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斉藤龍一郎氏インタビュー

20171013 聞き手:末岡さん他 於:


斉藤龍一郎先生
※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、
聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。

【11上01】171013_001 斉藤龍一郎_122分

末岡:じゃあ、改めまして。今日は、

斉藤:なんか仰々しいんだけど。

末岡:教育学研究科、修士1年の末岡と申します。よろしくお願いいたします。

斉藤:はい、どうも。メールは見ました。

末岡:メール。二方向からメールを送るかたちになってしまって、

斉藤:いえいえ、別に。たまたまじゃあ君のほうが僕のページを見つけたってことよね。

末岡:まあ、そう、

聞き手:以前からすごく熱心に見ていたんで、

斉藤:見てはいたんだね。じゃあ思い立ったとこで連絡くれたわけね。

末岡:来るまでが遅くなった。基本的には先日お渡ししたこの質問の***(00:00:44)に沿って、あと、いただいたお返事の中と照らし合わせながら進めていきたいと思います。大丈夫でしょうか?

斉藤:はいはいはい。うん。

末岡:あと適宜、先生と鈴木さんのほうからも気になる点があったらどんどんご質問をしていただくという点で、では始めます。よろしくお願いいたします。それではまず1番の「金井闘争にどのようにして関わることになったのか」っていうとこからですけど。先生は東大の文Vから入られて、このホームページにも名前を拝見しました、秀年(しゅうねん)さんっていう方の勧めで福祉研ていうところから、まずそこにお入りになって、そっから更に金井闘争に関わるようになったっていうことでよろしいでしょうか?

斉藤:まあ入ったっていうか、福祉研といっても、思った人間が集まって看板出したって。そういうだから駒場寮にはそういうなんかこう看板だけある部屋っていっぱいあるじゃない。そういうのの一つですよ。

聞き手:駒場寮に結成された研究会だったっていう?

斉藤:いや、秀年が寮にいて、まあ連絡先は寮だし、同年の奴でこうづきっていうのと二人でやるっていうんでお声がかかって、お声がかかったっていうか一緒にまあなってんだよ。一番最初があれだよね、あの、いかん、タイトル…、原一男監督。あれだよ、青い芝の、タイトルが思い出せないぞ。映画、ドキュメンタリー映画。横田さん、横田弘さんが出てくる、青い芝の、神奈川青い芝の、原一男。こういう時タイトルが出てこなくなるのがね、完全に。

聞き手:『さようならCP』とか。

斉藤:ああ、そうそうそうそう。の上映会までやらなくて、どっかに一緒に観に行ったのかな? なんかそんなようなことで集まって話をするのと、でも直接は、やっぱり当時もう秀年は金井闘争っていうか自主登校にもちょっと関わってたんで、それで「じゃあ行ってみようか」と、そういう話だよね。

末岡:市野川先生ともその時からのずっとお知り合いだったんですか?

斉藤:市野川って、いやあ、僕は74年入学だから10年ぐらい下だね。83年かなんかなんだよね。で、秀年と立岩君がおんなじクラスで、で、市野川は4年下のおんなじクラスかなんかで。まあでも市野川と僕は介助者仲間だね。20年ぐらい、どっか書いてあるんじゃなかったっけ、20年ぐらい、火曜日の朝に会う男の片割れっていうの、もう一人がまつい君っていうので。今もだから、今は、昔は彼は、彼とまつい君っていうのが組んで、火曜日交代、昼間交代交代。で、10年ぐらい前から昼間はヘルパーが入るようになったんで、木曜の夜を交代交代で泊まりに行ってるのかな、うんうん。僕はこの5年、6年で7回入院したんで、2度目の入院の時に「もういい」って。お腹をパクっと開けるから3ヶ月ぐらい力仕事出来ないわけ。だから介助とかもうね出来ないから、その間日程調整するのが大変だからもういいと、ずっと顔合わせてたCPのおっさんに言われまして、それで終わりです。[00:05:08]

末岡:続けますね。山中湖の事故については市野川先生からもよくお話されているような、されてないような。こちら、すみません、私、全然詳しくないんですけど、2段落目に書いてある文学部の被害届提出の裁判闘争、

斉藤:これはその当時、やっぱりその話の流れとしては、金井君の自主登校時に足立区の職員で関わってた奴がいて、尾崎君っていうんだ。その尾崎君が金井康治連れて学校に入ったら不法侵入ってなんか告訴されて、まあ見せしめ起訴だよね、だから。起訴までした…起訴されたんだな、で、裁判をやってると。で同じ時期に僕らの仲間は3人逮捕されたうち1人だけ告訴されて、裁判やってるというんでまあ地裁に行くから一緒にこっちの傍聴にも来てね、みたいな。だからそんなにきっちりこうなんか一緒にやるっていうより、まあ傍聴って人がいないとね、いると被告も元気づくというか、うん、そういう話だ。

末岡:じゃあ先生はそういう不当な扱いとか、そういう差別を受けることに対して強い関心を昔から抱いていたということになるんです?

斉藤:いやそう、いやどちらかというと金井闘争とかに関わって実感したっていうかね。だからそれまではあんまりね、自分がそういう目に遭うわけじゃないと感じないじゃない、うん、感じないじゃない。で、ちょっと後に書いたけど、持田さんに勧められて研究して手渡されて読んだ内申書裁判の資料とか、今区長やってるね、世田谷区長、彼の裁判の資料とか。あれ読むとまあちょうど同じ歳だからね、彼、僕と同じ歳で、「そうか、中学生の時にヘルメット被って集会に行ってたのか」ってなんかこう半分憧れるよね。「ちょっと何もしなかったぞ、僕は」とかそういう、そういう気分だよね。ともかく、それと夜間中学の本はすごく印象に残ってるよね、松崎運之助さんって。あれどこのグループだったっけな? 前、八木下さんの講演会の時に来てたな、何人か。一橋? 一橋の院生か。夜間中学のことを松崎さんにも話を聞いたとかいって。

聞き手;あ、僕らかもしれないですね、

斉藤:ああ、そうか。じゃあなんかどっかでこんがらがってんな。どっかでこんがらがってんだな。

聞き手:いえいえいえ。えっと、あの埼玉でやった、なんか上映会やった後の講演会ですよね。僕らで何人か行った覚えがあります。

斉藤:もう一昨年の3月かな、八木下が久しぶりに喋るっていうので。

聞き手:はい。けっこう集まってましたよね。

斉藤:うん、そうそうそう、八木下が久しぶりだっていうんでなんか。復活っていう。で、もう一つはその、そうだね、2段目のところの、2段目っていうか二つ目の質問っていうか、金井闘争が与えた影響というその前段が長いんだけど、解放教育とかはけっこう興味を持って、関心っていうか特にこう大学入って3年ぐらい経って、「いったいなんのために学ぶのだろうか」というようなことを考えて。それは前提としてこう、別に進振りで教育学部の、「ああ、こういうところになんかって振り分けてくれるんだ」という感じで、全然イメージしてなかった教育行政に行って。もう当時【盲腸学科】(00:09:35)だったから。今ちょっと変わり、今コースってあるんでしたっけ? こんな。

聞き手:えっと、今コースあります、はい。

斉藤:なんか一度なくなったとか聞いたんだけど。

聞き手:えっと教育実践っていう名前で、[00:09:46]

斉藤:いや、これあの、いやだから進学してからちょっとこうものの本を読んでたら、戦後アメリカ教育調査団が来てできた学科だった。だからその時のことで、とにかくここだけは覚えてるアメリカのschool districtの【school bond】(00:10:10)、それと自治体と保安官区っていうのは違うんだって。これは今、NGOの授業の最初にするんです。いや必要に応じてそれぞれに作ると。その上で最後に公にする度に選挙するわけじゃないですか。約束事を決めて選挙する。アメリカってそういうふうにできた国で、だからあらかじめなんか誰かがなんかをやるような前提ではないっていうかね。

聞き手:この時はまだ持田先生は生きてらっしゃって、関わりがあったわけですよね?

斉藤:そうですね、だから僕は77年の秋にいなかった。その時に亡くなったのかな? 77年、

聞き手:ぐらいですよね、はい。

斉藤:だからもうその春の授業とかはほとんど声が出なくって、咽頭癌だったんだよね。声が出なくって、たんびにきちんとしたレジュメじゃなくってもう、なんていうんだ、講義録ですよね、が、配布されたのを覚えてます。

聞き手:この時代に東大の教育学部で解放教育に関心を持つっていうのはかなり、

斉藤:いや、そんなことないよ。院生で清原さんっていうのがいて。

聞き手:清原さん?

聞き手:教育行政ですよね。

斉藤:後で姫路工大に行って。まあ持田さんっていうのも、なんかそういう意味ではいろんな事が舞い込む人だから。ちょうど横浜飛鳥田市政の、飛鳥田市長の、なんていうのかこう、相談役みたいなこともやってたしね、いろんなことが舞い込む。だから夜間中学のほうも別に持田さんが欲しくて手にするっていうより「読んでもらいたい」ってね、持田さんのとこを通してなんらかの形でっていう。そういう人っていますよね。今だとやっぱ立岩君なんかもそういう感じですね。いや解放教育のことはむしろその、むしろもっと前の子が、70年入学っていうのがだいぶ入った年がなんかこうけっこうびっくり仰天で、秋になったら「解同朝田・松井一派の腐敗堕落を許すなキャンペーン」みたいなんで毎日毎日ビラが置いてあるんだ。で、「八鹿高校事件、八鹿高校暴力事件っていうんで東大調査団も行きました」って。で、「解放同盟って酷いですね」っていう。で、なんか「酷いですね、酷いですね」って、「ふーん、酷いんだな」って思ってたらたまたま、たまたま本屋さんで『部落解放』っていう今も出てますけど、解放同盟の出してる雑誌ね。で、八鹿高校事件の真相とかって、なんか読んだらこっちのほうが話がわかるじゃんって。

聞き手:キャンペーンっていうのはどちらかというと民青的な?

