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優生手術問題:活路と展望(第1回)――真相に迫ろう!人権回復を!

山本 勝美 201805 『臨床心理学研究』55-2:

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■山本 勝美 201805 「優生手術問題:活路と展望(第1回)――真相に迫ろう!人権回復を!」,『臨床心理学研究第』55-2:
 優生手術問題:最前線からの報告(第1回)

はじめに 1・30 国賠訴訟の歴史的行動をスケッチ

 2018 年1月 30 日午前 10 時、仙台地方裁判所の正門前は TV 各局のカメラとジャーナリストの黒山ができ上がった。「旧優生保護法による強制不妊手術 / 国は謝罪と補償を!」と記した横断幕のマーチが正門を通った。ところが、そのマーチが地裁の建物から正門へ戻ってくるのを、カメラと記者たちはなおも迎え続けていた。この熱の入ったフォローぶりにさすがマーチの中からも驚きの声が上がった。
 そのマーチの最後にいた筆者は、訴訟の横断幕付きのマーチは初体験である。でもこの事件のテーマと運動の社会的意味、いや歴史的意味を、こうした社会の反応によって改めて自覚させられた。
 このあとの催しとそれへの反応に、私たちはさらにテーマの重みを自覚させられた。「身の引き締まる思いがする」との感想を互いに漏らしていた。
 さてこのマーチに続いて、仙台弁護士会館4 階の大ホールでは、大事件の記者会見を体験したことのない筆者に、社会的反応の重みがいかんなく迫ってきた。
 TV カメラ4台を背景にして、記者たち約50〜60名、それとほぼ同数の支援者たちの参加で会見は始まった。会見は約1時間、新里弁護団長のアピールとそれに続く質疑応答、そして会見終了後には、記者たちは正面の演壇を取り囲み、3名の優生手術被害者、弁護士9名、支援者2名の一人ひとりに質問、インタビューが集中し、さらに1時間ほどの時間が過ぎていった。
 優生手術問題の取り組みは、この 20 年間の中でも、国家賠償法に関わる訴訟に踏み切ったことから想像を超える大規模な展開になった。日々メディアを通して、優生手術をあおった過去の悪質な行政施策は暴露されている。また逆にそうした実態をあえて公開した北海道の高橋はるみ知事の決断と優生手術の非人道的な政策に対する同知事の批判的なアピールに、人々の共感が広がっていく等々さまざまな掘り起こしが列島を駆け巡っている。
 そこで、以下に先ず強制不妊手術被害者のアピールを通してこれらの事実関係を振り返ることにより、優生手術政策の人権蹂躙ぶりを明らかにし、今後の取り組みの展望を模索することにしよう。

