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入所施設と自分

<“津久井やまゆり園事件から1年”> 編集委員会企画
山本 勝美 201708 『臨床心理学研究』55-1:20-26.
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「入所施設と自分(その2)」

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last update:20201108


■目次


■はじめに――個人史を振り返りながら

 津久井やまゆり園の障害者多数殺傷事件から早や1年を迎えようとしている。
障害者にまつわる事件として、これほど社会的に、いや世界的に注目された事件はかつてなかったと言える。今これに関する数多くの文書も発行されている。また入所施設のあり方をめぐって真剣な論議が重ねられていることの意義は大きい。
 ただ、私自身に取っては、この事件まで入所施設という存在の意味するものについて、これほどまで考えられず、論じられずに過ごしてきた社会の実状に、かえって問題の深刻さを感じないではいられない。それは単に過去の事実としてではなく、今後とも末永く引きずっていく宿命に近いものという冷めた見方をしてしまう。
 言い換えれば、教育も福祉も、保育も医療も、総じて市民社会そのものが、入所施設という制度、実態を不問の必要悪として闇の中で存立させてきたという冷厳な事実を今振り返ってみなければならないと考える。
 元より、そう言う私自身もその問題指摘を例外者として回避することは決してできないが、施設と一般社会との間の、一見、隔絶した関係、その反面で闇に隠れた密着状態、その暗黒の流通の深みについては、本来考えるべきテーマであることが突きつけられた瞬間であること、そして再び闇に葬られてゆくかもしれないという危機を認識すべきだと思う。施設という闇の世界については、これから不透明な長い年月をかけて、行きつ戻りつの模索を繰り返してゆくテーマとなるだろう。
 さて、この小論では、私の全活動人生を振り返り、市民社会に住むスタンスの一方で、施設と市民社会の間を出入りし続けてきたその全体像を、単に客観的に記述するのではなく、自分の諸体験を振り返る中でみつめ直してみようと思う。
 その作業により、市民社会と入所施設との生々しい矛盾関係・相克関係を少しでも浮き彫りにできればと願う。


■(1)アメリカ留学中の体験から

(第1年前半)知的障害児の入所訓練施設で

 私は1965年夏、26歳時にアメリカニュージャージー州の臨床心理学インターン研修プログラム研修生として渡米した。
 ところで第1年目の研修プログラムのまえに、フルブライト交換留学生として、2ヶ月のオリエンテーション生活をペンシルベニア州のバックネル大学で、英語の訓練のみならず、社会見学のためにも過ごした。その中に山中の障害者施設、刑務所が含まれていた。刑務所に至っては、アメリカ社会の恥部だ。そのようなプログラムに今も改めて感銘を覚える。
 9月に入ってJohnstoneTraining and research Centerに赴任した。そこは軽度〜中度の18歳未満の知的障害児の教育・訓練施設だった。そこでの心理判定業務は、入所児が将来Community に戻れるか、生涯にわたって入所を強いられるかの振り分けをしていた。
 私には男子寮棟の一室を居住室としてあてがわれた。それゆえ、夕方から次の日の朝まで、子どもたちの発する音や声、アテンダント(職員)の指導する声などがそのまま聞こえてきた。つまり日中は、オフィスで心理判定の仕事で向き合う子ども達と、夜は夜が明けるまで同じ建物のなかで過ごしていた。こうして入所施設の体験を半年、ともに過ごした。食事も同じ大きな食堂で取った。
施設生活の生活環境、それは一言で言えば、“家族から離れた荒んだ生活環境と潤いのない集団規律の生活”に尽きた。
 18歳で同センターの訓練を終えたこどもたちは、地域生活と終生の入所施設New Risbon Colonyのどちらかに選別された。その終生入所の施設で研修を受けた知人の話では、彼の部屋から入所者の墓地がみえる。また高齢の入所者がある日彼の部屋を窓から覗き込み、キャンディを見せながら、「ドクター、お願いがある。このキャンディをあげるから、自分をコミュニティで暮らすことが出来るという推薦状を書いて欲しい」と頼み込んできたとのことだ。

