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横山晃久氏インタビュー
横山 晃久
2018/07/24 聞き手:
小井戸 恵子
於:
自立生活センターHANDS世田谷
事務所(東京)
病者障害者運動史研究
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last update: 20200308
■2018/07/24 再質問 HANDS世田谷にて 1時間33分
小井戸:光明養護学校は誰かから聞いたんですか。
横山:▼■大阪の教育委員会の連中がうちの母親に訪ねて来て。大阪には光明ができてその5年後に堺養護学校ができたんだよ。もちょっと待っていれば堺だったんだね。うちは家族も調べなかったよ。僕本人は学校に行くことなんて考えていなかった。遊びに夢中だったから(笑)。家族は、人並みの学校に行けばいいんじゃないのって言ってたね。▲
小井戸:そうすると就学猶予からんでいますかね。
横山:▼■そうだったよ。昭和20年30年は障害者の就学猶予が多いわけよ。僕は昭和30年代なのね。親は就学免除にはしたくなかったみたい。だから僕が行けるところがあれば連れて行きたかったみたいだよ。うちの親は放任主義なのよ。おれは末っ子で男一人だからさ、親からすれば子育ても疲れていたわけだけれど、そこにもってきて手がかかる障害者が生まれてきたからどうしようかって考えていたと思うよ。▲■はい、はい差別とかいじめ多かったね。あと〜あの。うちの学年は一学年に32人いたんだけど、車いすが5人だったかな。ほかはみんな独歩。ポリオはいなかったな。養護学校全体ではポリオは5人くらいしかいなかったね。あとは全部CP。CPで歩ける人たち。養護学校のいじめっていうのは、中学・高校になってから感じるようになったね。小学校のころはそんなことに無頓着で、みんなでワイワイやっていたからね。周りがみんな障害者だから、自分たちを障害者っていう感覚がなくて、俺たち何かおかしいなってくらいだったね。▼■あのね、『気になるうわさ』っていうミニコミ誌を作ったんだよ光明で。僕なんかの学年で考えたのは、養護学校なのに何でエレべーターがないのかとかさ。3階建てだったんだよ。僕たちが中学2年の時にエレべーターができたんだけど屋上には行けないんだよね。屋上までエレべーターはないから。だから『気になるうわさ』の1号は、養護学校なのになんでエレべーターがないのか、ということ。夜な夜な学校に侵入してガリ版でつくったんだよ。
小井戸:ガリ版。私も新聞部とかでやりました。なつかしいです。
横山:僕らいつも7人で行動していたんだよ。今ここ(ハンズ世田谷)にいるよ、土曜日に学校が終わって、夜の8時くらいにまた学校に行ってみんなで会うわけよ、ガリ版刷るから。その7人のうち僕だけ車椅子だったんだよ。『気にあるうわさ』を全校に撒いたわけね。そしたらすぐ学校当局が「これを書いたのは誰だ。横山だろう」って。でも僕は、ほんとのことを書いたんでね、「ほんとの思いを書いたからそんな怒られることはないと思うよ」って正直に言ったのね。そしたら締め付けが激しくなって(笑)。それならば、製造班っていうのを作って生徒会を牛耳っちゃおーってことになったんだよ。文章書いたのは中学2年の時だよ。生徒会を牛耳れば、言われることはないよなってことでね。その生徒会を牛耳るときにちょうど、僕の担任の介護職員が原(監督)だったんだよ。それで、生徒会を牛耳るならば『さようならCP』の上映会をしようということになって、養護学校で初めての上映会をしたんだよ。
いじめに関してはね...、高校の二年生の時の修学旅行かな。32人の学年でずっと動いてたんだけどA組とB組で別れて行ってA組が10人くらいで僕はA組だったんだよ。A組に車いすが3人たんだよ。だけど学校の担任が「君はいけないよ」って。
小井戸:横山さんが言われたの?
