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質問「金井闘争にどのようにして関わることになったのか」への応答

斉藤龍一郎 2017/10/00

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 以下は、斉藤さんが、以下のインタビューに際して用意したもの。
◆斉藤 龍一郎 i2017 インタビュー 2017/10/13 聞き手:末岡尚文他 於:東京

 関連するインタビューとして以下もあります。
◆斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所


◇質問1.金井闘争にどのようにして関わることになったのか
 斉藤さんが支援に参加した1980年には金井闘争はすでに全国的な運動になっていたと思われますが、斉藤さんはどのようにして闘争を知り、またなぜ参加しようと思われたのでしょうか。また、当時の社会における金井闘争の扱いはどのようなものだったのでしょうか。

◆応答1
 1979年入学の高橋秀年(僕らは「しゅうねん」と呼んでいました)君らが起ち上げた「福祉研究会(福祉研)」の誘いで就学闘争に関わるようになった。
しゅうねんは、立岩真也さんと知り合いだった(市野川君は周年の4年下で同じ文III5C。1984年、しゅうねんと市野川君はオリターをやっていて、山中湖で事故に遭遇。その時の事故でしゅうねんは死亡)。
 1979年当時、僕らは、文学部長・今道友信の「被害届」提出によって逮捕・拘禁され起訴された仲間の裁判闘争を闘っていた。同じ東京地裁で、金井君の自主登校時に、花畑東小学校へ「トイレ使用」を申し入れ拒否されたので押し入ったことを「不法侵入」として起訴された足立区職員が裁判を闘っていたので、交流しようというのが、福祉研の提起だった。
* 僕が文学部の学生だったら、今道に被害届を出されていたかもしれない。総合図書館前で今道と出くわし、腕にしがみついたら、一緒に倒れたことがあった。今道は僕より二回り大きかったので、起ち上がった後も引きずられて赤門までたどり着いた頃、やっと仲間たちがやってきた。そうしたら、今道は心臓が痛いと騒いで救急車を呼び、救急車に乗って逃れていった。

◇質問2.金井闘争が斉藤さんに与えた影響について
 ホームページを拝見いたしましたところ、斉藤さんは金井闘争がきっかけで足立区に住むようになり、また部落解放同盟など反差別の運動にも関わることになったとありました。現在の活動・研究とも当然関連があると思われますが、斉藤さんにとって金井闘争とはどのような意味を持つ出来事だったのでしょうか。

◆応答2
 1976年、進振りの結果、志望先とは言えない「教育行政学科」に進学。同期16人(?)のうち文IIIからの進学者は一人、もう一人の文学部卒学士入学者をのぞく全員が理I・理IIからの進学者だった。
 その年、駒場のクラスでのクラスメイトに誘われて、「東大百周年事業糾弾実行委員会」に参加。東大闘争の頃、日本共産党の学生対策部長(?)で後に新日和見問題で党を離れた山川暁夫を招いて講演会をやったことを覚えている。
 百周年糾弾運動を通して、青年医師連合、精神科医師連合(赤レンガ病棟を自主管理していた)、応用微生物研究所や東大病院で臨時職員(3月31日に雇用が中断される非常勤職員)の労働運動を闘っていた人たち(多くは東大闘争に触発されて動き出した人たち:後に職安の紹介で働いた本郷三丁目駅近くの職場で組合ができたのも、東大闘争の影響とのことだった)とつながっていった(で、1979年の正月を赤レンガで迎えた)。
 1977年、4年次を迎えるにあたり、農学部への転学科を考え問い合わせたところ、「学士入学であれば受け入れます」との回答。その年の夏休み、帰郷した時に「大学には戻らない」と両親がやっていた酪農手伝いを始めた(小学5年生〜中学生のころ、朝夕、牛舎のそうじをやっていたので、酪農にはなじみがあった)。
8月から翌1978年年初まで、自動車学校へ通ったり、福岡・柳川の伝習館高校闘争に関わっている人たちがやっている保育所(その前身の塾を高校2年生の時、同じ高校の一年上の人に誘われて訪ねたことがあった)を訪ねたり下ながら、酪農手伝いをした。
 5カ月ほど酪農手伝い(あくまでも手伝いで、見習いにもなっていなかった)をしているうちに、「人恋しく」なって、当時あった井の頭寮の駒場のクラスメイトの部屋にころがりこんだ。
 持田栄一さんに手渡された内申書裁判資料集、松崎通之助『夜間中学』を読んだのは、しばらく大学を離れる前だったので、1976年秋〜77年春のどこかでだったようだ。
 1974年秋、授業開始と共に駒場で大々的に展開された「解同朝田・松井一派」非難キャンペーン、11月末から始まった「八鹿高校暴力事件」キャンペーンで疑問を覚えたことから、当時、明治図書から発行されていた雑誌「解放教育」、解放教育新書シリーズ、解放教育叢書のうち、『差別越境との闘い』など何冊かを読んだ。「解放教育」には障害児の就学闘争の紹介記事も載っていたように思う。
 福祉研と関わり、花畑での自主登校にも週1回程度参加するようになったことから、当時、部落問題研究会が関わっていた部落解放同盟品川支部子ども会の活動にも関心があったが参加するには至らなかった。都内でも解放同盟各支部が解放子ども会を行っていると知ったことが、後に花畑で「子ども会」をと考える出発点となった。
解放同盟東京都連、足立支部と具体的な接点ができ、解放書店で働くようになったのは、金井闘争が直接の契機。金井闘争には、全障連、解放同盟都連、自治労(前述のとおり、足立区職員の自治労組合員が自主登校時の「不法侵入」で起訴されていた)、都教祖反主流派(社会党系10支部と呼ばれていた。後に東京教祖として分離・独立し日教組に加盟する)、全水道東水労はじめ、さまざまな運動体が関わっていた。全障連や解放同盟都連から見ると、この時一緒にやったことで労働運動との関わりがより深くなったと言えるかもしれない。
 今、一番良く会っている仲間は、花畑での「子ども会」を一緒にやったメンバーで、彼女ら・彼らの子どもたちとも接点がある。という風に、人生が決まった。
また、金井闘争をきっかけに足立に移り住んだ脳性マヒ者(CP者)の介助で月に2回、20年近く顔をあわせてきた市野川君には、アフリカ日本協議会(AJF)で仕事をするようになってから、岩波ブックレットで林達雄『エイズとの闘い』を出す伝手を作ってもらったり、AJFの企画実施の会場として駒場ファカルティハウスをとってもらったりしてきた。彼の書いた『思想のフロンティア 社会』と立岩さんの『希望について』(いずれも2006年刊)が、世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)の社会的な意義を論じた日本語での最初期の文献となっている。

