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名谷和子氏インタビュー

2018/08/30 於:東京都世田谷区  聞き手:藤原良太

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(インタビュアー注:以下、インタビュー中に出てくる子どもたちの名前はAから順にアルファベットを当て、変更した。)

名谷氏 大学生の頃に、学芸大学だったんですよ。小学校の教員にまあなろうかなと思って入ったんだけど。私が卒業するのが78年だから、79年から義務化になるじゃない? で、私は小学校の社会科の教員養成課程にいたんだけど。学芸大って、あの頃A、B、C、Dって別れてて、Aが小学校でBが中学校で、Cが養護学校で、Dが高校の教員養成に別れてたのね。今はどうなってるか知らないんですけど。それで、C類に高校からの時の友人が入っていて、彼女、C類の人だから養護学校の人とつながりがあるじゃない? それでボランティアを頼まれて、北養護学校って、今、北養、まだあると思うんだけど、北養護学校って肢体不自由の養護学校の人たちが、卒業しちゃうとどこにも行くところがなくて家にいることが多いので、その人たちが同窓会のように集まってどこかに行くっていうのの手伝いをしてって言われて。それで初めて本当に、車いすに乗った障害者の人と出会ったのはそこが初めてかな。で、その人たちが…、そん時はどっか行ったのかな、で、電車に乗って、車いす押して行くっていうようなことから出会ったんだよね。
 そしたらそこからいろんなそういう、障害者の人たちのところに行くようになったら、一方で、学校の中、学芸大学の中で新しく新しい棟が建つと。研究の棟が建つと。で、それをすごく反対してる人たちがいたのね。で、何で新棟反対運動してるかって言ったら、全然、私はノンポリだからそういうの全然興味なかったんだけど、何で反対してんのかを聞いたら、養護学校が義務化になるので、子どもたちの調査とか検査をするための棟ができると。それで反対するって。で、その時思ったのは、何で、義務化したらね、障害の子は誰でもみんな学校に今まで入れなかった子たちも入れるんだったらいいのに、何で反対するのかな、ぐらいに思ってたんだけど。そしたら、たまたま私を誘ってくれ…、誘われて関わったその会の、私よりも年配の人たち上の人たちが、ちょうど養護学校反対の障害者の人たちとの関係もあったわけ。それで、その人たちと出会うことができたんですね。だから今…、あの頃、はっきり分かれてたから、全障連と全障研かな。障害者の養護学校ができて、それを進めた方がいいって人たちと反対だっていう人たちがいて。私はたまたまそれに批判的な人たちと出会ったわけよね。だから同じ障害者の人でもほら、パターンが二つあったわけじゃない? 養護学校義務化推進派とそうじゃない派みたいな。それが本当に偶然だったんだよね。だからそれで逆の人と出会ってたら、自分は今どうなってるかな(笑)、っていうふうには思うぐらい。そこがもう、きっかけ。その経過の中で、例えば横山さんって知ってるでしょ(インタビュアー注:横山晃久氏。「自立生活センターHANDS世田谷」代表)。HANDSの。彼は梅ヶ丘に住んで…、光明養護学校の近くに、ご自宅も近くにあって。で、何か同じ…、彼の一つ上ぐらいなのかな、だから私は大学生だったんだけど、彼はもう家を出て自立生活をした、みたいな。してたのか自立生活したのか(?)、もう忘れちゃったんだけど。で、彼らの介助に入るようなこともあって、例えばあの時、梅ヶ丘にスロープができたんだよね。光明養護学校ができたからって。スロープの、開会…、何つうの? オープニングには全然障害者を呼ばなかったとかいうようなこととか、スロープも昔のスロープはいつでも使えるんじゃなくてピンポーンって押して何かやんなきゃいけないよね。そんなんで横山さんたちが反対するようなこととかにも一緒に行ったりして。だから、最初は養護学校ができたほうがいいなって本当に思ってたわけよ。だけど、養護学校、行った人たちが駄目だっつってるんだからおかしいんじゃないの?っていうぐらいには思ってた。
[00:05:06] その時、同時に、そのあと『養護学校はあかんねん!』の映画ができたわけじゃない? ちょうどその世代だったんだけど、あの映画に出て行く時に、私の知ってた障害者の人たちはたぶんそこに行ってたんだと思うんだよね。須田くんとかも知ってたから。世田谷ね。知ってたんだけど、彼らがあそこで座り込みしてたりする、してたことは知らなかったのね。うんとね、バスの乗車拒否のことで厚労省に行ったのは覚えてるんだな。障害者の人のボランティアで。それは行ったのは覚えてるんだよね。乗車拒否、バスのね。そういうので関わっていたんだけど、まあそんな深入りはしてなかったから。そんなのもあったんで、友だちもいたことで。学芸大って免許が取れるんだよね、私は小学校なんだけど、もう少したくさん取れば養護学校の免許も取れるっていうんで、それでその免許も取ってたから、就職した時には、漠然と普通学級で障害のある子も一緒がいいぐらいには思ってたし(笑)。まあそこまでははっきりは決めてなかったけど、障害のある子だけが集まったのはいけないんだっていうふうにずっと思ってたわけね。だけどふたを開けてみたら、世田谷区の教育委員会から面接に来てくださいって言われて。世田谷区の教育委員会の面接は受かったんだけど、どこに割り振りあったかっていうと、尾山台小学校の、けやき学級っていうんですけど、けやき学級になったわけ。で、何か、「免許も持ってるし」とか言われて。本当は違うんだけど(笑)とか。でも、どうせいいや、1年か2年、やったら、あの…、ね。で、「本当は希望してない」ようなこと言ったのかもしれない。そしたら校長が「1年か2年、やったら、だいたいそういう人が多い。」とか言われて。でもその、「他の免許がなくてもやってるんだから、やれたらやってほしい。」みたいなこと言われて。そいで、まあとりあえずは就職するかと思って入ったわけ。
 で、入ったところで、やっぱり変だよなあ、とか思っていて。で、そういうことで何か…、たまたまそういう時代だったんだよね。一つ上の…、その頃って、新採の人ともうすぐ退職するみたいなおじいさんおばあさんとのペアみたいなのが、わりと多くて。でも周りはまだみんな組合員だったから、まだ現場で日の丸君が代とかにも反対、何か職員会議でとかしてたんだよ。たまたま私と組んだ先生が、子どもに対するやり方とかそういうことについては私はすごくその先生にいろいろ反発したけど、彼は、まああの頃もう60歳近かったんだからかなり戦争体験もあった人なんだよね。だから日の丸君が代には反対だと。ところが自分は、運営委員会つうのがあって、そこのメンバーなわけよ、主任だからね。それだけど、そこでもう原案は反対したけれども原案が通っちゃったから、職員会議で発言する…、今考えてみたら発言したっていいと思ったんだけど(笑)、思うんだけど、名谷さん…、あ、あの時は鈴木さんつったんだけど、「鈴木さん、どう思いますか。」って言われたから、漠然と、もうそういう世代だったから、「いや、別にそんな歌わなくてもいいと思うし、卒業式はもっと子どものためにあっていいんじゃないかなと思います。」みたいなことがあって、…ようなことから、だったらその卒業式…、自分が言えないから職員会議で発言してくれ、とか言われちゃって。それで何か、それようなこと、自分…、で、たまたま私が育った環境はたぶんそういう先生たちがいたんだろうね。戦後の…、私は昭和でいうと30年だから55年生まれで戦争終わって10年後に生まれてるから。その頃、先生たちだったって人たちはバリバリの日教組ばっかり集まってたんだよね、きっとね。だからそんなの全然なかったわけ。で、すごく私たちに、自分たちの卒業式は自分たちで考えろみたいなことずっとやらせてもらってきたから。そう、小学校は私、でも、君が代歌ったような気がするんだよね。だけど中学と高校はそういうところだったから、自分もそういうふうに育って来たので、っていう話をしたら、その校長が、すごい、「こんな新卒を選んだ自分が悪かった。」みたいなことを言って(笑)、「自分の目の黒いうちは絶対そんなことは駄目だ。」とかって。「こんな新採がそんなこと言うなんて許せない。」とかって怒ったことだけは覚えてんだけど。そんなことがあったりして、そしたら組合の先生からも声かけられて、組合にも行くようになったし。あと、交流をやった方がいいと思ったわけ。ところが交流は、何か、できる子しかさせないわけ。

藤原氏 ああ、そうなんですか。学校が?

