共同連はどうたたかってきたのか
公開インタビュー,2017/09/03,第34回 共同連全国大会滋賀大会,於:立命館大学びわこくさつキャンパス
話し手:◇斉藤懸三
◇白杉滋朗
◇堀 利和
聞き手:◇立岩 真也
◇青木 千帆子
◇共同連
◇病者障害者運動史研究
「20170903共同連.MP3」
00:00:00〜01:22:54(83分)
聞き取れない箇所は、***(hh mm ss)
聞き取れるけれど自信のない箇所は、【きこえたおと(hh mm ss)】
と表記しています。
--------(00:00:37)--------
立岩真也さん(以下、立岩) 皆さん、こんにちは。これから午後3時まで、昔の話を聞こうっていう、そういう企画をさせていただきます。もとはといえば、立命館のキャンパスを共同連のほうで安く借りたいと、そういうことがありまして。そうすると、我々は、立命館の研究センターの1つなので、名前が乗っかると良くなると、そういうことで協力させていただいたのがとっかかりなんですけれども。つきましては、1つくらい何かという、そういうことの中で、これは前からちょっと思っていたことで、共同連というのは一体どういう仕掛けで、どういう成り立ちで今成り立っているのかっていう話を聞きたいと思ってきたんですね。ということで、今日の企画をしました。
今日、登壇していただいているのは、斉藤さん、1948年生まれだそうです。堀さんは、1950年生まれだそうです。白杉さんは、1955年というくらいの世代なんですれども。もう、そんなときには全然影も形もなかったっていう人のほうが、たぶん共同連の中でも多くてなっているのかなと思うんですよね。昔のことを知ったからどうなるっていうことでもないのかもしれないけれども、でも僕はこの頃、知っておいたほうがいいことって、けっこうたくさんあるなというふうにも思っていまして、今日伺いたいと思います。ただ、その前に、今日は朝、斉藤さんが書いていたという「社会的事業所宣言」というのが、出来たてほやほや、1時間くらい前にできたやつが皆さんのところに配られているんじゃないかと思います。それのお披露目から始めるという取り決めになっておりますので、まず、出来たてほやほやの宣言のほうを、斉藤さんのほうから紹介していただきたいと思います。
斉藤懸三さん(以下、斉藤) それでは、いつも大会宣言ということで最後にやらせていただくんですけれども、今回の滋賀大会のテーマが、「社会的事業所宣言」ということになっておりますので、それを、という大会宣言じゃなくて、社会的事業所宣言という形で、最後にやるのではなくて、ちょうど公開講座がありますので、それを最初にやらせていただきます。内容について疑義ありましたら、一番初めの閉会式までにご意見をいただきたいなというふうに思います。それでは、読み上げさせていただきます。
--------(資料の配布 00:03:12〜00:03:51)--------
「社会的事業所宣言。我が国において、一般労働者における競争の***(00:03:57)、さらに、派遣などに代表されるような正規労働の増大により、多くの生きづらさを抱える人々への社会的排除が深まってきている。少子高齢化の下、社会保障予算が増え続けることで、自己責任論が強調され、かつての福祉国家構想のような法的責任論はすっかり影を潜めてしまっている。それを覆い隠すかのように、政府は、【我がこと(00:04:30)】をまるごと、地域共生社会実現本部をつくり、地域力強化の名の下、住民の***(00:04:43)により、その多くを託そうとしている。この構想に全く欠落しているのは、住民を元気にする仕事、労働であり、それをもとにした地域の再生であり、もはや企業でも行政でもない。このあたりは、昨日、宮本太郎さんもしっかり述べられていたかと思いますが、社会的事業創造、労働の創出にとどまらず、居住の確保も含めて、共生実現の真の中心となるように、社会的事業所とは、社会的に排除された人々を30パーセント以上含み、仕事を通した収入が、経済基盤の50パーセントを占める。どのような法人であれ、社会的に排除された人々とそうでない人々が対等に事業【運用(00:05:41)】を行い、労働を通じたソーシャルインクルージョンを達成することを目指す事業体であり、その法制化は、2012年より求められ続けている。今大会により集結したワーカーズコープ連合会、ワーカーズコレクティブネットワークジャパン、NPO法人***(00:06:02)、そして共同連は、今後社会的に排除された人々との共同実現のために、共同し連携していくことを固く確認した。かつて社会的事業所(共同事業所)制度を生み出した滋賀の力、今大会を我が国における社会的事業所、社会的共同組合の幕開けとすることを宣言する。2017年9月3日、第34回共同連全国大会、滋賀大会参加者一同。」以上です。
立岩 ありがとうございました。これは、またあとで閉会式のときに確認されると思いますけれども、そのときに忘れないように。それを覆うかのようにで、これはさっき覆い隠すと読まれましたけれど、どっちが***(00:07:01)ですか? 覆い隠す、だそうです。これについては、できるだけそこにつなげていきたいとは思っていますけれど、そんなに時間がありません。本当であれば、2時間とか3時間とか時間をかけて根掘り葉掘り聞きたいところなんですが、そんなに時間がありません。ですから、あまり最近のところまで話はいかないかもしれません。そうすると、この宣言にそのままするっとつながるところまでいかないかもしれないけれども、でもいいかなと思って、始めさせていただきます。
私は、障害者の運動の歴史のことなんかを少し書いたりしたこともありますけれども、共同連については本当によく知りません。関心はありますけれども、よく知りません。ただ、隣に座っておられる青木千帆子さんは、自分の研究のテーマとして、共同連を選んで、実際にフィールドワークなんかもやっているので、僕の知識の足りないところを補っていただきながら、好きなように突っ込みを入れてもらえればと思っています。
さて、共同連は、全国組織として発足するのは1984年だと思います。ただ、そういう構想が立ち上がっていくのが81年。81年というのは、国際障害者年という年でもあったんです。ただ、そうすると80年代になるわけですけれども、名古屋で、斉藤さんたちが作業所というか、働く場、生きる場というのをつくり出すのは71年だそうです。そのとき、例えばその前の年、1970年というのは、横浜で障害をもつ子どもを殺した母親に対する、減刑嘆願運動を批判する運動が始まった年ではあり、そして、府中療育センター闘争というのが始まった年ですけれども。ただ、そういった運動が全国に展開していくのはもうちょっとあとのような気がするんですね。72、73、74とか。そうすると、71というのは、僕の勘だとけっこう早いなっていう感じがしています。
じゃあ、71年どういうふうにして物事が始まったんだろうというのが、素朴に気になるんですよね。作業所自体は、そのとき何もなかったわけじゃなくて、例えば名古屋でも、ゆたかという、きょうされんにつながるような動きですけれども、そういったものはあったような話も、昨日実はバスの中で少し伺いました。そうしたものとの関係もありながら、だけれども、必ずしも政治的なというのでもないところから始まったのかなという感じが、昨日したのですが、そこらへんはどんな感じだったんだろうっていうのが、まず聞きたいんです。それから、全国組織ができる前に10年くらい経っている。この感覚というのは、短いようでもあるけれども、けっこうあるかなっていう感じもするんですよね。
