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レビュー:パフォーマンス公演「あたしの森裡(もり)」

村上 潔 2017/02/23

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last update: 20170223


 この公演「あたしの森裡(もり)――My mind inside forest」のエッセンスを端的にひとことで言い表すとしたら、「聖と俗との混交」ということになるであろう。この言表自体は陳腐なものであるが、公演において少しずつ少しずつ客席に投げ出されてきた出演者・制作者たちの思惑や背景は、もちろん多様性に富んでおり、意味のある差異を有するものである。その、おおまかな流れからまとめられるエッセンスと、そこから無数に枝分かれしている、言表されないパーソナルな事象とを、並行して感じ取り、楽しむことが、この公演を受け取るうえでの意義となるのだろうと思う。
 舞台の一角(向かって左側)には、天井から垂れた白い布で区切られた、スクエア型の空間が設定されている。布の向こうは透けて見える(のと、床から50cmほどの高さまでは布がない状態である)ので、その空間の中にいる人物の動きは客席からも確認できる。基本的に登場する人物は、この空間を出たり入ったり(入ってその中で踊ったりも)する。それによってストーリーが展開していく。
 まず登場するのは、赤い被り物衣装(おそらく、2015年11月の舞台公演「おしもはん」〔構成・演出:伴戸千雅子〕で使用されたものと同型)に身を包んだ人物(おそらく、「おしもはん」でも美術を担当した小池芽英子が入っている)である。頭部が覆われていて顔が見えない状態なので、人間(生物種としてのヒト)という設定ではなさそうである(が、一応、「人物」と呼ぶ)。いくつかのギフト的な物(花など)が入ったバスケットを手に持っていることから、何らかの世俗的な一面を象徴しているようにも見受けられるが、それはこの人物自身が主体的に持っているようには見えず、動きからは意志を感じられず、言葉も発さない。この人物はゆっくりとスクエアの中から外に出ていく。
 次に登場するのは、白い衣装を身に纏ったYangjahである。その背後には、彼女が彼女の祖母から韓国の伝統料理の作り方を教わっている映像が(やりとりの音声入りで)流されている。Yangjahはスクエアの外で踊り、続いて中でも踊る。ここでは、彼女のパーソナルな生活感覚とルーツとが、眼前の(現在の)彼女の身体の動きと同時に示される。それは、歴史・伝承・アイデンティティといった固定的にみなされる要素が、現在性のリアリティによって揺さぶられる効果を生んでいる。聖−俗の枠組みでいうのなら、両者が同居し、往還しているようなイメージを、このパートは差し出している。
 そのあとに登場する伴戸は、やや派手な衣装を身につけており、一見して俗的な存在を表している。伴戸がスクエアの外で踊っている間に、最初の赤い被り物衣装と同型の、白い被り物衣装に身を包んだ人物(これもおそらく小池が入っている)が現れ、スクエアの中に入り、そこにどっしりと腰を下ろす。これは明らかに人間とは異なる、聖的な存在として立ち現れている。俗=人間を体現する存在である伴戸は、スクエア内のこの存在に、供物(食べ物と飲み物)を捧げる。そのしぐさには、明確に畏敬の念をもっていることが示されている。聖的な存在は、供物を受け取り、摂取する。このシーンにおいて初めて、はっきりと、この囲われたスクエアが聖なる「領域」であることが判明すると同時に、聖と俗とがようやく明確なかたちで描き分けられ、その関係性のありようが可視化される。ここで見える関係性は、古典的、ステレオタイプと言いうるものである。
 しかし、やっと見えたその両者の存在と関係性は、最終的に消去されてしまう。ラスト、舞台上の人物たちは、大きな龍という聖的な存在に昇華し、客席を練り歩き、客席横のスペースで(自らを飲み込むように)とぐろを巻いて眠りにつき、公演は終わる。聖と俗は大きな力によって混交され、その力を内包した存在は、時間と空間を切り開いて進むことをやめ、自らを歴史化したのである。
