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小林敏昭さんに聞く


2018/02/27 於:大阪、りぼん社



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2018/02/27 小林敏昭さんに

http://www.arsvi.com/2010/20180227kt.htm


於:大阪、りぼん社



小林敏昭写真20180227-2  小林敏昭写真20180227-1  小林敏昭写真20180227-3 

■【4上03】2018022701 小林敏昭氏 16分
■【4上04】2018022702 小林敏昭氏 84分

聞き手:立岩、北村健太郎

【4上03】2018022701 小林敏昭氏 16分

小林 マンションの10階とか11階に事務所を持ったこともあるんです。この、線路の向こう側の西中島南方の方ですけどね。でそれから、大広荘という文化住宅に移って、で、『そよ風のように街に出よう』の雑誌を出す2年ぐらい前かな? 今のこのマンションを借りたんですけどね。うん。だからここに移ってもう、40年以上になるんじゃないかな。1977年か8年にはここに来てますからね。

立岩 ああ、79年に出ると。その2年前にここを借りて。

小林 ええ、ええ、ここ借りましたね。最初はこんな本の山なかったから(笑)、結構広々として。20人ぐらいここで会議をやったりとかね…、をやってたんだけど。

立岩 ああ、そうですね、この…この、本の在庫がなければもっと広い。在庫ってなかなか大変ですよね。雑誌出してる者にとっては。

小林 (笑)そうそうそう。普通の出版社やったら、まぁ取次に出して本屋さんに流れるんだけど、僕ら自分らで売ってるわけだから、どうしても山になっちゃうんですよ。

立岩 あの、レコーダー回させていただきます。もし、あの、公開とかの場合は事前に了承を得まして。

小林 はい。

立岩 あの、河野〔秀忠〕さんって、たくさん自分のこと語ってるじゃないですか、色んなところで。

小林 そうですね。

立岩 喋り放題というか、いっぱい。小林さんって結構、裏方というか…

小林 そうですね。裏方…そうですね、うん。

立岩 で、まぁあの、こないだのインタビュー※でも大阪の大学で、としか、ほとんどそれぐらいの記述しかなくて、

小林敏昭/聞き手:山下 幸子・高橋 淳  20170527 「『そよ風のように街に出よう』の三八年――障害者問題の根底を問い続けて 副編集長・小林敏昭さんに聞く」,『支援』7

[00:01:53]
小林 ああ自分のことはあまり語ってません(笑)。

立岩 あの(笑)、まぁ、敢えてというところもあるんでしょうけど。このところでも、何人かの50年代生まれ…、50年代前半…、僕はちなみに60年なんですけど。尾上〔浩二〕さんと同じ年なんです。

小林 そうですね。うん

立岩 で50年代の初めぐらい…、40年代っていう人は、ここ…、そうですね、あんまりいなくて。こないだ富山・金沢あたりをまわって来て。えっと…、全障連の、初期から関わった平井誠一さん。彼は53年とか言ってたかな…。だいたいそのぐらいの人、が今60台ぐらいの感じで。小林さんが…

小林 僕は51年生まれ。

立岩 51年ですよね。団塊というと…

小林 団塊の世代とちょっと外れてるんですよね。外れてるんですよ。

立岩 でも51年だったら、17、18で68、9年っていう年あたりですか?

[00:03:03]
小林 僕はね、だから、大学は大阪大学なんですけど。あのー、入学したのは1970年ですよ。うん。ちょうど、だから70年安保の時で。だから、否応なくそういう流れに巻き込まれた時期っていうのがあったんですよね。だから入学してから1年近くはそういう活動…、まぁ、民青からも誘われたし(笑)。あの、黒ヘルメットの人たちからも誘われたしみたいな形で、あのもう、訳のわからないままに、まぁ活動した時期もあるんですよね。

立岩 民青さんと黒い人たちと?

小林 まぁ色々いましたけどね、赤い人もいたし、うんうん。白もいたしね。うん、僕が最初に大学に入って寮に入ったんだけど、そこが刀根山寮っていう寮で、そこが民青の人たちが牛耳ってた寮でね。最初はだから法律の学習…、僕は法学部だったんで、「法律の学習会をやるんだ。」っていうんで誘われて、知らないうちに御堂筋をデモしてたと、いうふうな、そういう学生だったんですよね。うん…。

立岩 70年安保…ですよね。

小林 そうですね。でまぁ、そのあとほら、あの、連合赤軍の事件とか浅間山荘が起きて、だからそういう学生とか、まぁ、労働運動の一番左側の部分に対してすごい、失望する訳ですね、僕なりに。うん。だからそこらあたりでもう、いわゆる大学解体とか言ってる人たちの、何かねぇ…。ま、地に足が着いてない感じがね、分かってきた、自分なりに分かってきたんで、離れていったんですよ。でそうすると、じゃあどうやって生きていったらいいのかなっていう…、うん、まぁ、先行きが見通せなくなったというのか。それまではマルクスを一所懸命読んでたら何か、世界が変わるようなね?(笑) うん、あの、まぁ、甘い考え方でいたんだけど、現実は全然そうじゃないというのがだんだん沁みて来て…、

立岩 どっかに所属というか、(?)全くなくて? セクトというか…、

小林 それはないんですよ、ないんですよ。一番端っこの方で、辛うじて学生運動に関わってたぐらいなんですけどね。うん。だからそういう色んなセクトのことは当時は全然わからなくて。ただ民青は…、民青批判みたいなのあったんで。最終的には民青からは離れたんですけどね。
立岩 しばらくお付き合いはあったけれどもということ…?

小林 そうですね、最初の半年ぐらいは、法律の学習会を通して。

[00:06:05]

立岩 島根でしたっけ? ご出身は。

小林 島根です。

立岩 高校の時とか何かあった、地域ですか?

小林 いやいや、高校時代は全然活動してないんですよね、僕自身は。

立岩 周囲で、されてた人がいるとか。

小林 それもないですね…。辛うじて60年安保の頃は、やっぱり波及力が70年とは全然違いますから。僕らその時小学生だったけど、子ども達の遊びで、デモの遊びってあったもんね(笑)。そう。「安保反対、闘争勝利!」って小学生の頃から叫んでたのよ。そうやって、あの、みんなで肩を組んで…、肩を組むと言うより、こうやって持って…、うん、あの、走る。でも、そういうことあったけど、70年って、だいぶ違いますよね、60年安保と比べたらね。

立岩 そうか。場所にもよるんでしょうね。こないだ金沢で会った人〔田中啓一さん〕は、札幌の、場所によるんだろうけれども、高校とか…、

小林 札幌って結構中央に近いような感じが…、東京に近い感じがするんだけど、僕らの田舎って山陰の今、安来市っていうところに編入されてるけど、広瀬町っていうね、尼子の城下町なんだけど、ほんとに田舎ですからね、うん。で高校時代は、あの、松江に行ってたんだけど。

立岩 僕はもっと田舎だから。佐渡ですから。何にも知らなかったですけど。うん。僕79年だから、まさに養護学校義務化の年で、大学入ってからですね。ちょっと、『そよ風』に書かせてもらいましたけど、民青の人たちと、養護学校反対した人たちが喧嘩してて、っていうような、そういう入(はい)りなんですね。

◇立岩 真也 2007-2017 「もらったものについて」,『そよ風のように街に出よう 1〜17』75:32-3〜91

[00:08:02]
小林 そうですね。

立岩 小林さんが70年代、阪大法学部入って、しばらくそんな感じだったけども、まぁ1、2年ですよね、2、3年のうちに内ゲバやら何やかんや起こってって、

小林 そうそうそうそう。



立岩 どうもな、と。そこを、そういう感じで、ある種の挫折であったり、離脱であったりっていう感じで、障害者運動に、っていう人は一定いるように思いますけども。とは言っても、そこにいかない人の方がいっぱいいますじゃないですか? それはこう、きっかけみたいなものっていうのは…

小林 うん、きっかけって、ものすごい単純なんですよね。学生時代にアルバイトをね、大阪市立盲学校という、この、今は特別支援学校になったけど、あの、上新庄の方にあるんですよね。そこの警備員のバイトをしたんですよ。でね、年末年始とかお盆の期間中とか、結構実入りがいいんですよね(笑)、泊まるだけで。で、全部門戸を閉めて、朝、教師が来ると開ける、という、それだけで。

立岩 あぁ、学校の夜警というか…

小林 夜警っていうのもほぼしなくて(笑)、寝てるだけで。その仕事だけで結構…、当時のお金でいくらぐらいあったかな…、1万円とか、一晩で。1万5千円…、1万5千円までは出なかったかな。だから、ほとんどもう、あの当時はね、大学に僕は行かないというか行けない時期ってのがずっと続いてて。全然、その、自分の先が見えなかったんで。で、昼夜逆転みたいな生活も送ったことがあるんですよね。あまりこれは、外では言わないんだけど。朝刊を寝る前に読んで、で起きてから夕刊を読んだり(笑)。夜中何してるかっていうと本をとにかく、読みまくってたんですよ。小説が中心ですけどね。で、だから日本の明治以降の小説とか。ほぼ、読みまくったんですよね。高橋和巳にも影響受けたし、あと、ドフトエフスキーとか、ロシア系の本とか。その中にまぁマルクスなんかも、もちろん入ってるわけですけどね。だからそういう時代があったんで…、だからもう最終的には大学もやめましたし…

[00:10:26]
立岩 何年いたんですか?

小林 籍は8年あったんですよ(笑)。

立岩 8年もいたんですか?

小林 いました。だから除籍にはなってないんですよね、一応授業料払ってたから。

立岩 70年に入って、8年は…

小林 ギリギリまでいて。最終的にもう8年経ったということで、あれ、8年しかおれないんですよ。

[00:10:50]
立岩 いられない。それで退学ですか?

