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八代 英太氏インタビュー

八代 英太 20180406 +前島 富子・前島 由希 聞き手:田中 恵美子・奥平 真砂子 於:東京・八代氏宅

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last update: 20200609


八代 英太=前島英三郎  ◇田中 恵美子  ◇奥平 真砂子
障害者である議員(であろうとする人たち)  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇文字起こし:ココペリ121 ※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、 聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。
【4上08】20180406_1106V0 八代(前島)氏 50分
【4上09】20180406_1158V0 八代(前島)氏 4分
【4上10】20180406_1202V0 八代(前島)氏 18分
【4上11】20180406_1230V0 八代(前島)氏 21分
【4上12】20180406_1307V0 八代(前島)氏 1分
【8下01】20180406 八代氏 後半 v-610237-9

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島田療育園

奥平 ADDP★ってもう何年?

前島由希 結構その、アジアの障害者活動、支える会が、たぶん1900何年にできたの。80年代にできたんじゃない。それは任意団体で、何ていうの、そういう八代先生がほら、途上国こう回る時にセミナーをやり出したんですね。

奥平 ふぅーん。

八代 回る時に色々支援してもらう、色々セミナーしてもらう、それから人が来た時に勉強してもらう、で…、

前島由希 そういう活動で。

八代 宿泊をしてもらう、学校紹介する。

前島由希 もう30年ぐらいなるんだよね。

八代 もうだから長いよ。だから…

前島由希 NPO法人のアジアの障害者活動支援する会です。

八代 僕はね、1977年に参議院になるんですよ。1977年ね。今から何年前? 41年前?

奥平 そう。

前島由希 でもそん時はなかったでしょう、この活動。

八代 あのそりゃまずまだ、ない。その時はなくて、それからその初めて、リハビリテーションインターナショナルのウィニペグで総会があったのかな。その時に久保田くんと岡さんに行ってもらって。で、そん時にその専門家と法と運(?)の戦いがあった。始まったわけ。

奥平 誰と岡さんに行ってもらった?

八代 久保田くん。

奥平 あぁ、秘書だった方。えぇー! 岡さんってゆきこさん?

八代 ゆきこさん、ゆきこさん。ゆきこさんに行ってもらって、ほんでウィニペグで…、

前島由希 ゆきこさん、その時からもう、厚生…、厚生省のほうの、

八代 いやいや、あの、太宰さんの全社協の中に…、何たっけ、今のあの、JDの前身。

奥平 あーあー。えっと、あの国際障害者年推進…

八代 そうそうそうそう、対策室。

奥平 会議。

八代 そこの…、そこに、ゆきこさんは例の石井…、石井さんと一緒に、

前島由希 わかんない。

奥平 石井さんって誰?

八代 石井さんってほら、あの小人症っていうか、

奥平 あぁいた。もう、今…、

八代 石井さん、結婚したじゃん。アメリカ人と。

奥平 へぇー。知らな…、よく知らない人。

八代 そうそうそう。今日本に帰ってんじゃない、彼女。あれ、年賀状が来るよ。この二人が…、二人がコンビで、色んな資料とか何とか、俺の議員会館に太宰さんの、そっから…、あの、国際障害者年推進だから。

八代 太宰博邦さんっていうね、元厚生省の事務次官をした人がいるのよ。[00:03:03]

奥平 それでリハ協の会長とかした人。

八代 そう、会長したりして。

前島由希 リハ協作った人か。

八代 そう。リハ協作った人。

前島由希 厚労省の障害福祉とか、援護課の課長さんみたいな人ってこと? もっと偉い人?

八代 いやいやいや、その事務次官になった。

前島由希 偉い人なんだって。事務次官の人。

奥平 偉い人か。

八代 そうそうそう。

前島由希 その人が、

奥平 最初会長してたなんて、すごくない? ね。

女性同席者 うーん。

前島由希 その人が、障害者…、まだ差別バリバリの頃でしょう。

八代 全国社会福祉協議会、全社協ちゅうのは昔は久保講堂つって、久保さんて人が持ってた単なる講堂なのよ。それを寄付して、亡くなって、今の全社協ビルができる。

奥平 へぇー!

前島由希 何かこういう話聞いといたほうがいいですよね。

八代 それで、その頃、俺が初めて、その怪我をして、で1975年に障害者の権利宣言ちゅうのが国連で出るわけよ。だからそういう風の中で俺は障害者になった。

奥平 へぇー。

八代 そうそう、その風の中よ。

前島由希 時代が、時代がその時だったから、良かったね。

八代 時代だから。その頃はバスジャック…、川崎の青い芝のバスジャックとか、

障害児の親による子殺しね。それがもう、非常に多くて。



奥平 いつ障害者になったの?

八代 1974年…、あ73年か。昭和48年というと? 73年だ。1973年。

前島由希 で、そん時、八代先生は国会議員になるなんてこれっぽっちも思わなくて、

八代 思ったの。で、怪我をして、しかし、俺も車いすだから本物の障害者にならにゃ、ってので。で、まぁ、目が不自由ならばメガネをかける、耳が遠くなりゃ補聴器、歩けなくなったら車いす、それでいいじゃないかと思って。で、まぁ、だからテレビ局とか、番組なんかが全部だめになっちゃうわけ。

前島由希 差別されたの。

八代 その頃は。その頃は『週刊朝日』なんかでも、僕が司会に戻ったら、「あれはお涙ちょうだいだ。」と。

奥平 あー、へぇー。

前島由希 すごい差別。

八代 「司会なんていうのは、健常者がいいに決まってる。」と。「何で車いすの彼がテレビの司会をする。」なんてぇのが、週刊誌の方が。テレ…、朝日、朝日、『週刊朝日』だよ。その頃、そういうの見るとさ、カーッとくるわけ。ほんで、週刊朝日の朝日新聞のあの、有楽町のとこ乗り込んでって、ほんで謝罪をさして。で、記事に、あの、訂正を。

前島由希 結構、いや結構運動家。

奥平 結構運動家ですね。

八代 ほんでもう、

前島由希 一人運動、一人運動。運動はしてないか。

八代 一人…、うん。その頃、その頃色々、だから、障害者のとにかくその本物、こりゃ本物になっていかなきゃ。で、色んな人に回って行くと、回って行くと、「こんなこと! へぇー! へぇー!」っちゅうようなんが多い。[00:05:53]

前島由希 青い芝…、青い芝はそん時、初めて会ったわけ?

八代 おお、みんなだからあの、福島の郡山の会、

奥平 あぁあぁ、あの白石〔清春〕さんとか、橋本〔広芳〕さんとか。

八代 白石君とか、それからあの…、何だわ、八王子にいた、何だっけ、彼は。

奥平 あ、寺田〔純一〕さん?

八代 あ、寺田さんも、もちろん。寺田さんも最初からで。その前にほら、歩ける、歩ける彼なんだっけかな。

前島由希 八木下さん?

八代 えー、で、大須賀〔郁夫〕くん。

奥平 あぁー。いや懐かしい。

八代 大須賀。懐かしいでしょう。みんな死んじゃったけどさ。こういう人たちとも会って…、

外様とか思われたけど、「あんたはどうせ有名人だから」。でも色んなところをこう行ってくと、ほいで、こうある人がね、「いや、八代さん、あんたが障害者になってくれてよかった。」って褒められるわけ。

奥平 えぇー、障害者から?

八代 うん障害者から。「障害者になってくれてよかったよ。いや、あんたみたいな、やっぱ障害者にもそういうその知名度の高い人がいないと、ここは盛り上がっていかない。」と。

前島由希 盛り上がらないからね。

奥平 確かにね(笑)

八代 ね、盛り上がっていかない。で、脊損連合会★ってところにまぁ、とりあえずは所属をするんだけど。で、その頃はまぁ新田さんとか、ね、まぁそういう色んな人たちがいて。

奥平 新田って、新田勉さん?

八代 うぅん新田氏、いや…。

奥平 あ、脊損連合会の人か。ふぅん。

八代 脊損の、脊損連合会の、昔は。それで、そういう人たちと出会って、で、色々なところを見ると、いかにその脊損っていうのが大変で、しかも世の中に出てくのに、施設にいなきゃ、病院にいなきゃ、なるべく長く病院にいるように、骨折したり、尿毒症になったり、褥瘡(?)つくったりしたの。

奥平 えぇー。

八代 そう、家に帰れないわけだから。

前島由希 バリアフリーじゃないし。

八代 バリアフリーじゃないから。

前島由希 家族もね、そうそう脊損…、

八代 で、その、そこでもって、僕がそのあの厚生年金病院にいたんだけれども、僕は1年で…、いやいや半年で、その年6月怪我して、もう12月に退院したわけ。

前島由希 何才…、30何才だっけ。若かったんだよね。

八代 36才だから。退院したらね、その退院の時、俺の送別会をした時に一人の男がね、「あんたはいい。」と。「帰る家がある。俺は帰る家…、俺だっていつでも退院できるよ」と。しかし俺はもう、ケースワーカーからね退院勧告が来ると、無理にね、階段から落っこって怪我したり。

奥平 えぇー!

前島由希 えぇー。

八代 骨折したり、床ずれつくったり。

前島由希 そういう時代だよー。

八代 ね。で、「うち帰っても、1たす1は2にはならない。1たす1はマイナス1になっちゃうんだ。」と。「俺が帰ることによって、家内の内職を奪うし。団地であれば階段はあるし。3階に住んでんだからどうにもなんない。」と。「ここしか俺の住むとこはないんだ。」と、こういう話になるでしょう。「あんた、帰るうちがあるからいいよな。」ってこう言われた時にね、「あぁ俺もちょっとまぁ早く…、病院なんちゅうのは長くいるもんじゃないな、と思ってたけど、このまま(?)、こうして居なきゃならん…」。だんだんこう、「これ何が悪いんだ、何が悪いんだ。」ってなると、政治になっちゃうわけよ。突き詰めていくと政治になる。で、色んなところを回る、え、新幹線で…、にいたって、階段でもって降りるとこがない。普通の駅も、もう、とても改札が狭いとか、色んな地下鉄は乗れないとか、色んなことにぶつかっていくわけよ、ね。で、かみさんと一緒に、この階段を、秘書と一緒にダンダンダンダンて降りていくようなことがあったり、[00:09:06]

奥平 富子さんと?

前島由希 富子さん。若かった。ほんともう。八代さんを負ぶって担いでいたね。そん時にね、そう覚えてる、私も4才とか5才で、富子さんが担いで。たまたまでも八代さんって芸能人だったから、ドライバーさんとか、ね、いた。ずっとほら怪我しても、ドライバーさんがそのまま仕事「やります。」って言って、八代さん付き人だった秘書さんたちも残ってくれてたの。

八代 秘書がね、そうそうそう、その人が。

前島由希 だからもう、色んなところを、キャラバンで…、何か覚えてる。で、そんでそん時に、秋山ちえ子さんって会うんだよ。

八代 会う…、会って、

前島由希 秋山ちえ子さん。それは覚えてる。

八代 で、それと、合わせて、合わせてそのサンリオ★ちゅうのがあった。

奥平 サンリオ?

八代 あ、今もあるか。

前島由希 キティちゃん?

八代 キティちゃん。そいでサンリオの…、あれはなぜサンリオっていうか、「山梨の王」って書いて「山、梨、王」でしょう。だから「サンリオ」だよ。

前島由希 社長が山梨の人なの。

八代 社長が山梨県人なんだよ。ほいで俺が、その会いに行ったら、「じゃああんたにキティちゃんの車をプレゼントする」。

一同 (笑)

前島由希 あのね、こういうバリアフリー、その時初めてだと思うよ。

奥平 何で会いに行こうと思ったの?

前島由希 だって同じ山梨。

奥平 あぁ、え?

八代 山梨だから。

前島由希 山梨県人ってすごいね、

八代 県人会だから。

前島由希 繋がりが強いの。

八代 それでそういうことで、じゃキャラバン。

前島由希 動いてるキティちゃんバスが来たんです、家に。私も小っちゃい時、嬉しかったよ。

八代 綺麗なね、キティちゃんがこうね、車いすに乗ってね。

奥平 うん。車いすに乗って(笑)。

前島由希 そうなの。

八代 そのころね、やだしげるさんって人がいたの。新宿でね、その、福祉、あのリフトバスを…、リフトカーを街に走らせる、っちゅう運動をしてたのよ。あの、車のね、リフトを。それをやる、やださんって人…、ものすごい、その、えぇ…、

前島由希 その時なんか、三澤さんなんか、まだ全然出てこない。

八代 全然全然、まだまだ。

奥平 だって、あの人まだまだだよ。

八代 まだまだ。

前島由希 まだここの前の話なんだ。面白いでしょう? 聞いといた方がいい。

八代 そうそう。そいでその、その人が、その人と一緒にリフトがやる長い角度をあの、メーカーさんにも教えて、とにかく車いすごと乗れるリフトカーを考えてくれってことで、それをやって。それを第1号、キティちゃんがやるんだよ。

前島由希 そうキティちゃんが家に来たの。そうよ、サンリオよ。

女性同席者 すごーい。

奥平 じゃあ、キティちゃんの…、キティちゃんのが、リフト付きだったんですか?

八代 そうそう。

奥平 わぁ。それ、今どこにあんだろう。(笑)

八代 そんなもの廃車よ。

奥平 あぁそっか。

前島由希 でも私ちっちゃかったし、そん時6才ぐらいで、ほらサンリオ大好きじゃない? 女の子だから。で、覚えてる。そのね、家に…、家に来たんですよ、リフト付きのキティちゃんバスが。そいで、お父さんの車いすがそのままぐーって登って入れるので、そこにね、すごい。サンリオ…、すごい、子どもたち結構呼んでくれてるのよ、障害のある子供とか。[00:11:33]

八代 そうそうそう。うん、そうそう。だんだん移動ってことについての、みんな関心が高まっていって。高まっていく時には、「バスに乗れない。」とか、まぁバスジャックとか、そういう色んな事件が起きるわけよ。で色々こう、みんなでこう話していくと、「やっぱりこれは、政治やらにゃあだめだ。」と。よし、「じゃあとにかく、どういうことやってるか、国会行ってみよう。」と。それでね、何人か車いすの、いとうさんとか色んな人と一緒に、あの約10人ぐらいで、「傍聴させてくれ。」と。で、申し込んだわけ。申し込んだらね、あの、「車いすは傍聴できない。」って言われたの。国会が。バリア(?)。


奥平 今だったら、訴訟もんでしょう。

八代 そうそうそう。で、議員会館行って、これ山口敏夫ってのがね、あの、厚生政務次官でね、いたのよ。そいで山口…、山口敏夫、ちんねんちゅうまぁ有名な人がいるんだけど、その人のが政務次官でやって、あの、

奥平 厚労省?

八代 彼に会いに行った。

八代 政務官。

前島由希 政務官ってほら大臣の次みたい、昔は。今は副大臣制度があって(?)ね。ナンバー2って感じ。

八代 政務次官ね、政務次官。うん、副大臣。

奥平 へぇー。

八代 ほいで行く時に国会の議員会館行ったらね、正面から入れないのよ。で、「何とか山口先生の部屋に行くんだ。」っつったらね、「裏にね、荷物運びのエレベーターがあるからそれに乗ってくれ。」って。車いすだから。

前島由希 やっぱりプチっとか切れた?

八代 これがまたパチッ、プチッと切れた。

奥平 (笑)

前島由希 短気だからね。(笑)

八代 プチッと切れた(笑)。「こうりゃ…」。だったら山口言ったら、「こういうこと考えにゃね。俺たちもそう思ってたけど、あんたやっぱり選挙出なきゃ。政治家になれよ」って。「いやぁだめだ。」って。

奥平 え、それは誰が言うの?

八代 山口が。

奥平 あぁ。

八代 ハッパかけられたの。ほいで色々回って行くとね、今度は「じゃ、もっとボランティアってなことをやろう。」って言って。

前島由希 草の根、やったことないから。草の根活動(笑)。

八代 「ボランティアの花を咲かせよう」っちゅうね、キャンペーンを始めるわけ。キティちゃんの車と一緒に。

奥平 八代さんが?

前島由希 キティちゃんの車と。

八代 ほいで、松坂屋の前、伊勢丹の前、ほいで大阪のどこの、岡山のどこの、デパートの前っつって。

前島由希 え、でもそれは一人っていうより、その、「キャラバンやろう。」って時にはもう、秋山ちえ子さんがいたんじゃない?

八代 秋山ちえ子さんもいたけども。

奥平 秋山ちえ子さんって誰だっけ?

前島由希 亡くなった論説家で、「秋山ちえ子の談話室」って、

八代 評論家、評論家。

前島由希 その当時…、私たちはまぁあれだけど、その当時の文壇とかコメンテーターとかで、何か、何か文化人の筆頭ですよね。

八代 筆頭、筆頭。

前島由希 ほら、永六輔さんとか、そういう感じのグループの。もう亡くなったのかな。

八代 ほれでね、「われら人間コンサート」っていう障害者の…、アジア太平洋から障害者の芸術家を呼んで、コンサートをね、あの人たちはやってたわけよ。

前島由希 ちょっと、それこそ、聖心(?)とかマダームたちが…、今の流れのマダムたちが、秋山先生を中心にほら、ボランティアグループ? 「障害者を支援しましょう。」っていうような、その感じの活動を、その、秋山ちえ子先生が、

八代 そうそう、やってた。

女性同席者 へぇー。[00:14:31]

八代 で、まぁそんなことをしながら、そんなことしながら、「やっぱり政治だな。」っていうことで、思って…、思いがだんだん強くなって。で、「ボランティアの花を咲かせよう」ってところで募金活動をしたの。

前島由希 でもね、ここのところは富子さんに聞いた方がいいよ。なぜかって、八代さん…、私ね、たまたま1週間前、富子さんと秋山ちえ子さんの話をすごい聞いて、その話の方が…。八代さんはね、あれだけど、細かい裏話は富子さんがいっぱい知っている。

奥平 へぇー。

八代 裏話(?)。

前島由希 (笑) だってその時に、その、秋山ちえ子さんが、「やっぱりあなた、もうこれは八代さんを、こう政治家に…。八代さんほらこういう感じだから、細かいこと、色なんことを支えられるのは、あなたが、八代さんを大概のことはカバーしなさい。」って言われたって言ってました。

八代 ほれでね、これね、彼女がね、小学校…、まだ幼稚園のころね、フジテレビのね、家族対抗歌合戦。

前島由希 そう、そう、出たの。そうそうそう。

奥平 出たの?

前島由希 出た出た。私、小学校1年生の時。出たんですよ。

八代 それでね、家族が出てね、ほれで出たのよ。

前島由希 車いすでね。

八代 古関裕而とかほらね、色んな有名な、

前島由希 涙が、みんな泣くわけよ、その時。

奥平 (笑)

八代 それで俺が、俺が、

前島由希 私たちが健気に頑張って、家族。私今でも覚えてる(爆笑)

一同 (笑)

八代 ほれで、お涙でね、お涙忖度で優勝しちゃうわけ。

一同 (爆笑)

前島由希 ほら、ほら、分かる? 想像できるでしょ? 健気にお父さんが車いすで、子どもが私、小学校1年生ね。弟がほら、ちっちゃいでしょう、4歳。兄が小学校3年。みんなでほら、頑張って、太陽に…、「手のひらを太陽に♪」って、歌うの。明るい。もうそしたら視聴者号泣、もう電話かかって号泣、審査員号泣、グランドチャンピオンだって。(笑)

奥平 (笑)

八代 それは、それを、それを秋山ちえ子さんが見て、これ、やっぱりね、あの…、「政治に出ればいい。」ってことになった。

奥平 へぇー、そうだったんだ。

前島由希 そうそうそう。私、出たのよー。『大きなのっぽの古時計』歌いました(笑)

八代 そう。それで思い切って、1977年に立候補するんだけど。実家の家族なんちゅうのは猛反対の田舎だから。

奥平 ご、ごひら?

前島由希 山梨、山梨。

八代 山梨。

奥平 あぁ。
八代 山梨はね、山梨でほら、長男坊は県会議員なのよ。自民党の。

奥平 うん。

八代 それでね、その…、車いすでね、車いすで議員になるなんてのはね、「大それたことをよく考えるな。」ちゅうてね。もう田舎は大変なのよ。

奥平 もう、「人間じゃない」ぐらいの扱いですよね。

前島由希 恥ずかしいの。恥ずかしいからほら…、もう、だって恥ずかしいって思うわけじゃん、親は。その当時は。

奥平 うん、そうそうそうそう。そうだよね。

八代 うちのかみさんもさぁ、富子さんも、どっか、

前島由希 富子もキレやすいからさ。

奥平 (笑)

八代 ね、夫を支えるように働きに出てね(笑)。介護するようなそういう気持ち。「何で政治家になんちゅうことがあるか。許すんですか(?)」って言ったら、うちのかみさんもまたプツっとすぐキレるわけ。

前島由希 キレて。「にっくき山梨。」みたいな。(笑)[00:17:14]

八代 (笑) そうそう。で、そんなことをしながら、まぁ山梨のやっぱり友だちが、色々その、応援もしてくれて。

前島由希 でもサポートしてくれたんだよね、出る時はね。

八代 もちろんもちろん。それで、その、いよいよ選挙出るって言うんだけど、そのまぁ、700万から800万ぐらいお金かかったんだけど、まぁあの、

奥平 選挙で?

八代 そうそうそうそう、選挙で。当時はそのぐらい。安かった、一人だから。事務所もここだから。事務所もここだからね。

前島由希 でも、秋山ちえ子さんが、

八代 そうそう来て、陣頭指揮取って。

前島由希 全面…、本来政治のこんなにサポートなんかしないんですって。

八代 そうそう、九州を中村裕さんがやったの。

前島由希 そう。そこで太陽の家の中村裕先生

奥平 あぁー、あの『太陽の家』の?

八代 そう。

前島由希 八代さんの選挙を何よりも支えてくれたのは、日本車いすバスケット連盟。

八代 浜本、浜本。

奥平 へぇー。

前島由希 そう。

八代 そういう連中がみんなほら、やるわけ。ほいで、地方へ、その、ポスターなんか、みんな、「よしわかった。」言ったらね、警察の指名手配のところにポスター貼っちゃったりね。

一同 (笑)

前島由希 その当時ゆるやかだったから。みんな分かんないから、選挙活動(笑)。

八代 それからさ、そうかと思うとさ、あのね(笑)、田舎の道だから車いすだと高いところへポスター貼れないもんだから、電柱の下に貼るとか。

一同 (笑)

前島由希 ほら、当事者とかが、キャンペーンしてくれるから(笑)。

一同 (笑)

八代 そしたら泥でね、みんなもう、見えなくなっちゃうわけ(笑)。

一同 (笑)

女性同席者 面白い。

前島由希 すごくいいよね。

八代 そうかと思うと、もう一人のね、えーっとね兵庫県のやつはね、踏切がね、落ちた…、降りたときにポスター貼ったの。目の前に。

一同 (笑)

八代 ほんで踏切が今度上がると、ポスターはすっーとさ(笑)。

一同 (笑)

前島由希 でもほら、ありがたいじゃない、やろうと思ってもう、やってくれるわけよ。

八代 そうね、そうしたら、ほら国鉄からね、怒られて。勝手に国鉄の職員はそれは取れないのよ。ポスターだから、公営ポスターだから。だから取りに行ったりね、そういう処理もしながら、まぁ全国回る。ほんで、あっちこっちこう回って行くとね、トラックの運転手が後ろから「おい、おい、そこの、八代英太待ってろ。あのスイカがあるからな、やるぞ。」とか、まぁ弁当とかね、差し入れがあるし。

前島由希 全国区だから、全国回ったわけ。

奥平 そっかぁ。すごいね。

前島由希 ほら、その時にでも、ほら、泡沫候補で、どうせ…

八代 それでね、ここでやって、もう泡沫候補でね、その頃出たのはね、もう…、

前島由希 参議院議員ね。

八代 吉武輝子さん、あぁ、高橋圭三、

奥平 へぇー

八代 江田五月、

前島由希 タレント議員の全盛の時だから。

八代 えー、扇千景、えー、ノックさん、

奥平 え、みんなライバル?

八代 みんな出たん…、出た、その時、

奥平 わお!

八代 タレント花盛りよ。

前島由希 タレント議員の花盛りよ、当時。

奥平 へぇー。

八代 花盛り。ほんでその時、その、あの、やるんだけれども、そんなふうなことで、こう、みんな見てるとさぁ、あの、扇千景さんの方が有名だし、八代さんはどう計算しても泡沫候補だ。そんな泡沫候補ってったって、冗談じゃないと。ほしてその、政見放送ちゅうやつ、ね。で政見放送する時にね、これが、俺が原稿なしでやったわけよ。

奥平 えぇー。

八代 ほいで、テレビ局が、

前島由希 テレビ、得意だから。ほら、テレビタレントだから。

八代 みなさん見てるとね、原稿をね、こっちでこう秘書が見てるから、みんな、カメラここだけども、こっち向いてしゃべってるのよ、みんな。

前島由希 その通り。

[00:20:30]
八代 政見放送っちゅうものはね、目と目が合ってないわけ、視聴者と、ね。ほんでまぁ、昔あのー、お袋…、お袋がね、初めて、俺が山梨のテレビ出た時に、テレビを買ってあげて、ほいで見て、近所の人が村で1台だから、まぁ、集落、みんな来たんだよ。ほんで俺がテレビでこうやったわけ。で、うちに帰って「どうだった?」つったら、「いや、俺、恥ずかしかった。」ちゅうてお袋が言うの。「何で?」ったら、「お前はね、あたしの顔ばっかり見てさ。」

一同 (笑)

八代 「隣の人の顔も見てやらんとね。隣みんな大勢来てたんだから。お前はね、私の顔を見て喋ってた。」ちゅうて。「そりゃだめだ、身内…、身内輪になる、よその人の顔も見てやらにゃだめだ。」と。

前島由希 えっ、その政見放送の原稿は誰が書いたの?

八代 俺が書いたよ。俺は書くと頭ん中入ってる。

前島由希 そいでメッセージは…、では、どう、今思えばどういうこと言ったの? カメラに向かって。

八代 だから「障害を持ってる人がいてこそ、世の中当たり前。」って。

奥平 そりゃそうだ。

八代 そうそれが、だからノーマライゼイションのあれに繋がっていくのよ。そのノーマライゼイションちゅう言葉も俺が初めて国会でやったんだけど、代表質問でね。ほんでそこでもって、原稿やって、NHKの人が「じゃ、あと30秒から出しましょうか、20秒から?」 いや、私は「5秒から出してくれ。」って。

前島由希 ほら、芸能人で分かってるから、カメラ(?)。

八代 終わりだから、終わりの時には、こうやってくれればいいと。これ、もう慣れてる仕事だからって。

奥平 え、でも扇千景さんとか、高橋圭三も芸能人でしょう?

八代 芸能人、芸能人。で、あの人たちもうまいけど、そりゃやっぱり、

前島由希 車いすですか?

