奥平真砂子氏インタビュー――研修の仕事
20180630 聞き手:立岩真也・
権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ 57分+
◇奥平 真砂子
◇ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業
※事情記憶にないのですが掲載遅れました。すみません。これからリンクなどしていきます。(2020/12/10立岩)
※2つに分けることにしました。もう1つは
◇奥平 真砂子 i2018 インタビュー――半生のこと 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ
■趣旨説明
奥平 権藤さんが本書くんですか?
立岩 えっとね、事情をちょっと言うと、今回の科研の一環は一環なんですけど、それは運動史…、障害者の運動史なんですけど、権藤さんは、今、勤めてんのは熊本学園大の障害学生支援室…、
奥平 へえー。
立岩 勤めてて、何年か前(2016年)地震あったじゃないですか、熊本の。
奥平 ああ、はいはい。
立岩 あの時とか結構大変だったんですけど。元々は熊本学園の出で。で、修士まで行ったのかな。
権藤 はい、そうです。
立岩 それで立命館に博士から入って来て、
奥平 へえー。何でそんなに勉強好きなんだろ(笑)。すいません。
立岩 ねー。まあ、本人、好きかどうか本当はよくわかんないですけど(笑)。置いといて。それで何年かヴェトナムの自立生活センターとか、そんな所に調べに行ったりとかしてて。まあアジアっていうことではあるんだけども、勤めもあるし、貧乏だし、そんなにしょっちゅう外国に行ったりできないね、と。そうすると博論書けないよね、っていう話になってさ。だったら、日本の人が外国行ってこの間ずっとやってきたわけだから、それ調べりゃあ日本で人もつかまるし(笑)。それ聞いて、でも意外とそういう研究ってものはないな、っていう話になってね。
奥平 ない、ない。うん。
立岩 で、それをまとめたらものになるんじゃないかっていう話もあって。私自身も関心はあったんで。でまあ、とりあえず。とりあえずって言っちゃ失礼だが、まあ、
奥平 いやいや。
立岩 今回、こういうふうな仕事になった。
奥平 だったらまず、言っておかなければいけないのは、ヴェトナムっていうのはやっぱり…、まあ、どういう経緯で権藤さんがそこ調べられたかわからないけど、ちょっと、私や佐藤さんはそんなに詳しくない。まず。
立岩 うん。
権藤 全然大丈夫です。
奥平 で、私は、15年か14…、15年か…、にわたって、ダスキンの事業を担当してて、その中で卒業生が結構な割合で…、何だっけ、あの、志ネッ…、っていうか、自立生活運動に入っていて、各国で自立生活センターを立ち上げてやっていて、それの中心になっているのがメインストリーム協会。で、そこでやってて、後でちょっと話す…、質問に答えながら話そうと思ってたのは、関東側…、関東タイプと関西タイプの支援…、前ちょっと言ったっけ、あって…、
立岩 ありがとうございます。
権藤 ありがとうございます。
奥平 はい、すいません。それで、関西タイプであれば、やっぱしここの卒業生がすごい関わってててよく分かるけど、関東タイプは…。あ! ある意味、光岡がよく分かるかも。だから後で…。
ねえ光岡さん、今日さあ、30分ぐらい時間あったら、ヴェトナムのを教えてあげたらいいかも。
彼は、さっき言ったようにヒューマンケア協会で働いてたから、ヴェトナムのことよく分かるっていうことです。それでいいですか。
立岩 うん、あの、いいです。もう何でもいいです。ほんとに、ほんとに真面目に、何でもいいです。
■
奥平 (笑)ほんと? なら、じゃあまず、私はJILに1996年から2001年ぐらいまで…、2000年?
立岩 96から2001。うん。
奥平 5年ぐらい働いた…、4年…、5年弱…、働いてて、その時に中西さんが、いつだっけかな、1998年かな…、7年かな、ぐらいに、「JILで韓国の自立生活センターを支援しよう。」って言い始めて。それが私が一番初めに聞いた、日本の障…、障害者っていうか、ILセンターが海外支援しようっていうのの初めてだった。その時は私、そんな海外支援なんて意識もなかったし、アメリカ馬鹿だったから(笑)、「何でそんな、日本の国さえうまくいってないのに海外支援なんかしなきゃいけないのよ。」ってすごく思った記憶があったけど。ちょっとこれ、ちゃんと調べれば分かるけど、その前後だったと思うけど、韓国からキム・ドンホウ(?)だったかな、キム・ドンホウ(?)っていう人をJILで招聘して、セミナーをやったんですよ。それは覚えてて。で、それはそれで終わって。で、高橋修さん※が亡くなったでしょ。
立岩 99ですね。
奥平 99年。で、その次に私はとりあえず事務局長になったけど、もう代表の入れ替わりの時期で、次の年か、次の次の年ぐらい…、
立岩 あ、JILの事務局長ね。
奥平 うん。高橋さんの後釜って形で、とりあえず仮で。あ、すみません。はい。で、やって、それから…、あ、じゃまたあとで呼ぶか。で、やってたけど、樋口恵子さんが代表を降りるっていうことで、「どうしようっかなあ。」と思って。「JILでこのまま働くかな、どうしようっかなあ。」と思ってたところに、リハ協から「ダスキンの仕事しませんか。」って言われて。それからはこっちをずっとやってて。権藤さん、これはご存知ですか? 立岩さん、知ってるよね。
立岩 知ってはいるけれども。「知ってはいるけれども」ぐらいですよ。
奥平 これ、事業概要ですけど。株式会社ダスキンって、1981年から日本の障害者を海外に派遣する、何とか派遣事業…、障害者リーダー何とか派遣事業っていうのをやってるんですけど、それのまず第1期生として私はアメリカのバークレーに送られて。
※ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業
立岩 奥平さん、1期生か。
奥平 そう、1期生。
立岩 ほか、誰いたんだっけ。
奥平 ほかは、有名人って言ったら、視覚障害の山口和彦とか、あとは、今もやってる人は吉浦美和さんて福岡でやってる人とか、後、マイケル・ウィンターと結婚した桑名敦子※とか。
※桑名 敦子 i2019 インタビュー 2018/11/12 聞き手:立岩真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫
立岩 桑名さんも1期生なんですか?
奥平 そうです、そうです。
立岩 あれ、僕、1回ね…。ずーっと来てるじゃない? 毎回、毎期。あの人たちがどういう人たちで、その後どうしたのかみたいな。
奥平 毎期?
立岩 うん。第1期、第2期、第3期ってさ。あれを…、
奥平 日本人?
立岩 うん、リストアップして。それも一つ論文ぐらい書けるなって思って。
奥平 ああ、それはすごいよ、うん。
立岩 あれって、同窓会の何か会報みたいなのってあるの?
奥平 日本人のほうはないかもしれない。だってそれって事務局がちゃんと機能してないと、フォローアップってできないじゃん。
立岩 うん、事務局あまり…。
奥平 で、事務局は、愛の輪は…。
立岩 でも、毎期、毎期、送り出して終わりみたいな感じなの?
奥平 うん、そうそう、はっきり言ってね。で、毎年報告書は書いてるけど、縦のつながりっていうかそれもないし、同期で横のつながりもほとんどないという。もったいないよね。
立岩 まあ、あそこに行けば毎年の報告書みたいなものは、貸してくれたり…、
奥平 …は、あります、あります、愛の輪で。うん、絶対それはある。
立岩 それがねえ、僕1回ちょっとやんきゃなと思ったんで…、それが時間ないんで、誰かやってもらおうかなと。
奥平 それ、もう500人ぐらい卒業してる。
立岩 でしょ。いや、もうそれだけでも博論書ける話なん…。
奥平 そうだよ。
(リンクここまで12201210)
立岩 石川とか、3期生、
奥平 あ、石川准もそうだし、3期生だし、
立岩 安積も3期生?
奥平 そうそうそう。安積遊歩もそうだし、2期生は亡くなっちゃったあの谷口明広とか、あと樋口恵子さんも3期生かな、4期生かな、そんなもん。
立岩 そのへんですよね。
奥平 で、今から来る佐藤聡も10期生かな、11期生かな。光岡もそうですよ、光岡もっと若いから。
立岩 うちの院生いるよ。白杉。
権藤 あっ、白杉さん。はい。白杉さん。分かりました。
奥平 何期生?
