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奥平真砂子氏インタビュー――半生のこと

20180630 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ 57分+59分の1


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奥平 真砂子
ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業

※事情記憶にないのですが掲載遅れました。すみません。これからリンクなどしていきます。(2020/12/10立岩)
※2つに分けることにしました。1つは
◇奥平 真砂子 i2018 インタビュー――研修の仕事 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤眞由美 於:東京・戸山サンライズ


奥平 私なんて、ほんとに、「障害者運動なんてだめだ。」って教わってきた人だから、

立岩 その話聞いたよ。えっと、

奥平 え、前に言った? 平井…、

立岩 奥平さん、場所どこだっけ。

奥平 富山養護学校。

立岩 富山でしょ。で、そう、この間、平井さんに僕インタビューしたんだ※。したら、で、「そんなところで人はつながるんだ。」と思ったけれども、平井さんは青い芝でしょう。その平井さんたちと仲間になっちゃいけない、みたいなことを言われて育ったみたいな話聞いてさ。
※平井 誠一 i2018 インタビュー 2018/01/29 聞き手:立岩真也 於:富山市・自立生活支援センター富山

奥平 そう。

立岩 そういう人は結構いるんだよね。

奥平 そうやって育った人?

立岩 他の地域でも、青い芝、若干いて、「あいつら過激派だから近づくな」的なこと言われて。

奥平 そうそうそう(笑)。

立岩 でまあ、個人の話はまたあれだけど。富山の養護学校でしょ。で、大谷だよね、大学は。

奥平 うん、大谷。うんうん。

立岩 それは何、高校までは普通の学校行って、っていう感じだったんですか、奥平さん。

奥平 いやいやいや、私…、

立岩 あ、養護学校がそうだったんだよね、富山。ん?

奥平 いや。うん、だから、私、4歳から施設に入って、18までそこにいたの。

立岩 それが富山?

奥平 そう、富山。だから、養護学校に併設…、あっ違う違う、施設に併設された、まあ今で言う特別支援学校、小学校から中学部、高等部って行った。

立岩 ちょっと歩くと着くみたいな? グラウンドを隔ててみたいな感じ?

奥平 つくい?

立岩 その建物がさ、よくあの、施設と学校がこう…、

奥平 ああそうそう、つながってたよ、もちろん。

立岩 そのぐらいの距離感ね。

奥平 高志学園っていう施設で、その養護学校を併設してた。

立岩 平井さん、それ言ってた(行ってた?)?

奥平 何て?

立岩 そこ18まで行って、で、大谷だよね。

奥平 そう。

立岩 それは普通に受験生やって、大学受験受けて?

奥平 そうだよ。だからさあ、私すごい(笑)、何か多分、最初は、ていうか、私…、あれ、これ自分の歴史になっちゃうんですけど(笑)。本当に養護学校の先生に…、ていうか、先輩が何人か大学に挑戦してたんだけど誰も合格してなくって、私が行きたいって言ったらもう学校の先生、すっごい反対して。

立岩 反対したの?

奥平 反対された。

立岩 それは何、受かんないからみたいな話?

奥平 ていうか、養…、あの「障害者が大学に行って何をする。」みたいに言われて、

立岩 何になる、みたいな話?

奥平 そうそうそう。

立岩 ああ。行ったってしょうがないじゃねえか、って。

奥平 そうそう。おまえたちは何、手に職をつけろ、みたいな。

立岩 そっちが先だ、みたいな。

奥平 ああ、そうそうそうそう。

立岩 ああ。じゃあ何、富山のそこでは、それまで大学に行った人なんかあんまりいなかった?

奥平 ああ、いなかった、いなかった。私が…、

立岩 あんまりどころじゃなくて最初ぐらい?

奥平 私がファーストワンだった。そう。だから校長室に呼び出されて、何か、校長にそんなこと言われ。

立岩 校長に「やめとけ。」って言われたわけ?(笑)

奥平 「やめてくれ。」じゃなくて「やめろ。」って言われた(笑)。

立岩 「やめろ」って言われた。

奥平 でも私…、

立岩 それは随分だね、でもね。

奥平 まあそういう時代だったんだよね。だから、とにかく障害者は手に技術をつけて何とか生計を立てるっていうのが順当な道だったんじゃない?

