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佐藤聡氏インタビュー

2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤真由美 於:東京・戸山サンライズ

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◇佐藤 聡 i2018 インタビュー 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤真由美 於:東京・戸山サンライズ
佐藤 聡 DPI日本会議・19670501生
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究
◇聞き手:立岩真也権藤眞由美 権藤真由美 於:東京・戸山サンライズ
◇文字起こし:ココペリ121 【7上B】20180630_003 佐藤聡氏 128分
 ※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、聞き取りが怪しいところは、【 】(hh:mm:ss) としています。


立岩:一つは私が文部科学省の方で、研究費が久しぶりに取れて、それは運動史なんですよ。障害者運動に関係している人に聞いて回るっていうのを、去年からやっていて。就学運動に関わった人であるとか、地域で、色んな人にお話聞いて回っているというのが一つあります。それは本人がいいって言った人に関しては、公開します。けれどもそれは少なくて。ウェブで公開しますけども、してもいいって人は。それ以外にいくつか、本にしたいな、っていう企画は…、企画までいってないんですけど、希望はあって。で、今行ってるのはね、福島の白石〔清春〕…、

佐藤:白石さんですか。

立岩:清春さんとか、橋本〔広芳〕さんとか、ああいう人たちに実は、僕の後輩にあたるような研究者が、10年以上前に話聞いたりして、記録はあるんです。それがそのままになったりしてて。こないだ久しぶりに私…、あれだ、尾上さんも一緒にいらしたんだ…、郡山に呼ばれて話したんです。ついでに白石さんとか橋本さんにインタビューしたんだけれども、やっぱり福島も結構な長い時間…、震災もあったし、そういうので、来年中に…、瀬山さんとか、ご存知なんでしたっけ。

佐藤:はい。

立岩:瀬山紀子さんとか土屋葉さんとか、ああいう人たちと一緒に福島のことで1冊本※ができないかな、っていうのは今、言ってます。
 それから、これは希望だけっていうか、前から高橋〔修〕さんのことについては一つ、と思っていて。もう20年近く携わるんですけど、それでも何度か。で今は昔のインタビューとか引っ張り出してきて。そういう流れが一個あって。それを出せる時に、まとめられる時にまとめて出すとかいう感じで。それは一部は書籍になるし、一部は論文書く人もいるかもしれないし。で、本ですね。あとは「いいよ。」って言った人。こないだ、そういえばそのメインストリームの井上〔武史〕さんに、
※青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

佐藤:はい、聞いていました。

立岩:話聞いて、井上さんは快諾してくれたんで、自分でちょっと書き加えてくれたりしたやつを、ウェブで公開し始めました※。であとやっぱり話すとなんでも長くなるじゃないですか。それをみんな書籍にっていうのは無理な話なので、オリジナル版の長いバージョンと、それを使った短いまとめたものとか、そういう組み合わせもあるかな、ってのは、ひと山で。で、ここにいる権藤さんは、[00:03:05]
※井上 武史 i2018 インタビュー 2018/05/18 聞き手:立岩真也 於:京都

佐藤:初めて。

権藤:初めてです。権藤です。

佐藤:こんにちは、佐藤です。

権藤:よろしくお願いします。立命館の院生です。熊本学園大学で働いています。

佐藤:DPIの佐藤です。よろしくお願いします。

立岩:熊本学園大学がもともと母校でもあって、それで、ここの大学院生でもあるんだけど、熊本学園大のしょうがい学生支援…、

権藤:支援室。

佐藤:ああ、そうですか。

佐藤:吉村さんとか、

権藤:千恵さん、昨日、一緒に防災訓練をやりました。

佐藤:そうですか。

権藤:しょうがい学生の防災訓練。

立岩:吉村さんって去年、

権藤:こないだ、

立岩:学会で会ったよね。

権藤:学会で私と一緒だった方です。

立岩:学園で二人、三人で一緒にしゃべったよね。

権藤:そうです。

立岩:あの人ね。

権藤:あの人です。はい。

佐藤:去年、一緒にアメリカに行ってもらいました。

権藤:そうなんですね。はい、よく会っています。

立岩:で、今日はミックスみたいな感じで。彼女がそろそろそのうち論文も書かなきゃみたいな話で。日本の人たちが運動の国際連帯とか、そうですね、国際協力っていうのかな。そういうのをどういうふうにやってきて、今どんなふうになってるのかっていうので、書けんじゃないか、っていう話なんですよ。元はちょっと、ヴェトナムの自立生活センターで…、そんなのをちょっと見学に行ったりして。

佐藤:そうですか。

立岩:始めたんだけど金はないわ、時間はないわで、外国行って現地で調べるって、まあ無理です。

佐藤:はい、そうですね。

立岩:そしたら日本の人が外国の人と一緒にとか、人のために色々やってることが、それだったら、佐藤さんと奥平さん※にもここで聞けるじゃんっていう話で。意外とそういうことを研究っていうか、まとめた人いなくて。僕も自分のところの大学で、そういう研究者同士の国際連携みたいなこともあって。今のこと全部混ぜて、二人今ここに座っているというそんな感じです。
※奥平 真砂子 i2018 インタビュー――半生のこと 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ
※奥平 真砂子 i2018 インタビュー――研修の仕事 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ

佐藤:はい、わかりました。

立岩:奥平さんは57年生まれだっていう、さっき発見された。

佐藤:僕の10歳ぐらい上で誕生日一緒なんですよ。ちょうど10違うんです。

立岩:わかりやすい。

佐藤:はい。

立岩:67年の5月の

佐藤:5月1日です。

立岩:1日。メーデー。へぇー。こないだ…、って去年でしたっけ、一昨年でしたっけ。京都でDPIがあったのが、[00:05:35]

佐藤:はい、去年です。

立岩:去年ですよね。少しお食事して話聞きましたよ。新潟とか、そういうのもその時までに行っときたくて。

佐藤:黛(まゆずみ)※先生と、よく知っています。

立岩:黛さん知ってるんですか?

佐藤:僕が施設に入っていたとき、はまぐみ学園※っていう施設にいたんですけど、その時の医者が黛先生だったんです。主治医でした。

立岩:主治医ですか?
 
佐藤:そうでした。僕の方が先輩で、まだ学生だったんですよ。学生でたまに遊びに来てて。

立岩:黛さんが?

佐藤:医学部で、卒業して、あの人8年ぐらい行ってたんかな。それで卒業して医者になって、はまぐみに来たんですよ。だから僕の方が先輩です。

立岩:そうなんだ。あいつは、(笑)あいつはっていうか、後輩なんだ。

佐藤:はい。

立岩:僕も新潟で、佐渡島の出身なんだけど、黛って変な医者は、今は小木っていうね、佐渡の島で、爺さん婆さんしかいないみたいなところにいるらしいんだよ。

佐藤:(笑)

立岩:この頃そういう人多くって、関西の人かなって思っていたら、実は生まれは、奥平さんにしても富山だったし、てなことがあるんだけど。こないだ京都でお会いした時にちょっとだけその最初の方のイントロのっていうか、聞きましたけど。そうか、大学の時にこっちか。

佐藤:大学、僕は▼9歳の時に障害者になったんですけど、それで4年間はまぐみにいたんです。はまぐみが嫌で嫌で。施設が。それで、地元の中学にラッキーなことに戻れたんですよ。当時は1980年前後だったんですが80年かな、81年だったんですけど、中学2年で。その時は車いすでは、普通の学校入れてもらえなくて。

立岩:新潟県何市ってこと?

佐藤:僕は六日町、今は南魚沼市ですね。車いすで普通の学校に入れる人はいなかったんですが、たまたま地元の中学の校長がいい先生で、入れてくれたんです。そこから中学高校と地元に行って、1987年に大学に入ったんですけど、その時って、車いすで入れる大学はほとんどなかったんですよ。

立岩:87年?

佐藤:87年。僕が知っていたのは日本福祉大学と、筑波と和光大学、この三つっていうふうに聞いていたんです。それで、筑波はもう頭で無理だから、日本福祉大学は単科大学だったので総合大学にいきたいと思っていたんですよ。和光大学は、学長がテレビで話しているのをみたのですが、うちの大学はわざとエレベーターなどはつけていない。階段で車いすを一般の学生が持ち上げることで、優しい気持ちを育てたり、人間関係をつくることができるという趣旨のことを言っていて、ここだけは絶対にいきたくないなと思いました。

立岩:そういうノリの所だよね。

佐藤:はい。それで行ける大学ないな、ないのかな、と思って、電話かけたんです。一番生徒数が多い大学だったら車いすいるんじゃないかと思って、日大に電話かけたら、「いません。」って言われたんですよ。二番目に学生が多い大学はいるかな、と思って、早稲田に電話したら、「わかりません」って言われて。わからないってことは設備の整備など特にやってないってことですよね。それはちょっとしんどいな、と思って。それで立教に電話したら「今まで一人もいません。」って。「受験をしてもいいかどうか教授会にかけるから待ってくれ。」って言われて。それで、待っていたんですが、そういう時にラグビーの試合を見ていて、当時、同志社に大八木と平尾がいたときで、強かったんですよ。ラグビーを見ていて、「関西の大学どうかな。」と思った。それで同志社に電話したら、「車いすいます。」「設備は十分じゃないけど、トイレ、エレベーターもありますよ」って言われて。でも、「ほんとかな。」と思って、夏休みに同志社と立命と龍谷と3つ見て回ったんですよ。そしたら確かに、「ここに障害者がいるな。」っていう気配がものすごくしたんですよ。で、みんな、「いる。」って言っていました。それで関西の大学に行こうと思って。でも1年目で落ちたんですよ。浪人して2年目に関学に行ったんです。1年目に立命館を受験したは、障害者は別室受験だったんです。

立岩:立命館の受験の時にってこと?

佐藤:はい、86年の現役の時に立命館受けたんですが、別室受験だったんです。それであんまり、別室受験は好きじゃなかったんですけど、CPの男の子が受けていたんですよ。僕二人で、こういう部屋で。その子から昼休みに、「佐藤くん、関学受けた?」って言われて。「いや、受けてないです。」って。「あそこすごい対応良かったよ。」っていうのを言っていたんですよ。「じゃ、浪人したら受けようかな。」と思って。浪人した時に関学も受けて、それで受かったんで、そっちに行ったんです。 [00:10:59]

佐藤:大学に入った時に車いすの学生は僕を入れて6人いたんですよ。その他に全盲が2人いたんです。入学した時に、関西の大学は部落解放研究部とか障害者解放研究部(以下 障解研)とかがあって入学式の後、学部でオリエンテーションをやる時に、アピールに来るんです。人権系のクラブはアピールができて。その時に部落研と障解研が来て、すっごい暗ーそうな頸損がいたんですよ。

立岩:暗い頸損ね。

佐藤:はい。

立岩:わかってきた。

佐藤:わかりますか。

立岩:(笑)

佐藤:もうね、そいつがそこにいるだけで、周りが全部暗くなるようなオーラのある人がいて、ひと目見て頸損だってわかったんですよ。「あ、頸損がいる。」と思って。僕は当時、頸損は大学行けないだろうと思っていたんですよ。それは介助が要るから。ヘルパー制度もないから、親についてきてもらわなあかん。だから頸損が大学にいたのにすごいびっくりしたんです。あの人どうやって大学に来ているのかなって思って見ていたら、別に親が車いす押してるわけじゃなくて、学生が押していたんですよ。すごく気になって。そしたら、大学の中で教科書か何か買っている時に、男の人に声かけられて、その人は健常者だったんですけど、障解研の人で。「あ、君、社会学部に入った佐藤くんか」って、

立岩:社会学部だったんですね。

佐藤:はい。「俺のこと何で知っているんだろう?」って思って。向こうは毎年、新たに障害者が入ってくるかどうか大学に聞いているから、知っていたんですよ。それで「ずっと聞いていたよ。」って。「クラブにちょっと来るか。」って言われて、部室に連れてかれたんです。その部室に一人頸損がいて、もうほんとにその部屋がものすごい暗い雰囲気の部屋になっていたんです。それが横須賀 〔俊司〕っていうんですけど。

