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横山晃久氏インタビュー

横山 晃久 2018/07/01 聞き手:小井戸 恵子
於:関戸公民館 三井絹子氏講演会会場(東京)

病者障害者運動史研究

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last update: 20200308


■2018/07/01 三井絹子さん講演会会場にて講演会が始まる前に再質問

横山:高橋修さんが亡くなって20年。没後20周年をやるかと。もしやる所が無かったら横山と野口が組んでやるかと。第一の弟子だから野口さん。

小井戸:どこでやるか、いつごろかはこれから?

横山:これから。

小井戸:始まる前に一個だけ聞きたい。横山さんの話の中に、青い芝の、青い芝幼稚園の一期生っていう話が出てくるでしょ。幼稚園を作ろうとしたの?

横山:はい、はい。幼稚園はあったんだよ。できたん。▼東京青い芝が、『健常者と共に学び合う場所をつくろう』と。それが光明の近くにあったわけ。あったよ。豪徳寺にありました。

小井戸:▲1なんていうのだったの?

横山:え〜とね〜…。当時の関係者は、もうほとんどいないね。東京青い芝が、

小井戸:幼稚園?保育園?

横山:幼稚園。もちろん無認可だけどね。

小井戸:うん

横山:障害者が5人いたかな。

小井戸:そのうちのひとりですか?

横山:そう。で、もちろん教えるほうも障害者だよ。当時、▼東京青い芝の若林っていうのがいたんだよね。その若林が園長だった若林さんも今から13年前に亡くなったから。だからね、東京青い芝のラインと全国青い芝のラインとまた違うんだよね。

小井戸:それ、そのあたりの動きよくわからないん、わたし。

横山:あ、そう。俺はね青い芝のやっている事を横目で見ながら。実は僕はね、わかっていると思うけどさ、全障連から出てきてるんだよ。だから青い芝の…、当時、青い芝と全障連とくっつこうかなっていう動きがあったわけね。ところがやっぱり青い芝はその当時、脳性麻痺者だけの会だったから、そういう広げるのはおかしいと。それで、全障連の関東ブロックの*****っていう人がいたん。いまでもハンズにも来てるんだけどね。青い芝と全障連と分かれたのはさ、やっぱり養護学校義務化なんだよね。79年のね。青い芝から見ればさ、全障連はさ、日和見だと。もちろんね、全障連からみればさ、青い芝も巻き込んでさ、もっと柔軟な運動に持って行きたかったわけよね。当時の青い芝っていうのはさ、軽度ばっかりだったからさ、あんまり介助の事なんかさ、問題化しなかったわけ。青い芝が変わったのは、今日の三井絹子さんとか、新田さんとかね、そういう、もっと生活に密着したとこで介助の問題とか教育の問題とかっていうのをやって行こうということで。逆に青い芝の異端児って言われてたんだよ。

小井戸:異端児って誰?横山さん?

横山:僕もはじめね。異端児が白石さん福島のね、橋本さんそれから三井さんそれから新田さん、それで世田谷のメンバーだと。それが異端児だったわけ。青い芝の流れは世田谷が受け継いでるんだよね。その辺の話すると長くなるからー。

小井戸:また今度お願いします。

横山:合宿しよう合宿(笑)。

小井戸:前にもとこかで言ってましたよね。 (間) 本当に幼稚園あったんだ・・・。


横山:あったよ。

小井戸:何年に入ったの?

横山:2年で崩壊したかな。3歳から5歳まで僕がいたのは。

小井戸:障害の無い子と学ぼうって。

横山:そう、それで教員はぜんぶ障害者。

小井戸:なんで崩壊しちゃったんだろう?

横山:(お金のポーズ)

小井戸:あー。

横山:そう、お金が無いってことと、あとほら、青い芝だったからさ、親に人気なかったわけよ(笑)。

小井戸:入学させる親がいない?

横山:そう、生徒がいなかったから。

小井戸:そうか〜。いやあ〜、この話聞けてよかった。

横山:だから僕一期生だったからね、ほんとに。あとは僕の同級生が一人いたかな。あと神奈川青い芝も居たしね。たぶん、そういう話が出来る人って、そんな少ないよ。

小井戸:だから横山さんに聞かなくちゃ

横山さんお奥さん あははは。

小井戸:笑ってるし。

横山:はいはいはい。もう、

小井戸:うん、もう(会場に)行こう。また教えてください。ありがとう。


*作成:小井戸 恵子小川 浩史
UP: 20200307 REV: 20200308
横山 晃久  ◇脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy)  ◇自立生活センターHANDS世田谷  ◇小井戸 恵子  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
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