立岩 平井さんはさあ、印刷屋さんに勤めてたって言ってたけど。

奥平 そうそうそうそう、だから男の人は印刷か木工。で、女の人は洋裁か和裁。まあ印刷に行った人もいたかもしれないけどそんな感じ。

立岩 そういうのが、(?)、鈴木絹江さん※なんかもさ、郡山で、装い屋(?)やるとかやれとかって言ってたよね。

奥平 おんなじ、おんなじ。

立岩 その当時って障害者で手足が若干動く人の職業ってのはそういうもんだみたいな、そういう時代だったのかなあ。

奥平 そうそうそう。座ってできるし、そう。でさあ、私、手悪いしそんなの商売になんないだろ、とか思ったわけ(笑)。ね、たまたま親が教育者だったっていうのもあるのかもしれないけど。

立岩 学校の先生だったの?

奥平 うん。「大学に行きたい。」つったら、「教育にはお金出してやる。」って言ったのね。そんで行くことにしたんだけどさ(笑)、そうやって校長に反対されて。で、養護学校の勉強ってレベル低いでしょ。本当に低かったと思う。で、どうしようって思ったら、あの受験科目をなるべく少なくして、何か…、それでまずは富山県の短大とか大学とか調べたけどどこも受け入れてくれなくて、入試も受けさせてくれなかった。だから今だと差別よね。

権藤 うん。

奥平 でもその頃は、「そんな、障害者ってやっぱりだめなんだ。」と思って。

立岩 それってでも、分かるような分からないような話で、受験って願書出しゃいいわけじゃん。

奥平 いや、でも何か取りあえず養護学校の生徒だったし、受けさせて下さいって。そう、今だったらそうかもしれないけど、その時は…、

立岩 うん、うんうん。言いに行くのかな。

奥平 うん、多分ね。

立岩 それは養護学校が?

奥平 いやいや。

立岩 じゃなくて。

奥平 多分、私、自分で調べたと思うのよ。

立岩 ああ。

奥平 受けさせて下さい…、

立岩 受けさせて下さい的な事を。

奥平 っていうか「受けられますか?」みたいな。

立岩&権藤 ああ。

立岩 で、

奥平 だめって言われ(笑)。

立岩 県内はだめだって言われた。

[00:22:51]
奥平 そうそう、それで、受け入れてくれそうで、かつ、まずは自分の受けられそうな科目を受験科目にしてる大学を探して、そこでいくつか調べて、京都と奈良と大阪。何か関西に行っちゃったね。それで…、

立岩 富山からだと、近いは近いね。

奥平 で、調べて3つ受けたよ。

立岩 ああ、受けた。えっと、京都と奈良と…、

奥平 奈良、帝塚山女子短大。まずは短大受けたかも。

立岩 ああ。はいはい。

奥平 で、大谷短大。と、もう一つ、これねえ、大阪の何か、何だっけ、名前さえ忘れちゃった。ここは結局受けなかったと思う。あの、親が「ここはやめなさい。」って言った。

立岩 ああ。そんなような流れで。

奥平 うん。で、帝塚山女子と大谷短大、受かったけど、最初…、そうそう、帝塚山女子短大に受かって、親が入学金とか見て、「あんたどうする? ここだけだったら、うちお金出せない。」って言われて(笑)。高くて。それで、「えー、どうしよう。」と思ったら、大谷が受かってそこに行ったの(笑)。

立岩 大谷のほうが安かったってこと?

奥平 安かった。

立岩 あそこは浄土真宗の大谷派ってとこですよね。

奥平 そうそうそうそう。

立岩 そういうこともあるのかな。

奥平 よく分からないけど(笑)。

立岩 京都の私学じゃ教員の給料が安いって話、聞いた(笑)。

奥平 分かんないけど(笑)。

立岩 その分、学生のあれも安かったのかな。場所はあそこでいいの? 北大路の駅の真ん前で。

奥平 ああ、そうそうそうそう。でさあ、私、ほんとに今考えるとよく合格したなって思って。それで、受験科目の先生が特別に勉強見てくれたの。国語と古文と社会と英語。

立岩 私学の文系だから社会と国語と英語で、三つで受けられるわけですよね、そしたらね。

奥平 うん、そうそう。それで、だから、3人の先生が放課後とか土曜日の午後とか勉強を見てくれて。それで…、

立岩 校長先生はやめとけ、って言ったけど、個別の先生は、じゃ俺が見たろか、みたいな感じで、個別指導的に見てくれた。

奥平 そうです、そうです、うん。

立岩 それで二つ受かって、一方はお金かかるからやめて、大谷は安かったから入って。ほら、何年前だろう…、北山通りのさ、所で

奥平 ああ。はいはいはい。そう、話したの…、

立岩 奥平さんに話聞いたじゃない?