小林 退学という形にはしたんですけど、うん。だから、その盲学校で警備員のバイトをしてて視覚障害の人らと、ま、出会うんだけどね。一緒にバイトをしてる僕の友人がいて。今このりぼん社の隣の部屋で社長してるのがそれなんだけど(笑)。彼も、その、阪大の、彼は工学部だけど…、を出て、一緒にバイトしてたんだけど。で彼が、視覚障害の人と会ってるけど、「もうちょっと色んな障害を持ってる人と、あの、出会ってみたいなぁ。」みたいなことを彼が言い出してね。

立岩 同じとこでバイトしてて、その、今もここにいる…、

小林 宇田川くん、てのが、

立岩 宇田川さんっていう人が…

小林 彼がそういうことを言い出して。で、大阪ボランティア協会に行ったんですよ。

立岩 はいはいはい。

小林 「どっか面白い、そういうボランティア活動やってる所はないだろうか。」って聞いて、で紹介されたのが、グループゴリラ(笑)。

立岩 ふーん。ボランティア協会にゴリラを紹介された…。

小林 紹介された。だから不思議なんだよねぇ。

立岩 不思議ですね。でもそういうことがあったと。

小林 うん。たまたまなのか…、まぁ結構、当時は、ボラ協の中でも「変わった奴らがいるぞ。」ということでゴリラの名前が通ってたのかどうかわからないけど、まぁそこを紹介されて。

立岩 そういうこと有りうるかもしれないですね。70年代の初めって、社会福祉協議会であるとか、今何もしてないみたいな所でも、結構そういう…。あの頃の『月刊福祉』っていう全社協が作ってる、何かのんびりした雑誌なんかも、ちょっとその頃って違うんですよね、70年代の頭ぐらいは、雰囲気が。そういうのあったのかも知れない。

小林 時代的な背景があったのかもわかりませんね。

立岩 何年だか覚えてますか? ゴリラを紹介されたのは?

小林 72年ぐらいだったかなぁ…。

立岩 じゃあ結構早い。

小林 72年か3年。73年に大阪青い芝の会ができるんですよね。その時はもう関わってたから、それより前なんですよね。

[00:13:05]
立岩 じゃあ、そんなに何年もっていうわけじゃなくて、70年に学校入って、色々あって、ちょっとそういう政治運動からは遠ざかって、小説読んでた頃に、友達がそうやって「行こう。」みたいな話になってボランティア協会行ったらゴリラを紹介され。でゴリラ行ったんですか?

小林 行ったんです。それがね、あの大広荘という文化住宅なんだけど。でそこ行った時にね、大阪の第八養護学校建設っていうのが進んでいて、それを何とか止めようという会議をしてる所だったんですよ。今、寝屋川養護…、寝屋川特別支援学校かな。うんうん。で、今建築のための足場ができてる、木で何か色々組んでると。あれを夜中行って取り壊そうと(笑)、いうような話があったんだよね。最初、だからすごい印象に残ってて、「これはえらいとこに来たなぁ。」というふうな…。

立岩 そういう相談をしてた? 工事現場壊しちゃえ、みたいな。

小林 そうそう。「第八養護学校建設阻止!」みたいな、何か会議をやってた。ただそれはね…、

立岩 何人ぐらいいたか覚えてますか? その文化住宅に。

小林 10人はいましたよねぇ…、うん。もっといたかもわかんない。

立岩 大学生?

小林 大学生じゃなくてね、一つは高校を出たばっかりの…、

■【4上04】2018022702 小林敏昭氏 84分

立岩 72年頃に文化住宅行ったら、10人ぐらい男がいた…、男ですか?

小林 いや、女性もいましたね。あの、ですから高校出てすぐ、その、青い芝の会のまだ、前身のグループ・リボンというのがありまして、そのメンバーたちと出会った高校生…、高校を卒業したばかりの人たち。それは後にりぼん社の代表をやることになる三矢博司さんとかね、何人かのそういう高校出たばかりの人たちが中心でしたね、健常者は。

立岩 あーそうなんだ。高校出たばかりの人。

小林 当時『さようならCP』の上映運動を、河野秀忠なんかがずっとやるんですね。映画を持って関西各地まわるんだけど、それを姫路でやった時に、後に青い芝運動の中心になる鎌谷正代さんとか、松本〔孝信〕さんとか、澤田隆司さんとか、ま、そういうメンバーが上映運動に参加する。沢田さんは少し後かな。で、そのあとで青い芝を作ることになるんですけど。最初はだからグループ・リボンというのを作って活動してる。で、当然健常者の介護者が必要になる。で一緒にやるグループ・ゴリラというのを作って、でそこに来たのが、そういう高校出たばかりの人たちが来たんだよね。彼らはたまたま上映会に来て、障害者と出会うわけ。

立岩 映画とか見ちゃった…、

小林 見たんですよね。

立岩 連れ込まれたっていうか、引き込まれた。

小林 うん。

立岩 そう。高校出て、労働者というか…、何ですかね。

[00:01:53]
小林 えっとね、そうですね。まだ専従体制は当時とってなかったと思うんですが。だけどただ、三矢さんとか本当のコアなメンバーは、ほとんど専従の様な形だったと思うんですけどね、当時から。だからどっからお金が出てたのか…。

立岩 どっかでバイトか何かしてたんですかね?

小林 うん、バイトをしながらっていう形だったと思いますね。

立岩 一個聞きたいけど、リボンって? ゴリラって何となく分かるんですよ(笑)。

小林 イメージが(笑)?

立岩 イメージが。リボンって名前って何かあるんすか?

小林 僕は確か河野から聞いたと思うんですけど、当時ラジオの連続ドラマか何かでね、『リボンとゴリラ』っていうのがあったと。

 ※軽く検索した限りでは出てこなかったです。情報求む(2018/08/21)。

北村 ほんとかなぁ? 調べてみよう(?)。

小林 確認はしたことないんで、僕も。『リボンとゴリラ』という…、それからまずリボンというのをとって、で健常者部分はゴリラと付けたんだという話を聞いたことがあるんだけどね。

立岩 でリボンにして、やってたと。で、その養護学校に作るのを妨害する算段をしてたと。でびっくり?

小林 そうそうそう。でもそれ行動には移されなかったんだけど、それはどういう事情だったのか、ちょっと僕はよく分からない。いきなりまぁ行ったところだからね。よく分からなかったんだけど。まぁそれはなくって。うん。

立岩 びっくりしつつ、付き合いは続いていくわけですか?

小林 そうですね…。だからまぁ、その新左翼運動をちょっと「おかしいぞ。」っていうふうに思って、じゃあこれからまぁ日本の社会にどう関わって行ったらいいのか、みたいな、まぁ若いなりの悩みがあった時に、まぁそういう、障害者の集団と出会うわけですよね。だからまぁ、僕は外で話をするときは、「障害者と出会ってこういう貧乏な生活をすることになったんだよ。」(笑)みたいな話をするけど、実は自分の方向性が定かじゃなくて見えない時に、彼らと出会ったことで、まぁ助けられたというかね、そういう面もあるんですよね。

[00:04:06.006]
立岩 じゃあ72、3年だから、まだ学校に籍はあるけど学校に入ってない?

小林 全く行ってないですね。

立岩 全く行ってないと。で、結構そこの文化住宅とかに、出入りするようになっていくわけですか?

小林 そうですね。でもう、介護活動始まりますよね。

立岩 介護をする。完全に制度も何もない時代ですよね?

小林 うん、そうそう。

立岩 まぁ無償、というか。

小林 無償ですね。

立岩 どのぐらい働いてた記憶あります? それは時にもよるでしょうけど。

小林 アルバイトは色々やりましたよね。

立岩 アルバイトはアルバイトで別にやって、金を稼いで…。

小林 うん。そうですね。

立岩 それで介護は例えば、週に何日…とか、まぁそれは時にもよるでしょうけど。

小林 最初はそんなに多くはなかったですね。だんだん増えてきて、で結局専従という形になるんですけどね。最初は週に1回とか2週間に1回、人がどうしてもいない時来てくれという連絡が来て、で行くと。だけど、まぁだんだん、障害者の数も増えてくるし、24時間介護が必要な障害者も自立生活を始めるわけですよね。そうするともう、圧倒的にもう足りなくなるんですよ、健常者の数がね。そうするとほとんどもう毎日、介護に入らざるを得ない。

立岩 そうなると、本当に頻度がどんどん高まっていって、でもう、今時の専従つったら、それでお金を…、生活できるだけの金を稼ぐのを専従っていうわけじゃないですか? ね。でそれは、その、当時のゴリラ的には…。

小林 初任給がね、僕が専従になった時8万円だったと思うんですよね。あのー…、当時、自立をして、家から出て自立をすると、生活保護、と。で他人介護料をね、まぁストックするというかな、そこから専従費を出す、そういうパターンだったと思うんですね。

立岩 介護加算を、色んな人から集めて?

小林 そうです。

立岩 その…、小林さんが専従やってた時に、何人か専従って方いらしたんですか?

小林 そうですね…。あの…、その時はもうすでに青い芝の会ができている、でグループゴリラが、でもう一つリボン社、この3者がもう、ある状況ですよね。でリボン社っていうのはこの、健常者の中で専従的な活動をしている者が、リボン社の理事みたいな形になるんです。

立岩 なるほど。

小林 ですからリボン社のメンバーっていうのはほぼ、専従者なんですよね。

立岩 なるほど。

小林 でね、当時が…、最終的には関西青い芝の会連合会が出来て、大阪・兵庫・京都・奈良・和歌山と、5ヶ所の青い芝の会ができるんだけど、それぞれに専従者がいましたからね。それぞれの地区に専従者がいて、大阪なんかは二人とか三人いたから、全体で10人ぐらいはいたんじゃないかと思うんですけどね。

立岩 じゃ関西で、各府県に二人とか…。

小林 二人…、そうですね、二人とか三人いたところもあるかな。

立岩 そうなんですか

小林 河野は最初はね、トラックの運転手をやったり(笑)、色々やりながら関わってた、僕らより10歳ぐらい、僕と9歳違うかな、上だから。まぁ僕らの世代とはちょっと違う感じで、彼は運動の中心的な位置にいましたね。

立岩 そうですね、学生やりながらっていうのとは違いますよね。その前に、その以前から運動をやってたりとか、仕事してたりとかっていうことはあったから、まぁスタンスは違うわけですよね。

小林 うん。だからそういう運動の中でご飯を食べる人間っていうのはそういう、僕らとか、高校出てすぐの人たちとかが、そういう専従をやっていくと。だから最終的にどれぐらいいたんでしょうねぇ…。10人はいたんだろうと思うんだけど、専従者がね、うん。

[00:08:44.472]
立岩 リボン社はひらがなの「りぼん社」になって今でもあるんですけど会社の社じゃないですか? 何か理由があったんですか?

