日から19日にかけて公園内を大規模に捜索していた。  一方、弘輝君の遺体を司法解剖した結果、死因は首を絞められたことによる窒息死と判明。犯人は細く平たいひもを首に巻き付けて絞めたとみられ、首には一部二重のひものあとが残っていた。死亡推定日時は18日午後3?5時としている。  県警は、犯人が輪状になったストラップの両端を持って、首を絞め、その後、携帯電話を公園内に捨てた可能性が高いとみている。携帯電話が犯人につながる有力な物証とみて、鑑定を急ぐ。 1995年の中国で開催された世界人口会議で、日本の仲間が問題提起をおこない、世界各国から日本政府は批判され、一部改正をおこないました。また、障害者が地域で生活していく活動をおこない、健常者の障害者に対する差別的価値観を変えていくことも目指してきました。さらには、教育において障害者と健常者とを振り分けていく79年養護学校義務化に反対し、すべての障害児を地域の学校へ(共生共育の思想)を広げてきました。医療においても、1997年日本政府は脳死臓器移植を強行に施行し、人権のある医療を求めて活動をおこなってきています。1998年から久留米市において、障害者の就労のワンステップとして、共同作業所を開設し、1999年障害者の生活支援センターの中で、ピアカウンセリングの活動を中心に運営委員会の事務局委員を務めてきています。  2000年公的介護サービスを作っていくために、ホームヘルプ、デイケア事業研究会を設立し事務局長として活動をおこなっています。今回、米国を訪れ障害者の自立運動が、どう展開されているか、アメリカ障害者法が、どのように作られ、生かされているのか、体を通して何かを掴み、日本へもっていきたいと考えています。この研修旅行は、ホームヘルパー、学生ボランティア、久留米大学研究助手、計7名で企画しました。 22. 米国の公民権運動とCIL運動?21世紀に望む.人権:教育:医療:福祉を繋げる?2001・2・28?3・10 2001年、2月28日,11時40分に自宅を出発し、杉山、渋田、ひとみ、中山がタクシーで西鉄久留米駅に向かう。12時10分、西鉄久留米駅集合、通訳をしてくれる開さんと初めて会えた。介護でいく深掘さん、ちょっと遅れて来ました。でも、12時30分の福岡空港行のバスには間に合うことが出きました。バスに乗ると、私が先に乗り込み奥の方にしかなく、いつも頭にくるが、なぜ、先に乗った人が奥へ詰めないのか、杉本、開さんは前の方に座れるよう私は杉山さんに頼みました。空港には、城戸さんと落ち合い13:20,カウンターに直行し、搭乗手続きを行ないました。福岡から関西空港へ行く時には、あまりアメリカへ行く事を感じられなかった。福岡空港・関西空港でも障害者は最初に乗り最後に降りるという事は、いつものように不自然に感じられます。  15:45,関空に到着、関空からロサンゼルス行きの飛行機の時間がなく、税関や円からドルへの両替えをするだけで終わってしまいました。いつも、空港の職員の過剰なサービスに対して頭にきます。  飛行機の中で、4年前にイタリアへ行った時、味わった狭い空間で10時間耐える事がしんどく感じられました。この前はマットを忘れていたけれど、今回は、マットに轢にていたが、昨日のお尻のキズがやはり痛くて隣の人に腕が当たりそうでしんどく感じられました。杉山さんに何度も夜中に体の姿勢を変えてくれと言いました。杉山さんは眠そうな顔をして、姿勢を変えてくれました。朝、9時前に目が覚めました。意外と朝飯がうまく食べられました。ロサンゼルス空港に予定どおり28日の午前10時着きました。  日本の人が多く、日本の空港みたいな感じがしました。けれど、アメリカの空港職員と顔を合わせて、やはりロサンゼルスに着いただなあと感じました。ホテルに向かうためにシャトルバスを待つのに空港の外へ出ました。あいにくの雨でもう少し暖かいと思っていました、寒くてたまりませんでした。シャトルバスの運転手が車イス三台乗せるのに手伝ってくれました。体の大きい人が抱えてくれました。ロスの宿泊の先であるカワナホテルに到着し、少し休み明日からの予定を確認をしました。 1日、14:?インディペンデントセンター 2日、ユニバーサルスタジオ、16時:?ロサンゼルスCIL 3日、ティズニーランド 4日19時サンフランシスコに移動 5日、13:30?日系高齢者のディサービスセンター(きもち会) 6日14時?バークレCIL 確認後、皆さん昼御飯を食べていなかったので外で食べる事なりましたが、渋田さん、深掘さんが部屋へ戻って来なかったからなかなか食べにいけませんでした。ちょっと声をかけてくれたら助かると思いました。近くバーガーキングに入る事になりました。  店は広くて、テーブルの中心に小さく車イスのマークがついていました。他のテーブルと違いは固定したイスがついていないか、ついているかだけであり、お店にはクレジットカードのシールと並べて車イスマークがつけてあり、トイレも同じように普通のトイレに手すり、広いスペースがとってあるだけであります。日本みたいに特別な物ではなく、お金もかかっていません。これこそ平等の精神だと感じられました。夕方、リトル東京に行き1日目から日本の製品に出会うとは思っていませんでした。   知的障害者支援インディベントセンター  3/1 朝8時に起きようと思っていました。9時30分出かける準備をしてインディベントセンターへ行こうとしましたが、結局、朝、昼飯を食べずにホテルを12時前に出ましたインディベントセンターに行く事にしました。その途中車イスの人がファーストフーズで食事をしていたりそこから帰ったりするのを見かけました。また、道でも何人かの車イスの人達に出会いました。バスに車イスが2台しか乗ることができないということで分かれて乗ることにしました。私は、リフトバスに乗るのは始めてです。リフトはスムーズに動き、車イスを固定するのも簡単です。日本では、車イスをロープで括りつけ、さらに固定しなければなりません。シートベルトもありましたが、乗務員は何も言わずに走り出しました。それだけに障害者使っていると思われます。大雑把で良いと感じられました。  日本においては少数の者が使うために決まりが決まりとして守られる思想が貫かれています。乗車時間が長かったので眠ってしまいました。途中からお客さんが増えてぃたのでびっくりしました。日本では、郊外にいけばいくほどお客は少なくなっていく。ベイトベンというバス停で降りるとインディペントセンターは住宅街にあり、センター所長であるジュディーさんが出迎えてくれました。  ジュディーさんはやさしい人柄と見えました。このセンターでは、18才未満の知的障害児・学習障害児を地域で生活を行なっていくために、個人の状況にそった生活・就労プログラムを立てているということです。また、知的障害者に対してディサービスと作業所機能をいっしょにしたものと感じられました。同調できるところは、若い親を育ていくことであると言うわれ差別的な感性が固まっていないことによって自然な発想で共存する社会が出来ていく事だと強調されていました。  センターの帰りにおなかが空いたから皆でセブンイレブンに寄ってカフェオレを一気に飲んでしまっためにサンタモニカで急にお腹が痛くなり、トイレに駆け込んだけれど、間に合わずにみんなと分かれホテルに戻ることになりました。  バスが故障してほかのお客は降りてしまいました。リフトが動かないために車イスのまま抱えられて降りました。バス停に戻り、バスは二台来たけれども、乗ることができずに三台目に乗る事ができました。ホテルの近くで迷い、約3時間かかってホテルに帰って来ました。1時間後皆さんも帰って来ました。 ウエストサイドCIL・ソーシャルワーカーが果たす物  3/2 今日もまたまた時間がずれてしまい、昨日のようには遅れてはなく、今日は行く予定でウエストサイドCILへ、開さんにアポイントを取ってもらっていましたが、アポイントが取れずに、半分あきらめてダウンダウンの市場で朝飯と買い物しました。アポイントが取れ16時に約束になりました。  市場にはいろんな物が豊富にあり、何を食べようか迷いましたが、昨日のお腹の調子もあり、バン・コーヒーをたべることにしました。甘いパンを買ってしまいました。(あまり好みではありません)前回のイタリアのコーヒーと比べ薄くでも、胃にももたれにくい、ロサンゼルスの街並み写真を撮りながら探検しました。  バスでウエストサイドCILへ向かいました。開さんと受け付けの人と打ち合わせをしてもらいました。その後、セレナさんはセンターのソーシャルワーカーを行なっているということです。セレナさんがセンターの各分野の説明をしてくれました。  ピァカウンセリング・情報監理・個人支援サポート・テクノロジーサポート室ソ?スシャルワーカーがスーパーバイザーの役割を果しています。ソ?シャルワーカーがピァカウセラー・スーパーバイザーを育成しています。  また、ソ?シャルワーカーがピァカウンセラーのカウンセリングも行なっています。全分野にわたりプログラムの作成と指導に当たっています。ソーシャルワーカーの位置として、心理学を学び、福祉・法律・教育全分野の情報を収集し個人にサーポートを行なっています。クラアントとのコミニーケーションを大切にすることが必要とされます。日本ではソーシャルワーカはあいまいな立場であり、専門的な知識も必要とされていません。精神病院並びに大きな病院等しか存在していません。  アメリカではNPO団体(障害者団体)にはかならずソーシャルワーカーを置いていると聞きました。どいう立場でNPO団体にソーシャルワーカの位置づいているのかがわかりませんでした。このことからみても日本の教育・福祉行政の不十分さがみうけられます。  もう一点は障害者のなかで障害の種類・程度分けられ分斷され、連携が行なう事ができなかったことです。ト?タル的な支援センタ?づくりが困難になっていると思われます。ソシャルワーカーがピァカウンセラーたちにカウンセリングを行なっていることもサポート体制に影響をあたえていると思われます ディズ?ニランド・レジャーに参加  3/3 今日もまた寝坊し、時間ぎりぎりにホテルを出ました。ディズ?ニランドに行こうとしました。シャトルバスに荷物・全員乗りましたが、急にバスが止まり始め何が起きたのかが、わからずに聞いてみると一台車イスが無くなっていることがわかりました。ホテル周辺を2回ほど回り車イスを探したけれど見つからず、バスは高速を走り出しました。途中バス会社に寄って開さんの車イスが無いと分かりました。バスの運転手が警察やタクシー会社へ無線で連絡し手配しましたが、見つかりませんでした。  バス会社が代わりの車イスを用意してくれました。会社の注意不足であるとことはまちがいないことですが、これが日本であればどうなることになるでしょう。僕は当然会社が責任を回避をしていくと思われます。やはり会社の責任として取ることであるという意見もありますが、しかし、車イスという事で社会的差別観があるからこそ、会社の責任を逃れるでしょう。  ディズニーランドのことですが、あまり遊園地は、苦手で小さい時から行った事も少なく、日本の遊園地では障害者が乗り物に乗る事は一方的に危険であると決めつけて拒否されます。私は遊園地は得意ではありません。  ディズニーランドに入ってすぐに脳性マヒの子に出会い、その後も車イスの障害者や老人ベビーカーもたくさんで楽しんでいました。ジェットコースターみたいな物に乗ろうとしました。例のごとく断われると思っていました。乗れる事は乗れましたが。足がつかえてきちっと機具にセット出来なかったから途中で他の客を降ろし、少し走り危ないと言う事で降りることになりました。ほかに車イスのまま乗れる物もたくさんありました。みんなで遊べる雰囲気をつくっていると思われました。 サンフラシスコへ  3/4 今日は、ロサンゼルスからサンフラシスコへの移動日であり、昨日の開さんの車イスは依然としてわからないままです。開さんと城戸さんはロサゼルス警察に被害届けを出しに行きました。  ホテルのチェックアウトが12時までと分かり、あわててみんなにも12時30分にはホテルを出るように伝え、杉山さんと私は昼飯を食べに再び市場へ行きました。  今日は日曜日のためにお客さんが多くて、食べるものが見えなくて困り、何にを食べようと迷い、一番安いものにようと思い、字が読めないこととどんな料理がわからず隣の人聞いて注文をしました。テーブルがなくて困っていました。そこは家族の席でした。空きのテーブルがありましたが席につこうとすると親は何かいやがっているように思えましたが、子どもは「イエス」といってくれました。テーブルを分けようとしましたが、結局いっしょに食べる事になりました。野菜サラダの中に肉が入った物とパンを焼いたような物を食べましたが、舌に合いませんでした。  次のサンフラシスコに行くと寒いと思い、ジャンバーみたいな上着を買おうと思い衣料品店に入ってパーカーフリスと、こわれていたからベルトも買いました。つぎにかつてからの念願のテンガロンハットも買ってしまいました。近くの刃物屋さんに入って実家におみやげを買い甥子に時計3個も買いました。まあまあの予算で終わりました。  また「ごろりんハウス」の人達が何か楽器が弾けないものか考え、ハ?モニカ・マラカス二個並んだ洋風タイコを見ていましたが、どうも価格が合わなく買うことが出来ませんでした。  時間になり、ホテルにもどり空港に行くシャトルバスを待つのは私達だけかと思っていました。他にも2名乗っていました。雨の中を空港へ向かいました。降りる時にすごく美人のお客さんからスカーフと帽子をいただきました。(女優さんかもしれないねと皆で話しました。)  シャトルバスが国際線のターミナルに降ろされ、待ち合わせ時間に城戸さん開さんは現れません。電話があり、どうも国内線のターミナルと間違えたらしく、反対側と分りあわてて移動しました。だんだん時間がせまり、ようやくフロントへ着く事ができました。やっとサンフラシスコへ行く飛行機に乗る事が出来ました。 (今夜はロスでホームレスそれで良いと思っていました。)夜遅くサンフラシスコのホテルに着きました。疲れているのに部屋のことでフロントとの折衝もしなければなりませんでした。連日アクシデントが続き、まだ五日間あるのに何が起きるか分りません。 ディサービスセンター「気持」・民族差別の闘いの中から  3/5「気持」 という高齢者のディサービスセンターにホテルから歩いて30分かかり行きました。「気持」は日系の人たちが71年に設立しました。アメリカの文化・言葉の違いで日系の人への差別があり、高齢者の支援サービスがなかったからNPOの元で日系の高齢者ディザービス事業を行なっています。「気持会」日系高齢者の生き方や生き様への思い、仲間の思いからセンターの名称が「気持」とつけられました。  今、問題は住宅問題であるといわれました。ここ数年間、サンフランシスコ市ではパソコン関連企業の日系の人が20倍になり、高い家賃で高齢者の住居の問題が深刻になっています。