奥平 そう。

立岩 その時聞いた話っていうの覚えてるのは、大学が結構、ぽつんとしてたっていう話。

奥平 うん。

立岩 で、それと、高島屋?

奥平 ああそうそう。その、卒業した後ね。

立岩 デパート勤めてた時期もあったなー、っていう感もあって。で、たまたまダスキンの応募を知って、出したら受かっちゃって…、

奥平 あの、先輩が教えて…、

立岩 先輩ってどういう先輩なの?

奥平 え、障害のある人。そこって福祉機器売ってたから。

立岩 高島屋の?

奥平 高島屋に入ってる、ガット・リハビリィ※っていう、今もあると思うけど。

立岩 ああ、あとで見ときますわ。

奥平 うん。ガット・リハビリィって、カタカナで。そこに就職したの。知り合いのつてで。

立岩 そこに就職し…、あれ? 待てよ、高島屋に物を入れてるって…、

奥平 売り場を持ってた。

立岩 高島屋の中にね。

奥平 で、今は死語ですけど、デパガをやってたわけ(笑)。

立岩&権藤 (笑)

立岩 見に行きたかったかもしれない。

奥平 (笑)そうだよ。

立岩 それ、ちなみに、年(とし)、聞いていいのかっていう話もあるけど、やっぱり位置関係が分かる上では生年月日って大切なんですけど、何年…。

奥平 年齢? 年齢は、昭和32年5月1日。だから61。

立岩 1957年。

奥平 そうそうそうそう。

立岩 1957年、確か平井さんとか53年あたり。その4年ぐらい後か。

奥平 そう、だから「先輩の真似をしちゃいけないわよ。」って(笑)、すごい言われて。

立岩 (?)、口の悪い先輩が平井さんだった。

奥平 平井さんだったの(笑)。

立岩 3時間、話、聞いて。もう、いっぱい語ってくれまして、よかったですけどね。50…、そうか、57で、僕は60年だから、三つ上なんだな。

奥平 うん。

立岩 で…、え、何? 短大だから2年の時?

[00:28:01]
奥平 そ。2年で、その後編入したの。編入試験受けて。

立岩 4年、4年の方に?

奥平 うん。

立岩 じゃ、結局4年いたんですか。

奥平 そうだよ。4年制をちゃんと出てる。

立岩 2年制のとこ入って、編入試験受けて4年制のとこ行って、大谷を4年で出た。ちなみに何学部だったんですか。

奥平 文学部仏教学科。でもさあ、私ね、最近、短大と四大の卒業証書を見つけたのね。そしたらそこに成績入ってて、「あっ、やばい!」って思ったことがあって(笑)。何かほら大学、今はよく分かんないけど、その頃大学の成績ってSとかさあ、AとかB、C、Dでしょ。でさあ、Kっていうのがあって(笑)。

権藤 K?

奥平 K。分かんないでしょう。

権藤 何のK?

奥平 危険。

権藤 うっそー、うっそー、うっそー(笑)。

奥平 ほんと(笑)。

権藤 (?)

奥平 うちの学科の(笑)、科目ごとのだよ。

立岩 試験受けなかっ…、単位取らなかった?

奥平 いやややや、受けてたよ。私、真面目だったもん。他にすることもなかったし。だから、何て言うの、成績つけられないくらい、悪かったんじゃないかと思ったけど。

立岩 でも単位は揃ったんでしょ?