例えば、全障連とうい組織は、1976年にできています。ですから、これは養護学校の義務化が明らかにきっかけになっているのですが、70年代にいくつかの全国組織っていうのができていくわけだけれども。ただ、共同連の場合は、その70年を飛び越して、80年から84年っていうあたりに組織をつくっていく。この間、71年に始まったことっていうのが、どういう背景であったり、あるいはどういう思いであったりっていうことと。それから、その間十数年あけて、全国組織が84年にできた。そのあたりが、どういうプロセスだったのかっていうところを、私はまず1つ、結局これは斉藤さんにということになるんだけれども、お伺いしたいと思うのですが。どういう尺でしゃべっていただいても、私は構いません。お話をいただきたいと思います。
斉藤 昨日もちょっと立岩さんにもお話ししていたのですが、わっぱの会が始まったのが、71年の11月なんですけれど、実はその前に滋賀県のほうであらくさ共同体をつくろうという運動が、正式には70年の4月に、それこそこの大津市でスタートしました。そのときの組織体の名称が、【ヒューマン連合(00:11:35)】という、そういう名前でやりました。70年というのは、ちょうど安保改定のとき。自動的に継続していくわけなんですけれども、70年6月という改定の時期を前にした、60年代末からの各地の学園闘争の始まりとして、安保の戦いが全国的に広がっていった、そういうものとは全く違う流れとして、実は、大阪のほうを中心として、関西各地に【うしおの会(00:12:21)】という会が、若者の手によって始まっておりまして。その人たちが、【『ヒューマン』(00:12:30)】という雑誌を出して、初めは新しいより良い施設をつくろうということで、市民から、【『ヒューマン』(00:12:41)】という雑誌を販売して、カンパ金を集めて、それでもって、そういうものをつくっていこうという、そういう自発的な運動が関西の地域に広がっていきました。
その当時、そういうものに、我々の世代だと関わった人もいるかと思います。それとは全く別個で、私は名古屋で「ワークキャンプ運動」という、学生サークル的な活動に関わることから、障害者の施設というものを知り、それ自体が、全く私にとって知らない世界だったわけですけれども、障害者を町や村から隔離をして、山の中の施設に閉じ込めていく。つまり、60年代末、特に成人の知的障害者の施設が初めてつくられている頃でありまして、全国にコロニー網という構想を国が打ち出して、大型の、数百人から、場合によっては1000人を超える障害者が集められて、大規模に山の中につくられた。これが、北は北海道から、南は沖縄まで、各地につくられていったという、そういう歴史がありまして。やまゆり園というのは、そうものの流れの中で今も存在し続けているんだろうなと思うんですけれども。そういうものの中で、隔離施設がどんどんつくられていった、それに疑問を持って、街の中でなんで障害ある人たちは生きられないのかというところから、じゃあそれが、行き場がないから、結局家族が面倒見切れなくなってとか、もしくは、家族が、街中にいたらかわいそうだからということで、当時のコロニー構想というのは、地上の楽園という、そんな感じで語られておりました。自然環境の中で、理解のある職員に囲まれて暮らせば、差別を受けることなく幸せになるんだと。隔離することが差別であるということに、なんら言及しない、そんな施策が進んでいたということ。それに関しては反発をした、そこから、自分たちで街中に生きる場所をつくろうと思った。
そこで、大阪の***(00:15:04)会、関西で広がった運動と出会って、じゃあそこで、我々は単に施設を新たにまたつくろうというのでは駄目だと。施設に代わるべき、新しいあり方を考えようというので出てきたのが共同体という考え方で。そこでは、施設にいるような、管理するもの、されるもの、指導するもの、されるものではなくて、対等に仲間として生き合う共同体という、家族的な血縁関係ではない、人と人とが一緒に生きて行く、そういう共同体をつくろう。その中に、障害がある人も一緒に生きていけばいいんだということで、そういう共同体をつくろうと。
たまたま滋賀県の近江舞子に企業から寄付された土地が【うしおの会(00:15:56)】が持っておりまして、そこに共同体あらくさをつくろうということで結成されたのが、今言った【ヒューマン連合(00 16 03)】であります。ただ、1年後にそれが解散することになりまして。なぜ解散をしたかっていうと、その土地が近江舞子の山の中にあったわけで、結局自分たちがより良い場をつくろうと考えながら、施設と同じような山の中につくってしまえば、仮にその中にいい関係があったとしても、その場自体が社会から隔離されてしまうことになろう、それではいけないということで、けんけんがくがくの議論をしながら、もう一度運動を立て直そうということで、解散することになりました。
しかし、もう既にあらくさは始まっておりまして、建物がある程度できて、そこに人が住み始めていましたので、その後あらくさは継続をしていきます。そしてまた、山の中だけでは駄目だということで、ふもとの村におりてきて、新しい拠点をつくって展開をしていくことになります。これは、後の滋賀のさまざまな運動の、ある意味出発点になったというふうに思いますけれども。それに対して、私は名古屋のほうであらくさではない新たな場を、名古屋という都会の真ん中につくりたいと思って始めたのが、わっぱの会でありました。そこから、あらくさはあらくさ、わっぱはわっぱという形でスタートをしていきます。そこが、共同連準備までの会が1981年にできるんですけれど。
立岩 ちょっと間に入ってもいいですか、斉藤さん。実は、昨日初めて知ったところもあるのですが、話を聞いて、へーと思っているんですけれども。例えば、60年代の終わりくらいに施設がぼんぼんできていく、そういう話は出てきますよね。そのときに、斉藤さんはワークキャンプという形で、大学生としてそういうところに行ったところの直感みたいなものとして、感覚みたいなものとして、これはあかんという、そういう感じだったのか。それこそ、ただ73年、74年くらいになってくると、関西のほうでもコロニー解体とか、そういう政治的なというか、スローガンとか、あるいはそういう雑誌なんか出てきたりするんですよ。そのへんの感覚みたいなものと、そういう運動みたいなものっていうのは、その当時の斉藤さんの受け止め方としては、どんな感じだったんですか? 何か覚えてらっしゃいますか?
斉藤 なんといっても、山の中の施設にこちらは出かけていく存在で、しばらく経って、1週間とか10日とか、そういう期間そこにいて、好きに帰って行ける、そういうあり方と、そこにいる人たちは、それこそ死ぬまでそこにい続けなきゃいけない。めったに外に出ることがなくて、しかもお盆やお正月に帰れる実家のない人が、また実家があっても、それを受け止めてもらえない人は、もうずっといっぱなしという、あまりにもその落差の大きさを実感したということと。
当時学園闘争があって、大学の中では、社会を変える、革命するんだという意気込みがあったわけですけれども、そういうふうに言っている学生と、山の中で過ごす障害者とのあまりにも大きな落差で、そういう根本的な社会問題に対して目をつぶったままで革命なんてありうるものかと、そういう思いがあって。そういう人たちが一緒に生きる社会をつくることこそ、そういう社会変革だというふうに思ったということです。
立岩 斉藤さんはそういうふうに思われたと。その1つ手前のところなんですけれど、【うしおの会(00:19:50)】という会の話も初めて聞くわけですが、それはけっこう誰も聞いたことがない、今となってはね。本当に一般の若者たちと言ったけれど、今じゃ本当ぴんとこないんですよね。どういう類の若者たちというか、人々がいたのかということと、それから、それは議論を繰り返す中でいったんは施設をつくるという話だったんだけれども、それが議論される中で変わってきたっていう、そのあたりのリアルというか。どんな人たちが、どういう議論をしていたのかなと思うのですが、どんな感じか覚えていらっしゃいますか?
