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平井誠一氏インタビュー

2018/01/29 聞き手:立岩 真也 於:富山市・自立生活支援センター富山

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◇文字起こし:ココペリ121 20180129_001平井誠一氏インタビュー
◇平井誠一:http://www.arsvi.com/w/hs16.htm
病者障害者運動史研究
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)2000-
◇自立生活支援センター富山 http://www1.odn.ne.jp/~adu40180/

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立岩 平井さん何年生まれ?

平井 1953年生まれ。

立岩 富山まで新幹線走ってんの知ってたんですけど、初めてここに来るのに使って、その間で全障連の資料をこちらのHPで見たんですけど、結成の76年あたり、あの時にそれに関わった人たちって、だいたい40年代生まれとか、そこの中では、平井さんて53年ですね。ちなみに僕60年ですけど。若いじゃないですか。あの人たちの中では。

平井 あの時代は僕が一番若いとか、言われてた頃なので。

立岩 その辺から不思議感がある。あと、全障連って全国組織ではあるけれども、なんだかんだ言って横塚さんや福島の人たちはちょっと違いますけど、どちらかというと関西、大阪、兵庫の人たちのというのもあったじゃないですか。その中で若くもあるし。平井さん。ところで元から富山なんですか?

平井 富山です。(富山市の生まれ?)いえいえ、今無くなっちゃったんですけど、婦負郡というところで婦負郡婦中町というところがあった。今は富山市に合併しました。

立岩 昔は郡で町だった所が、市町村合併で、そういう意味では富山市に近いといえば近い?

平井 真横やしね。

立岩 でも富山市近郊というか、お生まれになって。そういうことなんですよ。つまり全障連の年寄りたちの中では、若い。それから裏日本という差別語だってあるじゃないですか。そういうので平井さん、でも結構最初から入ってらっしゃいましたね。それは?

平井 2回大会かな。結成大会は行かなかったんです。真面目にサラリーマンやっとった前だったので、印刷の方で写植をやっとった。

立岩 私の知り合いで時々写植とか、カラータイプとか、後は時代がもっと後になればDTPとか。印刷関係?

平井 まぁ割と多かったです。僕の友達もみんな写植やっとったんで。あの頃はそれか判子屋さんか。判子屋さんも障害者は割と多かったです。

立岩 こないだね、7月、本間康二ってご存知ないかな。月刊障害者問題というのを70年代、80年代かけてやってた人に、話。その人は新潟生まれの東京。その人はやっぱり印刷屋さん。後になって自分でDTP "desktop publishing" をやってましたね。だんだん聞いていきます。そうすると、印刷屋さんやってるというのと、全障連が結成されたって話って、普通あまり結びつかないじゃないですか。なんだ、これみたいな。どういう経緯で、そういう運動と知り合ったのかというあたりから話ししましょうかね。      

平井 僕の同級生というか先輩たちは、あの富山で▽「青空の会」いうのを作って、障害者たちが集まってちょっと話ししたりとか、キャンプしたりとかいうことをなんか富山でやっとったのがあって。市内ですね。それに友達が「おまえもこんか」と言われて。

立岩 友達もその脳性麻痺系?(そうです)それで今回は言われて、顔を出したみたいな。

平井 出したけど、僕は何かちょっと違うなと思いながら。友達との付き合いもあったから、ちょっと顔出そうかなと思いながら。(違うかなは、何が違う違和感があった?)やっぱり働いとったからなんとなく、職場の中の問題みたいなことが、そこへ行っても何も解決しないんで。

立岩 そういうサークルみたいなとこへ行ったって、という話か。ということはその時点で、すでにその印刷会社、平井さん自身も仕事関係の問題を抱えてらしたということですか? 

平井 結局、給料が安いというのもあったし。後、職場の中で、もう一人障害者の方がおられて。聾唖者の方がおられたんですよ。聾唖者の方は活版印刷の方におられて、僕は写植やっとったので、働く場所は違うんだけど、いつも比べられたんですよ。比べられて、いつも。(それは、聾唖の人の方が、できがいいみたいなそういう話ですか?)いやね、社長によく呼び出されて言われたことは、人間関係が作りにくいと。(平井さんと?)聾唖者の方は。それでよく職場の人と揉めてるという話を社長から聞かされて。何かにつけて僕とその人が比べられるようになっとったのがあって、僕はちょっと、それはあまりに違うんじゃないかなというのがあって。僕は僕で働いとった職場というのは、僕以外はほとんど健常者だったので、同じ職場の中で若い人たちも僕と同じ年代の方達が何人かいたんですけども。そういう人たちは割とお話しできたんですけど、ご年配の人たちとは、なんかちょっと違和感があって、そういうのがあって職場の中での関係の作り方みたいなところで悩んだのはあって、その頃はまだ会社に住み込みで働いとったんです。あの当時、その頃は結構住み込みで働く人が多かって、結局通勤の問題です。今みたいに交通手段がいろいろあったわけじゃないので、住み込みで働き始めて、でもその前に、前があるんです。

立岩 今日、どこから話し始めようかと、結局なんだかんだと、最初の方からお伺いするしかないんですよね。(運動に入るきっかけいうのを)今はその辺りのことを聞いてるんですけど、その前があるんですよね?たぶんね。

平井 養護学校にいた時に、たぶん僕が運動に関わるきっかけというのは、ここかなと思ってるんですけど。僕が13の時に中学校1年です。その時に母親が腫瘍で亡くなったんですよ。その頃、親父は障害もっとって、扁桃ガンで、ガンだったんです、うちの親父は。母親が脳の腫瘍やったんですけど、父親は小学校たぶん3年生ごろからかな、ガンになったんじゃないかなと。ないかなというのは、(お父さん自身が?)扁桃ガンです。(小さい時というか、若い時に?)たぶん僕が小学校3年の頃になったんじゃないかなと。でも親父が死んだのは、僕が30歳の頃だったので。母親が亡くなった時に、僕は泣かんかったんです。泣けんかったんです。泣けんことを結構、親父なり、養護学校の先生に責められて。なんで(学校は小学部から養護学校にいたんですか?)すみません。僕は3歳の頃、学校と病院が併設の施設に入ったんです。3歳の時入ったんです。それから小学校6年まで同じ施設で育ってきたんです。中学校になってから養護学校というものができてきて、養護学校に移ったんです。

立岩 もしよろしければ、その富山の小さい頃から小学校までいたという、それは富山市内?(はい、富山市内)なんていうところですか?

平井 高志学園。高いという字に志しですね。高志学園というところがあったんです。そこに小学校6年までおったんですが、中学校になって養護学校に移ったんです。富山に養護学校ができ始めたのがその頃だったんで。(最初に小学校辺りの時は、養護学校そのものが富山市になかった)なかったです。僕が小学校の頃は、普通学級の分校という形でなっとったんです。(高志学園の隣接されてた学校も、学校の分校みたいな扱い、位置づけだったと?)だから卒業証書も普通学校の分校として卒業しました。(ちなみにそれは卒業証書をもらいには、分校でもらったんですか?)分校でもらいました。
母親が亡くなって、僕が責められるようになって、なんで責められんといけないのかというのが、僕の中ですごいモヤモヤしながら、中学校、高校時代を過ごした。

立岩 今はもう、わかってないんですけど、養護学校の先生がお母さん亡くなられた時に、さほど悲しんでるように見えなかったことを問題にしているという話?

平井 うちの親父もそうですけど、「お前、自分の親が亡くなったのになんで泣かないんだ」というふうに言われて、それをずっと中学校、高校時代にモヤモヤこう過ごしてきて。

立岩 その時に、そういうことを言われてもみたいな。私もそういうとこは人情に欠けてるとこがあって、俺もあまりどっちかというとそっち系ですよ。なんだろうな。そういう時にそういうこと言われてね、お父さんとか、学校の先生に。なんかその平井さん自身は、その言われたことに関して、その当時ですよ、どんなふうに思われてたか記憶にありますか?

平井 なんで言われんといけないんだというのが、すごいなんか悔しいのはあったのと、その泣けないいうのは、何なのかというのは自分の中では、家族とかどういうんですかね。家族とか家庭とかいうものがイメージの中にないんですよね。

立岩 ちなみにその病院併設の学校の時は、基本的にはそこに住んでた感じですか?

平井 そのことに疑問を持ったのは、養護学校の話と繋がってっちゃうんですが。僕が小学校5年くらいに、やっと家に帰れるような施設になってましたが、それまでは年に2回しか家に帰れんかったんですよ。盆とお正月に3日間、3日間。後は1カ月に1回、面会日というのがあったんですよ。(それは親が面会にきてくれた?)そうです。それ以外は親と会うことがなかったんです。僕からしたら、そのことが問題だったんじゃないかなというのがあって。親と別れて生活をさせられてきたことが、結局感情を脳の中に、親が死んだ時には母親が死んだ時に悲しいとか、なんか自分が特別な思いを持っていたのかと言われたら、何もなかった自分がいたんだ、ということに気づいたのが運動に入っていくきっかけなんですけど。     

立岩 悲しめと言われても、悲しみに足るだけの付き合いというか(なかったです)接触というものが。そもそも小さい頃からなかったやないかと、それで悲しめと言われてもなぁと。そんな感じですか。中学校1年の時にお母さんが亡くなられて、当時ようやくというか、養護学校ができ始めて、養護学校に中高と?(そうです)同じ、中学部、高等部と(はい)それは何養護学校?

平井 富山養護学校。(その当時は、富山市には富山養護学校しかないくらい?)後は高岡養護学校。高岡養護はどっちかというと知的の人の養護学校という形であった。

立岩 つまり富山県の中に富山市と高岡くらいの時期だった。平井さんはその富山の養護学校の中等部と高等部を出られて、その後先ほどの印刷。その印刷会社っていうのはまず、印刷会社も一人、二人でやってるとこからさ、大日本印刷みたいな巨大企業まであるじゃないですか。

平井 僕が富山で働く前があって、実は学校出てから石川県の職業訓練校に行った。(富山から石川、金沢ですか?)石川県の野々市町というところに、職業訓練校があったんです。そこに1年行って、それから向こうに福井行った。福井に就職した。自分は母親のことがあったからというのもあるし、自分の記憶の中に、いつの記憶なのかというのはちょっとわからないですが、母親が父親から暴力を振るわれとった記憶が残っとって、それがいつの話なのかと言われたらわからないですが、3歳…  

立岩 親元から離れて暮らしていたわけだから、でも覚えている。その前ということですかね?

平井 かなと思うんです。そういう記憶があったので、自分は離れたかったんです。富山から。親と完全に離れていきたかった。(金沢に行く時から、ちょっと富山より違うところに行きたいなみたいな。)はい。(金沢行って職業訓練1年やって、福井に?)福井で就職したんですけど、(それはどういう職業?)それは写植です。

立岩 福井の印刷会社で写植の仕事を?(住み込みだったんです、そこも。でも3カ月で、クビ切られた)印刷の仕事やってる人、僕の知り合いにも結構いるので、それ自体は不思議感はないんですけど、写植って結構早い動作を求められません?僕のええと、感じだと脳性麻痺っていうのと写植って、にわかに結びつき難いものがあるんだけど、でも写植。その時って、ちなみに平井さんって、体の状態ってやっぱり変わりますよね?

平井 もともと歩いてました。小学校5年くらいから歩けるようになったんです。(それまでは歩けなかった?)はい。(何かしらの訓練的なものを?)はい。そうですね。(歩いてはおって、手は?)動きました。(今よりかは?)今より動いてました。

立岩 写植ができるくらいに、そこそこのスピードでできるくらいな感じだったんですね。でもクビになった。みつきは早いですね。それはなんか?

平井 結局、社長が考えとったような、働きはなかったんでしょうね。

立岩 福井県福井市ですか?(はい)職業訓練校にいる間に紹介というか?