更に、65歳以上もしくは中途障害者には医療保険が適用され、居宅介護サービスを受けることができるということです。  若い人が仕事をもっていてて税金を多く払い、その一部を障害者や高齢者への居宅サービスの資金とし使われる。日本の介護保険制度と異なる部分もあるが、年令で全ての人が支払うのではなく、やはり、収入に応じて徴集していく事によってサービスの充実が図れると言われています。「気持」はNPOであり、政府や州からの助成金もあるが企業から支援金で事業が行なわれています。  日本は医療法人・社会福祉法人が介護保険費・措置費の中で運営していますが、「気持」は、まったくの単独のディサービスの機関として位置付けられています。更には、人材確保としてボランティアで構成されています。これから、ボランティアを育成していくためにはコーディネーターの役目が重要とされるでしょう。日本においてもこのシステムが必要とされるでしょう。しかし、ボランティアというのは時間、金が裕福な人が行なうのがボランティアとされてきました。特別な人が行なうという概念があると言えます。今の日本では町内会の草取り行事としてしか受け止められていません。ボランティアという意識は無いと言えます。                              「共存する社会」を目指すためには人と人との存在を認め合う事が必要であると考えます。それには他、国の文化・思想・民族性が入っていくことだと言えます。3つの分野の内1分野でも欠如すれば「共存する社会」はできないと言えます。日本ではいまだに外国の人たちが住むことが「珍しいもの」である印象と、「何をするか分らない」いう偏見と差別が根強くあります。  日本の多くの老人は、郊外に住んでいて居宅サービスが受けにくく、介護というものは家族が行なうべきであるという考えが残っています。都市では介護サービスの事業社が乱立しているために需要と供給のバランスが成立していません。  これを解消するためには郊外に居宅介護サービス展開し、日本人の家族観に対する価値観を変革していかなければなりません。要するに制度事業意識の改革と言えます。介護保険法障害者福祉法が先に作られても活用されません。学校教育・社会教育がこれらの意識変革を行なおうとしているのか?障害者の生活についても同じことが言えます。  「気持」の帰りに深掘さんが「何でお母さんはボランティアしているのか」有料ボランティアは仕事ではないか等を話してくれました。有料介護ボランティアを仕事として位置づける必要があると考えます。また、仲間が困っている時、互いの人格や性格を認め、相手の人が出来ないところをフォローしていくことが必要だと考えます。         介護に関わる事によって相手の生き様や生き方を学び「共に学び共に育つ」という私達と一緒に思想を作り出して来ている事やお母さんが深掘さんと同じ年代に関わってくれた話をしました。「お父さんより長いのですか。びっくりしていました。」という話になりました。 バークレCIL・CIL運動とADA法  3/6 今日バークレのCILへ。その前にドルのお金が無くなり、円からドル円安の両替所に行く途中公園や駅の階段、カフェテラスでホームレスの車イスの人がさりげなくくつろいでいる光景は印象的に感じました。両替えはできずにホテルに再び戻り、バークレに向かいました。  バークレの街はとてもきれいな街並でカルフォルニア大学バ?クレ校の中を通り、昼飯を大学で食べました。  CILの建物は街のメインストリートにあり、ちょっとした倉庫みたいでありましたが、中の機能は立派でした。  ジェラルドさんが出迎えてくれました。バークレーCILのセンター所長(ディプティディレクター)であり、弱視の障害者で黒人の大きい体でした。非常にやさしい人でした。  彼が、説明とこちら側の質問することに中心的に答えてくれました。CILの設立からの活動の歴史・事業について説明してくれました。  まずは、障害者学生についてのカウンセリング。週1回学校をまわり、自立生活していくためのカウンセリングをやっています。障害に応じた教育にかかる費用については、学校が設備を整えていきます。  コンピュータや聴覚障害に対してのワイヤレス補聴器、あるいは車イスなどの機具を学校の責任の上で整えていく、これは州の教育委員会の予算で組み込まれていて、そのアメリカの法律の中において、きちっと特殊教育の教材費として法的に認められています。たとえば学校が設備を整える事が出来なかったとしたら、法として罰せられます。  また、ピァカウンセリングには障害者同士のピァカウンセリングとグループカウンセリング、そして障害者当事者と家族とのカウンセリングがあると聞きました。日本では、障害者同士のピァカウンセリングとしか位置付けられていないが、家族としてどうしていいのかというところもあるし、相談機関としての義務も果すこともピァカウンセラーの役目でもあり、当然ながら当事者、家族のピァカウンセリングも必要だと感じられます。現在の日本でのケアマネージャーとピァカウンセラーをいっしょにしたものだと思います。当事者の社会資源の利用や主体性を引き伸ばすことであり、全面的にピァカウンセラーがでる行為ではなくピァカウンセラーが、『こういう情報もあります』『ああいう情報もあります』という中立的なコーディネイトをしていくものであると考えます。久留米での支援センターのピァカウンセラーの位置とはかけ離れたものであります。支援センターのコーディネイタ?は、こちらでいうソーシャルワーカー的な存在であります。もちろんライセンスも取得しておかねばなりません。コーディネイタ?という役目がピァカウンセラーであります。ピァカウンセラーはこれまでの生活でいかしてきたものを提供していくものあります。さらには、行政の福祉情報や団体報報を集約し、利用者に提供し、利用者が選択するものであります。  CILの歴史についての1971年以前には、障害別の団体がありました。1991年アメリカ障害者法をつくるために、ワシントンの議事堂前で21日間の座り込みにアメリカ全土から障害者団体が結集し、アメリカ障害者法(ADA法)を政府に作らせました。そのために、現在では障害の程度・種類を超えて、CILを作っていきました。  しかしながら、日本では逆のパターンをつくって行きました。79年養護学校義務化阻止は、各団体を乗り越えて隔離と分離教育に反対し、共生共育をと訴えていきました。しかしながら、互いの運動の理論の違いで分散化していきました。それついては、私にも責任があるといえます。全国青い芝の会の三役を務め一人一人のニーズに答えきれず理論で組織を維持してきた結果です。あと2年に迫った障害者法の施行は、各団体にとってネックであります。それにともない日本政府は、地方分権の名のもとで、自治体へ責任を回避しようとしています。同時に行なわれることであります。それは厳しいものであると言えます。また詳しいことはビデオテープの掘り起こしで確認しよう。  夕方、サンフランシスコへ帰って来て、ファーストフードの店にはいりました。食事を注文し代金を2人分払ったのに、1人分しか払っていないという事件が起きました。それは、車いすと1人分だけの食事を先に持っていき、1人分をカウンターに置いていたということと、同じメニューが2つ重なったということで、1つの食事を他の人が無断でもっていったのであろう?こちらは2人分の食事代を払っていたが、その場では、払っていないということになってしまいました。2人の学生が片言の英語で抗議したが、どうにもなりませんでした。さらには、ホテルにもどると、手紙があり電気量の請求であり、10$近くの金額を請求されていました。これは約束も説明も聞いていないことであり、明日フロントとの交渉にあたるつもりです。地域社会と障害者のビジネス  3月7日今日は、何も予定は組まれていないけれど、とりあえず、お金が底をつき、円からドルに両替えにいったところ開さんと合い、友人と昼飯を食べる約束をしているからどうですかと誘われ同行する約束をしました。  ひとみもお金を持っていないのでホテルへもどってお金を渡し、開さんとの待ち合わせの場所にいったけれど、なかなか見つけることが出来ませんでした。ようやく合うことが出来ました。  開さんの友人のホセさんは、NPOの団体に配分する助成金を企業から提供をしてもらえるための情報収集する仕事をしています。ホセさんは以前はCILにいて今の仕事を行なっていると聞きました。ホセさんは自分の家を持ち、介護の人もいて、介護の人は昼間は別な仕事をしていると言うわれていました。ホセさんは企業の人らしく正々堂々と見え、親しみやすく頭のきれそうな人だと感じました。最後に写真を撮り別れました。(私もこういう仕事がやれたら?)  ホセさんの仕事場は、サンフラシスコのオフィス街で高いビルが立ち並んだ(東京の新宿みたいな)所でした。  杉山さん城戸さん開さんとピア39まで歩いて行きました。ピア39では、水族館に入りアーチ形の水槽に杉山さんははしゃいでいました。また、ゴ?ルデンゲ?トブリッジ・アルカトラス島は昔は犯罪者がおくられた島であったそうです。  ダウンダウンに戻るためこちらの電車に乗りました。  こちらの電車だから自動でリフトでもつかうのかなあと思っていました。運転手が鉄板を取り出しホームに渡し、車イスを乗せるのに時間がかかり、日本ではお客がうるさく怒るのです。時間の価値観が違うのではないかと感じました。  ショッピングセンタ?前で降りました。  ごろりんハウスのメンバー・甥に土産を買い杉山さんも仕事場の人に土産を買いました。お腹が空きサンドイッチ店に入り、昨日事にならないように気をつけてわりかし良い店を選び食べました。  ホテルに帰って来ました。  「みなさん話がある」という事で話が伝わっていなかった事もありまして、今回の旅行の準備不足やスケジュールがぎりぎりになるまで分らなかった事や単なる旅行ではなく、帰って資料を作るためにカメラ等を持って来たことを説明して行きました。これまでの障害者運動の歴史、障害者に対する差別の背景等を語って行きました。また、障害を自覚し、障害者が出来る事があれば行なう事が社会参加に繋がると考えます。 街の中をぶらぶら・文化の違い 3/8 開さんと城戸さんはバークレの福祉機具の店に行くということで出かけられました。午後から再度から深掘さん、渋田さんは自分らの行きたい所があると言うので、杉山さん、ひとみと私とで再びバークレにいくことにしました。  杉山さんが車イスを二台押しバークレーにいきました。坂道があるために私もひとみの車いすを押して行きました。大大学で知的障害者らしき学生もいました。また、電動車いすに乗りトーキングエイドを使っているキャストロさんという人に出会いました。彼女は近くに住んでいるらしく、誰かと待ち合わせしていると言い去っていきました。介護のボラティアを求めに来ている人も入るみたいした。本当は一人で生活している人家を訪ねて実際の生活を見せてもらいたかったのです。   CD、DVDを買って帰り途中駅まで黒人の若い女性がひとみの車イスを押してくれて非常に助かりました。記念の写真を撮り別れました。  ダウンタウンに戻り、またもや仲間にあげる買い物を多くしてしまいました。この寒い中、夜は車イスの人はどう過しているだろうか。もう一日あれば酒でも飲みながら一晩過したいと思いました。境遇と体験を生かす事が出来なかった事が非常に残念な思いでした。私は暖かいホテルに泊まる事を罪深く感じ、世界共通の課題としてあると再確認をさせられました。 20.アメリカ旅行 これから私達が目指すもの役割 3月9日10日間の旅行も終わり、本日昼、サンフランシスコから日本へ帰国となります。 これまで、多くの障害者が、アメリカ研修旅行でアメリカ各地を訪ねて行き、日本各地において、自立生活センターをつくり、活動を行なっています。しかし、本当の自立生活センターとして機能を果しているだろうか?  2003年から障害者の介護保険の導入や福祉施設の措置費制度をなくし、個別のニーズにあった施設を選び、契約制へ移行する等、厚生労働省は障害者に対して主体性をもたせようとしています。しかしながら、当事者たちは、教育を受ける権利や自分自身が情報を得て選択する環境には、これまで作れなかった。急にそのことを求められてもダメであり、福祉構造改革そのものに対して、全国の仲間が何を問題にし、厚生労働省にかけあってきたのかが問われています。  今まずは、活動の資金源をどういうふうに確保していくのか、NPOを活用していくのか。だが、活用の方法が詳しくコーディネートがされていません。  また、自立生活センターのプログラム自身障害者の生活をサポート行えるようになっているのでしょうか。当事者の主体性を尊重できるようなスタッフ体制をつくりきれておらずに至っています。  久留米でいえば、支援事業の中身をさらに議論し、スタッフ体制やプログラム体制について議論を重ねていき、障害者個人個人が、本当に主体性をもち、地域での生活ができるような体制をつくっていかなければならないと考えます。  これまで、多数の障害者解放運動団体は『活動』で社会の責任のみ追及し、そのことが社会保障や社会参加につながると提起してきた。それも重要であるが、障害者自身が自分の個性や能力を生かし、何かできるのかということを必要とされます。それが、これからの障害者の生活や社会を変えていく根源となるでしょう。絶対的に諸外国の考え方やシステムを持ってくるのはできない。人権・福祉・教育の問題は、問題として課題を把握していかなければならないと考えます。それは、私自身再度言い聞かせながら、多くの仲間に問題提起をしていくことが、必要とされるのではないしょうか。 あとがきにかえて自分が障害者でなければこんなことはできなかった。差別者になっていたかもしれない。いやいまでも本当に自分が差別者でないとはいえない。実際藤田くんなんかも叱りとばしてしまったり、人をいろいろ消耗するように使ってきたから。48年間、何かを高めるために、何かを成してきたと思う。けっしてスマートではなく、自分が障害者ということを表し、どろどろした濃密なつきあいのなかで、人とともに生きることを構築してきた。この29年の活動は、自分にとっても、自分らしく生きてきたという意味で決して後悔するものではない。現状が理想通りいっているとは思えないが、それは当たり前なのであり、マイナス思考でなく、(それでは生きていけないから)生きていくしかない。 自分が脳性マヒ者であるということは、被差別者としての自分と、差別者としての自分の狭間で、格闘するということであると、思う。他の人は知らないが、運動を通して、自分はこういう風に考えるようになった。青い芝がなければ、自分はマイナス指向の生き方になっていたかも知れない。部落解放運動とも接点がある話かもしれないが、両方の意識に立って考えるということは大事。さらに私は来るものは拒まず、去る者は追わず、いろいろな人と常に関係を持とうとしてきた。