斉藤 私は【うしおの会(00:20:31)】にいたわけじゃないので、その内情は詳しくはわかりませんが、接した限りでは、学生であったり、若い社会人であったり、そういう人たちが、政治的な震災とかベ平連とかっていう活動に向かっていくのではなくて、やっぱり世の中に矛盾を感じる中で、何かやりたい、それが、そういう本当に困っている障害者、行き場のない障害者にとって生きる場所をつくりたいという、そういう素朴な思いで、【うしおの会(00:21:09)】っていうのはできていったと思うんです。彼ら、彼女らが持っている思いは、そういうところだったのに対して、それだけではやっぱり結局同じ隔離施設になってしまうからということで、共同体を目指そうというふうに思ったのは、60年代末に奈良県に今もあるんですけれど、心境部落という共同体があって。そこが、障害者を、奈良県知事に頼まれて、確か40名くらいだと思うんですけれども、***(00:21:52)を受け入れて、心境荘苑という施設をつくってくれと。奈良県の中でもそういう施設をつくっていかないかんということで。その心境部落というのは非常に経済的に成功していた共同体で、畳床の生産ですごい有名になったところでしたので、知事が目をつけたのかなと思うんですけれども。
ところがそこは、70名くらいの障害のない人たちが、共同してその事業をやって、一緒に暮らし合っているという場だったので、知的障害の方を40、50人入れたときに、やっぱり別個に施設をつくるのではなくて、自分たちの暮らし、自分たちの仕事の中の仲間として受け入れたんですね。だから、仕事場においても、生活の場においても、同じ共同の住人、共同の働く人として、一緒にやったという。その場を見学する機会がありまして、それまでに見てきた施設と全く違う、障害者がでも、こんなふうに生き方が変えられるのかということに大変驚愕しまして、そうだと、共同体なんだというふうに思い立って、その【うしおの会(00 23 06)】の人たちと、我々、より良い場をつくろうとするならば、もう施設はやめようと、共同体にしようという、そういう議論を重ねていって、みんなの中で共通の理解が生まれてきたということなので。
初めは何だというところの反発があったかと思いますけれども、施設というものはおかしいということを、それぞれの人の中である程度感じている人もいたわけなので、そこらへんでより明確な像をつくり上げていこうということで、話がまとまっていったということかなと思います。ところが残念なことに、最近、関西のニューブロックの研修会が奈良県で珍しくありまして、そこに行ったら、宇陀というところは、今は宇陀市になっているんですけれども、昔は村だったんですけれども、そこに今も心境荘苑というのは残っているというので、そうなんだと思って話を聞いたら、今は全く普通の施設に変わってしまったみたいで。どうも、その歴史をひもとくと、80年代の途中からもう普通の施設に変化していったと思うので、それは創立者の方が亡くなられて、その後、だんだん体が変わっていったのかなと、そんなふうに思っています。
立岩 ありがとうございます。皆さん、今日は私の好みというのもあるかもしれませんけれども、けっこう古い話にとどまってしまうかもしれません。そうすると、結局のところ斉藤さんに話していただく分量が多くなると思いますけれども、いっぺんくらいそういうこともあっていいと僕は思うので、許してください。僕は本当に知らない話ばかりなんですけれど、青木さんなんか、それ調べたことはある? この頃のことを聞いたことはあったりしますか?
青木千帆子さん(以下、青木) そうですね。すずらんでおじゃましいてるときに、懸三さんと居酒屋でいろいろとこの頃のお話というのは、よく伺っています。居酒屋談義だったので、何か形にして残すということは、私のほうではしていなかったのですが。やはり、そのコミューンの影響というものはあって。ただ、その中で、ほかのコミューンとは違う展開も明らかにあった。そして、共同連という組織はしていく。その、どう一緒で、どう違うのかということは、本当にずっとなぞで、整理しきれないままで今もおります。
立岩 そうやって大阪から始まったことがあった。そしてそれは、滋賀のほうに展開していった。それとは別に、奈良のほうにもそういった施設があって、そういうのを見に行った。いずれも、71年より前ということですよね。初めのことだから。そういったものを見聞きしながら、議論しながら、71年という年に向かって、そこから始まっていくわけだけれども。その流れみたいなものっていうのは、あるいは、もっとあとに進めてもらっても構わないんですけれど、どんな感じですか?
70年あたりにいろいろ勉強というか、見聞きして感じたりしたことがあって、議論したりしたことがあって、それは71年の名古屋に続いていくわけだけれども。今、青木さんが言った、ほかと似ているようだけれど違うところもある、みたいなことも含めて、どういうふうに見聞きしていったもの、考えたことを、名古屋の活動につないでいったのかっていうことについて、いかがでしょうか。
斉藤 今、青木さんがコミューン運動ということを言いましたけれども、大学の中での運動というものでは、所詮限界があるということで、学園闘争と言われるものが、ちょうど70年安保の改定以降に急速に下火になっていくわけでありまして。そういう中で、そういう意味で、ある程度幻滅した学生たちや、その周辺の人たちの中で、例えば有名なのは、三重県に本部があるヤマギシ会というところにすごくそういう人たちが流れていったということがありまして。
ヤマギシ会というのは今も残っていまして。いっときはカルト集団みたいに言われて、すごく社会から非難されたこともありますが、もともとは素朴な農業共同体で、【ロウケイ(00:27:40)】を中心とした事業展開をしていた団体でして。そこに、新しい理想の社会があるということで、ヤマギシ会というのは、無所有一体ということを掲げて、ものに捉われない、自分の快楽、自分の欲に捉われない、そういう人の社会をつくろうという考え方で生まれた団体で、そこに多くの若者が流れていったということがあるのですが。そういう規制のものに行くのではなくて、自分たちが、街の中で、そしてまた、ある程度田舎の中で、そういう場をつくり出そうという若者の運動も、その当時いっぱい各地に生まれてきまして。
そういうのが、1つの、ある意味アメリカのヒッピー運動みたいなものの影響も受けながら、各地に展開されていきます。そういうものも、当然我々にもいろいろ影響はしてきたということで、わっぱやらあらくさにも影響してきたと思うんですけれども。ただ、やっぱり私たちの場合、あくまで障害者という存在が、共同体の中心に置かれておりましたのが、そこが、他の若者の共同体とは、コミューンとは、全く異質なところでありまして。