第1章 被害当事者・家族の訴えに傾聴しよう

 (その1)飯塚淳子さんの発言「知らずに受けた優生手術―私の身体を返してほしい」
 私は、1946 年に宮城県の山村で生まれました。母は、朝から夜暗くなるまで働いて、山からワラビをとってきては、束ねて煮て売っていました。父親は体が弱く、あまり働けませんでしたので、生活保護を受けていました。
 あと 1 年で中学校卒業なのに、中学 3 年の 4 月から知的障害者のための施設に入所させられました。積極的に事を運んだのは、民生委員でした。1 年で施設を出る頃、私の担当の先生に職親(*1) の家へ連れて行かれました。私が行くと言った訳じゃない。
 その先生は、私が話をしようと「先生」と言うと、私の話を聞かず、すぐ「強情だ、わがままだ」と決めつける人でした。
 職親の家では、「他人の子だから、この子は憎たらしいね」といじめられていました。食事の時も、「バカだから、それ以上食べるともっとバカになる」と腹いっぱい食べさせてもらえなかった。その家の娘の S ちゃんが新しい洋服を買ってもらったのを見ていたら、「家の娘はお嬢様だ、あんたは使用人だろ」と奥さんに言われました。使用人なら給料を払ってくれと、心の中で叫んだ。S ちゃんとは、同じ年頃、S ちゃんが洋服ほしければ、私だってほしいと思うのは当たり前のこと。S ちゃんは、洋服が沢山あるからいいだろうが、私は、着るものがないから、着替えがほしかった。職親の家に 2 年間ほどいる間、私は、モンペをはかされ、ずっと着の身着のままでした。働いたお金はどうなっていたのか、一円のお金ももらっていない。
 2 年以上も働いて、与えられたのは花柄のワンピース 1 枚と、ビニールの赤靴 1 足だけでした。持ち物は、施設から出るときの小さな風呂敷包み 1 個だけ、いつも、寝るとき枕元に置いていたのを今も覚えています。正月に神社に初もうでに行くときには、職親の娘や息子達と共に私も連れられて行ったが、帰りに、職親の子ども達は食べ物を買ったりしていたが、私はお金をもらっていないから何も買えない。みじめだった。ただ働きは、バカらしくてやってられない。よそで働いてお金を稼ぎたい。
 そのため、一度、夜逃げたが、お金が 1 円もないので、どこへも行けず連れ戻されました。連れ戻されてから少し後で、職親の奥さんに県の更生相談所に知能検査に連れていかれました。16 才の時でした。そして、いじめられて、いつも頭が混乱しているなか、検査を受けさせられた。その後、奥さんに病院に連れていかれました。
 優生手術のためでしたが、私には何も知らされませんでした。病院に入る前、広瀬川のあたご橋を渡った。河原にイスがあり、そこで、奥さんにおにぎりを食べさせられて、病院に行ったら、父が呼ばれたらしく先に来ていました。子どもを産めなくされたことなど、その時はわかりませんでした。手術後は、実家に帰りました。父と母が、子どもを産めなくされたことを話しているのを聞いて、初めて知りました。よーし、大人になったら、敵(かたき)とってやるという思いで生きてきました。
 父親は、民生委員や職親に「ハンコ押せ」と何度も何度も責め立てられて、仕方なく押したそうです。職親は、私のことを「バカだ、精薄だ」といじめ、「他人の子だから、この子は憎たらしい子だ」といつも言っていたので、そういう事で優生手術の相談に行ったと思います。私が個人情報開示請求で得た書類にも、職親 が県の更生相談所に相談に行ったことが書かれています。連れて行かれた病院が、宮城県優生保護相談所附属診療所だったことも判りました。
 手術後、生理の時にものすごく痛みがひどくなり、とても疲れやすくなりました。そのため、仕事も続けられませんでした。結婚しましたが、子どもが産めないことで離婚になってしまいました。今でも、優生手術のことを考えると頭が痛い。ストレスがたまります。
 地元の自助グループで優生保護の話をしていて、支援する人達につながっていきました。同じ優生手術の被害者である佐々木千津子さん(広島)とも会えて、一緒に厚生省に行ったり、集まりの場に行ったりもしてきました。

 ( 筆者コメント )
 1)飯塚さんはその後、新里弁護士さんの助力も得て、日本弁護士連合会の人権救済申し立てを行いました。
 2)宮城県は,永年にわたって飯塚さんの優生保護審査会の記録が不存在を理由に、優生手術被害者として認知できないとしてきましたが、今年2月に、県知事が後記(第2章(その1))のように被害者であることを認めるということを公表しました。弁護団はこれを受け止め、飯塚さんの訴訟の手続きを近く行うことになりました。
 (注)(*1) 職親:知的障害者を預かり、社会適応できるよう指導訓練をする人。精神薄弱者福祉法(当時、現在の知的障害者福祉法)に定められていた。