小林 いやぁその辺(笑)僕はよくわからないけど。

立岩 最初っからリボン社だった?

小林 そうですね。

立岩 グループ・リボンっていうのは後…

小林 最初ね、リボン社もカタカナだったんですよ、「リボン」。で僕が『そよ風』を作り始めた時に「もうひらがなにしよう。」っていうことで、それほど大きな意味があったわけじゃないけど、従来のそういう運動の中での「リボン社」的なものじゃなくって、ま、「新しいりぼん社」みたいなものをね、イメージしたいというのがあってひらがなに変えたんですよ、勝手に僕が(笑)。だから玄関の看板はカタカナになってますけど。

北村 ああ、なってましたね。

立岩 写真撮っときました。カタカナ「リボン社」から、ひらがな「りぼん社」は、『そよ風』を始める頃の、何かそろそろというか、こう、メディアというか、「そういう形でやってこうかな」的な流れの時っていうことですよね?

小林 まぁメディアっていうか運動の継続…はあったんですよね、継続をするという意識はあったけど、青い芝ともう一緒にできない状態になってますからね。あの、緊急アピールが出て、まぁ専従者批判、要するにリボン社批判なんですよね、あれは、基本的には。だから一緒にはもうできない状況があって。まぁ関西の青い芝の中でも大阪青い芝だけは健常者の組織を残そう、ということでね。

立岩 そうですね。

小林 うん、で一緒にやろう、ということで。一時はここで…、まぁ色々、三者共同、だから何の三者やったっけな? 大阪青い芝とりぼん社と…、もうひとつどこやったかな…。うん、ちょっと思い出せない。

立岩 その時に、あの、このインタビューに書いていあるのは「ゴリラとりぼんと大阪青い芝の三者」みたいなおっしゃり方で…。

小林 運動の時はね、活動してる時は、その三者共同でやった。ただそれが、関西青い芝が分解して、で「健全社組織はとにかく、なくす。」っていう方針が出て。で関西では大阪が、「それじゃあ重度障害者が生きていけない。」っていうことで、健全者組織は残すと。だから大阪青い芝とはずっとつながりがあったわけですね。ゴリラも、りぼん社も。ただ従来のような関西レベルでの運動はもうできない状況があって。で、まぁ、みんなで「これからどうしていくか。」っていう話し合いを続けるわけですよね。

立岩 大阪の部分と、その…、

小林 大阪青い芝と、で僕らと、でまぁ、他にどういう人が来たかなぁ? うん、まぁ理事ですね、りぼん社の理事で、ただ専従ではなくて、昔のりぼん社との関係はあるけど、もう今は離れて、医者をやってる人とかね、タクシードライバーやってる人とかね、そういう人らも来て、今後どうやっていくかみたいな話し合いを続けていくんですよ。それがまぁ、続けると言っても半年ぐらいかなぁ。時間的に言うとね。

立岩 最初の本(『生の技法』)書いた時に、大阪が残るというか、他と違う路線とったのは、大阪には重度の障害者が多くて、どうしても介護っていうものがいるから、「健常者切れ。」ったって切りようがないっていうことで大阪残ったんだっていう話を読んだか何かして、でまぁ書いたんですけど、概ねそういう理解でいいんですか?

小林 そうですね。僕もそういうふうに思ってますね。当時だから、大阪青い芝の代表が森修さんっていう…

立岩 はいはい、亡くなられたけど…

小林 うん、彼はもう最重度の脳性マヒですよね?

立岩 そうですね、ほぼ起き上がれ…

小林 そうですね、座位が取れないという人だったから。

立岩 そうですね。一回森さんが僕と話したいっておっしゃられて、結局お会いする機会がなくて。で、亡くなってしまいました。そうですよね、森さんが会長ですか?

小林 大阪青い芝ができた当初は代表で、当時は会長かな?

[00:13:04]
立岩 そうすっと、大阪とはそういう形で付き合いが続いていく、でその前後っていうのは…例えばそれこそ、古井〔正代〕さんっていうか、鎌谷さんっていうかその、兵庫の人々っていうのは、その前後というかその後も含めて、どういう距離感というか関係だったん…、何か、ご記憶に…。

小林 うーん、そうですね…。やっぱ中心は、今の古井正代さん、当時の鎌谷正代さんが中心だったよね。彼女はね、いつのまにかいなくなったという印象なんですよね(笑)。

立岩 そうですよね。わりと長い期間遠ざかりますよね、鎌谷さん自身が。ここ10年ぐらいまた元気ですが。

小林 うん。夫〔古井透さん〕と一緒にアメリカ行ったりしてるからね。

立岩 そうですね。

小林 だから他のメンバー、兵庫のメンバーだったら、さっき話出ていた福永〔年久〕さん、それから、沢田さん、えー…、あと誰だ…、当時活動してたのは…。

立岩 そういう人たちから、何か言われたというか、批判というか、そういうことはあったんですか?

小林 いや、僕なんか、あの沢田さんとはその後も結構、まぁ頻繁には会わないけど、たまに会う時は「よう!」とかいう関係でね、向こうも「ほーほーほー!」言うとったけど(笑)、そんな感じで付き合いは続いていたんですけどね。福永さんあたりは、彼は全国青い芝で結構やったのかな? その後ね全国青い芝の関係が強くなって、それほど僕なんかとは関係は続かなかった感じがするんですけどね。まぁまたしばらくして、あの、一緒に『そよ風』の取材なんかでも、応じてくれたりね、することになるんだけど。だから兵庫の中でもそうやって、色んな、まぁ、それぞれによって方向が違ってきた。で和歌山なんかは田舎だから、もうすでに、青い芝運動は関西が分裂した時点でもうほぼなくなる。施設に入っちゃうとかね。和歌山とか奈良…、奈良はうーん…、まぁ地域に残った人も何人かいたなぁ。奈良は梅谷明子さんと尚司さんがいたんで、何とか運動としてはもったんだけどね、しばらくは。

■梅谷さん

[00:15:42]
立岩 小林さん、インタビューの中では梅谷〔尚司〕さんの所にまだ通ってるっておっしゃてますけど、そうなんですか?

小林 そうです、月に2回、泊まりに行ってるんですよ(笑)。今週もいくんだけど(笑)。

立岩 今も?

小林 今も。まぁだから40年以上の付き合いですからね。まあ今は色んな制度があるから、事業所から若い人たちがどんどん来てるんだけど。2ヶ所の事業所からのべどれぐらい来てるかな、20人ぐらい来てんのかな? で、それと別に、古い、僕なんか含めた介護者が、三矢さんもまだ行ってるんですよ。で、障大連の細井さんも行ってるし、まぁそういう人が4、5人いるんかな? その二つのパターンで今、あそこの生活を維持してるんだけど。

立岩 梅谷さんなんてさぁ、就学闘争当時の写真しか知らないから、詰襟の制服来てるみたいな(笑)、そういうこう、梅谷少年の顔しか知らないんだけれど、もうおじさんだよね?

小林 そう、僕とちょうど一回り違うんで、卯年でね、だから…今年55になるのか。で母親がやっぱり卯年で、僕より一回り上なんで、78か。

立岩 お元気で?

小林 元気ですねぇ。

立岩 そうですか。

小林 どこにその元気の源があるのか不思議でしょうがないんだけど(笑)。やっぱり息子の尚司さんがいるからかなぁ。

立岩 前から元気だけど、まだ持続してるんだ、元気で。

小林 元気ですねぇ。車で走り回ってはるし。うーん。ほぼあそこの今の生活の段取りを付けてるのは彼女だからね。介護者…、その、事業所と連絡とったり、行政と話し合いをして介護時間数を増やしたりとかね。やってるんですよ、元気で。

立岩 尚司さん自身はどないな感じなんですかね?

小林 (笑)

立岩 どないなと言われても困るでしょうね(笑)

小林 あそこ行ったことないですよね、大柳生。

立岩 ないです。

小林 ないでしょ、1回行きませんか? 面白いよ(笑)。いや、とにかく、確かに施設でもないし病院でもないけれど、あそこは地域じゃないという人もいるんだよね。山間部、山の中というか。まぁもちろん近所に、少し離れたところには他の家があるし、自治会みたいなものもあるんだけど、まぁ都会ではないですよね。街中じゃない。ただ、今までの、色んなところに住んで、最初は奈良の富雄の本当、街中の団地やったけど、そこじゃあ生活できない。毎日飛び出して、近鉄電車に乗って、あちこち無賃乗車をして最終的にはどっかの警察署で保護されて、僕らが迎えに行く、みたいな。で、通りすがりの人の眼鏡は壊すし(笑)、時計は引きちぎるしみたいなね。それはとても生活できないからっていうんで、一時、伊賀上野のところの分譲地ね、ちょっと駅から離れてるところで住もうとしたけど、それもね、結局、とにかくせまい家だったんで、あの、一緒に暮らすのがなかなかしんどくなって。で、奈良の障害者(児)解放研究会というのがあって。でそこが中心になって、今のところに土地を買って、家を建てて、で牧場を始めたんですよ。牧場って言っても牛が2、3頭で(笑)、狭いところなんだけどね(笑)。

[00:19:30]
立岩 そこぐらいまでですね、僕が後で…、そういうパンフレット何冊か出るじゃないですか? それを僕は読んで、ああそういうことなんだ、とは思ったんですけどね、その後のことは本当に…。