それで、若者のコミューンというのは、時代のブームみたいにしてどんどん消えて行って、ほとんどもう今日残っていない。唯一、兵庫県にあります、***(00:29:17)共同体というところは今も残っていますけれども。そこは、有機農業でしっかり築いていますけれども。とにかくわっぱやあらくさ、それから、80年代以降まで続いていったっていうのは、そういう障害者という存在が、そこで一緒に生きていくんだという思いがあって、そんな簡単につぶれない、つぶさないということだったと思います。
立岩 どのくらいの濃度でも構わないんですけれども、70年代のわっぱの話を、酷使するというふうに話していてもいいですし。それが、やがて70年代を超えて、80年代に共同連という形で、ネットワークというか、全国組織というか、そうしたものに向かっていく流れみたいなことについてお話しいただければなと思います。それから、今両隣におられる、堀さん、白杉さんには、お二人の1970年代という話は、またそのあとしていただこうかなと思っております。まず、70年代から80年にかけてというか、向けてというか、そのあたりの流れってどうなっていくか。
斉藤 先ほど立岩さんがおっしゃったみたいに、青い芝の会っていうのが、70年に神奈川で運動を起こします。それは、私たちにも伝わってきて、とりわけ「さよならCP」という映画ができて、全国に上映されて、全国的に青芝の考え方や戦い方っていうのが伝わっていったわけですけれど。それは、非常に私たちも刺激的であって、やはり自分たちは障害者を街から隔離する、そういうこと自体が差別であるというふうに考えていたので、青い芝の定義に対しては、非常に共感するところが多くて。ですから、71年のわっぱの会の誕生のときに、スローガンっていうのは、差別と戦い、共同体を建設しようと、そういうスローガンで、場をつくるだけでなくて、社会の中にあるさまざま障害者への差別と、面と向かって戦う運動をつくっていこうということで、いろんな取り組みをしました。
一方、外国人に関していえば、滋賀であらくさの影響があって、次から次へ場が生まれていった。その中に、75年でしたか、「ねっこ」という場が生まれてくるようになるわけですけれども、ほかにもいくつかありまして、そういったとこらへんと連携していく、交流っていうのを、最初、あらくさとわっぱの交流会が72年からスタートして、75年からは共同作業所連絡会というような形で、最初、5団体からスタートして、その交流が70年から80年までに続いていくわけなんです。
そういう中で、「全障連」が結成され、そしてまた「全障連」とは相対する「全障研」という、教員や親を中心とした組織が、60年代からあるわけですけれど、そこは、70年の後半、77年に「共作連」という、「共同作業所全国連絡会」という組織を結成して、どんどん、いわゆる作業所という形で、職員対障害者、それを、きょうされんは職員集団と仲間集団ということで、障害者のことを仲間っていうふうに呼んだんですけれども、そういうものがどんどん広がっていったので、非常に危機意識を持って、そういうのは我々の考えと全く反すると。山の中の施設じゃなくて、街の中に訓練する場をつくってどうするんだと。障害があろうと、なかろうと、その人なりに生き、働くことのできる、そういう場をつくらなければいけないのに、新たに街の中に訓練する場をどんどん増やしていくというきょうされんが、はっきり言って、とてもとんでもないなという思いが非常に強くありまして。早く自分たちも負けないで全国的な流れをつくりたいということが、81年の最初の名称ですね。「差別と戦う共同体連合準備会」、その頃は、略称、さきょうれん準備会と呼んでいましたけれども、これへとつながっていきました。
立岩 きょうされんの全国大会に行ってビラをまこうとしたら、止められそうになってうんぬんという話を、それも昨日バスの中で聞いたんですけれど、それはいつ頃のこと?
斉藤 それは、共同連が生まれた84年から間もない頃の、80年代の半ばくらいのきょうされんの全国大会のときなんですよ。
立岩 できてからってことですよね。その顛末は、結局どうなったんですか?
斉藤 そのときは、その当時のきょうされん事務局長、今のJD、【日本障害者協議会(00:35:16)】の代表である藤井克徳さんが、そのとき集会を仕切っていまして。その場に連行されまして、何人かで、なんでこんなことをするんだということで、意見が言いたいなら、ビラなんかまかずに堂々と大会に行って発表してくださいと、そのあとやってもらえればいいのでっていう形で、会場のビラまきは妨害されて、できなくなりまして。そんなの、大会で発表させてくれるって言ったって、そんなもの、ほとんどにぎりつぶされるようなものでありまして。とにかく、これ以上言ってけんかしていてもしょうがないので、撤収しました。
立岩 ありがとうございます。1つ、77年のきょうされんの結成っていうのがあって、それに対する対抗という、そういうものとして団体のネットワークというのが、80年超えて全国組織という形に浮かぶという話を伺えたと覆います。今も滋賀の話が既に出ているわけですよね。白杉さんは、滋賀の活動、それはどういう形でいつ頃からっていうあたりは、どうなんですか?
白杉滋朗さん(以下、白杉) 斉藤さんがおっしゃった、あらくさ共同体というものの、そういう【タイトウギョウ(00:36:37)】の、障害のある人とともにという考え方に共鳴したうちの第1世代。僕は、1.5世代と思っているのですが、第1世代の人たちが、しかし、コミューンというか、24時間一緒に暮らすというものに対しては何か違和感を持っていた。僕も2、3回行ったことがありますけれど、すごくストイックというか。 あそこの食事が僕の口に合わなかったんですね。これはちょっと違うなと。
立岩 何食べていました?
白杉 鍋に、さっきもほかで言ったんだけれど、共同体の前にある雑草と取って来て、あらくさって書いてある【雑草(00:37:22)】なんやけど。それにほとんどだしも味付けもないまま食えと。これ、まずいって言ったら糾弾されそうで食べたけれども、もうここでは生活できないなと思いまして。第1世代の、別に食い物で***(00:37:43)思っていない。ずっと兄弟的にやっていましたけれど、自分たちは、街で、まず生産活動、働くということをどうやろうと。その中で、【タイトウギョウ(00:37:53)】とともにということを考えたということだと思うんですよ。
だから、先ほど、なぜその共同体がどんどんなくなっていくのに、共同連の1つの種は、少しですけれど育ったかというと、街の中で働いたということがポイントかなと思っています。その中で、1975年、今これも斉藤さんがおっしゃった、もともとは、今うちはねっこ、今日の大会資料にも、企業組合ねっこの輪として紹介されていますが、あらくさ印刷共同作業所という形で始まるんです。名前はそのままのれんをもらって。2年後、77年に、組織化連とか中の人の改変もあって、根っこ共同作業所になるんですが、私が、75年の立ち上げの頃から、近所の大学に通っていたもので、大学生として関わらせてもらったという。でも、いずれは、別のもうちょっと給料が高いところに行くだろうなと当時は思っていて。極めて傍観的な立場ではありました。
立岩 大学出られて、そのうち職は変わるはずやと思いながら、でもねっこに行った?