横山:いや、僕の友達が言われたんだよ。それで僕たち学年が集まって担任に抗議したんだよ。いけない理由は、手がかかるからってこと。
小井戸:どうして他の人とか横山さんは言われないの?
横山:あのね、自己表現があまりできない人だから。言語障害がきつい人で。
小井戸:周りが分からないと思ってなんでも言っちゃうってかんじ。
横山:そう。それで僕ら頭にきて、みんなで行くのが修学旅行だろう学校の思い出として、ってことで。なんで排除するのかその理由を言えって行ったんだよ。「その人がいくと職員が二人つかなければならないから」って。じゃあつければいいって言ったら、「お金は無い」って言われた。じゃあ、僕らがボランティアを探すから絶対につれていけって、みんなでボランティアの費用を出し合ってボランティアを探して一緒に行ったんだよ。▲
小井戸:ほかの方の論文で、「養護学校で、健全者のように...と押し付けられて育った」って語っている人もいた
のですけれども、光明そんなことはなかったですか?
横山: ▼■あったよう。耳にタコ以上だったよ。毎朝、毎朝、朝礼があって、校長からいつも言われたことは、「感謝の気持ちを忘れないでいなさい」「いつもにこにこ明るくいなさい」「どうもありがとうございました」この三つのことは毎日言われるわけよ。小学校の1、2年のころは何も感じなかったから真に受けてやっていたんだよ。でも自我をもつようになって小学校3年あたりから、考えたら、何を当たり前のこと言ってるんだって思ったわけ。やってもらったらありがとうございますって言うのは当り前だろうって。何でおれたちだけに言うのかと思ったわけよ。もっとひどいことはね、「あなた方は体が動かないから健常者に頭で勝負しなさい」って。それで僕はムカッときて差別じゃないかと思ったよ。生徒同士のいがみ合いは無かったよ。特に僕らのクラスはね、僕がリーダーだったからアハハハ(大爆笑)。▲
小井戸:同窓会の仰光会のことですけれども、そこで活躍なさっていたって聞いたんですが、どんなふうに?
横山:■僕はそんなにないよ。もともと光明は青い芝と切っても切れないんですよ。要するに卒業生が東京青い芝を作ったんだよね。だから青い芝と仰光会っていうのはそういう縁があって。でも今考えてみてパッと見渡したら介護保障をやっているのはおれだけなんだよね。新田もいなくなったし、修もいないし、川元もいないし、 だから俺一人になっちゃったんだよ。
なんていうのかな...、おれの子供のころは先輩たちがものすごく頑張っていて、先輩たちにとても俺なんかは手が届かなかったわけよ。
小井戸:あこがれの存在?
横山:そう、そう、すごくあこがれていたわけね。日本の障害者運動の一期生は、二日市さんとか。要するに「しののめ」っていうグループ。
小井戸:区分けが分からない...。
横山:僕、3 期生と4期生の間なんだよ。
小井戸:私が第2世代ですよねって聞いたとき、第3世代だって言われたので。でも、ほかの文献とかを見ても横山さんは第2世代だったので。だから意味がわからなかった。
横山:僕の中で第1期生の人たちは、二日市さんとか、今のCIL船橋の宮尾さん。要するに今の障定協を作った人たち。
小井戸:あ、郵便。障害者定期刊行物協会。HANDS世田谷を一緒に始めた。
横山:そう。要するに7円で出せてたときね。あれを作った人たちが1期生なのよ。その時に過激なことは言ったりしないで。障定協のメンバーは就学免除だったわけね。学校にも行けなかったわけよ。だから自分たちで独学して勉強したわけ。
小井戸:すごいですよね。
横山:すごい頭良いよねー。その就学免除だったメンバーが情報誌をみんなで提供しようということで、当時の社民党とか議員を口説いて。二日市さんなんかも1か月に三日くらい国会に行って抗議して定期刊行物協会を作ったわけよね。その人たちが1期生なの、僕の中ではね。
小井戸:それは障害者運動として?
