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廉田俊二氏インタビュー・2

2018/08/10 聞き手:権藤 眞由美 於:兵庫県西宮市・メインストリーム協会

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◇文字起こし:ココペリ121 20180810 廉田俊二氏 232分 https://www.kokopelli121.com/

廉田 俊二  ◇メインストリーム協会  ◇障害者と/の国際協力・社会開発  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築


■韓国

廉田 韓国の合コンの旅に行った時の話なんですけども(笑)。あの、まあなかなかうまくいかんわけですよ。あの…、当時、84年なんですけれども…、83年かな? ごめん、83年のような気がします。83年に、えーっと、韓国は大学生が行くようなとこじゃなかったんです。今でこそ韓流(はんりゅう)とか言われてるけど、88年のソウルオリンピック以降発展してきた国やから、それまでは全然。むしろ、あの、おっさんが、「ちょっと女遊びしに行こうぜ」みたいな国やったんですよ。ほいで、おれらは合コンしに行ってるんやけど、そのおっさんらと同じには見られたくなかったんですよ。あの、硬派やったから。気持ち的にはね。プライドもあって。「あのおっさんらとはちゃうやろ」と。「俺らもっと純粋なものがあんねん」みたいな感じやって、行ったんですね。だから、えーっと、「合コンせえへん?」って言うこと自体が恥ずかしかったんですよ、韓国行って。これ、まあ俺の中で修行やったんですけどね。そもそも合コンしに行ってるけども、ハングル喋られへんし(笑)。

権藤 私もそこを質問したいと思って。「どうやって合コンに参加してるんやろ?」と思って。うん。

廉田 すごいでしょう? 参加どころか、俺らが企画せなあかん側やからね、設定して。これ修行でしょ? その時点で。なかなか達成するの難しいですよ、テーマとしては。

権藤 うん。

廉田 ただまあ、その、日本語学科っていうのが大学にはあったんで、「そこ攻めようか」言って。「ほんならちょっと興味あるかな?」とか思ったりしてね。で、「日本語も片言でしゃべりよるやろし」っていうので。で、順番に行くんですよ。ま、釜山(プサン)大学から始まって、ま、色々行くんですけども。
 そんなときに、あの、とにかく俺ら野宿ばっかりしてたから、車の中で寝るか、外で寝るかで。その、ひろしと二人で行ってたんですけども。「これじゃ仲間集められへんぞ」と。合コンは俺ら二人じゃなくて男も何人か要るし、女も要るじゃないですか、4、5人。ってなったら、「野宿しとったら友だちできへんから、ちょっとユースにでも泊ってみるか」っていう話になって、行ってみたらそこに大学生の二人組がおったんですよ、日本人の。それはちょっとびっくりして、その日本人が行くような国じゃなかったからね。「あれ、自分ら日本人ちゃうんか」って、「何年生や」言うたら、「2年生や」って、「一緒やないか!」みたいな話になって。でも向こうはちょっと賢そうな日本人の二人組なんですよ。それこそ、賢い学校やったと思いますよ、どっか忘れたけど。
[00:27:02] それで、「何しに来たんや?」っていう話になったらね、あの、「この人に会いに来たんですよ」みたいな難しそうな本を出してきて。この著者に会いに来たっていう話やったんですよ。この著者はどんな著者…、何の著者かって言ったら、えっと、戦争中に…、えー、戦時中、まあ、日韓併合されてからのたくさん出稼ぎに、韓国人…、朝鮮人がたくさん来てたじゃない。その時代に日本にようさんおった人が戦争に入って、原爆が落とされて、広島、長崎におったその人たちは被曝するんですけども、その後、自分の国に引き揚げていきました。でも、この人たちは日本政府からも韓国政府からもどっちからも何の援助もされない宙ぶらりんな人たちになったんですよ。で、その、「これじゃかなわん」っていうので、韓国で活動してグループを作ったリーダーが書いた本なんですよ。で、「このリーダーに会いに行く」っていう話をするんですよね。で、俺らそんなこと…、俺ら合コンばっかりやっとった口やから(笑)、「お前ら何でそんな賢いねん」みたいな話になって、同じ大学2年生で。尊敬したんですよ、純粋に。「お前らすっごい奴やな」と。「そんな賢い奴ら俺らの周りにおらんから。そんな奴がおるって知らんかったわ。そんな問題があることも知らんかったし、すごいなあ」って。まあ、そんな話をしてる時に、ただ、そいつら1週間の予定で来てて、会えそうにないみたいなんですよ。その、書いてないじゃないですか、住所なんて細かくなんか。その、「釜山市在住」ぐらいしか書いてなくって。それで来たけど、もっと難しいかもしれへんみたいなことにはなってたんですけども。「分かった」と、「任せろ」と。

