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横山晃久氏インタビュー

横山 晃久 2018/07/05 聞き手:小井戸 恵子
自立生活センターHANDS世田谷事務所(東京)から横山氏の電話

病者障害者運動史研究

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last update: 20200308


■2018/07/05 HANDS世田谷事務所から横山氏の電話

横山:▼僕はまだね、自分が障害者だと思ってなかったからね(笑)。だから、ちょうど僕が生まれた54年ていうのはさ、水俣とかね森永ヒ素ミルクとかさ公害病とかあったわけよ。でね、そういう時代で生まれて来たから当然そういう社会背景がおのずとあってね、僕もひょっとしたら森永ヒ素ミルクの患者かな〜と思ってたわけよ、自分の中では。だけど出方が違うんだよねヒ素ミルクの患者とちがうわけよ。だから僕はそういう意味でね、ものすごいね幼いころから社会問題って興味があったわけよね。▲当時の社会問題って云うのは公害病とかさ、高度成長期時代に垂れ流しね企業の、ものすごい多かったわけでしょ。それが森永ヒ素とかさ、それから水俣病とかさ、あと六価クロムとかさ。だから当然、群馬とかさ新潟のイタイイタイ病とかさ、僕いろんな公害病を勉強したわけよね。

小井戸:それっていつ頃ですか?

横山:僕が10歳まえ。だから5から10のあいだかな。

小井戸:じゃあ、東京に出てきてからですよね。

横山:はいはい。生まれつきの障害の人っていうのはさ、もう生まれてからずっとこの身体だから違和感ないんだよね。自分んなかで。アハハ。

小井戸:私もそう。その状態が自分ですもんね。

横山:そうそう。

小井戸:そのころは自分の障害ってことじゃなくて社会問題に興味があったから?

横山:そう。だから俺を目覚めさせてくれたのは水俣の人なんだよ。そう。俺が10から11のときに1人で水俣に行ったんだよ俺。

小井戸:電車で行ったんでしょ?

横山:そうだよ。

小井戸:どうやって行ったの?介助者とかは?

横山:いないよ、もちろんいないよ。

小井戸:その頃って、横山さん一人で動けた?

横山:そう、動けたよ。もちろん車椅子だよ。

小井戸:車椅子を自分でこいで?あ!足こぎ?

横山:そう、足こぎ、足こぎ。▲森永の人たちとか、それから水俣の人たちなんかは、自分たちの事を患者って言うわけ患者って。俺は怖いもん知らずでさ、「どうして患者って言うのか?」って聞いたわけ。俺は障害者だと思ってると。俺ん中で「障害」と「患者」っていうのは違うと。たとえば風邪をひいて薬で治るのが患者だと僕は思ってると。ところが僕は治んないと。それを僕は障害だと思ってるというふうにね、偉そうな事を云ったわけよ(笑)怖いもん知らずでね。俺にとってみればさ、車椅子があたりまえなわけよ。でも世間一般だとさ、車椅子は当たり前じゃないわけだね(笑)。そのちがいだね。水俣のおじさんに言われた言葉がね、「お前は障害者だろう。なんで自分の問題をやらないのか?」と。いう、僕ん中ですごい突きつけがあったわけよね。俺なんか、そういう気なかったからさ、そこで、ハッ!と思ったわけね。で、そのおじさんがもうひとこと言ったわけ。

小井戸:なんて?

横山:自分の問題をやりながら水俣を見てくれと。で、僕はそっから目覚めたわけよ。それがきっかけなの、自分の問題をやるようになったね。

小井戸:自分の障害と向き合うかな〜みたいな。そのおじさんのひとことが影響。

横山:そう。

小井戸:その人たちに知り合わなかったら...

横山:ガハハハ(爆笑)。たぶん、どっかでさ、そういうことがあったと思うよ。だって俺さ、新潟とかさ、群馬とか行ってたんだもん。公害で。

小井戸:けっこう、何人か会いました?

横山:会いましたよ。5人くらい。▼でもやっぱりさ〜患者の人たちっていうのはさ〜、水銀をばら撒いたチッソが悪いんだと。チッソによってこんな身体んなっちゃったんだと。だからものすごい、その...。僕らはさ、社会全般だと思っているわけよ差別を受けているのは。ところがあの人たちは、それを、水俣だったらチッソが悪いとかさ、森永ヒ素ミルクだったら森永が悪いとかさ、いう限定なんだよね。いわゆる、そのほうがさ、はっきり言って闘いやすいわけよ。でも俺たちっていうのは社会全般だからさ〜(笑)。▲僕ね、ニュースをよく見てたから。ニュースでそういう公害問題とかあったからね。森永の患者と同じで、相手が社会全般じゃないんだよね、企業なんだよね。企業がこんな身体にしてしまったと。逆に言えばねそのほうが楽なのよね。闘う側としてはさ、そのほうが楽なんだよね。

横山:あのね原点はね、みんな同じなんだね。

小井戸:おなじ?