奥平 あ、そうそうそうそう。だからさあ、私よく分かんないけど、当時の先生に聞かないと分からないけど、きっとさあ障害者かわいそうだからって卒業させてくれたのかなって勝手に思った(笑)。もちろん全体がKじゃなくて、ある科目、いくつかの科目がKで、見たら英語だけはSだったよ。ほんで…、

立岩 そっか、英語はできたんだ、前から。

奥平 いや、よく分かんないけど、たまたまYM…、サークルとか、劣等感が激しくて何か他の人と一緒にいるっていうのができなくて。だからサークルも入ってなかったのね。それで暇でしょ、大体、単位とか取ってくと。京都の駅前で女の人がかっこよく外国の人に通訳してたから、「あっ、かっこいい。」と思って、YMCA通ってたの。

立岩 それで何だかんだ言って4年? まあ4年で、だから、現役で入って4年で出たってことだよね。

奥平 そうそうそうそう。よく出たよねほんとに(笑)。卒論まで書いたんだよ。よく書いたよね(笑)。

立岩 何書いたの。

奥平 今覚えて…(笑)、何かね、はっきり分かんないけどスッタニパータっていう思想があって、仏教思想。

立岩 ああ仏教の、古代、原始仏教ですよね、はいはい。

奥平 …の、解脱思想についてとか書いたらしい(笑)。

立岩 (笑)すげー、すげー、すげー。

奥平 訳わからん。ネタだよね、話す時の。

立岩 いやいや、それは…。ふぅん。で、出て、それで何、その、高島屋に店舗を持ってる…、

奥平 ガット・リハビリィに就職した。

立岩 それは就職試験受けて。

奥平 うん。

立岩 それに数年いる…、何、何年…、

■ダスキン

奥平 え、それで1年目に、もう、何だ、ダスキンの…、に、え…、があるって言われて(笑)。ミーハーな私はすぐに応募し、「ただでアメリカに行けるじゃん。」とか思って、応募したら選ばれたから、1年ぐらいしてすぐにもうアメリカに行っちゃったの。

立岩 もう何だ、入社した年ぐらいに…、

奥平 もう選ばれて…、

立岩 募集っていうかあって。

奥平 あ、そうそう。

立岩 1年のうちに、もう…、

奥平 選ば…、っていうか、募集かけてからちょっと時間があったから、結局は82年の1月にアメリカに行った。だから、在職は1年ちょっと。

立岩 そっか。多分僕が学部っていうのを出たのが83だから、それから3引くと80。80年に大学卒業した?

奥平 あ、そうそうそうそう。

立岩 80年の3月に出て、80年の4月に、そのガット・リハビリィっていうところに入って、80年、81年、で、82年か。

奥平 うん。…の、1月7日だったかな、6日だったかな、そこらへん。

立岩 この間もその、北山の店で聞いた時、それは結構やっぱり転機、転機的な…、

奥平 ああそりゃそうだよ。

立岩 今まではなかったよ、っていう。

奥平 大学に入ったのも転機だよね。初めての一般社会だから。施設、だって4歳からずっと…、

立岩 4歳から18までおんなじとこだったら、そりゃあ、なかなかのもんだよね。

奥平 そう、そう。今思うとよくやったよね。買い物すらできなかったと思う、最初。何か郵便局とか行ったことなかったし、銀行で口座開くなんてこともしたこともなかったし。まあ普通の高校生もあんまりないか。ま、とにかく初めてだった。

立岩 で、行くでしょ。戻ってくるでしょ。で、もう、戻って来た時はそこ高島屋は辞めた?

奥平 ああ、それで、1年間お礼奉公しなくっちゃと思って、1年働いて。

立岩 戻って来てから1年働いた?



奥平 そうそうそう。で、83年に辞めて、それで83年のまた7月に、今度は一人でアメリカに。ちょうど桑名敦子※も…、あの、あ、まず何だっけ、研修、これ私のあれになっちゃうけど、

立岩 いい、いい。「いい、いい。」とかって(笑)。はい、あの、やって下さい。

奥平 まずさあ、4人でアメリカに行ったのね、1月6日か7日に。その、桑名敦子と…、

立岩 …敦子の方ね。

奥平 うん、そうそう。…私とあと、くにえすみえさんっていう人と、アガペーに今もいるのかな、つちやけんぞうさんって、4人でアメリカに行って。で、私は6ヶ月の研修期間で、桑名敦子は9ヶ月だったかな。で、私が帰った後に、桑名敦子は、マイケル・ウィンター…、ちょうどバークレーの自立生活センターの転換期だったのかな、マイケル・ウィンターがちょうどハワイの何だっけ、自立生活センターの所長をやってたのを辞めて、「バークレーにおいで。」って、「所長になりなさい。」って言ってきてたところに桑名敦子もマイケルと出会って。で、桑名敦子も一旦帰ったけど、マイケルが「おいで、おいで。」って言ったからか分かんないけど、翌年83年の、何月かなあ、何月かに先にアメリカに行ってて…、

