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「『大智』という仕事―― 障害を生きる」

山戸大智 2017/08

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表紙もくじ1 原点2 ワープロとの出会い3 我が食の歴史4 CPUと出力機
5 匿名と実名6「大智という仕事」7 車椅子8 百年間の修学旅行9 私と妻

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last update: 20171023


◇もくじ

  1. 原点
  2. ワープロとの出会い
  3. 我が食の歴史
  4. CPUと出力機
  5. 匿名と実名
  6. 「大智という仕事」
  7. 車椅子
  8. 百年間の修学旅行
  9. 私と妻
*この作品は、大阪自由大学「新聞記者ОBたちと考える 伝わる文章教室」を受講し、そこで作成したものです。



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1 原点

昭和48年4月5日。私が障害児だと初めて知った日である。

当時7歳。その日、足の矯正手術を受けるため障害児専門の病院に入院した。

好奇心旺盛の私は、早速病院内を探検した。重度病棟の大部屋に入った。そこには、たくさんのベッドや車椅子があり、歩けない人、手が動かせない人がいた。その光景は強烈な印象として心に焼き付いている。

車椅子に座っている人を見て、自分以外にも障害のある人がいるのを知った。

障害児と健常児が区別され、私は障害児側にいるのだと心の中で理解した。この時、「この人のためにお役に立ちたい」との思いが生まれた。

4歳の時から健常児の養護施設で暮らし、その地域の小学校に1年間通っていた、不自由な足の歩き方をまねされて悲しい思いをした事もあった。いじめにもあった。

病院の中で思った。役に立てる事があるかもしれない。そのためには学ぶのだ。私が生きていくための「居場所」の発見であり、学びの原点となった。

その後の高校受験、大学受験、そして社会人としての生活。当然のごとく幾多の苦難があった。もうこれ以上前に進めないと心が折れそうになった時、その都度、大部屋の光景を思い出し、ピンチを脱してきた。お役に立てる人間になりたい。そのために貪欲に学ぶのだ。これが私の人生の原動力である。

そんな思いを抱くようになった7歳の時の自分に、日々感謝している。あの日の大部屋の光景を胸に、今日も学び続ける。



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2 ワープロとの出会い

1985(昭和六十)年春、在籍していた大学にワープロが導入された。初めてのワープロ体験を前に、私の心は迷っていた。

1977(昭和五十二)年春、4年間過ごした福岡県粕屋郡の障害児専門病院を退院することが決まっていた。退院した後は両親が先に転居している大阪に移ることになり、転校先は養護学校ではなく普通校を希望していた。

退院後、福岡市の児童相談所で10日ほど過ごした。3月末、次の施設が決まった。普通小学校に通える大阪府柏原市の養護施設だった。

期待を胸に飛行機で大阪に向かった。施設に到着し応接室に入った途端に言われた。「ここは小学校までの距離が遠いので通学は無理でしょう。養護学校が併設されている障害児療護施設を当たってみます」。私が大阪空港から柏原市の施設に向かっている途中に、先に到着していた母親と施設職員の方との応接室での話で決められていたのだった。3週間後、大阪府南河内郡の障害児施設に入園した。

養護学校の初日、今まで通り机の上で字を書こうとした。が、手が震えて書けなかった。数日前の柏原市の施設では書けていたのに。環境の激変か、普通学校に通えなかったショックが大きかったのか。私は思わず床に正座し、鉛筆を持つ右手を両膝ではさんだ。やっと書くことができた。以後、床の正座姿勢が、私の筆記姿勢になった。

筆記には多くの時間と努力を要した。試験や受験では、時間内に採点者に読んでもらえる字を書くのが一番の戦いだった。

大学でのワープロへの挑戦は、今までの字を書くことへの努力が無になりそうで怖かった。しかし、教室の事務机上に置かれたワープロを初めて操作した時、迷いや恐怖は吹き飛んだ。

その時の思いをこんな詩にした。

「表面(ディスプレイ)に映し出されている文字の下にどれだけ多くの間違い(打ち直し)が隠されているか君と僕しか知らないことだ」「これからも多くの努力が必要なことを機械の君が人間の僕に教えてくれる」

ワープロへの迷いはなくなっていた。



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3 我が食の歴史

小学時代、足の矯正手術のため4年間入院していた病院の夕食時間は午後4時半。中学から大学時代まで過ごした身障児施設では午後5時半だった。夕食から就寝までの時間が長く、空腹に耐えかね、園庭の桜の葉を口にした事もあった。その後、7時半に夜食としておにぎりが出るようになった。

