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中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第3回]」を読んで
村上 潔
(
MURAKAMI Kiyoshi
) 2018/05/31
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last update: 20181001
■中村佑子 2018/05/06 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第3回]」
『すばる』40-6(2018-06)
: 272-289
▼kiyoshi murakami(@travelinswallow)
@中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[連載第三回]」(『すばる』6月号)、先日読み終えました。最後の、「信頼のヴェール」で東京という都市を「覆ってしまいたい」という宣言は特に印象的。個人による人生を賭けた「信頼/優しさ」の再獲得の意義と、それに気づきリンクすることの→
[2018年5月31日18:52 https://twitter.com/travelinswallow/status/1002125581465501696]
A意義は、とても強く・直接的に認識しうるものだけれど、現在の東京のような都市でこの再生産・親密性にもとづくヒューマニティを開花させようとすることがいかなる意味と必然性をもつのか、という点は問題化しうると私は感じた。おそらく、そもそも東京のような都市は、あらかじめそうしたヒューマ→
[2018年5月31日18:52 https://twitter.com/travelinswallow/status/1002125622091526145]
Bニティを「排除」したうえで成り立っていて、各「母/子」がそれを「外=公的な場」で発露させることを許さないことで都市としての生命を維持している。そこで「内=親密性」のもつポテンシャルを解放させるということは、いまのこの都市自体の「前提」を根本から揺さぶるということだ。もちろん私→
[2018年5月31日18:52 https://twitter.com/travelinswallow/status/1002125657898336256]
Cはそこにポジティブな可能性を感じるし、その先の世界を夢見ないわけでもないが、しかし、この都市を構築してきた/いるあまりにも強大な諸「権力」の力の構造と作用を考えると、非常にシビアなスタンスに頭が切り換わる。私は過去に「女の領地戦」という論文を書いたが、そこでは都市における主婦→
[2018年5月31日18:52 https://twitter.com/travelinswallow/status/1002125705746857990]
D/母たちの「子どもを守るための」諸活動を、文字通り領地獲得の「戦い」として位置づけた。そして、それは都市が都市である以上終わらない、と述べた。もちろん戦わずにすむのにこしたことはない。「ヴェールで覆う」ほうがいいに決まっている。だがやはり、というのが、どうしても私の立場からの→
[2018年5月31日18:52 https://twitter.com/travelinswallow/status/1002125744321908736]
E見方となってしまう。ただ、中村さんの考え自体は、たとえば80年代・郊外型の(主婦による)「オルタナティブな」実践のようなものに比べてはるかにラディカルさをもったものだと思うので、それほど私の立場と乖離はしていないと感じている。なので今後も相互に刺激とヒントを交換しあっていければ。
[2018年5月31日18:52 https://twitter.com/travelinswallow/status/1002125774743203840]
◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
@yukonakamura108 きのう講義で1987年の作品“砂の城”を検討したのですが(http://www.arsvi.com/d/2018igs.htm#05)、先ほど連載第3回の導入部分を読んで、274頁で提起されている「少女ロマン」・「少女性」はこの作品の世界につながるな、と感じました。そして275頁に「砂城」という表現があって、「あっ」と……。
[2018年5月19日20:36 https://twitter.com/travelinswallow/status/997803132821258241]
◇kiyoshi murakami(@travelinswallow)
@yukonakamura108 はい、城は男性原理の象徴で、それが崩れてただの砂にもどっていくことにポジティブな意味を見出せるのが「少女性/少女ロマン」なのかと思います。また、“サンド キャッスル”のように、女が自らのために海を利用して(共同で)城を「壊す」行為は、その「力」の発露として位置づけられると思います。
[2018年5月20日0:25 https://twitter.com/travelinswallow/status/997860804039864321]
――「砂の城が壊れるのを見届ける」、「指先に残る(はずの)砂を愛おしむ」という、(愛/恋の終わりを自分に認識/納得させる)「儀式」は、「少女性/少女ロマン」のなせる所為と位置づけられるのではないか。
◆20181001
