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近藤氏・樋口氏インタビュー

2018/02/19 聞き手:田中恵美氏・奥平真砂子

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Last update: 20220614

◆近藤 秀夫・樋口 恵子 i2018 インタビュー 2018/02/19 聞き手:田中 恵美子・奥平 真砂子

■関連項目

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近藤氏・樋口氏インタビュー(2016)
近藤秀夫氏インタビュー、その1(2020,全3回)
近藤秀夫氏インタビュー、その2(2020,全3回)
近藤秀夫氏インタビュー、その3(2020,全3回)

近藤 秀夫
ひぐち 恵子・樋口 恵子
NPO 法人 自立生活センター 土佐の太平洋高気圧 [外部リンク]

障害者運動|Disability Movement
全国自立生活センター協議会(JIL)
日本社会事業大学社会福祉学会
町田ヒューマン・ネットワーク (東京都町田市)
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録

◇文字起こし:ココペリ121
■【3上07】2018021900近藤氏樋口氏 21分
■【3上08】2018021901 樋口氏近藤氏 03分
■【3上09】2018021902 樋口氏近藤氏 09分
■【3上10】2018021903 近藤氏樋口氏 184分
■【3上11】2018021904 近藤氏樋口氏 08分
■【3上12】2018021905 近藤氏樋口氏 115分
■【3上13】2018021906 近藤氏樋口氏 64分
■【3上14】2018021907近藤氏樋口氏 04分
■【3上15】2018021908 近藤氏樋口氏 10分
■【3上16】2018021909 近藤氏樋口氏 28分
■【3上17】2018021911近藤氏樋口氏 22分
■【3上18】2018021912 近藤氏樋口氏 34分
■【3上19】2018021913 近藤氏樋口氏 10分
■【3上20】2018021914 近藤氏樋口氏 04秒
■【3上21】2018022000 樋口氏 06分


■本文

■【3上07】2018021900近藤氏樋口氏 21分

樋口: (?)預かって暮らした時期が、そんなには長くないんだけど、あって。それから、市の、市営住宅、古ぼけた。そこに主人がプレハブで、建て増しして。で、そっから…、その、昨日の話で、土地を、あの、買わないかって(?)持ちかけてきて。で、買った土地に、急遽「建てよう。」と言って建てた家だから、まだ宅地になってない状態だったから。

奥平: へぇ、じゃあ町田に2回建てたの?  

樋口: うん。

奥平: 私が行ったのは後のやつか。 

樋口: 両方行ってるよ。

奥平: 両方行ってたの?  

樋口: 行ってるけど、…建て増しできる、ってか、許可を受ける時は15坪で建てて、で、ちょっとして一部屋建て増ししたから。それは、アメリカから帰ってから、だけど。

奥平: 私が、アメリカから帰ってきて…

樋口: じゃ、アメリカ行く前か。

奥平: 家を建てたのは、別の土地に建てたの? それとも、同じ… 

樋口: 同じ、同じ。

奥平: あぁ、あぁ、じゃあ、新しくしたってことか。

インタビュアー: 建て増しして、広げた…、 

樋口: いやいや。真砂子は2回の家に両方来てると思う。うん。だから建て増しをして、住んでたところと、区画整理して、住宅地として、なって、それから建てたところ。

奥平: あぁ。同じところが、その、区画整理した。あぁ、そうだった、そうだった。思い出した。

樋口: で、阪神大震災があったから、あの、曳家(ひきや)するとかって。ほら、前建てた家を引っ張って来て、あの、区画整理する間どけといて、引っ張ってくるっていう方法もある、って言われたけど。その、震災もあったし、あの、えっと…、新しい土地にしたら、ちょっとここは余分に出てしまうから、切り取って何か違う改造しなきゃいけない、っていうようなところとかがあって。そういうのをやって、もし何か震災とか来たら大変だから、あの、別途で建てましょうって、言って。で、建てたから、2回、東京では建てて。

奥平: すごいでしょう? 

樋口: 何べんも家建てたからねぇ。子どもいない分のお金を投入しまして。

奥平: すごいよ、だから…、だってそのやりくりってさぁ、恵子さんがやってて、ほとんど近藤さんの稼ぎと、まぁ恵子さんも稼いでたかもしれないけど、ねぇ。

樋口: 私は本当に、市会議員やった時は、まぁ、月50万とかあったけど。そういうのってやっぱり、何か、「市民からもらってるから、市に還さなきゃ。」って感じ、一所懸命お金を…、

奥平: 使ってたの? 

インタビュアー: ふーん。

樋口: ほんとに。

インタビュアー: じゃあ何か寄付したりとか、そういう団体のもので、こう…、

樋口: (?)やったりとか、うん。そうね。

インタビュアー: すごい。じゃ、あんまり使わなかった。自分のことには。

奥平: いや、でも、そんなに、ねぇ。貧乏くさいとか、そういう感じじゃ全然ないよね。

樋口: うん。近藤さんも一所懸命働いてたから、あの、残業代とかいっぱいあったし。役所はお金がどんどんくれたから。

インタビュアー: (笑)公務員だからね。

奥平:  何か、私…、私にとって、3人さぁ、その、あ、4人かな、ある意味ジュディもかな。お部屋のその、家のその、ていうか暮らし方、インテリアを含めた暮らし方、4人の人に影響を受けてると思う。一人は、リリアン。

樋口: うん

奥平: リリアン、おしゃれだったじゃない。タオルとか。リリアンって私たちと一緒に暮らした人でね。

インタビュアー: アメリカの? 

樋口: 私はあの、真砂子に連れられて、

奥平: 行ったんだっけか? 

樋口: リリアンの家にちらっと行ったぐらい。

奥平: あ、そっか。

インタビュアー: あぁそうなんだ。何か掃除して一所懸命二人でっていうのはリリアンの家じゃないの? 

樋口: それは、違う。

インタビュアー: 違う人なんだ。

奥平: リサはそんなでもないんだけど。と、あと、ジュディ? ジュディも何やかんや、緑を置いたりとか、おしゃれに暮らしてるじゃない、今も。と、あと、日立の時の鎌倉に家を建てたみつまるさんという人と、恵子さんなんだよ。恵子さんて本当に可愛らしくインテリアするから。

インタビュアー: そうねー、うん。本当、一つ一つがすごい、いいですよね。

奥平: とか、料理とか。一緒に暮らしてた時、そのリサっていうおばさんの家で二人で居候ってか、下宿してた時、恵子さんがおしゃれな、今日これから出てくると思うけど、ブレックファスト!みたいな、おしゃれなワンプレートで出してくれて。そういうのにすごい憧れちゃった。

インタビュアー: ふーん…。恵子さん、やっぱりあれですか、料理とかそういうのはやっぱり、

樋口: 全然駄目よ、私。

奥平: えーっ! うそばっかし。

樋口さん 近藤さんと、男の、男子寮の…に、あの、最初住み込こんだんだけど。で、ちょうど男子寮の住み込みの、あのー、賄いさんが居なくなってて、それで私が女だから「家にいて、やって。」って、「朝と晩御飯作ってくれたらいいから。」って、6人分か7人分作ってたんだけど。それはもう、料理の本を見ながら必死でやったけど、お味噌汁の「出汁を取らなきゃいけない」から分からなかったし。

インタビュアー: ふーん、じゃ、あんまり、お母さんには教わったわけじゃなかったんですね。

樋口: うん。私それこそ、段ボールぐらいの箱入り娘で、姉がそれこそ、つく…、母が働いていて夕ご飯なんかは大抵姉が作ってたかな。うん、私は食べる人。片付けもしない人(奥平:(笑))だったからね。まぁ、でも、ね、2年間は施設にいたし、高校生に私がなった、てか、帰って来て次の年には姉は就職して出てったから、高校卒業して。ま、そんなにずっとずっとすみさんが作ってたわけじゃないけど。

インタビュアー: ふーん。

奥平: すみさん、就職して家出てったの? 

樋口: うん、高知市内で働いてたから、最初。でもガソリンスタンドで働いて、だからトラックでも動かすとか、ゴッドねぇちゃんになってて。

奥平: あぁ、そんな感じ、そんな感じ。すみさん。

インタビュアー: へぇぇ。

奥平: 昨日のすみさん(?)

インタビュアー: トラック? 運転できちゃったんですか。

樋口: 運転って、そのガソリンスタンドの中で動かしたりとか…、

インタビュアー: いや、でもすごいですよね。

樋口: そんなことやって。

奥平: とか、その運ちゃんとやり取り、似合ってる(笑)。

樋口: ね、女の人の、でもトラック運転手はいるよね、今ね。

インタビュアー: 今はね。でもその頃はあんまりいなかったんじゃないですか。すごいなぁ。

樋口: そうそう。ガッツだからね。

インタビュアー: ふーん、じゃあそこから、その、料理っていうのはご自分で、もう身につけたっていう感じなんですか。

樋口: そうそうそうそう。だから私苦手なんです。

インタビュアー: いやいやいや。ねぇ、それはすごい、逆にすごいわ。お母さんに仕込まれたとか言うんだったらね、何か、あれだけど。そうそうそう、すごいところから。

奥平: 上手だよね。

インタビュアー: でも何か、センスがあるのね、そういう何か。

奥平: インテリアもそうだけど。何か暮らし方が、憧れる。

インタビュアー: ほんと、憧れる、私も(笑)。まぁ、もう本当に。そういうところに、細かい1個1個がやっぱりね。ダメなんだよね、自分が(笑)。だから、いちいちじぃっと見ちゃうの、こう、何か、飾ってある物に。

奥平: 何か、昨日さ、子どもの頃からの話聞いてさ、「すごい。子どもの頃からちゃんと人生設計して…してたんだ。」って思った。私そんなん全然考えてもないよ。ただ…。

樋口: 小さい頃は、何か、パンが好きだから、アメリカにお嫁さんに行くとかっていうのは言ったことがあるのよ。

奥平: へぇー、かわいい。

樋口: それは親も覚えてて、「恵子そう言ってた。」って言ってたんだけど。でも、(?)そんなちっちゃい頃から「自分は結婚とかそういうこと、普通の人のことを考えてはいけない。」と。「自分は自分で、仕事持って、楽しみも自分で作って、生きていかなきゃいけない。一人で生きていくんだ。」と、いう風に、すごく早くから思ってた。

奥平: 私も「結婚できないなぁ。」とか、「恋愛できないなぁ。」と思ってたけど、「一人で生きていかなきゃいけない。」とは思ってなかった。というか、そこまで思いが至らなかったって感じかな。

インタビュアー: ふうん。

奥平: 何となく。そこはすごい、だから。

樋口: ちょっとそれは悲壮なまでに。

奥平: (笑)そうなんだ。 インタビュアー: でも結婚早かったですね。すごい。

樋口: 二十歳だもんね、高校卒業して(?)、それで、その翌年だから。

インタビュアー: うん、すごい。

奥平: 近藤さんが、「結婚しよう!」って言ったんだっけ? 

インタビュアー: 割と、積極的に、こう、連絡が来たみたみたいな。電話がたくさん掛かってきたみたいな。

奥平: へぇぇ。あ、1回聞いたな。

インタビュアー: 書いてあった気がする。そこは近藤さんにも聞かないと(笑)。

奥平: やっぱり…やっぱり電話攻撃か。何か3人ぐらい知ってる、恵子さん含めて。

インタビュアー: ふーん。電話ね。今…今のこういう電話じゃないから、やっぱり、何ていうか、固定のね。

奥平: うん。あの、チャノさんて、パク・チャノって、韓国のすごい今リーダーになってる、ダスキンの卒業生。

樋口: チャノさん元気? 

奥平: うん。とりあえず元気。

インタビュアー: とりあえず。何か、あの、チェーンで結ばれたりしながら運動した人? 

奥平: あー、そうそう。

インタビュアー: 交通運動。うんうん、映像で見た。

奥平: ソウル自立生活センターってのをやってんだけど。彼さ、3期生だったの。で、その頃から私、リハ協で働いてんだけどさ、何か、あの、すごくきれいな女性で、仕事もすっごく出来るスタッフがいたわけよ、私の下に。その彼女のこと、取っていっちゃって(笑)。結婚して。

インタビュアー: あ、日本人と結婚したの? 

奥平: そうそうそうそう。

インタビュアー: へぇぇ。

樋口: (?)片思いだったんでしょ。

奥平: ああ、そう、ずっと、研修生の時は片思いだったんだけど、帰って帰国して、チャノさんが帰国してから、何ヶ月か経って、たまたま日本に来た時に、あのやっぱりその、まりさんって言うんだけど、「まりさんに会いたいから。」っつって、何か、新宿駅から電話したって言ったかな? で、まりさんがビックリしたけど…、ああ、違う。その前に、えっと、チャノさんが帰国したのが、例えば2001年の7月の始めだとしたら、次の年のゴールデンウィークに、まりさんが普通に友だちと韓国に遊びに行くことになったんだって。で、行こうと思ったら直前に友だちがキャンセルしてきて…、

インタビュアー: あらま。

奥平: でもまりさんとしたら、せっかく、と思って一人で行ったんだって。その時に、「ああ、そういえばチャノさんがいる。」と思って、連絡したんだって。そこでまたチャノさんの心に火が点いたんだと思うけど(笑)。で、その時はその時で普通にまりさん帰ってきて。で、それからしばらくしてチャノさんが、そういう、さっき言ったように、突然日本にやって来て、新宿からまりさんに電話してきて。それで何か、何か、「えっ?」とか思ってたところに、それから毎日電話してきた。朝と夜、(笑)チャノさん。

樋口: 韓国から? 

奥平: そう。その頃まださ、ラインとかもなかったから、すごいよね。で、毎日、毎日してたところに、ある時チャノさんすっごい忙しくなって、電話する暇もなくなったんだって。で突然、電話が来なくなったら、まりさんが心配して。初めてまりさんから電話して、そっから、そっから(笑)。

樋口: 愛が育った? 

奥平: そうそうそう(笑)。そんな感じ。

インタビュアー: あー、何かすごい、その、真理をついてるな。ずっと来てたのが来ないとやっぱりね。

奥平: うん、みたいよ。近藤さんも一所懸命電話したわけですから(笑)。

インタビュアー: (笑) そうか。

樋口: いや、それはそうでもなかったよ。

奥平: えっ? 

樋口: いや、何か、私は最初、この人は色んな人を知ってる人だから。色んな所へ行って、色んな(?)って、(?)てる人だなって思った。

奥平: (笑)

樋口: で、かな?とは思ったけど、ま、でも、まぁ、付き合い始めて、結果。それで、まぁ「私もかけてみようかな。」と思い、「もしかしたら騙されているかも? でもまぁ、それでもいいか。」みたいな感じ。

奥平: (笑) インタビュアー: へえぇ。

奥平: 騙されてって(笑)。確かに、怪しいよね。年齢もすごい上だしね。

樋口: うん。

インタビュアー: ふぅん。

奥平: 近藤さんの気持ちも聞かせて。

樋口: だって、会って、2回と(?)、大阪で会って、その日ぐらいに色々。

奥平: その日ぐらいに何? 

樋口: 色々あったから。「これは何だろう? この人は一体? この人の真意は何?」みたいな。

奥平: へぇぇ。

インタビュアー: ふぅん。え、もうそこで何か、結構、「好きです」的な話が出ちゃったってことですか? 

樋口: うーん…、どんな感じだったろう。

インタビュアー: えぇ、すごい、じゃあ、一目惚れ、一目じゃないけど、何だ、何目惚れか分かんないけど(笑)。割と早い時期に。

樋口: 本当に一目惚れっていうより、だって施設で会って、(?)寝ている私と会って。ほいでピッと車いすでいるぐらいだろうと思ってて。二人で待ち合わせしたのに、すれ違ってなかなか会えなくて。どこ…どこ行けばいいのか。私は大学の…大学の近くに住んでたから、「大学の校門の所で会いましょう。」という形になって。行ったけど、どうも、「あれ? 誰もいないみたいな。」感じで、ウロウロしてたら、向こうも「あの子は障害だけど、違うだろうな。」みたいな感じで。

奥平: あぁ、じゃあ顔も覚えてなかったの? 

樋口: 車で行き来してて。顔も覚えてないよ。

奥平: ふぅん。

インタビュアー: それに、全然、状態が違いますもんね。

樋口: うん。

奥平: でも恵子さんは車いすの人って分かるんじゃないの? 

樋口: だから車に乗ってたから。

奥平: あぁ、そうか。で、どうやって会ったの? 今みたいに携帯はないから。

樋口: それで行ったり来たりするから、だから「あぁやっぱりあの車だ。」「やっぱりあの子だ。」っていう感じで、2回目ぐらいに会った時に、声かけられて。「そうだ。」って言って。

奥平: じゃ、1回目の、その、待ち合わせの時は会えなかったってこと? 

樋口: ううん、違う。行き来する2回目。

奥平: あ、2回目、ああ。はいはいはい。

樋口: お互いに帰ってきたからさ。あぁそれで(?)。

インタビュアー: 今みたいにね、スマホとかあったりするとね、連絡とるけど。昔は30分ぐらい平気で待ちましたもんね、1ヶ所でね。

奥平: 待ったわよ。

インタビュアー: 来るまでね。最低30分は待って。ねぇ、だから、割とそういう何か、時間過ぎてもいるみたいな感じは、あるかもしれない。今、もう、「あと5分遅れます。」とか、そういうのまでやらないと、待っててくれなかったりする(笑)。

奥平: 私なんてさ、好きな人とクリスマスディナーデート1回だけしたけどさ、1時間ぐらい待ってたの。レストランの人が同情して、「僕が一緒に食べましょうか?」って言われちゃって(笑)。

インタビュアー: ええー! 

奥平: 「いやいや、来るって言ってますから。」とか言って。

インタビュアー: 1時間は、でもちょっと長いわね。

奥平: まぁ、残業してたんだけどね、向こうは。

インタビュアー: お店の中で待ってたんでしょ、もちろん。

奥平: そうそうそう。だってさ、クリスマスディナーって、だって、決まってるじゃない、何か時間も制限されたりするし。

インタビュアー: じゃあ1時間も待ってたら食べる時間ほとんどないじゃない。

奥平: あぁでも何か、忘れちゃったけど、ちゃっと食べて(笑)。

インタビュアー: (笑)そっかぁ…、へぇー…。それはじゃあ、日本ってこと? 

奥平: そう。日立の時。

インタビュアー: うん。日立、何年いたんでしたっけ? 

奥平: 私、8年ぐらい。8年。

インタビュアー: あ、そっか。結構長かったね。

■【3上08】2018021901 樋口:近藤: 03分

樋口: 色んなことをやってるよ。農業しながら。

インタビュアー: 熊本で? 

樋口: うん。それで、何か、あの…、学校で教えたりもしてるのかな。何か、うん。横浜にも拠点が要るからとか言って。お母さんは、えー、高井戸か…、あ、石神井か、石神井に住んでるんだけど、石神井から横浜に、娘のことも考え、移るという計画を立てておるような。

インタビュアー: へえぇ。結構、じゃあ、お年、割といってますよね?

樋口: いってるよ。えーっと、73ぐらい? 

インタビュアー: あぁ。

樋口: で、子どもが…。73かな? 確か、うん。…子どもが、日本の教育は良くないからって、ハワイの学校行ってるとか何とか言って(笑)。

インタビュアー: へぇぇ。

樋口: (?)分かんないけど、なかなかユニークな。

インタビュアー: ユニーク。じゃ、このお家つくる時は、その、よしだ(吉田?)さんが一緒に来たってこと、ここまで? 

樋口: うん、何回か、ここは。それで、庭をつくってくれたのは東京の人で。

インタビュアー: へえぇ。

樋口: 何か「趣味の園芸」、NHKの「趣味の園芸」とかに出るような人で、やっぱりよしださんのお友だちで。(?)の時からうちの庭をボランティアでやってくれてた人で。もうちょっとお金払ったらすごく…、

インタビュアー: そうですね。

樋口: 高いだろうけど、きっとお友だち割引で、やってくださって。

インタビュアー: そうね。お庭もやっぱりね。ちゃんとしないといけないですよね。素敵ですよね。

奥平: (笑)やってないの? 

インタビュアー: うち、お庭はね、ほぼなしなの(笑)。

奥平: あぁ、そっか。でもお庭あったらいいよね。

インタビュアー: ねぇ。本当の庭ほしいなぁ。

奥平: 東京で庭持ちって、よっぽどだけどね。

インタビュアー: 手入れも大変だから、やっぱりさ。

奥平: 土地だって高いんじゃない?

インタビュアー: うん。ギリギリっまで家になってるから(笑)。そんな、庭に余裕がなかった。

奥平: えー、実家とか言ってなかった? 実家を建て直したとか。

インタビュアー: そうそう、おばあちゃんの家ね、もともとは。実家っていうか、(?)。

■【3上09】2018021902 樋口:近藤: 09分

インタビュアー: スキーもやったんですか。

樋口: それは真砂子と一緒に行って。

奥平: それは遊び。

インタビュアー: あぁ、遊びで。へぇー。どこ? アメリカでってこと? 

奥平: 違う、日本で。

インタビュアー: 日本で。へぇぇ。

奥平: 私、あの、恵子さんとも何回も行ってる。

樋口: 私と真砂子が一人インストラクターを(?)て、近藤さんは一人インストラクターがついて、(?)よね。

近藤: すごかった。それからすっごく好きになってね、好きになって、うん。で、専用のスキーを買ってきて…、送ってくれたの、僕の誕生祝か何かに。カナダかどっかの。

樋口: 60歳のお誕生日祝いで、スキーを。

インタビュアー: えぇー。じゃあ、本当、60前後ぐらいで始めたってことですか、スキー?

近藤: そうそう。

インタビュアー: すごいですね。

奥平: (テレビを観ながら?)これ、一瞬で終わるじゃない。

近藤: すごく楽しかった。

インタビュアー: へえぇ。でも、何か新しいこと始めるのに、あんまりこう、躊躇しないって感じですか? スキーとかやってみたいと思ったんですか? 

近藤: うん。あの、単に皆楽しそうじゃない? 

インタビュアー: (笑)そっかぁ。寒いから嫌だとかそんな風に思わない。

近藤: あぁ、そんなことない。

インタビュアー: ふぅん。

奥平: でも、怖いよ、(?)。

インタビュアー: え、それはじゃあ、恵子さんにとっても初めてのスキーですか、そのくらいが?

樋口: 私? あの、スキーは行ったことあったけど、障害者団体のスキーに初めて行ったことがあるので、前。その時は、もう延々、あの、スキー場へ行くまでに時間がかかったんで、道が混んでて。んで、団体で行ったから、障害者団体のバス(?)で借りて行ったやつだったから。だから全然、スキー場でスキーのスの字も味わえず、

インタビュアー: (笑)

樋口: 皆であの、スノーボードじゃない、そり? 

インタビュアー: ああー…。じゃああんまり、スキーらしいスキーはしたことなかったんですね。 

樋口: なかったですね。アメリカで真砂子と一緒に行って、それが、まぁ初めてのスキー的なことで。

インタビュアー: ふぅん。

樋口: 私、すごく頭が痛くて、その間中。

インタビュアー: あら。

樋口: 酸欠だったというのが、やった後で分かるんだけど。うん。

インタビュアー: えー。(笑) え、でも、楽しかったんですね? 

樋口: うん。

インタビュアー: それでなきゃ、もう1回やろうとは思わないですもんね。ふぅん。

樋口: 高度が高い所だった? から。

奥平: レイクタホでしょ? 

樋口: うん、レイクタホだから。

インタビュアー: そうか。…へえぇ、じゃあ始めたの、30過ぎてからってことですよね? 

樋口: うん。

インタビュアー: ふぅん…、そうか。真砂子さん、もうずっと前からやってんでしょ? 子どもの時から。

奥平: 私はだからアメリカで行ったから、23とか4とか…。

インタビュアー: え、ちっさい時はやんないのか? 

奥平: やるわけないじゃん! 施設で、ねぇ! 恵子さん(笑)。

インタビュアー: そうか。

樋口: そりゃあ、やるわけないね。

奥平: バカなこと言うんじゃないよ、あんた。昭和30年代に。

インタビュアー: いや、富山のスキー場に行ったのかな?とか、皆でとか、ないのか。

奥平: 行くわけないじゃんよう。

インタビュアー: なるほど。

奥平: 裏山の歩行訓練はあって、嫌で嫌で仕方がなかった。

インタビュアー: (笑)裏山の歩行訓練! それは、何か嫌な響きだな、聞いただけで。へえぇ…。じゃあ、本当にアメリカに行って、何か…。

樋口: 真砂子はきっとアメリカに行って、花開いたんだよね。

奥平: そう(笑)。

インタビュアー: (笑)

樋口: すべてに。

奥平: だって、青春とかね、なかったからねぇ、施設に。ま、施設での青春はあったけど。

インタビュアー: うーん。そうかぁ。ふーん…。でもカリフォルニアに行ったから、スキーには行こうと思わないと行かないよね。

奥平: だってそういうプログラムがあって、「へぇーっ。」とか思って、行っただけ。

インタビュアー: あぁ、プログラムがあったんだ。

奥平: ねぇ、あの「障害者学生プログラム」みたいな、ね。

インタビュアー: ふぅん、その中にもう組まれてたんだ。

奥平: うん。色々あったよね、水泳教室とかね。

樋口: うんうん。

インタビュアー: へえぇー。え、じゃそこで初めて水泳教室にも行ったみたいな感じ? 

奥平: うん。

インタビュアー: ふーん…。そうかぁ。

近藤: これ、裏紙用なんかに使ってるけれど。

インタビュアー: はい。ありがとうございます。

近藤: この前言ったやつ。

インタビュアー: あぁ、車いす大会。

奥平: (テレビを観て)あれ、わざとゼッケンかた…(?)。

インタビュアー: これ、毎回行ったんですか? 最初はもちろん行って。

近藤: えっと、一番最後の2回ぐらい行ってないだけで、全部。だって、発起人の一人じゃない。そう。

インタビュアー: うん。ふぅん、そっかぁ。すごい。

近藤: 全国でしょ? だから。だから、それを2年おきにやるのよ。

インタビュアー: 大変ですね、企画も。

近藤: ものすごい大変。そう。ほいで、受ける地域がもうおしまいになったら100人近い車いすを受けるわけでしょ? だからホテルの問題から何から全部ある。交通の問題から全部にあるじゃない。それだけに、もう、1回やると、まちが変わるの。行政まで全部、もう本当に、巻きこんでやるから。

インタビュアー: そうか、じゃ、それぞれの、逆に言うと、それぞれのまちをバリアフリーにしたりしていくっていうのが目的でもあるっていうことですよね。

近藤: そ。いや、それが目的。だから自分たちの生活を広げるということと同時に、障害者が住める、うん、まちとはどんなものか?ということを、まちそのものに教える。で、たくさんの人が関わるから。

インタビュアー: うーん。まず最初にじゃあ、どこに、こう、働きかけるんですか? やる場所…、新しい場所行く時、

近藤: いや、集会開いた時に、うん、次はどこにやるかと言って、言ったら、「うちでやりたい。」って障害者が手を挙げるの。

インタビュアー: そうか。

近藤: うん。ほいで、こちらもそこへ出かけて行くよ、何回も。何回も出かけていって、今、あの、進行状況をチェックしないと。だから、少なくても70人ぐらいの車いす障害者が集まり、もう多くなったら100人ははるか超えるから。だから、どういうプログラムでやるか、とか。だから、東京の時は僕は実行委員長だったんだけど、東京の場合は、100人を超える障害者が来たり。

インタビュアー: 東京ならそうでしょうね。

近藤: だから、青少年スポーツセンターに寝泊まりさせて。で、その会場、あっこの大きい、あの会場、体育館のような所で総会を開いたりして。で、分科会というのは、あの各地域にある障害者の作業所をみんなに見せたい言うので、小田急線に乗って、みんなが公共交通機関に乗って、で、全部が16ヶ所ぐらいに散って行くの。

インタビュアー: うわ、大変だ。それぞれ、じゃあ…、

近藤: (笑)一番大変な方法を取るわけよ。そう。それがやれるかどうか。やるのにはどういう手当てが必要かって言ったら、もう電車に乗る時など、車いすは時間がかかるじゃない。だから駅員が前に車いすの、あの...車の人、車いすの人に2台置いて、で、ドアの開くところ、全部に2台ずつ配置して。

■【3上10】2018021903 近藤:樋口: 184分

近藤: タッパーウェアを辞めて、市長が…、あ、所長…、あ、社長が、ダートさんね、ダートさんが、えっと、アメリカに帰ったことによって、僕たちが、僕たちは「社員だから残っていいんだよ。」と言われるんだけれども。やっぱり考えてみたら、ダートの個人のお金が全部を動かしてたの。僕たち障害者問題を。だから着るもんから何から、全部オーダーだったんだけど、会社持ちで。それが会社持ちじゃなくてダート(?)だった。

インタビュアー: あぁ、てことが分かってくる。

近藤: うん、あの、役員会で、タッパーウェアの役員会で、あの、「障害者に力を入れすぎるんじゃないか」という問題が出て。で、それに対してダートは、その、「どういうところに力を入れすぎるということが出たんだろう?」と思って、聞いてたら、お金のことも言うから、だから、あの、報告書を見たら、「見てないな。」と言って。「見たら分かるように、会社のお金を一銭も使ってません。」と。障害者関係は全部ダートのお金だったの。

インタビュアー: ふーん…、個人持ち。はあ…。

近藤: 車を買うのから何から。フランス大使館を買うのから。

インタビュアー: すごいですね。じゃ、ダートさんがやっぱり持ち出しだけど。

近藤: ダートさんという人が、背景が、日本三大製薬(ママ)と言われる、レキソール(Rexall)というアメリカの、あの、会社の、社長の子どもなの。あの、経済的にはね、だから、大財閥。

インタビュアー: あぁー。うんうんうんうんうん。

近藤: うん。で、そん中へ自動車の部門もあれば釣りの部門もあるという、36部門の、その、会社を経営していて、総合的会社を経営していて。アメリカのタッパーウェアっていうのは、その中の一つなの。

インタビュアー: あぁ、そうなんだ。

[00:02:11] 

近藤: うん。そして、代々が、あの…大統領、民主党かな、(?)の、大統領の家との、あの、家庭って、家族的付き合いがずーっと続いてるという家なのよ(笑)。そりゃあ、そりゃあもう、トップもトップ。そこの子どもで、ダートは途中でカリエス(ママ。正しくはポリオ?)になって車いすに乗るようになるんだけども。車いすに乗るようになっても、その、あまりにもいい家庭に育ったせいか何か、反骨心が出て、「あんなにはなりたくない。」ような反骨心が出て。そして学校に行くのにも、自分で新聞配りをしたお金を貯めて学校に行ったというような話が残ってる。

インタビュアー: ふぅん、じゃあ、親のお金を使ったりとか、当てにしたりという生活はしたくなかったんですね。

近藤: そう、したくない。家族の中でもそういう人なんだって。うん。その代わりアメリカはやっぱり大したところで、まぁあの、子どもの時から車いすに乗ってるんだけど、彼は、その、州の、その、ボーリングのチャンピオンになったりするように。

インタビュアー: ふぅん、あ、じゃ障害者スポーツをやってた。

近藤: だけじゃなくて。うん。というような履歴を持ってるのね。だから、その彼が、ある時に、あの、何にも持たずバッグ一つ持って、バッグの中全部お金だったっていう。彼が言うのには。他には何も要らなかったって。金だけを詰めて来たって。自分の金だけを。そして、あの、日本に来て、あの…、日本で企業を興すのに何がいいか分からないから、調査機関をきちっと使って、これから何ができるかっていう報告を受けてみたら、例の、あの、オリンピックの前だったから、えー…洗濯機、冷蔵庫、…何だ。洗濯機、冷蔵庫、もう一つは…、テレビか。

インタビュアー: あぁ。

近藤: テレビ、洗濯機、冷蔵庫がこれから日本では大きく伸びるという調査が上がってきて。それなら、アメリカの自分たちの体験では、その、冷蔵庫が流行ってきたら必ず冷凍機があって、密封容器が必ず必要になるというので、アメリカでは先にアメリカン・タッパーウェアっていうのを興して、それで売り上げを伸ばしたわけ。だからそれを取り入れて、あの、日本でも売れるはずだっていうことで、父親の会社から自分がお金を出して買って、それで日本タッパーウェアっていう会社を興して、それで成功したという。反骨心というか、何というか。

インタビュアー: ただ譲り受けるんじゃなくて、もう、買ったんですね。

近藤: じゃなくて、それにものすごい抵抗を感じて生きてきた。うん。で、日本に来てみて、だいぶせ…、かなり成功したから、成功するだろう、この、例えば安芸なら安芸地区で、売り上げの1番を6ヶ月続けたら車をやったり家をやったりするの。景品として。だから、「あなたは6ヶ月間トップを続けました。」いうて、名前を呼ばれて上がってきたら、もう足がガタガタ、ガタガタ皆震えるの。何が起こるか分からなくって。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: で、その頃、タッパーウェアが社員にやってた車っていうのは、あの、トヨタコロナ。トヨタのコロナのタッパーカラーに塗ったコロナなの。

インタビュアー: タッパーカラーに塗ったコロナ(笑)。

近藤: そう! つまり、もう、何十台というのは年間トヨタと契約して、色までタッパーカラーにして持ってると言うような。

インタビュアー: 近藤さんもそれをもらったんですか? 

近藤: いや。いや、僕たちが行く前の、行った時にもう、つくられてる体制が、そういう体制だったの。うん。それとか、家をね、やるか…、あの、鍵は鍵でもう、家の鍵をやったりするのよ。うん。

インタビュアー: すごい。

近藤: それとか、あの、旅行ね。景品として。しかも、あの…日本の国内の旅行じゃなく、海外旅行。

インタビュアー: ふーん…。結構大変ですね、その頃だったら。

近藤: うん。あの、何ていうのかな…つまりタッパーを売り上げてそれが伸びたのは、普通の、あの、店とかで売るんじゃなく、中流家庭に売り込んだの。中流家庭の奥さん方、の横のつながりに流れるような、あの、ホームパーティ方式を日本で初めて取り入れたっていうかな。家庭にパーティをやるっていう形でやりながら、その、タッパーウェアの販売もそこで広げていくという。

インタビュアー: ふーん。

近藤: だから一種独特な、あの、ポーラかどこかがあの、パーティ方式という方式を取ったんだけど。あの、このタッパーウェアが持ち込んだ、あの…販売方式らしいのよ。それを日本で始めて、それが大当たりして。うん。だから社長室に僕たちは社長秘書として雇われたから、うん。だから、社長室に呼ばれ行ってみたら、社長はまだ来てない、いう時に誰かが机を、社長の机を、引き出し開けたら、空のウィスキー瓶が3本転がってた。

インタビュアー: (笑)

近藤: あと、何にもないの。社長の机の中によ。

インタビュアー: ウィスキーしかないってすごい(笑)。しかも空で。

近藤: (笑)すごいでしょう? それが、あの、アメリカ大使館の横の、すごい急な坂の反対側に、第7森ビルというビルを借りきって、それをその本社としてた。

インタビュアー: へぇぇ、森ビルか。

近藤: うん、第7森ビル。そして、それはアメリカ大使館の隣なの。道一つ隔てた隣というとこ。大きなビルじゃないんだけどもきちっとした、7階から8階ぐらいあるぐらいのビルを、本社としてた。というようなところに、社長秘書として10人の障害者が雇われるわけ。ほんで、ダートがある時言ったのには、何で、その、障害者を雇ったかというと、自分も、あの、日本に来て儲けさせてもらったけれども、あの、スポーツの、その、パラリンピックを見たらがっかり来たって言うの。日本はもう散々だったじゃないかと。金メダルが1つと、あとは銅が2つぐらいで、あと全部負けちゃうのね。だってスポーツそのものがないんだもん。時代的に。だから、その、自分は思ったと。「これは日本の障害者がスポーツに弱いんじゃなく、日本の障害者政策の中にスポーツが大体入ってないから、弱いのは当たり前だ。」と思ったと。「だから自分は儲けさせてもらったから、自分でできるだけのことはしたいと思った。」っていうのが、ダートの、障害者を雇った契機なの。

インタビュアー: ふぅん。

近藤: それでパラリンピックの後20人の障害者を全国から集めて、うん、やったから。で、その人たちに徹底的にスポーツを教えたわけ。まずは、その、仕事がどうのっていうのでなく、秘書室に秘書として雇ったら自分の言いなりになれるじゃない。

インタビュアー: うん、そうですね。

近藤: よそに回してしまったら言いなりにならないじゃない。だから秘書に置いて。秘書室っていうのは、女の人ばっかり。男の人が2人ぐらいいて、女の人が20人から25人ぐらいもってた。

インタビュアー: ふぅーん。そこに10人が入ってくるわけですか? 

近藤: そこに10人の障害者が、その、秘書課の職員として入って。入れられたわけ。

インタビュアー: その10人はダートさんが選んだの? 

近藤: えーとね、ダートさんが、信頼する日本の人に頼んだ。で、結果は自分でも会った…、会ってくれたけども、うん、人選とかは自分がするんじゃなく、うん。こういう目的でこうしたいから、というんで自分の意見をきちんと伝えて。そのもとに、あの、テストなどして。うん。だからテストでも何回か、ダートさんに会った。

インタビュアー: で、中村先生から近藤さんは言われたってこと? 

近藤: うん、あの、「どうするか?」と言われて、パラリンピック終わってね。で、僕は誰にも相談するところないし。また、その、それこそ施設で編み物、それより仕方がないだろうと思っていたら、続けていくより仕方がないと思ってた時に、「近藤はどうするか?」って言うから、「僕はどうしようという考え方は全然ないです。」と。だから、「先生にお任せします。」言うて任せちゃったわけ。そしたら先生の方には、自分で今までの日本にはない形の、あの、障害者の工場、働く工場、障害者自身が中心になって運営できるような体制の工場を作りたいと、いうのと、それと今、アメリカ…系の会社から障害者を雇いたいと来てる。「この二つしかないけれど、お前どちらを選ぶか?」って言うから。それも、全然、施設から出たことのない障害者でしょ。経験言ったらかつて、元気な時の、その変な(笑)、時代のね、靴磨きから何からしたような(?)しかないから。そんなこと一切出さずに、「先生にお任せします。」って言ったら、「俺のやる会社に帰ってくるのは、いつでも一緒にやれるから。だからじゃあ経験…、アメリカの企業に入って経験してみるか。」言って、入った。

[00:13:09] 

インタビュアー: ふぅーん。10人の中に知ってる方はいたんですか? 

近藤: あの…、国立の施設にいたでしょ? そこから3人入った。

インタビュアー: あぁ、なるほど。あとの7人は、じゃ、知らない人? 

近藤: うん、あとは知らない人。その、パラリンピックの中で見たぐらい。

インタビュアー: ふぅん、じゃあ違うところから来てた。

近藤: そう、違うところから全部。

インタビュアー: ふぅん。どういう人が多かったんですか? 

近藤: えーと、いや、パラリンピックに全部出た人ではなかったね。うん、僕はだから、あれでしょ。あの生活保護で入ってた施設の障害者でしょ。だから生活…生活は一番下じゃない。ところが横浜から選ばれた人はいちだ君(?)っていうんで、すっごく若くて、ハンサムで、で…スバル360に乗って来たぐらいだから、免許も当然持ってるわけじゃない?

インタビュアー: あ、もう免許持ってる人もいたんだ。

近藤: そう、一人だけ。だから彼はもう、ハイクラスの、もう、若くって、溌剌として、おじさんじゃなかった。 インタビュアー: (笑)なるほど。 近藤: うん。センスもよかったね。(?)でも選ばれたけども。で、10人だけども。僕はどう見ても、僕が選ばれたんがおかしかったのね。皆は分かるわけ。皆はそれぞれ個性がスポーツにも向いてるし、「あぁ、なるほどな。」と言われるのがよく分かったけど。どうしても僕だけが、うん、どう見ても何で選ばれたか分からなくって、ある時聞いたのね。

[00:14:56] 

インタビュアー: はいはい。

近藤: うん。そしたら、そんな、集団というのは、粒ぞろいを揃えるのも一つだけども、その、集団として組織としてまとまるためには、その…そればっかりじゃいけない。生活から何から全部させるから、うん。というような経験が、えー…中村先生じゃなくダートにあったみたいね。うん。そういう話もして、人選もさせたみたい。で、その、そういう人間を一人入れるっていうと、その一人、10人目が、僕だったわけ。

インタビュアー: 年齢はじゃあ、色々だったんですか?

近藤: 年齢はもう色々。僕よりも高いのもいたし、低いのもいた。うん。だから10人雇って、僕の頭とすれば、「生活が違い、地域が違う人間10人集めてどうして生活ができるんだろう?」と思ってたわけ。まぁ、そしたら、あの、別府市の、その施設の近くの、何か、市立の学校の体育館のようなところで、あの…スポーツなど、車いすの操作などのテストをしたんだけど、その時に寸法取られたの、みな。「へぇ、こんなことまでするんだ。何だろう?」と思ったら、もう全部がオーダーで。パンツぐらいじゃない? 自分で買うのは。あと靴下から何から全部。ネクタイからね、ブレザーからワイシャツから、全部会社持ち。それが全部ダート持ちだったわけ。

インタビュアー: 車いすも、そしたらオーダーだったんですか? その時。

近藤: えっと、車いすの方はね、車いすの時代の話はまた別にしないと。うん。だって僕は最初に施設で乗った…、病院で乗った時の車いすは木だから。違うでしょ、考えられないでしょ? 

インタビュアー: うん。何か、施設の時、外出する時、こう何か手で漕ぐのとおっしゃってた、昨日は。

近藤: そう。そんなのもあるし。それから、木から金(かね)になるわけじゃない? 鉄に。で、鉄のこう、パイプに色を塗る、その色を塗るのが本当に色を塗ってるから、夏など汗をかくとここに色がつくわけ。ここの車いすの色が(笑)。そんな時代から。それから塗料が焼き付けになって色がつかなくなって。「おぉ!色がつかなくなったなぁ。」と思ってたら、今度は鉄の材料が変ってくるわけ。うん。その塗料がメッキになって、そしてメッキになってきたら今度はもっと軽量にするために、鉄の薄さが変わってくるわけ、だんだん。その次には、鉄が…鉄から、ステンレスになり、そしてアルミに変わってきて、チタンにまでなるわけ。今はチタン。そういうような流れの中で、あの、日本の車いすの歴史から見ても、えー…、最初に福祉から支給される車いすは、あの、今の介護保険の大中小だったわけ。

インタビュアー: ふぅん。

近藤: 大中小メーカーが作っていて、そしてパッパッパっと体に合う車いすを持ってきますから言われて、もう、向こうが測ってくれるわけ。それが車が大きい小さいはそんな変わらないじゃない。このくらい広いから言っても。だから、寸法取ってくれているかのように見ながら、会社にある寸法のどれに当てるかを測っているわけ。「あ、あなたは中(ちゅう)だから。」と。だから、こう、「じゃあ何センチ、はい、何センチ、はい、何センチ。分かりました。これで作りますから。」言って、中(ちゅう)を持ってくる(笑)。

インタビュアー: 作ってないですね(笑)。当てはめてるっていう感じなんだ。

近藤: そう。それがパラリンピック以後、オーダーになるわけ。

インタビュアー: ふぅん。

近藤: で、そうする時に、僕がこれで言うと、えー…

インタビュアー: ドルフィンっていう会社ですか? 

近藤: そう、ドルフィン。ドルフィンの車いす製造メーカー。これが日本で初めての、オーダーで作って、えー、福祉価格で納める。だからどこでもそれ、やってなかったのね。うん。で、何か知らんけど、こう、体に合うような気がするけど、それは大中小、今の介護保険と一緒。大中小だったの。で、私はこれを作るっていうので、また違うきっかけ、この時、私の人生の背景にあったのね。えっと、タッパーウェアからオリオン精密。ここの間に、その、収尿器作りが入るの。

インタビュアー: あぁー。

近藤: それはね、僕は人生の中で、体といい、何といい、年齢といい、体力といい、最高に、最高位に位置する時期がここだったわけ。タッパーウェアでもう、本当に筋肉もりもりにさせてくれたから。だって朝ご飯までに20キロ走るんだから。

インタビュアー: へぇぇ。すごい。

近藤: (笑)だからもう、生活が全部違ってたわけ、施設からここへ来たら。フランス大使館の別邸でしょう。真っ白い建物よ。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: 新聞やテレビに、あ、テレビじゃない、写真にあるけれど。そして裏に庭があって、そこが築山(つきやま)になっていて、日本庭園で、とっても素敵なのよ。

インタビュアー: へぇぇ、すごい!

近藤: ところが、えー、生活するようになって、2日目かな。訓練して帰ってきてみたら、築山がなくなって、コンクリを張って、アミを張って、バスケットコートになってた(笑)。その築山は…、

インタビュアー: えーっ、築山どこ行っちゃったんですか? (笑)そうか、でもバスケの練習…

近藤: 井之頭公園にそのままつながっているという、築山だったのよ。そういうところなのよ。だから本当に素敵で、うわーっと思ってたものが、そこへ帰っていくぞ、と思って、帰ってみたら、「えーっ? 何、これ?」山が無くなってね、コンクリを張ってネットを張ってね、夜間照明をつけて、車いすバスケットの練習が…

インタビュアー: えーっ、夜間照明まで、

近藤: そう。ライトまで点けてできる。(笑)はぁって思ってね。

インタビュアー: でもそこで、練習しなけりゃいけないですもんね、それが仕事なんですもんね。

近藤: うん。そうそう。それが仕事なの。うん。で、アメリカのマドリョー(?)という、こんな大きなおじさん…車いすに乗ったおじさんが、アメリカには障害者の近代5種というのがあるらしい…かったのよ。それに何年か、何回かチャンピオンになったという人、ある町の助役を務めてるって言ってた。その人を、終身雇用でタッパーが雇って、ダートが雇って、ほいで私たちのコーチにつけてくれた。だから徹底的に鍛えられた。えーっとね、1ヶ月経ったらもう、体が完全に変わっちゃった。ここの、肩の、ここの首の根っこに、あのプロレスラーの、あの筋肉、ガバガバ…あれができちゃった。だから、一ぺん、施設に出て…施設を出て、そして寮に入って鍛えられて、で、今度、「近藤、お前が出た別府に仕事で行くから。」言うて私を連れて行ってくれるの。体が完全に変わってしまってたね。

インタビュアー: ふぅん、じゃそこで中村先生にも再会したりしたんですか? 

近藤: 中村先生はもうちょこちょこ、ちょこちょこ、東京へ、あの、出てきていたから。うん。だから、しょっちゅう、寮の方で見てた。

インタビュアー: あぁ、じゃぁ変わっていく近藤さんにも会ってたんですね。

近藤: もう、もちろん、もちろん。そして、ここには書いてないけれども、自助具って分かる? 自助具。自助具の情報を…、まだ日本に自助具がない頃。うん、これからの障害者が一人暮らしをするようになると、自助具が絶対、福祉機器の一種だよね、が必要になるから言うので、スウェーデンから情報を取って、それを大きく写真を伸ばして、それにどう使うかを書いて。その情報を全国へ流すような仕事を、えっと…、ソニーの会長の…、誰言うたかな? 恵ちゃんなら知ってるけど。ソニーの会長とかね…

インタビュアー: い、い、何とかっていう人。

近藤: 恵ちゃん? 

インタビュアー: ソニーの会長。

近藤: ソニーの会長は何て言ったっけ? 

樋口: 井深さん。

近藤: 井深さん。井深大やったかな? それとか秋山ちえ子、とかいうような、日本ではトップクラスの人たちが出資してつくった組織。あの…東京のね、新宿のね、厚生年金会館ってあるじゃない? あれの隣に、小さいビルだけど、借りてそこの5階ぐらいに事務所を置いて。ほんで、こういうことは俺たち障害のない者がやるよりも、障害を持った者が、あの、中心にやるのが、これから必要なんだ、って言って、「近藤を代表にしよう。」って、僕を代表にしてしまった。社長にしてしまったの。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: その組織の。

インタビュアー: あら。すごい。

近藤: (笑)だって理事会言うたら、秋山ちえ子とか、井深大とか、それから水上勉とか、いうような人たちが、理事よ。

インタビュアー: ええー、すごいじゃないですか。 近藤: すごいも何も、どうなったか分からない訳よ、だから(笑)。中村先生なんて、「うん。これは近藤がいいよ。」って。「近藤ならもう東京に出て、あの、タッパーウェアもなくなって、やってるんだし、これがいいから。」言うんで、その、情報センターの所長に私をしてくれたわけ。で、ちょっとしてたんだけど、私は経理から何から全然分からないじゃない。だからどのくらいのお金が動いてるか、それはもう、国のお金なのよ。

インタビュアー: はあぁ。そうなんだ。

近藤: 国から予算を取って。

インタビュアー: 外郭団体みたいなもんですか? 

近藤: そう。それは、その、あの、パラリンピックを招聘したっていう中村先生の提案によって、国が、あの、お金をつけてるわけよ。だからその皆が、その、有名な人たちがある程度の出資はしても、もともと国なの。だから今の…、えー、今どこにあるんかなぁ。今…、通産省関係か、何かに、そういうあの、障害者の労働部門と一緒に、もう、あの、機関的にはよ。もう、かなり大きい今の福祉機器の…、福祉機器展ってあるじゃない。ね。あれなどをやる一番元になってたところ。の最初が、作られた時がそうなの。

インタビュアー: それじゃ、タッパーウェア辞めた頃ですか? いらした時? 

近藤: いや、タッパーウェアと同時並行。同時並行。

インタビュアー: すごいですね、じゃあ社員でもあるけど、一応その代表みたいなこともやりながらみたいな。

近藤: そう。で、あの、さっき、この前も…昨日も言ったんかな。僕は町田市の職員だから、町田市の仕事をしないといけないから言うて、断り続けようとしたら、市長が「それをやるんがお前の仕事で、どんどんやって、いい情報を持ってきて、町田でもやってくれ。」っていうのが、市長に直接言われたもんだから、否応ない…、否応もないわけよ。だからどんどん好きなことをやらさせてもらった時代なのよ。そいでその時に、恵ちゃんがちょうど大学を卒業する時期だった。で、経理が分からないのが嫌だから、経理係を雇いたいと言ったら、「あぁ、そんな人間で呼び寄せるんがいるんなら雇っていいよ。」って言って。で、皆に紹介したら恵ちゃんだったわけ。「何だ、樋口さんか!」だなんていうふうになっちゃったわけよ。だから恵ちゃんは大学を卒業したと同時に、その、むらかみつ…あの、水上勉とか、秋山ちえ子とか、そういう人たちが理事になってる団体の、窓口でもあり、経理にもなっちゃったわけ。

インタビュアー: はいはい、何か1年間だけお勤めしたとかってのはいうのはそれですか? 

近藤: そうそう。ポーンとそういうレベルまで…、両方のレベルも高いじゃない? そういうところに大学を卒業したら、入っちゃったわけ、恵ちゃんは。入ることになっちゃったわけ。うん。それはすごい大きなね、プラス面を持ってたの。だから普通なら、徐々に、徐々に、こう段階を追うていくけども、僕と恵ちゃん、16、歳が違うじゃない? だから16年前に私は社会に出てるわけじゃない? そこに、自分も不安になったらいけないから、自分が何もできないから言うて、恵ちゃんを引き上げたわけ。そしたら「何だ恵子さんじゃないか」っていうて、皆もう、ある程度僕の女房だということ知ってるから、会ったことあるから。うん。「そんなら、いいよ、いいよ。」って言って、「それなら信頼できるから。」言うので取り上げてくれたから。もうぴょーんと、大学を卒業すると同時に、すごいレベルの顔のメンバーの中に入っちゃったわけ。

インタビュアー: そっか(笑)。へぇぇー…。

近藤: だから、僕にとって16年の恵ちゃんとの差っていうのは、そういう意味で、ある、一番最初の時代には、僕は最初に行っていて、恵ちゃんをこう引っ張り上げる、そういう時期。それから運動から何からやり出したら、横に一線に並ぶ時期。うん。それからちょっと過ぎてくると、今度は年齢的に体力的に僕が落ちてくるから、恵ちゃんが後ろにいるようにいながら、前にリードしてくれる役割、という。夫婦の16年の差っていうのは、すっごく大きな意味を年代と共に持ってきたわけ。

インタビュアー: ふぅん。いい話の時、戻ってきました(笑)。

奥平: (笑)黙って聞いてました。

インタビュアー: そう、ちょうど、だから、また、結婚のところにだんだん、またその、出会いのところ今ちょうど聞こうかなって思って(笑)。で、車でね、こう、何かデートしたところまでちょっと、恵子さんにちらっと聞いたんですけど…、

奥平: でもさ、その前に。施設にさ、訪問に行って、近藤さんが…、で、

インタビュアー: あぁ、そこまで遡って。

近藤: あ、それは、あ、出てない、どこにも、そちらの情報では。恵ちゃんはここの人じゃない? ね。ここから高知の市の中心街にある施設に入ってたわけね。うん。そして、それから帰ってきて。

インタビュアー: 昨日少しお聞きしましたよね。あんまり顔とか覚えてないけど、「その部屋の覚えてる人の名前、プラス部屋の人」ぐらいな感じでお手紙を出して。

近藤: うん。出して。

インタビュアー: で、あちらからも、知的障害の人とかもファンレターが来てて、そう言うやり取りをしてる方の中のお一人っていう形で。そんなに意識してなかったんですよね、だからその時。

近藤: いや。最初は意識とか何とかよりも、それが仕事だったから。その子たちに会いに行くのがね。

奥平: じゃあさ、どうしてさ、デートに誘ったんですか? 

インタビュアー: それは、恵子さんの方から手紙に書いたのかな。

奥平: あぁ、そうか、そうか、はいはいはいはい。

近藤: それは、だって、彼女が…の一つの最初の分かれ目は、あの、自分はまだ何にも社会のことを知らないから、まだ勉強したいのに、「もう勉強はここで終わりよ。」と。施設だから。

インタビュアー: あぁ。そうね、中学の時ですね。

近藤: それで、「あとは自分で仕事を選びなさい。」言うて、それも仕事いうても沢山あるわけじゃないじゃない? 用意された中で。で、「まだ私はそんなことしたくない。」という気があって、そんな時に、「どうしたらいいだろうか?」というので、私に…、

インタビュアー: 手紙が来たんだね。

近藤: 手紙を彼女が書いてくれたわけ。

奥平: ああなるほどね、それから、色々やり取りするようになった…、

近藤: そうして僕は、うん、「まだ若いんだし、その…自分で何を選びたいというあれもないのなら、まだ勉強するほうがいいんじゃない?」と。うん。「そのうち必ず自分で何をしたいという時が出てくるから、それまではあまりフラフラせずに学校で勉強する方がいいんじゃない?」と言ったら、彼女はその方を選んで大学に選んだわけ。

インタビュアー: うーん、すごい。

奥平: で、最初のデートで 会えなくて。

インタビュアー: (笑) あ、会えたけど。

奥平: デートっていうか、ただ会おうと思ったのか分かんないけど。

近藤: あのね、僕はもう全国を回ってたの。僕の、タッパーウェアの次の、ドルフィンという車いすをつくる会社は、あの…その中の障害者は私だけだった。あとは全部元気な人。で、私が販売してた…販売の区域のエリアが、大阪、京都、兵庫、それと青森。

インタビュアー: 何で青森?(笑)

近藤: いや(笑)、東京に本社を置いてよ。それで後は、そこから車に乗って営業に出る。それが東京から大阪、兵庫、京都、まだあの、高速道路がない時。

インタビュアー: 高速もないのか! 