白杉 本当に大学時代はボランティアとしてというか、ねっこだけやなくて、周辺の障害のある人と一緒にどこかに土曜日、日曜日に行くとか、そういうボランティアでいましたら、もともとやりたい職業があったけれども、なかなかそれがかなわなくて。3、4年遠回りをして、酒の勢いで、ねっこに入ろうと思って入ってみたということです。
立岩 それが、今日に至る、みたいな。
白杉 至りましたね。
立岩 長いですよね。
白杉 我慢強いと自分でも思います。
立岩 そうやって、70年代、名古屋は名古屋で、滋賀は滋賀でということになるんだけれども、81年に呼びかけて、84年にということなんだけれども、そうやっていろんなものをつなげて1つをつくるって、大概そんなに簡単にはいかないじゃないですか。大概の場合はね。そうすると、いくこともあるかもしれないけれども、そのへんの、どうやって束ねてというか、連なっていけたのかとか、あるいは、それがどういうふうに難しかったのかということで、何か記憶にあることがございましたらというのが、お二方から、堀さんも何か覚えていたら、あれだけれども。それからもう1つ、結成宣言というのがあるじゃないですか。今日も勇ましいっちゃ勇ましい宣言が読み上げられたわけだけれども、84年の結成宣言というのは、ある種【戯文(00:40:42)】というか、戦いチックな感じの文章なんですよね。あれはどういう経緯でというか、大体誰が言ったのかとか、そのへんの共同連という全国ネットワークの形成に関わるいきさつみたいなことを、記憶の限りで教えていただければと思うのですが、いかがでしょうか。
斉藤 だから、さっき言った、さきょうれん準備会というのが81年にできて、最初は事務局が滋賀にありまして。それで、いろいろ会議を何回も何回も重ねて、どういう組織にするか、どういう運動をするかっていう、そんな議論をやっていました。ただ、いろいろ各現場を持っている中でやっているので、ある意味、半分片手間になっているようなところもあって、なかなか作業が進まなくて。結局、丸3年あまりかかってしまって。こんなことをやっていると永久に結成できないぞということで、よっしゃ、つくろうつくろうということで、できた。でも、できたところには、それまで、滋賀と名古屋というネットワークしか展開できなかったのが、大阪というのに広がっていったことが大きかったかなと思います。とりわけ、今副代表になっている、井上さんのいる、AZ福祉工場設立準備委員会というのが、これは青い芝の影響もありながら、大阪のほうで生まれていって、そういう動きとか。それから、これも第3代の代表だった井上さんがつくった、セルフという印刷屋さん、そういった大阪のいろんな動きが生まれていって。その中で、これは結成できると、広がりが生まれていくぞという予感のようなものができて、ごちゃごちゃ議論しているよりも、とにかくつくって広げようということになって、84年、第1回結成総会が大阪であります。
大阪の建物が、橋下市長によって壊されてしまいましたけれども、総合福祉会館というのが、芦原橋、部落解放同盟の本部のすぐ近くにありまして、そこの会場を借りて結成大会をやりました。オオタニさんという、これも亡くなってしまいましたけれど、大阪府立大学の先生だった方を記念講演に呼んで、その当時、約10団体くらいが集まったかなと思います。人数的にはほぼ100人くらいで集まって、結成集会をやったということになって、初代代表のモリモトさんという方が、わっぱでパンの修行をして、大阪でポッポというパン屋を後につくっていくんですけれども。最初はセルフのメンバーでありまして、セルフの中で彼が白羽の矢が立って代表になったという経緯です。モリモトさんの息子である、その子が、共同連のメンバーとして、大阪のほうで、この間のでっかい大阪大会の***(00:44:23)講演のメンバーとして頑張って、今非常に年月の経過を感じるとともに、そういう形でつながっていくんだなということを、ある意味うれしくも思っています。
立岩 10団体100人くらい、オオタニ先生がいらして、講演ですか。確かにその頃、AZであったり、あるいはセルフ社というのは、私は当時、そのあとですけれど、東京だったんですけれども。ただ、東京にいても、セルフ社であったり、AZだったりという話を聞いていましたから、そういった大阪の勢力が加わったのは、確かに大きかったのかもしれないなというふうに、今伺っていて思った次第です。そうすると、大体80年、81年から84年くらいになってきましたけれども、ここで1つ、さっきから出ていない堀さんですけれども、堀さんも70年代から80年代。特にいろんなことを堀さんやっておられるから、話出すと半日くらいかかりそうなんですが、やめてほしいですけれども(笑)。共同連と関わる範囲での堀さんの70年代から80年代、何か2つか3つ、いかがですか。
堀利和さん(以下、堀) あまり言いたくないのですが、簡単に言いますと、60年代末というのは、学園闘争とか安保闘争とか、ベトナム反戦闘争とか、私は、生まれは静岡で、被差別部落を知らなかったんですね。少し知り始めて、部落研に入りまして、佐山闘争とかやってですね。71年に全共闘が初めて***(00:46:21)に行ったときから、***(00:46:23)に闘争に関わったんですね。全体もそうです、私も挫折して、72年は何もしないで、なぜこういうものがうまくいかないんだというので、実存哲学の本をいろいろと読みまして、73年に、重度脳性まひ者の2人が聴講生で入ったんですね。なんで学籍でとらないんだって言うと、受験させなかったと。私は視覚障害者で。
立岩 明治学院ですよね?
堀 明治学院。私は、視覚障害者は受験して学籍をとったんですけれど、重度脳性まひ者の人は聴講生だといって。ここから、初めて障害者運動に首突っ込んで関わって。もう1つ裏のような話で、別件で73年に大学の連中と運動をやっている中で、府中闘争に関わっていた明治学院大学の、たまたま3人学生がいたんですね。その3人と知り合って、今度は都庁第一庁舎の本館前でテント闘争をしましたので、73年に府中闘争に関わるという。これが、私の73年からの障害者運動。解放闘争につながるという流れで。
73年のときに、「さよならCP」だとか、そことタイトル的な全障研の発達保障案と一目勉強しまして、やっぱり発達保障論はおかしいということから、青い芝のああいう流れの中で、70年頃に障害者解放運動。私は、75年に、視覚障害者というのは鍼とマッサージしか基本的には仕事がない中で、おかしいじゃないかという、職業選択という、雇用労働運動っていうのをやりまして、東京都や特別区の、***(00:48:36)権を認めろという採用闘争を、75年に、「視覚障害者労働問題協議会」というのを立ち上げて。そのあとから、労働制だけじゃなくて、79年の義務化を含めて、ともに学ぶということや、あるいは、府中闘争は最終的に日野療護施設に収れんしていくんですけれども、反施設闘争とかっていうのを、70年代から、ずっと80年代にやってきました。大体そんなところですね。70年代、80年代の動きはですね。
立岩 視労協、そういう意味で言うと労働なんですね、やっぱり。ちなみに、視労協っていう組織は小さい組織だと思いますけれども、ユニークな面白い組織で、『障害の地平』っていう機関紙を出しています。それはすごいいい機関紙で、愛読っていうわけでもないんですけれども、けっこう感動して読んで、感心するような企画です。宮昭夫さんって、もう亡くなられていると思いますけれども、彼のエッセイなんかがけっこう味があってですね。でも、そこで労働にはつながるんですよね。ちなみに、堀さんは、共同連をいつからどのくらいの濃度で知って、今代表になられているわけだけれども、最近の話は置いておいて、関わりの初めみたいなものっていうのは何か記憶なさっていますか?
★★
堀 今言ったように、70年代から80年、ずっと障害者全体的な運動をやる中で、さっきの視覚障害者というのは、鍼灸マッサージが基本の仕事で。以前は病院にも勤められたんですが、それは無理で。目の見える人たちが、この仕事にどんどん参入してきて、治療院をやってもなかなか食えないという。治療院というのは、1人で経営していくから、孤立していまうっていうことから、87年に障害者生産協同組合、鍼灸マッサージユニオンという協同組合、任意ですけれども立ち上げて。私、理事長になったんですね。昨日もワーコレの方が来ていましたけれども、横浜で、***(00:50:50)という、ワーコレ第1号の協同組合、ここにも学びに何回も行って。今行っているのは、協同組合をマッサージユニオンつくって、87年に。そうしたら、斉藤懸三から電話がかかってきて、名古屋で大会をやるので、その分科会が、名前をちょっと忘れたんですけれど、ワーカーズコレクティブだったか、何かそういうのをやるので、初代パネラーで来てくれっていうので、87年に、名古屋大会のときに共同連の分科会に顔を出したというのが初めてのきっかけです。
斉藤 その前に、しら大根の誹謗中傷がありまして、それの訂正から入りますけれども(笑)。あらくさは、まるきり共同体の前の雑草を食っていたという、そういう面白おかしいお話がありましたけれども、そんなことはない。私もあらくさに何度も泊まりましたけれど、私はけっこう食事はおいしかったなと今でも思っておりますので。
白杉 それは、斉藤さんがいい思いをされて(笑)。
斉藤 そんなことはありません。みんな同じものを食べておりますから(笑)。7歳の年の差がありますから、高度成長の時代でしたから、年々経済が発展していった時代なので、白杉家と斉藤家の生活水準の差があったのかもしれませんが、共同体の暮らしは、別にそんなにひどいものではありませんで、みんなと一緒に食べる飯はとってもおいしかったです。それはさて置いて、堀さんのお話でちょっと事実誤認が。87年に、実は第4回大会を北海道に行くフェリーの中で、洋上大会というのをやったんです。それの記念公園に堀さんに来て、フェリーの船室の中で、一番安い2等船室をみんなで借り占めしまして、そこで講演をするという、大変な講演をしてもらったのですが。それから、堀さんになんで来てもらったかというと、鍼灸マッサージユニオンという協同組合の代表ということだったので、視覚障害者の働くということに、共同という考え方で取り組んでおられるということで、非常にシンパシーを感じて、来てもらうことになったわけです。
立岩 堀さん、ちょっと思い出しましたか?
