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Holly Casio(村上潔訳)「ジンの経済」

Casio, Holly, 2017, "The Economy of Zines", Cool Schmool, March 9, 2017,
(http://www.coolschmool.com/2017/03/the-economy-of-zines.html).
=20180620,村上潔訳「ジンの経済」,arsvi.com,(http://www.arsvi.com/2010/20180620mk.htm).

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last update: 20180622


永遠に、ぐるぐる・ぐるぐる・ぐるぐる回って繰り返される、ジンに関する2つの対話がある。1つ目は、「みんなジンの復活を歓迎している! ジンは戻って来た!」。これに私たちはみな目を回す。なぜなら、私たちはみな、ジンが姿を消したことなんてないって知っているから。それでも時々『ガーディアン[The Guardian]』や『ヴァイス[Vice]』は、私たちにその帰還とやらを知らせてくる。
2つ目は、「そう、でもジンってなに? あなたはそれをどう定義するの? そしてあなたはそれを定義すべきなの?」。

私は18年前にジンを作り始めた。私が90年代の初期ライオット・ガールのファンジンを作るために陳腐なドリュー・バリモアのコラージュを組み合わせていた頃、これらの対話はすでに昔の使い古された常套句だった。ジンは変化・順応していくものだが、にもかかわらず、それらはいまも良い対話でありえるし、私たちはその対話を続けていくであろうことを知っている。とりわけ、ジンを定義することをめぐっては。

ジン[zine]という言葉(用語)は、マガジン[magazine]の省略形(略語)ではない。それ自身としてある言葉だ。これはジンの基本。いまだに時々、「'zine」とアポストロフィをつけて書かれているのを見るよね。あたかもその前に何かがあるとでもいうように。正直に言うと、私はティーンエイジャーの頃、ジンがマガジンの短縮形かもしれないとすら考えていなかった。当然のように、「'zine」は「ファンジン[fanzine]」の省略形だと思い込んでいた。私がそれまでに読んだジンの最初の数種類がファンジンだったから。だから、この問題に関する私の視点は、どうしても完全にゆがんだものになる。

この10年間で、ジンの認知度はより高まった。それは率直にすばらしいことだ。メジャーなウェブサイトや新聞がジンの世界に関する毎年恒例の〔お決まりの〕記事を出すのを見て、シニカルになるのは簡単だ。でも、私の自主制作出版への入り口は、『ジャスト・セブンティーン[Just Seventeen]』(雑誌)に掲載された、ファンジンとDIY音楽に関する特集記事だった。それは、いまはもうない90年代のティーンエイジ・〔ライオット・〕ガール[grrrl]・バンド、ヴィヴィアン[Vyvyan]のインタビューの一部としてあった。彼女たちはそこに、『Abuse』、『All About D and Friends』、『Glitter Underground』といった、イギリスのジンのリストを書き記していた。私はそれを見て、自分にとって初めてのジンを手紙で発注した。私にとっては、発行から13年を経たジンを〔直接見つけて〕読むことよりも、『ジャスト・セブンティーン』の一つの号を読む可能性のほうが、ずっと高かった。『ジャスト・セブンティーン』は本当に私の人生を変えたんだ。

【画像キャプション】これが『ジャスト・セブンティーン』の史上最も偉大な号。私は、90年代のティーン向け雑誌がいかに私の人生を変えたかについてのジンを作りたいと、心から思っている。

ジンの認知度の向上はすばらしいことだ。いまはかつてないほど多くのジン・フェアが存在する。ジンの作りかたは、『ルーキー[Rookie]』(雑誌)を読んだりユーチューブ上の指導映像を観て知ることができる。ハガキの片隅に1ポンドコインをセロテープで貼り付けたものを見知らぬ人宛に投函しなくても、オンラインでジンを買うことができる。公立図書館でジンのワークショップが開かれている。それはすばらしい! そしてジンという言葉それ自体がさらに普及してきている。