近藤: そりゃそうや。

インタビュアー: 大変だなぁ…。

奥平: ねぇ近藤さん、車の免許って。

近藤: タッパーの時取った。

奥平: あぁ、そっか。

近藤: うん、ダートさんがある時、「お前たちライセンス持ちたいと思わないか?」って言われて。「しめた、車の免許を取れる!」と思ったら、ダートは飛行機だったの。

インタビュアー: (笑)わぁ。そう、それ何かで読みました、NHKのやつかな?

近藤: うん。「あの時はがっかりした。」って言うから、「何の時?」って聞いたら、「お前たちに、『ライセンス持たないか。』と言ったら、皆喜んだから、『おおよかった』と思ったら、車のライセンスだった。私は飛行機のライセンス取らせたかったのに。」って。(笑)

奥平: 飛行機、でもね、実用的じゃないもんね(笑)。

インタビュアー: 宇宙に行くようなもんですよね。要らない、みたいな(笑)。

近藤: ねえ! そのくらい…、いや、ただね、その後、うちに来た障害者で、かなり重い人で、飛行機のライセンスを持った障害者がいたの。

奥平: ほんとう!…すごいな。

近藤: そう。その頃、その「ライセンス持って乗れる飛行機どこがあるんだろう?」って調べてみたら、府中が、府中飛行場にあるところに乗れる飛行機があったという調査したことが1回あった。

[00:35:11]  奥平: ねぇねぇ。あの、さっき、年表見たら、タッパーウェアにいたのってそんなに長くないじゃないですか。

近藤: 2年。

奥平: 2年でしょ? すごい濃い2年間でしたね。

近藤: それは…。

インタビュアー: 体も変わっちゃったんだって。ねぇ。

近藤: すべてが変わったじゃない? うん。

奥平: へえー…。

インタビュアー: すごいですね。

近藤: それと体験がね、もう体験が、もう施設と全然違う体験じゃない。うん。

奥平: ですよね。そんな免許取ったりさ、車のライセンス取ったり、全国回ったりとか。

近藤: そう。どこにいて話すにしても、そのスピーチの内容から何から全部会社がチェックしてるわけ。

奥平: へえぇ。

近藤: うん、そして、「あ、あちらへ行くんなら、誰が合うだろう。」とかって。だから行かない人間はあんまり…、向かない人間はあんまり行かないわけ。だから、スポーツだけが…

インタビュアー: じゃあ近藤さんはいっぱい行ったんですね。

近藤: 僕はいっぱい行った。

インタビュアー: (笑)すごいなぁ。

近藤: だから、スポーツができないから言うて仕事がないとか言うんじゃなくてね、違うスポーツ、違う分野をやっぱり、つくってくれたわけね。

奥平: ねぇねぇ。すいません、一つ聞いていいですか? 近藤さんさ、小学校しか出てないとおっしゃってたでしょ? そしたら、こう、色々やってくうちで、こう何か、大変だったこととかあります? 文字は書けただろうけど。

近藤: いや、そういう意味での大変さはない。小学校6年生…。

インタビュアー: ちょっと気になるのは、ダートさんとは、どうやってコミュニケーション…? 

奥平: あぁ、それはある。

インタビュアー: 間にやっぱり。

近藤: もちろん必ず通訳が。

インタビュアー: 必ずついて。

近藤: もうひどい時には、2人3人の通訳を連れて歩いてたから。

インタビュアー: あぁ…、すごい。

近藤: あの、一人の人は鞄持ってるから「何だろう?」と思ったら、ダートが英語でバーッと言うのをバーーーッと打つわけ。

インタビュアー: もう文字にしていくと。

近藤: そう、文字にしていって、ほいでまだ、旅行中だのに、途中でもう、あの、郵便局へ入れてしまうわけ。どんどん、どんどん打っちゃう。

インタビュアー: はぁー…。

近藤: そう。だからもう、本当に、あのタイプライターを持って回ってんのね。で、それがその人の特技なのよ。で、「あの時言ったこと、あれ録ってるか?」と言うたら「録ってる。」って必ず言うわけ。もうどんなことでも! 行って、止まったら、バラバラッ、バチバチッと打って。「何を打っているんだろう?」と思ったら、ダートが一人でぶつぶつ言ってるようなことまで打ってるわけ。 インタビュアー: でもそういうのが講演で使われたりとか、

近藤: もう色んなところで使われる。

インタビュアー: 会社の経営の中で必要だったりとかするわけですね。 近藤: そう。そういう秘書まで、その、秘書課の中には、いたわけ。

奥平: すごいね。金持ちー。すごいね、アメリカ…(?)、

近藤: だから、そう、そこの秘書課長が、ミセスだったの。

奥平: あぁ、そうなの。

近藤: そう、秘書課長。もうその時から秘書課長してた、そう。

奥平: ダート淑子さん、秘書だったんだぁ。

近藤: そう、青森、あ、青森じゃない、え、青山大きっての秀才と言われて。まだ、これ以上の秀才はその後出たことがないと言われた、のが、奥さんになった。秘書課長。で、僕が雇われた時には、秘書課長だったわけ。

インタビュアー: もうその時は、ご結婚されてたんですか? 

近藤: ううん、結婚してなかった。

インタビュアー: あぁ、でも一緒にっていうか、もうカップルでというか。

奥平: 写真とかあるんですか? 

インタビュアー: その頃の? 

近藤: …は、ない。

奥平: へー、貴重だよー。

インタビュアー: それはそうだ。

奥平: もう、あの、ダート博物館に入れなくちゃって感じ(笑)。

近藤: ほんと、そういう人なんですよ。だからあの、奥さんも…、ダートが死んだ後の奥さんも、よく僕たちのことは知ってるのは、僕と樋口が結婚するのも、ダートと仕事をする途中で行った時の講演でしょ。だから、「10人いる障害者の中で、そういう体験をつくってくれたのはお前たちだけだ。」という言葉がダートに何回か出たことがあるわけ、さぁ。

[00:39:14] 奥平: 他の9人の人は、殆どもう亡くなってる? 

近藤: もう分かんない人もいる。死んだ人が沢山いる。

奥平: 色んな障害…、あ、そっか、バスケのチームの人か。

近藤: うん、バスケが最後に残ったスポーツでしょ? で、今の車いすバスケットの一番最初をつくった、からね、僕たちは。

奥平: あぁ、愛好…、

近藤: 愛好クラブという。うん。それがそのまま、あの、歴史の中にも残ってるから。

インタビュアー: まだあるんですよね。

奥平: て、すごいね、秘書。そんなに優秀な、秘書たち。

インタビュアー: ほんと。

近藤: だから今でも、この、新聞社が僕のところに東京から訪ねてくるのは、あの、「スポ協の井手さんから聞きました。」って。障害者スポーツもスポ協だから、スポー…何か事務所があるわけよ、障害者の。障害者スポーツの事務所、があるわけ。そこの井手さんていう人は、その当時を知ってる唯一の職員らしいのよ。ほいで、「あ、その話なら、近藤さんに。」っていうんで、高知に回してくれた。

奥平: 昨日おっしゃってた。

インタビュアー: 井手さんねぇ。ふぅん。

近藤: そう、そういう人です。まぁそういう意味で、あの、いくつかの面で、えっと、僕の人生は、あの、切られるんだけど、その中の一つが仕事ね。あの、タッパーウェアから、辞めると言った瞬間に皆がもう、うちのとこ来て、「再就職をうちにしてくれ。」言うて、全部が引っ張られていくわけ。

インタビュアー: はぁぁ。

近藤: そのくらい、タッパーウェアの障害者は、名を売ってたわけよ。名を売るのが電通の仕事だったわけ。

奥平: 電通? 

近藤: 電通。

奥平: …が入ってたの? 

近藤: 電通が、一番表に立って、僕たちの取材権を。

奥平: へえぇー! うまくやったなぁ、(?)。

インタビュアー: (笑)すごいですね。

奥平: だからそういう…

近藤: ものすごい企画がどんどん出てくるわけよ。

奥平: うーん、そっかぁ!

[00:41:27]

近藤: だから日本一流の広告会社を使ったわけ。だから、あの、駒沢の体育館ね、駒沢の体育館を、3ヶ月かな、ぐらいを借り切って、僕たちの練習場に当ててくれたわけね。

奥平: その、パラリンピックの前ですか、後ですか? 

近藤: パラリンピックの後。もちろんタッパーウェアそうじゃん。ほんでそこに、その寮から、10人の障害者が、その、駒沢の体育館に送られるのが、その日本で最初のリフト付きのバスを、パラリンピック(?)1台、10人のために買ってくれて。 インタビュアー: 買ったって、すごい…。

奥平: じゃ、あぁ、じゃあ、タッパーウェアから電通が、その、マネージメントっていうか…、

近藤: 頼んだの。

奥平: アピールを頼まれて、それで。

近藤: ダート、ダート。

奥平: ひえー。どうりで。

近藤: そして。うん、で、その、バスケットで、日本で、だって最初の障害者スポーツじゃない? そんな訓練してる所だから、珍しいじゃない。だからみな、新聞社は来るんだけど、全部、「電通を通して来てくれ。」って言って。で、電通はものすごいお金で、お金を持ってこないと取材権すら…、取材すらさせなかった。

奥平: (笑)さすが、電通。

近藤: うん。だから殆ど来ないところで、先ほど言った、あの、アメリカから呼んだマドゥローという人の、こんな、太った人をコーチに雇って、駆け回されるわけよ。

インタビュアー: ふぅん…。じゃ、電通にとってもこう、何か、自分の会社の基礎がこの時できるような感じですかね? 

近藤: そういう時期じゃない? だって、そして…。電通がここは許可をしたってところが、『朝日グラフ』ってあるでしょ。

奥平: あぁ、朝日新聞社の?

近藤: 新聞社か何かしらん、かなり大きい目の、グラフ用誌(ママ)。

奥平: あーあーあー、あったあったあった。雑誌。あったあったあった。

インタビュアー: ありましたね。

近藤: 『朝日グラフ』って。その先頭で…、最初の巻頭ページが、6ページぐらいが、この大きい写真、載ってるんだけど、あれ、1枚…1面に載せるのにすっごいお金を出さないと載せてくれないというのに、「撮りたい。」言うて電通に言ったら、電通の方がお金を取るわけよ、今度。『朝日グラフ』から。ほして、6面とも、私たちの写真で埋めたことがある。

インタビュアー: へえぇ。それは持っておられるんですか? 

近藤: そこから撮ったという写真は、もらった。から、どっかある。

インタビュアー: どっかある。(笑) でも、『朝日グラフ』探せば出てくるのかもしれない。

近藤: いや、昔だから、ないよー。

奥平: でも、チェックしとこうよ。もしかしたら。あと電通…、

インタビュアー: 国立国会図書館とかあるかな。

近藤: あの、僕の方で写真持ってるよ。『朝日グラフ』に載ったという、その紙じゃなくて、その原紙にあった写真ていうのを。その、なぜか、スポーツじゃないそういう収集は、私の仕事としてダートは僕に任されたの。

インタビュアー: (笑) 色々任されてますね。

近藤: そう。だから、あの、「近藤、お前何になりたいか?」言うから、その頃、なかったような気がして、僕は知らなかったから、「障害者が生活できる場が日本にどこにあるかというリストを作りたい。」言うたら、あ、そりゃいいなぁとかって言ってたら、そんなことを話し、するわけ。その、旅行中にも。そしたら、「それは近藤にやらせぇ。」とか言って、回ってくるわけ。だから、「あ、この写真は近藤に。」って言って、記録のようになっちゃったわけ。だからスポーツだけじゃなかったのよ。うん。それが僕の役割に、まさに人生をつくったのね、そういうように。つくられたの。そういう方面でね。

[00:45:26.537] 

奥平: すごいね、やっぱダートさん、へぇぇ。

インタビュアー: え、でもタッパーウェアのその仕事をしながら、さっき、収尿器もその時期…

近藤: 収尿器っていうのは、あの、タッパーウェア、じゃない。

インタビュアー: その次か。

近藤: いや、パラリンピックの時に、あの、中村先生が、もう本当に、あの…パラリンピックが近づいた時に現れて、もう、あの、「日本ではまだないけども、アメリカ辺りでは皆、脊髄損傷がバスケットするのには全部これを付けてる。」と。これを付けないと、あの、スポーツそのものができないというんだよ、と言って、持って来たのが収尿器だったわけ。収尿器はおしっこを取る袋じゃない? 自動的にね。それまで何だったかいうと、今でも薬局に行くとね、あの、粉末の、あの、薬をピッと出て何グラムって測るじゃない? そのピッと出すのが薬局ではこのくらいのこんな瓶なのよ。こんのくらいのこんな瓶。に、大きいのに入っていて、それから何グラムというように取るわけ。これを薬局が、「1瓶空いた時には、今度は私にくれよ。」とか言うて予約しておくわけ。密封がきれーいにできるのと、入り口が大きいのと。

奥平: あ、そこにおしっこ溜めたってこと? 

近藤: そう。

奥平: (笑)そうなんだ。へえー。

近藤: で、遊びに行くような時はそれを持って行って、おしっこしたい時にはそれにおしっこして、で、どっか行って捨てていったわけ。

インタビュアー: へぇぇ。じゃ、あ、そっか、でも尿意もあまり分からないから、こう、

近藤: あまりじゃなくて全然分からない。時々それを出しておかないと、もういつの間にか汚してしまう。

インタビュアー: あぁ、そっか、そっか。

奥平: じゃあ近藤さんはとりあえず、何か、何ての、時間を決めてプッシュして出してたってこと?

近藤: うん、僕だけじゃなく、脊損は全部そう。

奥平: だいたい? 

近藤: そう。

奥平: でも、そうできない人だっているじゃん。その時は何か…

近藤: 脊損はできるよ。

奥平: あ、全員? 

近藤: うん。

奥平: あ、そうなんだ。ふーん。

近藤: うん。あの、頸損、首までかかったら手にくるけども、普通の脊損は手が動くから。自分で自分の。

奥平: だから、だいたい時間を決めて、プッシュするように。

近藤: そうそう。でも、それでも、今言うように、車いすから倒れたり、何かする時には、あの、腹筋使っておしっこ出しちゃうから、もう全部汚してしまうわけ。だから、新しいズボンを買っても、3ヶ月。で、他の所はどうもない。ここだけが焼けてしまう、おしっこで。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: それで、僕たち悪ガキは、施設の、3人組ぐらいが中心になって、街に下りて行って、その、服屋さんに行って、今度施設に服を売りに来てくれと。障害者が言うのよ。うん。で、それまでに体制をつくっておくからというわけ。で、

インタビュアー: あぁ、昨日おっしゃってた。

近藤: そして来てくれるわけよ。そしたら、5枚、あの、ズボンが売れたら、阿蘇に俺たち3人をドライブに連れて行ってくれって言っといた。もう5枚売れたらと言ったら、もう5枚のチケットを作って、そして売り歩くわけ。「おい、これ買え。」とか言って。

インタビュアー: (笑) そういう何か、ある種自由なところが、昔の施設はあったんですかね、ちょっと。

近藤: あったよりも、自分たちでつくったね。

奥平: そうだよ。

インタビュアー: 受けるっていうかね。

奥平: そういうことをやれる入所者って、

近藤: 時代だね。

奥平: やっぱちゃんと社会に出て行ける人だよ。ただただスタッフの言うことを聞いてる入所者って、そこで終わっちゃうと思う。

近藤: それとか、昨日言ったように、その、車いすをきれいに磨く券ね。そんなのも障害者に売って回る。これは施設も公認なの。施設が、うん、「あぁ、また時期が来たなぁ。」とか言って。

奥平: でもそれは、あの、そういう自由な、ていうかまだゆるい…

近藤: そうそうそうそうそう。

インタビュアー: そうそうそう、そうですよね、それがいいよね。

奥平: ルールとかまぁそんなになかった時代ですよね。

[00:49:42]

近藤: うん。それとやっぱり、「重度障害者」言いながら、僕たちのような脊損のように、かなり体がまだ丈夫な障害者から寝たきりの障害者までいたから、だから僕たちには僕たちでできることを、許してくれたわけ。

インタビュアー: ふぅん。ねぇ…、そういうこと…。

近藤: だから、庭にブルーシートやら(?)シートを敷いてね。ほいで油をそろえてね。ほいでぼろぎれをそろえてね。で工具をそろえてね。そこへ座り込んでやるわけ。そう。それはいい小遣いになったね。

奥平:&インタビュアー: (笑)

近藤: ただ、その、そういうように、施設が認めた遊びだけじゃなくて、施設が禁止してることもやるからね、やっぱり。

奥平: そうだよね。私も悪いこと結構やったもん。

近藤: あのね、もつ煮、もつを買って来て、うん、で、もつ煮をやるわけ。

奥平: へえぇ。勝手に? 

近藤: うん。部屋で。そして、

インタビュアー: (笑) どうやって? 

奥平: 調理とかどうするの? 調理。

インタビュアー: うん、部屋でどうやって? 

近藤: いや、その頃の施設の暖房は、あの、火鉢だから。

奥平: あぁ、そっか。

インタビュアー: あぁ、そこで料理ができちゃうの。

近藤: それで、それに鍋をかけて、そして…

インタビュアー: 遠赤外線みたいな。(笑)

近藤: そういうことに興味のない障害者も連れてきて、うちわを与えて、3人は廊下の方ににおいが行ったら…

インタビュアー: あぁ、そうか。においが行かないように。

近藤: 施設に向けるように。

奥平: (爆笑)

近藤: だから、廊下の、中のドアを閉めて、そこからこう、風をみな送って。で、反対側の窓は開けて、そちらへ逃げ…

インタビュアー: あ、逃がさなきゃいけない。

近藤: だからもつな…とか興味のない人間でも、うん、連れてきてやらせるわけ。「扇げ、扇げ! もっと扇げ、扇げ!」とか言ってやらせるわけよ。(笑)

奥平: え、調味料もじゃあ買ってきたの? 

近藤: もう、うん。ところがね、ある時失敗したのは、卵が古かったんだね。

奥平: (笑)

インタビュアー: あぁー…。

近藤: 何ぼやっても味見してもよくならないの。で、もっと卵入れる方がいいだろう、いいだろう言うて、どんどん入れたけどダメで。結局、卵が古かったみたい。

インタビュアー: ふーん。でも、お腹を壊さなかったんですか? 古い卵で。

近藤: いや、味見したら、食べられないような味だったから。

奥平: そんなに?

近藤: うん。ほいで、「これ、近藤さんどうするんだ?」って、もう食べられないとなるとおっきい鍋だから、どうするんだって言って、うん。

奥平: で、もつは食べたの? 

近藤: いや、だから食べられない。

奥平: あぁ、そこにもう、あれして。

インタビュアー: え、どうやって捨てんの? 

近藤: それが問題よ。そうなったら障害者が、俺は知らんど、知らんどって、もう全部散っていくわけ(笑)。

奥平: (笑)あぁ、おかしぃ。

近藤: で、僕に残されるわけ、どうするかといって。で、処理しました。

奥平: どうやって? どこに? 

近藤: そっとトイレに持って行って、トイレに全部流しました。

インタビュアー: えぇー!

奥平: えぇ! 詰まんない? 

インタビュアー: そうっと持っていってたんだ、でも。おっきい鍋なんでしょう? 

近藤: うん。おっきい鍋。おっきい言うてもその、火鉢の上にかける大きい鍋だから。

インタビュアー: あぁ、まぁそうだけど。でもその時はにおいをもらさないようにトイレに持っていくって、大変じゃないですか?(笑)

近藤: あのね、そういう悪ガキは、元気な人だけは、重度と中度と元気な人と、病棟が分かれてる。で、元気な方は、わりあい、すみっこの方にやられてるわけ。

インタビュアー: あぁ、なるほど、じゃあ見つからない。

近藤: あの人目が、手が、目がかからない所にもう、重度の(ママ。「元気な」の誤り?)人間、集められてる。ほいで、あの、事務所に近いほど重度の障害者の所になる。

インタビュアー: そうか、そうか、じゃあ。

近藤: だから、目が届かないんです。

インタビュアー: スラーっと捨てに行けたんだ。(笑)  

近藤: そう、それで、トイレに捨てて。

インタビュアー: (笑) 楽しそうだな、何か。

近藤: その代わり、大赤字になっちゃうわけよ。そう。

インタビュアー: そうか。ねぇ。せっかくお金出したのに。

奥平: それを売ろうと思ったの? 

近藤: いや、みんなチケットで売るんだよ。

奥平: あぁ、そうか。

近藤: チケット買え、買えって。

奥平: なるほどね。(笑)

近藤: いや、お金儲けが、うんうん、目的だから、最初の。

奥平: たくましいなぁ。

インタビュアー: ほんと、面白い。

近藤: それは。施設に見つかった…、見つかったこともあるけれども、もう怒られるけれども。うん。でも、施設が奨励してくれた遊びもあったの、沢山。面白いでしょ?

インタビュアー: うん。 [00:53:52] 

近藤: そういう時代だったの。それで、その、私たちの、あの、私が、収尿器をダートさんが持って来た時に、もう選手村に入る2日…2日もなかったなぁ、ぐらいだったの。やっと先生が、その時に、その、英文を翻訳した、あの、ルール。バスケットのルールを2日前ぐらいに持ってくるんだからねぇ。

奥平: (笑)

近藤: 先生も忙しいから、「ちょっと待ってちょっと待って。」言いながら。ほいで持って来た時に、その、収尿器も持って来た。「何すんの?」って言うたら、「これは付けるんだ。」と。で、「これを付けたら、もう絶対おしっこが漏れないから、皆安心してやれる。」言って。

奥平: そうだよね。だってさ、車いすバスケって激しいからさ、漏れちゃうよね。

インタビュアー: ぶつかったりするから。

近藤: 漏れるの当たり前よ。それでもやってたわけ。うん。で、先生が持ってきて、付けたんだけど、付けて選手村に、飛行機に乗ったんだけど、おしっこが出ないわけ。慣れないから。

インタビュアー: あぁ、逆に。

近藤: うん。選手村に入っても、「おい、しょんべん出るか? 」と、「出ないんだよ」って言ったら、「俺も出ないんだよ」って、そんな話ばっかりしてるわけ(笑)。「今日出たよ。」言うたら、「おお、俺も出た。よかったなぁ。」とかって、「これがあったらこれから便利だぞ。」とか言って。そう、それほど便利な物だったんだけど、日本になかったの。それで、スポーツが終わって、施設に帰った…ちょっとした時に、先生が現れて、「あれは国の予算で買ったものであって」、うん、で、「もう国に言ってある。」と。「返さないといけないんだ。」と。

インタビュアー: でもさ、人の尿がついたやつ、返せって、ねぇ!

奥平: ほんと。でもま、初めてのもんだから…。で、返したの?

近藤: いや、「これは障害者が使うんだから、使っても障害者金がないから、ほいで法律的に、その障害者にその金を出すという制度もない。何にもないところ、自分が引き出してきたんだから。お金か物は返すからと言ってあるから、お金がないから物を返せばいいんだ。」と。で、「もう捨ててしまうんだ。」って言うから、「捨てるんならいいじゃない! ちょうだいよ、このまま。」と言ったけれども、先生は「ダメだ。」って、言うから。そしたら、「誰も開けてみたりなんかしないよね?」言ったら、「するはずないじゃないか、こんなもの。」って言うわけ。「じゃあ明日集めるぞ。」って言った晩に、僕は全部ばらして、作り方を覚えちゃうわけ。

奥平: あぁ、そうなの。すごいね、近藤さん。

インタビュアー: すごいねぇ。

近藤: そして、作るんだけども、作る材料と言うのは、今はもうないんだけど、あの、扁桃腺が悪かった時ここへ熱が出るでしょ、その時に、このくらいの太さで、このくらいの長い、氷嚢、氷を入れて首に巻くわけ。そいで熱を取る。ここにこう置く用のはあるけれど、あんな長いの見たことなかったけど、あんな氷嚢あるのよ。で、それが大中小とあるの。で、そのおしっこ、その袋を、生ゴムの袋だけども、二重にして、中と大を買って(こうやって?)二重にして。うん。それと、逆流止めはコンドーム。コンドームは水がピッと…、ちょっとでもついたら、ぴちっと引っ付いてしまうの、柔らーかいゴムだから。うん。ほいでもう、水分を外へ出さないようにしてしまう。それに、今はないけれど、あの、ハンガー。洗濯して干すハンガーがプラスチックでこのぐらいのかん(缶?)で、プラスチックであったことがあるの。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: これを買ってきて、ここからここまで買って、これを管にするわけ。そして体につけるとこのベルトは、ガーターベルト。女性の。その頃は、まだパンストの前だから。

インタビュアー: すごい、色んなものを。

近藤: うん。ガーターベルトでこう吊ってるわけ、皆。それを買ったの。ガーターベルトがもう本当にパンストに変わる時だったから、もう街になくって。そして今まで売ってた所で「どこで卸で取ってたの。」って言うたら、不思議がられるね。車いすの障害者が来て、ガーターベルトが欲しいというんでしょ(笑)。

インタビュアー: それはねぇ。

近藤: だから卸屋さんまで行って、うん。まず、どのくらい売れるか分かんないけど、50セット、買ったの。

インタビュアー: すごい商売人ですね。ほんとにね、そこが。

奥平: (笑) たくましすぎる。

近藤: いや、むしろ、何が物として使えるか。で、ちょうど接着剤は、あの、今のボンドが、ボンドとして出て。「へえ、ボンドで、こんなの?」っていうぐらい、いっぺん引っ付いたら手でも危ないって言われたぐらい。手の皮も取れちゃうからと言われたような、そのボンドを買って。うん。そして、あの、おしっこを一番最後に捨てる管は、あの、…血圧測ったりする時…、あ、注射する時だ。注射の血液を取る時に生ゴムの。

インタビュアー: きゅって、はいはい、はいはい。

近藤: あれを先生に聞いて、そういうのも卸から取って。

インタビュアー: すごいですね。

近藤: そいでないとね、おしっこはものすごい強いの。すべてを焼いてしまう。だからゴムも普通のゴムじゃもたない。生ゴムでないと。そうやって作ったんですよ。

インタビュアー: すごいなぁ。

奥平: たくましいし。

[00:59:42]

近藤: それで障害者は、そのタッパーウェアを辞めると言われた瞬間、よそから雇い手がどんどんついたの。その情報が流れ…、電通が流してるから。うん。そしたら、それまでの活動がすごかったから。だって、タッパーウェアの総仕上げ、うん、バスケットの総仕上げは、あの、代々木の国立体育館、あっこを借りて、そして、あの、オリンピック、日本のオリンピック選手のバスケットチームに車いすを前もって貸し出しておいて、対戦するわけ。

インタビュアー: ええーっ。

近藤: 向こうはだから、バスケット、国のバスケットチームよ。

インタビュアー: でも、車いすを使うのは、まぁ言や初心者みたいな人だけど。

近藤: そう。でも、だから2ヶ月ぐらい前に彼たちに車いすを貸し出して。そして、対戦はそれこそ、代々木の、あの、オリンピックセンター、

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: …を借りて、でそこで対戦さして。それの宣伝がまた電通じゃない?

インタビュアー: すごいな。

奥平: 電通すごいね。

近藤: 1枚チケットが何万もするチケット。で、安いチケットはないの。で、そのチケットをどうするかいうと、これ全部役所関係に売ったの。それでも足りなくなったっていうぐらい。役所関係に全部売り払って、そして、後の人はどうして集めたかいうと、障害児の施設とか、障害児の学校に、全部、無料招待。にくいことやるよねぇ(笑)。

インタビュアー: そっかぁ。すごーい。

近藤: そう。それでやって、それがタッパーウェアの、僕たちの、スポーツの最終仕上げだったの。で、記録は120戦120勝…124勝か5勝ぐらい、負けたことがないチームだった。そうしながら全国を回りながら、その地域にバスケットの球をやって、で遊び方を教えて。で、僕たちが、120何戦目で破れたのが、愛知県ていうから名古屋の労災病院のチームと対戦して敗れた。そことね、10何戦目で敗れたんだ。うん。

インタビュアー: ふぅーん。

近藤: そういう記録を持ってます。

インタビュアー: すごい。で、ドルフィンっていうところは、どうやって? 

近藤: ドルフィンていうところは…、あ、ドルフィンじゃない、あの。

インタビュアー: あ、オリオンだ。

近藤: オリオンだ。

インタビュアー: オリオン精密って書いてある。

近藤: オリオン精密はね、僕はほら、皆は就職していって、もう仕事どんどんできているんだけど、僕は就職しなかったの。というのが、その、収尿器を作りたかったから。それと同時に、もう、ちょっとしばらく障害者から遠のこうと思ったの(笑)。そう、ずーっと障害者との付き合いの歴史が大きかったから、違う普通の社会で、という気があって。それとタッパーウェアというところは、辞めても3ヶ月分の給料は、1ヶ月にいっぺんずつ給料日には3ヶ月分くれるの。それは、再就職のための準備の費用として。

奥平: 何ていい人。リハ協に言ってやって。

インタビュアー: (笑)

近藤: (笑) で、それを僕なんかもらいながら、だからお金には困らないわけよ。そいでその間に、それを売りたかったわけ。で、これが売れたのよ! これがね、あの、日本でパラリンピックに参加した車いす用のバスケットチームは2チームあるのね。本当は、今でもそうだけど、1チームしか出ないじゃない? 国を代表したら。ところが中村先生が、うん、交渉して、「日本はまだこれからだから。」ていうので、2チーム。僕たちのチームと、僕たちは別府からじゃない? おおい…あの、九州から。もう一つが、関東の、関東労災病院、川崎にあるのよ。関東労災病院。で、労災病院だから、労災病院の中には、脊髄損傷のための病棟があるわけ。脊髄棟というのが…、脊損棟か、いうようなんがあるぐらい、バスケットができる人を集めている。集めるというよりも、そういう人たちの病棟があったわけ。で、そこからも1チーム。

インタビュアー: ふぅん。

近藤: で、先生が相変わらず…、中村先生がね、そこにもその、ルール表が遅れたんだけども、彼たちの方にルール表は早く入手したのよ。先生が持っていったの。東京だったから。

インタビュアー: 自分の地元よりもあっちを優先しちゃったんだ。

近藤: うん。そう。その頃はもう東京におることの方が長かったから、先生。ほして、選手村に入ってみたら、関東労災病院、つまり日本のチームの人間が来て、「あんた達九州だよね?」って言うから、「そうや。」って言ったらね、「頼むから一回バスケット練習してくれ。」って言うわけ。で、「どういうこと?」って言ったら、「俺たちはルールは知ってるけど、やったことはないんだよ。」と言う。(笑)

インタビュアー: えー、そんなに沢山いたのに? あ、チームがそんなに大きくなかったのか…。

近藤: なかったんじゃあないかな。それかその、やる、あの、場所がなかったか。僕たちは、病院じゃないから、ねぇ。もう、やるところ探し回ってでもやったけど、向こうはまだ病棟にいるわけじゃない? 病院じゃない。だから向こうはルールはもう先生からもらったん。で、勉強したから分かってるけども、1回も試合したことないってわけ。で、僕たちは、100人の規模の施設だから。そして、あの、何か映画会をやるような広い…広場があったからそこで、練習はしてたけども、先生のルールが、うん、飛行機に乗る前の日ぐらいしか届いてないから、ルールはあんまり知らないわけ。 インタビュアー: へぇぇ。 近藤: 来た来た、言うても。だからルールは俺たちが教えるからやってくれって言って、ほいで対戦したことあるけど、試合にならない。(笑)それじゃぁならないよね。で、両方とも試合にならないの。日本の2チームは(笑)。 それで散々なのよ。

[01:06:39]  インタビュアー: あぁ、まぁそうですよね。パラリンピック始まる二日前とかに…。 近藤: うん、先生が持ってきてね、バスケットボール持ってきて、「これでしばらくお前たちやっといてくれ。」と。「ルールはすぐ持ってくるから。」言うて。そのすぐが間に合わないんだから。

インタビュアー:&奥平: (笑)

近藤: で、そうやったもんだから、僕は関東労災病院を知ってるわけよ。

インタビュアー: はいはいはい。

近藤: 仲間を。そこに、彼たちに売りつけに行くわけ、おしっこ袋を。で、これは売れた。これはすごく売れた。でもね、だんだん売っているうちにお金にはなるんだけども、やっぱり、あの最初に言っておくわけ、僕は「手作りだから長くもたないと思うよ。」って言うけれども、それでもないもんだから、もう予約を次々受けるぐらいに売れたんだけど。でもやっぱり作る側とすれば、もう1ヶ月持たないうちに壊れてしまうようなものを、その頃のお金で4,000円ぐらいで売ったからね。すんごい高くで売ったのよ。そう(笑)。そいでももう本当に、あの、作るのが間に合わないぐらいにどんどん売れたわけ。

インタビュアー: すごいなぁ。

奥平: 一人でやってたの? 

近藤: もちろん一人よ。一人も一人、アパートに籠りきって自分で作るんだから。

奥平: (爆笑) でやめたの? 

近藤: ほんで、できたら売りに行くわけ。そしたら「お! 来た来た!」言うんで、「今度俺だよね? 予約してたの俺だから。」言うて、もう飛ぶように売れたんだけど、でもお終いにやっぱり手作りだということで、うん、気に食わなくなって、もっと製品の精度を上げたいと自分で思うようになったのね。それでないと売れない。売っちゃ悪いと思って。そして、聞いて回ったら、商品化するのには、ものすごい金がかかったの。型をおこさないといけないから、一つの型をおこすのに、その頃のお金で100万はもらうと。つまり、あの、うーすい、あの、ゴムを作るんだから。そして形をおこすんだから。その形に、1つ…、えっと、3つおこさないといけないと言われたの。そいで1つは、「安く見積もっても100万かかるよ。」ってその頃言われて、そんなお金あるはずないじゃない? 生活保護だった僕が(笑)。

奥平: 製品作るのって大変なんだ。

近藤: それで、止めたのよ。そしたら、その、情報がどこからどう漏れたのか、保健婦さん、から、のつながりで、あの、あれはとっても期待できる商品だから、で作り方を全国の保健婦の、その会報に載せてくれと言われて、載せたね。3回載せた。うん。全国紙の保健婦の、うん。…ということがその、収尿器の結末だけど。その頃、それから何ぼもしないうちに日本の国のあるメーカーが収尿器を作り出した。で、作って売って。ほいで売るのも、高いお金だから、これ、福祉の、福祉予算で、うん、あの補装具として脊髄損傷には、あの、出るようになった。だからそれの、6年ぐらい前かね、僕が作ろうとしたのは…、ぐらいになるぐらい。

奥平: すごいね。

近藤: うん。そういうね。仕事をするよりもその方のことをしたかったわけよ。

奥平: でもやっぱしその器用さはお父さんだね。

近藤: で、ところが皆はもう仕事してるじゃない、タッパーウェアの、ばらけたんは。で、社長に言って、「近(こん)ちゃん、あの、もう一人雇ってくれ言うたらいいって言ったから。いつでも来ていいから。来いよ、来いよ。」て皆が言ってくれるわけ。あっちこっちの会社から。で、僕だけ、どこに行ってもダメだったんだと皆思ってるわけよ。

奥平: (笑)

インタビュアー: あぁ、そっか。

近藤: 車いすバスケットじゃ、最低じゃない? だからうん、近ちゃんの存在は皆の中じゃ、そういう存在だったのよ。そう。だから、どっこも取ってくれなかったから、まだ、あの、仕事してないから、「近ちゃん、いいから、来い来い。」言うて皆が呼んでくれた。「社長がいいって言ってるから。」言うて。でも僕はそうじゃなくてね、したいことが自分であったんですよ。で、その流れで、今度自分で、じゃあ、その、タッパーウェアの3カ月の給料? 給料も、あぁ、今月でそう言や終わりだな、という頃、自分で就職することにやっと気持ちが向くわけ。その時どうしたかって言うと、今でも普通の新聞の下に求人広告が沢山載るじゃない? 色んな会社が。あの中から、手でできる仕事、と自分で選んで、求人広告で。そしてそこに手紙と自分の履歴を書いて、「私は障害者だけでもこういうことはできます。ほいでタッパーウェアで鍛えられたから。」って書いたら、タッパーウェアの宣伝がすごいから、「あ、あっこにいたんならできるわ。」言うて、声かけてくれるわけよ。

インタビュアー:&奥平: ふぅーん。

近藤: で、その中の一つがそのオリオン精密。

インタビュアー: オリオン精密。

近藤: と言って、これは田無から電話がかかったの。

インタビュアー: 田無、へぇぇ。

近藤: で、田無って言うと、あの、時計の会社、腕時計の会社の、シチズン。

インタビュアー: はい。

近藤: セイコーじゃない、あの、シチズンの会社が田無にあるのよ。で、やっぱり、下請けの工場がすっごい沢山あるの。小ーさい会社が。それは何かと言うと旋盤、精密旋盤。その中の一つがオリオン精密で、田無に本社を置いて、所沢に、あの、工場を置いてた。その所沢工場の方で、1ミリの1万分の1を、指一本のこの、人差し指で削り出す仕事。

奥平: へえぇ。

近藤: 1万…、ね。だから1ミクロンのまた10分の1になるわけよ。それを、うん、この指先で。だから、そういう仕事だから、障害があってもなくっても、勝負はこっから先なの。

インタビュアー: (笑) 細かいのが、だから、ね。器用だから、やっぱりよかったですね。

近藤: だからそういう、「これならできる。」と思うものに、うん、アタックしたら、その会社から「いついつ来てみないか。」と、お前の、お前からハガキをもら…、あ、手紙をもらったところだけど、って言われて。電話くれたんが社長だったのね。「あ、そうか、タッパーウェアのメンバーで、そんなんがいるんか。」って言うので、面白いから。うん。一緒に仕事できるかと思って来てもらったって言うんで。で、当日検査に…あの、面接行ったわけ。来いって言うから。ほしたらずらーっと並んでるのよ。

奥平: へぇ、面接に? 

近藤: これが…、うん、だって、新聞広告出してたんだから。そん中へ僕も申し込んだんだから。

インタビュアー: あぁ、そうか、沢山来たんだ。

近藤: ほいでその列の所に並んでたら、通りかかったおばさんが、「あんた、近藤さんでしょ?」と言うから、「はい」って言ったら、「私と一緒においで。」とか言って、連れて行って事務所に、連れてってくれたの。ほんだら、それが社長室だったの。で、社長が僕を待ってたの。

インタビュアー: ふーん、すごい。

近藤: うん、それでもう、だから、面接に入る時から、「この人間は雇おう。」と、この文章をよんだ瞬間、「あ、そうか、タッパーウェアのあの流された中に入ってた一人なら、これはやれるだろう。雇おう、と思った。」って言うのよ。

インタビュアー: すごーい。

近藤: ところが僕が面接した時に、「何か希望があるか?」と言うから、「僕は年齢がこういう年齢で、もう結婚をこれからしないといけない。そしたら自分で家を構えないといけない。そして車は絶対維持しないといけない。これだけのことを、と、生活をやっていくのには最低これだけ必要だから、これだけはほしい。」っていった金額を僕は、もう用意してたのよ。うん。それがどんな金額かは知らずに。そしたらそれを社長が見て、「これは到底出せる金額じゃない。」と。しかも、大卒でもこれだけのお金は出せないと、いう金額だったの。それが障害者でしょ? うん。だから、あぁそうですかって言って、「失礼しました。また何か機会があったら。」って言って、出ようとしたら、「そちらの言うことだけを言いに来たんじゃないだろう。こちらの言うことも聞かないのか。」言われて怒られた。

一同 (笑)

近藤: ほいで、「ごめんなさい。」言うて、社長の言うことを聞いたら、「そちらがそれだけのこと言うのなら、こちらにもそれだけの金を出すのなら、これだけのことをしてくれたら出せるぞ。」という案を出すっていうわけ。そう、それは1ヶ月絶対、1日として休まないこと。それと、1ヶ月に30時間を最低の残業時間。うん。それと…、

インタビュアー: ふーん。休まないって、例えば日曜日ぐらいは休みって意味ですよね? 

近藤: もちろん、もちろん。

インタビュアー: あぁ、びっくりした、うん、うんうん。

近藤: そしたら皆勤手当を出すと。うん。

インタビュアー: あ、それで、まぁ。

近藤: 皆勤手当を出して、それと、今まで出してないけども、それだけのこと、えっとね、もう一つ何かあったような気がしたな…。皆勤手当と…、あ、こちらの言う仕事してくれと言われた。いや、あのね、やっぱ下からこう順々に、新人から、与える仕事が違うじゃない。うん。下の仕事を与えてだんだん上がって行くようなんじゃ、到底そのお金が、そこまでいかないから、真ん中へんからすっと入らせて、レベルを。その代わりやったことのない人の経験をいっぺんに身につけないといけないの。だって1ミリの1万分の1をこの指先で削り出す仕事だもの。しかも向こうは障害者を知らないじゃない? 卓上旋盤っていうこのくらいの旋盤機を抱えるようにして、ほいで指先でこう…って、ここで仕事するわけ。で、この体勢を車いすじゃつくれらないわけ。元気な人なら自分の体を持っていってこう、やれるけど、僕はやれないから。車いすから椅子に乗り移ってその椅子も、自分で設計して、高さから大きさから幅から。で、こう、なれる体勢に、うん。そしてそれを乗り移るために、その椅子をその下のコンクリを穴開けて、そこに埋め込んでしまう。

[01:17:55] 

インタビュアー: あぁ…。固定するってことですね。すごいな。

近藤: そう、固定するの。で、だから障害者の一人ひとりが全部違う椅子なのよ。その人に合わさないといけないから。そいで自分でそれをやったわけ。自分の椅子を作って、自分でやって。で、向こうが言う、休んだことはゼロ。そしたら皆勤手当プラス特別手当をつけてくれて、という風になってね。えぇっと、1年半、やったんですよ。そしたらもう、いっぺんに信用を得た。そりゃ、だって、ほら、体力には自信があるじゃない。

インタビュアー: そうですね。鍛えてるもんね。

近藤: ね、だから本当にその時は、何でもできる気に、自分が、車いすに乗ってやるのなら何でもできるような気になっちゃうな。そう、そこ、一番体が充実してたんだ、うん。そして、えー、2年目に、ある1通のハガキが来るんだ。そのハガキはかってタッパーウェアの時に、えー、神戸と…、神戸・大阪かな、関西汽船っていう船があって、それにタッパーウェアが仕事で乗ってる時に、その甲板で、ある一人のお医者さんと出会うわけよ、僕は。で、長いから、甲板に気持ちがいいから出てたら、人が近づいてきて、色んなこと話し合って。「ところで、君たちのことは新聞などで読んだことあるから。だいたい知ってるけども、そんな格好のいい目立つところだけしなくって、もうちょっと広い立場で考えて…考えられないんか。」って言われて。何のこと言われてるか分からなかったのよ。そしたら、その、精神医だったわけよ、その人は。かなり日本でも有名な。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: そして、その「自分は、高千穂と神戸とどこやらに精神病院を持っている。」と、うん。で、そういうところなら、その、君たちがやってるそれだけの体があったら、当然仕事があると。やれる仕事があるんだと。「でもそういう所はお前たち嫌だよね。」と言うから、「いや、私たちが嫌という以前にそういう情報がないから、私たちは施設で、もう何もできないものとされてきてるんです。」っていうような話をしたわけ。そしたらその先生が、その時、何を感じたかは後で分かるんだけど。えー、何年…、タッパーウェアの時、の、その船上で話した先生が、オリオン精密の時に、僕たちに…僕にハガキをくれて、カンボジア…、うん、カンボジアに行くようになったと。で、「近藤、お前は俺について行ってくれるよね。」って、こうなのよ。えらい高飛車なの。で、カンボジアの国に、国立病院をつくるのに、精神科をつくりたかったと。ついては精神医がいないから日本から呼んで、国賓として呼んだと。だから院長になるわけ。うん、で、ついては、その…日本人を5人ぐらい、5、6人ほど連れてきていいよと言われたと。だから是非その中の一人にお前なってほしいと。だから「来てくれるよね。」と、向こうも、ものすごく高飛車だったわけ(笑)。 

インタビュアー: 何なんですか、それは一体? 

近藤: ほして、僕は行こうと決めたわけ。そう。「先生行きます。」って答えちゃったわけ。

インタビュアー: カンボジアに? 

近藤: カンボジア。そして、もうすべて、清算して、会社のことをね、清算して行こうとした時に、ちょうど、えー…、障害者のスポーツ大会が、風祭というあの…、箱根の入り口に風祭ってあるんだけど、そこの療養所で、全国の障害者のスポーツ大会が開かれる、というので、僕たちはもうスポーツのことなら全部、仲間が全国網を持ってたから、「そこ行ったら皆に会えるんだ。」と思っ…ていう気になって。「俺もうカンボジア行くから、これが最後になると思うから。」というて「挨拶に行こう。」と思ったわけ。その途中で事故を起こしちゃうわけ。

インタビュアー: えー…。

近藤: その時はもうね、自分で、えー…、アパート暮らししてるわけ、一人暮らしを。自動車も持って。自動車はタッパーウェア買ってくれたから。うん。で、免許も取らしてくれたんでしょ。そう。で、アパート暮らしして、で、アパートのご飯が、えー、女子大生、北海道から東京に来たいう女子大生が、あの、アルバイトを求めてて、その子に、夕食、品物を買ってきて作って一緒に食べて、後片づけて、ほして家まで夜は僕は車で送るということで、月なんぼって契約をしてた子がいたわけ。その子が、その、「障害者スポーツを見てみたい。」って言うから、うん、「じゃあ一緒に行こう」と言って乗せたの。その子が自動車事故で、顔から何から血だらけになっちゃったわけ。あの、僕たちはブレーキが…、押したらブレーキ、引っ張ったらアクセルという手動式ブレーキ乗ってるじゃない。それが折れちゃったの。246号線とそれから高速道路が上へ通ってる、この交差した、この下にあった、246号線の信号で、僕がブレーキかけたら、グーっと入っちゃって折れちゃった。そして前の車にボーンとぶつかって、女の子が、助手席に乗ってた女の子が血だらけになっちゃった。で、ところがカンボジア行くために、もう金から何から全部用意する方に費やしてるから、何にもないわけ。どうしようもないじゃない。

インタビュアー: どうしようもないですね。どうしたんですか? 

近藤: そしたら会社が、見るに見かねて、「こちらの要求を聞いてくれたら、女の子の整形手術まで全部見る。」と、いう約束をしてくれたわけ。それでカンボジア行きは頓挫しちゃったわけ。そして神戸にいた先生に僕は謝りに行ったわけ。自分の不始末から交通事故を起こして、こうして行けなくなりましたって。で、ついては、その会社がね、会社が見ていいよと言われた条件は、「残ってくれ。」と。「残って、会社の言うことを聞いて仕事をしてくれたら、女の子に保障は全部会社が見る。」ということが条件だったの。それを飲むより仕方ないわけよ、もう。

インタビュアー: そうですね。

近藤: そう。そして…会社が出した、あの、僕に対する要求は、近藤さんは全国をも歩き回ってる障害者だったから…、広い庭があったのね、まだ、工場の、続きの庭が、空き地が。そこに障害者を、…が、10人入れる…、僕を入れて11人入れる寮をつくってくれと。ほして、「あんたが知っている全国の障害者の中から10人を雇って連れてこい。」と。で、「そこで生活をして、あなたが持っている今の技術を彼たちに教えてやってほしい。」と。うん、ということが条件だったの。それ飲まざるを得ないわけ。飲むより仕方ないわけ。それでやりましたよ。

[01:26:02]

インタビュアー: じゃあ、あれですか。パラリンピックの時の、知り合った障害者の人たちを呼んで来たってこと? 

近藤: いや、タッパーウェアの時、全国を回ったりしてるじゃない。

インタビュアー: あぁ、そっかそっか。施設も巡ってますね。そうか、それで、声をかけたんですか。

近藤: そう。そしたら来たい言う人間がいた。いるし、それから僕は僕でやっぱり、もうその頃から障害者運動の芽は自分の中にあったからね。施設にいながら出られない障害者。力は十分持ってる、っていう。それを、茨城県かな、どこかの施設にいたわけ、女の子が。で、その女の子には、あの、身内がいなくって。で、体がわりあい丈夫で…、だったんだけども、重度施設で管理人のようなんさせられてた。ところが生活は施設だから、施設の中の一人よ。で、生活しながら、うん、役割的には皆の責任を取るような。彼女はそれを嫌だ嫌だ言うけども、その頃障害者は外へ出ることができなかったから。自分は親も兄弟もいないから出られないと思ってた。そういう人がいたから、それを。で、施設は離さないから、「施設は言ってもダメだった。」っていうから。「じゃあ、夜逃げしよう。」と「俺が手伝うから。」と言って、彼女をさらってくるんだよ。そう。そしたら大騒動になった、それが。

インタビュアー: その人はどこの施設の人だったんですか? その、女の人、さらった人はどこの施設だったんですか?

近藤: うん、だから、茨城県だったと思う、の施設に…障害者の施設に入ってた。

インタビュアー: へぇぇー。でもその人は別に恋愛感情はなかったの? 

近藤: 何関係? 

インタビュアー: 恋愛感情はなかったの? 

近藤: 全然、そんなの。

インタビュアー: そうなんだ。ただ、まぁ彼女の…

近藤: そう、それで僕が連れて。あの、僕に家族の背景がないから、やる言うたらとことんやれるわけ。責任は私が取ればいいんだから。

インタビュアー: うん、誰かに迷惑かけないですもんね。

近藤: ない。ほいで会社から、会社にはもう寮、自分で設計して、自分でつくっちゃったわけ。そう。そこに連れて来るわけ。ほいで布団から何から全部もう用意してあるから、体と着る物、日常の服装だけあったら、もう、生活はできるように。自分で、会社が任せてくれたから全部つくっちゃったわけ。それは、障害者雇用で厚生省から表彰を受けた。

インタビュアー: へぇぇ、すごい。

近藤: 優秀法人として。だって10人の障害者をいっぺんに雇うんでしょう? しかも寮までつくって、そこで完全にみるわけじゃない。

[01:29:06]

インタビュアー: 何かダートさんを見るようですねぇ、ちょっと。

近藤: いや、僕の中には、やっぱりダートの血が流れてるから、ダートが「お前たちにお金をかけたけども、これはお前たちにかけたんじゃなく、日本の障害者にかけたんだ。」っていう言葉を残してアメリカへ行ったから。だから残ってるわけよ。だからもう、やるわけ。

インタビュアー: うん。そういう精神がね。

近藤: そしたら施設の施設長は、「ね、何々さん、あなたは騙されてるんだ。」と、「近藤が結婚する言うて連れて行ったんだろ。」というわけ。で、本人は「そうじゃない。」と言うわけ。「そんな話、近藤さんとしてない。」って言うけれども、「いいや。お前を引っ張り出すにはそれしかなかったはずだ。」と。あれだけあの、役割を、高い役割を持たされて、給料まで出されてたのに、そこを引き抜いて連れて行くっていうのは結婚相手しかなかったはずだ、って。

インタビュー ふーん。     

近藤: 「近藤さんとそんな話したことない。」って言うわけ。ところが、「嘘だ。」って、「絶対あったはずだ。」って言うわけ。で、僕はそんな話した覚えもない。うん。とことん、彼女は、やっぱりおしっこ系統が、すごい大きな、それと、癲癇。

インタビュアー: じゃあ大変ですね。

近藤: だから、癲癇があると、倒れるじゃない。

インタビュアー: そうですね。

近藤: だから倒れた時の措置とかいったら、慣れた人にしか自分を任せられないと、いう気があって、「自分はここから離れられない。」と思ってたのよ。それを大丈夫だと言う僕の言葉を信じて、でも向こうは「出られないよ。」って言うから。「あなたに本当に出たいという気があるのなら、うん、もう体だけでいいから、さらって連れだす。」って言ったら、「それなら私できるから行きたい。」って彼女(?)。そしたらすぐに連れに来た。で、大問題が起こった。しかし、会社は完全に僕に、僕の側に立ってくれた。「近藤はそんな約束するはずない。」と。「もう、何年間か付き合ってるから分かってる。だから近藤の言うことを私たちは信じる。」と。「だからあなたが訴えるんなら訴えなさい。しかし本人がここに残りたいと言ってるのを反対して連れて帰ることはできないでしょ。」と。

インタビュアー: そうですよね。

近藤: 「本人が嫌と言うのを連れて来たんじゃないんだから。」って言ったら、うん。とうとう施設長は帰って行った。

インタビュアー: ふぅん。

近藤: うん。そうまでして、ある境遇にある障害者を、あの…、社会の社会人として受け入れるというような、そういうその、ことにも、何も怖いことはなかったのよ、僕は。そういう人にこそ、僕が持っているチャンスを使ってほしいっていう気があったね。だから12人(ママ。10人の誤り?)自分で雇って、ほいで、彼たちを駆使して、車いすバスケットチームをつくって。

インタビュアー: つくったんだ、へぇぇ。

近藤: そして県体に出て優勝もした。

インタビュアー: ふぅん。何か本当ダートさんですね、すごい。

近藤: そう。だから、そして厚生省から障害者雇用で表彰も受けたし。うん。そんなことは僕の知ったことじゃなかったから、それは会社任せにしてたけども。実は後で、うん、事務所にこの額がすぐ掛かって、で…、教えてくれたね。

インタビュアー: それがオリオン精密にいらした時に。 近藤: それがオリオン精密。そして彼たちの給料も僕は決められた。昇給も僕が言う通り出すからって言われて。そのくらい、成績が上がったのよ。 インタビュアー: あぁ…。すごい、ですね。 近藤: 今までの会社では、あの…、ここまでのこれ以上の成績はなかったいうところまで、障害者の成績がどっと上がった。雇うことによって。そのかわり、彼たちを僕が約束したのは、「みんな、すぐ免許取って車に乗ろう。」と言うたわけ。なら彼たちは喜んだ。で、瞬くうちに免許取った。そういうことができたのよ。そしてみんなに車を持たしたの。

インタビュアー: すごい、もうここ、今ダートさんになってるところ。(笑)近藤さんが。

近藤: それが、彼たちの、障害者の、また仕事意欲を駆り立てるじゃない。そう。ほいで、10人いた10人、8人ぐらいが車を持ったから、車は到底お金がないから買えないと皆思ってるから、僕は計算して、だって僕は給料のあれを作って出してんだから。ほいで、このくらい1ヶ月に残業したら、このくらいの金になるから、このくらいずつ払っていくのは可能だからっていって計画立てたら、皆がバリバリ仕事をするわけよ。

インタビュアー: あぁ、先が見えるからね。ふぅん。

近藤: そう。そしたらホンダを皆が買った。

インタビュアー: ふぅん、トヨタじゃなかったんですね。

近藤: ホンダは、1週間にいっぺん会社に、あの、職員を回して、で、整備してくれてた。だっていっぺんにそれだけ売れたんだもの。しかも所沢の田舎ででしょ。そう。そういうことを、そこではやったわけ。ところが、時代が変わっていって、彼たちが僕のレベルまで仕事を覚えていくじゃない。そしたら僕を越える仕事ができる人も当然、その中に入ってるわけ、優秀なんが。そしたら僕は、僕以上の技術を彼はやれるから、あの大きい機械を…、の操作を彼に教えてやってくれと。卓上旋盤までは全部僕が教えたから、これの上を教えてやってくれ、私は知らないからって言ったら、私以上の仕事を障害者に教えようと、会社がしなかった。

インタビュアー: あぁ…。ふぅん…。

近藤: つまり、僕を頭に置いておいて全てを統制させたかったんだろうと思う。でも僕は、僕以上の技術を当然身につけられるレベルを持ってる人間だからいうて、2人推したのよ。そしたら2人とも教えてくれなかった。僕以上は認めないような言い方があって。で、それだけ僕がネックになるなら辞めますいうて、ポンて辞めちゃった。(笑)

インタビュアー: あ、それで辞めたんですか。

近藤: そう。僕がね、

奥平: どこを? 