権藤 (笑)

廉田 俺ら車で行っとったんですよ。あの、韓国。下関から、フェリー…、

権藤 フェリーに乗って?

廉田 そう、観光フェリーで。だってその、合コンやからね、「もしうまいこと行った時に、ドライブとかするってなったらどうする?」とか言って、その。「合コンにドライブするために車で行っとこうや」とか言って。わざわざ俺ら車で行ってるんです、俺とひろしは。

権藤 その頃、国際免許ってオッケーだったんですか?

廉田 ああ、ありました、ありました。はいはい。

権藤 わあー。

廉田 それで行ってて、「任せろ」って言って。まあ二日で見つけたかな。

権藤 えっ?!

廉田 すごいでしょ。探偵みたいな感じで(笑)。言葉も大して喋れないのに。まあでも結構上手になってましたけどね、当時喋るのは。まあまあ。

権藤 はああ、二日で見つけた。

廉田 見つけたんですよ、その人を。ほいで、あの盛り上がり。

権藤 それは盛り上がりますね。[00:29:48]

廉田 もうめっちゃ盛り上がって、「わあーっ!」てなって。その人のとこの家、色んな人に聞いて聞いて行って、盛り上がって。で、日本語喋れるんですよ、その、50過ぎてる人ですから。その、日本…、その時の50過ぎてる人は無理やり日本語教育されてるから、皆喋れるじゃないですか。で、まあまあそっからが面白かったんですよね。まるで俺とひろしがその人に会いたかったかのように、俺ら二人が質問して、この二人が書きとるっていうね。何かおもろいことになってもうて。何やろ、あの盛り上がり。

権藤 もう一心同体になっちゃったの、そこでもう?

廉田 めっちゃ面白かったんですよ。ほいで、そんなことがあってね。ただまあそれがね、その人の話…、そこ泊めてもらうんですけども、ご馳走してもらって。その人が面白かったんですよ、話が。まあ言ってる話は、まあ被曝者の話だったりとか、朝鮮人、韓国人に対する差別とか、自分らがどんなひどい目受けたかみたいな話もあったりとかね、日本人とのその、色んなあの、いざこざとか、そんなこと…、人権の話なんですよ、簡単に言えば。…なんだけど、その人の話し方が面白いし、上手なんでしょうね、たぶん。こっちはちょっと引き込まれていくような、聞いたことない話で。で、すごいそこで俺興味持ったというか。
 まあそれでね、その時にほんとに思ったのは、これ人権の話してるんやけど、俺、そもそもその人権とかね…、そう、よくあるパターンですよ。「そんなんは、このこっちの賢い組が考えることで、俺ら関係ないねん」みたいな。自分障害者やのにね。ま、そんな感覚やったんですよ。何かわかります? あの、「そんなん考えるのはこっちの賢い人らの、堅い話の。俺らちょっと面白い人たちやねん」みたいな、感じやって、「俺らとは関係ない」と思ってたはずの人たちやったんやけど。「ああ、これ身近なことやな」とか。あの、全然その、遠い話やなくて。で、堅い話とか賢い奴がやる話じゃなくて、誰にでも関係あることで、っていうのをそこで、気づきましたかね、その旅で。そっからかな。その人の影響…、そういう、何かそういう話を聞くのが面白いとか、ってなったとこらへんから、自分ちょっと変わったんじゃないですかね。[00:32:54]  その、そういうのがあったからやと思うんですけども、その、旅をするのも、その中から、ちょっとその本には書いたんかどうかは知らないですけども、ちょっと大阪から東京歩いてみよか、みたいな旅をすることになるんですよ。