 そこからさらに新たな生命=未来を生きる存在が生まれ出るのかどうかは、示唆されていない。しかし、最後に伴戸が(龍の一部となりながら)唱えた言葉は、「さよなら、きのうのあたし」というものであった。この言葉を素直に受け取るならば、この過程は「転生」を意味していることになる。この公演では可視化されていない「未来のあたし」はどこかにいる、と考えることは可能である。
 以上の全体の流れをふまえて、ここからは、いくつか論点を挙げて考えていきたい。
◆「森」はいうまでもなく、人間の行動領域の境界となる空間である。人間と、人間ならざるものが共有する場所。聖と俗のテリトリーが緩やかにオーヴァーラップする場所。だから、人間の生活と、人間ならざる存在の行動が互い違いに見出され、それは時として遭遇し、関係を結ぶ。しかしそれはあくまで特別な時間であり、儀式的であり、夢幻的なものである。そう考えると、小池以外の人物がスクエア内で踊るダンスは、自我ではなく聖性に支配されたもの(と意識して踊っているもの)と捉えることはできる。民俗的な「踊り」は、人間の楽しみや交流のためであると同時に、聖なる存在とのコミュニケーションの意味ももつ。
◆最初と最後に出てくる、同型の顔を隠した被り物衣装の人物が聖的な存在の象徴であることの確証性は、(筆者は上述のように後者の位置づけでそうわかったが、翻って考えれば)赤と白という色使いの意味によっても補強されよう。いずれのシーンでも、この存在は言葉を発さず、ゆっくりとした動きで、意思を読み取ることができない。人間的な自我とは無縁な存在としてある。しかし、食べる・飲むという行為は、人間と同様に行なう。また、バスケットを人間と同じように手に持つ。この点において、俗なる存在と共通する側面を有することが示されている。このように、単純な聖/俗の線引きを避けていることは、意識しておくべき点だろう。
◆パフォーマンス中、スクリーンに、出演者たち(と思われる)が魚を食べている映像が映し出される。その前にはYangjahが祖母とキムチを漬けている映像もあり、「食べる」という行為の意味が強く印象づけられる。食べることは、生物の生存のための根幹行為であるが、ただそれだけでなく、その行為の「楽しみ・よろこび」が映像からは伝わってくる。それは、食べることを「文化」として意識化していることの表れだ。そしてとりわけYangjahは、自らのルーツの一環としての「食文化」を継承しようと強く意識している。
◆命あるものとしっかりと向き合い、最大限に味わって食べる。その文化を追求することは、先人に学び、先人を敬うということにとどまらず、命の恵みを与えてくれる存在=山・海、そして森、ならびにその秩序を司る聖的な存在への畏敬へとつながる。この公演においては、その両方が示されていた。したがって、この公演では、抽象的な精神性や神話性に依拠してではなく、人間の(過去の・現在の)「生」の営みとその文化を見つめ・辿るというルートによって、聖−俗の間の境界/混交が浮かび上がってくる。
◆この公演は、全体を通して、ことさらに「自然」を演出しようとはしていない。このことは上記の点を意味付けるうえでも重要である。公演にあわせて作成された小冊子『ことばの森裡(もり)』(伴戸千雅子編/書記・言葉抜粋:小池芽英子)を読むと、参加メンバーたちは、森を自然としてではなく、人間の「記憶」や「自覚」から生まれるものとして捉えていることがわかる。人間の記憶や自覚は、いうまでもなく、その外にあるものは認知・理解できないが、実のところ、その内にあるものも正確に認知・理解されているわけではない。人為的なものでありつつ、自我や自意識の及ばない範疇を抱え込んでいる。それは聖と俗がオーヴァーラップする領域の「自然」と似た性格をもっている。したがってこの公演は、「本物の自然」のリアリティを再現することによってではなく、(食べるという行為から導き出される意味が象徴するように)人間の(自身ではすべて意識化・コントロールすることのできない)「生」のありようを媒介としたアプローチでもって、「森」的な世界を描き出そうとしたものであると、ひとまず定義できるだろう。