立岩 何期生だろ、今度聞いてみます。
奥平 本当にだから有名っていうか、まあ、安積遊歩とか石川准とかすごいでしょ。佐藤聡とか。
立岩 いますよね、とにかくね。
奥平 まあ、五百何十人も出してればね。
立岩 まあ、日本から外国へ、特に初期には北米に、っていう人が多かったんだけど…。その話はその話で、またそれまとめて誰か、と思ってますけど。最初はそういう形で日本の人を派遣してたわけじゃないですか。
奥平 そう。
■
立岩 それが、「こっち受け入れよう。」みたいな、「やろうよ。」みたいな話っていうのは、どういうふうに、どういう流れで出てきた話なんですか。
奥平 それ、えっとまず、日本の人を派遣しようと思ったのは、そもそも、その前の年だったかな、前の前の年かな、▽ダスキンの創業者が突然亡くなったんですって。で、それで社員が…、その創業者って鈴木清一っていう方なんですけど、何かすごい色んな事…、生きる上で、ちゃんとした考え、理念を持ってた方で、「人のために生きる」とか、何だっけ、それはダスキンの人に聞いた方がいいと思うんだけど、社会のためにいいことをするっていう信念持ってた人で。で、会社の社員の人たちも「彼になら」っつって、ついてってたんだと思うけど。で、亡くなってしゅんとしてたから、それをこう立て直すために何かやったらいいね、っていう話が出て。それでちょうど81年が国連の国際障害者年だったでしょ。それがあって、「じゃあ障害者のこと、何かやろう。」ってなったんですって。で、宮城まり子※っているじゃないですか。
立岩 はいはいはい。
奥平 宮城まり子さんに、何かのつてがあったか分かんないけど相談したら、「じゃあ、障害者を海外に派遣したら?」って言われたって聞いたよ。
立岩 へえー。宮城まり子、何かしらに関わってるんだ。
奥平 それで日本人、始めたでしょ。で、次に1998年に、これは、ダスキン、何のきっかけがあったのかそこまでは知らないけど、1998年って、何だっけかな、アジア太平洋…、ここにも書いてあるけど…、書いてあるでしょ、アジア太平洋10年の事業の一環として何かやり始めたんですって。
立岩 ああ。そう書いてありますね。
奥平 うん。千葉さん。2代目社長。あの、何かで逮捕されちゃったけどさ。すごいいい人だったよ、私たちには。その人もカリスマ性があった人で。その人が多分言い始めたのかもしれないね。よく分かんない。これは愛の輪に聞いた方がいいと思うけど。で、このきっかけで今度アジア太平洋から障害者、若い障害者を呼んで育成しようっていうのを初めて始めたんですよ。で、1999年より実施して。これは…、うん。で、アメリカとかヨーロッパ…、ああ、アメリカに送る最初の頃、10期までは、それもリハ協が委託されてやってたの。
立岩 派遣のほうの第10期まで、リハ協が、実務というか…、
奥平 うん、派遣。そうそうそう。やってた、うん。
立岩 選んだり、っていうようなこともやってたんですね。
奥平 そう。だから私なんかはさ、ほんとに障害者のこと分からなかったわけでしょ。だから行き先なんか選べるわけないじゃない、自分で。アメリカなんて分かんないし。1980年なんてそんな時代じゃないじゃん。まだ1ドル240円とか60円。だからリハ協が見つけてきたところに行ったの。もちろん、ちゃんとしたしっかりした意識の持ってる人は「ここ行きたい。」って言ったかもしれないけど、私みたいなパッパラパーは何にも考えてなかったから(笑)、言われたところに行った先がバークレーの自立生活センターだったという。よくさあ、学校とかじゃなくて障害者団体に送ったよね、とか思っちゃうけど(笑)。
立岩 81年って、もう、日本でそういうものが入ってきた、ちょうどその頃ですよね。
奥平 そう、ちょうど。エド・ロバーツ※が79年か80年に1回来てるらしいんだけど。その頃、私まだ京都で大学生やってたし、何も分かんなかった。
立岩 いくつか、そういうアメリカのリーダーを呼んだのが国際障害者年の、前…、前の年あたりにあって、それの報告書なんかも出てますね。
奥平 ふーん。
立岩 かなり、だから業界では話題になった話だと思うんだ。で、多分リハ協の人たちもその辺に関わってたというか、関わって知ったのか、もっと知ってた…、もう前から知ってたのか分かんないけど、割とそういう場所にいたんで、じゃあそういうところ行ったら、みたいな話になったのかもね。
※奥平さんの半生について別頁↓
◇奥平 真砂子 i2018 インタビュー――半生について 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ
立岩 研修、そういうものを担当してくれないか、みたいな話が、リハ協からあった?
奥平 そうそうそう。ダスキンの担当をしないかって言われて。うん。
立岩 その当時も…、今はどうなんですか、その、ダスキンはまあ、そうやってお金を出すわけだけれども、実際に人を選んだりとか派遣したりとか、それはここがやってんの?
奥平 そうだよ。全然口出し一切し…、まあもちろんあの実行委員会っていうのも組織してて、その中にダスキンの愛の輪の人が入ってるから、そこでは自分の選んだ人、推してくるけど、でも他の委員の方が絶対的に強いから、愛の輪の人が言うところ、まあ、選ばれることはない。
立岩 基本的に純粋にスポンサーっていうか、そんな感じなんだね。で、リハ協がずっとやってる、と。
奥平 そうです、そうです。
立岩 そっか。で、もちろんその、最初に日本人を派遣するっていうのはずっと…、もうそれは今でも続いてるわけだけれども、あって。で、98年そうか、国連アジア太平洋の10年。93か…、が、2002まであって、その間、後半のほうだね、99年から、これ八代さんとかかなり関わってる?
奥平 これは関わってないと思う。
立岩 これには関わってないけど、DPIのアジア太平…、
奥平 ああ、それには…、
立岩 それには関わってたって聞いてる。
奥平 …すごい関わってるよ。えーと、80…、私、八代さん※に一番最初に会ったのは遡ること84年、バハマですよ。
立岩 バハマ?
奥平 うん。まだ私がアメリカで暮らしてた時に…、
立岩 あそっか、アメリカ2回目に行ってたあたりの時に、アメリカで会ったの?
奥平 えっ?
立岩 バハマで会った?
奥平 バハマ。それで、アメリカで暮らしてたわけでしょ、だから日本の障害者ともつながってて、「DPIの会議がバハマであるから通訳として来てくれないか。」って言われてついてったの。
立岩 で、ここの話にだんだん行くとね、それがきっか…、その10年が契機であったっていうのは分かるけれども、それにしたってその、育成を日本でできるっていうある種の認識っていうの? 日本で、こういう人たちを受け入れて、何か与えるものがあるよ、っていうような…、に、なんないと受け入れるって話になんないじゃん。
奥平 ま、だから、結構この頃はもうだいぶ変わってきてたし、これを作った人は河村宏さんっていう人がいるんですけど…、
立岩 河村宏って、
奥平 今、東大じゃないけど、
立岩 DAISY(デイジー)の人?
奥平 そうそう、DAISYの人。
立岩 僕ねえ、彼にロングインタビューっていうの、4年ぐらい前か、したよ※。
※石川 准・河村 宏・立岩 真也 20140322 「視覚障害学生石川准と東大図書館員河村宏――その1970年代から21世紀へ」
奥平 ああそう。
立岩 石川准と河村さんが東大の時に知り合いで…、
奥平 うん。
立岩 それ以来の知り合いでっていう話で…、
奥平 そうそうそう。
立岩 その、大昔の、情報機器の話とか、オタッキーな視覚障害情報話を、3時間ほど聞いた。
奥平 (笑)
立岩 あ、その河村さんね。
奥平 河村さんが具体的なこのプログラムの基礎を築いたっていうの。
立岩 あっそうなんだ。ふーん。
奥平 うん。まあ、河村さんに聞いたほうがいいと思うけど。私は、実際に関わったのは2期ぐ…、1期から何となく関わってはいたけど、JILでこう研修先を紹介したり、時々リハ協でアルバイトをしてたりもしてたんで、何となくは知ってるけど、どうしてそういう思いに至ったかっていうのは河村さんに聞いた方がいい。
立岩 なるほど。むしろね。
奥平 うん。
立岩 じゃまあ、彼がそのプログラムをかん…、まあ彼は今でも国際派というかね…、
奥平 うん。
立岩 色んなとこ行ってっていう人ではありますけれども。
奥平 でも、途上国に行ったら分かるけど、日本と比べたら全然違うし、多分私たちがアメリカに行ってアメリカがすごーいって思ったそのギャップよりも、今は途上国の人たちが日本に来て、帰った時に感じるギャップのほうが大きいと思うよ。
立岩 うん。そりゃそうかもしんないですよね。そうでしょうね。うーん、そうか、リハ協、河村さんあたりが割とそういうプログラムを構想して、
奥平 そうだね、これもそうだし、デイジーもそうだし。
立岩 うん。(?)、まあ、あの…。静岡で、そうか、県立大で話聞いたんだよね。
奥平 あ、石川准に。
立岩 うん、石川准に。その後、そうそう、静岡の駅まで出てさあ、静岡おでんって知ってる?
奥平 (笑)黒いやつ?