「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読んで【集約】」
■引用
1
◆2018年度立命館大学産業社会学部春学期科目「質的調査論(SA)」(担当教員:村上潔)第8回:
「「感情」を記録する――価値づけられない言葉を集め・残すこと」
[2018/05/30]
2
「妊娠出産を経て感じること、あるいは女性が少女時代からずっと持ち続けている感覚とは、うねり、うごめき、風が抜けつづけていくような、不安定でとどまることのない、動き続ける世界であると前回述べた。|うねり、うごめく感覚というのは、生命の動きと言ってしまえばそうなのだが、ただ生に突き動かされているだけでなく、そこには死の予兆、死そのものの存在論的な気配がたちこめていて、あとちょっとのところでその虚無に落っこちてしまうのではないかという、極限のノイズを身体で感じながら、グラデーションのように生の方に振り子を振り、この世に生きているという感覚であると思う。そういう感覚からすると、少年ロマンの世界認識では、この私のなかのゆらめきを感得してくれないと感じてしまうのだ。」(p.273)
「地下の巨大なエネルギーに突き動かされ、自分自身の内部にも火山のような、うごめくマグマが流れている。その莫大なエネルギーは、地球の生だけでなく、宇宙の破壊や消失点をも招き入れるようなものだ。|それは、たぶん「男性原理」側からすると逆に、怖く、うとましく感じるはずのもので、「少年ロマン」と、このマグマのような、こういって良ければ、「【傍点:少女】ロマン」というものは、相反し、うとましく思う同士、という関係性であるかもしれない。|「少女性」というと、淡いペールトーンの色あいのなかで、はかなく不安げな少女がまっすぐ見つめる、というようなイメージが万人に思い浮かべられ、実際に消費もされていると思うが、「少女性」というのはそんな生半可な柔らかいものでは、きっとないはずである。|それは、世界はゆれている、世界は安定せず絶えず動いていると、ヒリヒリ感じ続けることと同義であって、そうした地球の動きを感じることは、コンクリートに固められた都市のはざまでは難しいかもしれないが、しかし確実に、地面はその下でうごめいていて、そのうごめきは、私自身の内部のうごめきと、流れを一つにしているように思えるのだ。しかし、この感覚は、女性だけが持っているものではないだろう。」(p.274)
「こうした、地球のうごめきと歩みを一つにするような不安定な世界を前提にルールを決めようとすれば、現状の法律やシステムは、根本からその存立を危ぶまれ、まったくことなる社会システムが求められるだろう。[…]都市のなかで肉体を解放することには、うごめき、変化することを土台に据えたシステムへの希求が内包されている。|文字のなかった時代の、小さな部族社会はあるいはそうだったのかもしれないが、人間は、数が増えすぎた。そして国家をつくり、統制することによってしかコントロールできない砂城をここまで作り上げてしまった。その文明が、極端なグローバリズム資本主義の波に飲まれ、人間とその身体が疎外され続ける状況のなかで、ゆれ動く肉体を感じ続ける「【傍点:少女】ロマン」には、大きな可能性があると、個人的には思うのだ。」(p.275)
「小さなおまじないをたくさんして、祈りを込めるように生きること。それは、少女時代の敏感な自分を侵してくるものから自分を守り、つなぎとめるような行為のことなのかもしれない。[…]それはルールというより、自分のための一つの儀式のようなものであったことを思い出す。」(p.278)
「夢やおまじない、魔法的なものは、この現実に閉じこめられることからの逃げ場、希望の場所なのかもしれない。」(p.278)
「少女時代の敏感な感覚で自分の身体のことを思うと、自分にはそもそも穴が開いていて、水や風の一瞬のきらめきなどの自然現象や、速度や重力という手にとることのできない物理現象など形にならないものと、形ある自分の身体は、一瞬でも一致できるのだと思っていた。」(pp.279-280)
「女性はそもそも身体に穴が開いていることで、別世界との通行性を持っているけれども、いざそれが本当に開通されると、何かを失うのかもしれない。しかしそれは「可能性」という様態をとって考えると、表と裏なのだ。|自分の意志とは関係なく毎月血が流れ、将来男の人との開通可能性を持ち、その結果としてやがて他者を宿すことになる。この身体には、原理的にそもそも他者のための穴が開いているからこそ、そこから自分の大切なものが流れださないように、少女は「可能性」をひそかに恐れる。そして自分が汚れてしまうと感じ、現実に待ち受けているものとは別の「可能性」に向けて、おまじないで自分を守るのかもしれない。少女は自分の身体がもっている穴が、将来実際に使われてしまう「可能性」を全身で感じ、恐れる存在なのかもしれない。」(p.280)
「外側から自分を見ると、私も一つの、ただの「現象」なのだと思えて、世界のエネルギーと私のなかのエネルギーは、ときおりこうして一致するのだと、後年そんな風に言葉にしていた。しかし、この感覚もどこかで消えてしまった。|妊娠してから拡張した感覚は、この少女時代のものと似ていた。[…]お腹のなかに他者を抱えるという感覚は、自意識を離散させ、自分が外側に置かれているような、もうひとりの自分と、自分の外側で出会い直すような現象だった。」(p.283)
*作成:
村上 潔
(
MURAKAMI Kiyoshi
)
UP: 20180531 REV: 20180602, 0807, 08, 1001
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