 「海外色々なとこ行っとったけど、ちょっと日本もゆっくり見つめ直すか」みたいなことになって、大学卒業…、5年生の時やな、あれ。もう4年…、5年やな、留年してるんで。で、それが、普通に大阪から東京ずっと歩いて旅するんやけども、その中で、「順番に駅に寄って行こうやないか」と。当時国鉄やったけど、で、順番に寄って行って、「車いすも使えるような駅にしてくれ」みたいなことを要望しながら行く旅をしようっていうことに繋がっていったんも、たぶんそんなんが関係あるんですよ。その時の韓国のおっさんとの出会いとか、ヨーロッパを一人旅…、鉄道で旅したんですけど、ヨーロッパは。電車ばっかり乗っての旅やったんですけど。そんなんとかが関係してて。ま、自分にとって初めての運動みたいなことになるんやと思うんですけどね。
 別にグループも何もないんですよ、勝手に有志としてやってるだけで、勝手に個人でやってるし。「こいつ誰やねん?」みたいな感じやったと思いますよ、世の中的には。何か障害者団体のおっさんが文句ばっかり言うとったらしいですから。「何や、こいつ?」とか、「誰か知っとるか?」とか、「何でこんなことやってんねん?」みたいなんで。あの、地道に、手弁当で草の根的に活動してきた、障害者団体として…、にとっては、何か、だあれも知らん、大学生が急に大阪・東京歩いて、駅に要望者出して、みたいなことをやり出したら、それが新聞にブワーっと載って、どこでも新聞載るぐらいになっていったんですよ、その時。

権藤 これ5年生って何年ぐらいですか? 1900…、

廉田 86年です。

権藤 86年。うーん、団体ありますよね、色々ね。

廉田 ま、ポッと出やから。それで、「このポッと出が!」って言われても、その通りなんですよ。ポッと出やし、

権藤 けど、すごく、注目を浴びたわけですね。[00:35:23]

廉田 で、気に入らんかったと思いますけれどもね。ま、そんなことがあって。で、ただね、ちょっと真面目なところは、それ1年やって…、ま、俺らだけでやったわけですよ、その連れだけで。で、そのうちね、「これちょっと、例えば名古屋の駅で交渉するんやったら、名古屋の障害者のほうに…、人に来てもらわなあかんな」みたいになっていくんですよ。俺ら使わへんし、名古屋駅なんて。でそんなんやって…、それ友だちと3人でやったんですけどね。で、「これ来年もやるか」みたいなことになって、そしたら10年やったんですよ。

権藤 ほお!

廉田 ちょっと真面目でしょう? 何か。

権藤 ちょっとじゃないですね。

廉田 チャラチャラしてる割に。

権藤 いやいやいやいや! はい。

廉田 で、まあ、86年から90年ぐらいまでは、ずっと大阪ー東京だったんですけども、それ以降は、「ちょっと、全国行くか」とかになって、北海道チームとか、九州チームとかって分かれて。九州縦断とかもやってますよ。

権藤 へえ!

廉田 そんなんが。それTRY(トライ)って活動でやってましてね。毎年TRY88、89、90というふうにやっていったんですけども。その頃からやり出して、それに参加してきたのが佐藤とかなんですよ、大学生の時に。あと今、世の中で有名な玉木さんって、