堀 名古屋大会のあとだと思ったけれど。
立岩 どっちがどっち? 北海道が最初ですか?
斉藤 最初で、そのあと名古屋大会にも来てもらっています。
立岩 両方行って、最初が北海道。堀さん、何かちょっと思い出してきた?
堀 思い出しました。待遇が悪かったですよ。
立岩 それは、船が揺れたとか、そういうのじゃなくてですか?
堀 船は1万トンだから、けっこう安定したんですけれど、なんか嫌な人たちだなと思いつつ(笑)。
立岩 どういうふうに嫌だったか、ちょっと。
堀 それは、冗談半分ですけれども(笑)。あとで話そうと思ったのは、89年に私、参議院になりまして。共同連は、政府交渉で、厚生省と労働省と年2回、議員会館で交渉するんですよね。当然あのときは作業所ですから、雇用関係がないので、労働省に、雇用保険だとか社会保険、つまり労働厚生を適応しろってやっているんですよね。雇用がないのに。なんだこいつら、***(00:54:41)だろうなと思って、違和感を持ったんですよ。
立岩 それが、89とか?
堀 9年以降ですね。議員会館で毎年。
立岩 議員になったあとですね。
堀 なったあとですね。さっき言ったように、思い出したのは、北海道大会を船の中でやったのが最初です。そのあと、分科会っていう順序ですね。
立岩 あらくさの飯はうまかったのか、まずかったのかという争点は、依然として残ってはいますけれども、それはちょっと棚に上げてですね(笑)。もうそろそろ急ぎ気味に。本当は根掘り葉掘り、もうちょい70年代とかにとどまりたい気落ちは、私はあるんですけれども、とはいえ、ということにします。
そうやって、81年に、77年のきょうされんとの対抗みたいなことも意識しつつ、大阪のほうで、AZ、セルフ社あたりができてきて、多少より広い範囲でネットワークがつくられていく中で、81年に提起され。ということは、確かに結成宣言にふさわしいけれども、これだったら、大同団結というか、この文言に文句はあるまいっていう感じではあるので、そんなに熾烈な議論の末に、ようやくこれがまとまったっていうことではないんでしょうね。そうやって、84年に共同連という組織ができる。その前後というか、それからしばらく経って、堀さんなんかも、視覚障害の労働問題というか、組合運動というか、ユニオン的なものをやっていく中で関わりができっていう、そういう流れで、80年代が動いていくっていう、そういうお話だったと思いますけれども。
ちょっと飛ばしますが、それが、今日、社会的事業所宣言と読まれたけれども、社会的事業所っていう言い方で、言ってみれば大きく出たというか、掲げたというか、これに至る流れみたいなことで。そこの中では、1つ共同連が面白いのは、最初に斉藤さんがおっしゃったけれども、ほかのコミューンだと、そういうのと違うが、やっぱり障害者っていうのを真ん中くらいにおいてずっとやってきたから大変でもあったけれども、続いてもきたということをおっしゃっていたと思うんですけれども。そういう、必ず障害を持っている人もいるということと同時に、社会的事業所っていう看板を掲げると、それはやっぱりもっと違う、いろんな人たちが入っているという、そういう意味合いも出てくるんですよね。その二重線というか、2つともというか、そういったことも含めて、そのあと、社会的事業所っていうものを打ち出していく、その流れっていうのは一体何であったのか。
そして、それは、もう1つ、ついでにまとめて聞いてしまいますけれども、かなり早い段階で、例えば韓国とのつながりみたいなものをつくり、それが今でも続いているわけですよね。もちろん社会的事業所というだけで言えば、スペインであったり、イタリアや、そういったヨーロッパの国のつながりもあるんだけれども。それよりも、むしろ前に韓国とっていう部分、そういった活動の広げ方といいますか、作戦だったのか何なのかよくわからないんだけれども、そのあたりのつなぎ方というか、持っていき方っていうのは、どういう経緯だったのか。いかがでしょう。
斉藤 先ほど、堀さんがちょっと触れましたけれども、対政府交渉というのを、共同連結成っていうのは、対政府交渉を軸にしてやるということで結成されまして。当時は、厚生省、労働省別々にやりましたので、厚生省、労働省、それぞれと交渉をしました。ところが、我々は共同で一緒に働くという考え方なので、労働省から要請が、雇う、雇われるという雇用関係のないものに対して支援はできないという姿勢だったし、厚生省は厚生省で、ちゃんと社会福祉法人をとって、福祉施設として応援するなら応援するけれども、みたいな。そういうことで、我々も障害ある人もない人も、共同で働くということを応援しようという声に対しては、どちらの省も全く否定的で。ただ、労働省のほうだけは、現場に見学に来まして、確かに労働の実態は存在しているけれども、そのためにはちゃんとした雇用関係を結んでもらわなければ、何の関わりも持てないという、そういうことであって。とにかく行政に何かを要求するというようなことでは、簡単なことは解決しないから、自分たちがどんどん事業自体をしっかりつくって、そのことによって前に進めさせていかなければしょうがないということになって、90年代以降、とりあえず共同事業所づくりということを掲げました。
単に作業所というぬるくたいものではなくて、ともに働いて、事業として自立させる、そういう部分をしっかりつくることによって、存在意義を認めさせていこうということでやったのですが、結局90年代通じて、なかなか思いだけが先走りして、実態が広がっていかない。いくつかのところは、確実に事業を積み重ねて、前に向かって前進していくんですけれども、じゃあ、それがどこに広がっていくかというと、なかなか、理念は共感してくれても現実はついていかないと。そんな事業転換できませんよみたいな格好で、具体的に広がらない。これじゃあ、このまま同じことを繰り返していてもらちがあかないというときに、昨日の全体会議でも申し上げたように、イタリアの社会的共同組合というのに出会って、自分たちの従来の発想、障害がある人とない人がともにということでもなくて、障害者も当然含まれるんだけれども、それ以外の社会的な、ヨーロッパには社会的排除っていう考え方が非常に話題になっていまして、そういうところで、人たちが受け入れていく仕組みを社会の場で考えなくてはいけないということで、イタリアがヨーロッパの出発点として、社会的共同組合っていうのを制度化させていったわけで。
日本で共同組合っていうと、生協や農協であったりするから、あまり障害者とは関係ないというふうにしか思っていなかったんですけれども、イタリアの社会的共同組合というのは、障害者も働ける場なんだぞっていう話を聞いて、そんなとこがあるんかいなということから、勉強会を開き、そして実際イタリアに行ったら、イタリアの人に来てもらったりして、そういう仕組みは、結局我々が考えていることそのものじゃないかと。障害ある人とない人が、対等に組合員として平等に働き、その成果で、しっかりした仕事をやった成果をみんなで分け合うという。それは、まさに共同連の理想と同じだ。それをイタリアは国の制度としてやっているんだというふうに思って。じゃあ我々も、やはり障害がある人とない人だけってなると、どうしても仕事を展開していくということが厳しい。もっといろんな人が加わって、どうしても共同連の場合に、障害者の制度を使ったりしていると、大勢の障害者を抱えられることになってしまって、なかなか思うような方向に進まない。そこに、イタリアなどのやり方を日本に取り入れれば、我々ももっともっと運動を展開できていくんじゃないかなということは、社会的事業所という言葉に変わっていった大きなきっかけなんですが。
立岩 もし覚えてらっしゃったら、最初は伝聞みたいな感じですか? 人に聞いたのか、どういう。
斉藤 一番初めの出発点は、埼玉の96年くらいの集会に、【イワノ(01:03:29)】タカシさんという、日本の協同組合の研究者の権威がいまして。その方が、イタリアにそういうのがあるっていうのを、大会の記念講演の中でちらっと触れてくれたので、そのときからずっと気にとめていて、もっと本格的に勉強したいなと思って、昨日のワーカーズコープのその当時の理事長さんに来てもらって、この勉強会を開いたというのが出発点です。
立岩 【イワノ(01:03:53)】さん、本も書かれていますよね。そういう。
斉藤 いろいろな本を書いています。ただ、社会的共同組合についてそんなに掘り下げたことは、その当時書いていなかったので、全く。
立岩 96年の集会というのは、共同連の大会だったんですか?