斉藤:ちょうど当時組織だってやってたのよ。73年から74年にかけて二つあって、一つはやっぱり全共闘を72年に、なんていった、69年以降、全共闘というかいろんな党派をあんまり大きな顔させなくしたと。でも73年まで狭山裁判、石川さんの事件っていうか狭山裁判については共産党もやってたのね。で、分岐しなきゃいけないっていうんで73年に、73年の10.31までそれぞれ別々だけど東京高裁に行くわけ。でもそっから共産党としても狭山裁判はやんないと決めたから。そのやんないために、今までやってたの、やらないって言うからには天下の公道っていうか、それだけのことをやる団体としてはなんらかのきちんとした理由をね、やっぱ示さなきゃいけない。で、やってる連中は酷いと、そういうキャンペーンだよね。あと、もう一つは現実に部落解放同盟内で、60年代は共産党系の執行部っていうか、中央本部は共産党が握ってて。だから京都の部落問題研究所っていうのは、最終的に色分けでいえば共産党系の拠点になったって。[00:15:13]それから60年代末から70年代前半にかけて分岐して、解放同盟っていうのが。まあ分岐っていうか共産党系の執行部が失脚するってかたちで入れ替わったからね。そうすると、「こちらが正統派」って。その腐敗堕落連中が解放同盟っていう看板を出してるっていうんで、当初はだから朝田一派よね。でものちに自前の団体作ったから、そしたら開放同盟全体が腐敗堕落っていうことになって。まあそういうのが目の前で進行、目の前っていうか聞こえてはくるわけね。でも東京大学っていうのはそれなりに部落問題研究会の歴史って古いし、共産党にとっても重要な大学だから、念には念を入れてのキャンペーンをしっかりやったってことよね。いろいろそれなりにまだいろんな党派がいたからね。

聞き手:もう一つこちらのキャンペーンに加えて、「東大百周年事業糾弾実行委員会」っていうのももう一つ大きな影響を与えたって。

斉藤:駒場のクラスメイトで、「そういうのやるからやんない? どうだ」って声かけてきたんで。別に実行委員会っていうほど、当時はこういう名前にするんだよ。今ならもうちょっと違う名前にすんだろうけど、駒場に「東大百年を告発する会」、本郷に「東大百周年記念事業糾弾実行委員会」っていうので看板を出すわけだよ。看板と一緒にステッカーを作って、とにかく捨て貼りをやるわけだよ、まず。まあマニュフェストだよね。まあとにかく捨て貼りをやったぐらいでいろいろ動き出してその時ここに書いたけど、山川暁夫を呼んでる後援会とかは準備というか打ち合わせだとかね、やったし、「じゃあ山川さんの次は誰呼ぼうか」みたいな話はしてたって。で、僕は武谷三男を呼びたいっていうんで、武谷三男っていう…だから武谷さんとこに会いに行って、「もう足も痛いし目も見えなくなってるし、講演は全部お断りしてます」っていうのを聞いて、でもなんか1時間ぐらい話の相手してもらって、あれはあれでよかったなと。

聞き手:ただこちらの運動を通していろんな人たちと繋がっていった、例えば赤レンガの人達ともかなり接触を持つようになったとお書きになられている。

斉藤:こういうのも、なんていうんだろうな、さっきのこうキャンペーンがあって解放同盟のことを逆に知ったわけだ。それまでは僕はほとんど。うちの【中】(00:18:31)に、僕が大学来てて76年かなんかに熊本にもずっと解放同盟の県連があったんだけど、熊本の県連っていうのは福岡の県連の付け足しみたいな感じで、三井三池の隣に大牟田市ってあんだけど、そのお隣に荒尾市ってやっぱ三井三池の城下町があって、そのへんに支部員がいたぐらいだったんだろうね。でも、76年ぐらいからそれなりに組織ができ始めて。うん、だから全然高校時代とかは、言われてみるとうちの街にあるわけよね、あるっていうかわかるわけよ、書いてあるの読んでると。「ああ、なんだ、あそこのことか」ってわかるわけよね。だからまったく他人事じゃなかったんだなっていうのも、むしろこの、こんなあれこれの中で見るようになって気がつくっていうか。

聞き手:なんか今ちょっと赤レンガって書かれていたんですけども、赤レンガの中にものちにこう金井闘争に関わるような人達も多くいた、[00:19:53]

斉藤:まあレンガはそこまで手が回らないけれど、80年だったか81年か、81年の全国闘争の時にどこに泊まるかっていうんで「じゃあレンガを使わせてもらいましょう」っていうんで。だから北千住と湯島の間をぞろぞろぞろっと千代田線に乗ってみんなで電動、まだ当時は電動車いすなんかないからね、車いすの人とかクラッチを使ってる人とかなんかぞろぞろぞろっと乗って、湯島の坂を登って、まあ湯島が一番近いよね、湯島の坂登ってレンガで寝泊まりしてたんだよ、1週間ぐらい。

聞き手:じゃああまり赤レンガの人たちは金井闘争にそこまで関わりがなかった?

斉藤:いやまあ手が回らないっていうか、人間がもうそんなにいなかったからね。でもいろんな形でスペースを使ったり、まあ必要があったら医者としてだよね、やっぱ医者が必要な場面ってあるじゃないですか。そういう時に「必要だったら行きます」っていう、そういう感じだよね。

聞き手:僕らの研究会などで石川憲彦さんの話とか伺ってたんですけども、なんかこの臨職闘争とかっていうのもかなりこう関わった、石川さんもかなり闘ってた、

斉藤:そうですね、小児科のほうがやっぱカウンセラーって名前の、みんな【臨採】(00:21:24)じゃない。今だってもう時間限定だけど、当時は、当時でも週3日とか4日とか契約だよね。そういう感じの人たち、でもそれ以外にもたくさんいたわけね。ちょうど76年、僕は全然関わってない時76年から70…、76年、5年だったか6年だったかから2年、地震研、弥生の一番向こうにある地震研で臨職闘争というか、当時、松代群発事件(地震?)に関わって研究費がついて、で、地震計をずっとこう当時はね、手作業でロールを取っ換えたりそれを数字化したり、で、そういうのにアルバイトっていうか。で、理科大の二部に行きながら来てた、その人はなんかポリオなのかな? 足の悪い人が、このまんまずっとね、だからここで仕事できたらいいなっていうんで、研究費で雇われてるアルバイトなんだけど、研究室の助教授になんかまあ直訴だよな、「なんとかなりませんか?」って言ったら、「何ふざけたこと言ってんだ」みたいなこと言われて。で、一人で座りこんだらまだゾロゾロいたんだね、なんか「火の種はないか」って。で、地震研で2年闘争やって、最終的には和解っていうかいろんな枠組み使って採用したわけですね。で、それ前例ができたから、試験を受けるのは前提だけど、高卒程度の試験ってあるじゃない、国家公務員の。そういうのを受けてなんとかなるんだったらまず優先採用しましょうみたいな、そういうのが臨職闘争の一つの柱だったの。

聞き手:そういう前例があったから、いろいろな部局でそういう闘いが広がった?

斉藤:まあどっちが先かわかんないとこあるよね。地震研の場合はわりとわかりやすいっていうか。でも表に出ないけど、「あそこまでになったら困るでしょ」みたいなのはそれなりにあったんじゃないの、やるからには。で、最後、ちょっとそのへんは関わった人に聞かないとわかんないよね。

末岡:私、70年代っていうのは本当に歴史でしか知らないようなことなんですけど、そういう少なくとも学生にとってはそういったいろんな闘争がすぐ身近にあるような時代だったんでしょうか?[00:24:27]

斉藤:うーん、それはちょっとね、一概に言えないよね。ただもう少し僕、説明、自分のことそうね、大学に入ってからのこと説明すると、僕は大学に入ってすぐに陸上運動部に入ったのね。で、ずっとけっこう陸上部では練習はしてたっていうか、別にその陸上運動部っていっても、同じ学年にのちにインカレで全国8位になって決勝まで行った奴とかいるけど、そういうのはたまにいるわけだね。一緒に走ってたのなんかは、特に中長距離で高校時代までそんなことやったことなかったけど、「いや浪人時代に太っちゃったし」って、まあジョギングクラブみたいなもんよね。だから僕なんかと一緒に走ってるようなのはみんなそんな感じよね。で、それはそれでなかなかこう楽しいクラブでね。で、当時の4年生っていうか「お前らが来るのを待ってた」みたいな感じで「今年はバイトも辞めて貯金はたくさんある。食わしてやる、飲ましてやる」ってそういう感じ。いやけっこうそういう人がいたのよ。まあそんなんで駒場の時はクラスもなかなか、僕は理Uだから実験があるわけね。理科系ってやっぱり実験があるとなんかこう親しくなりやすいんだな。最後に「いやみんなお疲れさん、じゃあビール飲みに行こうか」みたいな感じで年寄りっていうかお兄さんが声かけてくれて、「じゃあ」ってくっ付いてってると渋谷のガード下でビール飲んでるだけでね。だから水曜日の1時から4時半に終わるはずの実験が、だいたいダラダラとなんか「上手くいかないな」とかって7時ぐらいまでやって、上司が「もう7時だから帰れ帰れ」って追い立てるのね、「じゃあお疲れさま」って感じで。そういうのをこうほぼ毎週やるわけね。だから駒場の時は水曜日は実験があって、終わったらビール飲みに行く。土曜日は練習が陸上運動部で終わったらビール飲みに行く。まあそんなような生活をしてたわけだね。

末岡:必ずしも運動、運動ってばかりではなかった。

斉藤:だからどっちかっていうと運動っていうかここで…。そうね、だから別にそういう意味合いでは大学3年の半ばまでぐらいまでは、たまたま駒場のクラスメイトに誘われて百年祭っていうんで「どう?」って「一緒にやんないか」って声かけられるまではまあいわゆるノンポリだよね。それなりに楽しんでるノンポリだよ、大学生活。思い返せばそうだなあと、なんか。

末岡:社会全体の雰囲気としてもそんな感じではあって、

斉藤:まあそうだよね。特にその…、ちょっとうまく説明言えないけど、オイルショックは僕の高校時代にあって、なんかいろいろ変わり目だな、なんていうのは言われたような気がするけど。まだでも、まだなんていうんだろう、いわゆる右肩上がりの時代だからね。で、60年代末の頃よりも大学生がすごく増えてるし、どう言やいいのかな? こう、なんとかなるっていう、なんかバラ色、とにかく右肩上がりでこのまま行って、「はい、なんとでもなるんでしょ」っていう、どっちかっていうとまだそういう時代だよね、70年代半ばぐらいまでは。

末岡:80年ぐらいからはちょっと変わって、

斉藤:80年代になると僕ら仕事してたけど、その仕事がもう運動体の仕事だからね、あんまりこう世の中のことはよくわかんないよね。一昨日、バブルの頃に就職した友達で「バブルの頃に就職しました」と。その体験含めてちょっとこう僕の授業で、NGO論っていうのは大前提として、やりたいことのある人が、やりたいことをやろうとするときに仕組みがなかったら自前でなんとかしましょうって、そこでNGOだから、NGOも選択肢の一つと。だからそのやりたいことがないっていう相手にNGOの話してもしょうがないから。だから授業っていっても基本は「新聞読みましょうね」と「文章書きましょうね」とそういうのをやってるのね。で、その話の種の一つとして、今50ちょっとの、一応世の中、名前の知れた会社にいて仕事してる人はどんなことを今大学生に話してくれるかなっていう感じで喋ってもらったわけだね。ちょうど先週、あ、そうだ、レジュメがある。置いとくから。参考になるかどうか知らないけど。[00:30:18]ちょうどこういうことがあって、彼のいる会社がTOBが始まったと。で、こういうのがそんな大きな会社でも1000人ちょっとぐらいいるのかな、それなりの規模の会社だと、新聞で知ると、自分の会社の。だからやっぱ新聞ってのは読んでおいたほうがいいよって話からちょっと始まって。大きい会社に入れば入るほど、自分の会社のことは実はよくわからないんだと。