小林 大柳生牧場だから、「大」が付くから、大きな牧場かなと思って取材に来た記者がびっくりして「何これー!?」って言ったのが、あれどこの記者だったかな? 僕がたまたま介護に入ってる時に。本当小さな牧場なんだけど、今はもう牛もいなくなって。牛を飼い始めて、しばらくして作業所を作るんですよね、大柳生牧場作業所というのを。でそこに奈良の障害者が3、4人来て、作業所を始めるんだけど、まぁ上手くいかなくて。まぁ、色々あったんですけどね、原因は。これは私の理解なんですけど、結局尚司さんとお母さんの生活を支えるために作業所を作ったわけで、そうするとそこに来ている障害者たちっていうのは、どうしても、何ていうのかな、周辺というのか、中心にはならないですよね。

立岩 はいはいはい。

小林 結局、親同士、親と職員との間でいろいろな確執が出てきて作業所の維持が難しくなった。

[00:20:54]


立岩 起こるでしょうね、そういうことは、大いにありうるでしょうね。ちなみにその、ちょっと話を戻すというか、別のとこ行くと、今、岸田〔典子〕さんっていうのが楠敏雄のことを研究して博士論文書こうとしてるんですよ(笑)。

小林 このあいだも会いましたよ(笑)。

立岩 ただまあご本尊、いらっしゃらなくなったので、なかなか苦労してるんですが。あの、70年代初頭のね、大学とか、「障害者」解放委員会みたいな、名前っていうかそういうもの、関西「障害者」解放委員会か。でそれを楠さんたちがやって、中核派が入って、で、中核派を嫌ってそこからまた出るみたいな一連の流れがあると。でこのあいだ僕富山に行って平井さんに聞いたら、楠さんも来たことあるみたいなんですけど

小林 そりゃ何回も行ってるはずですよ。

立岩 それで、やっぱりそういう名前の、「障害者」解放委員会っていう名前の組織が一時あったっていうことをおっしゃってて。実際にその声明はいくつか読むことも出来なくはない、なおかつそれが70年代の半ばになった時に部落解放同盟であるとか、あと水俣とか、そういったところと被差別共闘っていうんですかね、統一戦線、そういった流れが一時期70年代半ばですかね、あるよう…、まあいくつか機関紙の類もあるんですよ。その辺の流れや動き、何かご記憶にあることございませんか?

◇立岩 真也 編 2014/12/31 『身体の現代・記録(準)――試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books,700円 →gumroad経由

小林 僕はね当時、中心メンバーじゃないんです。だから対外的な窓口となってませんから、そこらへんの記憶はないんですよね。でね、やっぱりね、僕なんかそんな活動家じゃなかったけど、学生の運動崩れで来ている専従者っていうのと、叩き上げの、さっき言った高校出てすぐこの世界に入ってきた人たちっていうのはね、ちょっと違うっていうのかな。まあ率直に言うと、「たかが学生。」みたいなね、「すぐ辞めるんじゃないか。」みたいな、そう言う、僕なんかは、目線を感じた時期ってのは(笑)ありましたね。うん。で、やっぱり叩き上げの人たちってのは中心メンバーとしてずっとやってて。ですからその、対外的な解放同盟とか、あと、在日とか、ねえ、そういうところとの折衝っていうのはね、河野とか三矢とかがやってたと思うんだよね。だからほとんどそこらへんの、どうやってできて行ったのかっていうのは僕は分からないんですけどね。

立岩  やっぱり、下支えと言うか、脇にいて…、

小林 あの、豊中にAZ福祉工場設立準備委員会っていうのを作って、それが75年だったかな。みんなが食べていく、障害者が生活していくための場を作ろうということで、福祉工場を作ろうということで、豊中の市会議員とか、親の会の会長とかね、と一緒に、そういう活動を始めたんですよ。まあ大衆的な、ね。激しい運動ばっかりやってても食べていけないって言うのがあるから(笑)。でその事務局長に僕がなるんですよ。AZ福祉工場設立準備委員会の事務局長。で、市会議員か親の会の会長が代表やって。で、副代表が金満里さんで。で僕が事務局長で。豊中で僕と金満里さんとが一緒に活動するみたいな時期があって。となると中心からまた、離れるんですよ。中心のいわゆる過激な部分と、僕なんかは全然過激だとは思ってないけど(笑)、対外的に華々しい事をやってる部分と、その、地道に何かこう、そういう福祉工場を作ろう、生活と労働の場をつくろうとしている部分とちょっと離れる。

立岩 場所的にもちょっとね、豊中だと、郊外でもないけど、ちょっとそんな感じも。

小林 で、その福祉工場で貸しオムツのクリーニングの仕事をしようと。その社長もやろういうことで乗り気になって(笑)。社長と親の会と市会議員と我々と一緒に準備委員会を作る。いわゆる、大衆的な活動みたいなね、そういう色合いを滲ませながら始めるんですね。でそれが75年だったと思うんで。で、緊急アピールが出たのが77年。僕は全然知らないんですよ。緊急アピールが出るまで、そういうものが出るということを(笑)。全く知らなくて。

立岩 大阪の真ん中でゴタゴタしてたのと、ちょっと距離離れてる豊中で…、

小林 そう。大衆的な活動をしてるから(笑)。「え、何やこれ?」っていうのは、僕とか金満里は、その時ね。あのアピールを見て。だから全く蚊帳の外。というか、ま少しはそういう、行き来はあったけど、ほとんどそういう肝心なことは知らされない、

立岩 リアルゴタゴタというか、そういうものには一定、距離っていうか。

小林 そうねー…。だから直接、あの、批判されたこともないし、その青い芝からね。

[00:27:05]
立岩 そういう距離感なんだ。77。78、横塚さん亡くなられて。79、養護学校義務化。『そよ風』、近いですよね。

小林 『そよ風』は、すぐですよね、79年だから。もう、78年ぐらいからはもう、準備を始めてるからね。

立岩 それはまあ、その、山下さんのインタビューで、色んな意味で上手くいかなくなって、「次、どういう風な展開かな?」ってみたいなことのなかで、「雑誌というの、ありかな?」って仰られてる、その通りだったんだな、って思いますけど。そのときの小林さんのスタンスっていうか、「あ、いいんじゃないの。」的な、「じゃお手伝いしようか。」なみたいな? そんな感じなんですか?

小林 手伝いというよりね、何と言うのかな、僕はもともと本好きで(笑)。

立岩 そうですよね。活字人間ですよね。

小林 活字人間なんですよ、基本的に。だから、雑誌を出すって時、結構前のめりになって、「じゃあ一緒にやろう。」てなことで、河野が編集長で僕が副編集長って形で一緒にやり始めるんですけどね。緊急アピールは、僕は青い芝運動そのものが持っている矛盾が、出てきたんじゃないか。その矛盾が緊急アピールにつながったんかな、と思ってるんだけどね。まあそれは色んな見方があると思うんですけどね。神奈川青い芝を中心としたそういう、非常に思想的にも優れた人たち、感性的にも優れた人たち…。横田弘さんとか横塚晃一さんって、ちょっと関西の青い芝の人たちと違うよね。

立岩 違いますよね。

小林 ねえ。まあ僕はあまり、直接話をしたことはないんだけど、両方とも。横田さんのイメージは、そのまま神奈川青い芝のイメージで、僕は捉えてて。そんなに運動的に全国に広げるとかね、そういう発想ってのは彼にはなかったんじゃないかなっていうか。結構文学的な感じがするんですよね。

立岩 横田さんは詩人なので。組織を統率して率いるっていうタイプでは…、

小林 あまり政治的な人ではない。

立岩 最初からそんな感じではないですね。

小林 その意味では横塚さんには、そういうね、

立岩 才覚はあったと思いますね。

小林 うん。組織化する、政治的な活動をする。で、「全国に広げたい。」という思いがあったのかなあ、と思うんだけど。となると、全国に広がっていくにつれて、やっぱり思想的、感性的な質は落ちてくるよね、どうしても。例えば関西なんかだと、それまでずっと何十年も在宅で、親や家族と話をしたことしかない人たちが、「自立生活をする!」っていうんで24時間介護をつけて地域で生きる、あるいは施設から出てくる、そういう人たちがどれくらいいたんでしょうか。関西だけでも14、5人いたのかな。

立岩 そうですね。もちろんその人たちが、「その日から何か喋れ。」ったってそれは無理ですよね。

小林 無理なんですよ。だけど、鎌谷さんなんかもそうだけど、最重度の人たちのことをね、運動の核に据えなきゃいけないってな意識があったんだよね。口にも出してましたし。となると、従来の青い芝運動とは少し、やっぱり趣を異にする運動みたいなのが関西では始まったのかな。うん。だから、行動綱領のような鋭い感性を持ってる部分ていうのは、ほんの一握りで、関西でも。そしたら色んな矛盾が、当然出てきて、健常者のほうが障害者よりも偉くなってしまうみたいなね(笑)。で、結構馬鹿にするような、そういう雰囲気ができてきたのかなっていう。致し方なかったのかな、と思うんだけどね。

■生計

[00:31:21]
立岩 それって、その、最初に専従になったときに、他人介護料を集めてきた8万円くらいでっておっしゃってたじゃないですか。で、小林さんの今に至るって、聞いてよければですよ、生計というか(笑)、あの、りぼん社というか、『そよ風』から、何かしらの収入というのは…、

小林 ありましたよね。売れている頃はね。

立岩 売れてる…。1万出たって言ってましたっけ。

小林 一瞬ね。(笑)一瞬、79年。うん。で、そのあと5,000から3,000ぐらいの間をいってる時期は、まだ食べれましたよね。僕と、まぁ河野と、二人。まあ十分なお金じゃないけど。

立岩 まあかつかつ。二人大人が食えるくらいの収入っていうのは、売れてた頃は…、

小林 ありました。ただそれ以降はもう、厳しかったですよね。で、「赤字じゃないの?」て言われるから、「赤字っていうのは、普通に人件費を出してたら赤字やという意味では、もうまっかっかや。」と。だけどまあ人件費を削るとかね、経費を削る。

立岩 貰うもん貰ってないから、赤字にもなりようがないと。

小林 そういうことです。

立岩 前から思ってたんだけど、小林さんってどうやって生きてるんだろうと思ってたんです。今も思ってるんですけど。まあまあ売れてるときはそれで食えんこともなかった。でも、そうでもなくなりますよね。今、ぶっちゃけどうやって生きていけるんですか?