権藤 味噌、味噌。
奥平 黒いやつだよね。
立岩 うん。食べながら話聞いて。面白かったよ河村さん。ああそうなんですか。それで、それ以来、99年ってことは、何だかんだ言って20年近いのですか。
[00:56:13]
奥平 もう今年は20期生が、9月に来るかな。ねえ、ちょっと休憩してトイレ行って来ていいですか。
立岩 はいどうぞどうぞ。はい。お願いします。
奥平 もう、年齢も上だからね、私も。
【7上A】20180630_002 奥平氏 後半 59分
立岩 これ、たぶんこのプログラムした人、権藤さんこれから紹介していただいたりして聞いていくと思うんだけど、それはそれで聞くとして、現場でずっと長いことやってきてるわけじゃないですか。でね、実は、先日かな、井上さんてメインストリームの…、
奥平 ああ、ああ。はい。
立岩 コスタリカ行ってる人に…、
奥平 うんうん。
立岩 2時間ぐらい話聞かせてもらって。コスタリカでどんなことしてるのかという話をね※。それはそれで面白かったんだが、日本で受け入れる形でやってる感触っていうのか、ちょっと、ばくっとした言い方で言うとね、「どういう感じ?」みたいな…、て。
※井上 武史 i2018 インタビュー 2018/05/18 聞き手:立岩真也 於:京都
奥平 受け入れるの?
立岩 受け入れながらやってて、何をあの人たちは得ていくのかとかね。いや、それなりに上手いこといってるな、とかさ。そういうのはどうですか?
奥平 私、これは個人的なこと…、たぶん光岡も似たようなとこがあるのかもしれないけど、私自身ダスキンの研修生だったわけでしょ、アメリカで。
立岩 そうね、うん。
奥平 だから、私はこの研修事業やる時に、自分がアメリカで経験したことをみんなに経験してほしいな、と思ってやってたのね。うん。それが一番大きいかな。生活を楽しむことであったり、あとは自分の障害をちゃんと受け入れられるようにっていうのと、あとは権利意識とか自分の可能性を知るっていうところとか、あとは仲間の大切さっていうのを知ってほしいなっていうのはあって、それを基本にやってた。
で、だから、結構みんなやっぱり…、今バンコクとか随分変わってきてるけど、それでもまだまだ日本とは状況が全然違うから。さっきも言ったように私がアメリカに行って感じて帰ってきた時のギャップよりも、たぶん彼らが感じてるギャップのほうが大きいっていうところがあるから、なるべくそこのところもちゃんと最初から言ってやってる、っていうのがあるんですよ。だから仲間として私は研修生と接するようにはしてたんよ。それともう一つは、「お母さんにはなっちゃいけない。」って誰かに言われたから(笑)、お母さんにはならないようにした。年齢的にはもう随分なね、あれだから。
[00:03:12]
立岩 そうですね。年齢的にはそのぐらい離れてるんだよね。
奥平 うん。そいで、国際協力っていうか、その自立生活センターたちが…、っていうか、私は、そうそう、帰ってからも、ちゃんと何か活動してほしいっていうのはもちろんあるでしょ。だから、そのために私がアメリカで…、…の人と繋がっているような関係を研修生にも作ってほしいなっていうのはあったかな。
立岩 ああ。日本に来て、日本の誰かとか組織とかそういうものとの関係を作って、戻っても維持するっていう。
奥平 そう。まあ何となくでもいいから繋がってて、落ち込んだ時とか何か助けが必要な時とかにこう、相談できるような関係を作れるような人との出会いがあったらいいかなって。
立岩 この間、メインの人※に聞いたけれども、何だろな、やっぱりさっき仰ったようにね、違いはあるわけじゃないですか。それを、例えば国に戻ってすぐにできるかって言ったら普通は難しいわけじゃない? で、そういうところで、どうなの? そうやって行ったけれども、でも、これはメインストリーム的なノリなのかもしれないが、やっぱり結構、叩き込むって言ってたね。
奥平 うん。
立岩 根性っていうか(笑)。
奥平 あはは(笑)。
立岩 ほんでやっぱりやる気っていうか、「戻って、やるぞ。」っていう奴らって、感化されてっていうかやる気になっていて、そんなにがっくり…、落差とか格差みたいなのに「どうしようもねえや。」っていうネガティブな、っていうよりは、そのまんま実現するわけではないにしても、すぐに実現するわけではないにしても、それなりにやれると思ってやる気になって、っていうことは実際あるんだよ、っていうこと。まあ、彼らは言ってたけどね。
奥平 まあそう。でも私、最初っから見て知ってるけどさあ、一番…、それは今だから言えること。うん。最初は私は…、そもそもJILの時に車いす全国集会※だっけ?
立岩 はいはい。
奥平 …で、廉田さん※と知り合って、すごく…、
立岩 あそうか、そこで知り合った?
奥平 そうそう。意気投合して仲良くなってたんだけど。それで第1期生からメインストリーム協会に研修生を送り込んだのね。
立岩 これの第1期ということだね。
奥平 そうそうそうそう。アジアの。
立岩 90…、なるほど、うん。
奥平 だから99年か。うん。で、その1期生って、2期生の時、韓国のあの、ミンスっていうイケメンのジャニーズ系(笑)の男子がいたんだけど、今はもうどうしてるか分からない人なんだけどね。彼もメインにいて、彼がまず感化されて韓国でトライをやったの。帰って…、帰ったその年だったかな。
立岩 あ、その話、してた。
奥平 うん。でも、彼は障害もまあまあ軽かったし、片足義足ぐらいだったから、そういうのもあって、韓国で出世したかったのもあるのかもしんないけど、障害者運動はやんなかったのね。
立岩 ああ、その最初に来た人はね。
奥平 そうそうそうそう。もう今はどこに行ってるかよく分かんない。
立岩 今、つながっているって人ではない?
奥平 …はない。次に来たのが3期生で、私が本格的に職員としてここ働き始めて、面接も行ったのね。でその中で、聞いたかもしんないけどシャフィックっていうのがいて、パキスタンの。
立岩 シャフィック?
奥平 シャフィック・ウル・ラフマン。
立岩 シャフィック・ウル・ラフマン。
奥平 ウル・ラフマン。うん。ていう…、
立岩 はい。はい。パキスタンね。
奥平 うん。…っていう奴がいて、彼を支援し始めたのがメインストリーム協会の初め。
立岩 メインストリームがパキスタンの人をね。
奥平 そうそう。んで、それもシャフィックと…。あ、まずはシャフィック、3期生でしょ?
立岩 うん。
奥平 で、同じ3期生の…、
立岩 さっきの韓国の人は、1?
奥平 2期生。
立岩 2期生、うん。義足ってことは、?
奥平 切断だったと思うなあ。
立岩 切断。そうだね、年齢的にもうポリオっていう感じじゃないよね。
奥平 うーん。それで、3期生に…、
立岩 パキスタンの人は障害何だったの?
奥平 ポリオ。
立岩 ポリオ。その人はポリオか。
奥平 うん。それで3期生にもう一人…、今その、これから言う、志ネットワークの主要メンバーがいて、それがチャノ…、パク・チャノで、
立岩 パクチャノ?
[00:08:05]
奥平 パク・チャノ。
立岩 パク・チャノ。ていうことは、韓国…、
奥平 彼も韓国の人で、その二人が今ほんとに、最初のメ…、じゃない、志ネットワークっていうのをすごい引っ張ってる人だと思うけど。んで、まずその頃まだ…、だからメインは国際協力とかやってなくって、…たんだけど、シャフィックがまずメインに行って…、1月だかな? で、何か私、夜中にシャフィックから電話がかかってきて、何か…さ…、ああ、体験室に研修生いつも泊まるんですけど、「ここにオバケが出る。」とか訳わかんないこと言って(笑)。でも、他の研修生も言ってたらしいんだけど。で、「帰りたい。」とか言い始めて。まだ半分ぐらいしか住んでないのに「帰りたい。」っつって、どうしても言うこと聞かないから、「じゃあ。」って、迎えに行って話をして帰ってきたんだけど、そしたらあとで廉田さんが何ヶ月か…、あの、シャフィックたちが帰る直前に、「もう1回、奴、よこしてくれ。」とかつって、1週間だったかな2週間だったかな、フォローみたいな研修をしてくれたのね。で、それで帰ったんだけど、でまあ、廉田さんはその時どんな研修をしたかっていうの、ちょっと聞いてないけど。
シャフィックが帰って、したら日本の状況とパキスタンの状況と全然違うわけじゃないですか。したら落ち込んでまた電話してきて。「誰も、僕の言うことを信じてくれない。」って。「そりゃあ、だからそう言っただろ!」とかって言ったんだけど(笑)。で、泣きながら何回か電話してきて。で、その年たまたま、2003年だっ…、あ、2002年の最終選(?)だったのね。彼が帰った年が。
立岩 ああ10年(?)のね。うん。
奥平 だから7月に帰国して、10月にまた…、何かその頃ダスキンもお金があったから、フォローアップで呼ぼうっていうことになって。
立岩 いっぺん帰って泣いてて…、
奥平 そう(笑)。
立岩 そいつを呼び戻して…、
奥平 そう(笑)。
奥平 もう1回来させたの?