聞き手:まあ、そうでしょうね。

斉藤:やっぱアサツーディ・ケイのこれはちょっと昔の話聞いてると、それはそれでなかなか面白くてね。で、ちょっとこれではさすがに学生相手には喋らないけど、ずっとハゲタカに食われてて、ハゲタカファンドに。今まで食ってたハゲタカファンドはそろそろなんか見切りをつけるらしくってその後釜が来るみたいなんだけど。ただこの後釜は例えばすかいらーくとかもやってんだって。すかいらーくとかそれなりに投資受けてちょっといい雰囲気らしいから、「前のよりはいい感じですね」って、そういう話とかね。いやそれは学生相手にする話じゃないけど、僕だけ聞いてるから「そうかー」。ハゲタカって何やるかっていうと配当率高めるのね。

聞き手:うーん、そうなんでしょうね。

聞き手:こういう授業をやられてる先生が、まさかその原点にはかなり、金井闘争なり福祉研の出会いがあるっていうのはすごく、

斉藤:ていうか僕の世代だとやっぱりけっこう運動やってたから、逆にもう大学院に行ってっていうのは多いよ。今、一緒に文学部で、僕は教育学部だけど、文学部の当時の、あいつは何やったんだっけな、学友会の執行部でそれなりにあちこち名前も売ってたのが慶応の教員になってるし。そうそう、あとレンガ前で逮捕されたのが岡山大の教授になってるし。別にそういう時代だよね、まだなんていうのか、どういうのかこう。そのあと大学がとにかく増やしたからね、そうそう。大学も70年代か80年代にかけて大増設でポストが…、2000年ぐらいまではそれなりにポストが増えたからね。

聞き手:でも一方で大学を去っていくっていう人たちもかなりこの界隈にはいらっしゃったんです。基礎教、あ、基礎教じゃない、史哲にいらっしゃった伊藤悟さん?

斉藤:ああ、はい、伊藤君ね、はい。

聞き手:っていう方もどちらかというと大学、

斉藤:いや、まあ、僕はだから悟と一緒に自治会選挙に出たのがきっかけ。あ、そういえば事の始まりはそうだよ。僕と悟は同じ76(ななろく)教育学部なんだ。彼は僕よか一つ上なんだけど、理Tに入ったのが「理Tはどうも合わない」ってんで文Vに再受験したっていうんだから、あいつが。

聞き手:予備校の先生をずっと伊藤さんは、実質的には。

斉藤:まあそうね。

聞き手:当時は史哲でかなりそういう自治会、

斉藤:まあ一緒に、そうそう、悟っていうか悟が中心になって「教育をよくする会」っていうか、まあKYKってのを作って。KYKってサークルがそれなりに人がいてね、それでみんなで荒川九中の夜間学級に行ったり。

聞き手:越川求(こしかわ もとむ)さんなんて、

斉藤:え?

聞き手:越川求さんっていう方というか、KYK、

斉藤:いやちょっと年代が違うんじゃない?

聞き手:そうですか、教育行政に入ってて、

斉藤:じゃあ全然、僕の前後じゃないな。

聞き手:今64ぐらい、64歳ぐらいですね。

斉藤:ちょっと上ですね。

聞き手:ああ、そうですか。

斉藤:僕は62、もうすぐ62になる。僕よりちょっと上は全然だめだ、知らないんだ。

聞き手:ああそうなんですね。[00:34:53]

斉藤:ちょっと下までは知ってるっていうかな、逆に。なんかちょうど、ちょうどっていうのも変だけど、73、4年っていうのが境目は境目なのね。72年に学費闘争があって、72年に国立大学の授業料が3倍になると、それまで年間1万2千円だったのが3万6千円になると。ただまあ1万2千円に設定された頃はそれなりの金額だったんだよねえ。でも右肩上がりの高度成長の時代には「あれ、いつの間にかすごい安いじゃん」ってなってて、それを3倍にすると3万6千円でしょ、3万6千円も決まった頃は僕が高校2年生、その頃の高校の教師のたまたまクラス担任の教師の給与票っていうのなんかちらっと見えたら月給4万何千円、5万円に達しないぐらいだからねえ。そういう時代の3万6千円だから、公立高校の教員のひと月分でなんとか払えるは払える。まあ高いっていう、

聞き手:それが1年分ですか?

斉藤:1年分、その当時はね。それはそれでどう見るかってあれだけど。70年学費闘争っていうのはけっこういろんなとこで大きかったみたいで。あれを境に言わば、【どうづかれ】(00:35:37)っていうとあれだけど、やってた人達がさっきの【さる】(00:36:41)とか、中にはさ、学校行くとあの駒場の門前に、なんていうんだ、検問じゃないけど別に、日大なんかだとガードマンが検問すんだけど、駒場の面前に民青が立ってて、「来た」と言って、「来た」と言って、場合によっては(笑)。という話を聞きました。僕は直接じゃないけど、同じ寮にいた人はそれもあってちょっと「駒場にはちょっと行きたくないんだよな」って。まあそういうのが3、4年上の人でいましたね。

聞き手:で、その自治会に出られたり、そのKYK、「教育をよくする会」なんかで、かなりこの就学闘争に関する討論、

斉藤:ううん、全然。そういったってほぼ、ちょっと切れたかたちだよね。

聞き手:切れたかたちで五月祭…、

斉藤:僕はたまたまさっきの秀年。だから、えー…、だって金井闘争に関わったのは79年で、当時はだから79年の秋ぐらいになるとけっこう駒寮に行っては秀年の部屋とか。あと、その頃文理研が立ち上がったんだな。文理研って名前の、寮が最後に壊されるまでのちに移って、あれが北寮か、北寮の入ってすぐ左側が桑の実、セツルメント桑の実ってのは民青の拠点ですね。で、右側が文理研ってなんかそういう不思議なスペースができたの。それがちょうど僕が在学中で、だから両面、ほんとは元々は民青の部屋だったんだけど、片方が空いたというか空けさせたというかなんかよくわかんないけど、寮の中の力関係でそういうのが決まったんでしょうね。だからそこに文理研って看板が立って。そういうのが79年かな。

聞き手:それはもうM1になってらっしゃった。

斉藤:ん?

聞き手:大学院に行ってらっしゃったってことですか?

斉藤:僕はえっとね、駒場は2年で本郷に来たんだけど、本郷で半年休学組んで4年半いて、9月30日付けの卒業証書を碓井さんに、碓井正久さんから受け取った。で、「卒業証書ができたから取りに来い」と、なんか親の家まで電話がかかってきたっていうね。いやあ、早くもう鬱陶しい連中を出したいんだなと。処分するとめんどくさいから。[00:39:57]

聞き手:伝習館、ご出身が九州の、

斉藤:僕は熊本なのね。伝習館の話はたまたま高校の時の1年上の人が行くから「行かないか」って誘われて行って。大学4年目1977年の秋に自動車学校で車の免許が取れたあと、ちょっと柳川昔行ったから行ってみようかなっていって行ったことがあるってやつです。それでも別に運動がっていうよりは「どんなことやってるんだろう」っていう物見遊山のほうだよね。だから駒場寮を通して関わるような運動ってのはだいたい物見遊山ってけっこう多いんだよ。別にこう、みんなそんなきっちりこう、何を決めてっていうんじゃなくて、「このテーマだったらどういう連中が来んのかな」、「何言ってんのかな」って「見に行こうか」とか。だから金井闘争に関わったのも理屈が先にあるっていうより、誘われたからとか。

末岡:そういうのがあるらしいから。

斉藤:ん?

末岡:金井闘争っていうのがやってるらしいからちょっと行ってみよう。

斉藤:そうそうそう、そういう感じだよね。

聞き手:自主登校に参加されるってのは、朝、金井さんの家に行かれて、で、一緒にこう車いすを押して、校門の前に***(00:41:36)。

斉藤:ただ僕はここに書いた、どっか書いたと思ったんだけど、僕が行った頃はすでにさっきの不法侵入事件があって門がもう閉ざ…、だからそれまでは開いてたんですね。

聞き手:それまでは開いてたわけですか。

斉藤:それは普通、小学校もロックまではしなかったと思うね、閉めはするけど。で、本人も当時学年でいうと5年生か。長いこと行ってて、ちょっと学校門前っていうのは、いや姿見せるのが仕事であるけれど、仕事って言ったら変だけど、運動ではあるけれど、さすがにちょっと本人も飽きてたんじゃないかな。そりゃね、大人がこうねえ。大人の就労闘争だってそういうのありますよね。だから僕なんかが自主登校に関わって行った頃は、なんとかしらそのテントと持って行ったけど、むしろ来ると車の運転もできるし「図書館行こうよ」とか。

聞き手:なるほど。朝行かれて、校門の前でまあその。ずっとそこに放課後までいるわけでは必ずしもなかったわけですか?

斉藤:だから最初の頃はたぶんずっといたんですよね。そこはちょっと、ずっといた人に聞かないとわかんないよね。

聞き手:はいはい。斉藤先生が関わりの頃は違う?

斉藤:僕は何度か行った時は、朝行って「もういいんじゃないの」みたいな感じで、別に僕が言うんじゃなくて。トイレも貸してくんないわけだから、だから最初に「おしっこしようか」って、トイレに行こうかと思ったら「じゃあ帰ろう」って、そんなノリですよね。だから金井さんちと花東は近いから、歩いて5分、大人の足だと5分ぐらい。まあ車いす押してってもそんな遠くないんだよね。まあ小学校自体なくなりましたけどね。

聞き手:何人ぐらいで押して行かれたんですか?

斉藤:いやあ、自主登校ってなんか僕が行った時は別に、他にいたって覚えはないですね。だから曜日、当時週に1回ぐらいだから、僕が行った日は僕がなんか行く。他の日に誰か来てたのかなあ、来てた日もあると思うね。やっぱ毎日毎日ってのはなかなか大変なんでね。だからそこはちょっと。

聞き手:支援者がいない日は、お母さんがこう押して行くってことになるんですか?

斉藤:うん、だから一番最初はそうでしょうしね。でもだんだん運動が重なると、やっぱ運動に関わる仕事も増えるしね。

聞き手:なるほど。斉藤先生が行かれた頃はもう、必ずしも毎日行ってるわけでもない感じですか?[00:44:43]

斉藤:うん、僕の記憶ではさっき言ったように、何度かしら校門まで行ったのは覚えていると。それがどの程度の頻度だったのかはもうよく覚えてない、さすがに40年、30何年前のことでね。だから一緒に中央図書館に何度か行った覚えはある。あとは釣り堀に弟、洋(ひろし)が行きたいって言うんで、だから兄弟3人車に乗せて釣り堀に行ったとかそういう覚えはあると。

聞き手:先日支援のイベントにいらっしゃったいとうじゅんこさんは、【せんたい】(00:45:29)本部をお勤め? なんか本部か何かを仕切られてたみたいな。

斉藤:事務局っていうのが「金井康治君の転校を支援する会」っていうのがあって、事務局メンバーっていうのが都合何人だ、

聞き手:いとうさんはかなり初期の頃から関われてたんですか?