[00:10:30]
名谷氏 学校のその、クラス、先生…、だから私が…、私、日の丸君が代では私と同じ考えを持ってる先生なんだけど、その人が、私が交流するなら全部した方がいいと思うんだけど、結局できる子からしかやらないっていうね。私はもう、絶対、交流やった方がいいと思ってたんだけど。でも、普通学級の先生からもシャットダウンされこっちからもされ、みたいな。ただ、たまたま、牛島さん(インタビュアー注:牛島貞満氏。教師として統合教育を実践。「普通学級で『障害児』を受け持つ担任と親の交流会」に結成当初から現在まで関わっている。)。牛島さんといっしょに新採で入ったわけ。

藤原氏 あ、そうなんですね。(笑)

名谷氏 それが、もう(笑)、それがね、やっぱりあれだと思うよ。それで、その時私が日の丸君が代の話をしたら、まあ彼はバリバリの学生運動派だからさ、何か私に、全然別に後ろで相談したわけでも全然なく、言ったから、でもその時たぶん牛島さんも何か言ったんだと思うんだよね。で、その、とんでもない新卒が入って来たって(笑)。二人入って来たみたいな(笑)、感じだったんだと思うんだけど。それで、牛島さんは受け入れてくれるって言うんだけど、もう、入って来たばっかりだから、周りの先生から駄目とか言われるわけよ。で、結局、交流も上手くいかず思うようにもいかない。でも、おかしいよなと思いつつやってたら…。で、世田谷の障害児学級の人たちだけが集まる担任会みたいなのがあるのね。その中の先生で、今、交流会…、この前ほら、橋本さん(インタビュアー注:橋本則子氏。「普通学級で『障害児』を受け持つ担任と親の交流会に現在まで関わる。退職後も主に親たちからの相談に応じている。)っておばあちゃん来たでしょ? 彼女がまだバリバリだったんだよね。彼女も、ずっと障害児学級やってるんだけれども、まあ北村小夜さんと同じだよね、そのことがいいとは思ってないみたいなことだったみたいで。で、たまたまその担任会みたいなところで、まあ交流しなかったことを言ったのか…、ああそうだ、河口湖移動教室っていうのに行くんだよね、障害児だけの連合で。そうするとそれは3年生以上が行くわけ。そうすると1年生と2年生は学校休まされちゃうわけ。それっておかしいでしょって私はすごく思ったわけ。そんなのおかしいってね。じゃなかったら(?)、普通学級に行くとかそれとも担任が一人残って行くとかっていうことで、絶対そんなのおかしいって言って。最終的には1年生から行くようになったんだけど、次の年か次の年ぐらい。そういうことを言ってたら、それこそ橋本さんとかに声かけられて。ちょうどその頃たぶん義務化の年だから、そういうことでこう、共にっていうことの運動とかもあったんだと思うんだよね。それで、北村さん、組合の何か学習に誘われて行ったら北村小夜さんに出会った。大田区の。で、その時に初めて見させられたのが、『たとえば障害児教育』って、豊中教組が作った映画を、世田谷…、あ、東京で上映会…、たぶん組合…、教員仲間で見ようとかいうイベントだったのか分かんないんだけど、行ってそこで初めて北村先生にお会いしたのかな。そんなことをやって小夜さんとも出会って。で、教員の中には二つあると。組合員は同じだ…、組合の中には…、組合に入ってない人はもう全然別だとしても、組合の中の対立がすごかったわけよ。いわゆるまあ政党でいうと、共産党系か社会党系みたいな。今で言ったら、日教組か全教みたいな感じだったんだけど。で、その時、組合、別れてなかったから。そこで自分の立場性がだんだん。それもやっぱり世田谷に入ったからそれがはっきりしてきたんだと思うんだよね。当時みんな一緒だったから、東京都の、都教組全体の中で、10個の支部だけが反日教組派だったわけ。つまり、「共に派」だったんだよね。で、たぶんご存知だと思うけど、二つ違いが…、三つか。あのほら、ストをするかしないかっていうことで、教師聖職論みたいな感じで共産党系の人たちはストはしないっていうことだったよね。で、それは違うだろうっていうのが一つと、それから解放同盟に対する考え方がやっぱり二つに分かれてたのね。部落差別に対する運動論がやっぱり二つに分かれていたんだよね。それと障害児のことと三つ。
[00:15:12] その三つの考え方も一緒なんだけど、その人たちを中心とする人たちの支部が10支部あったわけ。世田谷…、覚えてないんだけど(笑)。少なくとも大田ね、小夜さんがいた大田。片桐さんが育った品川。私が育った世田谷。23区、あと目黒と港と新宿と、あと、どこだろう。あとはこっちの支部かな、八王子? それから西多摩。それから国立のあった西…、何か、国立市の中…、国立は支部じゃないんだけど国立がそうだったんだよね。あともう1個どこか忘れちゃったんだけど。あ、墨田だよ、墨田(笑)。墨田があったね。その10支部はそういう障害児教育に関しても「共に」だったわけ。それも本当に、私も世田谷に就職したからそうであって、逆に足立に入ったらどうだったかは出会った人たちとの関係で、そんなに自分にこう何つうの、確固たる芯があったわけじゃなくて、たまたま出会った人たちで「養護学校はおかしいんだ。」とか言われてたからだったんだけれども。で、そういう視点で学校の様子を見てると、交流もさせてくれない、ね、本当に普通学級の教員こそもう本当に差別者だ、とか思ってたし(笑)、そういうような感じの中でいたのでね。で、そんな中から、でも一応ね、尾山台小学校、2年やったら辞めようかと思ってた、普通学級行こうと思ってたんだけど、たまたま、私の家ってこっからそんなに遠くないとこなんですけど、尾山台ってすごい…、ここ世田谷の北でしょ。一番南のところにあって、すっごい通うのが大変だったんですよ。電車3本ぐらい乗り継いで行かなきゃいけない。で、すぐ、就職して次の年に結婚しちゃったので、すごくあの…、たまたま山崎小学校の障害児学級の人が二人いっぺんに辞めちゃうんでよく知っている人が入って来た方がいいからって言って「遠くて大変でしょ」みたいな感じで言われて。「でも私、2年あれしたら辞めるつもりでいるんですけど」みたいな感じだったんだけど、まあとりあえずと思って行ったのね。そいでまあ、入ったらなんとなく辞められずに、とりあえず3年間はやるんだけど。でもやればやるほどそういう思いはあったかな。その間に交流会もできたんだと思うよ。交流会いつできたのかな。「10年目を迎えた」って書いてある。「10年目を迎えた」って、だからたぶん83年ぐらいにできたんだね。うん。そうだね。ああ、そうだ。ここだ。そのあとだね。普通学級行ってだね。行った時にあった(?)んだね。だから交流会ができた経過っていうのは、世田谷は、がっこの会って知ってる?

藤原氏 ああ、はい。

名谷氏 がっこの会があったわけじゃない? それから、こぶたの学校第4日曜日の会もあって。そうすると、教員、私たちの中には少しそういう考え方持ってる人がいても、教員の意識はすごく遅いわけよ。だけど現実、さのゆうすけが入って来るなり、がっこの会があって、で、こぶたの学校もあったから、その運動で、障害のある子はどんどん入ってきたわけよ。それこそ彼らの運動がいっぱいあって。で、世田谷方式もそこで発掘…、出てくる。世田谷方式つうのは、そういう言い方は言っていいかどうかわかんないけど、できたきたわけ。だからもうすでにできていったわけ。ところがそういうふうにして入って来たので、組合の大会になるともう意見が二つに別れちゃうわけ。で、一応、世教組は世教組で「障害のある子も共に」っていうふうにはなるんだけれども、みなさん本音はそうは思ってなかったわけね。まあ「そんなの絵に描いた餅だ」みたいなような感じだけども、で、他のことでは修正案が出ても結構、少数否決になるんだけども、障害児の一緒に学ぶってことに関しては、結構、修正案ぎりぎりで通るみたいな状況だったわけ。つまり、組合を支持してる人の中にも障害の…、だから本当に少数派だったわけよ。それでも、かろうじてはできてたわけなんだけどね。そんな状況の中で世田谷はあったわけね。それで、なぜ交流ができたかって、ちょっと飛んじゃうかもしれないけど、交流会はそんなんで…、その時に牛島さんも、今年キャンプに来てたでしょ、A君(インタビュアー注:普通学級で「障害」児を受け持つ担任と親の交流会が毎年キャンプを実施している)。

藤原氏 ああ、はい。

名谷氏 彼が、牛島さんが出会った、普通学級で担任した最初の障害児だったのね。

藤原氏 あ、そうなんですね。あ、長い付き合いなんですね。(笑)

[00:20:27]
名谷氏 うんうん。それがね、実践がどっか、あ、もう載ってないかもしれないな。どっかに載ってるかもしれない。そういう長い付き合いなのね。それで結局、組合の中で、そんな空中戦でやるんじゃなくて実際、実践しようよということになって、それで普通学級で障害児を担当する担任と親の…、あのね、最初は担任の交流会だったの。普通学級で「障害」児を受け持つ担任の交流会。要するに、担任で、中にはバリバリの組合員の先生もいて、組合がそう言って言ってるんだから担任はするよ、と。だけど実際どうしていいかわかんない、と。でも本当にいいの? とかね。そういうのを話し合おうよっていうことで、始め作ったの。始まりはね、担任のこう、いろいろ交流しようよって、困ったことあったら話し合おうよ、とかいう交流会から始まったの。で、月1回集まっていろんな話をしてたんだけど、そのうちだんだん、担任をしてた時の親御さんも来るようになって。それで、じゃあ担任と親の交流会にしようって何回目からか名前が変わったんだと思う。で、今や、何か担任は少なく親ばっかり来てる状況なんだけど(笑)。そうやってできたのね。
 それで、だから世田谷は80年代に…。あ、そうだ、全国連の何かあの…、今日のレポートを書くんで、全国連の何か調べてたら、がっこの会の人のレポートが入っていて、その時にもうすでにね…、今、探せば出て来るとは思うんだけどあれなんだよね、すでに80年の時に運動して就学時検診を拒否しようっていうので、がっこの会が世田谷で、もうきちんとこの時代でできちゃってるんだよね。だから世田谷では…、ここかどこかに書いて…、あ、ここにちゃんと書いてある、とか思ったんだ(?)、区との…、あ、そうだそうだ、だから、就学時検診止めさせることはできてないけど、東京の世田谷教育委員会に強制はないということを認めさせ、区のお知らせにも「就学時健診は強制ではありません」と書かせているんです。うん。とか、「保護者の希望は尊重する」というのも一筆書いてるのね、その時の教育長か何かが。だから一応、世田谷はもうずっと前から保護者の希望は最終的には尊重するっていうのはあるわけね。それはそういう運動がずっとあったからなんだけどね。うん。