奥平 あの、彼だけじゃなくて何人かね。まだ3期だったから。
立岩 ああ。3期生の中の…、
[00:10:37]
奥平 結構、大勢呼んだかも。うん。まだお金がある時期だったからね。で、フォローアップっていうことで、過去に来た人を何人か呼んで、フォローアップって、した。その中にシャフィックがいて。で、札幌のDPI世界大会だったと思うけど、シャフィックと廉田さんと私がたまたま同じテーブルで話してて、シャフィックが何か落ち込んでるっていうことを話したら、廉田さんが、「ほな…、」、え、何だっけ、「ほな、俺たちが行って盛り上げてやるから。次の年の2月頃行ってやるから。」とかつって、ポンって、あれいくらだったのかなあ、30万ぐらいかなあ。何か「これで活動続けろや。」って言ったの。
立岩 ヤクザ?
同席者みなさん (笑)
奥平 そうそう(笑)、廉田さんヤクザだよ、ほんとに。30万だったかなあ、60万だったかなあ。
立岩 ヤクザ、大きい財布…、札がいっぱい入ってる財布を渡したりするじゃん。
権藤 そうそう、ポンッとね。
立岩 そのノリだよね。
奥平 30万だった(?)…。いや、あの人の場合、袋ね(笑)。首から下げて。んで、シャフィックが何かそれを真に受けて、10月に帰ってからやり始めたんだよね。
立岩 パキスタンで。
奥平 うん。
立岩 落ち込んで…、
奥平 で、行って、
立岩 行って、日本に戻って来て、30万持って…(笑)、
奥平 うん(笑)。
立岩 また戻って。
奥平 うんうん。ほんで廉田さんが「あいつのやる気を見てやるわ。」とかつって行って、そしたらほんとに何かセミナーとか企画して、その次の年の2月に、廉田さん、メインの人と…、あと何だっけ、何人か…、玉置さんも行ってたと思うんだよね。写真あるよ。私もたまたま…、これって現地まで面接に行くから、たまたま面接とそのセミナーの日程と合わせることができて。
立岩 ああ、面接と一緒に、
奥平 そう。
立岩 パキスタンで何してんのか見に行って、みたいな。
奥平 っていうか、廉田さんたちの日程に面接を合わせて、行ったの。で、一緒にセミナーやったりして。で、すごい盛り上がって。それが始まり。
立岩 その辺からこう、やってるなっていうか…、
奥平 そう。
立岩 効き目あるな、みたいな。
奥平 そうそう(笑)。図に乗ったね。
立岩 そんな感じに(笑)、ノリ…、ドライブがかかってっていうか、そんな感じなのかな。
奥平 そうそうそう。で、そう、次の年にまた行ったんだよな確か。廉田さんたち。パキスタン。
立岩 パキスタンに?
[00:13:30]
奥平 そう。で、次の年はたぶん、夢宙センターの人とか、佐藤聡とか、結構行ったと思う。んで、そうそう、みんなでお腹こわしてオムツ争奪戦したりして(笑)、大変だったね。で、1年目は本当にパキスタンっていう国、だから、男しかいなかった。今はちょっとあの国も変わってきてるけど、男ばっかりで、写真見たら分かるけど女は私だけ。みたいな感じ。でも、2年目に行ったら女性の障害者もちょっとずつ出てきてて。そんでまた廉田さんも「おっ、いけるで。」とか思ったんじゃない(笑)?
立岩 面接って何、例えばパキスタンに行ってパキスタンの人から選ぶ、みたいなそういうことなの?
奥平 まずは、募集要項のこれが送られて来るでしょ。この中から実行委員がこれを読んで、何人かに絞り込むの。委員会でね、あの…、
立岩 ああそっか。アプリケーションの書類をまず…、書類選考みたいの日本でやって…、
奥平 そうそうそうそう。
立岩 で、絞り込む時に、現物に面接に行くみたいな話なの?
奥平 で、絞り込んで…、そんなに全員…、だってこれ、すごい数来るんだよ。250通とか。
権藤 嘘でしょ。
奥平 それ、全員面接はできないでしょ。だからまずは書類選考して。今だと15、6人かな。前、私がやってた時は、ほんと、20…、2、30人(20?30人)弱まで絞って、各国に面接に行ってた。
立岩 面接から実際に選考される人の倍率みたいのってあるの?
奥平 今はたぶん5人選ばれるから、面接で、例えば10人だったら2倍だし、15人だったら3倍。
立岩 ああ、やっぱりそのぐらいしぼ…、
奥平 うんうんうん。
立岩 面接でさらに絞られるわけ?
奥平 そうだよ。そりゃそうだよ。面接したって、通らない奴はだめだよ。私なんて(笑)。だから、シャフィックなんて…、パキスタンでその時3人候補者がいたのね。で、シャフィックは一番…、何だっけ、下のランクだった。書類ではね。まずは女性障害者を選ぶつもりだったんだけど、面接に行くっつったら何か周りから意地悪されたみたいで、「もう電話かけてこないで。」とか言われて、だめになって。で、もう一人優等生的な男子、アティフっていう…、彼も、日本、その後JICAで来て。今もパキスタンで活躍してるけど。アティフとシャフィック、選ん…、あ、面接して、それで私はシャフィックがいいと思った。私…、チャノさんも選んだ。うん。
[00:16:40]
立岩 それって各国に、毎年、そうすると面接って、何か国ぐらい行った?
奥平 私がやってた頃は、うーん、7、8ヶ国。多い時10ヶ国ぐらい行ってたけど。
立岩 ふうん。そこで例えばさっきの話だったら3人とか。
奥平 うん。
立岩 で、そのうち1人ぐらいな感じで、選ぶみたいなことを毎年。
奥平 そうそうそう。
立岩 結構なもんですよね。金もかかるだろうし、手間もかかる。
奥平 お金もかかるし、でもそれくらいしないと、10ヶ月預かってくるわけだから。あと、親とかも、ちゃんと親にも挨拶して…、あの…、
立岩 ああ。分かんないもんね。向こうの人から見たらね。
奥平 そう、何か、「キッド(kid)なくしてるわけじゃないよ。」とか、そういうのちゃんと言ったりとか。あと、一番の大切なところは、どういう奴か、っていうのを見ないといけないじゃない?
立岩 うん。そうだよね。
奥平 で、だから私が見たのは、候補者が他の障害者とどういう接し方をしてるかとか、ちゃんと障害者団体に所属してるかとか。所属してないにしても他の障害者を嬉しそうに紹介してくる奴と、全然、健常者しか紹介してこない奴といたら、絶対に、障害者を紹介してくる人を選ぶとかね。そんな感じだったよ。別にだからこれは学歴とか、何、バックグラウンドは全然関係なく。家柄とかも、政府の推薦とかだったらまず最初に落とす、ぐらいな感じだよ(笑)。
立岩 あの、日本はさ、さっき言いかけて(?)言ったけど、言葉の問題があるじゃない? 日本語って難しいんでしょ。まあ、普通に考えたって難しい言葉だよね。でもって、言うところってどうしてんのかっていうところと、10ヶ月って…、前、聞いたのは、東京で半分、向こうに行って(?)半分、とかね、その、ヒューマンケアとメインストリーム、みたいなことは聞いてたんだけども…、
奥平 半分はないけど…、
立岩 そういう、こう、日本での過ごしてもらい方っていうか。
[00:19:02]
奥平 それは、まずは10ヶ月あったら、3ヶ月は日本語を勉強するの。で、その後1ヶ月は日本の基礎的…、ちょうど年末年始にあたるから、ホームステイとか、あと、日本の基礎情報を入れたりとか。スキー研修したりとかして1ヶ月過ごして、その後は個人個人の希望に沿った研修先に行くの。でも、大概分かってないじゃん。私もそうだったけどさ。
立岩 ああ、ああ。どこ行きゃいいって。結構、(?)ね、そりゃ。
奥平 うん、だから、そう、3ヶ月とかの間に、色々何回か研修生と話をして、「じゃあ、ここどう?」「あそこどう?」って提示して決めていく。
立岩 僕は言葉が全然できない人なんで。何にしてもね。日本語も怪しい…、まあいいや、そんなことはどうでもいいんだけど。
奥平 メール、分かんないとかって思って(笑)。
同席者みなさん (笑)
立岩 3ヶ月、さあ、
奥平 うん。
立岩 でもまあ、僕、数人にお会いしたことはあるので、まあ、ようやるなっていうか、立派なもんだなとは思いますけれども、大変だよね、でも、実際問題。
奥平 私たちが? それとも研修生が?