この10年ほど、ジンという言葉は、「アーティスト・ブック」、「スモール・プレス・コミックス・アンド・イラストレーション」、「インディペンデント・マガジン」、「フォト・ブック」などと同じ意味で使われている。これらすべては自主制作出版の形態であり、伝統的な主流の出版形態の外側で稼働するため、それ自体ラディカルなものである。そしてジン自体も変化した。政治的なパンフレットから、フットボール・ジン、SFジン、ファンジン、パージン[perzine](=パーソナル・ジン)、パンク・ジン、アート・ジン、ポエトリー・ジン、フォト・ジンその他。それらはつねにひとつではなく、決してただひとつであるべきではない。それらのジンが変化し成長していくのを見守ることは大切だ。

とはいえ、オーディエンス/テーマ/主題の変化にかかわらず、ジンという言葉はつねに、自主制作出版というDIYの非営利の形態に根差している。それは本当に唯一の、ジンを定義づける特徴だ。他のすべて――主題、フォーマット、装丁、スタイル――は議論の対象となるにしても。

私たちが議論して、何がジンで何がジンでないかのパラメーターを策定しようと試みるとき、ジンスタ[zinester]はしばしば狭量な人間として受け取られていることを、私は知っている。それはただの言葉だ。なのになぜ私たちは変化を受け入れられないのか。そして決定する私たちはいったい何者だ? 私は18年間ジンを作っている。そして〈スチュアート・ホール・ライブラリー[Stuart Hall Library]〉と〈テート・ライブラリー[Tate Library]〉で、2つのジン・ライブラリーのコレクションを共同で設立した。でも私はジンという言葉の番人ではない。私の意見なんて実質的には何の意味もない。そして私は何がジンで何がジンでないかを誰かに伝える権利なんて、本当にもっていない。誰だってそうだ。

とはいえジンの経済という話においては、ジンを定義することは狭量なことではない。ジンの核心は、できる限り安く作ること、そしてできる限り安く流通させることだ。そのジンのモデルに問題がある? 全面的に。なら、まず第一に、ジンがアクセス可能であるとはどういうことかを、あなたは知る必要がある。そして、ジンを作るためには安い料金のコピー機を利用できる環境が必要であること、などもね。
多くのアクティヴィストの文化と同じように、ジン・カルチャーも、白人中心で、エリート主義で、派閥意識が強く、近づき難いという罪を犯している。しかし、ジンのきわめて根本的な理念は、自分のアイデアをシェアすること、すばやく何かを創り出すこと、そしてとにかく安価であること、だ。光沢仕上げの熟練されたものである必要はない。もちろん、それがあなたの美学であるのなら、それはそれでクールだ。でもジンは非営利のものなんだ。

もう一度。ジンは非営利。これは大きな、決定的な特徴だ。〔一方で、〕あなたのアーティスト・ブック/コミック/雑誌のラディカルさや重要性や感動させる力は、それが営利目的やキャリアアップのために作られたものだからといって、弱まるわけではない。人は食べていかなければならないし、家賃を払う必要があるし、生計を立てる必要がある。そして、ライターやアーティストは対価を支払われてしかるべきである。アーティストは絶対にアートで生計を立てられるべきだ。
また、ジンが本質的に他の形態の自主制作出版物よりも優れているというわけでもない。それらの成果は変わらずラディカルで、ただそれらはジンとはいえないかもしれない、というだけだ。それでまったく問題ない。私たちは今なお共存することができる。私たちはいまだに多くの同じジン・フェアでブースを出している。なぜなら私たちはいまだにDIYの自主制作出版という同じ傘の下で活動しているからだ。だだしそれでそれらが技術的にジンになるわけではない。だってジンは非営利だから。