運動はその結果なのかも知れない。運動してきたからこういう発想になったのかも知れないがその辺は結局うまく説明できないことである。 ある施設の障害者がいて、かれはそこにもんもんとしながら、結局そこからでられなかったりします。特に何も変わらないでしょう。彼には自信もないようだし、周りにサポートする人間もいない。僕だったら理不尽に「特別室を作れ!」とか言ってしまうかも知れない。小学校の頃から、鼻をこずかれたり、普通の子供に対してはなされる「通信簿」の説明も、「図画工作」への熱心な指導も、僕に対してはなかった。だけどそういうことがあっても、社会に出て最初のころ、「障害者だからなにもできない」など微塵も思わなかった。健常者でもどんどん使ってやっちゃろう、っていうのがあるんです。親から「社会に適応せろと」何度も言われました、その適応の結果がこれなのかも知れない。親の意図とはまったく違ったのかもしれないが。 中学時代から、反発ばかりしてきたが、その時は決して運動をしているつもりなんかなかったでしょうか。何に対してもまず反対してきたのは自分の存在感をそうやって確かめてきたからなのかも知れない。何事でもそこであきらめたくなかったのだ。私の人生は、そういった性格と、その後の様々な環境が、両輪となって作り上げていったものだろう。 イタリアの統合教育見学      1996年ボローニャ大学等を訪ねる。統合教育を研究を行うために ニコラ・クオーモ教授インタビュー ◎ローマではほとんど障害者を見なかったが本当に地域で生活しているのか  ・バカンスのシーズンであったのでいなかったのでは  ・障害者の数は少ないのでなかなか会えないのでは ◎ローマの街は車椅子では歩きにくいのでは  ・手伝ってもらうことで十分なのでは  ・ほかの人たちが障害者を手伝う、という文化をもっている  ・タクシーの料金が安くなる。地下鉄やバスはあまり利用されていない。  ・ローマの場合町が古いから地下鉄にしろ建物にしろ手を加えるのは難しい。 ◎イタリアで制度が変わった際の原動力は  ・親たちだけではなく、教師たち、医師達も一緒に社会を変えようと言う運動をしたこと。 ◎日本では一般の人たちの意識が低いが、どのように啓発すればいいと思うか。  ・国によって文化は違うのだからイタリアのやり方が日本でも通用するとは思わない。  ・イタリアでは子どもの頃から障害者と学校で接しているので自然に意識ができているのでは。 イタリア旅行  Progetto Handicap(プロジェット・ハンディキャップ) でのインタビュー ・視覚障害者に対する国の保障には2種類ある。   1.戦争などで視力を失った人月に六?七〇〇〇ドル   2.生まれつきの視覚障害者   月に約一〇〇〇ドル  車椅子などはすべて保障される。 イタリアの視覚障害者の内、一二〇〇人はマッサージ、二〇〇〇人は普通学校の教師、七〇〇〇人は電話交換士の職に就いている。ボローニャには四十三人の盲目の教師がいます。 イタリアの企業には全体の八%の障害者雇用義務があります。 1970年代の変革は間違いであったと思っています。すべての障害者が普通学校でうまく行くとは思っていません。 今現在、社会的、精神的状況に対する闘い、建物など物理的なものに対する闘いを継続しています。 ・活動に対する経済的援助に関しては、大きな団体には政府からの援助がありまし。しかし、これはほんの一部であり、小さな団体では町や地域の組合がお金を集めたり、グッズを売ってお金を作ったりしています。 視覚障害者の訓練校でのインタビュー ・主に電話交換士、プログラマーの訓練をしています。 ・障害者は普通学校に行くよりもこういった訓練校に来た方がいいです。 ・障害者も使えるようなコンピューターの開発、学校に行っている子ども達のための教科書の点字訳なども行っています。 ・普通学校における障害児教育の欠点としては先生達が十分な技術をもっていないこと(例えば点字が読めない、など)、卒業後に職を得るための技術を身につけることができていません、などがある。 中山:点字ブロックや点字標示は見かけなかったが、視覚障害者が快適に暮らすことはできているのですか。 ・ハードの面での整備が行き届いていないのは本当であります。しかし、それは障害者側の気の持ちようによって克服できるのでしょう。 中山:結婚等に際しての困難はないでしょか。 ・ 無いとはいえません。障害者に対するタブーを社会が内包しています。 ・ 親の会での講演から、 皆さんこんばんは、中山です。今日は、「イタリアに行って思うこと」と題して、あまり期待しないでください。本当に半分が観光旅行で、半分が視察旅行という感じで、去年9月13日から27日までイタリアに行ってきたわけです。初めは、ドイツにも行こうと思って10日間のスケジュールを組んでいたったです。けども、どうしても介護者の都合でドイツには行くことができませんでした。話にはいる前に、一言、やはりぼくは障害者の解放運動している立場から言うと、外国に行ける立場ではないのです。なんぜかというと、多くの障害者が施設とか養護学校にはいっているなかで、その人等を踏みにじって海外旅行に行くとは、もってのほかということを前もって話しておかなければならないと思います。やはりそこらへんは、明確に言っておかなければならないんじゃないかと思います。やはり施設の中で、外に一歩も出たことが無い人とか沢山います。そんなことを知りながら、イタリアに行ったという罪の意識を今感じています。ということで、そのへんで話します。なんでイタリアを選んだかということについて、さっきの特にイタリアは、統合教育が進んでいると聴きました。それが3?4年前で、1回は行ってみたいなと思っていました。たま、たま、学生が卒論を終えて休みが取れるということで、イタリアへ行こうということで昨年の5月頃にしました。けれど、やっぱりイタリアの国そのものを知っとかなければならないと思いました。ということで、本屋さんに行きました。色々本をみました。けれども、イタリアの歴史というのは膨大なものであります。一冊だけ「ローマは亡びる」という本を買って読みました。あるいは2?3の日教組が出しているパンフレットのイタリアの統合教育ということで、そんなのをチラチラ読んで行きました。イタリアの統合教育の中で峰井さんが書いています、手作り指導ということで統合教育というふうな見出しがありました、ルネサンス思想というのは一体何なのかな、ルネサンス文学は知っています。けれども、ルネサンス思想というのは一体何なのかなと思い、興味をひいきました。そこで次に読んだのが「ローマは亡びる」でした。その話の中で、イタリアは国自体が歴史を持っているということが書かれています。全ての道がローマに通じるという言葉があるように道の整備をしていったように、アジア文化、ヨーロッパ文化、エジプト文化などが交差するのがローマであると書かれていました。現実にそうだなあというのがあってそれに興味を引かれました。それで読んでいるうちに民衆の戦いとして、女性の中絶権利法とかあるいは労働権の権利法とが、始まったすぐ、革命的なものがあったというように書かれています。それで、そんなところをみられるからこれは生半可な気持ちでは行けないなあということで、峰井さんがボロニーアの方に行ったらどうかねということがあって、ボロニーア大学には統合教育のクローム教授がおられるということとか、ボロニーアはイタリアの労働組合で2番目に大きいところだということで、こっちでいえば前の総評みたいなものでありました。今の地区労センターみたいな所に障害者就労担当という方がおられていました。障害者の就労についいて問題で取り扱ってあるということで、障害者の就労について教育とつながっています。そこも訪ねて行くとよいということとで訪ねることにしまた。 6月終わり頃から1か月かけて僕が手紙を書きました。ボロニーア市の教育委員会にも手紙を出しました。ボロニーア大学のクローム教授と労働組合の人と教育委員会の人に出しました。けれども、日本で書いたのがイタリア語にならないもので、英語にしなければならないという作業もあって、翻訳を誰に頼もうかということになって、学校の先生に頼むけれど学校の先生でも難しいということになりまし。たまたま英会話教室を開いている人が居て旦那さんがアメリカ人で、その人が一番適任だということで翻訳してもらったということになりました。そこまでは、良いのだけれどそれをファックスで送ったり郵便で送ったりしました。けれどもなかなか返事が来ません。9月になっても9月10日なっても来ません。これはもう観光だけで終わるようなあということでヒヤヒヤしながら、やっと9月12日の夜クロームさんからファックスが届いてOKと書いてありまし。9月16日に来てくださいと書いてありました。観光旅行だけで終わらなくてよかったと思いました。また通訳はどうしょうか通訳がいませんでした。介護で行く学生に「英語はできないもん。あなた文学部だろう。」「おれ中国語しか知りません。」ということでした。13日の朝早く福岡空港に着くと筑紫野の先生が東京で・・問題の世界会議に行てるということでばったり会ってね。「中山さん、どこに行てるの。」「ちょっとイタリアまで。」と答えました。「イタリアまで行くの、どうやって行くの。」「船で行くんじゃないよ。」笑いながら返事をしました。はやばやと、ワクワクとして福岡空港からたって関西空港に行って関西空港から直接フランクフルト経由でローマにはいるということで関西空港に行きました。関西空港には、去年の教研で行ったけれども、なにか空港に着いて鉄骨だらけの空港で寂しいなというようなことを感じながら、車椅子に乗っているもので全部障害者用に乗せられて、エレベーターも、健全者はにこにこして「中山さん、得するなあ。」「なんで。」と聞いたら、「こんな大きな空港は一人で行ったら絶対ぼくは迷うから係員の人がちゃんと誘導してくれるから車椅子の障害者の人と行たらいいな。」ということを言っていました。関西空港から17時間でフランクフルトに着きました。途中飛行機の中で酒が出て、完全に酔っ払っていい気持ちでフランクフルトに着いた。結局夕方に着いて困って、車椅子が来るやろうなと待っていました。車椅子が来るということだったから。何か変なものが来ました、車が二つしかない車椅子が来ました。何かジュース運ぶような荷台が来ました。それでそれに乗ってくれと言われました。他に車椅子が来るのかなあと思ってましいた。これが車椅子と言われて、車椅子に前輪が無くってあのジュース等を運ぶ台車があるでしょう。あれと同じような形態の車椅子が来ました。シートベルトを十文字形にかけるだけで、それで飛行機から降ろされてずっと係員が後ろ向きに押していくことになります。これは便利がいいなと一つ感じました。 日本の飛行機会社は、車椅子絶対飛行機の中では使いにくいです。車輪が四つあって非常に使いにくいと感じていました。というのは、座席と座席の間に入りません。それで僕らが落ちるとかいうことですごく恐いとおもいました。シートベルトの掛け方も職員は知りません。日本の国内の職員はシートベルトのつけかたもわからんで、よく僕が利用するときあわててするけれども、そういったところが実際ありましって、フランクフルトに着いて「こっちに待っといてください。ローマまでの便はまだ2時間ありますから。」と言われました。ちゃんとそこには、待合室がありました。そこに、1時間もたたないうちに車椅子の障害者の人が、3人も4人も来ました。日本ではそういった光景無いです。朝の福岡空港でも、2時間も3時間も居ました。けれども誰一人として車椅子に乗った人はいません。関西空港でも2時間も居ました。たれけども誰一人として会なたかたでした。フランクフルトに着き、1時間もしない時に車椅子の人がシャーシャー現れて来ていました。何かが違う感じを受けました。ローマに行く便に車椅子の人が僕まで入れて二人、たぶん背毀損の人と思います。けれど、日本を8時に出てやっとの思いでローマに着いたのが夜中の11時でした。タクシーに乗りました、けれども、ホテルまで行ってくれと言ました。けれども外見たら、写真に現れる建物ばかりで文化財みたいなのがいっぱい現れてきてだまされたんじゃないかと思いました。だまされてどこか連れていかれるなんて聞いていました。そいったことで、タクシーに乗ってすごくガタガタ道で舗装されてなかったりして、なんでこんなところ行くのかなと思いました。よくイタリアは治安が悪いとか、殺人だとか、ホテルに夜中の12時に着きました。明日また早いから寝ようということで寝ました。翌日は、日本人がローマに住まわれてイタリアについて本に書かれている人に、手紙を書いてファックスで送っていました。一日だけは観光案内できるということで、その人と翌14日の日にはローマ見物でもしゃれこもうかと言って、ローマ街を案内してもらいました。美術商と言っていました。福岡にも来年の4月にも福岡の美術館で美術展やりますから行きますよということで、教会とか行たり、話に聞いとったけど障害者用の設備とか全然無くて、おもいきり無くて、トイレしたくてもトイレがどこにあるかわからないで苦戦しました。やっと見つけたと思ったら、大きな便器でした。これではお尻が入り込みそうでとうとう便秘になって一週間便秘になりました。ローマで一日過ぎてしまいました。健全者に「二日目何しょうか。」「観光ガイド読んでからどっか連れていってよ。」「中山さん教会しかない。」「あんた、どこへ行きたい。」「そこらへんでいい。」と言ました。けれど、昼間はレストランに連れていかれたけれども夜になったらレストランがどこにあるかわかりません。それで全くわからないんです。どっか食べにいこうということでいきました。女性用の店ばかりでした。オートクチュールとかブランドものの店が、小さいのがいっぱいありました。こんな町かと思って行けれども、デパートないやろかと思って探すけれどデパートも無いのです。よく考えれば、イタリアそのものが商工民族と言われて、手工業によって国が栄えてきたというのが歴史にあって、デパートなんて無いです。総合的なデパートなんて、1軒だけあっただけで、やっぱり、そこに誰が居たと思いますか、日本人でした。東京に来たのかと思うような。レストランは無い。BARというのがあって、BAR言うたら酒飲むところかな、ビール飲むしかないと思って入って行きました。明日からどんな飯食おかというふうで、そこにチーズとかあって、やっとチーズとパンだけで。ローマはもうあきて、三日目の朝になってローマの観光一日で終わりまして、「早めにボロニーアに行かなければ、クロームさんと午前10時に会うというようになっていました。けども、どこへ行けば良いのかわかりません。」と言って、介護者も「早く行っとった方が良い」ということで、三日目朝早くホテルをキャンセルしてローマの駅へ行きました。ところが、ローマの駅に着いたところ、ナポリ方面へ行くのかミラノ方面に行くのかがわかりません。