横山:ん〜、だから障害者運動として見るかどうなのかっていうことあるよね。僕はそれも運動として見ているわけよ。障定協のメンバーたちが一期生で、次が府中療育問題それが僕の中では二期制なわけよ。僕はもちろん府中のなかでもまれてきて育って来たから、それでほ僕はおのずと介助保障にこだわってたわけだから。それで3期生と思うわけ。僕は全障連「系」なのね。青い芝とはちょっと距離を置いていたわけよ。
小井戸:横山さんの区分けは全障連で考えた場合なんですね。
横山:うん。青い芝っていろいろあってですね、 二日市さんたちを青い芝って言う人もいるし。青い芝って僕の中では...、これはあくまで僕の中でね、福島の白石さんたちが過激な青い芝だった。だから横塚さんや横田さんなんかはどっちかっていうと第1期生には近いんだよね。文集を作るとかさ、自分たちの考えを文章化するとかね。
小井戸:東大の荒井さんが出した本の中でも、やはり稀有だって言ってますよね。日本の障害者運動をリードされた方はみんな文章でリードされたということでね。
横山:人によって違うけれど、おれは青い芝は2期生だと思っているわけ。僕の中で障害者運動の母体っていうのはやっぱり「しののめ」なのね。
小井戸:そういうとらえ方をしている方はいらっしゃらないような。障害者自身がそういった捉え方をしているということで面白いと思いますよね。
横山:全障連「系」でね。僕はここの介助保障の中にも書いたんだけれど、当時の障害者っていうのはみんな軽度なわけよね。横塚さんみたいに歩けるわけね。歩ける人たちの運動が中心だったわけね。それに対して府中闘争があったわけね。それで、そこから分かれるんだよみんな。白石さんとかもわかれるし、福永さんもね、関西の。分かれるわけね。
小井戸:ちょっと仰光会の話しに戻りますけれど。在学中から関わっていました?
横山:もう...いま光明は90周年なのよね。それで仰光会ができて72年なのね。今の会長は東京在障会の人なのね。僕は32期生なんだよ、このぼくでさえもね。春田っていうのがいるんだけどね、春田は会長を30年やっていたんだよ。▼それで、春田が僕に何でも教えてくれたわけ。▲春田もCPだけど歩けるわけね。仰光会もあまり活発じゃないよね今はね。あまり僕は入った覚えがないんだよ。僕はもともとアウトローだからね。
小井戸:次の話しですが...。お母さんが亡くなられますよね、
横山: おやじが先で僕は中学2年の年かな。母ちゃんが亡くなったのは僕が高2の時かな。
小井戸:そのときすぐに自立に向かわないで施設を選択するわけですよね。そのまま自立に向かえたような気がするのですが。特に同窓会や先輩とのつながりがあるようなので。
横山: 練馬更生園に入ったんだけどね。あのね〜どこから話そうかな〜。僕のかあちゃんは、上に4人いるから僕の面倒は見てもらおうと思っていたわけ。だけど俺は、姉ちゃんだから、名前が変わるわけでしょう。それで、これ以上迷惑をかけたくないと、逆にお袋を僕は説得したんだよね。「おふくろ俺、施設入るよ」って。おふくろは当然ながら施設に入れたくなかったわけ。私の眼の黒いうちは私がしっかりあなたの面倒みてあげると。私がいなくなったらほかの姉ちゃんたちがいるんだから、姉ちゃんたちに任せてあるからってことで。それで、「僕は甘えん坊で育てられたから、施設に入って人生の修行してくる」と。「かわいい子には旅をさせろっていうことわざがあるだろう。僕、行って来るよ」って。僕をそういう気持ちにさせたのはね、おふくろを見てらなかったんだよね。僕の視界におふくろが入るとおふくろは頑張って僕の面倒を見るわけね。食事をつくってくれたり、食べさせてくれたり。だけど、いざ僕の視界からおふくろが離れると当然寝込む状態なんだよね。だから、俺がいなくなればおふくろが長生きできるんじゃないかなって思った。それで、俺ができる親孝行っていうのは俺が施設に入ることだと思ったわけ。おふくろは泣きながら「じゃ、行って来い」って。それが16歳の時。親父が死んだとき僕は中学2年生だったのね。その頃おふくろは、中学があと1年だから卒業させたいと思っていたわけ。施設のパンフレットを持ってきたわけ。それがなんと中療育センターだったの。おやじが亡くなって、行政が持ってきたパンフレットね。
小井戸:新田さんや三井さんも、良い所と言われて府中に入らされたみたいなことが書いてありますよね。何とか定員いっぱいにしておきたかったみたいですよね。その行政の話しにお母さんが納得しなかったから府中に行かないで居られたわけね?