立岩:はい。正解でした。当たりました。[00:13:25]

佐藤:(笑) 横須賀に会って。「どうやって大学に来てんの?」って、「親に送ってもらってんの?」って言ったら、「母親は子どもの時に離婚したからいない。」って。「親父は2年前に死んだからいない」。「兄貴が1人いるけど仲悪いから全然会ってない。」って言うんですよ。「あんた、どこに住んでんの?」って聞いたら、大学の寮に住んでるって。そこで友だち30人ぐらいに介助のやり方教えて、交代でボランティアで来てもらって生活してるって。これが自立生活って言うんだって。アメリカではこういう自立生活ってのが、もう結構やってんだよっていう話を聞いて、それはすごくいい仕組みだな、と思ったんですよ。そのね、親に頼らずに生きていけるっていうのはすごくいいなと思って。
 でもそんな同い年の一般の学生が介助とかやってくれるのかな、って。そのトイレとかもあるから、そんなの頼みにくいだろうと思っていたら、その部室にたまにまあ学生が来て、横須賀が、「お、ちょっとションベン捨ててくれや。」って言うんですよ。それでね、足のところに袋がついていて、そこに溜めているんですけど。入り口のところにコーラの1リットルの瓶を置いていて、それを健常者の男の子が持ってきて、横須賀の足をこう開いて、袋からホースを出してそれにションベンを入れて、捨てに行ったんですよ、トイレに。その一連の行為が全然嫌そうじゃなかったんです、その健常者の子が。びっくりしたんですよ。「そんなシモの世話も嫌がらずに、やってくれるんだ。そういう人がいるんだな。」と思って。彼1人じゃなくて、見ていたらいつも違う人が介助でいるし、「あ、すごいな。」と思って。それですごく興味を持って、それでいっぱい話をするようになったんですよ。そこから、そういう運動をやっている障害者に初めて会って。
 横須賀は、自分が自立するきっかけは青い芝の人たちを見て、そいで「あいつらができるんだったら自分もできる。」と思って、同じようにやってきたんです。だから僕も青い芝の人たちのところによく連れて行かれたんです。当時ハッピーキャンプっていって、兵庫の青い芝の人たちは年に一回夏にキャンプに行っていたんですよ。そこに連れて行かれて、そこからまあ、青い芝の人たちと一緒にビラまきとかをやり出したんですよね。[00:15:57]
 よく抗議行動とかも連れて行かれて。芦屋の教育委員会にいきました。朝大学に行ったら、「佐藤、今から芦屋の教育委員会に抗議に行くからお前も来い。」って言われたんですよ。知的障害の子が普通の学校に通っていて、その子が歩いてどっか行っちゃうから、先生がその子を教壇の足に紐でくくりつけた、っていうのが、新聞に載っていたんです。「それはもう人間扱いじゃないから、抗議しに行く。」って言って。「ええ、そんなのやだなあ。」って思ったんですよ、抗議なんか。でも行くって言わないと、自分の人権意識が低いって思われるな、と思って、それが嫌でついて行ったんです。そしたら教育委員会に行ったら、カウンターがこっち側にあって、向こう側にいっぱい職員の人が働いているんですよ。こっち側に青い芝の福永さんとかみんながいて、ガンガン怒鳴っているんです。「お前ら障害者差別するな!」って言って、すごく怒っているんですよ。「えらいとこ来たな。」と思って、「もう早く帰りたい。」と思ったんですけど(笑)。ほんで、まあ静かにして後ろの方にいたんです。
 しばらくしたら教育委員会のおじさんプラカードみたいなのを持ってきたんですよ、こうやって持って。上に書いてあるんですよ。「あと5分で退室しなさい。退室しないと警察を呼びます。」って書いてあるんです。何も言わずにこうやって持ってきて見せるんですよ。ほんで、「えーっ!」「俺、警察に捕まったら、田舎の両親は泣くなあ。」と思って。俺は大学に行って勉強していると思ってんのに(笑)、警察に捕まったら合わす顔がないから、もう早く帰りたいと思ったら、福永さんとか、青い芝の人たちが、「呼べるもんなら呼んでみい!」とかって言うんですよ(笑)。「えーっ!」「マジでー。」と思って、もうめっちゃ真っ青なんですけど、誰も帰らないんですよ、20人ぐらいいる。俺もそれだったら出るわけにもいかないし(笑)、もうドキドキしていたら、結局来なかったんですよ、警察は。それで、4時ぐらいにたぶん行ったと思うんですけど、10時ぐらいまでみんなでいたら、職員全員帰ったんですよ。僕らしかいなくなって。みんなで「じゃそろそろ今日は帰るか」って言って、そしたら、「タダで帰るのは嫌だから、落書きして帰ろう。」って、誰かが言うんですよ。それでね、スプレーをちゃんとカバンの中から出してきて、壁に大きく、「障害者差別するな」って書いて帰りました。

立岩:入った年?[00:18:48]

佐藤:入った年、87年で夏までの間ですね、早い時期で。もうそれが恐ろしくて。その時は、自分を振り返ると、警察や役所に対して文句言うのが嫌だったんです。それは、「役所っていうのは正しいことをするとこで、間違ったことしないから、それに抗議する方が間違っているんじゃないかな。」って思ったんですよ。というふうに最初は思っていて、だからすごく嫌だったのと、警察に捕まるのが嫌だったんです。もうほんとに親に申し訳なくて。でもその後色々やって、活動する中で、役所はいつも正しいことするわけじゃなく間違うことも、間違ったこともやるじゃないですか。そういう時はちゃんとわかった人が言った方がいいんだな、っていうのは、後にわかったんです。警察も同じで、正しいこと言っていても捕まえる時はあるから、それは、捕まることは恥ずかしいことじゃないんだな、っていうのが、運動やってる中でだんだんわかってきて。だから後には全然嫌じゃなくて、今はむしろ捕まえて欲しいぐらいですけど。もうほんと、最初はそれがすごい衝撃的なんですわ。そういう活動をみんなしていて、「えげつないな。」とかって思うんですけど、みんな楽しそうにしていたんですよ。自分たちが一緒にいる時はすごく仲良くやっていたし、楽しそうだし、何かイキイキしていて。何かその、障害を全く恥じてなくて、堂々としているところがすごくいいなあ、と思って。そこにすごく惹かれて。だから連れて行かれた時は嫌だったけど、全然離れずにそのまま関わっていたんですよね。
 横須賀には社会モデルの考え方を教えてもらいました。5段ぐらいの階段があって、でも奥に行ったらスロープがあるという建物があったんですよ、学内、学食に行くとこに。僕は奥に行ってスロープで上がって行ったんですけど、横須賀はわざわざ一番近いところにある階段を、その辺に歩いてる学生を捕まえて、持ち上げてもらっていたんです。それをいつもやるんですよ。青い芝の人たちもそれをやっていたんですけど。それで、「何でわざわざそんな迷惑かけて、そっちをいくの?」って、「スロープあんのに。」って言ったら「いや、これでいいんだ。」みたいなことずっと言ってて。
 そこらへんから色々話すようになって、「そもそも、色んな建物に入れないとか、迷惑かけるとか思ってんだろうけど、それお前が悪いんじゃないぞ。」って、「社会の側に問題があるんだ。」って。「だから変わるべきはお前じゃなくて、社会なんだ。」っていうのをすごく言われました。そこから社会モデルの考え方を教えてもらって。そしたらね、すごく自分は気が楽になったんですよ。今までは、行きたいなと思ってたお店が2階だったら、息が詰まるような思いで諦めていたけど、「あ、それ俺が悪いんじゃなかったんだ。」って。「そこにエレベーターをつけてない会社の人が悪いんだな。」っていうのを教えてもらってから、何かね、生きやすくなりました。楽に生きられるようになりましたね。そういう何かすごい、いい影響をいっぱい教えてもらいました。[00:23:33]

立岩:そうだね。

佐藤:(笑)

立岩:(笑) 学校は4年で出たんですか?

佐藤:はい。僕まじめに、留年もせずに(笑)、最少単位で卒業しました。

立岩:学校出たのが何年ってことになって、

佐藤:91年です。

立岩:91年。

佐藤:はい。これ、好きな話どんどんしてっていいんですか? 今みたいに。

立岩:どんどん。はい。

佐藤:大学2年の時に障解研、嫌になって辞めたんですよ。それはね、5人ぐらいしかいないクラブで。文科系の人権系のマイナーな団体は全部集めても10数人ぐらいで、障解研5人は多いぐらいだったんですけど。それでそういう人たちはみんな青い芝の介助に入っていたんで、障害のこともよくわかってて。週1回部会したり、色々話し合ったりするんです。何ていうかな、頭でっかちなんですよ。議論がすごく好きで、その時は横須賀がいて、あと、角岡さんっていう、あの、

立岩:はい、うちに本…、本書く。

佐藤:はい、本書く人なんですけど。横須賀と角岡さんは同じ学年で、僕が入った時に5年目だったかな…、でいたんですよ。みんな議論が好きで、よく議論するんですけど、自分の中の差別意識っていうことをすごく、批判されたりするわけですよね。そうした時に自分にも差別意識はすごくあるな、っていうのに気がつきますよね。障害者だからそういう差別とか嫌なんだけど、でも自分の中にも他の障害者を差別するとかいう気持ちがあって、それは良くなくて嫌なんだ、ってことはわかっているけど、でも、ちゃんと自分の中にそういう意識があるんだなと気がついていって。そういうふうに考えていくと、「自分の中の差別意識って、なくせないんじゃないかなって思えてきて。「そんな奴が運動をしないほうがいいんじゃないかな。」って思いだしたんです。
 それは構造的で例えば途上国の資源を安く日本が買って、それで日本人が豊かに暮らしている。だから自分たちが豊かなのは、途上国の人たちを搾取して、その上に成り立っているっていう構造があって。「その社会の中で生きているんだから、俺もう差別意識とか、なくせないんじゃないかな。」とか思いだしたんですよ。そうすると、「やっぱり嫌だな。」と思ってきて、それで1回嫌になって辞めたんです、2年生の時に。[00:26:39]
 それで、これからはできるだけ障害者に関わらずに生きていこうと思ったんですよ。ほんとに(笑)。嫌だなと思って、批判されるのも。そう思ってていた時に、廉田※に会ったんです、メインストリームの代表のね。廉田はおんなじ関学なんですけど、僕が入った時に卒業したんで、大学では会ったことなかったんです。

立岩:廉田さん僕と同じ生まれじゃないかな。60年ぐらい?

佐藤:60年…、違うな。尾上さんの一つ下です。

立岩:下か。尾上さんが60なんですよ。

■旅

佐藤:じゃ61年。そうですね。うん。横須賀が僕の4つ上で、63年生まれだったかな。その2つ上ぐらいなんです。それでね、廉田さんは、学内で噂を聞いていたんです。大阪から東京まで鉄道のバリアフリーを訴えて、活動をしている人がいる、車いすの卒業生がいるっていうことを聞いていて、「へえーっ。」と思っていたんです。89年の5月だな。その年にバークレーのCIL所長のマイケル・ウィンターが大阪に来て講演会があって、それを聞きにいこうって横須賀に誘われたんですよ。横須賀はその年に大阪府立大学の定藤先生がバークレーに留学をしていて、横須賀に「来い」って、誘っていたんですよ。「介助者は俺が見つけといてやるから、お前一人で飛行機乗って来い。」ってね。横須賀はほんとにそれでやれるかどうか、不安だったみたいで、マイケル・ウィンターに会って、話を聞きたがっていたんです。それで5月にマイケル・ウィンターが大阪に来るっていうので講演を聞きに行ったんです。講演の後に交流会があるから「残って行こうや」って言って行ったら、そこに廉田がいたんですよ。僕は初めてそこで廉田に会いました。[00:29:07]
 僕は廉田に興味を持っていたことはもう一つあって、ヨーロッパを一人で旅行したことがある、っていう話を聞いていて、そっちの方が興味あったんですよ。僕、外国に行きたくて。でも外国なんか行けるかどうかわからないから、俺とおんなじ障害だから、彼に聞いたら俺も行けるんじゃないかな、と思って。前の年に廉田はバークレーに行っていたから、マイケル・ウィンターが来るから会いに彼も来ていたんです。廉田に会って、「廉田さん、僕ヨーロッパ一人旅したいんで、やりかた教えてください。」って言ったら、「ええよ。」って言って、「じゃ、今度うちに遊びに来いや。」って言われて、「わかりました。じゃ行きます。」って言って。それで、後日廉田の家に行ったんですよ。廉田、家庭教師とかやっていたから、夕方だったか夜ぐらいに来い、って言われて、アパートに夜行って、それで次の日の朝まで一晩ずっと話をしていたんです。

立岩:どこの街だったんですか? 廉田さんの住んでいたアパートってどこに?