平井 当時担当の先生が福井市の人だったんです。その先生のつてで働くことになったわけですけど(18、19の頃ですね。63年に18。71とかか、ちょうど安保闘争が終わった頃か。72年とかが、沖縄返還とかあの辺ですね。そこは3ヶ月でクビになった?)でも悔しいから後、3ヶ月頑張ろうかと思って、自分で仕事を取りに行ったりしたんですが、やっぱり印刷の業界ってコネがないと結構取れないのがあったので、「いや、これあんまりやわ」と思って、6ヶ月目で富山に帰ってきたんです。それで富山の中小企業の50人くらいの会社に入ったんです。当時はまだ活版印刷がのこっとったのが、会社は活版印刷が半分で、半分はオフセット印刷。半分、半分。

立岩 その当時は雇用の枠とかないですよね。何%とか?(ないですね)その福井の時は先生のコネがあったと、富山の会社に入る時は、何かあったんですか?

平井 昔でいう職安です。(職安に行かれた?)職安の方から探してくれて(平井さんが富山市の職安行って、職探しを。印刷のことできると。その関係で職ないか、みたいな)そうです。(そうしたらその会社を紹介してくれて、一応話し聞いてそこに?)住み込みで働きに行きました。工場の中の2階に部屋があって、そこが寝泊まりできる部屋だったので、そこ借りたんですが。(住み込みって多かったんでしょうね、印刷に限らず)当時多かったですね。判子屋さんも割と多かったですね。住み込みで働いてる人。僕ら小さい頃はどっちかというと、ポリオが多かったんです。(そうだね、63。53)僕らの先輩は、ほとんどポリオが多いんですけど。

立岩 それでポリオの人がいなくなるのが、62年の前くらいかな。60年くらいが最後。50年代終わりくらいだよね。

平井 後、多かったのは股関節脱臼の方が多かったかな。

立岩 ポリオとかでも例えば下肢というか、足だけという人もいれば、手は使えるから。

平井 割と判子屋さんに行く人が、多かった。           

立岩 泊まり込み、住み込みやったら職場に行く手間がかからへんみたいな。そうですよね。50年代ポリオいますよね。私の職場の同僚でも58年、59生まれでポリオいます。
そこで写植の仕事をして、働かれていた。それが72とか、そのあたりですね。たぶんその辺ですね。僕は小学校4年生で万博とか大阪に初めて行ったかな。その72じゃないですか、全障連が76なんです。4年あるというか、4年しかない。ある意味短い。4年の間にというか、72年の後も含めて何がどうなってこうなったのか、全然わからないですよね。今、読んでも。

平井 僕は自分のことからなら、住み込みだったので、給料が2万5千円だったんですよ。当時の高校生の初任給が6万円と言われとった時期なので(高卒初任給6万の時代に安い、安いね。それは特に障害者だからという話なのか、なんなんですか?2万5千円は安いでしょう、普通)安いですね。(それはなんだったんですか?)働きも悪いと、社長からよく言われました。(工場で働いてた同じような仕事をしてた、いわゆる健常者の人もそれくらいの給料だったってことですか?)やぁわからないですね。

立岩 社長からは、お前はこんなもんやという感じで言われる。さっきの話ですけど、聾の人が隣の部署いて、社長さんからって。2人、3人の会社なら社長さんと茶飲み話というか、50人ってそんなに小さくないですよね。まぁまぁですよ。その社長さんと話というのは、どういうシチュエーションというか、50人の会社の平の入ったばっかりの若い社員が50人とはいえ社長さんとは、どういう感じだったんですか?

平井 よく呼び出された。お前の働きが悪いとか。結構二階に住み込みしてたのが、あるのかもしれないけども、(始終いるわけだもんね。呼び出そうと思えばいつだって)僕はそのうち、それが嫌になってきて、給料が3万円になったところで近所のアパートに移った。ちょっとアパートが7500円だったと思うんです。部屋だけあって当然、流しみたいなところは共同だったんです。お風呂は銭湯行くふうになってて、その頃はそのくらいしかお金がなかったので、そこを借りることにしたんですが、うちの親父はアパート借りることに反対したんです、アパート借りることに。「お前自分のこともできないし、火を出したらどうするんだ」と言われて、反対されて。会社の近くの薬局のおばちゃんとか、総菜屋のおばちゃんとか食堂のおばちゃんとか、普段よく行っとったとこのおばちゃんたちに相談したら、私たちがアパート見つけてきてあげる、その代わりに保証人になってあげると言われて、それでアパートを借りれたんです。(木造、当時みんなそうですね)木造のバタバタのとこです。本当に部屋があるだけの。

立岩 なんやかんやあって、社長がうるさいのもあって、その近くにアパートを借りて住むようになったと。それで。

■楠他

平井 それで、やめる頃にはやっと3万5千円くらいになった。他の人たちの話を聞いとったらもっと給料いい話が結構聞こえてきて、なんで俺だけが、こんな安い給料で働かな、いけないんやと思って。残業は当時、ラーメンが150円だったんですよ。残業するとラーメン食うとマイナスになってしまう。ちょうど、二十歳頃かな、あれあったでしょう、トイレットペーパー。オイルショックがあったでしょう。(73年そうですね。ちょうど53年生まれで20やったら73年でオイルショックですね)その時に??のお店でいつもパン買いに行っとったときに、あれはショックでした。こんな大きいパンが50円やったものが、半分の小さいのになった。それがすごいショックやって、こんなの食うててもと思いながら、悩んどったことがあったのがあって。それからなんかこう、働くってなんなのかなとか、労働ってなんなのかなと思いながら、モヤモヤしとる時に、楠〔敏雄〕さん、1944〜2014)たちが富山に来て、オルグ活動を。(楠さん、富山に来たんだ)来たんです。この人と岐阜の戸田〔二郎、1951年生、ポリオ 〕さんと(全然知らなかった。戸田さんという方も全障連ですよね?)はい。あの人も印刷屋の社長やったんです。

立岩 ちょうど73年、楠さんが大学とか終えられた時期ですよね。来られた?(はい)さっきの青空の会でしたっけ?それと関係あるんですか?

平井 青空の会に来られたんです。(青空の会が呼んだというか?)呼んだのかどうか僕はその辺、わからないですが。

立岩 その青空の会というところにやって来た。楠、戸田、2人でした? 楠さんは全盲じゃないですか。手引きというか。(戸田さんが車を運転して)楠さんがそれに乗って、純粋に介助者とかじゃなく、2人で来たんですか?(そうです)それが73年オイルショックのその辺り?(もっと後です。結成大会の前だから)結成大会は76ですよね。74、5、辺り。前の年か前の前の年。その青空の会というのは、一番最初の話になったんですけど、そもそも何をする会だったんですか?どういう人がやってた会なんです?  

■青い芝

平井 養護学校卒業した人とか、後、在宅の障害者の人がいたな。健常者は施設に勤めてる方が多かったですね。(何十人くらいの集まりですか?)当時で20人くらいおったのじゃないかな(それは時々どこかに集まって、話をする?)1ヶ月に2、3回くらい(例会があって、基本地元で話をするようなそういう地元の地道にやってるところと、その楠さんというのがこれまた不思議感があるんですけど、その経緯というか、覚えてますでしょうか?)僕は実は、楠さんと出会う前に青空の会に関わっとった健常者の人が面白い人おるとか言って、連れて行かれたのが川崎なんです。横塚さんとか、横田さん。当時、川崎に事務所があったので、(神奈川支部?の事務所。それは施設の職員みたいな人?)そうです。(その人がなんかで青い芝のことを知ってはって、行こうかと言って行った?)行きました。(その職員の人と2人で行った?)そうです。(それが73と75の間くらい?)楠さんと出会う前。宮尾修(千葉の人ですね?)はい。あの人ともその時に会いました(宮尾さんにはずいぶん前ですけど、お会いしたことあります)今亡くなったけど、二日市(安さん〔1929〜2008〕ですね?)はい。に会わせてくれたのが、その方だったんです。運動やってる人たちに会わせてくれたのは。

立岩 宮尾さんと二日市さんていうのは、関係なくはないけど、青い芝の神奈川というのと、ちょっと違いますね。▽つまり職員という方が割とそういう関東の運動の方たちを、なんかのつてで知ってたということですね。

平井 だと思います。僕は横塚〔晃一、1935〜1978〕さんとか横田〔弘、1933〜2013〕さんにだんだん騙された。(じゃ横塚、横田にはその時会った?)会ってます。僕に対して「お前、あそこに銭湯あるから銭湯入りに行き」とか言われて、それがあの有名な「朝日湯」の話なんです。銭湯の脳性麻痺お断りの。(お断りにひともめしたという)僕はそういうとこで言うことが知らなかったので、はいはいと行ったら、風呂は入れずに素っ裸で、3時間おらされて、喧嘩になって。そこの親父と喧嘩になってしまって。警察まで呼ばれて。

立岩 僕、つい最近、白石清春〔1950〜〕という福島の(知ってます)話の記録を読んでたんです。「川崎バスジャック事件」と、それはみんな一応知ってるんだよね。ちょっとは知ってると思うんです。でも銭湯の話って結構、知られてなくて。でも白石さんの話とかにも銭湯事件が出てくるんですよ。その時に銭湯に行って裸になったのが平井さんだということですか? 〔白石さんが言っていた銭湯事件とはちょっと違うようです〕

平井 僕は裸になって、お風呂と脱衣所の間に戸がありますよね、戸を開けた瞬間に待たされました。(誰に?)そこの銭湯の主人ですね。(理屈を言いました?)脳性麻痺はあかんと言われて。えーなんでと、僕は富山で銭湯いっとったから、なんで入れんのとよくわからなくて。途中で警察もきて、警察は呆れ返って帰ったけど。

立岩 当事者が平井さんだったんですか。これは聞かんとわからん話やね。それは3時間裸になって、収拾したんですか?結局どういう結末だったんですか?

平井 結局入れずに服着て帰ってきて、ちょうど3月やった。結局風邪引いて寝込んだ。

立岩 僕は平井さんと7つ違うんです。60年生まれ。79年、養護学校義務化の年に大学に入って、東京に来たんです。その前は障害者運動とか一切何もしなくて、後々になって、78年とか横塚さんが亡くなられたとか知って、要するに会えずじまいというか、というのが横塚さんで、横田さんはなぜか僕は生前に3回話をすることができて。横田さんは人となりも含めて知ってる。横塚さんはそういうので知らない。ちょっとオタク的な質問ではあるんですけど、2人というか、当時小山さんとかいろいろな方がいらっしゃると思いますが、1人、2人どういう印象というか、記憶というか、あの辺の時代の人たちのことで記憶に残ってますか?

平井 横塚さんには五つの行動綱領について詳しく聞かされました。

立岩 横塚行動綱領を語るか。五つになった時ですね。横田さんってちなみに結構、僕は何回もお話ししましたけど、言語障害きつい、特に晩年はそうだったのかもしれませんが。横塚さんはそうでもないですね。

平井 あの頃、まだ聞けたですね。あの後、ガンになっていって結構障害が重くなってるから、たぶん聞くのは結構しんどかった。(横塚さんから行動綱領の話を聞いた?)そうです。その時はあまりピンときてなかったんですが、お風呂のことがあって、後で考えたらこういうことなんだろうなと思いながら、理解してきたところがあるんです。

立岩 横田さん、横田じいさん、その頃はじいさんじゃなかったと思いますけど、あの辺の横塚さん以外の人たちの特にこれは覚えてるぞ的なことってありますか?