権藤 玉木さん。うん。

廉田 玉木も大学生の時にこれに参加してきて。90年ぐらいに参加してきたんかな。

権藤 90年代、

廉田 そうそう。そんな感じでみんな、あの、ここで知り合うんですよ。大阪向けて歩いてる中で。で、それは俺並行して、メインストリーム作ることになるんですけども。でメインストリームを作ったのが89年です。
 だからその頃よく言ってたのは、その時の一緒にやってたメンバーとかが一緒にメインストリームやってるから、「うちはもう野宿できるスタッフやねん」とかって言ってたから、そもそも旅好きなんですよ。そのTRYから始まっててっていう。佐藤も初めて俺に何か、色んな話(はなし)しに来た時は、たぶん、何か「ヨーロッパを旅したいんやけど」みたいなことで相談に来たような気がするんで、ま、そんなこともあって。その前に行って一人旅してたから。そんなこともあって、基本旅好きな人たちがおったんですよ。その、「出かけるのが好き」というか、あと「野宿もできる」みたいな。そんなんから始まっての自立センタースタートですかね、簡単に言えば。  で、89年に作ってから、そっからもね、ちょこちょこ、ちょこちょこ海外に…、海外に遊び行ったりようしとったんですよ。海外好きやから、たいした金もないくせに、その韓国行ったりとか、その、バックパッカーって安いチケットをうまいこと買って、自分らで全部手配するじゃないですか。現地で安いホテル見つけたりとか。そんなことをしてたんで、よう海外行ってましたよ、当時から。あの、暇やし。(笑)時間さえあれば。ほんまに暇やったんですよ。何もすることないしね。



 そんなやけども…、あっ、「メインストリーム・ツアー」っていうのを組んで、他でもしとったかも分からへんけど。その、自立プログラムをやっても、みんなその気にはなるけど、当時90年代なかなか制度も整ってないから、自立する勇気も持ちにくいですよ。
 今でこそこんな事務所があったらね、「じゃ練習してみようか」ってなるけど。練習するとこもないから、施設から出るか、出てアパート借りて、家財道具一式揃えて、ってなったらもう、大きな賭けじゃない、博打みたいなんで。で、あかんかったら、ってなったらもう、何のこっちゃ分からへんし、みんなそのリスク背負いたくないから、なかなか自立は難しかって。そんなんやから、なかなか進まないし、1週間に1回そういうプログラムやっても、また帰って施設に戻っていったらおんなじ生活に戻るし。そんなんよりは、「ちょっとアメリカとか連れて行こか」みたいな。何か「メインストリーム・ツアー」とかって、「自立ツアー」とかって言って、無理からアメリカ行くツアー組んだりとか、もやってましたね。その方が洗脳しやすいですよ。

権藤 (笑)

廉田 10日間ぐらい連れて行って、「おもろいやろ!」言って、遊ぶだけ遊んで(笑)。で夜、夜通しかかって、「どや自立?」って、「やりたい!」みたいになる方が簡単なんですよ。そんなことをやったり、だから結構ね、海外に繰り出すみたいなことは、何かの拍子にしてたんですよ、そういう。[00:40:04]
 で、当時まだ朝日新聞厚生文化事業団とかがそれなりに元気やったから。えー、そうですね、向こうがあの、タイに、車いす…、「フィリピンとかタイとかに車いす送りたい、そんな活動やるんやけど、手伝ってくれへんか?」みたいなことがあって。で俺らも車いす集めて…、中古の車いす集めて修理して送り出すんやけど、「車いす屋じゃないんやから、俺ら自立センターやから、それは、やっぱり人の交流が必要やから。車いす送るだけじゃなくて、障害者を連れて…、あの、行かしてくれ」と。「行って、向こうの障害者と会う機会を持って、そこでね、自立の話とか人権の話とかできるような。やっぱりその、物渡して、はいさよなら、じゃなくて、障害者どうしが会えるような場を設定してほしい」みたいなことを、こう、こっちから要望したりとかして。そういう形になっていって、だから佐藤とか玉木とかは、タイ行ったりフィリピン行ったりとか、色々。
 自分たちの主催じゃないけど、人のんに乗っかって、海外との絡みはあったんですよ。だから他所が設定したもので、だからタイのリーダーのトポンさんっていうのが来たりとか、したらメインストリームに寄ってくれるとか。その前にタイで、玉木が会ってるとかね、そういうので寄ったりとか。何かどっかの海外から…、JICAでも何でもいいけど、どっかから何か海外の福祉関係の人が来た、ってなったらメインストリーム見に来るとかね、1日見に来る、みたいな感じで、ちょっとそういう動きは、あるにはあったんですよ、海外との絡みみたいなものが。
 で、でも一番大きいのは、その、99年のダスキンがアジアの研修生を受け入れる…、何か「アジア太平洋障害者リーダー云々」っていうのがありますよね。あれを受け入れることで、それ奥平さんが絡んでますけども。1期生から受け入れだしたんですよね。1期生から始まって、毎年毎年受け入れる。今いたその、韓国のチャノさんは3期生ですよ。