横山:軽度障害者なのよ。軽度障害者だから横田さんもさ横塚さんもさ最初は軽度だったわけだよね。だから介助の問題なんて出なかったわけよ。介助の問題を青い芝で提議したのは新田なの。
 (間)
横山:光明にはね〜全国各地から集まって来たよね〜障害者がね〜。

小井戸:横山さん5人きょうだいでしたっけ?

横山:そう。末っ子。姉ちゃんたちも学校かわってたよね。学校替えたよね、俺のためにね。

小井戸:養護学校は中学いっぱいですか?

横山:高校まで。だから12年間、6、3、3。

小井戸:それは家から通ったんですか?

横山:そうですね。

小井戸:養護学校はどうでしたか?

横山:僕のクラスメイトは九州の鹿児島から東北の秋田まで。だから方言がおもしろかったね。

小井戸:施設に入ったって前に聞いたけれども。

横山:入ってましたよ〜。

小井戸:自分から?

横山:そう、自分から志願して入りました。もちろんね、おふくろはね入れたくなかったみたいだね。

小井戸:施設は何年間?

横山:3年ですね。僕はね施設出れたのはさ、その時の園長。園長が青い芝の理解者の人でね、「横山はこんな所に居るのもったいない」と。「横山、出てけ」と。「もっと地域の障害の運動をやれ」と。いうことで障害者運動に理解があった人なのね。

横山:僕はほら、大阪生まれだからさ、▽大阪の障害者運動のやり方がさ、勉強したわけよ。

小井戸:あ、そうそう、大阪の障害者運動と東京の障害者運動ってちがう?

横山:ぜんぜん違うねー。えへへへ(笑)。あのー、僕が驚いたのはね、大阪の障害者運動っていうのはさ、年にね4回くらいやるわけよ交渉を。大阪府との交渉。でも人数はさ200人くらい集まるわけ。事務折衝をばんばんばんばんやるわけよ。事務折衝を月に2回くらいやってるんだね。事務折衝があって本交渉するわけでしょ。東京の本交渉でもさ、障害者50人集まればいいほうなんだよ、東京は。なにが違うかっていうと、親も来るわけ大阪は。で、その背景はね部落解放同盟があるわけよね。だから部落解放同盟とつながってるわけ大阪の障害者運動は。それが大阪のやり方なわけね。

小井戸:その大阪のやり方から横山さんの個別訪問にどうにつながるの?どういうふうに。

横山:あのねー。東京は都営住宅じゃない。自立のね三種の神器ってのがあってですね。まず住宅保証、所得補償、介助保障。この三種の神器っていうのがあってですね。大阪っていうのは府営住宅なの文化住宅なのね。文化って云うの大阪、関西は。まず文化住宅に住んで、それから生活保護を取って、それからいろんな大学行って介助者を集めて来る、というのが大阪の自立運動のパターンなわけ。そうやってアパート借りて生活保護とって介助を集めてきた自立の先輩たちが家庭訪問ってのに動くわけよ。そういうやり方を僕は学んだのね。それが青い芝の初期の運動のやり方。で、もともとね、当時ね、青い芝と全障連っていうのは、ものすごい近かったわけよ関係的にね。だから重度障害者。どっちも大変なったわけよ。そっから全国に飛び火したんだよ家庭訪問てことがね。

小井戸:だから横山さんは18歳で施設出たときから家庭訪問て。

横山:そう、それが主軸だったわけ。

小井戸:あ、新田さんとのことですけど。

横山:育てられたっていうのはさ、障害者問題っていろいろあるけどさ、やっぱり障害者が生きて行くうえでさ、特に重度障害者はさ、介助がいなければ生きて行けないわけでしょ。僕は障害者問題やってるけど、僕はずーっと介助保障の問題ずーっとやってきたわけだよ。で、その介助問題で僕が影響受けたのが新田なんだよね。

小井戸:うん、前にちょっと教わったかも知れない。

横山:そうそう。

小井戸:どんなふうに影響受けたんですか?教わったっていうか、新田さんからどんなこと言われたの?

