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レビュー:L.Sakai(酒井エル) - Solo Dance Performance “realities”

村上 潔 2017/03/25

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last update: 20170325


 本公演から読み取れる主題は、端的に述べれば、異なる二極の世界を横断しながら生きることと、そのいずれにも属さない無縁地帯(中間地点)がもつ役割の提示、ということになる。
 異なる二極の世界とは、[角・硬]と[円・軟]という対照的な性格の世界である。本公演においてそれは、以下のように可視化される。
 ◆A[角・硬]:灰色のブロックと透明なキューブがランダムに積み上げられた空間[舞台上]
 ◆B[円・軟]:木製の変形する輪(人がくぐれるくらいの大きさ)[客席側スペース]/酒井自身が上半身に着用している破れる素材の薄い衣服
 冒頭、酒井はBの空間から登場する。客席側スペースに置いた輪の中で祈り、瞑想し(ここから、輪の中には聖域的な意味が付与されていると推察できる)、やがて輪を足にかけて舞い、輪から出ていく。そして、舞台上との中間地点(客席の脇の通路上)で、身に着けている薄い衣服を引きちぎろうとする。この過程からは、Bの世界の秩序の内部に一定程度身を置いていることと、そこから一旦距離をとる願望、その模索の経緯が窺える。
 次に酒井は、先の中間地点で、地面(床)の存在を全身で確かめ、続いて仰向けになって、まるで地面に吸い込まれていくかのように身体を収縮させていく。これは、見ようによっては、水面から水中に沈んでいく動きのようにも見える。この床が見立てられているのは大地なのか水(海)なのか、それはわからないが、いずれにせよ、物質や身体や小さなテリトリーを超越した大きな存在が酒井を包み込む。他に物が何もない場であるがゆえに荒涼感も感じさせるが、ここでの過程は、自己の存在(身体・精神)のリカバリーを意味しているものと考えられる。
 このリカバリーを経て、徐々に酒井は目覚め、蘇生する。そして、主体的に自らをコントロールする姿を見せる。それまでフィールド・レコーディングの音声が中心だった背景音が、ここで東洋的・古典的要素のある音楽になり、酒井の動きはまとまりのある神楽的な舞いとなる。よって、ここで酒井は自らの立ち位置とそれを取り巻く世界への違和感をひとまず払拭し、Bの世界を自分なりに解釈し、その身体感覚をつかみ取ろうとしているように見える。
 が、それもつかの間、再び自律性が乱れ、制御困難な状態に陥る(記憶が不確かなのだが、おそらくこのあたりのタイミングで酒井は、舞台と会場出口を結ぶ直線の動線を、走って何度か往復する。この動きは、不安・焦燥・孤独感・強迫観念といったものに支配されている精神状態と、かつそれを適切に身体に反映できない状況とを表していると考えられる)。衣服を引きちぎり、脱力し(このとき背景音は無音)、もう一度中間地点で沈み込む。2度目のリカバリーが行なわれる。
 その後酒井はBの空間に戻り、ゆっくりと輪を身に巻き付けた後、それを手放す。そして、これまでには見せなかった大きく伸びやかな動きで、舞う。まるで大地/海に抱かれているかのように。2度目のリカバリーは精神・身体の葛藤と相克を融和・調整し、酒井はより確固としたバランスと自律性を獲得するに至る。
 そこからさらに舞台上、つまりAの空間に移動し、西洋音楽にあわせて比較的長い時間、モダンな振付のダンスを安定感に満ちた状態で踊る。そこにはすでに、精神的な揺らぎを感じさせる要素はない。最後は無音の中、舞いながら会場からフェードアウトしていく。
 以上が本公演の流れなのだが、ここからはA・Bの二極世界とその中間地点の意味について考えてみたい。
 そのうえで、一点、興味深い表現があった。ラスト近く、酒井が舞台を降りた直後に、ライティングによって、数秒間、舞台にAの物質の影(のみ)がはっきりと大きく投影されたのだ。これをもって、舞台上の空間は、ただ角形・硬質の物質が置いてあるだけではなく、それが象徴する世界秩序が支配する空間であったことが明白となる。したがって、それが意味するところを考えねばならない。
 最も単純に考えるなら、