藤原氏 なるほど、それがこう、世田谷方式と暗黙のうちに呼ばれるてるというか、呼ばれるようになったというか。

名谷氏 うん、世田谷方式ってわけじゃないけどね。何をもって世田谷方式っていうのかわかんないんだけど。それからこれね。会との関係のある人ならば、どういうこと? って。そんなことはなくて、一応希望者は全員。ただ、いつでもそうだけれども、今の状況で言うとね、就学相談受けるじゃん。そうすると、ちょっとしたテストみたいなのして所見が出るわけだよ。ね。と、保護者は普通学級希望してるんだけれども、その子が特別支援学級的とか学校・適って出たときに、で、「結果は学校適でしたよ」って例えば教育委員会の人が言うと、でも「普通学級に行きたいです」って言ったら、急に何か態度が変わるって言ってましたね。それは駄目ですとは絶対言わないんだけども、すごい態度が変わっていろんなお母さんが言うこと…、まるで非国民のような扱いをされたとかね、いう感じ。それから「どうぞ勝手に行ってください」と。「でも何にも知りませんよ」みたいな言い方とかね。結局、普通学級に行ったら支援員がいますよとかそういう情報も流してくれないしっていう。それが世田谷方式っていえば世田谷方式かもしれない(笑)。うん。だから別に…。で、会と関係してる人たちは事前にそういうもんだと思って行くから、とにかく、そんな嫌な想いするんだったらもう行かない。就学相談受けない。ね。で、就健も行って嫌な思いするんだったら受けない。その代わり、「就健の前に就健を拒否するけれどもこの学校に入ります」って手紙出しとけばいいよ、とかね。そんなようなことを、会としては言ってる。どうせ行っても嫌な思いするんだからとか、就学相談には着ましたけれども普通学級でやっていくためにどういうふうなことが、相談に乗っていただくんだったら相談に乗ります、と言うとかね。そんなふうにしたらいいんじゃない? とか、うん、ていうようなことはずっとやってきたな。

藤原氏 ああ、なるほど。

[00:25:30]
名谷氏 うん。で、普通学級じゃなくして、就学は受け入れる体制を作ってきて。まあそれで何回もずっとやって来たわけだよね。それで、えっと、親の付き添いを求められてずっと来てるわけでしょ。だけど基本、差別解消法ができる年の前の年から、一応世田谷は学校包括支援員っていうような、各校に一人、最初は3校に一人だったのが一人つくようになって。それまでは学校相談員みたい人が二十何人いて、それも私たちがずっと毎年もう30年間、毎年毎年言ってきて、一人ひとり。それでもなかなか進まなかったんだけれども。うん。でもとりあえず、保護者の希望は尊重するっていうことね。それから、でも親の付き添いはかなり強いられてたよね。でも「もう行きません」ってなったら、結構仕方なくどうにかやってたんだけど。最近の保護者の方もそこまで闘わないから(笑)。「置いてきちゃえばいいのよ」みたいな感じはとてもしないから、うん、付いちゃったりもしてたんじゃないかな、そのへんが弱いっちゅうかね、あるけどね。…とか、ここに、もう何十年も前の話だけど、やっぱり(?)、同じこと言ってるなと思うのは、要は教育委員会とならバチバチ権利を認めてやれるんだけど、対学校となると子どもがお世話になる学校とかなると何か言えなくなって、嫌われたくない、みたいに思っちゃう。それってずるいなと思うんだけど。本来、就学決定をするのはそこの校長でも学校でもないし教育委員会なんだから、教育委員会とだけ話せばいいんだよ。就学通知が来たら学校行ってもいいけど、それまで行ったっていい思いしないんだから行かないっていうのも世田谷方式って言えば世田谷方式かもしれないけどね(笑)。で、就学通知が来たら行けばいいんだよ、って。でも就学通知があるんだから親が付き添いなさいって言われても付き添えませんって言ったら、じゃあ私も言うけど校長先生も区にどうにかしてくださいって言ってください、とか言うと、この親はなかなかみたいに言ってもしょうがないと思うと、教育委員会も、あの、何ていう…、だから制度にしないわけ。個別対応でずっときた。だから世田谷方式じゃない、制度はしないわけ。制度としてできたのは、学校包括支援員が各校一人ずつ付いて、それから支援員で足らない分は包括支援員…、支援員、ただの支援員が、こうまたアルバイトのかたちで、そういうのは制度としてはできたのは最近だよね。あとはみんな個別対応。力関係の、あれの、賜物みたいな感じ?

藤原氏 その時は親御さんが校長先生と一緒に区に言うっていうよりも、会が関わってというか会と親御さんの連名みたいなかたちですか。

名谷氏 …が、多かったかな。学校は学校でやってくれるけれども、こんな校長がいたからひどいんじゃないかっていうことで、やっぱどうにかしてください、っていうことでやったりとかしてたね。

藤原氏 校長先生はそうするとわりと協力的なんですか?

名谷氏 …の人もいれば、やらない人もいるよ。何も校長からは…、だって、もう基本、来た方がいいなんて思ってなかったからね、校長たちはね。でも、何ていうのかな、制度上、来ちゃいけないとは言っちゃいけないとかさ。就学相談、就健の場は…、で、校長が、来るな、来てもいいとか来ないとか言う、校長はそういう立場にはないというのは法令上そうだっていうのはあるから、そういうことで言った校長とかが多いからそういうのをずっと指摘してきたから、そうすると教育委員会、一応そういうことは指導するわけだね。法に従ってないことに関しては。で、そういうことは言っちゃいけないっていうかね。あと、世田谷は保護者が希望すれば一応受け入れなきゃいけないっていうのは、あったから。本音は、何ていうのかな、いいと思ってなくても、だからすごく意地悪をして、子どもたちに車いすに一切触らせないとかね、教員にも触らせない。親にしか触らせないとか。ひどい差別的な対応する校長もいっぱいいたよね。

藤原氏 うーん。そういう時は異議を申し立てるというか。

名谷氏 うーん、(?)、交渉もしたけど変わらなかった人もいっぱいいるかな。

藤原氏 ああ、そうなんですね。うーん。なるほど。

[00:30:08]
名谷氏 だからよく、「あの親にはバックがついてる。」みたいなそんな感じも言われたね。(笑) で、今ちょっと活動してないんだけど、こぶたの学校第4日曜日の会っていうのは、結構みなさん、教員は…、教員じゃなくてずっとこう関わってきた人たちだったから、私たちよりもちょっと年配の方たちだから、わりとそういう社会運動とかを中心にやってらした方たちだから、すごくこう何ていうのかな、わりと活発にやってらしたから、そんな人たちにすごい人たちに学校に来られたらちょっと嫌だなみたいに思う人たちなんかは結構「あの親にはバックが付いてる」みたいな、そんな言い方をきっとしてたと思うよ、学校側や教育委員会の中には。で、今はちょっと、こぶたの学校はもうお休みしちゃってるんですよね。ほんで、交流会が引き継いでるって感じで。いつも、こぶたの学校と交流会で連名で申請したり要請書出したりしてたかな、10年ぐらい前まではね。

藤原氏 ああ、そうなんですね。

名谷氏 うん、いっしょにやってたし、こぶたの学校だけでやってたりとか、一緒に講演会開いたりとかそういうこともしてたかな。

藤原氏 なるほど、じゃ、親御さんはどっちにも関わってるというか…、

名谷氏 そういう人もいたし。こちらに来てる人も、(?)、向こうだけに行ってる人もいたし。

藤原氏 あ、じゃあもう、こぶたの学校がずっとやってきたノウハウを共有できると言うか。

名谷氏 そうそう。こぶたの学校がやってきて、こぶたの学校が得た、その、保護者の希望は最終的…何とか、といった…、ちょっとな探したんだけど見つからないんだけどね、一文があるんですよね。で、それを毎年毎年確認してきてる。ずっと行政府に、毎年、区との交渉はずっと続けてるんですけど、そこの確認事項としては、必ず、ずっと「その通りでございます」って一応は答えが返ってくるかな。そんな感じかな。