横山:要するに、僕がなるほどなーと思ったのは、施設の中ではね介助労働っていう言葉があるんだけどそれを地域に置き換えると介助労働っていう言葉ないでしょって。

小井戸:なにになるの?

横山:だからボランティアでしょ。それが安上がり福祉。日本がやっているんだよと。

小井戸:それに対して新田さんは、どうにやって行こうとしたんだろう?

横山:新田さんは、介助労働が日本各地で起きないと障害者は施設に閉じこもったままになっちゃうよと。いうことで僕は新田とはいろんなこと話して、いろんな影響を受けて来たのね。

小井戸:ほかには?

横山:覚えてるよ。要するにね時給を計算したわけよ。施設の職員、施設の労働者と同じ仕事なのに一方で地域ではボランティアですましてる。よくね新田さんと計算したのはね、一人の障害者が施設、たとえば府中療育園で職員は年間いくら出しているかと。給料保障も含めてね。それに伴って障害者が年間いくらかかっているのかと。施設と、北区なら北区の障害者がいくらかかるのかということを計算したわけよね。もちろんこれは都立施設の場合ね。都立施設の場合だったら障害者がひとり3,200万かかるわけよ。それは職員の給料も含めてね。建物の修繕費とか入れてね。一方、その当時、新田さんは北区に住んでいたから北区の障害者手当とか介助手当とか含めても月に900万なのよ。この差はいったい何なのかと。だけど障害者本人は900万のほうを願ってる。この差をね、もっと大々的に行政とか国とか一般市民に向けてアピールしようって。

小井戸:それでなにかやったんですか?

横山:いうことで僕は組合に入ったわけよ。

小井戸:それが要求者組合?

横山:そう。で、要求者組合悪く言う人もいます、確かに。

小井戸:そうなんですか。

横山:だけど、あの当時の最前衛だったと思うんだよ。

小井戸:新田さんとは、いつごろ、どういう感じで出会ったんですか?

横山:あのねー、話せばあれなんだけど。要するにね72年...その前後だね。

小井戸:施設を出るころですね。

横山:僕が行った。

小井戸:どこに行ったの?

横山:北区。新田が北区の都営住宅に住んでいたから。

小井戸:新田さんがそこに住んでるってなんで。

横山:仲間、仲間の情報。

小井戸:それは施設の仲間?じゃなくて?

横山:いやいや、ちがうちがう。要するにね、東京青い芝を変えようよと。東京青い芝はその当時ね、ケア付き住宅の路線で走ってたわけよ。で、新田さんたちは「施設なんかダメだ」ということでさ、えーっと、在障会っていうのがあったわけ。東京都在障会っていうのがあったわけね。東京都在障会で北区と世田谷と、あと新宿区が力があったわけ当事者のね。

小井戸:当事者の力か。なるほどね。

横山:それで全都在障会で東京青い芝をひっくり返そうと、いうことで俺と新田さんが手を組んだわけ。

小井戸:横山さんは施設に居る時から外の仲間とつながっていたっていうこと。

横山:そうだよ。

小井戸:世田谷に居るけっこういろんな人を知ってたんですか?たとえば二日市さんとか。

横山:そうだよ、二日市さんもそうだよ。二日市さんはハンズ世田谷の初代理事長なのね。

小井戸:どうして二日市さんがなったの?

横山:あのー、二日市さんを担ぎ上げたわけよ。

小井戸:だれが?横山さん?

横山:ちがう。僕のもう1個上の先輩がね。あの女性だよ。

小井戸:横山さんと気が合ったって言ってた人?

横山:そう。あのね、全国で二日市さんっていうのは有名だったんだけど地元では有名じゃなかったんだよ、あんまりね。

小井戸:そうゆうのあるんですね。で、成子さんでしたっけ?

横山:そう、山口成子さん。

小井戸:が、二日市さんを。

横山:そう、二日市さんをハンズ世田谷に呼んだわけね。

小井戸:施設に居る時から二日市さんも知っていたんですよね。どうして、そうにつながるんだろう?

横山:だって僕なんかね、いわゆる、し、し

小井戸:だいじょうぶ?しゃべり過ぎちゃうよね。

横山:し、刺激、刺激。刺激がないとなんにも変わんないからさ。だから小ちゃいときから刺激を求めていろんなとこ行って、いろんな人間関係結んで、で、刺激を与えられて来たわけよ。


*作成:小井戸 恵子小川 浩史
UP: 20200307 REV: 20200308
横山 晃久  ◇脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy)  ◇自立生活センターHANDS世田谷  ◇小井戸 恵子  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
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