 (その2)佐藤路子(仮名)さんの発言
 「優生手術被害者としての手術に至った経緯や被害の実態、今の気持ち」(2018 年2月 15 日付宮城県会議員勉強会での手記)
 (注)この集会は、宮城県議会の全会派の代表が集い、国及び県に対して優生手術被害者に対して謝罪と補償を行うようにとの意見書を採択する旨決議する方針になりました。その集会での佐藤さんのご発言です。
 私は、2018 年 1 月 30 日に旧優生保護法国家賠償請求訴訟の原告佐藤由美(仮名)の義理の姉の路子(仮名)です。義理の妹、佐藤由美(仮名)は、知的障害者です。
 優生手術をした事は、結婚した当初に今は亡き母から聞きました、何の為にしなくてはならなかったのか、その時母に詳しく聞けば良かったのですが、とても聞ける感じではなかったです。一人娘だったので尚更気の毒でその為か私は 41 年疑念をもっていました。
 16・17 歳位で手術したのかと思っていたのが、妹の優生手術に関する情報開示結果分かったが、手術したのは、15 歳、中学 3 年生の 12 月初旬で、手術の理由が「遺伝性精神薄弱」であることが判明しました。普通学校に通っていたので、1週間も学校を休んだことを、先生や友達はどう思っていたのでしょう。
 また、知的障害になったのは、1 歳位のときの麻酔治療の後遺症で障害が残った為で、遺伝性ではないです。療育手帳にも「遺伝性マイナス」と書かれています。本人や家族の同意が不要で医師の認定だけで不妊手術できる優生保護法第 4 条を適用するために「遺伝性精神薄弱」という診断名にしたのではないかという疑いすら持ってしまいます。
 仙台の飯塚さんは 19 年も前から宮城県に対して優生手術台帳の情報開示請求したところ、その時期の台帳が焼却処分されたと聞きました。言葉にできない位、憤りを感じました。
 2016 年 3 月の国連女性差別撤廃委員会の勧告を受けて、国会答弁で厚労大臣が約束した厚労省との面談、ヒアリングにも 3 回参加することができました。これは被害があった人から職員が話を聞くというものです。担当課である母子保健課の課長補佐は、「当時は合法・適法。厳正な手続きに基づいて実施した。今も調査をする予定はない」と回答されました。
 15 歳の子どもに不妊手術をすることが合法・適法だとしたら、その法律自体が問題だったのではないでしょうか。仮に当時は合法だったとしても、遺伝性ではないのに「遺伝性精神薄弱」と事実に反する診断名をつけたことは「厳正な手続き」と言えるのでしょうか。
 しかも、情報開示されたのは2行だけしか書かれない優生手術台帳だけです。厳正な手続きをしたはずの優生保護審査会の記録は廃棄されていました。妹の体を傷つけた根拠を捨ててしまう。あまりに無責任です。15 歳で何のためにする必要があったのか?
 これでは、いくら交渉しても同じと判断して提訴になりました。
 提訴と言っても、私は法律知識がありませんので、裁判のことは、弁護団の先生方にお願いして自分のできる事、今まで色々な事を考えて過ごしてきた日々の思いを伝えていこうと思います。
 旧優生保護法は、障害者を淘汰するための法律だったのかと思います。人権侵害・幸福の追求権・命の尊厳を根本から否定し、非人道的なことを行った法律だったと、改めてマスコミによる報道等で判りました。
 提訴をきっかけに、マスコミも色々調べてくれました。宮城県も数字を出してくれています。すでに廃棄されて1割くらいしか残っていない資料からだけでも、最年少は 9 歳の女の子・10 歳の男の子に不妊手術をしています。国が決めた法律に基づいて、合法的に厳正な手続きを経て、行政が認めたことです。優生保護審査会という有識者の方々が決定し、役所の職員やお医者さんが行ったことです。人間はこのような恐ろしいことを実行してしまうのでしょうか。これが宮城県で起こった事実です。
 当時は合法だったとしても、今の人権意識からおかしいとわかったのなら、反省して、二度とこうしたことが起きないように、きちんと謝罪することが大事ではないでしょうか。
 2018 年 2 月 12 日の毎日新聞記事では、1962 年、昭和 37 年 10 月 4 日の宮城県議会定例会で愛宕診療所での手術の強化要請に答弁した当時の県衛生部長は、優生手術の推進を県議会に約束したようです。だから宮城県は、他県より手術件数が多いのかなとも推測されます。飯塚さんが 1999 年 3 月 16 日宮城県に口頭意見陳述をしています。ちょうど 19 年前です。この時に実態調査・検証を宮城県として取り組んでいれば、命の尊さ・人権尊重を深く認識することが出来ていたかもしれません。今日もあるいじめを受けての自死、施設等での虐待、障害者家族の無理心中などを防げたかもしれません。そして県民の幸せに繋がっていたとも思いました。誠に残念で悔しいおもいが募ります。北海道の高橋はるみ知事は 2018 年2月 2 日の記者会見の中で、「今ここに生きる人間として、この事実が日本の歴史の中であったことは大変悲しく、痛ましく、残念でならない」と述べられております。宮城県の知事はどのようにお考えでしょうか。県議会で、ぜひ尋ねていただきたいです。今もある優生思想、障害があっても自分らしさ・個性を活かし、生活できる社会であってほしい。今ここで過去に向き合い検証していただきたいと思います。それが出来るのは、政治家であるお集まりいただいた皆さまです。どうか宜しくお願いいたします。