どれが特急なのか急行なのか普通なのか、よくわかりません。赤で書いてあるから、あれは特急かひかりみたいなのかと思っていました。それでローマ駅で3時間悪戦苦闘していました、気付いたら改札がありません。どころで、切符を切るのか。日本でいうタイムカードみたいなの、ローマの駅の柱の1・2・3カ所位に備え付けてありました。タイムカードみたいな切符をきてもらいました。ところが、これが乗りにくくてどこに乗っていいかわかりませんでした。日本人の学生がいたから、ちょっと手伝ってくれと言って乗りました。青い芝にそれぞれ専門部があるから、前もって福岡の利光からイタリアの交通状況を調べとってくれと頼のまれていました。障害者用があるのかなと思って乗ってみようかなと思っていました。大きな車椅子のマークが窓の外に書いてありました。それで、そこに車椅子一台置けるスペースがあって他の客と一緒の所で、新幹線の中で鉄の扉を設けるようなものじゃなくて、一つか二つ座席を取り外してそこに車椅子をつけるという感覚でした。あとの車両も調べてもらったら各車両あって、障害者が乗れるようになっていました。又びっくりしたことがありました。電車の中で動物と出会いました。猫や犬。日本人はちゃんとペット用箱に入れて連れて行くけれど。イタリアの人は、自分達と一緒に乗ってくるのです。放し飼い、それにびっくりしてね。僕は、猫や犬がきらい。猫や犬が乗って来て、俺の足元に座っていました。いくら追い払うても、動こうとしません。 ボロニアー駅に着き、ホテルに向かうテイクけれど、道に迷ってやっと着きました。逆に戻ってきて駅の前やったということでした。またレストラン捜し。なんでこの国は食堂街がない思いながら、一軒一軒ポツリポツリありました。介護者は、この国の人は外食しないのかなと思いました。たぶん家の中で食べているんではないかと話をしました。 それで、翌日朝早く7時半頃起きて、ボロニアー大学に行かなければならないからタクシーに乗って行きました。それで、「通訳どうしようか。」「どうにかなるんじゃない。」「どうにかならならいいけど、名前分かるの。」「適当に身ぶり手振りしとけばいいんじゃない。手紙も書いていることだし、何か返事もらえるかもしれんし。」・・・タクシーに乗ってボロニアー大学と言って、そんな時間かからないところで降ろされました。また、日本の大学のように、塀があって学校らしいやろなぁと思っていました。ところが、塀もない、どこからどこまで学校なのかわかりません。大学に着いたといっても、どこが教室なのか研究室なのかわかりません。それで、大体あの人は知てるんじゃないか。聞きに行きました。この辺りやないとぶつぶつ言いながら本屋さんへ行って、階段を目標にして行ってみました、やっとクロームさんに会えました。・・その前に、研究室の前に女の子が来ました。きれいな女の子でかわいい子でした。話しかけてきました。「Mr.中山」と言って。何で知ってるいのかなあと思いました。私もクローンさんを待っているっていうような感じでしゃべり出すわけです。しゃべられてもわかりません。結局その人は、クローンさんの研究室に通って、アメリカから来て、イタリアのボロニアーで英会話を教えているとのことでした。クローンさんが彼女にボロニアー滞在するまで通訳を頼んでくれました。それで、僕が言ったことを介護の学生が英語にして、英語をしゃべれる彼女からイタリア語にしてもらって話をしました。そこでぼくが、そんなことでね、クローンさんに、障害者団体とか紹介してくださいと頼みました。さっそく電話をかけてくれました。クローンさんは彼女に通訳してくれるようにと頼みました彼女は「私でよかったら三日間付き合います。」と言ってもらいました。ああよかったと思いました。結局、クローンさんとその英会話のできる彼女にスケジュールとか立ててもらいました。日本の統合教育とか・・・なんで統合教育が始まったのか。その政策を作っていく上で、どんなスタッフを関わらせたのかを聞きました。日本の統合教育というのは、完全な統合教育ではないというような話しをしてくれました。それは、イタリア全体ではなく。組み合い組織が強い所が統合教育がなされていると聴きました。明日何時にコンタクトをとって、教育委員会の人と話ができるとかね。小学校に連れて行ってくれるとか、全てスケジュールを組んでもらってね。それを、いちいちホテルへ電話してくれてね。肝心な話ができなくて終わりそうだけど・・・まあそういったことでね、クローンさんにあらかじめ聞きたいことをフアックスで送っといたから、それだけを英語にしてくれて。ま、そんなことでクローンさんと話ができました。 二日目教育委員会の人が来て、ホテルから何メートルかな、70メートルも離れていない小学校に連れていってもらった。教育委員会の人も男性の人と思っていまし。女性の人でした。日本の行政は男しか出て来ないからそう思っていまし。えらい大きな大柄な女性がホテルに来てくれて連れていってくれました。てね。日本の場合は同和教育とか人権教育とか障害者教育ということで、そんな流れがあるんですというような説明をして、イタリアの人権教育というのは、どういうふうに成立しているんですかねと聞いたの。すると、「人権教育なんてしないでいいです。」と返ってきました。「何ですか。」「小さい時から多国籍民族がいっぱいいるのに、子供だって毎日皮膚の色が違う人達と生活している中で、改めて人権教育なんてする必要ありません。」と言われてドキンとしました。そんな話を聴いて小学校に行って、それがまた建物が古くて、小さくて小学校らしくないです。それで新学期が始まったばかりでした。それまでお休み。夏休み、6月の終わりから、バカンス、二カ月間バカンスに出かけるみたいです。避暑地にみんな行くそうです。僕が行ったのは9月17日、「まだ授業はしていません。」「それでも、ちょっと見せてください。」と言って教室を見せてもらいました。日本の学校はこんなスタイルで勉強しています。ところがね、四角ね、四角く座っています。何人かずつでした。多くて20人、少なくて15人。それで各教室に障害児が一人ずついます。それで、その横にプレイルーム、日本でいう障害児学級があることはあります。けどもそこは、一時皆が休みするためのプレイルームという形で位置づけられています。それと、日本の障害児教育にかかる費用は、みんな教育予算の中から出ています。イタリアは、障害児というのは別枠で予算があるというような話を聴きました。写真を撮りたいということで、「写真を撮っていいですか。」と聴きくと「だめ。」と言われました。「なぜですか。」と聴くと「子供の人権無視です。」日本の場合は写真とか平然として撮りまくっています。やけれども、やはりそのへんの人権意識っていうのは全然違うなと感じました。それで、小学2年か3年の知的障害者でイスラムから来たという子が学習室に来ていまして、一人でりんごを食べました。学習の時間りんごを食べていいかなと思いました。日本では絶対、例え障害者であってもりんご食べよとするもなら怒あれます。それが、へらへらへらへら先生達も笑っています。日本からは・・国立教育研究所の落合さんがきましたという話がでました。日本から障害者の人が来たのは初めてですと言われました。 教会というところに行きました。障害者のコミーニティー広場でした。そこは、日本の生活支援センター的な物でした。ソウシャルワーカがいました僕は、イタリアの障害者の生活について聞いていました。どうやって生活をしているのかなあと思ていました。障害者運動がどう位置付けられているかという話とか。それとか、今の統合教育が必ずしも良いとは思っていないという発言がありました。やはり専門的な知識がある先生が必要であるという話とか聞いました。そういったところで、それで、戦争で障害者になった人には3、1倍位の年金が来るわけよ。例えば、普通の障害者は月に8万リラが支払うられます。そりゃびびたる生活費です。イタリアは結構物価は高いです。ものすごく高くて日本と同じような感覚、日常生活品が高いです。高級ブランド品が安くて、日本と逆くなんです。日本の場合と比べて、生活しにくいなと思って帰って来ました。障害者団体、地域の施設に若い兄ちゃんたちがいっぱいいました。何んでかなーと思っていまました。障害者団体の所にボランティアに行ったり、障害者個人の所にボランティアに行ったり、一年間兵隊に行くか、ボランティアをするかという制度を国がとっています。イタリアには徴兵制が一年間だけあります。兵隊に行くかボランティアするかどちらかです。日本に帰ってきたら自衛隊に入り・・・・一年間ボランティアとして活動すれば良いのに話をして帰ってきました。そんな話をして、僕みたいな自立生活者っていません。イタリアでは、やっぱり自分の家で生活しています。施設もない。それで行政から介護手当が出て、自分等の家で生活させていくということを基本においています。だから、老人になって老人ホームに行くという感覚はありません。障害者の親達も施設に入れるという感覚はありません。それで家で介護手当をもらって、介護人を雇って生活していくというスタイル。又教会がデイケアーみたいなのをやっている。行くところの無い障害者を教会が世話しているというようなことを言っていました。それと、障害者、市民運動をしていくというのは、日本と同じように資金をカンパに頼っているという話などを二人から聴きました。日本語を英語に、英語をイタリア語にしたりして時間がかかってね。一言聞くのに30分かかります。時間が無くなって。要点だけ聞かなくてはいけません。イタリアに来た甲斐あったんかなと今、思います。やけども、でもう二カ所行きました。コミュニティーセンターという所に行きまして、コミュニティーセンターと名前が付くから、いろんな人が居ると思って行ったけれども、違うたんです。教育のカウンセラー。高校というのは、受験生は、入りたいと思ったら入れます。しかし高校に入ったからといっても仕事があるわけじゃないです。進路についてきちんとたてられないでいす。それは教育委員会の人も言っていました。それで、教師で一年間に8000人担当して、これがまた、その聾唖者とか盲人とかふくめての先生とか含めて8000人、やはりここが違うじゃないかと思いました。教育を支えていくということは、黒人の教師が英会話の人がいたりしてもかまわないという考えに立ち、そういったところで、障害者の福祉っていうのはやっぱり、教師もきちっと立場的にあてくまれているということでね。8000人それともう一つは、大まかな話をすると、教師は障害児教育をするために、基本的な手話とか点字とかしていくために、三年間研修していくということです。それと統合教育をやるために、一年間に三カ月の研修を行い順路を作ってやっています。大学でその教育課程を学ぶけれども、障害児には養護教員とか行く専門課程は無いです。そのかわり教師は三年間の研修で、発達とかどうのこうのじゃ無くて、基本的な、手話を覚えるとか点字を覚えるとか知的障害者との会話とかそういうことを研修していきます。それが、やっぱり日本とだいぶ違うなと感じて帰ってきました。 それで、カウンセラーという人はやっぱりコミュニティーセンターというところにいるのです。それで、高校へはみんな入れるのですか、と聞くと、やはりそれは差がある。やっぱり国民の教育についての意識もバラバラであると。統合教育がいいという人も理解度もバラバラで、入れる高校と入れない高校とあります。受験次第で入れるということでね。 その次は労働組合に行きました。労働組合の障害者の担当者が時間が遅れました。話す時間が無くて又明日来てくださいと言われました。それで話したけども労働組合に障害者の人ばかり居て、松葉杖をついた人が普通の事務作業をしていました。福祉会館かなと思うくらいでした。要するに事情が厳しいから自分等で雇っています。労働組合が自分等から補助している立場でやっています。それで、労働組合の方からは、1970年の終わりに政治革命が起きて、社会党と共産党が実権を握った時にそういった障害者基本法を作っていました。「制度にはしていますが、イタリアの現状としては全く合ってないですよ。」というような雇用の問題とか、健全者さえも不況であるから就職難であります。でも障害者からきちんと雇用しています。障害者優先に雇用していくというような価値観を作っています。たまたま、ダウン症の人が働いていました。ボロニアー駅の、ファーストフードで仕事をしていました。そういった所でダウン症の人が食事持ってきました。やっぱり違んだなぁと思っていました。けど「それは、たまたまですよ。」と言われていました。日本は資本主義ですから「でもやっぱり、資本主義を求めことですから、やはり人間関係は切れますよ。設備とか要求しなくても、人間関係を重視していくような社会がイタリアであります。」というようなことでした。「日本の労働組合というのは障害者を雇ったりしていません。」と言われました。「そうでしょう。やっぱり資本主義を求めていくんやったら障害者は切れていきますよ。」というようなことで言われてね、とても印象的でした。そういったことでボロニアーには四日間居て、そういったことを学んできました。クローンさんからお土産にクローンさんが書かれたイタリア語のレポートを二つもくれました。まだ持っています。ミラノへ向かいました。これからは観光で地下鉄のことだけ話すけれども、ミラノで初めて地下鉄に乗りました。公共のバスとか電車を使おうかと思いました。地下鉄の階段を降りようとしたら、何か車椅子マークがありました。そのボタンを押すようにと書いてあったから押してみました。駅員を持っていました。階段昇降機を持って来たのは良いけれど、ぼくの車椅子に合わないでした。それで駅員さんがオタオタしていました。周りの人が呼び掛けて車椅子かつぎ上ることになりました。かつぎ上げられてホームまで行って一緒に乗って行った人がいました。周りの人に呼び掛けて人は無賃乗車で乗車に乗りました。そういったこともありました。一週間の旅でした。 共生共育「インクルシブ教育」  今、現実に地域の小、中学校へ通学している障害児たちさえ、健全児の学習に妨げるになると言わんばかりに地域の小、中学校から締め出そうとしています。そもそも、この学校教育法施行令22条3に記されている「心身の故障」という表現は障害者差別そのものであります。国内外の障害者団体、関係機関は、この表現の持つ差別性、問題性を指摘し、文部科学省の障害者への差別姿勢を追求してきました。  それに障害児学校の中で障害の軽減、就労を命題とするとか、障害児は障害児学校に居りさえすれば良いなどという教員の管理によって(自分らが受けてきた障害者差別を見抜く事も出来ていません。自立した生活等もできません。障害児学校を卒業した障害者は基本的な生活が出来ていないのです。)障害児は益々主体性が無くなっています。先にも述べた「心身の故障」という表現も含めて、現行の学校教育法施行令22条3は、障害者基本法で謳っている差別禁止という理念から著しくかけ離れています。  