佐藤:西宮の、前のメインストリームの事務所の2軒隣だったんです(笑)。学生の時にそこにいて、そのまましばらく住んでいたんです。廉田に会って、ヨーロッパ、最初に旅行のやり方を教えてもらったんです。「佐藤くん、ヨーロッパは全然バリアフリー違うぞ。」って。その当時、日本も全然よくなかったけど、まだ日本の方がいいぐらいで、ヨーロッパ全然あかんし。電車もホームがないから電車乗る時車いすを抱えてもらわないと乗れないって。でも根性があれば行ける、周りの人に声かけて頼めば、乗せてくれるから。根性さえあれば旅行はできる、って言われて。「ああ、根性かあ。」と思って、「じゃ頑張ります。」って言って。旅の話をすごい面白くしてくれたんですよ。もう、「ああ、車いすの旅人はカッコいいな。」「自分も旅人になろう」と思いました。[00:31:28]
 明け方の4時ぐらいに、すごく眠くなった頃に廉田が、「佐藤くん、北海道タダで行けるけど行かんか。」って言われた。僕は北海道に行ったことなかったんです。タダならいいなと思って、「行きます。」って言ったら「じゃこのTシャツ売って。」って言われて部屋の隅のダンボールの中からTシャツを50枚渡されたんですよ。「え、何ですかこれ。」って言ったら、いや、これはな、TRYTRYっていう活動で、鉄道が車いすで使えるように要望して回ってて。最初は大阪から東京まで1ヶ月ぐらいかけて歩いていたけど4年目だったんかな、これまで3年やって飽きたから、今年は色んな所に小グループで散らばることにした、って。北海道に行く健常者2人は決まったんだけど、障害者がいないから、今、佐藤くんがそこに行くことになったから、って言われたんですよ。「えっ、俺、そういう活動するの?」って言って(笑)、「そうだよ。」って言われて。活動するためには金かかるや、その北海道行くための旅費とか。みんなでTシャツを千円で売って活動資金にしているから、あんたも50枚売ってって言われたんですよ。
 それ先に言ってくれたら、絶対断ったのに、行くって言っちゃったから、その後にTシャツ売るのが嫌だから行くのを止めるとか、言えないじゃないですか。それでどうしようかなと、友だちは学生で、みんな貧乏だから、千円のTシャツでも買ってくれないだろうなあと思って。50枚どうやったら売れるかって考えたときに、「関学の教職員は給料がいい。」っていうのをよく横須賀が言っていたんですよ。「そうか。先生に買ってもらったらいいな。」と思って、それで何かの教授会みたいな会議に行ったんですよ。20人ぐらい先生がいて、「日本鉄道のバリアフリーが遅れていて電車に乗れないのです。鉄道のバリアフリー化をもとめて夏に活動します。活動資金を得るためにTシャツを売っているんです。ぜひ、Tシャツを買って下さい。」って言ったら、そこにいた先生がみんな2枚ずつ以上買ってくれたんですよ。一撃で50枚全部売れたんです(笑)。「やったー!」と思って。帰って廉田に、「俺Tシャツ50枚全部売れたよ。」って言ったら、廉田が「あんた、やるなあ〜!もう50枚売って。」って言って、また50枚渡されたんです(笑)。[00:34:21]
 それで北海道に行ったんですが、その旅はとても良かったです。廉田に「運動は楽しみながらやっていい」っていうのを教えてもらったんです。それまでの僕が障解研でやっていたのは、楽しくなかったんですよね。何かどんどん苦しくなっていく感じで。やればやるほど苦しくなっていって、自分はそんなに真面目に苦しいことばっかりやれないなと思ったから嫌になった。だけど廉田のやる運動はすごく楽しくて。旭川から札幌まで150キロぐらいあるんですけど、10日ぐらいで歩いたんです。健常者2人と僕との3人で。1日歩く距離は15キロぐらいだからたいしたことないんですけど、駅は4つ回って行くんですよ、全部で30駅あったんですけど。3つ4つを毎日回って、そのうち半分ぐらいは駅員がいたから、要望書を渡して駅員と交渉をするんです。交渉をして、それで回っていくんですけど、新聞社が沢山取材に来るんですよ。スタートするときにも取材に来て、歩いている途中でも来たりとかして、よく記事に載っていて。それはすごく嬉しかったんですよ。
 海とかが歩いている途中にあると、歩くのをやめてみんな海に泳ぎに行ったりとか(笑)、わりとちゃらんぽらんにやっていたんです。一応、JR北海道にはスケジュール表を渡しているから、駅は待っているんですよ。今日俺たちが来るっていうのを知っていて。だいぶ遅くなってから行ったりとかしたんですけど、何かね、それがすごく楽しかったんですよね。その3人で荷物持って、歩くんですがしりとりしながら歩くとか、「次の電信柱までお前、負けた奴、この荷物。」みたいな、小学生みたいなことをやるんですよ(笑)。でもそれはそれですごく楽しかったです。それで野宿して、面白い人が来たりとか。[00:36:32]
 歩いている時に、メロンの産地を通ったことがあって。ある時から見渡すかぎりメロン畑になったんです、道路の両サイドが。メロン食べたいなあ、と思ったけど高くて買えないじゃないですか。歩いていると、車がキュッて停まって、ドアが開いて、お兄さんがダンボールを持ってて、「これ、食べてください。新聞で見ました。いい活動しているからぜひ応援したくて持ってきました。」って言って、メロンを1箱もらったんですよ。すっごい(笑)高そうなマスクメロンをみんな1個ずつ、こうやって食べて、「うわ、贅沢だなあ。」とか言って。そういうのすごく楽しかったんです。
 途中で車いすが壊れて、ちょうど折れたところの目の前が鉄工所みたいなところで、おじさんが出てきて、溶接して直してくれたんですよ。「すいません。僕ら金ないんですけど、いくらですか?」って言ったら、「そんなの全然いい。」とか言ってくれて。すごく人が優しくて、いい感じだったんですね。ほんとに楽しかったです。その時はそんなに「運動頑張ってやろう。」とかは思ってなくて、楽しいからやっていたんです。
 そうしたらね、最後札幌に行くちょっと前のとこの駅で、駅長室に行って、駅員さんがだいたい2人ぐらいとかいるんですけど。本社から連絡がいっているから、みんな、来て要望活動をするってのは知っているんですよ。だからみんなどこの駅長さんもちゃんと対応してくれるんですけど、その駅に行った時に、駅員が全然無視するんです。目の前で、下向いてずっと仕事をしているんです。私が声を出して要望書を読むんですけど、顔上げないんですよ、ずっと下を向いてて。それで質問しても全く無視なんですよ。下向いて何も反応しない。一通り質問して20分ぐらい粘ったけど、全然反応してくれないから、「ああ、もう無理だな、諦めて次の駅行こうかな」と思った時にその駅長がパッと顔上げて、僕に「お前そんな活動して、世の中良くなると思ってんのか。そんなことで世の中変わらないからやめろ。」って言われたんですよ。[00:39:06]
 その時に心臓が止まるぐらいショックだったんです。でも言い返せなかったんですよ、その時に。僕とあと2人もなにも言い返せなくて。入口が5段ぐらいの階段の駅だったんですけど、外出て階段の所に座って動けなくなったんです。1時間ぐらい、3人とも、こう夕陽を見ながら。俺は駅回ったからってすぐ設備が良くなったりするとか、すぐは変わらないと思っていたけど、ささやかでもいいからこういうことをすることによって、駅が良くなっていけばいいなあ、と思ってやっていたけど、「そんなことしても社会は良くならない。」って言われて、「あーそうなんか、ダメなんかなあ。」って。「自分がやっていることは、全く意味がないのかな。」って。「それだったらもう札幌まで行かずに、もう帰っちゃったほうがいいのかな。」とか考えていた。
 1時間ぐらいして、「次の駅に行かなあかんから、そろそろ歩こうか。」って誰かが言って。それでトボトボと歩き出したんですよ。すごくまっすぐな道で、そこをずーっと、だんだん暗くなる夕暮れの中を、次の駅に向かって歩いていたら、正面の向こうの方に、おばさんみたいな人が立っているのが見えたんです。その人はずーっとこっちを見ているんです。だんだん近づくと、おばさんが鍋持って立っているのがわかった。ずーっと僕たちを見ているんですよ。あの人、俺たちを待っているのかなと思って、それで近づいていったら、そのおばさんが、「あなたたち新聞で見たよ。素晴らしい活動しているね。私の家の前を今日通ると思ったから、味噌汁作って、赤飯炊いて待っていたから、これをぜひ食べていって」って言われたんです。それで、「ありがとうございます」って言って、歩道にみんなで座って赤飯食べて、味噌汁飲んで。そしたらおばちゃんは沢山話しかけてくれるんですよ。「あなたたちの活動はほんとに素晴らしい。自分は何としても応援したいと思っていたから、ずっと待っていた。」その時に、そのおばさん、自分はガンでもうすぐ死ぬんだ、って言うんです。「えーっ。」と思ってそんな、元気に見えるけど、もうあと1年も生きられないんだって。「でも最後にあなた達に会えてよかった。」っていうのを言ってくれて。それがもうめっちゃ嬉しかったんです。赤飯食べながら涙が流れました。[00:41:58]
 その時に、さっき自分たちの活動を全面的に否定されて、もうめちゃめちゃ落ち込んでいたけども、一方で励ましてくれる人がいるんだなあ、って。だから自分は自分が正しいと思うことをやれば、必ず理解して応援してくれる人が世の中にはいるんだな、っていうのを教えてもらったんです。何か安心したっていうか、嬉しくなったっていうか。「ああ、この活動を続けてもいいんだな。」っていうのを教えてもらったんです。だからこの出会いは、僕にとってはめちゃめちゃありがたかったです。あの時おばちゃんに会わなかったら、自分は途中で帰って活動をせんかったなあ、って思うんですよね。そういう出会いがありました。

立岩:北海道のどこだったんですか?