(第1年後半)巨大州立精神病院でのこと

 1年目の後半には、グレイストーン・パーク州立精神病院に異動になった。そこは5000人の精神障害者が収容されていた。5つの各病棟に1000人の患者が入院していた。年度が終わる直前に、各病棟を見学したが、暑い夏の最中、熱気と悪臭の中、全員がパジャマを着たまま、廊下で「く」の字になって壁に寄りかかって眠っていた。こうした州立病院の患者の中には病気から回復した後も20年間入院させられていたというエピソードが漏れてきた。
 一方、心理インターンを含むスタッフには、豪華な部屋や一軒家が割り当てられた。ただ、窓からはすぐ隣の病棟が見えるので、いつもシャッターを降ろしていたが、さすが、罪障感を覚えた。

(第2年度)地域精神保健センターでのこと――精神医療政策の転換期に―

 第1年度を過ごしている間に次年度のインターンシップのために各地の研修プログラムに応募したところ、第2年度をミズーリー州の精神医療施設に採用され、カンサス市にある最新の地域精神保健センターにてインターンとして過ごした。そこは、1ヶ月から最大2ヶ月の入院の間に地域社会に復帰するシステムになっていた。 再度入院を半ば前提にした短期入所施設で、地域生活をしながら、外来やデイケアに通うサポート、地域社会のなかで行われているグループカウンセリングに通う人もいた。中間施設とも言われ、地域に戻りサポートを受けるケースと、そのケアでは支えられないケースは州立病院に入所となった。
 自分の担当ケースがその州立病院への入所を決定されたときのことは、今もなお忘れられない出来事になっている。もう二度と人らしい地域生活は望めないのだ。
 当時は、アメリカの障害者政策や精神医療政策が転換期に差し掛かっていた時期にあった。こうした最新の形態の施設や地域へのアプローチが開発されていた。またケネディ財団からは、研究・研修事業に関する先駆的な成果の報告を募集していた。オフィスにPR誌が頻繁に送られてきていた。

(注)


■(2)帰国後の生活から

(イ)入所施設の敷地内に住んで

 私がなぜ入所施設を問題視するのかについてはそれなりの大きな理由があった。私の連れ合いは、ある重度の知的障害を持つ子の入所施設につとめていた。そして私たち家族はこの施設の敷地内にある職員住宅に20年近く住んでいた。その長い期間に施設の実情については日々直接に見聞きすることができた。
 入所施設は、管理が厳しくて処遇が非人間的だ。勿論施設によって差異はある。でも、入所者が家族からひき離されること、限られた一定の空間内に四六時中、数十名ないし数百名で集団生活を続けること、そして自由に外出するといった個人的な行動の自由がない、などの点ではほぼ例外がない。食事やおふろも画一的なスケジュールで扱われている。もちろん、性行為も結婚も認められていない。
 連れ合いの施設は、いろんな面で恵まれた条件にあるほうだ。武蔵野の面影を宿す木々、その自然環境につつまれた広い敷地、そして入所児童の居住する建物は開放棟、つまり鍵をかけてない。だからいつでも棟の外へ出られる。施設の周囲にも鍵はなく日中は開いている。もっとも施設から外へ出た場合は連れ戻されるが、閉鎖的な設備に厳しく包囲されているのといないのとでは心理的に違う。だからしばしば遠い我が家に一人で帰ってしまう。すると、家族か職員が連れ戻す。