藤原氏 就学相談受ける前の就学前の親御さんって、どうやってつながってくるんですかね。

名谷氏 あのね、親御さんたち同士でつながりがあるじゃないですか。ダウン症の会とか、あと、療育のところでも。そういう人たちの知り合いで親御さんが親御さんを呼ぶっていうのがあったね。それから昔は、もう今は全然できないけれども、それこそ橋本さんとかあの人たちが、就学指導委員会に教員の代表として入ってたわけですよ。そうすると情報が得られるわけね。そうすると、就学指導委員会にかかってるんだけど、まあかなり障害重いみたいだ、でも保護者は普通学級を希望してる、みたいな情報があったら、その情報をたぶん本当は持ってきちゃいけないんだろうけど(笑)、持って来てこちらから出向いて行ったりとかしていましたね。あと、まだその時(?)、そういう意識の、持った教員もいたから就学検診でそういう人がいてもその親御さんに声かけて、「そんなことないんだよ」って言って、「こういうのがあるから来るといいよ」みたいなこととかね。そういうようなかたちでつながってたかな。

藤原氏 うーん。何か最近、交流会に先生との、先生の参加が少なくなってきたのはやっぱ…

名谷氏 うん。ほとんどない。全然ない。

藤原氏 …組合活動が減ってきたというところもあるんですかね。

名谷氏 うん。あると思う、うん。それとやっぱり、そう、組合の中でも依然として少数派だったのかもしれないね。でももっとね、本当に一緒にやったら楽しいのにな、とか。そういう、そう、そのことはやっぱり自分としては力不足だったなと思うな。若い人につなげていけなかったみたいな。まあ特に…、で、あとはほら関わってた人もみんな教員って移動させられちゃうの知ってるでしょ。だから本当にこう、世田谷にいてもせっかく出会ったのにもう他の区に行っちゃったらもうそんなに出会わないし。全国連とかに入ってくれればつながるんだけれどもっていうのもあったかなあ。うん。

藤原氏 名谷さんがこの、「なかよし」(インタビュアー注:「なかよし学級」。世田谷区の小学校で名谷氏が担任を勤めた。)から4年生、普通学級の方に移動されたのは希望で?

名谷氏 うん。もちろん希望。うん。

藤原氏 あ、なるほど。こう、普通学級で受け入れて。

[00:35:03]
名谷氏 うん、だから毎年行きたいなとは思ってたんだけど、なんとなく、そう、何か本当に、障害児学級ってね、退職する…、変な話、退職前の人が退職する時だけ来たりするんだよね。なぜかというと、そうすっとその頃は、今はどうなのかわかんないけど、給料がいいんだよね少し。何パーセントかな。それっておかしいっていう運動もあったんだけど、給料がいいから、そうするとその給料が退職金にもそれから年金にも何かどうも影響するらしく、ひどい話で、ただ最後の1、2年だけ障害児学級来るような人がいたりして。そうすると何か辞め切れなかったわけ。その人がみんな辞めてった、ひどい話で。とんでもない奴ばっかり来てたけど。その代わり、やる気もないから好きにさせてもらってたのは良かったけどね(笑)。だけども、もう限界と思って。最後に出会った人はとてもいい人だったかな。年配の方だったけどね、うん。まあ、で、彼がやるってことだったら私は普通学級に希望して変えてくださいっていって変えたんだけどね。

藤原氏 なるほど。そう言えば北村さんとかが…、北村さんは、やってたのか…、北村さんのとこに確か出てくるんですよ、その、お給料がいいように何パーセントか分は、もう、プールして…、

名谷氏 そうそうそう。何か7%だったか、とにかくあるの。で、養護学校はもっと高いの。だからよく、高木千恵子さん(インタビュアー注:八王子養護学校等に教員として勤めた。現在も「八王子保育・教育を考える会」や「障害児を普通学校へ・全国連絡会」などに関わり、就学や学校のことで悩む人たちからの相談を受けたり、「障害児・者」への排除や差別に反対する活動を行っている。)が言うけど、あの頃日本中で一番高い給料をもらってたって言ってた。つまり東京都が一番高かったわけよ。東京都の中でも障害児学級、さらに障害児学…、あの、養護学校の教員の方がもっと高いわけ。って言ってたよ。

藤原氏 ああ。そうか。そうですよね。なるほど。

名谷氏 うん。そんな感じ。そうですね。で、教師たちは、だから教師たちも結構ね、来てたよ。これもう最初の頃の名簿だけど参加名簿だけど、けっこう親も来てたかなって感じなんだけど。これ153回だよね。33回とか。うん。保護…、教員も来てた。だって教員がどうにかしてっていうかたちで来てたんだから。うん。ほら教員だよね、ここね。これ学校の名前だから、教員が来てたんだと思うよね。分科会だったのかもしれないな。うん。

藤原氏 交流会には交流会の目的というか、こういう経緯があって交流会は交流会の活動があるというか。

名谷氏 うん。…という感じで交流会やってた(?)のかな。ほかの会の関係とは、そう、全体とかして(?)、やってきたよね。うん。だから、がっこの会。がっこの会と直接会ったことはないけど、少なくともがっこの会とこぶたの学校の運動の上に、でも、がっこもほとんど活動してないでしょ。だから具体的に今、世田谷の中で教育委員会と子どもの就学のことを通してやってきてるのはうちの会だけかな。ガチャバンは、だって、あの、卒業した雄介君(インタビュアー注:佐野雄介氏。「重度心身障害」と診断され、教委・学校から普通学級就学を否定されるも、母・佐野さよ子氏と共に就学運動を展開し、小学校・中学校は普通学級へ通い、卒業した。その後、金井康治氏らと共に高校進学を目指す運動を展開。詳しくは『ぼく高校へ行くんだ――「0点」でも高校へ』(佐野さよ子著、現代書館)を参照。)の、や、大きくなった人、(?)。だから普通学級で育った人たちの、今、あれじゃない? で、HANDSはHANDSで別だけど、でもやっぱりHANDSの人とは新たな出会い…、連帯しなきゃいけないと思ってるのね。要は世田谷をそんな共生社会に保坂区長がしたいと思ってるんだったら、子どもを分けちゃだめだよねみたいなことはHANDSの人にも言ってもらいたいと思ってるから。自分たちの力が弱くなってもほかの人とは連帯しなくちゃとは思ってるんだけど。だからHANDSといっしょにやって行かなくちゃっていうようなことは考えてるよね。

藤原氏 なるほど。世田谷の学校で、学校としての取り組みが、片桐さん(インタビュアー注:片桐健司氏。大田区、品川区で教師として勤める。「品川・地域で共に生きる会」や「障害児を普通学校へ・全国連絡会」に関わる。実践を記した著書『障害があるからこそ普通学級がいい――「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(千書房)がある。)が勤めてたところの全面交流みたいなかたちで、学校としての取り組みがあるっていうところが…、

[00:39:37]
名谷氏 …ていうのはない。うん。これ本当にもうゲリラ的だね、一人ひとりの。だからそこがやっぱりこの運動の限界だったかもしれない。それが間違…、あの、うん、いまだにこう…。だからそれを、ね、そうじゃなくてっていうかたちで広めようとはしてるけれども、難しいねって感じ。だから、勤める学校で全体の取り組みとしてはなかったけれども、例えば、もう山崎小の時なんかは、ちょうどあれだったな、私が山崎小の何年生になる時だったかな、普通学級ない時だったかな…、何かあと一人で、あと一人子どもがいれば3クラスになるとかっていう時ってあるじゃん。そん時にこれもたぶんね結局失敗しちゃっ…、できなかったんだけれども…。5年生…、最初、ここか? ここじゃないな。ここの時かな。

藤原氏 ああ、6年生の人数、多いですね。

名谷氏 そう。つまり、5年生の時は3クラスだったんだよ。ところが子どもが、あの時45人学級だったから、90人いれば…、91人いたんだよね、きっとね。だから30、30、31の3クラスだった。ところが、転校しちゃったかなんかで、…うから、もう2クラスにしなきゃならなくなっちゃうわけ。それが点数法な訳よ。で、そん時に私が教えてた仲良し学級の子たちがいたので、その子を私が担任してクラスに入れれば3学級になるってことでそれでいこうって、ある一部の職員とでは、それでいこうって固まってたの。でも、一人ものすごい反対…。で、校長はわりと乗り気だったんですよ。で、いこうってなったんだけど、結局その子たちの学籍が、地域で学籍でいうと隣の学校だったの。それで来るのだめって。要するに、隣の若林小学校の学区の子…、世田谷の、やっぱほら全部のところに支援学級ある訳じゃないから、越境してきたわけよ。だ、もしその子が…、すごく意地悪だったのね、もしその子が普通学級に行くんだったら、若林小に行きなさいって言われたわけよ。

藤原氏 へえー。そんなことになっちゃうんですか。

名谷氏 そう。それでだめになっちゃった。画策したんだけど。私が担任して、3学級のまま6年生になろうってなって、親もそれは希望すると。で、校長もいいだろうとなったのに、区教委からそれはだめって。その子の学区は若林小学校なんだから、普通学級行くんだったら若林小学校に行けってことになって。そこまでしたいと保護者は思わないよね。それでだめになったようなことはあったな。だから学校としては、一緒にやること自体はそんなにバツじゃなかったと思う。ていうか、うん、まあ好きな人がやればいいんじゃないみたいなのは、あったかもしれないね(笑)。

藤原氏 それはほかの学校でもですか?