斉藤:うん、だから聞いてみるといいよね。事務局メンバーの中心が彼女と当時彼女の連れ合いだった村田さんていうのと、それと矢沢国光(くにてる)さんって聾学校の教員やってた矢沢さん、それと同じ聾学校で教員やってた前田さん。それと「がっこの会」に関わってたこくぼさんっていうね。この5人かな、と律子さん。

聞き手:一応、年表みたいなの作ってくれてんだよね。

末岡:はい。一応その、***(00:46:53)軽く年表を***(00:46:55)関連なんかはいくつか入れた感じなんです。

聞き手:だから斉藤先生が関わられたのは79年ですよね、そうすると何ページ目になるの?

末岡:1ページ目の下ぐらいから。

斉藤:これってあれだよね、2000…、

末岡:そう、『2000日』から適当に引っ張ってまとめたものになります。だから『2000日』とか読むと、かなり一貫してすごい熱意を持って運動、運動の毎日だったみたいなイメージを受けてたんですけど、必ずしも、

斉藤:まあその波があるよね。だからその『2000日』にも出てくるけど、区役所前行動とか全国行動を都合3回やってる。するとけっこう長いしね、ほぼ3月議会に合わせたみたいな感じで。そうするともうさっきのこうレンガで寝泊まりっていうのも81年のやつだったかな。区役所前に行くだけじゃなくていろんなとこで挨拶回りっていうか、けっこう僕のほうにちょっと書いといたけどいろんな団体っていうか労働組合とかも関わってたしね、そうすると「何やってんですか」って、「お話してください」みたいなのが当然ありますよね。

聞き手:すでに全障連と解放同盟都連、自治労、日教組、

斉藤:そうそう、だから、やっぱりあの、被告になったのが自主登校でさ不法侵入、足立区の職員でそういうのもあって。だからいろんな区職のわりと青年部のメンバーが入れ替わり来たりね、してたし。

末岡:当時は金井康治さん自身は、どんなお話されたとか覚えてらっしゃらない?

斉藤:まあさっき言った「図書館に行こうよ」とかね。

聞き手:図書館でどんな本を読みたいんですか? それは。覚えてる、

斉藤:いやあもうなんか覚えがないなあ。とにかく棚の中歩いたのは覚えてるかな。

聞き手:ああ、そうですか。当時はご自身で車をもう持ってらっしゃって、

斉藤:車は金井さんちの車で。

聞き手:ああ、金井さんの所に車があるわけなんですね。[00:50:01]

斉藤:うん、お父さんが車好きでね。ブルーバードスリーエスに乗ってたら、で、なんか4号線が川になるという洪水があって、その時にブルーバードが水浸しで動かなくなっちゃった。

末岡:子ども会活動については、斉藤先生が始められたっていうことでよろしいんですか?

斉藤:なんか先生って言われると気恥しいな。まあ僕とかさっき名前があがった伊藤さんとか、あと、秀年と一緒にずっと高校時代からいろいろやってたさとうさんていうんですか。区役所前で、そうね、さっきのいろんな団体の中に、区役所前の行動だけじゃなくて、やっぱ闘争期間中お家の面倒を誰か見なきゃいけないっていうんで、学生実行委員会っていうのができて、子どもの保育園にお迎えとか、一番下のりょうちゃんのお迎えとか、とりあえず子どもに飯を食わせるのは誰か、とかね、そういういうのをやってたから、そういうのに関わってた人間でやっぱりこう「区役所前で行動するのも自由だけど、家の周りで接点がないと始まらないよね」っていう感じで子ども会だよね。一応なんか頭にあったのは品川支部とか、解放同盟も足立支部、品川支部、荒川支部、隅田支部ってそれなりの、まあわりあい、そのぐらいかな。そのぐらいは東京でも解放子ども会やってたですね。そういう感じで交流する、どっかで顔見せて一緒に遊ぶとかそういう機会が必要じゃないのってことで始めた。

末岡:なんか一応『2000日』を読むと、斉藤さんが始められる前年にすでに子ども会構想できてたみたいな話があって、「あれ? これはなんか違うやつなのかな」みたいな、思ったんですけど。

斉藤:だからいろんな機会にいろんな形で接する機会を作ろうっていうのは、たぶん試み、やってたんだと思いますよね。のちに自立生活センターやんまっていうのが作るんだけど、そのやんまに繋がるような人の繋がりもあったわけだから。やんまのほうは僕はほとんど知らないもん。そういう意味では学校の教員がわりと関わってるのもあってその、どういうのかな、繋がりのある親子っていうのはポツポツいたんじゃないの。で、地域的にどうかってなると、もうそこはちょっとね、よく聞いてみないとわかんないよね。

聞き手:はなばたけ団地に住んでる子どもたちは、

斉藤:あれは「はなはた」って読む。

聞き手:花畑(はなはた)。花畑団地に住んでる子どもたちが子ども会にやって来た、ていうことではないんですか?

斉藤:ていうか、金井康治が城北に戻ったから、その城北のクラスメイトでわりと近くにいた坂庭さん、神保君、それとまつむら君、なんか名前忘れた、あたりは金井さん繋がりですね。

聞き手:城北養護学校の同級生。

斉藤:で、金井さんが親と話をして「やるんだけどどう?」って。で、集まってなんかこう、ちょうど金井さんちっていうか、金井康治一家が住んでた、今も律子さん住んでますけど54号棟の目の前が集会場で、集会場の前がちょっとした、なんていうかこう、わりとスペースがあって。

聞き手:ああ、芝生のスペース。[00:54:29]

斉藤:そうそうそう、そういうのがあって遊びやすいからね。そこでなんかこうやってると、城北の子はみんな6年生か、で、近所の小学校1年生とか2年生、あと保育園に行ってるようなちびガキどもが「お兄ちゃんお姉ちゃんがいる」っていうんで寄って来るというか。だから子ども会っていってもなかなか難しくて、同年代の子と付き合うっていうのはやっぱり難しいわけですよね。なんで、「どうしようかなあ」っていうんで2年目、3年目…2年目ぐらいから、普通合宿っていうと人里離れたとこに行くんだけど、「人のいるとこに行かなきゃだめだ」っていうんで。ちょうど一番よかったのは「渋谷へ行ってみんなが並んでるアイスクリーム屋に並ぼう」ってコンセプトで渋谷で合宿やったりね。富坂もわりと便利だしね、富坂に行って、上野動物園に行ったり。だから人がいる所に行くっていうね、これはどっちかっていうと障害者運動の発想ですよね。やっぱりまだ当時みんなこう、典型はちょうどうち片づけてたら出てきたんだけど、85年に出した『書けなかった介護者ノート』ってのが出てきたんですけど、それに出てくる83年に亡くなったCPのお姉さんは高崎コロニーだから。だからコロニーから降りて立教の近くに移り住んで人を探して、だから介護者探しをして暮らしてたと。だから当時は東京の近辺だとやっぱり大学の近くに探すわけね。だから新田さんみたいにそれなりに土地勘っていうかがあると、あと元の繋がりっていうか、新田さんのことをこないだ司会やってた、司会じゃないや、準備やってた、あ、いかんまた。深田君が書いたの読んだ。

聞き手:「よい支援とは」みたいな。

斉藤:『贈与と福祉』か、『福祉と贈与』だったか。まあ読むと初期の60年代前半ぐらいにできた、半ばぐらいか、にできた施設とかにはけっこう社事大の学生が来てんだよね。

聞き手:社会事業福祉大学ですか。

斉藤:うんうん、社事大はやっぱりこう、あと看護学校の人ね。なんていうんだろう、将来の自分の、なんていうんだろうなあ、職業像みたいな、ボランティアを受ける仕組みみたいなのがあって、社事大とかにはそういうのの呼びかけがたぶんけっこうあったんじゃないかな。だから新田さんなんか社事大の入学式かなんかで喋ってるもんね。入歓、入学式っていうかオリエンテーションね、新歓。で、見てると新田さんがけっこう早くから関わってた人の1人は学芸大で。で、学芸大の寮にいて、寮が介護者出してる拠点になってんだよ。で、その寮が介護者送り出しの拠点っていうのは、のちの駒場寮も似たようなとこあるけど、駒寮は規模がでかいから、さっきの文理研だな、文理研に出入りしてる連中はみんな介護へ行くんだと。だから文理研の主だったようなのが10年前に死んだ時に偲ぶ会をやったら、やっぱゾロゾロゾロと来たのがみんなね、「あのときはこう、あのぐらいの時期に行ってました」とかね。で、もうちょっとそういうのの細かいのについて、そういうことに関することで角岡伸彦か、まあ角岡さんってルポライターがいるんですけど、今50ぐらいかな。彼が書いてる『カニは横に歩く』っていう兵庫の運動っていうか、を書いたやつには、彼は関西学院の寮にいたんで、その関西学院の寮20何人かいるうち、***(00:59:32)介護に行かなかったのは豊川悦司だけだとかいって、そんなこと書いてるけど。

聞き手:この金井闘争には、斉藤さん何年ぐらい関わられることになられたんですか?[00:59:53]

斉藤:まあ79年に来始めて、だから84年に、寮はね。もう当時金井康治も中学だね。で、中学校に行ってる頃は僕はもうほとんど知らない。中学のクラスメイトになった、クラスメイトだったかけっこう仲良くしてたのが、僕が住んでた部屋の上にいる人の甥っ子で。

聞き手:はあー、そうですか。

斉藤:やっぱ近場に住むってそういうことだね。で、そいつからちょっと話を聞いてた覚えはあるけど。ただもう言ってしまえば子ども会の運営っていうか、ちょっと書いといたけど、「みんな連れてきてね」って言われて、いや僕は「それを言ったら始まんない、壊れちゃいますよ」って言ったら、金井さんブスッとして、それで出番が【なくなったっていうか】(01:00:46)。律子さんが「自分で言えばいいじゃない」と、「自分で言わないと始まんないよ」って言ったら、「康ちゃんのために来てくれたんでしょ、あんたたちは」とかってなんか言われて。それであの10何年ぐらい空白ができるわけだね。でもまあ最近は律子さん会いますけどね。一昨日は友達んちから「歌舞伎の券を持ってけ」って言うんで、ポストに差し込んできましたけど。金井康治のちょっとそのあと、就学闘争のあとの話。就学闘争の頃、就学闘争じゃない、中学行ったり高校行ったりしてた頃の介助者グループって僕ほとんど知らないのね。そのもうちょっとあと、あいつが死んだ時に告別式っていうかお通夜に行ったら、「あのへんにいるあの薄汚い連中があいつの介助者だったんだなあ。ああいう連中と一緒に酒飲んでなんかしてぶっ倒れて死んだんだったらまあ本望だったんじゃないの」って僕が思ったのが何人かそこらへんにいたんだけど。そういうのの中に松井君、今、武蔵大で教えている松井隆志君っていうのがいるのね。

聞き手:社会運動のご研究、生活クラブとか。なんか、まつなみ君が以前会って。

聞き手:ああ、そうなんですか。

斉藤:松井君は律子さんの70のお祝いの時も来てたし。その時一緒に来てた日臺(ひたい)君っていうのも今和光にこないだ、今年移ったのかな、あたりは最後の最後に。

聞き手:ひたいさん、

斉藤:ロシア…、ロシアっていうかソビエト連邦政治史みたいなことやってた。

聞き手:漢字だとどういう漢字なんですか、ひたいさんって、漢字って、

斉藤:え?

