HOME

田中啓一氏インタビュー

20180131 聞き手:立岩真也 於:金沢市・田中氏自宅

Tweet


◆田中 啓一 i2018 インタビュー 2018/01/31 聞き手:立岩真也 於:金沢市・田中さん自宅
 田中啓一:19540509生
病者障害者運動史研究
◇文字起こし:ココペリ121

田中啓一写真20180129-1  田中啓一写真20180129-2 

◆立岩 真也 2018/01/29〜01/31 富山・金沢で聞く
◆立岩 真也 2018/06/01 「埼玉と金沢で――連載・146」,『現代思想』46-10(2018-06):222-237
◆立岩 真也 2020 『(本・1)』,岩波新書(頁増補)




立岩 平井〔誠一〕さんって53年生まれなんですね。

田中 そうです。私は54年なんです。一つ違いで。(一つ下か。54年、私が60年だから六つ上)そうですか。 

立岩 微妙な年だねって話。平井さんも全障連作ったというか、初期やってた人の中じゃ若手っていうか。そういう話から2日前始めて、どんな感じだったんですかという話を聞いて、その名前は結構、副代表幹事であるとか出てて、毎年ので。そんなにこう表立ってガンガンという感じでもないから、どんな、いろいろ聞いてくと結構舞台回しというか、会場決めるであるとか、お金集めるであるとか、そういうところの実働部隊というか、そういうところで結構舞台を回してたんだなと、裏でというか。僕、イマイチよくわかってなくて、イマイチというか、わかってなくて。平井さんがやってたんですかみたいな、そんな話を結構しましたね。
 大賀 重太郎〔1951〜2012〕さんという、彼も結構古くから知ってはいて、あの辺とコンビ組んでやってたんだ。大賀さんのことは知ってたんだけど、そうだったんですかみたいな。後、名前が最後に出たのが本田実子さん。そうですね、その方いらっしゃいましたね、そういえばみたいな。僕も本当にね、しばらく忘れてたというか、でも確かにいらっしゃいましたよねと。連絡先もわかるということで、じゃ今度伺うことあるかもしれませんね、みたいな話を後半の方ですかね、しました。

田中 関西の方だったら石橋さん。全障連関西支部みたいなのを名乗っとるんちゃうかな、まだ。活動実態はないんやけど。幹事会ではよくお会いした人です。

立岩 平井さんは前半はその生い立ちというほどじゃないけれども、どこでどういうふうに働いて、家族とどうこうでという、その話から始めて、なんで全障連ですかみたいな話にいって。その後の話も伺いましたけど、3時間ですっごく長かったですけど、でもやっぱり全部というのがあるから、後半の方は割と駆け足でというか。〔田中さん〕54年の何月何日ですか?

田中 平井さんと近いんですよ。5月9日なんですけど。平井さんは確か(10日とかじゃ)そうです。

立岩 生まれた月日って結構大切で、年とか書かなくちゃいけない時あるじゃないですか。そうすると何年っていうだけだと1歳ずれる可能性が結構あって、年わからないということ。5月9日ですか。金沢ずっと、金沢でいいんですか? 

田中 最初からお話しします。私は北海道の室蘭生まれなんですけど。高校まで出て、そして2年遊んで、金沢工業大学という、そちらの方にどうでもいい入りやすいところはないかという感じで、遊んでるわけにもいかず。来たら(2年空いたという事は二十歳ですよね)そうです、75年。そこで同じクラスに被差別部落の子がいて(クラスというのは大学なんだけれども、クラスみたいなものがある?)そうです。あるんですよ。電子工学でしたけれども。(電子工学科というんですか?)そうです。(どんなものです。サイズというのは?学生は一学年、電子工学科は?)確かね、160人くらいいて、1組2組とあって、だから1クラス80人くらいです。(田中さんはどちらで?)1組の方です。仲が良くなってというか、その子と二人で解放研みたいなものを作ったんですよ。部落解放研究会みたいなものを。金沢大学の解放研究会とのちに一緒に行動するんだけど、金沢部落解放研究会ということで。

立岩 昔の部落研とか解放研とかの名前のグループ研ってかなりな大学にあったは、あったと思うんですけど、でも作ろうって時にそういう概観というか、わかんないけど作っちゃったのか、いろんな大学の部落研だの解放研だのそういうものが、どうもあるようだと、うちもないから作ろうみたいなそういう流れなんですか?

田中 いや、それは最初はなかったです。(予備知識というか、そういうものは別にあったわけじゃなく?)だからもう、あんまりその意識は高くなかった。

立岩 ちなみにその方は、地域的にはどっち辺というか? 

田中 高知で、その時住んでるところは尼崎やったんですけど。解放同盟の奨学金みたいなのをとってたかな。その子に引っ張られるというところもあって、二人だけで。なんとなくその辺りから運動に目覚め始めてきて、金沢大学の解放研と一緒に行動したり。後、能登エネルギー基地化というあの七尾の火力発電所のできる時に反対運動やったり。後、能登原発の時かな。そういう背景があって、その中で解放研のメンバーが地域に住む障害者の介護もやっとったんです。(金沢工業大の二人で、ではなく?)金沢大学の部落研のメンバーが、いや解放研です。(それはそこそこの人たちがいたの?10とか20基地化とか?)10はいなかった。(一桁の後半くらいですか?)そうです。そんな感じです。
 金沢城の中にまだ大学があった時代なんですよ。サークル長屋というのがあって、解放研があったり、それから子ども研究会いうのもあったかな。要するに障害児関係の(そうですね、そういうのがある大学ってありましたね)そちらやっとった人たちも介護に何人かは加わとった。(解放研のメンバーや子ども研の、そういう人たちが金沢の障害者の介護?)僕らは自立障害者と呼んどるんやけど、その時名乗とったのは「青い芝」です。(その時には金沢、石川の青い芝っていうのはすでにあったということですね?)そうです。

立岩 75年に学校入るじゃないですか。それで二人で、ちなみに二人のミニマムのサークルは例えば金沢大学のサークルならサークルの部屋もらうのは、公認サークルというか、学生の組織の中で認可されないと部屋もらえない的なことってあるじゃないですか。

田中 全然。(工業大の方は勝手にやってる?)勝手にやっただけ。(金沢大の方はそういう学内組織的なもんであったんでしょうかね?)金大の解放研は部屋自体はなかったんじゃないかな。中研かなんかと同居しとったような気がする。中国研究会。(毛沢東さんとかそういうの?)どうですかね。その辺りが、僕がよく行ったのは、そっちのサークル長屋の方も何回か行ったけど、そのビラとか何とか印刷するのは、その学生寮、金大の学生寮のほうに行ったことの方が多いかな。 

立岩 学生寮の中に勝手に使える輪転機的なこういうやつ、(あの時はこれですよ)ガリ版で刷る。それがあれですか、大学に入った年くらいですか?金沢大なり、金沢大と付き合いというか、関係ができたのは学校の1年?(2年くらいかな)2年目くらい。それは何で、だんだん知ってくもんなんですか?金大にもあるみたいな。

田中 あれは、きっかけは何だっただろう?何かの時に声をかけられたんだと思う。なんか集会かな。そうだね、きっかけ忘れちゃったな。

立岩 わからないもんですよね、その時声かけたんだか、声かけられたんだか。最初に会う、昔からあの人知ってるけど、最初に会ったのいつからだろうみたいな。私はいっぱいいますよ。すごくいっぱい。でもそうやって。

田中 話ちょっと変わりますけど、同じ下宿に朝鮮人の子が一人いて(それは在日?)在日の3世になるのかな。金大の医学部だったんですよ。今東京で医者やってますけど。その子がやっぱり朝鮮文化研究会、いわゆる総連系の学生だったので、その子はものすごく小説が大好きで私も結構こっち来た、金沢に来たきっかけが五木寛之が好きだったんで。二人で本を読みあったりとか、朝鮮系の本もかなり紹介してもらって読み始めたり、二人して朝鮮語の勉強始めたりとか。でも今でも片言喋れるけど書くのは忘れちゃったな。ハングル文字は。
もう一個その流れで、これはあんまり言いたくないけど、チュチェ思想研究会ってのをしばらくやってまして。主体思想。でも私、1年ちょっとでやめちゃうんですけど。どうしても宗教としか見えなかったので、チュチェの方が。ただその中で私の連れ合いと知り合うんですね。彼女もそのチュチェ思想ってのに傾倒していたわけでなく、なんか興味があったみたい。元々は日中友好協会をやっとったみたいです。宇都宮徳馬さん。そのいわゆる国交正常化する前に、夫人なんちゃらの翼とかそんなんが潜り込んで、中国の方に行っとったみたいですけど。その流れみたいな感じで、彼女も北朝鮮の方に4回くらい行ってるんですよ。そのチュチェ思想研究会を利用してという感じで。

立岩 その総連であったり、北のほうとパイプを。北に行けたと。

田中 そうですね。そういう目的にチュチェ研を利用しとったみたいですね、彼女は。元々は私、この話始めると止まらないかもしれませんが、いまの私があるのは彼女なんです。(大学の1年生の時、知り合ったの?)知り合ったのは1年生の時。結局彼女は私よりも4つ上。学年ですると5期上やったんです。(同じ大学?)全然、彼女は保母してましたので、その時は。(働いてて、チュチェ研っていうのは、どこの研究会?大学の研究会じゃない?)なくて、全然。チュチェ思想研究会っていう全国組織みたいなあるみたいで、その中には労働者もいれば学生もいるみたいな。(それの金沢支部的なもの?)そうそう。

立岩 そういう集まりがあって、彼女は保母さんをしながら。それは彼女は朝鮮半島というか、何らかの縁というかはある人なんですか?