権藤 あ、3期生。

廉田 はい。で、そういう中で…、そっからですね、始まりは。ちょっと濃くなっていったのは。 
 で、そうですね。「じゃあそれを計画的にやったんか?」って言われたら、計画的にはやってないですよ、僕から言うと。そもそもメインストリームは計画的になんかしないです。はい。たぶん…、計画って言っても色んなパターンがあるやろうけど、大きくしたいとかもないし、組織をね。何よりも「おもろいことが大事や」っていうのが一番にあるから、おもろないことはもう認められへんですよ。却下されるんですよ、大概。

権藤 却下。(笑)[00:42:57]

車いす市民全国集会

廉田 面白そうなことじゃない、ってなっていくと、何かそんなにねぇ、何年計画とかって。「こんな社会になったらええ」とかは思ってるかも、ビジョンは必要ですけども、具体的に「3年後には」とか、「5年後には」みたいな、あんな通りいかんじゃないですか。言うたところで、たぶん。
 そんな真面目には考えてはないんですけれども、ただ、何となく思ってたのは…、自分はメインストリーム作るまでの話で、車いす市民全国集会っていうのに関わったんですよ。これ、朝日新聞がやり出した集会なんですけども。あの、1973年ですかね、最初、仙台で始まった集会です。まあ73年…、簡単に言いますと朝日が主催して、それ聞いたことあります?

権藤 ないです。初めて聞きました。

廉田 朝日新聞が全国の障害者のリーダーみたいな人たちを集めたわけです、仙台に。50人ぐらい、と聞いてます。で、とにかく障害者の交流集会をやろうって。当時はやっぱり脊損とか、ポリオとか、そんな人もようさんおったんやと思いますけどね。そんな、介助がいるような人はいないと思いますよ、73年ですから。それで集まって、「名古屋から来たねん」とか、それが山田さん★やったりしてるわけですよ。

権藤 ああ山田さん、AJUの。

廉田 AJUの。でもう亡くなられた京都の長橋栄一さん★っていう人も、そんなんで集められて。今で生きてる人やったら誰や…、近藤さんとかね。まあまあそういう何か障害者の何か、古い大臣みたいな人たちですよ、俺らから言わせれば。そんな人たちがその73年に集まったらしいですよ。
 で、それで、行くのも大変やったけども、そんだけ集まって、そのホテルもちょっとバリアフリーにしてみたりとか。何かゴボッと集まることで、ちょっといじらなあかんことって出てくるじゃないですか。一人、二人やったらヒュッと担いで上げたら終わるけど、100人揃ったら「担いどるわけにはいかへんから、スロープつけよか」みたいな。
 で、そういうので、「こういう集会を自分たちがやっていくことが…各地でやっていくことが大事なんじゃないか」っていうふうになって。で、2年…、1年毎か、ま、2年に1回。次は京都、東京、名古屋っていうふうに、やっていこやないか、って話になったらしいです。それを朝日新聞が後押しするっていう。これが車いす市民全国集会なんですよ。2年ごとにずっとやってきて、っていうのがあったんですね。で、それの第9回を兵庫県でやることになったんですよ。で、89年なんですけども、俺は88年にアメリカから帰って…、俺アメリカ行っとったんですよ、87年から88年にかけて。そう、ヒッチハイクで横断とか。[00:46:03]