聞き手:漢字だと、苗字。

斉藤:日に、たいはけっこう難しいほうのたいだな、旧字のたい。台形の台の旧字。和光で「ひたい」ってかけると出るんじゃないかな。

聞き手:その今おっしゃった、「あいつらと付き合ったら本望だったんじゃないかな」っていうのは、そういう意味ではかなり人格的に魅力的だというか。

斉藤:まあ歳が近くて、ね、歳が近くって、要はなんかグダグダと一緒に酒飲んで、ねえ、僕らが大学の寮とかで、さっき言った、「実験が終わった、さあ行くぞー」とかね、陸上で「今日は練習が終わった、汗かいた、今日はビールがうまいぞ」って、そういうノリの付き合いっていうのがあるかないかって違うじゃない。だからずっとこうおんぶに抱っこっていうか、

聞き手:サービスとして何かされたっていうことではなくて、

斉藤:そういうのがないからね。

聞き手:じゃあ一緒に生きてた感覚があったんじゃないかって。

斉藤:だから洋が作ったページがなくなってるっていうけど、追悼文集ってのはどっかで手に入れたのかな。

末岡:はい、以前、

斉藤:あれがウェブに載ってたやつだよね、うん。で、追悼文集の中でもだからそういうのの典型的な意見がたぶん確か出てたよね。やっぱり親に近い立場からみたら、なんていうか「もうちょっと生活を律してくれればそんな早々死ななかったのに」っていうふうに親に代わって言う人が、そういうこと書いている人もいるし。三浦君だったか、が、「一緒に酒飲んでグダグダしました」みたいなの書いてるのも。だからその、CPの人はね、わりとアルコール入れると体が楽になって、緊張が緩んで楽になったりね、するっていう、まあそういう人もいるみたいだから。[01:05:07]先々週か、立岩君と一緒に、もうちょっと前だな、もう2週間ぐらい経つね、立岩君と一緒に『月刊障害者問題』っていうのを昔出してた本間さんのとこを訪ねて、本間さんがやっぱそんなことを言ってたね。だから「CPは酒飲むと口の滑りがよくなるんだ」とかね。本間さんはポリオで。

末岡:追悼文っていう性質上、追悼文には「もっとああすればよかった」とか「もっと金井君と話したかった」とかそういった文章がけっこう多い感じでしたけど、必ずしもそういう、特に高校卒業後の金井康治さんは、なんかそういう悲観的な毎日を過ごしてたわけではないって感じなんでしょうか? お酒も***(01:06:13)、

斉藤:いや僕は全然、そこは直接あの。だからさっきちょっと名前出した三浦君っていうのと康治とで、うちの近くっていうか竹ノ塚の駅前にいるとか言って電話がかかってきて、「来ませんか?」って言うから行って、なんかそれで一緒にビールかなんか飲んだのがもう、そういう感じで席を同じくしたのはあれが初めてだったのかな? まあそれ以前のだからこう、世話をしてた頃っていうのはあるけど、ね。世話しに行って、お家でラーメンが、あそこのガキはみんなラーメンが好きなんだよ。僕は納豆も気にしないからいいんだけど、一緒になんかこうよくご飯作ってた友達は納豆、「刻み納豆食べたい」って言うのをね、「私、だめなのよ」とか言いながらやったりしてね。

末岡:世話してたというか、特に中学校に康治さん入られてからどんどん接点がなくなっていったっていうのは、やっぱりその闘争末期の子ども会と律子さんとのちょっと意見のすれ違いみたなのが背景にあったんでしょうか?

斉藤:というかこう、やっぱりそれ以前は、そこまでは金井康治本人の意志というより、就学闘争、そりゃ本人の意志はあるにしても、子どもと付き合うっていうのは、親と付き合うっていうのが前提じゃない。そりゃたまたまね、なんていうんだ、近所の変なお兄さんで寄って来るのがいたりするっていうのは自由に出入りできる人はできるけど、障害者はそうはならないからね。だからこれはもう大人になっても同じようなこと起こんだもん。金井闘争きっかけに「足立・障害者の自立を勝ち取る会」っていうのが立ち上がったのね。僕の1年上の江戸川養護の最初の頃の卒業生っていうか、と、金井闘争きっかけに金沢から引っ越してきたCPのおじさんと、元々がいたんだけど、足立の生まれ育ちの内部障害者の、で、集まってちょっと。でもそのおかだ君っていう、まあ地付きだからそれなりに接点があるわけね。で、「声かけてみようよ」っていうんで、どっかの喫茶店で集まって1回話をしたと。で、なんだろうな、帰って、その時はだから1回目で、1回目はいいわけよ。養護学校の同級生から声かかって行ったっていうんで。で、「2度目やろう」みたいなんで連絡したら、誰が連絡したのかな? だからおかだ君本人が電話したとこはともかく、なんかこう分担して連絡を取ったようなとこはもうガチャンみたいな。

聞き手:あー、親がもう切っちゃうんですか。[01:09:34]

斉藤:そうそうそう。だからまあ間に入るからね、必ずね。だから子どもとおんなじじゃない。だからそれを超えるのはよっぽどの親なわけね。まあ「勝ち取る会」とはやっぱわりと近いっていうか、で、北千住に今も住んでんだけど、同じ歳のCPのお兄ちゃんがいて。で、そこはお母さんが「自分の息子のために来てくれるんだったら誰でもいい」と、ていうかそもそも北千住の自由通路にスロープがあるじゃない、あれを作るきっかけを作った人なの、すぐそばに住んでて。で、やっぱりね「うちのお兄ちゃんのためにスロープが必要だけど」っていって、町内会の世話してる自民党の区員に相談したら「頑張りましょう」みたいなこと言われたけど、いつまで経っても進まないと。「じゃあやっぱりこういう時は公明党かしら」って言って、「頑張ります」って言うんだけどこれまた進まない。で、共産党に相談したらついたと。で、共産党になったんだ、お母さん。でもその共産党員のところになんか僕は学生新聞の配達を断られたんだ、反党分子だとか言って。で、なんかどうもこの人達は共産党とあんまり関係がよろしくないらしいってお母さん知ってんだけど、でもうちのお兄ちゃんのために来て、その野球の話とかで盛り上がってるんだったらいいっていうんで。やっぱ親っていう壁っていうかね。だから金井康治と僕らの繋がりは基本そこがね、やっぱり1歩目。だから徐々にじゃないよ、もうプッツンだよ。

末岡:「金井闘争は子どもの意志を強く反映した運動だ」みたいな記述をけっこう見かけたんですけど、必ずしもそうとばかりは言い切れない?

斉藤:とか、あの、子どもの問題って難しいよね。僕は一応国際協力団体に関わってると、やっぱ子どもに関わりたいっていう人いっぱいいるわけね。でも子どもと付き合う前に親と付き合わないと、それはね、直接子どもにちょっかい出したらさ不審人物とか言って。今の日本だとね、そういうよっぽどあれがないまんま、だからよっぽどそれなりの手順っていうか、それなりの肩書とかない人が突然子どもに声かけたりしたら不審、今の日本だと完全に不審人物だし、まあ似たようなことっていうのがけっこう国際協力の世界でもいっぱい起きてるのね。だから子どもの意見を汲むっていうときに、そりゃあなんだかんだいって金井闘争が始まる時に、「近くの学校になんで行けないの?」みたいなのは初発の問題意識としてすごく大きいだろうし、そりゃあそっから始まったっていうのは大きいよね。ただ、そこにいる星加君、星加君に前喋ってもらったのはやっぱり、彼は普通学級に行ってると、愛媛県で初めて。でもその時に彼本人の意志が云々じゃないよね。たまたま彼はなんかその前に両眼摘出手術を東京で受けてて、で、両親東京ですでに就学っていうか世田谷かなんかにいたからか、学校の繋がりとかなのかなあ、普通学級に行ってるっていうのを知ってると。「じゃあうちの子も行けるはずだ」と思ってるから頑張ったわけですね。で、毎年NHKが「今年は諦めて盲学校に行くって言うんじゃないか」って毎年なんかNHKが取材に来てたんで、最後は「星加良司東大に入る」っていうビデオがあるんだそうで、「一度見せて」とか言ってんだけど。

末岡:それはそれで気になる。

斉藤:まあ10歳ぐらい彼なんかよりかもっと若い、今30ちょっとの、それも書いといたと思ったけど、福地君っていうのはお父さんが転勤で、ちょうど小学校入る時にお父さんの転勤で鹿児島行ったと。で、鹿児島で、だからもう今30ちょっとだからね、けっこうわりと最近、20何年前に鹿児島で普通学級に入ろうとしたら、「全盲の子が来た前例がありません」とか言って教育委員会が拒否して、で、自主登校したってわけね。でも長いことやるって大変なわけね。で、どのぐらいやったのかわからないけども、お母さんの実家の枚方へ戻って。で、枚方だと行けちゃうわけ。

聞き手:なるほど、大阪に【戻って】(01:15:05)。[01:15:06]

斉藤:枚方か高槻、豊中、あとなんか10幾つ。でまあ大阪市もね、だからもう大阪はやっぱり墨江でも***(01:15:15)に行けちゃう。東京でも世田谷、目黒、金井闘争以降の足立。で、けっこうなんか興味深いのが、さっきのいとうさんが昔、明治学院に社会人学生で行った時の卒論の種本で探してきたのが、90年代の板橋の実践とかをベースに、まあいわば全障研系の人たちが書いた本に、「通常学級での就学実践まとめ」みたいな。90年、[01:15:52]

聞き手:【全障研】(01:15:53)が?

斉藤:うん、そうそう、だから、

聞き手:なんていう本ですか?

斉藤:ちょっとタイトルは。そこはちょっと彼女の卒論に載ってるはずだから。だからやっぱそういう種本のね、データだけでも役に立つから、「生存学のウェブに載せようよ」って言ってるんだけどそのままになってて。

聞き手:どなたの卒論に載ってる?