横山:今から思えば、おれは行きたかったなって思うよ。
小井戸:箔がつくからでしたっけ?
横山:そう(笑)。
小井戸:施設に行く時に「修行」っておっしゃったけど、16歳から18歳まで居るでしょう。施設はどうでした?
横山:俺がこだわっていたのは親子関係と施設なんだよね。施設に入る前は、さっき言った学校の7人メンバーで、ツーと言えばカーだったから何でも分かり合える関係だったわけ。それで施設に入ってものすごい苦労したことがあるね〜。2つある、2つある。1個は人間関係ね。やっぱし僕一人が生まれつきの障害者で。その施設が4人部屋なのね。ほかの3人は中途障害者なの。一人は金持ちのプレイボーイ(笑)。彼女とプールに飛び込んだんだけどそのプールの水が無くて頚損になったんだよ。それでもう一人が大工さん、壁から落っこちた。もう一人はね機銃隊なの。全学連で教えられて。だから当時はいろんなのがあったんだよ。僕は16だから一番若かったわけね。ほかはみんな部屋の人も含めて40、50のおっさんさんなんだよ。おじさんやおばさんなんだよ。いちばんの若僧だから最初はおとなしくしていたわけよ。2カ月後ぐらいから僕は堪忍袋の緒が切れたわけ。なぜかって言ったらね。毎晩毎晩ほかの3人が障害になる前のことを話すわけ。あのころの女はどうだったとか、あのころの酒がどうだったとかね。だから俺は、「あんたたち、いい加減にしてよって。なんで障害になる前のことを話すのって」そしたら、「うるせえ、お前にはわかるわけねえだろう」って言われたから、「はい、僕にはわかりませんよ。僕は生まれつき障害者だから。でも僕は、あなた方をうらやましいと思います。人生、普通みんな一回なんですよね。でもあなた方は2回経験していますよね。その経験をどうして前向きに出来ないんですか?」って思い切って言っちゃったんだよ。そうしたらほかの3人が何にも云わなくなって。2個目はね、施設全体の建物の真ん中に廊下があるのね。右側に4人部屋の居室が並んでいるのね。廊下を挟んだ反対側はトイレとかお風呂とかになるの。でもドアも扉も何も無いんだよ。のれんなのよ。だから廊下を歩いているとお風呂もトイレも全部丸見えなんだよ。
小井戸:今でもまだカーテンとかありますよね。府中療育とも変わらないですね。
横山:そう、そうなんだよ。それでぼく怒ったわけ。「何でドアを付けないの」って聞いたわけ。(そしたら)「ドアを付けると緊急の時に遅れちゃうから」って。僕はそういうところが嫌だったから、絶対に出てやるって思ったわけ。僕は、関西で身に付いた障害者の自立の基本条件っていうのがあったわけね。文化住宅に住むこと、介助者を探すこと。
小井戸:三種の神器でしたっけ?
横山:そう。それで生活保護をとるということ。
小井戸:それは、誰から聞いているんですか?