小林 今ね(笑)。まあそうですね、一つは、まあ、連れ合いががんばってると(笑)。うんうん。ヘルパーさんで現役なんでね。まあそれがあるけれど、そんなに依存してるわけじゃないね。あの、年金も一応出てますから。65歳から、わずかに(笑)。

立岩 基礎年金出るようになった。

小林 出てますよ。で、そうですね。あと、だから尚司くんの所へ行くときは今、介護料が出るようになった。彼のところ行くために、重訪の資格を取ってくれってお母さんに言われて。講座行って取ったんです。

立岩 そんなこんなで。でも、連れ合いがってパターンありますよね。大賀重太郎とかさ。

小林 昔はね。そうそうそう! みんな、だから教師と結婚するんだよね。河野もそうなんよ(笑)。それが一つの、なんていうかなあ、ステータスというのかな(笑)。「運動一筋に生きるために俺は教師と結婚したぞ。」みたいなね。

立岩 河野さんの連れ合いっていうのは教師なんですね。

小林 教師ですよ。最終的には校長までやるからね。

立岩 僕が知ってるのは大賀重太郎さんが…、やっぱり似てるよね神戸大中退で。で、学校の先生と…、で。大賀さんはもっと稼げてなかったんじゃないかな。

小林 うん。もっと稼げてなかったと思うよ(笑)。

立岩 それでさっき放射線測定の会社っておっしゃってた、ここの隣の…?

小林 ここの隣に事務所があるんですよ。

立岩 病院の放射線の機械がちゃんと動いているかをチェックするみたいな?

小林 病院でも診療所でも、まあ、レントゲン室みたいなところはありますよね、大概のところは。そこの機械がちゃんと放射線を出してるかどうか? きちんと。あと、部屋から漏れたり建物から漏れたりしてないかとか。そういうのをね、半年に1回、報告の義務があるんですよ。保健所にね。うん。その仕事を今、やってるんですよ。

立岩 それがその、ずっと前から友達というか、盲学校で一緒にバイトやってた理学部出身の…、

小林 工学部出身のね、宇田川君っていうのがね、今社長で。

立岩 宇田川さんはちなみに、学校はちゃんと出られたんですか。

小林 出て、大学院に行って、院を中退したな。学部は出てますよね。

立岩 で彼はそっちで、その仕事をして…、

小林 そうそう、放射線測定サービスの仕事をして。

立岩 その会社のもちでここを…、

小林 ここを維持していると。

立岩 ここが。つまり、りぼん社としては、ここの経費を払わなくていい。

小林 そうですね。電話代は出してますけど(笑)。

立岩 電話代ぐらいで、なんとかなっているから。

小林 ただまあ事務機器とか色々あるからね。維持をするには、やっぱそれなりのお金がかかりますよ。

[00:36:08]
立岩 いやー、その、『そよ風』の中身もさることながら…、

小林 そういうことはあまり出さないようにしておこう(笑)。お金の話は(笑)。

立岩 (笑)あまり出さない。ちょっと、私(わたし)的には関心…、

小林 気にして頂いてましたよね。どっかに書いてましたもんね。

立岩 やれやれ。僕は『そよ風』は割と時間が経ってから知って、確か創刊ゼロ号のコピーも含めていっぺん、一度に送っていただいたことがあって。それからは買うようになりましたけども。

小林 いやー。長いこと連載を頂きまして、ありがとうございました。

立岩 いえいえ。

小林 現物支給で申し訳ない。

立岩 おかげさまでたくさん…、ありがとうございます。まあでも、77、8、9年とかっていうのは結構展開早いですよね。

小林 そうですね、ほんとはもっと長い時間だったかなあと思うんだけど、後で振り返ってみると、非常に短い、凝縮されてる時間ですね。



立岩 AZの75だったっけ? 77、78、79、ほんとに、3、4年の間にバタバタと色んなことが動いていくわけですね。僕は丁度その時に大学に入ってってことなんですが。
 全体の流れは十分山下さんが聞いてくださってるので、まあ、いいなと思ってるんだけど。僕は去年、『現代思想』ていう雑誌に連載させてもらってるんですけども。筋ジストロフィーの人たちのことを、たまたま流れで書くようになって、高野岳志さんという人のことを2回くらい書いたんですけど。まあ彼自身は自分で物を書く人ではあったんだけれど、いかんせん早くに亡くなられたということもあって、そう物が残ってなくて。
 そこの中で、僕たぶん、大学院生…、『生の技法』って本を書くときのメモ、ワープロの時代のやつをテキストに変換したやつが(笑)、今のホームページに上がってるやつの元の元になっていて。自分で検索したら、『そよ風』にあるんだっていうことを、何十年も前にメモったのが出てきて。そしたら3回、高野さんが書かれたものと、それから小林さんが取材に行かれたものと、それから高野さんが亡くなられて書かれたものが出てきて。それを今電車の中で見返してきたんだけれども、もっと後かと思ったらそうじゃなくて、79年に始まって、81年に小林さん取材に行かれてるんです。で84年に20号かな?…なんかの時に高野さん書かれてるんです。そのわりと直ぐに亡くなられて、小林さんが追悼のことを書かれている。だから結構短い時間の間のことなんですよね。僕は今、ちょっとそのへんの国立療養所から出てきた人たちのことを少し書いているんだけど。あの、素朴な質問ですが高野さんのことはどういう風にお知りになったんですか。何か覚えてらっしゃいますか。

小林 えっと彼は千葉でしたっけ…、千葉ですよね。えーっとね…、ちょっと、思い出せないんだよね。誰かからの紹介だと思うんだけど。あの、だから僕らの本の作り方っていうのは、雑誌ができあがるでしょ。そしたらそれをね、僕と三矢さんがだいたい担当なんだけど、車に積み込んで全国を回るわけですよ(笑)。だから大体1週間くらい。昔の荒畑寒村は大八車やけど。まあ一応近代化はされてるんだけど(笑)。実は宿も、とにかく宿泊費などという概念がないからね。行った先々で泊めてもらって。

立岩 泊めてもらってね。

小林 泊めてもらって、で本を預かってもらう。で、ネタをもらう(笑)。もう3つぐらいの仕事をはたすために、そうやって回るんですよね。でその、その時にどっかで話を聞いて取材することになるんですよ。

立岩 大概そうですよね。

小林 うん…。だから誰からというのはもう、全然覚えてないけど。そうやって関東を回ってる時に、こういう人が自立生活を始めたという話を聞いて、で取材に行ったんだと思うんだよね。

立岩 うん。だから今となってはというか、彼はもう80年代に亡くなられますけど、84年に亡くなってるから、ほんとに短い人生だったけれど。やっぱりあの、高野さんのものだけではやっぱり分からないところがあって、小林さんが取材して書いてくれたから、ある程度のことが分かる。かなりのことが分かる。そういう人がきっといっぱいいらっしゃるわけですよね。

小林 うん。

立岩 でそれがずっと続いてきたんだろうなと思っていて。

小林 そうですね。だから『そよ風』でしか取り上げてない、他は全く社会的には知られていない人っていうのは結構いると思うんでね。ま、そういう記録としては意味があったのかな。

立岩 そっちの方が多いでしょうね。たぶん高野さんなんかまだ目立つ人で、自分で書いたものもあったりしますけれども、もちろんそうじゃない人の方が絶対、

小林 圧倒的に多いから。

立岩 圧倒的に多いから、まぁ、聞いて回ってとか、話聞いて回って、ということがあったから、できたんでしょうね。

小林 終わってみると、そこらへんのことが分かってくるというかね。まあ、ずーっと走っている時はあんまりそういうこと考えないというか。とにかく伝えたいという思いはもちろんあるんだけど、うん。そのあと、どういうふうな社会的な意味が出てくるのかなっていうのはあまり意識しなかったんだけど。いや、終わってみるとやっぱりちょっと、やっぱり必要な雑誌ではあったなぁという(笑)、そういう思いはあるんですよ。

[00:42:22]
立岩 そうか…。今、あの先ほど、一番最初にレコーダー回す前に、「これからどうなさるんですか?」ったら、「引退するよ。」っておっしゃったけれども(笑)。

小林 (笑)

立岩 話をするのを求められれば、する…。

小林 そうですね。喋れるうちはもうね、しゃべっとかないと。やっぱりそう、友人がどんどん亡くなっていってるんでね。うん。

立岩 ですよね。

小林 という思いは強いんですけどね。ただあまり大したことは喋れないというか。うん…。伝えるのって結構難しいですね(笑)。特に若い世代に伝えていくっていうのはなかなかねぇ、今できてなくて。

立岩 そうですね。

小林 うん。いつも若い人たちを相手に喋っとるわけでしょう、大学で。

立岩 うん、若いのは実はあまりいないっていう話なんですけど(笑)。

小林 そうなの。

立岩 結構、中年の院生とか多いんですよ。

小林 あーあー、そうか。

立岩 だから、岸田さんとか、にしてももういい年だし。まぁそういう人も多いんですけど若い人もまぁいて。

小林 今、だから制度ができ、一定のシステムもできて。障害者自身もまぁそれほど差別に対して自覚的じゃないし。介護派遣とか相談支援とか事業所としてやってるところが多いのかな。障害者自身が運営して、事業所やって、結局ヘルパーを派遣する側に障害者がいる。