斉藤:それはさっき名前が出た、いとうじゅんこ、

聞き手:いとうさんっていう金井闘争の介助者で事務局をやられてた、支援のイベントで。

聞き手:ああ、そうですか。

聞き手:お電話番号と住所は***(01:16:31)。

斉藤:茂木さんが編者になってる。だから調べりゃわかるんじゃないかな、都立大の。

聞き手:ああ茂木さんですか、はあ。

末岡:今あの大阪と並んで、金井闘争以降の足立区もそういう、

斉藤:うん、それもちょっと書いといたけど、僕は85年、6年、5年だったか6年だったかに区内の学校全部回って、全同教大会に向けて回ったときに、竹の塚中学っていう、もうちょっと行くと草加市って、の教頭さんだったかなあ、「とにかく何ができるとは言いませんけど、一緒にやってきましょうよっていうふうに声かけてます」と。だから障害児だから不安だっていうのはわかりますけど、でも、その…。「何ができるって最初から言えませんと。でも一緒にやっていきましょうよってそういうふうに言ってます」って。

末岡:そういうなんていうんですか、受け入れようとする姿勢のようなものは現在もそうなんでしょうか、80年代だけとかじゃなくて、

斉藤:今、いわゆる特別支援学校の重度化問題って言われてるの知らないかな?

末岡:ちょっと、

斉藤:だからもともと79年に養護学校義務化っていうのが行われた時に、最大の問題は就学免除の3万6千円でしたっけ、それぐらい要ると。これをやっぱなくさなきゃいけないと。で、そのために受け入れることのできる施設っていうか、を作らなきゃいけない。だから「就学猶予や就学免除を前提にしたやり方を変えましょう」っていうのが養護学校義務化だよね。でもそれが一面でいうと、「養護学校にみんな行かなきゃいけない」ってとられるっていうのに対する行動がいろいろあったわけですね。で、71年に、えー、それが79年で81年にでも金井闘争とか大阪の梅谷さんとこの闘争とか、長崎の訴訟とかそのへんは詳しくはあれだよね、「どの子も普通学校へ・全国連」(→「障害児を普通学校へ・全国連」)、あと大谷さんに聞きゃあいいんだけど。

末岡:大谷恭子さん。

斉藤:ん? 大谷恭子さんね。だから80年代、目に見えて、さっきの地震研の話とよく似てて、「騒ぎにしないでなんとかうまくやりましょうよ」っていうとこも当然出てくる。あらかじめ封じ込めようっていうんで職場だと最初から採らない。でも学校はそうはいかないからね、学齢期になって基本が「就学猶予や就学免除をなくしましょう」っていう大前提があって。で、どうなったかっていうと今、例えば一時期盲学校にしろ、聾学校にしろ、特別支援学校にしろ、一時けっこう生徒数が減ったと、で、重度化が進んだって言われてますね。で、最近またちょっと、[01:20:12]

末岡:できる子は普通学校に行って、

斉藤:できるじゃないよ、できる、できないじゃなくて親が行かせようと思った子は。で、親が不安持っちゃうわけね、「こんな重度で大丈夫かしら?」って。ていうと、「うちは丁寧に面倒を見ます」って、「一度見学に来てください」、そうすっとやっぱり介助員も何人もいて、そりゃサポートが厚いのは確かだから。だからそのさっきの星加君の話を聞いた時に一緒にいた青木君っていうのは小学校は普通学級だけど、「ゆくゆく大学に行こうと思うから、中学から盲学校にしました」って。そのほうがいろいろなんか手を尽くしてくれそうだってわけだ。だからそういう選択肢も含めて、障害者運動だとそういう選択肢もあるよねっていうわけね。だから普通学級にこだわるっていうのは、やっぱりある種の就学運動の繋がりっていうか。だから本人が選択するっていうのは、どういう形で可能なのかっていうのはなかなか難しいとこですよね。これはまあ極論すればそれは僕はだからさっき書いといたけど、とにかく大学時代に読んだ本で、これはやっぱすごいっていうんで印象に残ってんの一つは『差別越境との闘い』って、大阪天王寺、矢田南中か。矢田南中ってとこからとにかく大阪天王寺中学への越境がすごく多かった。で、「越境やめましょう」って言っただけで始まらない。矢田中学のほうの設備を改善して、教員も定着率を高めるように働きかけをして、その上で「来ませんか?」って、越境じゃなくてここへって。さっきの名前出した保坂なんかは越境組なわけね。千代田、麹町中なんだ。で、僕らの年代だと確か千代田区の中学校の生徒の2割かなんか越境だとか。2割だったか、もうちょっといたのかなあ。

聞き手:もっといたかもしれないですよね。

斉藤:え?

聞き手:もっといたかもしれないですよね。

斉藤:うん、もっといたんじゃないかな。で、秀年も越境なのね。で、そういう越境をどう考えるのかっていうのと繋がるんじゃないかなと僕は思ってるのね、***(01:23:09)の根っこのとこでね。だからやっぱそういう、なんていうか近くの学校は、遠いほどきれいに見えるっていうのもあるし、確かに近くにいればいるほど粗が見えるってね、そういうのを超えるときに、まあ子どもの選択っていう以上に、やっぱ親の選択を可能にするような仕組みってなんだろうって話になるんだろうと思うんですね。

末岡:親? の、結局それは障害児との問題だけじゃなくて、親と子ども、どの家庭にも同じことが言えるような問題になっちゃう感じですかね。だから結局子どもの意志か親の意志かじゃなく、障害児問題とか越境問題っていうか飛び越して広い意味で学校を選ぶ問題に繋がるんでしょうか?

斉藤:そういう側面もあるってことだよね。別にそれが全てじゃ。条件的にそういうのが見えやすい人っていうか、選びやすい状況にいる人とそうじゃない人っていうのは明らかにあるわけじゃない。障害児者を抱えてる親は三重ぐらいの意味合いで選びづらいっていうか。一つはだいたいの親は障害児と接するのって初めてだから。だからいつも戸惑ってるわけでね、いつも戸惑ってて、なんかこう確定的な、なんていうかアドバイスというか指示とかくれる人を探してる。そういう意味でまず立場的にものすごく弱い。これが普通の子どもだとね、うちの子はどこがいいって、こういろんな選択肢っていうか。日本でもなんだっけ、こないだの彼、あの四段…、モンテッソーリだっけ? モンテッソーリ選んだり、あと、いいか。まあ幾つも、[01:25:32]

聞き手:藤井君ですね。

斉藤:そうそうそうそう。彼のモンテッソーリって話題になったじゃない。あと東海大にいる小貫っていうのがやってんのが、ドイツで始まった神智学とセットのシュタイナーだ、シュタイナー。なんかそういうの選択して学校まで作っちゃう人もいるわけじゃない。で、そういう選択、まあ極論すると昔、そうだ、秀年とか立岩君とかちょっと関わった富士学園ってのがあって、ここはお金持ちの親が障害児者である娘だったか息子の、娘さんだったかな? のために富士学園って施設プラス訪問学級みたいなの作ったのね。だからそういうことまで選べる人ってすごい限られちゃう。

聞き手:そういう意味では金井家っていうのは、比較的ブルーバード乗ったりされてたってことは経済的にもゆとりのあったご家庭ですか?

斉藤:まあ孟母三遷だよね、あそこも。年表になかったんだっけ。あ、そうそう、69年に花畑、富士見。まず、生まれて富士見に移って花畑に戻って来てって。こういうタイプの親はけっこういたんだよね。だから昔だと光明養護に行くために、だから世田谷に移るといえばお金持ちじゃない? 花畑団地って公団住宅であんまり広くもないし。だからまあ家賃はそんなに高くない。ブルーバードスリーエスにこだわるのはお父さんの趣味だな、こだわったのは。

聞き手:うちなんかブルーバードなんかとても買えるような感じじゃなかった。

斉藤:ブルーバードスリーエスなんていっても、なんか高資産価値っていうかピンとこないと。

末岡:すみません、詳しくなくて。

斉藤:いや車はカローラかサニーかって時代にブルーバードスリーエスとなると、たぶん倍ぐらいの値段するね。いやいやなんか、聞いてもらうとなんかいろいろ余計なことみたい。

聞き手:当時のそういうリアリティーがね、僕ら知れないので、そういう小さなキーワードとか雰囲気っていうのが。僕らは小国先生のゼミで今こういう就学運動の歴史っていうことを調べなきゃっていうことで、いろいろな当時の関係者という方にこうお話を伺ってきて。あ、そうだ、ぜひ報告書とかお渡ししたほうがいい。

末岡:なんか聞き取りしてるのを先生が作ってまして、それをツイッターで取り上げてくださったみたいな話を、

斉藤:ああ、なんかどっかでこういうのが出てるよって誰かが流してたので、リツイートしたんじゃないかな。

聞き手:小林律子さんかな、現代書館の。

斉藤:あー、はいはいはい。あの現代書館のね。

聞き手:小林さんも介助者だったって。

斉藤:そうそうそう、あの人も横浜市大で、だから横田さんなんかと長い付き合いみたいだったんだね。

聞き手:すごいロシア語が大好きで。立岩さんがなんか、この僕らが作った報告書を見た時に、「全然わかってないな、ふん」みたいな感じで言われちゃったって美馬先生のほうから聞いて。「あー、残念」みたいに思ったんですけど、「もうちょっと君たちここの人に聞いたほうがいいよ」とか「こういう部分を見といたほうがいいよ」みたいな、当時のそのいろいろ文理研とか福祉研に出入りされたご体験から、ありますかね?

斉藤:うーん。

聞き手:今度学芸大学の寮に入っていた方には、

聞き手:ちょっと荷物になっちゃうんで、また送らせていただきましょうか?

斉藤:へ?

聞き手:送らせていただきましょうか? 今日持っていただくとちょっとお荷物に。

斉藤:はいはい。これはじゃあ頂いてって。じゃあ次作ったやつを遠慮なくっていうか。

聞き手:今、今後なんかお話聞いたほうがいい方とか、見ておいたほうがいいよっていうアドバイスをいただければと思って。[01:30:08]

斉藤:だから就学闘争ってある意味では時期限定ですよね。そのさっきの子ども会ばなしとも繋がるけど、やっぱりけっこう大きかったのが、八木下が「12歳は1回しかない」って言って。で、このまんま。あ、その話この間、そうか君たちがいたのか、猪瀬君が喋った時にそんな。だから「12歳は1回しかない」、このまんまその、それは伊藤さんが言ったんだね。このまんま就学闘争ね、だから大人の就労闘争と違って、やっぱ「12歳、13歳って1回しかない。その1回しかないのをずっと闘争闘争でなんかこう出口が見えないままどうすんだ」みたいなこと八木下が言ったわけね、「川口に来い。川口だったら小学校に行ける」ってね。で、そりゃあまあさっきのこう孟母三遷、光明養護に行かせるために。まあ金井さんだってそういう感じで動いてたよ。だからそういう選択肢を八木下が出した時に「いや、なるほどな」って僕は思うわけ。で、そこで、でも運動としてやってると、運動が先っていうか気分として「ここまで頑張ったのに何言ってんのよ」みたいのがやっぱあったんだね。律子さんにしたらここまで頑張ってて、まったく何もないわけじゃなくて、やっぱりこう最初のこの城北に戻ったんだって、区議会議長斡旋ってのが入って、次を出しますって。まあ結果的にはね、中学ではそれでそういう積み重ねがあったから、中学には…中学はもう覚悟決めたんでしょうね。小学校と同じことは、ね。

聞き手:ああ、***(01:32:11)。

斉藤:だからそういう意味合いでは、確かにその突っ張ったっていう意味があったんだけど。そりゃあその渦中で選択するって難しいですよね。

聞き手:なるほど、そうでしょうね。

斉藤:そこで八木下に「うんうん」と頷いたのも、「裏切者」って(笑)。

聞き手:律子さんが見えてたんですかね。

斉藤:そりゃそうだよね、向こうからすれば。「ここまでやってきたことを否定するのか」って。

聞き手:そういう意地みたいなものもちゃんと、

斉藤:いや、運動やるってそういう側面あるよね。

聞き手:ないと続かないでしょう。

聞き手:これは長いんだもん。だから6年、7年がかりで、6年がかりもね中学に、とにかく中学に入ったとこで一区切りだけど。ここまでやるってのはやっぱり親子だけでは無理だよね。そりゃあさっき言った支える会ができて、周りで言ってくれる人間がいて、言うだけじゃなくて手もとりあえず動かすっていうか。あ、そうだ、子ども会っていうか、そうだ、そんで餅つきやったりね、そういうのもやってたし、そうだね、そういう。まあいえばさっきの僕なんかが子ども会がどうこうって言う前に、もうやってみんな集まったじゃないのとかね、そういうの含めてこうある程度形ができるわけだから。

末岡:子どもの側からしたらそれはどうなんでしょう?