高校、大学は施設でただ一人、別の学校に通っていたため夕食時間に間に合わず、帰宅後、60席ほどある食堂の片隅で一人、4時間程前に作られたものを食べていた。あの頃は「レンジでチン」の発想は私にはなかった。それでも、ご飯をどんぶり茶碗で3杯は普通だった。

22歳の時、施設を出て大阪市平野区で一人暮らしを始めた。手の障害のため自炊ができないため、ほとんど外食だった。

当時、人生の希望を宗教に見出した私は会社から帰宅後食事を取らずに、その活動場所に向かった。活動終了後、食事を求めて平野区喜連の地で三輪車を走らせた。給料日前一週間になると、ツケがきく食堂に毎日通った。

時代が平成に変わった頃、近所に「ほか弁屋」が目立ち始め、大いに助かった。

28歳で結婚。妻は会社が繁忙期になると、よく最終電車で帰宅した。最終電車を過ぎると会社支給のタクシー券を利用していた。それからが二人の晩ご飯だ。それでも妻は料理を作ってくれた。妻が疲れて料理できない時は外食となった。当時の喜連の街は、明け方近くまで多くの居酒屋、レストランが開いていた。

現在は二人の年金で生活。50歳を過ぎた私は、外飲みの欲求は以前ほど大きくない。夕方になると、妻に言う。

「今夜は『居酒屋ゴンタ』でお願いします」

妻は、酒の進む料理を2、3皿、食卓に並べてくれる。妻は言う。

「お父さんがあちこちに食べに連れて行ってくれたお陰で、料理のレパートリーが増えたよ」

ありがたい妻である。妻のおかげで波乱万丈の人生が、やすらぎの人生へと変わっていく。



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4 CPUと出力機

私には脳性麻痺と言語障害がある。その私の障害観を、コンピューターを例に明らかにしたい。

「入力機」は時代と共に改善されてきている。障害者総合支援法を利用して、読書の時はヘルパーさんに本を固定してもらい、ページめくりをお願いしている。毎週6時間。ヘルパーさんが来てくれる時間が、私の固定した読書時間だ。充実してきた電子書籍もありがたい。

テレビも多チャンネルになっている。放送大学、ヒストリー、ネオジオ、アニマルチャンネルの録画番組を、毎日布団の中から見るのが楽しみだ。

CPU(中央処理装置)である認識、思考、記憶に不自由や制限は感じない。

問題は「出力機」だ。かなりのバリアー(障壁)とストレスを感じる。

一対一の対話だと良いのだが、多人数になると会話に入っていけない。話したいと思っても言葉が口先に来た頃には、もう話題は変わっている。話の流れを中断させるのが怖くて言葉を飲み込む。相手が私の言葉を聞き取るのは大変だと感じると、こちらから無口になる。

コンピューターは、出力機が正常に機能してこそ、入力機やCPUのことが判断できる。CPUが機能していても、出力機が故障していれば、CPUもそのように見られる。私たち脳性麻痺者は、外見だけで判断されることか多いように思う。偏見や差別を感じる。

障害とコンピューターを関連づけるようになったのは、昨年(2016年)、相模原市で起きた障害者殺傷事件に思いを巡らす中である。動きが見られない出力機が,そのままCPUに思えてしまったのだろう。「見かけで判断しないで」と声を大にしたい。

先日、地域福祉の講演会に行ってきた。会場正面のスクリーンに映し出されているはずのパワーポイントの表示がほとんどみえない。スクリーンの上部の電灯を消すと、表示がはっきりと浮かび上がった。印象的な場面として心に残った。

常に心の窓ふきをしながら、人生を生きていきたい。



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5 匿名と実名

2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設で19人の生命が奪われる事件が起きた。遺族の希望で警察が被害者の実名を公表しなかったため、この事件では被害者は匿名となっている。

実名か匿名かは、事件に対する印象や、その後の記憶に大きな違いが出るのではないか。

2001年に大阪教育大学付属池田小学校で起きた児童殺傷事件では、被害者の氏名が刻まれた碑が建てられた。沖縄県糸満市の「平和の礎」に刻まれた一人一人の名前は、その人が生きた証といわれる。

1995年の地下鉄サリン事件、2005年のJR福知山線脱線事故は、実名が報じられ、思い浮かべる御遺族の顔があり、事件に対する怒りや悲しみを身近なものとしている。

2015年、Eテレ・ハートネットテレビ「戦後70年と障害者」の番組で、ナチス・ドイツ時代に病院や施設にいた精神障害者や知的障害者が、生きる価値のない者とされ、ガス室に送られ、殺されていった史実を紹介していた。殺された障害者の数は20万人以上。後のユダヤ人大虐殺につながり、そのリハーサルだったとも言われる。実行本部のあった場所に因み「T4作戦」と呼ばれた。