名谷氏 どうかな。まあとりあえず世田谷は親が希望したら入るんだし、だめっていうのは、そこまではっきりしてないけど、やっぱりそういう、もう世の中そういう世の中じゃないんだくらいの気持ちは、みんなだんだんできてきたんじゃないかなって思うな。うん。だからほら介助員とかも。介助員つっても、その頃は退職した人がなってたね。

藤原氏 うん。ああ、なるほど。そうなんですね。

名谷氏 退職した人が付き添い、介助員って言わなくて、何つったかな。うん。何か…。区費の介助員も来たし、それから、うん…、

藤原氏 加配ですか?

名谷氏 嘱託。嘱託員て言うのね。今、嘱託って言わないでしょう。嘱託員が障害のある子に対応するっていうのを、世田谷、積極的にやってた、だから。だから、それこそ乙武くんなんかも、そういうのが付いてて来てたと思うよ。

藤原氏 ああ。そうなんですね。

名谷氏 乙武くんは、用賀小、用賀中だからね。だからそういう嘱託員がついて。お母さんも付き添ってたかもしれないけれどね。うん。

藤原氏 なるほど。学校としての取り組みがなくて、学校の先生たちが各々やってく中で、こう…、

名谷氏 だって、学校としての取り組みっていうのは校長も含めてやるわけでしょう。でも、そういうふうには文科省がそうなってないから東京都教育委員会だってそれを推進してないし、世田谷教育委員会だって、それを何て言うのかな、いいとしてはいなかったと思うよ。だから、教員たちがやってる分にはいいけど、何か親からの突き上げもあるし、やるけれども学校としてインクルーシブな学校を作っていこうみたいな発想はなかったと思うけどね。そういう思想がないっていうか。うん。今やそれが当たり前で、そうしなきゃいけないんだって頭の中では今の校長さんたちも思ってはいるわね。そういうふうにしなきゃいけないっていうかそれが理想なんだというふうには頭のその辺にはあったかもしれないけど、前はそうは思ってなかったと思うかな。要は特別な考えを持った保護者の希望、とかね。まあ、そういうことなんじゃないかな。

[00:45:24]
藤原氏 でも、名谷さんが勤めて、まあ普通学級の先生やってる中では、何ていうかなそういうのは、風当たりが強いというか、そういうことはなく?

名谷氏 なかった。逆に、そうね、まあ担任をさせて、希望すればっていうか(笑)、逆にそれがいいかどうかわかんないけど、希望する人がいないから本当に担任をしてたみたいな、そんなのあるかな。烏山小の時の、最後の烏山小の、3、4、5。ここ、3、4、5、6って変でしょう、これ。全部持ち上がってるのよ。だけどここは、本当にそれこそ2クラス、3クラスになって、で、普通、5年生から…、4年生から5年生になる時にクラス分けをするから、じゃクラス分けしましょうってことでクラス分けをしぃの、で、また6年生になる時に子どもの数が少なくて2クラスになっちゃったみたいな。だからね、この3、4…、でもこの時に、Bくんっていう子がいて、その子はずっと私が担任してたかな。この子たちとは、もうだから100人ぐらいいた…180何人かな、95パーセントぐらい担任したかな。1年しか持ってない子もいるし、4年間持った子っていないかもしれないけど、Bくんだけは3、4年間持ってたな(笑)。それはそれでまた、いいことじゃないような気もするけどね。

藤原氏 何かそんな中で、片桐さんはティーム・ティーチングでやって来たみたいなお話を本でも書かれてたりしてたんですけど、学校の側から協力みたいなものは得られたというか。

名谷氏 ティーム・ティーチングは私はしてないな。でも嘱託員がついてたね、障害のある子のところにはね。特にこの前の烏山小の…。山崎小の時は障害のある子とは出会ってないね。烏山小に入ってからは、たけしくんを1、2年と持って。これ、全部障害のある子全部持ってますね。で、最後は、教員って10年間やる、言われたんですよ、あの頃ね。最後9年目はTTになって、逆…、障害のある子のところに入ってましたね、ほかの。うん。で、こん時なんかは、TTがついてたのかな。あ、ティーム・ティーチングはつくようになったんだよね。だけども、その頃は普通学級に障害のある子にもついてよかったの。だけど、ある時からだめってなっちゃったのね。それで、だめになるし、それから習熟度しなきゃ(?)TTはつけないみたいな、加配、(?)ならなくなっちゃった。  

藤原氏 あ、ここですか。改悪。

名谷氏 うん、そうかもしれない。ああ、嘱託員がだからもうつかなくなっちゃったし、TTっていうのは、加配の人数だよね。これ、嘱託じゃなくて正規職員。で、私はこの時 TTになって烏山小の他の人たちが持ってる、障害のある子のクラスに入ってたわけ。で、私が担任してる…、この時はかなり、車いすに乗った女の子を持ってたんで嘱託員の人は来てましたね。

藤原氏 なるほど。

名谷氏 あの頃なんか、TTもいたし嘱託員もいたみたいな。そういう子が、そういう人たちが普通学級にいる障害のある子たちを担当してたみたいなことがあったけど。それにまた、それプラス支援員とかもいたんだけどね。世田谷ではね。

藤原氏 先生たちの間でノウハウを共有するような場みたいなものがあったりしたんですか?

[00:49:26]
名谷氏 組合の障害児…、今度10月の20日にもありますけど、もう30回ぐらいになるんじゃないかな。それこそ組合の中で、最初に話した障害児の教育に対しての考え方が二つに別れていたので、教研、教育研究集会が一緒にやっても全然私たちは少数派だから、もう全然こう、何ていうのかな発言力もないし、それから日教組の全国大会にも行けないわけよ。そういうレポートは、共に障害のある子も共になんていうのはレポートが選ばれない、東京の場合はね。だから、自分たちでやろうっていうことで始めた自主教研みたいなのは毎年1回やってて。私、退職してからも、若い人たちが引き継いでてくれて、今年も10月に。毎年10月にやってるんですけど。東京の組合の教研集会で、ほかに次の週に障害児分科会だけ別にやってたの。それはなぜかっていうと、ずっと自分たちで自主的にやってたし保護者の人も来るし、みたいなかたちで、それはずっとまだ辛うじて続いてるね。そこの中で繋げていくってことあるけど、「共に」のノウハウってないと思うんだよね基本的には。それはだから「共に」のノウハウはないと思う。ただ考え方としての伝えたいことはいっぱいあるけども、子ども一人ひとりが違うしノウハウはない。その子に。でも、その子もここにいるんだ、一緒にやろうって思った瞬間からその人のノウハウは出て来ると。その子に会ったら出て来るから、ノウハウは伝えるなんてことはなかったね。だから、私もノウハウはどっかに習ったことはなかったな。強いて言えば、その子が教えてくれるし周りの子が教えてくれたりとかするから。あとは、教員でお互いに出し合…、実践で出し合ってそれがおかしいんじゃないかとかいうことで、いろんなこと学んだっていうことはあるかな。
 で、私の授業のことなんだけど、やっぱり教員は授業が大事だと思うね。だから、運動として「共に」ってよくね、障害のある子のお母さんたちはさ、勉強はどうでもいいんですと。一緒にいれば。ね、給食、休み時間、一緒で。同じ空気吸って、給食一緒に食べて。お勉強は別に教えてくれなくていいですよって言うけれども、子どもを…、私はね、そこは違うと思うんですよ。子どもが、一番時間使わす(費やす?)のは授業なんだから。授業で一緒にいなかったら、ないなって思うから、授業でどうしたら共になるかっていうのはすごく私自身は追求して来たつもり。それは、この運動からは…、障害者運動からはそれは学べないわけ。なので、私はそこにも書いたんだけど、たまたま友だちの関係で就職してから2年目に、社会…、その頃はね、「社会科の授業を創る会」って会だったんだけども、そこに誘われて行ったのよね。今は「人間の歴史の授業を創る会」って言って、もうすぐ…、もうそこもずーっと関わってて、でも、そこももう高齢化で、もうちょっと…。今でも、若い人が集まって来てるんだけど、もうたぶん続けられないかなって感じはあるんですけど、その会にずっと入ってて。で、たまたま、その…。その頃、ほら、民間教育研究団体ってすごく活発だったから、そこで授業もいろいろ学んで来たわけね。
 で、その時の、そこにも書いてあるけど、夜、合宿、このあいだのキャンプじゃないけど、みんなで夜、お酒飲みあったりして、初めて来た人が自己紹介とかした時に、私があの頃すごくね、尾山台小学校の時に、すっごい本当に多動な子たちがいっぱいいたわけ。今で言ったらそれこそ支援学校に行きなさいみたいな感じの子たちがいっぱいいたから、子どもの人数も多かったから、あのね、鍵をかけてたんですよ、出ていかないように。じゃないと安全が保障できないんだから。でも、それがすごく嫌だったのよね。それで「何か自己紹介しなさい」とかって言うから、「悩み事があったら」って言うことだったので、私が「鍵をかけてるのがすごく自分としては嫌だ。」って話をしたら、その、人間の歴史の…、「社会科の授業を創る会」の、白井さんっていう…、亡くなったんですけど、中心になってる方が「あなたの仕事は鍵をかけるんじゃなくて、その子たちが出ていかなくなるような授業をすることなんだ」っていうふうに言われて、ああそうだろうなあって思ったから、彼らが興味を引くようなことをしようと思って。でも、本当にもう自由だったから。それで1回、食べ物で釣ったりとか(笑)。パンを作ったりとかいろんなことして。いろんなことしましたね。で、田(?)…、お米を作ったりとかいろいろして、食べるもの作ったらみんなで食べたいし、(?)。それからまあ、お散歩と称して、何か買い物に行ったりとか。いろんな、彼らが楽しいことをずっとしてきたという、そのようなこと。で、そういうことを普通学級でもやってる人がいたので、普通学級でも子どもが喜ぶものをやっていくみたいな。ずっと続けてやってきたのね。それはもうずっと変わらなかったかな。そういう授業を作っていく何か、『授業を創る』っていう本も出してて。「つくる」は創造の創という字ですけどね。