◆次に、このことと、公演メンバーが全員女性であることとの関係を少し考えてみる。「命ある食材を調理して食べ物を作る」行為は、主として再生産労働の担い手によってなされる。またその行為は、命を媒介するがゆえに、聖的なる領域にアクセスするルートにもなる。ここから、「命をつむぐ」役割を果たす女性たちは、聖と俗の世界の境界に股をかける立ち位置をとり、その橋渡しをする機能を付与され、よって特殊な時間・空間の秩序を生きる/司る可能性を担保することになる。この公演でも(Yangjahの祖母との関係性など)随所に垣間見える、再生産を基点とした「女の時間秩序」の設定は、「おしもはん」のコンセプトを継承しているものと捉えることができる。「おしもはん」は、生殖と再生産というテーマを基軸に据え、通常人間が一生で経験する時間・世界とは別様の(より雄大な)時間・世界の存在を、「女たちの共同性」のありようを通して提示した作品であった。そこでは聖的な存在は登場しないものの、人間の女性に対置される自然界の「母なるもの」が明確に意識されていた。そのような大枠の共通点を鑑みれば、この公演でも聖−俗それぞれの存在の中に、「母なるもの」や女性性の痕跡を見出すことに無理はない。この公演では冒頭で赤い衣装の聖的な存在が花などを入れたバスケットを手に持っていたが、これは、世俗的な女性の姿を戯画化したものに見える。この表現は、女性性が象徴的に示唆されたものとして読み取ることは可能だろう。
◆一方で、上記の一面において、この公演には「おしもはん」と異なる点がある。この公演の舞台上では、俗の世界の人と人とが直接コンタクトしないということだ。「おしもはん」で「女たちの共同性」の様態が何度も明確に提示されていたのとは対照的である。これはストレートに受け取れば、人間(女性)の個体性や差異の強調ということなのだろう。ただ、これに関しては、公演内容からその意図をはっきりとくみ取ることはできなかった。『ことばの森裡(もり)』にもそれを端的に示唆する表現は見当たらない。ただ、公演チラシにも引用されている「自分の中に森がある」という一節が、やはりこの点を解釈する糸口になっていくのだろうと思う。「あたしたち」ではなく、「あたし」の(中の)森、ということ。しかし、もちろん、「あたし」は純粋に独立した「個」を意味するわけではない。「あたし」の中には、デフォルトとして、切り離しえない複数性が内包されている。それを半分意識化し、半分意識から消し去ることで、各メンバーは一人称「あたし」を表現している。先のフレーズは、「あたしの中に森がある。自分でも分からないものがうようよしている」と続く。「うようよ」は複数の動作だ。そしてそこでは、同質性は担保されない。何がどう出てくるのかは、半分わかっているが、半分わかっていない。それが公演の時間・空間の中に落とし込まれていたように思う。
◆公演後半、ミニチュアの模型で構成された森をプロジェクターで拡大投影していたが、誰のどんな視点かが不明瞭なかたちでの擬似的な自然の可視化は、不要であると感じた。それはあまりにも形や輪郭がはっきりしていて、自然を表すには無理があり、人間の自意識を表すには簡易すぎる素材だった。また、それが醸し出す「箱庭」感は、「森」という言葉がもつ茫洋とした広がりのイメージを観客に喚起させていく際に、妨げとなるものだろう。上述の通り、この公演での「森」の表現は、自然的なものを可視化・再現するのではなく、人の「生」の営みを通してアプローチするかたちをとっており、それと矛盾をきたすような表現手法は逆効果であると指摘したい。
 以上、すでにとりとめのない記述になってしまっており、それを整理・回収する余力もないので、ひとまずここで筆を置くことにする。再生産と転生の関係、領域を往還する際の儀式性(とそこで機能する音楽のありよう)の問題、そしてもちろん女の共同性の問題と、より深く追求したい要素は多々あるが、それは彼女たちの今後の共同公演/作品を待ってからでも遅くはないように思う。


■あたしの森裡(もり)――My mind inside forest
2017年2月20日(月)19:30〜
於:UrBANGUILD
・小池芽英子 Meeko Koike - ミクスト・メディア mixed media
・城戸みゆき Miyuki Kido - 映像 video
・やぶくみこ Kumiko Yabu - 音 sound
・伴戸千雅子 Chikako Bando - ダンス dance
・Yangjah やんぢゃ - ダンス dance
http://urbanguild.net/ur_schedule/


*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20170223 REV:
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