平井 僕は割と多かったのが、関西の青い芝とかの繋がりが多かったです。

立岩 横塚、横田に会いにいったのが73年、その辺。その後、楠さんたちが来たのはたぶん、その後ですね。二つは直接的には関係はなくて、楠たちが来た。関西の青い芝系の人たちってそれとはまた、別の話なんですか?(どこで繋がったんだろう?)神奈川行ったときは、その知り合いの青空の会の施設の職員の人が連れ出してというか、一緒に行って、楠はどういう経緯かわからないけど青空の会にやってきた?



平井 青空の会の人たちが、何人か結成大会に行ってねとかいう話を聞いとったです。たぶん、その繋がりかな。

立岩 つまりそういった、一見というか▽基本的には政治とはあまり関係なさそうな会なんだけど、その一人一人の中には、職員の中にはその当時の社会運動であるかとか、そういうものに何か関わっていた人がおったということですかね。それの関係で戸田さんと楠さんが来た。その時に楠さんなり、戸田さんなりが何を喋ってたか覚えておられます?(はっきりと覚えてない。)覚えてないですよね。僕方々で喋りますやん。何も覚えてないですよ。去年喋ったこととかも、唖然とするほど何も覚えてないです。まずいなと思って。反省してるんですけど。何か喋りに来たんですよね。

平井 たぶん僕がその時に聞いた話の中で、たぶん養護学校義務化阻止の話を聞いて、たぶん結びついたんやろなと。たぶん運動的には。

立岩 養護学校で親と離されていたという過去をずっと持ってたと。そのことと楠らが養護学校義務化阻止的なことに来たって辺りが繋がったというか、そんな感じですかね?(ですね)その時、楠らは養護学校のことを言ったことは確かだと思います?義務化反対的な?(はい)一晩かなんか喋って、泊まって(泊まって行きましたね)帰って行った。そうですか、その頃、楠さんはそういうことしてたわけですね。関西「障害者」解放委員会ってその頃あったはずなんですけど、そういうようなことは、聞いてはいなかった? あれは党派が当初、関係してて、そこと一悶着あって、そこから離れたという経緯がのちに話されてますね。

平井 この頃って、わりと全障連ができる前は、党派に入っとった障害者って結構いたんですね。赤軍からいろんなところに入ってる方たちがおられたから、後でみんな辞めていってるんですけど。

立岩 楠さんは当時の関西「障害者」解放委員会と中核派が関係してて、でも中核派ともめて、そこから離れたという経緯みたいですけど※。僕の知ってる人でも東京でつい数年前まで、解放派と関係してたりとか、まぁいますよね。普通にね。平井さんなり、平井さんの周りではそういった、富山の人たちというか。
関西「障害者」解放委員会:「路線や運動の進め方の意見の違いでこの組織は一九七二年九月に分裂しました。その後、両方とも関西障解委を名乗っていたので、同じ名前の組識が二つあるという状態でした。」(楠敏雄20010501「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321],全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.)



平井 富山は割と解放〔派〕が多かったです。それが、この前一回お話しした、★富山市の差別照会文書に繋がっていくんですけど。解放派の部分と結婚していく人たちが何人かおられて、障害者と解放のメンバーが結婚していく中で、解放が前面に出てくるのがあって、それで富山市の市役所、行政がお前は利用されてるんじゃないかと解放派に利用されてるんじゃないということで書く。あれに対して照会文書出すんだけど、各自治体に。日本全国同じ希望の市町村に出していくんですけど。

立岩 障害者たちが、言ったら過激派に政治利用されてるじゃないかと思われると。そういった事例があなたのところにもありますか的な照会を、役所で?それは市役所ですか?(市役所です)警察ではなくて?

平井 警察とグルでやってたんだと思うんですが。うちらとしては、これはまずいということで、当時なんやったかな、解放が二つに分裂しとった頃なんですよ※。結局その分裂にうちらのメンバーも巻き込まれていったのがあって。(それいつ頃やろう?全障連の結成の後ですか?)後です。80年代に入ってからですね。
※「1981年に主流派(狭間派・現代社派)と反主流派(解放派全協・労対派)に分裂した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/社青同解放派

立岩 僕は79年から83年が学校だったんですよ。東大駒場だったんですけど、解放派の連中が結構キャンパス入ってきて、ガチャガチャやってて、警察もちょっと入ってましたし。そういう時代は多少覚えている。70年代の終わりから80年代の頭みたいな感じですね。例えば僕らの場合であれば、大学というのが一つの拠点になる。いわゆる、過激派の拠点になる。富山の場合って大学は絡むんですか? 富山大とか?

平井 富山大に解放派の拠点と中核派の拠点とあったとかいう話は聞いてます。

立岩 一時期少なくとも、結構党派、特に解放は富山大に入ってきて。その家族というか、結婚して。その行政が各地に照会したという事件、出来事の顛末というのはどういう結果に?

平井 何回か富山市と糾弾会をやって確認会をして(そういうことをしたと。あかんということを言って、確認、糾弾)それで市長が謝罪をしたという形で(収まった。それは80年代入ってから?)入ってからです。

立岩 また戻しますと、73年のスカウトの後に神奈川に行った、楠さんたちが富山に来た、そして、さっきおっしゃったのは、関西の青い芝の会の人たちと付き合いがあったと。それはどんな感じやったんですか?

平井 ★関西の青い芝というのは作業所を作ったりとか、拠点作りをやり始めとった頃なんです。僕も興味があったもんで、割と呼んでくれたもんで一緒に拠点をどこに作っていこうかみたいなことで、あちこちに見に行った(それは関西に見に行った?)はい。今はいないんですけど、大阪の堺に坂本〔博章〕くんというのがおったんです。亡くなりました。その彼が結構いろいろと親しく付き合ってくれたりして。運動のやり方も教えてくれたりとか。

立岩 今ちょっと僕、頭がごっちゃになってますけど、関西も一時期だけ一緒にやってて、兵庫と大阪がゴチャゴチャになったりとか、いろいろあったみたいですけど、そういった、関西の中でのゴチャゴチャしたことには、何か記憶されていることとか、何かそれに巻き込まれることとか、よく知らんなとか、どんな感じですか?

平井 全国青い芝は、一回解散するんですよね。福島で解散式をやったんですけど、僕はそれには出とったんですよ。(福島に行かれた?)はい。全国青い芝が解散して、4つに分かれちゃったんですね。4つの方に別れた部分の関西とはお付き合いがあったんですけど。僕は関西の中の流れが、違うといえば違うのかなと思うけど。僕からしたら、あまりよくわかっとらんかったですね。あの頃は。なんでそういうのが起きていってんのか。全国青い芝の会が解散したときは、なんとなく納得したのはあった。黒田さんという方があの当時、全国青い芝の介護とかやっとった、ゴリラをやっとった。黒田さんという人。(ゴリラに関係している、介助者組織の黒田ですね)その人が結構、青い芝の中の方針を出してたんですよ。

立岩 青い芝はそういう健常者が引き回すことに反対して、ゴリラを解散させた。(それから全国青い芝も解散してという感じです。)それをやったのが僕が知ってるのだと、兵庫の鎌谷正代だったり、(福永)年久さんだったり、兵庫の人たちで、私の理解では、大阪の人たちは、「とは言うても」で、大阪は結構重い人もおったし、介助者がおらんようになったら現実困る、みたいなことがあって、そこからそんなに歯切れが良いわけでなくて、一緒にやってくようになってと聞いてるんですけど。

平井 その辺を知ってるのが、ゴリラやってた細井〔清和〕くん(細井さん)はい。大障連の細井さんが一番詳しい。

立岩 今度、河野〔秀忠〕さん、去年の秋に亡くなられて、4月かな、追悼の集会があります。大阪の古い人たちも、ついでにその時に会っておこうかなと。大阪、関西ゴチャゴチャしてたけども少なくとも坂本さんであるとか、そういう人たちにはいろいろと教えてもらっていた。青い芝の福島のゴリラの話とかを受けて、でも実際にそういう流れの中にいたら、それ全障連の後ですよね。全障連結成の時ってのは、横塚が、青い芝が割と深く関わっていた。(関わっていました)その本当好きなところでいいですわ。全障連作る時って一番先に聞いた時では第2回大会からいらしてたとおっしゃいましたが、この全障連が立ち上がる。養護学校のことがメインであったとは思うんですけど。そこらあたりの感想を、平井さん自身の関わりであるとか、その時々に感じられたこととか何かご記憶に?

平井 当時は障害者の人たちが就労闘争やっとった方たちがおられて、西岡さんもそうですけど、亡くなりましたけど、西岡(努さんですね)、荒木さんとか後、東京だと「大久保製ビン」の運動があって、不当な労働条件を変えたいと運動やってた。僕は障害者でいろんな運動やってるんだなということを知って、僕も働いてたこともあるから、余計なんかそこに運動として憧れたものがあった。★楠さんはどっちかというと、反差別、反行政みたいなところがあったので、その頃の行政ってめちゃくちゃ差別的だったので、行政をなんとか変えんとあかん、みたいなところがあったので。運動としては最初は行政交渉メインだったんですね。文部省だったり、厚生省だったりとか、後、就労関係。(厚労省がまだ繋がってない時だね) 
 結局中央でやっとってもらちがあかんから、地方を変えんといけないみたいなのがすごくあって、地方闘争?みたいなことが結構、僕が関わってから多かったんですよ。それで荒木さん、東京の彼が厚生省の交渉の中で、厚生省が言ったのが「一日4時間以上介護のいる人は施設に入ってください」と言われて、それにみんな激怒して、荒木さんは施設に入るべきか、地域で生きるべきかいうのを逆に、お前ら何考えてるんだという話をしたことがあって、その交渉の中で、荒木さんに対して厚生省が言ったのは「あなたは頭がしっかりしているからいいです」という言い方をして、それはおかしいじゃないかと。

立岩 全障連できて、全障連の最初の頃の幹事かなんかが荒木さんで、確かなったと思うんですけど、全障連とその中央官庁との交渉という理解でいいですか?(はい)そういう時にそういうやり取りがあった。(はい)そういう時って関東の人は関東の方で行くだろうけど、平井さんも富山からわざわざというか(当時国鉄)僕、初めてなんですけど、さっき新幹線乗りましたが、以前なら結構かかりましたよね。(かかりました。富山から行くと6時間)乗って、霞ヶ関まで行ったと。その手前のとこだけど、まあ言ったら、元はと言えば、神奈川なり青い芝の連中が、楠さんたちの関西の連中が示し合わせて作ったと。青い芝の方は綱領の問題とかいろいろあって、抜けると。その中でそういう流れですやん。神奈川なり、東京なりの青い芝の人たちと関西の方っていう流れの中で、最初の話に戻るわけですけど、平井さんって場所も違うし、年も違うじゃないですか。それはこの古い人たちの思惑というか、なんだろう、結構長いですね、副幹事。副代表でいた時期。

平井 西岡君と僕とあまり変わらんかったんです。年齢的には。近くて、向こうの方が1つか2つ若かったような感じするな。その頃出てきてたのは、★尾上君。高校生くらいかな。

立岩 若いですよね。尾上さん、僕と同じ歳で60年生まれなんですよ。彼はでも意外と60年生まれにかかわらず、昔を知ってるというか。(彼、結構関わってたんで)高校くらいから関わってたからな。その頃はなんも知らんかったから。びっくりですよ。彼は60年ですよ。あの人たちの中ではめっちゃ若い方ですけど、平井さんの53年のしかも、富山の人たちを入れようとしたのは、何か誘われた的なことがあったんですか?お前こいよ、やれよ、やってくれないか的な。

平井 関西は結構誘ってくれましたね。関西は結構、こんなことやるから、来いよとかいうふうに誘ってくれました。

立岩 それはその結成の時?結成大会には行かなかった?(行かなかったです)それは何かあったんですか?