立岩 ああ、いっぺん戻って、でもマイケル・ウィン…、

奥平 …ターを恋しかったんじゃない? だから、あの、

立岩 うーん。あの人たちはその時に会った。

奥平 そうだよ。だってマイケル・ウィンター※ってさあ、女好きだったからさ(笑)、私が桑名敦子よりも先にマイケルと道端で会って…、ほんとにこれ、ほんとの話。もう、道端で会った途端に、「Will you marry me?」とか言って、何こいつ? とかって思って(笑)。で、それはそれで私は終わってたけど、あっちゃんは真剣に、何て言うの? 受け止めて…、

立岩 真剣に受け止めたわけだ。

奥平 そうそうそう。ほんで、最後帰る直前まで付き合ってたのかなあ、よく分かんないけど。

立岩 付き合って、いっぺん戻って、やっぱり行くわ、って話になって。

奥平 うん。そうそう。うん。それで私も「えーっ、じゃあ私も…」。アメリカから帰ってきたあとって、逆カルチャーショックで、すっごい何か日本が嫌いっていうか、もうアメリカが輝いて見えてたから、ほんとに何かアメリカに帰りたくて帰りたくて。帰りたいっていう心境だったから、「あっちゃんが行くんなら私も行く」とかつって、会社辞めて行ったの(笑)。で、それから3年2、3ヶ月、アメリカに…、

立岩 3年って、3年間?

奥平 3年間。

立岩 そんなに行ってたんですか。

奥平 うん、もうちょっと。だから合わせるとだいたい4年ぐらいはなってる。

[00:37:12]
立岩 ああ、最初ダスキン行ったのプラス自分で勝手にっていうか… 、

奥平 勝手に行ったの、アメリカ。

立岩 そんな、ああそれ全然知らなかった。

奥平 あ、ほんと。

立岩 結構長くいたんだ。

奥平 そう。それで…、

立岩 主に西ですか。

奥平 ああ、バークレー。

立岩 ずっとバークレーにいたの。

奥平 うん。バークレーで、だからマイケル・ウィンターが、何だっけ、ビザの手配とかしてくれて、エイチワンビザって言ったかな、ちゃんと取って。バークレー自立生活センターでアルバイトをしながら暮らしてた。

立岩 働いてたんだ。っていうか、暮らせるぐらい稼げたんですか。

奥平 まあ貧乏だったけど、うん。すっごい、だって若かったし、楽しかったあ(笑)。青春ですよ。

立岩 ほんで、それで桑名さん、そっちにずっとその後いるわけだけれども、帰って…、でも、まあ結構長いこと行って、でも戻ってくる?

奥平 で、3年いたでしょ。その間に、だから樋口恵子さん※とルームメイトやったり、あと、安積遊歩※と出会ったり、結構な人に出会ってる。

立岩 バークレーで会ったんだね。

奥平 うん、最初はね。

立岩 日本ではなくてバークレーに行ったのに会ったっていう感じなんだ。

奥平 そうそう。そう。だからお世話をちょっとしたって感じ。

立岩 ああ、そうやって日本からやってくる人たちにね。

奥平 そうそう。

立岩 うん。

奥平 だから、私…、もっと話すとさあ、面白いよー。みんなの裏話知ってるから(笑)。****とか(笑)。

立岩 やばい話も含めてね。

奥平 そうそうそう。

立岩 うん。じゃ、意外とそう、アメリカ側の日本人アテンダント的なさあ、何かそういう?

奥平 そうそうそう。

立岩 先輩みたいな。

奥平 うーん、先輩とはみんな思ってないと思うけど(笑)。樋口恵子さんとは、どれくらいかなあ、3ヶ月かなあ、ルームメイトしてたの。私が部屋を借りてるところに恵子さんがダスキンの研修生としてやって来て、アメリカ人のリサっていう人と私と樋口恵子さんで何ヶ月間か暮らしたりした。だから仲良し。

立岩 で、まあそっか、奥平さん、経験もあるし英語できるしっていうことで、お世話っていうか、

奥平 まあ、お世話したかどうかは覚えてないけど、うん。

立岩 ちょっとそういうこともしながら。

奥平 そう。

立岩 でまあ、バークレーのそういう日常業務的なものにも、アルバイターっていうか、(?)、

[00:39:48]
奥平 そう。私はJob Developmentって言って、職業斡旋部門でアシスタントをしてたから、だから何、履歴書の書き方とかさあ、インタビューの受け方とか、そういうのの手伝いしてた。

立岩 だいたい(?)、3年いて、戻って来る時は、次何やろうとか、どこで働こうとか、そういうの全然なし?