 ここの敷地に住み続けながら感じたのは、それでもやはり施設生活のうるおいのなさだ。居住する棟の建物など昔と比べるとよほど改善されている。けれども、ではお前がそこに住めるかと聞かれれば、がまんしてみてもせいぜい五日間もてばいいほうだろうと思う。一般の住宅とはつくりがまったくちがう。二、三人の相部屋が並んでいる。
 この施設に住み始めた頃だった。夏の夜、外から子どもが大声で泣くのが聞こえてくる。しかも何時間経ってもやまない。敷地の林の中を徘徊しているらしく、鳴き声が木々にこだましていた。仕事から帰ってきた連れ合いに尋ねたところ、いま、入所児は夏休みに入ったので親が家へ一時引き取る期間にあたる。いま泣いているのはその子の親が迎えに来なかったからだ、ということだった。このことから深く考えさせられてしまった。重度の知的障害を持つ子も、親が迎えに来なかったということが当然ながら認識できるし、それをくやしがって泣くという心情においては全く同じなのだ、ということを初めて知らされた。と同時に、やはり何よりも自分の家に帰りたがっているのだ、ということがわかった。
 またある年、同じ季節の頃、一人の知的障害でしかも聴覚障害の子と施設のグラウンドで会った。すると彼は、私に向かってにこにこしながら手まねで、しきりに電話をかけるゼスチュアーをして見せた。連れ合いの説明で、間もなく家族から迎えに来るという電話がかかってくることを伝えているのだとわかった。この子からも、家族の迎えをどれほど喜んでいるかという気持ちがひしと伝わってきた。

 入所施設は、概して国公立よりも民間、大都市圏よりも地方となる程、施設・設備も処遇内容もお粗末になる。
 先日も熊本県にある民間の知的障害児施設の実態について聞かされたが、その惨状には改めて胸の痛む思いがした。建物は老朽化している。その狭い建物の中にぎっしりと子どもたちが詰め込まれている。外へ散歩に出るといったケアが全くない。内部は悪臭に満ち、たたみ、テーブル、いすなどの設備も古く、汚れている。こんな施設が旧態依然として全国には存在し続けているのだ。
 以上のように、帰国後に体験した日本の入所施設も、アメリカにおける入所施設、州立病院も、総じてその基本の構造は、当時の時代においては軌を一にしていると見ることができよう。元よりその後のアメリカ障害者政策のソーシアル・インクルージョンの流れは、1970年代から大きく変革が進んでいると言えよう。ただ、その根幹にある隔離収容の政策がどこまで変革されたかについては、もっと調査研究してみる必要があろう。

(ロ)保健所における乳幼児相談から

 1967年の帰国後、たまたま都保健所での乳幼児健診に心理相談が導入されるということになり、その仕事に従事した。ところがそこで障害のある幼児に出会う。やがて幼稚園・保育園入園の年齢になった頃に、入園を支援することを自分の方針として関わるようになった。支援がなければ、ほとんどの親子は通所施設に通っていく。

A)入園拒否された子は
 さて、そのうち、ひとりの子は入園を拒否されたが、私は親と地域の仲間とともに取り組みをして、メデイアにも載る大闘争になるが、結局拒否される。そこで行政は、幼稚園の代わりに、入所施設を代替え案として提示してきた。その結果親は受け入れ、入所施設へ。

B)非公式に入園を認められた子は
 もうひとりは、非公式に入園を認められた。そして「卒園」。すると親は、何とか普通学級にと願い、意を決して校区の学校の校長に会って、入学をおねがいした。校長曰く、「お母さん、あなたは自分の子を何と思っているんですか。ここはお宅の子の様な障害児の入る学校ではありませんよ」と嘲られた。