立岩 どっちも。両方。
奥平 あああー。まあ、でもさ、そもそも研修先に通訳を全部付けると、えらいお金がかかるし…、
立岩 そうでしょう。
奥平 うん。だからそんなことできないじゃない。あと…、
立岩 実際できない。
奥平 うん、できない。
立岩 できないよね。
奥平 …し、私だってそんな英語が達者なわけじゃなかったけど、生き延びたわけじゃん(笑)。だから、できるよねとか思って(笑)。
立岩 でまあ、3ヶ月やれるとこまでやって。で、受け入れ先も通訳はいないわけだから、片言みたいなことも、英語も片言的な部分も含むとか。
奥平 うんうん、そう。だから、あの、もう何て言うの、机上の勉強する人もいるけど、大概は障害者団体とかグループに行って、体で学ぶみたいな(笑)。うん。
立岩 まあまあ、そんなに難しいやりとりがどうっていうわけじゃなくて、現場感っていうのかな。
奥平 たまにいるけどね、大学行く人とかね。
立岩 僕なんか講習やった時に、その手の質問を受けたことはある。
奥平 ふうん。難しい。
立岩 その時は、僕が日本語しゃべって、英語は通訳の人がっていうそういう形だった。
奥平 短期間だったら何とか。あと、その人が本当にそれをやりたいって言ったらちょっと考えるけど、大概はそこまで真剣にお勉強しようって考えてる人もいない…、そんなに多くないから。ただほんとにやりたい人は考えるけど。ただ、ずっと通訳付けるのはできない。うん。
[00:22:09]
立岩 この間はコスタリカの人たちが、井上さんって人※と一緒に連れられてというか井上さんが付いて、コスタリカの人が来て。結構いたな、10何人とか。コスタリカのCILの人たち。で、日本のJCIL、日本自立生活センターで研修したり、メインストリームで研修したりしてたね。それは団体で来て。で、井上さんスペイン語…、元々コスタリカであの人たちと一緒に仕事してるから、まあ、彼なりに。それからプロの通訳も入れて色々やってたけど、これはまあ一人一人が別々のところに行くわけだもんね。それを一人一人付けるっていうのは無理だよね。
奥平 で、その、井上さんのやってるのは、JICAがお金を出してるわけでしょ。
立岩 そうですね。
奥平 JICAって、そういうのにきちっとお金付けるから。今は大変だけどね、JICAね。でも、これは大ざっぱなところで、あの何て言うの、予算もちろん立ててるけど、たぶん人によって多少予算の差もあるから、そんなずっと付いてはいけないですよ。集団研修の時は付けてるよ、必要に応じて。あ、佐藤さん。
佐藤 終わったら、それじゃ(?)。
奥平 うん。
立岩 一人一人、得ていくものっていうのは、それはもちろん違うだろうけど、奥平さんなんか長いこと見てて、違いはあるだろうけど、来る人たちっていうのは何を得て戻っていくんだろうなあ。
奥平 何を得てって、全体的に?
立岩 うん。こんな人もいるし、あんな人もいる、ぐらいでいいけどね。まあ、一様じゃないとは思うんだよな。
奥平 うーん。さっき言ったように、障害者運動に目覚めていく人もいれば、日本に来た…というか海外に研修に来たっていう証明を大切にしていく人もいれば、あとは、日本人と結婚する人もいれば(笑)。そんな感じ。あと、私もそうだったけど、海外で研修を受ける…、受けたっていうことは、そのあとも結構何か国際派になるケースが多くって、何か色んな国飛び回ったりしてる人が結構いる。
立岩 それがきっかけでね。
奥平 うん。
立岩 まあ、少ないでしょうしね…、人口というか、その国の中で、そうした経験をした人っていうのは。そうすると目立つのがさらに増殖されてって、その国の中心人物になっていくのかな。
奥平 そう。私もそうだったけど、やっぱり他の言語を喋るっていうことで、掴めるチャンスもあると思う。大概、みんな英語も喋るし。みんなじゃないけどね。
[00:25:23]
立岩 うん。うんうん。さっきなんか、何とかの…、志の何? 会?
奥平 あ、志ネットワークは…、
立岩 志ネットワークというのか。
奥平 佐藤聡に聞いた方が。中心的にやってた人だし。まあ今はDPIだけど。それよりも私が言いたいのは、関東型と関西型っていうのが言いたいんですけど(笑)。
立岩 はいはいはい。その話は時々聞くね。
奥平 あ、じゃあいいか。
立岩 どうぞどうぞ。
奥平 だって…、
立岩 はい。
奥平 関西って言ったらメインストリーム協会が中心にやってて、他に、大阪の夢宙センターとか、ぱあとなぁっていうところがお金を出し合って支援してるのね。それが関西型で、そこでやってるのが志ネットワークっつって、今はモンゴルと…。財政支援してるのはね、財政支援…、
立岩 うん。あ、この間モンゴルに行ったっていう人に会った。メインストリーム。
奥平 うん。ほんと。
立岩 今、豊中にいるっていう…、
奥平 ああ、へえ。だからモンゴルとカンボジアとパキスタンとネパールと台湾を財政支援してて。韓国は今はもう、財政支援なんて韓国がやってるぐらいだから、財政支援は外れて、ただ仲間としてやってる。で、それは関西型支援で、もう、トコトンやるっていう。人を選んで支援するっていう。さっき言ってたその、そう、人を見て、やる。あの、ヤクザっぽく(笑)。
立岩 見込んだ奴を…、
奥平 あ、そうそうそう。トコトン…、
立岩 子分にして、みたいな(笑)。
奥平 そうそう。子分ではないと思う(笑)。
立岩 金を与えて、みたいな(笑)。
奥平 いやいや、金を与え(笑)…、それは、たまたま最初の方で。
立岩 まあまあ。(?)、はい。冗談です。
奥平 今でも、だからそういう人を選んでやるっていうやつ。
立岩 うん。こいつやれそうだな、みたいな。
奥平 友だち、家族として関わるっていうやり方で。一方で、中西さんがやってるのは組織を作るっていうところでやってて。だからヴェトナムとか。で、中西さんは必ずJICAか日本財団とかそういう財団からお金を取ってきて、まずはサービスを作るっていうところを目指して、やる…、
立岩 JICA…、財団のお金でそういう事業をする。で、関西の人たちは、まあ言ってみれば、自分とこのお金を使う。
奥平 あ、そうそうそうそう。あの、ヘルパー派遣もね。まあもちろん、コスタリカはちょっと違うパターンで。それはまた、JICAの人でいい人がいて、やってたから。
立岩 うん、そうそう、そうだと聞きました。そうかそうか。
奥平 で、だから…、
立岩 何? そうすると、中西たちっていうか関東の方は、財団のお金なりを使って向こうに組織を作らせて…、
奥平 作って、サービスを作ること、
立岩 サービスをさせるということなの? サービスを…、
奥平 うんうん。ああ、あ、何て言うの…、
立岩 供給システムみたいなのを作ると。
[00:28:39]
奥平 そうそうそう。だから、制度っていうかそういうロールモデル…、何か執行事業的にやるって…、うん。
立岩 介護派遣もやる?
奥平 それが一番大きいかも。ヘルパー派遣。
立岩 ヘルパー派遣と、プログラムみたいな。
奥平 うん。でも最終的にはヘルパー派遣だと思う。重度障害者。
立岩 で、それはさっきその、格差あって、例えばさ、今、今年も韓国から留学生来て、ALSのことで修論書いて、続きこっちでやろうって言ってやるんだけど、やっぱりその時間数から何から違うじゃん。
奥平 うん、うんうん。
立岩 でさあ、それで、だからどうこうっていうわけでも…、それを嘆いてもしょうがないことではあるのだが、まあ、ないものはないじゃないですか。そこん中で、各国で事業を始めさせるというか、ってどういうことなんだろうね、っていうか、どういうふうにそこの…、そんな財団のお金つったってそんなにあるわけじゃないじゃん。そこんところ…、
奥平 期限が切れるとねえ。
立岩 ねえ。どういう作戦というか、どうなんだろ。取りあえず、でも、トライアルみたいなことを1個やって、その次はまあ、それぞれの国で考えてちょうだいみたいな、そんな感じなのかな。
奥平 まあ、実際はそうかも(笑)。だから、あの、なかなか続いてないと思うんだよねー。違う形でなってるかもしれない。フィリピンとヴェトナムと、あとどこ? タイと、今、南アやってるけど。南アフリカ。
立岩 ああ。と言っても(?)、それは聞きましたね。はい。
奥平 うん。何かだから、そう…、ちょっと全然違う。
立岩 制度はね。ただ、ねえ、なかなか難しくはあるよね。コスタリカだとたまたまっていうかうまいこといって、法律が通った…、
奥平 あと、ヴェトナムの場合、政治的な体制とかもあって、なかなか制度ができなくて。まあ、中西さんのやり方は微妙に…(笑)、なかなか、何とも言えないけど。
立岩 試しにやって、それがまあ…、それよりまあ、もともと難しい話ですよね、何にせよ。最終的には法律変えたりだとか、そういうことしないといけないわけですよね。
奥平 まあ、それはそうしていかなきゃいけないから、うん、いいとは思うけど、なかなか続けられない。
立岩 まあ実際にはねえ、現実的な可能性がそうすぐあるかっつったら、まあ、ない方が普通。
[00:31:28]
奥平 まあね。ただ、その支援がきっかけになって、どういう形にしろ、障害者の活動が活発になるというのはある。
立岩 ああ、そういうことね。具体的なサービスの制度ができるかできないかは別としても、その活動を担うような、主要となるような人とかグループみたいなものができている(できていく?)。
奥平 と思う。
立岩 そういうことか。関西型はどちらかと言えば人を当て込んでというか、その活動していく人を…、
奥平 そう。洗脳して(笑)、
立岩 洗脳して(笑)、よりアクティベートして(笑)、その、現地に戻す的な。
奥平 そう。あと、自分たちの財源でやってるから、期限は切ってない。
立岩 あ、そうか。お金の切れ目が、っていうんじゃなくてっていうことか。
奥平 …はない。ただ、いい加減にしなきゃいけないって言うんで、この前、メイン、先週行ってきたけど、「いい加減に今後の方向性を出せって言う。」って言ってたけど。もう、だって10年以上やってるわけだから。
立岩 ああ。ずーっと続いてる問題か、っていう時は、こうなって(?)ほしいみたいな。
奥平 うん。特に、その間に、台湾とか経済発展もしてるわけでしょ。モンゴルとかも。
立岩 そうだよね。
奥平 だからそういうのを見て、やっぱ判断していかなきゃいけないんじゃない?