番組では、「T4作戦」で障害者だった父マーティン・バーデルさんを殺されたヘルムートさんが、父親の写真、商売道具、手紙を通して、在りし日の様子を語っていた。殺された夫の死亡通知を受け取った時の、ヘルムートさんの母親の姿は印象的だった。

私が殺された場合、氏名は実名で公表されるのか。それとも匿名なのか。相模原で殺された方と私との境界は一体どこにあるというのか。

2016年7月の相模原市障害者殺傷事件を無かったことにしないで欲しい。



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6「大智という仕事」

神奈川県相模原市の障害者施設で起きた事件で、NHKは番組掲示板で事件に対する意見を募集した。そこに「次郎という仕事」というカキコミがあり、Eテレの番組にもなった。番組では知的障害がある22歳の次郎君が、いろんな人の助けを借りながら地域で楽しく暮らしている様子が映し出され、母親佳子さんのカキコミが紹介されていた。

「私は障がい者と健常者の間にある重い扉を開けるのが次郎と私の仕事だと思っている。地域の中に障がい者がいることを当たり前の風景にしたい」

「次郎という仕事」という言葉を聞き、私の日常や願いを「大智という仕事」で表現することにした。

それは各種イベントで「車椅子での参加申し込みは想定内」という社会の実現への願いであり行動である。私が登録している士業の勉強会に参加申し込みをしたが、数段の段差のため出席を断られたことがある。具体的な介助の方法を提示したところ、一転して勉強会に参加できた。今では責任者から「この会場は今後使わない」との言葉を頂いている。

大阪市のある区役所が募集した「大川から川巡り」のイベントに申し込んだ。担当者から言われた。「船に車椅子は積めないので申し込みは受理できない」。私は「障害者差別解消法では合理的配慮は自治体の義務ではないか」と声を荒げた。乗船口で車椅子を預かることで申し込みは受理された。

「大智という仕事」には、地元小・中学校でのボランティア活動も含まれる。中学校では定期試験一週間前の期間に放課後の教室で希望者の自習会がある。私は生徒たちの机の周りを回り、数学や英語の問題を解くためのアドバイスをしている。初めて障害者に接する生徒たちの戸惑いに私も怯むこともあるが、校長先生から「この地域の教育に山戸さんは必要な存在」との言葉を頂き、大きな支えになっている。

8年前から見守り隊として毎朝、自宅マンションの子供たちと一緒に小学校に登校している。小学校の入学式、卒業式、体育会では夫婦で来賓席に案内され、紹介される。先日、小学校の校長先生が私達夫婦におっしゃった。

「本校の児童は毎朝校門で山戸さんと挨拶を交わすのが当たり前の風景になっています」

「大智という仕事」に最近新たな視点が加わった。ヒントになったのは、障害者が主宰するサロンの機関誌に掲載された大学の先生のコラムだ。

「もし大学の教職員の中に何人も車椅子を利用している人がいたら、『車椅子を使いながら就職できるところはあるのだろうか』と悩む学生はずっと少なくなると思いますよ」

近い将来、誰もが車椅子生活になる可能性がある。万一そうなっても、参加したい場所に車椅子の方がいれば、そこは安心できる場所であり続けるのではないだろうか。

様々な困難や葛藤もあるが、今日も私は「大智という仕事」に挑んでいく。



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7 車椅子

「介護保険を使って電動車椅子をレンタルし、スーパーに買い物に行ってきた。楽やったわ」。ここ数年がん治療のため入退院を繰り返しながらも自転車で買い物に行っていた年配の婦人が、友人である私の妻に語った言葉だ。妻は電動車椅子の利用者である。

「高齢者の買い物について話し合う会」に関する記事が、「大阪の社会福祉」の2017年5月号に掲載されていた。「『今は大丈夫だけど、2〜3年後、もし自転車に乗れなくなったら困る』といった切実な悩みが共有された」とあった。「話し合う会」では、宅配サービスの惣菜試食会も行われたそうだが、電動車椅子の試乗体験会はなかった。