インタビュアー: オリオン精密。

奥平: あぁ。

近藤: 僕がみんなの足を引っ張るようじゃ、申し訳ない言うて、もうパンって辞めた。その時に、車いすの、あの、会社を作らないかいう話がもう来たから、もう渡りに船というばかり、そちらへポンと移った。あ!という皆がもうびっくりして、「何で近藤さんが辞めるんだ?」と。他の障害者の誰かが辞める言うなら分かるけども、「近藤さんが辞めるって本当かよ。」と言ったぐらい、僕はポンと辞めちゃったの。足を引っ張ったら申し訳ない言うて。そう。

インタビュアー: ふぅん。その時にじゃぁもう、話はでも、車いすオーダーメイドの会社ってのいうのは来てた。

近藤: そう。そういう話が来たの。「オーダーメイドで作ろうと思うけど、近ちゃんやらないか。」っていうような。で、僕はそれに飛び乗っちゃったわけ。

[01:37:12]

インタビュアー: それはどうや…、前の友だちですか? 

近藤: それは…、何だろう。誰から来たんだろう?うん。誰かが来たんだけどね。

インタビュアー: でも、知り合いでしょ? 知り合いから。

近藤: うん。来て。で車いすの障害者は僕一人だ…、障害者は僕一人だったのよ。

インタビュアー: うんうんうんうん。

近藤: 今から(?)作ろうとするメンバーだったから。ほいでその元の会社はオリオン精密行って、外資系の…、あ、外資系じゃない、アメリカに何かの機械を組み立てて売ってたのよ。そういう…、何を売ってたんだろうね、あの会社、つぶれたのは。恵ちゃん覚えてる? 

樋口: カセットテープ。

近藤: あ、カセット、カセットテープ。

インタビュアー: あ、そのドルフィンって言う会社?     

近藤: そう。

樋口: それでドルショックか何かで倒産したんでしょ。

近藤: そうだね。ドルショックか何かでつぶれて。ほして、これを市長が…、えー、代表がやりたいと思った車いす部門もあったわけ。うん。車いす部門…、何か人を集める段階だったわけ。その人間だけを残して、親会社が全部つぶれちゃったわけ(笑)。で、車いすのメンバーだけは残って、それからやり出したん。そういうところだったから、そこに恵ちゃんを呼んだから、男ばっかしの寮、に来たわけ、彼女は。うん。そしたらその、ご飯炊いてくれる人が、子どもを抱えて辞めていったわけ。そこに恵ちゃんが乗り込んできたんですよ。本当に苦労しました。

樋口: 乗り込んで来たわけじゃない。

インタビュアー: 引っ張られたんですよね。

樋口: ひっそりと入り込んだんだけど(笑)。

インタビュアー: (笑)

近藤: そう。僕が呼び込んだんですよ。

樋口: 私、ほらキムチなんか、あの、食べたことなかったから。田舎では、ないから。ほいでこう、一斗缶みたいなので売ってるでしょ。そいで、中から何か、地産市場とかそういうとこで買ってたんだけど、中からどわっとものすごいものが入って買って来るわけじゃない。ほいでせっせとそれを洗ったわけ。白菜のお漬物、糠漬けを食べる感覚で。そしたら、みんな激しいブーイング。

インタビュアー: (笑)え、キムチの赤いのがみんな無くなっちゃってこと?洗って。

樋口: そうそう、そうそう。

インタビュアー: (笑)それはブーイング…、

樋口: 激しいブーイング。で、ちょっと、きっと韓国、在日の人も一人いたみたいで、その人はお味噌汁にもこう、七味かけて食べるような人だったから。だから激しいブーイング(笑)。

インタビュアー: 大変…。

近藤: それとか、何を作っても新聞読みながら食べる寮長が、うん。そしたらハンバーグを真っ黒く焦がしたやつを寮長に食わせるわけ。ほしたら新聞読みながら食べるから分かんない。(笑)

インタビュアー: (笑) すごいなぁ。

近藤: そう、でも、恵ちゃん、恵ちゃん言うて、みんな可愛がってくれてね、すごくいい雰囲気だった。ところがその、バラックやから、あの…、ある時帰ってみたら、足跡が残っていたのよ、寮の中に。「え?ドロボウ!」って一瞬思ったけど、自分の足跡だったの。そのくらい、外から埃が入って来て、足跡がの…、入った後に足跡がはっきり残るぐらい、埃が入る寮だったんですよ(笑)。ほいで男ばっかりのところに彼女が入って来たという。

樋口: あの、何とかのからっ風みたいな、もう何か、荒野に立ってるような会社と寮だったの。だから、もう私なんか高知で育ったのに、その寒いからっ風の中、洗濯物干すのなんか、もう大変でした、箱入り娘は。

インタビュアー: (笑)

奥平: 段ボール。

樋口: そうそうそう。段ボール(笑)。段ボールないから。

インタビュアー: その手前を、でも聞かないとね。近藤さんがやっぱり結婚を意識したのはどういう時なんだろうって。何か結構、最初からアプローチがあったっておっしゃってたけど(笑)。

近藤: そう。彼女は、いや、僕が知らなかったのは、彼女は大阪の大学に行き出したと聞いて。大阪言うたら、先ほど言った、兵庫、京都、大阪が僕の…、

インタビュアー: そうですね、領域ですもんね。

近藤: ね、営業範囲じゃない? だから、1、2ヶ月に一ぺんは必ず行ってるから、「じゃあ今度行ったら会おう。」ということになって。それが学校の前だったわけ。待ち合わせが。大学の。ところが、なんぼ車いすで…、だって彼女の寝たきりしか知らないから、歩いているとは思わないじゃない。ほいで自分が長い間車いすに乗ってるから、「車いすに乗ってるんだろう。」と思ってる気がものすごい強かったの。と、彼女もまさか僕が車で走るとは知らなかったもんだから、お互いがいるんだけども、違う目で見てるわけ。「あ、この子がそうか。」と思ったし、向こうも、「あ、この車がそうか。そうしたらさっきずっと何回かここを歩いたんだ。」という風に、そういう感覚だったの。

インタビュアー: うんうん。

近藤: そう。

インタビュアー: (笑)なるほど。

近藤: だから、で、彼女を車いすに、自動車に乗せて,走って、色々、色々、今の彼女の生活を聞いていったら、「もうここは自分が考えた大学じゃなかったから、もうやめようと思ってる。」と。うん。で、「もう1回家に帰って…、四国に帰って出直そうと思ってる。」って言うから。それなら、東京で、うん、大学はなんぼでもあるから、合う所があるんなら、うん、行ったらどう?って。

樋口: いや、やめるなんて言ってなかったよ。

インタビュアー: (笑)あれ?

樋口: 大学行ったら女の子が誰もいない、一人しかいなくて、私ともう一人。その人は地元の人で。だから二人しかいなくて。もう怖くて、怖くて、怖くて(笑)。そういうとこって明らかに運動系とか、ねぇ、あって。ほれで、何か授業が始まる前に、こう運動部の学生がどっと来て、勧誘、脅して…、とかしてて、怖い。もう本当に怖かった。

インタビュアー: そういう話をしたの? 

近藤: そうそう、車に乗ってね。走りながら。

インタビュアー: そしたら近藤さんは、可哀そうっていうか、大変だなぁっていうか。

奥平: (笑)

近藤: そう、それとか、「どこ行ってみたい?」と言ったら、「海が見たい。」と言うから。「じゃ海見に行こう。」ってな、走りながら、海を目指して走りながら話を聞いたら「すごいなぁ。」と思ったわけ。僕は大学とかそんな関係ないから全然知らない世界のことじゃない? だからあれやこれや聞いたら、「へぇー! そんなところ。」と言いながら。ほいで海が見えてきたから、「あ、海が見えてきた。」言うたら、「これは海じゃない。」って言うから。「え、何で?」ってなるわけよ(笑)。

樋口: 港でさぁ、油ぷかぷか、船もぷかぷかみたいな、これは海じゃござんせんっていうのが(笑)。

近藤: 彼女の海ってのは、この海じゃないとは言えない。

インタビュアー: 高知の海はきれいだからねぇ、そりゃそう…。

一同 (笑)

インタビュアー: この頃、だってちょうど公害とか、結構、ね。

樋口: そうそうそう。そうそう。

近藤: そうそう、そうそう。

インタビュアー: 工業地帯はもう油…

樋口: 光化学スモッグがよく出てて、それこそすみさんなんかは、「東京はいつもどんより曇って、大変なんだろう。」と思ってた。

インタビュアー: 今の北京みたいな感じだと思う。そうですよね、海汚かったでしょうね、確かに70年代。

近藤: だからそういう意味では、彼女は環境と言い、自分が志した大学の…が、こんなところじゃなかったという思いしてるから、うん。僕は全然、知らないよ、大学はどんなんがあるか。東京はたくさんあるんだから…、

樋口: いや、私は、大学を失敗したのは、あの、大学行く気じゃなくって、商業…だったから、そいで税理士を目指して、税理士で自立しようとしていたので。で…会計事務所に勤めて、そこで、あの、力付けて税理士試験を受けて、という風に考えていた。ところが、で、あの、夏休みに万博に大阪へ、友だちと見に行って、やっぱり世界が広がったから。あの…、というのと、それからその就職先のところから、あの、「辞めようと思ってた人がいたから、欠員で雇おうとしたんだけど、その人が『そんなに優秀な人が来るんだったら、辞めない。』と言って続けることになったから、雇いません。」と言われたと先生に言われ。私はその時、すごく正直に言われたままを信じたわけだけど。「それは、障害者だから向こうが断ってきたのだったのかもしれないな。」というのは、後々思った。うんうん。けどまぁ、自分が行こうとしてたところは無くなった、で、あの…、京都であの…、途中退学して高校、高校生にその学生運動が入ってきた時代で、べ平連とかあって。それで、そういう時期だったので、その、高校のやり方を粉砕するって言って、あの、頑張った人がまぁ私が好きだった人で。で、その人が京都に出ていってて、んでだからその万博で、京都・大阪を旅する旅を、親友と珍道中したわけ。

インタビュアー: (笑)

樋口: で、その時にその、彼にも会って、で、彼のお兄さん京大生で、とか言うので、そういう人にも会ってして。本当にこう、自由に生きてるっていうか、何かをするために学んでいるということにすごく感動をして。で、「やっぱり学校に行きたいな。」と思った時、受験勉強もしていない、し、まぁ、田舎だから学力もそんなに、あの、比べたらないんだろうと。で、職業訓練的な高校だったから、普通科だったらまぁ進学のための、あっただろうけど。だから、商学っていうか、会計学が学べて、推薦で入れるところ、っていうので、そこ。それと、まぁ、体力的に家から離れるのにまだまだ不安はあったので、東京とか一足飛びに行けなくて。

インタビュアー: あぁ、ちょっと遠すぎますよね。

樋口: うん。で、あの…、猫が危篤状態になった時も泣いて帰ってきたぐらいだから、(笑)大阪で、もう。大家さんっていうか、あの、電話番の人が、「どないしはったん?」って言うから、まさか猫が死にそうでとも言えないので。

奥平: (笑)

樋口: 「親友が亡くなりそうなので帰ります。」とか言って(笑)。

インタビュアー: 人間になっちゃった、親友(笑)。

樋口: 神格化されてね…、人格化されちゃって、うん。

近藤: そういう話を、この運転の中で聞くわけじゃない。それは、それはそれは僕の世界とは全然違う世界じゃない? 

奥平: 可愛いと思ったんだ、きっと(笑)。

近藤: うん。ぜんっぜん違う、あの、世界のことじゃない。

インタビュアー: そうですね、この家族の関係とかそういうものも含めてね。

近藤: ね。もう、ぜんっぜん違うわけじゃない? うん。で、僕は知らない世界のことだったのよ。そして、あの、結婚しないかっていう人は、何人いただろうか、数えるぐらいいたわけよ。

樋口: (笑)

インタビュアー: いや、だって女の人の影が色んなとこであるものね。

奥平: (笑)

近藤: いや、いや。それは本当にね、「何でそんな人が僕のところに来たの?」というぐらい、実は寮にね、その、結婚を目的として、寮に沢山の女の人が来たのよ。

奥平: 障害のない人? 

近藤: 障害のある人もない人も。

奥平: あぁ、へぇぇ。

インタビュアー: すごい(笑)。

近藤: そして、皆は、持て余したら私のとこへ全部回すわけ。

奥平: 持て余すって(笑)。

樋口: (笑) 

近藤: うん。ほんだら、これは写真…、写真もつけてくるじゃない? 「いや、この写真、これはすごいから、これは俺が合うよ。」とか言って皆が担当するけども、僕のところに回されてくるのが一番多いわけ。皆を回って一番最後僕のところに来るから。だから僕は処理役なのよ。

奥平: 処理って(笑)。

樋口: それは色恋沙汰の範疇じゃない。

奥平: 近藤さんのさ、若い時の写真ってある? 

近藤: うん、あるけれども、それはそれはもう、朴訥な、素朴な、子どもよ。

奥平: へぇー、見たい。

インタビュアー: うん。後で写真の日…、写真の時間を(笑)。

近藤: (笑)そういうことがあって、で、彼女と会うわけ。ほいで彼女は、僕の知らない大学じゃない? しかも、生まれから何から、全部知らないじゃない? ところが彼女のお母さんは、タッパーウェアのタッパーを売って回ってた時代があって。うん。彼女が、「お兄さんはタッパーウェアで働いていた」。もうピッとひっついたわけ。親は、母親は、

樋口: 保険の勧誘とかそういうのの、もんじゃない。あの、ボストンバックみたいなのにタッパーの容器を持って。

近藤: そう。で、しかも有名度が高いじゃない。うん。だから、「あぁそう、そういうお兄さんなの!」とこうなるわけよ。ほいで僕は大阪に来るたんびに、彼女に今度はいつ行くよ、今度はいつ行くよ、って毎回会うじゃない? そしたら、段々、段々惹かれるの当たり前じゃない。 そう。

樋口: で、タッパーは、中流家庭の奥様方が、あの、お茶会して、呼ぶならお茶会して、「ケーキ作ったわ。」「これはこれでこうやって作れるのよ。」とか、「このタッパー使えば電子レンジでこうやって作れるのよ。」みたいな、そういうのをやりながら広げていくわけだけど。こんな田舎でそんな余裕のある人はいないから、そうそう。だから、そういう人も売ってたんじゃないのかなと思うんだよね。

近藤: そういう意味じゃお母さんの受けは、もうできてるわけよ。

インタビュアー: うん、下地があった(笑)。

近藤: (笑)下地が、下地があった。

インタビュアー: (笑)反対されない下地があった…、

奥平: ほんと、タッパーに勤めてたなんて。

近藤: そう。

インタビュアー: うん。「あのタッパーウェアの!」って言う感じで。

近藤: そうそう、そうそう。

インタビュアー: へぇー。で、来る度に会ってたんだって。

近藤: そりゃあもう、大阪に来るたんびに、会う。今度京都で会おう、今度はどこで会おうという。彼女はそこへ電車で来れるわけじゃない? 僕は車でずーっと回るわけじゃない。そう。

奥平: で、ラブラブになってった。

近藤: それが、段々、段々、感情が熱くなってく。

奥平: (笑)いいねぇ。

樋口: お兄さんの会社の人が言ったこと。「僕は、一番高い買い物はこのホンダの車だよ。」って言ったら、「いやぁ恵ちゃんでしょ」って(笑)。どういう意味?! ねぇ! 

奥平: (笑)

インタビュアー: えぇ? どういう意味ですか、本当に。だって…、

樋口: お金がかかるってことでしょう?

奥平: 女はね。

近藤: いや、そりゃ、いやいや、いやいや。外国…、あの、大学に出したりするお金(?)。

インタビュアー: あぁ、学校行きたかったし。でも学校、親御さんに出してもらったんですよね? お金とか。

樋口: うん、まぁ。親も出してくれたし…、

近藤: 奨学金がね。

樋口: うん、奨学金も稼いだし。

近藤: 奨学金で僕は生活をしてたから、しばらく。

インタビュアー: (笑)

近藤: いや、それでないと、その、オリオン精密? 

樋口: いや。オリオン精密じゃなくって、ドルフィン。

近藤: ドルフィンは、その、あの…、ボーナスを目の前にして、さ、今日はボーナスの日だって言うんで…、

樋口: 昨日お伝えしたと思います。

奥平: あぁ、そうだね。障害者のためにいいことやろうっつって…、

近藤: 恵ちゃんも家でボーナス待ってるし。そのまんまそれをもらったら、あの高知へ帰ろうという約束までして、夢を見てるのに、社長はお金を積んだまま、「これがあるとねぇ、何々が助かるんだよね。」とかって言うわけ。

インタビュアー: 社長、上手だなぁ。

奥平: ねぇ、今もある? その会社。

近藤: あるよ。

奥平: 何、何? 何て会社? 

近藤: いや、車いすの会社よ。

樋口: ドルフィンって。

奥平: 同じ? 

近藤: うん。

インタビュアー: 何か、うん、誰か、マーク付けてる車いす乗ってた人見たことある気がします。

近藤: 皆がね、とうとう、何かしらんけど、当てにしてるんだけども嫌気が差しちゃうわけ。ほんでとうとう、お終いには紙一枚、うん。あの、株券のようになって、うん、これがなんぼなんぼで、うん、あの、投資したことになるわけ。ところがそのお金は帰ってこなかったけど。

インタビュアー: (笑) でも、今まで、ねぇ、会社が続いてるってことはその時のお金がね、ちゃんとね(笑)。意味を持っているということですよね。

近藤: 続いてる。うん。その最初をつくったんですよ。ま、それが、その、ドルフィンというところの。そして、やっていて2年目かな? …の時に、あの、ドルフィンは車いす屋でしょ? ほいで車いすで言ったら、市役所を回るじゃない? 福祉事務所に行って、仕事をもらい…、車いすをね、障害者に支給する、誰かありませんか?って営業、役所にして回るわけ。それで、そういう意味では役所な…、とか大きい病院には顔を出すのは、車いすの…、車いすに乗った営業マン、日本で僕だけだからね。すっごい目立つのよ。で、先生なども目をかけてくれて、「あれはもう当事者に任す方がいいから、近藤が来たらこの車はやる。」と言った。あの、大阪の病院なども任してくれるわけよ。そういう意味で、私は第1号だったのね、営業の。ほいで広範囲だったし、足があったし、うん。で、目立つ存在だったわけ。そう。

 それと同時に、ダートさんが、「お前たちにお金をあげたのは、日本の障害者にサポートがないからだ。」って言われたからいう、それを広げるのが役割だったから。例えば…、土曜日など午前中が仕事で、所沢で終わるじゃない? そしたら車に乗って、京都、大阪、兵庫に、今度はバスケットをしに行くわけ。その距離たるやものすごい距離でしょ? まだ高速道路がないんだから。東海道を上がってくるわけ。うん。そして、土曜日仕事が終わったら、すぐ車いすに…、自動車に乗って、来て、そして、えー…、土曜日の夜、からもう体育館を押さえておいてくれて、仲間が集まって車いすバスケットをやる。その中へ僕が入るわけ。

インタビュアー: へぇぇ。

近藤: うん。そして、えー、日曜日も朝から車いす(バスケット)をやって、夕方皆が帰って行く時に、「おお、もう今日はこれで終わろう。帰ろう。さいなら。」と言ったら、僕はそれから所沢に帰るわけよ。京都、大阪、兵庫から。皆は家に帰るわけだけど。そして所沢へ着いたら、もう、月曜日の朝、早朝になるわけ。そのまま駐車場じゃなく、もう会社の前に車をポンと停めたらぐーっと寝ちゃうわけ。そ、そしたらドンドンとドアを叩かれて、「近藤さん仕事だよ。」と言われて仕事を始めたら…、起きて仕事するわけ。

インタビュアー: へぇぇ。じゃその車いすバスケの時にも練習観に行ったりとかそういうのもしてたんですか? 

樋口: それは行ったりしてたよ。でもそんなになかったね。一緒になって、2年でもう公務員になって。そしたらもう目の前がどんどん色々忙しくなったから。

奥平: よく公務員になったですね。何か試験とか受けたんですよね? 

近藤: 何もない。

奥平: (笑) 有名人だったから…、

樋口: そうそう。あの、市長…いや、市長が特別に必要と認めて、入れた人材だから。2人ぐらいいたんだけど同じ頃に。

奥平: へえー。あ、あそっか。障害者? 

樋口: ううん。障害のない人と、兄さんと、うん、そのうち、それで。だからあの、すごい、大卒資格ぐらいの、39歳で入ったんだけど、38歳ぐらいの、あの、給料からスタートしたから、すごくよかったね。

奥平: あぁ、すごいね。よかったね。

インタビュアー: すごいですよね。

樋口: そいで、すごい、それからバブルがどんどん、さか…、広がって行く時だったから、入った途端、「え? こんなにお給料もらえるんだ。」って思ってたら…、

奥平: (笑)

樋口: 12月になったら、4月にさかのぼって、ベースアップ、がいくらいくらだからって。

インタビュアー: わぁすごーい! 4月にさかのぼって。

樋口: そうそう、だって、4月に入って、6月にはボーナスくれて、12月か何かにはそれで、ボーナスも出るし、3月には年度末手当も出るし。ほいで、ベースアップしたまま、前年の4月にさかのぼって差額金から出るし、みたいな。もうえらいこと!「何これ?」っていう。ほいで、買ってた車も仕事用に乗るから、月々8,000とか9,000円、その、私…、うちの車を貸してる、仕事用に、っていう計算で、燃料費とか。

近藤: そう。消耗品から何から全部出たの。お金にな(?)して。

インタビュアー: あぁ、そうなんだ。

樋口: だから、えらいことお金くれるもんだなと思って(笑)。それでだから、すぐに土地買ったし。

一同 (笑) 樋口: 畑だったけどね。

奥平: 安かった? 

インタビュアー: その勧められたところ。

樋口: 安かった。17万ぐらいで買った。

奥平: すごい!

樋口: 坪。

奥平: すごい。あ、坪か(笑)。

近藤: 3軒家を建てたけども、ローン組んだこと1回もない。

インタビュアー: あ、そうなんだぁ。

近藤: 全部この人が経理です。経理担当ですから。

樋口: あの、30何万ぐらい…、30万ぐらいの時、17万かなんかで買って…。

奥平: でも、その市長、すごい、よかったですね。出会って。

樋口: 今、何かボケ老人になっちゃってて。あの、「大下勝正さんという人が行方不明になってます。」って、あの、ほら放送して。

インタビュアー: うん。え、町田で? 

樋口: うん。

インタビュアー: あらぁ…。そんな風になっちゃったんですか。

近藤: だからその時の市長なのよ。

樋口: そうそうそう。だから奥さんが結核…、市長も結核だった時期があって、そこで知り合った人と結婚してて、その奥さんが先に亡くなって。で、「女房が帰ってこない。」と言って探して歩いて、そいで行方不明になっちゃうみたいな。うん、感じで。子どもがいなかったからね。独り暮らしになっちゃって。

近藤: しかも元市長だから名前、皆知ってるじゃない? 

インタビュアー: そうですね。

近藤: だからその、マイクで流されて、「大下勝正と言う人が…、」

インタビュアー: 放送されちゃうのがちょっと。

樋口: いやいや、だからすぐに見つけられるっていうか。

インタビュアー: あぁ、町はそうですね、町ぐるみでね。

樋口: 「えぇっ!」て言って、あの、皆気をつけるから、見つかりはするんだけど。町田はまだね、東京のチベットじゃないけど(笑)、ね。すごい、あの、山…、もあるし、するから、変なとこ入っちゃったらねぇ。

インタビュアー: そうですよね。

奥平: ねぇ、その市長さんとどうやって出会ったんですか? 

樋口: だから、市長は、誰かそういう、「車いすと緑で歩けるまちづくり」を推進するために、地域にある施設に行っても、あの…、用がなさないというか。やっぱり、そういう障害のある人が、ちゃんと雇ってなきゃいけないという風に、雇用促進法があったかどうかは分からないけど。

近藤: まだない。

樋口: そういう風に思って、「誰かを探しなさい。」と言っているところで、その、車いす市民集会の第1回というのか0(ゼロ)回というのか…、が仙台で開かれて。そこに係長が他の仕事で出張に来てて、覗いて。そしたら口角泡を飛ばして、近藤さんが喋ってて。ほんで白羽の矢が立ったというか。

奥平: (笑)あぁ、そうなんだ。

近藤: で、その市にも、福祉事務所に僕は注文取りには行ってたわけ、営業だから。

奥平: あぁ。あ、車いすの? 

近藤: うん。

インタビュアー: ふーん。なるほど。

奥平: でも、じゃあ、すごい人との出会い、ラッキー。

樋口: そうだね。

近藤: すっごいラッキーな出会いよ。そりゃ、恵ちゃんの出会いも大きいし。

樋口: うん。それで、公…、公務員、「公務員嫌いだから、僕、どうしよう。」ってか、「いや、嫌いかどうかやってみて、嫌だったら辞めればいいんだから、トライしてみようよ。」と言って、説得しまして。

[02:02:58]

インタビュアー: ふーん、それはやっぱり、やったら色んなことできそうとか、そういう。

樋口: うん。それもあったし。

奥平: 安定もするし(笑)。

樋口: ただ、ほら、小学校しか卒業してないって思いがあるから、だけど、そんなことは、大人になってみればそんなに関係ないことじゃない。卒業証書は必要、かね…、あの、バリューがあるかもしれないけど。経験とかそういうのからすれば、ね。別に問題ないし。ま、

奥平: そうだね。

樋口: うん。だから、まぁ、「トライしましょう。」と言って。「じゃ、やってみるか。」って言って、入ったらもう怒涛の中でしょ、入るなり。あの、福祉環境整備要綱のあれをつくるとか、色々まちづくり、再開発スタートして。

近藤: 第一、ヘルパーさんの係に回されたのよ。で、ヘルパーさんって女ばっかりじゃない? その中に僕、男一人入れられたわけじゃない。で、皆はヘルパー歴が長いから自信持って仕事するじゃない。で、僕はヘルパーのこと言われても分かんないじゃない? で、そこの係長のようにならされたもんだから、女の人が嫌いになったんですよ。

奥平: えー! 突然、係長で。

樋口: ちゃうちゃう。入ったばっかりじゃないよ、それは何年か経って。

近藤: ちょっとしてから。うん。

奥平: え、でもじゃあ、その、39で入ったんだっけ? 市役所に。それはもう、職員として、あの、入ったの? 

近藤: そう。

樋口: そうそうそう。

奥平: それも、すごいよかったですね。

樋口: そうそう、だから、だから臨時とかそういう、ねぇ、あの、パートじゃなくって、

奥平: 嘱託とかさぁ。

樋口: ちゃんと正職員で入ったから。

奥平: すごいそれ、いい人だわよ。

樋口: うん。それとまぁ、そう、そういう寛大な時代でもあったというか。

近藤: 一番、寛大な時代の一番最後だったのね、もう。

樋口: ていうか、近藤さんが入社して、就職した年が142人か何か、採用した、市役所が。だから町田市もどんどん大きくなってて。こう、ほら、土地はいっぱいあったわけだから。そこに団地とか建てたら5万人とか増えたりとかするぐらい、すごい団地をどんどんつくってた時期だから。だから職員も必要で、どんどん採用してった時期だし、お金もそういう意味で、その、今みたい厳しい状況ではなかったから。

奥平: その時はすでに、その時は町田に住んでたの? 

樋口: ううん。だから、だからその、それこそ町田で働くことが決まったから、あの、決まった途端に一所懸命、あの、家を探しに行ったけど。やっぱり障害者だから貸したくない。で、「貸したくない」とか「貸せない」とかは言えないから、あの、えー、「じゃあ見に行ってください。」と言い、私たちが不動産屋さんから、現地見に行ってる間に、不動産屋さんからは連絡が入って、「こんな人が来るから、嫌だったら、あの、決まったとか言ってくださいね。」みたいな感じなんだろうと思うんだけど。とことん断られて。で、市役所の人に口きいてもらっても、断られるっていうことで。ほいで、もう引っ越ししたのが3月27日か何かで、そこまで見つからなかったわけよ。

奥平: どれぐらい? 半年? 

樋口: 半年もはかかってないけど、3ヶ月はゆうにかかって。そいでも見つからなくって。で最終的に見つかって、その、3月27日引っ越したところは、あの、後で分かったのは、大家さんの老夫婦が、お嫁さんと上手くいかなくって、その自分とこの、ね、持ってる借家に住んでて、ほいでガス爆発を起こして。ほいでこう…あの、火傷だらけ。大家さんのおばあちゃんが、あの、眉毛とか付けてるところみたいな補修をしてるところ、ていうような感じだったけど、まさかその、私たちの住んだ家でそれを起したとは思わなかったけど。

奥平: 訳アリ物件ていうやつ? 

樋口: そうそうそう。だから他の人には貸せないから。だからよ。障害者なのよ。

奥平: (笑) 訳アリ物件だったんだ。

樋口: すごいでしょ? すごい時代。うん。びっくり。襖がね、襖にこう、カレンダーとかが貼り付けてあって。昔よくやったじゃない? ほいであまりにみっともないと思って、私は変えようと思って、バリバリっとはいだら、焼け跡が見つかって。ほいで、二軒長屋ってこう、あの、半分こしたような家だったから、こっちの人に聞いたら、「あ、やっぱり知らなかったのね。」って。「そうだったのよ。」って。お風呂付けようと思ってやったら、ガスが漏れてて、それでバッと焼けた。

奥平: で、ちゃんと修繕はしてあったんですか? 

樋口: だから、ほら、そんなに大きな火じゃないから。火事になるようなもんではないけど、瞬発点いた時の火でこうやったという感じだから。奥、深くはないだろうけど、まぁ、顔は相当、崩れてた。「うわぁ。」って思って。「はぁ。『だから人には貸せないと思ってほっておいたところへ、まぁいいか。』みたいに。『そんなにいっぱい探してもないんなら、いいか。』みたいなことでだろう。」と。

近藤: 市役所の人ってのは地の人が沢山、職員になってるじゃない。そんでその、僕を雇ってくれた福祉の係長もその、地の人で、親戚が不動産屋をやってるのよ。ほして僕の職歴を係長は知ってるじゃない? そしたら、4年に一つずつ変わってたらしいのよ。ほいでもう4年ぐらい経ってるから、辞めるんじゃなかろうか思って冷や冷やして、「近藤さん土地買わんか。」言うてある日言うから。「土地?!」だなんて考えてもなかったの。「お金もないし、そんなの買わないよ。」って言ったら、「いや、知らないんか。じゃ、組合に入ってるから、」…あの…、 奥平: 借りられる… 近藤: そう、借りられて、あの、「土地、いつでも手に入れられるんだよ。」って。「実はいい所があるんだけどね。」と言って。言うのは、その自分の親戚筋が地元の不動産屋だったわけ。後で分かってみると。それで、彼は僕を落ち着かせるために、勧めたかったのよ。ほいでとうとう僕は…、お金もないのに。うん。「じゃあ手続きしたらいいの?」と言うたら、「うん、手続きも俺がするから。」いうて係長言うから、全部任して土地を買ったわけ。(笑)

[02:09:52]  奥平: で、しっかり者の恵ちゃんがやりくりし。

近藤: そう。 樋口: そうそう、お金なかったわけではない、もう。だって、すでに、ねぇ、どんどん来るから。

一同 (笑)

奥平: どんどんって(笑)。

インタビュアー: 貯めといて。

樋口: そうそう。

近藤: でもそんだけ、そんなことは考えてもなかったからね。土地を買うとか家を建てるとかっていうの。またその…

インタビュアー: 結構、場所的にはじゃあそんなに悪い場所じゃなかったんですか? 「買ってもいいや。」みたいな。

樋口: ん?  インタビュアー: あの、場所的にその…

奥平: 駅からちょっと遠いよね? 

樋口: 遠い。遠い。相模原に近いし。相模原との境界地区だったから。

近藤: だったねぇ。夜帰るとね、森が近くにあるの、すぐ近くに。その森に自動車のライトがこう、曲がって行くじゃない? ほしたらずーっと、ぴゃっと光るの、タヌキの目。

インタビュアー:&奥平: (笑)

樋口: キツネじゃなかった、あれ? 

近藤: タヌキ。うん。

奥平: まぁ、どっちだっていいけど、動物(笑)。

樋口: (笑)

近藤: 本当にね。もう、ある時期になったら、雉の子どもが畑の中、パパパパパーッと走って行くのが…、

樋口: だってほら、『平成狸合戦』とか。あのモデルは多摩市でしょう? 

インタビュー そうかぁ。

樋口: そう。そう。その流れの。

奥平: 何かだって私、そこ遊びに行く時、必ず近藤さんが迎えに来てくれて、車で行ってたよね。

樋口: そうそうそう。

インタビュアー: じゃあやっぱり、ちょっと車がないと不便なところですか。

樋口: でもまぁバスはあるから。バス…、町田はバス路線が全国でも多い方の有名な地域で、バスは完備してたから。うん。バスはいっぱいあった。

奥平: 何かでもその頃から私、結構、あこがれだった。その、可愛いお家。

近藤:&樋口: (笑)

インタビュアー: 最初は畑だった土地が、っていうやつですよね? 

近藤: そう、畑の中の一軒家ね。

樋口: 最初はね、私たちが買ったと思ってた土地は隣の人の土地で。

インタビュアー:&奥平: えーっ!! 

樋口: (笑)一所懸命、歩数、歩いて、歩数数えて。うん、何センチ、何メートルもあるね、と言いながらさ、楽しんでたのよ、畑。畑の時は。だって家建てられるわけじゃないから。そしたら隣、ってか、近所が一軒建ってて、「あれ? 建てられるの?」っていう感じになって。ほいでちょっと遠くから、あの水道管とか排水管とか引いてこなけりゃいけないけど、建てられるってのが分かって。そいでどんどんと建てる方向に動いてったっていうか。

インタビュアー: あ、じゃあ買った時は畑の土地として買ったんですか? 

樋口: うん、そうそう。うん。

インタビュアー: ふーん、そうなんだ。

近藤: 畑としてじゃなく、畑を宅地にもう変えられてはいたの。

樋口: 変えられてなかったんじゃない? 50坪区画で、こう、区切ってはいたけど。きっと財産分与とかそういうのがあって、そういう時にはこう、税金を払うために売って行くみたいな土地だったんだと思う。だから売りに出てて。で、お隣の人はもっと前から、もっと安い時期に買ってたから、せっせと畑にして使ってて。…ていうのがあったんだけど。

インタビュアー: さっき知的障害の人としばらく住んでたっておっしゃってたのは、それの前のですか? 

樋口: うん。あの…、えっと、それはね…、市役所に入ってすぐ、知的の人たちの青年学級っていうか、社会教育の関係で、あの、えっと、だいたいみんな、特殊学級とかの中学を卒業したら、どっかで働いて、家でテレビ見るだけの楽しみしかない人たちの親が、あの、障害のある子どものための、あの何か余暇活動をしてください、っていう風に社会教育の方に働きかけがあって。ほいで社会教育課の人が、「福祉の人と一緒になってやらないと分からないから。」ということで、近藤さんともう一人、あの、すごく福祉で頭の切れる人とを入れて、一緒に検討して。あれもう翌年ぐらいから始まった? お兄さん、入ってね。

近藤: そうそう。

樋口: うん。で、日曜日の青年学級ってのが…、月に2回の日曜日の青年学級ってのが始まって。で、そこへ来ている人の中で、あの、やっぱり家庭的に問題があって。あの、本人の満たされない思いとかで、こう、家出をしたりとか。そうすっと、父親が折檻をして虐待っていうかね、折檻っていうか。そういうので、ていう悪循環をしてる女の子がいて。その人を預かって。何ヶ月か、

近藤: 家庭暴力があってね。

樋口: 一緒に暮らしたんだけど。うん。

インタビュアー: ふぅん。その時はどこに、爆発したお家に住んでたとき? (笑) 

樋口: ううん。その時その爆発したお家は4畳半と6畳しかなかったから、ここじゃ無理だと言って、市が、あの、市の公営…市営住宅の、古くてもう人をいれないっていうような所が空いてたので、ほいで広い庭があったので、そこに6畳のプレハブを加えて。

奥平: えー! 

樋口: で、6畳と、6畳と4畳半かな。で、台所とお風呂とトイレっていうようなことにして。そこで彼女を預かって、一緒に暮らしたんだけど。だけど彼女はもう、何ていうか、愛に飢えてるわけだから、もう襖に耳をくっつけて何ごとも、っていう(笑)。

奥平: あぁ、近藤さん達二人の会話を。

樋口: …ていう感じで。

奥平: へぇぇ。

樋口: で、何ていうか、色々トラブルを起こして。「構ってほしい。」とか、いっぱいどんどん出てきて。

奥平: いくつぐらい? 

樋口: 私が25ぐらいで、その人も23とか。

奥平: あ、そっか。

インタビュアー: あー、あんまり変わんないね。

樋口: そのぐらいだから、余計にほら。相手としても、「私だって。」みたいな思いがあるし。で、

奥平: 「結婚してるし。この二人…、」

樋口: なかなか、なかなか、色々トラブルがあって。結局、青年寮っていうところにその人は、埼玉にあった親たちが作った、その、まぁ、いい形の施設っていうか、そういうところに入っていく…行った。それまでの数ヶ月間一緒に、そこで、暮らしてて。

インタビュアー: あ、数ヶ月なんですか。ふーん…。大変ですね、でもそんな…、   

近藤: 本当はね、法律的には、あの、知恵遅れの人のそういう…、親元では生活できない人は、あの生活通勤寮という制度があったのよ。ところが町田市はそれをつくってなかったの。だから僕は、仕事場にそれを持ち帰って、「こういう人がいるから、生活通勤寮つくってくれ。」と言うのが僕の仕事だったわけ。

樋口: だからそれができて、そこで最初、高橋咲緒ちゃんのお母さん、働いてたんじゃなかったっけ。ねぇ。

インタビュアー: うんうん。そう言ってました。そう、それで、あの…

近藤: で、生活通勤寮を、その人のことで僕たちが見たことで、家に起こったことを、「こんなことが一緒に生活してたら起こるんだ。」というようなことを、仕事場に行ったら仕事で言うわけ。だってそれを作るのが僕の仕事だから。で、できたわけよ、やっぱり。その人のことで。

インタビュアー: 通勤寮がねぇ。

近藤: ただその人には間に合わなかった。

インタビュアー: 間に合わなかった。ふぅん。

近藤: で、その間僕たちは生活を一緒にしたわけ。だからそういう時期なのね。施設づくりから何からかんから。お金はないけれども、制度がある、だからつくるべきだ言うけれども、お金はない。ほいで、身を持って僕などは。うん。恵ちゃんが「いいよ。」言うから、引き込んで。生活を一緒にする中から現場にそれを返していって、結局はつくったと。だからそんな職員って普通はいないじゃない? しちゃいけないじゃない?

インタビュアー: そうですね。そうねぇ。    

樋口: 公私混同になりますから(笑)。

インタビュアー: (笑) うーん。

近藤: そう、しちゃいけないこと(?)。公私混同もいい方だから。ところが、その時代のその僕の役割だったから。「近藤さんだから、できたんだ。」と。「他の人なら絶対そんなことできなかっただろう。」というようなことを、次から次起していくわけよ。引き起こして。それが僕の仕事の、あの…、人にはできないところだったのね。その代わり、苦労も、恵ちゃんも苦労したわけよ。

樋口: (笑)

インタビュアー: なるほど。じゃあその市営住宅は数ヶ月住んで、その後がその新しいお宅になる? 

樋口: てか、その人はいなくなったけど、だから出てくれとは言われないわけで。で、それで、それもお金が貯まったわけよ。だって、たった5,900円ぐらいの家賃だったんだもん(笑)。

インタビュアー: (笑)市営住宅だから。

近藤: (笑)よく覚えてるよねえ。

インタビュアー: そうかぁ。なるほどぉ。

樋口: うん、それで土地買って、家建てて、っていうあたりで、その1981年の国際障害者年が来る…、来て。で、ミスタードーナツの研修制度がスタートして、雅子さまが行かれて。ていうのが、まぁ近藤さんがその、国際障害者年の色んな役割を持ってたんで。J…、JDFじゃないけど、何て言ってたか忘れたけど、うん。そう、そう、国際障害者年推進委員会か、何かっていうような所で。色んな情報持ってきて、「あぁ、そんなのがあるんだったら私も行こう!」と。35歳までって言ったから、「まだある!」と思って。それ31の頃だから…、30歳か、私。国際障害者年の年は30歳だから。

近藤: その推進委員会の審査員は殆ど僕の友だちだったわけ。

樋口: ちゃう、推進委員会のじゃない、ミスドの。審査委員、あの、選考委員会。だから…

近藤: 「近藤さんもいいだろう、恵子さんも行かせよう。」って。「もう最近申し込むレベルが低くなって面白くなくなったから、もうこんなじゃどうか。」って…、

奥平: えー!

樋口: そこまではない。そこまではないよ。

近藤: さかんに…、

奥平: それじゃ3期生とか? 

樋口: 4期。

奥平: 4期か。

樋口: 4期だけど、だから、私に対する審査員というか、選考委員会の面接質問は「近藤さんはどう言いましたか? 近藤さんはどうですか?」そればっかり。「誰が行くの?」っつうの。ねぇ!

インタビュアー:&奥平: (笑)

近藤: そういう時代だったのよ。

インタビュアー: でもそうでしょうね。奥さんが出かけちゃって旦那はどうなんだろうっていうような、やっぱりそういう時代だったんだよね。

樋口: うん、そうそうそう。最初、4期生で二人…、もう一人結婚してる女性が、高瀬さんって。あの、えっと八王子で、グループホーム…、あの…えっと…グループホームじゃない…、グループホームか…

インタビュアー: 高瀬さん? 

樋口: うん、あの、

奥平: あーあーあー、わかったわかった。

インタビュアー: どんな障害ですか? 

奥平: え? ポリオ?…かなぁ。

樋口: 違う。何かねぇ、特殊で。足がこうくっついてて、開かないっていうか、こんな感じで歩く人。だから股関節が固まってて。そいで女の人だから、そう股関節が固まってるということは出産も難しいとか、そういうことがあるので。だから重度認定されてたけど、彼女はアーチェリーとかやってる人で、スポーツマンで。そいで、あの、ご夫婦であの、色んな里親のグループホームみたいなのをやってた。いや、後からやり始めたのかな。

インタビュアー: ふーん…。じゃその人と恵子さん、あ、そうかー…。

近藤: 今度は、1973年の車いす市民集会に移って行くわけ。

インタビュアー: うん。そう。うん。そう。そこそこ。ちょっと抜かしたかも。うん。はい。

近藤: ね、そうでしょ。で、この辺になると、あれに載ってなかった?  NHKの。

インタビュアー: はい。NHKに載ってました。

近藤: ね、この辺は。

インタビュアー: でも、あのどうしてこの集会が初めて、こう、作られていったかはあんまり出てなかったような気がする。

近藤: あぁそうか。あのね、仙台っていうのは、あの…

奥平: 仙台、第1回か。

インタビュアー: そうそうそうそう。

近藤: 国が指定した福祉のまちづくり、モデル都市の第1号なのよ。

奥平: へぇぇ。

近藤: で、これも、

樋口: 何でも、でも、福祉ってさ、第1号って作った途端、その制度なくなるとか。

奥平: (笑)

近藤: あの、そこ行ったら、車いす用トイレも日本で最初にできたし、それから段差と車道の歩道の切り下げも、日本で最初にできた街なのよ。ほいで僕が…、

奥平: 車道の歩道の切り下げ?って何?

インタビュアー: 道路の所の。

奥平: あぁ。

樋口: 歩道とここの。

近藤: うん。

奥平: うんうん。へぇぇ、低くしたってこと? 

インタビュアー: あの、段がないように。

樋口: カーブカット。

奥平: あぁ、カーブカットも初めてなの? 

樋口: いや、仙台では。

近藤: そういうことで、

樋口: だってカーブカットしないで、あの、スロープ板を置いたっていうのが初めてだって言われたでしょ? 

奥平: えぇぇー!

近藤: いや、それがもとで、1号ができたの。切り下げの1号。最初は鉄板を置いたのよ。障害者じ…、あのね、ある…、あそうか、僕と一緒に、あの、町田の職員が一人雇われたって恵ちゃんがさっき言ったでしょ? その女の人は仙台から来た人。

樋口: そうそう。あの、ボランティアコーディネーターみたいな人で。

インタビュアー:&奥平: へぇぇ。

近藤: そう、もう有名だった人。その人まで雇ったわけ、市は。それと僕を雇ったと。で、その人が、仙台で有名になるきっかけを作った人なの。施設の職員だって、で、あの施設の職員から仕事が変わって、町に…、の社協の職員になるわけ。そしたら、社協の職員に会いに障害者が施設から街に下りて行くんだけど、歩道と車道の段差が、カットしてないから、車いすの人たちは行けないわけよ。そしてそこに鉄板を自分たちが置いて、その鉄板を降りたり登ったりしながら行くようになったわけ。ほしたら、「何だあの鉄板は?」と言われるようになって。でも障害者は、「スロープをカットしてくれ言うてもしてくれないから、やったんだ。」ということになって。いわゆるまちづくり運動の最初のきっかけなの。

奥平: 勝手に置いたんだ。へぇー。

樋口: 西多賀ワークキャンパスがあった。

近藤: うん、西多賀ワークキャンパス。

樋口: 西多賀ワークキャンパスってのは、その、菅野鞠子さんが中心で活動したところ、と思う。

近藤: で、彼ら…、彼女は、障害者に非常に人気のある、あの、女性だったから、

奥平: あ、その人は障害ない人か。

樋口: 彼女はね、ポリオか何かだったんだよ。

奥平: え? 

樋口: 軽いポリオか何かで、障害があったけど障害を自分で表現しないでいた人で。

インタビュアー: あ、じゃ、あんまり分からない? 

樋口: そうそう、全然分からない。

インタビュアー: あぁ、そうなんですね。ふぅん。

近藤: その人を求めて、障害者が行ったと…、行くのに、段差の解消するのに、その鉄板を敷いたりして。それにしてもトイレがないじゃない? だから「トイレをつくってくれ。」と言ったら、一番最初に日本でできた(障害者用)トイレが、仙台の駅だったわけ。

インタビュアー: ふぅん。

奥平: 仙台ってすごいね。色々。

近藤: で、そこでそれだけのことができた…、できてる街だということで、国は、福祉モデル都市第1号という称号を与えたわけ。

インタビュアー: じゃやっぱり仙台の市も、市長とかもそういうことに理解があったということですか? 

近藤: まぁそういうことでしょうね。行政が動いたんだからね。ただ、市長はもう全然出てこなかった。だから、

樋口: だってJRでしょ? 

近藤: JRじゃない、国鉄。

樋口: 国鉄にもうなってたのかな、ちがう、JRになってたのかな? 国鉄だったのかな? 

近藤: なってない、まだ国鉄だった。

インタビュアー: 国鉄か。まだ国鉄ですね。じゃあ、そうか。

奥平: ねぇ、そこで、車いす市民集会やったの? まだか。 

近藤: いや、まだそれは、そこでやるのは…、えーっと、交流集会? そう書いてない? 

インタビュアー: 「交流集会として始まった。」って書いてある。

樋口: 朝日新聞。

近藤: そう、車いす市民交流集会という名前で、朝日新聞の厚生文化事業団が、あの、

奥平: ですよね。

近藤: うん。例えば京都の、あの、まちづくりで、その、エレベーター…、地下鉄のエレベーターも障害者乗れるようにしてくれ、という運動をやってる人とか。で、ところが、何で僕がまちづくりになったかというと、あの…車いすチーム…、愛好クラブの車いすチームで場所を見つけるのが僕だったの、体育館の。ところが川口市が貸してくれて、皆、川口市に集まらはったんだけど、遠いじゃない? だから「近藤、どうかして、あの、東京の中にも、あの、探してよ」と言われて、都庁に行ったわけよ。そしたら、新宿体育館を使っていいと言うて…、言われて、「あぁよかった。」と思ったけども。新宿体育館は入り口に段差が2段、コンクリートでつくってあったの。「それを撤去してくれ。」と言う交渉を何回かしに行ってたうちに、まちづくりだと…、障害者のまちづくりだと捉えられた。

インタビュアー:&奥平: ふーん…。

近藤: そして、東京の…、で障害者のまちづくりをやってるのが近藤だと。僕はそうじゃなくって、体育館の交渉だったんだけど(笑)。いうことになって、そして朝日新聞の厚生文化事業団が、じゃ、東京では近藤、京都では長橋というように、ポイントポイントを押さえて、朝日新聞の厚生文化事業団が、その、仙台に集めたわけ。

インタビュアー: あぁ、そうなんだー。

近藤: ほしたら障害者運動の何か足しになるんじゃないかと。

奥平: あ、じゃあ、集めたのは朝日文化事業団の人? 

近藤: そうよ。

奥平: ふぅん。

樋口: ていうか、

近藤: そこの企画。

樋口: 企画はそれで、ほいで東京でそれを中心にやったのが、大須賀さんでしょ? 大須賀郁夫さんて、八王子にいた人。

インタビュアー: あぁ、そうか。ねぇ。

奥平: はいはいはい。わぁ、懐かしい。東大に9年いたっていう人(笑)。

樋口: が、木下さんに連絡をし、そうそうそう、東大闘争で障害者になった人。

インタビュアー: あ、そうなんですか! それは知らなかった。

樋口: うん、安田講堂だっけか、閉じこもってて、革マル派か何派か分かんないけど、ゲバゲバがあって、2階か3階から飛び降りて木に移ろうとしたけど、移り損ねて脊損になった。

樋口: それが大須賀さん…。

奥平: でも、そんなかっこいいもんじゃなかったんだって。言ってたよ、自分で(笑)。逃げようと思ったんだって。

近藤: いやいや、自分でじゃないかもしれないけど、もちろん、もちろん。

樋口: そうそう、逃げようと思って、だから、木に移ろうとした。ところが移れなかった。

近藤: だから大須賀さんは何かで動けなくって、推薦したのが、

樋口: そうそう、褥瘡で、動けなくて(笑)、入院中の病院で、「東京ではこの人とこの人とこの人。」みたいに言って、したという人。

インタビュアー: ふーん。あぁ、そうなんだ。

近藤: その中に僕はいたわけよ。で、僕は、僕の畑というのはバスケットだったわけ。バスケットで、体育館の交渉だったね。だからまちづくりじゃなかったんだけども、外からはそう見えてたんだろう。段差…、段差をね、取ってくれとか何とかいうのを、あっちこっちやってたから。それで、仙台に集まって。仙台と言うのは、その、仙台に来るまでの体験を話すわけよ、まだ。仙台に来るいうたら大変なことだったからね。

奥平: あの、各地からってこと? 

近藤: そう、各地から。で、僕は、だってもう、だいぶ前から車で全部行き来してたから、車なら何でもなかったのよ。うん。でも、僕にも、介助者を一人つけて、大学生を。ベロットというねぇ、あだ名を持っている、あの…、

奥平: べろ? 

近藤: ベロット。

奥平: ベロット。

インタビュアー: (笑) 面白いあだ名ですね。

近藤: うん。

樋口: いやぁ、もうあの人には会えてないから分かんないけど、あの…、

近藤: ベロットという人を連れてくれて、そして家を出るところから駅まで。ほいで駅で電車に乗って、乗り継いで仙台までずーっと。ほいで、ホテルも、僕の部屋には彼が寝泊まりするわけよ。

奥平: ベロットさんが? 

近藤: ベロットが。

インタビュアー: 日本人ですよね? 

樋口: そうそうそう。ニックネームなだけ。

インタビュアー: なぜベロットなんだろう(笑)。

近藤: 何か知らない。うん。何か、でもそれをしたらまた長くなるから言わないけれども、要するにそういう愛称を持っていたわけ。ところが僕にとっては…、

樋口: あの頃の人って、田中さんって、手話通訳してる男の人、もう70代過ぎの。その人ぐらいしか私は消息は知らない。

近藤: うん。彼は…、僕はボランティアとか介助者を使ったことがないの。

樋口: だって、そんな存在自身が分からなかったし…

近藤: まぁ、まぁまぁ、いいからいいからよ。要するに使ったことない僕に、彼は朝日から推薦されたボランティアなの。僕が探したボランティアじゃなく。ほいである日「私が付いて行くことになりました。」言うて来て、ほいで仙台での動きから、帰ってからまだちょっとの付き合いもできたんだけど。その人が…、僕はボランティア要らないと思ってたのよ。自分の中では。そしたら、すっごい役割を果たしてくれたの。つまり部屋に帰って一日議論するじゃない? 友だちと一緒に、街づくりの。そこにもずっと付いていて、彼はボランティアだから、介助者だから、発言ないの。でも何か、えらい一所懸命書きとってると思ったら、僕が言ったことを書きとっていて、「近藤さん、今日はこんなこと言ったから、明日のテーマはこうなってるから、ポイントとしてはどう思う?」と、夜言うのよ。

インタビュアー:&奥平: へぇぇ。

近藤: そんなこと考えたことがない僕に、彼は本当に大学生で、バリバリだったんだろうね。頭がよかったんだろう。私のポイントを全部抑えてくれたの。

奥平: 秘書だ、秘書。

樋口: 早稲田かどっかの…。

奥平: へえー。名前忘れちゃったの? 