斉藤:はい?

末岡:子ども会がなくなったあと、その子ども会で知り合った友達と康治さんとの繋がりも一緒に全部なくなっちゃった。

斉藤:だから基本その、本人が選んで行こうと思えばさ、訪ねて行けるようなそういう繋がりじゃないからね。

末岡:遠い。

斉藤:遠いっていうかこう動くのに、動くのにね、どうするって話になるわけでね。僕はそうだよ、そのさっきの坂庭さんってのは、坂庭じゅんこちゃんってのは、そのあとだな、何年ぐらい経ったか、とにかく「チェッカーズの映画を観に行きたい」と言ってるっていうんでお声がかかって、車を出して行きやすい所っていうんで、都心に向かわずに越谷かなんかで映画を観た覚えがあるけど。

聞き手:花畑団地内の子どもの付き合いってのはあまり、[01:35:00]

斉藤:もうやっぱ難しいね。やってる人間が結局律子さん以外はみんな外部の人間で。で、律子さんもまあ結局こうやって運動ってか、団地ってそういうとこありますよね。もともと地付きの人がいるわけではないじゃん。だから学校を通した繋がりみたいなのがけっこう大きいじゃないですか。で、だからそれを超えようっていうんで、団地の自治会とか祭りをやったりするんだけど。だからそういう時にずーっとね、すでにできてて繋がりがあってやってるんなら、それはそれでだけど、そうじゃないとちょっとうるさそうな人だから避け…、

聞き手:なるほど。やっぱり団地内ではちょっと白い目で見られてるような、

斉藤:白いっていうかまあ別に、「いろんな人が来てて面白そうね」って思って見た人もいるだろうし、でもなんか「変なのがいろいろ出入りしてて、なんなのあれは」と思って見てる人、当然ね、どっちもいるわけですね。

聞き手:なるほど、そうなんですね。

斉藤:そういうふうなちょっと極端なケースはそうですよ。金井康治が二次障害っていうか背骨がずれて東大病院に入院した時に、親じゃない人間が付き添いで行くと「なんなのあれは」って言われて、ね。ちゃんと挨拶して回れば別だけど。だからそうやってなんか言われた側だから(笑)。

聞き手:今、東大病院の話がちょこっと出たんですけど、この就学運動と東大っていうものの関係性を考えたとき、僕はこれまでは東大と就学運動っていうのはどちらかというと切り離された感じで捉えていたんですけど、でも斉藤さんのお話だとむしろすごく強い繋がりみたいな、強いとは言わないんですけど、

斉藤:まああの、金井康治の判定をした医者が東大病院の医者だったんだよ。

聞き手:足立区の、あれですよね。

斉藤:うん、その委嘱医が東大病院に勤務してて、

聞き手:お名前忘れちゃったけど。

末岡:田中…?

聞き手:なんか石川さんの聞き取りからも名前が、

斉藤:だから、はい、病院の保育室に子どもを送ってくるみたいだから「そこで捕まえよう」っていって、やったわよ。

聞き手:でもなんかあの僕らは史哲の今、基礎教育学コースっていうところにいるんですけど、史哲のなか、当時の史哲としてはあんまり就学運動に関わる人はいなかったけど、行政のほうはけっこう、

斉藤:いやいや別にあの、別にそういう意味合いで僕は学科の人間と一緒にやってたわけじゃないからね。

聞き手:やっぱ文理研っていうものが持ついろんな繋がり、

斉藤:そうね、だからさっきの、はいはい。あの、もう79年っていったら僕は76年に進学してきて79年って1回出戻りっていうか半年いなかったし。まあでも幸いにっていうかここは控え室、当時も学生控え室があって、ちんまりした部屋が、行政は3階の、で、史哲は2階にあって。行けばさ、行けば顔合わして、あとそうだな、KYKだな。これはどちらかというと学科が云々っていうよりは、まあサークルで。そういう繋がりの中で「なんかやってんね」って話ね。だからまあさっき言ったように、あそこには行った、荒川九中の夜間学級。「近いし行こうよ」っていうんでね。なんか誰が言ったのか覚えてないけど、そういう話になって行った。だからそういう話をして持ち掛ければ、「じゃあ花畑でこういうことやってるから行ってみようか」って話になったかもしんないけど、まあそういうふうには発想しなかったんだな。

聞き手:持田先生も、

斉藤:持田さんってのはもうその頃は死んでるから。

聞き手:養護学校義務化反対の論文、持田さんもどっかで書かれてましたけど、もしかしたらなんか影響与えられたのかなと、

斉藤:いやいやいや、僕はそんな持田さんの論文ってほとんど読んでないの。だから持田さんっていったら覚えてるのはさっきの2冊よ、2冊。『肝心かなめの持田栄一』って名前の論文は読んだことがあんだ。著作集ぐらいはどっかで見なきゃなと思いつつ。いやもう4年ぐらい前か、僕が進学した時には五十嵐顕さんってのがいて、[01:40:16]

聞き手:正統派な、主流派な感じですね。

斉藤:まあとにかく五十嵐さんの遺稿ってのは3年前だか4年前だか読んで、わだつみのこえ、わだつみなんとかいう、中京大に行ってなんか講演の壇上で倒れて死んだそうだけど、その時最後に書いてたのは、あの人も学徒動員で特務少尉かなんかでね、ただ内地の教育隊だったんで、自分は別に。でも学徒動員で派遣された先でBC級戦犯で処刑された人もいると。で、そういう人たちのことを名を惜しむとか愛おしく思うのはいいんだけど、でも戦犯ってのはそれなりにね、どういうことだったのかって、ていうんでイギリスの戦犯法廷について調べたりして書いた論文があってね。「いやあそうか、最後の最後にこんなことやってたんだ」と思って。で、五十嵐さんの遺稿っていうか、とかは黒崎さんが預かってるっていうんで、黒崎さんに連絡取ろうと思ったら黒崎さんも若くして癌で死んじゃった。

聞き手:黒崎さんとは同期ぐらいですか?

斉藤:黒崎さんが僕が来た時の助手で。ずーっといたんで。ずーっと。だから黒崎さんは五十嵐さんが定年で辞めたあと、持田さんがすぐ亡くなったんで移るに移れずに、その後釜の名前忘れちゃったなあ。また持田さんのあとに来た人が癌で亡くなったんだよね、国立教育研究所(現・国立教育政策研究所)から来て。

聞き手:牧さん? 牧柾名(まき まさな)さん?

斉藤:その牧さんの前に。ほんとになんか1年いて、秋からもう来てなくて、すぐ79年ですね。だから僕、卒論審査の時にしか会ってないっていうか。だから学科が、控え室には来たし、ここの建物にはよく来たし、そこの前でよくビラを撒いてたんだけど。まあそういう、あとはレンガにいて工学部8号館に当時はまだ***(01:42:51)っていうか工学部助手会の名前で幾つか部屋があったのよ。

聞き手:自主講座の?

斉藤:うん、まあ自主講座の部屋。で、ゲバラの部屋っていうのもあって。神戸大学にいる人と、神戸大学に高橋基樹っているんだけど、5歳下で。なんか10年ぐらい前に初めて会った時に「どっかで見た顔だな」と思ったら、向こう「どっかで見た顔ですね」って言うから、どこで会ったかって思ったらゲバラの部屋で会ったなって。だからなんかまだそういうのがウザウザウザって、さっきの寮もあったし、なんていうか、だから運動っていうのがそんなに切り離されたものではないっていう。

末岡:わりと日常的にあったけど、だからこそそんな特別なものではなかった?

斉藤:まあそうだね、僕なんかだったらまあそうなっちゃうし。近辺にいる人間も「あいつはあんなことやってんだなあ」みたいな。だからなんか近寄っちゃいけないっていうふうには別に思わない、「どんなことやってんの?」ぐらいのことは聞いても、ね、それ以上。だからそこはその、それはある種のあれだろな、いわゆるノンセクトっていうか…の運動だからっていうのはあるでしょうね。だからやっぱ党派、民青も含めて党派だとやっぱりフォローがマメすぎて鬱陶しいって。「赤旗まつりがあるから行こうよ」とかね(笑)、まだね。だから駒場のクラスメイトで、なんか学年の終わりに6人だか7人だか民青に入ってたけど、2年ぐらい経ったらみんな辞めちゃったみたい。やっぱり鬱陶しかったんじゃないの。

聞き手:なんか先ほど言われた、ちょっと金井闘争とはずれるんですけど、「教育をよくする会」っていうのもなにかこう、一つのなんか教育学の歴史を見ていく上で、なんかとても面白い活動をしていると、[01:45:06]

斉藤:だから言い出しっぺの悟の書いたものってどっかに残ってないのかな、ここに。

聞き手:意外とここにはないのかもしれない。

斉藤:まあ卒論をね、彼は卒論を自分で製本、当時はまだみんな手書きで製本して50円だか100円だかで売ってたんだ。えらいやっちゃなぁ(笑)。

聞き手:伊藤さん、【土地】(01:45:33)、一橋に、あの***(01:45:35)から、

斉藤:そのあと【院生】(01:45:35)、今ね、

聞き手:それはやっぱりこう、史哲とこう、

斉藤:いや…、それは知らない、それは全然知らないけど。

聞き手:なんかいつかお会いできたらお話伺ってみたいなと。

斉藤:まあ史哲ばなしでいうと、啓明舎って塾がお茶の水にあるけど。

聞き手:啓明舎?