佐藤:覚えてないんですよね。でも最後の方だったんで、札幌の近くです。

立岩:メロンのあとだよね。

佐藤:メロンのあとです。89年の夏にそれで行ったんですけど。そこで何かすごく面白くなったんですよね。「ああ、こういうふうに楽しみながら、活動をやってもいいんだな。」っていうのを廉田に教えてもらって。廉田はその時は、違うグループだから一緒に歩かなかったけど、そのTRYTRYという活動で教えてもらったんですよね。でもその時はまだ、障害者の活動をずっとしようとは思ってなくて、単に北海道にタダで行けるからっていうので行っただけで(笑)。その後、9月からヨーロッパに旅行に行ったんです。廉田に教えてもらって。僕にとってはこっちの方がメインだったんですよ。[00:43:57]
 それでヨーロッパに行って、1ヶ月半ぐらい、こうグルーっと電車に乗って回っるんですけど、その旅も自分は楽しかったんです。楽しかったんですけど、旅の真ん中ぐらいになると飽きるんですよ、観光ってどこ行っても石畳だし。美術館巡って、歴史的な建物見ても、似たようなのばっかりで全然面白くなくなってくるんです。その時に、自分はできるだけ障害者と離れて生きていこうと思っていたんですけど、新しい街に行くと、「この街の障害者はどうしてんのかな。」っていうのが、すごく気になったんです。それで障害者を探すようになったんです(笑)。全然見つけられなかったりするけど。歩いていて障害者を見つけて…、スペインのあたりかな、その時にね、視覚障害者が歩いているのを見つけたんですよ、白杖。その時思わず後ろつけて行きました(笑)。「この人どこ行くんだろう?」と思って。つけて行った時に自分は、ハッと気がついたんですよ。「俺、ほんとに障害者のことが気になるんだなあ。」って。もう嫌で嫌で、こんな活動やめようと思っていたけど、でも実は自分は障害者のことが気になって、気になって仕方ないんだな、っていうことに気がついたんです。「それだったらこれから障害者の活動やってこうかな。」って、思ったんですよね。ヨーロッパの旅で、自分は障害者のことが気になって仕方がないってことがわかったんです。

立岩:それはスペインでしょう。

佐藤:そこはスペイン。

立岩:どこから入って、どこらへんに行ったか覚えてます?

佐藤:全部覚えています。パリに入って、まず野宿をしていたらカバンを丸ごと取られて(笑)。

権藤:えー!(笑)

佐藤:そうだったんですよ、着いて2日目ぐらいに。そこからも面白かったんですけど、そこはね、長くなるんですけど、

全員 (笑)

佐藤:(笑)喋った方がいいですか?

立岩:任せます。

佐藤:そうですか。

立岩:任せます。[00:46:12]

佐藤:そこはちょっと自分の生き方で大事なんで、話しますね。自分は、廉田に言われたのは、「佐藤くん、旅人は、ホテルとか取ったらあかんぞ。野宿しろ。」って言われたんです。さらに「行き先は決めたらあかん。日本で決めていっていいのは、帰りの飛行機のチケットだけ。あとは行ってからどこに行くか決めろ。」って言われたんです。何かと言うと、行った街で面白いことがあったら、そこに長く居たくなるし、面白くなかったら早く次の街に行きたくなるから、そうやったほうが絶対面白いことに出会う。だからホテルは取るな、って。行ってからスケジュールは決めろ、って。「これが旅人だ。」って教えられたんです。それで、「ああ、そうか!」「じゃ俺も旅人になろう。」と思って、まず寝袋買いに行って、バックパッカーだからバックも買ってきて、それに詰めて行ったんですよ。
 1日目はパリのどっかの駅で、最初ビビってたんで、人が多い駅に行って寝ていたんです。そうしたらホームレスがたくさんいて、そこに入って一緒に寝たんですけど。ずーっと人が出入りしていたから、うるさくてよく寝られなかったんですよ。2日目はもうちょっとゆっくり寝たいから、できるだけ小さい駅の誰もいないところに行こうと思って、地図でちっちゃい駅を調べて、そこに行って、しかも駅の外の歩道で寝たんですよ。真っ暗なとこで。そこで歩道に寝袋敷いて寝ようとしていたら、向かい側が駐車場だったんですけど、車が入ってきて、黒人の男の人が降りてきて、僕のところによって来て、「お前、何をしてんの?」って言われて。「いや、僕ここで寝ようと思っています」って言ったら、「ここは寝ないほうがいいよ。」って言われて。「いや、僕は旅人だからここで寝るんです。」って言ったら、「物を盗られたり、危ないことがあるから、ホテルの方がいいよ」って。「でも俺は金もないから。」って言ったら「パリは安い宿だってあるんだから、そこで寝た方がいいよ。」っていうことを懇々と言ってくれるんですよ。でも俺、その人の言う通りにホテルに泊まったら、俺は旅人じゃなくなるな、と思って、それだけは譲れないと思って、「ごめん。」って言ったんです。そうしたらもう諦めて行ったんです。
 廉田に教えられたのは、カバンは取られたらあかんから、紐でカバン縛って、それを伸ばして、腹に巻いて、引っ張られたらわかるようにして、寝たんですよ。そしたら朝の4時ぐらいだったと思うんですけど、寝ていたら顔にシャーって霧の水がかかったんですよ。それは変な臭いがして、「何かな?」と思って起きたら、清掃車がバーっとブラシして、走るじゃないですか。清掃する前に消毒を霧でブワーっと撒いてくんですよ。俺、全身消毒されて。「もう、寝ているんだから避けてくれてらいいのに。」と思って、それで目が覚めたから、「あ、カバンどうなったかな。」と思って見たら、綺麗になくなっていたんです。[00:49:35]

全員 (笑)

佐藤:ハサミできれいに切られて、全然、気づかなかったんですよ。「わーっ!カバン取られた。」と思って。ちょっと周り探したけど、もう全然ないし、「どうしようー」と。とりあえず警察に行こうと思って、交番に行ったら警察が、「ああ、それはもう出てこないなあ。」って言うんですよ。「そうなんか。」と思って、「俺旅人なのに、いきなりカバン取られて恥ずかしい。」と思って。俺、金がなくなったな。カバンの中にトラベラーズチェックだったんですけど、入れていたんですよ。それがなくなったから、とりあえず、その再発行だけしないと生きてけないな。そしたら警察官が「お前日本人か?」って言われて、「そうです。」って言ったら、「じゃあ日本大使館に行って相談しろ。」って言われたんですよ。「あ、大使館ってこういう時に行くんか。」って思って。
 それで、じゃあ9時にならないと開かないから、そのベンチで寝ていていいよって言われて。それで使わせてもらって寝て、9時になると日本大使館までの地図を書いてくれて、それをもらって行ったんです。結構近くて15分ぐらいで行けたんですけど。大使館に行って、「すいません、カバン盗られたんで助けてください。」って言ったら、「どうぞ。」って言って入れてくれて。そしたら武田鉄矢みたいなおじさんが出てきたんですよ。そこで、「すいません。僕、カバン盗られて何もなくなっちゃったんですけど、とりあえずトラベラーズチェックの再発行だけ、やり方を教えてほしいんです」って言ったら、「よっしゃわかった。」って言ってくれた。VISAのチェックだったんですけど、それで電話かけてくれて。さすが大使館ですね、武田鉄矢でもフランス語ペラペラで(笑)。

全員 (笑)[00:51:35]

佐藤:すごく電話いっぱいしてくれて。それで、「佐藤くん、わかったぞ。」って言って。「VISAは、パリには支店がないから、ロンドンに電話しろ。」って言われて。「僕お金ないから電話をかけられないんです。」って言ったら、「大丈夫。NTTみたいなのがあって、そこに行けばコレクトコールでかけられるから。電話したら、たか子さんっていう日本人がいるから、英語でバーっと話されても、『たか子プリーズ』って言ったら、その人が出てきて全部日本語で言ってくれるから大丈夫だよ。」って言われて。「ああよかったです。僕これで生きていけます。ありがとうございました。」って言って出た。
 それでNTTみたいなところへ行って、電話したんですよ。そしたらイギリスの男の人が英語でペラペラペラって言うから、「たか子プリーズ。」って言ったら、「たか子は2週間のバケーションをとっていません。」って言うんですよ。「えーっ!」と思って。「たか子いつ帰ってくんの?」って聞いたら、「今日からだから2週間後だな。」と。俺お金ないから、「終わったなあ。俺はフランスでホームレスとして生きてくしかねぇな。」と。そしたらその男の人が、「お前辞書を持っているか。」って聞いたんですよ。僕は辞書を枕にして寝ていたので(笑)、盗られずに持っていたんですよ。それで、「あります。」って言ったら、「じゃ今から自分がスペルを一つずつ言うから、お前、辞書を引け。この電話は何時間かかってもいいから、そうやって会話しよう。」って言われたんです。俺、そんなんでわかるかな、って自信なかったんですけど、でもそれしか生きてく術がないから、言われるままにやったんですよ。そしたら、スペルを一つずつ、「sky(スカイ)のS」とか「blue(ブルー)のB」とか言って教えてくれるんです。その通りやって辞書引いてったら、1時間ぐらいかかったんですけど、何を言っているか全部わかったんですよ。
20万のチェックだったんですけど、「まず10万円は明日、パリのバークレー銀行に行きなさい。そこに連絡しとくからその場ですぐ再発行できます。残りの10万円は今日から10日以降、ヨーロッパ中のどこの銀行でも再発行できるから、それでやりなさい。」って言われて。「ありがとうございました。」って言って、それで生きていけるようになったんです。[00:54:10]
 その時にね、自分は考え方がすごく変わったんです。今まで自分にもし何かトラブルが起きたら、自分で対処ができないかもしれない。だから1番やりたいことがあっても、リスクが高かったら、2番目、3番目の、トラブル起きても自分で対処できるものを選んでやっていたんです。でも、「俺、結構いけるなあ。」と思ったんです。「追い込まれてもやれるわ。」と思って。自信がついて、「これからは一番やりたいことをやろう。」って思ったんです。その時にうまくいかなくても、俺、絶対何とかできるわ、って自信がついたんです。そこから考え方と生き方が変わったんですよ。だからその後、メインストリームの活動を始めて、最初どうなるかわからなかった時に、あんまり不安じゃなかったんです。何とかやれるって、もう自信持っているから。自分が一番やりたいことをやろうって。その時に、思ったんですね。

立岩:ちょっとスペルの話だけ分からなかったんだけど。えっと誰かが何か言う? え? どういうこと?

佐藤:ロンドンのビザの人が電話で、「明日10万はパリのバークレー銀行に言ったらすぐ再発行できます。」っていう文章を、一つずつ単語を言ってくれるんですよ。

立岩:電話の先の?

佐藤:そうです。

立岩:そのロンドンの人が、「何とかのA」とか、「何とかのB」とか、

佐藤:そう、で言って、書いていくと、

立岩:それを字を書いてくと、それを読むと

佐藤:単語になってる、文章になってく。

立岩:それ英語?

佐藤:英語です。

立岩:英語の文章として、

佐藤:そうです。

立岩:それだったらわかる。

佐藤:そう、それで辞書を引くんですよ。わからない単語は。

立岩:あ、わからないやつは。その英語の。

佐藤:そうそうそう。まず書いて、単語で引いてって合ったら、全部わかったんです。

立岩:すげー。ああわかった。そっか、そういうことしてくれた、

佐藤:人がすごくよかったです。

立岩:それがえっと2日目? 3日目?

佐藤:それはね、二晩目に取られたんで。

立岩:二晩目に取られて、3日目の朝か、

佐藤:3日目ですね。

立岩:3日目の朝。

佐藤:はい、昼間です。わりとこう昼間...、お昼ぐらいかな。

立岩:そっかそっか、9時に行って。えっとパリ行って、スペイン行ったりして。[00:56:25]

佐藤:それでパリに行って、その後、オランダに行ってオランダから当時、西ドイツ、東ドイツだったんですよ。89年の11月7日にベルリンの壁が崩れるんですけど、僕は9月にベルリンに行ったんです。2ヶ月前。その時は全くまだ、静かで何もなくて。東ドイツも電車で行って。1日だけ行けるんですよ、簡単にその時はいっぱい面白いことありました。途中ね、ベルリンって陸の孤島だったんですよ。東ドイツの中に西ベルリンだけポツッとあるんで、そこに行く時は東ドイツを通らなければならなくて、ユーレイルユースパスはその区間だけ使えなくて、別料金取られるんですよ。すごい腹たって、それが。帰りに取られるん嫌だなと思って。それで、帰りヒッチハイクで抜けてきたんです。それはそれで楽しかったんですけど、それはあんまり生き方に関係ないんでやめときます(笑)。

立岩:スペイン行って、追っかけて…、

佐藤:その後、ハノーバーに来て…、ヒッチハイクで来て。そこからミュンヘンに10月、9月の何日か、オクトーバー・フェスティバルっていう、ビールの大きい行事がある…

立岩:ジョッキをこうやってやるやつ?