藤原氏 うんうん。『授業を創る』。

[00:55:23]
名谷氏 うん。で、そういう、…の中に、…をやれば、障害のある子も自然と入ってこれるわけじゃない? そういうようなことをずっと続けて来たし、国語の教科書、国語の実践で日教組の教研に行った実践としては、Cくんを1年生で迎えた時に、授業…、ひらがなの授業をするのに、例えば「あ」のつくんだったら「あ」のつくものを家から持って来るとか、そういうようなことをしながらやるとかね。そんなこととかをいろいろやって来たかな。Cくんが電車が好きだったから、足し算とか引き算をするのに電車の模型を使ってやるとかね。そういうものを持っていったりとか、実際ものを作るとか、そういうようなことをしながらやって来て。でも、どっかに書いてあると思うけど、そのことを全国教研で発表した時に、篠原睦治さんって知ってる?

藤原氏 ああ、はい。

名谷氏 彼が、その時講師だったのよね。で、その時に彼が私の実践を、まあ…。あの、全国教研の…。あ、それはね、ここに書いてある…。これ何か、日教組に頼まれて文章書いた時に、自分の実践の…。これ、わりと結構…。要は、その時に…。あ、ここね。「初めて普通学級で担任した時の実践を全国教研で報告した」と。で、「共同研究者であった篠原睦治氏が次のようなコメントを寄せた」っていうところ。これ、篠原氏のだけど、「障害児も一緒に授業する際、人はそのイメージを立てきれずにとどまっている。名谷さんのレポートでは読み砕いていくといろんなことが見えてくる。この授業は、同一時空間ね、同一テーマ、同一教材によっていて、名谷さんはそのことは疑っていない。」私は絶対に別のものをやらせようとは全然思ってなかったから。共にっていうのは一緒にやんなきゃ。「一文字1時間の丁寧な授業は一見、Cくんに合わしているようで、実は他の子どもたちにこそ開かれている。創造と創造が展開するのんびりとした時空と言えよう。それだからこそCくんも巻き込まれていく。」っていうようなことが書かれていて。うん。それぞれ事態は、あれなんだよね。だけれども、その中でもいいことばっかりじゃなくて、例えばCくんはグジャグジャでも、ひらがなが、「Cくん上手に書けたね。」ってマルするんだけど。他の子にはちょっと曲がってると「ここはこうだよね。」とか言うと、Dちゃんは「何か先生Cくんの時は上手って、どうして私たちのこと褒めてくれないの。」って、1年生の子が言うわけよ。とか、例えば「みんなできたら、全部やってできたら持ってらっしゃい。」って言うんだけど、Cくん、まだ、私は、Cくんできてなくてもしょうがないなと思ってんだけど、他の子はそれを許さないで「Cくんもできてないんだから遊びに行っちゃだめなんだよ。」って言って、「みんな」っていう言い方の中に、子どもの中には「みんな」はCくんも入ってるんだけど、私は「共に」って言いながら、何か「みんな」の中にCくんを入れてなかったかな、っていうことも言ってたし。そう、だから「みんなよくできたね。」って、「みんな揃ったね。」ってつっても、子どもたちは「まだCくんできてないよ。」とか「Cくんまだやってないよ。」とか言う。うん。こだわって関わって来たけど、それがやっぱり正しいんじゃないかなってふうになって。そうすると例えばさ、お掃除しててもパッパとやって、Cくんが箒持ってくとグチャグチャにしちゃうわけよ。急いでるからサササッとやっちゃったりするようなことがあって。そういうのを、「いいよ先生がやるから。」とかね。で、そういうの全部子どもは見てて。そうすると、ある日、ある女の子が、「何でCくんは、」つくし学級ってのが併設されてたから、「何で、つくし学級に行かないの。」って私に聞いてくるわけ。それ、私、すごいショックだったかな。そうすると、その話もレポートに書いてあるんだけど「篠原さんはそういうことは振り出しに引き戻された感じだろう。」と。「ここまでの喜怒哀楽全部込めてせめぎ合う」、あの人よくせめぎ合うって言うの。「せめぎ合う共生なのである。」と。「行きつ戻りつしながら関係的に教室でも暮らす、能力主義、効率追求の教師根性の支配性を相対化する利点はここに立ち現れる。」っていうふうに書いて、なるほどとか思ったんだけど。だからやっぱり障害のある子を持つことによって、もう本当に身についてる教師根性を変えるためのせめぎ合い。そういうような子がいなかったら、もっと何か、楽にできちゃうと能力主義とかに簡単に陥っちゃうわけだよね、効率主義、教員は。だから、それを何か…、そう、キャンプだってそうじゃん、もっと簡単にサッサとやることできるんだけど、彼らのペースを待ってるといろいろ大変なところがあるんだけど、うん、そんなことで、うん、…っていうせめぎ合いみたいなところ。だからそういう意味では、勉強もよく行ったと思うよ。自分でもその…、ここの実践だって別に私が考えたことじゃなくて、いわゆる障害児教育の勉強じゃなくて。そういう障害児教育の勉強、全然行ったことないから。そういう、算数だったり国語だったり社会科だったりの研究会にはよく行って、自分の授業を誰でもがみんなでできるものにしていきたいなってことは、ずっとこだわってきたかな。すると(?)、障害のある子も一緒にできる授業っていう。だから逆に、そういうふうにあの子が出て行かないための授業ってのにこだわれば、そりゃ一人ひとりの授業の質みたいなものは変わっていくんじゃないかなというふうには思ってるけれども。だけど、どんどんそれはできなくなってきたね。私でさえも制約を感じることが多かったから。例えば、この実践だって1年生5回持ったから5回やってるんだよね。家から持ってくるっていうの。で、Cくんとやったのは2回目の実践なんだけれども、本当に、どっかに書いてあると思うけど、本当にすごく大変だったけれども、それでもまあ自分のこだわりもあったからずっとこう、やってきたけどね。

藤原氏 何かこう、一緒にやっていく中で子どもたちの間に、何であの子は良くて自分たちは、ってなることはある種つきものというか。

名谷氏 うん。そういうのもあったし、それから、ここの3、4で持ってた時には、Eさんっていうね、このあいだ、大人になった子どもたちがEさん連れて遊びにきてくれたんだけど(笑)。彼女は、今まあ、車いすに乗って生活してるんだけれども、その同級生たちが一緒に遊びにきたんだけどね、子どもも連れてね。でもそん時に、Eちゃんには優しくするんだけどもFちゃんって子をいじめてたんだよね。で、今でいうと、Fちゃんって、あの頃私にそういう概念がなかったけど、いわゆる発達障害の子だったと思うんだ。ちょっとだから、Eちゃんは、もろ、重度の障害児なわけじゃない? で、障害児として入ってきるわけね。だから先生もついてるしみんなも優しいし。先生も私もきっと優しかったんだよね。だけど、Fちゃんはそういうふうに一見、分からなかったから。お勉強ができなかったことに対してみんなから、とか、ちょっと言葉があれだったことに対して、Fちゃんのノートが捨てられたりとかしてたことがあった時に、やっぱりEちゃんにすごく親切にした女の子が、Eちゃんて言うんだけどね、「Eちゃんには優しくできるけど、Fちゃんには意地悪したくなる。」って言うわけ。うん。本当にそういう意味では何ていうのかな、自分の実践が本当にそこでまた引き戻されるかー、やっぱり私のやってきたことはEちゃんに対する同情でしかないんじゃないかなっていう。本来的にEさんのことを思ってたら、そういう差別はなくなるはずじゃない? だけどやっぱ、Eちゃんは別だったのかなあっていうようなことを思わされたりもして、本当に出会った子、出会った人、障害のある子に…、で、自分のことは日々問われてきたかなみたいな感じ。だからノウハウはないけど。だから、教員たちの集まりや会から習ったことは、障害、「共に」のノウハウはない。だけど、授業をよくしようとか楽しい授業とか子どもたちが参加できるとか、そういうことの教材研究とか、そういうのはいっぱい習ってきたかな。だからそういうことで、本当にそういうことを、授業を共に、ってやってる人たちは障害のある子たちがいても何ともないよね。うん。だからやっぱそこは繋がってるんじゃないかなとか思うな。