奥平 全然。私、ほんとにミーハーだから、そんなね、難しいこと考えない(笑)。何で帰って来たかって、これも笑うよ(笑)。何か私も…、あっ、それでその間に桑名敦子はマイケル・ウィンターと結婚したわけよ。結婚式にも、何とか人、として出たりしたから。で、そういうのってやっぱり憧れるでしょ(笑)。ほんで私もちょっと、しばらくだけどボーイフレンドいて、脊損のボーイフレンドがいて、「ああいいなあ、結婚したいな。」と思っちゃったけど、彼は別に何て言うの、他に好きな人がいて…、あ、っていうか、しばらく私と付き合ってたけどそっちに行っちゃって、それで失恋して落ち込んでた時に、親が、「もういい加減帰って来なさい。」って言って(笑)。言って、ちょうどビザも切れる頃だったのよね。んで、だから「帰るか。」とか思って帰って来た。

立岩 帰ったっていうのは富山に帰ったの?

奥平 うううん。ああ、もちろん一番最初は帰ったけど、仕事をしなきゃいけないでしょ、生活。で、リハ協の副会長を頼って、「何かアルバイトないですか?」って聞いたら、それが(笑)、肢体不自由児協会って今もあるじゃん。あそこでアルバイトさせてくれて、そこで半年ぐらい働きながら仕事を探した。企業の。

立岩 あ、そうだよね。あのー、何だっけ、メディカル、じゃなかったでしたっけ。

奥平 あ、そいで、その間に企業の仕事を探して、障害者の今で言う職業…、何だっけ、ジョブフェアみたいなのにも行って、そこで西友グループの朝日メディコっていう所に契約社員で1年働いて。で、それもサンシャインの43階だったから「カッコいい。」とか思って行って(笑)。で、それは契約社員で1年ごとのあれでしょ。

立岩 アサヒって何、どっちのアサヒ? 朝日新聞の朝日?

奥平 あっそうそうそうそう。朝日メディコっていうとこ。薬屋さん。西友グループとかに卸してるとこかな。で、そこで財務して、CPなのに各店舗の売り上げ処理とかしてた所に、何か…、あ、私、それで、ハローワークにさ、肢体不自由児協会に通ってた時に、結構行ってたので、それもあったかな。知り合いだったか忘れちゃったけど、その朝日メディコで働いてた時に、日立製作所から「面接に来ませんか。」って電話がかかってきて、「へえー、日立製作所の方が大きいや。」(笑)とか思って。

立岩 そこのへんって、あれだよ、ほんと何か、そう、奥平さん、日立勤めてる人だよなあ、っていうのは知ってた。それが最初に奥平さん知った時ぐらい。それは86年とか?

奥平 88年から。

立岩 あ、もう8になってるか、88ぐらいか。

奥平 88年からあの日立製作所で8年ぐらい働いた。

立岩 ですよね。そうですよね。

奥平 で、そうそう(笑)。ただただミーハーなだけ、みたいな(笑)。

立岩 あ、そっか、その当時も、八王子とかで始まってたのは、まあ言ったらその、企業人、社会人として。で、まあそっちで稼ぎながら、その…、っていう感じですかね?

奥平 いや。JILにいた時?

立岩 いやその、例えば88年から企業、日立行ったりするじゃない? で、ヒューマンケアって86年ぐらい開始でしょ。だから、既にそういう、自立生活センターの活動みたいなの東京辺りじゃ始まってるわけじゃない。それはある種、協力者というかなあ、そんな感じで関わったっていう感じかな。

奥平 ああ、それはそうだったよね。樋口恵子さんとか遊歩とか知り合いだったから。あと、ジュディとかエド・ロバーツまだ生きてたし、すごいパイプもあったし。まあ、そういう所で協力はしてたけど。

立岩 一方で社会人やりながら、あ、そっか。そのぐらいいましたかね。88年から…、8年つった?

奥平 うん。

■1996

立岩 8年。で、その次がJILなの?