平井 やっぱり勤めとったから、自分、なんかあん時ちょっと違いを感じとった。まだ働いて、なんとかしていきたいという思いがまだ強かっただと思うんです。さっきのお風呂の話とか、いろんなことに触れ合っていく中で、運動に自分が入ってきて、迷うようになってきたのがあったんだけど、理由のもう一つはうちの親父は戦争にいっとった人なんですよ。戦争から帰ってきてから社会党系の運動と組合をやっとって、委員長やっとった親父なんですけど。その親父がめちゃくちゃ僕に対して差別的で、労働の運動やっとる人が、なんかこんなことやるんかなと思うくらいの。僕が一回会社ともめたんです。富山の会社ともめたときにお前は給料上げんでもいいがやと、親父は。それよりも税金をなんとかせんなんと。つまり親父の扶養に入れとけば、お前は給料上がるよりかは、そっちの方が高いなと。言われて、うちの親父とブチっと切れて喧嘩して、誰が働いてるんだとか、お前は働いてるんじゃ、働いてるんじゃないだろうって言って、そんな話をやりあって、道の真ん中でぶん殴り合いして。親父と喧嘩して。

立岩 親父さんちなみに組合、当時いろいろあったじゃないですか。総評系とかですか?(社会党系、総評系です。)組合の専従みたいな感じだったんですか?(化学会社の労働組合の委員長をずっとやっとった)他の総評系のいろんな組合を束ねる的な。ちなみに福井にクビになって、富山でっていう会社は何年前まで勤めておられた?

平井 こっち帰ってきて、3年半くらいかな。(全障連の結成のあたりですね?)結成された時もまだ働いてた。(辞めた?)喧嘩して辞めました。(社長さんと?)社長さんと喧嘩して辞めました。(給料上がらんし?)はい。自分は運動の方が大事やから運動やると。(運動やると社長さんに社長に言ったんですか?)言いました。(社長さんはなんて言ったか覚えてますか?)なんか残って欲しかったみたい。(まだ居ろや的な感じだったんだ。勝手に出てけじゃなく?)ではなかった。(でも俺は出ていくで、となって出たと)出た後、自分の中で結構矛盾があったのが、失業保険は6万円やったんです。給料3万5千円でなんで失業保険が。

立岩 失業保険ってもらってた給料の何十パーセントかって決まってたですね。(決まってたのになんでと)でも6万きたんだ。

平井 それで辞めてから生活保護とったんです。

立岩 それで会社辞めて失業保険、半年だっけ(1年です、その頃は)そうですね。その後?

平井 生保はさらに高かって、自分からしたら、えーっと。障害者の労働ってなんなの、という感じはあって。

立岩 仕事の方はそんな感じで、全障連の結成の前後に仕事を辞めて、失業保険のち生保にいって。
ここ今、事務所を構えてやってらっしゃるけど、こういう仕事で、ここでも一応平井さんに払われる給料ってなんぼかあるわけでしょう。(あります)そういうような仕事につくようになるまでは、割と生活保護で運動やりながら暮らしてたという感じですか?  

■作業所

平井 作業所をやってたんです。作業所はどっちかというとお金儲けじゃなくて、地域に拠点を作るために作業所を作っていってたんですけど。

立岩 作業所は何年に作られたか覚えてます?

平井 78年頃から作ったんじゃないかと。ここを作ったのは2000年ですから。

立岩 78年ごろ作って、ここは2000年。ホームページ拝見したらそんな感じですね。だいぶありますね、20年、長いですね。その間、というかね、これは後の話になりますが、一番最初の頃は仕事もしてたし、そのこともあって、結成大会に馳せ参じるということはなかったと。でも関西の人から可愛がってというか、目をかけられて、お前も入ってくれ的な中で、割と早い時期から全障連の幹部というか、形になるわけですよね。その当時の自分が特に副代表幹事をなさっていた時期も含めて全障連への関わり方とか、それに対する評価とかその辺りはどうですか?

平井 僕が全障連で一番関わってきたのは、就学闘争ですが、梅谷尚司とか金井康治くんとか、後、静岡の石川重朗くん※とか三重県の森本とかは、関わってきとったんです。後はあれです、名古屋の池田まどかちゃんという子がいたんです。就学闘争に結構関わってたんです。自分はなんで親と生きれなかったのかというところの辺の話と、自分が結びついてきてたんです。割と皆、就学闘争というと集会があってデモがあると、それにしか参加しない人たち、割と多かったんですよ。でも僕は結構泊まり込みで、家族と関わりながらやってきたこともあって、梅谷さんなんかもそうなんだけど、結構泊めてもらって、尚司くんが割と飛び出して行って、大阪まで電車に乗ってって、警察に保護されとったりとか、いうのが結構あったんですけど。そんなんも含めて家族の中のこう、いろいろな離婚話とか家族が崩壊していくところも、みんな関わってもらったんですけど。その中で僕は梅谷さんのが、すごく印象的に残ったんですけど。親父さんが尚司を施設に入れろと。施設に入れるか、自分を選ぶかどっちかにせえという姿勢をお母さんに迫ったことがあって、お母さんは旦那を選ばんかったんですが、その時のゴチャゴチャの中に僕もちょっと関わらせてもらってた。
※平井 誠一 19890401 「差別を絶対に許さない闘いへ!――石川重朗君第六中学校転籍十二月連続行動」,『季刊福祉労働』42:113-115

立岩 平井さんが、そうだなと思ったのは、こういうのってだいたい親父がどこいったんだ的なパターンが多いじゃないですか新井くんのやつだって、お母ちゃんのことはみんな知ってると。梅谷さんの梅谷母ちゃんのことはみんな知ってると。親父どこいって、ということ多いじゃないですか。いつの間にか消えてなくなってる。僕らは消えてなくなった後のことは知らないから、消えてなくなる前のことがあって、平井さんは梅谷の親父がまだそこにいたときに、母親と親父がそういうことになってる現場に、居合わせたことがあると。

平井 金井康治くんのも、お父さんと全国回りしたことは、康治くんのことで、親父さんと一緒に全国回ったことはある。でも親父さんはもうこんなことは嫌だといって、もう辞めていったのがあって。

立岩 そういう家族がバラバラというか、そういう場には居合わせたということがある。

平井 その中で自分が何を見たかったのかというと、やっぱり家族って何なのか、共に生きるって何なのかを見たかったのがあって。自分はそういう中で、こう育ってきてなかったから余計、自分からしたら関心のあることだった。就学闘争というには、自分にとったら家族見てるというか、何でこの人たちはこんなことしてまで、一緒に息子と生きようとしているのかというのが、すごく僕は興味があった。

立岩 私が大学入った79年がまさに養護学校義務化の年で。大学入ったら、ガチャガチャ、僕らの同級だったのが金井さんの就学闘争に関わったりした学生だったりしたので、多少は関わりがあった。どっちかというと、その大学に入りたての男の子とかって「家族いいわ」って、冷たいじゃないですか。だからそういう視点ってあんまりなかったかもしれない。さっきおっしゃったように、霞ヶ関行って、役所に苦しめられて、そんなような感じ、あるいは学校の門を閉められたりとかそういうので、そういう感じやったけど、見るとこ違えば、見えてくるものも違いますよね。それって、今回割と古込さんのことで、親どうすんねんみたいなところで、ちょっとあったじゃないですか。そういうのもちょっと響いてるのがあるのかなと。古込さんも47か。彼も、もういいわって感じなんでしょうね。彼の場合は。
もともとその全障連いうのが79年養護学校を目指してというか、それを阻止するために出来た的なところがあったわけで、就学闘争っていうのは一番大きな柱でもあったと。それに平井さんがおっしゃったような経緯もあり、長いこと関わったと。東京にも行ったし、梅谷さんのとこにも行ったと。ですよね。でも79年にその実証されて。その後も就学闘争はかなり続くんだけれども。
 全障連もまぁまぁ長いこと、僕はそれはようやったと思いますけど。(笑) とはいえ、ってあるじゃないですか。この頃あんまり聞かんなぁとか。その辺の栄枯盛衰というか、79年、80年代、特に90年代ですね。それから30ぐらいですよね、長いですね。その長い話を短くってなかなか難しいと思いますけど、どうなんやろう的な。何とも言えないところがありますけど、平井さんにとって、80,90、2000年越えて今があるわけですけど、その長い長い2,30年ってなんやったんやろうと。

■1989

平井 僕は今でも印象的に残っているのは、昭和天皇が亡くなる時。89年の3月か2月かに亡くなりましたね。1月に静岡県の石川重朗君の闘争があって、それで皆、集まろうというのを呼びかけたのがあったんです。

立岩 昭和天皇が亡くなる直前に。

平井 はい。この清水市の教育委員会の教育長が重朗君のことに対して発言したのは、この子は教育の対象ではないと、施設にいる子だと。福祉の子だという風な言い方をされて。そりゃ、おかしいんじゃないかという話しで、養護学校義務化されて教育を受ける権利を言ってるのに、教育の対象ではないという風に言いのける教育長自体が問題じゃないかということで、当時は運動としてはもう、小学校なんて無理やいうのは分かってましたけど、ただ自分らとしてはこの問題というのは、差別問題じゃないかということでお父さんとかお母さんたちと一緒に最後までやろういうことで行ったんです。でも昭和天皇が亡くなるいうことで、集まることにした1月の何日やったかに、集まった人が全国で6人だったんです。

立岩 重朗君の?

平井 障害者だけ。

立岩 6人?

平井 5人です、でも一人は兵庫県の大賀重太郎、彼が来たんです。

立岩 障害者は5人、プラス大賀重太郎で6人。

平井 そうです。皆何を恐れたか、何が起きるか分からんと言われて皆集まらなかったんです。

立岩 天皇崩御に際して警察がなんちゃら、そんなことがあるかもしれない。

平井 かもしれんからということで。

立岩 自粛しちゃったということですか?

平井 はい。でも僕らは天皇の問題と障害者差別の問題は別だろうということで、障害者差別は差別なんだから、きちんとやった方がいいよという話しで集まったのが、そのメンバーだった。

立岩 何をやった方がいいと?

平井 抗議活動。

立岩 6人はさすがに悲しいですよね。それで、それが89年で。

平井 その時は楠さんにも、これはやりますよという話をした。楠さんはやればいいと言った。他のところからは、止めた方がいいとか言われたりした。

立岩 その当時、全障連は全障連としての組織としての動きというのは、まだ取れてた感じではあるんですか?

平井 なかなか人が集まらなくなっていた感じですね。どっちかというと、DPIに移行していくような感じの、日本全国的にそっちの流れだったんです。

立岩 でしょうね。まだ90年ぐらいまでは何かやってましたね。25周年でしたっけ?

平井 全障連はその後、わりと外国の障害者とのつながりで外国から呼んだりとかこっちが。障害者が殺されたところ、アウシュヴィッツじゃなくて…パルドゥフォスに行ったりとか、ドイツの障害者との交流会をやったりとかいうことをやってたんです。で、僕は90年代からの反差別国際運動に関わっとって、部落の問題以外に世界中のマイノリティの運動に関わってきとったのもあって。どっちかというと、マイノリティの中の障害者の問題を僕はやりたかった。



立岩 話をだいぶ戻しますけど、関西の場合であれば結構、一つは党派?もありますけど、部落解放運動の流れは大きい。例えば関東だとピンとこないとかあって、僕も関西の人と付き合ったりとか、関西の方に来て、やっぱりリアルやなと思ったんですけど。そういうのって平井さんたちの身の回り、いろんなマイノリティの運動の中の障害者運動とおっしゃったけれども、平井さんの中では例えば70年代、80年代にも、そういうスタンスってありました?

平井 70年代は水俣の人たちと一緒に座り込みやったりとか、厚生省の前で座り込みやったりとか。

立岩 それは水俣に連帯して、富山の人が厚生省に行ったという話ですか?