■第2章 各地域・行政機関・団体の緊急な動き

 優生手術問題の取り組みについては、この20 年間の中でも、この度国家賠償法に関わる訴訟に踏み切ったことから急展開になり、日々メディアを通して、優生手術をめぐる過去の悪質な行政施策や、それを公開した北海道知事の決断等、さまざまなテーマが列島を駆け巡っています。ここで経過を振り返って次の展望を模索することにしましょう。

 (その1)宮城県知事の動き('18.02.21.):宮城県が優生保護審査会の個人情報がなくて も裁判は受け付ける、と公表。宮城県は、旧優生保護法(1948 〜 96 年)下で不妊手術を強制された障害者らについて、手術の直接的な証拠となる記録がなくても、手術を推認できる書類などがあれば、県として手術の事実を認める方針を示した。これを受け、県に手術記録が残っていないため国家賠償請求訴訟をあきらめていた県内に住む飯塚さんが、提訴に踏み切る意向を固めた。今年1月末に初の国賠訴訟を仙台地裁に起こした 60 代女性に次ぐ2人目の原告となる。同法に基づき強制手術を受けた人は全国に1万 6475 人いるが、その大半の手術記録は公文書保存期間がすぎて破棄されたとみられている。当事者たちに救済への道を開く宮城県の対応は、他の都道府県にも影響を与える可能性がある。
 関係者によると、飯塚さんは 10 代で手術を強制された。そして成人後、県に手術記録の開示を複数回にわたって求めたが、「資料が存在しない」と言われ続け、裁判を断念していた。ところが村井嘉浩県知事が去る2月 19 日の定例会見で裁判になった場合、県の記録がなくても「いくつかの論拠を提示して(手術を)受けたことは認める」と言及し、手術の有無が「争われることはない」と明言。
 発言について、県担当者は「手術を必要とした判定書など、手術記録以外の書類があることや、記憶とのずれがないことなどから判断した」と述べ、今後も同様の対応を図る考えを示した。

 (その2)「この女性のほか、宮城県で手術を受けたという東京都の 70 代男性も提訴を検討中」と。この 70 代男性も近く県に手術記録の開示を請求する。彼女を支える仙台弁護士会の新里宏二弁護士は「(宮城県の対応は)救済の幅を広げる大きなきっかけになる」と歓迎。集団訴訟につなげたい考えだ。('18.02.21.)

 (その3)与党2幹事長の会談:プロジェクト・チームを作る動き
 「本日(2月末)の自民党二階幹事長、公明党井上幹事長との間でプロジェクトをつくることを確認、との報道がなされました。過去のハンセン病などとの動きに比べ早すぎるようだ。政治の中ではいろいろな思惑もあるのでしょうが,このプ W・T に被害者の声を反映させることを重視する必要がある。また、与野党の議連の結成があり、被害者が納得した制度を提案していく必要がある。」

■第3章 優生手術の取り組みを振り返ってみよう

 '96 年に優生保護法に対する批判が国際的にも、国内からも強まって、日本政府もとうとう兜を脱ぎ、改正に踏み切りました。ところが次の年に、「福祉国家スウェーデンで優生手術の法律がまだ生きている」と大きく報道されました。このセンセーショナルな報道に、その前年まで優生保護法の廃止に取り組んできた仲間たちで決起し、「日本でも昨年まで同じ法が存在していた。しかも優生手術を受けた被害者は放置されたまま」との抗議集会を開きました。そして強制不妊手術の実態解明と被害者に対する謝罪、公的補償を求める厚生大臣宛の要望書を母子保健課に提出しました。その後スウェーデンではすぐさま被害者の保障に取り組みましたが、日本政府は、「優生手術に対する謝罪を求める」運動には耳を貸さず、今なお謝罪も補償も行っていません。