権藤 ヒッチハイク横断。(笑)

廉田 横断とか色々しながら、してた。大学卒業してからね。その時はアメリカかぶれしてて(笑)。あの、介助制度のこととか、やっぱカルチャーショックやったんですよ。それで、「西宮でこれ俺が作らなあかんな」みたいな。まあ、その「自立センターと出会う」ってのがそういうことなんですけども、「自分に何が向いてるやろう?」とか、「何がしたいんか?」みたいな、自分探しの旅なんですけども。自立センターの時に思ったこと、「これ、俺がやりたい仕事じゃないかな?」とか「俺にしかできへん」。いや、日本にそんなセンターがあることも知らんかったし。あの、「日本人みんな知らんやろう」ぐらいに思とったんですよ。「俺しか知らんのちゃうか?」ぐらいな勢いで(笑)。そんなんで、「これ作らなあかんな」みたいな感じで帰って。まあ面白かったんですよ、その、バークレーに障害者がウジョウジョいる姿が。

廉田 で、帰ってきて。帰ってきた時に、「来年ここで車いす集会があるよ」っていう話になるんですよ。それはもう亡くなったんですけど、俺に関係なくて、西宮にやべ(矢部?)さんっていう人がいてね、脳性マヒの。その人が受けたんですよ。何か、その前の87年に静岡でその大会があって、それに参加しとったらしいですよ、車いす市民全国集会に。で、普通はね、「じゃ、次回2年後はどこどこで会いましょう」みたいな閉会式で、オリンピックとかと一緒であるじゃないですか。決まってなかったんやって、その年は、次やるところが。で、「誰かやりませんか?」みたいな話になったらしいです、その閉会式で。
 これ、やべさんが手挙げたんですよ。あの、「やりまーす」言うて。でもやべさん、何の団体も持ってないし。ただの西宮のおっさんやのに(笑)。で、やる言うてもうて、帰ってきて色々準備してたけど、喧嘩別れしたりとかして、実行委員会も立ち上がらんかったらしい。できたけど潰れたりとか。で88年にちょうど帰ってきた時に、何か、TRY88とか俺やってて、夏にね。それにそのやべさんっていう人が参加して、ほいで…、1日だけですけどね。その、ずっと歩くんじゃなくて、1日だけ参加とかもあったので。大阪ー東京のイベントに参加したけども。そのあとに、「今度こんなんあるから、また廉田くん手伝ってえや」って言われて、「あ、いいよ」って言うじゃないですか。「じゃあ次いついつ、そんな、何か、会議みたいなんするから顔だけ出してえや」って言われたから行ったらね、その、車いす集会のさっき言うた偉い人たちがズラーっと並んでて、その、幹部みたいな人たちが並んでて。で、「今度の西宮での全国集会の事務局長の廉田さんです」とかって紹介されて(笑)。「聞いてないし!」って。ほんまにそうやったんですよ。

権藤 (笑) はい。[00:48:56]

廉田 「何でそんなんなん?」って。「ちょっと手伝って」って言うて。まあでも、まあ俺も暇やったやしね、アメリカから帰ってきて。ま、そんなんで、「まあええか」と思って、やることになって。だから、その、西宮のこの集会はアメリカンナイズされた企画にするんです。帰ってきたばっかりで。それがきっかけでメインストリーム ができたんですよ、まあ簡単に言うと。その、何て言うかな…。えー、どう言うたらいいかな。その集会を作っていくうちに、その中で有料介助とか入れていくんですよ。結局それまでのこの集会は、ボランティアでやってるような、当たり前の大会ですよ、どんな大会でも、ボランティア集めてって言うのはね。ただ俺はもうそれ、「金でちょっと介助使ってみろや」みたいな、アメリカみたいにと思ってるから、その…、ボランティア連れてこようと思ったら、2人分かかるじゃないですか、交通費とかホテル代も。名古屋から来るにしても。
 で、もう、「一人で来いや」と、とにかく。西宮まで来たらこっちで介助っていうのを用意して、「金払てくれ」て。その代わりちゃんとあの、用意するから、その代わり、お金払うかもしれへんけど、2人分連れてくること思ったら、そんなむしろ安いぐらいかもしれへんから、とにかく来てみろや、みたいな。で、こっちで介助者の組織して、大会のある…、でもこれごっつ反対されますよ、その車いす集会のそのお偉方に。「今まで作って来た歴史が壊れる」とか、「お前んとこはええかもしれんけど、次回の大会はどうしたらえんや」とかでめっちゃ反対して、もう忘れもせえへんけど名古屋の山田のおっさんとかめちゃめちゃ反対しやがって、むっちゃ喧嘩になりました。でもまあ偉そうに言うてるけど、俺まだその頃27とかで、