 ◆A=西洋近代的物質文明[規則性]
 ◆B=その外側にある半自然的社会[不定性・精神性]
という図式になる。しかし本公演では、そこまでステレオタイプな両極表現がなされているわけではない。基本線としてはこの分類でよいかと思うが、それぞれのイメージとしてはよりゆるやかな枠組みとして捉えたほうがよさそうだ。例として想定するなら、現代の日本の「地方都市」(A)と「里山」(B)くらいのレベルの対比になるだろうか。
 そして重要なのは、この両極同士には、対立や序列という関係は設定されていないことだ。人間が二極の世界に向き合う設定、というと、大抵は一方を否定しもう一方を肯定する、もしくは一方から脱出しもう一方に逃げ込む、といったパターンが展開される。しかし本公演において酒井は、葛藤を抱えつつ、アイデンティティを模索しつつ、両極を横断しているのであり、いずれかを捨てる・壊すという行為はとらない。Bの木の輪も、Aの積み上げられたブロックとキューブも、壊そうと思えば簡単に壊せるものだが、それはしない。唯一、自らの薄い生地の衣服は引きちぎるが、それは破棄されるのではなく、破れたまま酒井の上半身に纏わりついている。したがって、結果からいえば、酒井はA・Bいずれにも属さず(内包されず)、しかしA・Bいずれも捨て去らない(破壊しない・否定しない)、という行動(立場性)をとる。それにつなげて指摘すれば、本公演では観念的な面でも、「受難と救済」、「抑圧と解放」、といった明快な展開は見い出せない。ここから、A・Bの両極の一方ずつに「絶望・桎梏」と「希望・可能性」が割り振られているわけではないことがいえる。
 これを受けて注目すべきなのが、両極の中間地点の存在である。酒井は、ここで葛藤や不適合を抱えた自らの心身をリカバリーする。ここは、物質世界・精神世界、そして世俗世界から独立した、いわば無縁地帯である。そこにはおそらく大地もしくは海という、人知を超えた大きな存在が横たわり、その豊潤な力と秩序によって、小さな個=人の存在を包み込み、蘇生させる。ただ、人は明確に救済を求めてこの地帯に逃げ込んでくるわけではなく、混乱しさまよったうえでこの地帯に迷い込み、自らが意図せざるうちに飲み込まれ、そして静かに地上/水面に戻されていく。このように表現されている。
 そう捉えると、ここではっきりと、「現代人にとってA・Bどちらが必要で意味のある世界なのか」という問いの代わりに、「A・B両極において、またはその狭間で不適合状態に陥らざるをえない人間にとって、必要な空間とプロセスは何なのか」という問いが浮上してくるだろう。何にも属さない無縁地帯と、そこで機能する回復の過程。その目に見えない(したがって舞台上でも可視化されない/しえない)領域こそが、本公演で最も重要な意味をもっていたのではないかと考える。
 本公演のタイトルは“realities”。複数形だ。つまり「(A・Bの)どちらがリアルか」という意味ではない。酒井にとってはどちらもが切実な(リアリティをもつ)世界であろうし、いまを生きる人たちがそれぞれ比重の差こそあれ、また意識するしないにかかわらず、向き合わねばならない世界である。ゆえに、つねにそれらをめぐって葛藤する。混乱する。だからこそ、その葛藤・混乱を調和する領域とプロセスが必要となる。それはリアリティをリアリティたらしめるための土台となる。それを(酒井が、観客に)「意識化させた」のが本公演だったといえるのではないか。これから、その存在をどう位置づけていくのか、どう追求していくのか、またいかに内包されていくのかは、それぞれの人の思索と模索に委ねられている。それを「獲得」しえた(と思えた)とき、人はその「生」自体の感覚(=リアリティ)を十全に経験することになるのだろう。


■L.Sakai(酒井エル) - Solo Dance Performance “realities”
2017年3月24日(金)20:00〜21:00
於:UrBANGUILD
主催:酒井エル
共催:UrBANGUILD
[Event Page: UrBANGUILD]


*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20170325 REV:
全文掲載
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