障害者が地域で生活、生きていくことを学校教育法施行令22条3は明らかに妨害しています。スペインでサラマンカ宣言の中にはインクルシブ教育が唱われています。(万人ための教育肌野色、国籍、宗教、障害の有無で分けてはならない教育)思想と反するものです。この法令を削除すれば障害者が地域で充実した生活が送れることにつながります。 さらには、全国青い芝の会の活動として教職員組合が開く、全国研究集会に参加して行きました。旧社会党系は青い芝の会と同じく共に地域の中で学びそこでの差別的な価値観を覆し共生共育思想と捉える、共産党あくまでどんな障害児でも養護学校の中で発達させることのみが障害児教育であると主張して行きました。共産党発達保障論をとなえる者は、席の奪い合いやマイクの取り合い、しかも会員への暴行、青い芝の会に対して妨害と人権侵害を与えて来ました。組合運動が変化すると共に議論を闘わせる所がなくなりました。支援教育は地域の中での発達保障論に近くなってきているのではないでしょうか、だんだんと受け身の姿勢を示して来ていると思われます。僕らは共生共育思想の下でつぎのような活動を行って来ました。 地域の学校への取り組み 地域の小学校へ 95年、96年、桂川小、久留米市立津福小、青峰小、京町小小学校へ行かせたいという親が5名居て地域の保育園に行きした。友やきょうだい一緒に地域で学ばせたい気持ちに反して教委員会の就学適正委員会メンバーあくまで障害児は、適切教育が必要であると言切り養護学校へと一方的な考えを押し付けて行きました。教育委員会対して抗議文、交渉を行い就学適正委員会での言ったとおりのことを繰り替えしいきました。粘り強い交渉を行った結果3名共地域の小学校へ行くことが出きたが、その後学習室出来ていきました。本来の目的は、保育園に行った。友やきょうだい一緒に地域で学ばせたい気持ちであったと思う。学習室をつくることは、障害児学校をつくることと等しいことであります。別学体制を引くことになります。教師、保護者たちは、仲間たちの学習の邪魔になる学習室をつくることによって、こどもの学習能力をのばすことになるという意見があるが、こどもの学習能力をつければ良いのか。疎外される存在、邪魔になる存在であり、ただに、「あるがままの姿で」地域の学校、社会に存在を示すことのみであり、それいがいでもないと言える。また、親たちは将来案じて行き場を求めて当人たちが出来る作業ではなく、親や職員の作業所になっている所が多くなって来ている。養護学校を退職し作業所や施設を経営まで踏み込んで来ている。これこそ当人たちが望んで来ているのか。危険なことです。 これらのことも、言えるが当人者や保護者の運動によって地域での生活していく場小規模作業所(身体、知的、精神三障害一緒)創りが30年前から始ました。また、親の会も、各校区ごとに造り活動を行っています。 今だに学校教育法施行令22条3は盲、聾養護学校へ就学させるべきと、明記されています。学校教育法施行令22条3は、ますます、障害児を隔離選別教育へ一層推し進めています。学校教育法施行令22条3があるかぎり隔離選別教育はなくなりません。世界の障害児教育からかけはなれて行きます。 「全ての障害児者が地域や学校の中で健全児と学び、生活すること」を目指して来ました。様々な場に於いて、障害児が地域の学校へ行くことの意味を問題提起し続けています。今の学校教育は「学力中心」であり、優れた者しか生きていく価値が無いという優生思想を助長しています。本来1979年養護学校義務制は、教育の場から見捨てられた障害児(就学猶予、免除)を無くすためのものでありました。しかし、文部科学省は学校教育法施行令22条3「盲、聾養護学校へ就学させるべき心身の故障の程度」の規定を根拠として障害児学校へと障害児の振り分けを強化しています。本人や保護者の意向を聞かずに障害児学校へ行かせています。  今、現実に地域の小、中学校へ通学している障害児たちさえ、健全児の学習に妨げるになると言わんばかりに地域の小、中学校から締め出そうとしています。そもそも、この学校教育法施行令22条3に記されている「心身の故障」という表現は障害者差別そのものであります。国内外の障害者団体、関係機関は、この表現の持つ差別性、問題性を指摘し、文部科学省の障害者への差別姿勢を追求してきました。  それに障害児学校の中で障害の軽減、就労を命題とするとか、障害児は障害児学校に居りさえすれば良いなどという教員の管理によって(自分らが受けてきた障害者差別を見抜く事も出来ていません。自立した生活等もできません。障害児学校を卒業した障害者は基本的な生活が出来ていないのです。)障害児は益々主体性が無くなっています。先にも述べた「心身の故障」という表現も含めて、現行の学校教育法施行令22条3は、障害者基本法で謳っている差別禁止という理念から著しくかけ離れています。  障害者が地域で生活、生きていくことを学校教育法施行令22条3は明らかに妨害しています。インクルジョン(地域の学校、地域社会で共に生活していく)思想と反するものです。この法令を削除すれば障害者が地域で充実した生活が送れることにつながります。  障害者が地域で生活、生きていくことを学校教育法施行令22条3は明らかに妨害しています。サラマンカ宣言の中にはインクルシブ教育が唱われています。(万人ための教育肌野色、国籍、宗教、障害の有無で分けてはならない)思想と反するものです。この法令を削除すれば障害者が地域で充実した生活が送れることにつながります。 0点でも高校へ 県立高校へ行きたい、親達は行かせたいという願いを持って、親、教師の集りをつくりました。なぜ、0点でも高校へなのか?というと、社会の中でもっとも差別の根源になっている優性思想は学校教育でつくられています。優性思想とは「出来る、出来ない」という価値観は、個人の個性や特徴などを無視し、点数だけで図り、個人の人生まで決めてしまう危険性をはらんでいます。0点でも点数だけで図る教育や、社会を促し本当に障害者が地域で生き学び思想を造っていくものであります。県下にも組織をつくり、行政に交渉をもったが、高校へ働きかけを行っていたが、なかなか声は屆かなかった。特に知的障害は難しく高校への進学はされていません。 しかし、知的障害児は私立高校へ、肢体障害児は、公立高校へ入っているのも現実でもあります。 30年経った今でも知的障害者児は高校進学は出来ていません。点数重視になり、支援学校へと振り分けが着々と進み,マンモス支援学校へとなっています。発達障害児という障害が増えています。本当に障害の根拠があるのか、研修会等行くがそこで聞くのは脳の左が破損しているから、しかし、環境の問題であるとも言っています。ということはただたに様々な環境の問題と言えます。 性、恋愛、結婚について 障害者には、性、恋愛、結婚はタブー視されて来ています。障害者は性の対象として扱われていません。本来、社会に存在することがいけないとされてきました。旧優性保護法の中に不良な子孫の出生防止が謌われていました。その結果、障害者に対して特に施設では女性には生理の介護が面倒くらしいい等、汚いものだとか、こどもはつくらない者とし、差別と偏見で一方的な価値観で図れていっています。優性手術が行われてきた歴史があります。今でも母体保護法の中に健全なこどもの育成と謡っています。障害者の存在を否定しつづけています。 そんなことから、僕は最初からつきやぶりました。 立ち上がろう会の時からの知り合いでした。ある意味で一番信用できる人です。立ち上がろう会のときから僕は彼女のことが好きでした。4時間掛かって彼女の家まで遊びに行くたり、介護付きで小倉でデートしたりしました。彼女と初めての性交渉までやりました。結婚まで考えていました。僕は信じられないと思ったけども、結婚する前、彼女と介護者の間に子供ができてしまっていました。結局介護者の男性と、彼女は結婚しました。いろんな関係の中で、そういう事態にいたってしまったのだけど、まず、自立生活をやろうと思いました。 彼女の実家は豊津でした。つきあっている頃は介護者を連れて、その実家まで行ったり、毎日電話をして、親から怒られました。結婚をすると僕の親に宣言しました。丁度兄の結婚とも重なって、「何を考えているのか」言われました。当時は朝倉市から豊津まで通うのは並大抵のことではありませんでした。 二人とも真面目に「一緒になろう」といっていました。そのときの暮れの忘年会の時に、別れようと彼女から告げられ、つき合っている人がいることも告げられました。「誰や」と訪ねると、「この人だ」という。だけど、なんと本当に結婚したのはその時の彼ではありませんでした。三角関係だったのです。隠していたのかわかりませんが、結局彼女は学生の介護者を選びました。 それで、それをきっかけで、自立生活を始めました。また僕は諦められなくて彼女を振り向かせたかったことも事実でした。奮起して自立生活を始めました。 彼女はその後二人の子供を産んでいます。その後、彼と別れ、いまは長男が社会人です。介護とヘルパーの助けを借りたとはいっても、ほとんど女手一つで育てています。彼は介護者として彼女とつきあっていたころから精神障害の兆候があって、それが時を追って高じていった。彼女はそんな中で、僕なんかより精神的に自立していると思われます。 僕はいま、ひとみと一緒にいて、後悔はまったくしていません。ただその後も、僕を自立生活に向かわせてくれた大事な友人としてのつきあいを続け、本当にいい関係を続けていると思っている。安易に結婚して落ち着いてしまっていたらどうなっていたか分かりません。 22.健全者女性とのつきあい恋愛ごっこ どうしてもつき合う女性は、介護者になってしまいます。20代の後半30代の前半は、健全者の女性と3人の人とつき合いました。一人は関西の学生でした。僕の家にも遊びに来ていました。何ヶ月かつき合った後のことでした。遊びに行くことになりました。しかも一泊で出かけました。泊まる所はラブホテルにしました。当然ダブルベットでした。二人きりの夜を迎え横に寝るものだと思っていました。ところが彼女はダブルベットには寝ずに床に寝てしまいました。彼女からそんな気じゃないのにと言われました。その前にはそれらしい行為をしていたのにと思いました。 つぎの彼女は久留米で昼は事務職で夜は演劇を行っている人でした。彼女は毎日のように仕事帰りに夕御飯を作りに来ていました。彼女には彼がいました。それも同じ演劇を行っている者でした。彼女は彼と別れようとしていました。だが、彼女は彼となかなか別れることができませんでした。一緒にドライブや飲み行ったりしました。彼女から求められセックスらしきこともやりました。最後までは行きませんでした。前の彼女と同じくその気はなかた言い別れました。僕をその気にさせて全てをダメにしてしまいました。生活に対する不安感や断わる事のできずにつき合う事の差別性があるとおもいます。だから、恋愛ごっこでしかありません。 ひとみとの生活 ひとみとの一番初めに会ったのは、施設を出て、彼女が奈良の事務所で生活をしていた時でした。次に会ったのは、事務所を出て、アパートを借りて大和郡山で自立生活を始めたときでした。彼女は健全者とつきあおうとして断られていました。彼女は電車にとびこみました。運良くもケガだけですんだということを聞いていました、それから彼女のことが気になりだした。電話をかけたりして、彼女を励ますつもりでした。毎月、奈良に行くようになりました。当時全国青い芝の会として活動していたから、奈良の青い芝の連中には「福岡の青い芝が杉本ひとみを奪った」という非難を受けました。「奈良の組織をつぶす気か」とまで言われました。けれど、「好きなものは好きなんだと」いう気持ちしかありませんでした。ただ「僕と一緒になろう」という意味以上のことはありませんでした。福岡、奈良と行き来するのに交通費だけでも当時はそれだけで四,五万円になりました。いざ、福岡に来ると女性の介護者を探さなければなりません。二人の介護者を探すことは容易なことではありません。健全者の結婚とは全然違います。二人の時間はありません。いつも介護者がいます。障害者はプライバーシーイなどありません。すなわち、裸にさせられるのです。そいうたなかで過ごすことは、結婚観や家族感を含め全ての価値観を変えて行かなければなりません。 性格は違うけど、顔が前の彼女に似ていたということがありました。それことは結婚前にもひとみには言いました。一度会わせたこともあるけれど、ひとみは「あなたが好きそうな人ね」と言う。彼女はそれでも元彼女のことが気に入ったらしくて、時間があったら会いたいなどと言ってくれました。 相手の親きょうだいにも話をした。けれども、まったく話にならず、僕のほうも自分の親に彼女を会わせたけど、親父がかんかんに怒ってしまった。結局親父は僕とひとみが住んでいる久留米の家まで、11年間顔を見せにこない。さらに義理の姉と、実の姉からは、「子供を産むな」という警告までされました。 僕は彼女と生活を続けるしかありませんでした。僕の母親が5.6年前から「しょうがない」という感じで、毎月ここに来てくれるようになりました。今でこそ何をするわけでもないが、少し前は晩飯を作ってひとみに晩飯を食べさせたりして帰るようになりました。 だけど逆にひとみの親は、21年、一度も福岡に来ていませんでした。間に立ってくれた女性の教師たちが、ひとみの親を説得してくれましたが、父親のほうはまったくダメで、奈良でちょっと顔を合わせるだけです。今年もひとみの懇願にも関わらず、両親は福岡に来てくれなかったです。ひとみは思いあまって絶縁状をつきつけたみたいだが、それ以来音沙汰がありません。北海の珍味の入った郵パックが一度送られてきたことを除いて。僕らは顔を見合わせるしかありません。 ひとみとはいつも、僕が彼女の考えていることが理解できていないせいで、彼女にあたるというパターンが多く、僕は彼女に自分で物事を決めてほしいのだが、彼女の努力にも関わらず、それがうまくできません。僕のやっている作業所の職員からもつめよられたりしていました。彼女は気を遣いすぎるのでした。自立生活の真の大変さと理念を実践できているのか、と思ったりしました。こちらで本当に心開ける友人がまだできていなかったり、女性の介護者が結婚などで離れていったり、同じ福岡の女性脳性マヒ者と仲良くできないことなど、こちらも懸念するのだが、僕は「本当に彼女のためには手を貸していいものだろうか」という思いもあります。僕の方が口が先に立つせいもあって、彼女はいつも黙ってしまいます。 お互いが自分のことを自分で片付けなければならない、という今の環境のハンディは大きいかもしれない。だけどいつも一緒に活動するわけにも行かないし、彼女も彼女なりに一人でやっています。 彼女とは一生いるかもしれません。別々の道に進んでも、彼女が困っていれば手を貸すつもりです。決してそうはなりたくないと思っています。この縁を続けていきたいです。人がなんと言っても、二人の結論は、どんなことでも二人で決めるというだけです。 