立岩 そうか。まあ、韓国がかつては支援…、経済的な支援の対象であったけれども、でもそう言った意味ではもう韓国は自立してるというかできるっていう。で、場合によって、やり方変えるとか、リクエスト変えるとか。そういうことだね。
奥平 そう、そうです、そうです。ほんとに最初のきっかけは、さっき言った2002年のDPI札幌大会の時。
立岩 札幌の時ですか。
奥平 うん。何かポーンてお金出して、「これでやれや!」みたいな(笑)。
立岩 うん。国と国のギャップとか、「先進国といわゆる開発途上国の間の、やってもらってる、やってあげてる感とかね、そういうのってどうなんでしょうかねー。」みたいなことだと、「いや、そうでもないよ。」みたいな。
奥平 ない。メインはない。何か、だって、聞かれたらちゃんとアドバイスとかするけど、基本的に、「これをやれ、あれをやれ」はあんまり言わない。でもそれは、佐藤さんに聞いた方がもっと分かると思うけど。
[00:34:10]
立岩 こないだ聞いたので、やっぱり印象に残ってるのは、地域の格差とか経済的な格差とかそういうのよりも、障害があるっていうことの共通性みたいなほうが大きい、って。
奥平 うーん。
立岩 何かね。だから一緒にやれるんだと、全然問題ないんだって言われたのは、まあそうかあと。だから、ああいいじゃんみたいな(笑)。結構。…っていうのはちょっと思ったね。うん。そういうものかもしれないな。ほら、国際支援とかって言うとさ、何かこう、こっち…、やってる側は若干後ろめたく、後ろめたいっていうか…、
奥平 えー、そう?
立岩 何て言うの、で、やられてる側は、何か、うざったいみたいな。
奥平 あはは(笑)。えー。
立岩 そういうのって、もちろんジャンルによるけれどもさ、あるっちゃあるじゃないですか。
奥平 うん。
立岩 だからそういうのって、この場合どうなのかなっていうことだったんだけれども、「それはないよ。」みたいな。
奥平 私、それはないな、個人的に。私、あのコロンビアで1年3ヶ月だっけ、やっ…、
立岩 コロンビア?
奥平 うん。コロンビアで、JICAから派遣されて、やった時も…、
立岩 それ、いつ頃だか覚えてる?
奥平 えー? そりゃ…、2015年の3月から…、
立岩 すごい最近じゃん。
奥平 そう、2016年の6月までコロンビアにいたのね。で、その時も別にそういう意識、一切ない、…かった。
立岩 何して…、その…、あの、何したんですか?、コロンビアで。
奥平 えー? リーダー育成。
立岩 それは、その、え、1年ぐらい行ったっつった?
奥平 うん、1年ちょっと。うん。
立岩 で、リーダーの育成って、具体的にさ、向こうに行ってだよ、
奥平 うん。
立岩 行って、何するの? 毎日(?)、何するの? 何するのって(笑)。
奥平 JICAって、事務仕事が多いんですよ。
立岩 ああ、それは…、それは聞きました。
奥平 それで、研修とかセミナーとか、あと、政府との交渉とかやってたけど。私の場合は常に仲間意識を持ってやろうとしてたから、すごい、やってあげてるという…、
立岩 例えばその、リーダーになろうって人を、研修(?)するわけでしょ。
奥平 うん。
立岩 それを集めたり、或いはその、そういうプログラムやりたいって人はどういうふうに集まってきたりするの?
奥平 既に団体とかコロンビアの場合はあったから、そこから良さげな人を…、
立岩 そういうところとやり取りして、そういう中から、こう、育ちっていうか…、
奥平 そう。で、私一人じゃなかったから、他の人の意見とか、現地の人の意見聞いて。
立岩 既に、ある種、そういう関係みたいなものがある程度あるから…、
奥平 うんうん。
立岩 それを使いながら。でもその時に、そのやっぱり、コロンビアに今いる人が教えられることだったら、コロンビアの人が教えればいいわけじゃん?
奥平 え?
[00:37:07]
立岩 コロンビアに今いる人が、今、教えられることだったら、その人たちがやればいいじゃないですか。
奥平 うんうん。
立岩 でその、プラスアルファして、奥平さんが、こう、提供するものっていうのは、例えば何なの?
奥平 ああ。例えば何なの? え? 彼らの知らないこと?
立岩 うん。うん。
奥平 どんなことかって?
立岩 うん、そうそうそうそう。
奥平 えー、新しい手法とかワークショップの手法とか。あとは、ロールモデル的な役割が多かったかも、私は。私、ラッキーなことにCPで女性でしょ。だからそういう人がなかなか出てこないじゃん。世界中どこにいても。
立岩 まあ少ないよね。
奥平 そう。だから、CPで女なのにこんなことやってるよ、すげえな、みたいな(笑)。
立岩 うん。そんな感じか。
奥平 うん。まあ、私の場合はね。
立岩 具体的な、人集まったり、何か物言ったりする手法みたいなことを、教える。
奥平 うん。教えるっていうか、別に教えてる感はなくて、
立岩 自分でやってる…、
奥平 一緒に、参加型だから、やって…、
立岩 うん、こんなふうにこう場を作るんだ、みたいな、
奥平 そうそう。そう。
立岩 そういう感じですよね。
奥平 そうそう。で、手法とか使って彼らが、また他に行ってセミナーやったりは、してたよ。
立岩 どこでも確かに脳性マヒの人は多くはないよね。
奥平 うん。
立岩 この間もコスタリカの人10人ぐらいいたかもしんないけど、明らかに脳性マヒという人は一人だけ(?)。
奥平 あ、でも一人いるならマシじゃん。
立岩 その人(?)は、まあまあ、まあまあ、(?)だった。男性でしたね。ただ、割とリーダー的にたくさん喋って帰ってったのは女性でした。
奥平 ふうん。
立岩 コロンビア、ワールドカップ出てるね。
奥平 負けたじゃん日本に。日本、勝ったでしょう。驚きだったよ。
立岩 コロンビアの方がずっと強いって言われてて。
奥平 そうそうそうそう。
立岩 PKで最初1点入れて、
奥平 そうそうそう。で、大迫が…、
立岩 1−0、1−1、2−1になって、勝っちゃったんだ。
奥平 そう、そう。2−1だっけ。
立岩 2−1だよね。
奥平 はい。
立岩 コスタリカも勝てなくて、1次リーグで。
奥平 ドイツがさあ負けて、すごいみんなあれしてんだよね。
立岩 そうみたい。僕、今テレビないんですよ。なんで、世の中で何が起こっているのか分かんないので、サッカーのことよく分かってないんですけど。
奥平 (笑)私も知らない。
立岩 でもやっぱり何か、ねえ、コロンビアだとかコスタリカとかって言われると何となくね、親近感じゃないけど、どうなったかなー、みたいなってのはある。コロンビア、どこだったんだっけ?