平井 いや、全障連と同じ課題でやった覚えがある。

立岩 ありましたね、反差別国際連帯が一時期、画策というか関西の方でできかけたというか、それはあるみたいですね。そういう流れはあったみたいです。

平井 あと、あれが大切で、森永ヒ素ミルクでなった人が患者さんで??入ってきてた人たちいたので。

立岩 僕が知っているのは山田真(1941〜)という小児科医がヒ素ミルク、あの事件で、明治大学で大会があった時かな、被害者としての障害者みたいなことを言ったら、かえって全障連の人たちにそういう話でいいんかと言われたというごちゃごちゃした話を聞いたことがありますけど。
 70年代の半ばぐらいですと水俣だったりとか、そういうのとの連帯と、それと関西でわりと大きいところですよ。平井さん的にはむしろもっと後になって、世界のもうちょい広い範囲のマイノリティの中で考えるようになったみたいな感じですかね。地域の運動としては70年代から80年代にかけて、89年で人が5、6人しか集まらないようになる辺りまで、でも何やかんやいって十何年ですよね。就学闘争的なものにかなりずぶずぶっと深く関わりながら、一方で富山で78年ぐらいから作業するための作業所というよりは、地域のある種の拠点としての作業所をやり、それからずっと離れて、ここのセンターを2000年にというのが地域活動としてあり、そういう流れですか。でも、すごい大雑把ですけどその間ってめちゃ長いじゃないですか。78年から2000年。22年。それをまとめきれないと思うけど、全国の全障連の中での動きの取り方は一定今、伺ったような気がするんですよ。でも地元で、長い長い作業所から、このセンターだって2000年からと言えば17年でやっぱり長いですけど。ここを始めるにいたった辺りの感じというのか、その2000年までの20年、その真ん中ぐらいが89年に就学闘争やるんやけど、なかなかしんどいというのが一方であるわけでしょ?それがちょうど真ん中ぐらいじゃないですか、90年ぐらいだから。そういうしんどいな、でもやらなければということをやりつつ、富山でどんな感じで、考えてこられて、あるいは行動してこられたんですか?

平井 湾岸戦争があったのは90年ぐらいですか、アメリカに行くことがあって、反差別国際運動ので。アメリカに行った時に向こうの障害者からも、めちゃくちゃ言われて、日本は科学技術が進んでるのにお前らは何もしないのかと言われたことがあって。で、もうちょっとコンピューターなりなんなり使って、何かできんもんなのかということを言われたのがあって。

立岩 それ、何かに書かれてましたよね※。
※平井 誠一 19910220 「ADA成立のニューヨーク,実感?!――反差別国際運動理事会・国連要請行動/ニューヨーク 1」,『全障連』104:15-19
◇平井 誠一 19910417 「ADA成立のニューヨーク,実感?!――反差別国際運動理事会・国連要請行動/ニューヨーク 2」,『全障連』107:14-19
◇平井 誠一 19920605 「障害者への情報と仕事の提供を!――パソコン通信ネット「LIVE」を開局」,『全障連』113:17-19
◇平井 誠一 19920625 「パソコン通信ネット「Live」の開局」,『季刊福祉労働』55:041-047 1236

平井 では何かしたいとは思ったんですけども。

立岩 そのアメリカの人たちってどういう人?

平井 あの当時、自立運動をやっとった人。

立岩 CIL系の人たち?

平井 はい、ニューヨークで運動やってた人。

立岩 アメリカの東の方に行かれた?後で文献見たら分かりますよ。

平井 やっぱり東かな。

立岩 ニューヨークのあの辺りに。カルフォルニアとかそっちではなくて。東の方に行かれた。で、言われて、お前らもうちょっと世の中進んでんねんと。もうちょっと何かせいと。そういうようなことを言われて、それはある程度必要やなと思ったんですか?

平井 はい。で、日本に帰って来て、富大の先生から、富大改革をしたいと言われて。富大改革って何ですかという話をしたら、当時、養護学校で生徒さんが富大を受験して受かったらしいんですよ。受かったんですが、当時は全くバリアフリーになっていないので、受け入れるにしてもある程度大学の中を変えないといけないと言われてて。僕に非常勤をやらんかと。

立岩 富大の人、知ってるかもしれない。名前、なんて人?

平井 中河先生※。今、大阪にいってます。
※中河伸俊:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%B3%E4%BC%B8%E4%BF%8A

立岩 中河…はい、知ってます。

平井 中河先生とか竹川さんとか、経済学部がおられてたんですが。

立岩 中河さんとは富山の障害の関係の話で相談を持ち掛けられたとか、富山大に非常勤で中河さんに呼ばれて来たことがあるんですよ。帰ったらちょっと調べてみます。

平井 去年か一昨年で辞めたんですけど。

立岩 じゃぁ結構長いこと非常勤講師を中河さんの紹介でやっていた?

平井 去年、一昨年までやっとたんですけど、ちょっと年やからもう辞めました。

■「文福」

立岩 富山へ行った時に、地元の人間関係ってよく分かってないんやけど、八木〔勝自〕さんがちょうど僕が集中講義で行ったんですけど、あれは長野で冬季オリンピックしてた年だわ。まぁいいんですけど、行ったら来てて、彼らがやってたのは何だっけ?
 文福か。あの時に八木さんが教室に来られて、しばらく話したのは覚えてるんですよ。ついでだから、ついでに聞きますけど、八木さんとこと、ここと居て、それぞれやってるよ的な、それだけっちゃそれだけなんです?

平井 もともと八木君を病院から出してきたのは僕なんです。古込さんがおった所と、医王病院と同じ系列の。

立岩 国立療養所ってことか?あぁ、そうなんや。

平井 そこからの77年頃に、勝自を出してきたのは、当時はもうめちゃくちゃ悪者にされて。

立岩 出した時に? 八木勝自ですよね?八木さんって脳性マヒちゃう?脳性マヒですよね。でも国療におった?富山の国療ってなんて名前なんですか?

平井 国立富山病院。

立岩 国立療養所富山病院※というのがあって。今は多分、そこはもう名前は変わってるでしょうけど。そこに脳性マヒの八木さんが入院されとったんですか。
※国立病院機構富山病院:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%97%85%E9%99%A2%E6%A9%9F%E6%A7%8B%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%97%85%E9%99%A2

平井 はい。家族が面倒見れない言うことで。

立岩 家族が見れんからと言って、病院に。あぁそうなんや。

平井 先ほど言うとった高志学園にはいたんですが、結局、高志学園の対象じゃないと言われて、重いから。

立岩 高志学園の入居者の方が、富山病院の入居者の方が軽い?八木さんはまぁまぁ重い?

平井 はい。

立岩 富山病院にいて、77とか全障連が出来た次の年ぐらいからですか。

平井 はい。

立岩 その時に、そうか。平井さんがその手引きをしたという形なんだ。その辺も全然分かってないんですよ。八木さんって結構、いい年ちゃいます?違います?

平井 僕と一つか二つ違うだけ。

立岩 でしょ?後輩という感じではないですよね。でも八木さんが出る時に、でも平井さんが上は上?

平井 彼の方が二つぐらい年下。

立岩 そうなんや。彼なんか富山大の近くに住んでたり事務所があったりするのは。まぁまぁ仲良くしてるんですか? なにか違いってあるんですか? 僕は遠くにおると二つの組織ある、それぞれ、そのね…。言いたくなければいいですよ。

平井 (笑) 僕はいろんな人を大好きだけど、自分の仲間にしとこうというのはあまりないがですよ。なんか出たんだから、好きに生きたらいいんじゃないのという感じなんですけど。あまりお仲間にするためにみたいのは、僕の中にはあまり。

立岩 仲間を増やすために出しているわけじゃなくて、出た者は出た者で自分たちで好きなことをやれば、的な?

平井 困った時は、また関わるよ、言う感じ。僕は運動の基本じゃなくやっている?というのがある。関わらして言うこと聞かせるみたいなのは、なんかちょっと違う。



立岩 確かに。そういうので、その気持ちはよく分かります。基本、その通りやと思います。分かりました、それは本当に知らないことでした。話をだーっと戻しますと、90年にニューヨークとかアメリカの東海岸の方に行って、違うことをやれよと言われて、それもそうかと思って、それで富山に戻って来て?

平井 で、帰って来て、富大の先生に大学改革をと。

立岩 あぁそうか。当時に富山大学に入って来た人がおるし、というので非常勤講師になって。その講師をやるプラス、それこそ大学のバリアフリー云々に関わったんですか?

平井 はい。結局、国費がいるとか言う話で、僕が働くというで結構金を取ったみたいですね。

立岩 その手を使って。障害がある人を非常勤講師に招くから、それに際して大学としてもみたいな話で国からお金を引っ張ってくると。それはあるでしょうね。

平井 それで大学の中を結構バリアフリー化していったように思う。その後に八木君が非常勤講師になっとるんじゃない、僕がなって何年後かに多分増やして。今は彼ももう辞めたんです。

立岩 僕がちょうど中河さんに呼ばれて、その頃ですね。富山大は富山大でそんな感じで。富山大の改造に関わられる。

平井 もう一方で作業所の中で、当時インターネットはなかったのでパソコン通信というのがあったんですけど、それを富大の大学の教授とパソコンに詳しい学生がおって、一緒にパソコン通信をやるためのあれを立ち上げて、施設とか在宅の障害者に仕事を出そうということで、在籍したんです。で、わりと施設の障害者は乗ってきて、仕事をやるようになっていった。今はもうちょっとやれてないんですけど。

立岩 それってインターネットが普及すると、しばらくインターネットのページをつくるとか、そういう仕事が出来る人はそういう仕事で稼いだりあったじゃないですか? でもおっしゃるように、ホームページとかそういうのが普及するのって96年、97年ぐらいですよ。そのちょっと前ですよ。その時のパソコン通信仕事って、具体的には何だったんですか?

平井 出版社の原稿の打ち込みが多かった。ちょうど大学の先生の知り合いで出版社の人がおられて、そこから仕事を出してくれることになって。それを施設の障害者とか在宅の障害者とかに、やってもらうという形で。

立岩 それは原稿をパソコンで打ち込む仕事という感じですか。それともゲラというか版下をつくる仕事ですか?

平井 いや、打ち込み。

立岩 それもたぶん、一時期のあれだよね。その後になると、皆、最初からパソコンに打ち込むから。そういう仕事も無くなってくるじゃないですか。でも一時期は確かにそれはありました。端境というか、手書きの時代からパソコンが完全に普及しちゃうまでの数年間。その期間はそういう仕事をつくって、それが90年代の頭から半ばぐらいですか。

平井 半ばくらいまでですかね。

立岩 それも時代の流れで。



平井 90年代の終わりごろは、もうちょっと制度が変わりそうだという話が流れてきて。

立岩 そうか、介護保険ですね、2000年だと。

平井 障害者自助関係は皆、ヘルパー派遣の方にいきましたよね。3億とか何憶、儲けてビル建てたという話もあったんです。僕はそんなのはあまりしたくなくて。相談業務をやろうかなということで。相談だけに絞りたかった。養護学校とかいろんなところを見て来た時に、どうも働ける人がいない、養護学校の中では。

立岩 働けるというのはどういう意味での働く?

平井 仕事が出来ないというか、知的と身体と重複している人が結構多かったので、これは働くよりも、生活の方のことをやらないと、生きていけないんじゃないかと思ったのがあって。

立岩 それはまた介助というのとは違う?いわゆる、賃労働ではないと?代わりにというか、その人たちに必要なことというのはどういうもんだったと?