 <出発点に国の態度の全てが示されている>
 その後担当の母子保健課と数回にわたり交渉を繰り返しましたが、「謝罪も保障もしない」との一点張りでした。「全て優生保護法のもとで合法的に行なったことで、法から逸脱したという事実はありません」という回答を繰り返すのみです。
 こちらは、優生手術を定めた優生保護法そのものが人権を無視した不当な法律であり、だからこそ法改正したのではないか!合法であるからということで、その人権無視の不当性はいささかも許されない、との追及を続けてきました。そしてさらに「ではあなたがたは、被害者が 不妊の体になってしまった事実をどう思うのか?」と問いただしたところ、当局の職員たちは待っていましたとばかりに口を揃えて「お気の毒」とのみ答える始末でした。これは、優生保護法は議員立法であって、行政の責任ではない、との見解を示しています。
 それゆえまた、厚労省は、必ず「全て法にしたがって実施しています。違法なことは一切行っていません」という言辞を繰り返しているのです。

 <求める会の模索と行き詰まり>
 求める会では、ドイツから、断種法犠牲者の支援をしておられたテラーさんをお招きし、集会を開きました。そしてその翌日には、厚生省との交渉を予定しておき、私たちとともに交渉に臨んでいただくことも試みました。
でもこれ以上交渉の成果が望めないと見られたので、それではと、厚生大臣宛の「優生手術に対する謝罪を要求する」旨の署名簿を作り、集めてきましたが、大臣に直接会って手渡すことには厚い壁がありました。
 一時は坂口力厚生大臣の秘書との連絡がつけられたこともありました。ところが「躊躇しないで何でもいいから話を持っていらっしゃい」という言葉に、署名簿を持って行き渡したあと、連絡してみると、「これは大変に大きな内容で、私の力で解決できる課題ではありません」という回答が返ってきました。
 それでもできる手立てを、ということで、'97 年と '98 年の2回にわたって「強制不妊手術被害者ホットライン」を行いました。この2 回のホットラインで約 15 名の訴えがありました。
 その後更に、これまでの経過と、こちらの主張、各自の訴え等を一冊の本にまとめて世に明らかにしました。それが「優生手術の犯した罪」と題する本(現代書館)でした。この本は評価が高く、よく売れて品切れになり、この度20 年ぶりにようやくその「増補新装版」を出版した次第です。

■第4章 長い停滞の末に飯塚さんが、人権救済申し立てへ

 このようにして、言わば、自分たちの手作りレベルの方策は尽くしても展望が見えてこない時期が長く続きました。
 もう限界かな、という思いがみんなの中に漂い始めたときでした。実は、はじめの時期に「強制不妊手術被害者のためのホットライン」を実施した時に訴えてこられた飯塚さんが、仙台でご自身の個人情報の文書類を求めて、宮城県に対して個人情報開示請求をし、孤高の戦いを貫いていておられました。
 16 歳で自分に知らされずに、麻酔をかけられ、自分の産む性を取り上げられたこと、そのことを両親の会話から聞いて「よーし、将来仇を取ってやる!」と決意したと語っておられます。ところが、県当局は飯塚さんが優生手術を受けた昭和 37 年度の文書だけが見当たらないとし、提示が実現できませんでした。
 飯塚さんはこれに怒りをいだき、やがて求める会とともに国会議員への訴えや対母子保健課の取り組みにまで進めていかれました。また仙台で電話相談により新里弁護士と出会い、法的な対応の検討が始まりました。
 2015 年6月 23 日、飯塚さんは、新里弁護士の支援のもとに「日弁連への人権救済申し立て」を行いました。同時にその日、求める会で初めて院内集会を開催し、申し立てを公表しました。(『福祉労働』152 号・「産むことを奪われた優生手術からの人権回復をめざして」・利光恵子著 P132-133: 参照)