奥平 私? 私が住んでたのはメデジンっていうとこ。
[00:40:03]
立岩 あの、コスタリカは政権交代なんかも色々あって。
奥平 ああ、でもおんなじ、おんなじ。コロンビアも政権交代ですごい変わる。
立岩 まあ、政権的には中米は悪くないって言うか…、
奥平 ええーっ。
立岩 まあ、交代が色々あるから、その時その時でかなり違うけれども、って言ってたよ。
奥平 ああ、まあそれは、コスタリカはよく分かんないけど。
立岩 コロンビアってやばい…、
奥平 やばいよ。
立岩 …国だよね(笑)。
奥平 でも私、コスタリカも似たようなもんじゃないかと思うんだけど。汚職とか当たり前だと思う。
立岩 うんうんうん。
奥平 日本もあると思うけど、それ以上だと思う。
立岩 日常的というか、それが社会に組み込まれてるっていう感じね。
奥平 そうそう。と、麻薬。
立岩 そうだね、コロンビアって言えばね。
奥平 でも、あれ全体的だと思うけど。
立岩 うん。何? 全体って中米とか?
奥平 うーん、中米は分からないけど、南米は結構な…、
立岩 南米、南米、中米…、ああ、南米ね。
奥平 ボリビアだってだって、大統領… ていうか…、ああ、大統領か、率先してやってるでしょ、今は分かんないけど。佐藤さん※待ってるし、代わります。
立岩 はい、ありがとうございます。佐藤さん、(?)。
奥平 佐藤さん、いる?
佐藤 いるよー。
奥平 いるって。
佐藤 このあと、予定ないから。
奥平 このあと、予定ない(笑)。
奥平 志ネットは、佐藤さんがよく知ってる。私よりもいいと思う。だから、当事者…、ん?
立岩 あの、明日で辞めるんでしょ。
奥平 ああ、そうそう。
権藤 明日ですか(笑)。
立岩 (笑)金曜日に、ここの1週間、週に。
奥平 だって、だって月末じゃん。
権藤 あ、そうか。
立岩 月末で、週末で。まあ、この…。で、何年いたの? 結局。
奥平 17年だって。よくいたなー。
立岩 この前、まあ色々ね、あまり大きな声で…、まあそういう、愚痴の類は京都で伺いましたが。
奥平 そうそうそう。
■
立岩 大変だなと思いましたけど、でまあ、お辞めになるということで。どうするんですか。
奥平 え? だから笹川平和財団行くってば。
立岩 それはもう決まってるの?
奥平 うん決まってるよ。
立岩 で、もう何? 今、6月で、7月からですか。
奥平 7月2日から。
立岩 偉くなって。偉く…、
同席者みなさん (笑)
奥平 偉くはならないと思うんですけど(笑)。
立岩 笹川さんところ、で何する…、やっぱり国際何とかみたいなやつですか。
[00:42:41]
奥平 そこの財団自体が国際協力やってて、その中で私は、取りあえず最初は、役職が、超、訳わかんない、何か特命調査役っていうやつで、参与みたいな。で、だから言われてるのは、まずは何だっけ、障害者をもうちょっと雇用したいから、それのこと。
立岩 え、それ笹川の中でってこと?
奥平 うん、そうそうそう。
立岩 ああ、財団のスタッフで。
奥平 そう、そうそう。…として、障害者をもっと雇いたいって言われてるのと、あとは何だっけ、職員研修。
立岩 障害者…。
奥平 色々研修してるからその中に私も入って、あの、障害の視点とか入れていくんじゃない? あとは事業全体どう回ってるかって、総務部長付だから全体のところまで見ると。
立岩 ああ、組織をまあ回すっていうか…、
奥平 の、そのことを見る。
立岩 の中で、スタッフに障害に関することを…、
奥平 100人以上いる。
立岩 100人ぐらいいる組織なんですか?
奥平 全体…、あの、非常勤とか入れたら130人。多くない?
立岩 そのぐらいの組織なんだ。
奥平 多くない? 多いよね。
立岩 (?)、まあ、中規模。
奥平 うん。あとは、理事長とか会長とかの指示で海外に行ったりする。まあ、それはそんなにないと思うけど。
立岩 笹川って元々はあれでしょ、元々はっていうか、大きな活動としては、アジアのハンセン病の…、
奥平 あ、それ、うん、やってた。
立岩 支援って、ずっとかなり長いことやってるとこですよね。
奥平 うんうんうん。国連で表彰されたの。
立岩 笹川さんってああいう…、ああいうっていうか…、
奥平 右。
立岩 どうなんですか、そういうこう、(?)っていうか創始者の…、僕はあまり今、そういう感じしないんですけど。
奥平 そう、私も…、
立岩 うん、思想的な。
奥平 私、何か、佐藤何とかさんが、佐藤聡じゃないけど、何か研究した人がいて、その人が書いた本を2冊読んだんだけど、本当の右翼ではないと思うなあ。
立岩 うーん。だからたぶん笹川さんの思想みたいなものと財団ってのはまたちょっとね、特にまあ時間が経った中で変わってもきているんだろうし。ただ、そうとばかりも言えない部分もあって…、
奥平 まあね。
立岩 ペルーの何とか大統領とかさ。あれ、だからその、えーと?
奥平 あ、ペルーの…、あのー、何とか、フジ、
立岩 フジモリ。
奥平 うん、も、つながってるの?
立岩 うん、確か。ほら、東京財団って笹川…。
奥平 そうそうそうそう。仲間。
立岩 …の傘下というか、でしょ。あれね、僕、何でだか知らないけど東京財団の機関紙みたいな物が何年か送られてきたことがあったんですよ。そん時はちょっとやばかった(笑)。右(?)すごいした。
奥平 へえー。東京財団ってそうなの?
立岩 うん、でもね、その後変わった。そういう財団の、右、左に揺れる感じって、僕、外からは理由も分かんない、事情も分かんないけれども…、
奥平 分かんないね。
立岩 今はでも、両方とも東京財団にしても、まあ普通にいいことやってんのかなとは思いますけどね。
奥平 ふうん。
[00:46:10]
立岩 うん。なかなか、(?)はありますけれども。ただ、この間もちょっと言いかけたけれども、今、僕らが研究者っていうか、研究機関として少し何かやろうとはしてるんですよ。で、今年の10月は台湾なんですけど、元々は韓国と日本だけだったんです。DPI韓国と我々がちょっとやってて、最初の5年ぐらいはほんとに2ヶ国でやってて。今、韓国のDPI、あんまり景気が…、景気じゃなくて(笑)、何かまあ色々あって何か停滞気味なんですよ。
奥平 でも、DPI自体がやばいよね、佐藤さん。
立岩 そうなのかなあ。
奥平 だって世界DPIってやばいよね。
佐藤 ボチボチです。
奥平 ボチボチ(笑)。だってさ、二つに分かれて、一つの、ジャビット死んだからこれからどうなるんだろうって。
立岩 ああ、そのこと、この間聞いたね。それは知りたいですけど。
奥平 韓国も大変なの?
立岩 韓国は、学者っていうか研究者と運動体の間の何かちょっと歴…、何かよく分かんない…、
奥平 へえー。
立岩 でも、とにかく取りあえず韓国、で、その後、中国の人たち、それはどっちかというと研究者なんだけど…、
奥平 長瀬修※。
立岩 研究者なんだけど…、うんまあ、長瀬さんが繋いだんだけどね。武漢大学の。それはまあ、アクティブな部分を志す研究者と。で、あと、台湾が今年あたり学会ができるのかな。
奥平 ふうん。障害学の。
立岩 障害学の学会。それで4ヶ国には取りあえず、なってきているところで、まあぼつぼつとは思ってるんだけど。
奥平 何を目指すんですか、それは。
立岩 取りあえず…、最初に韓国とやってた時は、両方の制度の相互にそれこそ知り合うとか、そういう…、そっちの方が僕、かえって良かったかなと思うところがあるんだけども、割と実践的っていうか現場的な情報交換的なもので両方やってて。今は少し何かアカデミックに、大学の先生とかも、例えば台北大学とか入ってきてる…、なりつつあって。それでどこまで有益なのかなと研究者である私なんかも思うんだが、まあでもこれからやってく中で。ただ、学者が何したって、そう大したことにはならないと思うんですよ。だからむしろ、この間長いこと…、むしろこの、研究者たちよりも長いことやってきた人たちと、何かね、そこんところがうまい具合に関係が作れたりとか、するといいのかなと。
奥平 学者と、例えば当事者たちと?
立岩 そうだね。
奥平 ああ。ふうん。
立岩 で、その東アジアなら東アジア、いっぺんに世界中っていうのは無理だけどさ。そういうことは漠然とは思ってて。
[00:49:03]
奥平 あの、笹川平和財団の中に、何だっけ、汎アジア基金っていうのがもちろんあるし、あと、日米交流基金っていうのもあるし、中東イスラム基金っていうのもあるから、それは…。あと、研究大好きみたい。
立岩 あ、そうですか。
奥平 うん。
立岩 まあ何か、うん、研究のための研究っていうのも何かつまんないなとは思うんだけども。
奥平 でも、あるよ(笑)。
立岩 まあ、この間も、でも、長瀬さんが実質…、僕の名前を使ったかもしれないけど実質長瀬さんが書いたやつ、どっかで出して、ぼちぼちはやってるんですけどね。ただ、とにかく絶対数がいるわけじゃないじゃない?