C)普通学級に入学できた子は
 さらにもうひとりの子は就学期になり、就学時健診をたまたま風邪で休んだ結果、普通学級に入学したが、4年目に特殊学級に入る。その間に、さらに入所施設を勧められる。親は一緒に施設に行き、宿泊してみるが、言葉の出ないその子は夜中に「お母さん」と呼びながら施設内を探し回る。その結果、施設に入れるのは子供を捨てるに等しいことを悟った。そして決して施設には入れるまい。入れるなら親子で死のうと密かに決意した。
 やがて普通の中学に入れず、養護学校へ。でも本人は「豊島中へ行く」と口にし続け、養護学校を登校拒否した。そしてある日、友達の家に留守中入ってアルバム帳を取り出して自分と友達が一緒に写っている写真を見ていた。
 さて夕方になり「泥棒が入った」と騒ぎになり、町内の人が集まり話し合う。やがて経過が明らかになり、この子の家に経過を伝えに来た。母親は、最早これまで、と意を決してその夜我が子を絞め殺す。でも自分は死にきれず自首する。

D)「施設入所は地域での闘いに敗北した結果」
 ある日「重度重症児問題研究会」という有志の研究会に出席したところ、施設の改善を論じ合っていた。その中で私は思わず「施設は、地域での闘いに敗北した結果、提供されるところ」と発言した。そのことが会のメンバーにとってショックになったと、後で聞く。自分はその時に口にした自分の発言内容の重みや深刻さについてまだ余り深く気が付いていなかった。ただ、唯一、施設で労働する人たちが自分たちのいる場所について全社会的な視野では全く認知しておらず、真面目にそのあり方を論じあっていることに耐えられなくなったからの発言だったのだ。
 かくして、三人の親が、ともに私を信じて一途に突進していった。その挙句の果てにこの結果となった。北部教育を考える会は霧散した。ときに養護学校義務化(1979年)の年だった。

E)「たんぽぽ会」の名の由来に感動して
 しかし、ベビーブームは続く、そして障害のある子も現れる。
 親のSさんは「労働者は労働組合を作っています。親たちは親の会を作りましょう」と決起した。その結果、たんぽぽ会が生まれた。Sさんによれば、たんぽぽは、風にふかれて、遠くへそして広く飛んでいく、一見弱いようだが、地面にしっかり根付いて行く、という意味だという説明に心を動かされた。Sさんのお子さん、Mちゃんは1歳半の時、予防接種による1週間の高熱のあと、完全に重度の障害児になった。しかし、その後、足立区のしらゆり幼稚園が全面的に受け入れて下さる。その2年後、校長先生もお母さんの熱意に感動し、受け入れ。こうして一途に普通学級に9年間通う。

(ハ)「スクリーニング」って何?――選別と隔離の歴史をたどって

 上記のように、三歳児健診で出会う障害や遅れのある子の親の方々に対して、入園の適齢期が近づくと、どこかの園に当たってみましょうと勧めた。親の方々は、初めは「うちの子はとても普通の子のように受け入れてもらえませんから」 と逡巡したが、時間をかけて話し合っていくうちに、多くの方は「やってみましょう」となった。すると入園が思いのほか実現した。それから2,3年が経つと今度は就学である。
 この難関も健診の時間にグループを作っていろいろ励ましているうちに、就学が実現してゆくのだった。やがて障害児の通所施設に通う子の親も、保健所の就園・就学を目指すグループ相談を聞きつけ、4歳になってから、3歳児健診にやってきた。上記のSさんも実はそんな経路をたどってやってきた。こうして、乳幼児健康診断の場から就園・就学運動が始まった。
 するとやがて保健所側の横槍が入った。課長が「この機関は保育や教育の問題を支援する場ではありません。3歳で問題がある子を発見したら、他の医療機関や児童相談所に送るところ、つまりスクリーニング機関なのです」と言う。初めて聞くその「スクリーニング」という用語が理解できず、「いや、住民の要望に応えるのが役所のつとめでしょう」と反論した。私は、拠点を地域の集会所に移した。たんぽぽ会は40年を経た今日もなお続いている。
 ところが、保健師さんからも同じく「保健所はスクリーニング機関」という説明を次々と聞かされて、この言葉には何か大きな背景があるに違いない、と感じた。辞書を引くと「振り分け、選別」となっている。
 やがて「保健所はスクリーニング機関」という定義の背景には、現在の急性感染症(HIVなど)や法定伝染病から、その時代を遡ると戦前の4大国民病(結核・ハンセン病・性病・精神病)等の疾病に対する選別と隔離の、さらには日本の明治開国以来の社会防衛体制にまで行き着きました。日本で最初にできた医療法は伝染病予防法だった『「早期発見・治療」はなぜ問題か』第一章「母子保健とは何か」拙著:日本臨床心理学会編・現代書館・1987年)。
 日本で最初にできた隔離施設は「避病院」だった。社会では受け止められない病者の施設、それは医療から始まって、やがて福祉領域、つまり人の生涯にわたる隔離管理システムになっていった。そして国立ハンセン病療養所やがて国立結核療養所が全国に設置された。こうして障害者の生活・生涯をまるごと含む入所施設のモデルとして戦後全国に設置されていった。