彼女には彼女のいろんな思いがあるのだろう、そしてそれはやっぱりわかってあげたい。僕らは一緒に生きて、その中で一つ一つを解決していくしかないのです。 しかし、一緒に生活をはじめる中で一時期、別々に生活をしようとしたこともあります。僕は作業所のことや他の活動に追われ自分らの生活のことをないがしらにしていました。ある年の年末に突然彼女が家を出て行き、僕にはなぜ彼女が家を出ていったのかわからなかった。友だちのところへ遊びに行っているものと思っていた。すぐに、帰ってくるものと思い、僕は家で正月の準備をしていたが帰って来ない。電話を懸けるけれど、話をしようとしても、話をしない。ところが彼女は部屋まで借りようとしていました。部屋を借りるお金もありません。彼女は人からお金を借りようとしていました。僕の方から部屋を出て行き、当面作業所で生活すれば良いと考えた。こうなった原因として始めは、夫婦別性でも良いという運動の中に考えあって、尚かつ、両方の親もまだ、結婚には反対していることもあって二人とも籍を入れなくても生活を良いと考えていました。また、僕にも好きな人もいました。その当時別々に生活しても二人とも生活の基盤が無くなって行くと思いました。どうする事も出来なくなると思いました。好きな人とは別れ、籍を入れることにしました。どこの夫婦にもありがちなことであると思います。障害者と言うことで何にもかわりはありません。 79年養護学校義務化阻止活動 障害児の就学免除猶予を無くすために養護学校義務化を旧文部省は打ち出してきました。79年2月3月にかけて旧文部省に対して全国仲間たち1000名が集合しました。日本おいて始めての大抗議が起きました。旧文部省前で抗議の奇声あげ、100名以上の障害者や介護者、教師守衛に対して詰め寄り建物の中に入ろうとしました。行動で文化省は今も、警戒を弱めてはいます。ドキュメント映画「養護学校あかねん」があります。 福岡でも県教育庁前で抗議の行動を起こしました。交渉を求めていたが応じなかったために抗議行動を2日間に亘り取っていきました。壁に張っているものをはがし、職員に消化器を振り掛け隔離選別教育に反対の声をあげていきました。 さらには、全国青い芝の会の活動として教職員組合が開く、広島全国研究集会から参加して行きました。旧社会党は青い芝の会と同じく共に地域の中で学びそこでの差別的な価値観を覆し共生共育思想と捉える、共産党あくまでどんな障害児でも養護学校の中で発達させることのみが障害児教育であると主張して行きました。共産党発達保障論をとなえる者は、席の奪い合いやマイクの取り合い、しかも会員への暴行、青い芝の会に対して妨害と人権侵害を与えて来ました。組合運動が変化すると共に議論を闘わせる所がなくなりました。支援教育は地域の中での発達保障論に近くなってきているのではないでしょうか、だんだんと受け身の姿勢を示して来ていると思われます。僕らは共生共育思想の下でつぎのような活動を行って来ました。 地域の学校への取り組み 様々な差別を創り出すのは教育であり、教師を介護に入れようとしました。障害児が入っている。小学校に行き障害者差別の話し障害児教育のことを話していきました。障害者が地域で生活をするにあたり、介護をとおして教師を介護に入れていくことによって、教師の差別性を追求していきました。「共生共育」の思想を深めて行かなければなりません。また、市内の学校を訪ね、障害児学級の選別等について話をしていきました。同和教育集会・研究会に参加していくなかで介護を増やしていきました。私の生まれ育った所であります。本当は「甘朝地区」で運動を展開しなければならないが、親や子の地域障害者から避けて来たことにこだわってきました。福岡県の中でも「朝倉・筑前地区」は同和教育には取り組んでいました。しかし、部落問題は扱っていたけれど、障害者差別について多少は語られていたましたが、そんなに語られていません。そこで私は、1991年に同和教育=障害児教育をつなげていく集会をこの地で開催しました。「甘朝」での「共生共育」の運動と組織づくりを始めていきました。教師が介護に入ることによって自らの差別性を認め共生の思想を追求していきました。「朝倉、筑前地区」の障害者に返して行きました。全ての障害者が「地域で生き、地域で学んで行く」運動を創って行く事が私のやることです。何も介護がいないからではない。この事は全ての地域に言えることであると言えます。介護者が居ない時学校で過ごして介護者を探していました。生徒に障害者差別ことなど話をしていました。人権教育一環として行っていました。 点字受験闘争 84年から86年にかけて二人の全盲の受験者が高校への進学を望み、まったく、墨字では読むことも書くこともできないことを理由で否定されてきました。希望の高校に行きたい思いをくんでくれずに、点字受験を県教育委員会は認めようとしませんでした。県教育委員会の対応を、障害者の社会参加を阻害と分離教育であり、差別教育丸出しであると受け止め、僕ら福岡青い芝の会はこのような県教委の姿勢は障害者差別攻撃であると捉え2年間にかけて県教委の差別性を問う糾弾闘争を行いました。この闘争を全国青い芝の闘争として位置付け各地の青い芝から50名の動員を掛けました。そしてこの話合いに応じなかったために県教委事務所を占拠し、県教委は警察権力を使い闘争を封じ込めようとしました。器物破損、不法侵入で警察は、介護者を逮捕されました。介護者は、無関係なのに逮捕することも差別であり、この闘争の指揮は当然僕であり、すぐに、僕は警察署に行き責任は、僕にあると言うと無視されました。翌日には逮捕された介護者は出されました。青い芝の事務所に捜索が入ると考えられると思いました。事務所の書類を他の所に移しました。その後も福岡の障害者団体が残り冬の寒い中県庁前の公園にテントを張り、朝、職員に状況を伝えるビラを配りハンガーストライキを3日間行いました。点字受験を勝ち取ることができたが、それに対して過激的な糾弾闘争であると批判を浴びた。僕たちはその当時は糾弾闘争によって差別意識を促していくことであると確信を持って行動をしました。今でも、持ち続けています。 1991年バーギィーに乗っている福岡市内の小学校に通学していた障害児を市教委員会は養護学校へいくようすすめていきました。地域の中学校に進学して行く事を拒否していた。冬の寒い日に校長に対して抗議して行きました。一人の障害児が学校に行けない事について抗議を行っただけである。しかし、支援者があるセクトであり私たちもセクトに見られ誹謗中傷されていた。私たちは差別の結果、組織の裏に操っている者がいると見ていられることが残念であります。また地域で学ばせたいと言う考えを持つ教師や親の要望で地域の小中学校に特殊学級が作られたことは選別であり、さらには通級制が引かれ、地域なかでも障害児を隔離し、学力がのびない子やちょっとした不器用まで学習障害児をLD児と称して障害児を作りだし隔離の対象として位置づけ養護学校や障害児学級へ押し込めていく結果になる。親たちは自分の子が学力向上や機能の発達を重視し、子供を地域から切り離し隔離し「あるがままの姿」を否定する結果になっている自分の子どもの進路をどうしていくのかを選んだときやはり施設であり、又は作業所である。親も教師も今の労働の価値観に合わせようとしている。その事に近づけさせる事が良いとされています。 0点でも高校へ県立高校に行きたい、行かせたいという願いを持って、親、教師の集りをつくりました。なぜ、0点でも高校へなのかというと、社会の中でもっとも差別の根源になっている優性思想は学校教育でつくられています。優性思想とは「出来る、出来ない」という価値観は、個人の個性や特徴などを無視し、点数だけで図り、個人の人生まで決めてしまう危険性をはらんでいます。0点でも点数だけで図る教育や、社会を促し本当に障害者が地域で生き学び思想を造っていくものであります。県下にも組織をつくり、行政に交渉をもったが、高校へ働きかけを行っていたが、なかなか声は屆かなかった。特に知的障害は難しく高校への進学はされていません。 しかし、知的障害児は私立高校へ、肢体障害児は、公立高校へ入っているのも現実でもあります。 地域の小学校へ95年、96年、桂川小、久留米市立津福小、青峰小、京町小小学校へ行かせたいという親が5名居て地域の保育園に行きました。友やきょうだい一緒に地域で学ばせたい気持ちに反して教委員会の就学適正委員会メンバーあくまで障害児は、適切教育が必要であると言切り養護学校へと一方的な考えを押し付けて行きました。教育委員会対して抗議文、交渉を行い就学適正委員会での言ったとおりのことを繰り替えしいきました。粘り強い交渉を行った結果3名共地域の小学校へ行くことが出きたが、その後学習室出来ていきました。本来の目的は、保育園に行った。友やきょうだい一緒に地域で学ばせたい気持ちであったと思う。学習室をつくることは、障害児学校をつくることと等しいことであります。別学体制を引くことになります。教師、保護者たちは、仲間たちの学習の邪魔になる学習室をつくることによって、こどもの学習能力をのばすことになるという意見があるが、こどもの学習能力をつければ良いのか。疎外される存在、邪魔になる存在であり、ただに、「あるがままの姿を」地域の学校、社会に存在を示すことのみであり、それいがいでもないと言える。また、親たちは将来案じて行き場を求めて当人たちが出来る作業ではなく、親や職員の作業所になっている所が多くなって来ている。養護学校を退職し作業所や施設を経営まで踏み込んで来ている。これこそ当人たちが望んで来ているのか。危険なことです。 これらのことも、言えるが当人者や保護者の運動によって地域での生活していく場小規模作業所(身体、知的、精神三障害一緒)創りが20年前から始まった。また、親の会も、各校区ごとに創り活動を行っています。 今だに、学校教育法施行令22条3は盲、聾養護学校へ就学させるべきと、明記されています。学校教育法施行令22条3は、ますます、障害児を隔離選別教育へ一層推し進めています。学校教育法施行令22条3があるかぎり隔離選別教育はなくなりません。世界の障害児教育からかけはなれて行きます。 「全ての障害児者が地域や学校の中で健全児と学び、生活すること」を目指して来ました。様々な場に於いて、障害児が地域の学校へ行くことの意味を問題提起し続けています。今の学校教育は「学力中心」であり、優れた者しか生きていく価値が無いという優生思想を助長しています。本来1979年養護学校義務制は、教育の場から見捨てられた障害児(就学猶予、免除)を無くすためのものでありました。しかし、文部科学省は学校教育法施行令22条3「盲、聾養護学校へ就学させるべき心身の故障の程度」の規定を根拠として障害児学校へと障害児の振り分けを強化しています。本人や保護者の意向を聞かずに養護学校へ行かせられていました。  今、現実に地域の小、中学校へ通学している障害児たちさえ、健全児の学習に妨げるになると言わんばかりに地域の小、中学校から締め出そうとしています。そもそも、この学校教育法施行令22条3に記されている「心身の故障」という表現は障害者差別そのものであります。国内外の障害者団体、関係機関は、この表現の持つ差別性、問題性を指摘し、文部科学省の障害者への差別姿勢を追求してきました。  それに障害児学校の中で障害の軽減、就労を命題とするとか、障害児は障害児学校に居りさえすれば良いなどという教員の管理によって(自分らが受けてきた障害者差別を見抜く事も出来ていません。自立した生活等もできません。障害児学校を卒業した障害者は基本的な生活が出来ていないのです。)障害児は益々主体性が無くなっています。先にも述べた「心身の故障」という表現も含めて、現行の学校教育法施行令22条3は、障害者基本法で謳っている差別禁止という理念から著しくかけ離れています。        障害者総合支援法に対しての考え方  私たちは障害者の生活問題を社会に問題提起を行うことです。生存権及び生活権を確立する運動をしています。脳性マヒ者を始めとする障害者は社会から阻害され差別されている現状です。私たちの多くの仲間は今も親元や、施設での自由のない生活をしています。  そんな中で自立生活をしている障害者は、ただ単に部屋を借りて生活する事だけで満足をしています。ヘルパー制度・事業所、ヘルパーに合わせて生活しているのが現状です。すなわち施設の生活と何ら変わりがありません。私たちはそんな生活を求めてなどいません。本来青い芝が目指す生活は障害者として主体的(周りの人間の意志に左右されない)に生きていく事です。すなわち「互いに認め合う社会」を構築していく事を目的としています。その一方でヘルパー以外の健全者との付き合いが少なくなってきているのが現実であり、これからはそれがなくなる危険性をはらんでいます。その事を青い芝がどのように問題提起していくのか。一部の障害者だけが社会に受け入れられるという事は、ますます出来る者と出来ない者とに振り分けられ、「働かざる者は食うべかざる」という思想を植え付けられる事となります。就労は脳性マヒ者へ差別と屈辱を与えてきたという現実を認識しなければなりません。全ての人が喜ばしいく思える職場づくりが真の就労支援とは言えません。  障害者が自立するとき色々な支援が必要になります。障害者各自のニーズに合わせて時間数が決まるのが本来の姿であると考えます。全ての生活において生活保護、年金などではなく所得保障へ向けて全国青い芝の運動として取り組んでいかなければならないと考えます。私たちは以下のような活動を厚労省に交渉していきます。具体的には@所得保障の確立A障害者の生活の制限を行わない制度への移行 地域活動 僕は全国青い芝の会の三役を18年勤めていったために、余り地域での存在は、薄くてあまり知られていませんでした。「差別に対しての糾弾闘争だけの印象しかなくて、「中山は過激な者」としか捉えてなく、青い芝の活動が理論だけが先行してしまっていました。具体性に欠けていたと思います。解放理論は、重要でありますが、地域で何かを創る時に過程の中で理論を生かしていくべきであるといえます。大阪、神奈川では約20年前から福祉工場や解放センター、作業所グループホームを当事者が行って来ています。そこで、僕も地域の中で様々な活動を行っていくことを決意しました。地域に障害児、者、親、誰でもが集れるたまり場としてごろりんハウスを作りをはじめました。自己資金70万円からスタートしたが、家を借りるだけに終わってしまいました。切り替えて作業所を始めることになりました。作業の内容として障害者が地域で生、育つ存在を示すために、石鹸、コヒー販売の作業を入れとりあえず学校等への周りを始めました。一方では作業工程を学ぶためにだしの袋詰めの作業を入れて行いました。始めの一年は石鹸販売したお金を貸してくれました。たまたま、一年で市、県から補助金がおりることになりました。借りていたお金を返すことができました。また、備品は格財団等に申請をし、寄付で補うことができました。 