奥平 うんうんうん。
立岩 研究者つってもさ。だからそういう意味で、そんなに元々数が多いわけじゃないから、どっかで協力してもらったりできたり、とは思ってますけどね。
奥平 ああ、ぜひぜひ。あと、私あのアジ研とも結構何か関係があって、この前も講義に行ったの。
立岩 ああ、そうかそうか。森さんとことかですか?
奥平 森さんもそうだけど、小林昌之さんとか、山形辰史さんだっけかなあ、と、前1回、南アジアの研究した時に入れてもらってそれ以来つながってて。「ビジネスと人権」とかちょっと小林さんと一緒にやってた。「何かやろうねえ。」とかって言って。
立岩 アジ研ね。そうですね。アジ研は今、去年か一昨年かな、森さん※にいっぺん呼んでもらって、そん時単発で、ちょっと話して。あと牧野さん※っていうのがアフリカのこと、アフリカ日本協議会※っていうのに関わってる人で。
奥平 ああ。ねえ、それさあ…、
立岩 うん。牧野久美子さん。
奥平 アフリカ日本協議会って、事務所、笹川平和財団の中にあるんじゃない。
立岩 上野だよ。上野。
奥平 ああ、じゃあ違うか。あれー、じゃあ違うわ。
立岩 上野のねえ、色んなNPO、NGOが雑居しているようなビルに、少なくとも僕が知っている時はあった。今もそうじゃないかな(?)
奥平 何か、あ、じゃあ違う。じゃ、稲葉さんがやってるところかな。
立岩 稲葉まさや※は…、稲葉さんはAJFだよ、アフリカ日本協議会だよ。
奥平 あ、そうだそうだ。あ、じゃあ…、え? もう1回言って。
立岩 雅紀だ、雅紀。
奥平 雅紀、雅紀。
立岩 アフリカ日本協議会。アフリカ・ジャパン・フォーラム(Africa Japan Forum)。
奥平 …フォーラム。…と、さっき言ったのは?
立岩 で、僕が言ったのはそれ。牧野久美子さん…、
奥平 じゃあ違う、じゃあ違う。何か、笹川平和財団の4階つったかな、に、何かアフリカ…、
立岩 アフリカ系のやつ。
奥平 うん。日本…アフリカ…協会…か何かが…。じゃ、違う。
立岩 まあ、何個かアフリカに関係するNGOはあると思うんだけど。
奥平 そっか。
[00:52:00]
立岩 僕自身…、まあ長瀬さんが今取りあえずやってくれてるんで、僕がそれに連れてってもらったりするぐらいですけど。
奥平 連れてってもらったりする…(笑)。
立岩 そうそう。去年は武漢に行って、韓国、次行って。武漢は完全にオンナガッソン(?)に付いてったって感じ。韓国は、今、ここで勉強して博士号取った人なんかが韓国戻った、(?)やったりしてる。あのもう、7月も7月、5、6、7とか日本に来て。それは大学院だけどね。民間のアクティビストたちじゃないんですけど。まあぼつぼつできることだとは思っているので。
奥平 はい。私にできることがあれば。
立岩 権藤さんも、あと数分ぐらいな感じで、聞き逃したこととか。あと、もうちょいこういうことの具体的なことは、笹川まで追いかけて追加して聞けばいいと思うので。
権藤 はい。はい。
奥平 はい。
権藤 また東京に来ようと思うので…、
奥平 へえー。
権藤 笹川のほうに(笑)、いらっしゃるところに追っかけてってもいいでしょうか。
立岩 笹川のオフィスってどこにあるんですか。
奥平 虎ノ門。あの、来て下さい。
権藤 はい。行きます。
立岩 あ、行った。虎ノ門だよね。東京財団の…、さっき僕が悪口言ってた東京財団のお呼びで、2、3年前かな、まあレクチャーっていうか話しに行ったことあります。その前ぐらいからちょっと風向き変わって、普通の財団になった。
奥平 あ、そうですか。
立岩 その前の何年間はね、ちょっとやばい感じがした。
奥平 へえー。でもさあ、何か、日本の政治の裏ってどうなってんのかねえ。
立岩 あ、そうか。それについてですか。ねえ。
奥平 うん。ねえ。分かんないねえ。
立岩 私最近新聞も取ってないし、テレビもないから健康な生活ですよ。
同席者みなさん (笑)
立岩 変なこと耳にしないですむ。
奥平 だってさあ、CNN見てるとすごいよ、トランプ批判。一見批判してないように言ってるけど、すっごいなあ、アメリカって、とか。
立岩 CNNはちゃんとやってる。へえ。いいんじゃないんですかね。
奥平 あ、権藤さん、じゃ、いいですか? 何か。
権藤 はい。今日お話を聞いてて、関東型と関西型って何かもう、明らかに違うんだなあって。
奥平 うん、違う。違う。佐藤さんも分かると思うけど。
権藤 はい。何か分かりやすかったです。
立岩 たぶん、スタイルとか志とか気合とか、そういうのは一方で描きつつ、あと、たぶんこれ、基礎的なデータが集積されてないんだと思うんだよね。
奥平 そう、あ、そうだよね。両方とも。うんうん。
立岩 何年にどういうとこからどういう人を呼んで、みたいなこととかね。それからさっきの、ダスキンの派遣の方もね、いつ誰が行ったのか。そういうほんとに基礎的なデータみたいなものを、財団行ってね、財団行って各年の年次報告書みたいなのをいただくか借りるか送っていただくか何かして、ほんとにこうベタなところのその、結局10年の間にどこの国から何人とかね、そのぐらいだったら財団の方で、(?)。
[00:55:23]
奥平 アジア太平洋の方は、あの、こっちのなすとか、さっき来た光岡が全部持ってるからそれは分かると思う。
立岩 だからそこの、そのベースの部分でも研究というレベルでは集約されてないんだよ。
奥平 ああ。そうそうそう。
立岩 だからそれをまずやると、それはオリジナルな貴重なデータになるので。
奥平 で、日本から行ったデータは、愛の輪財団が持ってるから、それは紹介できますし。うん。
立岩 それ自体は単純な作業なんで。ただ、誰も、単純だけどやってないから、それをいっぺん、まず、まとめると。
権藤 はい。
立岩 で、あとはほんとにそういう、何を得たのかとか何を提供できたのかできなかったのかみたいなことを聞いて回って、で、合わせ技でやっとったら、何か色々見えてくるんじゃないかなあ。
奥平 何か、一定の質問票、基本的なの、作ったらどうですかね。
立岩 うん、まあそうですね。
奥平 そしたらある意味データになる…。だめ?
立岩 僕は「これは一応聞くよ。」みたいなものを、リスト持ってってお話伺いますけど。
奥平 ふーん、あっそっかそっか。
立岩 今日、だから、奥平さんの話で何年にこういうことが始まってんだなと、ある程度出たじゃないですか。それを、パンフレットみたいなのをいただいて、何年に始まって、何年に派遣がいつから始まって、受け入れがいつ始まって。じゃあそのメインストリームならメインストリームがいつみたいな、そういうこうバーッといっぺんその各年、各年のデータを集めるっていうのもあるけど、何年に何があったのか年表みたいなものをね、権藤さんの方で作ってって、で、そのただの年表一行じゃなくて、一行一行をこう増やしてって。で、そうすると聞く時に「何年にこういうことがあったはずですけど、その時はどうだったですか。」っていうふうに聞けるじゃないですか。たぶん今日のは第1弾なので、大きな流れがこんな感じで来たよ、っていうのを僕はできたと思う。それを元にして、一方では年表的なものを作り、そして間(あいだ)を埋める仕事を、色んな人に聞きながらやってくっていうふうにすると、こう、豊かになっていきますよね。
奥平 はい、わかりました。お疲れ様でございました。
権藤 今後ともよろしくお願いします。
奥平 はい、いえいえ。
立岩 今は国分寺でいいんですか?
奥平 今は立川だってば。
立岩 立川。立川か。国分寺いたことなかったでしたっけ。
奥平 ない。
立岩 ないか、国分寺の、そうか、センターの運営みたいなのやってたんだっけ。
奥平 ううん。国立。国立。
立岩 遊歩がやってた…、あそうか、遊歩さんは国立だよね。
奥平 うんうん。
立岩 分かりました。立川だよね。立川。
奥平 うん。修ちゃんに引っ張られ、ずっと立川。恵子さんたちと。
立岩 立川も長いこと行ってないね。
奥平 来てください。
立岩 すいません。
奥平 はーい。じゃあじゃあどうも。
[音声終了]