 <飯塚さんに続く被害者の登場>
 飯塚さんの人権救済申し立ての、その日には、求める会の力量の限りに、メディアに取材を呼びかけました。その結果、広範な報道がなされ、関係者をはじめ広く人々の関心を喚起しました。中でも NHKTV の報道にあたって、求める会の連絡先を表示していただき、その結果、7名の訴えがありました。とりわけ、岩手県の片方さんは、優生保護法改正の後の時代になって、公立病院精神科へ入院中に、ご家族と医師によって「不妊手術を受けないと一生退院させない」と優生手術を強制され、不本意にも同意させられました。パートナーとの間に子どもができ流産に終わりましたが、子どもを作らせまいとする、その強制不妊の策謀に対し、退院後激しい怒りのうちに求める会の連絡先に訴えてこられました。
 さらに、メディアを見て、新里弁護士事務所に電話してこられた方がいます。義妹さんの様子から、若い日に , 強制不妊手術を受けさせられたからであろう、医師の前では、落ち着きをなくし、激しく拒否的な行動を取る、その様子から、亡き義母さんから教えられた、15 歳時の強制不妊手術時の場面を再現させておられるのがしのばれる、こうした悲痛な訴えをされている義姉の路子(仮名)さんの登場が続いています。

■第5章 国際機関の勧告・条約違反の指摘

 さて、国際的な批判は、先進国との自負があ る日本政府には気になると思われるふしがあります。
 〇これまで 1998 年に、DPI 日本会議が国連規約人権委員会に対し、女性障害者への強制不妊手術の問題を記したカウンター・レポートを提出。これに対し、同委員会は、日本政府に対し、強制不妊手術の対象になった人たちへの補償を受ける権利を法的に規定するよう勧告されました。
 〇ついで 2014 年、DPI 日本会議、DPI 女性障害者ネットワーク、SOSHIREN 女(わたし) のからだから、全国「精神病」者集団,当求める会が連名で、国連規約人権委員会に、「強制不妊手術、子宮摘出の被害実態の調査を行い、法的措置を取って被害者に対する謝罪と補償を行うこと」を日本政府に対して勧告するよう求めています。これを受けて同委員会は日本政府に対して、「1998 年に行った勧告」を再び行っています。
 〇さらに 2016 年2月、DPI 女性障害者ネットワーク、SOSHIREN 女 ( わたし ) のからだから、のメンバーが、ジュネーブの女性差別撤廃委員会(CEDAW)のロビー活動に参加し、強制不妊手術の人権侵害を訴えました。
 同委員会は、日本政府に対し、優生保護法による強制不妊手術についての調査研究、被害者への法的救済、賠償、権利回復等の勧告をしました(同年3月7日)。
 上記の諸勧告の中で CEDAW の勧告は一段と厳しい批判と勧告を政府に投げかけています。
 これを受け、塩崎厚労大臣は、同勧告の「指摘があった」との理解を示すとともに、「ご本人から厚労省に御要望があれば職員が本人から御事情を聞き適切にしっかりと対応したい」と答弁。
 その結果、母子保健課は、2018 年3月末現在、飯塚さん、求める会との面会を7回継続しています。また 2016 年4月、国会での福島みずほ議員の強い要望を受けて、塩崎厚労大臣は、上記の佐藤路子(仮名)さんについても母子保健課との面談への参加を認めました。
 〇一方、2014 年、日本政府は、障害者権利条約を批准しましたが、同権利条約には、女性障害者の複合差別を認識し、全ての人権及び基本的自由を完全平等に享有することを確保するための措置を取る(第6条)ほかの規定がありますが、特段の反省と行為は見られません。

■第6章 2017 年2月22日付日弁連の意見書、厚労大臣宛てに提出

 この日、日弁連は「旧優生保護法下において実施された優生思想に基づく優生手術及び人工妊娠中絶に対する補償等の適切な措置を求める意見書」を厚労大臣に提出しました。
 画期的なことです。求める会が 20 年間こだわってきた優生手術被害者に対する補償や謝罪などに対する適切な措置を国に要請されたのです。さらには仲間たちで、80 年代いや 70 年代から、撤廃を求めてきた優生保護法の柱、優生思想を鋭く批判しています。理路整然とした名文です。
 