藤原氏 今、言われてる、インクルーシブ教育システムみたいなものって、どの子にもその子にあった教育を与えて、能力を伸ばしてあげようみたいな意味合いがあると思いますけど、それと「共に」とは、また別だと僕は思っているんですけど(笑)。

[01:05:16]
名谷氏 全然違うね。だってその子たちは、それはさ、その子にあった別の場所でやるわけでしょ。インクルーシブは、一緒に、その中でその子の、対応できる、多様な…。こっちは、分かれた多様な場じゃない? こっちは、一緒にいて、多様な対応(?)を教えていこうという。だから全然違うと思う。だから、多様な、何というのかな、幅の広い授業を作っていけば誰でも入れるっていうことだと思うんだよね。だから、かけ算を九九を早く言えるっていうその狭いことだけでやったら競争だし言える子しかできなくて。だけど、みんなでちょっと九九の歌とか踊ったりとか紙芝居作ってみようとか九九を探してみようとか、もちろん九九は言わせるけどもそれだけじゃなくて、違うかたちで九九のお話作ってみようとか。そういうかたちでいくと入れるみたいな。幅の広さみたいなものを持ってないとみんなは一緒にできない。でも、ここはできる、この子はこれ、このように順番にわけてやるから全然、(?)、あれは違うと思いますよ。

藤原氏 そうですよね。それとやっぱり能力を伸ばすっていうのとは、ちょっと違う発…、ちょっとというか全然違う発想というか。

名谷氏 うん。そう、能力というのを何を持って能力と言うかってのがあるなあと思う。私、キャンプやってても、1年にいっぺんしか会わない…、大人になった人たちに1年にいっぺんしか会わないんですよ。みんな交流会に来てるわけじゃないからね。だけど、本当に1年ごとに違うよなあって思うよ。だから障害のある人って、生きていく限り、何ていうの、そういう意味では自分の可能…、そういう意味での能力、は、どんどん伸びていくっていうか、変わっていくんだなあっていうのを感じるけどね。

藤原氏 なるほど。

名谷氏 実践でね、(?)。まあ、制約はいっぱいあったけど、でもやっぱり、うん。やれ…、そこが、うん。そう何か、字数を何とかとかさ、勝手なことしちゃだめだとか。あとは、その…。でももう、最後の頃はもう自分で言って、やりたい、(?)、自分より若い人たちばっかりだったから、最後の頃はね。私はこういうふうにしますから、一緒にやるならもう全部貸してあげるし、やり方も教えてあげる、と。だけれどもやらないんだったら、もう私だけやりますから、って感じでやってましたね。最後の年のその子たちなんかは、本当、両側の子たちも一緒にやってましたけどね。でもそれが、続くかどうかはわからないけどね。

藤原氏 何かこう、どの子も引き込める授業をやろうとした時に、ほかのクラスの先生とか親御さんとかからのリアクションっていうのは、特には…、

名谷氏 面と向かって反対されたことはないね。子どもが喜んでやってれば親は文句言わないもん。そう、子どもが楽しんでれば、別に保護者からのクレームはなかったなあ。そう、だから、そういう楽しいことをしてれば、私もやりたい、じゃ一緒にやりましょうっていうふうな感じになってくるから。もうこの辺になると自分も30代40代だから、どっちかっていうと自分のやりたいことはできてたかな。その頃はもう校長たちも教育内容にそんなに口出しはしなかったからね。最後まで、そういうことでは、やり通せたかなって感じはあるね、好きなこと。そういうエネルギーはやっぱり、障害のある子も一緒にっていうことのためには、授業をよくしていかなかったらだめだっていうのはあったから。子どもたちに喜ばれる、子どもたちが楽しい、ああ今日学校きてよかったなあって。それってどっかに書いてあると思うんだけど。そうか、書いてないかな。最初にいつも言ってたことでもないから書いてないかもしれないけど。
[01:10:07] よく、「共育」っていうじゃない。「共に育つ」って。「教育」の「育」っていう字を「共」って、で「共」にするでしょう。で、えっと…、どこかな…、あ、これだ。ここのほうに書いてたのかな。(紙をめくる音) ああ、ここだ。この「きょういく」っていうの、「競争の育」になってると思うんだ、今ね。そうじゃなく、共に育つっていうのと。私はこれもいいなと思う。驚く、つまり授業の中で驚くっていうね。それと、このあとちょっと、あの不登校の子と出会った時に、「今日」の「今日」、"today"の「今日育」っていうのも私の一つの信条にしてたかな。だ、「共育」と「驚育」と「今日育」みたいな。うん。授業で驚くような授業で、きょう、今日、子どもが来てくれるみたいな。今日出会うみたいなね。それと「共に」という。こっちの、決してこういう、結局テストとかで、こういうのでなくやっていきたいなっていうふうには思ってたのと、まあ逃げ口上じゃないけれども、何かフィンランドかノルエェーの方ではインクルーシブはガイディング・スター(guiding star) だって言われているそうなんですよ。つまり北斗星。つまり、手は届かないけどいつもそこを目指していくっていう。だからノウハウがあるわけでもなく、これがインクルージョンだっていうのもないと思う。いくらやっても何か…。ていうか、できても結局何か…、だからいつも何か、また次に課題が出てくるみたいなことあるから、これがインクルージョンのかたちっていうは、やっぱりないと思うんだよね。かたちだけ、だから例えば、北欧の…、イタリアとかでも、かたちだけはそうなってるかもしれないけど実はそうじゃなかったりとか。その中でやられてる授業は、決して何か、うん、別な、もっともっとこう何か、いいのがあるのかもしれないし、その、何つうのかな、「これや」っていうのは決まってないっていうかね。だから本当にガイディング・スターを目指す、でも目指そうとするかしないかは大きな違いでしょう?

藤原氏 うんうんうん。

名谷氏 うん。そこがやっぱり。うん。

藤原氏 そうですね。これってどう言葉にしたらいいのか、僕も、難しいとこなんですけど。そうか。

名谷氏 このへんは全部話したかな。関わり方、やっぱり子どもと出会ったりとか、小夜さんたちと出会ったりとか。あとは、やっぱり授業だよね。校長で、これは、っていう人に出会ったことはありません。はい(笑)。校長ではありませんね。

藤原氏 ああ、そうなんですね(笑)。そうか。そう、この前のキャンプの時に、牛島さんと、向こうの、ほかの皆さんと夜の(笑)飲み会みたいなので、中学校ってどういう場所やった、っていう話をしてて。でもやっぱりまあ最終的には、まあ楽しくすごせりゃいいよね、みたいな話だったんですけど。まあ確かに自分もそうだったという。まあ僕なんかは部活をやってる生活やったんで、もうずっと部活中心みたいな生活だったんですけど。何だろう。そうですね、まあ楽しさが一番というか。何というか。あ、そうだ。それで牛島さんが、何か大阪でこんなこと、こんな実践があったんだよね、っていう話をしてて。何か、お昼の放送の話。

名谷氏 ああ、ああ、ああ。はいはい。

藤原氏 お昼の放送があると、パニックになってしまう子がいて。

名谷氏 うんうん。音がね。うん。

藤原氏 で、何か結局、切ることになったけど、でもほかの子たちがやっぱり自分たちも聞きたいよっていうことで、対立的な状況が起きるけど、まあ子どもたちがこう「じゃ、どういう音ならその子大丈夫なんだろうね」って言って試していって。でまあ、「この音なら大丈夫なんだ」っていうのを見つけてく。で、そういう放送からだんだんかけるようにしていったら、最終的にはもう難なくお昼の放送が聞けるようになったみたいなお話で、あ、それはすごく面白いなと思ったんですけど。

[01:14:47]
名谷氏 うん。よく例に使われるよね。合理的配慮とは何かっていう。で、そういう子がいるからその子にヘッドフォンをさせるっていうのも、…にするか切っちゃうかっていうね。そうすると何ていうのかな、どっちを合理的配慮と言うか、みたいな。だから、極端だけれども、その子にこうやってやるのはその子の個別支援なわけじゃない? うん。だからやっぱり周りを変えても、止めるんじゃなくて周りの子…、でもそれをどうするかを周りの子どもたちと考えさせたのは素晴らしいよね。でも、その前までの先生は切ってたわけでしょう。ギャーギャー騒ぐから。といって、そこは大阪だと思うんだけど、ヘッドフォンさせたりとか別のとこにいかせたりとはさせないと。だからそうすると、周りの子たちが我慢してたわけだよね。それで5年生になって、「あいつと一緒になったからまた放送聞けない」ってなっちゃったのを聞いて、その担任はどうしたらいいかってことを子どもに投げかけたわけね。(電話の着信音)待ってね。関係のない(?)…。非通知だからいいや(笑)。『つまり、「合理的配慮」って、こういうこと?!』って本は知ら…、もら…、買っ…、読んでないんだっけ?