樋口: 全然覚えてない。

近藤: ボランティアっていうのは、介助者、介助者と思ってたら、介助いうても色んな介助があるんだいうことは、初めて知った。

奥平: でもそれって、ボランティアとか介助と言うより、秘書だよね(笑)。

近藤: いや、だから、そんなこと抜きに、そりゃ朝日のボランティアだったから、そう。朝日で鍛えられたボランティア。

樋口: 朝日の、子どもの、あの、キャンプの、あの…、

近藤: リーダーだったのね。

樋口: リーダーをしてる人だった。うん。

インタビュアー:&奥平: へえー。

奥平: だってさ、さっきのさ、ジャスティン・ダートさんの、あの、秘書の人と似たような形じゃないですか。

近藤: (笑) まあ、そんなことは別にしても、彼が僕に与えた影響はものすごかったの。

樋口: だから、論理的な考え方とか、それをどういう風に生かしていくかとか、そういうの、そんなに思ってなかったことを…、

近藤: 考えたことなかったからね。

樋口: ちゃんと、こう、整理して、作ってくれたんだよね、きっと。

近藤: で、僕は昼、議論するじゃない? みんなと。ほしたら傍について、「近藤さん、ここであんたは言わないといけないんでしょ?」と、こういうようなアドバイス。

インタビュアー:&奥平: へぇぇ。

近藤: 何をということじゃなく、そう言ったらもう入るように、夜のうちに色んな角度から討議してくれてるわけ。テーマを整理してくれて。

奥平: すげ。

インタビュアー: (笑) へぇー。

近藤: 「こう思ってるのは、それは、その言葉を出すのはここだよね。」とかって、ぽろっと言うわけ。その人に鍛えられた。

奥平: すげ。そういう人いたらいいなぁ(笑)。

近藤: うん。あの、あれは、僕にとってものすごい大きな、うん、衝撃だったね。

インタビューアー それは、その、1回目だけですか? ほかの時もその…

近藤: 1回目だけ。

インタビューアー あぁ、そうなんだ。

近藤: そう、彼はもともと僕との関係はない人だったから。で、朝日新聞から回された人だったから。

奥平: でもさ、関係続けてたら面白かったかね。

樋口: うん。

奥平: へぇー…。

近藤: うん、だから彼が僕に与えた影響と、それからボランティア、ボランティア言うけども、色んなボランティアがいるんだなと。うん、ただ手助けしてくれるじゃなく、僕にとっては本当に、「あぁ、そうか。」いうて勇気を与えてくれたし。ポイント、ポイントも押さえてくれたし。反省することも、自分のそれから…、「あなたしか言えない言葉なんだから、これはもうここで言わないと、もう来た意味がないよね。」とか言う。で、だんだん、だんだんひどく彼は僕を責めるようになったの。

奥平: (笑)

インタビュアー: え、その、その時、でも、あれですよね、市民集会の時だけでしょ? 出会いって。

近藤: そう、そこだけ。

インタビュアー: あ、それでもうそんだけこう…

奥平: だんだん責めるようになったの? 

近藤: そう、初めての出会いよ。

インタビュアー: すごいですね、それもね。

近藤: そう、それだけ、常日頃、その、リーダーとして、やってる人なのよ。それに当たったのね、僕は。うん、そいでその人の影響は大きかった。

奥平: で、だんだん色々言う、言いすぎる時もあったの? 

近藤: ん? 

奥平: 言い過ぎるか、言い過ぎ…

樋口: でも二泊三日の中だからね。何のかんの言ったって。

奥平: あぁ、そうか。じゃあじゃあ…、

近藤: でもその時に、だから話し合って、一番最後、その…、宣言を出そうということになったわけよ。うん。障害者のまちづくりに対する。その時に…、その前の晩に、この問題は障害者にとってというよりも、もっと大きい視点でやっぱり捉えるべきだろうと。そして、何だった? えーっと…、何だったっけ? 僕はその時、言うたことは。

樋口: 尻の下のぬくもりから、やろ? 

近藤: あ、ほら、元気な人はしっかり自分の位置から発言するというのに、うん、足が地についてないとかってよく言うじゃない? で、僕たちは足が地についてない、車いすだから。

インタビュアー:&奥平: (笑)

近藤: だから僕は…、僕たちが言ってることは、「自分の尻の下のぬくもりからの」言葉であって、他の人は全然、通用しないか知らないけども。この言葉だけは宣言に入れるべきだって言ったら、それが有名になっちゃったわけ。「尻の下のぬくもりからの発言」ていう。これは朝日新聞にも載ったし。

インタビュアー: (笑)すごい。へぇぇ。

近藤: で、その時に、障害者の人権…、基本的人権だ…、の問題に触れる問題だって言ったんだけど、仙台の人たちは「人権いう言葉は硬い。」と。で、まだ浮いてしまう、言葉が。

奥平: あぁ、まだそんなこと考えたこともなかったんだね。

近藤: そう、人権いう言葉を使ったことはないと、

奥平: 70…何年でしたっけ?

近藤: 言うけども、

インタビュアー: 73年。

近藤: 私はこここそ、人権いう言葉を入れるべきだと。ここが元にならないと、私たちのこれからの運動はないだろうから、これこそ障害者…車いす障害者の人権問題だと。で、人権いう言葉は宣言に外せないと、私一人ががんばったわけ。うん、そう。

インタビュアー: ふーん。そうか、そうか。それを見ていた人が町田の職員の人だったんだ。

近藤: あの、福祉事務所の係長だった人。ほいでそんなんが町田…、町田じゃない、営業マンとして来てるということで、「あ、近藤さんじゃないか。」というので。私が…、私を市長に言ったわけ。「面白いのが、市長が好きそうな、求めてる人間がいる。」言うて。ところが「これは仕事をしてる。」と言ったら、「じゃあその人に人選任そう、探してもらおう。」と言うんで、僕に人選任されたわけ。うん。「障害者雇いたい。ついてはこんなことをしたい、それはまちづくりだ。」と。町田市のね。それで「もっと色んな事業に…福祉事業に関わってほしい。」って。「そんな人をまとめてるから、あんたに任せるから探してくれ。」言われたけど、そんな人がいるはずないじゃない? 障害者で。

インタビュアー: (笑)

近藤: で、延ばしに延ばしたわけ。ほいでお終いにはとうとう、「もうこれ以上待てない。」言う時には、僕に「来てくれないか。」言われて。とうとうドルフィンを辞めて、そちらに行ったわけ。

インタビュアー: ふぅん。それで相談して、やっぱり、「そういうことやってみたら?」という後押しもあったしっていう。

近藤: 恵ちゃんから言われてね。それはそれは、だから、あの、履歴書に書くのも小学校6年卒って書いたら、人事課の職員が来て、近藤さん6年卒は卒業にならないんですと。義務教育じゃないから、中途だから中途退学になるんですとか言われて書き直したぐらい。

樋口: (笑)

近藤: (笑)そんなことまで知らなかったの。でもそんなことはもう、問題じゃなかったのね。もう雇ってしまって、決められてしまって、ほいで僕の配属先がケースワーカーだったの。で、ケースワーカーとそのころ…、のケースワーカーは、ある一つの地区の五法を担当、福祉六法と言われる中の生活保護を除く五法。老人、障害者、母子、児童…、何だろ、母子、児童、障害者、あ、知的も含め、で、五法だったわけ。だから一つの家庭に行って相談に乗れるのは、生活保護法を除く全部が、生活全体が丸々相談だった。

近藤: そう、だからすっごく、色んな生活、色んなことができたし、それに、障害者もやったことのない建築も関わってきたわけでしょ? しかも建築は昨日話したように、自分が知らないから、建築業者に聞きながら教えてもらうわけ。そう。それでも、そうやってでも、こなせた、仕事。で、僕が印鑑を押さないと建築物の申請そのものができないような制度にまで作ってしまったから、それは大変だった。うん。


インタビュアー: 責任が重いですね、でもね。

近藤: 責任も重いけれども、もう、夢中になる。夢中にならないとできないじゃん。だからもう、残業、残業。残業が当たり前だった。

奥平: へぇぇ。

インタビュアー: 帰ってくるの遅かったですか? 

樋口: うん、まぁ…。

近藤: 残業しない方がない、ぐらい。

樋口: まぁ8時ぐらいだったね。

奥平: でも恵ちゃんも昨日、「残業代も入ったし。」って言ってた(笑)。

樋口: うん。そうそう。

近藤:&インタビュアー:&奥平: (笑)

近藤: そう、そういう時代なんですよ、うん。だから4月に入って、8月にもう、福祉環境整備要綱いう制度まで作っちゃったもんね。その頃なんかまだそういう、あの、基準がなかったから、基準から作らないといけなかったのよ。で、そういうことを…、からやるんだ、ということを教えてもらったわけ。僕は知らないから。「あぁ、なるほど役所って、こういうことをするんだね。」って言って、で習ってみたら、僕、特別の方法を習ったんであって、一般の人たちは「そんなことまでしないよ。」と言うの(笑)。

インタビュアー: (笑)

近藤: うん。でも僕はそこまでやらないと、もう、あの、自分の気持ちが許されなかった。だからかなりオーバーになった、その…、解釈までして、しちゃいけないことまで沢山したけれども、もう皆は認めてくれたわけ。その代わり、僕が作った制度が大分たくさん出てきて、辞める時には…、あ、生活保護課に今度は移るのね、係長として。えーっとそれは、終わる…、定年を迎える5年ぐらい前かな。

樋口: でも窓口課にもいたじゃん。

近藤: 窓口課はあの、あれ(?)だったから、だって福祉からは離れてないもん。

樋口: うん、相談窓口。

近藤: うん、相談窓口。だから生活保護になる時にはもう課が変わっちゃうじゃない? 福祉の中の…、ではあっても、「生活保護課」という課に。だから、そこでは、また新しい感覚で仕事しちゃうわけ。そりゃ面白かったねぇ。

奥平: へぇぇ。私もそうだな(笑)。

近藤: で、生活保護法というのは、すっごくよくでた…、できた法律なのよ。ところが生活保護言うたら、何か嫌な感じ、皆に暗い感じを加えさすじゃない? だから僕は、まず、相談に来た人が、相談室に入ったらすぐ言うのね。「暗い感情を持っているだろう。」と。「しかしこれは法律の問題じゃない。」と。「この法律っていうのは本当にいい法律だ。」と。「ただそれを使うのが人間のために…、人間によってそう取られてるけれども、だから私が今から生活保護を相談する…、じゃない、紹介するけれども、この部屋から出て行く時に、まだ今までと同じように、嫌な法律だと思う欠片があなたの中に残っていたら、それは法律が悪いんじゃなく、私の説明が悪いんだ。」と。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: うん。「法律は絶対そんなもんじゃない。」と、いうようなことを話して。だから、とっても変わった職員だったわけよ。僕自身が。

奥平: そうですよね。

近藤: だから、職員は…、市の職員、辞めてしまって、定年退職してからでも、一人の市民の立場として、あの、「生活保護法丸かじり」という夏期講座を持ったりしてるもん。 奥平: へぇぇ。 近藤: そう。だから分かりやーすく!書いて、「ういう時にはこうしなさい。そしたらこれだけのお金が浮くから。」とかね。そういう裏を全部、今でも持ってるよ。

インタビュアー: へー、すごーい。

近藤: うん。だからこの、安芸でも、「生活保護法のことを知りたかったら、いつでも電話してきていいよ。」とか、それから「そういう講座を持ちたかったら僕がやるよ。」と。「資料出すから、持ってるから。」と言えるぐらい、今でも持ってる。そういうことすらしたのね。ほいで、生活保護法と言うのは、むしろ、憲法の中で保障されてる一番基本的法律だから。だからそこまでやらないといけないのよ。

インタビュアー: やらない人が…、やらないというか水際作戦もありますけどね(笑)。

近藤: もうそれの方がは…、激しいじゃん。それが普通になってるじゃない? 役所が使う法律だと思ってるけども、役所が使う法律じゃなく、市民が使う法律が生活保護法なの。うん。

[02:45:29]

インタビュアー: やっぱり、最初の時に、まぁ、あの、お子さんの頃にっていうか経験で、自分も使ってたってことは何か、ありますか? その…、市民のために、ってとこに。 

近藤: いや、僕は全然、そことの結びつきは、僕ん時はなかった。それは、むしろこちらへ来て、ぐらいで。うん。年代を追ってみたら、こんなことになってたというような。

奥平: え、でもその子どもの頃って、生活保護まだなかったですよね? 

近藤: まだ、ない。

インタビュアー: でも旧法があったかな…。まぁもらえてなかったのかな。でも、生活保護で暮らされた時期もありましたね? 

近藤: そうよ、病院以後。

インタビュアー: 病院か。病院んときか。

奥平: あーあーあー。そうだね。じゃあ、

近藤: うん、病院以後、施設から何から、どんどん生活保護出て。

奥平: でもそん時はもう、市の人が入ってきてたから(?)、助けるために。労災だから…、

インタビュアー: うん。何か、自分が、何ていうの、受けた立場であったからこそ、市民との近い位置にいられたのかな、ていうの、まあちょっと思ったけど。

近藤: それはなかった。市民…、あの施設に入った時も、確かに小遣いは月3,000円ぐらいくれてたけども、でもそれは生活保護から出てるとは知らなかったの。ほいでタッパーに行く時に、「布団が要るんなら出すぞ。」とか、「服が要るんなら出すぞ。」言われて、「出すぞ言うて、何よそれは?」て言ったら、福祉法、あの、保護…、

インタビュアー: 生活保護になってると。

近藤: 生活保護の中って、「あなたは生活保護だから、出るんだ。」と言われて。「へぇー、そんな法律があるの。」言うて、で、それからそこで役所へ入るでしょ。ほいで保護を持ってみて、「うわ、こりゃものすごい制度だな。」と思ったの。「こっりゃすごい。生活保護法は。」

インタビュアー: うんうんうん。

奥平: 板山さんが作ったという。

インタビュアー: 板山さん作ったの? 生活保護法。

奥平: そうだよ。うん、て聞いたけど? 板山さんが中心で頑張ったって。

インタビュアー: へー。あぁ、そうなんだ。

近藤: うーんとね、保護法といっても長い歴史があるから、旧保護法があるから。そんな時には板山さんは出てない。新保護法になるところの切り替えの所に、板山さんがタッチしたのね。

奥平: うん。板山さんって絶大な影響力あったよ。厚労省の中で。

近藤: うん。だって旧保護法っていうのは、もう昔からあった。昔、昔の税金って…、あ、ま、この話長いから止めた。

インタビュアー: (笑)。

近藤: 面白い話よ、これ。税金っていうのは。あの、自分が納めに行かないといけないわけ。だから百姓は米を、何か…、漁師は魚を、ある所へ納めに行く。それとその頃の税金っていうのは、労働があったの。

奥平: へ? 

近藤: 労働。

奥平: あぁぁ。

近藤: だから道から何から作るのには、税金で作ってたっていうのは、税金の労働で雇われた市民が1年のうちに2ヶ月。労働が。兵隊のようなもんよ。兵役のような労務がついてくるわけ。

インタビュアー: へぇ、それすごい。いつ頃の話ですか? 戦…前?

奥平: 江戸時代?

近藤: これは…、だから旧保護法だから、江戸時代から何から全部そう。そう、その時代。

インタビュアー: あぁ、そういう意味かぁ。なるほどー。

近藤: そう、だから、城を作るっていう時には、すっごい、ほら、あの、侍が作るわけじゃないわけよ。

奥平: あーあーあー、農民とか。うん。

近藤: うん。それは、税金なの、その、労務なのよ。

インタビュアー: 労務ね。

奥平: 体で納めるっていうこと? 

近藤: そう。ところがそこから…

インタビュアー: その、泊まり賃を私が体で納めてるような(笑)。

奥平: あんまり納めるとは思わないけど(笑)。

インタビュアー: あんまり納めてないんだけど。うん。

近藤: だから、税金のつくり…、つくる前を、歴史的にさかのぼってみ? 歴史をさかのぼった時には、税金がどれだけ大きな役割と、人間にとって必要だったかっていうのはもう、本当の大昔から、あの、いわゆる、食うためには作らないといけないじゃない? ところが、作ってたら、他所から攻められたりしたら、もう畑から何から全部とられてしまうわけじゃない? だから、生活を守る人間を…、が必要になるわけ。ほしたらそれが兵隊になってくるわけよ。ところが兵隊っていうのは、労務しないわけ。ね? 守る訓練ばっかりするから、攻める訓練とか。だから…、労務、城を作ったりするのに、労務は、百姓とかの労務だったわけ。それがね、どれだけ大きな問題を起こし、死者を出したか。帰りがけ道端で死んでしまうわけ。うん。それ、そういう歴史がすっごい沢山あって。そういう歴史を、あの、感じて分かってみたら、歴史がすっごい好きになった。だから簡単に今でも、短時間で…、うん。老人というのは、いつ頃から老人の法律があったか知ってる、だなんて簡単に、あの、僕は言うんだけど。いつ頃からか知ってる? 

インタビュアー: な、何の話? 

近藤: 老人。老人とか障害者が一般障害者から分けられるような制度があった時代。どこから、日本の。

インタビュアー: えー、老人? 障害者も、でも、昔はあれですよね。障害っていうふうに分けてないけど…。

近藤: まぁそういう名前じゃないけどね。うん。つまり働けない。

インタビュアー: あぁ、働けないっていう意味で? 

近藤: …のが、障害者。家族の…、あなたの家族の中には働けない人がいる、と言われたら、障害者がいる。認定など始まったのはいつ頃だと思う? 

インタビュアー: 認定?!

近藤: だって認定しないと分からないでしょ? 認める。いわゆる障害者は税金を納められないじゃない? 税金を納められない人が家族にいるということは、例えば3人働き手がいても、一人は、その障害者の介助をしないといけないとなると、介助者に一人手を加えたら、税金二人分にしかならないじゃない? そういうことの家族として認められないといけないじゃん。役所が認める。そういう歴史がいつ頃さかのぼられると思う? 

インタビュアー: えー…。飛鳥時代? 違うか(笑)。

近藤: あのね、今2000何年って言うでしょ? それが9年なのよ。

インタビュアー: ただの9年? 

近藤: ただの9年。7年には、もう病院とか老人の施設ができたと。7年、たったの7年によ。「だのに、何で今の時代がこんなの?」と言いたくなるぐらい。びっくりした。

インタビュアー: 聖徳太子の時代じゃなくて? 

近藤: そう。聖徳太子なのよ、もとは。

インタビュアー: そうですよね。近いんですか? 

近藤: 何が? 

インタビュアー: 4つ作ったやつ、のうちの1個…、何か、えっと、教育の機関と、

近藤: そうそうそうそう。

インタビュアー: 病院と、高齢…、あ、高齢っていうか…、入所施設みたいなところと、あと…、

近藤: それを作ったのが…

インタビュアー: 罪を犯した人が入るとこ。ね。

近藤: そう、帰ってくると、ね。それができたのが、7年よ。

インタビュアー: 7世紀じゃないですか? 7年じゃないかも。ね。7…、

近藤: え? いや7年よ。いや、それは歴史の中に残ってる私がね、読んでるのが7年だったの。「それでいながら、何で今福祉か?」と思ったわけよ。7年で、いや、そういう勉強してみる…、そういうことが分かってみるとね、例えば、車いす用トイレが、僕たちが「作ってください、作ってください。」言うたけども、で、作ってもらえなかったけども、本当は妊婦にとって車いす用トイレはとっても楽なのよ。それが仙台で実証されたのよ。それが分かった時に、「えーっ。これだけ人間が歴史を作ってきたのに、お腹の大きい時に、あの、和式のトイレが使いにくいという言葉一つ出した母親がいなかったの?」というのが、私の運動の根底にあった。それは車いす用トイレができて1号を使ったのが妊婦のお母さんで、「とっても楽だ。」と。家に帰ったら、和式のトイレじゃない、あの狭い所で、「座り込んだらもう立てなかった。」と。妊婦の時。それが、「車いす用トイレ使ったらものすごい楽だった。」いう、そのお母さんから聞いた時に、僕の考え方が完全に変わったわけ。障害者でなくっても人間が生きてる中に、障害を体に背負う時期がある。高齢者も含め、ね。

 ということで、私たち障害者のためにというんじゃなく、人間が生きるまちには、そういう部分があるんだということを位置付けることが、運動の背景に…、私の運動の背景にできてから、すーごい伸びたの。

インタビュアー: ふーん…。真砂子さんが今やってるのにつながってるじゃないですか。

奥平: 何が? 

インタビュアー: 商品開発に。

奥平: あぁぁ。へぇぇ、ごめん、今聞いてなかった(笑)。

近藤: だから、彼女が言うことっていうのは、昨日言ってたけども、「今は、今は」というけど、新しいことじゃ全然、私は考えてない。

インタビュアー: (笑)

近藤: 「何で今ごろ言うの、それを。」と。

奥平: そうですけどぉ…。

インタビュアー: (笑) つながってるのよね。つながってる。

近藤: ほいで彼女は…、彼女が言うのは「政策として、政策として」と言って、自分の体験として言ってないじゃない。

奥平: まぁ確かにね。

近藤: 私は、その、障害者運動として体験してるから、ものすごい昔に、それをもう、体で感じて生きてきたのよ。それで、それを運動の中心に据えたの。あの、ほら、NHKのそれに載ってたでしょ。「自分の個人の障害を歴史的障害に置き換え、普遍性を持たす運動を。」…だった、という締めくくりがあるでしょ? あれがそれなのよ。

インタビュアー: ふーん。だから障害の問題だけに集約しないということですよね? 

近藤: そう、そう、うん。それはバリアフリーを含めすべて、うん。バリアフリーって言うのは本当にね、人間が豊かに住む、安心して住めるということがバリアフリーだから。うん。だからそれは、もう、バリアフリー法の一番基本にあることであって。言葉を変えたり何かしてねぇ。その、今ほら、少子高齢化じゃない。だから政府はその、「役所の仕事の一端も市民に担わすべきだ。」と、いう形で、言葉を変えて、あれやこれやと言うんで市民に与えるわけよ、役割を。それと同時に、企業にも与えるわけよ。それが、あちらに行ってるわけよ(笑)。

インタビュアー: (笑)なるほど。

近藤: そう、そういう、大きなね、視点と言うのを持ったのが、僕の運動の始まりだったわけ。

インタビュアー: ふぅん…。でも、公務員としては、いわゆる町田の仕事をしながら、まぁ何回かおっしゃってたけど、「色んなこう、仕事をして、それを町田に持ち帰ればいいんだよ。」と市長が言ってくれてたから、色んなところにこう、関わって行かれたっていうふうにおっしゃってたんですが、市長、変わりましたよね? 

近藤: そりゃもう、どんどん変わったよ。

インタビュアー: ねぇ、それでもやっぱり、そういう部分ではあんまりこう…

近藤: いや、ある…、ある時期まではその尾を引いたけども、今はもう町田には殆どないよと。確かに、でも、作ったものは残ってるじゃない。システムは残ってるわけ。

インタビュアー: ふーん。大下市長から違う市長になった時って、やりにくくなった、とか? そういうことは…、

近藤: 大下…、誰が? 

インタビュアー: 市長が変わった時は、まだあぁ。じゃぁ、あんまりこう縛られなかった。

近藤: 私は縛られない。だからすっごくいい仕事がどんどんできてった。システムがね。その代わり、辞める時に、職員が、「これからは近藤さんが作ったこの制度はお前がせぇよ。」と言ってる時に、「私はやれない。」と言った職員が何人もいた。「これは近藤さんが作った制度であって、普通の制度じゃなかったら、私にはやれない。」と言われて拒否された制度が三つもあった。

インタビュアー: あー…。

近藤: それは、仕事のその役割の神髄から僕は説いてきたから。そう、うわべだけやればいいというんじゃなくて、心からそれをやらないといけない。その心とは、形がこういう形で作られてるもんだ、こういうところから、ていうような。それが運動の神髄になっちゃったわけ。だから、今はヘルパーさんの研修などする時には、「あなたの職場は他人の家」というのが基本なの。こんな研修ってないでしょ? 

インタビュアー: そう、そういういう(?)ってどうやって…、何だろ、ハートを伝えてるのかなって思って。そうか。

近藤: うん。私はそういう意味で、研修にはずーっと残ったわけ。

インタビュアー: うん、そうでしょうね。

近藤: それとか、その、ヘルパーさんを作る、福祉専門学校の先生にもなったの。ここへ来るまでやってたの。障害福祉論を。学校の生徒。福祉専門学校、町田でね。それは、「教科書はやらない。」と言ってたから、先生はもう、「近藤さんに頼む時には教科書はやれ…、頼めない。『すべてをあなたに任せる』でないと、近藤はこれを持ってくれない。」ということを、最初からもう言ってたから。「分かってます。だからお任せしますからやってください。」ってね、うん。教科書をやらない、生…、あの先生だったの。その代わり全部自分で作らないといけなかった。

インタビュアー: はい、はい。ふーん。じゃ、こう、2004年…、2000、あ、5年、7年だから、そこまで…、2000年からずっとやってた…、あ、97年か。

近藤: うん、辞めてからすぐね、色んなところで。辞めて2年目ぐらいに、福祉の…、えー、福祉計画というのを初めて、日本の福祉で作る時期が来るわけ。で僕は福祉の職員だったけど辞めてるじゃない? でも、あいつを呼ぼう言うて呼ばれた時に…うん。福祉の中心を作るんなら、というので、それこそ、その、咲緒クラスの障害者をその、委員会の真ん中、円形になるでしょ? その真ん中に一番早く僕は行って、その女の子を借りてきて、お母さんに「貸して。」って言ったら、「近藤さんなら上手く、うん、出汁を出してくれるから、貸すよ。」言って貸してくれるわけ。ほいで女の子を真ん中へ据えるわけ。ほいで皆が来て、「今日は何だ?この女の子は。」と言うけど、女の子は重度心身だから何にも言わない。カーともクーとも言わない。で途中から、「その制度のつくり方で、この子が生きられるか?」って僕は声かけるわけ。「すべての福祉の制度は、この子が使えるかどうかを基準にすべきだ。」ということで言ったら、その時の言葉に「命の価値に優劣はない」という言葉が町田に残っていくわけよ。「その精神は今でも残ってるよ。」言うて、…こないだ、

樋口: (インタビュアー:に) それが咲緒ちゃんだよ。通じてた? 

インタビュアー: はい。それ、いつ頃ですか、そういう話をしたの? 

近藤: これは、あの…、辞めて…

樋口: だから…、20年ぐらい前じゃない? 

インタビュアー: ふぅん。

樋口: ほぼ。2000年、お兄さんは…、

近藤: 辞めて2年目ぐらいじゃないだろうか。ちょっと、これにないかな。

樋口: 2005年。60…、35に6(?)言うたら、95年にリタイアしてるから、そいで障害者計画とか、そういうのを作るのが、いつ頃から? 98年ぐらいとか? 

奥平: 何? 障害者計…、あーあーあーあー。

インタビュアー: あー、障害者計画の中にそれを入れた方がいいっていう話になるんですね。

近藤: そう。障害者計画の基本ね。町田市の。そん中に「福祉(ママ。「命」の誤り?)の価値に優劣はない」。

インタビュアー: そうなのかぁ…。

奥平: 今、4次計画作ってるよね。障害者計画…。

樋口: ふぅん、ようじ? 

奥平: 4次。

樋口: よんじ。

近藤: という言葉を、僕が委員会の中で言ったのよ。それが何か、皆に通じなかったから、女の子借りてきて、何回目かの真ん中へ置いて。「この制度はどうしようか。」言うた時に、「そこまででもう切り下げるのなら、この女の子は生きられるか?」と。「生きられると思う?!」…全部そこに持って行ったの。ほいでその時に僕が言った言葉が、「命の価値に優劣はない」という言葉だって。「その言葉は今でも町田の中でまだ生きてるから、近藤さん安心してよ。」いうてこないだ言われた。僕はもうないと思われ…、思ってたけど。

インタビュアー: ふーん…。

■【3上11】2018021904 近藤:樋口: 08分


樋口: その、町なかの、日本人がやってる旅行社で、安いチケット買って、送ったのが悪かったのかなっていうのもあったんだけど。

インタビュアー: いやいや。

樋口: でもそれにしたってそんなこと、ねぇ。まぁでも敦子さんも…、敦子さんって、マイケル・ウインターの奥さんだった人だけど、その人も搭乗拒否されたことあるんだよね。一人乗りで。

インタビュアー: へぇー、あ、そうなんですか、パンナム?

樋口: うん。ほんで、まぁ、近藤さんの場合は、もう、色んなところへ電話したり、して大騒動したら、もう朝になったら、あの、「今日のフライトに名簿に載っています。」なんて、わけのわかんない連絡がきて。ほいで、この人はヘソを曲げ、っていうのか「僕は今日のは予約してません。予約したのは昨日のです。」と言い(笑)、とかってあったけど、まぁ、やってきて。私は空港に迎えに行ってたけど、「あら、誰も出てこないな。」と思ってたら、車いすの人と、家族らしき人の中に車いすが見えるんだけど、「あれかな…? でも何であんな、色んな人に取り巻かれてるんだろう。」と思ったら、パンナムの労働組合の委員長か副委員長かで、その人が子どもたちを連れてハワイに行こうとしていた。旅行を、まず、サンフランシスコへ、この人を介助者として送り届けて、それからハワイへ行ってくれと、言って、頼まれて、ほいでまぁ送り届けてくれたという。だから、パンナムとしても、あの介助者がいないと乗せられないっていうのを、手のひらを返すようにはできないというところで、そういう処置をしたっていう感じだったんだけど。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: ただし、パンナムの規約改正を迫ったわけよ。

インタビュアー: はいはいはい。一人でも乗れるようにっていうこと。

近藤: そう。そしたら、「ちょっと待ってくれ。」言って、僕はもう帰ってしばらくして、えー…、総務部長か誰かが、ました(?)に来て、解説して、本社に電話した、アメリカの本社に。「規約があるから近藤乗せなかった。」言うたら、その解釈は日本のパンナムの解釈であって、うん、あのアメリカのパンナムの会社の…解釈と全然違うと。「近藤くらいならアメリカの解釈では、乗せてる。」と。だから解釈の違いであって、責任はそちらで全部取れ言われたって言うのよ(笑)。

奥平: (笑)

インタビュアー: かわいそうに(笑)。

近藤: そんな話があって、それから大急ぎで、その…、規約改正までしないといけないわけ。それと、パンフレットに事例を書いて、「これから、こういう、このくらいの人だったら、こういう扱いにするということを、社内にこういう形で、このパンフレットを流しました。」というところまで、用意して、僕のところにくるわけ。で、僕はあの、アメリカの障害者の日本の障害者…、日本の障害者は八代英太だったんだけど、日本の障害者にも、その、お世話になったから、結末を、決着を教えないといけないと。だから必ず、きちっとした結末を出してくれと、そこまで突き上げたわけよ。そいで、時間が3ヶ月ぐらいかかったかな。「これだけやりました。」と。「ついては、アメリカのパンナムからは、切られた。」と。うん。「解釈の違いだ。」いう感じで、「これから、近藤さんぐらいは、重度とは受け取りません。」と。うん。「もっと軽度として、扱いをこうします。」というようなことまで社内に流した。パンフレットまで持って来て。ほんで、「ついては失礼だけど、まだ今年中にその…、飛行機利用する予定はないか?」というから、うん、「ハワイに行く予定がある。」と。こん中に書いてある、日米協議会の事前協議のようなんでね。言ったら、「ぜひ、その時にはパンナムを使ってくれ。」と。「このチケット使ってくれたら、無料になります。」って持ってきてくれたわけよ(笑)。

インタビュアー: へぇー。

奥平: へー、いいなぁ。

インタビュアー: それは、それは。

奥平: チケット、使った?

近藤: もちろん。

奥平: ふーん。

近藤: うん、そんで、そこには恵ちゃんもアメリカから来てくれてたし。日米協議会の最初の、あの、日米協議会を作ろうという基礎作りの話ね。

奥平: うんうんうんうん。

樋口: そうだったね。 近藤: こちらからは、八代英太と僕だったの。向こうは、ダートと、

あの、あれだったね。

樋口: マイケル。

近藤: うん?

樋口: マイケル・ウインター。いたでしょう?

近藤: あの、あれや。

樋口: 高嶺さんでしょう。

近藤: 高嶺さんもいたけれども、あの亡くなった男の人。

樋口: 亡くなった男の人?

近藤: 車いすに乗った。

樋口: 車いすに乗った?

奥平: なが…。

近藤: あの…、何回も日本に来たじゃん。

樋口: あ、エド・ロバーツ?

奥平: 違うじゃん。ジョン・グリーナ?

近藤:&樋口: 違う。

近藤: ほら、日本の女性と結婚した。

樋口: あ、エド・ロング?

近藤: エ、エド…?

奥平: それ、マイケル・ウインターじゃないの?

近藤: マイケル・ウィンターだ。マイケル・ウインター。

樋口: そう。マイケル・ウインターって最初に言わなかった、私?

近藤: あぁそうか。マイケル・ウインターが、と、ダートさんだったね。

樋口: うん。

近藤: アメリカ側は。そんなことをやって、協議会の最初は作ったのね。

樋口: それは85年。私は84年の11月から85年の5月までが研修期間だったので。うん。

インタビュアー: その時?

樋口: そう。

近藤: そう。だから言っても、皆、知ってる人間ばっかりじゃない。ほんとに知ってる人間。ツーと言えばカーと響く、仲間ばっかりで作ったから。でも一応、日米協議会っていうのは、障害者のね、協議会の基礎ってのはその時に作られた。

奥平: でも何か、なくなっちゃったね、それ。

インタビュアー: なくなっちゃったの?

近藤: うん。 樋口: 2年に1回で、そんなに、ねぇ。

奥平: てか、あんまり…、うん、続かなかったね。

樋口: うん。

奥平: 結局アメリカって、自分たちでお金を作らないのよ。日本が作らなきゃねぇ。

樋口: そうそうそうそう。

インタビュアー: そうなんだ。

奥平: 今もそう。あの、ウィーンって去年作ったでしょう? …あの、打ち上げたでしょう? …佐藤さんとか、大勢行って。だから、結局、日本が動かないと、絶対動かない。お金面では。で、口出しだけはしてくると思うけど。

インタビュアー: (笑)

奥平: ほんとだって。だから日米協議会だって、3回か4回やった?

近藤: ぐらいだったね。

樋口: うん。そんなぐらいじゃない?

奥平: 交代でやろうっていうのに、アメリカが全然お金作んないもんね。

樋口: うん。そうそうそう。

近藤: 動かないもんね。     

奥平: 私も1回ミシガンの時、あー、日本でやった時とミシガンでやった時だけど…。ねぇ。

樋口: ミシガン、私もいた?

奥平: いたと…、アメリカの時はいなかったか。あ、ちゃうちゃうちゃう。日本でやった時。

樋口: 日本でやった時はいた。

近藤: そういう…、そういう時に、ぱっと私が出るわけ。後、作ってしまったら運営するのは任せるけども。そういう意味で、DPI? DPIも、結成の時は、僕が中心に皆をまとめて連れて行った。

奥平: 日本DPI? 近藤: うん。

奥平: うん。 インタビュアー: DPI日本会議、かな? 違う、世界…

■【3上12】2018021905 近藤:樋口: 115分

近藤: 鮮明に自分の中へ残ってるわけ。

インタビュアー: うーん。DPI、1981年、シンガポール大会ですね。ふーん…。

近藤: はい。それね、えっと、フジテレビ、じゃない、朝日テレビの…、朝日テレビが、あの、ベトナムに行って、枯葉作戦を取材してくるんですよ。ベトナムの枯葉作戦。ところがそれまでに、世界のある国が、あの、報道関係が入ってるんだけど、どっこもアメリカが抑えてしまうわけ。それで報道させないの。ところがフジテレビ(ママ。「朝日テレビ」か? 以下同じ。)の、その頃の、彼は、取材して帰ったらすぐそれを、抑えられる前にパーッと報道してしまったの。テレビ流したの。大反響だったわけ。ところがそれを僕は見逃したのよ。

 で、その、DPIに日本の問題として何を持っていくか、と。その最初のテーマは、「障害者とはいかに作られるか」。障害…、障害者とはいかに作られるか、っていうのが、最初の、1回目のテーマだったの。で僕は、どうしていいか分からずに、そのテーマに合うものを持って行けなかったわけ。つまり僕が「行かないか、行かないか。」ってあっちこっち声かけたもんだから、発起人になっちゃってるわけ。ほいで僕が持って行かないと、誰か持って行かないんじゃないか、と思って、私は用意しようとしたの。そしてそれが報道された時に電話が入って、「近藤さん、フジテレビでやったよ。」って言うんで、「あ、それだ!」って飛びついたわけ。うん。でその翌日に…、報道された翌日に、フジテレビの、その、それを放映して…、したディレクターに会いに行って、「実はシンガポールでこういう目的で講演(?)がある。」って。「で、何していいか分からなかった。でも、障害はいかに作られるかいう、その現場こそ、今の、その、ベトナムを取り上げたい。」と。「だからそのフィルムを使わせてくれ。」って言ったわけよ(笑)。テレビのフィルム。

インタビュアー: ふーん…。うん、うん。

近藤: そしたら、「もうこれは、著作権がテレビ会社に行ってるから、普通はもう絶対出さない。」と。「特に枯葉剤というのはアメリカが抑えるから、もう分かってるから。でも、そういうことなら、僕も大賛成だから、ぜひ使ってくれ。」と。ただし、持って行くのに、とても、こんなフィルムだからね(笑)。長いの、テレビのフィルム。それを僕は、8ミリっていうんか?...に落として持って行かないと持って行けないじゃない。ほいで、それを貸してくれたわけ、これを。うん。

インタビュアー: ふぅん。運ぶのも大変ですね。

近藤: そう。そして、「それじゃだめだ。」言うたら、「じゃ、至急。」言うて、このくらいまでは、してくれたんだけど、それでもこんなもんは機械が違うじゃない、8ミリかなんかでやるから。8ミリにやろうと思ったら1時間1万円だったの。この、あの、フィルムを書き換えるだけで。ところがもうお金全部尽きは…、使い果たしてしまって無かったのよ。で、小遣いか何かにしよう思って5万円だけ残ってたの。だから5分間。

インタビュアー: うんうんうん。作ってもらって。

近藤: それが2階にある。まだ。

インタビュアー: おー。5分間だって。

奥平: 何が? え?

インタビュアー: 枯葉作戦の。

奥平: 枯葉?

インタビュアー: 衝撃的な映像。

奥平: あーあーあー。へぇー。

[00:03:38] 近藤: うん、だから、これを持ち込んだわけ。ところがシンガポールに入った瞬間、検閲で取り上げられちゃったわけ。これは、アメリカを、あの、批判するものであると。で、なぜそれがアメリ…、シンガポールなの?って思ったら、シンガポールは輸入でもってるわけ。生産じゃなく、輸入で。輸入の関税で、関税が国費になって、だからその中で一番大きいのがアメリカだったわけ。 インタビュアー: そうかぁ。あー、なるほど。 近藤: だからアメリカを中傷するものは、もう、取り上げられるわけよ。「そんなんじゃないだ。」と。「『障害はいかに作られるか』いう視点で、それも国際的な障害者がたくさん集まる中でこれを使うんだから。」と言う…、言っても通らなかった。それをあの、ホテルに入って、地元の障害者に言うたら、「そんな馬鹿なことはないよ。」言うて取り戻してきてくれた(笑)。そういう力のある人だったんでしょうね。取り戻してくれた。で、それを、DPIのその会場の中でやったら、批判が続々出てきて、特にアメリカは、「これは自分の国を、あの、中傷するものだ。」って言って、「そんなことやってない。」って言うわけよ。今まで全部アメリカは抑えてきたから。

インタビュー そうか。

近藤: そこは、認めざるを得ないわけ、もう。現にこのフィルムがあるんだから。ほいで、みと…、認めるんだけどね。「それはアメリカを中傷するもんじゃなく、『障害とはいかに作られるか』っていうことを、戦争というものを通して、今の時代、こういう作られ方をしている、ということをテーマとしたんだ。」と言ったら、やっとわかってくれた。大ーきな問題起こしたの。そういうことには僕は、ものすごいエネルギーを使うわけよ。しかし持って帰ってDPIをどう作るかっていうのは、人がするわけ。

インタビュアー: うん。

近藤: だから力の入れる所が違うわけよ。だから後のDPIは、ちょっとは入ってたけども、僕はもう関わらなくなった。

インタビュアー: あぁ、そうか、そうか。

近藤: ほいでDPIを作ったメンバーはといったら、違う人の名前は今でも出るけど、ほんとは一番の、僕は(?)だったの。

インタビュアー: 最初に、ね。

近藤: そんなことはどうでもいいの。そういうね、枯葉作戦ていうのは、今でも5分間の、うん、8ミリがケースに入ってあるけども、それを。

インタビュアー: 8ミリ観れるんですか?

近藤: うん?

インタビュアー: 8ミリ観れます?

近藤: 観れない。

インタビュアー: ははは(笑)。

近藤: 機械がないもん。

インタビュアー: そうですよね。そうかぁ。そういうのはやっぱり、何かね。観れる形で、どっかでね。

近藤: もうほんとに、僕が亡くなるまでにこれはどうかしないといけない、というようなものがあるわけよ。

[00:07:12]

近藤: それをねぇ、その頃のポイント…、あの、国民会議にしても、あの、いわゆる国際障害者年の中の国民会議などにしても、発起人の一人だったし、だからそん中入ってたけども、私が当日やったことは、全然違うやつだった(笑)。

インタビュアー: 国民会議?

近藤: そう。

インタビュアー: それは、何? 国際障害者年の?

近藤: の、あの…。

インタビュアー: 国民会議…。

近藤: 国民会議。国際障害者年のための一つの事業として、国民会議って開かれたんだけども、それでその発起人の中に私も入ってたんだけども。私がやったのは、新聞出し。いわゆる色んな分科会があるわけじゃない。その分科会に障害者を全部潜らして、そして英語のところは全部日本語にして、英語の新聞と日本語の新聞を作って、来た人たちに、いつでも無料で読めるように、そんなとこ一角に置くわけよ。そこの分科会では、

樋口: それは、

近藤: はい。

樋口: 京王プラザホテルでやったRIじゃないですか?

近藤: あ、これは、ちゃう、ちゃう。

樋口: 違う?

近藤: うん、これは国民会議。2回やったの。

インタビュアー: ふーん。

樋口: はい。それならいいですよ。

インタビュアー: (笑)

近藤: 1回目の時のニュースは、あの、手書きで、謄写版っていうの? あれでやったから、みんな手首を痛めた。2回目は、今度は、あの、新宿のホテルで、あれは、何会議? 恵ちゃん。

インタビュアー: RI?

近藤: RI、をやった時に、僕は一番上のあの、ほら、えー、

インタビュアー: スイートルーム。

近藤: うん、スイートルームを恵ちゃんに言ったら、「そのくらいの金なら出していいよ。」言われたから、スイートルームを押さえたんですよ。

インタビュアー: 自費で?

近藤: 自費で。

インタビュアー: えっ、へへへ(笑) 京王ホテルの? 京王プラザのスイートルーム?

近藤: 京王プラザホテルの、上。

インタビュアー: 上? 結構高いんじゃないですか。

近藤: 高かった。(笑)でも恵ちゃんは「いい。」って言った。

インタビュアー: (笑)恵ちゃん、すごい。

近藤: そして、前は手で書いて全部、痛めたから、今度は印刷機。「印刷機はどうしようか。」って言ったら、その町田の福祉事務所の役所の人で、僕の秘書のようにやってくれた人が、「こんなとこで使ってくれるのなら業者…、メーカーとしてはうちの、最新式の機械が動いたんだっていうことで売り物になるから」。うん。

インタビュアー: あぁ、なるほど。

近藤: 「会社に持ち込んだら?」って言われて、持ち込んでくれて、一番新しい印刷機がドーンと向こうで入った。ほいで、紙もつけてくれたし、技術者もつけてくれた。

インタビュアー: そう、RI?

近藤: RI。

インタビュアー: それはいつですか?

近藤: あ、RI入ってない?

インタビュアー: 入ってない。入ってないかな。DPI…、えーっと日中車いす市民友好交流って書いてある。

近藤: 違う、違う違う。

インタビュアー: その後は、ヒューマンネットワーク結成。

近藤: 違う。じゃ、それは載せてない。

インタビュアー: うぅん。でもRIだったらきっと調べれば分かるわね。

近藤: うん、だって、世界会議。

インタビュアー: 日本でやった?

近藤: 日本でやった世界会議だからね。

インタビュアー: そうですね。ふーん。じゃ90年代の終わりかな?

近藤: ほんで、日本で英語のできる人間を障害者の中に募集したら、いるの、いたのよ! で、それに腕章つけて…、

樋口: 88年じゃなかった? 確か。

インタビュアー: 88年。ふぅん。へぇー。

近藤: それで一番上で、事務所にして、新聞をどんどん出したの。で各分科会に障害者を散らして、散らすのには入るお金がいるじゃない。それが高いのよ。それ専門家会議だから。だから個人では皆払えないから、じゃこちらで払う言うて払って。

樋口: (小声で)そんなに私お金出したかな。

インタビュアー: (笑)

近藤: ほいで通訳の、うん、コミュニケーションアドバイザーっていうの、通訳の腕章はめさせて、で「これをはめてる人が通りかかったら通訳してくれるから、誰でも外国の人と話せるよ。」というようなことまで公表して。ほいで、どこの分科会ではどういうこと話されたっていうことを、英語と日本語で新聞出すの、どんどん。

インタビュアー: へぇぇ。

[00:11:55]

近藤: そう。印刷機をフル回転。そしたら、スイートルームだから広いじゃない。

インタビュアー: はいはい。

近藤: そしたら、無料でみんな泊まりにくるわけ。

インタビュアー: んふふふ(笑)。印刷室のはずが、宿泊になってしまった。

近藤: そう。事務局のつもりが、そうじゃないとみんなね、上行ったら、その広場がある、そのふれあいの場を僕作ったから。ふる…、ふれあいの場は、何かお母さん方が握り飯とか、果物とか皆持ってきてくれていつでもあるのよ。それを皆、食べ…、うん食べて。うん。その代わりみんなそこで寝るから、ゴロゴロ。お金がいらないから。だから朝5時からは、輪転機の何メートル周囲からはおっ出すぞと、いうようなことまで決めて。

インタビュアー: 輪転機回るから(笑)。

近藤: そう。そしたらね…、大阪から一つのグループが来た。それは、僕たちがまだその頃、私など使ったこともないパソコンを持ち込んだ。ノートパソコンを。でそれが、

奥平: 尾上さんかな。

近藤: 尾上さんなの。

奥平: (笑)やっぱり。

インタビュアー: へえー…。

近藤: そう、それが尾上さん。彼たちは、そこを拠点にまた動き出したわけ。うん。それはいい…、僕は「やっていいか?」言うけれども、許可を出すわけ。「うん、いいぞ。」と、「やろう。」と。それとか…、えーと、バリアフリーチェックって言ったっけ? 何か。

樋口: 交通行動は、それから、

近藤: 交通行動か。

樋口: 開始したんだよね。

近藤: そういうものの、起点にもなったわけ。

インタビュアー: 交通行動。ふぅん。

近藤: うん。で、そこから駅などチェックしに皆出て行くわけよ。

インタビュアー: ほぉー…。尾上さんなんかもそういう、

近藤: うん、関西あたりではそんなこともやってたみたい。

インタビュアー: あぁ、なるほど。

近藤: うん、つまり、一番最後は、そこまた閉めてしまうんだけど、あの日、「ホテルの費用は近藤さん出したの?」という電話が入るわけ、関西から。

奥平: (笑)

近藤: で「そうだよ」って言ったらね、「予算が通ったから、あの金、出すよ。」って言われて。「あぁそう。ありがとう」って言ったら、その運動が向こうが起こしたようになってる。(笑)

インタビュアー: あっ、へぇ(笑)。え、どこで出してくれたんですか? RIの事務局? そんなことない?

近藤: あれはね、えー…、RIじゃない。まだRIは、そこでは動いてなかった。

奥平: RIだったら88年ですよ。

インタビュアー: うん今、88年かなーって。

奥平: あぁ、そうか。

近藤: えーとね、

インタビュアー: それ、じゃ、日本側の、

近藤: うん、大阪のメンバーだ。

インタビュアー:&奥平: へぇー。

近藤: 大阪でっていうと、誰が出てくる?

奥平: え?

近藤: 古い人の、名前。

奥平: 楠さんとか

近藤: 誰?

インタビュアー: 楠さん。

近藤: 楠さんもそう。それから目の見えない人。

奥平: それが楠さん。

近藤: これが楠さん。もう一人、まだあるんだよ。そういう人たちが、

奥平: あぁ、あの、「ゆめ風基金」の人とか。

インタビュアー: 牧口さん?

奥平: あぁ、とか、古いよね。

インタビュアー: 牧口さん、牧口一二さん。

樋口: (遠くから) 障大連か、

奥平: え?

樋口: 障大連か、

奥平: あぁ、そうそうそう。

インタビュアー: 障大連?

樋口: あの、楠さん。

奥平: 今ね、出た出た。

[00:15:22]

近藤: その人たちが…、の予算がついたから言って、うん、「払っていいよ。」って言うから、「あ、ありがとう。」言うて、もらったわけ。そしたらその人たちが運動を起こしたようになってる。

インタビュアー: (笑)あぁ、なるほど

近藤: その、記録にはね。今の歴史の記録には。うん。

インタビュアー: あぁそうなんだ。

近藤: ぼ…、私が楽しくって仕方がない。私がやりたいことならそういうこと、交流の場なのよ。それと同時に専門家たちがやっている中に、その障害者問題がどういう形で、取り上げられてるかということを各分科会の中で、あのー、感じて。障害者自らが感じて、文章化し、それを英語と日本語で新聞を出すこと。

インタビュアー: すごいアイデアですね。うん。

近藤: そう。それを、その、えー…、RIの時にね、何かで僕も呼ばれて行ったのよ。「RIをやるからどうの」言って、最初のメンバーの時。で、あ、そうだって、そいで知ってたの。ところが本番の時には何もせずにそちらのことばっかりやったわけ。

インタビュアー: (笑)

奥平: RIの時、ボランティアしてた。

インタビュアー: へぇー。

近藤: そういうように国民会議の時もそうだったし、RIもそうだったし、そういうことが好きなのよ。うん。ほいで、自分が知らないほど、日本の障害者は優秀だってことが分かった。うん。英語のできる人間もたくさん集まったし。うん。機能的にどんどん動いてくれたしね。うん。それは楽しい、僕にとっての楽しいRIであり、楽しい国民会議なの。普通の分科会に出てどうのこうのやるよりも、はるかに全体が見れて。うん。

 だから自分の動きなのよ。そしたら本部はそれを知らぬごと、「あの時の新聞は、誰があれ出したんだ?」とか言って、終わってから、議題になって、結局近藤だったいうことが分かって、何か、「本部には関わらなかったんか、おまえは。」というようなことが言われて。「ごめんなさい。」って言って終わるんだけども。そういうねぇ、ことを2回もやったね。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: うん。だから企業の使い方、印刷機など全部新しい新品の最新の印刷機を、その、ホテルのスイートルームに上げてくれたもんね。で、あの、シートを敷いて、その上に設置してくれて、それで「紙も使ってくれていい。」言うて、どんどん置いてくれて、うん。使い方から何から説明してくれるけども、何かがあって止まったら悪いから言うて、人を一人付けてくれる。すっごい、サービスよ。

インタビュアー: 「この印刷機を使ったんです。」って一応、宣伝をしてってことでね。

近藤: そう、そう。もちろん、もちろん。協賛としてね。

インタビュアー: 素晴らしい。

近藤: 印刷機の名前までも書いて出すのよ。

インタビュアー: 上手だなぁ(笑)。

近藤: ねぇ。そういう運動の仕方も人が教えてくれるわけ。私は「そういうことしたい。」というだけであって、どうしたら何ができるか知らない。だから集まった人間が皆、「それは俺がやる。」「それはやる。」と言うて、教えてくれるわけ。そう。ただそれを最初にやろうという人間はなかなかいないのよ、やっぱり。うん。でその企画が、僕が好きだったんだね。

[00:18:42]

インタビュアー: なるほど。

近藤: だから、人生の楽しみ方っていうのも他の人とは、だいぶ違うみたいよ、僕は(笑)。うん。またそれができたということは、非常に幸せだったんだね。うん。

インタビュアー: そうですよねー。その辺はだってまだ、やっぱり役所の仕事をしながらですもんね。95年までお勤めだったわけだから。

近藤: そうなるかね。時代的に。

インタビュアー: うん、うん。

近藤: ふーん。

インタビュアー: それはやっぱり役所も、まぁ、ある意味、懐が深いというか。

近藤: そりゃそう(笑)。そう。

インタビュアー: ね。

近藤: だから厄介者だったと思うよ、役所の中でも。普通の職員から見れば(笑)。

奥平: (笑)それは言えてる。ね。

近藤: そう、だって言えないじゃない。市長が連れてきた人間だし。

インタビュアー: うーん…。いやでも市長が変わってもね、ずっとその、何ていうか、自分のやりたいことをやれるし、やったってのがすごい。

近藤: 仕事に…、役所について、4年?ぐらいした時か、人事課から、「近藤さん、ボツボツ、あの、変わりませんか。」と。「希望の場所を言ってください。」普通は聞かないのよ。普通は聞かないのに、僕には聞き来たのよ、そんなこと。それに対して僕は、「えっ? 福祉のお金は…、福祉の制度は、4年経ったら変わっちゃうの?」って言ったら、「あ、失礼しました。」言うて、引いていったまま、21年間来なかった。

インタビュアー:&奥平: (笑)

近藤: だから福祉の中の移動はあっても、そこから一歩も出ることなかったのは、もう人事課が、「近藤さんは、福祉以外には『うん』と言わない。」と、いうあれが通っちゃった。だから21年福祉にいたら好きなことができるよ。

奥平: 確かに。でも時代もありますからね。

近藤: うん。だから僕は町田市に住むつもりだったのが、恵子が、「高知に帰りたい。」言われて「おおっ!」と思うわけだ。

インタビュアー:&奥平: (笑)

インタビュアー: そうかぁ。高知に帰ってきたの、2007年ですよね。ちょうど10年ちょっとか。

奥平: 11年目…(?)。

近藤: 楽しいこと、ほんっとに楽しいことを、いっぱいするわけ。あの、役所終わってからも。だって町田にいたら、「近藤さん言うたら、役所にいたあの人ね。」で通るわけじゃない? うん。で何か、役所に頼みに行く言うたら「近藤さんに言ってもらおうよ。」って、みんなが、障害者が言うわけ。僕は交渉係じゃない? そう。だからねぇ、ほんとにうまく使われたしね。うん。

[00:21:19]

インタビュアー: 長崎とか沖縄とかこういうところでの代表とか、代表されたんですよね。

近藤: 理事長であり代表。今は、行橋の…、行橋じゃない、えーっ…

インタビュアー: (?)県代表。

近藤: うーんどこだ。行橋は福岡県。

インタビュアー: 福岡。

近藤: うん。行橋に、そこにも書いてあるだろうけれども。

インタビュアー: 福岡は書いてないかな。

近藤: 夢風船。下の方にどっか「夢風船」っていうのが出てこない?