田中 それが、おそらく、僕が中学校2年、3年のあたりに東大闘争。(そうですよね。54年ですよ。15歳で69か、68だと14と中学2年)ちょうどあの当時が、パリのゼネストがあったりとか、東大闘争があったりとか、そのちょっと後で「よど号」があって、そういう時代なんですよ。私もそのちょっとおませやったのかな、中学校入るくらいに親父の本棚にあった『共産党宣言』とか『国家と革命』とかあの辺りチラチラと読んどったんですよ。親父、その教師で日教組の書記かなんか、その時しとったんですよ。そんな背景もあって。(ちょっとそういう思想の方の親父さんと)そうですね。(日教組は共産党系、社会党系?)あれはたぶん、親父の心情としては社会党系じゃなかったかな。そんな感じで。

立岩 多少、その家庭的なとかもあり、中学校から高校にかけて世の中そんな感じで?

田中 見てきましたので、テレビで。彼女と知り合って、彼女とだんだん話しするようになって、彼女は私の5期上で東大闘争の時は、明治学院大の部落研として、メンバーとして東大闘争の学外支援に加わってたんだよという話を。(明治学院も私、知り合いが何人かいるんですけど、社会福祉の学部?)社会福祉学科。そっちですね。でも全然勉強しなかったと言ってましたけど。なんかほとんど地区入りしとったというそういう話を聞いてましたけど。そうですね。分党の分派で半旗派(反旗派)というのは、今は空中分解しちゃってないんだけど(はんきって反対のはんじゃないほうのはんかな?)旗の方のはん。今じゃ潰れちゃったけどみたいな。そこで何か、結局大学やめて、こっち帰ってきて、こっちの方で保母の免許取って働いていて。
(金沢は地元だったんですか?)金沢のお寺さんの娘やったんですけど。彼女の考え方に私、かなり影響されてますから世代はちょっと後になるけれども、意識的には全共闘みたいなのを引っ張っとるかもしれない。

立岩 60年生まれだったら、団塊の人たちとはちょっと違うんだけど、それよりさらに自分より上くらいの彼女が、だったりして。ちなみに中学校、高校の時は安田があって、そういうのってそれなりに報道がされたじゃないですか。北海道で中学生、高校生やってて、どんな感じでした。

田中 なんか、わし何やってるんやろうみたいな。その当時は制服、制帽の自由化っていうのが、生徒会の方で取り上げたりとか、そういう時代で親父ともディスカッションしたことがあるんですけど。結局は親父はやっぱり格差、貧富そっちの方で攻めてこられましたけどね。北海道だからアイヌ人がいるんですよ。僕の頃はそんなんでもなかったけど、やっぱりアイヌの人たちが、むしろの家みたいな中で生活しとって、そこに家庭訪問とか行った時の話とかをチラチラとするわけですよ。「はぁ」と思ってね。いいことだったのか、悪いことだったのかわからないけれど。その中学校時代にちょうどあったのが「白老町長視察事件」てのがあって、アイヌを観光の食い物にしとるっていうので、アイヌ民族解放戦線とかなんとか、知らん人たちが犯行声明を出したとか。ご存知ですか。古いでしょう。 


立岩 その制服の話に戻ると、親父さんはお前の話はわからんことはないが、でもそんな制服だから一つしか服が要らないわけでみたいな。だから仕方がないと、そっち方がいい的なそういう話。

田中 私は軍国主義云々からいくけど、親父はやっぱり現実、生徒の現実というところから。

立岩 それは一つの話としてありですよね、確かにね。確かにそうですよね。地方の高校とかだと、結構あの時、大学闘争というのかな、そういう形で波及というのかな、して。私新潟で、本当もっと田舎ですから僕の場合はもっと後なんで、ひとしきり終わった後で、ボチボチ知るわけですけど。ただ、その例えば新潟高校というのは、新潟県の中では進学校ですけど、そういうところでそういうものの余波を受けて、制服撤廃をするという動きが出て、それは確かね、そういう進学校だと中産階級じゃないですか、学生も。そんなにこう、制服しか着られないほど、ということでも、それもあったんでしょうか。たぶん県高、県高って新潟の人は言いますけど、県高がそれで制服が無くなったのかな。ていうので、そういうふうに波及してたというとこはあるけれども、でも「それだけなの」みたいな。その田舎にいてね、暇やなみたいな。ていうのは焦燥というほどでは、ないかもしれないけど退屈。でも結構その、どうなんでしょう。政治的なというか、意識というかね、あるいは差別とか、感受性、意識みたいなものかな、やっぱり。中高からあることあったぜみたいな。 

田中 そうですね。高校時代は、高校入学は1970年だったんです。ヘルメットの中で入学しましたわ。あの当時結構、国旗に対して学生に、こう後ろ向かせたりとか、いうことがあったんですよ。これ一体何者っていう感じで。なんかやらねばならぬというのがあって、新聞会っていうところに入ったんですよ。部活が、高校の新聞会。(室蘭高校だったんですか?)室蘭栄高校。地方の進学校みたいな感じですけど。室蘭いうと製鉄所があるんですよ。やっぱり公害みたいなもの。そういう粉塵公害とかから始まって、水俣の方かな、富山イタイイタイ病みたいなもの、四日市ぜんそくもありましたね。(新潟は第二水俣でそういう流れでしたね)それをやりながら、中学生の頃は優等生やったんやけど、だんだん勉強が嫌いになってきて、結局はこっちきて(新聞部みたいなもの?新聞を作ってたんですか?)そうです。新聞会っていうのは新聞会て言いましたけど、結局新聞作って、学内に止まらず周辺に配るんですよ。あの時で千二三百部くらい刷っとったんじゃないかな。お店とかなんとか。(置いてもらうみたいな?)そうそう。(タダで、お金は?)私、1年生の頃はよう広告を取りに行かされましたわ。ひとマス、あん時は500円か600円くらいだったと思うんです。床屋さんとか、喫茶店とか。

立岩 なるほど。それは特に政治的に偏向してるわけではない?(ではない)割とコミュニティ、今で言ったら、そういう新聞?

田中 その新聞の中身なんだけど、まぁまぁ学外、学内のことプラスやっぱりそういう、公害のもちょっと後ろの方に載せたりとか。(柔らかい話もある?)そうです。

立岩 私は暇な高校生時代だったので、大学入った時に新聞ではないんだけど、雑誌を作るサークルに入る。そこで2年くらい。それは結構大きかったというか、面白かったですね。何かものを書いたり、まとめたりしました。
 ちなみに学校入った時にヘルメットとおっしゃったけど、誰がどんなヘルメットを?

田中 黒ゼットと書いてあるから、たぶん革マルだと思うけど。(革マルの人たちが、何をしに来たんですか?高校の?)入学式。ビラみたいなのを、もらいましたわ。中身はもう、すっかり忘れましたけど。(まぁ言ったら、革マルの大人たちというか、そういう学外勢力的なものが?)いや、学内の革マル。(高校の中の革マル?)たぶんそうやったと思う。

立岩 じゃその時期はまだというか、高校でもそういう、高校の中でもメット被ってたりしました?

田中 その他の高校では、そんな目立たなかったけど、一応、室蘭ではその栄高校というところがいわゆる進学校で、さっき言った制服、制帽の自由化運動なんかも、ちょっと盛んだったところで、生徒会とすれば、強かったかな。教組の方でも勤務評定。その問題も出てきて、ちょっとみんなでやっとったんじゃないかな。

立岩 時々、ありますよね。例えば東京だと日比谷高校とか、そういう私立にしても公立にしても進学校の中に割と過激派と言われるような、結構長く入っているのがあったんでしょうね。そういう時期でもあったんでしょうね。そういったものに、なんやかんやいうて、それなりの影響を受けたんでしょうね。結局。



田中 たぶん。飛んで彼女の話になりますけれども、彼女からそういったような話も聞いて、障害者の介護に彼女の方が先に入った。

立岩 金沢大の解放研と部落研(子ども研?)か(はい)それは金沢大のサークルですよね?(そうです)その人たちも介護なり、介護に入ってた。彼女はそれとは別で(個人で)入ってた?

田中 介護、その時は障害者と介護者のその会議みたいなのが月に一回あったんです。その中で顔見知りになるじゃないですか。みんな。今でもやっぱりその時の介護者、介護仲間っていう人たちがポツポツと友達として。学校とかバックグラウンドが全然違うんだけど。

立岩 そうか、私もそういう記憶はありますね。全然こういうことでもなければ、決して知り合うことがない人たちが三々五々とか。それは会議があるとこは、そうですね。対外的に、あるいは交代の時にちょっと。それはその金沢市内の自立障害者?