斉藤:うん、塾長やってる後藤っていうのが史哲で…の院生で。で、僕の、だから一緒にKYKとかやっててね。で、4つぐらい下、もうちょっと下か、まあ5歳ぐらい下か、今50代後半。で、彼が史哲の院生になって最初の歓迎会ていうか、あ、それは80年だな、80年の五月祭で山下恒男さんを当時の自治会が呼んで。だから推進派と、だから養護学校義務化っていうよりいわゆる障害児教育論者と「そうじゃない」っていうので当時の自治会がシンポジウムをやったんだ。だからその「手引きをしたのはお前だろう」みたいなことを歓迎飲み会で言われてなんか、口火を切ったのが堀尾輝久だっていうんで。だからそれに古い院生が乗っかっちゃったもんだから、さすがになんか同期の一緒に修士になったばっかの奴が止めたとか言って、伊藤悟のとこに「そんなことがあったんです」とか言って電話かけてきたって。

聞き手:堀尾さんがそのシンポジウムの火付け役だった?

斉藤;いやいや、だからやっぱそれはある種勢いよね、当時の。そういう、一応そういう論争があって。だからまあ立岩君が当時のだから学友会っていうか、あれは駒場の自治会宣伝もそれがテーマになってたって。

聞き手:教員たちの研究テーマにはのぼってこないけど、学生たちの中にはかなりこう、

斉藤:まあ政治課題だよね。それはその、辿り辿れば73年、4年の、だから共産党の部落解放同盟たたきから始まる共産党の、なんて言えばいいんだろなあ、69年、70年総括ですね、彼らなりの。で、だから70年新日和見ってのを切って、新日を切ったあと、やっぱりこう大衆路線っていうか、国民融合論っていうか、大きく言えばだから国民に愛される共産党になるために、その胡散臭い連中とは私達は対峙してますっていうのがずーっと行くなかで、いわばその暴力集団員を囲ったり、いつまでも解放同盟とつるんでる社会党と分岐を作る、そういうのが70年代後半…末から80年代前半のけっこう大きな政治テーマで。それはどちらかというと学生にはもろに出てくるわけだね、キャンペーンする片割れはいるわけだから。で、そういう中でやっぱ反対派をとった人間がみんな「あいつらが***(01:49:14)」。だから理屈の話ではなくて「あいつらがああ言うなら我々はこっち派だ」ってそういうノリだよね。だから理屈っていうか理論的にどうこうっていうのは、関わった人以外はあんまり出てこない、それ以降ね。

聞き手:今、お話にあった自治会の論争とかも調べようと思ってるんですけど、どこに記録があるのかとかちょっとまだあれなので。

斉藤:やっぱそれはもうほんとに人を辿るしかないでしょうね。[01:50:02]

聞き手:ちょっと調べてみます。後藤さんと伊藤悟さんと、斉藤さんとあと他にも何名かいらっしゃる、先ほどの「よくする会」って。もっと10…、

斉藤:まあそれなりになんていうか、10何人だかいたからなあ。

聞き手:中心メンバーはだいたいその、今、

斉藤:まあ、それでやっぱりなんだかんだ言って言いだしっぺで、なおかつ駒場でもサークル作ってその駒場のサークルともけっこうずっと、そうTAC(タック)だ、That's Another Collegeとかいうなんかそういうなんか、それは駒場で作ったサークルで。

聞き手:なんか伊藤さんって方だいぶお若いように見える、なんかこんな。

斉藤:僕よか一つ上だよ。

聞き手:なんか、まあ広告だからっていうのもあるかもしれない。なんかほんと中学受験の先生みたいな。こんな先生いたよな、みたいな。

斉藤:なんかでも、なんかちょっと違うんじゃないかな。あれ、悟ってそんな顔してたっけな?

聞き手:それ後藤卓也って書いてる。

聞き手:ああ、卓也か。悟?

斉藤:ああ後藤卓也は啓明舎に、そうそう。後藤は僕よりか5歳だか6歳だか下だから、後藤君はね。

末岡:金井闘争の話、金井闘争の話に戻るんですけど、さっきあの車のくだりでお父さんの話ちょこっとだけ出てきましたけど、斉藤さんはお父さんと…金井さんのお父さんとお会いしたことってありますか?

斉藤:最後にっていうかなんか、最後にっていうかな、どう言えばいいのかな、こう、お父さんを囲む飲み会ってのがあったんだ。どうもね、運動が長いといつも家に来ている事務局の人達とはなんかもう手垢がついてる、お互い手垢がついてるっていうんでね、だから若い学生や僕らぐらいまでのと一緒にたまには飲もうねっていうんで、西新井でふた月にいっぺんぐらい、3回か4回かやったのかな。

聞き手:その頃のお父さんというのは、やっぱり律子さんの方針とやっぱりちょっと距離も出始めてる頃ですか?

斉藤:だからその別に方針というか、康治が中学へ行きたいと頑張るのはいいと。でも自分が帰っても居場所がないと、落ち着く場所が。だから狭いんだもん、やっぱりそりゃ狭いんだもん。あれでもうふた間ぐらいあってね、自分の部屋があって、帰ったらちょっとうるさいけどまあいいやってならばいいんだけど、公団住宅で3Kだけど、もう。で、なんだかんだ人がいつも出入りしてるとやっぱ落ち着かないしね。運動やるっていうのはそうやって。だから僕はなんかそういうのがわりと好きだったの。その、まあちょっと強く言えば、障害者運動に関わると他人の家に平気で出入りできるんだなとか、ね。だからどんどん、僕は田舎の人間だから、やっぱりその人んちっていうか、まあわりと近場に親戚の家とかあって、いとこの本棚をひっくり返して漫画読んでたりね。それで「あー、お前いたのかい、じゃあごはん食べてっか」みたいな、そういうので育ってたから、人と会うのに電話をしなきゃいけないとかね、なんか勝手に人んちに入るとよろしくないっていうか、そういうもんじゃないんだっていう。でも障害者運動っていうのはやっぱりそういう他人が入らないと家族だけでは回らないと。

聞き手:それはやっぱり他の支援者の方にとっても、なんか楽しみだったんですかね?

斉藤:人それぞれだと思うよね。やっぱり人んちに行くと気遣わせる人も当然いるだろうしね。まあそこはやっぱり運動っていうか、だから頑張ってる人も当然いただろうし。[01:55:03]

聞き手:単にこう政治的な理想だけでなくて、やっぱり人と会う楽しみ、

斉藤:まあそうだよね、人と会うとこで、まあ回答っていうか、書いた最初で未だにやっぱり一番顔合わすのはその時一緒になんだかんだその金井、子ども会で一緒にやった人間だし。あとはやっぱり運動仲間でわりと近くに住んでたんで、引っ越しの手伝いに行った奴んとこだし。

末岡:そういうなんか、金井。そういうではないな。金井闘争の、ちょっとまた話飛ぶんですけど、金井闘争の直接的な成果としては、なんか本人のとその後の足立区の変化ってのはあると思いますけど、乙武さんとか、まあ最近別の意味で乙武さん有名ですけど、『五体不満足』とか出た頃に、なんかこういうのの裏には金井闘争があったのに触れられてないのはおかしいよね、みたいな発言をされたっていう。

斉藤:まあそんな話をだから市野川と介護の交代の時にしたんだろうね。で、市野川もなんかちゃんと覚えてそんな喋ったってことだよね。それも書いたと思ったんだけど、やっぱ世田谷だし、っていうかね、やっぱ高校だってその前に高校での就学闘争っていうか、就学闘争ってほどじゃないけど、高校レベルだと東京はあんまり感じないよね、あんまり見えないよね。まあ埼玉の話はこの間聞いたよね。そういうのがあって、あと、やっぱりこう、けっこう学校問題で大きいのは受け入れる教員がいるかどうかだし。で、それはそれなりに、だからやっぱ東京の都立高校ってそういう運動っていうか関わってる人もいて、いろんな人間がいたほうがいいじゃないっていう、やっぱりそういう潮流っていうかな、流れみたいなのがあったからすんなりいったんじゃないかなと。でも何もなかったら、たぶんそうはすんなりいかないわけだね。やっぱりどっかで課題化されてて、それさっきの足立区竹の塚中学で、「何ができるかすぐに言えませんけど、一緒にやりましょうよ」って、そういうことを教頭が言うわけでね。運動体のなんていうのか、教育運動やってる教師じゃなくて、学校としてそういう姿勢っていうか、そういうのがそれなりのところに、たぶん世田谷なんかもそういう感じだったんだと思うね。だから乙武君の本だと、わざわざ書かないっていうのはたぶんそんなトラブルっていうか、そんなことでいちいち言う必要もなかったっていうことなんだと思うよね。だから彼よかずっと若いそのさっきの星加君なんかはちょっと下、さっき言った福地くん、鹿児島だとそうはいかない。だからまあ全国一律一緒じゃない。東京でもやっぱ色合いの強いとこ弱いとこってあって、「ああ世田谷だなあ」と思ったのはすごく事実だよね。

聞き手:世田谷、古川清治さんっていうのは世田谷ですか?

聞き手:杉並、杉並ですね。あ、出版社の。

斉藤:はいはいはい、まあ古川さん知ってっけど。

聞き手:佐野雄介君とか、世田谷ですよね、彼。佐野雄介君、高校、

斉藤:そうそう、佐野君のとこはそうだね。そうやって名前が残るほど騒ぎを起こした人以外にもいっぱいいてるってことだよね。だから騒ぎになったのは、やっぱり足立区だと金井康治って名前が出るけど、さっき言ったように竹の塚中学がそんなこと言うぐらいだから、やっぱりポツポツいたわけだね。そういう人はなかなか見えないよね。また、ある意味合い、個人の努力では済まない学校の仕組みとか、仕組みっちゅうか仕組みまでいわなくてもある程度雰囲気っていうのかな、みんなでこう「来たらなんとかしましょうよ」ってのがないと始まらないから。だから個人的な教育実践、先生頑張りましたみたいな話でも出てこないですよね。ちょっと、うん。やっぱ学校全体の雰囲気、あるいは…まあ、あるところからは、あるところからはっていうか80年ぐらい、介助員はつけるようになったからね[02:00:01]。今、弁護士やってる和久田っていうのがいるんだけど、和久田、和久田修。和久田はまだあの頃は司法試験受けて、弁護士になる前だね、らんがく舎ってのをやってて、大田区の自薦介助員だよね。親がつけた介助員が来て、小学校に来てもらえればけっこうですって、そういう感じで始まってるからね。そういうのがポツポツポツポツ、こう、ね、前例があると「じゃあ他でもやってんだからできますよね」って。で、一応前例一つできるとね、それはやっぱり動くわけだ。らんがく舎もなんか、和久田がそういう入り口を作ったから何人もやってるはずだし。まあ表に見えるっていうか、ものだけじゃないっていうかな。

聞き手:先生、午後からご用事が、

斉藤:はいはい、まあそうだな。ふーん、喋るといろいろ思い出します。

聞き手:ありがとうございました。[音声終了]


UP:20191215 REV:
斉藤 龍一郎  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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