インタビュアー: あぁありました。2003年になってる。うん。

近藤: うん。それをまだ今、理事長であり、代表よ。

インタビュアー: ここでまだ。ふーん。

近藤: それがねぇ、どういうことかというとね、障害者が組織を作ろうとした時に、特に、あの、地域の民生委員とか、(?)有能な人たちに、あの、役員になってもらって、組織作る方が作りやすいじゃない。

インタビュアー: そうですね。

近藤: 色んな広がりが期待できるから。ところが運営にも口出すのよ。

インタビュアー: ああぁ、そういう人たちは。

近藤: うん。運営の中で合わなくなっちゃうわけ。うん。そしたら組織は潰れていくわけよ。で、代表権が障害者からその人たちに移っていくわけ。その時に代表は悩むわけ。うん。そんな時に「近藤さんに。」って来るわけよ。ほいで相談にきて、「近藤さん、代表やってくれよ。」って言うわけ。「理事でもない僕が?」って言ったら、うん、「今度のあの臨時会で近藤さん、理事にするから。」って言うわけよ。うん。ほいで僕は引っ張って行かれるわけよ。ほんで「近藤さんを理事にする。」言うて。でその1回目は僕は理事した。その次の理事会には障害のない、口やかましい人、全部、僕が切ってしまうわけ。近藤の立案により。それほど、近藤というのは、色んなことで、人…、人が口出しできないような雰囲気を持ってるらしいのよ。

インタビュアー: (笑)そうですか。

近藤: だから、会が潰れるような(?)には近藤さんを頼もうと。それとか、役所がどうしても(?)との関係がうまくいかない、事業をおろしてくれなくって。他所ではたくさん自立生活センターに事業をおろしてるのにね、沖縄はおろしてくれないと。「ほら、近藤さんに頼もう。」言うんで、僕を理事長であり代表にするわけ。その代わり沖縄に行くでしょ? 空港降りて、迎えに来てる車は、その、僕たち仲間の会じゃない。そしたらそのまま県庁に連れて行くわけ。県庁の福祉の人間に、で、「この会の新しい理事長です。」と。うん。で僕の知識を彼たちにおろすわけ。その次行くのが、今度は地域の福祉事務所なの。福祉事務所長がまた出て来て、また東京の新しい事情を、僕を通して、もらうわけ。それを何回か繰り返すうちに、障害者との関係が良くなるわけ。そして、うん、おろしてくれるわけ、事業を。そしたら僕は辞めるわけ。そういう使い方が僕にあったのよ、あっちこっちで。

インタビュアー: なるほど…。

近藤: 長崎は逆に、あの、長崎というところは、役所の部長クラスは、あの、厚生省から交代で回されて来るの。ほいである時に、福祉事務所長…、福祉部長が厚生省から来たら、女の人で、それは、あの、エイズとかそういうこと担当したお医者さんだったの。うん。そして、あの、長崎市にいた、その、ある活動していた僕の友達が、「近藤さん、そのあんたたちがやってる事業を佐世保にも作りたいけど、どうしてもうまくいかない。」と。「障害者が動かない。」と。で「部長は知ってんだけど、部長に会ってくれないかな。」言うから、会ったわけ。そしたら意気投合して「作ろう。」と。ついては、「佐世保市の障害者は、私、誰も知らないから。だって厚生省から回って来ただけだから。で、そんな運動もないから、近藤さん、あなたが作ってくれよ。」と。「予算は回すから。」って言って(笑)。

インタビュアー: ほー…。

近藤: うん。ほいで組織を作って、私が理事長になり、で地域の障害者を集めて、事業を起こすわけ。そうやって。それが、佐世保市。だから、その部長がまた変わっていくわけじゃない?

インタビュアー: そうですね。うんうんうん。

近藤: それから変わっていって、今度は国連の何かに入ってたね。

インタビュアー: あー、そうなんだ。

[00:26:25]

近藤: 今また違って、何かやってるけどね、帰ってきて。そういうように、非常に切れ者の、エイズとかそんなのにみな関わったお医者さんだったの。そこで当事者性というのを、あの、佐世保市に作りたい、という気持ちが彼女の中へあって、「障害者の姿が見えないんだよね。そうは言っても。」って言われて。で、私が…、私の事務所まで来たの、町田まで。部長が。うん。相談に来て。「やりたい。」って言って。「どうしてやれるか。」言うたら。「あんた来てくれ。」って言われて。「でも引越しはできないよ。」言うたら、「そりゃ分かってる。お金は出す。」と(笑)。すーごい作り方でしょう?

インタビュアー: すごいですね。 

近藤: そう。で、事務所は福祉センターのようなところでやるから、家賃はいらないと。うん。それはうまくいった。すっごくうまくいって、その代わり、よその団体から羨ましがられた。「何であの団体だけは、後で事業起こしたのに、福祉センターに入って家賃はいらないの?」と(笑)。それはそういう理由があるわけ。佐世保市の部長から依頼されて、事業作りに、私に。うん。僕は「事務所どうしようか?」といった時に、うん、「市としても予算は出す。出しにくいとこもあるので、場所を提供するよ。」言うて、場所を提供された。で、作って動かしていってるうちに、「もうここまで。」と思った時に、みんなの意見を聞いてみたら、うん。僕も思ったの、地域の人に任せたいと。そしたらね、障害者が頼りにする男の元気な人がいたの。その人に任せた瞬間、2年、で潰れた。

インタビュアー: へぇ、その任せた人も障害のある人?

近藤: 障害ない人。

インタビュアー: ない人だったんだ。

近藤: そう。この人が事業拡大したの。うん、やった瞬間に…、その人が理事長になった瞬間に、ばーっと事業を拡大したの。それから1年もたないうちに潰れちゃった。だから障害者の(?)がなくなっちゃった。

インタビュアー: ふーん…。それは残念でしたね、でも。

近藤: そういう意味で、友好…、あの、沖縄なども、その、うまく、障害者の団体の運動と、県庁とか地元の役所が、うん、こう、仲直りって言うのかな。関係が、疎通ができる接着剤に私が作られた…、使われたわけ。

インタビュアー: ふぅん。素晴らしい。うん。

近藤: 「近藤さんが来た。」って言ったら、東京の人だから新しいじ…、あのニュースを、情報をもらおう思って、みんなメモ帳と書くもの持ってくるんですよ(笑)。課長クラスが。そう。で30分から1時間ぐらい、うん、会議して話して、で、「また来ますからよろしく。」って言って、それを続けていってるうちに、その、地域の障害者団体と疎通ができて。うん。またそれを…、それをそうしようと思って、僕を使うんだけどね。地域の障害者だって。

[00:29:45] インタビュアー: すごい、すごい。権利条約も作りましたもんね、沖縄はね。そん時にもやっぱりね、協力し合ってましたもんね。うん。素晴らしい。 近藤: だから、そういうところでも、その、車いす市民集会があっちこっちに行った時に、やっぱり役所を動かさないと、市民集会の成果というのは上がってこないところはいっぱいあるから。だって道路とかそんなんが全部関わってくるからね。交通機関とか。

インタビュアー: ふーん…。素晴らしい。

近藤: だから車いす集会がそれだけ続いたことの背景には、やっぱりそういう、当事者そのものが、その、家からちょっと出たぐらいでは人の前で話も何にもできることないじゃない。しかし、「その会場に来るまでの体験を話しなさい。」言うたら、話せるじゃない。だから誰でも話すのよ、みなさん。ほいで、自分の意見も聞いてもらえるから、だから「あっ、自分たちもそういうこと言うことによって、こういうことに参加できるんだ。」と自信を持てるわけ。それまで家庭の中ばっかりいたから自信の持てない障害者が、そういうとこ来たら自信が持てるんです。それはまさに私が、仙台に行った時に、うん、雄弁になったのと一緒よ。そう。人間が変わってくるわけ、だんだんだんだん。で自分が人の前で発言ができるようになるし。で、障害というものがマイナスじゃなく、生きることの不便なことを運動として、あの、解決して行く道っていうのはだんだん、市民集会で見えてくるわけ。そう。ほいで地域が変わるんでしょう? すっごい大きな運動だったわけ。

樋口:  (小声で)しゃべる間がないね。

インタビュアー: (笑)

近藤: それでないと、朝日新聞が30年間も、うん、予算をつけてくれるはずがないじゃない。30年間だもん。

奥平: 30回までやったんですか?

近藤: 15回。2年にいっぺんだから。

奥平: あぁ、そうかそうか。

樋口: それでも最後はほら、秋田でやって、その前ね。

奥平: やってた、やってた。一緒に行ったもんね。

樋口: 西宮でもやったでしょう。

奥平: 福島とかでも。

インタビュアー: うん、福島はある。

樋口: 福島、秋田。

近藤: もう、もちろん、福島、入ってるよ。

奥平: じゃ、角田さんって何回目からやってるの?

樋口: 角田さん…、

近藤: 角田さん後の方だ。

樋口: いやいや。そんなに後じゃないでしょう。

近藤: 5回…、

奥平: ねぇ私たちずっと一緒にやったもんね。

近藤: 5回、じゃないな。さい…、3回くらいじゃないだろうか? 角田くんが関わってくんの。最後の方の。

樋口: 最後の方? そうでもないよ。

奥平: もうちょい、西宮… 近藤: だってあの人はあれやろ?

インタビュアー: 兵庫の集会かな?

奥平: 西宮っていつ?

近藤: あの、東海道、車いすで、動く…、

インタビュアー: 兵庫は9回で1989年。

奥平: じゃあそっからだ。そっからだ。

近藤: あ、兵庫ならそうだね。

インタビュアー: 町田ヒューマンできた年。ここぐらいだと、真ん中よりちょっと…。

近藤: 何回目?

インタビュアー: 9回目だそうです。

近藤: 9回目。

インタビュアー: 兵庫集会。

奥平: じゃ、結構やった。

インタビュアー: で、9、10、11、12…。

奥平: だって私たちJILで一緒に働いてた時ね、委員会とか、交代で行(い)ったりしてたよ。

近藤: これはね、色んな人を巻き込まないとできない運動だから。

樋口: (奥平:に向かって)あぁ福島とかね、そういうのやった、やった。

奥平: 準備委員会。

樋口: うん。

近藤: で、障害者が社…、社会問題に気づいて発言できる、というのは、非常に何かがないと、そういう体験できないのよ。で、外に向かって意見を自分が言う、というのは、自分のことしか言えないからね。だから、その会場に体験として参加する。公共交通機関を使って来る時に、「あなたがここへ来るまでに体験したことを言ってください。」というのが一番基本なのよ。それならみんな言えるじゃない。「あっこは怖かった。」とか、「ここはこんな人に会ってよくしてもらった。」とかって喜んで言えるわけじゃない。だから自分の発言を人が聞いてくれて、それが意味のあることだと、いうように勘付くきっかけが、その車いす市民集会だった。

インタビュアー: ほんと、エンパワーメントって感じですね。

樋口: 私は、どこだっけな、「2年間お風呂へ入ってなかったから、ボランティアがここはいてくれて、入れてくれたから、垢が、皮のように出た。」とかっていうのを(笑)言ってるのを、あの、聞いてました。

奥平: あぁ聞いたことある、へぇー。

インタビュアー: それはどこで、ですか?

樋口: それはどこの集会の時かな。最初の頃。

インタビュアー: 割と最初の頃?

樋口: 東京集会かもしれない。私は、そんな…、そんなに手伝ってないから、

奥平: ねぇ、その人さぁ、

近藤: うん、恵ちゃんは関わってないからね。

樋口: はち…、70(しちじゅう)…、70(ななじゅう)…、

インタビュアー: 東京はね、79年だって。

樋口: 79年の頃だと思う。

インタビュアー: それは東京大会ですね。

奥平: じゃ、汚かった、その人?

樋口: いやいや。

奥平: 覚えてないか。

インタビュアー: (笑)お風呂入った後だからね、大丈夫じゃん。

樋口: (笑)大丈夫じゃない?

奥平: 2年て、すごいね。

インタビュアー: (笑)えぇー、そうかー…。

近藤: そういうねぇ、意見が出てくるのよ。

樋口: それでも当たり前と思ってるっていうか、ねぇ。うん。

近藤: それで、そういうとくい(?)で、それを重ねていったら、当事者性に気づくわけ。例えば交通問題だなんて、家にじっとしたら言える段階はないじゃない? 使ったこともない交通問題。しかし障害者と交通問題ってのは大ーきなテーマだったわけよ。しかし、運動し出したら、つながりが出てくるわけ。だって、交通ってのは移動することでしょ? 家に障害者が出られないということは、家からは出られないのに、家の中までは動いてるわけよ。

インタビュアー: うんうんうん。

近藤: 行くのに、体を動かすのが不自由だから出られない。で、お母さんが高齢だから、手伝ってくれないから出られない。というその、移動することは、何も交通機関って使わなくっても、それが重度障害者の移動の問題から始まる。でそれを話せるのは、本当に、障害者だけしか言えないじゃない?

インタビュアー: 本人ね。うん。

近藤: そこから始まるんだよ、と。で、それを言葉にするときに運動になっていくんだ、っていう、その原点を、僕たちは気づいて、障害者仲間に伝えるわけよ。それが僕たちの、リーダーの仕事だった。「それなんだ。その言葉で、それが運動なんだよ。」って。「そうだ。君の家の敷居は高いんだね、そこを車いすで越えるの大変だもんね。」というような。そう、それがまちづくりの中でもそれが必要だし、その言葉が。移動と交通の問題。ひいては、後(のち)になったら、電車の問題であろうか、障害者を、あの、何か、街にもっと出ようという運動になるとかいう、そういう基礎を…、が、そこから養われるわけ。そういう、活動家を作っていくわけね。うん。そういう仕事が、役割が、どうやら僕だった、みたいね。そういう時代だったんでしょう、きっと。だから私は、他の人よりも、原点、原点って言って、原点を突き詰めるのが私の仕事だったみたいなのよ。よく原点っていう言葉を使った。

[00:37:00]

インタビュアー: ふぅん…。うん。やっぱり最初、なんですよね。何でもね、色んな活動の。

近藤: 最初ばっかりよね。

インタビュアー: 最初、いつもやって。

近藤: そう。長く続いたのが車いす市民集会で、後のはもっと、最初、最初、最初ばっかり。

インタビュアー: (笑)

奥平: でも、色んな人と関わってるね。誘い水で。

インタビュアー: そう。そこからやっぱり繋いでいくっていうのがね。次に渡すってのが大切。

奥平: だってあの、何だっけ、国際障害者年推進会議も、リハ協っていうか、リハ協の中にあったよね? 確か、委員会。違ったっけ。

樋口: うん推進委員会。

奥平: そう。え、だって調(しらべ)さんとかね。

樋口: うんうん。

インタビュアー: うん! 調さんだったね。

奥平: 今でもあれ、JDの事務局やってる荒木さん、とか、すごい何か頑張ってたし。

インタビュアー: 荒木さんわかんないけど、調さんってずっとそういえば、昔いつも何か書いてる人だった気がする(笑)。

近藤: そうそうそう。

奥平: 大学の先生だったよね。違ったっけ?

樋口: ううん、東京コロニーの理事長。

近藤: うん。東京コロニーの所長だった。調さんはね。

樋口: あの…、あの人も、結核のサバイバーだから。

奥平:&インタビュアー: ふーん

近藤: そうそう。

樋口: だから、私が、肺活量が600か700ぐらいで、「そんなはずは絶対ない。」って。「そんなんじゃ絶対、そんなに動けるはずがない。」って言うから、それはみんな、あの人みたいにがっしり大人になってから、結核して、肺の能力がどんどん落ちたり、肺が片っぽなくなったりとか、してる人とは、全然違うと思うの。「この体で、出来る活動ってか、内臓なり何なりね、が、やって来れたから、私はこの体で700の肺活量で、ここまで出来てるんですよ」って言ったけど、「そりゃ絶対間違ってる。」って、こう、言われてた(笑)。

インタビュアー: (笑)

樋口: (笑)

インタビュアー: こういう感じなんですね。硬い人なんですね。

樋口: うん、そう。

インタビュアー: ふぅん。

近藤: だから今、さあっと流したところで、81年の国際障害者年の日本推進協議会も触れたし、DPIも触れたし、日米サミットも触れたし、

インタビュアー: はい、結構、触れていただきました。

近藤: 日中車いす友好、これはね、朝日の事業だったの。

インタビュアー: 朝日新聞って書いてありますね。

近藤: 朝日新聞の何周年か記念、に、障害者…、日本の障害者とあの、

インタビュアー: 中国?

近藤: 中国の障害者の交流を企画したの。そして日本は、言うたら「近藤連れていこう。」言うて、障害者側の、あの、団長じゃないけど、そういうトップになっちゃったわけ。で、これを運営する側は朝日の、かなり偉いさんが立ったわけ。で僕は障害者側だったの。この時、ケ小平の息子が、やっぱり車いすに乗ってたの。

インタビュアー: あー、車いすですよね、うん。

近藤: それも日本に来たときに、ケ小平言うたら、ほら、大統領じゃない?(笑) の息子がね、もうほんとに、車いすの下に、プラスチックの袋のようなんがあって、そこにおしっこを溜めてるのよ。たくさん溜めてるの。「これ、何とかしてやりたいな。」と思ってね。で、中国の話がだんだん分かってみたら、中国が「来い、来い。」って言うのね。で「来い言うても、そんなに来たら不便だし。」って言ったら、「俺が窓口になってるから来い。」って言うわけ。ケ小平の息子が障害者団体とか、あの観光関係のトップに立ってるわけ。ほいでお金をも…、儲ける窓口なのよ、それが。

インタビュアー: ふぅん。お金を儲ける窓口。

近藤: だから、いや、つまり、観光でお金を取るわけ。その代わりね、行くって言ったら、どこ…、そちらでプログラム組むって言うわけ。そしたら「どことどことどことどこと回れ。」と。で、「どこには何を、お土産持って行ってくれ。」と。それがもう、そのあれ、あの書くもの、そんなボールペンから言うてくるわけ。「ボールペン30本を、ここのお土産にしてくれ。」とか。

インタビュアー: (笑)

奥平: へぇー(笑)。

樋口: 細かい。

近藤: そんなことまで言ってくるんだよ。

奥平: へぇー、そうなんですか。

近藤: そう。そっりゃ細かい。お土産は。

インタビュアー: (笑)

樋口: お土産が細かいの?

近藤: お土産の品目が細かい。

奥平: まぁその頃なかったんでしょうね、なかなか。

インタビュアー: 何でだろう。あぁそうか、欲しいものが結構、あったのかな。これがいいっていうのが。

近藤: そりゃ、あの、日本のものいうのと、は、レベルが違うじゃない。全ての点で。うん。

インタビュアー: まぁそうでしょうね。

樋口: まぁ違うじゃないって、今もそうとは言えないから(笑)。

近藤: いや今は違う。

樋口: 前は違ってたでしょう。

近藤: そう。

樋口: 今はね、どんどん。

近藤: 向こうに行ってみたらね、その障害者の仕事ってのは、どういう仕事かと思ったら、鉛筆が、山と...ほんとに山にこうなってるわけ、鉛筆が。ここに女の人で、足の悪い人が一人いて、で、左側に、こういう紙が、こうなったんがあるわけ。これ半分に切ったぐらいの。山からガラガラっと降りて来た鉛筆をパッと握ってピッとこん中入れるわけ。ほいでこれでいいわけ。一つできる。またその次も紙をとって、鉛筆をパッと握ってピッと入れるわけ。

樋口: 100本とか言うんでしょ、それが。それが100本とか50本とか束ねてるってことでしょ。

近藤: それが12本に1ダースになってるわけ。

インタビュアー: あーあー、あーあー。

近藤: 指感覚がものすごい敏感で。

インタビュアー: あぁ、もう機械のようになってるんですね。

近藤: そう!

インタビュアー: 計れるように。

近藤: ぴちーっと12本全部、どんどんどんどんやってくわけ。

インタビュアー: すごい。

近藤: この人がここのトップだって言われ…、言うわけ。ほいで、すごい評価は高いんだけど、与えられてる権限はゼロ。お金も安い。

インタビュアー: 安い。あぁ、まぁそうでしょうね。

近藤: そう。トップって言うのなら、トップの扱いやってるんか思たら、全然。で休み時間になったら、目の見えない人が、5人か6人、うん。片一方の肩に手を置いて、手を振って、入ってくるわけ。

奥平: あーあー、連なってか。

近藤: そう。で音楽を聞かせてくれて、終わったらまたさーっと出て行くわけ。

インタビュアー: (笑)

近藤: うんざりしちゃうわけよ。だから交流とか何とか言うわけじゃないの、もう。それは、やっぱり、あ、僕たちはケ小平が迎え入れた、あの…、

インタビュアー: お客さん?

近藤: 団体だって言うので、その…、そこでは破格なのよ。そう。だから、ほいで買い物しようと思ってデパートに行ったら、「駐車場はここへ停めて下さい。」って言って、車を止められるの。何でそんなことするんか思ったら、デパートからの贈り物があるの。一人一人の私たち日本の観光団には。

インタビュアー: お土産?

近藤: で、ケ小平から…、ケ小平が、その…、あのデパートを選んでくれたから、あなた達によくするのはケ小平に対するお礼だって、こういうことなの。だから、「ケ小平さんの息子さんによろしくお伝えください。」と。で「これからのお客さんも、また回してもらうようにぜひ頼んでおいてください。」というのが、もう、明らかにね、包みに残ってるわけ(笑)。

インタビュアー: (笑) 賄賂ですね(笑)。

近藤: 賄賂も賄賂。もう、自動車へ帰ってみたら、そん中に人数分キチーッとお土産が入ってる。

奥平: へぇー。 [00:44:34]

インタビュアー: 何人ぐらいで行ったんですか、そしたらそれは?

近藤: 障害者が15人ぐらいじゃなかったかな。

インタビュアー: ふーん。選ばれた人が?

近藤: そう。そして、あの、万里の長城まで連れてって上がってくれるんだけど、全部兵隊さん。兵隊さんがパーッと抱え上げてバーっと上がって。

樋口: RIもそうだったよね。

奥平: うーん。

インタビュアー: 怖そうー。

近藤: 怖いよー。

樋口: あの人も怖かったよね、あの山口の。

インタビュアー: 何か、結構、段高いですよね。

近藤: 高い高い。

樋口: 高いより、何より、

近藤: 山だから。

樋口: 何にも話もしないで、ダッと寄って来て、車いすの四方からカッと抱えて、パッと持っていくから、

インタビュアー: さらわれた感じ?

樋口: キャーッ!ていう感じで、もう本当にびっくりして、カメラ投げちゃったよね、誰だっけ? 何とかひさこ(久子?)さん。

奥平: あーあーあー、あ、そうだね。

樋口: ねぇ。うん。サリドマイドの人。

インタビュアー: へぇー、たがやまひさこさん? 違うか。

近藤: (?)は、すごかった。

奥平: 何かねぇ、とにかく、もう、もう杓子定規なことしかやんない。言われたことしかやんない。

樋口: 機械のように。

奥平: そう。

近藤: それも、ケ小平の息子を通してきた観光団でしょ。特別な扱いがある。その特別扱いが、特に、そういう、失礼になっちゃいけないというんで、パーッと、全力(?)でやられるわけ。そして僕は、障害者側の団長でしょ。だから特別扱いがあるのよ。それは、夜のパーティ、の、その上海なら上海市長が開く、あの、パーティですよ。うん。そしたら、そこの偉い…、一番偉いトップの人がここにいるとすると、右側が日本の企画側の団長、左側が障害者側の団長。だから私、ここいるわけよ、この一番偉い人の左側で、必ず。で自分で選ぶんじゃなく、偉い人が取ってくれるわけ、みな。自分で選ぶんじゃなくて、取ってくれるほど。ほいで、食べないわけいかないわけ。とうとうおかね…、あの、体壊しちゃった。その品目がすっごいたくさんあって。うん。で、とうとうもう、「あの夜の招待だけは私は出ません。」言うて、何回目からは拒否しちゃったの。体を壊して。

インタビュアー: そんな、どれ…、1週間くらい行ってたんですか? じゃ。

近藤: 1週間。

インタビュアー: ふーん。じゃ毎晩じゃちょっと大変ですね。

近藤: ほとんど毎晩。

インタビュアー: へぇー…。

近藤: そしてそれがね、テーブルが20ぐらい。ひーろいところにテーブルが20。ほいで一番いいところを、その、団長さんとか取って、それが私んところじゃない。真ん中に、あの、中国のテーブルが二重になってるでしょ? 真ん中グルグル回るやつ。

インタビュアー: あ、はいはいはい。

近藤: あれなのよ。そして、他のところとは違って、このテーブルは、まず、最初に持ってくるわけ。鍋なら、鍋を。ポンと置いたら、団長さんが、「この鍋のこの材料はこの州の、どこそこで取れたものです。それはこういう人たちが、こういう形で育て上げてる、ここの名物です。」とか言って、長々長々説明するんですよ。

インタビュアー: (笑)

近藤: うん。そしてそうしながらグルーっとこう、ゆっくり手で回してくれて、品物を回っていくわけよ、テーブルを。ジーッと見ないといけないわけだ。知らん顔しちゃいけないわけ。「あ、そうですか。」って聞かないといけないし。だって団長のテーブルだよ。そう。そして説明が終わったら取ってくれるまで向こうがするわけ。それで食べないといけないの。それが、自分の思うようにいかないから、体壊しちゃうの。

インタビュアー: そうですねー…。ふぅん…。

近藤: そう。で、おしまいの、もう、いくつかのパーティは、もう体壊して「出なくっていいから。」って言われた。で、出なかった。そのくらい苦しいもんだった(笑)。パーティが。そう。もう本当に、何ていうんだろうね、形が入っ…、形が出来てしまってるのよ。

インタビュアー: うんうん、中国のね。

近藤: みんなはワーワー言いながら食べてるんよ。こちらのワーワーはレベルが違うじゃない。私は障害者側だから私の方にはあんまり話こないで向こうばっかり話すからいいけれど、時間が持てないじゃん。

インタビュアー: (笑)大変だ。

近藤: その、説明する人の前に、こういう紙の衝立があって、ボール紙の厚い目で、綺麗な、金色な。それに晩のメニュー、何が来るか全部書いてあるわけ。「今どこいってるかな?」思って覗いて見るわけ。「だー、まだな、これだけ来るんかよ。」ってうんざりするわけ。

樋口: 中国の味って単調だよね、何か。油が濃くって。

近藤: ほんっとに。

奥平: あぁ。

近藤: だからそれはほんとに、苦しい旅行だったよ。

インタビュアー: でも中国とは、じゃそれ以降何か、ケ小平の息子さんととか、連絡とかそういうのは?

近藤: 全然。うん。あの、「来るときには何を持って来てくれ。」って朝日新聞に連絡が行ってた。「持って来てくれ」ばっかりなの。

インタビュアー: (笑)

近藤: そして、他の旅行団には、ケ小平通さなかったら、すっごい手続き煩雑で。で、あの観光バスで行こうと思ったら、それこそ、中国製のバス。古ーいバスしか回ってこない。あの観光バス言っても、国が持ってるんだから、みんな。

インタビュアー: ああ国営ですもんね、全部ね。

近藤: そう。で、その、サービス会社…、観光会社が、今度50人来るいうたら、50人乗れるバスを国に借りに行くわけよ。うん。だから関係のない所ではふーるい、それこそ屋根の上に黒ーいビニールの袋のようなのがあると思ったら、それが燃料。ガスなの。それがもうすっごく穴が空いていて、50パーセントしか使えないとかいうようなんが走ってるわけ。

インタビュアー: 怖い。

近藤: だから暑かっても暖房とかできない…、いや、冷房とかできないわけよ。その点、日本から行くとお金を落とすから、だから、日本製の車(笑)。日本製が一番レベルが高いわけ。

インタビュアー: そうか。

近藤: レベルも…、こう、バスのレベルでも何段階かあって。で、うん。だからそんなことが、1回中国に行ったら、もう全部見えてくるわけ。そう。だって、すごい観光地、の、中に、車乗り入れられないと書いてあるのに、大きい門をパーッと上げて、「はい、ここ。」いうたら、サッーっと走っていくわけ。それはケ小平から許可を受けた人間が、

インタビュアー: すごいなぁ。

近藤: 案内人が一人乗ってるわけ。そう。その人が降りて、一口聞いたらどっこでも行っちゃう。そう。

インタビュアー: 怖い国ですね。

近藤: 怖い国、怖い国、もう。それとかね、天安門ってよく言うじゃない。

インタビュアー: はいはい。

近藤: 天安門には、エレベーターがついてるの。誰も知らないエレベーター。

インタビュアー: へぇー(笑)。

近藤: これは毛沢東が老後に乗った、うん、使った、毛沢東のためにできたんだって言ってた。で、あなたたちはケ小平の、その、子分じゃないけど、声がかかってるからここを使って下さい。普通は兵隊が上げるわけよ、バーッと。あの、門の上に抱え上げるわけ、車いすを。ところが、私たちはエレベーター使わせてくれるって。エレベーターの中には真っ赤な椅子があって、「これが毛沢東が座った椅子です。」っていうわけ。

インタビュアー: (笑)すごい。

近藤: そう。

インタビュアー: もう国賓級ですね、じゃあね、扱いはね。

近藤: そう、もう国賓よ、うん。で、それだけお金を落とすのよ。お金を落とすいうより、要求されるの、中国から(笑)。要求されたお金、それを納めないと、呼んでくれないのよ。動かないの。

インタビュアー: ふーん…。まぁでも朝日新聞がついてるから、朝日新聞の方でやったんですね。それはね。

近藤: そう、朝日新聞なの、すべて。それも僕はその障害者側の団長になったもんだから、その裏が全部見えてくるわけね。もうほんとに、嫌気がさしてくる。それがその、うん、中国交流団の中身です(笑)。

インタビュアー: 色んなとこにね、行っておられるから。海外、含めて。うーん。

奥平: 恵子さんも聞かなきゃ。

インタビュアー: そう、恵子さんも聞かなきゃ。

奥平: もうだいたい終わった?

インタビュアー: まぁ、終わってはいないけど二人で多分話していけるんじゃないかな、と思うので(笑)。ね。

近藤: だって次はもう、町田ヒューマンネットワークの結成だもんね。

奥平: あ、まだか。(爆笑)

インタビュアー: でもね、その後の話、少しね、していただいてるから、そんなに、うん。

近藤: 後の運動もいくつかあるけど。大分話してるよ、もう。

奥平: ヒューマンネットワークは大切だから、恵子さんと、

インタビュアー: うんそうそう、飛ばしながら。

樋口: 89年。

インタビュアー: 89年。恵子さんと、木下さんと、堤さんと、近藤さんと、

樋口: 近藤さんと、それからあの、その、RI、世界会議の時に手伝ってくれてた役所に勤めてるボランティアの人と、うーんと、あともう一人、CPの人で、あの…、

奥平: あの人?

樋口: 神奈川から来た人。

奥平: 誰だっけ? あの人の旦那。

樋口: 旦那?

奥平: あれ? えっと、忘れちゃった、名前。夫婦で障害者で、奥さんはポリオで、旦那がCP。

樋口: あぁ、ヒッピー。

奥平: あぁヒッピー。

樋口: ヒッピーは、いや、私たちが立ち上げてから、それこそ朝日新聞厚生文化事業団のお金をもらって、夜間集中講座をやった時に参加して来た人。

奥平: あ、じゃ違うんだ。

樋口: あ、違ったかな。

近藤: うん、もっと後だったね。

樋口: 八王子でか。

奥平: じゃ、立ち上げは、えっと、恵子さんと、近藤さんと、木下さんと…、

樋口: 6人ぐらいかな。私が一応、「この指とまれ。」って言って。で、とまってきた人たちで「何がやりたいか?」っていう話をして。それで、まぁ色々言ったけど、「結局はそれって自立生活センターだね。」っていうことで。で、ヒューマンを踏襲して…、あの、ヒューマンケア協会の活動を踏襲して、私がみんなに伝えていくことにして。で、まず「お金がないから、場所を借りるのをどうしようか。」っていうことで、あの、さっきから出てた、仙台行って、仙台のボランティアとかの活動してた人で町田市の市の職員になった人がやってる、こう、ボランティアビューローみたいなところ、ま、市の施設、で、そこに居候をして。で、「ここに来てくれたら、いつでも相談とかできるからね。」って言って、色んな人に言い言い、電話が来るといけないので、「ちょっとここで待たせて下さい。」とか、言いながら、事務所に居座ったりなんかして(笑)。

インタビュアー: (笑)

奥平: でもその前にさぁ、恵子さん、あ、これは終わった方いいけど、ヒューマンケア協会のことも語ったほうが、よくない?。

樋口: そうだね。でも私が語ると中西さんが、あれかな、その…。

奥平: いいじゃん、二人から聞けば。

インタビュアー: 大丈夫、大丈夫。

樋口: うん。まぁ、あの、ヒューマンケアは、あの、私と真砂子が、あの、バークレーで同居してる頃、ルームメイトとして居た頃、中西さんは高校生の男の子を連れて、あの突然バークレーにやって来て。

奥平: あ、そうそうそうそうそう(笑)。あれ、突…、知らなかったの? 中西さんのこと。

樋口: 中西さんは私は、見たことはあった。でもそんな話をしたこともなく、確かあの、天童で、山形で車いす集会が開かれた時、そうそう、矢吹…、あの、矢吹さんのところ、に、あの、それこそ大久保…、大須賀さんの運転する車の助手席に、あの、(笑)中西さんが乗って、やって来て、ドアを開けて…、助手席のドアを開けて、お腹ポンポコ叩いてたっていうのは覚えがあって。ほんで、(笑)バークレーで会ったときに、「このお腹の叩き方、どっかで見た。」と思ったら、その、山形の時で、それが初回で。だからバークレーで2度目。で、私がアメリカから帰ってきて、あの、まだ時差ボケもしている、ぼっっとしてる時に電話が来て、「一緒にやってくれませんか。」って。毎日、人が夕ご飯の準備を始める頃になると、電話してくるのよね。

奥平: (虫の鳴き声のような電話の呼び出し音に対して、) 何、これ?

樋口: おーい、すみって。 奥平: おーい、すみって言ったの(笑)。

樋口: (電話に出て) はい。

奥平: 大須賀さんってすごい、キーパーソンなんだよ。

インタビュアー: そうだね。

奥平: そうやって、中西さんを市民…、あ、車いす市民集会にも連れて行ってるわけでしょう。

インタビュアー: うん。でも若駒やりながらそんなに表には出なかったよねぇ。

奥平: 全然出てない。地味にやってたけど。でもすごい、いい人だと思う。

インタビュアー: 私何か、障害のある人の旅行に最初関わってたから、何回かはお会いしたことあったかな。そうそう。うん。でもそんなに親しくさせてもらったわけじゃないけど。うん。…ふーん

近藤: 大須賀さんの奥さんという人は、僕が役所にいる頃、あの、研修へ来て1週間ぐらい役所に通って来て研修受けた学生だった。その頃から僕は知ってる。すっごい感じがよくって頭がよくって、その回転率の速い学生だなぁというんで、どんどん福祉の仕事を、うん、あの、感じ取っていった。

インタビュアー: 大須賀さんの奥さんね。

奥平: あぁ、奥さん。

近藤: そう。だから早くから、あの、奥さんは知ってた。それが大須賀さんの奥さんになろうとは知らないよ。そう。あの人を最初に知ったのがね。

樋口: 「真摯な生き方に感動して、お慕いいたしました。」っていうの聞いたことある。

奥平: 奥さん? (笑)

インタビュアー: へぇー。

樋口: 大須賀さんのことをね。

インタビュアー: へぇー。

奥平: 私にはそういう人がいなかったわね(笑)。

インタビュアー: (笑) 樋口: それは、そう言って相手に、アプローチしていったんだよ? うん。 奥平: ふーん。大須賀さんにアプローチしていったの? 樋口: うん、そうそう。大須賀さんって案外、奥手な人だったと思うから、そういうのは恥ずかしいタイプ。

近藤: うんうん。

奥平: そうだよね。22、3とかでさ、障害者になって、ねぇ。その後もずっと東大で、

樋口: 東大に居続けて(笑)。でも何かお葬式の時に、お兄さんがぽろっと漏らしてたのは、何か、「東大病院が、大須賀さんがそういう、学生運動で障害者になったことで、受け入れてくれなかった。」とかって。

奥平: えぇー…!

インタビュアー: えー、そうなんですかぁ。

樋口: そういうこと、今も、もうね、何十年か経ってるのに、辛い思いを持ってるんだなぁっていうのを感じる一コマであった。うん。

奥平: はい、じゃ、ヒューマンケア協会。

樋口: はい、ヒューマンケア協会。

インタビュアー: (笑)

樋口: ほいで、

インタビュアー: ヒューマンケア協会の前じゃないの? その。

樋口: いや、ちゃうちゃう。

奥平: 中西さんがやって来た時?

インタビュアー: いいの? 中西さん、がやって来て、

樋口: 中西さんと会ったのはそれ。で、帰ってから、あの、電話が来て、「一緒にやって欲しい。」と言って。で「もう立ち上げているから。」と、言って来たので、まぁ、「3月末ぐらいに、じゃ1回行きます。」って言って。ほんで行って。「手伝って下さい、僕が駅からの送迎も全部しますから。」とか色々(笑)言ってくれて。で、まぁ、「じゃあ週に何回かぐらい行きましょうか。」っていう話で。「ただ私はボランティアっていう働き方はできないっていうか、なかなかそういう働き方だったら、自分が責任が持てなくて、だから安くてもいいからちゃんとお金をもらって働きたい。」と、それは言った。そしたら中西さんたちは、その、ま作業所じゃないけどそういう、若駒の家っていうところに、障害者と創価大の学生ボランティアとで、あの、パソコンの前のワープロ? ...ワープロか何かの、絵の修正か何かを企業から受けて、何か絵を綺麗にするのを、バイトとしてやっていた。で「そういうので僕が稼いで、あの、謝礼、あの、作りますから。」とこう言って。んで、働き始めて。

 ほいで、結局、まぁ、役員体制とか、どんなことをしたいっていうのはあったけど、具体的に何も作ってなくって、だから、私がパンフレット作りから始めて。うん。だから、割合基本的なところは、私が相当やった。で、まぁ、あの、ヘルパー派遣って言わない…、介助者…、介助者の提供とか、そういうのも始めようとしたら、もうすぐにALSの人から…、だから障害者っていうよりも、ねぇ、そういう領域じゃない人っていうか、そういう人から連絡が来て。でそこへ入ってその人、あの、送り…、送ったっていうか、亡くなるまで。あの、自宅で、息子さん夫婦と一緒に同居してたんだけど、その人たちは学校の先生だから、「昼間は居られないので、その間は何とか埋めて欲しい。」と言われ。で、あの、まぁ、ヘルパーっていうのも、ヘルパーってか介助者になる人たちも…、は、中西さんが、あの、若駒に来るボランティアをしている中年の主婦グループ、の人たちに、あの、頼んで、「ヘルパーをやってくれ。」と言って…、ヘルパーっていうか介助者をやって欲しいと言って。そいでまぁ、あの、ご本人とも会いながら、どういうところに気をつけてやるとか、そういう合意事項を見つけながら。まぁモデルにしたのは、えっと、えっと神戸の、神戸のコープ。協同組合、の…、で、やり始めてたのかな、そういう、預託式の何とかとか。そういう預託式派遣制度かな、何か…。 [01:04:12]

インタビュアー: 住民参加型、でしたよね。何かそういう名前。

樋口: そうそうそう。そう、それを、それを、

インタビュアー: 介護者派遣制度とか、何か、そんな。

樋口: あの、私も「そこのやり方を学んできて欲しい。」と言われ、中西さんたちは「1回行った。」とか言って、そんで泊りがけで、あの、その後衆議院議員になった、あの、牧師さん? ...神父さん、…牧師さん。結婚できるのは牧師さんだっけ?

インタビュアー: はいはい。

樋口: 牧師さんのところに、あの、研修に行かせてもらって。ていうようなことをして。でヘルパー派遣も始め。でまぁあの、若駒の家の人たちを相手に、あの自立生活プログラムの、まぁ、あの、テキストになってった、あの、どういうことをやっていくかっていうようなのを、あの、試行的にやったりしながら。で、中西さんの感覚なんかも、ちょっと、すごくズレてたから(笑)。例えば、脳性麻痺でよだれ垂らす人、と、で、一緒に中西さんとで、あの、商店街のお店に、あの、何かもらい…、寄付をもらいに行ったら、「裏へ回ってくれ。」と言われ、「あいつが汚いからだ。」と。「ヨダレを流してる人が汚いからだ。」って(笑)。そうじゃなくって、障害者だから、店の表からは入ってくれるなと、特にお客じゃないんだし、ねぇ。あの、っていうことなんだよ、って言ってもなかなか中西さんは自分は健常者マインドだから(笑)。

奥平: (笑)

樋口: ていうのがちょくちょくあり。で、遊歩とかも加わってきてくれたので。ほいで二人で延々そういうことを、あの、当事者への自覚っていうか、そういう部分をやってったかな。それで、まぁピアカウンセリング集中講座をやって。そん時朝日の文化事業団のお金をもらって、やって、全国から30人近い人が集まって。で、北海道から小山内美智子さんとか、あの、全国ネットで、それは集まって。でそういう人たちが次の年には「自分の地元でやりたいから、リーダーとして来てくれ。」っていう感じで。そういうふうにして、ま、出前の、あの、ピアカウンセリング集中講座をしていく中で、その地域地域が自立生活センターとしての、こう、根っこを作ってったというか、元々の障害者運動も、あの、こう、ガリガリと抵抗運動としてやっていく、その障害者運動、えぇ、えぇ、障害連とか、青い芝系の運動とかだけじゃなくって、まず自分を認めること、自分の…、障害のある自分を好きになること、とかっていうようなことを、あの、伝えて行きながら、ILセンターとしてのこう、作り変えをしていったっていうか、結集をしていくっていうような形でやっていったかなって思う。

インタビュアー: じゃ結構色んなとこ行ったんですか?

樋口: うん。そうそう。そいで、行った地域地域で、その、最初にピアカン受けて、あの、「自分の地域でやりたい。」って言った人たちが中心になって、自立生活センターと名乗り始め、っていう感じかな。88年に最初のピアカン集中講座をやったのかな。86年の6月から、えっと、ヒューマンケア協会として、市役所に届けに行った。

奥平: うんうんうんうん。

樋口: で福祉で、「やめとけ。」と福祉部長が言った。そして(笑)、何でかって言ったら、「何かをしてトラブルになると、行政に対して市民が色々言ってくるから、やめときなさい。」という言い方をして。私は一応町田で、その、ま、非常勤職員として、重度障害者の在宅訪問事業とか、色んなことで関わってきて、市と、あの、市の組合とも、あの、対決をして、その、あの…(笑)、

インタビュアー: (笑)対決…。

樋口: そうそう、通所施設づくりみたいなこともやってたのね。その、あの、在宅訪問やった人たちは、それは80…、え、え、え、いつ...70…、70何年かから、えっと、障害者青年学級の次に、もっと重度の人、就労…、あ、就学もしてない、ほんとに家でだけ暮らして生きてきた人たちが町田市のリストで20何人か何かリストにあって。「車いす作りませんか?」って言って福祉が訪ねて、車いすを作るんだけど、で、何ヶ月かして行っても、車いすが使われた様子がないと。あの、埃をかぶって物入れに入っているみたいな状態でいる家がいっぱいあって。障害が、身体障害だけじゃなくって、知的と視覚が…、あの…、の障害で重複してて。で、あの、どっちの学校、養護学校にも受け入れてもらえなくて、結局は抱え込んで、大人になって。もうほんとに、家族にしか存在が知られてないような、そんな人たちが町田の中に何人かいる、ということで。あの、そういう人たちを訪問していくっていうのを、こちらとか、その、福祉で中心的に新しいことをやっていこうっていう風を起こしてやってた人たちで、あの、そういう在宅訪問事業ってのを始めたの。

 それの手先として、てか行き手として、あの、青年学級で、まぁ大人の障害者に関わっている人たちということで、私とか何人かがいて。で結局10人ぐらいが、何か、学生だったり、あの、私みたいな存在であったり、まぁ障害者は私一人だったけど。で、あの在宅訪問してって、ほんとに衝撃的な、あの、様子っていうか...を見たわけで。

 例えば脳性マヒの人で、あの、行ったら会わしてくれないから、もう何回も何回も、「ほんのちょっと近所に来たから。」と言いながら、チームで今日はこの日に行くって、チームを組んで行ってるけど、「いや近所に来たのでちょっと、あの、お顔見せてもらえないかなと思って来ましたー。」みたいな感じで言って。ほんで親は「もう今更、何をしに来たの? いや、大丈夫です!」みたいにお断りされて、中にも入れてもらえない時期が続いて。でもその後(あと)、「じゃ、会っていきますか?」って言われて、会ってくれるようになるまでに約半年ぐらいかかった人がいたけど。

奥平: へー!

樋口: で、「いいんですか?」って言って入れてもらって、まぁ奥の部屋というか、床の間のあるような、奥の部屋に、あの、連れて行ってもらったら、そこにCPの人がエビのように、丸くなって寝てて。で、ほんとに背中も側弯ってか、こう、変形してるから、おも…、仰向けには寝れない、だから横向きになってる、みたいな人なんかがいて。それが私とおんなじ年ぐらいだったのかな? で、あの、「何々さんだね。」って、聞いてたから名前、言ったら、「そうだ。」っていうときはこう、手を上げるんだけど、で、だめな時、違う時は何も反応示さないってで、意思表示を出来るっていう。

奥平: 言語障害がひどかった?

樋口: 何にも、言葉がなかった。

奥平: あっ、へぇー。

樋口: ほいで、でも、その人が、どんどん舌が出てき始めて、もうほんっとに。もう牛のタンかっていうぐらい、ドーッと出てきて(笑)。

奥平: (笑)

インタビュアー: 何でだろ?

樋口: だから緊張が、

奥平: 激しくなったってこと?

樋口: 激しくなったんだろう。ほいで、

奥平: 恵子さんたちと話すことで?

樋口: そうそう、だって、家族以外の人初めてだし。自分に向かってくる人なんて、家族以外いなかったわけだし。

奥平: それは、家族から聞いたの? 全然、他の人に会ったことないって。

樋口: いやいやいや、それは見てりゃわかるがな。ほれで、それで、あの、ドーッと出てきて、「これ大丈夫かな。」って思ってたら、だって口中舌になったんだもん、こんな感じで。

奥平:&インタビュアー: へぇー!

樋口: ほいで、ほれをその、虫歯でギジギジになった歯で、噛み始めちゃって、

奥平: 痛そうー…。歯ぎしり?

インタビュアー: あぁー、そりゃ大変。

樋口: そいで血が…、血がたらーっと出てきて、

奥平: え? 舌を?!

樋口: ほいで私たちも、すごくあせっちゃって。これ以来、絶対ご法度になるじゃない。私たちを拒むだけじゃなく、どんな人も拒んでしまうっていうことになるわけだろうから。ほいで、「あ、ごめんね。びっくりさせた?」って言って、「でもね、あの、心配しないで、舌引っ込めてくれる? そうしないと、もう私たち会えなくなるし、お母さんも人に会わせてくれなくなるから、あの、舌引っ込められるかな?」って言ったら、涙をつつっと流し、するするするっと引っ込んでいったの。

インタビュアー: へぇー、すごい。

奥平: じゃあちゃんと意思でやる…。

樋口: だからコミュニケーションはできる人だったの。

奥平: てか、舌もちゃんとコン…、いや意思で、

インタビュアー: コントロールできるのね。

樋口: 緩んだことで、引っ込んでった。

奥平: じゃ何でまた、舌出したんだろう?

インタビュアー: (笑)そんな…、

奥平: (笑)

インタビュアー: (笑)その時は緊張しちゃったんじゃない? はー…。

奥平: そうか。

樋口: そうそう、そいでまぁ、だから、まぁ、

インタビュアー: (笑)

奥平: だってぇ(笑)。

樋口: コミュニケーションにより、「あ、この人たちはいい人だ。」ってこう、思えたんじゃない? だから緊張が緩んで、するするするっと入ってって。

インタビュアー: ふーん…。すごい。

樋口: ほいで、ま、次からは定期的に行けるようになって。で、親…、お母さんが言うには、「朝になったらもう分かってて、今日来る日だ。」って。「だから早く起こせとか、何だかんだ言うんですよ。」って言って。

奥平:&インタビュアー: ふーん…。

樋口: ほいで、だから持っててくれてるっていう感覚が分かって、そうやってこう、家庭へ入っていきながら、「今度はちょっと外に出てみようか。車いす作ったよね。」とかっていう感じで。「散歩行きましょう。」とか、ってこう、少しづつ広げていって。ほいで、中学校障害児学級…、中学校の障害児学級の、あの、放課後ぐらいに何人かをそこに集めて、ほいで一緒にグルーピングっていうか、

インタビュアー: すごい。

樋口: 障害持った人たちで、集まって何か遊ぼうよとか、そういうなことをやったりしながら、それが光療育園っていう通所施設になっていく。で、その10人の人たち、働いてた人たち、まあ大学生だったり、色々だったけど。でその人たちをちゃんと身分保証することで、この事業を制度化させていくことになるわけだろうから、ということで。そいで、だから、それこそ、市当局を相手に組合闘争も始めたわけよ、10人で。で、だいたい私はいつも、書記長か、何かをやって(笑)。ほいで、一応、あの、「国際障害者年は今」みたいなビラも書き。ほいで、週に1回とか、朝市役所の前で、来る職員たちに配り、とかっていうのをやりながら、

インタビュアー: ごめんなさい、ちょっとだけトイレ行かせてください。喋ってて、真砂子さん。

樋口: はい。

奥平: あ、そうか。テープ入ってんのか。それで?

樋口: うん。そいでまぁ、あの、そういうこともしながら、障害…、あの、組合闘争やって。ほいで2年…、82年ぐらいに、あの、全員正職化するって、いうところになって。ほいで、私はそん時に、あの、正職員になって、ほいで、ここで仕事しながら、つまり介助もいっぱいしなきゃいけないわけじゃない。相手はすごい重度だし。うん、力もいるし。ちょっと私の体力でやれる仕事ではないだろうと思って。で、私はそこで、私はあの、正職員にはならないから、私の代わりの人数をちゃんと揃えてくれっていうことで。で、私は、それからアメリカ行きを、あの、志したわけよ。(笑)

奥平: え、それって市の職員になるってこと?

樋口: そうそう、市のパートで働いてたから。最初は、本当に、月に1回訪問する家庭が何ヶ所かあって、っていうぐらいの仕事だったから、たいした、ねぇ、稼働日数じゃないけど、まぁ働いたらお金がもらえるっていうような感じで働いてて。で、でも、その、通所施設になったら、あの、週5…、1…、週1…、5…、5日間働く人とか、4日間の人とか6日間の人とかって、その働き方はそれぞれだったんだけど、私は週3日ぐらいだったと。3日…、5日働いた時あったっけかな。まぁ、82年ぐらい、82年、3年ぐらいで辞めて、それで84年の、あの、

奥平: ダスキン?

樋口: ミスドのトライをしまして、84年11月から行って、で5月までで、あの、85年の5月で終わりで。でもその後もアメリカ、えっと5月終わってから…、

奥平: DC行ったんでしょ。

樋口: DCへ、あ、アメリカから帰らずにDC行ったのかな?

インタビュアー: ジャスティン・ダートの家に行ったって書いてあった。

樋口: そうそう。で行って。ほいで、7月8月、その日米協議会っていうのは、8月に東京で開かれて、それには、あの、帰ってて。だからアメリカ側から来る人の…、あの…、ことを調整する私が八代事務所の、あの、誰だっけ久保田さん? 第1秘書の。と調整して、そのアメリカから来る人たちのことの調整を私がアメリカ側に行って、あの、やって。で、日米協議会出て、その後(あと)またアメリカ行って、その時に真砂子も一緒にDPIのバハマ会議へ行ったでしょ。あれが86年か。

奥平: 84年? 6年だっけ?

樋口: いや85年。

奥平: 5年か6年。

樋口: 81年があのシンガポール第1回でしょ。その4年後だから、85年の9月ぐらい、

奥平: うんうんうん。

樋口: に、バハマ会議行って、ほいでそこでその女性障害者ばっかりが集まる怒りの集会というのがあって(笑)。その、DPIっていうのが、RIの世界会議に専門家から拒否されて、えっと「我ら自身の声を発する団体を作ります。」と言ってスタートしたわけで。その85年のDPIのバハマ会議は、その女性障害者たちが怒って、「もう、DPIから私たちは出ます。」ぐらいな感じの言い方をした。それはなぜかっていうと、その、ファッションショーがあったんだよね、そのオープニングセレモニーか何かで。で、障害のない、モデルさんがチャラチャラ歩くのがあって。

インタビュアー: 障害のない?

樋口: うん。

インタビュアー: えー。

樋口: 全然障害者はいなかった。うん。だから、だから余計に怒りは心頭っていう感じで。

インタビュアー: そうですね。

樋口: うん。私はだけど、英語はそんなに分かるわけじゃないけど、みんなの雰囲気で怒っている。

一同 あはははは(笑)

樋口: ほいで「自分たちは自分たちの組織を作るぞ。」という勧告文をまとめて、みたいな感じで、夜な夜な集まって。真砂子もいたでしょう。

奥平: いた。

樋口: いたよね。

奥平: けど忘れてる。

インタビュアー: 忘れてる(笑)

[01:22:01]

奥平: 二宮さんに会ったのは覚えてる、そこで。

樋口: あぁ、二宮さんとか、ジュディもいたし。デッド・ロゼット(?)もいたし、エド・ロバーツもいたし。八代さんももちろんいた。ほいで私は、そのDPIバハマ会議が終わった後、一人でアメリカを横断しようとして、えっと、何だっけ、あの、

インタビュアー: アムトラック?