 その内容を要約しますと、
 <T>優生手術として、
 (1)求める会が焦点を当てている第4条・第12条(本人の同意を経ず、優生保護審査会の決定に基づき強制する)のほか、
 (2)第3条の、医師による決定で(本人及び配偶者の同意を前提に、本人、配偶者又は近親者が遺伝性疾患等、ハンセン病の場合)を含みます。
 また第 14 条の、優生思想に基づく人工妊娠中絶(本人及び配偶者の同意を経て、本人、配偶者等が遺伝性疾患、ハンセン病等の場合) をも優生施策として規定しています。
 <U>一方、<自己決定(=同意)>に関して、その内実を厳密に規定しています。「自己決定」を「リプロダクティヴ・ヘルス・ライツ」とセットで記述しています。
 つまり、単に形式的に医師や国・行政関係の要請に屈従するという意味での「同意」ではなく、自ら主体的にその選択に納得し、何を自己決定するのかを本当の意味で良く理解した上で選択する行為と捉えられます。
 産む・産まないの選択に即して言えば、自分が産む・産まない、産むとしたら何人産むかを選択する「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」を実施することです。
 またこの論旨は、他の分野での自己決定・同意に対しても、優れたモデルとなるでしょう。たとえば、医療の「インフォームド・コンセント」、また障害のある子がどのクラスを選択するかについても同じことが言えます。親が選択すればそれが、そしてそれのみが正当である、とすることが批判的に問われ、親権者のその選択が本当の意味で子ども本人の当事者にとって妥当な選択か、インクルーシヴ教育ということが問われるという意味での自己決定ということになります(『産む / 産まないを悩むとき――母体保護法時代のいのち・からだ――』丸本百合子/山本勝美共著・岩波書店:1997 年: P43-46「自己決定権の意義と限界」参照)。日弁連のこの意見書は、今後の求める会運動にとって計り知れないサポートとなるでしょう。

■第7章 とくに男性にとって優生手術問題とは?

 男性にふさわしい関わりをめぐってこの優生手術問題は、総じて女性が関わるもの、逆に、男性がかかわるには密接なテーマとはならないテーマと見られがちのようです。また実際に、関わる市民においても、議員の方々においても、そのような傾向が見られます。この傾向は、ひとつには産めないという女性のからだに関わる問題であること、もう一点は、産めなくされた女性に被害者が多いということに起因する面があるでしょう。事実、被害者総数 16,500 名の7割が女性です。
 でもそれは数量的なレベルでの比較にとどまります。
 この点をめぐって、男性の私としては、
 1)なぜ?どう捉える?とこだわりたいですし、
 2)では男性はどう接点を作るべき?というテーマに向き合う必要を感じます。
 1)なぜ男にとっては疎遠になりがちか?この疑問に対しては、たとえば自分自身が母親という女性の体があってこそこの世に生まれてきた、といった理詰めの話では克服できないところがこの問題の難点です。
 2)私の体験談ですが、飯塚さんのそばに居続けているうちに、彼女の叫び「わたしのからだを元に戻してください!返してほしい!」「これはあなた方の責任なんです!」「優生手術を知らずに受けさせられたのです!」から苦悩が次第に実感となって共感できるようになりました。この人にとって優生手術によって喪失したものが計り知れないほど大きい、重いものなのだと響いてきました。
 当局と向かい合っている中で「わたしのからだを元に戻してください!」という叫び声に、筆者自身が揺さぶられました。
 また、養子にもらった息子さんに対する深い思いやりについて聞かされるたびに、筆者自身の子育てによる幸せな人生を思い返してきました。
 これらの接点の方が自然で、すぐ共感できました。そして「産む−育てる」は連続しています。
 以上は、筆者個人の体験でしかありません。各自に個別の共感・体験があっていいと思うのです。その上に共同の絆ができて支え合うことだろうと思います。
 なお、1)男性の不妊手術については、片方さんが、2017 年3月 28 日の院内集会でアピールされています。
 2)1997 年のホットラインで 60 代の男性が精管結紮後、長年の体調不良による苦悩を訴えておられたのが印象に強く残っています。不妊化により失ったものは心身計り知れないのです。
 これらの事例からも、強制不妊手術が両性にとってのテーマであると思います。

■まとめ

 第3章から第7章にかけて、国家賠償訴訟までの歴史をふり返ってみました。こうした長い助走路の上に今日の力強い法廷の取り組みがあります。ですから、これからの闘いが、例えどのように厳しいものであっても「前進あるのみ」という合意の上に立つ運動なのです。そのようなスクラムを繰り返し確認し合いつつ、勝利まで堅持してゆきましょう。


再録:立岩 真也
UP:20180822 REV:
山本 勝美  ◇優生:2018(日本)  ◇病者障害者運動史研究 
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