八代 車いす。全部車いすを写してやってもらいたいつって。

奥平 ああ、まあね、まあね、うんうん。

前島由希 それ演出したわけ、八代さんが。

八代 演出した。そしてそれを見たら、バーっと支持率が上がったの。ほいで、マスコミがびっくりして、でびっくりして色んな取材が来たから。しかし得票の予想はどうするんですかって言ったから、(?)地図買ってきてね、北海道はテレビで中継したから、北海道5万票、青森3万、岩手は2万、山梨は10万、東京も10万、名古屋は…愛知は6万とか、大阪7万とかこう書いていって、ちょっと鹿児島までいったわけ。「ちょっと計算しろ。」って。そんでやたら数字を入れて、計算したらね、鹿児島までいってね、80万になった。80万票。

前島由希 (?)その時は勝手にそれを考えたの?

八代 そう、考えた。80万。じゃ、沖縄は0.6…、6千人、6千にしようと。そうすると八代だと。

奥平 (笑)

八代 そうすると、84万6千票を目標にしようと。

前島由希 でもまぁみんな笑ったわけよ。

八代 笑ったわけ。またマスコミが来てね、「だいたいこういうものっちゅうのはハンデ6掛けだ。つまり30万とか40万のことが、84…とかハッタリ書くもんだ。」と。「これじゃだめですよ先生(?)、もっと大きく数字書かないと」。「いやいいんですよ、はい。八代だから、84万6千票で」。で、投票したのよ。84万票取った。

[00:23:23]
奥平 へぇー! すごーい。

前島由希 すごいねー。

八代 すごい。神がかってるでしょう。

奥平 うん。

前島由希 ほれでも泡沫候補どころか、結構…、

八代 いやいや全然、高橋圭三や扇千景、俺より下よ。

奥平 へぇー。

前島由希 そう、それがすごい。ほらあの時のムードは、

八代 50人当選で、俺が20番だから。

奥平 へぇー、すごい。

前島由希 あれは、あのムードは凄かったね。今も、今40前…、今から何年前だっけ? 40年前じゃない? だって誰もその、その40年前の日本なんてもう、差別バリバリ。だけどそういう人たちが、声なき声の障害当事者だけじゃないからね、その八代さん入れてくれた人は。どこの自民党でも、どこでもない、ほら、無所属だったから。これね。どこが入ったんだ、一番。

八代 でもね、票はね、健常者が8割、障害者は2割だと思うね。

前島由希 あでも、健常者…、障害者…、そうねー。

八代 そう2割だと思う。

前島由希 そう、私健常者の人だったと思う。

八代 俺が色んなところへ、今度はそういうことではない形で挑戦してみるとね、例えばね、これは愚痴っぽく言うと変だけど、あの、障害者は割合政治にね、無関心なのよ。

奥平 あぁその頃はねー。

八代 その頃は。だからね、それでまた投票所に行かなかったしね。

奥平 今も微妙だけど。

前島由希 行けなかったから。

奥平 あぁ行けなかったつうのもあるよね。

八代 行けなかった。それで、それからこう、色々話を聞くと、投票所…、八代さんを投票したくてもできなかった、なぜなら私は家の中にいたから。そこで郵便投票とか。郵便投票、1回不正があってね、廃止になっちゃったわけ。それも全部復活させたわけ、ね。そんなことは、あの、不正を防ぐ方法を考えていかなくちゃ。

前島由希 権利だからねー。

八代 そして、投票所がだいたい2階とか3階にあると、階段で登れなくて投票できないとか、全部…、これは全部下に降ろす。ね。で今、これは全部やる。しかも、あの、車いすの人がいるから必ず一段下がった、車いすでも書ける高さの投票所の、あの、筆記するところを用意すると。これ今、僕がそれを全部提案をして、

前島由希 時代がでも、よかったってことだね。

八代 そうそう、だからよかったんだよ。

前島由希 上から、ほら経済が。

八代 ほいで1975年に権利宣言があって、その頃丸山…、あの丸山君たちもちょうど熱い頃だから。ね、で、何だっけ、あそこのあの…、うーん、精神問題…、精神障害者問題の、ほら、

前島由希 滝沢さん?

八代 いやいや、大統領。何だっけ。

前島由希 精神障害、ケネディ?

八代 クリントンの前、民主党の。

前島由希 民主党のクリントン、クリントンの前?

八代 いやいや、前。

奥平 レーガン?

八代 レーガンじゃない、レーガンは共和党だから。その前。

奥平 あぁ、カーター。

八代 カーター、カーター。カーターさんの選挙の時に、「八代さん、あの、アメリカに俺と一緒に応援に行かない?」ってなことを言ってさ。

前島由希 誰が言ってたの?

八代 いや、丸山さんが。

前島由希 丸山さんが色々仕掛け人だったんだね。

八代 丸山さん、仕掛け人…、仕掛け人だった。「それは外国人がやったらさ…。選挙なんだから。」という話になって、それはやんなかったけど。その頃1975年に権利宣言があった。で、1970、そのことを日本の外務省には、「その権利宣言の文言はどういうものだ。」って聞いたら、ないっちゅうのよ、そういうものは。書類が。

前島由希 外務省は全然。

[00:26:29]
八代 全然わかんないから。権利宣言なんちゅうものは外務省にはなかったのね。その、決議文が。それを丸山さんも一緒に知って、「それはだめだ。やっぱりこれは政治だ。」って。で、政治でやはり、もちろん、あの、会館に行ったら車いすは傍聴できない。会館は表から入れない。

前島由希 でもまぁ八代さんが行ったから、全部バリアフリーにはなったわね。

八代 バリアフリーにした。(?)。

奥平 うん、そうだよね。

前島由希 うん。で、さっき、そうそう。

奥平 私、あのジュディが…、いつ来た時、ジュディ・ヒューマン。いつだっけかな、忘れちゃったけど、あの議員会館に一緒について行った時に、あの、エスカルが付いてて、そう。

八代 そうそうそう、あの昇降機。あの昇降機も、家に、俺がこの家へ退院する時に、2階に住んでたから。ここ1階でしょう、2階に住んでたから。友だちにねぇ、「あの、ゴルフ場であの、山へこう上がってくる時にあのクラブと一緒にみんな乗ってくるカートがあるでしょう。あれとおんなじものを考えればどうってことないじゃないか。」っつってね、友だちに頼んで、

奥平 へぇー!

八代 第1号を家で作ったわけ。

奥平 あっ、すごいね。

前島由希 意外にすごい。

八代 その第1号を家で作って。

奥平 ほんと?

八代 作って。

奥平 マジ?

八代 それを中央エレベーターに、あの、引き継がして。で、昇降機ってものが色んなところに、

奥平 えぇー! 私、今、毎日早稲田駅で乗ってるんですけど(笑)。

八代 そうそうそうそう、うん。

男性 へぇー。

前島由希 意外に八代さん。意外に。聞いといたほうが。

奥平 すごいですね。

前島由希 そういうのはでも、八代さんやっぱり文にね、本にした方がいいわね。

奥平 そうだよね。

奥平 八代さん、本書いてないんですか?

八代 まぁもう今は書いてない。昔の方のは廃本になってるね。

奥平 廃本になってるの(笑)。

前島由希 あの、そう色々、結構5冊ぐらい出してるけどもう廃刊ですね。『負けてたまるか車椅子』シリーズ。

奥平 持ってるの? ここに。

前島由希 あるある、あるよ。あります。あっ、お渡ししようか。

奥平 立岩さんさ、全部さ、PDFとかにして、保存してんだけど。

八代 家に、あの、『どっこい』1冊ある?

前島由希 たぶん。『どっこい生きるぞ』とか、あるんじゃない。

八代 『どっこい生きるぞ』からえーっとね、5、6冊書いとるな。うん。ていうようなことで、ずっーと、来て。

前島由希 政治にね、27年。

八代 政治の中で、やって来たと。で、その、いわゆる障害者の世界組織ちゅう話になって、ね。で、その頃、

前島由希 DPI。

奥平 DPI。

八代 あの、ロンっていうのが日本に来て、彼はあの、リハの専門家だったけども、障害者、当事者だから。

前島由希 面白いでしょう、ストーリーが。

奥平 ロン・チャンドレー?

八代 で当事者でやりたいつうんで、ほんで初めて、外国の障害者の彼に会ったんだね。色々話をして、心が繋がって、それで1981年に入ってもらった。それ、それも1980年に、その、ウィニペグってとこで、リハ協の世界大会があって、リハビリテーション世界大会があって、そこで障害者と…、

前島由希 リハビリテーション…、RI、RI。

八代 RI。そこで障害者とRIのメンバーが衝突するわけ。

奥平 そうそう。障害者入れてくれなかったから。

八代 そうそう、入れない、当時は。

前島由希 メディカル系の人たちだからね。

八代 そうそうそう、専門家だから。

前島由希 世界的にも、だからそんなもんだったってことだよね。ね、世界もね。

八代 そうそうそう。

奥平 そうだよね。

[00:29:43]
八代 それで、じゃあ、障害者、当事者の団体を作ろうと。いうことでみんなで話になって、で、シンガポールで1981年の11月に、

奥平 あ、そうですね。

八代 第1回の、結成大会やろうと。

奥平 DPI世界会議。

八代 で俺がアジア・太平洋の議長になるわけ。

前島由希 奥平さん、81年は何をされてたんですか?

奥平 81年まだ、何も、

八代 学生よ、あ幼稚園だ、幼稚園。

奥平 普通に、あの、デパガ(笑)。

前島由希 デパートガール(笑)

奥平 (笑) アメリカに行く直前ですね。

八代 そうそう。それでそこで、俺が議長になっちゃって、まぁ16年やったわけ。

奥平 あぁ、そうだね。

前島由希 それがアジア・太平洋のDPIの組織の議長になってる時に、ADDPが生まれるわけ。それで何か、あの、八代さんが色んなとこでセミナーやる時に、そういう障害者リーダー、たぶんその時は私も関わってないんだけど、長瀬さんも関わってないか。だから、

八代 長瀬くんは、また、あのー…、

前島由希 秘書さん。

八代 あの、障害者の研修で通訳で来てたのよ。そこでそこに俺、何回か出会って、で、「あんた、この仕事終わったらどうすんだ。」って言ったら、「あのいや神奈川の高校の先生、高校の、方で…、」

前島由希 モノマネしてる(笑)。

奥平 何か似てるっぽい。

八代 「先生でもやりましょう、と思ってます…。」(長瀬さんのモノマネで)なんて言ってさ、長瀬さんが。で、「それじゃ、俺の秘書になれ。」って。

八代 「えっ、秘書になって、いいですか?」って。「いいよ。こういうことに関心があんだったら」。「え、あります。」って言うからさ、「あ、じゃやれ」っつって。

奥平 さっきメール読んだら、「八代さんだから続いたんだ。」って書いてあったよ(笑)。

前島由希 そう、でも大変だものね。国会もだって…、

八代 そうそう。それで16年やるんだけども、その間(かん)も紆余曲折あったわけよ。日本の…、日本のDPIは極も少数だし、海外を見ても「I am DPI.」で一向に組織が広がらないとか、色んなものが、

奥平 うん…。今なんて最悪だよ。

八代 そうそうそう。

前島由希 あ、今、そうなのよね。聞きました。

八代 で、まあ、これ日本で、日本でもその、まぁ、まぁ日身連…、まぁ日身連も嫌われてるんだけど、日身連とか色んな団体があるんだから、こういうものも全部包含して、ね、日本の旗は一つしかないんだから、そこでもって、みんな一緒になるちゅうことは。いや、それだったらDPIが、あの、乗っ取られちゃうってなことを長橋さんとか、色んなその、障害者…、

奥平 あぁ長橋さん?

八代 で、えぇ、何とかおさむ、えぇ何おさむ? あの千葉の。

奥平 長橋さんって京都の?

八代 京都です。で、それからほら、

前島由希 誰?

八代 え、え、みやべ...みやべおさむじゃないや。えっとね、

前島由希 みやべおさむ、ぴんから兄弟。(笑)

八代 あ、あの、あの、

前島由希 え? 誰。千葉の。

八代 千葉のあの、脳性マヒの。

前島由希 さし、さし(?)、

奥平 あ! 名前思い出さないけど、わかった、わかった。あぁ、名前忘れちゃった。

八代 ね、うん、よく国会の、あの社会党の参考人で出る人。

奥平 へぇ。今も? 今は出ないの。

八代 ひつじの会、ひつじの会やってる。

奥平 あーはいはい、はい。

前島由希 すごいでしょう。

[00:32:46]
八代 有名な人だよ。もう亡くなった? 彼は。亡くなったかもしれないな。で、そういう人たちは反対なのよ、反対なわけ。その日身連とか他の団体入れるのは。要するに日本のDPIも思想心情が一緒のグループが、で、あの目の不自由な参議員なった彼、何だっけ?

前島由希 堀さん。

奥平 堀さん。

八代 堀くん…、堀くんとか、そりゃもう俺が自民党に入った時にはもう、すごかったんだ、堀くんは。もう障害者…、障害者をその、えー「障害者を餌食にする自民党に入ったなっちゅうのが許せない。」って言われてさ、

奥平 あぁ確かに確かに。聞いた私も。

八代 ほいで、俺を...俺をその、あの、会長から、まぁ引きずり下ろすとかじゃないけど、そういう、クーデターみたいなのもあったの。

八代 「いいよ。俺がだから自民党に入ったってことがだめであれば、その思想心情が、あんまりその、『何々党だから、何々党支持だからだめ。』ってなこと言ったら、これDPIは話は進んでかないよ。そうみんな俺が、必要であれば俺が議長をするし、必要でなければ誰かやればいいんだから。」と。

奥平 あ、DPIAPの? ふぅーん、うん。

八代 そうそう。で、そしたらとにかく国際的にはほら、俺の方が信用があるわけだから。だから、「じゃとにかく、アジア・太平洋の議長はやってもらって、国内の方は、えー、議長は辞めてもらいたい。」みたいな話になる。「あ、いいんだよ」。

奥平 あぁ、

前島由希 決裂ね。

八代 それから、

前島由希 DPIとの決別がその時にあったんですよね。

八代 そうそうそう、そういうこともあったな。あったけどDPIの顧問であることは今も、存在しているから、別に。そりゃみんなにとって活動しにくいならば、俺は引けばいい話だから。しかし俺は、自民党の中で政策をやっていきたいんだから。それはどういう形でもあの、

前島由希 やっぱりほら、自民党に入んなきゃ政策に繋がんないじゃない。

八代 いいんだよ。

前島由希 でも八代さん、そん時、バーターしてたんだよね。

奥平 バーター? バーターって何?

八代 そん時に俺が

前島由希 バーターって、自民党、自民党が、八代さんを入れたかったわけ、そん時に。あの一人(一票?)で。

八代 そう中曽根さん、中曽根さんの内閣の時に…、中曽根さんのお孫さんがダウン症なのよ。

奥平 あ、そうですか。

女性同席者 へぇー。

八代 で、とにかく、あの、「私は今、あの、世に(?)まれてるけど、実はおじいちゃんとして思えば、障害者問題は自民党がやらなければ、ならない時だと私は思ってんだけど、いかんせん、自民党にはそういう人材がいない。」と。「何とか入ってくれ。」と。「うちの孫のためにも」。というのは娘さんが、僕が立候補した時に、「私は自民党。」とか「八代英太さん。」とかってなことを家庭内では言ったらしいんだよ。それは後日談もあったけど。で、中曽根さんからそう言われて。「まぁそう、そりゃそうだろな。」っつって、じゃまず自民党に、

前島由希 入れたね。

八代 をバリアフリーで、自民党に車いすトイレを作る。

[00:35:34]
前島由希 バーターしたわけ。こう、条件出したのね(?)。

八代 それと基礎年金、障害者の基礎年金。

前島由希 ここで基礎年金ですよ。

八代 ここで基礎年金やるんだよ。障害者が今までは、福祉手当をもらってたわけ、ね。老人の2万円、で、障害者の1級は3万円だったけど、あの、2級、3級からは2万円だったかな。その頃、福祉手当が出てたの。それしかなかったの。

前島由希 生活できない、生活できない。

八代 それじゃできないっていうので、調さんたちは所得保障ちゅう運動をしてたわけよ。バリアフリーも含めて。ほいじゃ、これじゃこの基礎年金の改革の時に障害者の基礎年金ってのを作った。
八代 で、今の8万6千円かな。今のこの8万6千円ちゅうのを作ったわけ。

前島由希 でも、それ…、それは大きいと思う。これはあの、自民党の条件? 何か入党する条件の基礎年金…、

奥平 それ、何年ですか?

八代 1900ね…、だから、あぁ…、

奥平 80…

八代 …6年後だから1983年、…3年かな、3年頃だね。

奥平 あっ、へぇー。

前島由希 でもこれは…、あの、私も、でもこれは、あの今、8万、やっぱりこの基礎年金があるのは、大きなことですよ。

奥平 大きい、大きい。

前島由希 この運動とか、障害持った人たちが、

奥平 調さんも一緒にやったんですか?

八代 そうそう一緒に。基礎年金、それも、そうだけど、バーターのほかは、例えば、車いすは全部無償、電動車いすも無償、というのを、まぁ所得制限があるけれども、まぁ恐らく95パーセントは無償でもらえてると思うけれども。車いすの、電動車いすの保障。

前島由希 自民党、すぐ飲んだの? それを。

八代 それは、俺が入るからその代わり、自民党に。自民党に入る。

奥平 ふーん。それみんなに言わなかったんですか?

八代 (?)手柄話。手柄話はしないけれども、でも分かってる人は分かってるわけ。

前島由希 長瀬さんはそれをすごく言ってくれるね。長瀬さんは色んなところで、これは…、

八代 それは長瀬君は秘書で…、秘書でいたから。うん。それから、その、今では心身障害者対策基本法ちゅうのがあったの。ところが障害者基本法にするわけだ、ね。これをあの、当時橋本さんと話し合いをして。

奥平 橋本、龍太郎?

八代 龍太郎、うん。ていうようなことで、制度改正、それから欠格条項。

前島由希 ま、でも、政治家…、だから、そん時のちょうどその時に、やっぱりいたから、自民党にいたから、あれは、

八代 自民党の障害者問題特別委員長ね。俺、ずっと俺がやってた。その代わり政策はだから色んな立案に対して、あの、やってたわけ。

前島由希 今いないからねー。

奥平 今いないもんね。

八代 今いないからね。

前島由希 まぁある程度制度ができてるから、まぁ後は、ね。でもほんとはいた方がいいわね。誰か若い人がね。そうそう、結構、今、話が…、これ大事ですね、意外に…、八代さん。

[00:38:25]
八代 あの、なる頃の最初の、あの、うー、養護学校の義務化が始まってね。

前島由希 そういう時代?

奥平 いつ、いつだっけ?

八代 うん、だから1978年、78年だ。1900…、義務化が、あぁあの…、養護学校義務化が始まるわけよ。

前島由希 やっと。

八代 憲法26条がすべての国民は等しく教育を受ける権利があるちゅうんで、まぁ免除されてたわけよ。

前島由希 そうそうそう、行かなくてよかった。

奥平 あーあー、はいはいはい。

八代 「中学行かなくていいですよ、家にいてください。行く場合には、こういう学校がありますから、養護学校、こういう所に入ってください。」っていうんで、その、あの、就学面接のようなものがあって、みんな振り落とされてるわけだ。

前島由希 行かない人も多かったんだよね。

八代 行かない人も多かった。その、まぁ普通の学校行く人もいたけど。その中で、その中で、文部省に、そのー、マニュアルがあったわけよ。「障害児の見分け方」っていう。

奥平 見分け方(笑)

前島由希 (笑)こわーい、怖いねー。今そういうの…。

八代 そう、教育委員会にそれが配布されてたの。

奥平 へぇー。

前島由希 ひどい話。

八代 で、「おどおどしている。」

一同 (爆笑)

八代 「醜い。」

前島由希 醜いなんてひどい!(笑)

八代 「落ち着きがない。」

奥平 ほんとに?!

前島由希 (?)に書いてあったんだって、それが。

奥平 ひどいねー。

八代 マニュアル。

前島由希 マニュアル!

八代 これが、これが書いてあることを、久保田くんが見つけてきて、で、それで俺が、

奥平 えーっ、醜いー?

八代 「一見醜い」ね、「一見」だよ。

奥平 一見だって。

八代 そこで、そのそこでもって、その砂田っていう文部大臣で、俺が、あの、委員会に特別に、よその人の時間を借りて、そこにあの、

前島由希 国会答弁。

八代 爆弾質問している。砂田さんはまぁびっくりして、「そんなのがあるとは」。大臣が知らなかった。砂田さんはいい人だから、紳士だから。

前島由希 びっくりして。

八代 びっくり(笑) 「えっ、そんなものが文科省で配ってたんですか!」って。「とんでもない話です。」って怒ってさ。だからそれは新聞にも大きく出たよ。うん。

八代 そういうことがあって、だから要するに就学免除される子でも、「あなたは養護学校。あなたは普通学校。」ってこう、決められてたわけ。俺は統合教育派だから。ね。で、統合教育派だから、統合教育、統合教育ってのをずっとやって、それが今のインクルーシブへ繋がっていくわけです。ほいで、今、全国で、その、26万学級ある、ね。学級に一人ずつ入ってても、26万人の障害を持った子が普通学校で学べる。26万人もいないんだから、障害児は。ね。そういうこと考えればね、普通学校で健康な子どもが地域の学校に行けるのに、障害があると山坂越えて行くなんてとんでもない話だ、ね。友だちもできない。

[00:41:21]
前島由希 奥平さん、特別ね。

奥平 私なんて、4歳に施設に入って、18まで養護学校の高等部卒業ですよ。

前島由希 バリバリ、もう養護…、でも養護でも楽しかったつってね。

八代 そうでしょう、ね。バリバリのだから。

奥平 いや、そんなことは言ってない(笑)。

八代 だからそりゃ、最後にはね、選択がいいのよ。本人が普通学校行きたいんならば、普通学校だし。養護学校の方が手厚くなったら、そっちに行けばいい。ね。

前島由希 今もまだそれがねー。

八代 だけど、だけど、この例えばあの、播磨の養護学校ちゅうてデカイとこがあって、そこに行ったの。で、ちょうど、

前島由希 何県?

八代 兵庫県、播磨。そこでもって、生徒たちを集めて、色々話をして、いよいよ夏休みあって、「みんな、楽しいね。」って言ったらね、「いや全然楽しくない。」って言った、子どもが。障害もった子どもが。「何で?」ったら、帰ったら友だちがいないんだから。
奥平 うん、そう。それはそうだよ。

八代 うん、ほれでね去年帰ったんだって。

前島由希 一人の子が?

八代 ほいでね、夏休みは何日…、でまぁ何日あって…、30日じゃないよ。あと学校にいるんだけど。20日ぐらいは、

前島由希 お家に帰る。
八代 お家に帰るんだって。で20日ぐらいいると、最初の、「何日だ、何日休み?」って、「20日。」ったら、「20日しかないのかい。」って言ってくれたって。そん時嬉しかった。で、2日経ち、3日経つとね、「あと何日?」って、家族が言い出すんだってさ。

前島由希 いやー…。

八代 つまり、日頃面倒見てないところから解放されてしまうと、家族はまたその子が戻って来るんだいう嬉しさの反面、新たな負担になってくるわけだ。

奥平 確かに。

八代 ね。だから「お前は帰ってくるんじゃなくて、あの学校にずっといてくれればいい。」ってものが、隔離教育のような形になっちゃった。

前島由希 ねぇ、それも不幸な話だね。それが主流になっちゃってんだね、その時はね。

八代 うん、そう。だから、これはね、やっぱりね、「地域は健康な子どもが行く学校。障害を持つと遠くに行かなきゃなんない。」って、これも理不尽だ。ね、やっぱりね。「地域の中で共に机を同じにするっていうのが大事。」いうことをこう、ほぉっと何となく素人考えで思って、そういう運動も始めて、やった。そん時ね、感動的な話があった。神奈川県の津久井郡っていうところにね、あの、学校があってね、その学校にお父さんがたまたま転勤で、その、子どもがね、筋ジスだったの、その子は。筋ジスの子だけど、

前島由希 普通校に行ったの?

八代 普通、普通、普通…、前も養護学校だったんだよ。筋ジスでも養護学校には入れられちゃうんだから。そこへ戻ってきたら、何とか普通の身近な…、手近な、

前島由希 学校に、

八代 学校に行かせたい。送り迎えは全部親が。学校は困るから。

前島由希 うん、基本ね。

八代 で、平塚っていうと…、平塚まで行ってくれっていうんで、平塚。そこから、津久井郡から平塚っていうと、もう朝、もう5時頃出なきゃ学校まで送れないわけよ、送り迎え。また夕方はお父さんも仕事があるし。で、何とか。で、トイレもあの、「全部全てやりますから。」っつってね。学校も、「おぉ、困った困った。」って言いながら、それでもまぁお父さんが熱心に学校にやって。で、担当の小林先生っていう人がね、

前島由希 いい先生?

八代 いい先生でね、この先生が、その子が来る前に生徒に作文を書かせたの、匿名で。「障害を持ったこういう…」。で、その、あの、作文を書かせた時に、あの、あそこの太宰さんがやってたあそこ、何だっけ?何とか養護、あの養護学校かな。

[00:44:44]
奥平 整肢?

八代 いやいや養護学校、あそこの。どこだっけな。

前島由希 どこ? 世田谷?

八代 世田谷じゃない。

奥平 光明?

八代 光明じゃなくて、もっと向こうの。

奥平 津久井?

八代 いやいや、あの、施設があるじゃない。太宰さんが院長してたとこ。

前島由希 東京?

奥平 整肢療護園じゃなくて?