田中 青い芝が。あの当時のメンバーはよくご存知の高真司〔1950〜2004〕さん。それから中尾まもるさん。僕は中尾さんとものすごく話をした。

立岩 なかおのなかは仲間の仲ですか、真ん中の中ですか? 

田中 真ん中の中に尾っぽ。まもるさん。(まもるは守るですか?)どっちだったかな(守備の守か、護国の護か)たぶん守備の守の方でなかったかな。後は犬塚勝二さんていう人がいて。

立岩 はい、犬塚さんの話は一昨日、平井さんと話しました。えー犬塚さんって金沢なんですかって話になって、犬塚さん、僕は知ってるんですよ。東京で長いこと。僕の知り合いで、今東大で教えてる市野川っていうのがいるんですけど、それとか、アフリカ日本協議会ってとこで働いてる、それはもともと言えば、解放書店とか、そういうところに勤めていた、斎藤龍一郎っていうのがいますが。その辺がもう20年くらいかな、東京で彼の介護。そういうこともあって、二人とも僕よく知ってる人で、そういう付き合いもあって。後、障害学会って変な学会があるんですけど、そういうのもきてくれたり。

田中 その辺の繋がりがあるということは、ぐさっと聞くけど、社青同派とか?

立岩 僕は社青同派ではないんです。犬塚さんが解放離れたでしょう。聞いてて、何年か前にようやく足抜けしたみたいですよ。随分長いこと解放派してた。

田中 ちなみに私はずっとノンセクトでやってきてますので。セクト大嫌い。(それは明確に嫌いな感じですか?)もう私の頃には全共闘のちょっと後になりますから(内ゲバ始まった頃?)そうそう。だからよういじめられましたね。(ノンセクトだということで?)と言うか、金大の解放研。 

立岩 解放研って言うのもそうやって、それこそ関西とかだと、もちろん解放研だから部落解放同盟はもちろん、関わったけれども、それ以外の中核派であるとか、そういった党派が結構絡んでる。あることはあるじゃないですか。金沢大の場合は特にそういうのは?

田中 なかったと思うけど、ただ革マルには睨まれてたというのがある。

立岩 なんかあのおじさんたち暗くて嫌だと思ってましたね。解放も暗くて嫌だ、中核も暗くて嫌だって。みんな嫌だって。やってましたね、私の時も学生の時にキャンパス行ってカマボコって機動隊の。党派とは基本、縁がある。でも解放派じゃなく、革マルに睨まれた?

田中 金大解放研のシンパサイザーとして見られとったみたいだから、一緒に行動しとったから。

立岩 全般に、中核とか解放とかが障害者運動に入ってくる。それに対して、革マルは冷たいというか、そっちにはいかない?(そうだね、革マルの話は障害者運動の中では聞かないですね)それはありますよね。
 若干例外もあって、古込さんの話も全く無関係じゃない。仙台に西多賀病院という国立療養所があって、そこに山田三兄弟という山田っていう筋ジスのデュシェンヌ型の三人兄弟がおって、上の二人は割と早くに亡くなって、一番下の山田富也(1952〜2010)さんが50代まで割と頑張って、それは筋ジス業界では有名人なんですよ。その人いっぱい本も書いてて「ありのまま舎」っていう社会福祉法人をのちに作ってたり「ありのまま大賞」っていう賞も作ったり、それは何親王かな、皇族とかね、のちに引き入れてみたいな、結構活発な活動する人がいたんですよ。その人が書いた本を読むと、自分たちの病院に革マルが来てとありましたね。たぶんそれは70年越えてないと思います。60、まだ混沌としてて、障害者運動とかなんなりに肩入れするのは、中核、解放で革マルはそういうとこから距離とってというような地図ではない時には、たぶん入ったんでしょうね。
 確かにおっしゃるように70年越えると、なんとなく部落解放とか、障害者運動とか言ってると革マルと(笑)…というふうな(なるほどね。そういうバックグランドもあったか)ような気がします。実際その後も、いろんな冤罪裁判であるとか、基本的には党派が関わるのがやっぱり、中核派他になって来ますよね。そんな細かい話になるとちっとも先に進まない。適当にしときますけど。
 それで、後に連れ合いが介護に入った? 

田中 それで横目で睨みつつ(高さん、中尾さんという人と犬塚さん)はい。もう一人犬塚さんの連れ合いさんで犬塚和子さんという人と4人で。いのちよこさんとものすごく考え方が似た人です。

立岩 高さんはいろいろやった後、亡くなるでしょう。中尾さんは?

田中 中尾さんは、何をこだわっとったかというと、青い芝から全障連に変わるんですよ。金沢の障害者のメンバーが。青い芝と全障連との違いが何かというたら、「健全者手足論」と「健全者と共に」というところの違いなんですよね。中尾さんがものすごくこだわっとったのは、介護との関係性にものすごくこだわっとって。

立岩 金沢、石川の青い芝ってのは、いつ頃からいつ頃までどんな感じだったのかなと。

田中 僕が関わり始めてすぐ、全障連の方に変わったと思いますわ。1年くらい。僕らは変わった時どうかな、芝バス、芝バスって言うとったもんな。車。

立岩 全障連が76年結成ですね。その時に石川の青い芝は存続というか、なんとなく萎んでいったところもあるじゃないですか。辞めるぞ的な宣言をしたところも。組織の終わり方っていろいろありますよね。

田中 その時名前を変えたはずなんです、確か。「青い芝石川」というのから「障害者解放委員会」ってのに確か変わったんですよ。

立岩 障害者解放委員会ってそういう名前と一緒で、解放研とかと一緒で、ちょっとその、楠さんが大学で最初に作った、入ったのって、障害者解放委員会なんですね。関西障害者解放委員会ってのは、その頃70年代72年とか3年にできるんです。ネーミングとしてはそれっぽいです。それで楠さんは、そこにやっぱり中核が絡んでるんですね。結局、楠さんたちはそれが嫌で、中核と決別して、だから一時期は障害者解放委員会は二つあったかもしれないですね。関西と。なんか楠さんそういうので、党派から離れつつも解放委員会っていう動きで、動くでしょう。一昨日聞いたとこだと、平井さんにね。なんか楠さんが行脚というか、呼ばれて喋りに来たと、富山に。そういうことで、やっぱりあったのかな。金沢にその例えば、後にというかその頃、全障連とかでやってた人たちが喋りに来たのか、そんな記憶あります?

田中 いや、僕はあん時は介護を、介護でしか関わってなかったから。本格的に介護で関わり始めたのが、やっぱり働いてからなんですよ。働いて、看護学校通いながら(2年して大学入った年が?)75年。(大学は無事に4年で?)4年で終わりました。そういうことは79年。79年というのは、養護学校義務化の年やな。

立岩 私は、その時、大学入ったら養護学校義務化で、なんじゃこれって僕はそれだったんです。田中さんの場合は大学出る時にそう。出て、普通だったら電子工学でしょう。電子工学から看護って変じゃないですか?

田中 その前から障害者の人とチョコチョコと関わっとたし、メーター相手の仕事よりかは人相手の仕事の方がいいじゃないみたいな。その付き合っとった、その時はもう一緒に住んどったんやけど、今はもう亡くなっちゃった彼女ですけど。若い、一番力があった時の写真です。30えーと、これは娘の方がお腹にいる時だから、33年前、32年前か。(お子さんが?)2人で、上の子が今、36かな。下の子が5つ離れてるから、31だね、まだ。(男女みたいな?)そうそう。(お名前聞いていいですか?)ぬきなさわこと言いますけど。(ぬきって貫くの?)そうです。(名前は?)さわこ(ぬきなのぬきが貫くで)名前の名(貫く名前)日蓮さんのご本家の苗字らしいです。さわこは普通のにんべんの佐和子。でも、戸籍上は田中佐和子なんだけども外に出るときは、やっぱり向こうは田中くんで私は貫田さんでずっと通してきましたけど。

立岩 一応、戸籍的には名前は(社会的に不利だからってことで)でもってことですね。ちなみに亡くなられたというのは?