佐藤:そうそうそう。そこで会おうって、ベルリンで会った男の子と約束したんですよ。それでスイスに行ったあとにミュンヘンに行ったんだな。そういう約束、

立岩:交通手段は何?

佐藤:電車です、全部。

立岩:電車。

佐藤:もう全然、バリアフリーじゃなくて、みんな抱え上げてもらって。それでスイス行ってミュンヘン戻って、そこからイタリアに行って。で、モナコに行って、スペインに行って、モロッコに行って、スペイン戻って来て、ロンドンに行ったんですよ。最後、中国の飛行機だったから、中国に最後一泊して帰って来た。ちょうど89年の6月に天安門事件があって、9月だったんで飛行機めっちゃガラガラだったんです。もう何席も使って寝放題でした。[00:58:49]

立岩:そうか、その年だったか。それは3年生? 4年生?

佐藤:えっとね3年生です。

立岩:3年生ですね。で廉田さんに会って。最近まで廉田さん海外旅行の本を書いてたの知らなくって。

佐藤:『どこでも行くぞ、車イス!』

立岩:古本で買った。入手した。

佐藤:そうそう、その、あれなんですよね。

■メインストリーム協会

立岩:3年生で帰ってくるじゃないですか。それで4年生っていうか、学校卒業するあたりと、最初の就職先はメインストリームでいいですか?

佐藤:そうです。

立岩:メインストリーム協会に就職したんですか?

佐藤:はい。89年の9月に僕はヨーロッパ行ったんですけど、その時に廉田は西宮で車いす市民集会※っていうのをやっていたんですよ。僕は5月にマイケル・ウィンター※の講演会で廉田と知り合いになったんで、ちょこちょこその事務所へ遊びに行っていたんです。9月に市民集会やるって。でも俺ヨーロッパ行くから、って言って、それ出なくて。帰ってきたら廉田が89年の11月にメインストリーム協会を設立したんですよ。
 小さい事務所だったんですけど、そこにちょこちょこ遊びに行っていたんです。横須賀にもずっと教えてもらっていたし、「自立生活センターっていいな。」って思っていたんです。その活動はすごく良くて、そういうのをやりたいなって思うようになって。それで、僕は91年の3月に卒業したんですけど、その頃は景気が良くて、バブルだったんで就職は、みんな結構よかったんですよね。その時にね自分は、普通の仕事にあんまり就きたいと思わなくなっていたんです。大学入った頃は公務員になろうかな、と思っていたんですけど。出る頃は、あんな仕事やってられねぇな、と思うようになって(笑)。もっと何かやっぱ、障害者の運動したいなと思って。でもその頃に運動で生活できるなんてことはなかったんですよ、全然収入もないし。でも廉田がメインストリーム始めて。それでそこに行っていて、ああやっぱこういう活動やりたいなと思って。それでアルバイトで入れてもらったんです。それが91年の4月からなんですよね。そこから週3日、メインストリームはお金がなかったんで、週3日だけバイトで行く、っていう生活を2年ぐらいしていたかな。[01:01:36]
 91年にメインストリームに入って、朝日新聞の厚生文化事業団が助成をしてくれて、日本の車いすをリサイクルしてアジアに送るって事業を93年に始めたんですよ。メインストリームもみんなで車いすいらないのを集めて、綺麗に磨いて、送ったんです。全国で10団体ぐらいが入っていて、そこで送った団体は一人一緒にアジアに行けたんですよ。93年の春だったと思うんですけど、2月か3月ぐらいにタイに行ったんです、車いすを一緒に持って。
 その時の副団長がAJU自立の家の山田昭義さんだったんです。僕は初めて会ったんですが、廉田はよく知っていて。廉田が山田さんに「佐藤っていうのが行きます。」って言っていてくれた。山田さんと一緒に1週間ぐらい行っていたのかな。最後、帰る日の晩ぐらいに「佐藤、お前アメリカ行くか?」って言われたんですよ。「行ってみたいです。」って言ったら、「じゃあお前ダスキン応募しろ。」って。「今年俺が団長だから、お前通す。」って言われたんですよ(笑)。「えぇー!そうなんですか。」って、「じゃ応募します」。その時は奥平さんとかは1年間行くような長いものだったんですけど。僕が受けた時は、100人ぐらいかな、1グループ10〜20人ぐらいのグループを4グループぐらい作って、それで行く形に変わっていた。期間は2週間と短くなっていましたが、英語喋れなくて行けたのです。
 それに応募していけるようになりました。私のグループは10人ぐらいいたのですが、今も活動をしてる人が結構います。埼玉の見形さん、IL文京の関根さん、新潟の遁所さん、米子の光岡さんもいて、今も活動続けている人たちが、同じグループだったんです。AJUのスタッフのみなさんが一緒に行ってくれて、そのグループはすごく楽しかったんですよ。通訳は斎藤明子さんでした。[01:04:21]
 それでね、【2週間だ】、最初バークレーで、エド・ロバーツ※の講演聞いたんですよ。「ああ、この人がエド・ロバーツか!」と思った。それで、生きている...、死ぬ何年か前だったんですけど、会えて、嬉しいじゃないですか!すごい楽しみにして講演聞いていたら、エド・ロバーツが、「僕は空手ができます。みなさん日本人だから空手できる人一人ぐらいいるでしょ。」って言うんです。一人、脊損の元気な人が「僕、空手やっていました。」って出てきたんです。エド・ロバーツが電動で、呼吸器のホースくわえて、身体ぜんぜん動かないんですけど、「僕は空手できるから、じゃああなたは僕にかかってきなさい。」って言うんですよ。それで、「どうすんだろう?」と思って見ていたら、その人がかかってきた時に、その人に向かって電動車いすを動かして足を向け続けるという。その人が動いたら自分も動いて足を向け続ける。「ほら、できたでしょ。」って言うんですよ。僕はそのときに、、こいつ完全に終わってるな。俺こいつから学ぶことねぇなと思ったんですよ(笑)。すごく自由なんですよね。別に何もやってないけど、身体の向きを動かして攻撃できないようにした。だから自分は空手ができるんだって言っていました(笑)。そこでちょっとエド・ロバーツに興味なくなったんですよ(笑)。でも振り返って、色んな人に聞くと、やっぱり独特で、オリジナリティあって、自由な人だったってみんな言うんです。それはちょっと分かるな、と思いました。それでエド・ロバーツの話聞いて、ヒューストンに行きペグ・ノゼックの話を聞いて、それでセントルイス行って、最後にニューヨークに行って、4都市回ったんです。[01:06:28]
 セントルイスの時に、二人一部屋で泊るんですけど、山田さんとおんなじ部屋になったんですよ。みんな順番に街ごとで組み合わせが変わるんですけど。山田さん頚損なのに、一人でいましたね、その時は。同じ部屋になった山田さんから夜中に、「佐藤、お前これからどうすんだ。帰ってもメインストリームやるのか?」って聞かれて。「メインストリームお金がないから、今、週3日しか行ってないんです」。「お前はフルタイムで働きたいのか?」って言われて、「僕はアメリカに来て、IL運動は素晴らしくて、ILセンターいいなと思ったから、自分も帰ってこれからやりたいなと思っている。でもメインストリームにお金がないのわかるから、フルタイムはちょっと言えないんですよ。」って言ったら、「あほぉ!」って。「今この場で、お前そこの電話で廉田に電話しろ。電話して、『帰ったら自分をフルタイムで雇ってくれ。』って今言え。」って言われたんですよ(笑)。それで夜中に俺、電話かけさせられて。事務所にかけたらちょうど廉田が出て、「おぉ、佐藤君、どないしたん?」って言われて(笑)。「俺、帰ったらフルタイムで働きたいんだけど、いいかな?」って聞いたら、「ええよ。」って言われたんですよ(笑)。それで電話切ったら、山田さんが、「な!」って言って、「じゃあお前はこれからメインストリームでがんばれよ。」ってそう言われたんです。

立岩:週3日のアルバイトの時は、どんな仕事が主やったんですか?

佐藤:もうね、大したことやってないですよ(笑)。だって1日いて1本も電話かかってこないような感じで。最初はね、ボウリングばっかりやっていました。暇で。一応有料介助を始めたから、新聞で介助者を募集して、講座をやって、あと少しコーディネイトするっていう。一人だけ下地さんっていう人が自立をしてて、彼の介助を組むとか。でもそれもだいたい下地さんがやっていたから。僕らは、何か要望書作って持って行ったりとか。あとは障害者甲子園っていう企画をやったから、それをちょっと春から夏はやってたりってことをしていました。[01:08:49]
 でもすごく暇だったんで。ある時何でかな、廉田がボウリングをやり出したんですよ。僕も新潟にいた時に車いすの人に連れてってもらってやったことがあったから、一緒に行ってやっていて。そしたら、だんだん面白くなってきて、毎日行っていたんですよ、ほんとに。安いボウリング場探して、まだ自分で手書きする、1ゲーム350円だったと思うんですけど、それを見つけて来て、そこに行って。お昼ぐらいに事務所閉めて、「ボウリング行こうや。」って言ってやっていたんです。そしたらボウリング場のおじさんが、「福岡で車いすの障害者のボウリング大会があるらしいぞ。」って教えてくれて。それで「出ようや。」って言って。それが93年ですね。その年、準優勝しました。

権藤:(笑)

佐藤:その後、毎年行って優勝したりとかして。だからILセンターで成功する前に、まずボウリングで成功しました(笑)。
 そういう何かね、気楽さが面白かったんですよ。健常者の子とかも、介助の子とかも集まってくるけど、基本的に事務所に来たら別に仕事もせず、ずっとしゃべって遊んだり一緒にするから、すごい仲良くなったんですよ。そういう人たちがいると、何かイベントをやる時に手伝ってくれるんですよ。だから廉田が最初からよく言っていたのは、「たまり場になるような事務所にしよう。そうしないと俺たち障害者ばっかりで、いざとなっても何もできないから。だから健常者が遊びにいっぱい来て仲良くなったら、用事をやったりイベントするときに手伝ってくれるから。その方が活気があっておもろいし。」って言って。それで何か、そういうスタイルになっていったんですよね。

立岩:で3日が、ほんとにフルタイム出勤とかになった。

佐藤:はい、なりました。

立岩:アメリカから帰ってきて。

佐藤:はい。

立岩:でもゆるさはおんなじ、やっぱり…

佐藤:ゆるかったですね。

立岩:やっぱりボウリングやったりしていた。

佐藤:していました、ボウリングはずっとやっていましたね。えっと地震の時…、95年、地震があった時もボウリング大会行きましたから、やっていましたね。

立岩:そうか、それからもう2年後ぐらい、地震来ちゃうんですね。

佐藤:そうですね。[01:11:21]

立岩:それからずっとか。メインストリームはずっとやって、

佐藤:ずっと。えっと91年に大学卒業して入って、2014年の秋までメインストリームでした。

立岩:今こっち?