八代 療護園かな。

奥平 整肢療護園。

八代 そこ、そこに…、あ、小池さんの整肢療護園。

奥平 あぁ、はい。

八代 そこのところの障害児たちのフィルムを撮ってきて、それを生徒に見せて、

前島由希 まずは受け入れるためにね。

八代 受け入れるために。

奥平 へぇー。

八代 そういう、その障害児の姿を、

前島由希 まず生徒に見せたんだ。

八代 生徒に見せて、

前島由希 40年前でしょう、これ。

八代 40…、もっと前、40年以上前…。生徒に見せて、「みんな名前は書かなくていいから、この絵を見て、どう思うか、作文を書け。」って、400字。

前島由希 何て書いてあるの。

八代 そしたらね、その、「何であぁいう子どもを生かしておくんだ」とかね、

奥平 (笑)

八代 「僕なら死んでしまう。」「かわいそうだ。」 もうそういうことしか書いてないんだって。

前島由希 だって会ってないからね。

八代 会ってない。「人間には思えない。」とかね。

奥平 (笑)

八代 ひどいこと、ひどいこと書いてある。もう先生びっくりしちゃった。この子がこんな気持ちのまんま教育を…、成長していったらどうなんだろうって。
前島由希 この子たちね。 [00:45:56] 八代 「1たす1は2も大切だけど、やっぱりこうした人間の世界の中で、子どもたちがこんな意識のまま育っていくのの方が、もっと罪がある。大きくなると…、この子が大きくなったら、こういう障害を持った人たちに出会った時どういうふうになっちゃうんだろう?」 いうふうに。この先生はまた立派なの。ほいで、その先生は、だからそれでびっくりして、校長を説得して、「私が全部受け持ちます。」っつって。ほいでそのクラスに入るわけ。
 ほいで、クラスに入ると、そのお父さん迎えに行くんだけれども、クラスに入ると最初の頃、みんなもう、もう生徒さん、ただ唖然とびっくりして。車いすで中に入ってくるわけだから。びっくりしてた、遠巻きしてた、それがだんだんとこう溶け込んでくると、「俺にも乗せろ。」とか、「どうすれば動くんだ。」とかなってって、そいでだんだん1学期が終わって2学期になってくと、親が送ってくるっちゅうのは、「僕たちがやっぱり送り迎えしようよ。」言うて、生徒が変わってくるわけよ。
 それを…、その、修学旅行になるわけ。修学旅行ったら京都とかって、みんな行ったら、「彼はやっぱり遠慮してもらいたい。」って校長から言われたらしいの。そりゃもう、広いところだから、広いっていうか、まぁ神社仏閣だから、バリアじゃないから…、バリアフリーじゃないから。そうしたら、「彼が行かないなら、僕たちも行かない。」って、生徒がね。「醜い」とか、死んで…、「殺したほうがいい」とか、いうようなことを書いてた子どもがね、そういう変化がある。

前島由希 (笑) 子どもはそうだよ。子どもは、

八代 素直だから。

前島由希 素直だからね。子どもは、

八代 素直だから(笑)。

前島由希 そうですよね。何か普通になって、今は、そういうね。

八代 うちの…、だって、長男とあの、いとこが、山田病院ていったら、そこに障害持った人がね、診察に来たのよ(笑)。二人はね、まだ小学校、こんな小さいですよ。俺はまだ健康な頃よ。こんな頃でしょう。「おい、見ろ見ろ。おい、こいつ見ろ、こいつ見ろ。おかしいや、おかしいや。」ってでっかい声で、本人に聞こえるように、子どもが言うんだよ。

奥平 (笑)

前島由希 子どもは残酷。子どもは、

八代 子どもは残酷よ。だから残酷なものをまた、先生が見て。素直な気持ちちゅうのはそんなもの、人間ちゅうのは。これが、そこに教育の大切さがあるわけよ。ほいで、今度はその生徒が修学旅行…、「彼が行かないなら僕は行かない、僕たちは行かない」ってこう、クラスで決議したの。ほいで、彼も一緒に修学旅行ったの。そしたら今度は俺に、「陳情書出したいから。」っつって、俺呼ばれたわけ、ね。それは、神社仏閣が車いすが通れないとか、バリアフリーじゃないとか、色んなことをこう、書いてきてね。で、えー、その子どもたちの成長にはびっくりしたんだけども。

[00:48:24]
奥平 (前島氏に対して) ねぇねぇ、もう一人分ある?

前島由希 あります。あります、あります、もちろん。

奥平 いい? 田中恵美子さんって来るんだけど。

前島由希 もちろんです、もちろんです。おぉちょっと…、おぉ大丈夫ですよ。おぉ食べて下さいね、みなさん、ご一緒に、それで。はいはい。

奥平 はい。すみません。

八代 そう、そんなことをね。そいで、そのね、陳情を受けてね、そしてその同級生のうちね、12人ぐらいがおんなじ高校に彼と一緒に、あの、受けるんだよ。ほいで受かったわけ、高校に。ほいで、受かって1週間後かな、死んだのが。

前島由希 死んじゃった、そういう、(?)、

奥平 えー! 亡くなっちゃったんですか。

八代 筋ジスだからね。

前島由希 えーっ。

奥平 あぁ悲しい。

八代 悲しい(?)。でも感動的な話だったな。以上で私の話はとりあえず休んで。

奥平 いやいや、とりあえず休憩で(笑)。

八代 疲れちゃった。

奥平 はい。

前島由希 でもまぁ、メモワだね。これはちょっと書いて起こして(?)。

奥平 ほんとだよ。これ停止。

[音声終了]

【4上09】20180406_1158V0 八代(前島)氏 4分


奥平 で、その時、こう、政治家になろうとかって突然言われて。

前島富子 あのね、ほら、怪我をして病院に入っていたのが、7ヶ月なのね。普通、脊髄損傷ってみんな5年っていう、みんな、昔は…。

奥平 聞いた聞いた、さっき。骨折したり縫ったりしながら。

前島富子 大変大変。だけどあの…、東京に戻ってこられたから、うちに、だって病院にやってることって見てたら、家でもできそうな気がして(笑)。

一同 えーっ! 

前島富子 それで、うちにいた方が、みんながいていいんじゃないかなって。

奥平 その時からここに住んでたの?

前島富子 住んでたの。住んでたの。

奥平 へぇぇ。

前島富子 だからその、何か、わりあいその、芸能界、タレントみたいな、放送局にいた人だから、そういう仕事に入ったんだけれど。だけど、家って、すごく田舎の人だから、家に固執する。で、あの近くの母のところに一緒に住んでたんだけれども、すぐにあのここに、その頃はまだね、たくさん土地があったの、この辺も。で、ここを買って建てようか、みたいになって。すごく、それが目標、目標を立てるのね、何か自分の中で。

奥平 あ、八代さん?

前島富子 そうです。で、何にもそういうこと、やらなそうでしょう?

奥平 いや(笑)、そんなことはない。

前島富子 結構に、自分の中で巡ってるのよね。それ理解するのがすごく難しいの。ただ家に関しては、「あぁそうね。」ということで、こう。
 で、家を建てた時に、あの、うちの母親とか家族って、わりあい古いしきたりとかっていうのをわりあい、こう重んじる。で、山梨の、その三男で、えー、6番目だから。家とかそういうことには縛られないわけですよ、全然。自由に生きてる人。で、例えば家を建てる時に昔の人がね、「引っ越しする時には先に日にちを選んで、南天を持ってきて」、とか何かやるじゃないですか。そういうの一切、そんなこと、絶対そんなの、あの、関係ないから、って言って、自分でどんどん、どんどんこう、まだ完成しないうちに引っ越しはじめちゃうとか。マイペースな人、ってましたよ。 それで、あの、引っ越してきて。あの、自分のところ…、2階に住んでたんですね。ところに、あの、床柱とかそういうのは絶対に傷つけちゃいけないのに、どんどん自分に便利なように、その時怪我してないわけでしょ。で、便利なようにどんどん釘打ったり、あの、自分に使いやすいように作ったりする。で、もう、「あらあら、大変な人だわ。」とか思って(笑)、いましたけど。

奥平 ねぇ、恋愛結婚ですか?

前島富子 違う、違う、見合いですの。

奥平 見合い? へぇぇ。

女性同席者 意外。

前島富子 紹介されてですね。

奥平 芸能人と?

前島富子 芸能人ではなかったん…、山梨放送。山梨放送を辞めて東京に出てきたところだったんですよね。

前島由希 お好きなの、どうぞどうぞ。

奥平 ええーっ。あ、ちょっと、止めて。

女性同席者 止め…(笑)、

【4上10】20180406_1202V0 八代(前島)氏 18分 前島富子 お見合いなんだけど、あの、私ね、あの、広告代理店に勤めてたんですよ。 奥平 へぇぇー!

女性同席者 おしゃれ。

前島富子 (笑) そうなの。勤めてて。でも私の年代だと、大学行く人なんて少なかったから、専門学校で、その時に、あの、山野…、今の主人があの、美容芸術短大の客員教授になってるんだけれども、そこ、まだ大学もなかったのね。専門学校だけ。 で、あの資格を何か取りたいと思って、色々考えたら、自分がその、人をきれいにして差し上げるとかね、何かそういう人と関わることがとっても興味があって。で、山野にも行ってたんですよ。でもあの、最初は、おじと関係のある商社にいて。で、あの山野に…、だって早く、4時ごろ終わっちゃうから、山野に、夜のその、二部に通っていて。で、国家試験取ってから…、あの、取るころってお給料はものすごく当時は安かったの。想像がつかないですよ。5千円くらいですから。大学卒業した人だって、あの、1万円も取れなかった。7千円ぐらいとか。信じられない時代。でもそれで間に合ったってことですよ。食べ物はラーメンが30いくらとかさ。美容院なんて、あの、250円、セット。200円ぐらいだった。

女性同席者 安い!

奥平 250円(笑) すごい。

前島富子 そういう時代だから。でもそれでも安すぎて。で、あの資格取れて国家試験通っても、美容師になろうという気持ちはない。ですからね。で、その時に、あの、代理店に知り合いがいて、あの、有楽町の、交通会館って今でもありますけど、あそこの中に、8階だか何かにあった、あの、えーっとね、えー、レインボー・アドバタイジングっていう、今はもう無くなっちゃった(笑)。その代理店に勤めてたの。で、そこの上司に紹介されて、すっごく田舎、田舎の人だけれども真面目で、何か、もしかしたら将来面白いところに行くかもしれない、っていう、 奥平 (笑) 

女性同席者 面白い…(笑)、

前島富子 面白いって、そのね、あの、山梨放送で、あのプロデューサーとか、も、台本も書いたりしてた人だから。何か、東京でうまくいけば面白いかもしれないって。だから、代理店だから、そういう仕事。で、何か年頃だったし。ちょっと会ってみたら、もう、今のままですよ。私は都会の人と会ってるわけじゃない。だって広告会社なんて、すっごくおしゃれな人が多いし。その前にいたのが商社だから。

女性同席者 華やかですね。

前島富子 もっとすごいの。それこそ、ベトナム…、彼がベトナム行ってきたとか言ってたけど、ベトナムとか、色んなところに支社があって。今で言ったらねぇ、あの…、シンガポールとかね、マレーシアとかね、色んなところに支社があって。だから、アジアの情報ってのがすごく入ってくるところにいたのね。
奥平 ふーん。もうその時からそうなんだ。
前島富子 すごい、面白い。だから何にも仕事はできないけど、面白い…、 …すごく面白かったんですよ。で、そんな時に紹介されて会ったら、「いや、こんなにいい人って世の中にいるかしら」。東京の男性って大変じゃん。神経使うでしょ、付き合ったりすると。 一同 (笑) 前島富子 今、今でこそね、女性の方が強いけど。昔は逆、違ったから。

女性同席者 へえー。

前島富子 それで、でも、そういう人を見ていて、ぽっと紹介された人がもう、ほんと土の香りがある人だしね。おしゃれは、こう、まちまちだしね。

一同 (笑)

[00:03:37]
前島富子 でも、でも、話…、それよりも魅力的だったのが話言葉ですよね。きちっとしてて。それで、別に結婚とかって、そんなふうにはすぐには思わなかったんですけど、きっと八代さんは、私がその、美容師の資格を持ってるっていうことの、「何かあった時に食べさせてもらえる。」とか、

女性同席者 芸能人だから。

前島由希 まだほら、売れてなかったから。

前島富子 東京に家があるということや、そういうこともあった。

前島由希 計算して。 前島富子 いやいや。そんなに計算高く、ずるい人じゃないのよ。全然そういうことできない人なんだけど。 で、あの、山梨にね、実家…、私、山梨なんていうところ、って、そう言うと怒られちゃうけど。昔から、「ぺんぺん草も生えない」って言うくらい、山梨の人って、 奥平 (笑)

女性同席者 ひどい…、 前島富子 違う、山梨の人ってすごく、大変なのよ、寒いじゃん。

女性同席者 ああー。

前島富子 寒くて、あの、こう、農産物も大変で採れないし。今は観光でもいいし、色んなことがありますけど。

女性同席者 うん、うん、うん、果物とか。

前島富子 昔はちょっと敬遠されてたの。それは、あの、しょいごこく(?)、昔だから理解できないでしょう。あの、反物ね、山梨って、お蚕をたくさん飼ってるから、シルクも少しは取れたと思う。それを、悪い人がいて、反物にして人に見せる時にはね、こう丸まってるでしょ? で、売りに来るときに、この部分だけを見せて、このシルクはすごいって言って見せて、
女性同席者 あと、ちがうんだ。 前島富子 あとが木綿だったり、 前島由希 やだー、そういうインチキのー。 前島富子 そういう商売をする人、狐狸狐狸ばなしっていうのがあの、えんど(?)、たぬきと…、キツネとたぬきの、

女性同席者 あー!

前島富子 そういうことを言われてたくらいで、あの…、なかなかちょっとイメージがわかなかったんですよね。で、そういうのを承知してるから、ほら、放送局で色々やってたから。で、自分の田舎をぜひ見てほしい、って言うので。私、田舎ってないんですよ、東京生まれだし。親戚にも農家の人いないし。で、山梨に、ある時、休みの時に連れて行ってもらったのね。
 で、もうそれはそれは、わら、わら…、かやぶき屋根の。藁ぶきじゃない(笑)、かやぶき屋根みたいな家で、大きな農家。すごい大きな農家なんですけど。でもそこにほら、東京から…、過去に色々悪い女性の問題があったんじゃない? 放送局で。で、今度東京からどんな人を連れてくるかって、親戚中が集まっちゃってて。

奥平 (笑)

女性同席者 集まってたんだ(笑)。

前島富子 とんでもない人が来たら困ると思ったんじゃないの。そこへ行ってちょっとびっくりしましたけど、でも皆ね、素朴な人たちで。農家ってほら、想像つくでしょ? 教科書で「農家の生活」っていうのがある時に、ね、あの、土間側のところ、ちょっと外に出るとそこでニワトリがいて、あの、何かをこう…、大豆とか何かを干してあって、まるっきりそういう家なの。で、まぁそこへ嫁に行くわけじゃないから、「まぁこういう所の人だったら真面目なんだろうな」。真面目っていうかね、そんなきっかけです。単純なきっかけ。それで、とんとんと結婚することになったの。 奥平 え、それで… 前島富子 で、急にそれが、何で芸能界で仕事してるってのが分かったかというと、結婚…、もう婚約をして…、婚約ってね、山梨ってね、酒入れって言うのね。昔は。お酒、一升瓶かなんか持って来て、その、それを持ってきて(笑)、みんなでこう、飲んだりして。 前島由希 ラオスみたい。途上国みたい。 前島富子 途上国みたい。 奥平 へぇぇ。
前島富子 そういうあの、変わった習慣があって。

女性同席者 面白いね。

前島富子 あの、一応はだからそういう形を取って。そしてね、それから何日かしてからね、ものすごい…、今、お笑いの人って吉本とかなんかでものすごいブームがあれ、なってるけれど、昔ね、あの、だい…、それこそあの、そのお笑いブームっていう、何かそういうブームがすごく来た時があるの。その時にね、あの三波伸介さんって亡くなった人がこう、色々な(?)人。あの方…

前島由希 てんぷくトリオ。

前島富子 てんぷくトリオ。あの方に何か誘われたのか何か、プロデューサーの知り合いが持ってる番組で、そういうのやるから、あ、何でもいいから、って。森?久彌さんの真似がすごく上手かったの。

前島由希 芸能人だから。物真似だ、物真似やったら、一人漫談みたい。

奥平 八代さん?

前島富子 そう。だから、

奥平 だから私、芸人って言ってたんだ。

女性同席者 あ、お笑い芸人って(笑)

前島由希 そう、お笑い芸人。

前島富子 うん、そういうこともできる。

前島由希 まぁ、司会とかやる。

前島富子 もともと、だから司会者だったり、山梨放送なんて小さいところだから、何でもやるわけ。全てやって。番組プロデュースもするし、営業もするしって、何でもやるわけ。で、たまたまその知り合いの方が持ってる番組の中で、あの、チャンスだからやってみたらいいって、面白いから、森?さんの。そしたらそれがものすごい評判になっちゃったの。

奥平 (笑)

前島富子 でもわずかな間だけだったの。で、森繁さんのことがすごい評判になる。で、その時に、あの、今はテレビ朝日になりましたけども、前はあの番組はね、教育テレビ。面白い、教育テレビって番組だったの。うん。「朝日教育テレビ」か何かだった。

一同 ふーん。

前島富子 で、そこで今ちょっと、あの、病気になってお出にならないけど、高島忠夫さんって方が、

奥平 あー、いるいる。

前島富子 高島忠夫さんと、いしだあゆみさんと、もう一人こう、誰かを使って、お昼のワイドショーみたいな、それは土曜ショーだった。土曜日だけだった。土曜ショーっていう番組を作るから、それに八代ちゃん、是非ね、出てほしい、って言われて。それがいわゆるワイドショーっていうか、そういう番組に出る、あの、テレビにすごい出るきっかけだったの。
前島由希 いい時代だよね。だから青島さんとかでしょ。 前島富子 そいで、その土曜ショーが終わ…、土曜ショーがやってる最中に、今度は、あの、木島則夫さんて方がいてね、NHKのアナウンサーで。その方がものすごく最初、テレビ朝日でワイドショーが受けて、朝のワイドショーが受けて。あと桂小金治さんがやるのとか、すごくワイドショーブームになった。そしたら…、
 (他の方に向かって) 誰か来てる? 違うか。
 そしたら、日テレが、あの、ワイドショーを始めるってことになって、青島幸男さんと、ちなっちゃんと、
 (男性と由希氏に向かって?) …あ、ごめん、いい?

前島由希 大丈夫です。

前島富子 そしてそれで、そこにやっぱり八代英太が必要だ、と言うことになって選ばれたんです。ものすごい厳しいプロデューサーだった。だけど、あの、今みたいにニュースとかそんなにやらないんですよね、企画ものが多くてね。で、それを始めた時は、もちろんもう結婚してたんですよ。お昼のワイドショー始まった時は長男がいたのかな。それで3年目くらい…、その番組7年目に怪我をしちゃったんですよ。

奥平 へぇ、あぁ。

前島富子 それであの、番組中、番組やってる時にこの人も生まれて、その次の、あの、弟が46年ですから、まだ番組やってましたね。

奥平 ひでき君だっけ?

前島富子 かずき。

奥平 あぁ、かずき(笑)。失礼、失礼。

前島富子 そうそう、だからもう皆小さいじゃない、まだ。それで、だからお昼のワイドショーが、もう、すぐに始まってたのね。で、あの、怪我をしたのはだから、結婚してから7年…、7、8年の頃ですよ。

奥平 ふーん。

前島富子 だから子どもがみんな小さいじゃない? で、今ラオスにいる息子なんかは1歳半くらいでした。だから、どうしよう…

奥平 びっくりして、大変だったでしょう?

[00:11:22]
前島富子 で、父親参観日、6月の、今でも忘れないんだけど、6月の3日って、あの、父親参観日があって、小学校1年生だったの、長男が。で、父親参観日、行けないじゃない? だから私が行って。そしたらそこに、あの連絡が入って、「すぐ帰ってくるように。」って言われて。家に帰ってきたら、あの、主人の弟がマネージャーみたいに付いていたんです。と、また電話が入ってきて、ものすごくもう、慌ててて。で何を言ってるのか分からないけどすぐに、その、刈谷の病院に来てほしいっていうことだったの。で、何か怪我をしたらしい、てことがわかったの。で、電話切ってすぐに、あの、まぁ長期になるなんて思わないから、ちょっと簡単なあれをして持って行ったら、何かね、ニュースのね、あの乗り継いでいく時に何となくこう、胸騒ぎっていうかさ、私に来るようになんて言うこと普通ないじゃない?

奥平 うん、うん。

前島富子 ちょっとの怪我くらいだったら。だから何か大変なことなのかな、と思って、病院に乗り継ぎながら行ったら、あの、もうマスコミが、その頃もうボツボツそういうマスコミが、新聞社の人たちがいてね。あの、危篤だ、って言うのよ。要するに危篤、危篤で、「どうしますか。」って。どうしますかって言われたってねぇ。会って見なくちゃわかんないじゃない(笑)。

奥平 危篤だって言われたの?

前島由希 ねぇ、これきっつい。背骨…。でも、昏睡状態だった。

前島富子 病院…、病室で、あの、行った時はもうこう、何て言うんですかね、痛み止めってすごい強いの打つのね。もうあの…、だから何て言うの、この、脊髄がもう折れちゃって、

奥平 あぁ、だから昏睡状態だったんじゃない。

前島富子 うん、そいで、あの、わからなくて、でも、もう少し経ったら、先生が意識が戻りますよ、みたいなことを言って。でも戻ってきたらすごく、もう、普通に話すんですよ。

前島由希 あれ?とか言って。

前島富子 だから「あら?」と思ったんだけれども、でもあの、「自分がどうしてここにいるのかわからない。」って言うのね。で、あの、私も事情聴いてないからわかんないじゃないですか。

前島由希 うん。「怪我したんじゃない?」とか言ってた。

前島富子 そしてね、そしたら先生ってか、看護師さんが、危篤だっていうのを認識できたのはね、病院って、ナースセンターの前って、そういうそばって危ない人入れるじゃない。そこに入ってるから、まぁ、すぐにほら、診られるようになってるから、まぁすごい大変なのかなって思って。点滴や何かいっぱい入ってるからね。そいで、先生と、来た時にその、「こういう状況です。」って、自分じゃ動けない。「こういう状況です。」って身体をこう、両方に何人かで横にした時に、裸でいるから。こんな大きな、背骨のところに…、こんな大きなコブができてて、

奥平 コブ?

前島富子 コブ、うっ血してる。

前島由希 後ろから打ったから…、打ったから、でもほら、

前島富子 まだ手術も何もしてないから、そこはもう、出ちゃってるのよね。

前島由希 骨が折れてる、折れて…、

前島富子 うん、骨は出てないけど、うっ血…、だからもう出血してるから、そこが膨らんじゃってるわけでしょ。そしたら先生が、「専門の先生が実はここにはいなくて。」って言うの。いなくて、あの、週に1回だけね、あの、名古屋医大、そこから先生、教授が来るから、今すぐには死ぬことはないから、このままで、って言うの。そうするとね、あの、何しろ痛がるのよ。時々、何でもなくしゃべってても、突然ものすごいうなったりするの。で、もう、すごい痛そうだから、あの、すぐ注射、痛み止め打ってくださいって言ったら、先生が「これはね…」、あの、ほら、癌の末期の人が打つじゃない。

奥平 モルヒネ。

前島富子 モルヒネ。モルヒネに近いから、これ3本以上打つとね、もう、こう、脳が、

奥平 脳が死んじゃう。

前島富子 って言うの。そうそう。脳がね、いかれちゃったら困るじゃない。で、死ぬとは思わないから。何にも意識、正直あれがないじゃない、私自身の。

前島由希 わかんないんだから。

奥平 わかんないよね。

前島富子 それでじゃあ、それは看護師さんが教えてくれたの、婦長さんが。

前島由希 止めた方がいいって?

前島富子 あの…、痛いけれども、これは1回もう打ってるから、あの、すぐには打てないから、少し、あの…、

奥平 我慢して?

前島富子 うん、あの…、しましょうって、でもすっごい痛そうなの。そしたら、そうやってるうちに、側にいたら何かね、こう…、もう、本人は少しね、おかしくなってるの、その痛みと注射や何かで。で、その時にね、うわごとみたいにね…、あの、両親がね、その怪我をする前年に亡くなってるの。両親が2月と12月に、同じ年に。で、亡くなってるはずの両親がね、いるっていうの、ここに。
奥平 えーっ、迎えにきたの。 女性同席者 見えちゃったんだ。 前島由希 三途の川へ呼ばれちゃってるんだ。 前島富子 それでね、あの…、あの、お母さんの名前呼んだりね、お父さんのこと言ったりするわけ。で、気持ち悪いじゃん、そんなの。どうしちゃったかと。で、そういう時に起こしてもいけないって言われるから、いやもう本当に若かったですからね、まだね(笑)。びっくりして、「どうしよう?」と思っていましたよ。
 でも、あの、その時に、意識がまた戻った時に、あのそこにいるから、今ここにいたからまだ遠くに行ってないから、呼びに行ってくれって言うの。で、呼びに行かないとまたほら、ね、あれだといけないから、ドアを出てって、「困ったな。」と思って。私がもう東京の…、母がみんな、子どもをみんな見てくれてましたから、あの…、「すぐ死ぬとかって状況じゃないけれども、すごくもう危ないから、どうしたらいいのかわからないけれど。」って言ったら。母がね、うちは母がすごい立派だったのね、で、「落ち着きなさい。」って言って、もうあの、絶対にね…、

[音声終了]

【4上11】20180406_1230V0

八代(前島)氏 21分

前島富子 今、問題になってるでしょう。あの、えっと、優生保護法の、もうあれは、もうあの、途中で政治家になってからも関わって、良くないっていう話になったけど。ほら、妊娠するなって、  女性同席者 あぁ、中絶強制の、うん。 前島富子 そういうことの相談を沢山…、あって、で、もう所沢のその彼曰く、自分の意志でね、自分の意志で子どもを持ちたいって思っているのに、

奥平 女性が?

前島富子 女性が。それはものすごく理不尽なことで、良くないって。だけど今、病院って言ってたかな、あの頃ね、本当に不妊手術されちゃうんですって。 奥平 あぁ、そうですよね。そうそう、そうそう。

女性同席者 へぇー。

前島富子 それであの、そうしたらそれは、あれですよ、その身体障害だけじゃなくって、あの、

奥平 うんうん、聴覚も、そう。あぁ視覚も、うんうん。

前島由希 今、知的の人のこと言ってるけど、みんな、全般的に。

前島富子 ここにね、知的の子もね、来てね、かわぐちのあの、女性だったけれども、

前島由希 わたなべふみえさん。

前島富子 ふみえさんじゃなくて、ふみえさんは、あの、身体障害で。あの、かなり(?)の、自分は、そういうその、公害の、公害で障害を持ったんだって言ってるんだけど、周りの人がそれを認めてくれないのね。で色んな人来たけど、一人その、知的の子がね、好きな人ができちゃって、どうしても結婚したいって。それは幸せに…、親も色々協力してるから、幸せだと思うんだけど、「子どもだけは絶対産んじゃいけない。」って言われていて。

奥平氏・女性同席者 へぇー。

前島富子 でも「子どもが欲しい。」って。どうしても子どもが…、あの、その、彼の子どもをね、産みたいっていう。

前島由希 軽い人なんでしょ?

前島富子 ちょっと軽かったね。

女性同席者 あぁ、でも素晴らしい。

前島富子 そういう人もいて。で、あの、「自分たちでちゃんとできる。」って。「子ども育てるのはすごく大変よ。」とかってそんな話、一所懸命しながら(笑)。
 「でも、お母さんが協力してくれるって言うのだったら、もう一度よく相談してみたら?」って。「自分たちだけではできないけれども、助けてくれる人、周りの人と協力したら、あの、そんなこと何でもないから。」っていう話をして。で、一人子どもを産みましたね。それで、引っ越してから、だから、ちょっと今、音信がないですけれど。だけどその所沢のとこで行ってる時に、そのCPの人だけじゃなくて、盲人の人たちも集まってきちゃって。

奥平 へぇぇ。

前島富子 そうしたらそこでね、あの「『座頭市』が良くない。」って、「あの映画が何とかならないか」(笑)。「理不尽な話がたくさん出てきて」(笑)。

前島由希 …座頭市。

前島富子 だけど、そしたら八代が曰く、でもね、確かに色々な問題があるかもしれないけれども、あの、そういうあの制度が江戸時代か何かにできたじゃないですか、ね。それは非常にその、あの、その頃まだ塙(はなわ)…、あの方のこと知らないから、勉強はしてて。塙…、何か今偉い人いるじゃない。その、盲人の人の一番基礎を作った人で。

前島由希 誰、塙って?