樋口: うん、アムトラックじゃなくて。えっと、そんときね、何かね、1日10ドルか何かで、あの、バス。横断バスっていうか、長距離バスで、グレイハウンドよりちょっとレベルの低い方の、安いやつで。確かね、1日10ドルぐらいで移動ができる方法で行こうとして。そしたら、あの、バハマで別れの時に八代さんに、「そんなものへ乗っちゃ死んじゃうよ。もう会えないよ。お別れだよ。」って抱きしめられたんだけど(笑)。「そんな危険なことして。」みたいな感じで(笑)。

奥平: おかしい(笑)。へ、へ、そんなこと、知らなかった。

インタビュアー: (笑)へぇー。

奥平: 私もバハマ会議行ってたけど、私は、あの、その頃アメリカに住んでたから。あの、通訳として、

樋口: きっとジュディたちと一緒に帰ったんでしょう。

奥平: あ、帰った。で、何で呼ばれたかっていうと、日本のあるグループの通訳として来てくれって。

樋口: それ、あるグループじゃなく、DPI、

奥平: あ、DPIか。

樋口: の日本グループ。日本人のために、あの、来てくれって。それは私が「真砂子に頼んだら?」って言って。

奥平: あ、そうか。あ、それは知りませんでした(笑)。

樋口: ほしたら、ほらあの時、何だっけ、何かすごい、円ショック…、ドルショックじゃないけど、何かすごいのが、

奥平: ドル高? 円高?

樋口: あの、190円まで落ちたんだよね、突然、その期間中に。でほら長橋さんって京都の、その...その時の代表、DPI日本会議の代表の人は、その、借金をして、日本からこの会議行くための借金をして現金をドルに換えて持って行ってたのが、もう価値がガタッと落ちたから、すごい損失だったと思う。うん。広島の被爆者の人連れて行きたいとか、ねぇ。色んな人を…、の、まぁ、そういうサポートのためのお金もきっと自分で工面してたんだろうし、うん。

奥平: 長橋さん?

樋口: うん。

奥平: へー。

樋口: だって他に出せるとこないじゃん。

奥平: あぁ、まぁね…。

樋口: うん、それであの人はやりたいって気がいっぱいあったし。

奥平: あぁ、そうだったんだ。

樋口: うん、だから、そういうのも孕みながら。で、まぁそういうので、私はその後(あと)、まぁ、えっと、アメリカをバスで延々延々行って。でも危なそうなところ、えっと、あのジャズの街は何だっけ?

奥平: ニューオリンズ?

樋口: うん。ニューオリンズとかは夜だったから、着いたのが。でもとっても怖そうだから、ちょっと明るめの夕方だけウロウロと、何とかあの、ジャズが聞こえるところ、ウロウロっとして。出発までには何時間かあるので。で、その間ちょっとだけ街を歩いたり、観光して。で、次のバスに乗って、また移動して、っていう感じでサンフランシスコに帰って来た。

奥平: あ、フロ…、あ…サン…、あぁフロリダからサンフランシスコへ帰ったってこと?

樋口: あら、サンフランシスコじゃない、

奥平: DCじゃなくて?

樋口: DCかな。

奥平: DCだよ。

樋口: うん、そうそう。

[01:25:46]

インタビュアー: ふーん。(笑) その怒りの女性の会の時は、本当に女性だけしかいない?

樋口: もちろん。

インタビュアー: ふうーん。

樋口: うん。介助も男は入れないぐらいな。

奥平: あぁそうだね。

インタビュアー: じゃ、エド・ロバーツとかはそこではびっくりした方ですか? 「そんな反乱が起きるとは!」とか。

樋口: いや、あの人は常に何でも受け入れておおらかだったから。そんなに。

インタビュアー: (笑)ふぅん。

奥平: 私、あのエド・ロバーツで、その、バハマ会議ですっごい覚えてるのは、フロリダで乗り換えるじゃない? 飛行機。その時に何か、あの人の車いすって大きかったでしょう? だからさぁ、

樋口: 300キロとか。

奥平: そうそうそう。何かこう飛行機の後ろの方が、荷物のところかな。その頃なんてあの、車いす用の昇降機なんてないから、

樋口: うん。アメリカといえどもね。

インタビュアー: ふーん…。どうするの?

奥平: そうそうそう。荷物の、何か降ろすやつ? で、何か降ろしてた記憶があって。すげーとか思って。

樋口: それに小型車…、小型機だったから、きっとあの重さを行くのは大変だったと思う。でも、確か、エド・ロバーツは、その友達の小型飛行…、自家用飛行機で行くから一緒に連れてってやろうか、みたいに、言ってたこともあった。

奥平: 言ってた?へぇー。

樋口: うん、のがそれだと思うけど、そんなの、とっても怖そうだもんね。

奥平: 何かそれを目撃してさ、

インタビュアー: (笑)ちょっと傾いたら…

奥平: ゲッとか思って、すごいとか思って。

樋口: まぁ、そんな感じ。で、だから、私はだから、そういう意味で、その85年のそういうのを体験した後、あの…、あっ運転免許も取らなきゃいけないからね。

奥平: アメリカでね、そうそうそう! 覚えてる、覚えてる!(笑) 乗せられた私。(笑)

インタビュアー: 何で、何でアメリカで取ったんですか?

樋口: 10ドルで取れるから。

奥平: そうそう。簡単だって。

インタビュアー: そんなー。

樋口: それに日本だったら私、絶対、あーだこーだ言われていじけるだろうし。何かこう、すごくけなされるでしょう? ほいで、そこでくじけるだろうし、あと、お金もかかるし。

インタビュアー: 10ドルで取れるんですか?

奥平: 10ドルはオーバーかもしれないけど。

樋口: いや、10ドルで、10ドルであの、試験の受験資格ができるの。ほんで、あの、まず、文…、文法じゃない、あの、書く、

奥平: 筆記。

樋口: 書く…、筆記試験あって、で筆記試験が通れば、3回とか5回実地試験を受ける権利ができるの。そこまでするのに10ドル。だから私は500ドルはかかりました。それは100回(笑)、いえいえ50回やったわけじゃなく。

近藤: (笑)

インタビュアー: すごい、びっくりした。50回やったかと思った。(笑)

樋口: やったわけじゃなく、筆記試験まではそんなに難しくなかったから、簡単にこう、マルバツ入れるやつだったから。ほいで見る…、チェックする人も全然わからない、日本語でやれたから。ジャパニーズ、プリーズって言ったら日本語でやれたから。

奥平: そうそう、何ヶ国語かあるんだよ、あれ。

樋口: だから、うん、色んな国。さすが、

インタビュアー: あっ、それはいいですね、アメリカ。

樋口: あの、カリフォルニアは色んな人種の人が入ってるしね、するので、色んな言葉があって。で、ジャパニーズプリーズって言ったら、採点する人は、それが正しいかどうかもわからないから、

奥平: (笑)

樋口: 何か紙を当てて、マルのところとかに空いてて、それにちゃんと私が印をつけていればオッケーみたいになるやつで。それをねぇ、確か3回ぐらい受けて、ほいで、一度に。どうしてかっていうと、私が、

奥平: 1回で3回受けたの?

樋口: 交通法規を、日本語の交通法規をくれって言ったのに、「いま切れてる。」って言ったわけよ。そんな交通ルールもわかんないのに、いくら日本語だってね(笑)。ほいで、1回落ちて、

インタビュアー: でも受けたんだ、試験。

樋口: もう1回...もう1回受けたいって言って、それも全然、「だめ。」と言われず受けて。ほしたら、「最初こっちでバツになったから、違う答えだな。」と思って、おんなじやつじゃないんだよ、もちろん。何種類かあるけど。おんなじ質問があって、「前はこれはバツって言われたから、こっちだな。」と思って、書いたら、「それもバツ。」って言われて。「それはおかしい。」って。「さっきやった時はこうだった。」って言って。「あの人が検査して、チェックした。」って言って…、言ったら、日系人の人で、「あの人ぽかんとしてるから。」って急に日本語で言われて(笑)。その、あの、「あの人がチェックした。」って言った時。(笑)それで何か、それで何か一つ合格点に達することになって、

奥平: (爆笑)

樋口: (笑)ほれでまぁ、あの、実地試験を受ける権利ができた。

奥平: (笑) あぶねー。

インタビュアー: 何だかよくわかんないなあー(笑)。

樋口: わかんないんだけど。ほしてレンタカーを借りたりとかして、どっかカリフォルニア免許の持ってる人の…、に乗ってもらったら、もうすぐ道路でも走れるって言う話で、とってもそれも怖い話で。私も怖かったけど(笑)。

奥平: 私も怖かった(笑)。

樋口: ほいで、あの、実習…、ボランティアで実習に行ってた先で知り合った日系人の、3世か何かの人に、

奥平: グレイス?

樋口: グレイスじゃない。

奥平: じゃなかったけ?

樋口: なかった。グレイスそんなに関わらなかった。

奥平: あ、そうか。

樋口: うん。で、あの、お願いして、ほいでアパートの前から、あの、車運転で出たら、何か、前方にお巡りさん…、パトカーが停まってて、それで、お巡りさんが何か、あの犯人に拳銃を当てて地に伏せてるか何かねぇ、やってたの、捕物帳。ほれでもうパニクって。「えーどうしよう! ここを通って…、」

奥平: オークランドだったよね。 

樋口: うん。「ここを通っていかなきゃいけないのかな…!」っていう感じで。もう焦って焦って。

インタビュアー: 怖い。最初から。

樋口: で、そしたら、その3世の彼女が、「恵子しっかり、恵子しっかり、恵子頑張って。」って一所懸命言ってくれて(笑)。その時、真砂子乗ってたんでしょう?

奥平: うん。

樋口: (爆笑)

奥平: 何か恵子さんが「一緒に乗ろうよー。」とかって言って(笑)。

樋口: (笑) それから懲りたんですよ、きっと(笑)。

奥平: (笑)

樋口: ほいで、

インタビュアー: 「恵子頑張れ。」って言わなかったの?

樋口: ほいでだから、

奥平: だって怯えてたよ(笑)。

インタビュアー: (笑)

樋口: ねぇ!

インタビュアー: 声も出ないぐらい?

樋口: そうそうそう。

奥平: いや、それは(笑)。

樋口: ほいでまぁ、で、「あ、こういうことだけじゃいけない。」と思って、あのプライベートレッスンの…、電話帳でイエローページで、プライベートレッスンの人を見つけて、ほいで連絡取って、「日本人ぽい人がいいかな。」と思って日本の名前の人に頼んだら、その人は、それこそ「日本で教習所の教官やってました」的な男の人で。ほいで「あれがだめだ。ハンドルの握り方が悪い。どうのこうのが悪い。」とか、やいやい言われて。「こりゃだめだ、この人に習ってたら、私はうまく走れない。」と思って、それはその時だけにして。次は、あの、女の人の名前でいこうと思って。で、アメリカ人の女性に頼んだら、トラックで来て、トラックが試験車用になってて、あの、サイ…、あの助手席にブレーキがついてて、だから私が乗ってて、危なかったら、助手席でその教官がブレーキ止めてくれるっていうような。「恵子オッケー、あなた大丈夫よ。オッケーオッケー。」とか言われながら(笑)やって。そんなのをするのにお金がかかったので。

奥平: で、500ドル?

樋口: 500ドルぐらいはかかったかと思われます。でもまぁ、免許取って、それを3ヶ月以上、免許を取ってから3ヶ月滞在してたら、国際免許に移行できるということで。うん。それで、あの…、受かってから、免許もらってから、3ヶ月はアメリカに残って。で日系人のお年寄りのお家に、ま、その人は日本人で、娘たちが日系人。でも日本語が喋れない人になっているところに、あの、お掃除とかのお手伝いに行って、あの、お寿司作って持ってったりとか、おはぎ作って持ってってあげたりとかして、喜ばれて。まぁ、あの少しは収入にもなって。ていうので生きながらえ(笑)。で、帰って来て、それで中西さんに呼び込まれ。うん。それで、

奥平: 結局、合計どれくらいいたんだったっけ?

樋口: 私…、

奥平: ダスキンは…、

樋口: 6ヶ月。

奥平: 6ヶ月で、その後(あと)、会議で一旦帰って、また帰ってきて。

樋口: そうだね。約1年はいたと思う。うん。

奥平: ふうん。そう。

インタビュアー: でも車すごいな。その後じゃ、免許取った後、車運転してたんですか、向こうでは?

樋口: 全然。車もないし。

奥平: しないよ。

インタビュアー: そうですよね。

奥平: ないしさ、あそこ、

樋口: 不便じゃないもんね。

奥平: そう、不便じゃないし、怖いし。

樋口: うん。

インタビュアー: じゃ、とりあえずその、ライセンスとしてもらうっていうのが大事だったってことよね。

樋口: そうそうそうそう。そうそうそう。

奥平: オークランド結構怖いよね。

樋口: うん。そうそうそう。

奥平: 私たちが住んでたあの、レイクメリットだっけ。あの周りって、ヤクの、ねえ、販売…、ディーラーがいっぱいいるところで、

インタビュアー: (笑) そんなとこに住んでたの?

奥平: そのちょっと、上の方だったから、まぁ、あれだからかもしんないけど。

樋口: 危ない...かったよね。何か、それこそ、同期の人が、あの、「うちでパーティをしよう。」って。真砂子もいるところでパーティをしようと言って、何人か集まることになったんだけど、一人来なくて、よしさんっていう、

奥平: (爆笑)

樋口: 今福さんっていう人が来なくて、

奥平: 今福義明よ。

インタビュアー: うんうんうん。

樋口: あの人が来なくて、「どうしよう、どうしよう。」って私たちどんどん心配になって。英語も喋れないし、

奥平: よしさんね。

樋口: ほいで、「どうなったことやら。」っていう感じで。でリサおばさんも心配して、警察に電話して、それで、あの、やってたら、今福さんは「降りるとこがわからへんなったから。」って、終点まで行った。終点がオークランド空港で、その空港でご飯を食べて、そいで帰ってきたっつうの。(笑) ねぇ!延々1時間以上の、あの、バス乗りを往復して、帰ったから、もう約束の時間なんか、全然過ぎて夜の10時半とか、11時ぐらいにやっと家に着いて、たら周りにお巡りさんが探してるからっていうので、それ...それは、始末書問題になって。(笑)マイケルに、も、何か、日本へ返されそうな雰囲気で。みんなで「ごめんなさい。」って。

奥平: 結構よしさんってさぁ、マイケルそんなに好いてなかったよね。マイケルがよしさんのことを。

樋口: 可愛くないもん。

近藤: (笑)

奥平: そうそうそうそう(笑)。

樋口: (笑)愛想も良くないし。

インタビュアー: え、その時って、一緒に行ってたんですか?

樋口: 同期。

インタビュアー: あ、同期なんだー。

樋口: うん同期生。

奥平: 同期だけど、別にほら一緒にやんなきゃいけないってことないか…、けど、同期は同期よね。

樋口: でも同期で、それで受け入れ先も自立生活センター、バークレーCILだし。ていうところで、3人いたの。私と、もう1人神戸の人と、それから今福さんと。今福さんは、あの頃と今も全然変わらないよね。

奥平: (爆笑)

樋口: 「電車に乗りました、何に乗りました。」

奥平: 「バスに乗りました。」

樋口: 「韓国行きました、何とかかんとか。」って。

[01:38:00]

奥平: 今福さんのあれで一番覚えてるのは、「ワインを飲んだら口の開きが良くなる。」って言ったこと。

樋口: 3ミリしか開かないの。こう、あの、リウマチ...小児性リウマチ、で、ここも固まってて。だから食べる物は、私いつも3ミリぐらいに切って。ほいで、そしたら自分でフォークでこうやってやって。ほいで入り口に入ったら、もうスースースー(息を吸う音)って吸い込むだけで食べてた。

インタビュアー: へぇー、全然知らなかった。

樋口: 今もだから、そうだと思うよ。

インタビュアー: ふぅん。何か運動の時に…、こう、交通の運動とかでしょう。マイクで喋ってる時しか分かんないから。そんな感じなんだ。

樋口: あれ、あの時もこう、く…、くぐもってというか、こもった感じでしょう? 言葉が。開いてないから。

インタビュアー: あ、それでなんだ。

樋口: うん。もごもごもごもご…ってこう、開けないで喋ってるってことだもんね、うん、そう。

インタビュアー: そういう。(笑) 知らなかった。へぇー。

樋口: うん。それで、でも今福さんはあの、アメリカに行ったことにすごく夢を抱いていて、髪の毛…、私が会った頃は、もう彼は行って3ヶ月、4ヶ月経ってたから、髭はボッと伸び、髪はバッと伸び、何か、それで、童顔だからさぁ、何とも不釣り合いっていうか。

奥平: (爆笑)

インタビュアー: (笑) はい。

樋口: ほいで(笑)、「よしさん、もうちょっと髭剃ったほうがいいんじゃない?」とか、「あの、女の子にモテたいんだったら、もうちょっと髪もこう、綺麗にしたほうがいいんじゃない?」とか言ったら。あの、それこそILプログラムの中で、あの、日本人研修生、もう一人いるでしょ? その二人が一緒に言ってたから。だから、あの、「僕はそれが嫌なんや。」みたいなことを訴えて。ほいで、そのILプログラムのリーダーっていうかピアカウンセラーに、「あなたはどうしたいの?」って聞いたら、「僕は伸ばしてみたいんや」って、こう、言って。そしたらそのピアカウンセラー、車いす、重度…、電動車いすに乗ってた、すごい重度で小柄な人だったけど、「その、あなたの髭やあなたの髪の毛がたとえ床を掃くようになっても(笑)、あなたがそれを好んでいるのなら、ノープロブレム。やりなさい。」って(笑)。

奥平:&樋口: (爆笑)

インタビュアー: (笑)すごーい。さすが…。

奥平: おかしい、そんなことあった(笑)。

樋口: 「はっはあ!」って思って。自己決定権…、選択権と自己決定権ってそこまでいくかと(笑)。

奥平: ていうかさぁ、迷惑かけないで(?)(笑)。ねぇ遊歩って3期か?

樋口: そ。だから私が行った頃は、「純子知ってるか、純子知ってるか。」って言われた。

インタビュアー: ふぅん。もう帰った後だったんですか、じゃ?

樋口: うん、そうそうそう。だってみんな6ヶ月ずつだったから。

インタビュアー: あ、そうか、6ヶ月だとね。入れ替わりになるんだ。

樋口: そうそう、だから。

インタビュアー: ふーん。で、高校生を連れた中西さんにも会い。

樋口: 会い。

奥平: 中西さん、大変だったよねー。

樋口: うん、大変だった。だって空港で乗ったタクシーの天井に、車…、あの色んな大事なパスポートやお金やらが入ったバッグを乗せ、それで車いすから中西さんを車へ移し、そのバッグのことは全然気にせずに走ったから、あれどうなったんだろうね。

インタビュアー: え! どういうこと?

樋口: だから大事なものは全て失くなったのよ。

インタビュアー: …(爆笑)。えーっ。

樋口: アメリカ到着、直後に!

インタビュアー: あらま!

奥平: で、でもジュディのところに来たよね。

樋口: 私もどうなったかわかんないけど。ジュディのところに来て、ジュディんとこ泊まって、おしっこはしかぶって、ソファは汚してるのに謝りもしないし。ねぇ。

奥平: そうそうそうそう、そう。ほんで、カテーテルの入れ方、高校生のその介助者として連れて来た坊や? 知らないから、その時私が付き合ってた誰だっけ…、ジェームズ・リーがカテーテルのあれ(笑)、入れてくれたりとか。

インタビュアー: その高校生は何で連れてきたの? 英語ができる?

樋口:&奥平: いや、違う。

樋口: 中西さんは誰でも連れていって、使えばいいという。そいで、その高校生は、お母さんが中西さんのファンで、お金持ちの企業のエリート社員の息子、だったの。

奥平: その高校生? ふぅん。

樋口: だからお金もあったの。だから「うちの子連れてって、使って!」とか言われて、で、連れてったんだと思う。

奥平: で、何やってたかって言ったらさぁ、コカコーラとか炭酸系の缶っていうか飲み物集めてたよね。

インタビュアー: 何それ(笑)。

樋口: 知らん、そこまで覚えてない。

奥平: そうか。

インタビュアー: あ、そうなんだ(笑)。

樋口: でも中西さんはあの、バークレーで…、あの、バークレーCIL見た後、セントルイスが…、あのセントルイスのILセンターが、頸損の人がやってるセンターだったので、そこへも行って、ほんで帰ってったんだよね。うん。ほいで、まぁ中西さんのところへ、週に3日ずつ通い、だいたい私が「もう5時になったし、帰ろうかな?」って思い始めると、中西さんは頭が回り始めて、「あれーどうなってたっけ?」「これどうするんだったっけ」とか色々言い始めて、私を引き止めて何かさせようとして。(笑)そんなことをいちいちやってたら帰れないから、「まぁ、明日にします。」とか、「明後日にします。」とか言って、帰ってきたりしてたんだけど。でまぁ、あの、自立生活センターとしての運営の仕方とか、その、自立生活プログラムとかを体験したことがない人たちに、あの、それを伝えていけるようなものとして、その、あの、自立生活プログラムテキストブックとか作ったりとか、あの、私がワシントンDCで持ち帰って来たピアカウンセリングの技法というのを、あの、阿部さんって、

奥平: 阿部司?

樋口: うん同期の、同期っていうか、3期生の人で、あの企業の翻訳とかをやってるポリオの人が、国立(くにたち)の人だけど、いて。でその人も、あの、えっと、ヒューマンケアに時々来て、あの、そういうのを手伝ってくれて。ていうような形で、まぁ、あの、ILセンターの機能的な部分とか、運動的な部分とか、そういうのが、形が作られていったっていうか。で、その前に、あの、日本自立生活センターと名乗ってやっていたのが、その京都の、あの、長橋さんとか矢吹さんのグループで。まぁ矢吹さんはその頃いなかったけど、まぁやってたけど。あの、障害者運動としての自立生活センターであって、自立生活センター的な中身ではなかったので、日本で初めての自立生活センターっていうふうにヒューマンケア協会が言われています、っていうことかな。うん。

インタビュアー: で、そのままそこにいるのではなく、町田、

樋口: 私は3年半だったかな。10...えっと66年の4月からヒューマンケア行き始めて、え、あ89年の…、89年に、えっと、ヒューマンケアを辞めて。ほいでいったんフリーになったところで、一緒に海外旅行行ったりとかして、あの、

奥平: ツアーってこと?

樋口: ううん。あ、私ツアー組んだのは、えっと、八王子、ヒューマンケア協会で、1回、2回やったかな。あの、バークレーで、あの、自立を体験する旅みたいなのを確か、あの、1回バークレー行くのを、あの、ヒューマンケアでやって、ほいで、

インタビュアー: あ、ヒューマンケアでやったんですね。

奥平: 恵子さん、いっぱいやってるの。

樋口: うん。ほんで、次に、あの、オーストラリア、

インタビュアー: あぁー。

樋口: で、あの、オーストラリア行く旅っていうのも、ヒューマンケアから請負でやって。で立川とかもやり始めた、色んなとこ。で、町田ヒューマンネットワークでも始めるようになったけど。ヒューマンケアでは2回、かな? きっと、海外のをやったのは。で、まぁ、「障害を持ってる人たちに違う世界を味わって欲しかった。家族以外の人の介助を味わって、生活をして欲しかった。」っていうようなことで、それをやりまして。で、それはもう第1回目は大騒動(笑)があったんですけど。あの、二人電動車いすの人が行ってて。で、ヤマハじゃないや、えっーとえっと、何ていうやつだっけ?

近藤: イマセン。

樋口: 違う、スズキ。スズキの4.5キロ、なのよね、あの、その頃の日本の電動車いすの速度は。うん。それで、えっと、その人が二人いた。で一人は脳性マヒの人。一人は、あの、えっと、何ていう障害かわかんないけど、まぁ、ポリオか。ポリオの…、重度のポリオの人と、二人だったの。で、行った先で、んと…、あの、その、ポリオの人は操作性が高いから、「アメリカの電動車いすに乗ってみる。」って言って、レンタルで借りてもらって、でそれを使ったの。そうすると圧倒的に距離が…、あっ、速度が違っちゃったわけでしょう、

インタビュアー: 速いですよね、うんうん。

樋口: うん。そいで、えっと、何人かのグループに分けて、あのー、えっと、バークレーで見つけた日本人で、向こうで暮らしてる若い人たちを、あの、介助者にして、でガイドにして、その、3つぐらいのグループに別れて、出かけるとかっていうのもやったりしたの。で、そんときに、あのー、その2台の電動の人は一緒の方向に行く人たちになったんだけど。ほいで、最後の終着点は真砂子さんに紹介してもらった、日系人のおばさんたち夫婦、その人は高知の安芸で女学校行ったという、不思議な巡り合わせの人だったんだけど。

インタビュアー: へー。

樋口: で、そのおばさんたち夫婦がみんなを招待して、あの、ご飯をご馳走してくれるっていう、そこのレストランへ集合するってのが最終地点で、「夕方にはそこにみんなで集まろうね。」っていうことで、それぞれ自由行動にして。

 で、その、そこへ行ったら、「1クラス、迷子になったんです。」っていう話で。その、遅い電動の人が、あの、速い電動の人はスイスイ行けるから、あの、「先見てきてあげるわ。」ぐらいなことも言えて、とっても彼女はルンルンとして、そのスピードが操作できるっていうのを楽しんでいたんだけど。で、あの、介助の人が…、その、電動の男性についてる介助の人が、その、みんなにつられて一緒に速く歩いちゃって。後ろをふっと見たらいなくなってた。ていうことで、そのだいちゃんっていう、みやけだいすけとか言ったかな? その、だいちゃんが迷子になっちゃって。ほいで、もう、私は、色褪せまして、というか。泊まっていたのも、また不便なとこで、バークレー大学のインターナショナルな学生の、あの、校舎っていうか寮で。で、みんなは帰ってるから、休みで。だから空いてるので、その期間を借りて、そこで暮らしてたの。だからフロントの電話番…、電話とかもないし、ホテルだったらもっとねぇ、色んなことあるけど。

 でも日系人のおばさんたちの娘が、あ、さっき言ってたグレイスっていう人だけど、その人があの、すごく手伝ってくれて、警察に連絡してくれたりとか、捜索隊が出て。でも私はもう、責任者だし、もう(笑)、どうにもいられなくなって、寮に帰ってみんなを待ったほうがいいと思って。もうご馳走してくれるものは、あの、「ありがとう。」って言って、私だけ帰ったりして、待ってたんだけど。何とか彼は夕闇迫って、8時9時ぐらいにやっと、あの、お巡りさんに連れて帰ってきてもらって。無事だったんだけど。

インタビュアー: 今福さんみたいな(笑)。

樋口: (笑)今福さんよりは、軽症ですんだ。早く解決できて。よかったですけど。彼は高校卒業したばっかりか何かだったんだけど。養護学校をね、卒業したばっかりか何かの人だったんだけど、あの、自分は迷子になったって分かった時に、あの、日本は、あ、ちゃう。アメリカも創価学会の人が多いと聞いたから、「南無妙法蓮華経」と唱えながら歩いたと。

奥平: あぁ、そう(笑)。

樋口: 誰かが声をかけてくれるかもしれない(笑)と思って歩いた。そしてまぁあの、個人経営のスーパーみたいなとこ入って、あの、「寮へ帰りたい。」ということを言えずに、「スクール、スクール」って言い続けたんだって(笑)。ほいで、そこの家の息子だろう、きっと中学生とかそんなぐらいの子が、じゃ一緒にスクール行ってあげようと言って、自転車押しながらやって来てくれて。 (電話の音)

インタビュアー: ふーん。

樋口: (?)、あの、歩いてるところを、お巡りさんが見つけて。ほいで、あの無事、落着で。ほいで彼は、自分は言葉もわからないところで迷って、無事に帰ってこれたんだから、あの、今まではそれこそ、お金持ちのお坊ちゃんだから、親が、あの、リフト付きの車を運転して、いつも送り迎えしてくれてたけど、僕は一人で動ける、と。もうこれからは一人で生きていく、と。

奥平: へぇー。

インタビュアー: 格好いい。

樋口: 言って、あの言ってたのね。ほいで、あの、

インタビュアー: いくつくらいの人なんですか?

樋口: だから19、20とか、18、19、20歳。

奥平: 誰?

樋口: うん?

奥平: 誰?

樋口: みやけだいさくっていう。

奥平: あ、知らないわ。

樋口: だから、そんな目立つ人にはなってないけど。何か、そのあと何年かして、テレビに何気なく見てたら、あの私鉄沿線みたいな、児玉清とか何とかいう人なんかが、あの、レポートするような、あの、私鉄の電車に、

奥平: あぁ、あぁ、「途中下車の旅」みたいな。

樋口: うん、いや、あの、都内のね。ほんで、そん中で、あの、何線だったか忘れたけど、うん、あの、私鉄にあの、キャタピラでこう、上がっていって。車いすの人が、上がっていってたでしょう? 前。あの、エレベーターとかないとき。それで行ってるだいちゃんがいて(笑)。ちゃんと電車に乗って行ってんだなぁと思って(笑)。あの、学びが…、

インタビュアー: すごい、テレビに映ったんですか?

樋口: そうそう。

奥平: たまたま?

樋口: たまたま、私何気に見てたら、うん、「今日はこんな人に会いました。」みたいなことで。

インタビュアー:&樋口: (笑)

インタビュアー: でもよかったですね。そうやって外に出れるようになって。

樋口: うん。そうそう。学びがあって。それがね、ちょうどそのお母さんが、「私もこの子の世話にだけ、あの、時間を使ってるから、この子がいないとやることないから、私も一緒に行きたい。」と言ったのよ。

奥平: 共依存だ(笑)。

樋口: だけど、私は、「これは、介助を、違う、親じゃない人に介助されるというのも大きな目的だから、だから一緒に連れてはいけない。」って言ったら、「分かった。私は一人で、友達と一緒にアメリカへ行きます。」と言って、ホテルも全然違うし、あの、飛行機が一緒だったかどうかは忘れたけど、まぁそういう感じで行く、ということで。でまぁ、私もそれは、そこまで言うのに、「いーや、だめです。」とも言えないから。

インタビュアー: そうね。お友達と行くんですもんね。

樋口: うん。うん。って言って、したけど、「これで今日見つからなかったら、電話連絡しないわけにもいかないし。」とか、考えると色々パニックになるでしょう? だから、ほんとに、見つかってよかったんですけど。ほいで、やっぱり、その、速い速度で行った人は、行った人で、その、あの、何ていうか、やっぱり、車いすに左右されてるものが、束縛されてるものがいっぱいあったんだなぁ、っていうことを感じて。で、あの、その、車、あの、電動車いすだったら、「あのちょっと待ってて、私が混んでるかどうか、お店見てきてあげる。」とか言って、ちゃーっと行って、「大丈夫、大丈夫。」って、こう、言いにきたりとかできて。いっつもは、「ごめんね、ごめんね。私が遅いから遅くなるね。」って、言いながら、焦ってみんなへついて行くような感じで、移動してたんだけど。「そうじゃない。それは自分のせいじゃなかったんだ。」と。「電動車いすのせいだったんだ。」と、いうようなことを学び。そして彼女は、このアメリカ旅行で、その、介助犬っていうものを知り、ほいで、介助犬を日本に導入するっていうのの、あの、最初の人になって。今も介助犬と暮らしてる。

インタビュアー: すごーい。

樋口: 千葉れい子さんっていうんだけど。うん。あの介助犬は、あの、だいぶ普及してて、それで学術的な人たちも介助犬協会とか作ってるから、そういう人たちの方が絶対的にこう、何ていうか、大手というか、介助犬の担当みたいな感じで、紹介されるんだけど。彼女は、その1週間の旅を終えて、また一人で自分で介助犬のことでアメリカ行って。で、アメリカから介助犬をもらって帰ってきてとか、そこまでやって。

インタビュアー: へー。そうなんだ。

樋口: そうそう。だからそうやってほんとに一人一人の人が、たった1週間足らず、ほんの1週間でもいろんなこと学んで、変わっていけるということで、海外ツアーっていうのは、すごくいい素材だと思って。うん。あの、その後も、できるだけ、まぁあの、お金が…、行政からもらえるお金ができてくるまでは、お金作りの手っ取り早い方法でもあったので、やっておりました。うん。

インタビュアー: ふーん。それやりながら、

樋口: 町田ヒューマンを、あの、で、まぁ、あの、えっと…、町田ヒューマンができて…、ほいでえっと、東京都の、えっと、地域福祉振興基金かな? 中西さんが、あの、えっと、ヒューマンケアの頃に、え…、トライして、あの地域福祉振興基金っていうのができた時に、あの、自分たちの活動は、それ、まさしくそれだ、と言って、激しく売り込み、それで、それを何とか、ILセンターで取れるものとして、やって。だから、えっと…、町田ヒューマンネットワークが、始まって、次の年ぐらいから、90年、91年、くらいかな。うん。

インタビュアー: 調べてみますね。わかりました。

樋口: うん、はい。今も細々とは、やってるみたい。あの、地域福祉振興財団かな。で、ま、自立生活プログラムやってる、あのピアカウンセリングやってるとかっていうので、介助派遣やってるとかで、1,500万ぐらいとか、出るようになってきたのかな。1,500万出るけど…、違う、1,500万が総額で、それの25パーセントは自分たちで作らなきゃいけないとか、そんな感じの、あの、

インタビュアー: あ、要綱になってるわけですか。

樋口: うん。で、まぁ行政的な補助が得られるようになってきたのは…、どれくらいだろう? 91年、90…。91、2年だろうね。

インタビュアー: ふーん。地域福祉振興基金か…。確かに。それで、町田ヒューマンもそれをもらって、活動してって感じですか?

樋口: はい。でもあの、ヘルパーはなかなか認められなくって。あの、だから介助者は、家政婦協会とかに登録させて、ほいでお金をもらうというような感じになっていった。あの…、

奥平: へぇー!

樋口: えっと、何だっけ? えーっと…、個人…、あの、行政に「ヘルパー出せ。」とか言ってったら、「ヘルパーがいない。」と言われ、それで門前払いになるから、「ヘルパーはいるんだ。」ということで、その、「自分たちで見つけてヘルパーとして、あの、育てた人がいるから、その人をヘルパーとして認めてください。」という、それ何ていうんだっけ?

インタビュアー: 自薦?

樋口: そうそうそう。自薦方式を始めて、でもその、えっと、自立生活センターはその、自薦方式のやる団体としては、なかなか、

インタビュアー: まだ、ですよね。うん。

樋口: 認められなくて。だから、あつしくんなんかも家政婦協会に登録して、

奥平: 登…、えー!

樋口: 家政婦協会から、あの…、来てたかな?

奥平: あつしくん、そんな前から働いてた?

樋口: あ、でも…、待って。あつしくんは、阪神大震災から来たんだよね。

インタビュアー: じゃ95年かな。

樋口: 95年。95年。うん。そいで、福祉専門学校に通いながら、ヘルパーをやってて、お巡りさんにバイクで捕まって、

奥平: (笑)

樋口: 「仕事は何だ。」って言ったから、「ヘルパーだ。」って言ったら、「そんな茶髪でロン毛がそんなことやってるはずがない。」と言われたとか(笑)、言って。

インタビュアー: ふーん。95年、なるほど。この頃もまだ家政婦協会でしたか?

樋口: この頃、いっこう(?)がそうだと思うな。うん、あつしくんが入って、で、あの、頸損…、それこそ町田は、あの、社会、県境の一番近いところだから、神奈川のリハ、七沢リハとかを出た人たちが「東京の制度の方がいい。」って。「他人介護料とかあるから。」って言うんで、わりあい町田に住み着くことがあって。うん。それで、あの、男性の頸損の人たちも増えてきて。だから、男性の介助者が日常的に必要になって。そういうのにあつしくんは、働いてたんで。で、家政婦協会からもらって、やってて。で、それから次へいくの、支援費?

奥平: そうだよね。

インタビュアー: そうですね。支援費は2003年かな。

奥平: あ、2003年か。

樋口: うん、そうですね。それで、私はそれから、90…、まぁ90年に市長市議選があって、そん時にあの、私たちスタートしたばっかりだったから…、町田ヒューマンネットワークね。で、町田市の市議会議員候補に質問状、公開質問状出した。誰一人返ってこなかった。障害者をバカにしてて。(笑)

 で、一つリアクションがあったの…、あ、一人、あの、福祉畑で一所懸命やってたおじいちゃん市議が返事をくれて。それから一人、文句を言って来たのが共産党の議員で。「あの…、あなたたちね、人にものを頼むときは、返信用の封筒に切手貼って…、貼って入れるぐらいのことはしなさいよ。」とか言ってきて。お金のない私たちの団体が、切手を貼って、貼った封筒を入れるほどのお金はないから(笑)、そんなものを言ってくる方が間違いだと思ってるのに、それこそその当時の事務局長は「すいません、ごめんなさい。すいません、ごめんなさい。」って謝っちゃって(笑)。もう私の方が怒っちゃったよ。

一同 (笑)

樋口: あ、代表だ、その頃のね。あいちゃんの旦那、もう亡くなったけど。木下さんはすぐに謝るタイプだから(笑)。で、ほいで私は、その、それがあって、それから、その年の、その、市議選…、市長選で、そのあの何?、あの、えっと、さっき言われてた、大下勝正市長が引退をして、新しい市長になって。で、新しい市長になった途端、福祉問題がすっぽり、あの、何て言うか…、

奥平: 軽く扱われたの?

樋口: 軽くっていうより、あの、ひどいことになって、福祉叩きみたいなのが始まって。そいで、あの、市長は、あの、「障害者関係の親たちには一切会いません。」というのを公言して。そいで4年間というのが、冬の時代が始まって、っていうのがあって。で、私は、あの、「4年間町田ヒューマンやってきて、ここまで力つけられた。ゼロから始めて、ここまでやれるようになったんだから。」と思って。あの、市は何にもしないどころか、後退していて。で、市長は、前の市長は何でも親の言うことを聞いてたから、だから親は、闘って勝ちとるということを知らないわけよ。「お願いします。」って言ったらやってくれてたから。だからみんなグジュグジュグジュってなって、どこも活路がない、っていう感じになってたから。それに対して私は一定の怒りがあって。ほんで、あの、「誰か今度の市議選には、誰か出そうよ。」って言って、その、木下さんに「出なさい。」って話になったわけよ。代表だしね。そしたら「僕、背広がない。」とか言うからさ。

奥平: (笑)

樋口: 「リサイクルセンター行けば、200円で買えるから大丈夫!」とか(笑)、言ってたけど。結局は体力に自信がないとか、あの、その仕事に自信がないとかいうのがわかって。じゃ「誰も出ないのか?」ってなった時に、私が「じゃ、やろうかな。」って。真夜中の事務局会議で、家で。そしたら(笑)「恵ちゃんが市議選に出る!」って言ってびっくりして。まぁ、そんなことで。

 でも、ねぇ、あの、やっぱり、動かなきゃものは変わらないわけだから、やろうと思って、やったら、まぁ当選したわけです。

インタビュアー: ふーん…。

樋口: そしたら、やっぱり行政の内っ側に入るってことは、すごく何でもスムーズにいくわけよ。それこそ、近藤さんがいた時代のように。ま、その年にはまだ近藤さんいた、95年までだからね。94年が終わって、95年の3月まではいたから。1年間は、まぁ、あの、二人体制でやれたわけだけど。でも、何か、あの…、何でもないことが、こう、市民に隠されてる? 例えば、あの、裁判所ができるとかいうのがあって、そいで、「その建物をバリアフリーにすべきじゃないか。」っていうふうに、「エレベーターつけるべきじゃないか。」って言ったら、「エレベーターをつける予定はない。」とかって言うんだけど。「でも、やっぱりこれから障害持った弁護士さんが、ねぇ、弁護士として民事裁判とかそういうのに、あの、2階の裁判所でやらなきゃいけないようなことだってあるはずだから、バリアフリーにすべきだ。」とか言って。で、そういうのもやり合ったりして、それは確実にバリアフリーにしたし、っていう。

 こう、内側の情報がちょっと知れると動きやすいけど、それが、自分たちがそういう場にいないと、できあがってから、「バリアフリーじゃなかったね。」っていう話にしかならないわけで。だからそういう意味で、そういう当事者の存在は大事なことだな、と思ったんだけど。

 私が最初は、その、障害…、女性障害者で初めての市会議員みたいな触れ込みになって。そいで、私が市会議員になった時に、他の市会議員たちがどんなことに心を配ったかっていうと、トイ…、「席はどこにするか?」って言って。1年生議員って一番前なんですよね。で、そしたら、まぁ、トイレから一番遠いっていうか、出口から一番遠いわけだから。だから「車いす用トイレの一番近いところに(笑)いさせてやらなきゃいけないんじゃないか。障害者だから。」って言うわけよ。そんなこと私に聞いてたら、聞いてくれたら、「いいえ。全然関係ないです。」って。揉める前に、ねぇ! 結論が出るのに、私には言わないで、一所懸命、あの、上の何とか委員会の人たちでやいやいと検討してたっていうのが、わかったりして。まぁ、あの、そんな感じで。

 市会議員としてやったことは、あの、町田がリフトバスを導入するっていうふうになってたのを、「リフトバスっていうのはこれから、あの…、の、バスとしては、あの、必要じゃないんじゃないか。」と。「ノンステップバスがいいんじゃないか?」っていうふうに言ったら、「町田は丘陵地帯だからノンステップバスの底が、あの、腹が低いのは、あの、走行が難しいと思われますので。」とか言うから。「だけど長野オリンピックを…、に、東京都の、ね、都バス、あの、ノンステップバスが、いっぱいねぇ、あの、手伝いに行ったけど、あの車はアルプスのどことかとか、競技場へ行くのに、そんな問題がありましたか?」って言ったら、ねぇ、もちろんなかったわけじゃない? だからそういうのも、そういう言い方をしてちゃんと詰めていけば、あの、自分たちが最初に作ったプランありきで、あの、電…、あの、リフト…、「リフトをつけるっていうふうに決めたから、リフトを使わなきゃ。」みたいな感じの。どんどん、新しいものはできていくわけで。で、便利にだっていうのもわかっているわけだから、変えていけばいいのに、そこに対する抵抗っていうのはすごく役所ってあるな、っていうのは思った。うん。で、4年間だったけど、やった甲斐は、価値はあったかなとは思いまして。

[00:21:39]

インタビュアー: 正確に言うと何年から何年やったんですか?

樋口: 94年の2月から、98年の4月…、2月かな。

インタビュアー: うんうんうん。で、自立生活センター協議会の代表やってたのは、

樋口: うん、その時。

インタビュアー: ちょうど重なっている、ね。ふーん。そう、じゃすごい忙しい…

樋口: でもないよ。

奥平: でもそん時、事務所には来てなかったもんね。

インタビュアー: あぁそう。

樋口: うん、時々は来てた。

奥平: うん。そのあとで、ずっと毎日来てた。

樋口: うん。

インタビュアー: あー、そうかそうか。ふーん。自立生活センター協議会の代表になったのが、90…?

樋口: 90…、

奥平: 2期やったんだっけ?

樋口: 90年。90年じゃないかな。

奥平: そんなに?

樋口: 山田さんが…、

インタビュアー: JILそのものが、でも、91年じゃなかったですか? 始まったの。

奥平: 91年のそのあと…(?)。

樋口: あ、そうそう。90…、

奥平: 何期やった? インタビュアー: カイロに行った時とかは、やってた?

樋口: カイロは遊歩が行っただけ。

インタビュアー: あーあー、その…、

樋口: 私、北京会議行ったのは、95年。そん時はやってたよ。

インタビュアー: 95年、代表だった。じゃ、そのくらいからかな。

奥平: あなたがアルバイトしたのはいつ?

インタビュアー: 私は、えっと、もうちょっと後だと思いますよ。

奥平: 90何年?

インタビュアー: うん、この辺かな。98とかそのくらいに顔出したりしてたと思う。

奥平: だよね。

樋口: 94年ぐらいからじゃないかな。山田さん、3年ぐらいやってくれたでしょう、最初の。91年から。…じゃないかな。

奥平: 2期やった?

樋口: 2期かなぁ。

インタビュアー: 1期何年ですか?

樋口: そんな、決まってなかったよ。真砂子さん。

インタビュアー: (笑) あぁそうか。

奥平: あぁ、そうだっけ。

樋口: 今、決まってる?

奥平: うーん。決まってると思うけどな。

インタビュアー: 「期」とか? 最初の頃はそうかも。決まってないのかな、あんまり。

奥平: 何年…、2年に1回だ。2年に1回。

樋口: 2年に1回。うん。

インタビュアー: うん、うん、うん、うん。じゃ91から93が山田さんかな? そしてそのあとに。

樋口: だから、そんなにその頃は決まってなくって。最初はほんとに山田さんと言いつつも、事務局は、斎藤明子さんが牛耳ってたから(笑)。

奥平: あぁそうか。

インタビュアー: あー、斎藤さんか。

奥平: それは知らない。

樋口: それで斎藤さんの事務所で、

奥平: うん。あ、家が? 事務所だったの?

樋口: 家っていうか、文京区…、が、やっぱり本社が所在する場所でしょう? だから格好いいからって、斎藤さん言って(笑)。

奥平: (笑)

樋口: 文京区の、あの、あの、それこそバスケットとかそういうのの事務局もあそこ、その場所でやった。真砂子もいたとき…、ことあったっけ?

奥平: あの、6ヶ月居候してたへんだったところ。

樋口: 関口マンション。

奥平: そうそうそう。絶対行きたくない。

インタビュアー: お菓子食べられちゃったの。

奥平: あ、ご飯。

インタビュアー: ご飯か。

樋口: お餅(笑)。お餅捨てられた。

奥平: あ、そうそうそう。色々あってさ。

インタビュアー: (笑)お餅は捨てられたの? 食べられたんじゃなくて?

奥平: 何か、

樋口: カビがはえてるからとか言って、

インタビュアー: あー。

奥平: 全然違ったのに…、と思って。

樋口:&インタビュアー: (笑)

奥平: 豆。

樋口: はい。

インタビュアー: そうかそうか。ふーん。

奥平: で、私…、じゃ、じゃあ、じゃあ2年を何期かやったってことか。

インタビュアー: うんうん。

樋口: そうだよ。

インタビュアー: ふーん。じゃ93年ぐらいから、

樋口: 2001年の5月で、

奥平: が、設立でしょう?

樋口: 違う違う。2005年が、

奥平: あ、2005年。ごめんごめん。

樋口: いや、違うか。

奥平: 違う。私が、

樋口: 違う、2001年が、引退。

奥平: うん。だよね。

樋口: 2001年の5月が引退。

奥平: 私、その前に、もう、恵子さん引退するって言って、そいで、あ、次、中西さんってわかってて。「はぁ、一緒にできない。」と思って、ちょうど声がかかったから、リハ協に行ったの。ねぇ。で、恵子さんがリハ協に挨拶に来てくれてさ。奥山さんていう…

樋口: そう! 何でそんな、私は真砂子の親ではございませんみたいな。何か、「うちで雇うけど、ずっと雇えるわけじゃないから。」みたいな、「その時は引き取ってよ。」みたいな雰囲気だったよね。

奥平: そうそう。

樋口: 何か。

奥平: 何かダスキンの、

樋口: 嫌な感じだった。

奥平: うん。すごい嫌な感じで、ダスキンの担当として、はい、あの、雇わ…、雇われたんだんけど、「ダスキンのお金がなくなったらもう、雇えないから。」みたいに言われて。

樋口: 「そん時は、樋口さんの方で。」みたいに言われて。

奥平: そうそうそう。

樋口: 「人を何と考えてるの?!」みたいなねぇ。ほんとに、失礼千万。

奥平: でも、その前のJILの2年か3年楽しかったね。

樋口:&インタビュアー: (笑)

樋口: 家族のように。

奥平: 家族のように。

[00:26:51]

インタビュアー: 和気あいあいとしてましたね。

奥平: そう。あと、みさちゃんてね、あの、美容師さん。

インタビュアー: みさちゃん。へぇぇ。

奥平: いたし、楽しかったね。

樋口: 今、どこにいるんだっけ?

奥平: 今、あ、住んでるとこはわかんないけど、あの、何だっけ、

樋口: 外国?

奥平: ううん。日本にいると思う。

樋口: あ、ほんと。え、フェイスブックで何か、外国だった。まだ。

奥平: そう、だけど、帰ってきてるはず。

樋口: まぁそんなことで。

奥平: でも、その時もさぁ、ツアーとか組んでさあ、ねぇ、行ったよね。

樋口: うん。ていうか、真砂子と日米協議会とか、ILサミットとか、ハワイでやったりとかしたよね。

奥平: うん。大変だったね。

樋口: うん。それと、まぁ、あの、記念誌? あの、IL運動史。

奥平: うんうん、あそこにある本も、

樋口: 障害者、

インタビュアー: あぁ障害文化の本ですね。

樋口: うん、はい。とか、

インタビュアー: あれは、何かやっぱり、やろうっていうのがあったの?

樋口: うん、そうよね。

奥平: そうだよね、何か、

樋口: 形をちゃんと作ろうと。

奥平: 今みたいな感じで、誰かが亡くなったのがきっかけだったかもしれないけど。忘れちゃったけど。

インタビュアー: あぁ、修さんですか? 違うか。

奥平: 修ちゃんの前だよね。

樋口: いや。

奥平: 修ちゃん生きてた時だよね。

樋口: いや。

奥平: 違ったっけ。

インタビュアー: いや、ちょうど亡くなってなかった?

樋口: 死んでたよ。

一同 (笑)

奥平: 死んでた(笑)

インタビュアー: 亡くなってたですよね。

奥平: じゃ、それがきっかけかな。

インタビュアー: 何か、違うか。時期はおんなじぐらいだったような気がする。

奥平: あれ、どっからお金もらったんだったっけ?

樋口: キリン。

インタビュアー: キリン?

奥平: キリンか。

樋口: キリンから600万。

奥平: そうか。

インタビュアー: お、すごい。

樋口: うん、そいで、ねぇあれ、私、あとあと考えたら、JILに印税が入るようなやり方で作ればよかったかな、と思った。

奥平: あー、そうだね。

樋口: ねぇ。

インタビュアー: ふーん。え、結局どうなったんですか、その販売権っていうか、

樋口: は、あの、何?あの…、えっと、

奥平: 本屋さんでしょう、現代書館。

樋口: 現代書館。

インタビュアー: あ、現代書館なんだ。

樋口: うんうん。まぁ現代書館も厳しいから、あれだけど。

奥平: 小林律子さん、引退だってよ。

インタビュアー:&樋口: うんうん。

樋口: もう定年なんでしょう。

奥平: あぁうん、そうそうそう。

インタビュアー: でも、来年の3月ですよね。

奥平: うそ。ほんと?

インタビュアー: 今度の3月じゃなかった、と思う。こないだ連絡した時。

奥平: どうなるんだろう、福祉労働とかって。

樋口: うん。

インタビュアー: ほんとだよねー…。

樋口: やっぱり変革の時期なんだろうねぇ。紙ものは売れなくなったとか、

奥平: そう、ノーマライゼーションみたいにねぇ。

インタビュアー: ノーマライゼーションが一番大変じゃない。 

[00:29:33]

樋口: うん。まぁ、自立生活…。私はやっぱり、アメリカ行ってすごく感じたのは、やっぱり自分の中に、その、自分はそれこそ、選択権も決定権も持ってて、自分の人生に対して。で、それこそ中学の時に親に迎え…、あ、中学卒業した時に、親に迎えに来てもらって施設からも脱したし、したけど。それってすごく、施設に残してきた人たちていうか、それがすごく自分の中に…、何ていうか残ってるっていうか。

奥平: へぇぇ。 樋口: うん、あの…。で、自立生活運動始めた時も、やっぱり、施設の人で「出たい。」という人たちには最大限、あの、出られるような支援をしたけど。のほほんといる人たちに対して、つまり「寝た子」に対しては起こす活動は何もしなかったというか、ねぇ。それはすごくあって。

 それの根底にあるのは、その障害者の自立観っていうか、その昔から植え付けられてた、身の回りのことがある程度自分でできて、そして自分のお金で働けるという、働いて稼げると。それで生活ができるという、その社会通念上言われてきたその自立観ってのが、やっぱり自分の中に根強く、優生思想じゃないけどあって。で、「この人たちは仕方ない人たちだ。」みたいに思っちゃってた部分があるかな、っていうのは、その後気にかかっていて。

 で、アメリカで、あの、「自立とは、あの、自己選択権であり、決定権だ。」って。「どんな状態の人であれ、そこが、あの、自立の基本なんだ。」っていうのを叩きこまれて、あの…、やってきたっていう感じがするから。うん。

 で、それこそ相模原問題が起きた時も、すごく落ち込んだんだよね。自分には関係がないっちゃ関係がないけど、やっぱり、そういう人たちをつくる社会を肯…、肯定してきたっていうか。殺す人をじゃなくってね、そういう形態で生きていくしかない人たちとして、施設の、まぁ、反対してるのに、施設を反対してるのに、「反対」と口では言うけど、具体的な何もしてこなかったっていう、何かすごい、自分の中の思いがあったな、っていうのを、その、相模原事件のあとに感じて。近藤さんがこないだ、「あの事件があった後、女房は…」、何て言った?

近藤: おちいった。

樋口: (笑)おち…、

近藤: 滅入った。

樋口: 滅入った!

インタビュアー: 滅入った。ふーん…。

樋口: そう。…だったなぁ、と思って。

インタビューアー ふーん。…うーん、なるほどねぇ。

樋口: でも見形(みかた)さんなんかも、歌まで歌いに行ったからさ。

インタビュアー: うんうん、うん。『19のいのち』でしたっけ、歌ね。CD作って。うん。そうねぇ…。うーん…。

 でもまぁ何て言うかなぁ、さっきおっしゃってたような、その、ほら家の中、施設じゃないけど、家の中でずっとこう、座敷牢みたいな、そこまで言っちゃうとあれだけど、ねぇ、人にこう、関わっていくとかして、そういう人を、外に…、

樋口: その人もね、私が、その、舌噛んだ人、ねぇ、牛タン。

奥平: 牛タン(笑)。

樋口: (笑)は、やっぱり施設に入ったんだよ、親の高齢化に伴って。その頃は私はもう全然関わってない。IL運動をやっていてて。でも、彼がこの施設にいるっていうのは知ってて。それこそ近藤さんが旭(あさひ)さんに呼ばれて、あの、長野の大学に、あの、講演に行く時…、授業しに行く時に一緒についてってたから、帰りにその施設へ寄ったりしたことがあったの。で、2回寄ったのかな。1回寄った時、すごく喜んでくれて、覚えてて。喜んでくれて。で、また行ったらもう亡くなってたの。だからすごく若くして亡くなったんだけど。

インタビュアー: じゃ、どっか、遠くの施設に行ったってこと?