佐藤:はい、DPIです。

立岩:14年ってことは、23年っていう。

佐藤:そうですね、(23年)ぐらいやりましたね。



立岩:そこの中で、タイに行った話は聞いたけれども、メインストリームなりね、あるいは佐藤さん個人とかも含めて、外国の人たちと…、「と」か「に」かわかんないけど色々、メインストリームの、特に日本の団体の中でもやってきたっていうことって何だったんだろうね、って思うわけなんですけど、何なんでしょう。

佐藤:(笑)はい。やっとちゃんと外国の話になりましたね。その辺、えーとね、1999年にダスキンのアジア太平洋障害者リーダー育成事業が始まったんですよ。奥平さんがリハ協にいて、その担当で、奥平さんから電話がかかって来て、「こういうのやるから、インドネシアの女の子を受け入れてほしい。」って言われて。リンタンっていう女の子だったんです。
 ポリオの女の子でしたけど、車いす乗っていて。彼女はオーストラリアに留学していたことがあって、英語がすごく上手なんですよ。でもメインストリームには英語できる人がいない、って言ったら、「大丈夫、日本語の研修するから。」って言って来たんですけど、そんなに日本語しゃべれないんですよ(笑)。3ヶ月ぐらいやったぐらいで。でも、住み込みで2ヶ月ぐらいメインストリームで生活して。そしたらね、それはすごく面白かったんです。外国の障害者も面白いなと思って、仲良くなって。みんなも仲良くなったから、明るい子だったし、とても楽しかったですね。それから毎年受け入れるようになったんです。
 奥平さんから電話かかって、1年目がリンタンで、2年目はミンスっていう韓国から来た片足がない男の子、大学生だったんですけど。彼が来て、そしたら彼が、ずっと3ヶ月ぐらいメインストリームにいたんですけど、その時に、結構昔のイベント、ニュースになったビデオとかを保存してあって、それをスタッフとか、アテンダントとかと一緒に見ていたらしいんです。それで、TRYのことを知ったんですよ。すると「自分も韓国でTRYをしたい。」って言ったんです。「それはいいな。」っていう話になって、それが2001年だったと思うんですよね。2002年にワールドカップ日韓でやるから、それにこじつけてイベントやろう、ってことになって、その前年の2001年の夏に釜山からソウルまで歩く、っていうのをやったんです。[01:14:57]

立岩:井上さんそういう話していました。

佐藤:はい、日韓TRY※って言っていますけど。韓国のバリアフリーを求めてワールドカップの競技施設をチェックして回る、っていうのをやったんです。その時に、ミンスが友だちに障害者がいるから、自分は帰れないけどそういう人たちに連絡して、準備ができるって言っていて。それがすごく揉めたんですよ。リハ協と揉めたんです(笑)。リハ協は基本的に1年間研修の間は帰っちゃだめなんですよ。でも俺たちは、「だって帰って素晴らしい活動をするための研修で、彼はもうそれを身につけて実際に運動しようとしてるんだから、帰って準備した方がいい。」って言ったんです(笑)。ものすごく怒られて。すごく揉めたんですけど、結局、1回、4月に帰れたけどその後は帰れなくて、7月の初めまで日本で研修続けました。
 でも7月26日ぐらいにスタートなんですよ、で1ヶ月やるんですけど、そしたら準備は5月ぐらいからやらないと間に合わないから。友だちに頼んでいるけど、あんまり動きがよくなくて。「このコースは歩けるかどうかわからない。」とかって言いだしたんですよ。それで、「説得せなあかん。」と言うので、「佐藤君行ってこい。」って言われて(笑)。僕と松島君っていう健常者の子と二人で行った。「韓国は道があんまりよくないから、歩けない。山とか歩けない。」って韓国のメンバーが言っていたんで。じゃあ彼らが歩けないって言っているところに行って一緒に歩いてこよう、って言って、それで歩いてきたんです。「な、歩けるだろ。」って、野宿もして見せて。それで帰って来てこれでできるな、って思ったら、そいつらケンカして、全部いなくなったんですよ。6月に。「もう来月スタートだぞ?!」っていう時期に。どうしようかなって話になって、それでソウルDPIの人たちにミンスが頼んで、その人たちとやれることになったんですけど、その人たちもやったことないから、「そんな道路歩くの危ないから難しい。」みたいなこと言うんですよ。だから「もう1回佐藤君、行ってこい。」って言われて(笑)、俺6月にまた行かされて。それで話し合いをして、こういうふうにやっていこうということを決めて帰ってきてって、というのをやっていたんです。その時に日本はもう、行く気満々だから、日本人もいっぱい行くしTシャツ作って売っていたんですよ(笑)。だからもう止められないでしょ。もうみんな買ってもらってんのに中止には出来ない。それで行って話をつけて来てっていうのを、やっていたんですね。帰ってきて、報告をする。毎週1回みんな会議で集まっているから、日本のメンバーが集まっている時に、俺が「韓国で、向こうはこんな感じだった。」っていう報告をした。
 6月の後半だったなあ、あと出発まで1ヶ月っていう時に帰ってきて、「もう韓国できそうになったから、日本から行くメンバー決めよう。」って。誰が行くか確認しようという話になって「行きたいって人、手を挙げてくれ。」って言ったら、基本は障害者、若者が行く感じなんですけど。藤原勝也っていう筋ジスがいて、彼が行くんですけど。井上武史は水曜日の夜、勝也の介助に入っていたので、会議にいつも来ていたんですよ。当時、ぜんぜんしゃべらなくて、何かムスッとしたおっさんで、よく得体が分からなかったんです。それで、「じゃあ来月行く人誰? 行きたい人誰?」っていうのを言ったら、武史が手を挙げたんですよ。「お前か?!」「あれー?!」「あんた介助だろ。」って思って。「いや、ずっと話をこれまで聞いていたら、行きたくなりました。」って言いだして、結局行くんです。それはすごい彼にとってよかったんですけど。それでスタートすれば何とか行った人たちでがんばるから、日本のメンバーも韓国のメンバーも、うまくやれたんです。そこで若い人たちが行って、それはそれでいい経験で、やった人たちもメインストリームに残っていったんですよね。[01:19:30]
 ていうのを2001年にやって、結構外国人とやるのも面白いな、って思っていたんです、そのぐらいから。もともとの素地として廉田も俺も旅人だから、外国が好きなんですよ。それもアジアが好きだったんです。「先進国よりもやっぱアジアだな。」っていうのがあったから、毎年ダスキン研修生を受け入れて、その中で結構、いい人が出てきたんです。
 3期生がシャフィックっていうパキスタンの人だったんですが、彼は日本に来た時、最初は「帰ったらどうすんの?」って言ったら「大学の先生になる。」って言っていたんですよ。彼は家柄も良くて、エリートで。それで賢いから、最初メインストリームにあんまり馴染めなかったんです。アホな話をする軍団だから、あの人結構、まじめだったから最初そういうの、ついてこられなくて、わりとこうポツンとしていて。それでね、途中で帰ったんです、早く切り上げて東京に。その時はメインストリームにぜんぜん馴染んでなかったんですよ。自分は大学の先生になりたいから、もっと難しい話をしたかった。誰もそれに対応できるのがいなくて。でもね5月ぐらいにもう1回メインストリームに来たいって言って、来たんですよ。そこから、やっぱ運動をやりたくなったみたいで、変わっていったんですね。

立岩:メインストリームに来て? 東京に…、

佐藤:2月に、あのね、1月から研修始まって色んなとこに行くんですが、メインストリームに1月から3月ぐらいまでいる予定が、2月ぐらいで切り上げたんです。でも5月に「もう1回来たい。」って言って来たんですよ。

立岩:2月と5月の間はどこにいたんですか?

佐藤:わからないです。どこか色々行ったんだと思います。

立岩:日本のどっかにいた。

佐藤:いたんです。

立岩:はいはいはい。[00:21:31]

佐藤:5月に来て、そこでやりたくなっていて。今度は、「自分は帰ったらILセンターやるから、来てほしい。」って廉田にずっと言っていたんです。廉田を何とかパキスタンに呼びたいと思ったらしいんですよね。これは廉田に聞いてもらったら面白いと思いますけど、廉田は全然パキスタンなんか行きたくなくて、嫌がっていたんですよ。そしたら、シャフィックは何とか行かそうと思って、「私には126歳のおばあさんがいる。人間は120歳になると全ての歯が入れ替わるんです。だからうちのおばあさんは歯がピカピカです。廉田さん見てみたいでしょ?」って言うんです。。で、「えーっ!」って言って、廉田、「それだったら見てみたいな。」とかって。あとは、「パキスタンは凧を上げが盛んで、その凧はものすごく高く上がる、4,000メーター上がります。」とかって言うんですよ(笑)。「それ富士山よりたかいやんか!」って、「いや、ほんとに上がるんです。」そういうのをずっと言っていて。じゃあ廉田が「行こうか。」ってことになったんです。帰国して1年後に行ったんですね。ILセミナーをやるっていうので、夢宙センターの平下君とか、ぱあとなぁの地村君とかといっしょに行ったんですね。そしたら、シャフィックたちは沢山人を集めていて、仲間も沢山いるし、ちゃんと運動ができそうだっていうのが、行ってみてよくわかったんですね。[01:23:21]
 ちょうどそれが2002年から2003年ぐらいだったと思うんですが、日本は2003年に支援費制度になって、そこからILセンターの収入が安定したんです。メインストリームは、すでにたくさんの障害者を自立させていたんですよ。だから、その制度が始まった途端、介助派遣の量がすごく多くて、めっちゃ金持ちになったんです。もういきなり何億円の収入になった。すごいお金持ちになって、でも廉田が最初に言っていたのは、「自分たちは金持ちになろうと思って運動したわけじゃないから、この金でみんなの給料上げたら堕落するな。」って。だから運動で得た金は運動に使うようにして、給料も上げたんですけど、一般の人みたいには上げずに、残すような仕組みにしたんです。上限を作って、ある程度の歳になったらもうそこから上がらないようにして、残しましょう。その残した金をアジアの国でいい活動するところに送ろう、っていうふうにした。それでパキスタンの支援ができるようになったんですよ。ちょうど支援費の年だったから、できたんですよね。その前の年まで金が全然なかったですから、送るなんてのは無理だったんですけど。

立岩:そっか、そういうことか。そういうさ、「いついつ、誰々、どこに、何ぼ」っていうのは、メインストリームに聞いたらっていうか調べたら分かるかな?

佐藤:覚えているかなあ。記録には残してないですね(笑)。でも廉田は覚えているかもしれないです。

立岩:例えばさ、何か覚えてるのでいいんだけど、「どこに、どのぐらい」って、例えば。例でいいんだけど。

佐藤:パキスタンが最初で、最初10何万だったと思うんですよね。15、6万ぐらいから。それは、どんなに志があってやりたいと思っていても、その人が生活できる金がなければフルタイムで働けないから。「週末だけやる。」とかってみんな言うんですけど、「それじゃあいい活動はできないから、そんなんじゃあかん。だからその人が生活できるお金をちゃんと作りましょう。」と。で、「それは途上国では難しいから、今日本のメインストリームはちゃんとお金があってあげられるから、それを送ろう。」っていうふうにしたんですよね。

立岩:一人が活動に専念できる額を、取りあえずメインストリームから、

佐藤:まあ生きていけるぐらいの、

立岩:出すよみたいな。[01:26:06]

佐藤:はい。それで、物価が違うじゃないですか。だからだいたい「あんたの国、1人1ヶ月どのぐらいで生きていけんの?」っていう話をして、それで算定して決めていきましたね。それで、「何人ぐらいいたらできるかな。」っていうのがあって、それが15万ぐらいだったと思うんですよね、最初ね。

立岩:それは何、「何人分」みたいな、「ざっくり何人分」みたいなそういう勘定をしたの?