前島富子 あら嫌だ、あなた知らないとだめよ。絶対、勉強して。

奥平 え? 誰?

前島由希 奥平さんが知らないからいいや(笑)。

奥平 戦後、あの、戦傷者じゃなくて?

前島富子 じゃなくて。じゃなくてよ。

奥平 あ! 分かった、「塙、何とかいち」って人。

前島富子 「よいち」だか、「何とかいち」って人、そうそう。

奥平 あぁ、何とか賞があります、塙何とか賞って。

前島富子 あるでしょう、あるでしょう。

女性同席者 あぁ、あぁ。わかりました。基金みたいなやつありますね。うんうん。

奥平 あるよね。

前島富子 あるでしょ。そうそう、その人有名な方ね。その方の弟さんもすごい学者でね。すごいの。

奥平 へぇぇ。 [00:03:36]

前島富子 だけどその頃は私たちは何にも…、もうゼロだったの、障害のある人たちに対してのことが。スポーツのことはね、あの、ワイドショーをやってたから、司会をしてほしいって。今思えば、東京都の障害者スポーツ大会が代々木じゃなくて、どっかで行われている時の。それを八代さんにしてほしいって言ってきたんだけど。

奥平 王子でやってるやつですか、今?

前島富子 今? 今も東京都もやってる、駒沢でやってるわ。

奥平 あ、駒沢か。

前島富子 駒沢…でやってる。それでライオンズがスポンサーになって(?)。

前島由希 だって、ね、50年前から東京に障害者スポーツ協会ってのはあるんだもんね。オリンピックの、ほらあの、オリパラのあと。

前島富子 うん。で、全然その、理解ができない…、わかんないじゃない。だからそれは、お断りしたんだけれども、一応お断りしたけれども、そこはすごいのよ、「行ってみよう。」って言って。「どういうことをやってるのか。」って言って、ほら。その頃は勉強とかって(?)、知らなくちゃいけない、自分も、障害を負ってるんだから、

前島由希 あ、その時なってたからね。障害者だったから。

奥平 ねえ、落ち込みました? 八代さんとか。障害者ってわかって。

前島富子 あのね、打ち込めないんだけど…、

前島由希 落ち込み。

前島富子 あ、落ち込む。あ、落ち込むのはね…、うん、あの、初期にはありましたよ。

奥平 ふーん。

前島由希 鬱みたいになった? 鬱。

前島富子 あの、表面にはこう、出さないんだけれども、ちょうどね、6月だったでしょう。また刈谷の病院の6月って、暑いのよぉ。

奥平 刈谷ってどこだっけ?

前島富子 愛知県。

前島由希 豊田の近く。

前島富子 豊田市の近くなんだけど、もうね。

奥平 あ、そんなとこ。

前島由希 事故がそこだったから。

奥平 あぁ、そうなんだ。

前島富子 もう大変。だから、あの、5時頃になると、病院の業務が終わっちゃうと、冷房が切れちゃうわけ。入院してる人はもう、全然関係ないのね。

女性同席者 えぇ。ひどい。

前島富子 だから暑くて暑くて(笑)。金網に蚊がはりつくように、もう、いっぱいいて。そいで、だから、私が、この人の神経がもう戻らないのかなと思ったの。蚊が教えてくれたの。蚊が、病室だけど入って来るでしょう? ドアを開けておかないと、暑いんだもん。そうするとね、蚊がね、足にいっぱいこう、ついてるの。

奥平 刺さっても感じないんだ。

前島富子 全然かゆくも何も感じないの。で、「蚊がいるじゃない。」って、パンパンって叩くでしょ。で、血を吸ってるの。でも、「えー。でも蚊だって生き物だからね。」とかって(笑)。何か仏様になったような状況でしたね。

奥平氏・女性同席者 (笑) [00:06:08]

前島由希 その点は、前…、て言うか、超ほら、性格も関係したから良かった。良かったじゃないけど、大変だけど、ああいう性格だから、ほら、次にほら、もう切り替えが、

前島富子 こう、暗ーく、自分で背負い込まないのよね。

前島由希 一瞬暗くなるけど、

前島富子 こう、この、自分が認識して、自分が、…脊髄損傷というのを内緒にしてたんです、私が。うん。言ってしまった、今…、その頃から、告知ってのが色々騒がれてる。癌の人のね、告知なんかね。だけどね、この人にね、そんなこと言ってしまったらね、あの、すごい落胆しちゃうだろうと、私がそれは思ったの。だから、

前島由希 え、でも告知した時はどうだった? 前島富子 2ヶ月くらいは言わなかったですね。で、私がしたんじゃなくて私は、あの、色々事務所の…、事務所も閉めなくちゃならないし、あの…、ずっとスケジュールは先々まで入ってるのね。だからその、そういうところにもお詫びしなくちゃならないし、そういうことがあるから東京に一度帰ったんですよ。日帰りするので帰った。で、帰った時に田舎から…、主人、兄弟が多いのね、8人兄弟。で、田舎に4人いるんですけど。その長男…、主人の長男って政治家なんですよ。

奥平 えー。 女性同席者 さっきおっしゃってました。

奥平 あぁ、そうだったね。

前島富子 だから…、だってお父さんもその村の何とか(?)になったりとか、そういうのだから。あの、政治やってるお兄さんも、田舎の県議会議員って、えらーい、えらーい、いばってるのよ。もう、とんでもなく。で、その、お兄さんたちが、私がいない時に来て。で、お姉さんも二人いて、お兄さんと弟とが来たのかな。そしたらね、そのすぐ上のお姉さんってわりあいこう、文学少女だって、色々なことをね、本を読んだりなんかしてて、弟がそんなんなっちゃったのが悲しいわけじゃない。で、何とか励まさなくちゃいけないと思ったんだけど、週刊誌や何か、主人が…、 前島由希 切り抜き持ってきちゃった(笑)。 奥平 (笑) 前島富子 出てる新聞や何か、出てる、

前島由希 スクラップ?

前島富子 スクラップブック、全部、もう、

奥平 脊髄損傷って書いてある(笑)、

前島由希 そう、もう、がーんって、もうそのまま、再起不能みたいなやつとかあって、もう絶望か、みたいな、ショック。

前島富子 そういうのが書いてあったのを見せようと思ったわけじゃないと思うけど、持ってきたら、想像したよりも弟が元気で、普通に色んなことを言うから、「自分のことが何もニュースにならなかったの?」ってこう聞いたら、田舎の人だから、非常に正直で、

前島由希 ほらほらって、

前島富子 「いや、すごくニュースになったんだ。」って言って。

前島由希 見せちゃったんですよ、スクラップブック。

前島富子 それを見せちゃったんですよ。それを見せたんだけど、それはショックだったと思いますよ。それでみんな帰った後、私が東京から戻ったじゃないですか。全然何もしゃべらないの。何もしゃべらないの。で、ちょっとおかしいなと思ったんだけど。そしたら、あの、お姉さんからね、聞いたって言うのね。だから「まだ分かんないのよ。奇跡だって起こるじゃない。」とか。
一同 (笑) 前島由希 とりあえず、励ます。 前島富子 「奇跡だって起こるから、まだわかんないから。」っていうようなことを言ったら。で、そうしたらでも、その時に、自分の子どもがまだ3人ね、小さいし。「もう一度自分は頑張ろう。」と思ったんじゃないですか、わずか何時間かの間に。

奥平氏・女性同席者 ふーん。

前島由希 ポジティブシンキングね。

奥平 それすごいね。いいね。

前島富子 それで、「頑張る。自分はね、大丈夫。頑張るから、心配しないで。」って言って。

奥平 へぇー、偉いね。

前島由希 気をつかっちゃうの。

前島富子 で、リハビリをそれからものすごっく…、すごかったですよ。

奥平 へぇぇ、かっこいい(笑)。

前島由希 若いから、38…、

前島富子 ものすごい、バーベルなんかあの、今ピアゴ(?)に出られるんじゃないかと思うくらい、大きなあの…、

奥平 出ればよかったのに(笑)。

前島由希 やっぱり身体をつくんないと、だってほら、(?)段差を超えたり。

前島富子 だって今みたいないい車いす、ないんだもの。名古屋にあった片山車椅子っていうのは、もう入院に使えるかって(?)、もう重たくってね。今は10キロぐらいでしょう、普通の車いすって。

奥平 うん、うん。

前島富子 15キロ以上ですよ。もう、もっと重たかったかな。で、そんな重たいのだから、それで転倒とかするのも、訓練するわけ。

奥平 へぇぇ。

前島由希 リハビリだから。

前島富子 リハビリで。普通の人はやらないよね。年寄りが多いから。だけどまだ若かったから、「何でもひと通り、全部やらしてください。」って。

前島由希 若いからね、30代。

前島富子 転倒…、こんなんやったりね、坂道をこうして下りていくのとか、もう失敗しながら何回もやって。もう普通の人がね、リハビリの時間って朝ね、2時間ぐらい…、1時間半くらいで終わるんですよ。もうお昼ぎりぎりまで。

女性同席者 えぇー! すごーい。

前島由希 (笑) 体育会系だから。八代さんは基本ほら、マラソン選手だったから。

奥平 あぁ、そう。

前島富子 そうそう、マラソン選手だったの。

奥平 あぁ、そうなんだ。へー。

前島富子 だって、高校生の時に、さの高校で、高校から新宿まで、あの、みんなマラソンでね、あの、来るっていうのが、山梨県ではどこでもわりあいそういうのやってたのよ。

奥平 箱根駅伝みたいな。

女性同席者 へぇ、だから駅伝なんだ。

前島富子 それで、何しろ記録保持者なの。

奥平 えーっ!!

前島由希 もともと体育会系だから。

奥平 あぁ、そうなんだ。

前島富子 だから、前向きになれるんだと思うのね。だから悲壮感があるなんてことはないのよ、病気になっても、私たちは。

奥平 あぁ、でもじゃあ良かったですね、ある意味(笑)。

前島富子 そう(笑)。ある意味ね。だから一日だけありましたよ、一日だけ、もうどうにもならない時っていうのが。

前島由希 性格も、だから良かったよね。ほらだって…、そういう話聞くじゃない。たぶん、当時は…、

前島富子 みんなだから、あの、東京に戻って来た時に、一緒にいる仲間が、 前島由希 それ聞いた、聞いた。「いいな。」って、八代、自殺しちゃったり、ほら。

前島富子 あのね、みんなね、若い男の子だから、彼くらいの。 前島由希 そうだよね、みんなほら、体操とかしててさ、その当時、あるじゃんそういう事故って。

前島富子 鉄棒から落ちたり、そういうので怪我したり。 奥平 あぁ、高嶺豊、そうだよね。 前島富子 高嶺君なんかは、あれですよ、あの…、初めてハワイで、

前島由希 でも、今もあるよ。今もあるよね。

男性 聞きますね。

前島富子 あの、ハワイで、高嶺君と…、亡くなっちゃったけど、あなたが言ってた、あの彼がいるじゃない?

前島由希 え、マイケル?

前島富子 マイケル。

前島由希 あれはまさに奥平さんの、

前島富子 だけどその頃、奥平さん知らなかったのね。あの、マイケルと、あの、高嶺君が、あの、ハワイの空港まで出迎えてくれてて、

奥平 えー、八代さんを?

前島富子 議員になってた、議員…、参議員になったばかりだったかな。そして高嶺君が、あの、すごい大変なところにね、あの、寝泊まりしてて、でも頑張って、彼は、すごい頑張った。もう、「ゴキブリだらけのところに僕はいたんですよ。」と言うくらいだったの。でもその時にあの、奥平さんたちの、そのね、マイケル・ウィンターたちの運動に参加して、色々やり出したのね。

奥平 うんうん。

前島富子 彼がだから、日本に帰って来てすぐは、うちに、ここに住んでたの。

奥平 高嶺さん?

前島富子 うん。

奥平 へぇぇ。

前島富子 で、ずっとあの、来て…、そしたらお兄さんが

前島由希 お茶お茶、

奥平 あぁ、大丈夫、大丈夫。

前島由希 大丈夫。後でお茶入れるね。

[00:13:15]
前島富子 お姉さんがここに…、だからここに寝泊まり…、あの、いや、うちのところが空いてるからいいですよ、大丈夫ですよって言って。あの、入ってたんだけど、そこの部屋をうちね、チャウチャウを飼ってて。チャウチャウがね、その部屋が大好きで、空いてたからもう入って、そこにいたのね。だから高嶺君がベッドを入れてそこに、あの、こう仕切ってて…、仕切られてるところなんですけど。入ってたら、犬がね、自分の城を取られたと思って、ドアをこう開けて入ってくるんだって。だけど高嶺さんはすごくその、そういうことを受け入れてね、「犬と一緒に寝てたんだよ。」って(笑)、いうくらい。

奥平氏・女性同席者 (笑)

前島富子 だからしばらくここにいて、そいで横浜の、あの、ご紹介して、リハビリセンターの方に。で、その時から色々、色々な話を、だから、できていましたよ。
 だから八代が、本当にその、気づいたのは、普通のそういう人たちから色々連絡が来て、あの、普通だったら断れるけれども、「行ってみよう。」って言って。あの、一緒に。だから私はそういう初期のことを知ってるから、あの人に頭が上がらないの。すごく、すごく頑張るから。だって分からないことって相手にとって失礼にしちゃうこと、たくさんあるじゃない。そうするともう、直接色々な抗議をされたり。夜中に3時間ぐらい電話を切らないでかかってくる人がいたり。本人は出ないんだけど、私が電話聞いてると、聞いてると逆にその、彼はどんなに苦しい…、

奥平 あぁ、障害者から?

前島富子 うん、障害者から。始めね、何かね、あの…、カラオケ大会をしたいって、その人たちが言うのよ。

前島由希 入院してる人たち?

前島富子 商品になるものがない。

奥平 入院してる人たち?

前島富子 入院してる人たちじゃなくて、一般の。一般のところで。それもね、埼玉の人だったかな。何か色んな人が集まってたところ。で、審査員に来てほしいって。だけど優勝してもその賞品とか何かがないから、何かあったら、あの、もらいたいって言うのよ、またね。

奥平 あ、八代さんは有名だから、みんな電話してくるわけか。

前島由希 来てほしい。

前島富子 直接くるの、電話が。

前島由希 それは障害者のカラオケ大会?

前島富子 そう、障害者の。

奥平 とか、色んなことで電話してくるわけ?

前島富子 だからそういうのに、あの、聞いててやっぱり「できるだけ行きましょう。」って言ってたわけ。だってわからないんだもの。

前島由希 だって運動してないから、いきなり「にわか障害者」になってほら、実際は運動の人たちはいたじゃん? その時だって。

奥平 そうだよね。

前島由希 だけどそことは接点がなかったから。

前島富子 私が受け入れられたのは、あのね、あの、昔の映画のね、『しいのみ学園』っていう映画知らない?

奥平 知らない。

前島富子 あの、九州の。

前島由希 宮城まり子さんのじゃ(笑)

一同 (笑)

前島富子 違う、違う、宮城まり子さんじゃないんだけど。その人有名な方よ。あの、えーっとね、

前島由希 もっと前?

前島富子 福岡じゃないかな、長崎か何か、九州の方なんだけれども、ご自分の息子さん二人ね、あの、本当に重度のCPだったの。それでどこも受け入れてくれなくて、お父さん学校の先生か何かだったような気がするんだけど。で、その子どもを、あの、一所懸命自分が、あの、勉強とかそういうのやってるうちに、その話が伝わって、その先生のところにいっぱい、その、障害のある人たちが来るようになったのね。

奥平氏・女性同席者 へぇぇ。

前島富子 そこであの、みんなを受け入れて一応、形はその、あの、しいのみ学園…、しいの木があったからね。そういう話を、本に書かれたんだと思う。で、それを映画化したんでしょうね。で私がその映画を観たのはね、中学生の頃ですよ。で、それで香川何とかさんて女優さんがね、ものすごい…、あの、お母さん役だったんだけれど、その、障害を持っていてものすごく大変なんだけれども、大変…、こう、物理的なことがすごく大変なわけじゃない。ね。で、考えたら色んなこということが普通に、こう、いいあれがあるから、才能を伸ばしてあげたいと思って、みんなの話をよく聞くわけ。普通の生活をするわけ、その家の中で、何人かと一緒に。で、その生活をすごく、あの、映画で観てて感動してね。「あ、もう色んな生き方があって、お金持ちの人がいて周りに…」、その当時あったのよ、「…そんなのやってるけれども、でもさ、国って本当は、みんなが一緒にそういう基礎的なところではね、みんなが一緒に色んなことが学べるようなことができたらいいのにな。」と、

奥平 そうですよね。

前島富子 ね。その頃、その、中学生の頃思ったことがあるの。

奥平 へぇぇ。

前島富子 うん、きっと素地はあるのよ、だから私。

奥平氏・女性同席者 (笑)

[00:17:47]
前島由希 でもあの、ほら八代さん…、八代さんは、大雑把なところはあれだけど、細かい、あまり繊細ではないから。ぽろぽろ…、ほら、例えば、ねぇ、あれの時は、たぶん、あれ富子さんカバーしたんじゃない? 若い時。ね。八代さんはああいう感じだから。

一同 (笑)

前島富子 性格はあれでいいのよ。だってそうじゃないとお互いにしんどくなる。できもしないことを言ってもね。

前島由希 それでね、そういう細かいところは八代さんがケア、ほら、色々対外的には。騙されたりあったけど、たぶんそうだ。

前島富子 なぜね、それをやるようになったかと言うとね、秋山ちえ子さんがね、この人なんか小さい時に、

前島由希 この人知らないのよ、私たちの年代って、ほら秋山ちえ子さんってどういう、

奥平 でも、あとでグーグルします、はい。

前島富子 教育評論家って…、自分のご長男が自閉症だったけど、そのことはずっと伏せてて言わない。

奥平 その頃は自閉症って言葉もなかったじゃない。

前島富子 なかったからね。

女性同席者 あ、なかったんですか?

前島富子 なかったかもしれませんよね。それで、何をやってもね…、その、もう、自分の、そういう教育評論なんかやって、ラジオで「秋山ちえ子の談話室」っていうのが、NHK…、ラジオね、ラジオでもうものすごく評判が良かった。それから秋山先生はTBSに移られて、TBSでもその談話室をやってたの。それはもうね、何千回って続いて。えー、85、6歳までやってましたよ。

奥平 えーっ! すごいね。

前島富子 すごい。で、その人が、あの、えとね、フジテレビでね、あの…、番組があったのね。何ていう題名だったかな。

前島由希 (玄関のチャイム) 先生? 先生かしら? はーい。はい、恐れ入ります。

奥平 またゆっくり。

前島富子 先生、ご飯は?

奥平 先生っていうほどの、違う(笑)

前島由希 遠くまでありがとうございました。

田中 いえいえ、全然近いんです。東京家政大学です。

前島由希 ええー! 家政大学はそこでございます、歩いて…

前島富子 もう一人いらっしゃらない? 家政大学って。

奥平 もう一人いるの?

前島由希 家政大学すぐそこです。

田中 お土産も家政大学グッズで、、すみません。

同席者 家政大学のすぐそばにスワンがありますでしょ?

前島富子 スワンベーカリー。

奥平 ねぇ、それで秋山ちえ子さんはどうなったみたい?

前島富子 話すわよ、じゃあ終わってからお茶淹れる。

前島由希 ストーリー始まってるよ。

田中 ストーリー始まっちゃってんの?

奥平 もう、すごい話が始まってるから。だから「早く来て!」って言ったの。

田中 「えー! 待って待って」、みたいな。


[音声終了]


【4上12】20180406_1307V0 八代(前島)氏 1分


八代 アメリカの、ハワイ大、彼はあの、沖縄の人で体操の選手で、脊損になって。アメリカに行って、彼が床ずれになって箱根療養所に、箱根療養所に(笑)、

奥平 行ったんですか?

八代 来てね、入院してて。真っ黒に日焼けした若者がね、うつ伏せでね、あの、いるじゃない。名前を聞いたらね、高嶺豊だっていうことが初めてそこで知って。学生で、ハワイ大学行って一所懸命やってるんだって話聞いて、「おぉすごいなぁ。」ってね。うん。

奥平 え、じゃあ、議員になって、どこまで今、聞きましたっけ。

女性同席者 障害者基礎年金まで、ですね。

奥平 基礎年金…、

前島由希 基礎年金のじゃあ話をまた。

田中 基礎年金の話。

奥平 基礎年金の基礎もつくった…、

八代 いやいや。伺いたいことをおっしゃってください。知らないことをのぞいては、みんな知ってますから。

一同 (笑)

田中 確かに。今日は何か、色んなことを聞いてこい、というのもあったよね。

奥平 何だっけ?

田中 立岩さんから。

奥平 何だっけ?

田中 ちょっと待ってよ、フォルダーを変えて。はい。

奥平 じゃ、これいいな。

田中 えーとね、一つは、その年金…

【8下01】20180406 八代氏 後半 v-610237-9

奥平 これ、いいな。

田中 一つは、年金のくだりはよく聞いてきなさいと。

奥平 あ、本当。

田中 はい。ということでした。

八代 1983年から障害者年ですよね。20年間、2002年まで。この頃、障害者の権利宣言みたいなものが1975年に世界で発信されて、日本はとてもそこまでは追いついてない状況下でした。というようなことでやっている時に、やっぱり、障害者が生きていくのに、親がかり福祉であってはいけないと。いつまでも大人赤ちゃんでも困ると。我々は障害は持っているけれども一人の人間として生きていくんだ、また、生きたいんだと。で、親離れも必要でしょうし。やっぱり二十歳過ぎたら自分で稼いで自分で生きていくと。しかも、どこで住もうが施設で暮らそうが街へ出ようが、どこでも、言わば移動の自由というか、生活の自由というかね、そういうものも障害を持つと、家でだめならばあの山の中の施設へ、ってな風潮が当時あって。日本のそもそも、福祉そのものも高度経済成長の中で、欧米が先進国的なものでしたから、それに追いつくためにどうするかってのを模索もしたと同時に、何か日本でも、お金が…、所得が増えてきたのに、何か政治では足らないところがあるんじゃないかっていうので、橋本龍太郎さん、お父さんが小児麻痺で障害を持っておられて、そういう障害者への偏見みたいなものは子どもの頃からよく知ってたものですから。
彼の時代になって、もちろん厚生大臣もやりましたが、言わば自民党の、与党の福祉政策の人ですからトップの存在でした。私と年は同じなんですけど。彼は遥か20数歳から政治家になってるわけですから。そういうことで彼は非常に、国でやるべきことはやっぱり福祉だと。アメリカに、あるいは欧米に追いつけ追い越すにはどうしたらいいかということだったんだけれども、日本の国そのものが、国土の85%が山ですからね。どうしても街はコンパクトになっている。コンパクトになってると窮屈になってる。従って、全部にエレベーターを付けるってわけにはゆかない。すごく、すぐってわけにはゆかない、しかも山坂はある、というような状況の中では、やっぱりそういう人はできれば街の中で生きるんじゃなくてそういう人たちが安心て暮らせる里を作るべきだ、ということで施設主義に入っていくわけです。

前島由希 コロニー。

田中 コロニーですね。

八代 これもう、施設というのも不思議なもので。地方は利権で動くわけね。公共事業で福祉予算というのがだんだん増えていくと。で、農地法とかいろいろな法律があって、そこでは住宅が作れないとか、道は作っていけないとかっていうようなところが、85%の山の中にはかなりあるわけですよ。しかし、俺が持っている土地のあの山林に、なんとかマンションを作って住宅地に改良していくにはどうしたらいいかって。それには一番奥へ、奥へ障害者の施設を作ろうと。ね。奥へ障害者の施設を作ると、そこまで行く道は作らなきゃならないね。

田中 ああ。

奥平 (笑)

八代 施設があると電気は引かなきゃならない。そこにはずーっと、電灯も電柱も作らにゃいかん。そうすると、その通りに派生した…、周りはだから全部住宅、できるわけですよ。

前島由希 すごいね。

[00:05:34]
八代 日本列島改造、まさにそうです。そういうことで利権が絡むわけ。いうようなことを含めて、福祉もその中に私は巻き込まれた歴史がある。それはそれで、思う。"I think" ね。…と思うけども、まあ現実はそうだと思いますよ。そして、やるからやっぱりいい施設を作る。しかしそれは人里離れたところに作らざるをえない。人里離れたところへ作れば周りに街ができる。人は賑やかになって…、

前島由希 理解も進むか。

八代 理解も進むだろうし、施設の中だから、うちに帰るにはもう骨になって帰るしかないというような諦めのことが、家族にも障害者にもある。さっき播磨養護学校の話したけど、家へ帰っても親が離しちゃうとどうしても楽になるし、それは活動しやすくなるからなるべく施設で、学校の宿舎の中で暮らしてほしいと。時々会いに行くぶんには「おお、かわいいね。元気でいるかい?」っていうようにできるけど、今度、休みになって来ると、まだ1週間もあるのに「あと何日あるんだい。」って親がね「夏休み、あと何日あった?」っていうようなことを言ってだんだん胡散臭く思われてしまうというような悲しみもあったり。いろんなドラマがありますよ。そういう中で、そうじゃなくてやっぱりまあ二十歳過ぎたら自分で自らの人生を、自己決定をして、そしてそれにはじゃどうすんだ…、いやそれにはやっぱ経済的な所得がなきゃだめだと…、

前島由希 基礎年金。

八代 …いうことで、所得保障の運動が始まるわけですよ。調一興さんなんていう…、亡くなったけど。

田中 ああそうですよね。

八代 そうそう、一生懸命やってました。丸山さんも。

田中 東京コロニーの。

八代 そうそうそうそう、東京コロニーね。というようなことで、東京コロニーなんかは言ってみれば、じゃ、それには働く場を作らなきゃならないっていうんで、まあ障害者がほとんど社員として住めるような。まあ日本の第1号かもしれませんね、東京コロニー。ただコロニーっていうのは、ちょっとあの…、

田中 名称がね(笑)。

八代 名称っていう…(笑)、コロニーちゅうのは悲惨な歴史があるから。

田中 ちょっとね。

八代 まあ、色々…。

田中 本当です。

前島由希 でも、バーターの、あの話を…、

八代 何の?