斉藤 大会です。
立岩 それで知って、どんどん知っていったら、これは似ているというか、そういうふうに思われたという。わかりました。それはイタリアじゃないですか。いろいろはしょってらっしゃいますけれども。共同連に関して、面白いし不思議だなと思うのは、アジアとのつながりの部分ですけれど。
斉藤 先ほど言った韓国との交流というのは、セルフの井上さんが、第3代の共同連の代表になったときに、ちょうど日本で、アジア太平洋、障害者の10年が、国際障害者のあと始まる。その第1期が終わって、アジアでは十分に展開できていないのに、第2期というのがちょうど始まる頃だったんですね。それの動きを見ていて、そういったものが、全く政府中心の取り組みで。韓国のある意味エリート的な障害者団体だけを集めて展開するような取り組みだったから、そんなもので国際交流と言われたって、これは違うんじゃないの?ということから、お隣の韓国、近くて、ちょうどその頃遠い国だったので、まず韓国とやれば、自分たちも身の丈に合った国際交流ができるんじゃないかなと思って、その3代目代表の井上さんが、ほかの仲間と一緒に韓国に降り立って。プロテスタント教会から紹介されて、韓国の団体とやって、95年から本格的な交流が始まった、そういう経緯があります。
立岩 ありがとうございます。お話は90年代になってしまっているわけですけれども。そのとき、白杉さんはずっと、ひょんなことでもないのかな、大学出てからずっとなわけですが、実際滋賀で自分のところをやりながら、共同連という組織にも関わったわけだけれども、その距離感というのは、僕はわかっていないのですが、自分で見ていたというか、体験してきた共同連の、80年代、90年代っていうのは、どういうふうに見えていたっていうのは。見えているというと、ちょっと距離があるのかもしれないですけれど。
白杉 白杉というのは、自分の生産というののねっこっていうのは、斉藤さんがずっと説明されたメインストリートから外れているんですよ。確かに81年以前に、70年代に、滋賀だったのですが、あらくさが事務局をやっていて。そこを軸にして、斉藤さんが来られたのも、学生なりに見ています。ねっこのそばの公民会で、5者会議とか7者会議とかをやったのも、ボランタリーに見ているわけですよ。ところが、先ほどの洋上大会、私参加していないし。7回でしょ。
斉藤 4回。
白杉 4回か。実際に共同連に合流するのはもっとあとになります。ねっこの第1世代は、そういう、わーわーと、例えば対政府交渉行くとかっていうのはあまり好きでなかったのか。自分自身も、ねっこに入ってから、とりあえず自分たちの生産をあげて、もっともっともうけたいなと。もうけたいというか、ちゃんとしっかりした味のついた飯を食いたいなというようなところが、そちらの集中していたところはあります。
斉藤 ちょっと違っていて。ねっこは、実は作業連準備会できたときの事務局は、あらくさじゃなくて、もうねっこだったんですよ。81年の事務局は。それで、ねっこがやって、***(01 08 03)だからそっちに会議に行ったり、ねっこにしょっちゅうよく行ったんですよね。ところが、そこから今そういう理由をあげたみたいなんだけれど、いざ、共同連結成にいたる直前に、降りちゃったんです。ねっこが。それで、いっときわっぱのほうに事務局を移して、結成準備に入ったという。そういう経緯なんですよね。
白杉 そのあたりは、ですから、僕はまだねっこにはいっていなかったときなので、よく知らないんですけれど。でも、今の共同連的な考え方で、ねっこもあったことはあったので、改めて共同連の大会に参加する中で、こういうのがあって、むしろすごいインターナショナルだと思った部分は、***(01:08:50)やっている動きが残っていたのは、実は全国に数少ないけれど、同じような考え方でやっているところがあるんだということがわかったのは、すごく衝撃というか、感動でしたね。ある程度そういう生産局もついて、それなりに、ねっこも85年に全員と雇用関係を結べるようになって。じゃあ次は、県内の各仲間との結びつきやということであるとか、全国のところの結びつきをということで、自分が入ったことで、ねっことしての共同連の窓口ができたということで関わり出して、今に至っているというところでしょうかね。
立岩 ちょっと再発見っぽいところ。なんか戻ってきたというか。
白杉 ものの本に、5者会議や7者会議があって、そこに、ねっこがメンバーに入っているのをあとから知るということでした。
立岩 斉藤さん、直前にねっこが抜けたっていうのは、言えるような事情であれば。物事には、言えないこともいろいろとあるんですけれど、言えるようなことや、何か覚えていますか?