佐藤:はい。そう、話し合って、「何人ぐらい雇いたい人がいるのか。」っていうのと、「まあまあこのぐらいだったらいいかな。」って、だいたい4、5人分ぐらいだったと思います。

立岩:(?)ぐらいのお金があれば、まあ何とかなる。

佐藤:っていう、はい、算定をしてやりましたね。

立岩:それがパキスタンが最初で、だんだん増えて…。

佐藤:それから毎年色んな国の研修生が来て。外れもあるんですよ。いい人と、イマイチかなっていう人も色々いるんです。けどみんな研修生は、「帰ったら、ILセンターをやりたい。」って言うんですよ。でもほんとにやるかどうかは、イマイチわかんないんですよね。だから帰って1年後に見に行くんですよ。すぐは行かなくて。1年後、ほんとにやりたかったら1年後もやっているんですよ、仲間集めて。でも中途半端だったら1年後は絶対やってないし。活動するうえで大事なのは、いっしょにやる仲間を集められるかどうか、っていうのはすごく大事だから。1年後に行ってちゃんといい仲間がいて活動できているかどうか、というのを見るんですね。行って見て、「あ、これはできるな。」と思ったら、そこで支援する、っていうふうにしてったんですね。それで、ネパール、台湾、カンボジア、モンゴルというように支援を広げていきました。

立岩:それは、たまたまというか、この企画でメインストリームに来た人を送って、「それにつきましては」みたいな感じで活動にお金を出すようにして。で、結果として広がっていった。[01:28:20]

佐藤:広がっていきました。ただ、かなり人は見極めるんですよ。「こいつはちゃんとやるかどうか?」「志があるかどうか?」みんな、ダスキンで来る人たちはエリート志向が強いから、「大学の先生になりたい。」とか、「あわよくば日本で働いてやろう。」とか、そういうふうにみんな思って来るんですよ。ほとんど最初はそうで。でも何ヶ月か一緒にいると、変わってくる。変わる人は変わるんですよ。
 基本的なメインストリームのスタンスは、まず仲良くなる、っていうことを一番大事にするんです。仲良くならないと、その人がどういう生活をしているかとか、ていうほんとの話はなかなかできないし、本音も聞けないから。まず仲良くなりましょう、っていうのをして。だからすごく遊ぶんです。それは、廉田はルールを作っていますけど、まず「一人で飯は食うな。」っていうのがルールなんですよ。「絶対誰か誘え。」って。メインストリームのスタッフにも言っているんです。「研修生に誘われた時は断ったらあかん。」っていう。それは「自分に予定があってダメな時は仕方ないけど、そうじゃない限りは、誘われたら絶対行け。」っていうルールを作っているんです。だからもういつも誰かとご飯を食べているから、そうするとね、色んな話をするんですよ、そこで、お互いに仲良くなっていく。
 下地さんって頚損の人の家に遊びに行っていると、そこで介助使って生活しているから、介助の場面をいっぱい見るんですよ。お風呂入れたり料理つくったり。そうすると色々やっぱり、考えるんですよね。そういう中で、考え方がどんどん変わっていくんですね。
 それで、「やりたい。」と言いだして、「この人はできそうかな。」と思ったら、じゃあ1年後ぐらいに見に行って、ほんとにやれていたら支援する。まず人としてちゃんと、「この人は志を持ってやる」っていう、何か信頼関係がある人にやる感じですね。それがないと賢くてもダメです、うん。その見極めはすごくしますね。
 あと、いくつかあるんですけど、廉田は、基本はその国で最初のILセンターを作るところに支援する、っていうスタンスなんですよ。2番目のところにはしません、っていう。だからもう、1個パキスタンでマイルストーンをシャフィックが始めたら二つ目のところは支援しない。それはもう、パキスタンの人たちが二つ目以降は頑張って下さい、っていうことなんです。[01:31:12]

立岩:それは、その、始めるじゃないですか、でまあ次の年も、って進めますよね。それはその二つ目はしないって分かったんですけど、一つ目のところはいつか終わるんですか。

佐藤:終わりは決めてなくて。最初はいつか終わるかな、って思っていたけど、廉田は思ってなかったみたいですね。それは金がなくなったら活動が続けられなくなって。でも、送っていったらその人たちはちゃんと活動ができて、すごくいい活動するわけですよね。メインストリームも傾かずにやれる範囲であれば、それはやっぱり続けてったほうがいいっていうので、ずーっとやっていますね。だから2003年からやっているから、一番長いのは15年ぐらい。途中、パキスタン1回バブルがあって、世銀の助成金を地震の時もらったんですよ。そこで一旦、何年間か送ってない時がありましたけど。

立岩:さっき、奥平さんですよね。例えば韓国とか台湾とか、ちょっとお金が入り...、入るようになるような国もないよね。そういうとこっていうのはこう、自分ちでまかなってく的になってくるんですかね。

佐藤:台湾とかはやれる可能性がありますよね。

立岩:でも今んとこ、まだ支援はしてる。

佐藤:まだやっていますね。でもまあできるようになったらそれは止めてくようになると思いますね。韓国も最初、チャノのところだったんですけど、チャノのところは割と最初から自分たちでお金をなんとかしてやっていたんで、お金の支援はしてなかったです。研修はすごくやりました。受け入れたり、こっちから行ってやったりってのはすごくやりましたね。[01:34:22]

立岩:こないだ井上さんに話聞いた時に、一緒にいたのが、今豊中でやってる…、何だ、モンゴルのほうでやってるって言ってた、統合教育のほうで去年集会で一緒だった人。「またモンゴル行くんだよ。」とかって言ってた。はい、後で名前思い出しときます。何かわかって…、色々とわかってきましたけど、権藤さん何かありますか。

権藤:私は、中西さん自身からじゃなくて、ヴェトナムに行っていたのでヴェトナムの現地の人たちから、日本財団からのお金の話とかもちょこちょこ聞いてたんです。全然考え方も、ちょっと違うんだな、っていうのが今回わかりました。

佐藤:そのスタイルがすごく違って、基本はもう仲良くなる。だからフルタイムなんですよ、夜中も朝もずっと。とことんつき合うっていう。そこで人間関係を作って、そこからちゃんと色んなことができるようになるから。まず人間関係を作る、っていうのをすごく大事にしている。だからもう夜通しずーっと、もともと廉田は日本人に対しても夜通ししゃべったりとかよくしていますし。そういうところで普段は話せない、いい話が聞けたりとか、「やっぱりこの活動いいな。」と思う話が出てきたりするじゃないですか。それをすごく大事にしているんですよね。だから「9時ー5時」じゃなくて、「もう自分たちはライフワークとしてこの活動やっているんだから、仕事とプライベートなんて分けれない。」って、「全部それは一個だ。」って。そういうふうに思って、相手にもそう接しているから、ですね。あとは何かやっぱ、楽しみながらやるっていう。この運動は何でやるかって言うと、それはやっぱ楽しいから、って。「楽しみながらやるからいい活動ができる。」って…、っていうのですね。

立岩:そのノリって、まあ最初からそうだって、最初からずっと…、そういう意味ではずっと続いていると思うんだけども。このそれでもまあ20年とか、まあ15年とかその間って、何か佐藤さんが見ててというか、違い、変化みたいなことって、何か思うことってあります?

佐藤:うーん。支援に関してあんまり変化はないですね。やっぱりメインストリームの人たちのスタイルはすごく変わらずに、徹底して、やりますね。だから付き合うっていうことをすごく大事にして、それはもう今も変わらなくて、よりよくなっているぐらいですね。

立岩:そのスタンスみたいなのは不動というか、普遍というか、で、むしろ強化されているって話で。基本的なことっていうのは、だいたいコンスタントな感じですか?

佐藤:そうですね、変わらなくて。

立岩:同じぐらいの感じで、やってきた。[01:37:35]

佐藤:そのね、「海外のILセンターの支援を何でやるか?やることによってどんなメリットがあるか?僕らにとって。」っていうとこら辺なんですけど。まず、廉田は友だち…、仲間の友だちがやるから支援しよう、っていうのが基本的なスタンスなんですよ。「信頼ができる友だちがやるんだから、友だちとして支援する。」っていうのが、志ILネットワークの基本的な考え方なんです。それで支援をするわけですけど、行くとやっぱり彼らはすごくいい活動をしているんですよ。社会の環境が厳しい中で、素晴らしい活動をしているのを見ると、「俺たち完全に負けてるな。」って思います。日本はある程度制度が整っているし、バリアフリーになって楽に生きていける中で、彼らは何もない中で一からやっていて、でもすごく気持ちもあって。「彼らに負けないような活動を自分は日本に帰ってからせなあかんな。」ってすごく思うんですよ、行くとね。彼らの活動を見せてもらうと。
 だから僕は、日本の活動が、よくなると思うんです。途上国の支援は何でやるかっていうと、それをしたことによって、日本の人たちがよりエンパワメントされていい活動ができるようになる。それは障害者だけじゃなくて、健常者もそうなんですよ。いっしょに連れて行くと、やっぱり彼らも見て同じように感じて、それで帰ってきて、またいい活動をすごいするんですよ。職員は行くとみんなよくなって帰ってきますね。。日本は今から入ってくる人たちって、介助制度もあるし、色んなことが一通り整っているから、最初のことなんかわからないじゃないですか。でも途上国に行ったら、その最初のことが見れて、そこで頑張っている姿も見れるから、ものすごい刺激受けるんですよ。だから学ばせてもらいに行っている感じですね。
 今、「前よりよくなっている」っていうのは、その行った障害者もそうだし、健常者も、みんなよりよく意欲が高まってきているから、日本でもすごくよく頑張るんです。その人たちがまた外国の研修生が来たら、そこに頑張って全力で仲良くなるように色々するし、話もたくさんするんですよ。なぜ、自分がこの活動をしているか、何でこういう活動が大事かっていうことをよく言うんですよね。だから、全体として前よりも、もっとよくなっている感じですね。一人、二人がしゃべるんじゃなくて、みんなしゃべれる感じですよね。[01:40:39]

立岩:さっき言った志ネットワークっていうのは、ある種の組織っていうか、

佐藤:そうですね、友だち、ですね、はい。

立岩:それはその、何だろう、形のあるようなまとまりっていうか…、

佐藤:もともとはそういう、帰って活動する信頼のできる人たち、基本友だちだから、じゃあお互いに助け合っていこう、っていうので作ったんですよ。年に1回ぐらい集まってしゃべると面白いんですよ。それぞれの活動、今どんなことやっているのか聞いたり、何困っているのみたいな話聞くと、すごい刺激もされるし面白いですよね。だから年1回にどっかに集まってやろう、会議しよう、っていうのは言っているんですね。

立岩:実際にそういうのやってる?

佐藤:やってます。年に1回毎年集まっていますね、どっかの国に。だから韓国で集まったり、今年はカンボジアでTRYをやっていたんで、カンボジアTRYって…、TRYじゃなくて、お祭りみたいなのをやったんですよ、2月に。そこでみんな集まって、イベントをやるけどその後はちょっと残ってみんなで会議をして、それぞれの報告をしたり、ってのはやっていますね。

立岩:何人ぐらい来たりする? まあ場所にもよるし、年にもよるけど。

佐藤:基本的には日本がお金を出すんで、各国必ず来ます。パキスタン、カンボジア、ネパール、台湾、モンゴル。あと、韓国は自分らで、チャノとかお金もあるから、自分たちで来ますね。チャノは透析があるから、国によっては行けないだから5ヶ国は必ず集まりますね。

立岩:それは1ヶ国、1人とか?

佐藤:基本は、一人ないし二人なんですよね。それでね、研修生も20年ぐらいやっていたら、何人かその国から来るんですよ。例えば、パキスタンもシャフィックだけじゃなくて、もう何人も来ているんですよ。マイルストーンでいっしょにやっている人が何人かいるんですね。そういう人たちは一応、仲間に入れてやっている感じ。そのね、何ていうか(笑)、みんな志、ILネットワークのメンバーになりたいんですよ。だから来たがるんです。でも、「ちょっとこいつどうかな?」って思う時もあるんですよ。その2番目の人とかは。でもまあまあ、入れている感じですね。

立岩:そうすっと、みんな合わせると、例えばカンボジアでやった年、何人ぐらいいたわけ?[01:43:30]

佐藤:会議ですか? 会議はまあまあ10人ぐらいですよ。6人プラス何人か。でもあと、日本はメインストリームと、夢宙と、ぱあとなぁなんで、それぞれ3団体からも来ますから、一番少なくて10人ぐらい、多いと10数人ですね。

立岩:そういう感じなんですね。

佐藤:それで順番に2年に1回イベントをどっかの国でやろう、って言っているんで、モンゴルでTRYやったり、台湾でTRYやったりっていうのをやっています。今年はカンボジアでしたが、カンボジアはたくさんの人が集まって歩く、っていうのができないんですよ、国の事情で集団で集まったらダメなんです。だからお祭りに切り替えてやった。2年前はネパールで、ネパールTRYってのをやっていましたね。

立岩:佐藤さんは、結局DPIが人いないから来いみたいな、そういう話してた…?