数年後、いくつかの作業を引き受けましたが、本当に利用者のためになったのか、今、考えれば利用者を作業に縛り、きつい目に合わせていたのではないでしょうか。職員だけが満足していたのではなかったのではないでしょうか。 障害者の解放理論で言えば、労働の価値観は次のようなことが言えます。地域社会で「あるがままの姿」で生きて行くことが障害者の労働であります。たとえば食事を食べる事、話すこと、トイレをする事、大変なエネルギーを使ってしている事等を認めて行くことが作業所でしか出来ない労働と言えます。他の作業所と違う所は、親たちは、口を出させないこと親も子も離れています。それは、当人たちが自立のさまたげなるからである。また、目指そうとした作業所は僕らの生きて行く所でもありました。尚かつ、障害者が奪われた人権、障害者の文化を創る場でもあり、活動の場でもあり、障害児の進路の保障の場でもあり、閉ざされた障害児の高校進学を勝ち取って行く活動の場でもありました。あった。職員にこれらのことを確認していたけれども、何でも一人で出来ることが良いとされ、「頑張れば」(就労=自立だ)という考えが職員の中で通用していくようになりました、作業所は作業中心の場になり、授産所的な役割を果たしていました。雇用センター等にいくことができた障害者もいました。たしかに、就労できる人(一般就労できる人)が、就労することは良いことだが、その考えは僕の考えやこれまで行ってきたことと違っています。 そして、運営にあたる者と職員との『労働に対する意識』のずれや考え方がだんだんとおおきくなりました。私には、「電動車椅子で通勤するのが当たり前」となっていました。職員は、最初の目的や運営する人の理念を理解し、差別していること、間違えていることに気がつかなければなりません。そのなかでホームヘルプ、ディサービス事業研究会を補足させました、研究会のメンバーとして、当事者、親、事業者理事、教授、市会議員を整えた。ディサービスニーズ調査を行い何が必要なのか、ディサービス必要性を市に調査出して行きました。今後の作業所やディサービス運営のためにNPO法人を取ることにした。そして、法人を収得していった。理事の人も理念が同一出来る人を選考していった。しかし、作業所の運営が旨くいっていなかったためにディサービス事業は、一時断念しなければならなくなった。理事会で作業所の運営を早急に立て直すことが決められた。最初の出発とは違いやりにくくなりどうしたら良いのか分からなくなっていました。作業所に行くと、作業所の話をすると汗が吹きだし、家にしかいることが出来なくなっていた。精神科にかかりその結果軽いうつ病と診断されました。 初めの原点に戻り行うことになり、職員の入れ替えを行った。今後作業所の位置づけが変わるのを想定し、資格を持った職員を入れていった。僕も気楽になり、利用者生き生きとなり笑いが絶えなく。さらにはボランティアを積もり組織化していこうとしている。 地域障害者生活支援センターピアくるめ 障害者支援センターピアくるめは、久留米市から障害者21団体に依托され運営していっているものである。このことは、福祉法人、医療法人でもなく。任意団体に依托させたことは、障害者並びに保護者の力がつよいためでもあります。全国でも異例のことだ。障害者運動から視て来た支援である。しかも、三障害対象とした支援をしている。また、精神医療ユーザ、内部障害を職員に起用しています。さらには、ピアカウンセラーを置き活動している。事業内容はILP講座等を行い。さらには、地域移行モデル事業、相談事業所施行事業等依託され。実施してきている。自立生活者を地域で生み出しています。ピアカウンセラーの質が問われていることも事実であります。 点字受験闘争 84年から86年にかけて二人の全盲の受験者が高校への進学を望み、まったく、墨字では読むことも書くこともできないことを理由で否定されてきました。希望の高校に行きたい思いをくんでくれずに、点字受験を県教育委員会は認めようとしませんでした。県教育委員会の対応を、障害者の社会参加を阻害と分離教育であり、差別教育丸出しであると受け止め、僕ら福岡青い芝の会はこのような県教委の姿勢は障害者差別攻撃であると捉え2年間にかけて県教委の差別性を問う糾弾闘争を行いました。この闘争を全国青い芝の闘争として位置付け各地の青い芝から50名の動員を掛けました。そしてこの話合いに応じなかったために県教委事務所を占拠し、県教委は警察権力を使い闘争を封じ込めようとしました。器物破損、不法侵入で警察は、介護者を逮捕した。介護者は、無関係なのに逮捕することも差別であり、この闘争の指揮は当然僕であり、すぐに、僕は警察署に行き責任は、僕にあると言うと無視されました。翌日には逮捕された介護者は出されました。青い芝の事務所に捜索が入ると考えられると思いました。事務所の書類を他の所に移しました。その後も冬の寒い中県庁前の公園にテントを張り、職員に状況を伝えるビラを配りハンガーストライキを3日間行いました。点字受験を勝ち取ることができたが、それに対して過激的な糾弾闘争であると批判を浴びた。僕たちはその当時は糾弾闘争によって差別意識を促していくことであると確信を持って行動をしました。今でも、持ち続けています。 1991年バーギィーに乗っている福岡市内の小学校に通学していた障害児を市教委員会は養護学校へいくようすすめていきました。地域の中学校に進学して行く事を拒否していた。冬の寒い日に校長に対して抗議して行きました。一人の障害児が学校に行けない事について抗議を行っただけでありました。しかし、支援者があるセクトであり私たちもセクトに見られ誹謗中傷されていました。私たちは差別の結果、組織の裏に操っている者がいると見ていられることが残念であります。また地域で学ばせたいと言う考えを持つ教師や親の要望で地域の小中学校に特殊学級が作られたことは選別であり、さらには通級制が引かれ、地域なかでも障害児を隔離し、学力がのびない子やちょっとした不器用まで学習障害児をLD児と称して障害児を作りだし隔離の対象として位置づけ養護学校や障害児学級へ押し込めていく結果になる。親たちは自分の子が学力向上や機能の発達を重視し、子供を地域から切り離し隔離し「あるがままの姿」を否定する結果になっている自分の子どもの進路をどうしていくのかを選んだときやはり施設であり、又は作業所である。親も教師も今の労働の価値観に合わせようとしている。その事に近づけさせる事が良いとされています。 自立生活の本質 私みたいに年金や生活保護を受けて生活をしても良いのであります。障害者が地域で生きていく事を認めさせていくならばあちこちで生活をしていくことであります。仕事を持てない人を行けないというならば同様ホームレスの人の存在を否定する結果になる。「働かずもの食うべからず」ということわざがあるように日本の社会を始めとします。優生思想の社会は楯に取り隔離と選別を行って来ました。特にアメリカの障害者運動は黒人解放運動に学んで始まったがアメリカの資本社会にあったスタイルになってしまった。アメリカのADA法(障害者リハビリテイーション法)がもてはやされているが、障害者が持っている能力を生かしその結果差別を受けることを許さない法であります。寝たきりの障害者は該当しません。だから植物人間として扱われたカレンさんにたいして州裁判所は死の権利を与えた事は私たちに恐怖を導いて行きました。安楽死、尊厳死思想を進化させ命の質を選別につながる。障害者には優生思想下の社会で創られる価値観では障害者は体から拒否しているのであります。親は運動を行う事が恥であるという感覚があります。親も障害児持っていることに対して周りから差別を受けて来たことは確かであります。親の思いを聞くことは何も現実の要求を聴くことではなく、差別されて来たことを聞く事によってその事を自分に返すことであります。多数の親がお願いの運動で終わっています。 25.相模原市障害者殺傷事件 神奈川県相模原市で19名の障害者を殺害事件は日本最大虐待事件と言えます。元職員が行いました。精神障害者として扱われたことは、非常に残念なことです。優生思想から観れば被害者でもあり、加害者とも言えます。最近何もかも精神判定を行い、精神障害者として扱われています。 相模原市障害者殺傷事件の見解 日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会 会長福永年久  私たち全国青い芝の会は、脳性マヒ者はじめ全ての障害者を地域社会であるがままの姿で暮らしていけるように60年近く運動を展開してきています。  出生前診断や障害者を否定する医療や、脳死、尊厳死を強く反対しています。決して現社会がいいとは思いませんが、障害者が地域社会で、健全者と共により良い社会を作っていける相互理解の関係を作り上げていくことに尽力してきました。  2016年7月26日未明に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件によりお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、負傷された方々に心よりお見舞いを申し上げます。また、同施設に現在もなお入居中の皆さんが心に負われた傷を想像すると、つらくて冷静ではいられないのです。  日本は優生保護法により、障害児を産まない政策を続けていました。今もなお、出生児前検診や、障害児と健全児を分けた学級・学校など多様性を認めてない社会なのです。要するにこの事件はそのような社会が生んだ事件ではないでしょうか。  私達は、容疑者を弁護することはしません。しかし言えることはこの事件は容疑者個人の問題ではないということです。人間に隠されている優生思想の問題であり、障害者を殺す側になることを確認した事件でした。時代錯誤と言える障害者支援学校・支援学級、又もろもろの障害児・者収容施設等によって分離隔離し、共に学び生活する場を奪ってきている地域社会があり、そしてそれらを組み込み支える文部科学省や厚生労働省による国家体制があります。この地域社会と国の障害者に対しての分離隔離収容政策に根強く残っている優生思想こそが、この度の事件の誘発要因なのです。  この4月1日から「障害者差別解消法」が実施されてきていますが、この度の事件を通してあらためて地域社会を見つめ直す時、障害者への制約は増々強化され、決して生きやすい世の中へと向かってはいないこと、そしてこの流れは障害者にとどまらず全ての人におよぶ事が考えられるのです。  私たちはこのような事件を二度と繰り返さないためにもこの「障害者差別解消法」を生かしながら、障害児・者と健全児・者とが共に学び、共に生活するインクルーシブ教育による相互理解を生み出し、障害者が正々堂々と生きていくことができ、互いに尊重し合える社会の創造に尽力することを決意し、全国青い芝の会の見解とします。そして最後に次の2点を全ての人たちに提起をし、新たな展開をもとめるものです。 (1) 施設からの完全な地域移行計画と地域生活支援の飛躍的拡充を  今回の事件の背景に、とりわけ重度の知的障害のある人、重複障害のある人、高齢の障害のある人の地域移行が遅々として進んでいない状況があります。  事件に遭われた施設の管理体制を直接批判するものではありませんが、今後の在り方として入所施設ではなく、地域での生活を基本に進めていくべきです。  国も「施設からの地域移行」を掲げて10年余りが経ちますが、今回の事態をきちんと受け止めて抜本的な地域移行策を打ち出すべきです。施設や病院に誰も取り残されることなく完全な地域移行が可能となるような計画と、どんな重度の障害があっても地域で暮らせるように重度訪問介護などの地域生活支援を飛躍的に拡充して下さい。 (2)「殺されてよい命、死んでよかったというような命はない」との毅然としたメッセ―ジを社会全体で  多くの障害者、関係者は今回の事件に強い衝撃と怒り、悲しみと恐れを抱いています。私たち全国青い芝の会は優生思想を絶対認めません。「殺されてよい命、死んで良かったという命はない」といったメッセージを社会全体で共有していくことが求められています。優生思想というと、戦前のナチス時代にあった過去のことと受け止められがちです。しかし、日本では「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止することを目的に掲げる優生保護法※が1996年まで続きました。障害者や関係者の粘り強い運動でようやく廃止されましたが、優生保護法下で行われた不妊手術などの被害者に対する謝罪や補償は、いまだになされていません。  過去を反省し、「優生思想は認めない」とのメッセージを託し、政府は優生保護法の被害者に対する謝罪・補償を早急に行うべきです。  なすべきは、措置入院制度の在り方検討会の立ち上げではなく、まず優生保護法の被害者への謝罪を行い、検証・保証の検討会の立ち上げを行うことであります。 以上 久留米での集会やまゆり園事件の記事 発声も不自由な日本脳性マヒ者協会福岡青い芝の会の中山善人会長(63)は車椅子で登場。「事件は優生思想が起こした。個性の多様さを認められる社会づくりが重要」と呼び掛けた 東京新聞に掲載された。【社会】 「やまゆり園」事件 被告への返信>(上) 生きる価値のない人いない 2017年7月26日 朝刊 事件で犠牲になった女性と散歩していたコースを歩く岩坂正人さん。この池を見るのが好きだったという=横浜市で  知的障害者施設の入所者十九人が元職員に殺害された「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)の事件から、二十六日で一年となる。逮捕された植松聖(さとし)被告(27)=殺人罪などで起訴=が本紙記者に宛てた手紙には、今も変わらぬ障害者への強い差別的思想がつづられていた。障害の有無にかかわらず共に歩むために、何をすべきなのか。障害者に関わる人たちから被告への返信は、社会に対する問い掛けでもある。 (加藤益丈、写真も)  「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております。私の考える『意思疎通がとれる』とは、正確に自己紹介をすることができる人間です」  丁寧な文字でつづられた、ゆがんだ思考。精神障害者を支援するNPO法人の理事を務める岩坂正人さん(66)=横浜市保土ケ谷区=は、植松被告の手紙を読み終えると、少し考え込み、きっぱりと語った。  「言葉は話せなくても、意思疎通はできる」  40年以上、障害者福祉の現場に携わってきた。十九人の犠牲者の一人は、岩坂さんに命の価値を伝え、人生を変えてくれた女性=当時(55)=だった。  1979年3月。岩坂さんは、男女計約四十人が暮らす横浜市の民間の障害者施設で働き始めた。  入所者の処遇改善を行政に訴えたいと考え、地域にも後押ししてもらおうと施設近くの住宅を署名活動で回った。