田中 心筋梗塞の発作で。その2年ほど前から狭心症で薬飲んどったんですよ。寝るときもニトロを枕元に置いて寝とったんだけど、ちょっと間に合わなかったみたいですね。この人、ごめんなさいね。まだ封を切ってない??この人にいろんなことを教えてもらって、明治学園大学の部落解放研究会の一期下に宇賀神寿一さんって人がいるんですよ。いいんですか、こんな写真撮って。(その宇賀神さんっていうのが?)東アジア反日武装戦線っていうあの、三菱重工爆破事件に関わった人で。(それで私も名前だけ聞いたことがあるんだ)私が富山に7年くらい行っとったんですけど、宇賀神さんが出所されて、彼女のところに一日遊びに来たみたいなこともあったらしいので。(宇賀神さんが彼女のとこ?)そうそう。彼女が死んでからしばらく宇賀神さんとメールのやりとりみたいなのがあったんやけど、去年の7月やったかな、お母さんが亡くなられたということで、また引越しもしたっていうことで、それから先はプツンと切れちゃったんやけど。(それは奥さまが、だから亡くなる時はバタッというか。心臓ならそんなことありますよね。何年ですか、お亡くなりになられたのは?)14年の11月9日だ。(3年ちょっと。じゃまだそんなに)そんな関係も彼女に今でも引っ張られてるというか、死刑廃止のこととかも大道寺さんとかも執行されちゃったんで、その死刑廃止のことかもチラチラと横目で見ながら、プラスこんな山谷へのカンパとか、そんなのをしてきてます。

立岩 死刑、そうやね救援連絡センターとか、あの辺だとまだ捕まった人たちが支援とかありましたもんね。それが死刑だったり、亡くなったりと。そういう時期ありましたもんね 

田中 ちょうど私が障害者に関わり始めて1年くらい経ったときかな、いやもっと後や。あの時いろんな人たちが介護に入っとって、その時はじょかいけん?のメンバーやったと思うけど、死刑廃止の集会があるんで「参加してみ」みたいなことがあったんやけど、その時はわしは、障害者のことで精一杯やったんで、お断りしたんだけれども、でも党派の支援連かな、なんかのニュースの読んでると、あの時参加しとけばよかったなと思っとるんですけどね。だから私、本当にこの人からいっぱい、いっぱい、うん。(その時お腹にいた子がみんな大きくなって30?)36かな。

立岩 ちなみに、どこにいらっしゃるんですか?

田中 商船高専を出て、川崎重工。その川崎重工で作った船のエンジン部分の技術者として年の3分の2は海外で、鉄砲玉で帰ってこないですよ。(本拠地というか、日本ではどこになるんですか?)神戸。(娘さんがもう一人?)娘は金沢に住んでいて、今年結婚します。(おめでとうございます)ありがとうございます。でも今試しに彼氏と一緒に住んでもろても、一緒に住んでみないと人間なんてわからんから(試し同居?)そうそう。去年の10月くらいから一緒に。やっとこないだプロポーズ受けたよみたいな報告がありましたけど。(じゃ今年中に式というか)もうそれは決まってます。5月の26日やったかな。

立岩 式の日取りが決まってるんわけですね。じゃ式服着ていかなきゃ。私の子供は2年前かな、結婚して本当に久しぶりに式服というか。

田中 礼服。私も気が早くて新調してしまいました。ちなみに2月の11日紀元節の日が結納になっております。親バカですけどね。結納、ずっと家制度に反対してきたのに。その中でも唯一勝ち取ったのは、結納とは言っても二人へのカンパということで、向こうのご両親とも了解を取りました。

立岩 相手があることでもありますので、なかなかそんなにとんがってもいられないし。そりゃ私も多少は、わかります。
 それでそのかつての彼女が関わってた人たちも含めて、金沢市内にお名前、4人くらいのお名前があってた。その人たちは僕も一人一人の名前として存じ上げていますが、詳しくはしりません。けどそういう人たちが、当初、しばらくは青い芝の石川を名乗ってたと。(そうです)考えていいってことですよね。

田中 それで、青い芝が全障連から抜けたのが、京都大会だったので、あれ何回でしたっけ?(もう78年。76年結成、78年に横塚晃一が亡くなりますよね。そのちょうど間くらい。すぐですよね、結構)たぶんそれの影響かな。その時の全障連大会、誘われたんだけど、ちょうどその時私、三里塚の方に行っとって。
※第3回大会 1978.8.12 〜13 京都大学

立岩 平井さんは一昨日聞いたら、結成大会は行かんかった、とおっしゃったんですけど。田中さんが行かなかったのは、いつですか?
 
田中 僕は全障連大会は、ほとんどというか、何回かしか、参加しとらんがです。なぜかというと、犬塚和子さんとの関係が私、ものすごく深くて。ある時やっぱり介護の問題もあったんだろうけれども、高さんたちと別れるんです。犬塚和子さん。(和子さんと高さんが?)そうです。私はそのグループとして関わってるんじゃなくて、あくまで個人として関わってるので、両方に関わるという形で、両方の介護を始めたんです。

立岩 ちなみに二人が犬塚和子さんと高さん、別れた理由というか?

田中 理屈じゃないと思う。(実際にはそうですけどね)私も高さんとは実は合わなかったんです。なんかこの人も言うとったんやけど、金と女に汚いって。後々だけど、高さんの支援の人が自己破産するっていうそういうことが後にはあったらしいがです。僕はあるときから高さんとは一線画してます。画してました。 
その犬塚和子さんと平井さんがものすごく仲よかったです。職業訓練校の先輩、後輩にあたるのかな。(どっちが上ですか?)和子さんの方が上です。私はずっと和子さんの方の介護。この人も和子さんの介護に入ってたかな。その和子さんの介護で全障連大会も行ったし、日本臨床心理学会というのもありまして、あの時はまだ当事者も学会員として参加できるみたいなときだったので。その日臨心の学会の後であん時金井康二くんがちょうど高校浪人しとった時で、金井くんのところに会いに行ったりとか、介護で行ったことありますよね。全障連大会で一番思い出に残ってるというのは、この時犬塚和子さんはすでに肝がんを発症しとりまして、肝臓ガンです。入院中だったんだけど、胆汁を出すペットボトルみたいなのをこう、抱えながら私の介護で何回か全障連大会に参加したがです。それで広島大会、上田、それから滋賀、後なかったかな。その辺り。私の介護で参加して、亡くなられたのが20何年前、94年の4月28日でした。(犬塚和子さんが亡くなられたのがってことですか?)はい。私、富山の介護もしとったんで、勝二さんとは幹事会で結構会うんですよ。あの当時。(何の幹事会?)全国幹事会というか、全障連の。状況を勝二さんに伝えたりとか、そういったような行動がありましたけど。最近はちょっと勝二さんとは音信ないですけど。もう全障連の幹事会もクソもヘッタクレもなくなったんで。

立岩 今見てるとこだと、76年で全障連結成。77年で第2回の大会の時は、大会は明治学院、明治大学でやった時なんです。それが77年の8月なんですよ。その時は横塚はあの人もガンだったんですけど。病気入院中で出てないんです。代表幹事はまだ横塚なんだけど、出てないと。白石清春、荒木義昭。事務局長が楠さん。その次の79年の時にはもう横塚さんは亡くなられていて、その辺りですね。(それが京都大会やったかな)3回は京都か。確かにそれは、そうですか。私もちょっと書いときます。
 その辺りで、本当だったら青い芝が綱領を自分とこの綱領を、それの綱領にしろっていうことになって、それはちょっと待ってくれみたいになって、そういった他にもいろいろあったんでしょうけど、表立ってはそういうことで、青い芝、抜ける。青い芝が抜けた時に抜けた青い芝は、例えば兵庫とか、神奈川とかは抜けるぞといって抜けた。たぶん大阪の連中は「とは言っても」的な、それこそさっきの手足論とかと一緒にいう中でいえば、大阪はゴリラとかごちゃごちゃあったけど、まぁ言ったら(ゴリラ懐かしい)兵庫はゴリラを完全に切るんですよね。だけれども大阪は、一説によると重い障害者が多かった。切るに切れへん。健常者おらんようになったら死んでまうわというなかで、一緒にやってこう路線みたいな。そういった連中がどこまでぴったり合うのかわかりませんけど、全障連に残るとか、青い芝でも大阪の部分というのが割と全障連に残ったサイドらしいですよ。そう私は聞いていて、たぶんその流れて、その石川なら石川の青い芝でやってた連中がその青い芝、放って、全障連からスパッと抜けた連中とは、ちょっと違う流れでいこうかなと思ったのかもしれない。

田中 かもしれないですね。僕のそういう上の方の流れというか、全体の流れよりも目の前のその人がいる形でやった。

立岩 なんかそんな解放委員会。もしその青い芝が解放委員会って言って看板替えた時期がもしあったとするならば、さっきの話に戻りますけど、やっぱり全障連の中心にいた、楠さんたちがやってたのが、やっぱり解放委員会。そっちの流れでいこうかなと思った時期があったのかもしれないですね。わかりませんね。平井さんとこに、うちの小倉のあそこの物置に、物置一個全障連の資料があるから、今度見に来るならと。はい、行きますと。

田中 富山に全国事務所があった時代やって、その時私も会計として手伝わせてもらったんですけど、あれが4年くらいやったかな。その時に資料を全部、富山に移したんですよ。

立岩 金沢の5人くらいの人たちは、必ずしもみんなが、みんなが仲よかったわけじゃないけれども、ボツボツいて、そこに大学生やら社会人やらの介護者が点々というか、いたという状況があって、その人たちは青い芝を当初、名乗っていたはずだが、想像が正しいかどうかはわからないけど、綱領変えたりしていくと。その後とかってどうですか?結構一人一人がお店やるというか、単独行動的な、高さんは高さん、犬塚さんは犬塚さんで東京行っちゃうんだけど。そういう一人一人のって感じになっていくんですかね。

田中 これは何が原因なのかわからないけれども、やっぱり介護が減ってきたというのが、あの当時、今じゃ介護は金になるけど、介護は金になるなんていうの、あの当時は考えられなかったから、だんだん介護者が減ってきたのもあるのかな。とりあえず、犬塚さんは離れた。和子さんの方。(和子さんが離れた?それは青い芝というか、なんというかわからないけど、障害者たちの集まりから抜けたということですか?)そういうことです。(それは石川県というか、金沢というかそこの集まりから、ピンになったというか一人抜けたっていう?その時に勝二さんとかは?)