佐藤:そうです、はい。

立岩:ですよね。今はもうDPIの仕事も忙しいじゃないですか。もうそっちでキャパ、めいっぱい。

佐藤:はい、そうですね。

立岩:体はこっちに住んでるの?

佐藤:そうです、メインストリームは辞めてきました。これも話すと長くなりますけど、どうしますか? もう6時か。

立岩:あとでまあ聞きます。

佐藤:わかりました、はい。

佐藤:2017年にワシントンDCでグローパルILサミットというのをやって、ILセンターのネットワークのWIN(World Independent Living Center Network)をつくりました。

立岩:それはいけそう?

佐藤:いや、なかなか…

立岩:難しい?

佐藤:そうですね。セミナーやるだけはできましたけど、その後、継続的にやるのがなかなか難しくて。でも今2ヶ月に1回、5人役員を決めていて、その人たちでスカイプで。一昨日もやったとこなんですけど、それはやっていますね。これまでILの世界のネットワークなかったから、お互いに何かやる時は行きましょうっていうことにして。ただお金、助成金がもう終わっちゃったんで、新たにまた申請をしているとこですね。

立岩:佐藤さん何、僕…、尾上さん結局こないだ、尾上さんがついに関西に戻ってきたらしいんですが、彼はでも結局長かったよね。

佐藤:14年です。5年の約束で。

立岩:本人もそう言ってました。

佐藤:(笑)

立岩:長引いちゃったよ、みたいなことをおっしゃっていましたけど、でも下手すりゃ、佐藤さんもそうなるでしょうね。

佐藤:そうです。それは、話長くなりますけど、5分ぐらいでまとめましょうか。2013年9月に僕はアメリカに行ったんです。2013年の6月に障害者差別解消法が成立したんですが、自分はそれを作る目標にしていて。当時は関西にいたんで、別に中心ではないんですけど、側面的には結構頑張ってやったんです。政権交代して差別解消法作るかどうかわからなくなった時に、何とかこのチャンスに作ってもらえるようにってことで、関西のメンバーで集まってTRYを作って、運動を結構やったんですよ。それで、6月にできるっていう時に…、そうだ、その時に神戸でDPIの総会やって、来ていただいて、

立岩:そうそう、そうめっちゃ…

佐藤:そうそうそう、あの時なんですよ。あの次の週に成立したんですけど。

立岩:(?)ほんと、盛り上がってましたね。

佐藤:そうそう勢いありましたよね。

立岩:ひたすら〔立岩が〕悪酔いした日です(笑)。[01:52:25]

佐藤:その時にね、自分は差別解消法を作るまでが目標だったから、「できた後何しようかな?」って思ったんですよ。しかも最初、法律は秋の国会だって言われていたのが、早まって6月に通っちゃって。僕、7月から10月までは大阪から東京まで100人ぐらいでイベントしながら歩く予定だったから、予定を空けてたんですけど、6月に通っちゃって。「俺、秋まで何しよう?」と思ったんです、やることなくなって。もう目標の差別解消法もできたから、「自分はこれから何をして生きていったらいいのかな。」っていう、若干目標見失っていたんですよ。
 その時に今JILの事務局にいる盛上さんっていう女性がいて、彼女はジャスティン・ダートのところで留学していたんですよね。ジャスティン・ダートは日本の女性の人たちを受け入れて、大学に行かせたりってことを個人的にずっとやっていて。そのダート・ファミリーっていうんですけど。盛上さんはダートさんの家の後は、あのジュディ・ヒューマンと働いたりして、最後はブラジルでJICAのプロジェクトもやって、それでちょうど帰ってきた時なんです。その時に、ブラジルの聴覚障害者を連れてメインストリームに来たんですよ。DPI総会を土日にやって、月曜日に来るって。俺たち日曜日まで全力でやってめちゃめちゃ疲れているのに、月曜日来るなよ〜と思ったんですよ(笑)。休もうと思っていたのに。でもブラジルの障害者がわざわざ来てくれるって言うんだから、「それだったらしゃあないな。」と思って、起きてって、それで話してたんですけど。
 その時に盛上さんが、「佐藤さん、差別解消法どうなんですか?」って言うから、「もう今週通りますよ」って、「でも自分はこれ目標にしていたからこのあとどう生きたらいいかちょっとよくわからないんですよね。」みたいな話をしたんです。「じゃあジャスティン・ダートの奥さんのヨシコ・ダートさんに会いに行ったらどうですか?」って言われたんです。ジャスティン・ダート、ADA作った人で、もう死んじゃったけど、奥さん日本人で。「ジャスティン・ダートは世界で初めて障害者差別禁止法を作って、何で作ろうと思ったんかな?」っていうのが、ずっと気になっていたんですよ。特に障害に特化した禁止法を作ったのは、何でそういう考えに至ったのかなあ、っていうのはすごく興味があって。じゃあ聞いてみたいなと思って、それで紹介してもらって9月に行ったんです。[01:55:06]
 僕はヨシコさんにジャスティン・ダートの話を聞けば、自分のこれからの生き方が、目標が見つかるんじゃないかなって思っていたんです。僕は「ジャスティン・ダートがどういうふうに生きて、何を考えてきたかっていう分かる限りのことを聞かせてほしい。」ってお願いしました。ヨシコさんは4日間空けてくれて、ずーっと話をしてくれたんです、トータル30時間ぐらい。日本にいて、タッパーウェアの社長で成功していた頃、山に籠もって仙人みたいな生活をしていた頃、ヒューストンに戻って報告書を作って、そこからDCに呼ばれて、ADAの報告書を作って運動を始めた。そういうのを聞いて、その時に印象的だったのは、ホワイトハウスでADAの署名式の時に、中庭に3,000人、4,000人ぐらい人が集められてやったんですけど、もともとジャスティンはステージに上がる予定はなかったそうなんです。当日急に上がれってことになって、ブッシュ大統領来る前に、ステージに上がったんだそうです。そして周りを見たら3,000人ぐらいの障害者がいて、それを見た瞬間に、「世界中の障害者が自分の肩にのっかったような気がして、ものすごく気が重くなった。」って言ったんだそうです。このADAが成功するかどうかが、世界中の障害者に影響を与えるから、作って終わりじゃなくて、これから成功させるようにさらにもっと何倍も頑張らなあかんって思って気が重くなったそうなんです。
 それにすごくびっくりしたんです。俺だったら、そんな頑張って何年もやってできた法律だったら、ステージ上がったら両手を振って喜ぶだろうに、この人そんなこと考えてたんだ。覚悟があるなと思ったんですよ。世界の障害者がいい方向に進んでいくように、自分はその先頭に立って、その覚悟を持ってやってんだなっていうのが、すごくびっくりしたんですよね。覚悟を持ってやってくれた人がいたから、回り回って権利条約ができて、日本にも差別解消法ができたんだなと分かった。とても感銘を受けたんですよ。[01:57:46]
 ちょうどその旅行から帰ってくる途中に三澤さんが亡くなったんですよ。韓国の空港に飛行の機乗り換えでいたら、廉田からメールが来て、「三澤さんがもうダメだ。」。関空に着いたら、亡くなったっていうメールが来ていて。それまでは中西さんや三澤さんや、ああいう最初の人たちは、ずっと先頭に立って運動し続けてくれると思っていたんですよ。だから自分は別に中央で活動するなんてことは全く考えてなくて、いつまでも、三澤さんや尾上さんたちでやってくれるんだと思っていたら、「人間は死ぬんだな。」って思ったんです。死んだらいなくなって、その代わりに誰かがやらないと続いていかない。それから何回もDPIに呼ばれたんです。「これからの体制を話し合いたいから来てくれ。」って言われて。それで役員とかが10人ぐらい集まって、3、4回会議をしたんですよ。その時にもう一つ、内緒のこともあって、これは内緒なので、興味のある人は尾上さんに直接聞いて下さい。そのもう一つの事情もあって、誰かがDPIに入って活動を引き継がなければならないという状況になったのです。しかし、誰もいないんです。何回会議してもいい人が思いつかない。優秀な人はいてもそれぞれの団体の中心人物だから東京に出てくることが出来ない。
 メインストリームは廉田がいるから、俺が出ても全然やっていけるな、っていうのはわかっていて、そしたらもう俺が出てくるしかないと思いました。それで、3回目、の時に、「僕が出てきて、DPIに入ります」って言ったんです。その会議の場で、「ここで俺が出てくるって言わないと、もうダメだな。」って思ったんで、勝手に言ったんです。廉田には相談せずに。でも僕は廉田は絶対反対しないと思ったんですよ。それは、彼は基本的に人がこうしたいっていうことをすごく尊重するから、俺がそれをやりたいって言えば、反対はしない、っていうのはわかっていたんですね。だから、先に言ってあとから電話して、「明日最終の新幹線で帰るから、夜中の1時に家に来てくれ。」って言って、それで廉田が夜中に来てくれて。それでこういう事情でDPIに行くことにしました、って言ったら、廉田は「うん、うん。」って言って、「わかった。」って。
 じゃああの、メインストリームどうするかっていう話で、もう尾上さんを見ていても、一度行ったらもう10年間は帰ってこれないっていうのは確実だから。籍を置いて行くか辞めて行くかっていう時に、廉田は「辞めて行った方がいいと思う。」って言った。それは例えば佐藤君が10年間東京に行って、帰ってきた時に、メインストリームは新しい人たちになっていて、その人たちはやりにくいだろうって。古株が来て、全然知らない古株が来たらやりにくい、って言われて。「それはその通りだな。」と思ったというのが一つと、その前に、2005年にJILの事務局長に僕1回なったんですよ。その時はメインストリームと両方やっていたから行ったり来たりになっていて。そのうち、東京はすごく水が合わなくて嫌だったんで、なるべく東京行かずにメインストリームにいて、それで1年半ぐらいで辞めたんです。その時は自分は覚悟なかったな、って反省したんですよ。逃げるとこあったから、がんばらんかったな、って。自分の性格は逃げるとこがあったらいい活動できないから、やっぱ逃げる所はなくしていかないと、東京でいい活動はできないな、って思ったんです。それで、辞めて行こうっていうことにして、辞めていきました。[02:05:06]

立岩:そうか。結構相当の覚悟をして、した上でのことなんだ。

佐藤:相当の覚悟です。そうですね、自分の人生を考えれば、西宮にいた方がずっと楽しくて、よかったですけど(笑)。

立岩:そうだよね、楽しそうだよね、西宮の方がね、なんか。

佐藤:そうですよ。そうなんです。

立岩:今、東京、どこお住いですか?

佐藤:板橋区です。

立岩:板橋、電車だと何分?

佐藤:30分ぐらいです、神保町まで。三田線。

立岩:東京はじゃあ初めて? 住むの。

佐藤:JILの事務局長のとき八王子にちょっと住んでいましたけど。ちゃんと住むのは初めてです。47で出て来たんで、友だちもあんまりいないし、最初の頃はほんとに東京は砂漠だなと思いました。何か人と人の関わり方がすごく違いますよね。でもね、DPIの崔さん※がすっごい、色んな人に会わせてくれたんですよ、いつも飲み会セットしてくれて。それはね、助かりましたね。そこで友だちができて。酒は飲みすぎましたが、あれはあれで、感謝しています。

立岩:あれは得がたい人だよね、崔さんの宴会係。

佐藤:今日もやっていますよ。今日もDPIの前の店でやっています。教育の関係のことだと思う。

立岩:ありがとうございました。

佐藤:はい、長々と。

立岩:またこの人が聞きたいことがあったら、また録らしてください。

佐藤:はい。

権藤:よろしくお願いします。

立岩:今度はいつ、誰が、どうしてみたいな、それは本当にどこか(?)。お忙しいところ…

佐藤:いえいえ、お疲れさまでした。ありがとうございました。

[音声終了]


UP:20191108 REV:
佐藤 聡  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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