樋口: 長野県。

インタビュアー: あぁ、長野に行ったんですか。

樋口: うん、長野県の施設に入ってて。

インタビュアー: 入ったんだ。

奥平: いくつぐらいで亡くなったんだろうね?

樋口: うん…。だから…、50過ぎくらい。

奥平: 全然、家に帰ってなかって、そいでそのまま施設に行ったの?

樋口: まぁ、通所してきてたから。その中では色んな、あの、まぁ、社会活動というか、人とのつながりとか、色々はできてはきてた。こもりっきりではなかった。

インタビュアー: ひかり…園でしたっけ?

樋口: ひかり療育園。

インタビュアー: ひかり療育園に来てた、と。

樋口: 親たちが「療育園」ってつけたくて。大人なのに。

インタビュアー: どうしてだろう。

樋口: やっぱり、教育とか本当に大事なものを受けとれなかった、受けさせてもらえなかったものもあるのかな、っていう感じで。

インタビュアー: そっかぁ。なるほど。ひかり療育園ね。

近藤: その事業の、一番もとの時に、僕が役所に入った時なのよ。入って2年目ぐらいに、あの、重度障害者には手当が出てる、お金が。でも、地域にはその存在が知られてない、ということに気づいて。何回行っても、「いや、本人が風邪引いてるから。」とか何とかって会わせてくれないの。で、近所に聞いてみたら「いやぁ、いくつまでだろうね? あの人が生きてたのは。」ていうふうなのよ。魚屋さんで。ほいで、「えーっ?」とこう、「どうなってんだ?」と思ったけども、絶対会わせてくれない。

 で、だから、いたのよ。いるんだけれども、かの…、彼は目が見えなくって…。あ、あの人じゃないんだ。魚屋のしんちゃんだ、僕が言うのは。魚屋のしんちゃんという所に行った時に、しんちゃんの手当てが出てるのに、親は受け取ってるのに、しんちゃんの姿が地域にない。で、地域の人へ聞いてみたら、「いや、生まれた時はね、分かったけれども、もう亡くなってるでしょう? 昔のことだから。」と言うのよ。そんなはずないわけ。親は手当てを受け取ってるんだから。ほして何回も行って…、

インタビュアー: 会えたんですか?

近藤: 会おうとするわけ。で、これが、えーと、あのー、何ていう事業だろうね、ある一つの事業の、僕が事業をつくる…

樋口: あ、言いました。「在宅訪問事業」。

近藤: あぁ、在宅訪問事業いう事業をつくるその発端なのよ。で、「絶対会わせてくれ。」って言って行くけども、会わせてもらえない。でもそれだけが僕のワーカーの仕事じゃないから、そのことだけに関われないわけ。だから、「こりゃいけない。誰か関われる、継続的に関わる人間もいないと。」というので、事業をつくったわけ。その時、恵ちゃんを入れたり、違う何人かを入れて、もう、いっぺん会わせてくれなかったらまた1週間後には会いに行く、というような、しつこい事業をつくったのよ。(笑)

樋口: うん。あの、一緒に行く人はケース…、若いケースワーカーと、それからその時に応じて、保健婦さんとか。で、私たちみたいにこう、関わる人と2人、3人か4人で行ってたんだけど。保健婦さんとかね、連れてくとこっちが気を遣うのよね。あの、背中に勝手にぴゃっと手を突っ込んで、「あぁ。どうとかこうとかね。」ってこう、評価をしたりするわけよ。相手と、こう、つながるということをせずに、物体として見て。

奥平: (笑)

インタビュアー: あー。そうかそうか。

樋口: ねぇ。病人に対する医者でも、ねぇ、神経の変な人はそういうことするじゃない。そういう感じで、もう、せっかく私たちが一所懸命培おうとしてる関係をこう、バサッと打ち切らせるような、そういう無神経な人がいるのよね。

インタビュアー: うーん。

近藤: 地域には、そういう、そういう表に出されない人がいるということに気づいて、僕は実態調査をしたわけ。ほいで、あの、その時のその市長はね、昼ご飯は社員食堂に下りてきて食べてたから…、

樋口: 職員食堂。

近藤: 職員食堂。で、何時に行ったらどこに市長がいるってのは知ってるわけ。市長室行かなくても。そこ行って食べたら誰も来ないわけ。たくさんいるっていうのに、テーブル一つに市長だけが食べてるわけ。

樋口: 近づきたくないんだ、誰も(笑)。

近藤: で、そこ行って、「市長、一緒にいいですか?」言うて食べるわけ。そして食べながら…、

インタビュアー: でも、すごいいいチャンスですね、それは。

近藤: そうそう。「こういう事業を今、やってる。」と。「ほしたら、今、3人なら3人、ほんっとに家から出されない、存在すら認められてない人がいるから、そこにこういうアタックをかけてるから。」言うたら、「おぉ、やってくれ。」と。で、「自分がやらないといけないとこになったら、やるから、そこまでお前頼むぞ。」と言うわけよ。そういうように、直接、市長に雇われているということが実感できるわけ。で、やるわけ。そしたら他の人たちはやらないけども、反対できないじゃない? うん。で、時々、市長に報告するわけ、食堂で。ほして、「もう今ここまで来て、もう10何年にもなるし、このくらいになるから、もう、ぼつぼつ通えるところを外につくってほしい。」って言ったら、「分かった、考えてみよう。」言うて、

インタビュアー: それが、ひかり…、

近藤: 空き公舎の一角を提供くれたりするわけ。そういう事業のつくり方を僕はするわけよ。うん。だれーも、もう知りもしない手も掛けない人が、やっぱ街にはいるのね。座敷牢のような所入れられてるのよ。

インタビュアー: だってこないだもねぇ、大阪で亡くなった人いたじゃないですか。17年間個室でねぇ。

奥平: あぁ。

近藤: その魚屋のしんちゃんは…

樋口: あったねぇ。

インタビュアー: ねぇ、ああいうことがありますもんねぇ。

近藤: 目が見えない、耳が聞こえない、言葉がない、人なの。どこにいるかいうたら、押し入れに入ってるの、日中ずっと。光を必要としないから。

奥平: あ、目が見えないからね(笑)。

近藤: そう、で、風が来ないでしょ。だからそこにじぃっとしてるだけなの。そして、おしっこの時とか、ご飯の時になったら出てきて、ささっと済ませて、パッとまた入っちゃう。で、何かの時にこう、外に時々出てくるっていうけども、お客さんの声がどこかでしたら、ぱっと押し入れ入っちゃう。

奥平: あ、へぇぇ。え、目が見えなくて…、

近藤: 耳が聞こえなくて。

奥平: でも声聞こえて…、

樋口: 聞こえてたよ、しんちゃんは。

近藤: ん? 耳は聞こえてたのか。

樋口: 耳は聞こえてたし、だから…、

近藤: いやっと言うような意思表示はするわけ。

奥平: 精神障害?

樋口: いや、知的。

奥平: 知的か、あぁ。

樋口: 重度の知的ね。

奥平: と、目が見えないのか。

近藤: だからそれを、もう地域の人たちも知らないわけ。で、そんな人がね、町田市の中にいて、一番最後に何人ぐらいになったんだろうね。調査したら、僕の調査では20人ぐらいあった。ほしたら市長もびっくりして。で、そういう人はどこでもいるんだけども、そこまで手を付ける時間がものすごいかかるわけ。親が反対するんだから。

インタビュアー: そりゃあ、そうですね。

樋口: だって親は、関わってほしい時に誰も関わってくれなかったわけだから。

インタビュアー: そうですよね、もう誰も信用してないんですよね。

近藤: そうそう。

樋口: うんうん。

近藤: だから、「あぁまた来たか。でもいっぺんここで過ごしたらまた、1年にいっぺんしか来ないんだから。」と。「調査に来るのは1年にいっぺんだから。」って、「風邪引いてる。」って言ったら、もうそれで終わりや。

インタビュアー:&奥平: うん…。

近藤: それにしつこく僕がかか…、僕の地域でね、僕が関わり出したわけ。それが日本でも珍しい、その人たちだけの事業につながっていったわけ。そんなのが町田の福祉の芽になるの、おしまいには。「どっこもやってない事業を町田はやってる。」いうて。ほいで町田の、光はよそから当てられるわけじゃない。「えぇ!そんな事業? うちにもそういう人いるんだろうけれども、そこまではやれないなぁ。」とか言って。それが脚光を浴びてきて、「福祉の町田」っていうことをつくり上げてくるわけよ。うん。それには時間もかかったし、私ができないもんだから、彼女…、恵ちゃんとか、恵ちゃんの仲間関係とかを集めて、予算を取って、1時間なんぼというのを、うん、市から出してもらって、非常勤で…、の、あの、職員でやるわけよ。常勤の職員はやれないから。そういうことを、あの、認め…、えっと僕が言ったら反対しなかったから、できてくるのね。そこまで普通は関われないのよ。

奥平: でも、今は…

近藤: 今はや…、そんなことやる気は、もともとないよ。

奥平: そっか。

近藤: もう全然手が、つける所ないから。だからどこでもいると思うんだよね。

奥平: いますよね。

樋口: だってあの、あの、東北の震災の後、そういう人がうようよ出て来たでしょ。家庭に閉じ込められてて、でも家族は避難しなきゃいけないけど、「この子を連れてったら厄介だし、荷物だから。」っていうので…、

奥平: 置いてっちゃうのね。

樋口: 「何とかして。」って言って、白石さんところとかが救出したわけでしょ?

インタビュアー: うん…。そうだよね。

近藤: だからそういう時代だったの。で、そういう視点で僕は仕事したの。だから普通の職員ではもう全然、手が入らないところを、自分から開拓していった。で、それが、特別、市長に直接会ったから評価されたけども、普通の時代では、そこまで入る職員はいないでしょうね。

[00:45:05] インタビュアー: どの辺からもう1回。町田ヒューマンの立ち上げとかは、今少しお聞きして。で、そこにJILの活動も関わって。JILの中ではやっぱりあれですか。全国に広げていくっていうところとかですか? 主眼は。やっぱり、自立生活センターを根付かせるとか。

樋口: うん、そうそう。

インタビュアー: 全国に。

樋口: 裾野を広げることもあるけど。

インタビュアー: うん。うん。

奥平: あとさ、あの時期もさ、何か、私が行ったころは、96年かな、96年。恵子さんと一緒にやってた時。何かまだ、その、JILの事務局ってパソコンも入ってなくって。

インタビュアー: えぇーっ、そうか。

奥平: 何だっけ、あとネットも、だから引いてなくて。

インタビュアー: え、何? ワープロか何かでやってたんですか?

奥平: いや、分かんない。新しくなったばっかりだったのかなぁ。修ちゃんが。修ちゃんが事務局に、事務局長になったばっかしだったのかな? よくわかんないけど。

インタビュアー: ふぅん、じゃ、その斎藤明子さんの時は、何かそういうものはない、と。

奥平: いや、あったのかもしれないけど、少なくとも私が、その、立川の事務所になったんだもんね、あの時。

樋口: うん。

奥平: だから、そこ、JILの事務局に入った時、何もなくて、「私こんなんじゃ仕事できません。」って言ったのすっごい覚えてる。(笑) 

インタビュアー: (笑)

奥平: 事務所に行ったって、

インタビュアー: 何もない。

奥平: そいで、でも、あの、制度を使うことはよく皆分かってるから、その制度を使ってパソコンを買ってくれたりして。でも、誰も。日立の時だとさ、あの、最先端の部署だったから、教育センターって。何か、「あ、ごめん。これ、つながらない。」って言ったらさ、さぁっと3人くらい男の人がやってきて、さささぁっとやってくれてたけど(笑)。

インタビュアー: 箱に入ってましたね、だいぶ。(笑)

奥平: で、JIL来たら自分でやんなくちゃいけなくて(笑)、

インタビュアー: 全部自分でって感じ。

奥平: すっごい大変だった。

インタビュアー: あぁ…。鍛えられましたね、だいぶね、ふーん。

奥平: その中で、何か、恵子さんとやった3年間は…、2年間か、最後の。2、3年だよね?

樋口: うん。

インタビュアー: ふーん。え、

奥平: その時はもう、パソコンとかちゃんとしてたけど。何か、そうね、ハワイサミットが大変だったね、最後の1年。

樋口: うん。

[00:47:55] インタビュアー: へぇー、ハワイサミットはいつやったんですか? 90…、7年とか8年とか?

奥平: 90…、

樋口: 2000年じゃなかった?

インタビュアー: あ、2000年。

奥平: あ、2000年か、そうだ、そうだ。

樋口: 「ミレニアム」って言ってやったんじゃない?

インタビュアー: へぇぇ。

奥平: とにかくお金つくりから、ねぇ、やんなきゃいけなかったもんね。

樋口: うん。

奥平: 何か、いくらつくったっけ? 1,000万だっけ? 800万だっけ? とにかくいっぱいつくって。さっきの話じゃないけど、アメリカって全然つくんないからさ。

インタビュアー: (笑) ま、全部こっちでみたいな感じ?

奥平: 全部でもなかった。レックス…、レックス・フリーデンがその時頑張ったんだっけ?

インタビュアー: あぁ。

樋口: ふぅん。

インタビュアー: レックス・フリーデン。ふぅん…、なるほど。

樋口: そこいらはすごい昔のことになって来たわ。

インタビュアー: (笑)

奥平: 何か、JILの収入源って、会費と、あとキリンぐらいだったよね。

樋口: うん。

奥平: こう、継続して、あの、くれてたのって。で、キリンもその頃になったら、「違う形をやってください。」とか言われて。JIL本体で使えなくって、各センターの…、で、何かプロジェクトを募集して、それにお金をつけるとかって言われて。

樋口: そうだね。

インタビュアー: ふぅん。

奥平: だから、その、JIL本体の、私たちの給与をどうするか、というのをすごい考えた。(笑)どこから…、どっかからお金引っ張ってこなきゃ、みたいな感じで。あと、そう、その頃ってあれだよね? 虐待防止っていうか、何だっけ? その調査とかもやってたよね。

樋口: うん?

奥平: あの、虐待防止法はまだ全然なってなかったけど、

インタビュアー: 権利要綱?

奥平: 何か、虐待されてる人の調査とか、

樋口: そんなんやった?

奥平: やった、やった。

樋口: どこで?

奥平: JILで、権利委員会だっけ。

樋口: あぁ、権利委員会ね。人権委員会。

奥平: あ、人権委員会。何かJILってほら、委員会が3つ、3つ? ピアカン委員会と…、

樋口: ピアカン委員会、介護委員会、IL委員会、…

奥平: 人権委員会。じゃ4つか。そういうところ動かすのなんか、しっかりやってたよね。

インタビュアー: ふぅん。じゃ、その頃。でも結構そしたら、権利委員会とか、早い時期ですね。

奥平: うん。

インタビュアー: 法律はもっとあとだもんね。13年だったか? うん。

奥平: あぁ、そうそう、そうそう。でもその頃から虐待って、やっぱあっ…、もちろん今よりひどかったんじゃない? 当時はだから(?)。

インタビュアー: 何か知的障害の人の事件とか、色々ありましたもんね。就労の場面で。

奥平: ふぅん。もう覚えてないね。

インタビュアー: 賃金のあの、未払いみたいな話から始まり、セックス…、性的虐待もあって。結構大きな問題になってた時期があったと思うんだけど。

奥平: あと、何かメンバーが増えてきて、てか、増やすことも頑張ってたし、増えてきて問題も起きてたよね、何か。忘れちゃったけど。

樋口: でもあの、何だっけ。市町村障害者…、えー…

近藤: 生活支援事業。

樋口: …生活支援事業ができて、全国に…、その…、の自立センターがそれを受託できるようにするために、

インタビュアー: うん。96年かな。

樋口: あの、ピアカウンセラー認定委員会をつくったりとか。

インタビュアー: あー、はいはい、はいはい。

奥平: そうだね、その支援事業の文言の中に、「ピアカウンセリング」って初めて入ったって、皆で喜んだ。

近藤: ピアカウンセリングとね、あの、

インタビュアー: 自立生活プログラムも入ったかな。

近藤: 自立生活プログラムが、

樋口: 社会生活力を高める…

インタビュアー: あぁ、そういう名前か。

近藤: そう、「生活力を高めるための支援」というので。で、それはどこがじゃなくって、ILセンターの運動から取ったもんだったから。で、まだ、NPO法もできてなくって、障害者運動だった自立生活センターの立川と八王子と町田に、それこそ厚生省から、あの、県も通さずに、「これはそこに委託する。」と、ぽんっと来ちゃったのよ。そして、あの、中身をつくって。中身には、多分に僕たちが関わってたんだけど。そして、ピアカンとその生活力を高めるための支援は、「ここに聞け。」言うて、立川と八王子と町田が選ばれたわけ。

奥平: 「御三家」って言われてたもんね。

近藤: (笑)そう。だから電話が鳴り出して。

インタビュアー: 御三家か。

近藤: 「これは何ですか?」と。「自立、生活力を高めるための支援とはどうしたらいいんですか? 厚生省はそちらに聞けと言ったんですが。」言うて、どんどん電話が入ってきたわけよ。うん。それで大騒ぎになって。あの、その電話は一括にここで受けるようにしよう、いうんで。生活力を高めるための支援は、僕の、何とかいう運動につながってるんだけど。どっかにない?

インタビュアー: どれだ、運動?

近藤: さっきの紙どこ行った?

樋口: ん?

インタビュアー: 全国連絡協議会結成って書いてあります。

近藤: そう、そう、そう。それを、

インタビュアー: 障害者生活支援事業、全国連絡協議会。

近藤: そう、それを立ち上げたわけ。

インタビュアー: 97年。ふぅん。

近藤: 中西さんと僕と何人かで。で、「その電話でILセンターがパニックになってしまうから、その電話はここへ回してくれ。」というて、回したわけ。で、受けるようにしたわけ。

奥平: それ今、どうなってんですか?

近藤: いやもう、無くなってるよ。もちろん事業がつぶれたから。

樋口: だって事業が無くなったから。支援費に変わってけば。

奥平: あぁ、そうか、そうか。

[00:55:13]

近藤: 急に忙しくなったわけ。で、ほらそれ、役所の事業じゃない? それ関わった国との関係は僕が入ってたもんだから、中西さんが「これの代表、近藤さん。役所の対応はあんたがいいから、あんたやってよ。」と言って、僕が代表になっちゃったわけよ。中西さんから押し付けれたんだけど。そう。だからまたそれで、飛び回るようになった。

インタビュアー: うん。ちょうど役所を辞めていたから、ちょっと、ね。適任だったんでしょうね。

近藤: そう、それと、ピアカンと言うのは、恵ちゃんの方のピアカン委員会がそれに対応どうするか、っていうので、また特別なものつくらないと対応ができないわけ。どんどん電話が入ってくるから。

樋口: 電話じゃなくって、その、「どうやったらその、ピアカウンセラーなれるんですか?」みたいな。それになったら障害者が仕事ができるっていう、その、ところで、それが…

インタビュアー: そうですね。

奥平: 何かピアカン養成って私、結構反対したんだけどさ、認定制度。でも何か、できちゃったね、一時期。

インタビュアー: どうして反対したんですか? その時。

奥平: 何か、あの…、何ていうの、結局、認定されると専門家になるっていう思いがすごい強くて、何か、ILの理念は「専門家になっちゃいけない」(笑)っていうのが、えー、あって。

樋口: それはさ、でも、ピアカウンセリングという言葉を日本…、私たちが導入したあたりから、そこはなかなか、分かりにくくなってる? で、「ピアサポート」ってすればいいけど、カウンセラーという、ねぇ、専門職域を自分たちがこう、組み入(い)っちゃったっていうか、そこへ。そこで難しくなったとは思う。

奥平: そう。アメリカは…、アメリカっていうか、アメリカって言ったらいけないな、ジュディとかに言わせると、「ピアサポート」って言う…、絶対言う。

インタビュアー: あぁ、なるほど。うん、うん、うん、うん。それとピアカウンセリングっていうのの、ちょっと専門職っぽい感じが難しくなったっていうこと。

奥平: そうそうそうそうそうそう。うん。

インタビュアー: まぁでも、日本の場合「ピアサポート」もちょっと、精神の分野だとやや怪しげな名称ですよね。

奥平: どうして?

インタビュアー: あの、専門職の集団の中に一人、ピアサポーターって入ってて。そう、

奥平: あぁ、あぁ、一人だけ?

インタビュアー: そう、一応そういう仕組みの中に入ってるんです。そうするとそのピアサポーターの位置が(笑)、

近藤: 専門職になるね、完全に。

奥平: 専門職の集まりの中に、ピアサポーターが入ってるの?

近藤: いや、サポートという役職があるわけ。仕事の一部が。そう。

インタビュアー: だからどうしてもその医者も入ったりしてるから、ピラミッドになりがちじゃないですか? だから上手にやればね、自分の力でやれるかもしれないけど、大体の人はその医者の下に入ったサポートみたいになっちゃうから。ちょっと専門職っぽいというか、変な意味で。何ていうか、あの医療モデルの端っこを担わされちゃうみたいなのがね。精神は今、せめぎ合いみたいですけど。でも、カウンセラー制度途中でやめましたもんね、途中で。認定制度か。もうそのものがね。

奥平: でも私がいなくなってからなの、やめたの。

インタビュアー: ふぅん。そうか、そうか。結構…

奥平: 何か…、

近藤: その事業では僕は、本当に全国を走り回ったわけよ。そう。生活力を高めるための支援じ…、あ、事業という事業を広めるためにね。うん。要するに役所に使われたわけ。うん。役所っていうか、中西さんというか。中西さんも、うん、僕を使ったわけよ。便利だったの、一番便利で適職だったんじゃない? その代わり、僕が言ったのは、この事業ができて、重度障害者が就職するわけ。ほいで、窓口の障害者が重度なほど、当団に来た障害者に、その、影響力、安心感を与えると、いう言い方をしたわけよ。そう。だから、重度の障害者を雇うべきだ、と。で、彼にどうしたら生きやすいかという街づくりから、そういうことインプットできた時には、今までの専門職にない。うん。

インタビュアー: そうですね。

近藤: うん。それで人を説得する力も強いと。というようなんで、講演しまくった時代です。全国走り回って。

インタビュアー: そうか。その時はだから、恵子さんも忙しいし、

近藤: (笑)恵ちゃんがピアカンだからね。

インタビュアー: うん。結構、二人してじゃあ、もう家になかなか一緒にいない、みたいな感じですか?

近藤: いや、そういう感覚はないね。

インタビュアー: そこまではいかない?

樋口: それほどではなかったと思うよ。

インタビュアー: ふぅん…。

近藤: でも長い間、八王子によく通ったね、僕も。うん。

奥平: でもそんなにお金もなかったでしょう? たぶん、組織的に。あったっけ?

インタビュアー: この連絡協議会? そのもの…、

奥平: どうやってお金作ってたの?

近藤: いや、違うのよ。その2つを入った事業をやることによって、あの、ILセンターに役所から予算が回ってくるわけ。

奥平: うんうんうん、それはそうですね。

近藤: 事業付けられる。それは微々たるもんだけども、そういうことで予算がつくものが歴史的になかったわけ。

奥平: あーあー、そうですね。うんうん。

近藤: 重度障害者か何かに、お金が入って来るシステムが。だからこれが一番、重度の障害者が、日本では一番元気になった時は、この時代だと僕は評価したわけよ。

奥平: あぁ、そうですね。事務局どこにあったっけ?

近藤: 何が?

奥平: その全国…、

近藤: 八王子よ。

奥平: あぁ、(?)か。

樋口: 中西さんちのマンションの上の方の…

奥平: あーあー、あぁー、そうか。

近藤: ちょっと離れたとこ置いてあった。そして、あの、お金はあったね。あれ、どこから回って来たお金だ。

インタビュアー: (笑)

奥平: 推進協?(笑) 推進協じゃなくて?

近藤: 推進協のメンバーになることによって利点をつくって、推進協に、あの、NPO辺りが入ったのよ。その入会費とか、そういうお金があったんだと思う。

奥平: そうだ。推進協、お金流してたのかなぁ。違うか。

インタビュアー: ふぅん。推進協って…、

樋口: いや、推進協はそんなことには、お金は出さない。

奥平: 関わんないの。あ、そうか。

樋口: うん。もう、あの、個人の介助料を獲得するためにのみじゃない?

奥平: あぁ、そうか。

インタビュアー: ふぅん。どうやって運営してたんだか、分かんないけど。(笑) ふーん…。

近藤: だからそりゃ、あの、会費だったよ。

奥平: へー…。

インタビュアー: あぁ、じゃあその、事業取った自立生活センターからの会費だったのかな? ふぅん。

近藤: そう、会費だった。だから「今、何団体。」と、よく話し合ったもん。

インタビュアー: あぁ、なるほど。

奥平: JILも急激に会員増えてたよね、あの頃。何か、私が入った時は…、

樋口: ほとんど未来会員とか、お金にならない会員ばっかりだったけど(笑)

インタビュアー: うん。今、130ぐらいありますね。130ちょっとね。

近藤: そう言われてますね。

インタビュアー: 一番増えた時期は、でももうちょっと前なんだろうね。今、そんなにびゅーっと増えてる感じはしないですもんね。

奥平: 今は増えてない、うん。何か、お断りする時もあったもんね? ねえ。       

インタビュアー: お断り?

奥平: 一応、ちゃんと条件があるじゃない?

インタビュアー: あぁ、あぁ、あぁ。トップが障害がある方じゃないとだめとか、そういう。

■【3上14】2018021907近藤:樋口: 04分


インタビュアー: ヘルパーの利用を、週に3回でしたっけ? ヘルパーさん入ってるのはね。

近藤: あ、うちが?

インタビュアー: うん。

近藤: 週に3回。

インタビュアー: 3回で、1時間半?

近藤: えー、いや、正味、制度…、僕の受けるのは高齢者でしょ? 恵ちゃんが受けるのは障害者でしょ? だから制度が違うわけよ、うん。それでも足して2じか…、9時から11時半だから2時間半。それが、月曜と…、いや、火曜と金曜。で、木曜日は1時間。それは障害者の方、恵ちゃん。それと金曜日に僕の入浴、うん。これは…、えー、介護保険。

インタビュアー: 介護保険。介護保険…だと使いにくいとかっていうのは、そういうことは。

近藤: えーとね、それが難しいのよ。ここで介護保険は確か使いにくい、らしいのよ。しかし私たちは役所が…、役所と話し合う中で、「介護保険で出ない制度は、障害者の制度で補います。」という話をきちっともらってるわけ。

インタビュアー: あ、さすが。話し合いをして。

近藤: そう、そう。だから…

インタビュアー: でも、そうですよね。

近藤: そう、当たり前なの。これ、法律の使い方はそうなのよ。

インタビュアー: そうですもんね。

近藤: ところが他所(よそ)では、またここの事情から話すんだけど、ここの高知県には、障害者のための介護の本当の法律を使ってる、あの、事業所がないの。

インタビュアー: ふぅん、重度訪問介護とか、じゃあ使ってるとこはないんですか?

近藤: ない。で、「何を? なぜ?」と思ったら、介護保険の認定をみな受けて、事業所をつくって。で、役所はこれを下ろすけれども、「介護保険だけじゃなく、障害者の方も制度があるんだから、障害者にも派遣してくださいよ。」と言うたら、「はい、分かりました。そうしますから。」言うて、障害者二の次なのよ。ところが、ヘルパー研修の中には、介護保険がやるんであって、障害者の、あの、扱い方の、制度の使い方もやってないじゃない。だから皆が、「障害者をやってるけれども、これは介護保険に準じてです。」って言う。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: で、「準じてるのはどういうこと?」言ったら、「本当は高齢者になってないけども、障害者だから介護保険、高齢者に準じて出す。」言うたけど、それが、一緒なのよ。介護保険だから。だから、障害者は本当に規制に満ちた、あの、介護を受けてるわけ。僕たちが何ぼ言うても、乗り越えきれない。僕…、役所と僕たちはつながりあるじゃない、事業所だから。そこでは「いいですよ、そうですから。」って言うわけよ。だから「いいですよ。」と言ってくれるわけ。まぁそれがどうしても広がらないね。

インタビュアー: ふぅん。

■【3上15】2018021908 近藤:樋口: 10分

樋口: 私がその、高校へ入る前の施設から戻ってきて1年、1年近くは、すごいもう、自分の中できっと、体が改革をしてたわけよ。だから突然、3週間ぐらいしてから、何か、何か、急に熱が出て、

奥平: 戻ってから? うん、うんうん。

樋口: ほいで、それが40度ぐらい近い熱が、3週間ぐらい続いたの。

一同 えーっ!

奥平: 大変。

樋口: だから父親もへばって、あの、これはもう、

奥平: やばいよ。

樋口: 信仰どころじゃなく、治らないんじゃないか、と思って。ほいで私に、「病院に行きたいんだったら連れて行くし、お医者さんに来てほしかったら呼んでくるし、あの、自分が今したいことを言ってくれ。」って言って。聞いてくれて、私は「別に全然、不安じゃないし、大丈夫って、このままで。全然問題ないよ。」って言って。でも、ほら、おじいさん、おばあさんとかそういうの、全然分からないから、「いつまでもそんな放っておくんだ。」みたいに、やいやい父親にはプレッシャーがかかって、いたんだけど。うん。また父親は本当に私の自己決定権というのを、最大限尊重してくれて。

インタビュアー: すごいですね。

樋口: うん、そうそう。

インタビュアー: で、聞いてくれるとこもすごいですね。子どもだから勝手、勝手にって言ったらあれだけど、「こっちの判断で決めてしまえ。」ということはなかったんだ。

樋口: うん。勝手に救急車呼んで、連れて行くとかね。

インタビュアー: ねぇ、そうですよね。だって3週間ったら長いですよねぇ。

樋口: うん。

奥平: よく意識はっきり…、

樋口: で、その間ね、梨しか食べなかったの。

奥平: えーっ! そうなんだ。

樋口: 梨しか食べられなくって。

奥平: 今も梨、好き?

樋口: だからもう、その時食べきっちゃったから。もうその以後…、最近食べるようになったけど、しばらくは全然、必要じゃございませんでした。

奥平: (笑)

インタビュアー: (笑) 一生分食べました、ぐらいな。

樋口: 食べました、ってぐらい。

インタビュアー: 梨! へぇぇ。

樋口: うん。

インタビュアー: まぁみずみずしくて、確かに美味しいかも。ねえ、熱がある時に(笑)。そうかぁ…。でも回復して。

樋口: うん。そして、あの、教えとしては、その、熱で溶かして体の外に出す、と。で、くしゃみはポンプの役割、で、んで、咳とかくしゃみはポンプの役割で。で、結局そうやって体を奮い立たせて、起して、その、悪いものを外へ出せる元気をつくっていく、って言うような感じで。その悪いものはどうやって出て行くかっていうと、鼻水になったりとか、痰になったりとか、トイレでとか、いう感じで外へ出していく、と。で、私は延々薬を飲み続け、注射をし続けて、で、結核予防法の、をやってたわけだから。それが体内に留まっている間は、本当の健康にはなれない、っていうのがあって。そのための溶かす作用だった、というふうに思って。それが終わったら、それこそ順調に高校へ行けるまでになった。だけど、高校行って、校門で降りて、学校の校舎の3階まで上がるだけで、まあ体力は目いっぱい使い切るぐらいの時期から学校行き始めて。で、すぐ友だちとかができて、あの、一緒に歩いて、自転車の後ろに鞄とか載せてくれて、あの、一緒に歩いてくれて家まで送ってくれる、っていう友だちもできてきて、うん。

[00:06:38] 奥平: 私にとってロールモデルってさぁ、恵子さんとジュディじゃん。

インタビュアー: うんうん。

樋口: お。そんな、光栄でございます。

インタビュアー: (笑)

奥平: 生活とかはさぁ、「恵子さん、いいなぁ。」ってすごい憧れもあるし、ロールモデルもそうだけど。まあ、ジュディは、何か、仕事面で、ロールモデルかな、何か。

樋口: 世界で羽ばたく女だもんね。

奥平: うーん、何か、とにかくあの人って、人と人とをくっつけるじゃない。さっきの、近藤さんもそう言ってたけどさぁ。近藤さんみたいな感じで、ジュディもね、人にいっぱい紹介してくれるよね。訳わかんなくても(笑)。

インタビュアー: (笑)

樋口: (笑) それこそ、パンナムで拒否された時も、ジュディはね、その、クリスマスイブにも関わらず、パッと動いてくれて。うん。

インタビュアー: ふーん…。面倒見がいいね。

奥平: あぁ、そうだね。

樋口: うん、そうそう。それは。

奥平: それこそ恵子さんもそうだよ。…うん。でも、ジュディって、何か、こう、何ていうの、すごいアグレッシブなことを言ってもやっても、憎めないんだよね。何かよく分かんないけど。

インタビュアー:&樋口: (笑) インタビュアー: 確かに。こないだも逮捕されたもんね(笑)。

奥平: うんうんうん。7月ね(笑)。でもあれさ、あのー、国務省辞めたからやったんだよ。政府の人だったら大変だった。

インタビュアー: うん。

樋口: え、デモか何かやったの?

奥平: デモっていうか、陳情、みたい。何か。

インタビュアー: 何か、何だっけ。オバマ政権の時の政策を変えようとしたからだよね。

奥平: あー、そうそうそうそう。保険制度? 医療制度、うん。

インタビュアー: 変えないでくれ、っていう。

奥平: でも結局、変わったよね。

インタビュアー: 変わっちゃったか。うーん。

奥平: もうドナルド・トランプ、何とかしてよ、って感じ。

インタビュアー: うん、どうなっちゃうんだか。でも一応大統領だからね。

■【3上16】2018021909 近藤:樋口: 28分

インタビュアー: だからそこから…、何て言うんだろう、立ち上がったっていうわけじゃないけど、色んなこう、風を受けながら、そこにうまく、こう乗って、うん。

近藤: そうとしか言えないよね。

奥平: だって、屋根のない藁の家でしょ。

インタビュアー: でも別に流されてたわけじゃなくて。うん。何て言うかな。

近藤: 僕は幸せな時代に、幸せの風に乗ったのよ。

インタビュアー:&奥平: うーん。

近藤: で、恵ちゃんとの出会いでしょ。

インタビュアー:&奥平: うーん。

インタビュアー: ねぇ。(笑)

奥平: ねぇ、あぁ本当に、さ、障害者になって(笑)良かったねぇ。だって障害者でなかったら、もしかしてずっと、何だっけ、炭鉱?で働いてたわけでしょ?

樋口: 炭鉱は無くなっていく運命だから。そこでどう生き抜くかはね、

近藤: わかんないね。

樋口: わかんないけど。

近藤: どこかで一つが違ったらもう全部が、流れが違うと思うの、人生は。

インタビュアー: そうですね。 

奥平: あと、恵子さんと近藤さんが一緒になったことで、こう、影響力が倍増したっていうか、そんな感じがする。

近藤: うんうん。

インタビュアー: そうそう。

近藤: だから恵ちゃんは、自分で経理のほう、ね。計算であれば疑われない、間違った時に。自分が間違ってるから。

樋口: 「裏切られない」と、思ってたから。

近藤: それで、経理の世界に入ろうとしたわけ、数字の世界に。ところが僕が出会った恵ちゃんは、人間と向き合うことによって、すっごくいいものを醸し出すということを、すごい早い時に気づいたわけ。

インタビュアー: ふーん。どの辺で気づいたんですか? その、恵子さん自身も、だって、自分のその可能性に気づいてないでしょ?

樋口: うん。

近藤: 気づいてなかった。僕の方が気づいてそちらに引っ張ちゃったの。

インタビュアー: ふぅん…。何でだろう。

近藤: (?)をやってくれと言った時にも、「いや、私は人間関係は嫌で、数字の世界に。」って言ったぐらい、そういう事例があったぐらい、数字の方傾いていた。うん。

インタビュアー: でもあれかな、寮でご飯とか作ってる時も、ちょっと愛されキャラだったんですよね? 

樋口: (笑) 

インタビュアー: その辺からこう、何か、人と。

樋口: 愛されキャラって。(笑)

奥平: でもあと、バランスじゃないの?

樋口: うーん。

奥平: そういう、数字? の、ってか、「現実的になんなきゃ。」っていう部分とその、愛されキャラ的なその、何か、あの、パワーストーン的な(笑)。

インタビュアー: (笑) パワーストーン。

近藤: だから僕が出会った恵ちゃんは、ちょっと強い風が吹いたら本当に飛ばされる恵ちゃんだったの。

奥平:&インタビュアー: へぇぇ。

樋口: (笑)いや、箱根で飛んだことがあって。

近藤: (笑)

樋口: 急いでガードレールにつかまったっていう時が…

近藤: 逸話があるぐらい。本当によ。

奥平: 体重が軽かったからでしょ(笑)。

樋口: 体重軽かったからね。

近藤: だからその、あの、

樋口: 東京に出て、人に、それこそ近藤さんの、車いす利用者のところの社長さんに、

インタビュアー: 所沢?

樋口: 社長さんの奥さん。いや、所沢じゃなくて、いいぶさ(?)の社長夫人に、何か、やっと500グラムぐらい増えたって。500グラム太るのが大変だったの。36キロになるのが大変だったけど。それからは別にそんな苦労することなく増えていってしまい、

インタビュアー: (笑)

樋口: 最高までいった時、42ぐらいまでいったから。うん。

奥平: 私さ、ある意味、機能訓練って否定できないんだよね。

インタビュアー: うーん。

樋口: うん、やっぱりそれは、役に立つことも、もちろん、あるからやれるんだけど。でも、一方的に押し付けられてやったことの、しんどさみたいなのが皆の中に、ねぇ。

奥平: それはある。あるある。

樋口: あの、ボイタ法とか、そういう、無理やりなね。強制的な、やり方。

インタビュアー: 長い時間ね、ボイタとか…。

奥平: それも、だから私も昨日も言ったけど、あの裏山の歩行訓練は、本当に嫌だったの。

樋口: うん。ほいで、そういう時って何かこう、自分というプライドがすべて、こう、何か、なぎ倒されるみたいな。こう、周りが自分を規定してるような。で、やり終えてちゃんとした…、ちゃんとしなきゃ、認めてもらえないみたいな。ねぇ、そういう、しんどさがあるよね。

インタビュアー: なかなかそして、上手くできなかったりするから、どんどん自信を失っちゃうしね。

奥平: まぁねぇ、何か、ま、とにかく私はある意味、負けず嫌いだったっていうか、ある意味どころか負けず嫌いだったから。それ、一番になれないわけじゃん、絶対に、山登りなんて。だからそれが嫌だったのかもしれない。(笑)

インタビュアー: (笑) ふーん…。そっか、山登りかぁ。でも何か、聞くだけでも大変そう。毎日やるんですか?

奥平: ううん。

インタビュアー: 週に何回か?

奥平: うーん、何月に1回か。

インタビュアー: ふぅん…。

[00:07:40]

奥平: ほんでもとにかく、恵子さんとジュディの出会いが、私にとっては大きいね。

インタビュアー: うんうんうん。

樋口: そりゃ、ようございました。

インタビュアー: (笑)

奥平: ジュディって、あの頃、よく分かんなかったけど(笑)、何で続いてるんだろうねって感じだけど(笑)。

樋口:&インタビュアー: (笑)

奥平: 何か3人で仲良しになったよね。

樋口: うん。

インタビュアー: でも、真砂子さんは恵子さんにじゃあ誘われた時は、迷わず行った感じ?

奥平: 迷う。だから2年迷ったってば、うん。

インタビュアー: あ、2年迷ったのか。それで決定(?)は何だったの?

奥平: 何かやっぱり罪悪感。

インタビュアー: 罪悪感だった(笑)。

樋口: え?

奥平: いや、ダスキンにせっかくお金出してもらったのに。

インタビュアー: そういう義理?(笑)

奥平: うんうん。

インタビュアー:&樋口: (笑)

奥平: と、後は、やっぱり日立に対する不満。その頃なんて、障害者雇われてるだけで、キャリアアップとかなかったから。いくら論文書いても、いくら資格取っても、全然他の、障害のない人と同じようには昇進できなかったから。

インタビュアー: あぁ、評価してもらえなかったんだ。

奥平: うん。たぶんあそこで評価してくれてたら、今も働いてたかもしれない(笑)。分からないけどね。

インタビュアー: ふーん…。じゃ、2年間待ってようやく来てくれた、みたいな感じだったんですか?

奥平: いや、そういう意識もなかったんじゃない。

樋口: うん。そうだね。ま、でも、せっかくね、ILセンターで力つけてきて帰ってきたわけだから、民間事業所だけで…、企業だけで、いるのはもったいないっていう思いはあったから。真砂子の達成感もあるだろうし。ただ、お金の問題とかね。そういうのは、まだなかなか、ほど遠いところだったから。

奥平: 生活費が…(?)、

樋口: ま、立川雇用になって、ねぇ、金銭的には、まぁまぁ。

奥平: 高橋修さんもねぇ、すごい人だったから。

樋口: うん。

インタビュアー: 高橋さんとは仕事で一緒になった時期ってどれくらいなの? あんまり長くはない?

奥平: 4年か? 亡くなってどれくらい…、

インタビュアー: 結構な…、

樋口: 2000年になる前に亡くなったよね。

奥平: あぁ、1999年だから、4年ぐらい? だって突然だったもんね。

樋口: うん。

インタビュアー: 突然…、

樋口: 内臓破裂? 大腸が破裂して。

奥平: 結局、うんちとかそういう、何ていうの、ね、あれが、体中に毒素が回っちゃったんだよね。

樋口: うん。でもそこはねぇ、脱してたのに、これからやっと良くなるっていうところに、集中治療室から一般病棟に出て。そいでその時、私、くらもとさんに、「ちゃんと泊ってあげてよ。」って、誰かが、ね。あの、集中治療室だったら全部見えてるけど、それがなくなった時一番危ないし、そういうので障害者どんどん亡くなってたから。あの、やまぐちしゅうじ(?)さんとか、言語障害で理解されなくって、それでちゃんと対応してもらえなくて、とかって亡くなってたから。だから「やっぱり医療機関に任せっきりは危ないから、誰か見てあげてよ。」って言ったら、「大丈夫です。」って言ってたから、誰かいてくれてると思ったら、その、「明日からは体制できたけど。」みたいな感じで、その夜の間に急変しちゃった、みたいな。

インタビュアー: じゃ、誰も知らないうちに亡くなったみたいな感じだったんですか? 病室で。

樋口: うん。うん。

奥平: あー、そうなんだ。

インタビュアー: えー。そうか、そうかー…。

奥平: それこそ高橋さんこそさぁ、20何年、家から出てなかったんだよね。

樋口: 26歳まで?

インタビュアー: そうですよね、あのちっちゃい冊子が、『何とか修』(笑)、『がんばれ修』じゃなくて…、持ってます、持ってます。あれに書いてあるもんねぇ。それこそ「ラジオで株のことを勉強した。」とか(笑)。

樋口: うんうん。

奥平: あれは何か、日経新聞の人が出入りしてて、それで教わったんだよね。

樋口: うん?

奥平: 日経新聞の人が、

インタビュアー: そうなんだ。ふーん…。

奥平: うん、それで読み書きとか教わったって言ってなかったっけ?

樋口: いや、あの人は、ラジオでニュースとか聞いて、ほいで、新聞見て、あ、これがあのことだな、みたいな感じで、あの、大枠つかんで具体的な文字とかを習得してったとか。もともと頭良かったんだよね。

インタビュアー: 頭いいんでしょうね。

奥平: それは近藤さんだって、そりゃ…、

樋口: 頭、相当、先々へ回ってたからね。あの交渉力のすごさって言ったらねぇ。脅す、すかす、なだめるみたいな(笑)。

インタビュアー: (笑)そうそうそう、その、「脅す」の時に同席したりすると怖くてね。

樋口: 怖い。

奥平: 経験ある?

インタビュアー: 1回ね私、何かで。それはでも、脅す場面じゃないはずだったのに、脅しになっちゃったという感じだった(笑)。何か勉強会みたいな話だったのに。

奥平: へー。誰に対して脅してたの?

インタビュアー: 何か、行政の人がやっぱり来てたんですよ。そしてその、何か話をしてたら、その人につっかかっていっちゃってて、高橋さんが。うわーって。

樋口: つっかかって、つっかかって、つっかかって。覆していくっていうのが、彼の快感だから。

奥平: (爆笑) 快感!

インタビュアー: 何か、その、それを知っていれば、何か、「そういう戦法なんだな。」と思うけど、まだ初めてぐらいで。「あ、こんな怖いんだ!」と思って。

樋口: 怖くて怖くて、障害者運動には入れません、みたいなね。

インタビュアー: 「ちょっと待て!」みたいな感じで、うわーっとこう、出てきてて。その時には私、多分、立岩さんもいて。立岩さんニコニコ笑ってて、「あ、いつものが始まった。」みたいな感じだったから。「何だろう、この人たち?!」と思って、怖い顔してる人と、にやにやしてる人がいて。「何なんだろう?!」と思ったような記憶がある。うん。すごい怖かったですよ。

奥平: (笑) うん。立岩さんもいたよね。

インタビュアー: そうそう。

近藤: 僕はいつか、厚生省の、あの、いわゆる障害者と…、国と向き合って、会話をするところに…、参加したことがあるのよ。ほしたらその時に、恵ちゃん、厚生省の女の人でだいぶ上にあった人って誰だった?

樋口: リハ協にいた人よ、昔。

近藤: あぁ、そうか。

奥平: 奥野英子さん。

インタビュアー: あぁ、奥野さんか。

樋口: そうそう、そうそう、そうでしょ?

近藤: 奥野さんがね、その時、課長だったのよ。

インタビュアー: 日本女子大出身です。

樋口: はい、分かります。

近藤: うん。そして、いわゆるピアカウンセラーの話が出た時に、ピアカウンセラーというのは、あの、認めないのか! と障害者は言ったわけ、そしたら「認める。」と。「しかし私が知ってるピアカウンセラーというのは一人しかいません。」と言われたわけ。誰が出るか思ったら僕が出ちゃったわけよ。

インタビュアー: へぇー!

近藤: 僕は皆の知らない、すみっこの方で参加してたの。

インタビュアー: あら、大変!

近藤: そしたらそれが、「町田の福祉事務所の近藤さんが、私はピアカウンセラーだと思う。」と。「私にとっては一人です。」って言ったわけ。だから障害者がまた怒っちゃったわけよ。

奥平: 怒るわなー。

近藤: そう。「俺たちを認めないのか!」言うて、その、机をガーンっと車いすで押しちゃったわけ。この辺に、本人…、障害…、あの、役所側がいて、ここに椅子があったわけ。それをゴンゴンゴンゴン押されて、ここ引っ付いてしまったの、ガラスに。逃げ場がなくなっちゃったの。

インタビュアー: いやー…。

近藤: それで救助に役所側が立ち入ったようなことが1回あったの。その時、僕は皆に分からないようにそっと出てたの。それで、あの、奥野さんも僕が来てるということ知らないのよ。それに僕が出てる。自分でドキっとしちゃってさ。「おい、ちょっと待てよ。」と思ってね(笑)、行き場がなくなったことがあった。

インタビュアー: え、その時どうしたんですか? そしたら、そーっと帰った?(笑)

近藤: そーっと。皆に見つからないように、あの…、

樋口: (?)さんが何か、言うたんじゃないの? 「近藤さんはここにいるぞ!」とか何とか。

インタビュアー: あららら。

近藤: 知らん。でももう、記憶がちょっと無くなってる。一番怖かった、それが。

一同 (笑)

近藤: そう。

インタビュアー: 怖いでしょうね、でもねぇ(笑)

樋口: 近藤さんでも怖いのか、みたいな。(笑)

奥平: へー…。

インタビュアー: いきなり名前上げられちゃってね。

奥平: ねぇ、修ちゃんもいたの?

樋口: 修ちゃんはもういなかったと思う。いたらそんなことで責めはしない。あの人の論法は。

インタビュアー: ふーん…。

奥平: あぁあぁ。そうだよね。

近藤: そう。奥野さんが僕のこと言ったもんだから。僕、奥野さんが役所の人間いうことは知ってたのよ。うん。ほいで何か、ヒラじゃなく、何か、課長クラスだということを知ってたの。それが来てるということは知ってたけど、まさか彼女の口から僕が出るとは思わなかったから。もう黙ーって、何も言えなかった。怖いー、話し合いだったよ、あれは(笑)。

一同 (笑)

近藤: どうなることかと思ってね。

インタビュアー: えー。

近藤: そう。

樋口: だけど、昨日も言ったかもしれないけど、自立生活運動って、こう、交渉…、厚生省と交渉とか、都庁と交渉とかしてた時に、東京都の、あの、障害連? 全障連障害連…、分かんないけど、「施設を増やせ。」って。「まだ約束守ってないじゃないか。」みたいに責めてる人たちがいて。八王子の、あの、

インタビュアー: あぁ。寺田さんとか?

奥平: あぁー。

樋口: そうそうそう。

インタビュアー: 東京の青い芝の人だ。あの人たちはそうでしたもんね。

樋口: うん。ずっと、ずっとねぇ、自立生活センター始まってからも、施設をつくることを求め続けてたよね。

インタビュアー: うん。何か、施設って言っても、自分たちの、こう、考えた別の形みたいなのを、八王子に1戸ありましたよね。

奥平: グループホーム、今もあるでしょう?

インタビュアー: まだあるかなぁ?

樋口: あると思うよ。

インタビュアー: ね。で、あれを増やしたいって言ってたんですよね。

近藤: そうそうそうそう。

奥平: 太田修平さんとかでしょう?

インタビュアー: そうそうそうそうそう。だけど結局は、

樋口: 今岡秀蔵さんという人がいて、その人なんかはつくった中心なんだけど。今岡さんはCPじゃないけど、その、CP集団にすごく幅が効いてたという意味で、遊歩と同じように見られてた(笑)。遊歩もCPじゃないけど、芝で、あねさんだったから。

インタビュアー: うん。そうだ、そうだ。唯一、1ヶ所できて、1ヶ所だけでしたもんね。

樋口: うん。

奥平: あ、そうだっけ?

インタビュアー: うん。増やしたかったんですよね、だから、あのタイプを。結局はでも施設なんですよね、難しいけど。

樋口: うん。あれは本当にそれこそあの、あの調(しらべ)さんとかが応援して、何とか形になった、みたいな、ところでしょ?

インタビュアー: それこそ三ツ木先生も、そうそう、入ってたやつでしょ? うん。個室にしてたからかなぁ。

奥平: ふーん…。

近藤: 東京コロニーに入ったんだね。運営を任せた…。

樋口: そう、個室にしてたし、夫婦棟もあったけど、夫婦室も。寺田さんとかは夫婦の部屋で。

インタビュアー: あぁ、そっか。

樋口: 子どももいたし。

奥平: 寺田さんの奥さんってどんな人?

樋口: CP。

奥平: あぁ、へぇぇ。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: モデルケースとしてあれをつくったのよね。彼たちの言いなりにつくったの。そしたら、第2、第3…、「これこそ増やしていくべきだ。」っていう声に入ったけども、自分たちが運営できなかったのね。運営に失敗したのよ。で、莫大な予算が、

奥平: かかっちゃったの?

近藤: うん。かかって。そして、彼たちも、その、失敗したことを認めたし。役所もやっぱりこの線では行くべきじゃないという、方向転換しちゃったわけ。だからあっこで止まっちゃったのね。でも彼たちは運動体だから、「やるべきだ、やるべきだ、やるべきだ」というのを推し進めたわけよ。

奥平: 寺田さんのお父さんって何か有名人なんだよね?

樋口: うん。寺田寅彦って、高知県出身なのかな。

奥平: えーっ、その人も高知。

樋口: お父さんかお爺さんか分かんないけど。

近藤: 文学者じゃない、寺田寅彦。

奥平: あーあー、はいはい。ふぅん。

樋口: ふん。だから、高知には、高知市内に寺田寅彦記念館ってのが存在してる。

奥平: へぇぇー…。そうなんだ。

樋口: うん。でも寺田さんは「訪ねたことはない。」って言ってた。

インタビュアー:&奥平: ふぅん…。

インタビュアー: 寺田さんとか、磯部さんとか、いましたよね?

樋口: そうだね。

インタビュアー: ねぇ。

奥平: 磯部さんも東京の人だっけ?

インタビュアー: そうだったと。一緒にやってたんじゃなかったかなぁ。

奥平: あ、そうか。1回だけ会ったことある。

樋口: 横浜系の人…(?)。

奥平: 歩い…てた人だよね?

樋口: うん。

インタビュアー: うん。多分歩いてたと思う。あと誰がいたかなぁ…。

奥平: ふーん。懐かしい。

樋口: 「昔、昔、その昔♪」みたいな話だよね。(笑)

インタビュアー: (笑)

奥平: 私はさ、何か、「青い芝に関わっちゃいけないよ。」って言って、すごい言われて、養護学校時代に、過ごしてたから。本当に、「障害者運動って悪いもんだ。」とかさ、「やっちゃいけないもんだ。」って。

インタビュアー: あれ? 平田さんとかっていうのは、富山の…、

奥平: 平井さん?

インタビュアー: あ、平井さんか。

奥平: うん。そうそうそう。

樋口: 「平井さんを、ロールモデルとしてはいけない。」と、言われ続けたわけよ。

奥平: そうそうそう。養護学校の先生にずっと言われてて。

樋口: だって文部省で尿瓶(しびん)投げたって人でしょ?

奥平: 厚労省、厚労省。(笑)

樋口: (笑) 厚労省か。

奥平: 厚生省、厚生省(笑)。

インタビュアー: 尿瓶投げた人なの?!

樋口: 文部省じゃなかった?

近藤: 有名な話、歴史的な話。(笑)

インタビュアー: へー…。

奥平: いやいや、違う、違う、厚…、厚生省。何か、「尿瓶の平井」とか言われてた(笑)。

インタビュアー: (笑)やだ、それ。本当? あー。(笑) そうかぁ。でも後に、自立生活センターつくってますよね、富山にね。

近藤: でもそれ以来…、それ以来、厚生省は、その、自立生活センター系と向き合う時には、もう作戦を最初から組み立ててる。

奥平:&樋口: (笑)

インタビュアー: (笑)尿瓶投げられないように。

近藤: そうそうそう。だから向き合う。それから、その、椅子の置き方から何から、

インタビュアー:&奥平: (笑)

樋口: 距離を保ってとか?