■(3)施設から自立した村田君のこと

 村田君と初めて出会ったのは1975年、ある集会でのことだった。私は集会室の大きな机を挟んで反対側にいた彼を見た時の第一印象をこう記した(拙著『共生へ――障害を持つ仲間との30年』第2章。岩波書店・1999年)。
 「いい年をした”おじさん”が小学校に入りたいと動き出した、という話はすでに聞いていた。でも、ぼくのどこかに、どこまで本気なんだろう。四十近い大人が小学校に入りたいとは、という半信半疑の気持ちがあった。ところが本人を目のあたりにしたときにはなんとも言えぬ神々しさが感じられて感動した。「ふーん、この人か。就学免除をされた人が、大人になって小学校に入りたいっていう気になるものなんだ。本気で動いているんだ」村田君は、1歳半の頃、日本脳炎にかかり、全身麻痺になった。その後就学免除になり、ほとんど家の中で過ごした。
 1959年、18歳の時、緑成会病院という外科の病院に入院し、脳性麻痺のからだを手術し尽くしたがその効果なく、ついで1961年、20歳の時、東京久留米園に入所した。この施設は、園長の方針で、日々施設の出入りは自由、関係者の出入りも自由、在所者の自治会を認めるなど、破格的な処遇ぶりで進められていた。
 ところが、彼にとってはそれでも施設生活にさまざまな不満を感じていた。毎日の3食時の食器が大きな丼、つまり食事の介助の手を抜くためだ。また入浴が週2回、これらのことも施設の中でおとなしくしていれば何とかことは済む、という具合に定められていた。でも彼は、どれも施設生活のせいだとしてこだわり始めていた。
 さて、就学したいというニーズがはっきりしてからというもの、人の手を借りて教育委員会に要望書を出し、交渉を重ねた。やがて支援の輪が広がっていった。そして教育委員会や集会のため毎日のように施設から外出した。
 2,3年を経たが、学校の方は解決しなかった。彼には、地域に出て住みたいという気持ちが強くなり、とうとう6畳一間の薄暗い部屋を貸してくれた家主と出会った。昔、自分の、障害のある子を亡くしたそうだ。そこで、みんながカンパして維持した。やがて福祉事務所に生活保護申請をして、完全に自立した。そうなるとホームヘルパーさんも派遣された。一間がやがて一軒の家になり、さらにマンションに住み込んだ。すでにマンションに住み込んでいた障害者夫婦が援助してくれた。こうして、仲違いになっていた家族の支えもなく、無一文で立派なマンション生活が実現した。そうなると、全国各地から集会の講師に呼びかけがあり、また障害者の全国集会の司会も任せられた。新幹線で列島を縦断した。それでも当時まだボランテイアが介護の主力で、一か月に40人ほどのボランティアで支えていた。私も月一回程度の介護だったが、最長18年間関わった。そしてやがて介護制度が確立する日が来た。もう生活はそれ専門の介護者で支えるまでになった。それでも村田君は、食事に二度と丼をしようとしなかった。入浴も毎日こだわった。が、1992年3月18日、草津温泉にて不慮の転倒事故で1週間の後に死去。私が葬儀委員長になり、ご家族を招き100名の出席者が集った。
 それにしても、どのようにして長期間にわたりこれだけのボランティアが関わってきたのだろう。彼の個人的魅力、彼の生活の質(QOL)、自己実現のニーズがそれを実現するエネルギーを求めてきた?それは”奇跡”という一言に尽きる。
 どうして?に、もし関心のある方は『ある「超特Q」障害者の記録:村田実遺稿集』(村田実遺稿集編集委員会編・千書房・1999年)を、それからついでに『共生へ(再掲)』第2・3章(拙著・1999年)をご参照ください。
自立生活後には、小さい器、毎日入浴、にこだわっていた。そして何よりも入所施設から地域に出て自立生活を営んだ障害者は日本ではまだ数える程しかいなかった。