高齢者の電動車椅子利用が、「健康寿命」と「平均寿命」の間で起きる家庭内閉じこもり状態を回避させると私は確信する。

地下鉄天王寺駅で電車乗降時に、車椅子ユーザーのためにスロープで介助してくれる職員の方に、一日あたりのスロープ利用者数を尋ねた。「多い日で80人。少ない日で30人程。身障者より高齢者の方が多いですよ」。利用者数は、私の日頃の実感より多かったが、1時間あたりにすれば6人程。それも高齢者と身障者を合わせての数字とすれば、まだまだ少ない。地下鉄天王寺駅の一日平均乗車人員は、2015年で約13万人だ。

駅、ビル、商店街から離れた商店や飲食店では入口に段差があるところが多いため、車椅子ユーザーにとっては利用しづらい。高齢者の車椅子ユーザーが増えれば、社会のバリアフリー化は確実に加速度的に進むだろう。

発表当初から実現が疑問視される安倍内閣のGNP目標600兆円政策。「健康寿命」を過ぎた高齢者の方も、車椅子に乗って街に出てお金を使えるようになれば、目標に近づくのではないか。段差解消(スロープ設置)のための補助金も有効ではないか。

超高齢社会の先頭を切る日本で、私の大きな願いは、「車椅子利用は想定内」という豊かな社会を、世界に示していくことである。



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8 百年間の修学旅行

「今世は、二人で地球の見学に来たと思えばいいじゃない」

2017年初頭、自らを発揮する場や居場所を得られず悶々とする私に、妻が語った一言である。

私の視界はパッと開けた。地球の成り立ち、組成、自然、生物の変遷、人類史についての学びに、これまで以上に拍車がかかった。

2年前の夏、福井県立恐竜博物館(勝山市)に3日連続で通ったことがある。月に2、3回は博物館や動植物園に行く。一つの木、一個の石が、愛おしくなってきた。名前を覚えるのに日々悪戦苦闘中だ。

26年前(1991年)にアフリカ・ケニアに男4人でサファリ旅行をした。その時の4人が、この4月に旅行以降初めて一堂に集まり、東京で飲み会をした。上京した私は、上野公園近くのホテルに泊まった。

東京での三日間は、半日だけ上野動物園で過ごし、それ以外は、上野公園内の国立科学博物館の地球館にいた。最終日、博物館の閉館時間が過ぎ、帰りの新幹線に乗るためJR上野駅に向かって公園内を歩いている時、私の心にピンと来るものがあった。

(目の前にはスカイツリーや浅草の観光地があるというのに‥‥。そうだ!私は今、地球への百年間の修学旅行中なのだ)

旅行を終え本部の星に戻ると、地球についてのレポート提出と、報告発表が待っている。



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9 私と妻

十年前、アラフォーの頃、脳性麻痺の私は歩行の際、足が前に全く出なくなり横歩きで2、3b進むのがやっとだった。外出時は、妻に手を引いてもらっていた。

その妻も股関節脱臼を悪化させ、外出に車椅子を使うようになった。二人での外出は、私が彼女の乗る車椅子を押している。外出途中に親切な方が、私に代わって車椅子を押そうとされる。彼女は、その親切な方に言う。「車椅子が主人の杖代わりになっています」

外出時に妻の乗る車椅子を押すことによって、私の足腰は格段に鍛えられた。身体全体の骨格ができ、手の不随意運動(震え)も少なくなった。五十歳を過ぎた今が、歩行時に足が一番上がっている。脳性麻痺で多くみられる二次障害もなくなっている。

妻は外出先で初めてお会いした方にも、「私は再び歩けるようになります」と、よく決意表明をする。夜中にトイレに入ると、なかなか出てこない。聞けば、インナーマッスルを鍛えるためリハビリをしていると言う。黙々と努力する彼女は、私の手本であり良きライバルだ。再び手を繋いで外出するのが二人の目標だ。

居酒屋には私が車椅子を押して入り、席に着くと、妻が私の食事介助をする。胸から上は妻が、腰から下は私が、それぞれ役割を分担する。

「今日もまた、言葉がアー・ウー・アー・ウーになった」。言語障害のある私が、思いが伝わらなかった時のもどかしさを妻に伝える際の言葉だ。電話の時などは代弁してもらい、彼女は時に私の口代わりにもなる。外出する時の着替えでは、まず私が膝をつき妻の靴下を履かせ、ズボンをはくのを手伝う。そこで立ち上がった私の上着のボタンを妻が止める。スムーズにいくと時間短縮になり、思わず笑みが出る。


妻は手を/私は足が/担当だ

障障介護の/二人は楽し



*作成:小川 浩史
UP: 20171023 REV:
障害を巡る言説 全文掲載
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