横山:関西青い芝。光明にいるときから僕は関西青の青い芝の人たちと仲が良くてその人たちから聞いている。甲山闘争って知ってる?甲山闘争に僕行ったんだよ東京から。
小井戸:あの方もよく頑張りましたよね。初めおとなしかったけれどね。
横山:そういう関係で、施設は絶対に居るとこじゃないと思った。その時に都営住宅の申し込みが新聞に載るんですよ。僕はそれを待ってたんだけど、待てど暮らせどその新聞がないんだよね。
小井戸:その部分だけ?
横山:そう。だから「なんでここが切り抜いてあるの?」って聞いたら、「お前らには関係ねえだろう」って言ったんだよ。「お前ら居るところはここなんだよ」って。また僕は頭にきて、騒ぎ過ぎてさ、自治会を作ろうと思って『気になるうわさ』とかさ。いう感じでミニコミ誌を作ったんだよ。そしたら、ほかの施設に入ってる人たちが、「おまえ頼むからおとなしくしていてくれよ」って。「お前が入ってきたおかげでこの施設は騒がしくなった」って。
小井戸:聞いていて思ったのですが、その人たちはずっと施設にいるんですよね?その人たちは長年いるから疑問も持たない。でも横山さんは16で入って間もなくだから。
横山:そう。もう30年40年のべテランだからね。「なんでここに居るんですか?」って聞いたら、「こんなに良い所ないよ。雨風はしのげて食事を出してもらえるし、ある程度お金が稼げる」と。工賃という形で1日200円300円だよね。「ここは安住の地なんだ」って言われたわけ。俺それ聞いた瞬間に、この人たち本音じゃないなって思ったわけ。本音を言わせなくしてるっていうか、本音を語れないと思った。それで、本音を言わせようと思って自治会を作ろうと思って。施設の50人の仲間がいたわけね。そのうち30人は、横山に同調すると。一番若僧にね。それで断行とかをやることになったわけね。施設は11月から5月まで、1年のうち半分は外出禁止なのよ。風邪がはやって職員の手が足んなくなると。風邪の菌が入ってこないようにするために外出禁止なんだよと聞いた。だから僕は、百歩譲りますと。でも職員も外出禁止にすべきですよねって。そしたら「生意気いうな」って言われた。
小井戸:3年間だけど結構いろんなことをやってきましたね。
横山:なんでその施設を出られたかって言うとね、園長がたまたま青い芝の理解者だったん。で、横山はこんな施設入ってるのもったいないから辞めて行け。それで地域で運動を起こせと。その言葉があったから僕は出られたんだね。
小井戸:横山さんとしては家族に迷惑かけるからということで修業に出たときに施設を安住の地と考えていました?
横山:僕はもともとだったから修業っていうことで考えていたから、安住の地だと思っていないわけね。いいとこ5年くらいかなと思っていたわけ。
小井戸:身近な人で先輩とか、自立をされてる人はいなかったのですか?どうしてすぐに自立の道に向かわなかったのかなと思ったのですが。周りにはそういう人いなかった?接点がなかったのですか?
横山:いなかったね〜...。だからすごい悔しかったわけ。せめて学校にいる間に先輩たちの暮らしとかわかっていればってね。だから今、僕は「光明プログラム」っていうのをハンズでやっているわけ。そういう悔しさがあったからね。自分が光明での先輩の暮らしが分かっていれば、もっと違う道があったのになって思うからね。だから今の在校生に、こんな先輩もいるんだよっていう話しをして自信をつけさせているわけね。
小井戸:そうしますと、園長の言葉を受けて、それから自立している人たちとの横のつながりをつくって行ったわけですか?
横山:はいはいそうです。だから練馬福祉更生園。練馬には当時、荒木さんがいたわけよ。全都在障会の荒木さんね。荒木さんも光明出身なわけね。荒木さんと交流を持ち始めて、それから全都在障会のことを聞いて、そこで新田さんと仲良くなって。施設にいる間のことね。
小井戸:全都在障会の荒木さんから新田さんのことも聞いたわけですか?