前島由希 自民党に入る…、

八代 ああ、そうだ。そんなようなことで色々やっていた時に私が一計を講じたのは中曽根内閣の頃、僕が年金問題特別委員会の副委員長もやったり、障害者問題特別委員会の委員長をしたりっていうような、私も言わば社労族的な存在だったんですね。そこで、そこからやってくんですけどもその前に、僕がまだ無所属の時代に全く無所属の時代に、参議院では私の一票で予算が成立するしないっていう時代があったんです。私の一票で。与野党がね、私の一票…、私が賛成すれば、法は、予算案は通る。私が反対すれば否決される。こういう時代があったの。
そんな時に大平さんの…、それは今度は大平さんの内閣。僕が最初に当選したのは1977年。この時は福田赳夫さんていう、福田康夫さんのお父さんですね。福田赳夫さんで、この時はバスケットの連中が僕の選挙の大変な応援をしてくれたもんですから、バスケットの全日本大会が始まって、で、豊島区のライオンズクラブの豊島ライオンズクラブ杯争奪みたいな非常にちっぽけなものだったけどね。これやっぱり「よし、分かった。俺が福田赳夫さんに直接会って、総理大臣杯を俺が取って来る」と、いうようなことで福田赳夫さんと会って話したら「分かった」と。 で、総理大臣杯…、今の総理大臣杯があるんですけどね。だから、障害者の総理大臣杯ちゅうのはそれがスポーツで初めて。たぶん他にはないんじゃないかなあ、あれしか。あれしかないかもしれませんね。今度は天皇杯がやたら増えてきたけどね。まあそれはそれとして、その一票の時にも、いろいろ自分が至極、忖度したわけ。

田中 ほおー、忖度(笑)。

奥平 最近、流行りの言葉(笑)。

[00:10:12]
八代 うん、そのね、(?)が一票の時の、厚生省とやり合うっていう時の舞台は、板山さんっていう人がその頃、更生課長だった。亡くなったけどね。この人、山梨県。私も山梨県。そして国際障害者年で政府の総理府へ国際障害者年対策室ちゅうのを作るんですよ。ほんで、ハート…、ハート基金か何かあったかな…。あるでしょ、国際障害者年かでも…。ナイスハート基金か。

奥平 ああ、あるかも。

八代 あるでしょ、うん。知ってるでしょ、ナイスハート基金。今もあると思いますよ。僕はそこで、障害者年に…、当時は青年の家の助成は乗れないとか、障害者は乗れないとかいろんなことがあって、一つ一つの問題をとにかく国会で問題提起をしてっていうことの繰り返しをしながら、一票で過半になる時もある。僕が関わっていた委員会ちゅうのは地方行政委員会だから、それはなぜかって言うと一人だから。もうみんな、他の人はみんないいところ取るけども、残ったところしか入れないのよ。だから僕は無所属だったから地方行政委員会っていうところ。それは今の石破さんのお父さんが大臣だった時ね。そんな時に、僕は一票のことで、もう毎日、議長からとかもう官房長から、俺のところもういっぺん、自民党の国対から僕のところへ働きかけがあって。もうメロンは持って来る、お寿司(?)は持って来る、お金は持って来なかったけど(笑)、いろんな物持って来て、この家まで押しかけて来て。それで僕はのらりくらりと。で、とにかく板山さん来たら、何か、この際だから注文しよう、と。ね。そしたら、そういうことで一票賛成してくれればその政策は俺たちが厚生省としてやるから、ってことで。

奥平 へえー。

八代 地方自治のほうでは、選挙権の郵便投票が一度廃止されたのをそれを復活して、ほいで障害者が投票所へ行く時に2階とか3階は行けないから、投票がやりたくてもできない障害者がいるから全部1階にして、と。しかも段差もなくせと。それから車いすの人が書ける低い、投票の書くところを設けなさいとかいろんなことを注文して。それから車いすを無償化をする。車いすね。4年に1回の一応、貸与ってかたちになってるけれども、これはもう繰り返しできるようにして。しかも、電動車いすっていうのが、いよいよあの…、亡くなった彼、何だっけ? DPIの。

奥平 大須賀さん?

八代 大須賀じゃなくて、こないだ…、三澤さん。

同席者皆さん ああ、三澤さん。

八代 三澤さんが、デンジレン、確か、デンジレンなんていう組織作ったんじゃない? 電動…、え、電使連か。電動使用者の会。電使連。

奥平 へえー(笑)、知らない。

八代 そんなのあったんだよ。電使連ちゅうのを作って、電動車いすっちゅうもんがだんだん使われるようになり始めたの。ね。それを公費負担させる。今それも続いてると思うけども。

奥平 続いてる。もらいましたよ。

八代 95%の人はおそらく33万か4万すんだけど、それが無償になるっていう制度ですね。こういうようなものを、じゃ、やるから、ていうようなことで、あとは対策という言葉があった。障害者は対策の対象ではない。防犯対策、疾病対策、交通対策、暴力団対策。対策なんていう言葉はね、非常に偏見に満ちた言葉だと。対策はね。うん。相手を何とか錯誤(策動?)しようという魂胆がある。これはもうよろしくないという。[00:14:56]
 それから、特殊学級…、特殊教育というのの撤廃とか。色んなものの…、おそらく今は、(?)になってるけれども。それから障害者の欠格条項(?)。障害があるだけに就けない仕事っちゅうのがいろいろあったわけ。6条ぐらいあった。そういうものを全部撤廃する。防衛庁だって車いすでも、今はねえ、昔の、刀でこんなやる時代じゃないんだから。もう車いすでボタン一つで戦争できるんだから。防衛庁だって車いす、ね。大臣格ぐらいの。とにかく職業偏見の…、職業の自由は障害者に与えられなければならない。で、欠格条項60号(?)、これも全部無くしたと思いますけども、そのようなことをバーターにしていくつか。あの時は一票で4項目ぐらいバーターにした。

奥平 そんなにいっぱい(笑)

前島由希 でもほら、絶対にそれは通さなきゃいけない予算だったから、自民党、ほとんど呑んだんですよ。

奥平 へえー。

田中 ふーん。

八代 そう。それで伸ばして、竹下大蔵大臣が来て「分かりました」と。それで、その時にね…、

前島由希 先生、意外に知られてないでしょ? これ。

八代 家をね、家を替える時の改装費なようなものも新たに…、

田中 作ったんですか。

前島由希 あのほら今の…、

奥平 助成金。うんうん。

八代 そうそうそう。それを言って、じゃあ飲むかってことで、そしたら竹下が「難しい問題にぶつかりますなあ。わかりました。じゃあ何とかやります。」って。そしたら国対委員長が、自民党の、山梨の人で。

奥平 みんな山梨。

前島由希 (?)、誰だっけ?

八代 板山さんが山梨で。

奥平 県民。

前島由希 リハ協。

八代 ほいでその、瀬田っていうのがいたんだよ。ナイスハートの、総理府の、障害者年の担当室長。これ、厚生省から行ったの。これが俺の後輩、1年。

奥平 それも山梨?

八代 山梨。

出席者皆さん (笑)

前島由希 山梨、ここで山梨人脈が(笑)。

八代 なぜかって言うと、僕が、僕がイニシアチブを持ってたからよ。参議院で。

前島由希 その一票で、だから、一票で。

八代 一票で。

前島由希 それがあったからじゃない?

八代 八代をお守りするのが板山さんであり(笑)、それから瀬田であり、とにかく、ね。それでやって「分かりました」と。で、お願いしたら議長から電話があって「分かりました」と。すぐ議長から。あの頃、議長さんから電話かかってきて「八代先生、」 ああ、あの頃、名前は通称名がだめだった。「前島先生、本会議のベルを押してよろしいでしょうか。」 で、そん時はもう全部マル、マル、マル、マルだから。「議長、心置きなくベルを押して下さい。」と。野党はみんな反対だからね。「心置きなくどうぞベルを押して…」。

前島由希 それはゴーサイン? イコール、自民党に入るゴーサイン?

八代 いやいや、自民党、(?)、これはもう無所属、(?)、本会議だから。

前島由希 ああ、無所属。(?)、失礼しました。

八代 そうして僕が本会議に入っていったら、自民党の人がみんな立って俺を迎える。

同席者皆さん (笑)

八代 (?)。したら野党がね「いくらもらった?」って社会党とか色々ね。

前島由希 「いくら八代もらった?」

一同 (笑)

八代 500億。

前島由希 言ったの?

八代 そうそう、500億ぐらい。

奥平 予算でしょ。

前島由希 予算だから、それは。

八代 いやいや、まあそれは…。そんなやりとりしたけど。だからもう、自民党も国対や色んな人が…、

前島由希 もう、めちゃメディアじゃ酷評ですよ。「魂を売った八代英太」ですよ。ね。テレビで。でもそういうことがあったんですよ、本当に。

八代 まあ参議院はだからほら自然成立で参議院が採決したってどうっちゅうことないけど、それでもかたちが大平内閣の最初の予算だったから。そりゃあまあ、(?)してきたたわけね。

奥平 その中に、障害者基礎年金があったの?

八代 基礎年金ってのは今度は自民党に僕が入る時。

奥平 ああそっか。

八代 そこで僕は無所属でずーっと行きながら、選挙制度が変わって、個人では立候補できない制度を作っていったの。

前島由希 比例代表制。

奥平 ああ、はいはい。

八代 拘束比例代表制という。

前島由希 だから個人じゃなくて政党。

八代 つまり一人で俺が最初にやった選挙は750万ぐらい支払ったでしょ。

田中 福祉党?

八代 でも、今度は新しい拘束代表、比例代表制っていうのは、10人立候補者を立てなければ、小さい政党はだめなの。最低でも10人。で、供託金が400万円だから、10人っていったら4千万になる。一人で闘えば750万でできちゃうけども、10人揃えるっちゅうことは、この10人はだから知り合いに頼まなきゃならない。それでまあ、色んな車いすの…、小森先生? あの、何だ…、桜美林の。視覚障害の。知ってる?

奥平 ふーん。え、知らない。

八代 有名だよ、小森さん。

奥平 すみません(笑)。知ってる?

前島由希 そうそう。桜美林だもん。いたいた。

八代 桜美林大学の教授よ。小森先生とか、それから平田さんって車いすの、仙台の、日身連の会長の平田さんとか、やだしげるさんとか、10人がずらっと並んで。

前島由希 福祉党ね、福祉党。

八代 しかし400万ずつくださいとは言えないわけだ。つまり、僕はその間、八代英太は、この1ヵ月間は福祉党っていう名前に変わりましたっていう宣伝だから。

奥平 ああ。ああ、そうですよね。

[00:20:25]
八代 政党選挙だから。だから福祉党っていうものを作って、で、自由に候補者を並べて、供託金を一人400万円ずつ自分が負担して4千万でしょ。それで選挙の事務所を借りてなんだっていうともう5千万、6千万って出ていく。そして、当選してじゃあ選挙が終わると、ある程度の票を取ればその金が普通は戻って来るわけ。何%か取れ…、20%かな、…は供託金没収にならないんですよ。だけどこの比例代表選挙は一人当選すれば、もう一人分が戻って来るわけ。

奥平 ああじゃあ400万…、800万…、

八代 だから800万は戻って、3,200万円は国家に没収されるわけ。

前島由希 それはね、今なくなったけどすごい大変だった。この政治制度は。

奥平 うんうん、大変だよね。大変だわ。

八代 大変。とてもとてもそんなこともう出来っこないもんね。

前島由希 こう、ちっちゃい、無所属でやって…、

八代 ところが最初の選挙で、僕が最初の選挙の時、84万、取ったけども…、

前島由希 個人のね。

八代 個人で。で、福祉党になったら160万票。倍に膨らんだ。膨らんだけども当選したのは僕一人。供託金は4千万預けたけども800万円しか戻らないから3,200万円は国家へ、と。

前島由希 すごいお金かかるね。

八代 随分でしょ。これはもう、とてもこれで…。で、今度はたくさん取ったもんだから今まで3番だった人、4番だった人が、「あれは、あの票は俺の票だ。」とか…、

前島由希 言い出す始末。

八代 これだけ、(?)、内紛が起きちゃうわけ。まあね、障害者が…、

奥平 内紛ていうか、福祉党の中で内紛?

八代 そうそうそうそう。

前島由希 内紛、そうそう。

奥平 ああー。

八代 野党がだめなのはそういうことよ。俺が俺が、になるわけ。そんなことはもう、そうじゃないっちゅうのは分かってながらもそれでも意見は聴かなきゃならない。これは、もう政党は難しいなという思いを持ってた時に、いよいよ…、

前島由希 中曽根さんが現れるわけ。

八代 中曽根さんが現れるわけ。中曽根さんが、あのタカ派的な、不沈空母なんちゅう発言される…、いろんなことを、(?)。

前島由希 中曽根内閣。総理。

八代 で、その時にアメリカはレーガンが生まれるなんちゅう時なんですよね。その時にジャスティン・ダート・ジュニアと知り合った。レーガンが日本に来る時に、ジャスティン・ダート・ジュニアと初めて僕は会って。

奥平 一緒に来たんですか。

八代 そ、いやいや、彼は旅行で来てて。タッパーウェア…、まあ日本では知り合いも多かった。で、僕に会いたいちゅうことで会って。とにかくGDP第1位のアメリカと第2位の日本が、お互いに手を携えればできないことはないってなことを国会で演説してるから、中曽根さんが。俺たちも、そういうところにいる障害者だから、アメリカと日本が協力すれば福祉はできないことはない。ダートさん、これやりましょう。

前島由希 って日米…、あれが始まるんですよ。

八代 日米首脳…、日米会議っていうのはそこから始まるわけ。

八代 あれ、私がやった。

奥平 いやそれは私、分かってますよ。

田中 私、初めて聞いた。

八代 それで日米会議を。で、僕が日本の議長。アメリカの議長がジャスティン・ダート・ジュニア。それから動き回るのが例のウィンター。

前島由希 マイケル。

奥平氏・田中 マイケル・ウィンター。

八代 で、一生懸命、政策論争に入って来たのは若いジュディ・ヒューマン。

奥平 若いか?(笑)

八代 いや、あの頃は…、

田中 いや、その頃は若いんじゃない?(笑)

八代 そうそう、すごかった。ね。それで、あの…、その時に僕が思ったのは、車いすは車いすの活動、脳性麻痺は脳性麻痺の活動、知的障害者は知的障害者、視覚は視覚、(?)って言われた。お互い障害があるのに、足の引っ張り合いばっかするじゃない。足が(ママ)引っ張り合いをするんじゃなくて、お互い手を伸ばせばつながろうと。

同席者皆さん (笑)

八代 (笑) ね。そういう考えを持ってたもんだから、この会議をひとつの契機として、全ての障害者を代表として選ぶっていうのが原則だった。だからもう、デフ(deaf)の人も視覚障害の…。あのほら、盲人の、バナナボートの好きな男がいてね、何だっけな…。だけどほとんどが民主党だったから。共和党はジュディ・ヒューマン、マッカ…、何とかマッカ…、

奥平 民主党ですよ、ジュディは。

八代 ね、ジュディ、いわゆる…、

前島由希 マーカ・ブリストも若い時、来てるよ。

奥平 マーカ・ブリス…、

前島由希 そうそう、すごいヤング。

八代 それから、セントルイスのほら…、

前島由希 あのー、あの人、ほら、セントルイスの、パラクォッド、パラクォッドの人。

奥平 ああ、あの…、そうそう、スタークロフ。マックス・スタークロフ。

[00:25:03]
八代 あ、スタークロフ。奥さんが賑やかでね。そういう人も含めて。車いす、視覚障害、聴覚、それから精神障害もいた。精神障害。精神障害のマーシャル・アブジュル(?)さんて人だったけどね、太った人で。それで私は…、

前島由希 日本が初め? 日本で1回目?

八代 日本で第1回目だと思うよ。

前島由希 どこでやったんだっけ、あの時。

八代 サンシャイン。

奥平 83年ですよね。

前島由希 サンシャインで。

八代 サンシャインの国際会議場。

前島由希 あのね、手作りだったんですよ。で、みんな、お金、寄付。

八代 で、うちがみんな、おさんどんをして。

前島由希 おお。覚えてる、私、子どもの時。

奥平 あれ、サンシャインだったんだ。

前島由希 そう。私、覚えてる。

八代 で、岡さんは、事務局。

奥平 ああ、中西由紀子さんだ、岡さんって。

前島由希 英語のね、事務局。そうそう岡さん。

田中 ふーん、岡さんって分かんない。

前島由希 旧姓。

奥平 旧姓、岡由紀子。

八代 そこではだから、初めて、各障害者がそれぞれ意見を述べるという会議をしたわけです。

奥平氏・田中 ふうん。

八代 それ、画期的でしょ。

奥平 うん。

前島由希 で、この時、お金、寄付は企業でどういうとこ、行ってましたっけ。

八代 もういろんなところが(?)、歩き回るよ。私も集めて。特に三洋電機の後藤さんっていう顧問が親しかったから、その人からとか、色々なとこがあるから。ヒゲの殿下も協力してくれたかな。柏朋会。

奥平 何殿下?

前島由希 ヒゲ、ヒゲ。

八代 ヒゲの。柏朋会。

前島由希 ヒゲの殿下。ほら、三笠宮殿下。

奥平 ああ、三笠宮殿下ね。はいはい。

八代 確か柏朋会は協力してくれたと思ったよ。100万ぐらい。

前島由希 でも覚えてます。私ちっちゃかったけど、エプロン部隊っていって本当にこの辺の八代さんの選挙区支えてるおばちゃんたちが、全部おさんどん…、おにぎりとか、ほら、障害者日本からもいっぱい来るでしょう。もうみんな…、

八代 その頃はマッチポンプみたいなものもしたわけ。

奥平 マッチポンプって何?

八代 マッチポンプっていうのはね、つまり、自分で火をつけて消防車を呼んじゃう。

奥平 え?

八代 自分で火をつけて、消防車を呼んで火を消すっていう、そういう意味の言葉よ。「あいつはマッチポンプだ」なんていうのは。それはなぜかって言うと、僕が無所属で入った時に、やださんたちと、ほら、リフト車の開発を日産、トヨタとかいろいろプロジェクトで…、

前島由希 キティちゃん号。

奥平 あ、キティちゃん号。

八代 キティちゃん号ね。そのことをやっていた時に、それを広く施設に送ろうっていう運動が起きて、それが「愛は地球を救う」という日本テレビの番組なんだよ。

奥平 ああ、はいはいはい。へえ。

女性同席者 24時間。

田中 24時間テレビ?

八代 「愛は地球を救う」という番組で、そのリフトカーを開発して、ようやくやった時に、これからじゃ障害者施設とか色んなところに配りましょう、しかもみんなの募金でやりましょうと。それが日本テレビが24時間のチャリティショーをやりますと。「愛は地球を救う」やったわけ。

前島由希 1回目ね、欽ちゃんの司会で。

八代 いかさまチャリティだと俺は思ってた。思ったから、そこで俺は本に「愛は日本テレビを救う」って書いた。

奥平 (笑)

八代 これが、当時小林與三次さんという読売の会長の…、

奥平 あ、聞いたことある。

八代 逆鱗に触れたわけ。大激怒。

奥平 へえー。そうなんだ。

前島由希 怒られたの。

八代 そりゃね。もう徹底的。もう新聞記者も僕んとこ来てね「八代さん、とにかく車の会社を相手取って闘いは無理だよ。いつ交通事故に遭うか分かんない。」ちゅうの。 

前島由希 いや、怖い。怖い。

八代 共同の記者がそうやって俺に…。

前島由希 怖い。当時はそんなマインドよ。

前島由希 どうやって収めたの?

[00:29:54]
八代 だから、収め方は…。これ、1回だけだったと思ったんだよ俺は。で、これを俺、毎年永遠に継続すると…。ね。

前島由希 チャリティ、日本テレビ「愛は地球を救う」。

八代 「愛は地球を救う」は単なる日本テレビ創立何周年なんていう記念行事じゃなくて…。というよりも、僕がそれをなぜやったかって言うと、その前に「お昼のワイドショー」って番組を健康な頃やってたわけ。で、けがをしたわけ。で、半年して「お昼のワイドショー」に戻ったわけ。

前島由希 けがをして、車いすでね。

八代 けがをして、車いすで。青島さんと中山千夏さんが司会をして僕がアシスタントをやってた時に、戻ったわけ。そしたらギャラが半分だったんですよ。

前島由希 突然半分にされて。

八代 僕のギャラが。

奥平 えー、障害者だから?(笑)。

八代 ギャラが半分になるのはそりゃしょうがないと思っても、それでも理由は聞かないと納得できないなと思って、僕が喋ることには何の障害もないわけだから。で、聞いたら「自分の立場を考えろ」って。俺が「下半身麻痺だからか」って言ったら「そうだ」と。

同席者皆さん (笑)

八代 半分麻痺だから…、

田中 半分て、そういうこと?

前島由希 もう、そんな時代ですから(笑)。

田中 えー。

前島由希 今だったらねえ(笑)。

八代 半分麻痺だから、社会通念上、半分に(笑)、(?)。

前島由希 すごいよね(笑)。

田中 半額って?

前島由希 笑いすぎて。

八代 笑っちゃうでしょ。

前島由希 でもひどい、そんな時代ですよ、49年前は。

八代 そんな時代よ。その頃、僕は日本テレビのエレベーターに乗るとみんな降りちゃうんだよ、中。

奥平 ああ。障害者と一緒に乗りたくないから。

八代 乗りたくない、何か起きるんじゃないかと。

田中 ええー。

八代 だから俺も、だんだんレギュラーでいたのが週3日になり、色んなことやって青島さんには「いやしょうがないんだ、こういうとこはあんまりカッカしないほうがいいよ。」って青島さんにはなだめられたんだけど、しかし俺は納得…。そこにほら週刊朝日が、テレビ会社(?)では八代英太、使ってると。車いすの司会者。で、司会者は健常…、車いすでないほうがいいに決まってると。あれは日本テレビのお涙頂戴だ、っていうような記事が出たわけよ。

奥平 うん。ひどいよね(笑)。

八代 週刊朝日。

前島由希 もう、そういう時代ですから。

八代 俺もだからカーッときて、週刊朝日のあの…、有楽町に乗りこんで行ったりして、弁護士を連れて。

前島由希 だから個人的な運動家だったんですよ、熱い、もう。

八代 そうそうそうそう。それで「愛は地球を救う」をそうやって、そうは言っても、って。いつまでもそんな俺も、いすゞのトラックにはねられても困るし、ね。何か、(?)。で、日本テレビの、(?)、昔、大きなの(?)あったから、山梨放送からも社長が何としても和解してくれと。それでだから日本テレビ社長・小林與三次が眼の前にいたから、それで。

前島由希 毎年やってくれって。

八代 そう、毎年やってくれ、と。それから、(?)、もっと障害者を中心に、障害者の置かれている立場ってのをよく日本テレビで考えてくれと、で、やってくれっていうことで、それはじゃあ約束を…。その代わり「今後はこの問題に対してあなたは理解者とみなしていいのか?」と。「ああ、分かりました。理解者になります。」 そしたら報知新聞と読売新聞は「八代英太 謝罪」になるわけ。

奥平 ああ。へえー。

田中 ふーん。

八代 記事は「八代英太氏謝罪 本社小林與三次会長の前で」 まあそれもしょうがない、マスコミだから。…いうことの、ことが頭にあったから、日米会議で日本テレビにこんな注文付けた。この日米会議の取材をしろと。そして、障害者のこのイベントにお金がかかるからって500万円かな、引き出した。日本テレビが500万出した。

前島由希 これ、ありがたいね。

八代 これがマッチポンプっていうの。だからその、要するに…、

奥平 ああなるほどね。マッチポンプ。

前島由希 先生、なかなか面白いでしょう、このストーリー。

田中 知らない、全然知らない。

前島由希 ほら、ね。意外にほら…、

奥平 もったいないよね。

前島由希 もったいないわ。私は聞いてたけど(笑)。でもあんまり…、

八代 その時に日米会議の人たちが、それぞれの障害を持った人が15人ぐらい。で、日本の首相官邸に行きたいと言うから中曽根さんに言ったわけ。したら「会う」って言うんだよ。それで初めて精神障害とかそういう人が、(?)「精神障害の人がいるんですかね。」つって。だからみんなもう、障害者全員が首相官邸、古いほうだけどね、入ってって初めて総理と話しました。総理の隣に精神障害のマーシャル・アブジュルさんが座って。で、こっち側に…、

前島由希 でもそのことを、私こないだ一緒に、去年の夏、私は皆さんの自立生活の通訳で行かせていただいて。私、娘だから。で、私はマーカさんとか、皆さん初め…、ね。だってその時にあの時のことを皆さんが言ってたよ。「覚えてる。英太は元気か? 元気か?」って言って。

奥平 うんうん。言ってた言ってた。

前島由希 あの時の思い出を、もう、あの時の1回目の、って皆さんが。私はだから客観的に、あ、八代さん(笑)…、それで知って、そうそうそう。

八代 盛大に、もちろんね、戸山サンライズに泊まったり、やったり。最後は戸山サンライズでやるんだけど。そこで仕掛けて、日本の阿波踊りをしたわけです。

奥平 えー。

[00:35:02]
八代 あの頃、苅安さんがあそこの所長で。それで、板橋連とそれからどっかあそこで有名…、有名ですよね、立川じゃない、どっかあの辺でやってる…、

前島由希 よさこい…、何ですか、踊り?

八代 いやいや、阿波踊りの、

奥平 ああ、高円寺かどっかでやってた。

八代 ああ、高円寺。そうそうそう。あのチームを、ずっと会議でいよいよ今日が最後の日だっつう時にみんなで食べながら。そこでタッタカタッタカタッタカ。入ってきたわけ。50人が。

奥平 ふーん。知らなかった。

前島由希 知らな…(笑)。

八代 これは圧巻だったよ。

前島由希 圧巻だった。1回目のそうそうそうそう。で、往復…、

八代 ほいで1回目が日本でやるわけ。

前島由希 1回目が日本。動いてますよ。

八代 で、2年後にアメリカ。で、アメリカはマイケル・ウィンターが担当。ロサンゼルスでやって。その次が日本。それが横浜。

前島由希 大きかったですよ。それ、盛大。

八代 ね、横浜も大きかった。それで、日本でやる時は大きいんだよ。アメリカ行くと、まあ、メシはないし。

前島由希 そうそう、泣き出しちゃって。みんなお腹空いちゃって(笑)。

奥平 あの人たち、お金使わないんだもん。

前島由希 そう。使わないから。そうそうそう(笑)。

八代 あそこのほら、あの自立センターの何だっけあそこは、あの…、

奥平 どこですか。

八代 マイケル・ウィンターのとこの…、

奥平 自立生活センター、バークレー?