◇質問3.金井闘争の意義について
 障害学会第7回大会の市野川容孝先生の閉会の辞によると、斉藤さんは乙武洋匡さんの小学校入学の前提としてあったのが金井闘争(の成果?)であったと述べていらっしゃるそうですが、現代における金井闘争の社会的な意義をどのように考えていらっしゃるのでしょうか。

◆応答3.
 乙武洋匡『五体不満足』を読んで、孟母三遷、江戸川で彼を生んだ家族が世田谷に落ち着くまでの道のり、また世田谷で普通学級に通い、都立戸山、早稲田と進学していったプロセスに触れた時、世田谷・目黒での就学闘争、都立高校内の解放教育運動の影響があるのではないかと感じた。
1986年(?)の全国同和教育大会・東京/埼玉開催に向け、解放書店の業務の一環として足立区内の全学校を訪問した。その時、足立区立竹の塚中学の教頭が「私たちの学校は、何ができるとは言えませんが、まずは学校へ来てください、一緒にできることを考えましょう、と障害児を持つ親に呼びかけている」と語っていたことが強く印象に残っている。
 自主登校、足立区役所包囲闘争(1981年・82年)、日比谷公会堂での全国集会etcのインパクトがあって、1981年に、「子どもの進学先は親の選択による」との文部次官通達が出され、他方で、教員達自身の取り組みを伝える実践報告などの積み重ねがあって、世田谷区では「就学闘争」を強いられることもなく乙武君は普通学級に入学したのだと考えます。そうした闘争、特に「受け入れる教員」がいない地域では、乙武君の小学校就学以降も、障害児の普通学級就学はけっして簡単なことでなかったことを忘れてはなりません(ex.1975年生まれの星加君が愛媛県で初めて普通学級に就学した際には、かなり親が頑張っています。彼よりも10歳年下の福地健太郎君(全盲)を、彼の親が鹿児島県で普通学級に就学させようとした時は教育委員会が拒み、しばらく自主登校もしたそうですが、結局、彼と母親が大阪・枚方の母方の実家に戻って地域の学校へ行くことになりました。CF.座談会「視覚障害者が高等教育機関で学ぶ スーダンと日本の経験を語る」http://www.arsvi.com/2000/070809.htm)

◇質問4.闘争当時のことで印象に残っていることについて
 特に金井康治さんやご家族の日々の生活や、介助の様子、金井さん一家や支援者と地域との関係などについて、印象に残っていることがあれば教えていただきたいです。また、康治さんの転校への意志がいかなるものであったのか、康治さんが闘争をどのようにとらえていたのかについて、もし本人からお聞きになったことがありましたら、それらについても教えていただきたいです。

◆応答4.
 自主登校支援ということで花畑に通った(当時、井の頭寮に住んでいた)が、上記「不法侵入」問題で学校が門も閉ざしていたこともあり、多分、自主登校初期には若干あったであろう子どもたちとの触れ合いもなくなってしまっていたことから、必ず花東小門前へ行くという風にはなっておらず、金井さん宅の車で梅田にあった足立区中央図書館へ行ったり、弟たちも連れて釣り堀に行ったりした覚えがある。
 1981年の区役所包囲闘争後、区議会議長あっせんで足立区との話し合いが始まり、「城北養護学校への復学、城北養護学校から花東小へ交流などを手がかりに転校を模索する」という趣旨の合意書が交わされたことから、「子ども会」を始めた後は、城北養護学校へ迎えに行くのも日課になったという記憶がある(何度か行ったことは間違いないが、それがどういった取り決めに基づくものだったのは良く覚えていない)。