近藤: 距離を置いて。うん。

インタビュアー: なるべく向き合わない(笑)。

奥平: (笑)

近藤: そうじゃないとボンボンほってきてね、もう、ぶつかってくるのよ、電動車いすで。

奥平: あ、そうそうそうそうそう。修ちゃんが突進隊だったもんね。

樋口: うん。

インタビュアー: あぁ…。怖い怖い、怖い。

奥平: で、ますとめさんが「まぁまぁまぁまぁ。」っていうやつでしょ?(笑)

樋口: (笑)

[00:22:47]

インタビュアー: いやぁ、でもあれは新田さん系じゃないんですか? 闘い方はね。新田さんは怖かった。

奥平: でも新田さんの時はよく分かんないけど、そんな「まぁまぁまぁ。」って人いたのかな…?

インタビュアー: いや、一応だって、修…、高橋さんと新田さんとますとめ

さん一緒にやってたから、最初。うん。それで途中から高橋さん、ますとめさん抜けて、IL系に移っていってっていう感じだから。

奥平: でもあの、青い芝の人たちで、その、生き残ってるのは、やっぱり IL系にちゃんと、こう、軌道修正した人たちができること…(?)。あの横山さんとかさ。

樋口: うんうん。

インタビュアー: そうそうそう。ますとめさんたちもそうだけど。

奥平: でも途中で懐を違えたけどね、ますとめさんは。

インタビュアー: そうだね、そうね。でも運営の仕方は、そうじゃないかな。 自立生活センターの人間の仕方だと思うけどねぇ。

奥平: だから平井さんにしても、その横山さんにしても、まぁあの、ちゃんと舵を切ったというか、違う、ILの方に切っていったというところで、今も続いてるよね。

インタビュアー: うん。そうだねぇ…。

[00:24:05]

奥平: だって、あい…、じゃない、青い芝の人、「今、青い芝ってやってんの?」って思うもんね。あるとは思うんだけど。

樋口: うんうんうん。

インタビュアー: それこそ、だから、運動体としての、何か、名残はあるけど。そういう、お金をきちんと動かしながら、地域に根差した活動をするっていうことは、やっぱりちょっと難しくなってる感じはしますね、うん。やってる人はいるけど。

近藤: むしろ、自立運動の元祖のようなね。うん。根底にあるもの。うん。が、「青い芝」という考え方。考え方なのよね。もう今ほとんど運動として残ってるよりも、考え方。ま、団体としてあるかもしれないけども、より、初代がつくった考え方の方が障害者運動の中心を成してるね。

インタビュアー: そうですね。うん。

近藤: 恵ちゃんも僕も含め、教えて。聞きたい所は。

インタビュアー: やっぱり、そうね、でもこの冊子もいただいたんだけども、やっぱりこの前後ですかねぇ。

樋口: 前後?

インタビュアー: うん。ここに移ってくる前の、まぁ、動機みたいなところはお聞きしたけれども。うん。

樋口: うん。最後の方?

インタビュアー: 最後の方、わりともうお話聞かせていただいてるから。生活も、こう、落ち着いてきて、だからその、むしろあれかな? ちょっと気になるのはやっぱり、その、2003年の時の支援費だとか、行政のこう、締め付けみたいなことがちょっと制度的に出てきた時に、まぁ近藤さんの立場って行政にもいらしたから、運動体の立場としても、そこにこう、切り込んでいくのは難しかった?

樋口: いや。支援費になった時は、近藤さんはもう…

インタビュアー: うん。辞めておられたけど。辞めてるともう、大丈夫でした?

近藤: 辞めてても、運動体の中へ入ってるでしょ。で、僕が役所に行ったら、「近藤さんだ。」いうこと皆知ってるじゃない? うん。だから、「運動体だ。」いうことを知っていても、それをある程度認めるわけ。普通の障害者より。

インタビュアー: ふーん。

近藤: だから、自分が認められるということを知っていながら、障害者の立場に立って言うわけよ、また。うん。だから役所にとっては今度は、退職後は嫌な人間だったと思うの。知り過ぎられてるから、言えないわけ。うん。だから僕はまたそれを利用して、その、向こうも利用するわけ、僕を。障害者の代表として。うん。「近藤さんに、入れたら、障害者の代表入れてることになるから。」言うので。で、僕も、行政にいたから「これ以上は言えない。」いうこと知ってるけれども、もっと普及…、あの、心の中ではね、考え方の中では「もっと突っ込みたい。」いうことがあるわけ、当事者性に。そういう時に、その、えー、高橋? 高橋さんだったっけ、恵ちゃん?

樋口: へ?

近藤: あの女の子。

樋口: 咲緒ちゃん?

インタビュアー: 咲緒ちゃん。うん、高橋さん。

近藤: あぁ、咲緒ちゃん。咲緒ちゃんのようなのを、咲緒ちゃんのようなのは、お母さんが始め、運動体の中に入るじゃない? だから、それを利用して、捕まえてきて、そして輪の中へ入れて、彼女はその制度のそういう使い方で、そこで切って生きられると思うかというように、両方の立場をうまーく使っていったのよ。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: ほしたら、絶対嫌とは言えないじゃない、もう障害者を目の前に置いて。「いやもう、この人はここまでしか生きられん。生きるとしても行政は責任持てないよ。」だなんて言えないでしょ? だからとことん僕は、障害者の立場に立って、生存権を保障していく立場に、あの、役所を出てからも、打てたわけよ。

インタビュアー: ふーん…。なるほど。

近藤: それが、うん、役所も僕を使うし。あの、特に、その、介護保険などができた時には、すぐ、審査会というのを作るじゃない?

インタビュアー: はいはい、はい。

近藤: あの中にもう僕は定年退職した…、して2、3年後だったから、「あ、近藤入れよう。」て言うて、ポッと、市民の中から僕を入れるわけよ、うん。そしたらもう、すべてのことを知ってるじゃない? 裏の裏まで知ってしまってるから。その代わり、裏の裏を知ってるだけに、裏の裏は、でまた操作するわけよ。

インタビュアー: ふーん…。

近藤: うん。あの、審査会が、障害者…、「生まれた時からの障害者と、生まれた時からの障害者が高齢者になった時、それは障害者というのか高齢者というのか?」言うようになるわけ。「法の解釈はどちらだ?」と。で、普通の人は元気な時を迎えて、高齢になった時、高齢者と認められる法律ができるわけ。それが、障害者が、となったんと、じゃそこに至った時と一緒か?と言ったら、そうじゃないわけよ。障害者は、生まれて、どこからか障害者になっても、高齢者になっても、障害は持ち続けるわけ。うん。

インタビュアー: うん。なるほど。

近藤: うん。それは認めざるをえないじゃない?

インタビュアー: そうですね。

近藤: ところが、市民の中でそんな議論を言う人はいないじゃない? 役所に向かって。だから僕は言うわけよ。うん。「それはおかしい。」と。審査会の中で、あの、障害者が、あの、高齢になった時に、「あ、年齢が高齢になったから。」言うて障害者福祉法の利点も全部捨てて、高齢者の中の法律だけしか使えないのはおかしい、と。だって、ずっと、障害者は持ち続ける、人生の中で障害を持ち続けるから障害者言われてきたのに、年齢で来たからいうて、「もう障害者じゃなく高齢者だ。」いうのはおかしいって言うのは通るわけよ。しかし市民がそこまで、専門家の中で言える人はいないわけ。だから僕は、ちょうど置いてくれるから言うわけ。ほしたら「その判断は難しいから、じゃあ、そういうケースだったら近藤さんの審査会に全部持ってもらおう。」と。で、「近藤さんの意見も聞きながら調整してくれ。」って任されるわけ。うん。

インタビュアー: やっぱりそれは、でも、今まで、それまでずっと行政の中で、ある程度の仕事をしてきての信頼感とかってのが、やっぱりあるから。

近藤: 人間関係の信頼がね。うん。

インタビュアー: そうですね、うん。

近藤: で、行政の立場も分かってくれるし、障害者の立場もはっきり言うてくれるという、行政にとっていい立場だったの、うまーく使われたわけ。だから僕はここへ来るまで、障害者でありながら審査会に入って、障害者の立場を主張し続けると。で、そこを私に任されてきたわけ。それがここに来たら何にもなくて、「介護保険のヘルパーが障害者に準ずる」いう形でしか、一緒しかなかったから、唖然としちゃったわけ。「こりゃもう自分でやるより仕方ないわ。」になっちゃったわけ。

インタビュアー: 最初はやっぱり、高齢のヘルパーさん来たんですか?

近藤: あのね、そういうこと聞いたから、自分たちで、二人でヘルパーを探そうと。ほして、自薦にして、自薦で受けてくれるヘルパーと障害者が一緒に申し込んだら受けてくれる所を探そうとしたわけ。そしたらあったの。

インタビュアー: へぇぇ!

近藤: で、その時に、あの、姉の子どもね。姉の子どもの同級生が庭師をしてたの。親の代からの庭師を継いで。うん。ほして、ここの庭の設計にまで入ってくれたわけ。その奥さんが、あの、給食の仕事をしてたけども、ヘルパーの資格を持ってたわけ。

インタビュアー: へー。

近藤: で、ある時に、この庭木を…、高知のある、庭木を見に行く時に、あの、旦那さんの方についてきてくれたわけよ。で、現場に行った時、庭木を見る時には、その人が「押さしてください、私に。」と後ろへついたわけ。ほいで、「奥さんだ。」いうことは知ってたけど、そんな資格を持ってるって知らなかったけども、すっごくそれが、的を得ていたわけよ。強制的でもなく、私の意見をきちっと捉えてくれて。びっくりしたの。「こんな人がヘルパーに入ってくれたらいいなぁ!」と思ったら、彼女はヘルパーの資格を持ちながら、「介護保険があるから、そこでは制約が多いから嫌だ。」言うて、ヘルパーしてなかったの。

インタビュアー: へぇぇー。

近藤: ほして、僕の自薦のヘルパーになったわけ。「じゃあ、僕たちが推薦して、うちに来てよ。」と。「それで受けてくれるところ探す。」言うて、探したらあったわけ。うん。で、そこへ連れて行って見てくれるかいうたら、向こうは喜ぶわけ。人手不足のところを人を連れてきて、お客さんも連れてきて、お金だけ入るわけでしょ?(笑)

インタビュアー: そうですね。ほー…。

近藤: そりゃ喜ぶよ。ほいで、しばらくそれでやったけども、「いよいよ自分たちでやろう。」という時の、最初の1号のヘルパーだったの。

インタビュアー: ふぅん。やっぱり自分たちでやらないと上手くいかないな、っていう。

近藤: そりゃいかない。もう完全に、この土地では、なおさら。先ほど言ったように、介護保険に準じた扱いしか僕たちにはサービス受けられない。「準ずるんじゃなく、障害者の法律の中にあるヘルパー制度を。」で、やらないとダメだということで、僕たちは自分たちで作ったわけ。で、研修まで全部したわけ。

インタビュアー: それはやっぱり、制度の中で制限が多すぎる、っていうことと、ヘルパーさん自身がやっぱり、近藤さん達の教育を通して、ヘルパーマインドっていうか…、

近藤: そうそうそう。

インタビュアー: 支援するマインドをきちんと伝えないといい支援者になれない、というか、生活を支える人になれない、っていうことから、始めたということなんですかね。

近藤: うん、そうそう。で、考えてみたら、高知県というところは、障害者ヘルパーが…、の教育をしたヘルパーステーションなかった、ということは、びっくりしちゃったわけ。だから僕らは自分でつくったわけ。

インタビュアー: 今はあれですか、ヘルパーの養成研修もやれる形をしてる…、

近藤: あ、やる、二人で、もう東京でもやってたから、あの、ヘルパーの講師を。

インタビュアー: うん、うん。

樋口: 重訪の教育だよ。

近藤: ん?

樋口: 重訪の。重度訪問介護のヘルパーの…

インタビュアー: 研修をやってた。

近藤: 研修をやってたんです。で、ここは、その法律すら知らなかったわけ。で、「それをやりたい。」言うたら、あの、そんなことな…、そんなのはなかった。で、県庁に行って聞いたわけ。ほしたら県の方も知らなかったの。

インタビュアー: ふぅーん。

近藤: ほしたら、東京で問い合わせて、「何年何月に出された官報に載ってるはずだから調べてくれ。」言うたら、「しばらく待ってくれ。」言われて。で、待ってたら、「あ、ごめんなさい。その官報見つかりました。ただ、だからやるところはないのに、どこでもやってません。」と、高知では。「だから私たちがやります、だから許可ください。」と言ったら、その、「講師の資格を持ってる人たちが揃いますか?」言うから、「私たちは講師としてなるから。」というんで二人とも履歴を出したわけ、ざーっと。ほしたら東京でやってたわけじゃない? うん。

インタビュアー: うん、うん、うん。そうですね。

近藤: だから、高知の人(?)も認めざるをえないわけ。そうやって立ち上げた。

インタビュアー: まあ、向こうでやってたからやっぱり、大変とは言っても、ある程度ね、ノウハウもあるし。

近藤: それはやっぱり今、だからここに来てくれるヘルパーは、介護保険の制約を持ったヘルパーじゃないわけ。

インタビュアー: ふぅん。制度上は介護保険も使ってるってことですよね?

近藤: 僕ね。

インタビュアー: そしてヘルパーステーションも、介護保険のヘルパー派遣もやってる…

近藤: うん、やってる。

インタビュアー: 両方やってる。

近藤: やってる。

インタビュアー: どっちかって言ったら需要はでも、こう、介護保険の方が多いですもんね? この辺りだと。そうでもない?

近藤: いや、うちが受けてるのはそうじゃないんじゃないだろうか。うん。介護保険…、もともとが「障害者の側に立った制度をやります。」言うことで立ち上げたから。うん。そして、えっと、何という…、全国組織でね、ヘルパー(?)をやってた、で、やめた組織がある。やめさせられた。

インタビュアー: やめさせられた?

近藤: そう。

インタビュアー: 大野さんのとこ? 介護人…

樋口: 違う、違う。コムスンとかそういうののことでしょ?

近藤: 誰?

奥平: やめさせられたってどういうこと?

樋口: 当事者組織じゃないでしょ?

近藤: 当事者組織じゃない。

インタビュアー: あぁ、じゃないのか。

樋口: だからコムスンとか、何だっけ?

近藤: あ、コムスンよ。コムスンが全国組織だったわけ。

インタビュアー: はいはいはいはい。

樋口: 何とかがあって、不正があって。

インタビュアー: 不正がありましたね。コムスンね。それで、夜間やんなくなったんですよね。

近藤: そう、ほいで夜間がなくなったもんだから、夜間もそこから来てた障害者が、とうとう一人で生活できなくなって、施設へ入っちゃったわけ。受けてくれる人がいなくなって。ほして、それをあの、議会の、議会で討議したのが載ってたから、その障害者に僕は会いに行ったわけ。ほいで、1回、2回行くうちに、「私たちが組織で立ち上げて、障害者のヘルパーを育成して、組織を立ち上げたら、じゃああなたは帰ってくるのか?」と。

インタビュアー: うん。そしたら帰ってきた?

近藤: そしたら、まさかそんなことこんな地域で起こりえなかったから、彼女は信用しなかったわけ。1回目も2回目も3回目も4回目も信用されなかった。うん。でも何回も通い、通い続けて、「ここまで今進行して組織が固まってきたから、いつ頃ならできる。」と。「そしたらあなたが介護の、あなたが第1号の、あの、ヘルパーを使うようになるんだけど、行くか?」言うたら、だんだん、だんだんその気になってったわけ。「あ、この人たちは…、ならやってくれるかも知れない。」という。で、その人が1号で、台風の時…、あ、退所の時は、私が車でヘルパーと一緒に迎えに行った。

インタビュアー: で、その方は身より、例えば、ご家族とかって、

近藤: は、いるの、近所に。

インタビュアー: あ、そうなんだー。

近藤: そう、ただ本人は自立して、一人暮らししてたから、それができなくなっちゃった。ほして施設に入ったわけ。それで私たちの1号のお客さんとして、うん、帰ってきて。

インタビュアー: ご家族は反対しなかったですか?

近藤: 全然しない。

樋口: したよ、したよ。

近藤: 反対したの?

樋口: ものすごく。だって、その人は、もう、強烈な人で。こんな人と知ってたら私は迎え入れなかったぐらいの(笑)、強烈な人で。

インタビュアー: どんなふうに強烈ですか?(笑)

近藤: その女の人ね?

樋口: うん、あの、独身で保母さんやってて。ほいで自転車事故で、障害者…、

インタビュアー: 自転車事故?

樋口: うん。自転車で溝に落ちて。それで頸椎骨折して、障害者になって。ほんで自分の家を建てて、高ーい階段のある、あの、家を建てて。ほいで、そこから一歩も出ないで暮らすというのを暮らしてて。で、強烈な個性だから、なかなか、誰でもヘルパーとしてやり続けられない。

インタビュアー: あらま。強いんですか?

近藤: 強い。

樋口: 強いし、頑固だし。介助者がいなきゃ暮らせないっていうの、分かってても、自分を、何ていうか…、

近藤: 認めてくれないと…、

樋口: 自分を引っ込めることはしない。

インタビュアー:&奥平: ふぅん。

樋口: で、ケチ。

インタビュアー: (笑)

樋口: 暑くても寒くても、暖房も冷房もしない。自分だけが満足できる状態であれば…

奥平: 自分は寒くないの? 暑かったりとか?

樋口: そうそう、そういう時はするけど、自分の部屋だけ。で、この真冬の寒い時期でも、雑巾洗うのは洗面所とかじゃなくって、「外で、水で洗え」。

インタビュアー:&奥平: へぇぇ…。

樋口: うん。「自分はエコを考えているから、無駄な電気や無駄な燃料は使わない。」と、筋は通ってるように言うんだけど、今の人はそんなことではねぇ。

インタビュアー: やる方はねぇ。

樋口: やってくれないでしょ? うん。なかなか大変な人だった。ほいで、ま、兄弟は…、

奥平: 今はやってないの?

樋口: 今もやってるよ。でも私ももう、メールもしなくなったけど、「やっぱりあなたがちゃんと、自分で気に入った人を見つけて、うちへ登録するか、何かしないと、うちのヘルパーだけではあなたの介助はしきれない。」と。「あなたに拒否されて、あの、行けなくなった人も何人もいるし、できない。」と言って。そしたらまぁ、探せる力もないし、探す気もないから、足りない分はショートステイに自分は行きます、と言って…、

奥平: へえー!

樋口: 今1ヶ月のうちに何日かはショートステイに行って。で、障害者施設で暮らしている。

奥平: へー。

インタビュアー: あんまり、じゃあそういうの、嫌いじゃないっていうか、施設にいるのも…

樋口: いや、嫌いだと思うけど、でも自分の暮らし方変えて、人が気持ちよく働いてもらえるようにして、すればそれはなくなると、言うようなことにはなっていかない。

奥平: 曲げたくないんだね。

樋口: うん。強烈な人。それが第1号、うちの。

インタビュアー: でもお二人でこう、説得にというか…

近藤: も、やってみた。それもダメ。限界がある。

樋口: (笑)

インタビュアー: でも地域に住もうよって話なんでしょ?

近藤: 私たちの言うことを聞いたように見えるけれども、ヘルパーが来たらもうコロッと変わって。

樋口: 私たちには「ハイハイ、分かりました」。ニコニコってするけど、全然ヘルパーには。

近藤: もう、私たちにだけ!

インタビュアー: あら。

樋口: それで、その、それこそその人のお兄さんのお嫁さんは、それこそ済みさんの旦那のいとこのところに嫁いでるとか、

奥平: ややこしい(笑)。

樋口: こう、近い関係でもあるわけよ。それで、もう、だから「樋口さんに迷惑をかけないでいてよ。」っていうふうにその兄嫁さんは、ガッと言いに来るけど、頓着しない。

インタビュアー: ふーん…。

樋口: だから何をやってもダメだから、「もう、あなたが変わってくれない限り、私はこれ以上介助者を派遣することはできなくなります。」って言って、もうそれしかないもん。

奥平: けどさ、そういう何か、大変な障害者って何人もいるよね。

樋口: いる。

近藤: いるよぉ。

■【3上18】2018021912 近藤:樋口: 34分

近藤: …当事者という言葉がつくかというと、彼女の命が動いてるということを保障させている、また保護されている、例えば人間の問題であれ法律の問題であれ、その命を守る。命は生きてるわけね。生きてる、それが重心(重度心身)の心臓であって。それが生かされているんじゃなく、生きているということを保障するのが社会なのよ。

インタビュアー: うーん…。

近藤: そう考えると、やっぱり、当事者の問題は当事者によって確立しないといけない。で、それは、当事者による当事者のための自立の概念、というのを、当事者が確立しないといけない。で、確立した時に、初めて、えー…、どんな重度の障害者でも、自立生活が可能だということを認める社会が出来ていくわけ。

 しかし、重心が本当に自立できるかって言ったら、普通の概念ではできない。「あれは、みてもらってるんじゃないか。」とかね。「人によって生かされてるんじゃないか。」って。しかし、歴史を考えてみる時に、人類があらゆる法律を作ってきたのは、「いかに生きるか」ということを底辺にして、それを守る法律だったわけ。

インタビュアー: うん…。

近藤: いかに命を守るか。で、そう考えた時に、やっぱり「当事者による当事者のための当事者の確立」というのは、すっごく重要になるの。人にしてもらうんじゃなく、当事者による、なのよ。それが重心になった時には「どう認めるか。」ということによって立場が全然変わってくるわけ。「あれは生かされてるんじゃないか。」とか、「あれは、だってヘルパーがいなくなったら、もう死んでしまうんだから。」とか言うわけ。それを当事者の立場に立ってみると、じゃ、どういう論理ができるか。その辺の論理の確立を当事者がきちっとすることこそほど、新しい時代が、当事者…、あの、障害者問題の、新しい問題の、一番底辺の確立だろうと。そしたら相模原の事件とかは起こらない。だって、あんな施設に置く必要ないんだもん。施設できちっとした生活を、ひとりもかく(?)、命を守られる法律があって、制度があって、自立したらいいんでしょ? あんなに集団的に殺されて、名前もはっきり分からないような、出されないような、生き方じゃなく。私は、時間をかけ、すっごい時間をかけて、そこの、そういう考え方に行き着いたの。

インタビュアー: うんー。

[00:03:19]

樋口: 確かに、今の、殺されなかった人たちも、顔もない、塊の、「障害者」っていうだけだから。殺されたから19人がクローズアップされたけど、放置されているっていうか、まぁそこに一定の、あの、介護する人が付いているにしても、放置されてるってことだよね。

近藤: そう。

樋口: それ…、それこそ、あの、咲ちゃんみたいな生き方…じゃないもんね。

近藤: うん、だって、ある時代の都知事、はっきり言って石原都知事と言われたその人すら、相模原事件の犯人の、その気持ちは「私は分かるんだよね。」って言う。

インタビュアー: まぁあの人、だってそういう人でしたもんね。

近藤: うん。がっくりさせるようなね。

インタビュアー: 府中…、府中か何か見学に行った時のね…、

樋口: そうそうそうそうそう。

近藤: それそれ。

インタビュアー: 発言がね、ひどかった。

樋口: だから、そこと一緒なんだから、

近藤: 変わってないの、全然。

樋口: 「居たって価値ない人たち。生きる価値がない人たちだから、っていうふうに思うのは普通だよね。」って言う、すごくその、犯人に対して、あの、サポートしてるっていうか(笑)。

インタビュアー: うん。そういう、何かシンパシーのある人たちっていますよね。

樋口: うんうん。

インタビュアー: うんうんうんうんうん。

樋口: あの人は今、自分がボケに入ってるんだって。

インタビュアー: そうですね。

奥平: ん?

(↓下記の近藤:の発言と同時に喋っている)

樋口: あの、脳血管障害か何か、脳梗塞か何かやって、自分の力が衰えてきて、あの、力が衰えて、自分が、「こんな人生きてる価値ないんじゃないか。」っていう人に近づいていってる自分に、耐えられない。

近藤: だからそれをカバーするのが当事者でなきゃできないわけ。で、当事者いっても私たちのようなこのくらいの元気、あのくらいの元気の障害者が守られるんじゃなく、だから重度心身障害者こそ、キチッとした制度に守られた生活を地域で一人の人間として確立することが、それに対する答えだと私は思うわけ。

奥平: (樋口:の石原元都知事についての発言に対して)誰が?

樋口: 石原慎太郎。

奥平: あっ、へぇぇ。

近藤: うん。それができるのは、まだそこまでいかないけども、それを目指しているのが、自立生活運動なの。私は自立生活運動やってきて、咲緒のケースを作り上げて、はっきりそれを実践してみて、なおさら、自分が思ったわけ。それが答えです、私の。

(↓上記の近藤:と同時に、奥平:に対して話している)

樋口: 何か石原慎太郎の最近の発言とかそういうのに。で、ネットで見るとそう出てた。それで、精神科医か何かに、「何とかして下さいよ。」みたいなインタビューし合っ…、あ、対談し合った中の相手に、すがるように言っているとかって書いてあった。

インタビュアー: やっぱり最後はそこかなって気がしますよね。

近藤: うん。

[00:05:51]

インタビュアー: だけどそれをやっぱり支える体制を作り上げるのはやっぱり難しいというか、どう、うん、どこでもできるようにしていくのは難しい。

(↓樋口:の、石原慎太郎についての話に対して)

奥平: 何かうちの母親も自分がそうやって覚えられなくなったりとか、こう何々ができなくなるという意識がどっかに残ってて、それはすごい何か怖がってた。今も、うん。うん、時々だからさぁ、アップエンドダウンがあって、落ち込んだらすごいんだよ。うーん。「できなくなるー」って。うん。

近藤: だから、当事者が今持っている組織が、したい…、あの、中心になって、その一人の重心を、制度をぎりぎり使いながら作り上げる、自立生活の実態を。それができるのが、自立生活運動だというの、今ある時代の中ではね。一番近いだろういうのがそれなの。

インタビュアー: うーん。

[00:06:26]

近藤: 当事者による、自立生活運動。の、しかもNPO法が今はできて、それを可能にしてるでしょ? しかもそこにお金も下りてくるんでしょ。お金が下りてくるから、ヘルパーも付けられるわけでしょ? そういう、あらゆる制度とか法律を駆使して、重度心身と言われる人の命を、カバーを、何重にもフォローする。でそれを、地域に一つのモデルとして作る。だからそのケースがモデルが、あっちこっちでたくさんなった時に、「あの人たちでも、これとこれとを使ったらいけるね。生きていけるじゃないか。」と思わせることこそ、本当に、あの、「あぁ、そういう時代が来たんだな。」いうことを、障害のない人に見せるだろうと。だからそこに一番近いのが、自立生活運動だろうなと。でなくっちゃいけない、と思うわけ。ILのね。ILの目指すところは「地域に障害者が生きる拠点を。」というんだから。

インタビュアー: なるほど…。

近藤: それがある時代に…、あの、ILの運動が弱かろうと強かろうと、理念はきちっと打ち立てないといけない。うん、理念は。で、それを目指す。時には目指そうとしても目指せない時もある。しかし、「これはもう変えられない、当事者運動の中の中心課題だろう。」と、「究極の中心課題だろう。」と私は至ったの、そこにやっと。

樋口: ふーん…。

近藤: で、それには、歴史というものを遡って、歴史っていうのは「何が歴史なのか。」と。で、「何が福祉なんだろう。」と。でもどの制度を見ても、それは、自分たちが自分たちの生活を守るために作られたのが法律なのよ。福祉じゃなくっても。そういう、何ていうか、長い、歴史的にね…、に至った時に、今、私たちは何を課題に生きるべきか、中心に置くべきかというのは、やっぱり当事者の当事者性による確立だろうと。

インタビュアー: そうね。うん。そう、命を支えるっていうところですよね。うん。

近藤: そう、しかも、いちっばん弱い命を支える。

インタビュアー: うん、うん、うん。

[00:09:08]

近藤: うん。しかし、色んな法律が、あの、今の社会にはできてるじゃない? それは、よくよく考えてみたらやっぱり、「人間を守る」というのが制度なのよ、あらゆる意味で。うん。それの究極が福祉であり、その究極が当事者性…、障害を持った当事者であり、その究極がしん…、重度心身と言われる人なの。そういう考え方に及びました。

インタビュアー: はい。重心の地域での生活っていうところに最後の目標があると。

樋口: まぁだから、どんな人もっていうところよね。障害の程度とか種別ではなく。

近藤: はい(インタビュアー:に手渡す)。 どうぞ。

インタビュアー: ありがとうございます。

奥平: 女は現実的ですから。

樋口: 満足でございます。

インタビュアー: 満足ですか? うーん、そうねぇ…。なかなかでもやっぱり重度の今、知的障害の人の自立生活とか、で、えっと…、まぁ重心も咲緒さんのようなケースはあるけど、ごく少ないですよね。やっぱり。そこにまでいかない。

樋口: とか、重度…、知的重度で多動の人ってのが、

インタビュアー: はい、はい、

樋口: きっと、ない。

インタビュアー: 強度行動障害とかね。うんうん。

樋口: その人たちの生をどう…、見ていくのかっていうのは、最後…、一番最後の最後の問題だろうね、きっと。

インタビュアー: うん。で、果敢に取り組んでる自立生活センターもあるんだけど、やっぱり躊躇しているところもありますよね。うん。

樋口: うん、うん。だって常時一人っていう体制じゃあ見切れない人たちだから、ねぇ。だからそこまで、ちゃんと行政的な保障として勝ち取っていかない限り、もうほんとに家族も疲弊していくばかりっていうかね。施設もきっと、あの、あまり心地よく引き受けてはくれないだろうから。高知にもそういう施設があって、それで、鍵をかけてるとか。

インタビュアー: 薬ですか? あとは。

樋口: 薬はあんまり聞かなかったけどね。

インタビュアー: そうかぁ。結構、地方に薬の…、強い薬で抑えてるっていうのも聞いたことある。

樋口: うーん。

インタビュアー: うーん…。前に恵子さんが入っていたその小鹿園は今どうなってるんですか?

樋口: あの、障害福祉…? 障害者…、障害福祉センターみたいな感じで判定したりとか。入所があるのかどうかわかんないけど。

インタビュアー: 何かセンター化したっていう感じですか、そしたら?

樋口: うん。みたい。私も近づきたいところではないので(笑)、高知へ何回か東京にいる時、呼ばれて帰ってきた時に、何となく目の前にいる男の人と女の人のセットが、うん、何か、「うーん、ちょっと嫌な感じ。」って思う人がいて。それ…、それは私がいた頃の施設の…、施設…、私がいた頃にその人がいたかどうかはわかんないけど、まぁ園長職をしてた人。

インタビュアー: ふーん…。

樋口: で、あの、話が終わって質問の時間になって、その人がぱっと手を挙げて「質問があります。」って。ただ私、質問の中身は全然覚えてないんだけど、その人が言った言葉が、「あなたが小鹿園に入っていたことを私は知っていたので、カルテを見てきました。」って言ったの。

インタビュアー: ふぅん…。うんうん。

樋口: ほいで、私はそれでもう、頭真っ白になって、「何で、私が見てほしくて関わってる人でもない、まぁ医療者に私の全てをさらけ出して見られなきゃいけないんだ。」っていう思いがすごくして、腹立たしくって。「それって人権侵害ですよね。」って言ったけど、その人にそれが、ちゃんと私が言った中身が通じたかどうかは確認もできなかったんだけど。だから昔の園長先生と、その頃働いていたじゃないかな?と思われる看護婦さんという…、看護婦さんとして働いていた人じゃないかな?って思われるセットで来てたのよね。うん。「カルテ見てきたって何? しかも、私がいなくなって、20年以上経ってるのに、カルテが置かれてるっていうのも何?」っていう感じで。うん。

 で、その人かな、遊歩から、「これって恵ちゃんとこの施設じゃない?」って、「居た所の施設の人じゃないのかな。」って言って、その肢体不自由児の…、に…、の、リハビリテーションとかって、リハビリっていうので…、の本が出てて。それで、あの、カリエスとか、骨形成不全とか、色んな人、子どものことを書いてあって。ほいで、あの、私が知ってる骨形成不全の人は、ほんとにもう、ここが隠されてるだけで、まぁ下着の姿で、前からとか横からとか障害が明らかに見える格好をして写真が出てて。ほいで、その人は、前は四国電力で働いてたのね。ほいで、「地域の電力会社で働いている。」とかって書いてあって。電気屋さんならそら、特定はできないけど、電力って書けば四国電力しか四国にはないわけで、その頃ね。だから、ほんとに特定…、個人を特定できる、しかも下着姿の写真を、その、それこそ施設のカルテから抜き出して使ったものであろうというものが出てて。

 で、カリエスのところで私の例は出てなかったけど。でも、それこそ、あの、「なかなか言うことを聞かない子がいて、途中で施設からいなくなって、どうのこうの」って。まぁ一応、あの、「社会に出ては成功をしている人もいる。」みたいな言い方を書いてあったから、それを遊歩が、「恵ちゃんのことじゃないの。」って言って。そいでその、骨形成不全の人は知ってたからね、遊歩も。で、見るからに彼女だってわかるから。だから、私がいた施設のあの人が書いた本じゃないかって言って。で、調べたら、その退職後、岡山の吉備大学か何かの医大の教授になって、やってた人で。

インタビュアー: ふーん…。

樋口: で、ひょんなことにその出版社が私に、20枚ぐらい…、原稿用紙20枚ぐらい原稿書いてくれって言われてて。その電話がかかってきた時、私寝てる時でぼやっとした感じで「はい、はい。」とかって受けてて、あの、鮮明じゃなかったから。よく考えたらどうもその本の出版元じゃないかと思って連絡をしたら、そうだったのね。で、私はその、あの、「人権侵害だと思うし、あの、施設のカルテとか個人情報を勝手にそういう本に載せることも絶対許されるべきじゃ…、許されることじゃないし、それを平気で載せた出版社に対しても私は信頼することはできないから。一応、前、返事はしたけど、受ける、その仕事はしたくないので。」と。それと、「この本についてどう考えているのかを、あの、聞きたい。」と言って手紙を書いた。そしたら手紙を書い…、そしたらあの、その、「先生にも連絡を取りました。」と。ほんで、あの、「別に親から何も出てるわけではなく。で、今も高知へ帰った時には、あの、色々相談にやって来たりして、親しくしています。」って書いてあって。それとこれとは明らかに中身が、言ってることとは違うと思うんだけど。「だから、あの、了承を得ているというふうに私たちは見なしています。」っていう言い方? 「だから、あなたが言っていることは、何ていうか、違ってますよ。」みたいな感じの書きっぷりをして、編集長っていう人から返ってきて。でも、やっぱり、そうは言っても絶対納得できないと思ったので、まぁ、「ちゃんと許可を得たかどうかを聞いてください。」と言って。そしたらそれからは返事来なかったけどね。

インタビュアー: ふぅん…。体のこと、でも、そんな簡単に開示しちゃうんですかね。今は…、

樋口: ねぇ。「障害者施設におけるリハビリテーション」とか何かそういうような題だった。

インタビュアー: まぁ「限られた対象が読むから。」って思ってたのかなぁ。

樋口: ていうか、学生の教科書だから。だからほんとに、確実に広がっていくものでしょ? 毎年、毎年、受講者はいるわけだから。うん。だけどそういうのに何も、「問題かな?」とかって考えもしないその神経というか。ねえ。

インタビュアー: やっぱり、だから当事者の人たちは、対象でしかないんですよね。生きている、何かこう、生のある人間として見てるというよりは、もうカルテの対象。うん。

樋口: うんうん。という感じだよね。

インタビュアー: そういうことなんだねぇ…。いやぁ。うん。そうかぁ。でもまぁ今は穏やかな生活で(笑)。その点は、そんなに何かこう、怒ったりとか、こみ上げてくるようなものがあるとかそういうのはないんですね。ここだと。

樋口: あぁあぁ。いや、そういう過去のこととか考えれば、うん、そりゃ、残っているものは色々あるし。あの、すごく穏やかに暮らしてるから、何か、何かこう、何ていうか、ちょっとした違いがあると、眠れなかったりとか。そういうふうなのも出てきて。何かこれ(?)自分が年を取ったせいもあるし、今、気力的にすごく落ちてるから…、かな?とは思うけど。まぁ受け入れて。その、眠れない時は寝なくっても、新聞読んだり、ま、何とか楽しい時間を過ごせばいいと思って。電気点けたらかわいそうかな、とか思いながらも、電気点けて、あれこれやってるけど。うん。まぁこれからは静かに生きていきたいなぁと思っておりますが。

インタビュアー: うん、うん。

樋口: ね。真砂子さんも、もうちょっと働くんだったら、ねぇ。最終ラウンド考えて、楽になる働き方をした方がいいようには思うけど、ね。

インタビュアー: うーん。そうですねぇ。うん。まぁほんと、色々、時代の変化の中でやっぱり変わっていくからね。

樋口: まぁね。それに、まぁ、それこそすごく、家借りるのも大変だった時代から、「そういうのは差別になりますよ。」とか、具体的な、あの、規範っていうかルールができているから。それをどれだけ社会の一般化していけるか。社会に広げて行けるか、だよね。うん。

 それとやっぱり優生保護法なくなっても、優生思想はなくそうとして努力しない限り、なくならないから。やっぱり、誰の頭の中にも優生思想ってやっぱり潜んでる。私は何となく、血となり肉となりじゃないけど、何か血液で巡ってるぐらいに、やっぱり優生思想を取り除いていくってのは難しいことだなぁと思ったりもするし。うん。

インタビュアー: うん。

樋口: 「だから命の価値に優劣はない。」っていうことを、本当に、現実として、みんなの中に落とし込んでいける社会が来たら、ね。あの、まぁ運動的課題とかそういうのも、次から次へ時代と共に出てくるかもしれないけど。基本的に命の行方は、安全な方向に行く?…じゃないかなと思う。

インタビュアー: うーん…。

樋口: だから、あの、相模原の事件の人って、お父さんが町田で小学校の、何か、絵の先生か何かしてる人らしくて。

インタビュアー: え? 犯人の人?

樋口: そうそうそうそう。

インタビュアー: 学校の先生っていうのは聞きましたけどね。

樋口: 母親が。

インタビュアー: うん。

樋口: うん、お父さんは町田市、相模原に住んでんのかどうか分かんないけど。町田市で、私がサポートしてる『TEENS POST』っていうレターカウンセリングとかをやってたり、思春期相談とかやってるグループがあって。そのグループの代表の人のお孫さんとかが学校で習ってて、すごくいい先生…、だったんだけど。だからそういう人に育てられて、しても。だから、どこでそういうのが、ねぇ。育ち方が悪かったとか何とかじゃなくって、そういう人が作られていく社会、ね。

インタビュアー: うん。うん。うん。ほんと難しいですね。何か、親の責任ってねぇ、どこまでなんだろう、とか。環境とか言うけどねぇ。私はどっちかと言うと環境派ではあるんだけど、でも親にも、何ていうか、制御しきれないその人の持ってるものはやっぱりあると思ったりして。だから、「どんな育て方したんだ。」ってよく言うけど、簡単に…、

樋口: 一辺倒に「こう育てたからこうなりました。」ってもんじゃないものね。

インタビュアー: そうね。育ててるように…、そう育てようと思って育てたわけじゃないから(笑)。「育て方」とか言われるとやっぱり親も、ある意味被害者ですよね。だけどやっぱり責任、とかっていうふうになった時にねぇ、

樋口: すごくねぇ。

インタビュアー: 責められちゃうし。

樋口: そうそう。

インタビュアー: 難しいですよね。

樋口: 仕事だって続けられないだろうし。気持ち的に続けられないだろうし。

インタビュアー: そうですよね、いやぁ、何か犯罪が起きる時ってやっぱり「本人と家族」って、いつもやっぱり家族出てきますよね。それはもう、しょうがないと言えばしょうがないけど、何か親だけに責任というと、「いや、しんどいな。」っていうふうに思いますよね。あれなんかは、もちろんそれもあるけど、やっぱりそのあとの働いてた環境でいうところの施設で、どんなふうにこう、働いてたのか見えてこないし。そのあとも出てこないし。

 んー、何か…、うん、はっきりとしたものが分からないけど、難しいですよねー。あの…、あの事件は重たかったな、やっぱりほんとに。うん。でも、とにかくその、重障心身という人たちがどうやって生きるかっていうことがやっぱり、場所も含めて、うん、介護の改正も含めて、見えてこないと、何か、いけないような気がしますけどねぇ…。うん。でも、そう、町田はね、そうやって支えている体制があるけれど、やっぱり、ほんとに全国的に見れば、数少ないっていうか、

樋口: うん、うん。

インタビュアー: ほぼないに近いでしょ? 他は。うーん。だから難しいなぁ…。

樋口: まんのう…、まんのう町って香川県にある、おっきな「まんのうの池」っていうのがあって。その近くの市…、え、町か、まんのう町で7,000人とかの人口ぐらい? のところに、すごい、何か、多動な、もう成人してる人がいて。その家族が、ヘルパーを使って、その、介護体制を作って、彼が地域で暮らせるようにしたいと思って必死にやってて。お父さんも、お兄ちゃんもヘルパーになって、ていうの一所懸命やってる人たちがいるんだけど。でもほんっとに、地域で支えていくっていう動きをなかなか作れなくて。うん。そう思って関わろ…、関わってる人もいるんだけど、でもやっぱり、その、お兄さんとかお父さんがヘルパーやってるって言ったら、「それでお金になってるんじゃないか。」みたいに。で、「自分の子どもや、弟なんだから、家族としてみるべきじゃないか。」とか、っていう目で見られる。うん。

インタビュアー: 実際にはあれですか、事業所通して仕事にできてるんですか?

樋口: 事業所…、事業所を作ってるんだと思う。

インタビュアー: あぁあぁあぁ、そうか。でも家族だと結構きついですね。

樋口: でも他の人が働いてもらえない。で、家族だったら家族介護になって、他人介護とは見なされないみたいな。でも、その、ヘルパーがいないからそうせざるを得ない、という状況なのに、それだから。それこそ、本腰入れて訴訟でもして、勝つまでやるしかない、みたいなもんだけど。エネルギーとか財力とか。まぁ、今ね、あの弁護士とかそういう人たちはそういうところでやってくれる人たちいっぱいできてきてはいるけど。

インタビュアー: うん。そうねぇ、でも家族介護だとそこにお金を落とすってのはちょっと厳しい可能性はありますよね。

樋口: そうそう。

インタビュアー: 法律上は特にねー…。

樋口: うん。だから、その、ヘルパーで…、他人のヘルパーでやって行きたいんだから、その、他人のヘルパーを支援する、どう育成していくかとか、うん。そういうのはその、町のボランティアグループとか、そういう人たちが心がけても、そんだけ小さなキャパのところだから、人材もなかなかいないし。しかも、大変な人だって分かってるわけだから、誰も近づいてきてくれないっていう悪循環の中。うん。どうなっていくんだろうな、っていう感じだよね。

インタビュアー: うん。ほんと、そういうのがあって。そうすると、やっぱりそういう人たちが家にこもって、家から出れない。地域には暮らしてるけど。いわゆる自立生活ではない在宅生活? を強いられるような形ができちゃうのかな、っていうのはありますよね。だから、ただ地域に暮らせばいいってわけじゃないから。何か、難しいなぁ…。 樋口: うん、いっぱい、いっぱい問題はあるけど、ね。うん。

インタビュアー: ま、それこそ…、

■【3上19】2018021913 近藤:樋口: 10分

近藤: 福祉講座を作って、って言ってみたら、この地域では、民間人が福祉講座を作ったような経験がないの。だから「何をするんだろう?」っていうような興味がかなり湧いて、新しい人たちとの繋がりができた。そう。だからこの部屋も、この…、ここが広いのも、あっここにほら幕が、あるでしょう。

インタビュアー: はい、ありますね、はい。

近藤: あれ、降ろしたら、ここを教室として利用できるわけよ…、に、つくったの。ところが最初からわからないまま、ここでやり出したら、「どんな人が来るかわかんないよ。」言うて、ある人から忠告受けて。うん。で、僕の方も、「ここの土地も知らないのに、どんな人が来るかわからないような、そんな危険なことするの?」って言われて。で、福祉センターを借りるようにしたわけ。うん。ほしたら福祉センターでも、そういう、「民間人が福祉講座などするの初めてだから。」っていうんで、かなり便宜をはかってくれたわけ。うん。

インタビュアー: ふーん…。それがこれですか? 福祉講座。2

近藤: そう。で、それのおしまいの方に、「この地域で障害を持って生き続けるには」というテーマでやったところ、色ーんな声が出たわけ。で、僕たちが、今の、あの、組織ね、「『土佐の太平洋高気圧』のようなのをつくると、こういうことができるんじゃないか、と思う。」というように、そのニーズに対して、それを当てはめてみたわけ。ほしたら、「わー、そんなことしようと思ってるの?」言うて、人がまた集まってくれるわけ。それが今の、仲間であり、今の事業の基本になったの。

インタビュアー: うーん…。すごいですねー。

近藤: それは、あの、町田でやった、福祉専門学校の1年の授業のカリキュラム。その中から、自分が持っている資料を出して、福祉講座の中に散りばめてみたわけ。で、テーマを「歴史の中の障害者たち」にしたわけ。それで、そんなテーマでやるということは、この地域じゃなかったのね。しかも行政にもそんな力はないし、民間でもやる人がいなかったもんだから。うん。

インタビュアー: そうでしょうねー。

近藤: 非常に興味を持たれた。

インタビュアー: どれくらい集まったんですか? 最初の講座の…、

近藤: 一番多い時で、何人ぐらいいたんだろう? 恵ちゃん、一番多い時で何人ぐらいいたんだろう?

樋口: 15、6人はいたんじゃない。

近藤: 15、6人。

樋口: うん。

近藤: とっても個性の強い、動きだったから、個性の強いメンバーが、「これにちょっと行って、顔…、聞いてみたい。」というような人が集まって、興味を持ってくれた。あのね、あの、えーっと、これに書いたかどうかわかんないけども、ここは、高知の中でも、行政が制度的には遅い方なの。遅れてる方。で、それを、僕たちが「高知はどうですか? 近藤さん。」って言われて、「こっちは何もないですね。」って言い疲れちゃったわけ。そして、「なんで何もないんだろう?」ということを今度は、テーマに考えだしたわけ。そしたらここの事業…、ここの生活っていうのは、林業と農業…、え、漁業と農業に林業がプラスされるような生活で、自然まかせじゃない。人間は自然に弱いのよ。海が荒れたら、「今日は荒れたからもう、また天気のいい日にしよ。」っていうのでいいわけだ。うん。それで、日が…、あの、日照りで雨が降らない年には、果物とか野菜ができにくいじゃない? 「あぁ日照りだから、今年は仕方なかったけど、来年こそは。」っていうんで、この、にん…、淡白な仕事になっちゃうわけ。諦めがスカッとしてるわけ。それが高知の、やっぱり特色のようなもんだ。そうすると、生活が大変になったからって役所をあまり頼まないの。うん。「今を過ごしたら何とかなるから。」になっちゃうわけ。

インタビュアー: うーん、うんうん。そうねー。

近藤: うん。だって海に行ったら、無料で魚が取れるんでしょう? 日が照って天気がよかったら、畑からできてくるお金は、お金じゃない? もう。…出てくる野菜は。そういう自然と向き合ったあれは、人間を淡白にする。

インタビュアー: 特に土地が良いとこはそうですね。

近藤: そう、天気がいいときで、すくすくとみんな、うん。複雑な人間じゃない。北国ほど人間が複雑になる。

インタビュアー: そうですね。寒いとこはね。雪は積もるしね。

近藤: で、そのうちに、「役所に頼るよりも、自分たちが働けばいいんだ。」になっちゃうわけ。そしたら、働けない人が弾き出される。で、福祉に相談に行く人は、「なんで体が元気なのに、福祉に相談に行くんだ。」っていうように、逆に白い目で見られる。というように、国がどんなに制度を作っても、国が作った制度を使うのには、国が50%、県が25%、市が25%いう予算を組まないと、使えないでしょう?

インタビュアー: はい。

近藤: その、市町村の25%すら、市民が使おうとしなかったら、予算が使う方に作っちゃう。漁業の方に回そうとか。福祉はもうほんとに小ーさい予算になっちゃうわけ。だから国がどんなに制度作ってるからいっても、市町村で全部それを使えるところっていうのは少ないの。予算の関係で。それの典型的なのが高知なの。そういうことに気づいたの。

インタビュアー: なるほど。

近藤: うん。つまり、福祉レベルが低いということは、行政の責任じゃなく、うん、そこに住んでる市民の責任でもある。しかし、僕のようにそれがわかった人間が、またそれを言わないと、尚更ひどくなるわけね。だから言うようにしたわけよ。バリアフリーの話でも、かなり行政を動かそうとしたけれども行政は硬いね。そんなに、東京から来たからいうて、うん、まちの「こうしたらどうか。」という提案なんて受けないわけ。それが僕たちの生活なのよ。

インタビュアー: そうですね。最後まで、続けて(?)いくっていうね。

近藤: 「じゃ、どうしたらいいのか。」っていう。ここで住むのには。

インタビュアー: うん。後はあれですかね。これからも人をこう、確保し続けるところがやっぱり難しいとか大変っていうことですね。

近藤: そうだね。

インタビュアー: これも全国的な話だと思う。どこでもそうですけど。ま特に、この辺り、高齢化率とかも高そうだと思う(?)。

近藤: それに恵ちゃんが、えーと、取り掛かろうとしたの、うん。ある大学を…、と一緒になって、高知大学と一緒になって。ところが僕は寝込んじゃったのよ。

インタビュアー: あぁ、はいはい。

近藤: そんで頓挫しちゃったの。

インタビュアー: うーん。

近藤: やっぱり若い人たちの…、が、いる、大学のようなところと手を組んで、少子高齢化の問題、地域の…、に若い人たちが残る、ことには、大ーきな力がないとできないわけ。自分たちがコソコソやってたって。そう思って恵ちゃんが、計画を練ってやろうとしたけれども、僕は体を壊したから動けなくなった。

インタビュアー: うん。まぁでも、それはまた落ち着いたらね。

近藤: でも恵ちゃんも、やっぱり年齢的に、自分の体が…、体力が落ちたということを知ってるもんだから、「今やっても中途半端になるんじゃなかろうか。」いう案が…、考え方があって、もうそれは宙に浮いてるからね。

インタビュアー: うーん…。そうかそうか。

近藤: それはこの地でやるんじゃなく、やっぱり高知を動かさないといけないでしょう? 学校あたりは高知にあるんだから。だからそこに行くっていうことは自分たち大変になってくるじゃない? だから高齢化とかいうようなことも、僕たちにとっては大きいね。

インタビュアー: はい。ありがとうございました。終わりにします。

■【3上21】2018022000 樋口: 06分

インタビュアー: IL文京。

樋口: はい。

インタビュアー: あそこらへんは、どういう経緯で代表になられたりとか。

樋口: あ、三澤さんの…、

インタビュアー: 三澤さん。あぁそうか、三澤さん。

樋口: …に頼まれ。三澤さんの、あの、IL文京は、もとは創業会館?にあって、BK(文京区社会福祉協議会がある文京区民センターのこと?)の中にあったんですよ。

インタビュアー: うん。何か私、その頃に1回ぐらい行った気がする。

樋口: そいで、あの、地域に根ざした、活動にしていきたいので、とういうことで、あの、そこをでき上がるまでをやってくれないか、みたいに言われて、それでやった。うん、だから、三澤さん…、

インタビュアー: なるほど。三澤さん…、三澤さんもでも別に、文京の人じゃないですよね。

樋口: 文京の人じゃないけど、なぜ文京に…、文京に行ったか、その経緯は私は分かってなくて。うん。ただ私は頼まれた時点で、ま、文京で活動を始めてたところで。

インタビュアー: 2000年以降ですか? 2000…

樋口: 2000…、だから、2000年かな。あの、JILの代表してる時に頼まれて。そいで選挙で落ちて、あの、フリーになったところで、文京に行き始めた。うん。その、段取り…、時間系列がちょっとバラバラしてるけど、そんな感じだったかな。だから、すごい厄介な人がいて、訴えられたりしたことがあって、文京が。介助の人…、介助利用者から。精神的に問題を持ってる人だったんだけど。

インタビュアー: ふぅん。利用者さんからってことですか?

樋口: うん。結局コーディネーターが30万かなんか払うことで決着したのかな。そこらあたりから関わってて。でその…、その、問題の人からヤイヤイと立川の事務所に連絡が来てて、ガンガン文句、電話で言われ続けたこととかあったから(笑)。

インタビュアー: いやー…。大変でしたね。

樋口: うん。

インタビュアー: ふぅん。で、これ、ここに来る前までやってたってことですか?

樋口: そうだね、2005年…、5年くらいか、6年…。2007年は選挙のことばっかりだったから、6年かな。あの、もうしんどいって。すごく歩いて、ていうか、すごい時間かかって、それこそ1時間半とかかかって、小田急線で、代々木上原で乗り換えて。えっと、それでどこだっけかな、またどっかで乗り換えて、みたいな。地下鉄延々乗って、南北線で行ってたから。もうちょっとしんどくなりすぎたからと思って。ほいで、「行かせて。」って言って、引いた。

インタビュアー: 結構距離ありますもんね。

樋口: すごい距離ある。しかも朝のね、立ちっぱの。

インタビュアー: あ、立ちっぱだった。ラッシュの時から行ってたってこと?

樋口: そうそうそう。

インタビュアー: そりゃ大変だぁ。

樋口: 小田急線ってほんとに混む線だったから。

インタビュアー: うん。混みますよね。

樋口: うん、そいで、まぁ私学生の頃から比べれば、もう、そういう通勤世代も減ってはいたから、あの、しんどさは大分楽にはなっていたとはいえ。

インタビュアー: うん。へぇ。小田急線って結構昼間でも座れないことあったりとか。

樋口: うん、する。

インタビュアー: うん、あと、何かあれですよね、特急とか準急とか何か色々あって、速さでも違いで何か、停まる駅も違ったりして。

樋口: すごく(難し?)かったよ。

インタビュアー: その、難しかったですよね(笑)。ふーん…。今はじゃ、もうあんまり連絡とか取ったりしない感じですか?

樋口: うん、会員でいるだけ。

インタビュアー: うーん。やっぱり、メインはっていうか、ねぇ町田の方が繋がりがありますもんね。ふーん。三澤さんかぁ。三澤さん亡くなっちゃったから話は聞けないな(笑)。

樋口: 聞きに行く場所がない。

インタビュアー: ない。

樋口: ねぇ。

インタビュアー: ねぇ。はい。


音声終了


*作成:中井 良平 *更新:中井 良平
UP:20180428 REV:20200520, 20220614
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