平井 難しいんだけど(笑)、今だと福祉サービスありきになってしまっとって、ありきの中で生きとられる感じの人が多いような感じがしとって。僕らがやってきた70年代、80年代で障害者が自らやりたいことを形にしていくことが、出来なくなっちゃうんじゃないかと、すごい思っちゃったのがあって。やっぱり福祉サービスありきじゃないところの生き方みたいのが、何か作っていかんとあかんのじゃないかというのがあって。それを目指したいなと思いながらやってきたのと。自分も年を取ってきたから、若い人たちを育てていかないと、これは大変なことになっちゃうなというのが思いとしてあって。若い人たちにもうちょっと、どういうのか、自分の生き方をつくっていけるようになってほしいというか。福祉差別ありきじゃないところの生き方ですよね、つくってほしいなとか言うのがあって。今、こんなことをやってるが、なかなかうまいこといってませんが。

立岩 ここを組織として、たぶんね、CIL的な流れも基本はそれはそうなんです。ただ、初期にそういう人たちと関わって、今で言う相談支援的なものにどれだけ予算とかをつけてもらうかというところで、一緒に動いたことがあって。一時期そこそこ金は出てた時もあったんですよ。で、それがむしろ撤退して、介護の方しかお金的なものとして残らなくなった。そこの中で、介護で稼いだ金を別に使うみたいな、そんな感じでこの十何年流れて来たと思うんですけど。それはいい悪いは別として、仕方がなかったかと思っているんですが。ここの事業所というかセンターは、お金の流れ的に言ったら、介護派遣をやっている?

平井 やってないです。

立岩 このセンターの例えば、これは借りている?

平井 ここは富山市の委託事業でやってるのと、生活相談の方の収入で。

立岩 ここの賃貸とかは富山市の委託という形で取っている?

平井 はい。

立岩 基本的に相談系のお金でなんとか回しているという?

平井 そうそう。

立岩 大変ですか?なんとか、なるもんですか?

平井 僕は自分の給与を下げて今やってますけど(笑)。なかなか難しいけども、結局難しい人たちのことは皆こっちに来ちゃうんですよ。人がやらんようなことも、皆こっちに来ちゃうので。

立岩 結構そういういろんなところで対応がなくなって、しょうがないからあそこへ行けという、そういう難しい事例というのは結構、数が来る?

平井 来てます。皆、関わりたくないケース。

立岩 それをなんぼか国の事業、プラス富山市のお金で回してやっているという。

平井 はいはい。なんでヘルパー事業所をやらんかというと、結局、ヘルパーというのは健常者がやりますよね。そこに自分たちがどういう位置でおるのかというと、結局事務処理的なことだけしか残らんような感じもして。僕は青い芝に関わっていた頃って、青い芝ってすごい自助努力のところだったんですよ(笑)。若い時は青い芝は他の軽度が重度の障害者の介護をやったりとかいうことも結構平気でやっとったんですよ。だから僕もわりとやってた時があって、重度の障害者の大便とかおしっことかさせとったがです。そういうのもあって、介護いうのは介護者任せじゃなくて、自分らが助け合いの中で何をしたかったというと、結局あの青い芝で関わってた時に言われたのは、健常者に文句言えるように自分らが関わるんやと。健常者にお任せしとったら、自分らは文句言えなくなるやろって、欠損重度の障害者も文句言えないやろって。だからやれる者がやって、健常者に向かっていろいろ言えるようにしないとあかんがやとか言う話をされて。自分はそれに納得したところもあって。わりと動ける時はやっとったがです。ご飯食べさせたりとか、トイレ介護もやってたんですけど。

立岩 実際、つい先週数日前も京都にいて、私は大学院で働いているんですけど、そこの大学院生をやっている脳性マヒの男がやっぱり京都市内でセンターをやっていて。介護派遣の部分が大きくなればなるほどね、事務仕事が増え、健常者がやる仕事が増えていく中で、自分たちがどういう形で主体性を維持するのかということで。組織改革のプランというのを持ってきて、これでいいかみたいな話を相談したりする。確かにややこしい、いろんなことがありますよね。確かにやればやったで難しい問題が出てくるでしょうし、実際出てきてますよね。
 それで、この事業やっていくだけで手いっぱいという部分があるし、それはあかんからというところもあるだろうし、結局、それもあんまり考えてもしゃないなという中で、他の一般的な事業所と変わらへんやんというところも出てきているやろうし、いろいろだろうと思いますね。

平井 でも最近流れで、ディサービスでリハビリをやらんといけないと言われるようになってきて、「ため」のリハビリみたいなのは僕はちょっと違うんじゃないのがあって。

立岩 ディとかはなんだろうな、というのがありますよね。

平井 それよりも実用生活で必要な中でリハビリ的な要素が入って来た方がまだ本人にとってみたら、身に着くことじゃないかいうのがあって。リハビリするための、じゃ、なんかちょっと違うなっていうところがあって。

立岩 それは私も結構、身近にそういうことがありますわ。



平井 介護も昔やってきた介護とは、今の介護のやり方がちょっと違うなと言うのがあって。僕はあえて言うんやったら、地域で生きるために皆して、もうちょっと闘うように言う。生きるために闘う介護みたいなものも必要なんじゃないかなという感じを持っていて。与えられる福祉サービス、与えられるヘルパーみたいなものになってしまってるようなところがあって。なんかちょっと、どういうのかねぇ、これからやってもらってるみたいな意識的に…積極的に生きることが今必要なんじゃないかというのがあって。

立岩 結構、それは永遠にずっとある話で、ただ、一つの考えとしては生活のベーシックな部分、介護は介護であった上で、プラスアルファな部分をやっていこうという運動ならやっていこうと、分けて考えましょうという流れも一方でやって来たし。それですっきり上手いこといくんやったら、それでいいのかもしれないけど、実際にはそうでもないよね。わけてどっちも上手いことやりましょうというふうに、そんな上手いこといってるかと言ったら、そうでもないよねということは実際あると思うし。おっしゃることは分かりますね。
 もう二時間過ぎてしまったので、そろそろ。僕としてはそんな時間を取らしてはいけないと思うので。メールでちょっと書きましたけど、うちで岸田〔典子〕さんという大阪の高槻の方に住んでいる大学院生がいて、その人は銀行に勤めていたんですが辞めて、今は高槻のNPOで。全盲の人なんです。で、楠さんのことで博士論文を書きたいと言いってて、やれよと言って。ところが途中で楠さんが亡くなってしまわれて。死人に口なしなので、どうしましょうということなんですよ。今、それでしゃあないねというんで、周辺の人にちょっとずつでも聞いて回ろうやというので、やってるんですけど。
 最後にというか、突然また40年ぐらい戻ることになりますけど。別に楠さん一人ということでもないですけど、先ほど神奈川の方の横塚さん、横田さんのお話はちょっとお伺いしましたけど、楠さんのことで、あるいは楠さんに限らなくてもいいんですけど、全障連の当初の人たちのことについて、何か印象というか、特に記憶に残っていることであるとかはどうでしょうか。楠さんってどんな感じの? 
 僕も昔、「楠研」というのがあって、楠さんに呼ばれて楠さんの前でしゃべったこともあるので、全然知らないわけではないんです。全く知らないわけではないんですけど、平井さんにとって全障連のメンバーといったら、どんな人たちだったのかを最後にお伺いしましょう。

平井 楠さんはわりと理論的な人だったので、どっちかというと反権力意識が強かった人かなと思うんですが。僕にしたら、わりと相談した時にこういう風な形で運動を進めたいんだと言った時に、後押しをしてくれたところがあって。

立岩 平井さんがこれこれしたいって言った時に、いいよみたいな。具体的に何をしたいということでした?

平井 さっきの話だと、石川重朗君のとき、天皇さんが亡くなる時に皆Xデーだから、やらんほうがいいと言われた時も、これは差別問題としてきちんとやっとかないと、天皇が亡くなる事とは関係ないじゃないかということで、分けて考えていける人だった。自分らが何のために運動やるんかということが、きちっとしとった人やと思うんで、そういう意味では僕にとっては、一緒に切り開いてきた人かなと思える人ですけども。あとはやっぱり、70年代は皆、若かったので、夜更かししながら議論白熱して、殴り合いとかも結構あって。そういうことしてまで、自分たちが何に向かって運動をやるんかと言うたことを確認し合ってきたというか。そういうところでは、腹割って話ができてきた人かなと思うんです。

立岩 平井さんにとっての全障連というのが、どういう形で変化していったのかとかよく分からないですけど、平井さんにとってまだ全障連をやっていた時は多少、知り合いがいたので何となくやってはいるんだけど、動員とかも難しくなったしで。難しいよねという中で、毎年集会とかもなくなって。しょうがないかなとDPIもできて、そこそこちゃんとしてるし、いいかなみたいな。ぶっちゃけね。そんな感じの流れで何となく来たかなという、そうとしか言いようのないなという感じは何人かの人と話をしていて、分かるので。聞かれると答えようがないということもあるかもしれないですけど。平井さんにとっての80年代半ばごろの、なかなか難しくなってきた以降の全障連というか、あるいは今、振り返って全障害連は何だったのだろうなというのは、今思ってというのは何かありますか?

平井 やっぱり全障連が目指してきたものは価値観の変革かなと思っているんですが。障害者に??価値観の変化を行ってきたのが、全障連運動なのかなと思う。あの西岡君が障害者差別の定義を書いていた時、一つは能力差別、もう一つは身体??差別。あと予断と偏見による差別と、あとは価値観の相違による差別みたいなところで西岡君がずっと言っときとって。そうやなと思いもある。
 これだけやってきて、何が一番変わったかと言われると、僕は交通機関。JR、昔は国鉄でしたけど、それが大きく変わったところかなというのがある。で、ヘルパーについては一応、公的なサービスということで掲げて運動をやってきたんだけども、運動をやらない障害者も含めて地域で生きることを勝ち取っていくという意味では、公的サービスというのは、その障害者の能力に関係なくサービスを受けれるという意味では、大きなものとしてあると思うんですけど。ただ、今、古込さんもやってますけど、実践だと結構、個人の資質というか個人の能力みたいなものが問われるから、そういう意味では誰でもいう訳にはなかなかいかないかなというのもあって。その辺の介護の問題はもう一つ、自分らが踏み込んで出来るのかなというのはあるんですが、もう一方はうまいこと丸めこまれたなと思うのは、地域で共に生きるというスローガンは国にそのままくるめこまれたなというのがあって。本当の実態はと言われると、なんもないじゃないかというのが自分の中にあって。
大きく言っちゃえば。そんなに70年代から、障害者に対する価値観は変わってないんじゃないかというのがあるんですけど。むしろ変えないといけないのは、価値観を変えていくことが今、大事なんじゃないかなというのがあって。福祉制度が変わっていくことによって、価値観が変わるかと言われると、これだけ見てきてあまり変わる感じは、僕はしていないんですけど。そういう意味では、全障連運動の中でやっぱり価値観を変えていく運動みたいなものが、もっと必要だったのかなというところも思うし。そのままでDPIに移行すればいいとは、あまり思っとらんかったような感じも僕はしとるんですが。やっぱり全障連運動として残したいものがあったような気はしたんですけど。



立岩 組織としてどこまで大きければ続けられたかというと、いろんなものがあって、あの規模で70年だと、ああいうスタイルで、たぶん今の時期っていうのは無理な理由はいろいろあると思うんです。ただ70年代、他の国の障害者運動に比べてもね、反差別というのは一番はっきり言ったといえば、全障連だと思うんですよ。そういう意味で言えば、言った瞬間に変えたというか。言ったからといって変わらないんだけれども、でも変われと言うのと、変わらなくていいというか、何も言わないと全然違うから。言った瞬間に、続くというか。そういうのはあるかと思います。西岡さんの定義はその4つでしたっけ。どこで載ってるか覚えてらっしゃいますか。

平井 何回大会かな。何回大会かで言うとるんですよ。

立岩 僕は今回、明日金沢に行って、古込さんには明日ちょっと会おうと思っているんですけど。意外と皆が心配したよりは身体は保ってるみたいです、まぁまぁいい状態みたいですけど。もちろんメールで書けばいいだけの話ですけど、何か伝言というか何かあったり?