権藤 おー! 若いですよね。[00:50:50]

廉田 そうそうそうそう、50ぐらいのおっさんに、「うるさいわ!」言うて、もうすごい喧嘩ですけども。俺たぶん生意気な奴やったと思いますわ、今考えたら。だってみんなそんな人たちばっかりやから。そうです、親父より上のような人たちやったんで。

権藤 でもやれたんでしょう、これ?

廉田 やれました。だって、「これ、させへんかったら、俺やらへん」って言うもん。

権藤 (笑)

廉田 その、この集会…、その、「地元のやりたいこととか、その地域性を活かしてやるのがこの集会ちゃうんかい!」みたいな。「俺らがやりたい言ったことを、何でお前ら止めんねや!」みたいな、ぐらいの勢いで、「これでけへんかったら、俺やっとる意味ないから、せん」って言うぐらいの。それ、「せん」言われたら向こう困るんよね、かわいそうやけど。

権藤 (笑) 確かに。

廉田 そう。そんなんの応酬がありながら、やることになるんですよ。で、お金を使ってやってみようみたいな、ことをやって。そんなんを準備してる辺りから、「この大会終わったらどうする?」みたいな話になっていくじゃないですか。で、まあ「自立センターやろか」みたいな。もともとアメリカンナイズされて帰ってきてるから。で、大会が89年の9月でしたけども、まあ、そっから後処理も含めながら準備していって、11月にメインストリーム協会を立ち上げて、っていう形でできていったんですね。で、まあそれがメインストリームの成り立ちなんですよ。
 そんなんで、メインストリームができたっていうところまでですけども、何でこの話をしたかっていったら、そのあと90…、これが89年で、でその…、
 (大野氏に)ここちょっと使わせてね。

権藤 すみません、お邪魔してます。

大野氏 はい。

廉田 さっきの。チャノさんの奥さん。

大野氏 はい、はじめまして。

権藤 はじめまして。権藤です。

廉田 えーっと、あれ、まりさんの苗字は何でいいの? 大野でいいの?

大野氏 大野です。

権藤 大野さん、ああよろしくお願いします。

廉田 それこそリハ協で昔働いてて、その、奥平さんと、元…、

権藤 ああ、そうなんですね。

廉田 はい。で、89年に自分はそのことをやって。実はその、この集会っていうのは…、それで代表事務局長になった人がそのあと、この運営委員会っていうね、この…、俺らは実行委員会なんです、現場の実行委員会で、運営委員会っていうのはその偉いさん方ですよ。偉いさん方は過去にこの大会をやってきた、その人たちがこう、最初に集まった50人の選ばれたメンバー、その中の、あの、有志と、そのあとこう、各地で開催していった時の代表事務局長がその運営委員に入っていって、今後どこに繋いでいく、みたいな仕事をするような感じやったんですけども。それで、だからその大会が終わった後は、俺は運営委員になるわけですよ。そういう仕組みらしい。仕組み知らんかった…、全部知らんのですよ、そんなん。後付けで全部当たり前みたいにされるんやけど。
 それで、ただね、ちょっと91年で、世代交代になって、俺が代表になるんですよ、簡単に言えば。で、91年の松山の大会があって、そのあとですね。それまでは長橋栄一さんっていう京都のドンみたいな、「将軍」と呼ばれてた人が、あの…、ま、長橋栄一さんってご存知です?[00:55:57]

権藤 あの、名前だけ。MLで何か、はい。

廉田 そうやな、JCIL作った人やし。日本で最初のセンターそこじゃないですか。

権藤 はい、そこでバイトはしてました。

廉田 JCILで?