前島由希 バンクーバー? バークレーだ。

八代 バークレー。バークレーでやったの。バークレーのところで。で、サンフランシスコで、ホテルのところでもセミナーちょっと形式的にやったけど、バークレーの学校内のどっか空き室みたいなとこでやったんだよ。

奥平 ああ、そうでしたっけ。

八代 何かビスケットみたいなのが出てもう、食べ物はないし、まあ大変だった。マイケルはそれでも金集めたんじゃない? で、あそこに有名な、何だっけ、お金持ちのお嬢さんが、やっぱり車いすになっちゃって。

前島由希 ほら、弁護士さんの娘さんで、きれいな…。日本にも留学した…。アーカンソーじゃない、何だっけ。

八代 何とか、って有名なのよ。(?)。

前島由希 ジム…、ジム何とかさんじゃない? とにかく大金持ち。サンフランシスコの自立生活センター関係の。

八代 大金持ち。サンフランシスコの。その人のそのお嬢さんが来たもんだから、向こうではその家がかなりスポンサーになってあげてる、マイケルのね。そんなことをやりながら、横浜の時に、いよいよ彼らはADAの法律の運動が始まってたわけ。アメリカではね、ADAが始まっていて。で、その時に、ジャスティン・ダートさん、マイケル、(?)、とにかく、あなた方、この法律をやるのには、ちょうどデュキカス(?)とそれから、何だ? あの大統領は…、この前までの、何大統領だっけ? 親子でやってた…、

田中 ブッシュ?

八代 ああ、ブッシュ、ブッシュ。

奥平 パパ・ブッシュ。

八代 パパ・ブッシュ。パパ・ブッシュと、デュカキスか…、デュカキスだな。民主党がデュカキス。で、パパ・ブッシュと対決する時に運動の中で、こういう戦略を練るんです。民主党と共和党の障害者が徒党を組んでブッシュの事務所に行って、全米障害者はあなたを応援すると。あなたがもし勝ったらこの我々のADAっていう法律を署名してくれと。同じことをデュカキスのところへ行ってもやれと。今度は共和党の障害者をたくさん連れて行った。その障害者に、デュカキスが新たな大統領、新たな障害者を支援してる大統領になったら、このADAを署名してくれと。こういう、これを2枚舌って言うけども、これをやったらいいんじゃないか。したらね、「面白い、面白い」つってさ。喜んで、彼らは。

奥平 あ、八代さんが提案したの?

八代 提案したの。

奥平 (笑)

前島由希 ちょっとそれは分からないけど…、

八代 いやいや。

前島由希 でも、あちらも考えてたんじゃない? でも八代さんもそう言ったって感じじゃない?

八代 そうです。

奥平 へえー。

八代 それでね、それで両方でやったらしい。それでブッシュが立って、例の選挙、2002年の、あの署名(?)の写真(?)なんかがあったんだけどね。だからあれから、大変面白いことになってった時代が積み重なっていくんだけど、その風は海を渡って日本にも吹いてきて。で、障害者の自立運動っていうものもだんだん歩むんだよね。

前島由希 81年。

八代 みな、(?)で帰って来た人たちが…、

前島由希 ダスキンの。

八代 あっちこっちで動きが始まってきた時に、やっぱり根っこは所得保障。僕もいろいろ考えたけど、これはやっぱり自民党じゃなきゃだめだと。その間、僕の友達にも何人も死んで、八代英太、一生懸命やったけど、俺の頼んだことは何もしてないと。何もできてないと。障害者は10年、20年の先見るんじゃなくて、今日から明日、今年から来年が障害者の問題だっていうのを打ったわけだ。それにはまず手っ取り早くかたちにする政治家にならなきゃ、やってる意味がない。ただ政府が…、まあその時、みんな来たって(?)、陳情行くんだけど(?)、いや俺やりたくないな、政府がだめだ、自民党が悪い、政府が悪い、自民党が悪いだけじゃ障害者は幸せになれないから。ここは妥協するから、で、その妥協するのに中曽根さんのお孫さんがダウン症で。「おじいちゃんとして何としてもあなたのような本物の福祉議員が自民党にいないから手伝ってくれ。」と言われたのに、おとぼけ(?)もあってね。それね、首相官邸の部屋が、首相の部屋が、執務室が、本会議場にあるのよ、そういう部屋が。そこへ呼ばれて。

前島由希 呼ばれて行ったの。

[00:41:04]
八代 行ったらね、中曽根さんがそういうことで、「実はうちの娘があなたに一票投じた」っていう話になって。「私もいろいろあなたのこと調べさせてもらいましたけども、あなたの考えを私も本当に気持ちでは…。ただ総理だからそういう部分的なことはできないけども、うちの実は孫もダウン症という障害を持ってるわけだ。」と。「かといって(?)しょうがないんだ。長女の子どもだから。何とか手伝ってくれないか。」って言われてさ。言われてじーっと考えた。その時介添えで行ったのが村上っていう、ほら。正邦っていう。

前島由希 村上正邦

八代 …ていうのがいたんだよ。これまた、なぜ仲良かったか(?)って言うと、この村上正邦の子どももダウン症なの。

奥平 ああ、へえ。

前島由希 いるのよね。

八代 結構、いるの、政治家の中には。それで、そこで一緒に行った時に中曽根さんが「じゃ、色々ありがとう(?)。よく考えさせてもらいます。」って言った時にね、表へマスコミが行くから、総理と会うんだから俺は、「何の話だ」ってマスコミは聞きたいわけだから、じゃ次に、中曽根さんが開かずの扉をね、背が高いね、ハンカチをこう取ってね、油が付いてたのをガチャンと開けてね、下もガチャンと開けてこうやって。

前島由希 秘密のシェルターがあるんだって。

八代 「さあさあ。じゃ、どうぞここから出て下さい。」 この姿を見て、一国の総理にね、油の手で、油のかかった大きな扉をね。でっかい扉なんだから。天井ぐらいあるよ。開けてくれたわけ。こんなことまでしてもらって…。

前島由希 これじゃ、すぐほら(笑)、ほだされちゃうから(笑)。

八代 これがね、コロコロ変わるのよ。情に脆くてだめなの、俺。

前島由希 でも悪いけど一銭ももらってないよね。それでまた外では、マスコミ「自民党に魂を売った」 「ワーワーワーワー」

奥平 でも(?)、それ、車いす、アクセス(?)だったんですか?

前島由希 アクセスブルだったの(?)、そこの?

奥平 あの扉。

八代 そこには、本会議場の裏からだから絨毯で重たいけども。でまあ、そこ、そう、裏から出て、それであれして。

奥平 ふうん。

田中 へえ。

八代 で、「じゃ、入るという決意をします」つったら…、

前島由希 その時に、

八代 その時、久米宏とかそういうテレビのタレントが「福祉党で当選した八代さんが何で自民党ですか! 辞めるべきです!」なんちゅうなこと…、バッシングが。

前島由希 そうそうすごかった。覚えてます、中学の時。

奥平 私も覚えてる、何か、障害者たちが。

八代 バッシングがすごかったよ。共産党の赤旗は「3千万円もらって自民党へ寝返った」とか(笑)。それで美濃部さんなんかも「どうして自民党にお入りになられたんですか。」とかさ。

前島由希 でも、その時にもうお願いしたの? 中曽根さんに、させてほしいっつう。

八代 その時政策を、私が自民党に入るにあたっては、「多くの障害を持った人たちの悲願である所得保障についてしっかりとした担保ができなければ、(?)」、それはもう官房長官とか、もういっぱい来て。で、基礎年金を今、大改革をするから、そこに障害…、今での福祉手当を障害基礎年金に持って来ると。

(拍手)

八代 その頃までは重度は3万円。軽度の障害者は2万円。福祉手当だったわけ。

田中 そうですね。

前島由希 そうそう。

八代 その時の自民党の年金局長…、年金部会…、年金局長が、特別委員長の委員長が田中正巳さん。この人も厚労省の事務次官やった人なの。もちろん板山もチョロチョロしてたよ。

前島由希 「板山もチョロチョロ」(笑)。

田中 何か板山さんと、その頃の東京青い芝の人たちで年金の会議やってましたよね。あれは…、

[00:44:40]
八代 そう。やって…、それも僕もそう聞いてたし、調さんからも聞いてたし。で、所得保障っていう言葉が、まあいいかどうかは別としても、やっぱりいずれにしても障害を持って生きていくのにやっぱりいつまでも大人赤ちゃん、親がかり福祉、これでやってはいけないと。やっぱり自分が生きていくのには、維持するためにはどうするかいうことを含めて。それにはやっぱりある程度の所得が必要だと。所得保障。しかも、払い込む払い込まないは別として、いくらであっても皆年金の時代だから、それは全部包含して難しい手続きは一切全部無くして、必ず障害を持った人たちはその時点で年金が1級、2級…、1級、2級が86,000円かな。2級、3級、4級が64,000円でしたかね。今の制度がその時に。それを低いと、(?)、別に高いとは思いませんよ。思わないけどもそれを中心にして、それでもそういうような所得保障なって自分のお金になれば、そっから派生するいろんな仕事…。で、仕事と併用したってこれには税金はかからないし、それはダブル受給もできるわけだから。で、地方自治体もいろんなかたちの手当てもあるから。やっぱりそれなりの生活は、まあ出来るようになるだろうっていう一つの期待。で、それを中心として、あとはね…、あと何をやったかな。あとは、あとそこで欠格条項と…、まあいくつかやって、で、自民党に…。

前島由希 入党するわけですね。

八代 入党する。それで、自民党に入ってももちろん自民党をバリアフリーと。それから…、

田中 自民党に入られたのはいつですか。

八代 だから1980…、

前島由希 6年後?

田中 6年、基礎年金の年ですね。

八代 6年後の…。77年から次は83年でしょ。19…。84年、だ、(?)が多摩川に入ったのはいつかな。

前島由希 84年?

八代 84年か。じゃその時、2月。で、入ってそれを…、基礎年金。だから85年から始まるのかな基礎年金が。

田中 基礎年金、86年ですね。

八代 じゃ、そこ、施行まで時間がありますから。

田中 ああそうですね。はい、そうですね。

八代 そこで田中正巳さんと調印して。自民党の幹事長とも調印して。で、大蔵大臣も調印して。基礎年金に障害者があるようになった(?)。僕も「無年金だ、無年金だ」って言ってたわけだ。私もほら、年金ちゅうのは掛けた記憶がないから。

前島由希 (笑)

田中 うんうんうん、タレント…、

前島由希 タレントだし。

田中 ないですもんねえ。

八代 山梨放送の頃は厚生年金で。で、調べたらね、僕ももらえるかなと思ってね。そうしたらね半年足らないのよ。半年だけ。あなた調べてくれてるよね。

前島由希 そうそう、足りないんだよねえ。

八代 ちょっと足りないんだよね、基礎年金。

奥平 じゃあもらえてないの?

八代 もらえてないのよ。

前島由希 もらえてないですよー。

奥平 障害者基礎年金?

八代 もらってない。

奥平 自分で作ったのに?

八代氏・前島由希 貰ってない。

奥平氏・田中 (笑)

前島由希 残念、残念。でもそれはね、皆さんが、だって所得保障…、

八代 ただ、僕は国会議員の年金が…、

前島由希 議員年金があるからね。

田中 ああそうですよ。議員年金があるからそっちの方が、んんん、もーう(笑)。ねえ。

八代 議員年金が、これはもうありがたいことですよ。それはそれでまあ別に併用してもしょうがないから、それはそれで、(?)。それで、次の選挙は今度は自民党でやらなくちゃならない、いうことになって。で、自民党でやるんだけれども、あんまり自民党の評判がよくなくて。しかも消費税を導入した。竹下。

前島由希 3%の。

八代 3%の。そんな時代だったの。だからもう大変なことで、みんな地方の自民(?)、もう総負けするんだけど、僕も初めて選挙するんだけれども、その時の自民党のノルマっていうのは、2万人の党員。100万人の後援会ちゅうのがノルマだったの。

前島由希 上納するんだよね。自民党に。

八代 上納するの。2万人ちゅうことは一人4,000円だから、8千万。

奥平 げー。

前島由希 すごいのよ。

奥平 8千万?

八代 そう、8千万。

奥平 えー、自分で用意すんの?

前島由希 自分でだよ。

[00:49:33]
八代 これがまた神がかってるじゃない。僕が舞台で、昭和48年1973年けがするでしょ。で、僕は民事を起こしてたの。刈谷市と畠山みどりさんという歌手と。

前島由希 ショーの時のほら、せりが下がってて知らされないから、おっこっちゃったんですよね。

田中 うんうん。落ちちゃった、ああ。

前島由希 だからほら、労災って、(?)は労災。

八代 その人のための損害の…、労災もないんだから、損害賠償を起こしたわけだ。民事で。1億2千万円の補償を求めてたわけよ。そして、党員をなにしろもう2万人集めて。で、障害者に言っても「党員にはなってあげるたって俺4,000円払うの嫌だよ。」って言うの、みんなそうなんですよ。俺は基礎年金やったんだから4,000円ぐらい大したこと…。

同席者皆さん (笑)

八代 出して…、そりゃ言えないけど。

前島由希 言えないけど(笑)。

同席者皆さん (笑)

八代 こんなに困ってるのに、名前は貸してあげるけどお金は出さない。名前は貸してもいいけどお金は出さないっちゅうのも、これもまあしょうがねえなあと思いながら、いやまあとにかく名前、(?)、名前ってたって2万人集めるの大変よ。各団体、合わしたって。

奥平 そうですね。

八代 それで集めて、で、何とかしてすむ(?)、お金はくっつけなきゃ、党員、持ってくる(?)。そのお金は4千万。家を抵当…。したらその訴訟の時にね、刈谷市が和解をしたいっていう申し入れがあったわけ。1億2千万。

前島由希 何年後? だから事故から10…、

八代 もう事故から10年近いわ。

田中 ちょうど10年ぐらいですか。もうちょっとあとかも。

前島由希 10年ぐらいですねー。

八代 和解をしたいと。向こうも弁護でもう色々、そんなあれ…、ていう思いと、あったんだよ。あるいは俺が金に困ってるっちゅうのが分かったのかは別として。そしてね、1億円で和解したのかな。で、弁護士さんに2千万。(?)2割払うわけ。

奥平 へえー、すごいね。ピッタリ。

前島由希 ピッタリでしょう。

八代 その間はだって1銭も…、弁護士が払うんだから。ほんで残りが8千万。

前島由希 全部選挙だよ。

八代 これが全部2万人の党員なの。

奥平氏・田中 へえー。

前島由希 本当、キツキツよ。

八代 俺の下半身を切り刻んで自民党に上納しちゃったわけ(笑)。

八代 もう、扇千景(おうぎちかげ)さんが17万人集めて党員を集めたとか、何とかさんは20万人党員を集めたとかね。俺が最低なのよ。俺はこれで、それでも2万5千人ぐらいになったのかな。2万5千人ぐらいの金は収めたと思うよ。というのは4千人のうちの4割は本人に戻るわけよ、党費の…、活動費。そういうのを繰り返してやってくと、つまり膨らんでいくわけよ。数が。残ってた、返してもらった金が党員になってくから。そうなるとね、何とかまあ2万5千人。でもそれも最下位。その後もだから、もうとてもとても自民党の次の比例候補にはもう不可能ですみたいなのでね。石井一二(いしいいちじ)ちゅうのは…、民主党にいたじゃない? 石井一二。

奥平 知らない。

八代 知らない? その石井一二が組織委員長で、そんなこと言われてね。いやいや…。だからその時の幹事長が金丸さんです。これが山梨県。

田中 ああそうだ。

八代 で、金丸さんとこに…、

奥平 山梨ってすごいなあ。

田中 本当だね。

八代 金丸さんに、もう組織委員長からの、とても名簿でもって、だめだって…。これ、党が集めるんだから順番。たくさん投票された人が上行くのは当たり前なわけね。そういう…、(?)でいくと、俺が一番最下位だったから。最下位で…、したらもう、石井っていう組織委員長が「車いす党でも旗揚げしてやり直した方がいいかもしれないな。」って言われて「何を言ってる。今更また福祉党っていうわけにもいかないし、それから、車いす党ってわけにもいかない。」 「あんた、俺の評価そんなんなら(?)勝手にしろ。」つってさ、ほんで金丸幹事長のとこ行って「組織委員長はそう言ってるけどこんな理不尽なことはありません。中曽根さんは僕が入党した時には選挙のことは心配するなって言ってくれたはずだから」と。だけど、日が経つと中曽根さんじゃないから、どうにもなんないもんね。そしたら金丸さんがね「そんなこと心配しなくてよろしい。俺も山梨だ。」

奥平 またモノマネ(笑)。

前島由希 「俺も山梨」(笑) 助けて。

八代 で、その時に幹事長が今の安倍さんのお父さんだった安倍晋太郎。それで副幹事長が橋本さんだった。それで安倍さんが選挙中に倒れるわけですよ。それで橋本さんが選挙責任の筆頭幹事長になる。それで、橋本さんところ、橋本龍太郎のところに行った。

前島由希 でも、ハートがあるんだよね、橋本龍太郎さん。

八代 そしたら橋本さん、「八代ちゃん、 」

前島由希 「八代ちゃん」(笑)。

八代 で、彼は握手でこう、トゥクトゥクってやる。

八代 「八代ちゃん、俺の親父も障害者。俺はもう、あんたのことも評価してるから、順番のことは俺に任せろ。」つって。で、1番が清水嘉与子、2番が八代英太。

同席者皆さん (笑)

八代 当選だよ。

八代 うん、そう。その時またほらね、消費税3%で自民党惨敗なのよ。どこに応援に行っても、それは一生懸命応援しなくちゃならないよ。地方行ってももうみんなノーなのよ。自民党も、候補者も、地方部は。「まああんた当選だけど俺たちはどうなるか。」で、バタバタバタッて一年間(?)。32あるとこで、勝ったのは2つか3つぐらいか。で、マドンナ。「山が動いた」だもんね。

前島由希 あのほら、マドンナブームですよ。

田中 ああ、あれだね、社会党がね。

前島由希 何かすごい、日本の政治のあれ思い出しますね、そう。ほら、マドンナ。土井たか子さん…。

奥平 うん、社会党だよね。

八代 「山は動いた」

前島由希 「やるっきゃない」の。あったあった。

八代 そうそう。で、僕はだから悠々当選になるんだけども心苦しいわけよ。それでも自民党の中にあって、まあいろんな役職をやりながらやっていたら、自民党も与党になったり野党になったり細川政権が生まれたり、ああいう狭間の中でね。

前島由希 でも20年? 27年?

八代 28年やったね。

奥平 政治家?

八代 衆議院は11年。

八代 障害者、障害者基本法、叩き台を全部、だから心身障害者対策基本法だったから、対策なんて言葉はよくないし、しかもあれは傷痍軍人が中心の日身連が、精神とか知的とかとは一切入れないでくれっていうような、身体障害者だけを対象にした法律だったから。だから心身障害者対策基本法っていうのを、やっぱりほら変えていかなきゃいけない。それが、その頃アメリカのADAが動いてる時と並行して俺はまあミニ版だけども日本にも日本のADA的なものを作りたいっていう思いがあったから、心身障害者対策基本法を障害者基本法に変える土台作りをしたわけ。その時に、自民党が野党になるわけですよ。細川さんの、社会党やりながら…。そん時、堀君は参議院いたわけ。その中で参議院いたもんだから、僕はずっと統合教育っちゅうのを推進してたもんだから、ちょうどアメリカで日米会議だった…、何かで、ことで、アメリカ行っててまたアメリカで橋本さんにお会いして。基本法を、基本法の中で文科省がどうしても障害者の教育のところがものすごいネックで、そこが、本当、擦り合わせするんだけど、徹底的に抵抗したんですよ。あれ、特殊教育を優先で、健常者は健常者、障害は障害者と、小分け教育でね。その中でまあ、それぞれ障害を持ってても自分が支援学校に行きたいなら行けばいいし、普通学校でもなりたいならそれを阻むようなことがあってはならないみたいなこと文言も含めて文案を見せたけど抵抗したの。それはそれである程度の妥協点を見つけてやったら、政権が変わっちゃったの。ほんでその細川さんの時にこの基本法の審議に入るわけですよ。その時に俺、野党も全部、共産党から全部根回ししたの。ほんで、特殊学級のいわば養護学校の義務化っていうのは、共産党と自民党が作った法律だった。これ珍しいけど。なぜかって言うと、学校の先生方にとっては障害を持った子が普通の学校に来ると負担が大きくなるから、つまり日教組は反対なんだよ。

前島由希 先生方は反対。

八代 先生方は反対。

前島由希 日教組は…、

奥平 えっと、義務教育?

八代 いやいや、

前島由希 特別…、インクルーシブ教育。

奥平 ああ、反対なの。ああ。

八代 インクルーシブ教育よ、それは反対なの。

前島由希 日教組は共産党だっけ。

八代 共産党。

前島由希 日教組はもう共産党の母体。共産党は反対ってことだね。

八代 うん。それから親の方は、何とかうちの子どもを学校で学ばせたいと思うからこれ自民党なの。誰でもが勉強ができると。それ、養護学校でもどこでもいいっていうのが親の考え方。

田中 うんうんうん。

八代 で、働く側の教員たちのグループは、障害を持った子どもが普通の学校に入ってきたらこれはもう先生方の負担が大変だし、面倒くさいし、大変なことだというんで反対したわけ。だから文科省の交渉の中でも、共産党がやっぱり今の養護学校がいいんだっていうのを主張してた。それを説得して、共産党の政策委員長は誰だったかな、上田耕一郎かな、に話して、ある程度妥協してやった時に野党になっちゃったの。

[01:00:14]
前島由希 自民党が。

奥平 自民党が。

八代 うん。それでいよいよ今度は、堀君たちの社会党が政権になる、細川政権だから。そりゃ俺が、これはもう最高のチャンスだと。「橋本さん、ちょっと厚労省も官房長もやめてくれ。」つって。「基本法の中のネックは教育だから、社会党は統合教育推進の議員が多いはずだから、堀君が今与党にいるから、ここを統合教育に一気に入るように、修正案を自民党が出してくれ。」つって。 与党は喜んで修正に応じるに違いないと。そうしたらね、堀君が先頭でね、来たのよ、俺のところへ。あれは原案のままでやるようにお願いする。

前島由希 堀さんが何で? 

八代 堀さんが。

前島由希 与党になっちゃったから。

奥平 与党になったから?

八代 与党だけどほら、今度与党の圧力があるわけだ。これをまたひっくり返して基礎年金…、基礎基本法を、今度は統合教育なんちゅうことを入れたら、インクルーシブ教育なんちゅうことを入れたら、これはもう大変なことになると。

奥平 通らなくなるって。

八代 通らなくなるから、「何とか、八代さん…」

八代 堀さんが俺にね、「八代さん、俺もね与党になっちゃったから、何とか穏便にお願いしたい。」って。だから、まあまあしょうがない。

前島由希 何かねー。

田中 へえー。もう、今の問題がそこに…(笑)。

前島由希 そこにあるー、みたいな。

八代 そこにある。そうなの。これが政治なの。

前島由希 もう最後もね、教育が、でもネックね。

奥平 そうだね。

八代 ネック、ネックよ。だから俺は、だからもちろん特殊教育ちゅうことをもう廃止させたし、で、まあレアケースそれぞれね、学校のバリアフリー化、1年2年は1階、3年4年は2階、5年6年は3階なのよ、小学校は。今の、だいたい、生徒が学んでるのは。

田中 そうですね。

八代 ね。今は生徒は2階でしょ。

前島由希 2階。2階にある。

八代 2階にあるでしょ。これが、だんだん子どもが大きくなってくるのに親が年老いていくから悲劇なのよ。普通学校で子どもが普通教室で。こうなってる時は1階でいいよ。2階になるとこんなに大きくなると。

前島由希 大きくなるもん子どもは。

八代 3階になったら、こんななっちゃう。

田中 3階、一番大変。

八代 親は年老いていくんだから。

奥平 そうですね。

八代 これを思うと、やっぱり学校のバリアフリー化をやるということと、やっぱり小さい子どもが3階ならいいけど、5年6年は下なら分かるけど。そういうことも理由にとにかくバリアフリー化ちゅうことを一生懸命やってったわけ。で、いよいよ今度は…、まあ基礎年金もそういうかたちになった、で、僕もまあ相変わらず特別委員長やりながら障害者福祉…、(?)、精神薄弱なんちゅう言葉も知的障害という言葉で…。あの頃は知恵遅れなんて言う時代がありましたよね。知恵遅れなんて言う時代もあったし、精神…、それから、統合失調症、まあ統合失調症、(?)、精神障害。

前島由希 統合、統合…、

田中 精神分裂病だった。

八代 でも、精神障害者の問題で揉めた時代もあって、これもやっぱり福祉の視点に立たなきゃいけないっていうことで、33万人入院している人も半分以上はすぐ明日にも退院ができるという状況下で。で、山本さんっていう精神障害の…、

田中 あ、山本眞理さん?

奥平 山本眞理さん? うん。

八代 眞理さん。眞理さんともよく話をして。で、どういうことをやれるかっていうようなことで色々議論しましたよ。僕はだから右とか左、関係なかったから。あらゆる障害者の思想信条が…。例えばあの支援法は確か悪法だってことを言われたけども、あれを私と村木さんと…、

前島由希 塩田さん。

八代 塩田。塩田さん、この3人。これは支援法の改正の中で、新しい制度に変えていくところが、使うところはやっぱり使うわけ、予算をね。だからああいうのにはね、ばらつきがあって。大阪、京都、滋賀、この辺りは他の都道府県に比べて5倍ぐらいお金使うわけ。

奥平 へえー。障害者…、

八代 障害者保障のために。それは何に使われてるんだろう。でそれを、制度をある程度変えるっていうのが今の、何だっけ、障害者の自立支援法?

田中 総合支援法。

八代 総合支援法になったけど、自立支援法に変えていく時に僕が…、

田中 そうですね、変えていく時に…、

八代 村木さんと一緒に、塩田君とやってたんだけど…、

奥平 大阪は何に使ってる(使ってた?)の? 大阪とか…、

田中 移動支援かな。移動支援、(?)。

八代 支援をする時に大阪から大挙して脳性麻痺の人が、この人たちが…、

奥平 あ、尾上浩二!(笑)

前島由希 出た! ここで出てきた、尾上さんたちだ。

田中 2003年のね。

八代 いや、尾上さんたちのじゃない。あれはDPIだったから。彼は、彼は、(?)だったけど。(?)、介添えが過激派。

奥平 へえー。

[01:05:01]
前島由希 介添えっていうかPAさんが(笑)、PAさん過激派。誰? 最近の人じゃない? それ最近…、

八代 これはかなり激しかったよ、俺のところで。

田中 昔ならあるけど。

奥平 90年代ですよね。

前島由希 陳情した時?