■(終章)やまゆり園の思い出から――都立府中療育センターの闘いはなぜ忘れられたのか

 2002年の11月頃だったと思う。私は、いま注目を集めているやまゆり園を訪問した。当時私は、ある短大の社会福祉学教員として学生さんの実習先であるやまゆり園を訪ね、その実習状況を確認し、「指導」してきた。もう15年も前のことで、詳細な記憶は薄れているが、ただ、学生の「指導」のため20〜30箇所の施設を訪ねた中で、名前も施設の内容もそして駅から30分ほどもかかったことも、意外と記憶に残っている。印象が深かったのだ。それは、相反する二つの面が印象に残り、そのアンビヴァレントな特徴が印象を深めたように思う。
 学生さんが関わっていた棟はスペースが割と広く、入所者も職員も打ち解けた様子だったように思う。施設もここまで改善できるのだという思いを抱いた。年間行事として、地域社会とフェスティバルを持っているとのことだった。それは地域社会との接点を拡げるという意味からいいことだと思えた。
 ところが指導的な立場にある職員の方から「ここは軽度と中度の入所者のいる棟です。重度の入所者は別棟にいます」という説明をうけて、最初の印象が途端にガラリと変わるのを覚えた。その重度の施設には入室できないのだ。実習生にとっても少なくとも日常的に入るスペースにはなっていなかったように思う。
 私に取って、入所者が軽・中度と重度に分けられていて、自分の見学できる棟は、改善されているが、重度棟は見学ができない、という構造にギクシャクする印象を覚えた。上でアンビヴァレントな印象と称したのはこのような事態を意味しているのである。

 これは入所施設の宿命に近いとも言える。
 ある施設は「治療棟」という名称で完全閉鎖の棟を設置し、処遇困難な入所児をかこっている。その中でも粗暴な行動障害のある子は独房に隔離されている。精神病院にも独房がある。私が見た独房には、自傷を起こさないようにと最低の設備のみがある。つまりコンクリートの床にトイレとしての穴がひとつあるのみ。もちろん経過を観察し、改善されれば一般の病棟に戻れる。

 総じて、地域の取り組みや闘いの背後には膨大な闇の隔離体制・入所施設=入院体制があることが認識されていない。これらのことがやまゆり園の凄惨な事件によって初めて世に明らかにされたかのように受け止められている。しかし、50年前に決起した都立府中療育センター移転阻止闘争が既にこれらのことを明らかにしていた。でもこれらの告発や運動はその後十分に伝えられず、消えさろうとしている。
 地域での教育、保育、医療、福祉等の闘いは、元より大切な意義がある。ただ端的な表現をすれば、水の上の油が炎を吹き上げているに近い、と言っては語弊があるだろうか。今日、社会の総状況はまだそのような実態としてあることを記憶にとどめ続けることが求められている。

<引用・参考文献>




*作成:安田 智博
UP: 20201108 REV:
山本 勝美  ◇優生学・優生思想  ◇優生:2017(日本)  ◇病者障害者運動史研究  ◇全文掲載

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