◇質問5.闘争後の金井康治さんとの関係について
 「金井康治さんの死が投げかけるもの」によれば斉藤さんは闘争後の1984年には花畑団地から引っ越され、金井康治さんの介助からも離れたとのことですが、闘争中の金井康治さんと支援者の方々との関係と、闘争後の関係に変化はあったのでしょうか。
 また、追悼文集『金井康治によせて』で斉藤さんは大人となった康治さんと会った時のことを書かれていますが、高校卒業後の康治さんが考えていたことや発言について、ご存知のことがありましたらお聞きしたいです。

◆応答5.
 金井康治は、1981年に再度城北養護学校へ通いながら花東小へ転校を模索することとなった。これは、彼の意思の反映というよりも、親(特に就学闘争に熱心だった母親)の意思の表れと見るが妥当だろう。
 「子ども会」には、金井康治の城北養護学校での同級生(年齢で言うと一歳年下の、1981年に初めて同じクラスになった生徒たち)の数人(筋ジスの神保君、発話ができない坂庭さんら)、また、金井闘争のビラ入れが契機で参加した桑袋小身体障害児学級在学生(難聴児)、後には足立養護学校(現・南花畑特別支援学校)在学児が数人、参加するようになった。
 金井闘争のための「子ども会」ではなく、いろんな子どもたちが一緒にいて馴染み合うことを目指す「子ども会」として運営していくために、運営に金井闘争の支援者だけでなく「足立・障害者の自立を勝ち取る会」メンバーはじめ、より多くの人にそれぞれの立ち位置で関わってほしいと願っていた。
 1982年の足立区包囲闘争に合わせて設定された集会に、「子ども会」参加の子ども達を連れて来て欲しい、と金井さんが、僕に言ったので、「金井さんが自分で言ってください。僕が言ったら、子ども会が壊れます」と返したことで、金井さんとしては「意に染まない取り組み」と感じ始めたのだろう。
 また、花畑団地の集会所を使って、土曜日の午後、一緒に遊ぶというのでは、参加者が「大人の手が必要な障害児」と「大人も遊んでくれるのでやってくる年少児」に限られてしまうことから、富坂セミナーハウス(当時、ドミトリーを安く使うことができた)、渋谷山手教会が入っているマンションの一室(運動体のために貸し出しをしていた)、台東区手をつなぐ親の会が使用していた緊急一次保護施設(一軒家を貸し出していた)でのお泊まり会などを開催するようになった。そうした取り組みも「地域の取り組み」ではないと感じられたのかもしれない。
 1982年だったか翌年だったか、金井康治は花畑中学へ就学し、学校介助のグループもできて、活動の中でも重なりがドンドン小さくなっていった。
 「子ども会」をどこへ向かってどのようにやっていくのか、展望を出し切れなくなったことから1983年に活動を停止した。
 1984年、解放同盟都連の一部である解放書店で仕事をすることが決まり、それまで「子ども会」のためにと空けていた土日に、仕事をするようになった。

◇質問6.金井康治さんと友人との関係について
 金井康治さんは「地域の友人と同じ学校に通いたい」という意思のもと転校を訴え、中学校入学後には、いじめなどの問題に会いつつも多くの友人に囲まれた一方、高校では周囲との関係に苦しんだことを『福祉労働』に自ら投稿されています。
 闘争中に花畑団地の「子ども会」を立ち上げたのは斉藤さんであったとのことですが、康治さんと友人との関係や友人といるときの康治さんの様子などについてご存知のことがありましたら、ぜひお聞きしたいです(金井康治さんは「子ども会」や中学校でできた友人とは高校以降の付き合いはなかったのでしょうか。「金井康治によせて」の楠敏雄さんの文章に、高校卒業後康治さんが「僕、さびしいんです」と言ったことが記録されていますが…)。

◇質問7.金井康治さんの高校進学について
 金井康治さんの高校進学は金井闘争と同様に障害児の普通学校就学における大きな転換点であったように思われるのですが、その時の運動の盛り上がりは金井闘争のものに比べると弱く、残されている資料も少ないように感じられます。
金井康治さんが高校進学を目指していた頃斉藤さんはすでに介助を離れていたとのことですが、康治さんの高校進学をどのように見ていらっしゃったのでしょうか。

◇質問8.「かないこうじのページ」について
 金井洋さんが立ち上げたウェブページ「かないこうじのページ」ですが、現在閲覧ができません。掲示板などもあったようですが、どのような内容が書かれていたのか、ご存知でしたら教えていただきたいです。

◆応答8.
 「かないこうじのページ」掲載内容のほとんどは追悼文集に収録されています。

UP:20191216 REV:
金井 康治  ◇斉藤 龍一郎  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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