藤原氏 あ、読んでないですね。

名谷氏 ああそう。こっちには今ないかな。私たちが求めた合理的配慮とはこういう…、本当はハウツウじゃないんだけれども、こういうことができるんじゃないかっていうので、現代書館から出てるんですけど。(電話着信音)非通知この人だ。ごめんなさい。

[前半 音声終了]


[後半 00:00:00]
名谷氏 そう、それ、本は、『つまり、「合理的配慮」って、こういうこと?!』っていう本に、その、実践も載ってるし国語のさっき言った私の実践も載ってる。それを合理的配慮っていうかたちでちょっと切り取って、あんまりハウツウ的なあれじゃないんだけれども、一応、分かりやすいようにまとめた実践の本を、去年出したのかな。

インタビュアー それは是非読ませていただきます。やっぱ個別対応とはまた別というか、別ですよね?

名谷氏 そうそう。全部、実践は普通学級でやった実践。あ、障害児学級もあるかもしれないけど、障害児学級から普通学級に…、通級みたいな、何ていうの、交流でいった時の話しとか。そんな感じかな。

藤原氏 その、放送の例だと、個別対応じゃなくてやっぱり共に学ぶためというか。

名谷氏 そうそう、まああれは大阪は当たり前なかたちでなってるからね。全体としてね。豊中の実践でしょう?

藤原氏 あ、はい。あとは全国連に関わるようになった経緯っていうのは?

名谷氏 うんとね、全国連絡会は、先に交流会ができて、そして交流会で北村小夜さんとかも知って、障害全国連の存在を知って。で、全国連の集会が1回、世田谷であったんですよね。烏山のどっかに。その時まだ…。あ、全国連事務所ってここのすぐそばにあるのよ。で、あ、さっきの本も欲しければそこにもありますから(笑)。そいで、それで知って関わるようには、なってきたの。で、交流集会があるから…。それで具体的に積極的に関わるようになったのは第何回かな、東京大会があってその時に…。その時は保育の担当で行ったのかな。で、そのあと、烏山のそこに全国連の事務所が引っ越して来たのよね。

藤原氏 あ、そうなんですか。

名谷氏 そうなの。私の方が先に住んでたの。その前まで八王子の方にあったのは…、こっちに引っ越して来て、それから何か会報の中に…、ちょうど2000年ぐらいだったと思うんだけど、あの頃はほらまだ法改正がされてないから文科省の中に…、それは小夜さんが誰かからもらって来たやつだけど、マル秘扱いになっていて、普通学級に障害のある子は違法だっていう、違法って書いてあるっていうのがあって。それでそのことを問題にしようっていうことで、何か今日話し合いをしますから来てくださいみたいなのがあったんだよね。で、たまたま、そりゃ絶対そうだよなって思ったし家も近かったから(笑)、何気に行ったのがなんとなく関わるようになっちゃって。それで運営委員になって順番で何か事務局長にもなっちゃってみたいな感じで。それで退職しても、まあ今もね、他にやる人がいないから行ってますね(笑)。

藤原氏 ああなるほど。そうなんだ、元々、八王子だったんですね。

名谷氏 八王子にあったのよ、確か。最初は何か上北沢…、どっか、とにかくいくつか転々としてたんだけど、2000年だと思うけどな、…に引っ越してきたんだよね。2000年だか、1999年だか忘れちゃった。2000年だったと思うな、確か。うん。…に引っ越して来たんだよね、こっちにね。すぐそばにね。

藤原氏 ああそうか。世田谷ってすごい面白い場所だなと思って。

名谷氏 うん、たまたま世田谷で、交流会があるからとか、がっこがあるから引っ越して来たんではない。

藤原氏 ああそうなんですね。でも面白いですよね、世田谷って、光明養護の人たちの取り組みがあったり、保坂さんが区長になってたり。もうそれこそ、こぶたがあったり、(?)さんがいたりとか、で、(?)。

[後半 00:04:33]
名谷氏 そうなんだよ。まあ保坂さんが区長になったのはまあ全然関係ないんだけど、でもやっぱり保坂さんが区長になった以上、ちょっとちゃんとやってもらいたいなっていうのはすごく思いがあるね。うん。「何で?」みたいな感じ。だけどやっぱり保坂さん区長になったから、4年前に私たちが、親の付き添いが差別だっていうのを訴えたんだよね。それで2年後にはとりあえず各校に支援員がついて、まあ中身はともかくとしてとりあえず保護者の希望は、保護者に付き添いはさせないっていうことは一応建前上は、なってる。それはやっぱり彼じゃなかったらしなかっただろうなって思うね。そういう意味ではもうちょっと頑張って欲しいなと。来年4月は選挙なのでね、うん。また応援していかないとだめかなって思うし。今、私、朝、あそこにあるスピーカー、あるでしょう。あれ、自転車に載せて、今日も朝行って来たんですけど、一人、社民党なんだけどインクルーシブ教育をちゃんと柱に入れている、まだ今、前回、選挙で落ちちゃったので浪人しているんですけど、次回、今度、絶対入ってもらいたいなって思う人がいるので、うん、彼女の朝街宣、週に朝3回応援に行ってる。チラシとか書いたりとかね、うん。忙しい(笑)。あ、それでそうだそうだ、あのね、彼女の企画で、面白い…。あ、この人ね。あなたは世田谷区民じゃないからあれかもしれないけど(笑)。世田谷区の人。

藤原氏 桜井さん(インタビュアー注:桜井純子氏。前・世田谷区議会議員)。

名谷氏 うん。これね、時間があったら来るといいよ。このチラシも私が作ったの。うまいでしょう(笑)。ちょっと差別のこと考えてみるワークショップやろうって人なの、これ。うん、私も行くけど、時間があったら暉峻さん(インタビュアー注:暉峻僚三(てるおかりょうぞう)氏。川崎市平和館専門調査員)、サービスについて考えていこうみたいなあれがあるので、来るといいよ。

藤原氏 ありがとうございます。これ、遅れても大丈夫ですか?

名谷氏 まあ遅れたら、まあ大丈夫だと思うよ。遅れても、うん。

藤原氏 ちょっと、子どもたち学校が始まっちゃって仕事が終わる時間が遅くなるので。まあ1時間ぐらい過ぎちゃうかな、ひょっとすると。

名谷氏 まあワークショップだから、何かやってるとかしてるからだけど、でも、ね、興味があったら、うん。

藤原氏 ありがとうございます。へえ。これって議員さんは…、

名谷氏 今度、議員さんになってもらいたいんですけどね。今日、今朝もインクルーシブで、一生懸命言ってた。

藤原氏 ああ。こういう方がいると心強いですね。

名谷氏 だからね、なってもらわないと困るのよ。みんなに「一生懸命やって偉いね」とか言うんだけど、別に偉くなくて。彼女がなってくれないと保坂さん動いてくれないからね。やっぱりね、私、話のわかる議員がいるといないんじゃ全然違うので。昨日も彼女の政策の柱、何するかって言った時に、インクルーシブ、1本入れてそこでからいろいろやっていこうっていう話をしてたんですけどね。何がなんでも入ってもらわないと(笑)。

藤原氏 ですね。やっぱ社民党の方、そういう方、多いんですかね。何か八王子の高木さんのとこの保教の会(インタビュアー注:保育・教育を考える会)とかにも社民党の方がいらっしゃってたり、して。

名谷氏 うん、まあ基本ね、日教組も…。でも今、日教組は社民じゃなくて立憲民主かな。だけど昔はね、社会党と共産党で分かれてたからそういう意味では、うん。福島さんと瑞穂さんもそうだけど。でも、弱くなってきちゃったからね。どうなっていくんだか(?)。

藤原氏 そうですよね。じゃ、今回の聞き取りはこんなところで。

名谷氏 あ、いいんですか。はい。

藤原氏 お忙しいところ…、

名谷氏 お役に立ちました?

藤原氏 いや、とても面白かったです。やっぱり交流会には交流会の流れがあってまた。やっぱりこの、授業のこととかを学校の先生に、やってきた方にお伺いしないと、なかなか外の人間だとわからないこともあるので。だから篠原さんが言う、せめぎ合うと言ったときに、なんとなくイメージはできるけど、うん、やっぱりどういうことっていうのが…、

名谷氏 うん。これ、いつかあった時(?)、でも、コピーして、あの、(?)、紙がなくて、ピンクの紙でよければコピーしてきてあげるけど。

藤原氏 あ、本当ですか。

名谷氏 うん、これ。ここは授業のことで、私、書いた気がするんだよね。ちょっと今、コピーして来る?

藤原氏 あ、いいんですか?

名谷氏 その代わり、ピンクの紙だけどいいかしら。

藤原氏 もうそれは、ピンクで大丈夫です。ありがとうございます。

名谷氏 はい。あとその、何だったっけ、『つまり、「合理的配慮」って、こういうこと?!』ってやつも、あの、現代書館が…、読むといいよ。

藤原氏 是非、読ませていただきます。

[音声終了]



UP:20190113 REV:
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