田中 勝二さんは、僕がもう介護を始めた、あっ介護しとったわ。一番最初に障害者の介護したの勝二さんやわ。わしが大学卒業する頃かな、青解〔あおかい=解放派〕の方の関係で、東京に行っちゃったという。(もう大学卒業される頃には勝二さんもう、青い芝、解放に連れられてかどうかはわからないけど、東京に行っちゃったと)。勝二さんと初めて会ったのは金沢であの時、金大中の拉致事件※があって、それに抗議する集会があったんですよ。金沢で。その時に初めて、私は勝二さんと会いましたがね。
※1973:https://ja.wikipedia.org/wiki/金大中事件

立岩 私の大学の先輩も、やってるのいましたね。確かに。勝二さんと和子さんというのは、そのどういう、勝二さんは、大学4年生の卒業の頃には東京へ行って、和子さんは? 

田中 別れたけど、苗字はそのまま犬塚を名乗って。介護はほとんど私とこの人と、後もう二人くらいかな。和子さんの方は脊椎カリエスの障害者やったもんで、ある程度は動けたというか。この4人くらいの介護で回してたんですよ。

立岩 別れて勝二さんいなくなる、和子さんはいて、それで4人くらいな感じ。なおかつ他の人からは一見、独立してピンで、一人で暮らしてという感じ?

田中 そうですね。(全般としては介護者が減って、しんどい状況になっていくというのが、70年代の終わりくらい)そうですね。もう80年近いくらい。

立岩 養護学校義務化超えたあたり、80年頭とか。そのくらいの状況やったと。その後、どうなっていくんですか?金沢は?

田中 その後は、ちょうどあれから自立生活運動ってのが80年代初頭に入ってきますよね。確かエド・ロバーツさんという人が日本に来られて、金沢でも講演されたり。それから札幌いちご会の小山内美智子も来て講演会やって、その介護を確か、した覚えがある。

立岩 ちょうど81年が国際障害者年で、ちょうどあの辺りにあのアメリカの人、呼んだんやとか、そうですね。そういう人がいて、呼んだりとか来たりとかね。でもそれはどういう人たちが呼んだんですか?

田中 それは高さんたちのグループです。(そうなんだ)高さんの介護で、確かやったと思う。

立岩 結構その中核になる障害者の数が少ないけれども、少ないながらもというか、それなりに周囲の人を集めてというか。

田中 和子さん抜けてから高さんと中尾さん。後もう一人途中から山内さんという人が施設から出てくるんだけど、この人の介護も私、しとって、一緒にアパート探しに行ったりとか、私、保証人になったりとか、してたんです。でもある時電動ベッドのなんか事故で亡くなっちゃったんですよ。最後に残ったのは、高さん、中尾さん。中尾さんも突然死で死んじゃうんで(早い時期にですか?)最後まで残ったのは、そのメンバーでは高さんで、違う方向では犬塚和子さんが94年に亡くなりますんで。

立岩 高さんってあれ、いつ? 亡くなったのって、それは調べればわかると思うんです。高さんに関しては。そうか。裁判やって、それで井上さんが関わるんですよね。一人抜け、二人抜けじゃないけど、そんなに手勢がっていうか、障害者いっぱいいるわけではない中で、それでも

田中 あんまり仲間を増やすのがみなさん得意じゃなかったって。金沢の場合は。 
 戦闘的なのは、富山に比べて金沢の方が戦闘的だったとは思うけど、あのバス闘争とか、先にやったのは金沢だったし。でもその辺は富山と金沢じゃ、平井さんなんかは、仲間を増やすという方向でずっとやってきてるし。 

立岩 そうみたいですね。次何したんですかみたいな聞いてく中で、作業所やったよみたいな。別に作業するってわけじゃなくてさ、でも仲間増やしてっていうことはあったんでということは一昨日おっしゃっていて。それでボツボツという。金沢はそうだったんでしょうね。その間ずっと、田中さんは看護師で稼ぎながら介護もするみたいな。

田中 そんな感じです。そりゃいっときね、あの時なんやったかな。他人介護料の大臣査定いうのがあれ何年やったかな、始まったんですよ。それが始まってから専従介護っていうのが可能になってくるんですよ。それに実は私も誘われとったがですけど(他人介護料で働く?)そうそう。でもなんていうのかな、私、中尾さんとものすごくディスカッションした時があって、本当に対等な立場で喧嘩しあえる関係になりたいよねみたいな。そういう話をしとって、そうするとなんか雇用、被雇用の関係になるわけじゃないですか。立場逆転でも、どうもなんかしっくりこなくって対等じゃないよねみたいな。中尾さんがよく言うとったんは、お前との縁は簡単に切れるけどな、親子の縁は切っても切っても切れないんだよって。だから簡単に切れるんだよって。いうようなことを言ってましたね。

立岩 中尾さんは、脳性麻痺?

田中 重度の脳性麻痺です。ようね、思い出に残っとるのは、私、仕事から帰ってきて、さぁこれからいっぱい飲もうかって時に、バァッと電話がかかってくるんですよ。ウンコ出たとか言いながら。結局失便しちゃったから介護頼むってことなんやけど、そんなんがね、よく行きましたわ。

立岩 大臣基準みたいなやつは、それでだれか別の人来るとか?

田中 確かね、たかざわさんって人が歯科技工士を辞めて専従介護に入ったんですわ。(それは中尾さんの?)高さん。(高さんが裁判やるのはその後?)たぶんそうだと思いますよ。24時間介護ですよね。でも本気だったのかなって、私は思うんだけど。(裁判がってこと?)裁判も。どうもわし、高さん信用できない。

立岩 ちょっと本当に噂話だからよくわからないだけど、ほんとに偶然、前の職場にいた学生から、よくない話は聞いたことがあります。だいぶ前のことです。だからどうこういうつもりはないんですけど。

田中 でも平井さんとも話すけど、一時期その全障連の糾弾闘争が華やかだった頃に障害者は善で健全者は悪みたいな時代があったけど、でも障害者の中にも泥棒やってる障害者もいるし。(悪いやついますよね。普通に悪いやついますよね)だからそんなもん、なんだよねみたいな。犬塚和子さんから平井さんまでずっとこっちの系統に関わってきたんです。看護師やってると割と簡単に仕事変われるんで、そんで富山の方に行って、僕が行った年にあそこの自立センタースタートしたのかな。(2000年とかですか?)うん。富山の。軌道に乗ってきたしみたいなところで、金沢に住んどったお袋が倒れたので、また金沢に帰ってきましたけどね。

立岩 割と長いこと金沢にいて、2000年の時に富山に行った。何年くらい?

田中 単身赴任だったんですよ。この人はうちの両親の面倒見てくれて。金沢にうちも新築してという。(金沢にうち建てて、そこにお父さんとお母さんがそこに住んでいたと?)はい。

立岩 うちもあって、そこにお父さん、お母さん住まれていたけど、平井がやるということなので、じゃ手伝ったろうかって。手伝ってくれと言われたんですか?(いや、そうではなくて、私の方が勝手に押しかけて)やってやろうってことで、ちょうどセンターの開設に合わせる形で行ったと。(7年いましたね)結構長い。それはセンターのことを手伝ってたんですか?富山で看護師の職を得た? 

田中 仕事しながら、その関わる障害者の人の介護にスポットで入ってみたりとか、病児の時の手伝いしてみたりとか、後は全障連の手伝いしたりとかそんな感じです。(7年経った時に)お袋が倒れたので、これはまずいなと。この人にも負担かかるし、私、金沢帰ってきたんです。

立岩 その頃には富山のセンターはまぁまぁ軌道に乗って?(まぁまぁ軌道に乗ってました)大丈夫かなという状況?(うん)富山、金沢の様子というのは、大変長いことお伺いしているので、だいぶわかってきたような気がすんですけど、また戻るかもしれませんが、全障連の話なんですよね。その僕、本当に忘れてたなと思って。言われれば確かに富山に??があったなとかね、平井さん結構活躍してたとかね、言われればわかる、言われないとわからないと両方あるんですが。とにかく全障連の運動の中で、富山であったり、金沢であったりというところでお伺いしたという、今回来て、改めてというか、ちょっと思ったなと。全障連の見ててというか、あるいは関わったとか、どういった関わり方をして、どういうふうなものとして見てったのか、関わったのかあたりをお伺いできればと。

田中 僕はもう、ほとんど介護として関わってきたので。ただ介護じゃなくて共にというその、それで関わってきたかな。絶対に離れない、付かず離れずみたいな。そういう姿勢は持ち続けたいなと思って、今もその姿勢で金沢来てからも関わり続けています。自立生活支援センターの富山の理事も今はさせてもらっとって、月に一、二回は顔を出してるので、(車で行かれるんですか?)そうです。そんなに100キロも離れてない。70キロくらい。

立岩 昨日は僕は普通列車で移動しました。1時間乗ってると着くという。いい感じというか。前の日はそういえば新幹線で通ったんだと思って、金沢で来て、富山まで新幹線で、そうやったら30分で着いたは、着いたんですが、30分って慌ただしいなと。昨日はいいわと思って普通列車に乗って。かえってあれなんですってね。新幹線の到着で、前あった急行、特急がって。

田中 特に新潟方面へのアクセスが良くなくて。東京は行きやすいんですけど。(新潟県になってから長いですよね。海岸ひたすら行かないとね)新潟は南北に長いでしょう。(長いです)新潟にも全障連のメンバーがおったはずなんやけど、なんかあんまりお付き合いなかったですね。確か林さんという、精神障害の方やったと思うけど。この人と犬塚和子さんとちょっと付き合いがあって、臨床心理学会の介護なんかも林さんと犬塚和子さんと一緒に行って、その介護に私が行った。

立岩 全障連の関りで言うと、例えば犬塚和子さんが介護者として一緒だったというようなものですか?(そういう感じ)行く会もあれば行かん回もあり。行くと言えば要するに自分がどこというのは和子さんが行くからついて行くという?