立岩 うん。そうですね。

小林 ね。でそうなると、障害者の中にそういう二つの部分ができてくる。派遣する側と派遣される側みたいなのが出てきてっていうの、あるんですけど。この間もちょっと豊中で話をした時に、若い、30代くらいの脳性マヒの人が、最後に質問でね、手を挙げて。「今の若い障害者たちに、70年代の活動のことを、思いを伝えるのはどうしたらいいんでしょう?」って僕に聞くわけだよね。僕はもうガクッとくるんだけど。まぁ昔はそんなこと言ったらもう、相手にされない、そういう障害者は(笑)。「何で差別をする側にいる者に方法を聞くんや。」みたいな話になるんだけど。だからまぁ、今ほんとにそういう状況がね、すごくあるのかなぁ、という風に思ってるんだよね…。だけど今障害を持っている人たちが生活できているのは、やっぱり、それまでのね、闘いがあったからだし、すごく脆い基盤だと思うんだよね。いつでも崩れる。

立岩 そうですね。

北村 うん。

小林 だからそこらへんの危機感みたいなものは持ってほしいなぁとは思うんだよね。どう伝えていくのか、よく、なかなか…、

立岩 世代継承問題って、僕…、ま小林さんが学生の時から既にあったんだと思うけど、僕らの時もほんと、そうで。それで、僕は80年代じゃないですか、だいたいね。そうするとやっぱり年寄りっていうか、上の運動家たちが「近頃の若い者は。」って。

小林 言うよね。

北村 (笑)

小林 いつも言うんだよね。

立岩 確かにそうだなって思って。思ってたんだけど、それから30年は経ってるから、その間(かん)…。でもなんやかんや言って数が多いわけじゃないけども、継承っていうか、運動家っていうのが出てきて、その時々の、ことの善し悪し別として、テーマみたいなのがあって。まぁ僕は敢えてっていうところもあるんですけど、継承問題については、あるいはその運動が下火っていう話に関しては、楽観的になろうとしているのかなって。

小林 それなりに、それなりにちゃんとできている。僕もそういう部分はあるんだけどね。ま、一時僕はあの花園大学で週1コマだけ行ってしゃべったことがあって。若い子たちもそれなりに皆悩んだり、あの、考えたりしてるよっていうのがね。まぁ全部が全部そうじゃないけど、ちゃんとそういう学生いるよってっていうのが分かったから、まぁそんな捨てたもんじゃないなと思うんだけど。ただ、勉強しないのは確かね、勉強しない(笑)。それはだから、時間軸の中で自分を捉えない。で、空間軸だとすごい狭い空間軸の中で(笑)しか捉えないみないなね。僕はそれはやっぱり、「何とかしろ。」という風な思いはあるけどね。

立岩 僕は格別な工夫は出来ないけれども、ただ、今もこうやってお話伺っているわけだけれども、そういう。あの、小林さんはほんとはほっといても書ける人なんだけどさ、そうじゃない人もいっぱい、当然いるわけで、そういう人も含めて。まぁあの、読んでくれるかどうかは後で考える、そのための工夫は後で考えることにして。ここ数年、僕らは研究費、今年度と来年度と再来年度と3年なんですよ、その間にできることはまずやって、文字にしたり公開できる部分は了承得られる部分は得て。それはまずやっていこうとは思っていて。僕もなんやかんや忙しくて、人の話って何十年もちゃんと聞かなかったんですけど、久しぶりに、去年ぐらいから話聞いて回ってて。面白い…、面白いですね。〔→病者障害者運動史研究

小林 いや、ほんとに貴重な立場にいると思いますよ、僕らから見て、立岩さんはね。それだけのまぁ、それだけ豊富な金額じゃないと思うけれど、一応そういうバックがあってね、活動できる自由があるし、院生の人たちもねぇ、いるわけだから、頑張って欲しいなと。

立岩 運動史とかって面白くなりだすとやっぱり面白い、ほんとに。実際には面白いんで、あの面白いかな、って思いだすと大丈夫なんですよ(笑)。ええ。

小林 うん、ほんとに。うん。ずっとこっち、いるんですか。

立岩 僕ですか?

小林 はい。

立岩 僕は、はい、京都には。

小林 東京に行ったりとか

立岩 東京はもういいです。

小林 関西で。

立岩 東京、嫌いじゃないですよ。東京は好きなんですけど、16年かな〔1979〜1995〕、住んでましたし、もういいかなと思ってるし、京都にももう家(うち)あってしまってますし。もう、京都はずっとです。

小林 あぁそうか。よかったよかった。うん、いやほんと、あの、そういう動きっていうのは、僕は貴重でありがたい。りぼん社の蔵書を預かってもらうっていうのも非常にありがたいなぁという風に思っているんだけどね。

立岩 ここ5年ぐらい、ほんとに色んな人から寄贈の申し出をいただいて、まぁ出来る限りのことはと思ってますね。

小林 記録するとか保存するっていうことはものすごい苦手だし、一応資料センターを名乗っているけど、ものすごく苦手で、もう、ほったらかしにしてたから。だから一つは「リバティおおさか」で障害者特集をやる時、うちの資料も預かってくれて助かったんですよね。

立岩 そうですね。

北村 あぁ、あぁ、そうですか。

小林 うん。あそこが資料を一定引き取ってくれた。でまぁ今回こうやって立岩さんに引き取ってもらえるんで、非常にありがたいなと思ってます。

立岩 大学がね、意外と、私は大学って社会的な存在意義があるとすると、そういうところにまずあるんだって思ってるんだが。なかなかこの頃大学っていうのは、そういう集めるとかね、そういうアーカイブとかって、そういうのって、何かちょっと前向きな、未来志向のものじゃないと、っていうところがあって、なかなか学校は渋いんですよ。とは言ってもしょうがないので、まあそろそろね。北村さん、なんか聞きたいことある?

[00:50:17]

北村 えーっと、うまい質問になるかどうか分からないんですけど、こちら、りぼん社と走りながら、一時期あれですよね、ノーマライゼーション研究会とも並走していたような時期があったと思うんですけれども、その点について、例えば小林さんの関わりはどんな感じだったんですかね。

小林 ノーマライゼーション研究会はね、ほとんど僕は直接の関わりはないですね。92年から始まったのかな。92年から98年ぐらいかな。まぁ色んな研究者を集めて、あの、まぁそうやって議論の場を作って、それを年報という形でやったのよね。年報作りには少し手を貸したりしたことあったんだけど、直接は関わりを持たなかったですね。まぁ忙しかったっていうのもあるんだけど(笑)、うん。ただ、そうですね、大谷さんとかが中心になったのかな? あの…大谷強(つとむ)さんね。

北村 はいはい、大谷強さん、はい。

小林 うんうん、うん。あれはなかなか面白い、成果として面白いものを残したのかなと思うんだけどね。直接は関わりは持ってないですね。

北村 河野さんがこの両方の編集委員になってるから(笑)、こちらの編集長やりながら編集委員もやってたから。

小林 編集委員? 編集委員やってたかな?(笑)

北村 って一応書いてはあるんですよ。

小林 あぁ、そうか。

北村 うん、記録には一応、編集委員のお名前も残ってるんですけど、どういう並走の仕方をしてたのかなって思って。(笑)

小林 そうねぇ(笑)。河野は『そよ風』の編集長で、確かに河野色なんだよね。河野カラーの雑誌なんですよ。少なくとも僕カラーじゃない。やっぱり現場をすごく大事にするし、「生身の声が一番大事や!」っていうことを彼はいつも言ってるし、そういう雑誌を意識して作ってきたっていう意味では、彼が中心やったって思うけど、実務はね、あまりできない、彼は。編集の実務とか(笑)。うん。だから、名前はあちこち出てるけど(笑)、まぁその中で一定の、何ていうかな、そういう雰囲気を作る、イメージを作っていく意味では貴重な位置にいるけど、あまりね、そんなにその場その場で忙しいことはないのよね(笑)。

立岩 雑誌作るってね。河野さんは、雑誌はできないよね(笑)。

小林 そうそう、できない(笑)。

北村 僕もまぁそうかな、とは思ったんだけど、一応…。

小林 だから最後までワープロよ、ワープロ専用機。パソコン使えないだもん。で自分がパソコン使えないってことを自分でよく自覚してるから、「使い方を教えようか。」って言っても、頑なに断ったの。で、ワープロ専用機、キャノワードを、最後までこうやって(指でトントン叩く音)、指一本で叩いて原稿作ってた(笑)。

立岩 河野さん1回、松本にいた時にお呼びしたんですよ。僕が呼んだわけじゃないんだけど、そこの「ちくま」っていうところ。
 あと、僕は80年代の、85年ぐらいから、こういう調査をやって、90年に本出すんですけど。そのころ大学院生、博士課程の大学院生だったんですけど、お金ないから、やっぱり近所で済ませちゃうわけですよ(笑)。僕は三鷹に住んでいたのであの辺は、国立、国分寺、立川、八王子って辺りは色んな人がいて。それだったら200円ぐらいで行って帰って来れるじゃないですか(笑)、JRで行って。それで、だから、あの本は何だかんだ言って東京の話が多いんですよ。関西が面白いって思ったんですけど、1回だけ…、2回かな1回かな、関西に行ったことはあって。で、だけど、その時確か牧口〔一二〕さんにもお会いした。で京都に1回、大阪で1回…。

小林 それ何年頃ですか。

立岩 87とか8とか、そのへんじゃないかと思うんですよ。で、ただ記録が残ってないんですよね。

小林 うん。

立岩 で頭も悪い、ってか記憶力ないから、京都で長橋さんって、あのJCILの元を作った人と、それと今福さん、交通のことやってた方にお会いしたのは覚えてるんだが、何喋ったのかはほとんど覚えてなくて。あと大阪で文化住宅ってものを見て、「あ、これが文化住宅っていうものか」って(笑)。でも、何で文化住宅行ったのか、それはたぶん調査で、なんかこうインタビュー、暮らし向きのことを聞くっていう、そういう話だったんですけど。

小林 それは障害者が、そこにいたから?

立岩 そうです。その時は科研…、だれかの科研費だったかもしれない。あと、「自立平和」っていうお店があったんですけど、それは覚えてます?

小林 聞いたことある、聞いたことあるけど、全然…あぁ、記憶にないなぁ。どこにあったかな?