平井 (笑)僕は今は彼がどんどん、どういうふうにしていくかを自分で手探りしていく時期やと思ってるんですけど、やっぱりただ、いろんなことをやる時に地元で仲間をどういうふうに作っていけるのか、増やしていけるのかということがないと、なかなか、こんな田舎いうたら…金沢いうたら都会なんですけど(笑)。なかなか難しいところあるなと思うのが、彼自身がもうちょっといろんな人たちとやれるものを探ってもらえばいいのかと思うんです。

立岩 彼もなんやかんやといって47,8で、出たのが遅かったかもしれない。でも本当にさっき言いましたけど、身体が保たないと本当に心配してて、それが当面大丈夫そうだから、そういう意味でいえば、これからでも試行錯誤というのが時間的にきくとは思ってるんです。明日、古込さんに会うんだけど、僕は分からない人ですけど、同じ医王で斎藤さんという方がお一人出たいみたいなことを言ってるらしくて、ちょっとそれに相談をする人たちの話をね。もし続くことがあるかもしれないです。本当にあと半年しかもたないのではないかと思ったので、それはまぁ。たぶん、もっといけるやろと思っていて。それやったら平井さんがおっしゃったように、これからでもね、いい年やというけど、つながりを作っていける時間はあると思うので。明日はどう?と様子をみてきます。

平井 僕の友だちが山梨にいた。去年亡くなってしまって。?二次障害で。ちょっと一回目の手術が失敗して、二回目をしたんですけどちょっと遅かったがです。

立岩 頸椎の手術をした?難しいですよね、確かに。

平井 気管支を切開して、人工呼吸器をつけとったんですけど。突然悪くなって亡くなったんですけど。その友達も東京都と世田谷で横山君と一緒にやってた人。今井さん。一緒にやろうかと思っていたのがあったがやけど、なかなか。

立岩 その山梨の方と、でも亡くなってしまった。

平井 ちょっと距離的に遠かったのもあって。

立岩 一人ひとり皆ね、考え方が違うし、どこが得意とか、どこに力を入れようかと違っていいし、違った方がいいと思うんですよ。何種類か出て来ると、石川、富山、新潟と厚みが増して。そこの中から、自分はこういう方向かなと。

平井 昔は皆、つながっとったが、新潟も。新潟のあの人たちも一緒に運動やっとった。金沢も福井もいたんですけど、皆、亡くなっていったりとか。

立岩 それは死亡したということ。一旦は、日本海側のいくつかにつながりがあったと。新潟、富山、石川、福井。

平井 4県でわりと一緒に運動をやってたことがあるがですが。

立岩 自然減って辛いですよね。山梨の方も。僕も何年かの間に。

■犬塚

平井 犬塚勝二さんが関わっとる。

立岩 犬塚勝二さんは僕はあまり直接には知っていないです。私の後輩で市野川というのが、あれが僕と同じ学科なんですよ。あれが4年下で、あいつはずっと犬塚さんのところの介護に関わっていてというのがいる。もう一人斉藤龍一郎という今、アフリカ日本協議会をやってるのも、金井闘争の辺りから犬塚さんと関わったんです。私は両方の知り合いなので、犬塚さんを知っていて。障害学会という学会があるんですけど、そこに二度ほどおいでになったことがあって、それでちょっと知っています。

平井 彼はもともとは金沢にいて、結婚しとった。彼は解放派に誘われて東京に引っ張られて行っちゃったんです。

立岩 あの人はだいぶ長いことやっていた、でも数年前に辞めたんちゃうかな、足を洗ったという話を聞きました。

平井 僕はなんで東京行くの?という話しをした。古いつき合い、青い芝の頃からの。彼は青い芝をやっとったんで。

立岩 富山なり石川なりの青い芝ってほとんど伝説の昔のみたいなかんじで、その時の書類などどこかに誰か持ってたりするもんなんですか?ないですか?

平井 うーん、ないんじゃないかな。ないと思います。

立岩 京都にも青い芝はあったんです。殆ど何も残ってないんじゃないでしょうか。

平井 京都の三宅くんがいた頃、結構やってた。

立岩 ぽつぽつ皆あるんだけど、殆ど今は何か。兵庫、大阪、神奈川あたりが残っていて、機関誌とかあるので、それで僕らはかろうじて知るんですけど。他は本当にないですね。今回、僕は3月に呼ばれていて、福島の白石さんとかに。白石さんのところで話させていただいて、その前後に福島の話をちょっと伺ってみたいと思って。福島も結構長い動きがあって。長いしそれが震災につながるんです。東日本震災の時に白石さんたち、結構活躍して。それは兵庫の大賀重太郎さんとかもそうですけど。あの辺の例えばゆめ風基金かそうですけど、ああいう流れみたいなものも含めて調べておこうかと。うまいこと行ったら福島の方は、今年は無理かもしれないけど、来年ぐらいまでに白石さん、橋本さんとかに聞いて回ろうかと※。もしどこかで何か見つかったら、紙的なもの、取りに伺いますから。
※青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10 『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』,生活書院

平井 北陸はわりと青い芝は浮いてしまったから。金沢と富山が最後まで残っとたんですけど。

■高真司

立岩 高真司は金沢ですよね。

平井 あの人が亡くなってから皆?金沢は。

立岩 高さんが亡くなったことによって、絶えていったという感じですよね。彼は裁判やったり、それこそ井上さんが入ってくれて最後は勝ちましたよね。(そうそう)あの手の裁判で勝ったって、ちょっとないと思います。あれは画期的な判例なんですよね。高さんが亡くなってからだいぶ経ちますか。

平井 10年ほど経つかな。

立岩 そんなにたくさんの人でやってない地域って、やっぱり中心になる人が…

平井 亡くなると終わりです。

立岩 僕は平井さんはまだ、だいぶやると思いますけど。(笑) 若いというか。どこでもそういう話に最後はなるんです。あと10年後、どんな感じです?

平井 いやぁ、何とも言えない。何をやっていけば残るのかなというところ。

立岩 これもよく言うことなんですけど、僕は30年前ぐらいの時から聞き取りに行っていて、最後は同じ話になって。後継者いないよね、どうしたもんかねということを言っていた、皆、同じ愚痴を言って。僕はそれを聞いて。でも30年経って運動は死に絶えていないわけですし、何だかんだ言って30年前に、なんだあの若造とか言われていた10代20代が引き継いでいるんですよ。というふうにわりと楽観的に思っていて。皆あと10年なくなるというわりにはなくなっていない。というちょっと明るい気持ちになりたいなみたいな。

平井 全障連の時、あの結成された時、僕が一番の若造だと言われたの。

立岩 そうですよね、完全に若造扱いでしょう?一番若い人を入れておくか、みたいな。

平井 でも☆僕だけが全国を飛び回っとったのは、僕は結局仕事を辞めてしまったから。

立岩 かえって身動きが取れたというか。

平井 はい、一番飛び回れたんです。

立岩 じゃぁ、楠さんであるとか、関西の人は関西におるまんまでという感じ。

平井 という感じが多かったです。

立岩 ほんまは遊撃隊的に全国を回ったのは平井さんだったという感じですか。

平井 大会の準備に回っとたのは僕と尾上さんと本田さん。関西の本田実子さん。あの人と3人で大会の準備を殆どしてきたので、毎年、毎年。

立岩 場所を借りるのも大変ですよね?

平井 そうです。

立岩 大学を借りた時も??とか。第3回はなんだ、阪大もあるか、大阪市大とかも。

平井 ありましたね、京大もありました。

立岩 金ないでしょ、全障連。

平井 はい。なかったです。

立岩 どうしていたんですか、金のやりくり。

平井 大会をやる時は、殆ど県とか市とかを巻きこんで、そっちから金を出すようにしたんですけど。

立岩 結構、交渉して。それなりに出しました?

■組合/八柳/矢内

平井 出しましたね。あと労働組合が多かったので。

立岩 まだ組合が今よりは強かったんだ。

平井 そうです、自治労とか。

立岩 そうですね、自治労がやっぱり大きいですか。

平井 働く障害者も多かったので、わりと自治労の中では障害者の人たちは運動としてはやりやすかったみたいですね。

立岩 僕も70,80年代の自治労会館で結構、会議と言うのか。実際、自治労の人、八柳さんは組合系ですよね。

平井 矢口さんも結構、労働組合強かった。

立岩 矢口さんは明大の生協でしたっけ?ないとは言っても大会ごとに、大会をぎりぎり成り立たせるぐらいの金は集めて、何とか転がしてたということですね。でも、それぐらいがぎりぎり。

平井 でもわざと行政からの補助を取るのも、ある程度こっちの運動を認めさせていこうということで交渉をやってきているので、めちゃくちゃひどい行政もあったんですけど、障害者運動というとどっちかというと、変革させていかないとダメなんで。横っちょでいろんな手を使いながら、入り込んでいくことを考えてやってきたんですけど。

立岩 そういう現場で誰が回していたかって、それで私の80年代の終わりに少し本を書こうとか研究しようとかになって。全障連の大会報告書を全部、端から端まで見るんですよ。そうすると、役員の中に平井さんがいるというのは書いてあるから分かる。でも誰がどういう働きをしているのは、当たり前ですけど書いてないじゃないですか。何が決まったのかとか、何を主張するということは書いてあるけれども。だからこうやって聞かないと、実際には現場を。
 例えば大賀さんって本当に縁の下の人で、主義主張もあったし、性格もよかったやろうけど、絶対表に出ない人で。だから彼なんかは書き物だけ見てたら全然分からないけど、ちょっとでも裏を知っている人がいると、あの人がいないと、みたいな。彼も最後は事故もあったり、でもその前に阪神淡路があった時に、どうのこうの言うてられん、というところで表に顔出して活動するようになりましたけど。その前って本当に見えない所にやられてた。僕は非常に尊敬している方ですけれども。

平井 でも政治家を動かすのはすごくうまかったです。いろんな闘争やると政治の世界を回さないと、どうもこうも動かないのもあって。教育なんか特にそうですね。

立岩 僕らは80年代の終わりぐらいに大賀さん、まだ二日市さんがご存命だった時に、二日市さんのお宅で「障害者の10年研究会」というのをやっていて。確かにその時に大賀さんは二日市さんの車いすを押したりしておられて。その時にやっぱり石毛さん、堀さんとか国会議員が二人ぐらいいたり。なんやかんやで、そういう議員周りとかそんなに表には出せないという話ですよね。今の『福祉労働』に関係するような人たち、北村小夜さんみたいな人たちが何カ月が一回、二日市さんの所に集まっていた。その時私も見学みたいな形で出させてもらって。

平井 福祉労のあの人はわりと詳しかったな。小林さんは?を知ってる人だと思う。

立岩 でしょうね、そうだな、小林さんに聞いてみようかな。小林さんは横田弘の介護から始まった人ですよ。詳しいですよ。表に出ない話も聞いておかなくてはいけないですよね。

平井 今ね、政治を動かせる人がいないから。

■共同連

立岩 政治の配置も変わってしまって。こないだ共同連の大会を大学でやって久しぶりに堀さんたちに話を聞いて※。まぁ元気にやってられました。
※斉藤 懸三・白杉 滋朗・堀 利和 i2019 >インタビュー 2017/09/03 於:共同連大会・立命館大学

平井 堀さんとしばらく会ってないですね。

立岩 あの人5年間ぐらいすごい鬱だったんですよ。だったらしいんですよ。全然名前を聞かないし、何をしてるのかなと思ったら本当に病を病んでたらしくて。すっかり元気になられてこないだは。

平井 斎藤さんは?