田中 そんな感じですかね。

立岩 場にしろ大会の雰囲気も分からんでもないですけど、一介護者として行った時の毎年ではないにしろ、時々、その間10年ですね、何かちょっと変化というかそういうものを感じられたことというのはありますか。

田中 うーん…。(笑) 僕にとって全障連大会に行くというのは、当然介護がありますけど、顔なんですよ。楠さん来る、戸田さん来る、石橋さん来る。

立岩 そういう人たちの顔を見るというか。

田中 顔というか、(いるぞと)。なんか理屈じゃないところで関わって来たような気がします。そういうふうに聞かれると。人とのつながりというんですかね。

立岩 行ったらいる、というそういう感じですかね。

田中 そうですね。で、たまにやっぱり私は富山の介護として行くから、「ちょっと富山の介護」と言われて楠さんにトイレ連れてってとか言われる(笑)。その介護をして富山のメンバーに「わし、楠さんの介護しちゃった」とか、そんなミーハー的な(笑)。でも今までこうやって関わってきて半分はこんな感じで関わってきましたよ。言おうと思っとったのは、富山の糾弾会。80年代半ばだったと思うけど。富山市が方々の自治体にその案内を配ったんですよ、その障害者が団体で来て騒ぐと、気をつけろみたいな。確かに全障連と言うたら青解が入っとったんで、そういう雰囲気なきにしもあらずなんだけれども、全障連として富山で糾弾会を持ったんですよ。

立岩 全障連の組織として、平井さんがおっしゃっていた、そういうことがあったという。それですね。その時の全障連というのは富山市相手に。

田中 で、その時に一番中心になったのが平井さんなんですよ。それがもとにあって、今でも平井誠一というと富山ではちょっと有名なんです。

立岩 それをまだ覚えてる人っているんですか。

田中 うん、今やってることも地道にやってるし、おそらく県議くらいだったらすっと通るんじゃない?みたいな。でも平井さん自身は固辞してますけど。

立岩 そっちに行くでもないではなかったと、本人的には違うというふうな。

田中 あそこの浅木さんと言う事務局長さんと会いました?女性で、小さい人。あの人は事務局長で。

立岩 ちゃんと話を聞くのもあれだと思って、コーヒーを出していただいて、最後に名刺だけ渡して。どういう人やろなと気にはなってたんですよ、ちらちらと。パソコン仕事ずっとなさってて。殆どお茶をいただいたぐらいで何のあれもなかったんですけど、最後に本田実子さんがいると、電話番号何番だったっけ、ということを平井さんがおっしゃって、それが出てきたときに、あれ結構この人知ってるんやなみたいなというので、駆け出しの事務局員というわけじゃないんだなというのが、終わりごろに分かりました。

田中 浅木さんは平井さんの一大傑作です。浅木裕美さん。福祉短大を出て、ちょうど2000年スタートの時に平井さんが私費をはたいて自立センターをつくったんですよ。その時はまだNPOではなかったので。その時に平井さんのところに浅木さんは就職してきたというのかな。で、浅木さんを平井さんはめっちゃくちゃ集会とかいろんなところに連れて行って。浅木さんはあれだけ若いけど、意識は全障連そのものなんです。

立岩 なんかそんな感じでした。ちょっと見そんな感じじゃないじゃないですか。だからつい数年前からパソコンの仕事してます的な人なのかなと最初は思ったんだけど、どうやら終り頃になって、平井さんとのちょっとしたやり取りですよ、どうもそういう手の人ではない、なんだこれみたいな。

田中 平井さんは自立センター富山の後継者をしっかりつくってます。

立岩 後継者がねぇと言ってたけどね。でもそれだって僕らも30年前も同じことを年寄りに言われてたじゃないですか。結局30年経ってなんとかなるんですよと言って、帰って来たんですよ。彼はぼやきながらも育ててきてるわけですね。そうか、そういう出自の人なんですか、彼女は障害でいったら何の?

田中 脳性マヒ。今4級なんですけど。

立岩 3時間経って、平井さんにたくさん喋ってもらって、帰るころにその彼女がちょっとそういう話になってて、黛という新潟の変な医者がいるんですけど、最後にその話になったりして。その人は新潟でいろいろやってて、佐渡になぜかいる。

田中 見たことある、絶対見たことある。

立岩 天皇制反対とかTシャツ着てるそういう人。

田中 わし、黛さんとはどこで会ったやろ?全障連大会でも会ってるような気がする。

立岩 会ってると思いますよ、その手の人だから。その話が出て、なんでこの人がそんなに知ってるの?と。

田中 浅木さんという人個人に的を当ててみると、これまた面白い人ですよ。もう私もあそこは18年だから、18年来のお付き合いになります。

立岩 若いんでしょうけど。

田中 短大を卒業してからすぐだから、20歳だから、今38だ。37か8。

立岩 そういう方なんですか、最初は全然分からなかった。皆さんにご挨拶してから聞き取り始めるんですけど、なんか座った瞬間に始まってたんですけど、後はもう時々、平井さんも喋れるし、途中でお茶を二杯、切れ目がなくてトイレにも行けなくてね。
 そういう形で介護者として全障連に介護者として行くというのと、事務局があったという時期、それも家に帰って調べればその機関誌の裏を見ると分かるので、正確に何年から何年というのは調べればわかると思いますけど。それに何か、田中さんの方で関わったりとか、事務局仕事。会計とおっしゃっていましたね。

田中 全障連は別に事業所じゃないもんで、運動体なので普通の家計簿みたいなものでいいからということで。会計として幹事会とか、そういったようなところにずっと関わらせてもらって。やっぱり僕にとってすれば、今回の幹事会はあの人来るやろか、とか森さんとか大阪は石橋さん、楠さんもそうですけど、あとは広島の西山さん、九州がちょっとセクトがらみで途中から離れていくんだけど。まぁそんな感じで。

立岩 九州ってまだどこかやってますか。全障連九州ブロックがあって、明らかにセクトですよね。解放派もいろいろ割れていって悲惨なことになってなってくなかの一派ですね。九州はまだそういうのが残ってるんだ。

田中 だからね、みんなね、全障連全体としては活動実態ないんだけど、名前がほしいんですよ。全障連の。それは平井さんがずっと言ってる。だからどうしようか、みたいな。店じまいするのも何やし、とりあえず名前だけでも、東京の八柳さんと二人で何年か分お金を出し合って、まだ続いているという感じかな。全障連自体は一応存続はしている。私もずっと全障連にこだわってきたので、今の段階で平井さんにこだわってる部分もかなりというか、ほぼあるんだけれども、やっぱり平井さんと全障連にこだわってゆきたいかなみたいな。

立岩 例えば「青い芝」一応数はどれだけ本当にいるのかよく分からないけれど、集会であるとか出てきたりする人はいるし、時々、声明とか。青い芝フェイスブックあるんだよ。たぶん、人数はめっちゃ少ないけど、でもそういってやってる人もいる感じだとするとね、ある種。全障連はどういう形で今きてるというか、いるのかというのが。姜愛蘭だっけ?

田中 姜さん?はいはい。

立岩 何年前に呼ばれたのかな、全障連企画ではないが、姜さんに「全障連、何してんですか?」と聞いて「えへ〜」とか言われて。それっきりだったり。八柳さんも私は存じ上げていますし、それはそれでなんで八柳さんいるのか分かるんですが、どうするんでしょうねという話を田中さんに伺っても戦果がないのかなと。

田中 僕とすればついていくだけ。

立岩 やるだけやったみたいなという感じはある?やるならやって、出来ない感じもある?