立岩 「自立平和」っていう名前の居酒屋って想像できないっていうのもある(笑)。

小林 (笑)西成とかあっちのほうかな。

立岩 そこで飲んだことは飲んだんですよ。あまりに、「自立平和」っていう、ね、名称と、それが居酒屋であるっていうことのギャップっていうか、それは記憶に残ってます。

小林 あぁ。誰と飲んだかは覚えてない?

立岩 その時牧口さんいらしたとは思ってるんですよね。じゃないかな、と思ってるんです。

小林 彼はほとんど飲めないんだよね。

立岩 うん。あとは誰だっけ。山口県立に行って、この間、去年か一昨年だっけ亡くなられた…。

小林 志村さん?

立岩 志村〔哲郎〕さん。

小林 亡くなった?

立岩 志村さん亡くなられたんです。

小林 あぁそれは知らないわ。

立岩 去年、一昨年かな。

小林 そうかそうか。うーん、志村さん…、

立岩 そのぐらいかな。関西だと、研究だと、研究者って、志村さんあんまり研究しませんでしたけど(笑)、解放社会学会ってそれでちょこっと知っている人とか。だからまるで知らないわけじゃないんだが、でもどこで。実際関西行ったのって1、2度。もう1回はね、ヒューマンケア協会ってのが立ち上がる時に、えーっと「神戸ライフ・ケアー協会」っていう、土肥さんって社会党の代議士が作られた在宅介護サービスの走りみたいなところがあったんです。そこに見学に行くっていうんで、車いす押して、まぁ介助者としてです。だからお金かかんなかったから行ったの。

小林 土肥さんって、土井たか子とは違うんだよね。

立岩 土肥隆一(どいりゅういち)って言ったかな。っていうことぐらいで、ほんとに。

小林 じゃあ河野とは会ってない? その時は。

立岩 その時は多分会ってないですよね。とか何とかで。だから、かなり80年代っていうのは、関西情報は、『そよ風』ですね。あと、AZの機関紙か何か、そういうので結構後追いなんですよね、関西に関しては。でまぁたまたまというかこっちに来て、定藤〔邦子〕さんとか山下〔幸子〕さん。ここ数年は、大阪で話をさせていただくことはあって。去年も豊中の自立生活センターとか、あるいは就学運動の関係とかで、豊中で2、3回続けて、

小林 鈴木留美子さんとか? 片岡さんとか。

立岩 大阪が多いですね。大阪、豊中とかが多いですね。今回、たまたま3月には福島、郡山に行って郡山、福島の白石清春さん…、の人たちと。喋りに来いっていうから行くんですけど、自分で喋ってるのはつまんないんで、やっぱりインタビューして帰ってこようと思ってますけど。

小林 ふーん…。じゃ結構最近はそうやって、あの、あちこち出向いて話を聞くようになったりして。喋ったり聞いたり。

立岩 喋るのはお呼びがかかれば基本お断りはしないんですけど。去年から再開というか、ほんとに何十年も聞き取りってしてなくて、まぁほんとになんか、するとすると、私たちのところに来ていただいて公開インタビューとかそういうものはいくつかやって『現代思想』に載っけてもらったのはあるんですけど。
 去年はですね、いくつか。その、高野さんと一緒の頃に、やっぱり同じ千葉の療養所出た福嶋あき江さんという女性がいらして、その方も割と早く亡くなるんですけど。彼女の支援をして、で、その人は埼玉大なんですけどね。埼玉大で支援始めて、で今も「虹の会」っていう自立生活センターをやってるっていう人で。
 あとは、島田療育園っていうところで、82年かな、脱走事件が起こりましたけれども、その事件に関わった石田さんっていう人に聞いたりとか。それは、そういうことを取材したり、特集やったりとか、カレン事件とかねそういうの、『月刊障害者問題』っていう個人誌。それは一つ100円で街で売ってたって言ってました。そういうのは本間康二さんっていう人に話を聞いたり。あとは、この間、富山、金沢で一人ずつ聞いたりとか。ちょっと割とマイナーっていうか、知っている人は知ってるよ的な。あの、(?)聞いてきたんですけど、また別な人とこの間話して、もうちょっとメジャーな人っていうか(笑)もやろうよと。で八代英太に話を聞きに行こうと。

小林 おー(笑)。今、まだ元気なんですか。

立岩 元気なんだそうです。この間長瀬修に、「生きてる?」って言ったら、「コラ!」って。「死んだことにするな。」って。

小林 最近全然名前聞かないわ。

立岩 元気だそうです。引退はされてるようですけど。あと、太田修平さんであるとか、なんか、そういう、皆知ってるけど意外と話を聞いたことがないっていう人、ちょっとそういう、知られている人にも。

小林 それ雑誌で連載するとか、そういうことに?

立岩 去年聞いた人たちについては、今年中に青土社から、たぶん、そうですね、少し触れられるかと。もう1冊、もう次に出るぐらいの時にもう少し本格的に触れるかもしれませんけど。あとは…、それは自分の本の中に使うみたいな感じじゃないですか。それっていうよりはもう取材、インタビューとかそういうものをメインにして、そういった本も出せればなと思っていて。あの、高橋修っていう、新潟から出てきて東京、立川でやってた人のやつを今年か来年か出せればなと思って。今年は無理か、来年とか…。

小林 だいぶインタビューをやったわけですか? 彼、高橋さんのは。

立岩 彼は99年に亡くなられて、それまでに僕はインタビュー3回させてもらっていて、それは何とか出てきて。で他の人が…、僕が千葉大に勤めてた時に、千葉大の学生と一緒に調査やったんですけど、その時のインタビューも出てきて。も一つ、どうやら何とかなりそうで。
 僕が知ってる限り、5つインタビューがあるんですよね。それが全部揃えば、それプラスアルファで。もう20年も前に亡くなった人ですけれども。ねえ、何で今更20年前に亡くなった人のなんて。もっと早く出したかったんですけど、その時できなかった。

小林 でも高橋さんに影響を受けた人は多い…、結構多いでしょう。

立岩 結構多いですよね、いろんな意味で。僕は、それが…、まぁやろうかなって。そういう取材を中心にして、そんなこと思ってます。

小林 なるほど。

北村 もう1点いいですか? あの、こちら『そよ風』でも触れられているし、ノーマライゼーションでも触れられているんですけど、エイズ予防法が出てきた時に、カウンターじゃないですけど、反対声明みたいなのを出すなり、何かしらのものを出されたと思うんですけど。あと確か石田吉明さんと直接にコンタクトあったんですか、そちらは。

小林 えーっ、石田さん?

北村 うん、石田さん。

立岩 この人は血友病の本人で、血友病の研究をしているので、そのエイズ予防法とか、あのへんは関係してくるんですよね。

小林 エイズ予防法って何年でした?

北村 エイズ予防法の成立は、えーっと89年。

小林 89年、うーん。僕自身は、ほとんど、だからそれの記憶はないですね。ノーマライゼーション研究でも誰か書いてましたっけ?

北村 も、えっと確か、患者本人が。

小林 あぁ、そうか。えーっと…、そうですね。それの記憶はないんだけど。あの、『そよ風』の中で…、

北村 あっだからノーマライゼーションの、この前の、えーっと、『共生の理論』です。

小林 あぁ、『共生の理論』。

北村 『共生の理論』のほうで。うん。

小林 あの、えっとね、Yさん…、知らないかな、

北村 あっYさん。

小林 Yさん、知ってますか。

北村 はい。

小林 彼も一時『そよ風』に関わってたんですよね。

北村 あっ、そうなんですね。

小林 うん。で、「HIVと人権情報センター」ってのを作ったのは、ここへ来て河野や僕と話をして、で、そういうものが必要だってことで作った。

北村 うわぁー!(笑)

小林 だからね、最初は「HIV情報センター」という名前だったので、僕は「人権を入れた方がいい。」と、そこに。で、「HIVと人権情報センター」ってのができたんだよね。で、その頃彼は将棋がすごく強くてね、アマの四段くらいになっていたんじゃないかな。僕も将棋が好きなので、『そよ風』に将棋コーナーを作って、「あ、どうも名人です」というシリーズタイトルで全国の将棋好きの障害者を訪ねるとかね、そういうことを彼と一緒にやった。うん。で、そのうち来なくなったのはその情報センターの仕事が忙しくなって。こっち来なくなったんだよね。うん。そうそう。そういう時期がありました。もう亡くなって、どれくらいになるのかな。もう10年くらいになるのかな。

立岩 不思議な連載とかも結構ありましたよね。

小林 不思議な連載(笑)。

立岩 二日市安さんが…、

小林 あぁ、「鬼殿絵詞」(?)。

北村 え、それで、谷川浩司に、その…、

小林 あ、あれはまた別の…、彼が名人になった時に、岡本さんという女性が取材に行ったんだけどね。21歳だかで名人になったんですよ。その名人に「あなた童貞ですか。」と聞いたんだよね(笑)。もう、あれだけは僕は忘れられないけど。「すごい勇気を持って聞いた。」と本人は言ってたけど。河野がけしかけてるんですよね。性のシリーズを『そよ風』でやっているから「聞いてこい。」てけしかけたらしいけど(笑)。時の名人ですよ! 僕なんかもう、畏れ多くてそんなことは聞けないんだけど。

立岩 北村さんも将棋好きじゃないですか?

北村 まあ、好きです。

小林 あぁそうなんですね。また、いずれ。(笑)僕は好きなだけで、全然下手なんですけど…。

北村 僕が見ていた将棋講座は、谷川浩司がやっていたんです。年代的なズレからいくと。

小林 将棋講座ってどこで?