白杉 なぜねっこが抜けたかというのは、言える、言えないじゃなくて、記憶にございません。
立岩 どうやら本当にないようです。そうやって、最初中心にいたところがいったんなぜか抜けて、でも、その数年後、やっていることはけっこうやむなくというか、自分のところと結局同じなんだっていうようなことで、またねっこはねっこで改革というか、入っていくというか、そういう流れもあったので、ということをお伺いしました。時間は、そんなに実はなくて。それからだって、2000年超えてからだってもう17年経ってしまっているわけですから、その間どういうことがっていう話も、もちろん聞かなきゃいけないわけですけれども。そうやって満遍なく聞いていってもどうかなっていうところがるので、それは、たぶんまた別の機会に17年分とか、次の機会はもう20年分とかになってしまうかもしれないけれども、お伺いしたいと僕は思っています。
それで、いろんな形で代表が、昨日聞いた限りで言うと堀さんが6代目だとお伺いしましたけれども。ずっと今までは、そういう共同体の代表というか、現場で仕事をしてきた人に話題を拾ってもらいながら講義をやってきたわけだけれども、堀さんが今代を継いでいると。そういったところも含めて、組織運営というかな。というよりむしろ、堀さんがいろんなことがあって、国会議員もやって、でも今は共同連の代表をやっているという、古い関わりでもあるけれども、途中からであって、そして今、代表というのになっている、そういう堀さんから、共同連というものを見たときに、どういうふうに見えるのかっていう、そういう話をしてもらいたいと思うんです。
堀 私の勘違いで、北海道に行く船の上での共同連大会の講演したと確か思い出して、待遇が悪いからって、それは冗談なのですが。実は、私が87年に障害者生産協同組合をつくってはいるんですけれども、やっぱり基本的には、雇用、労働権が、私の軸足なんですよね。ですから、議員会館で共同連が、労働者なり厚生省と交渉をしていても、私にとってはやはり雇用というのが軸足なので、距離感を感じた感じで。98年か99年でしたか、通訳などの専門職だけじゃなくて、製造業にまで労働者派遣法を広げたときに、今そうですけれども、これから雇用が劣化するなということを直感的に感じたんですね。そういう意味では、雇用だけに軸足を置くのではなくて、もうちょっと共同体的なというか、共同労働的なということで、2000年に、イタリアに社会的協同組合の勉強に行く。一緒に共同連とイタリアに行って、社会的協同組合の勉強する中で、これからは雇用ではなくて、要するに共同連がやってきた、協同組合的なものが重要になるなというので、2000年代から、そういう意味での本格的な、私の中では共同連というのを高く評価して、言い方がおかしいですけれど、関わり始めて、副代表になって、11年に東京大会のときに代表になったと。私は、そういう経緯です。
立岩 ありがとうございます。ずっとマイクを借りているのだが、青木さん何かありますか?
青木 あと5分くらいということなのですが、いろいろと自分もこの共同連について調査して、そのあと別の場所で働いて、頭の中も全部入れ替えて、みたいなこともやってくる中で、やっぱり共同連のことって何回も考えるんですね。今、白杉さんの話を伺っていて、1回とりあえずそのときのその場の生活を成り立たせることに必死になって。でも、何か戻ってくるものがあるんですよね。共同連のトップの不思議さっていうのは、みんながばらばらに実は違うことを考えているんだけれど、どこか1本、1つの点が全員に共有されているんですよね。それが、シンプルに本当にともにというところで。入り口はいつも労働の話なんですけれど、いつも考えているのは社会のことであって。ほかの場に行っても、社会について共同連で考えていたから、結局また共有されていた、あるべき社会像というものをたどって、共同連に戻ってくるというような、そういう不思議さがある。伝わりますか? 私が言っていること。
数年前に、内閣府の担当者として、障害者の担当としてお招きいただいたときとかも、少しお話しさせていただいたりしていて。やっぱり内閣府で仕事をしているときも、共同連での経験っていうのは思い出すんですよね。それこそ、労働省に行くと、雇用関係がないから対象外だ、厚生省だと、福祉の話じゃないから対象外だと言われて、内閣府が差別解消法は所管していたのが、労働でもなくて福祉でもない、厚生労働省が所管している以外の社会の差別の対象という問題だったので、そこで具体的なことを考えたときに、やっぱり一番参考になったのは、共同連を通して学んだことだったんですよね。周りの職員とも、共同連での経験とかを話させていただいて、この差別解消法という法律は、どういうふうに着地させるんだろうというような、具体的なイメージを持ちたいというときに、やはりいろんな、おじゃまさせていただいた、皆さんが働いている現場の話ってさせていただいたんですよね。今日も、今回こうやって戻ってくることになりまして。ちょっとオチが定まらないままなのですが。1つの不思議さというのが、単にともにというのとちょっと違って。どうしてまたそこに戻っていったのかなというか。
白杉 もともと働いていなかったと思うんですよ。ねっこも、例えば全国のそういう集まりで言うと、今はないっていうと怒られるけれど、全然障害者運動には、1回からずっと参加しているんです。斉藤さんには、全障連の生きる場***(01:17:54)の役をやっているので、ずっと顔は知っているわけですよ。あれは、わっぱの斉藤さんで、大津にも来ていたよねっていうことはわかっていて。本当にうちの第1世代が、そういうわーわーとやる運動が嫌いだったのか、よくわからないけれども。実は、この共同連とか、このホールにいる人以外に、このホールの外や、一般の市民にも、本来はともになんていうDNAはあると思うんですよ。でも、いろんな事情で、それが思いっきり覆いかぶされて、土の中に埋もれているだけで、それが必要に迫られてというか、あらわになっているのが我々かなと。そのともにの中に、先ほどから私は言うけれども、働くということが1つの大きな材料になっているのではないかなと思っています。ですから、必然として戻ったというのと、本当たった1人の人間だけれど、今までいなかった白杉というのがねっこに入ったので、共同連に行く部品が1つ増えたから行くようになったということなのかなと。あそこは行ってはいけないと言われた覚えはありませんから。
立岩 ありがとうございます。ほぼ時間です。聞きたいこともっとたくさんありますけれど、また別に機会にいいと思います。こういう大きな場所じゃなくて、あまり大きくない飲み屋とか、いろいろあると思いますけれども、それはそういうところで。最後にちょっと宣伝させていただくと。例えば、ここに私の名前が出ているかなと思いますが、これで検索すると、我々がやっているホームページに行けます。生存学というのでもいけます。そこの表紙のところに、病者障害者運動史研究という、そういう項目があります。そこで、今、青木さんも含めていろんな組織であったり、ジャンルの障害者、それから病者の運動の歴史をまとめる、これは文部省の科学研究費も得ていることですけれども。この数年間、特にこれから数年間やっていきたいと思っていますので、そういったものをご覧いただければありがたいですし。また、本当に特にマイナーな機関紙とか、そういうのは、自分が書いたっていう人だって持っていないみたいな、そういう状況になっていて、確かどこかにあったんだけれどっていうことが、けっこう増えているわけですよ。そういったものを預からせていただくというか、いただければ、我々としては大切に保管して、整理して、ということをいたしますので、ここの場を借りて、そういった活動に理解というか、協力というか、していただければなというふうに思います。
私自身が書いてきたもの、今年相模原障害者の事件について書きましたけれども、それは結局、今の事件そのものというよりは、障害者を殺すということをめぐって、誰が何を言ってきたのか、そういうことも覚えておかないと、書いておかないと駄目だよっていうのがあって、書いているつもりだったんですね。『生の技法』っていう本も、1970年くらいからの話ですけれども、書いた【年(01 21 16)】です。そういった意味で、我々としては、今日は共同連という場を借りてというか、使わせてもらって、こういう話を伺って、大変私はうれしかったですけれども。そういったことを続けていきたいと思います。
本来であれば、お三方に今後の展望とか、そういうものを伺っていただいて、この場を締めるということになるんだと思いますけれども、***(01:21:41)ですけれども、これから、総まとめの、大会をまとめる閉会式が休みなしでずるっと続くということですので、そういったところで、またそういった話も出るでしょうから、今日のところはこんな感じで、このセッションは終わらせていただきたいと思います。私が書いてきた歴史ものについては、いくつか、今壇上に置いてありますので、よろしかったら、商売ですので買っていってもらうことになりますけれども、よろしくお願いします。今日は、青木さん、それからあちらのお三方、大変貴重な話を伺うことができ、大変うれしゅうございました。どうもありがとうございました。
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