田中 最後まで全障連とつきやってやろうと思っています。

立岩 もともと法人であったりそういう訳じゃないから、こういう規定を満たさないと無くなるというものじゃない。ある意味無くなったと言わない限りいつまでもある、ということは言えるでしょう。



田中 そうなんです。でも、それに代わるものが今どんどんできてきているから。ちょっと話変わるけど、今回古込さんのこと、平井さんから話があったんですけど、私の姿勢として銭がらみを嫌うというところがあって、気が付くと銭がらみじゃないと地域に住む障害者に関わり切れない構造に今だんだんなってきてるなと思うところがあって。

立岩 僕も70,80年代頭ぐらいってちょっと田中さんみたいにずっと生涯やってきてるわけじゃなく、ちょこっと、アパート探しだとか、大学の帰りにとかやってましたけど。その感じが分からなんこともない、分かるっちゃ分かる。本当に金沢の中で5人。それもむっちゃキャラが濃いというか、そういう人たちがやってく分には、それこそ時代背景とかいろいろあって、学生たちも一定の政治意識があった中では、少ない人がやりあってくにはやっていけるかもしれないけど。古込さんなんかキャラが強いと思う。昨日みんなが会いに行った斎藤さんというんですけど、すごいヤワな感じのみんなが心配になってましたけど。そういう人たちも一切合切、出たい人暮らせる人となったらそれは出来ないですよね。仕事、労働として看護師なら看護師の仕事と同じように仕事をして、ちゃんとそれで食える人という体制じゃないと。ということは僕はやっぱり、いろいろ考えましたけど80年代半ばから後ろぐらいは、もうこれだねという感じですかね。もちろんそこの中ではいろんなことが起こるし、それは力関係にしても何にしてもいろんなことが起こるから、それをどうやって減らしたり。無くすことはできないと思うんです。無償の関係であろうが、有償の関係であろうが力関係がある。時と場合によってどっちが強くとも限らないような場合も含めてね、いろんなパワーがかかる。それをどうやって弱めていくかというのがあると思う。ただ僕は今の状況というか、長い何十年もかかる、もっとかもしれない。介護は介護で仕事としてそれを人が介護で食っていけるようにしていかないと持たないと思いますね。

田中 私も制度を不要とは思わないんだけど、自分の姿勢として僕の姿勢はこうなんだという。今回の古込さんの件でちょっと曲げようかなと思ったこともあるけど。その中で感じたのはものすごく管理化社会になってきてるなという。僕が関わり始めた頃は、ものすごく自由な形で関われたので。何もないということはかえってその逆、自由なんですよね。だからだんだん制度ができてきたじゃないですか。そうすると今度はその障害者が管理されていくというか、そういう状況にもなってきてるかな。平井さんなんかも言うとったけど、地域支援事業とかいって、相談事業とかあるじゃないですか。あれも地域の障害者の管理につながってるよねみたいな。

立岩 あれもそこそこ長くやって、いろいろ変わって来た制度だけど、いろんな意味で問題があるんですよね。それは管理ということもあるし、管理の手前の手前ぐらいで何の役にも立ってないやんかという部分もあるんですよ。書類だけでは、書類を職員作って生活なんてようなるはずない、それは絶対なるはずないんですよ。じゃぁどうするんだという時に、二つあってね、両方あっていいと思ってるんですけど、一つはそれでも無理、使えるような制度にするというのがあって、僕はそれはそれで大切だと思うんです。やっぱり僕は思って来たのは有償にしないと回らないだけじゃなくて、人が暮らせるのを支えるのは社会的な義務だという主張をもし認めるとすれば、差別者もなんもやる気のない人も、義務だから、障害者の生活を支えるべきである。その時に、そういう気持ちの無い人たちに介護をされる人は危険ですから、別にそういう人たちに仕事をさせるわけじゃない。じゃぁ何をさせるかというと、金を出すと。それは税金という形になる、というのが私の整理の仕方で。相談にしても介護にしても、金を持ってる人が金を出して、実際に仕事をしている人が暮らせるようにする。そうした時に、相談支援も税金を使う制度の一部、それが機能していない、あるいは変に機能しているんですよ、それをどう変えていくかということで。そのためには、ここからが面倒臭い話しになるんだけど、敵というか、物を知らないとどういうふうな問題があるのか、あるいは、どういうふうに使えるのだとか、そういう話になるじゃないですか。それは面倒臭いことに知恵がいくというか、いるわけですよね。
 それが一方になって、もう一方はそういったことを認めながら、一方に手弁当があると思うんです。私は物を書いたりして、物を書くこと自体からあまり生まれないんですけれども、とはいってもそういう仕事でということがありますけど、介護なら介護のベースの部分はきっちりやった上で自由というか、活動するというような余地をできるだけ持って。今回にしてもいろいろな形でいろいろな人が関わってくれる時に、結局多くの人は完全に手弁当ということ?

田中 そうですね。

立岩 そういうのって必ずいつでも必要で、なくなることはない。その分、毎日毎日、人によったら24時間というのはきっちりお金を使って、その分自由にというか別の仕事をできるようにするという以外にそういう仕掛けは考えつかない。基本的にそうは思っています。相談支援をやってる、平井さんにそれだけでようここの事業所を回せていますねと。

田中 委託事業なんで。

立岩 面倒なやつばっかりくるんだよと言ってましたけど。そうなんでしょうね。国の??の制度自体だと面倒くさかろうが何だろうが、一件いくらで、だけですから、経営的には成り立つはずなくて、結局それは良し悪しは別として、自治体からプラスアルファが来ない時に介護派遣の上がりだけでやっているという。
 こちらの院生で白杉〔眞〕という脳性マヒで電動に乗ってる人が、京都でセンターをやってるんですけど、彼も博論のテーマですよね。介護が必要だと思うし何よりというか必要なプラス相談支援から見たら仮に否定しようのない事実なんです。だからという分も含め両方やっていると。ほんまは相談とか支援とかいってる個別のところをもっとやりたいと思ってやっている。そこを制度としてどういうふうに変えていくか、事業所としてどう工夫していこうかというのが彼のテーマで。つい一週間前、相談しましたけどね。だからしんどいということも事実その通りなんですけど、しんどいというか窮屈というか。それをどういうふうにこじあけていくかというか変えていくかというのが勝負所だなと。

田中 さすが全体を見てますよね。そうですよ。

立岩 田中さんさっき隠居とか最初おっしゃってましたけど、本当にお仕事を辞められたんですか。看護師の仕事はまだ?

田中 そういうことです。実家の方は親父が一人で住んどるんです。6LDKのでっかい家。(そこに一人で?)なんか年を取ってくるごとにどんどんアスペみたいな感じになってきて、ちょっと家族と私もしんどうなってきたんで。

立岩 年取るにつれてかたくな系。

田中 それで私逃げ出して、ここ買うて。親父が今、90なんですけど、もう見かねて北海道の妹が誘ってくれてるんです、家来んかと言うて。私の妹が。やっぱりこの人も死んだし、年寄りかかえて女手がないというのはちょっと実質、私も仕事をしてるので、あまりもう最近仲も良くないので。今年9月くらい目途に北海道に呼ぶわと言ってるので。

立岩 お父さんを北海道に?(はい)そしたら6LDKはどうなるんですか。

田中 娘夫婦に住んでもらえればちょうどかなと思うんだけど。(金沢にいるとおっしゃってましたね)だから私はずっといろいろむさくるしいですが、ここで一生終わろうかと。

立岩 看護師の仕事は今はも?

田中 看護師って今、足りないので。一応定年はあるんですけど、残ってくれって大体言われるんですよ。だから体が動く間は働き続けようかなとは思っています。平井さんのところに関わるスタンスもそう、私の経済的なものを自分で確保しつつ、金じゃない部分で平井さんたちと関わってゆきたいなというふうに思っています。

立岩 若い頃に看護師。工学の大学に入った時は、エンジニアは好きだったんですか。

田中 そうですね、最初は放送局の技術者になろうかと思っとったがですけど。ずっとアマチュア無線とかやってきました。これ、アマチュア無線の機械なんです。そちらの方で電子工学だったんだけど、この人と付き合う中で、この人は保母で自閉症児保育をしてたんかな。で、そんなのもちらちらと見つつ、地域に住む障害者のことにも首を突っ込みという中で、就職は重症心身障害児施設というのかな、重度の身体障害ですね。(いっちゃん最初が?)そうそう。石川県内の重症心身障害児施設に無資格で入っちゃったもんで。

立岩 看護師の資格を取る前に?

田中 そうです。大学卒業して。

立岩 それはそういう所で働こうかと思って。ちなみに何という名前の施設ですか。

田中 その当時は愛育児童病院と言いましたけど。

立岩 無資格で雇ってくれたわけですね。

田中 無資格だから定時制の看護学校があるんで、看護学校に通いながら、働きながら介護しながら。

立岩 その重心の施設にはどのくらいいたんですか。

田中 21年いました。

立岩 え!?それは同じところにですか?

田中 同じとこに。

立岩 結構身軽にというか、いろんなところに転々とみたいなイメージが最初の段階で植え付けられていたので。長いですよね。

田中 そこが一番長いですよね。

立岩 最初の一つ目はすごい長かったんだ。

田中 それでここで私は看護師になってから、てんかんの方に目が向きまして。脳波技師みたいの、小さな施設だったので、てんかんというと脳波が測れないと治療ができないんですよ。脳波計買ってくれと言うて、買ってあったった、なぜか。

立岩 買ってもらえたと。施設で導入、高いものですか?