横山:そうですね。あ、もう一個、僕が悔しい思いをしたのはね、光明の高校3年になると進路指導っていうのがあるわけよ。
小井戸:はい。
横山:今までずっと7人メンバーで動いてたわけね。あるとき担任から「横山、お前は普通の企業にけないよ」って。ほかの 6 人は一般企業に行けるわけだから見学できるわけ。それで僕だけが施設見学なのね。それが悔しかったね。
小井戸:どういう所に行きました?
横山:関東一円回ったよ。群馬の高崎でしょう、茨城、埼玉、山梨も行ったかな。僕は、なんで練馬更生園を選んだのかっていうと、これまた騙されたんだね施設の職員に。練馬更生園に見学に行ったわけね。そこが雰囲気が一番明るかったわけ。ほかはみんな暗いんだよね施設って。でも僕は入って二日目で分かった。その原因がわ分かったんだよ。二日目の朝礼で職員が、「今日は○○養護学校の生徒が30人見学に来ますから皆さん明るく振る舞うように」と。俺はそれ聞いて騙されたなって思った。見学者が来ると会話も自由だしテレビも観ていいわけね。ところが見学者が帰るとテレビは消されて会話はご法度だからね。
小井戸:自己決定、自己責任ってあるじゃないですか。横山さんが自立しようかなって思ったときにはどのようにとらえてました?そのことはあとから付けた理屈って感じでしたか?
横山:そうね。僕の考えは、まず行動すべきだと。人間の考えてって何でも消極的なるわけね。でもまず行動しようと。当たって砕けてまた失敗したらその時に考えれば良いんであって、初めから考えていたら自信がつかないよって僕はずっとそういう考え方でやって来たの。失敗したらまた考えればいいと思うんだよ。「ノリ」だからね、僕の人生「ノリ」だからさ(爆笑)。
小井戸:関西出身ですねー(笑)。 荒木さんとか新田さんの生活を見て、自立するにあたって、こんな感じかな〜とか考えられました?
横山:イメージがついたよね。新田との会話は足文字で、新田の介助者が足文字を読んでくれた。
小井戸:自立するまえに梅ヶ丘とか運動をしますよね。施設に居ながらそれをやったの?
横山:僕は施設3年間居たんだけど、ほとんど毎週、世田谷に帰って来ていたね。
小井戸:それをやり始めたメンバーてっていうのは世田谷のまえのお仲間ですか?
横山:そう。遠藤繁、あの人がリーダーで、須田とか僕の同級生のが居て、言い出したのは僕だけどね。僕が「何で梅が丘の駅が使えないんだろう」って言った言葉から始まったんだよね。
小井戸:その頃から社会環境に問題があるって思ってました?
横山:個人がいくら頑張っても限界があるんだよ。社会の見方を変えれば僕らが生きやすくなるし、そのことをずっと思っていたわけ。それは僕が昭和29年に生まれで▼森永ヒ素ミルクとかを見ているからさ、水俣とかね。とにかく僕は見ないと気が済まないわけね。見て、自分で考えて、どう感じて、それをどう伝えていくのか、ということがぼくには絶対に必要だからと思っていたんだよ▲。
小井戸:梅が丘のスロープをやったのは仲間づくりですか?