八代 いや、名前忘れちゃったけどね。結構、僕のとこ来たのよ。

奥平 福…、福永さんとかだっけ。

八代 僕が担当だったから。名前聞かなかったけど。俺のところにザーッと来て、電動車いす来て。で、懐柔した。それで、彼らは喋らせられない。介添えが喋るから俺が怒ったわけ。「君たちの喋る話じゃないだろ。彼がどう思うか俺は聞いてるんだ。」と。したらね、「彼の気持ちっていうのはこうなんだ。」と。

八代 俺は「これもしょうがないな…」言いながらも、しかし電動車いす乗ってる、かなり重度からか、あんまり言葉発さないんだけど何か言いたげだけど言わせないのよ。

奥平 それ、90年代初めぐらいですか。

八代 うん、だから自立支援法だから…、

前島由希 自立支援法だから…、

田中 自立支援法だったら2006年からだからね。座り込み、たぶん2003年の時かな。

八代 つい最近よ。それで自立支援法も…。それで藤井君と…、ここではもうだいぶ新しい話になるんだけど、藤井君たちも来て、自立支援法に所得保障も入れたり、とにかく今のまんまだと障害者にとっては、悪法だという時に…、

前島由希 悪法。

田中 そうですね、1割負担だったからね。

八代 じゃ僕が参議院…、衆議院でやっとったから、参議院で僕が議員立法して修正案を出して、自民党で修正案っていうの呑ませたでしょ。これもう修正しなきゃだめだっつって。負担とか、色んな割合…、

田中 自己負担ですね。

八代 自己負担の問題も含めてやった時に、郵政解散なのよ。

前島由希 郵政選挙。で、落っこっちゃった。

奥平氏・田中 ああ、あれですよね。

八代 郵政解散なんだ。俺がもう参議院でその説明をして、修正案が通るっていう時に。

前島由希 もう少しだったのに。

八代 それも藤井君たちと、もう、念を押して全部話をして「これで藤井君いいかい?」っていうやつを出したんだから。それを自民党の総務会でも通させて。で、いよいよ参議院で僕が…、議員立法だから、参議院で説明をするっていう時に、郵政解散。だから…、

前島由希 郵政解散だね。それで八代さんは…、それが心残りっちゃ心残りね。

八代 まあそれで…、しょうがないわね。

田中 あれ、いつでしたっけ? 郵政解散。

前島由希 小泉さん。

八代 2005年。

田中 2005年、ああそうか、ちょうどじゃあそうなんだ。

八代 自立支援法の、色々…、

田中 前の年ですね。

八代 すったもんだの時ですよ。

田中 そうですねえ。

八代 そういう中の、歴史の中の…、

前島由希 面白い。もうダイジェスト。

八代 面白い…、だから。で、ノーマライゼーションちゅうのは、僕が最初のだから代表質問が1980…、1977年が…、77年に当選して1980年、障害者年の前の年に代表してます。大平内閣。僕はここでノーマライゼーションちゅうのを発表する。この原案を作ったのが丸山君。

奥平 へえー、丸山一郎さん。

八代 丸山一郎とうちの久保田と俺で、ノーマライゼーションいう発想をやろうと。

奥平 へえー。

八代 それで、大平さんの子どももベーチェット病だっていう話を聞いてたから、これは総理に訴えようと。

前島由希 根回しマンだったね、八代さん、もう。根回しマンだったんですよ。

 
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島田療育園

田中 一個、聞きたいことがあって。日野療護園だったかな…、じゃない、間違えたごめんなさい。

八代 島田。

田中 島田療育園だ。

八代 うん、島田療育園にも行ったよ。

田中 …から、誰か逃走した女性の人、ちょっと名前忘れちゃったんですけど…、

前島由希 逃走。

田中 出た人がいて、その、支援? 何か、出る時に関わったって。

八代 うん、それはね…、出る時じゃなくて、島田療育園のあれがまたね、太宰さんがあそこの理事長だったの。

田中 太宰さん?

奥平 リハ協の会長もやってた人。

八代 リハ協。この人も俺が行くっていうんで非常に心配して。そこでロボトミーなんかをその女の子にやってた気配があった(?)。

前島由希 ひどいねー。

奥平 ロボトミーって何だっけ。

前島由希 あのほら…、

田中 脳みその手術。

前島由希 脳みその手術。

奥平 ああ。へえー。

八代 この女の子は非常に重度なんだけどもかわいい子でね。その子に会って聞いたら「ここを出たい。ここは嫌だ。」っていうことだけは言うのよ。

前島由希 何? それはいつの時? それ。政治家になってる?

八代 なってた。俺は国会でやったんだから。で、その時に…、

田中 かなり初期じゃないでしょうか。

八代 かなり初期よ。まだ無所属よ。もちろん無所属。それで、僕のそういうことのネタを探してくるのが左翼の人たち。島田…、

前島由希 今、思えば誰だったの?[01:09:54]

八代 うん、今、思えばね。で、島田療育園へ俺が視察に乗り込むんだよね。で、女性〔の園長が〕がその時太宰さんに代わって。その前に太宰さんから電話があって「島田の考え方も聞いて下さい。先生の気持ちも分かるけど。」つって。「どうか穏便にお願いします」ってことでしたよ。それで行って、そこの、その生徒に会って話を聞いて。それから逃げたかどうかは知りません。それ、1回だけは言おうと行っただけ(?)。で、そのこと、ロボトミーやってるっていうようなことを聞いたから、それは本当かどうかというようなことも含めて、厚生省の局長、国際医療福祉大学の学長していた…、何だったかな。有名な先生ですよ、国際医療大学の学長をしていた男〔大谷 藤郎?、厚生省医務局長1983年退官、1995年国際医療福祉大学初代学長〕。

奥平 その島田療育園って、今もあるの?

八代 ありますよ。

田中 あるある。それ、1回行ってみて視察したっていうことぐらいですか。

八代 そのぐらいですね。あとは何か、余分な記事(?)があった?

田中 何かね、…。違う、余分じゃないんですけど(笑)。

奥平 立岩さんが何か聞けって言ってるんでしょ。

田中 うん、82年に島田療育園から出ようという人がいて、それを阻まれることがあって。斉藤秀子さんという人が施設を出て。で、家族が捜索願いを出したらしいんですね。で、連れ戻されたんだけれども、その時にやっぱり反対され…、そういう所に閉じ込めるというか連れ戻したことについて抗議が起こって、そこの仲介をしたとか何とかっていう…。

八代 それが僕なの?

田中 はい。みたいな。

八代 その、連れ戻されたあとに会いに行ったのかな。

田中 うーん。

八代 出る前に会いに行ったか、それは定かじゃない。

田中 なるほど。

八代 斉藤さんちゅう名前も今はもう覚えてないけども、かわいい女の子でしたよ。女の子でしょ。

田中 32歳、脳性麻痺と書いてある。

八代 うん、女の子。

田中 (笑) うん、女の人。

八代 それで、その人にロボトミーをやってたっていう告発だよ。

同席者皆さん んー。

前島由希 ひどいね。

八代 それだから、島田療育園も、とにかくそこの園長先生も「とにかく、もう、とてもひどい、もう(?)やってたら食欲なくなる、そういう子どもを私共は一生懸命やってるんでございます。」(?)。

前島由希 ひどい(笑)、その…。

八代 だから、本当にただ居て、あと死ぬのを…、死んだら家族に知らせてっていうのが当時の養護施設全体の姿だと思うんだけども。まあこれと同じなのかなっていうので、秋津療育園なんちゅうとこにも行ったよ。

奥平 ふーん。秋津療…、

八代 秋津いうのがあるでしょ。

田中 日野ですかね。日野療育園かなあ。

前島由希 秋津。

田中 秋津療育園。

奥平 日野?

前島由希 日野のほう?

田中 日野かなあ。

八代 これも島田も含めてまあ東京ではそういう…、あの頃は…、

田中 府中療育センターか?

八代 あの頃は僻地だったから、あの辺りは。

田中 うん、うん。

奥平 島田療育園ってどこにあるの。

八代 秋津療育園なんて、ものすごい山の中。

田中 島田療育園もあの辺だと思う、日野のほう。

八代 そうそうそう、日野の。

前島由希 八代さん、じゃあそういう、結構活動してたのね(笑)。

八代 すごいよ、俺は。行動派だから。

奥平 すごいですよ。

八代 行動派で、しゃべってたんだから(?)。

前島由希 行動派。でも確かに行動派だったね。すぐ、こう…。先生に質問を出して大丈夫(?)、全然。

田中 ああ。はいはい。



前島由希 記憶は、でも大丈夫しょ、80才ですけど記憶が大丈夫でしょ、先生。

八代 80だからね。やんなっちゃうね。

田中 すごい、うん。

女性同席者 若いですね(笑)。

前島由希 話すことで、大丈夫。だから今のうちメモワ(memoir)をADDPも作ろうと思って、やはり、八代先生のね。

田中 そうですねー。

前島由希 こういう何か、あれ、いち? 文献とか、これからね研究される方が昔どうだったんだろうってことをやっぱりね。

田中 そうなんですよ。

前島由希 いろんな方面から、ほら、自立生活運動とかのところからのやっぱりメモワもあるし。

奥平 結構、誤解もあるよね。知らなかったこといっぱいあるわ。

田中 うん。[01:14:59]

八代 いや、僕もあとほら、別にその一生懸命、得意満面に自分でもって会報作ってばらまいてちゅうことはしないからね。で、自分がやったことをいちいち手柄にもしたってしょうがないし。ノーマライゼーションなんてったって、言った時に、あれですよ、間違って、予算委員会に来たから(?)俺は「それはちょっと違う。これは間違いだよ。」って更正しようと思ったけどさ。厚生大臣が、堀君が質問してた時「初めて国会で、堀先生からノーマライゼーションの理念を発表いただきました。」。堀君がノーマライゼーションやったと思ってる。

前島由希 あら、みんなさあ、違うよね。

八代 違う、そんなもの。だから厚生省の役人が、誰だったかなあ。

前島由希 そうなっちゃう。でもいいんですよ、それは結果がいいんですよ、誰かがっていうより。

八代 いいんだけど、それはそれで。

前島由希 ほら、先生も初めてほら。

田中 あ、はい。私、運動のほうからどうしてもいつも聞いてたので(笑)、そっちの理解しかなかったものですから。

八代 奥平さんとは、そうだ、バハマだね。

奥平 そうですよ、バハマで会ったんですよ。

八代 ね、バハマで。あ、樋口さんとね。

奥平 うん、とか…、

八代 そうだそうだ。「今、ILで来てる」って「研修で来てる」つって。バハマで会った。

奥平 そうです。何か通訳させられて。私、イギリス人とかの英語が分からなくて、ジュディ・ヒューマンに通訳してもらったもん。ジュディがイギリス英語をアメリカ英語に直してくれて(笑)、それを通訳してたという。

八代 あのバハマもひどい目に遭ったなあ。

奥平 (笑) え、どうしてですか。

八代 あれはね1985年なのよ。

奥平 そうですね。85年だっけ。

八代 1985年、バハマ諸島で。あれはカナダ領かな英国領だったかな。そこでね、DPIの第2回世界総会がバハマ諸島で。カジノもあるようなでっかいホテルで。そこで会議をしたら国連から5万ドルの補助が出たのかな。国連から5万ドル。だけど、2万…、あ、3万ドル来たのか。で、2万ドルが足らなかったんだよ。2万ドル。で、2万ドル足らないから何とか、センター(?)、センター(?)から借りられないかっていう申し出があった。

奥平 八代さんから?

八代 事務局から、DPIの。まあ借りなきゃホテル代も払えないし困るからっていうことになって。で、東京のそこの銀行行ったらもうカナダ銀行とか何とかしかなくて、そりゃ国際…、お金を落とすには東京から…、東京の銀行からいったんドルにしてカナダ銀行経由して借りなきゃならないと。ということで東京銀行に僕の知り合いがいたから電話して「緊急だから2万ドル、とにかくうちの口座から融通してくれ。」つって2万ドル借りたんだよ…、あの、貸したの。2万ドルよ。その頃のレートが240円。

奥平 えー、すごい。

田中 あー、高い時か。

前島由希 プラザ合意の前だから。

八代 それね、200円ぐらいだったの。その会議の最中に竹下さんがプラザ合意っちゅうのをやったわけ。プラザ合意で円高に走っていくわけですよ。それで…、

前島由希 もう大損害。

田中 それは大変な…。

八代 それで、480万円貸したでしょ。それが今度は返ってくる時はドルで返ってくる、2万ドル貸したんだから。逆だったらいいけど、2万ドル貸したから2万ドル返ってくるよね。それがね、1ヵ月遅れぐらいで返ってくる。そしたら130円ぐらいになってたのかな。[01:20:03]

田中 ああ、そうでしょうね。うわあ。何か(笑)、やばい感じがする。

八代 それでもうね、300万円以上損したことあった。

奥平 えー。

田中 ああ。

八代 もう、ひどい目に遭った。バハマは。

奥平 うーん。私はただのパッパラパーで(笑)。

田中 貸してあげただけなのに。

八代 ねえ。うん。

田中 ああ、何か、話がやっぱり大きいなって言うか(笑)。

奥平 え?

田中 話の規模がでかくて(笑)。

奥平 そうそうそうそう。やっぱりそれだけ政治とかって…、

八代 そう。そういう世界だから(?)、(?)。

奥平 大切っていうか色んなものが、

八代 だから、政治は福祉の全て。政治は暮らしの全て。こう思えばね、やっぱり本当だったら政治の中にそういう当事者が入ってないと、うまくないよね。

田中 今、政治家の方で障害のある方がいらっしゃらないですけど、

八代 今はいないね。

田中 ねえ。どうですか、やっぱりそういうことについて。

奥平 少なくとも国政にはいないよね。

田中 うん。やっぱり、いないとまずいですよね。

八代 まずいというより(?)、だめだね。

田中 うーん。なるほど。じゃあやっぱり年金のところなんかもう、色々、会議とかされてたけど、当事者の人たちとかが…、板山さんとかやってたけど、最後の一押しというか(笑)、現実にするっていうのはやっぱりそこだったんですよね。

八代 そう、それはね、僕が入党(?)、僕が自民党に入る一つのバーター。バーターっていうかまあ一つの約束事ね。何で私が自民党に入ったかったら、世の中にやっぱり理解してもらうには、説明する材料が…。ただ単に入ったんじゃ「あいつは金もらって入った」に、もうなっちゃうから。それは政策として提示をしてそれで政策協定結んで。で、僕が入るからには、これとこれとこれ。自民党にもちゃんと車いすトイレを作ること。バリアフリーにすること。それから僕が特別障害者の委員会を特別に作るとか。そこの委員長が、よじ登って変えがたく、私が出て(?)、いうようなことで。で、まず首相官邸をバリアフリーにしたいということだから、それには大臣にならなきゃだめだと。大臣だけじゃなく、厚生大臣ていう声もなかったわけじゃないけど。ま、厚生大臣だったら当たり前だけど。昔、僕もだから、内閣…、総理府にその障害者問題特別施設を作った時に、障害者政策の窓口を作った時に、俺はもう厚生省の時代は終わったと思ったわけ。厚生省は医療とか年金とか。あとはもう、働くってことや動くってことや住むことや街づくりや、ってなことはこれはもう厚生省じゃないから。それにはどこがいいか。で、やっぱりだんだん行政改革で地方のいろんな窓口がなくなってった。そうなの。2万6…、公共的なものが…、どんな山の中にも障害者はいるなあと。離島にもいるなあと。ならば郵便局を福祉の窓口にしようと、こう思ったわけ。

奥平 へえー。あ、そうなんですか、へえー。

八代 2万6千あるから。この小さい国に、公共的なもので存在しているのは郵便局。

田中 郵便局ですね。

八代 で、そこは年金が入って…、

田中 そうです、そうです。

八代 そこには郵便があって。で、簡易保険があって。まず、郵便局がバリアフリーを模範を示す。まあだから郵便局が一番バリアフリー化、進んでますよ。

奥平 あ、そうなんですか。

八代 僕が号令したからね。うん。必ず車いすのスペースも用意して、っていうようなかたちになってるけれども、そこの行政の代替窓口で、郵政省ちゅうのはITも一緒にやってたから、ITの普及を進めて。で、障害者にとっては新しい武器になると。膝の上にパソコン載っけとけばアフリカだろうとアメリカだろうと友達ができて会話ができると。飛行機乗ってもお金がかかるけど、パソコン上で今はもう結べば世界が友達になって(?)から、このITの戦略を誤っちゃいけないっていうことで、ITに力を入れて、まあ光ファイバーとかああいうもののようなことをやりながら、郵便局を地方の行政の窓口にして、分からないことがあったら郵便局へ尋ねると。そこにはもうパソコンがあって、どこの病院があって、どこのベッドがいくつ空いていて、どこで貸出しを…、補装具を借りる時はどうすれば、手続きはどうすれば、ちゅうのを窓口をどんどんコンピューター化すれば、ね、どんな山の中でも他の銀行は撤収した(り)、他の行政機関は無くなっていくけども、必ず郵便局はあるんだから、ね、1,000mに1か所あるんだから、郵便局は。1,000mに1か所の拠点を福祉の拠点にしたいと思ったわけ。そうするともう網羅できるからね。
[01:25:17] だからそれには郵政大臣。郵政大臣になってまずバリアフリー化。それからパソコン。パソコンの小学校あるいは養護学校も含めて障害を持った人たちの新しい武器として…。昔、携帯があった頃の、こんな携帯の頃は、何とか、聴覚障害の人が振動で音が聞こえるような、今当たり前だけどね、振動で音が伝わったらいいのになあとかなんていう時代があったじゃない。今(?)、そんなもの通り越して、とにかくもう障害を持った新しい一つの武器としてITっていうのは重要だと。案の定、だから障害者のITはいろいろ駆使してますよね。それをだから促進するIT戦略っていうのを作って。で、郵政省でやって。ソフトバンクの孫さんなんかはNTTと大喧嘩をしながら、NTTが意地悪をして独占企業で大変でした。

奥平 何か、NTTそんな感じがする。

八代 そんなことの仲立ちをしたりいろんなことをしながら郵政大臣をやって、日本もその当時のITは遅くて、高くて、危なくて、っちゅうような、あれでしたけど、今や固定電話はなくなって、携帯一人2台ぐらい持ってんじゃないの? 今、2億台からか3億台ぐらいあるんじゃない? 携帯は。

奥平 へえー。

八代 パソコンだってもうね、一人1台、2台。誰でも老生もパソコンを使わなきゃ…。うちのおばあさんなんかも持ってるけど、パソコンできなくな…、俺、もう82で(?)、(?)、パソコン、郵政大臣したからある程度はパソコンもいじるけど、今の年寄りはできないよ。できないけども、だんだんそういう年寄りはもう置き去りになっていく、今の時代は。このITの時代はね。

奥平 そうですよね。

八代 それと同じように、まあ障害者にとっては、このITっていうのは新たな就労の武器にもなるし。で…、

奥平 私もパソコンがないと仕事できなかったですよ。事務仕事なんて。書けないんだから。

八代 できないでしょ。うん。今はもうそういう時代。だからもう携帯を含めて、もう、音を…、マナーモードなんちゅうのができるんです。

奥平 NTTがもし柔軟な考え方とかを持ってたら、例えば携帯の世界標準、日本だけ違って出遅れてたじゃないですか。

八代 そうそうそう。だからその頃は韓国、もう、はるかに先を行ってた。

奥平 ですよね。で…、

八代 だから2000年、1999年、僕が大臣になったのはね。それからの1年間でもう徹底的にやった。それはあんまり評価されないけどね。

奥平氏・田中 ふーん。

八代 だから民営化は、それを全部株主にしちゃうなんていうと、もう、いらない郵便局をどんどん、もう…、

奥平 反対でしたよね。

八代 俺は天敵。だから干されちゃってるの。

田中 そう。それでだめだった。

奥平 あ、そうか。

八代 だから議員も辞めざるを得なくなっちゃった。

奥平 ああ、そうなんだ。

八代 それで小泉さんと大喧嘩だから。

奥平 ああ、そっかそっか。

八代 それで今日に至るわけ。

奥平 そっかそっか。

田中 あの時は、(?)。

八代 絶えずだから活動の中には、当事者でもあるけども背景に障害者問題を抱えながら、思いながら、行動してましたね。そういう中で今も福祉外交っていうことがライフワークで、外交で福祉をやると。それでラオスを支援するということを今やってますよ。

田中 その辺の話はもう聞いたんですか? ラオスの活動は。

奥平 まだ。まだ聞いてない。

田中 あ、まだ。何かラオスの活動はお嬢様のご主人がラオスの方?

奥平 いや、違うよ。[01:29:59]

八代 これも、ラオスという国は社会主義の小さい国で、一番、まあインドシナ半島では貧しい国だと思いますよ。DPIも入ってなかったし。

奥平 あ、そうですか。

八代 そうそうそう。障害者の運動ていうものが…、だいたい運動隊(?)ちゅうものが許されない国ですから。そういう中でラオスの保健大臣が僕を訪ねて来られて。ラオスに何とか福祉の芽を育ててやりたい、障害者問題、何にもできてないから、いうことで僕が行って、みんな集めてやりながら細々と始めて、
支援活動を始めてみたらやっぱり1年経つと「ああ、あと1年かな。」 また経つと「ああ、これも必要かな。」 3年、4年、5年、19年。もう、19年になっちゃったけど。

田中 ああ。すごい。

八代 今でこそJICAとも絡んでやってますけど、当時はほとんど自己資金でやってたから。何にしても、いろんな人に協力頼んだり。今はだから、大きなプロジェクトをやりながらラオスに年4回ぐらい行って。でもラオスでもパソコン1丁あれば仕事できるからね。こっちと話をして。

田中 じゃ、最初は、保健大臣? …の申し入れというか。

八代 申し入れで僕が渡り廊下(?)をつけて。そこに坂井さんていう大使がいて。この人が昔、エスキャップ(ESCAP)にいた人なんですよ。

奥平氏・田中 ふーん。

八代 で、岡さんが就職する時の窓口がその坂井さんだったわけ。だからその人は非常に理解のある…、ノンキャリの人だけどね。その人、死んじゃった。この間。

奥平 へえ。じゃあ岡さんというか、由紀子さんとは、ずっと長く、前から知り合いだったんですよね。

八代 もうだから長いよ、太宰さんの頃だったから、もう。DPIは全部、岡さんに任せてたわけだから。岡さんに通訳を…、その時、日本にいろんな研修生が来た時にアルバイトの通訳で長瀬君が来たわけよ。で、長瀬君っていう青年に会って、いろいろ熱心にやってる姿を見て「あんたはこういう仕事が終わったらどうするの?」って。したら「学校の先生になろうかと思ってました。福祉はやりたいですけど。」 「じゃあ俺のとこの秘書になるか?」つったら「えっ、いいですか?」 で、俺の秘書になって。秘書になって、国連の権利条約とか色んなものがスタートしている時に、オーストリアで日本から誰かという時に「じゃ、長瀬君どうだい、オーストリア行ってみるかい?」って言ったら「行きたいです。」 それで行っちゃって。で、岡さんは岡さんで、結婚しちゃって行っちゃって。高嶺君もここで下宿してたけど、高嶺君は高嶺君でやってた(?)。岡さんのあとが高嶺君だよ。だから結構ね、八代塾で育った人が大勢いるのよ。

奥平 ねえ。

田中 うーん。

奥平 私、アメリカから帰って来て、サンシャインで働いてたのが1年ぐらいあるんですけど、その時に1回…、まだ中西さんじゃなくて岡由紀子さんだった。由紀子さんと会って「真砂子、バンコクに行かない?」って言われて「いえ、そんな…」って言って断ったの覚えてる。

八代 ああそう。そうそう、だから、(?)のね。

奥平 そう。

八代 奥平さん行ってたら、もっとアジア変わったかもしれない。

奥平 いやいや(笑)。本当に。「そんな私英語できないし」とか言って断った記憶があります。

田中 へえー。

奥平 でも、高嶺さんでよかったね。

八代 うん、そう。高嶺君ね。うん。

田中 ふーん。何かすごいね。ラオスの活動は、年にさっき4回っておっしゃってましたけど、行って向こうではどんなことされてる…。

八代 今ね…。今でこそパラリンピックがあるからスポーツっちゅうことをしていますけど、あそこは障害者がみんな家の中にいるわけですよ。表に出れない、ほどんどね。で、家族が面倒見る。これはまた家族制度がそうなってるから。そこに障害者問題って、もちろん年金があるわけじゃなし、何があるわけじゃなし、全く福祉の「ふ」の字もないわけだから。一般社会の中にいることはいるんだけども。しかも不発弾みたいなのがあって、後天的障害の人も多いわけね。で、行ってみると、どうしてみんなを街に出すようにしたらいいかっていうんで、それにはスポーツかなと思って。で、スポーツを始めるようになる。バスケットを中心に車いす、バスケット。それからそういうことで障害者もスポーツができるっていうことを通して、スポーツと就労っていうプロジェクトに入っていくわけです。それにはスポーツをやりながら働く、働きながらスポーツをする。それが人間的な一つの営みの中で重要だっていうことで。で、美容とか何でも屋とかクッキー作りとか、そういう就労のプロジェクト。日本から専門家を呼んで、講習つけて。で、ライセンスを取る…っていうところまでいかないけど、それぞれ地方から出てきた女の子がそこで美容の研修をして自分の国に戻って、で、自分で開業して、っていうようなことの技術の一つの支援活動をやって。で、クッキーは、とにかく作ったクッキー、売らなきゃだめだと。おいしいクッキーなんだから売りましょうよと。で、ラオス中の企業回らせて、自分たちの作ったクッキーを売って。今、100社ぐらいはね、もう定期的に買ってくれるから、十分自立できる状況になってる。[01:35:55]
 今、新しく今年から知的障害者のこと、全くこれまた何にもできてないもんだから、知的障害者の支援活動の就労支援をね、スポーツと教育、今してるから、スポーツをやりながら勉強しながら、それから就労に入っていくっていうような、そういう知的障害者の生き方のための一つのプロジェクトにまとまってますね。もう一つは北部の方で。そこへ訪ねて行ったら、どうしても日本の桜を植えたいっちゅうもんだから。そこから京都に象さんを4頭もらったんですよ。無料(?)で。

奥平 へえ、象。

八代 象さん。

田中 京都なんですか。

八代 京都の、京都市動物園。

奥平 あ。へえー。

八代 そこで何を希望したかって言ったら、そのカイソンさんっていう今のラオスを作った人たちが…、ベトナム戦争時代にそこで青春を過ごした人たちが今のラオスの偉いさんになってるわけ。こういう人たちの政治の聖地なんですよね。でそこに、カイソン公園っていう大きな公園を作ってそこに桜を植えたいっていう知事の申し入れがあって、で、桜が育つかなと思いながら京都の桜の先生を連れていきながら土壌改良したら、今、400本植えたわけ。これも一つのプロジェクトで、障害者が、何の仕事もないけども、桜には虫がつくとか色々なメンテの部分があるから桜守り。桜守りを障害者がしてる。で、合わせて桜クッキーっていうのを作って。

奥平 それどこですか? シークワン…、

八代 それはね、シェンクワンじゃなくてもっと北の…、ベトナムと中国のちょうど…、北部だね。高度はだから1,300mぐらいあるから。

奥平 じゃあ涼しい。

八代 涼しいからね、桜は育つ。今、だから400本植えて。

田中 へえー。

奥平 ラオスって、ベトナムばっかり有名ですけど、あの、時代。でも、ラオスってすごいじゃないですか。

八代 その国は(?)、東側は大平洋でしょ。大平洋のところにはベトナムとカンボジアがあって阻むでしょ。北は中国なの。西はミャンマーなの。南はタイなのよ。陸地…、陸の孤島なわけだ。私のふるさと、山梨だけど、全く同じなのよ。

奥平 あ、そっか。

八代 海がないんだから。だからそれと似ていて。で、餓死する人はいないのよ。なぜかって言ったら、庭にバナナが。パイナップル。ね、四季折々の。二毛作の国だから。だから、しかもオーガニックなものが多いし。

田中 (笑) オーガニックしかないっていうか。

八代 オーガニック。肥料も買えない。だからおいしいものが多い。ただ、だから海外に拠点を持ってるとかっちゅうことはしないのよ。だから自給自足の国だよ。だからメイドインラオスってものはないんですよ。まあ、ラオスのコーヒーは、キリマンジャロやブラジルとみんな混ぜられて売られてるけども、ラオスのコーヒーは世界で一番うまい。鶏も世界で一番おいしい。

同席者皆さん ふーん。

奥平 本当に?