奥平 そうだよ。

立岩 うーん。何か給料激減したって話は聞きましたけど。

[00:45:33]
奥平 そうそうそう、すごい減った。「マジかー。」とか(笑)。ほんで、だから日立で働いててもやっぱりその時代、今は違うけど、障害者枠で特別な感じだったでしょう。まあ、今も障害者枠ってあるけど。ただ、周りはどんどん一般職で出世していくのに、私がいくら論文書いてもなかなか相手にもしてもらえなかったし、英検、社内でさ、英検とかTOEICとかちゃんと試験があって、情報処理技術者試験とかもちゃんと受けて、やっても全然、上にいかせてもらえなかったから…、

立岩 資格は取ったんだけど、っていうことだよね。

奥平 そうそうそう。論文も書いて、やったけど。

立岩 TOEICも点数取ったのに、みたいな。

奥平 そうそう。そう。全然。それ、上司にもよったみたいだけど、私がついた上司は何か全然相手にしてくれなくて。そう言って何か不満抱えてたところに、樋口恵子さんが「真砂子、いい加減に障害者のことやりなさいよ。」って言ってきて。で、その8年の間にもリハ協とも関係があったし、あの、ねえ、適当に英語も喋ったから国際会議とかにも結構何回か連れてってもらってたのね。そういう感じで何となくこうつながってはいたんだけど。で、樋口恵子さんにそう言われて、「そうだなあ。」と思って。

立岩 それでJILに引っ張られた。

奥平 そう。でも、日立を辞めるのに2年かかった。安定を捨てるってことでしょ。

立岩 うーん。不満はあったけど、まあ辞めなけりゃ給料、ね、同じだけちょっとずつ上がったりしていくわけだし。

奥平 そう。

立岩 いい給料だったんでしょ? 大企業じゃないですか。

奥平 まあ普通に…、まあ、事務職だからそんなに高くはないけど生活できるし、ネームバリューだってあるわけじゃないですか。「日立で働いてる。」っつったら不動産屋の態度もコロッと変わったし(笑)。

権藤 (笑)

立岩 当時から国分寺辺りだったんですか。そうではなくて。

奥平 ううん。日立の時はだから南武線沿いの、中野島っていう所にアパート借りてたけど。

立岩 ああそうなんだ。でもまあそうやって悩み、悩み…、

奥平 (笑)

立岩 …悩んでたけど、で、まあ、樋口さんにJILに来いって言われて、最終的に行くわけですね。

奥平 そう。そしたら高橋修※っていう人がいて。

立岩 その時が、高橋さんが事務局長ですか。

奥平 そうだよ。

[00:48:41]
立岩 行って…、え、JILに移ったの何年ぐらいですか。

奥平 96年かな。

立岩 96。96…、うんうんうん。行って、で、JILはどの…、え、JILの次はここでいいんですか。

奥平 そうそう。そう。

立岩 JILはどれだけいたの。

奥平 だから5年ぐらい。

立岩 じゃあ99…、2000年超えたあたり?

■2001

奥平 そう。で、だからここに来たのは、2001年かな。

立岩 最初っからこういう、何て言うの、海外…、国際部って言うんだっけ。

奥平 ううん、研修課。

立岩 研修課。

奥平 だから、私が運が良かったのはダスキンの研修生だったっていうのと、あと、その英語を話したっていう所じゃない?

立岩&権藤 うんうん。

奥平 そう。

立岩 それで何…、ここはまあいいや。それ、1個1個聞いていくと大変だけれども、でもここに移るにあたってJILが給料安かったっていうのがあるんだけども…、

奥平 JILを辞めたのは樋口恵子さんがもう代表引くって言って、「****か。うーん」[…]

立岩 ああ、いい、いい。いや、ちゃんと、はい。

権藤 (笑) うん。

奥平 ちょっと違うかなと(笑)。

立岩 違うかなと思った。

奥平 うん。

立岩 ふーん。

奥平 それで…、

立岩 ああそうか、高橋さん※もう亡くなった(1999年)んだよね。

奥平 亡くなったの。高橋さんが亡くなってなかったらまた変わったかもしれないけど。日本の障害者運動も変わったと思う。で、だから、「あ、何かちょっと違うかな。」と思ってた所に、「どうしようかな」って思ってた所に、さっき言ったように声がかかったから、来た。


UP:20180719 REV:
奥平 真砂子  ◇ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 
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