横山:仲間づくりというか、僕はそういうのを我慢しちゃ駄目だと思ってるから。人生一回しかないんだから、感じたら口に出すべきだと。口に出して要求しないと何も変わっていかないということをずっとガキの頃から思っていたから。たがら、僕は介助保障問題になんでこだわっているかっていうと、もちろん新田さんとの出会いもあったことはあったんだけど、そもそも俺は自分で玄関からお願いして車椅子に乗せてもらえばあとは自分で行けるわけよね。そこで初めて駅の問題が僕の中に入って来たわけ。でも家庭訪問してみて、駅まで行くのが問題だとわかったわけ。
小井戸:そうゆう人もいると。
横山:だから、まずは介助だと思ったんだよ。
小井戸:なるほど。そういう順番なんですね。
横山:だから駅の問題を通して、仲間づくりと介助の必要性を世田谷区に訴えて行くべきじゃないかと。
小井戸:それで途中から、訪問していくうちに変わってきたわけですか。
横山:そうですね。初めは自分の問題だったわけね。そのときは、駅の問題は介助の問題まで行かなかったわけ、自分はね。でも訪問して仲間づくりをしているうちに介助の問題が出てきた。
小井戸:新田さんと出逢うよりも前のことですね。ちょっとすみません話し戻りますけれど、水俣に行ったのは何歳だったんですかね?HANDS通信で14って書いてあったので教えて下さい。
横山:12歳だね。小学校6年生だね。
小井戸:個別訪問は誰かと一緒にやっていたんですか?誰か一緒に組んでいたんですか?
横山:僕一人だよ。個人でやっていました。
小井戸:そうすると、運動とは別いうことですかね。スロープ運動では、たとえばグループがあるとその中で、今日は誰々の所に行こうとか、訪問はどうだったかとか話しをしたか?
横山:もちろん報告会は月に一回しましたけどね。
小井戸:なるほど、回る時は一人でということですね。報告とかをする仲間はどういう人でした?
横山:えんとこの遠藤さんとか、平田さんとかのメンバーだね。でもそれぞれ仕事もっていたから。僕だけ仕事が無かったから、当然僕が一番回るわけね。
小井戸:そうすると知りあう人も多くなる。
横山:はい。だから僕の中で三つあるのね人生を変えた大きいことが。水俣のおじさんと、家庭訪問で知り合った障害者と、それから施設で知り合った人だな。
小井戸:施設でってどうゆう意味?
横山:同じ障害者と言えども、生まれつきの障害者と中途の障害者は全然ちがうんだなってことを感じてました。
小井戸:家庭訪問の報告会でどういう話しが出ました?どんな意味がありました?
横山:どんなコミュニケーションをとったかとかね、どんな趣味を引き出したかとか。どこか行きたい所あるかとか、 観に行きたいものはあるかとかね。それと、家庭訪問で知り合った人とは今でも付き合っているんだよ。
小井戸:横山さん自身の介護の大切さとかでずっとつながっているんですね?
横山:そうね。介護の重要性とかね。
小井戸:それを気づかせてくれた人たちでもあるってこと。
横山:はい。それで、それに拍車をかけてくれたのが新田。
小井戸:それで、新田さんの話しは今後も続くっていうことで終わって、その続きは次回に教えていただくということになるんですけれどもいいですかね。それと、いまこれを書かせてもらっていて、名前とかを出すことですけれども、Aさんとか、Fさんとかで話を進める人もいるのですが。録音とかをパスワードが必要だったりする所に公開してもいいですか?一般には流れないと思うんですが。
横山:個人名で良いよ。俺がもし死んだ時にさ、公表してもらうから(笑)。
小井戸:水俣と森永の時代が今の。患者と障害という社会に対する違いも独特な観点ですよね。「僕たちは特定の相手(企業とか)がいないから社会一般に訴えなければならない」 ということをまずまとめさせてもらって。そして光明と施設その後に今の運動とどのようにつながっているかをまとめる。そして梅ヶ丘スロープ設置のことと個別家庭訪問で。
横山:青春パートUをつくるわけね。今までが青春パートTだからね(笑)。
*作成:
小井戸 恵子
・
小川 浩史
UP: 20200307 REV: 20200308
◇
横山 晃久
◇
脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy)
◇
自立生活センターHANDS世田谷
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小井戸 恵子
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病者障害者運動史研究
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