だが「高い金をかけて、障害者が生きる価値があるのか」などと断られると、どう反論していいか分からなかった。障害者の世話にもなじめず、上司に「辞めたい」と相談すると諭された。「あなたは辞められても、この子たちは辞められないんだ」  そんな時、出会ったのが当時十代だった女性。知的障害のため言葉では意思を伝えられないが、岩坂さんがギターで童謡を弾き語りすると、笑顔で体を大きく左右に揺らした。散歩に行きたくなると、玄関近くに立って気持ちを伝えた。る  岩坂さんの後輩の職員が夜勤明けで疲れて和室で休んでいと、女性がどこからか毛布を持ってきて、いたわるように近くに座っていることもあった。  「自分にこれほどの優しさはあるかと考えさせられた。『生きる価値のない人間はいない』と身をもって示してくれた」  ◇   女性は九〇年代に入り、津久井やまゆり園に移った。岩坂さんはその後も園を訪れ、女性との交流は続いた。最後に会ったのは十数年前。「昔と変わらず、ニコニコして寄ってきてくれた」。だが昨年七月の事件直後、女性が植松被告に殺害されたと知った。  植松被告は手紙で、自らが園で接したとみられる障害者について「何もできない」などと嫌悪感をにじませ、「重度・重複障害者を育てることが、莫大(ばくだい)なお金と時間を失うことにつながります」と主張した。  しかし、岩坂さんの記憶にある女性は自ら意思を表すことも、他者を思いやることもできた。「何もできない」人間では決してなかった。役に立たないと思った存在は無駄だとする被告の考えが、障害者に寄り添えなかった一因−。岩坂さんはそう感じている。  「生活保護受給者へのバッシングを繰り返す社会にも、似た風潮があるのではないか。人の命をお金で換算するような考えはやめ、命を敬う社会に変えませんか」 ごろりんハウス20周年記念行事資料から インクルーシブ教育(支援教育)の視点からみても進路保障が必要です。その当時、まだ地域の小中学校に「重度障害児」が行くことができなった状況があったため、運営委員会を発足し、とりあえず場所を確保することが必要でありました。そこからしか何もはじまらないと考えました。ごろりんハウスを地域でだれでもが集まる場、障害者の活動の場としても位置付けていました。教育のホットラインをひき、教育相談会や分けない教育講演会を開きました。資金も無いところでどうしていくのか討議しました。運営資金がなければ何もできませんので緊急に集まる場から作業所へ変更しました。資金は「まるは油脂」の石けんを売ることにより、1年間の資金を借ることができました。一年で作業所の補助金が市から出るようになりました。支援員はボランティアでしのぎできました。日本青年奉仕協会から2年間の男性ボランティアを派遣してもらいました。車は日本財団、赤い羽根募金からの寄付、改装費についてはグリーンーコープの助成金で補うことが出来ました。 インクルーシブ教育(支援教育)の視点からみても進路保障が必要です。その当時、まだ地域の小中学校に「重度障害児」が行くことができなった状況があったため、運営委員会を発足し、とりあえず場所を確保することが必要でありました。そこからしか何もはじまらないと考えました。ごろりんハウスを地域でだれでもが集まる場、障害者の活動の場としても位置付けていました。教育のホットラインをひき、教育相談会や分けない教育講演会を開きました。資金も無いところでどうしていくのか討議しました。運営資金がなければ何もできませんので緊急に集まる場から作業所へ変更しました。資金は「まるは油脂」の石けんを売ることにより、1年間の資金を借ることができました。一年で作業所の補助金が市から出るようになりました。支援員はボランティアでしのぎできました。日本青年奉仕協会から2年間の男性ボランティアを派遣してもらいました。車は日本財団、赤い羽根募金からの寄付、改装費についてはグリーンーコープの助成金で補うことが出来ました。  1997年「障害者の人権と文化を創る共同作業所ごろりんハウス」としてスタートしていきました。作業としてコーヒー、石鹸販売を行い、人との関わりを持つことにより、電話のかけ方、挨拶等生活習慣を身につけ、作業技術を学ぶためにだしパック詰め、ゴムのカッティング、木工作業、すき間テープの袋つめ等を行ってきました。一方では納期が決まっているために職員の仕事になりがちになり誰のための作業なのかあいまいになっていくおそれがありました。  また、ごろりんハウスの存在を地域に広めていくために土曜夜市への出店、様々なバザー出店などを行ってきました。 地域活動支援センター(旧作業所)の必要性 生活に必要な学習、例えばデジタル時計アナログ時計の見方を学んだり、文字を覚えることによって自己表現を豊かにしたりしています。調理教室を開き簡単な料理を作ることによって食べる喜びも作る喜びも感じることができました。街での買い物によって金銭感覚が身につくようになりました。さらには、利用者がレクレーション、キャンプ、行事の企画をすることによって自己主張することができるよう、支援員、学生ボランティアにも働きかけるようにしています。キャンプ等は作業所の仲間だけではなく、施設、在宅障害者、市民の参加もあります。多くの人との関係づくりができています。共催していく団体も各新聞社をはじめとして20団体を超えています。 地域活動支援センターごろりんハウスとして、本人の思い、ニーズを支援者が一方的な思いで支援を行っていなかったか、本当に理解をしていたかどうかが私支援員に問われていることが課題にあります。 就労しても周りの人との関係づくりがうまくいかずに事業所の障害者への理解不足のため作業に対する意欲を無くして、当センターに帰ってきていることも現実に受け止め、足りなかった作業支援、生活支援を行ってきました。また、病院の支援、居宅サービス事業所とのネットワークづくり、さらには、障害者生活相談センター、就労支援・生活相談センター等とのネットワークを広げてきました。個々のケースによってはケース会議を開き諸問題に取り組んでいます。 また、支援学校、支援学級からの作業実習、利用者が就労に向けた実習に行っています。 当初の理念からかけ離れることは法人としてあるべき姿ではありません。改めて障害児教育の視点からみても進路保障が必要ですが、その当時はまだ小中学校に「障害児」が行くことができなった状況があったため、地域で集まる場障害者の活動の場としても位置付けていました。 ごろりんハウス通所者にとって本当に必要としているのかを考えます。それは地域で生活し、生きて行く力であり、就労だけで片付けられるものでもありません。 私達を取り巻く状況 全ての人権について作業を通して活動を行ってきました。八月には戦争体験をしておられる利用者から戦争体験の話を聞く中で平和について考えることや佐賀で起きた安永健太さんが警察官に殴られ殺された事件の署名活動などを行ってきました。優性思想が根源となっている障害者差別、社会は大きく変化しました。同和教育から人権教育にかわり差別から学ぶという視点はどのように捉えられているでしょうか。だれでもが落ち入りやすくなるのが差別の現状を知ろうとすることなく、人権という言葉を入れかえることによって人の権利は与えられたように捉えられようとすることです。国連が提唱している障害者権利条約は多くの国が批准しているにもかかわらず日本政府は未だに批准していません。障害者差別禁止法も国会でも採択されていません。明治政府は、北海道に本土から開拓団を送り込み、アイヌの人達に差別と偏見を創りアイヌの文化までも踏みにじり、そのことを認めようとしませんでした。2009年政府はアイヌの人達に先住民族として認めました。世界の金融崩壊から不況が続き、貧困差が子どもにも直撃しています。私達福祉の世界にも直撃しました。就労している障害者は解雇させられ、自立しようとする希望を失わせています。さらには、授産施設、作業所の軽作業が減り、また、定着就労や就労実習先もなく、障害者就労にも影響をあたえています。貧困を加速され、格差が増大していっています。老人、被差別者をおそっています。社会の中では、個別主義の中において、益々自分の於かれている立場など忘れがちになっていく危険性を孕んでいます。弱い者がさらに弱い者を差別社会に落とし込んでいます。貧富差が大きくなって来ています。さらに、科学、医療の技術による人間の倫理や自然の倫理をゆがめるものになっています。それは、人の尊厳や個性、価値観をふみにじり、障害者差別を助長していきます。個別主義によって差別感は見えににくくなり、障害者差別は障害者総合支援法の中で見えなくなっています。 先に述べているように、障害者の感性、個性、価値観を生かして行くことが自立と言えると言えます。しかし、障害者差別は日常的に受けていることは現実です。私達から言うならば何をするにも施設職員、介護者の顔色を伺いながら生活を送っていたのがヘルパーに置きかわっただけです。施設や親元から離れて自立生活を送っている障害者がいますが、ただ部屋を借りヘルパーに介護してもらって生活を送っているようにみえます。これで、「自立・生きる力」を生かすことができていると思われるでしょうか。私達障害者の自立生活は世の中の価値観を変えていくためだと思います。自立生活を行っていくために障害者は積極的に社会参加し、活動を行うことです。そのことによって障害者差別を無くし、快適な生活を送っていくために「真の共生社会」を創ることができるのは私達障害者であるといえます。障害者差別が、このまま、隠蔽されていく現実を踏まえ、社会、教育、福祉の中での隠された差別との闘いが必要であり、支援サービスもまた、このような状況と理念を踏まえていかなければなりません。 当法人の方向性 私達法人は、次のような方向性を掲げて活動を行います。地域活動支援センターV型(旧作業所)としての役目を終え、このままでいくことが、本当に私達の理念に即しているのかと考えます。それぞれの障害者のニーズにどう応じて合わせていくのかを当法人は問われています。人権・福祉をつなげていくため、次のような事業計画をたてて活動をしていきます。本当に利用者のために今の事業がなされていたのか、支援の中身が自己満足になっていないのかが問われているところもあることも認めなければなりません。その上でこのような緊急に事業の変革を行わなければなりません。就労支援事業・生活支援事業、就労支援センターネットワークをますます広げていかなければなりません。「利用者をはじめとして全ての障害者が地域で生き生きとした暮らしを目指していく。」今の利用者のためや支援学校・支援学級を卒業した若い青年のために就労継続支援B型或るいわA型にしていく必要性がでてきたと言えます。地域活動支援センターでは集まって来ない現実もあります。定着就労のために、法人自身が「雇用開拓」、自立訓練室、グループホーム、ケアホーム等、就労支援センター の総合支援法の個別給付事業が必要となっています。利用者の賃金も上げて行くことも必要だと考えます。利用者の負担を無くすことが必要だと考えます。私達法人は、次のような方向性を掲げて活動を行います。地域活動支援センターV型(旧作業所)としての役目を終え、このままでいくことが、本当に私達の理念に即しているのかと考えます。それぞれの障害者のニーズにどう応じて合わせていくのかを当法人は問われています。人権・福祉をつなげていくため、次のような事業計画をたてて活動をしていきます。本当に利用者のために今の事業がなされていたのか、支援の中身が自己満足になっていないのかが問われているところもあることも認めなければなりません。その上でこのような緊急に事業の変革を行わなければなりません。就労支援事業・生活支援事業、就労支援センターネットワークをますます広げていかなければなりません。「利用者をはじめとして全ての障害者が地域で生き生きとした暮らしを目指していく。」今の利用者のためや支援学校・支援学級を卒業した若い青年のために就労継続支援B型或るいわA型にしていく必要性がでてきたと言えます。地域活動支援センターでは集まって来ない現実もあります。定着就労のために、法人自身が「雇用開拓」、自立訓練室、グループホーム、ケアホーム等、就労支援センター の総合支援法の個別給付事業が必要となっています。利用者の賃金も上げて行くことも必要だと考えます。利用者の負担を無くすことが必要だと考えます。 将来は、非営利団体が使えるセンターにしていきたいと考えています。  それと共に職員の待遇改善することよって、職員の定着につながるようにと考えられると共に人権意識と仕事に対する責任感等が出てくることが考えられます。利用者全ての人が「地域で安心して生活」していくために何をしていくのかを考えなければなりません。 最後に、こういった関係の中で、さまざまな人から支援され、生きてくることができたことは、障害者として本当によかったと思っています。またこの本の出版にあたり、さまざまな人の例を出させてもらった。深く感謝するとともに、今後の私の人生を見据えてくださることを切に望みます。 中山 善人経歴 1953年  福岡県朝倉市に生まれる 1961年  甘木市立安川小学校入学 1968年  福岡県立新光園入園(福岡県立養護学校新光園分校中等部に在籍) 1971年  障害者問題についての活動を始める(たちあがろう会) 1976年  福岡青い芝の会を結成し、脳性マヒ者の自立と解放を目指し活動を始める 1976年〜78年  全障連九州ブロック代表をつとめる 1979年  久留米市にて自立生活を始める。特に障害者差別の根源となっている優生思想との対決を図っていく 1981年〜  日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会副会長をつとめる 1983年〜98年  全国青い芝の会会長をつとめる 1995年  障害者の高校進学福岡県連絡会を発足し、事務局長をつとめる 1996年  統合教育視察のためイタリアを訪問(ボローニャ大学など) 1997年  障害者の人権と文化を創るごろりんハウス代表をつとめる 1999年  久留米市障害者支援センター事務局委員をつとめる 2000年  ホームヘルプ・デイケア事業研究会が発足し、事務局長をつとめ 2001年  米国CLR運動を視察する 2004年  NPO法人ごろりんハウスの会代表を務める 210年  久障運営委員会海の理事を務める 213年  福岡県障害者差別禁止条令を創る事務局委員を務める 205年  インルーシネット福岡代表を務める {NPO法人ごろりんハウス}経過 1997年 「障害者の人権と文化を創る共同作業所ごろりんハウス」として御井町に開所 2003年 特定非営利活動法人に運営を移行 2004年 NPO 法人取得 2007年 自立支援法の下で地域活動センターV型として活動 2007年 御井町から御井旗崎へ移転現在に至る。 2016年 相談支援事業所を開所 2017年  地域活動支援センターから就労継続B型へ移行