田中 350万でしたかね、あの当時。小さなものですけど。お前、担当とか言われて。金沢大学の脳波室に研修に通っとたがですよ。そこの脳波室長が今の福井大の精神科の和田先生という教授。ただ測ってるだけだと面白くないから、一本論文を書いてみたらと。で、それを精神科の地方会の雑誌だったですけど、載っけられて、それがきっかけで金沢大学のいわゆる論文博士コースの学生をそれ5年くらいやったんですよ。だから和文で3本、英文で2本、一応論文は持ってることは持ってるんですよ。

立岩 てんかんと脳波を測定する、それに関したこと研究論文を書いて。博士課程に在籍してたということですか。

田中 はい。金沢大学の学生してました。だから私学生の期間がものすごく長いんですよ。

立岩 そこでなにか学位みたいなものを取ったりしたんですか。

田中 いや、学位は取れなかった。学位取るのに8年かかるんですよ。5年の時点で先が見えて来たなという感じで、平井さんのところも新しく、それがちょうど2000年だったんですよ。

立岩 最初のところが21年でしょ、愛育を辞めたのは何年ですか?

田中 そこを辞めたのも2000年ですね。

立岩 2000年に辞めた、その時、富山に単身でこっちに来て、富山の病院に変わり看護師として勤めていて、お父さんの具合??その後は。

田中 一応、平井さんのところの理事として関わってきて、石川のメンバーは殆ど全部なくなっちゃってたんで、その時点で。

立岩 金沢の方は長いこと勤めた重身の施設、富山の病院、その後は金沢に戻って来てまた病院に。

田中 今働いている病院に。11年になります。

立岩 それは普通の病院ですか?

田中 精神科の病院。単科の病院です。市内にあります。結構居心地がいいというか、院長の方針が結構自由なもので、自由に外出させとるし。

立岩 何という病院ですか。

田中 結城病院という個人の。もうとにかく患者を外に出す。定床が180なんぼ、中規模。今、病院も禁煙がずっときてますけど、最後まで一本のタバコも時には薬みたいなんで、今、石川県内の精神科の病院でタバコが吸えるのはうちの病院なんです。喫煙室がある。一応分煙になってるんですけど。私も吸いますけど。人前では吸わないですけど、ただこういう考え方が結構好きなんです。流れに反対して逆行する部分を常に抱えてるというか、そういうのって自分の性分にあってるんだと思うんです。うちの院長の方針が結構気に入っとるんで、ここも結構長く続いてます。

立岩 院長さんがわりとアンチな。重心というとね、僕も長いことずっと人に話しを去年ぐらいからの再開なんですけど、去年6月かな、東京の多摩でインタビューさせていただいて、それは石田圭二さんという、私より年上、55年とか言ってたかな? 島田療育園という日本で最初にできた重心の施設に勤めていて、それで斎藤さんかな?女性の脱走を手伝った事件があって。その事件の顛末がどうなったのかというのが、どの文献見ても分からない。あれは何だったんだということを聞きたくて、人を介してお伺いしに行きました。面白かった、その時のインタビューは結構長くて。面白かったです。続けてるとですよね。そういった若い時に、一つの施設の大きいひと悶着どころじゃない事件だけど連れ合いの方もずっと島田に勤め続けるんですよ。そういう人たちが各地にいて80年代とか70年代とか、それは80年代の頭ですけど、そういうことをやって来た人。斎藤さん自身はなんやかんやあった末、身体障害者の療護施設に。彼女的には島田療育園でなければいい、それよりは悪くない。外出やらなんやらが自由なところに行って、彼女はそれで満足。それを支援したりして、訴えたり訴えられたりとかいうのが、多摩の土地でなんだかんだ20年30年活動支援を続けている50代60代ですね。その石田さんというのは60ですし。

田中 同じくらいですね。

立岩 そういう時期になんやかんやといって。その後、聞いたのが80年代に埼玉で福嶋さんという筋ジスの人の自立を手伝った人。その時にまだ埼玉大学の学生だった。筋ジスで、その当時は早く亡くなられました。その福嶋さんという方も出られて数年で亡くなられた。ですけれども彼がやってますよね、虹の会という自立生活支援の。代表ではないんですけれども。代表は???その方はそんなに僕と変わらないかな。50代とか。やっぱり堀さん?とかが若い時にいろんな接触があって、それを持続させた。そういう人たちに去年からお会いできて。

田中 島田療育園ですかね。なんか本で読んだよね。

立岩 『同行者たち』※、本に出てます。
※荘田 智彦 19830420 『同行者たち――「重症児施設」島田療育園の二十年』,千書房,382p.

田中 そうでした。あの時に確か本の中身やけど、学外からの支援みたいなのがあって、「君は朝露を見たことがあるか」みたいな一節が出てきますよね、あれが一番印象に残ってますね。

立岩 その家出に加担した、というか親から見たら誘拐と変わらないんですよね。おだててすかして連れ去ったつもりか、みたいなね。その時の支援者たちが連れ去っということで解雇されたんですね。それで解雇撤回の闘争を始めたぐらいのところでほぼ終わるんです。その後どうなったんだろうというところが気になって聞きに行ったんです。

田中 そうか、そうか。思い出した。『同行者たち』か。はいはい。

立岩 そのことがあって島田も、さきほど車の中で医王はやっぱり良くないという話をしてましたけど、島田って日本で老舗ですけど、あの時期かなり悪かった。副産物かもしれないけど、そういった裁判があったり解雇撤回があったりする中で、少なくとも一番悪い時にいた。それは経営サイド、施設サイドに今後ちょっとあかんといか。島田は島田で別として、やっぱり石田さんっていう旦那さんの方はそうやって解雇され辞めたままなんですけど、奥さんの方はずっと務められて。石田さんという辞めた方の人も多摩を去ったわけではなくて、多摩の地で今も関わっているということで。(すごいなぁ)聞きゃあいろいろあるんですね。そういうのが面白いと思って、いろんな形でまとめられたらなって。
 昨日も平井さんとしゃべってたんですけど、銭湯事件というのがあったという話を。川崎のバスジャック事件はみんな一応知ってるんですよ。同じ時期にあったと平井さんから聞いて。はっと思ったのは、福島の青い芝でやってて、一時全国青い芝の代表をやってて、白石氏の話の中で銭湯事件の話が出て来るんですよ。それは僕の後輩が聞き取りに行って白石さんに話してもらったらそういう話が出て来るんです。そいつは誰だ、3時間も裸で追い返された奴は誰だろうと名前が白石さんのインタビューの中で出てこない。でもそれは一応読んであった。ちょっと覚えていた。一昨日平井さんに、裸になって3時間半いたのは平井さんだと分かって。えーっとなって。

田中 そう、銭湯の介護とかしました。行きました。だから僕の世代では断られることはなかったです。無視状態でしたから。(銭湯に平井さんにじゃなく?)金沢のメンバーで。

立岩 平井さんが言ってました。金沢とか富山とかで断られたことはなかったんで、神奈川も大丈夫なんだろうとやったらその時はすったもんだで、大事になってと平井さんはおっしゃってました。そうですよね、みんなそんなに風呂があるようなアパートではなかったですよね。

田中 あの時はそうでした。

立岩 私はもう80年代になった時に、かえって介護してる相手の方が生活水準が高くて、僕は風呂なし、共同トイレの下宿に住んでるんだけど、世田谷から文京区に移った脳性マヒのやつはバストイレ付きのマンションに住んでて(笑)。だから基本的にお金をもらわない。飯作って、飯食って、風呂に入って帰ってくる。そうすると銭湯代が浮くので、「風呂借りてくよ」とか言ってというのはありましたけど。

田中 風呂もそうだけど、車いすお断りみたいなああいう経験はあの当時は国鉄か。あとは食べ物屋、それではありましたね。

立岩 平井さんも一昨日、何が変わりましたかねと聞くと、そこは変わったかなと。いわゆる交通アクセス。入場拒否的、入店拒否とかそういうのは減ったと話してました。

田中 そうですね、それとバリアフリーみたいなんも結構進んできたし。昔はスロープとかなくて、そういう所は来るなと言ってるんだから意地でも行ってやろうかみたいな。

立岩 わざと行くみたいな。

田中 そんな雰囲気ありました。

立岩 わざと行かないと変わりもしないという。人に話を聞いていくと、点と点がつながるというか、あの人は実はこういう人だったとか分かる。ああ犬塚さんって知ってます?ふーん、みたいな。 そうやってくときりがないですけどね。犬塚さんの話聞くの必要かな。

田中 勝二さんのとこ、行かれます?

立岩 かな。僕のよく知ってる人がつきあいある人で。

田中 その時は田中がよろしくと言ってください。

立岩 分かりました。なんかこれは言っておこうというみたいなものがなければ、長い時間、特に。

田中 どこかでご飯食べて。謝金とかいただけるとかなんで、私ご馳走しますんで。どこかで食べて行きましょう。だって2時半まででしょう。古込さんからなんか、今日は文句言われそうな気がする(笑)。

立岩 顔色というか身体の状態は悪くない感じはしました。




UP:201909 REV:20190922
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)