立岩 めっちゃ元気でした。あの人元気やわ。

平井 若い時はよく縣三さんの所に泊まりに行ったことがあって。

立岩 平井さんは全国会場を世話し、なんやかや回ったから、そういう地元の人に泊めてもらうことが結構あったんだ。名古屋は斎藤さんのところ?

平井 はい。

立岩 それが見えてこないんだよな。

平井 わりと泊まりながら一緒に大会やるための準備で、組合回ったりとか会場回ったりとか、障害者団体を回ったりとかいうことをやってきたので。僕はあまり華々しい所をやってない。華々しい所はここがやってる。

立岩 そういう持ち場だったということですね。僕は東京にわりと長いこといたもんですから。東京の立川の自立生活センター立川に10何年関わってました。そこは高橋修さん(19480725〜19990227)という早くに亡くなられた方が代表で、野口〔俊彦〕さんという筋ジストロフィーの人が副代表で。全然、キャラ、性格が違うんですよ。それが上手い具合に。そういう仲になるとうまくいきますよね。

平井 そうですね。高橋さんが生きとった頃に全障連の大会があった。

立岩 そうですよね、あの時同じ年に全障連も共同連も一緒にやったんじゃないかな。すごい年。あの時はまだ全障連は生きてたというか、大会は成立してたんだ。

平井 あの頃はまだ(笑)。

立岩 要するにお金を集めたり、会場を集めたりということが、だんだんしんどくなってきた感じですかね?全障連が毎年、大会できなくなっていくという。

平井 というよりも、なんか課題が結構広がっちゃったからかなと思うのがあって。分散していってしまった。例えば精神障害の方の運動と言うのは70年代やったら、わりと学生運動をやっている人たちが精神病院にかかって運動やることが多かったんですよね。で、当然課題は保安処分とか、強制的精神病院に入れられたりとかすることに反対するのが多かったんですけど、80年代になって他の精神病者も関わるようになってきて課題がそれだけじゃなくなってきたのもあるんです。家の問題とか。アパート借りる問題とか。医療を受ける時の保険の問題やったりとかいうことで、どんどん広がって来てたのがあったのもあるんですけど。
 僕見とったら都会と田舎の課題の違いが出てきとったのかなというのもあって。都会はそれなりに人が集まって運動として行われてるけど、地方に行くと一人とか二人とか三人とか言うのが多かったので。大会に行っても違いを感じてきたのが多かったのかなと思うのもあるんですが。だから、当然課題となるものが違ってきたと言おうか。というのも大きなところなのかなと思うのもあります。やっぱり都会を中心に拠点みたいなものを作って、拠点の?運動として結構行われてきてるところがあったから。田舎から来た人からしたら、すごい課題の距離を感じてしまうのがあって。そういうのがありましたよね。今はどうなんでしょう。

立岩 相変わらず人が少ないところには運動に関しては、それはそうなんでしょうけど。実際に行き来するのも大変なんでしょうけど、ただつながろうと思ったらいろんなやり方はある意味ではあると思っていて。そういう意味では少し状況も変わり得るというか、変えられるかなとは思いますけどね。今回の古込さんにしても中ではいろいろあって、何でもすべてがうまくいってるわけでは決してないけれども、でも彼が80年代とかであれば、いろんな人にメールでとかやり取りしてこの話を始めるというのも難しかったであろうし、そういう意味で言えば、病院とかで通信手段を奪われてしまうと、もうどうにもならないですけど、そうでもなければ田舎の人でも繋がってやり得るような状況は多少増えて来たという。それでちょっとずつ、そんなに空想的な話でもない。じゃぁ、ちょっと全障連は岸田さんという人に仕事をしてもらって、もう少し何年の時はというようなことを言われても困るやろうとは思うけど、また細かい話を伺うこともあるやもしれませんけど。もう、今日は3時間経ってしまいましたよ。すいませんね、もう。こんなに長いこと。

■資料がある

平井 あの、一回、時間がある時に来てもらえばいいんですけど、全障連の資料は結成大会から終わりごろまでのはあるがです、ここに。裏側の体験室にある。押し入れにいっぱい。

立岩 それは大変でしょう。それね今、どうしようかという話があって、手をつなぐ親の会ってあるじゃないですか、育成会。あれの全国の代表をやっているのが滋賀の人で、その人にうちの大学院生がこないだ行ったら、段ボール8箱分あって、それどうしようかと。全部コピーさせていただくと、これが段ボール8箱が16箱になるみたいな話になって。どうしようかと。あと一週間後の2月4日に、相談に伺うんですけど、今言っているのは、預かりますと。お預かりして、帰せと言われたらいつでも返す。で、何年から何年のものとか、この大会のやつとか、特定のやつがほしければこちらで送るという風にして。つまりそのために、研究室を使ってリストを作って、どういう報告書とかがあるのかをデータベースにしてネットで見れるようにして。特にそれを??する人は特権を持っているので、これが見たくなったと言ったら、こちらは宅急便で送るという、そういう契約の上でもし全障連一式とか、そういう話に乗っていいよということであれば、また押し入れの整理にいつでも伺いますので、その気になったらお知らせください。
 それが育成会が4日でしょ。もう一回16日にりぼん社『そよ風のように街に出よう』が終わっちゃったじゃないですか。で、あそこは河野さんが亡くなられて、小林さんからメールがあって、私に引き取れやと。それをみんなあげると言われて、それを一部屋分、来月にもらいに行くんですけど。

平井 あそこに青い芝のあれ、いっぱいあるかもしれない。

立岩 行って、小林さんにちょっと話を聞いて、それでまた…。

平井 もともとりぼん社って関西??の発祥地だから、いっぱいあるかもしれない。

立岩 何があるやろと、まだ行ってないので分からないですけど。行って確かめてこようと思って。今、あと10年くらい経つと、誰もどこにあったのか何も覚えていない状態になりえると思って。あと10年ぐらいが勝負かなと思っていて。その間に集められるもの集めて。話聞けるところに話を聞いて回ってということを思っていますね。

平井 ここの年次リストは作ってあります。リストは打ち込んである。タイトルだけ。

立岩 それはコンピューターのファイルになっているんですか?

平井 はい。一応第何号、何号という形でリストにはしてある。

立岩 僕らのところも一番最初は、私が大学院生だった80年代の終わりぐらいに自分がやったメモがあるんです。それが巡り巡ってまだ残っていて、それにちょっとうちの人が加えたデータがあるんです。それを例えば、ワードのファイルでもなんでもいただけば、それはそれでちゃんと取っておいた上で、大会の報告集であれば目次も拾ったものがあるんです。それをデータとデータを合わせて毎年の報告集のかなり詳しいデータベースみたいなのを作って、ホームページに載っける。現物は、富山にある。あるいは京都にあるという形を取れると思うんです。もし、わりと探してあるようでしたらデータのリストをいただけると大変ありがたい。

平井 送ります。

立岩 著作権は、ここのセンターでも、平井さんでも、作った人でも誰でもいいので。その辺はちゃんと記載するようにして。正直、今日お話を伺うまでは、平井さんがそんなに毎年の大会に飛び回っていたというイメージがなくて、そこは新たに伺って、あぁそうなんだと思ったんです。

平井 そこの辺は大会ではあまり報告なんてしないし。

立岩 でもういう人はいないと大会ができないでしょ。高橋修ってそう言う人で、あの人は絶対前に出ないですよ。大体どんな大会でも、全障連の大会でも共同の大会でも、一番後ろの方にいて、誰かと当日はだべっていて。それまでの準備は大変なんやろうけど。会場の手配をしたり、そういうことしかしない。彼が亡くなって残された、彼自身が書いたものも何もなくて。でも彼が亡くなった80、90…その時までにインタビューを4回ぐらいしたんです。それが、あるはずの紙のデータが一つ二つないのがあって肝を冷やしているんですけど。とにかく、そういう裏方という人がいないと成り立たないものというか。そういう人は無理やりにでも話をしてもらわないと、書かないというか、書くことを良しとしていない人たちもいるんで。大賀さんも基本そんな感じですよね。

平井 僕もあんまり前に出たい方じゃないので、下準備だけはしてきた。

立岩 まずはそうですね、全障連の方のリストをもらって。大賀さんの時も、大賀さんが亡くなられて、やっぱり彼のことを慕っている人たちに??を載せたりとかされましたけど。

平井 彼も結構、やる時はやる人なので。僕とは波長があったんです。

立岩 基本、優しい人やけど、でもそうですよね。押すとき、金出さすとか政治家と何かするとか、押すときは押すという人ではありましたよね。多分、人によっては優しい面というのか温厚の面、控えめな面しか知らない人もいたり。
 まず、紙の資料のことを段取りさせていただくことがあるかもしれませんけど、その節はよろしくお願いします、という訳で予想をこえて長い時間お付き合いいただきありがとうございました。それでですね、基本的にはこれは外注して文字化してもらいます。それでそのまま公開することはしません。ただ見ていただいて、ここから、ここまでいいよとか、あるいはここは変えた上でいいよとか、消した上でいいよということであれば、ホームページにそのまま載せていただくことは、こちらは歓迎です。またそれはやり取りさせていただきまして、お願いできればと思います。承諾を得ずして何か、そういったことをすることはありませんから、その辺はご安心ください。
 生年月日まで教えていただけるといいんですが。1953年の、

平井 5月10日。

立岩 雪がどういうことになってるのかなと思って来たんですけど、わりと大丈夫でした。

平井 今晩から降るが。

浅木 一回、とけたんですよ、これでも。

平井 道がもうガタガタで圧雪状態だったんです。

立岩 すごい積もってたらどうしようと思って来たんですけど。それよりはよかった。今年はちょっと寒いですね。

■本田実子/黛

平井 寒いです。マイナス5度とかいう日があります。本田実子さんに聞かれるといいけど。本田実子さんと大賀さんは、わりと足があった人なので、結構一緒にいろんなことを動かしてきた人なので。

立岩 本田さんのお名前は存じ上げていて、たぶんお会いしたこともあるんですが、長いこと正直言って忘れてました。やっぱり事務局的な人に聞くって大切なことで、でも僕は最後に会ったのが20年前とかそういう感じだと思うんです。

平井 結成大会から大賀さんがやっとって、途中から本田さんがやっとったので、最後まで本田さんがやっとたので。[…]

立岩 すいません、来て早々話し込んでしまい。名刺も差し上げずに。ではまた資料のこととか連絡を差し上げようと思いますが、超長時間になってすいませんでした。前にも言いましたけど、元の元は新潟なので、雪はそこそこ慣れてはいるんですけど。

平井 あの先生と知り合いなんですか、今佐渡におられる。

立岩 あの医者?知り合いです。(笑) なんだっけ、あの変な人。

浅木 あ、分かった、黛さんだ。

立岩 変だよね。

平井 いい医者とは思えんような(笑)。

立岩 黛さん、前にずっと新潟市にいたんだけれども、その時に高橋修とか知り合いで、その後何を考えたんだか、僕は佐渡の生まれなんですけど、 黛さん小木に引っ込んで、あそこのばあちゃんたちとの集まりでお前何かしゃべってくれと言われた時、それだけはご勘弁をと言って。(笑) それっきりなんですけど。[…]
 昭和30年代って結構、雪降ったけど、その後は雪降らなくなってたんですかね?

平井 僕は三八〔昭和38年の豪雪〕の時か。施設がまるごと埋まってしまって、真っ暗でした。一階がみんな埋まってしまって。

立岩 僕は35年なんですけど、38年って僕の弟が生まれた年で、去年母親が亡くなったんですが、その時、雪で踏ん張ったというか早産になったから、それで3月に生まれたんじゃなかったかな。本当かどうか、そんな話を聞いたような。そうなんですよね、38年、63年と豪雪だったんですよね。それっきり、だんだん降らなくなりましたよね。

平井 どうもそうなんです。




UP:2019 REV:20190923
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