権藤 はい。JCILで、はい。

廉田 ああそうなんですか。そうなんで、長橋栄一さんから俺に代わるんですけども、91年に。で、そっから何をやったかって言ったら、ま、それ簡単なことですよ、「どこでやるか」って、この開催。えー、2年に1回、選ぶだけなんですよね。どこでやっていったかって言うたら、そのあとは山梨…、えー、山梨、福島…、山梨、福島…、まあ順番忘れました。山梨とか福島とか米子、熊本。熊本もやってるんですよ、車いす集会。で、秋田とかでやってる。ま、何か言い方いやらしいですけど、裏日本的なね。それまでは東京、京都、名古屋みたいな太平洋側の…、まあ山形もやったりはしたんですけど、基本的にはそっち側で。まあ、これからは、10年は、ちょっと。そういう地域でこう、活発にと思って。  まあ車いす集会のいいところは、1年前ぐらいから準備始めて…、1年ちょっと前から、「ここでやる」ってなった時に、実行委員会作るところから始まって。で、えー、その大きな大会、西宮の場合は600人ぐらい人が来ましたから、それなりのホテルの用意から、色々…、今じゃないからせなあかんじゃないですか、バリアフリーじゃないし。そういうのんとか、ボランティアも集めなあかんかったりとかね、関わる人。そういうのを手続きをずっとやっていく中で、障害者自身も、俺も初めての経験やったん、そういう役所に色んなこと頼みに行ったりとかしながら、大会通して力ついたと思うんですよ、その、準備することで。そういうので、核になった人たちがその後自立センターを作っていくみたいなことに発展していけばいいなあ、って勝手にこっちは望むわけですよ。
 で、熊本なんかはもともとあったけれども、自立センター自体は。そういう全国集会をやり遂げることで、何か細々とやってた、何か小さい団体が力つけたりするじゃないですか。役所とこう、直(ちょく)で色んなやりとりできるようになったり、みたいな。ま、そういうのも含めて、既にあったとこでやったケースもあるんですけれども、山梨とか秋田みたいに、ないとこ。ないながら、でも、これをきっかけにちょっと大きくするというか、グループぐらいはあったけども、みたいな。そういういいところがあるんですよ。その、地元の人を巻き込んで力をつけていって、っていうような感じですかね。まあその、オリンピックをどっかで開催したらそこが発展するみたいな感じの、狙いはそういうものなんですよ、車いす集会っていうのはね。そういうことで、えー、だから自分の中にはその、もう俺は自分の経験したことしかちょっと人に伝えようがないから、

権藤 それが聞きたいです。[00:58:53]

廉田 自分とかはね、どうしても…、やっぱ、TRYで人集まったりしたですけども、大阪―東京歩くっていうんでも。車いす集会とかやって、そういう全国集会やって、その準備で力をつけて、「その準備するために一緒にやろうや」っていうコアな仲間を集めて、そんなメンバーと一緒に立ち上げてきたみたいな、この、自立センターをね。そういう感じなので、おんなじように考えるんですよね。「車いす集会みたいなものをやってコアなメンバー集めて、そのあと自立センターができたらいいなあ」。この流れは日本の中ではそういう感じでイメージしてて。
 で、ある時、「これ、海外でもそうやったらええかな」みたいな思うようになった時があるんです。[続く]

→◇廉田 俊二 i2018 インタビュー・3 2018/08/10 聞き手:権藤 真由美 於:兵庫・西宮・メインストリーム協会


UP:20180911 REV:20210124, 1031
廉田 俊二  ◇障害者と/の国際協力・社会開発  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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