【画像キャプション】ロンドンのクィア・ジン・フェスト

ジン・スワップ(交換)という技法は、ジン・カルチャーの主要な慣行だ。これはつねにジン生活の一部としてある。ジンスタは自身のジンを他のジンスタとオープンに無料で交換する。あなたはそれを採算の合わない行為として捉えるのではなく、あなたのアイデアを交換していると捉えればよい。それはジンの真の核心だ。アイデアを、迅速に、安く、シェアすること。たいていのジンは、シェアされ、人手にわたる(回覧される)ことを意図して作られている。それでジンの中には一般的に反コピーライト/コピーレフトの著作権放棄声明があり、読者がそのジンのコピー/スキャンデータを自分で作成して流通させ、他者とシェアすることを促す。それはジンを作るということの一部であり、従来の出版経済の外側に存在しうる。この非営利モデルはジンには有効だが、たとえばインディペンデント・マガジンのようなものにはおそらく応用できない。それらは活動を維持し書き手に対価を支払うために、収益を必要とするからだ。

ジンスタがジンという言葉を定義することに熱心な理由は、「成功(出世)する」ための踏み石としてDIY〔文化〕を利用し、もうけること/自らの地位を高めることをもくろむ人々によって、DIY生産モデルが吸収されるのを、はっきりと目にしてきたからだ。

誰かが自身のジンでいくらもうけたかを自慢しているのを耳にすると、むかむかする。人々が自身のジンに関して「ビジネスモデル」という言葉を適用するたびに、クリエイターたちがジンに関するプロモーションとマーケティングの目標について議論するたびに、人々がジンを作ることを自分の仕事だと言うたびに、もしくはジンと称する広告でいっぱいの高価なアート・マガジンを手に取るたびに、私たちはうんざりしてきた。その状況からジンという言葉を取り除いたとしても、まったく困ることはないね。自分のアートで生計を立てたい? がんばって、私はそれを応援するよ。本を作るためにクラウドファンディングしたい? いいね、参加するよ。インディペンデント・マガジンを立ち上げてライターに対価を支払いたい? 大賛成。

ジンという言葉は、出版と共有のラディカルな方法を示唆する歴史と文脈をともなっている。ジンスタのみんなは、ただ語義論を越えた狭量さで「一緒にしないで」と言っているわけではない。あなたたちは確実に私たちと共にある。ただその文脈を理解してもらう必要があるだけだ。この10年間、私はアート系の図書館員として、アート・スクールの講師・教員たちが書籍作製のコースで「ジン」という言葉を――その言葉に関する文化的な歴史・文脈を何も説明せずに――「アーティスト・ブック」と区別せずに(同じ意味で)使う傾向を目にしてきた。その結果アート・スクールの学生たちは、ジンと称するアーティスト・ブックを作る。そして、一冊平均2ポンド(約290円)でジンがやりとりされるジンフェアで、自分たちのアーティスト・ブックを30ポンド(約4340円)で売ることができないとわかると、不満を募らせる。言葉の文脈が問題なんだ。

ジンは、たんにカット・アンド・ペーストの美学を表現する手段ではない。「パンク」が安全ピンまみれのデザイナーズTシャツに適用されないのと同じようにね。私は、誰かの作品をジンと呼ぶことを(特権として)許される警察になりたい人がいるとは思わない。だって、ヒエラルキーやルールを確立することは、そもそものジンの真義に反しているからだ。そしてこの対話はどのみち、永遠に、何度となく繰り返されるだろう。ジンは私たちが考えなかったようなかたちで適応・変化し続ける。私はそう確信している。私が望むことはただ一つ。それは、ジンが非営利のDIY出版との結びつきをつねに維持することだ。

*改段落は原文を反映している。


■Holly Casio
Website:Cool Schmool(http://www.coolschmool.com/
Twitter:@HollyCasio

cf.
◇20160903 「〈ZINES(@FANZINES)〉のツイート×3(September 3, 2016)」
◇20170309 「【翻訳】ジンとお金(ビジネス)に関する提言――〈Northwest Zinefest〉・Holly Casio・〈Lincoln Zine Fest〉のツイート(March 7, 2017)」
◇村上潔:《翻訳》

■kiyoshi murakami(@travelinswallow)
*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20180620 REV: 20180622
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