北村 NHKの将棋講座なんですけど。

小林 あぁ。NHKの将棋講座か。『そよ風』で取材したのは見てない?(笑)

北村 一応僕はバックナンバーを作ったので、その時に、「あ、谷川浩司にインタビューしたんだな。」っていうのは知っています。

小林 そう、そう。あれは面白いインタビューですよ。…そうですね。だから、そういうこともありました。うん…。

[01:07:31]
北村 ただ『共生の理論』とかそういうので、バックナンバーを作ってた時に、HIVの絡みが両方に、『そよ風』さんにもあるし『共生の理論』の方の流れにもあったので、どういう風なツテで繋がっていったのかな、と思って。Yさんかな。

小林 Yさんちゃうかなぁ? Yさん、何年ぐらいやったかな、ここに来たの。

北村 そうですかー。Yさん忍者みたいな人ですからね。ほんとに。
小林 彼が関わり始めたのは何年ぐらいかなぁ…? さっきエイズ予防法が、80…、えー、90?

北村 89ですね。

小林 89か。まその…、うん…、

北村 88が、抗議運動が一番厳しかった。国会の前でやったんですよね。

小林 うんうん。…それよりだいぶ前かも分かんないなー…。情報センターできたのが、90年くらいかなあ。もうちょっと前かな。うーん。だから、その『共生の理論』にしても『そよ風』にしても、ま、そのつながりを作ったのはYさんだと思うのね。最初にペンネームで何かを寄稿してくれたんですよ。でそれが契機になって将棋のコーナーを始めたんだけどね。将棋熱戦譜…。

[01:09:30]
立岩 その辺の、ま、あとでいいですけど、野田事件とか、青山とか、こういうのってのは、誰が…、

小林 それは、僕なんですよ(笑)。

立岩 小林さんの集めたというか作った資料。これ、すごいですね。

北村 まだ全部読めてなくてですね。

小林 これでしょ? 直接Yさんに会ったことあります?

北村 いや、会えてなかったんです。

小林 会ってないんか。うーん…。…これが、何年かな。20号ってことは5年後やから83年ぐらいか? 84年。だからその頃にはもう関わっているからね。だからその1年か2年ぐらい前から、顔出してきてるから。うん。最初に投稿したのが何やったかなー…。HIV関連の投稿をしたのが…。うーん。ちょっと分かんないなー…。こういうのもちゃんとデータ化してないからね(笑)。アナログなんでね。検索とか大変なんですよ。ちょっと分かんないな。うん。たぶん、ま、Yさんの関係だと思うね。

北村 なるほど。ほー。

小林 うん…。…うん。またバックナンバー繰ってみてください(笑)。彼は最初にね、ペンネームで書いているから。あの、Yさんは名前出さないってことで。

北村 84年以降でしたら、そうですね。名前出すの厳しくなっていきますもんね。ひょっとしたら、あれですかね。『共生の理論』に書いてた、あの名前かな?

小林 『共生の理論』に彼、書いてたかな。

北村 これ、誰が書いたのかな、とか思ったんですけども。ただ、こちらも、特集の目次を見るだけでもその、HIVのことを取り上げたっていうのだけ分かって。

小林 あ、特集にあったかなぁ。

北村 ちらっと。その特集っていうか、一部分だけがインターネットに載っていますけど。バックナンバー一覧に。

小林 あぁあぁ、バックナンバー一覧。うんうんうん。それを見たら、じゃあ、わかるかわからないね。最初に彼が投稿したのが。投稿というか、寄稿したのが何号か。

北村 だいたい見当はつくかと思います。はい。

小林 そうですねー…。
[01:13:49]  だから一時期、一緒に車乗って、富山の将棋部の(笑)主将と将棋をさしに行ったりした。

立岩 障害学界隈では石川准が、将棋が…。

北村 そうですね。

小林 あー、そうなんだ。(笑)

立岩 北村さんそれでね、今度ここの棚が下まであるのだけど、この棚とそこのその棚、これが七段、それとこちらをいただけることになった。それで、私が今考えているのは、楽天かアマゾンか何かで段ボールを私が買って、こちらに受け取っていただけるときに送っといて、誰かバイトの人が来て箱詰めして。ヤマトが取りに来てくれるように手配して、それで全部送る。ヤマト便というのがあって、宅急便より安いたくさん大口の荷物を送るときは。ちょっと時間が余計にかかるんだけど。3,4日かかったりする。たぶんそれが一番効率的なんじゃないかな。その辺の算段をまた帰って、誰が来られるかということを相談してやると。で、つきましてはなんですが、箱を…、あんまり大きい箱だと本は重いので、そこそこ中くらいの。ただヤマトさんプロだから。だから中くらいのやつ20個くらい。あそこの箱も、もし足らなければ使わしていただけるそうです。あとこっちから持って行くのはガムテープくらい。

小林 ガムテープくらいうちにもあるから、いいですけど。うん。

立岩 あと、学校に送って。あとさっき小林さんにも言ったけど、尾上さんから今日の昼頃にメールがあって、「ビギン」っていう障害者情報ネットワークっていうところの80年代の資料を20箱くらいもらってくれないかということで。尾上さんはかつてDPIの事務局長になって、東京に行くときに、アパートを引き払わなければいけないってなって。その時は段ボール箱4つくらいだったかな? をいただいて。今度また大阪に戻ってくるのだそうです。DPIの仕事、ていうか内閣府の仕事にいったんけりをつけてというか。

小林 この間会うたんやけど、何も言わなかったな(笑)。二人で帰ってくるんかな。

立岩 そうですね、二人とも帰ってくるっていう話。尾上さん、この間立命館の講座で喋ってもらって、でもやっぱり彼も初期の自分の話を結構して、あれはすごく面白かったですね。

北村 これは年度変わってからにしますか?

立岩 小林さんはどちらでもいいとおっしゃってくださっているので、お金と働き手…、

北村 お金と働き手の問題か。それが解決するならば。

小林 そんなに時間はかからないような気がするんだけど。詰め込み、梱包。ねえ。3、4時間見とけばいいか…。僕もできるだけお手伝いしますけど。ちょっと、足腰があまりよくないんで。

北村 いや、指図をしていただければ。

小林 本箱の手前にあるものはどけておきますけどね。…そんなとこでしょうか。また事前に連絡をいただいたら、こちらも準備しますので。

北村 私も大学入学するときに家から持って行くときに、本が20箱くらいあって、引っ越し屋さんが「あなた何でこんなに本があるんですか?」って驚かれましたよ。

小林 ほとんど本でしょ。本以外は何も…(笑)。

北村 高校の時に自分で小遣い溜まったら買うものって、CDとか本しかなかった(笑)。

小林 本がよっぽど好きなんですね?

立岩 僕も、京都来て、どんどん自分の家にある本を減らしていって。全部今さっき言っていた書庫、かなり広いとこに置いて、整理して並べてもらっています。学者の引っ越しって嫌われるんだよね、重たいから。僕ん時も、長野の松本から京都来た時には、段ボール100とかあって、もっとかな? 大変でした。

北村 だから私は院生で京都に来た部屋から動けなくなりました(笑)。

小林 (笑)今も本に埋もれているわけですか。

北村 埋もれてるんです、逆に。

立岩 今回ちょっと家を直すのがあって、もうすぐまた仮住まいに引っ越して戻るんですけど、それを機会にいくらか残っていた資料とか古いファイルとか、そういうのを全部箱詰めにして20何箱作って。そうして、自分の家には一切、パソコン以外、仕事関係の物はないと。

北村 いいですね。

小林 年をとるとね、いかに捨てるかなんだよね。さよならするときには、できるだけ身軽になっとこうと思って。僕なんかもう、どんどん捨ててますよ。あ、それと、『そよ風』の欠番があれば、言ってもらったら差し上げます。ここにある分はね。

立岩 それは、まさにそのことを思っていて、〔『そよ風』を〕全部揃えているのは僕の唯一の誇りというか。前探したとき何号か抜けてて、心がキリキリ痛んだ。『季刊福祉労働』がなくなって、とにかく両方を全部持っているってのが、数少ない誇りの一つ。

北村 僕も『福祉労働』をちょっと借りていたのは返しました。

立岩 怖いんですよ。全部揃っているかチェックしたら欠けていた時の精神的ダメージがある。チェックして、もし場合によったら…、

小林 在庫がない号もあるんで…。いや、差し上げますから。言っていただいたら、「何号と何号」というふうに。

北村 私の誇りは血友病のそれが全号揃っているのが私の誇りっていう(笑)。

立岩 でもそんなものさ、家族にとってみればただの紙でしょ。だから、僕はもう、みのまわりから全部なくそうとしてまして。佐藤純一っていう医療社会学のベテランもそのつもりらしくて、部屋一つ分くれるって言っているのだけど、部屋一つ分もらったらさすがに入りきらない。

北村 佐藤さんすごいもの持ってそう。マニアックなのとか。

立岩 ここ数日に起こったことだと、『福祉労働』を長いことやってこられた小林律子さんが定年になって。この3月に。

小林 そうかー…。あそこ65かな? 定年は。それぐらいですよね? 小林さん。60ってことはないでしょ。ねえ。寂しくなるねぇ。

立岩 彼女は横田弘の介助を大学のときにやったのがきっかけだったらしくて。横田さんには格別の思い入れがあるので本も二冊出してるし。

北村 お会いしたことない私でもさみしさを感じる(笑)。

小林 いやー…、そうそう。聞けるうちに、聞いといたほうがいいね、話は。

立岩 小林さんも聞く側の人だったけど、小林さんにうがったらと思ってまして。

小林 そうですね。あんまり大したこと喋らないんで、申し訳ない。うん。だから、ここに取りに来る前に「『そよ風』の何号と何号がもしあれば。」と言っといてくれたらそれを用意しときます。バックナンバー。

音声終了



小林敏昭/聞き手:山下 幸子・高橋 淳  20170527 「『そよ風のように街に出よう』の三八年――障害者問題の根底を問い続けて 副編集長・さんに聞く」,『支援』7

◇自立障害者集団友人組織関西グループ・ゴリラ連合会役員会 19771107 「緊急アピール 関西ゴリラ連合会に集うすべての兄弟・姉妹へ」
◇19780500 関西青い芝の会解散 *


UP:20180820 REV:20180821
小林敏昭  ◇病者障害者運動史研究  ◇一覧 
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