八代 本当。

奥平 私、ご飯は、すっごいおいしいと思いました。

八代 お米が。

奥平 うん。

八代 そのお米。だからね、いい国なのよ。で、しかも、女性が強い国だな。

奥平 あ、そうですか?

田中 ああそうですか。

八代 男はボンクラっていうか、(?)。

奥平氏・田中 (笑)

八代 仏教国だから、必ず二十歳になる前にお坊さんになるか軍隊に入るか、必ずみんな義務化されてるからね。

[01:40:02]
奥平 じゃ、元々はその、八代さんがエスキャップで知り合ったその…、

八代 坂井さん。

奥平 坂井さんっていう人が…、

八代 そうそう、大使なの。ラオスの大使。

奥平 声かけてきて、始まったの?

八代 それから、ポンメーク保健大臣っていうのと日本に来て。で、僕が行って。で、色々活動していても割合単年度支援が多いじゃない、NGOから、(?)。ちょいと1年ぐらいやって「はい、さようなら」と。それじゃだめなのよ。1年ぐらいじゃ何もできない。

前島由希 じゃあ、ADDPのお話は前島会長が(笑)。前島会長、ほらADDPの話。

前島富子氏? 前島会長、今あの、まあそういうこと、(?)。

田中 なるほど。

奥平 本当に短い期間じゃそんな何もならないですよ。

八代 ならないよ。単年度支援じゃだめだ。だから196ヵ国あるんだよ、世界にね。あとの195は誰かに任せて、おいらはラオス一辺倒。

同席者皆さん (笑)

八代 その代わりラオスのことは任せろと。今日から、河野大臣は今日から?

前島由希 今日からあの…、

奥平 何て?

前島由希 外務大臣がラオスです。

奥平氏・田中 ああ。

前島由希 それで、うちの障害者の知的障害者支援を今やっていて。知的障害を持った人たちの教育アクセス、全然ゼロなんですね、ラオス。それで、ちっちゃい職業訓練、就労支援やってるんですけど、そのカフェ、「みんなのカフェ」っていうちっちゃなカフェ…、

八代 明日、土曜日やる?

前島由希 今、ラオスから国際電話ありました。

八代 あった?

前島由希 もう今それで、ありとあらゆる、八代先生からメール…、あれで、

八代 俺が、俺が大使にメールして…、

前島由希 知的障害者と聾者が働くカフェをやってるの。

八代 …障害者が働くカフェでおもてなしをするから、大臣によろしく(?)…、

前島由希 来て下さいって(?)。

奥平 え、いいですね。

田中 在庫全部売っちゃえみたいに。

八代 メールは効(聞?)いたか? 効いたんだ。

前島由希 効いたみたい。だからそれで、もうありとあらゆるオプションを今用意しておりますって言って。

奥平 すごいねー。

八代 河野大臣ちゅうのは、お父さんが河野洋平。

田中 洋平さんよね、うん。それこそ今の、優生保護法の改正の時の外務大臣だったんですよね。

八代 そうそうそう。

田中 洋平さん。お父さんが。

八代 それで、彼が最初、僕が科学政務次官…、この、科学っていうのは障害者にとって、障害者の不自由さを解決するには科学。ていうことで科学政務次官やってたの。で、ライフサイエンスっていうのを提唱したんだ。今、宇宙ステーションっていうのあるでしょ。あれ最初、宇宙基地って言ってたの。こんな宇宙基地なんていうね、戦争ごっこみたいなのはだめだって。宇宙ステーションっていうのは僕が命名した。

奥平 えー、本当に? すごいですね。

八代 それはあんまり…。知る人ぞ知る。すごいでしょ。宇宙ステーション。

田中 すごい、何か…。(笑) すごい。

八代 その時に外務大臣が…、科学大臣が、河野洋平だったのよ。俺が政務次官で二人でやってたの。その時に彼が犬が好きだって言うから、うちにチャウチャウ飼ってたの。で、チャウチャウの子どもをあげたの、外務大臣に。それがね、こんなすごいチャウチャウに育ってね。まあだから、うちとは養子縁組してる。

同席者皆さん (笑)

八代 この間、外務大臣に会ったから「ロッキーはその後死んじゃったけど、ロッキーは素晴らしかったでしょ。」ったら「あれはもう安らぎの、人間を…、もう八代さんのところには本当に感謝です。」 「今度、ところであんた、ラオスには行ってないけど、ぜひラオスへ、(?)」って(?)。 「その時は俺も一緒に行くから」つったんだけど、俺行けないけど。まあ言ったら、それから行くことが急遽、決まって。行くっていうのに全然連絡がなかったから、それで調べたら行くっていうことを情報で聞いたから、そりゃ、やってるプロジェクトを見させなきゃね。せっかく来てさ。大使、行くそうだけど、みんなのカフェでコーヒーとクッキーを食べて。

奥平 (笑)

田中 そりゃそうだ。

奥平 そういうつながりか。

女性同席者 いいですねえ。

八代 そういう忖度。いい忖度と悪い忖度がある。

奥平 ねえ、うまいですよ。勉強しないと、方法を(笑)。確かにいい忖度と悪い忖度がある。

田中 そうだね。いやこれは、うーん、でもまあ、世の中必要だよね。

奥平 うん。ねえ録ってるよね。

田中 録ってます。

奥平 ああよかった。

田中 来てからのやつだけだけど。

奥平 その前のは、一応ここにある。

田中 うーん。

奥平 ちょっと休憩。

田中 メモして下さって、すごい、助かります。

女性同席者 あ、自分のために(笑)。

奥平 とりあえず整えてメルマガに書くのと、まあ差し支えなかったら彼女にも送って下さい。

田中 あ、ありがとうございます。メルマガ? 何? メルマガって。

奥平 ジャネット(JANNET)っていう、何だっけ、障害NGO連絡会っていうのやってて、それで一応来てるの。

田中 あ、今日はそれで来てるの?

奥平 うん。

田中 ああ(笑)、なるほど。わかりました。ありがとうございます。でも私、名刺を渡してなかった。

女性同席者 私、名刺、切れちゃったんですよ。

奥平 名刺、作る?

女性同席者 もうなくなっちゃいましたね。

奥平 全然?

女性同席者 今、もう大学院の名刺しかないです。

奥平 あ、じゃあ作っとく?

女性同席者 大学院のしかないです。

田中 ありがとうございます。

奥平 私のも一緒に作ってもらっていいかな。月曜日に。

田中 でも、連絡は、じゃあこのメールで大丈夫なんですね。

女性同席者 たぶん奥平さんのメールに入ってると思います。

奥平 「国際」っていうところにいけば大丈夫。「国際」。

田中 「国際」、わかった、ありがとうございます。ふーん。何か、世界の見え方が違いすぎて(笑)。

奥平 うん。でも大切。だから結構私も障害者の人から「八代さんなんて」とかさ、色々聞くけど、やっぱ両方の側から聞かないと分かんないなあとか…。

田中 そうだねー。そしてまたこの、何て言うんですか、皆さんの親戚のどこかに障害のある人がいて(笑)。やっぱりそういうのがあるんだね。

奥平 ああ、政治家? ああそうだね。結構…、そりゃそうだろう。

同席者 確率ですからね。

奥平 あなただっていない? どっか、いとことか。

同席者 どっかにいますよね、きっと。

田中 いやいやいや、どっかにはいるんだけど、そうやって、何て言うの、知っててさ、分かって、それが話してて出てくるっていうのがすごいなあと思いながら。

奥平 それはやっぱり、橋本さんなり誰々なりが言ってきたからでしょう。

田中 うん。だからやっぱり、八代さんだから心開いて「いや実は…」ってたぶん話すんだろうなってとこもあるよね。

奥平 キャラもあるんじゃない。

田中 うーん。

奥平 一日だけは落ち込んだけど、他は明るかったって言ってたし。

田中 ああ、そうなんだ。

奥平 さっき富子さんが。

田中 受傷(受賞?)した時の話? も聞いたんだ。

奥平 うん。

田中 うん、そうだよね。第一線でいきなりだもんね。

奥平 うん。

田中 すごい。じゃ、でもだいたい…。今、休憩中?

奥平 下半身不随になったからって給与まで半額にされてさ(笑)。

[@ 音声終了]


[A 00:00:00]

八代 日本では国際障害者年という…、まあ、浮かれた…でもないけど、やってたけども、アジアの国々を廻るとね知らないのよ、誰も。「国際障害者年って何?」っていうような感じよ。これじゃやっぱり、アジアの中の日本としての思いと、まあ我々がアジアに向ける思いを持つと、何としてもこういうものをっていうのは、どういうふうに障害者に益があるかどうかは別として、やっぱりフラッグは上げといた方がいいというふうに思ったわけ。啓蒙啓発も含めてね。そのためにも、国連の方は10年で終わっちゃうんだけど、これは先進国の連中は今さら国際障害者年って言われたって迷惑な話だみたいな。また、もう福祉が進んでる国には冷ややかなまなざしなのよ。こんなものいらないんだというような思いなのよね。ところがアジアはそうじゃなくって、いよいよこれからっていう時にそれが終わっちゃったんじゃ、何の…、今までの10年の意味がないと。それならば新たな始まりのような思いで日本が音頭を取ってやろうと。で、音頭を取るにはどうするかと。日本とやっぱり中国が連携しなきゃだめだと。で、中国も北京でエスキャップ(ESCAP)総会があるのでそれを目指して。で、僕が、宮沢さんがその時総理だったから宮沢さんに掛け合って、実はこういう一つのものがあるけれども、世界は終わるけれどもアジアの中の日本っていうリーダーシップを考えたならば、やっぱりこれからアジアは福祉が始まっていくんだと。で、障害者問題のこれから議論されようとしている時にこのフラッグが降ろされてしまうと、アジアは元の木阿弥になっちゃうから、何としても日本の心をやはりアジアの国々に伝えるためにも日本がイニシアチブを取って10年の旗揚げをしたいと、それにはESCAP総会があると。いうことでケ小平の息子が、デン・プーファン(ケ樸方)っていう男がいるんですよ。これも車いすなんだわ。

奥平 ああ、そうですね。

八代 うん。で、これも日本に来るといつも俺と会食したりしているんだけども、デン・プーファンに連絡をして「そうかそれじゃ、日本と中国が共同提案で、北京のESCAP総会でその発議をしよう」と。いうことで日本がそれを政府演説としてやるわけ。その時の政務次官が柿澤弘治っていう外務副大臣だったのね。もう亡くなったけど。柿澤弘治っていう外務政務次官が日本の政府の代表として出席をして、日本と中国はそのことを共同提案をすると。アジア太平洋は引き続き第2の10年をこれから継続していくという宣言をしたんですよ。うん。その仕掛け人は僕とデン・プーファン。

奥平氏・田中 ふーん。

八代 デン・プーファンっていうのはなかなかのもんでね。ケ小平の息子さんで。でね…、

奥平 そうですね。ジュディもよく言ってる。

八代 (?)。ケ小平の息子で親しかったんだけども、香港で、アビリンピック(ABILYMPICS)か何かあったのかな。その時に中国がアビリンに参加するっていうんで、僕と二宮さんでDPIとして行った時に、僕らはちっぽけなホテルに泊まってたのよ。そしたらデン・プーファンから電話が来て「私のとこの別荘でお会いしたいから」って。そんな所へ今さら行く気はしないし。で「私の泊まってるホテルへ」 したら僕のホテルへ来るって言うのよ。それで、そのホテルで、会場にも近かったしね、ホテルへ泊まってたら、朝起きたらエレベーターが一基止まってるのよ。あれ何か故障でもしたのかと。して、下で飯食ってさ、で、上へ上がってったの自分の部屋へ。そしたら部屋の中で、布団が引っくり返すわ、隣の荷物は引っ張り出すわ、ベッドの下を覗き込んでる奴がいるわ…、

奥平 え、何で?

八代 何で。デン・プーファンが来るからよ。

奥平 ああ、危ないものが(笑)。

前島由希 VIPだから(笑)。笑っちゃう。

八代 だから、日本の皇太子が来ると同じ。

田中 ああ、そうかそうか。

奥平 えー、すごいねー。

八代 そしたら俺と二宮さんは頭にきちゃってさ。冗談…、何様と思ってんだっつってさ。それから止まってたエレベーターもね、香港はもうすぐ統合するんだから、香港もおべっか使って特別なエレベーターを用意してるわけだ。それで部屋へ来たら、SPみたいなのがみんな部屋の中、俺たちの荷物掻き回してるんだよ。

奥平 パンツまで(笑)。

[00:04:52]
八代 本当だよ。頭へきてさ。ものすごいきたから、もうそのことももちろん言ったよ。悪かったって言うんだけどさ。その次に面白いのはね、香港の日本の領事館から…、これまた国の外交ちゅうのの面白さでね、香港の総領事が前日その食事をご馳走してくれるっていうことで言ったの。なんとかケ小平の病状を聞き出してもらいたいと。

奥平 病状?

田中 へえ。

八代 というのはね、お父さんが入院してたわけよ。で、その病状がどういう状況か日本政府は知りたいわけよ。

前島由希 ケ小平だからね。

八代 ケ小平だから、何たって。ね。「なんとか聞き出してくれ」って。「なんとか聞き出してくれったってそんな言葉のうまい聞き方は中国語じゃ…」「いや、うちの総領事の北京語のピカイチがいるから」「あ、じゃ…」 で、俺がね、「俺が、デン・プーファンと話をしていて『月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上に出た』って言ったら、あんたそれで自分の聞きたいこと聞け」つったんだよ。

奥平 (笑)

前島由希 なんかふざけてる(笑)。ま、そういう…、

奥平 まあねー。

八代 そう、その通り。相手は分かんないんだからね。俺が聞いてそれ直訳するよりも、外務省が日本国として聞きたいならば、「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上に出た」って言ったら、そのことを聞けばいいよと。

田中 通訳したふりして(笑)。

八代 そうそう。そしたら、俺が、ケ小平、ならね、「月が出た出た月が出たかな」って言いながら言ったら(?)ね、したら「…(中国語のまね?)」。

同席者皆さん (笑)

八代 通訳は、一生懸命、ケ樸方(とうぼくほう)に…、デン・プーファンに聞いてんのよ。それで、あとで聞いて、どうだったかって。「いやだいぶ病状も良くなって、もうすぐ復帰できるよ」(?)、「あ、そりゃよかった」(?)。そんな笑い話もあります。

前島由希 ふざけてるわ。

田中 すごいなあ。

八代 DPIの会議も、もう二宮さんに任せっきりでさ。二宮さん、こりゃあもう…。

奥平 ああそうなんだ。

前島由希 いいコンビよ、二宮さんもね。

八代 「私は真っ赤なリンゴです。お顔は丸い…、北の…生まれは寒い北の国」って言ったら「さっきの議題のこと、ちょっとまとめて」って言って(?)。

前島由希 すごい、ふざけてるわ。

八代 (?)、「はい、承知しました」二宮さんも嬉しいんだ、承知しましたって。自分の意見を持ってたから。

奥平 ねえ二宮さん、もう引退しちゃったんですもんね。

奥平 あそうなんだ。ああ、八代さん。私、今ちょっと思いついたことでお願いがあるんですけど、このU.N.エスキャップ(U.N. ESCAP)、去年第3次の中間年、迎え…、終わったでしょう。で、最近、3次だからもう3回目だから盛り上がってないんですよ。

八代 盛り上がんないわね。でもあの旗があるのはいいのよ。なんとなく。

奥平 うんうん。それでね、私たち、リハ協として、せめて2020年の前…、来年だ、2019年にESCAPのワーキンググループの会議をやりたいなと思ってて、その2020年に続けるためにも、ちょっと盛り上げたいなと思ってて。何か、河野大臣に言っといて下さいよ(笑)。うん。

八代 うん。

同席者皆さん 「うん」、て(笑)。

前島由希 「うん」って何でですか、それ。

八代 いつなの、それは。

奥平 いや、これから計画しようと思ってて、来週…、

八代 だって9月にはもう総裁選だから、ガラッと変わっちゃうわ。

奥平 あっ違う、来年…再来年…、あ、来年です、来年。それで実際、来週、再来週? 外務省に行ってちょっと打ち合わせとかしてくるんですけど、地球規模課題総括課の…、

前島由希 誰が課長さんなんでしたっけ。

奥平 今、甲木(かつき)課長っていう人で、まあ若いからまだそんなに力ないか…、けど、そう、八代さんに頼めばもうちょっと盛り上がるかなと思って。

八代 あの、岡崎君なんかは、アジア太平洋、南東アジア課とは関係ないのか。

前島由希 関係ないんじゃない。今、障害者の権利とかそういうところは、あれだよね、違うんだっけ?

奥平 それは人権人道課で…、 

前島由希 あ、人権の方か。あと今…、[00:10:00]

奥平 U.N. ESCAPの担当が、地球規模課題総括課っていうところがやってる。

奥平 いや、大臣に知ってるからいいかなと思って、だめ?

八代 大臣、おそらく終わっちゃうでしょ。大臣は。

奥平 ああ、そっか。なんと…。

八代 ああ、山梨県。

前島由希 山梨県。またこれで山梨の課長が、偉い(?)課長さんがいるの。

奥平 えー、山梨県紹介して下さい。

前島由希 あの人官房長になるよ、すごい偉いと思う。ね、何さんだっけ。

八代 うん。

奥平 え、本当? 紹介して下さい。

前島由希 すごいいい方。ハートがあって。八代さん、車いすで、飯倉公館の…、外務大臣と、ほら、この東京の在京の大使館が集う何かそういうレセプションがあったんですよ。それで招待…、車いすでごった返して車いすだからめんどくさいから、いいよ、いいよ、河野大臣に、私が押し切ったの、で何か、「ああ、…」。

八代 ピコ太郎がいた時?

前島由希 そう、ピコ太郎がいた時。

八代 僕がテレビの頃ね、その頃…、テレビに僕が出る前はね、山梨県人っていうと警戒されたらしいよ。

奥平 何で。

八代 ぺんぺん草も生えない山梨県人。

奥平 ああ、さっきそう言ってたっけ(笑)。

八代 狐と狸と行商の騙しみたいなことをやってた時代があったから。深沢七郎のあのそういう何かあの…、山梨県人は何ていうか、ね、近江商人と同じで山梨県人が歩いた跡にはぺんぺん草も生えないみたいな悪い表現をされてたんだよ。だから、山梨県人っていうのは恥ずかしいなんて、昔、時代があったんだよ。で、僕がテレビで、僕のふるさとは、生まれ故郷は「山梨県東ひなびた郡いなか村、字(あざ)へっころ谷」って言ってさ(笑)、売りにしたのよ。

前島由希 さすがね。トーク。ほら、コメディアンですから。

八代 「八代さん。八代さん。ふるさとは?」「はい、山梨県東ひなびた郡いなか村字へっころ谷でございます。」やって(?)、そのへっころ谷ちゅうのが流行ったのよ。

奥平 へえー。

八代 その名前で、そば屋やってるのもいるけどね。(?)で、「へっころ谷」ちゅうそば屋も。で、へっころ谷、いうことでやって、その頃だからテレビ流行ったもんだから、観光バスが、その、へっころ谷の周辺に…、

奥平 本当にあるんですか?

八代 まあ、ないんだけどね。

奥平 ないんでしょ(笑)。

前島由希 架空の。

八代 架空のほら、東ひなびた郡だから。ひなびた郡(笑)。いなか村、字へっころ谷。そんなことをやっててね。割合だからあれですよ、山梨県人ちゅうのはね、それから「私も山梨出身であることを誇りに思います。」っていう人が結構あってね(会ってる?)。もう「山梨です」っていうのがね、恥ずかしげもなく言えるようになったりして。昔、山梨…、

奥平 じゃ、どうしたらいい?

八代 まあ…、

前島由希 でもまあ、まず八代先生がメールをして、何かちょっと…、

奥平 「障害者が会いたがってるんですけど。」

八代 いや、あのそれ、担当課はどこだろうね。障害者。

前島由希 だからその、地球…、

奥平 地球規模課題総括課っていうところの、甲木さんとは仲良くやってるんですよ。私たちSDGsもやってて。去年、田中さんと一緒にニューヨークの会議に出て。ピコ太郎と写真撮ってきたんですけど。

八代 あら、そう。ピコ太郎。

田中 そうそう。ピコ太郎と(笑)。

奥平 障害者ってそういう時、得ですよね。目立つから。

八代 得だよ、目立つから。

奥平 ねえ。突進して行けばいいわけだから(笑)。

[00:15:00]
前島由希 その時も飯倉公館で、もう混んでて。外で全然入れないなって言ってたら、ピコ太郎がね。ピコ太郎優しい。

奥平 ねえ来てくれたでしょ。

田中 優しいですよね。

前島由希 ああ、でも誰かでも若い人が政治…、当事者で政治を志さないですかね。

田中 そうなの、だから…、

奥平 だから尾上さん。

田中 尾上さん、いいんじゃないかって今言ってたんだけどどうですか?

八代 おーなるほど。だけど俺がさっき言ったのは、障害者は何だかんだ言っても政治には関心がない。

奥平 うん。そうですね。

八代 だからね、結局、だめなんだよ、政治に疎い。

奥平 ああ、確かに。

八代 俺のとこの票っちゅうのが、だから8割方が健常者ちゅうのはそういうこと。

奥平 載っけて大丈夫ですか?

八代 大丈夫よ。

前島由希 もうすみません散らかってて。片づけられない症候群。

八代 まあそういう意味では、割合、希少価値があるよね、俺はね。

田中 いやあ、本当に。

奥平 そうですよ。

前島由希 まだまだ。

八代 言ってみればちょうどその、風雲急を告げる時代の国会人だったわけだから。

奥平 そうですよ。

前島由希 だっていないんだもん、あとに、なかなか。

八代 日本の…、それで僕がね初めて議員になった時は日本の国債はゼロだったの。

田中 へえー。

奥平 国債?

八代 今、借金が1,100兆円でしょ。

田中 今はそうですよ。

奥平 えっ、ゼロだったんですか?

八代 ゼロだった。

奥平 信じられない。何でそうなっちゃったんだろう。

八代 それからね、ばらまきが始まって。どんどんどんどん膨れ上がってって、今1,100兆円。ね。俺が当選した時はゼロだった。しかしその代わり国会予算も45兆円とか50兆切ってましたよ。だんだんやっぱり有権者の色んな願いとかあったから…。今はだからひどいことになってるけど。

奥平 ふーん。政治は、でも大切だなあ。

八代 え?

奥平 政治は大切。

八代 大切よ。

田中 大切ですよね。

八代 暮らしの全てが政治だから。俺なんかね、介護保険も俺は、お尻の床ずれがあまり治らないからやってもらってるんだけど、今度8月から3割負担になるの。

[00:20:00]
奥平 あー、どうして。

八代 3割。今までは2割。高所得だから。

田中 高所得の人はね(笑)。

田中 高所得者はね、割合が高くなるのよ。

奥平 ああー、そうか。

八代 高くなる、3割。もういやになっちゃうね。困っちゃってる。

田中 うーん、本当だよね。

八代 時々またね、テストに来るのよ。認知度(?)の。俺、何度だと思う?

奥平 え、認知度でしょ。

田中 あ、でも、車いす使ってるから要介護にはなりますよね。

八代 要介護。だから要介護。

奥平 ああ、そういうことか。それだったら3か4。

田中 3かな。4…、

奥平 いくつ?

八代 4ったらかなり重いよね。

田中 3ぐらいじゃないですか?

奥平 3?

八代 4、4。

奥平 あ、4ですか。

田中 ああじゃあやっぱり車いすだから4だっていうことね。

八代 そうそう、これはね…、

奥平 本当だって。

八代 1級とは思わなかった。

奥平 車いす、全員そうですよ。

八代 そうだよね。あ、1級なの?

奥平 私は1級ですよ。

八代 2級ね。

奥平 1級、1級。

八代 1級でしょ、ほら。みんな1級だよ。

奥平 車いすだからね。

田中 昔は、でも、手や足がついてると、あんまり等級がね、低い時代がありましたよね(笑)、戦後すぐぐらい。

奥平 でも、でも、例えば…、

八代 やっぱり税制で、税制で少し優遇される分があるんじゃない?

奥平 えーそんな、5級とかって、関係(?)。

八代 障害者手帳持てば、何かなると思うんじゃない?

奥平氏・田中 ああ。

八代 だから、よく提示してくれとか(?)。

奥平 でも、級、関係あるよ。

田中 あ、バス無料も?

奥平 うん。

田中 へえー。

八代 そうそうそう。で、手帳さえあればそりゃまあ、100キロ以上は半額だしね。

奥平 まあねー。身分証明にもなるしね。

田中 あ、そうか。そうだね。手帳…、あ、でも1種1級っていう1種って、あれじゃないの? 何かないんでしたっけ、手帳持ってればいいんでしたっけ、あれ。

八代 いや、僕は1種1級ですよ。

奥平 いや、あの、割引とかは級関係あるけど、身分証明になる…、

田中 ああ、それはそうだね。博物館とか行ってもね。

奥平 そうそうそうそう。

田中 障害者手帳割引とか、あるもんね、確かに。

奥平 そうそうそうそう。

八代 だからあの、万博とかディズニーランドとかっていうのは、ニセ障害者が多くてね。歩くのが嫌だから年寄りは。

奥平 でもディズニーランド、障害者割引、ないんですよ。

田中 ない。その代わり全部、乗せるっていう。

八代 ないよ。だけどほら、優先順位が…、

女性同席者 早くなる、うんうん。

田中 そうですね。こっちからとかね。

八代 我々も飛行機乗る時はスタッフのところから入って行くでしょ。そういう意味では並ばなくて済むじゃない。

田中 そうですね、並ばないね。確かに。

八代 だからって喜んでる場合じゃないよね。

奥平 まあね。

同席者皆さん (笑)

八代 大したことじゃない。

田中 いやー、すごい。

八代 じゃ、一つ皆さん頑張って下さい。

奥平 田中 はい、ありがとうございました。

八代 またなんかありましたら。

[音声終了]


UP: 20191225 REV: 20200609
八代 英太  ◇DPI日本会議  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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