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「本の紹介:矢野 亮 著『しかし、誰が、どのように分配してきたのか 同和政策・地域有力者・都市大阪』」

白波瀬 達也(関西学院大学社会学部准教授) 20161025 京都部落問題研究資料センター通信 45:5-8

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last update: 20161109


本書の概要

著者の矢野亮は福祉社会学・社会福祉学を専攻する研究者で、現在は日本福祉大学の教員をしている。本書は著者の博士論文を加筆修正したもので、「大阪における都市型部落に暮らす人びとが、どのような生存保障システムの中で、いかに生存維持してきたのか」という問いを明らかにしようとするものだ。

この問いを解明する方法として、著者は自治体行政と社会政策が本格化する大正期から1970年代にかけての、住吉(大阪市住吉区)で進められてきた「部落の人びとのまとめあげ」の変遷を主に文献資料に基づき分析している。

本書は序章と終章を合わせた全8章で構成されている。目次は以下のとおりである。

序章では、先行研究が整理された上で、本書の3つの大きな目的が記される。第一は「分配の問題」の把握である。すなわち、国や行政が「厄介で難しい部落」に対して、いかに資源分配したのかを明らかにすることである。第二は「アソシエーションの問題」の把握である。これは、資源を分配する媒介者が誰だったのかを明らかにすることである。第三は「戦後日本社会における同和政策の『穢多頭=弾左衛門の仕組み』」の把握である。つまり、地域ボスが人びとをまとめ上げるシステムの形成・継承・変容を明らかにすることである。

第1章「生存保障システムの変遷」では、明治維新や戦争などの大きな構造変動をふまえながら、前近代から近代にかけての、人びとの生存を可能にした資源分配の仕組み(生存保障システム)を概観している。

本章では、国家が軍拡による海外侵略を推進するなか、国内の民衆の生活が窮乏化し、スラム問題が深刻化したことに焦点が当てられる。著者は1910年の大逆事件と1918年の米騒動が、部落対策・スラム対策の強化につながったと指摘している。また、1920年以降、大阪市では社会部が設置され、融和事業が展開する過程で市民館と隣保館が増加したこと、そして方面委員による貧困家庭への訪問調査活動によって、生活困窮者の実態が明らかになったことに注目する。

著者は本章で部落の資源分配の担い手を「国家主導のアソシエーション」(融和団体など)と「民衆主導のアソシエーション」(水平社・労働組合など)に分類している。そして当時の住吉においては前者の影響力が相対的に強かったと指摘している。国家主導のアソシエーションは国家総動員体制へと向かうなか、生活困窮者を戦争に動員する仕掛けとしても駆動したと分析している。

部落は戦後、復興から取り残された地域として再び顕在化し、55年体制のもと、同和対策が進められるようになった。これによって、部落では地域ボスによるまとめあげによる資源分配システムが力をもつようになるが、著者はそれが戦前の融和団体等にルーツを持つことを明らかにしている。

大阪市の場合は戦後、「同和事業促進協議会」を設置して資源分配する方式を採用した(同促協方式)。著者は同和事業促進協議会に基づく事業が多くの成果を生む一方で、その主導権をめぐって争いが生じるなど、新たな社会問題の要因にもなったと分析している。

第2章「ローカルな生存保障」では、大正期から昭和初期までを中心に、社会政策の全国的な動向と、それにともなう大阪府・大阪市の部落施策の変遷が以下の4点にまとめられている。(1)部落改善から地方改善への政策転換期において、それに呼応する施策として大阪では、独自の方面委員制度を創設し、地域形成を図った。(2)地方改善から融和政策への転換を背景とし、各自治体に設置されていた地方改善部は、全国組織「中央融和事業協会」へと改組された。(3)地方において有効に機能した隣保事業を都市部の大阪に適応・定着させるために融和事業という資源が投入された(これにともない大阪市社会部は組織再編を繰り返した)。(4)国家総動員体制によって大阪市行政が再編され、町内会・部落会が民生に関わる組織として法制化された。

また本章では、1964年に刊行された報告書『都市部落の人口と家族―大阪市住吉地区における戸籍の研究』の分析を通じて、住吉の人口動態が一貫してアンバランスであったことが明らかにされる。多産多死に起因する乳児死亡率の高さ、生産年齢人口の不足、老齢人口の増加など、当時の住吉が抱えていた課題は部落の人びとの自治組織だけでは解決が不可能であり、常に外部の資源や人びとに頼らざるをえなかった。著者は、このような生活実態を背景に、住吉において融和団体が組織され、地方改善事業・行政施策が展開されていったと述べている。

第3章「乳児死亡率の低減」では、戦前の住吉にける生存保障システムの仕組みが明らかにされる。住吉は相対的に高い乳児死亡率を示してきたが、それが1915年から1919年にかけてはピークに達し、35.0%にも及んでいた。その後、徐々に乳児死亡率が低減するようになるのだが、著者はその要因として(1)融和団体(住吉仏教青年会など)の活動と地区整理事業(生活インフラの整備)の影響、(2)大阪特有の貸付制度の影響、(3)戦時動員体制における国家主導の貸付救済策の影響を挙げている。

さらに本章では、住吉における乳児死亡率の急激な低減が、戦時動員体制に向かうプロセスにおいて進行していることに焦点が当てられる。すなわち、「融和ボス」のまとめあげと融資事業が、結果的に人びとを戦争に動員する誘因ともなったことが明らかにされている。

第4章「再分配システムの転換」では、戦後社会が舞台となる。本章では1960年代前半の住吉で、町会と部落解放同盟とのあいだに生じた、社会資源の管理と分配方式をめぐる主導権争いに焦点が定められる。

戦前から続いていた町会による社会資源の分配方式(大阪市→町会→同和会→住民)は、部落解放同盟住吉支部の主導的人物らによって始められた日掛積立貯金と大阪市同和事業促進協議会(市同促協)の財政的支援などの別の分配方式(大阪市→市同促協→解放同盟→住民)の出現とにより、変更を余儀なくされた。この資金の流れの変化が係争点となり、町会と部落解放同盟の対立が激化。大阪市が調停に入るほどの出来事に発展した。

大阪市は住吉連合町会と部落解放同盟住吉支部の摩擦の調停者として、大阪市会議員の天野要を抜擢することになるのだが、著者は「一介の市議が調停者に選ばれたのはなぜか」という問いを設定し、それを以下の2点から説明している。ひとつは、天野要の父の時代から住吉部落に関わった経歴があったこと。もうひとつは、天野要が住吉連合会長の経験者であったことである。天野は住吉部落と町会の双方において政治活動のキャリアを有しており、両者の摩擦を円満に収拾できる人物として期待が寄せられたのである。さらに著者は、大阪市が天野要を調停者として抜擢した別の理由として、地域資源を町会に一元化することで、行政が管理しやすい体制に再整備しようとしていたのではないかと推察している。

しかし、こうした思惑は1969年の同和対策事業特別措置法(同対法)の制定・施行によって頓挫することになる。同対法という国レベルの制度が新たに設けられることによって、「大阪市→町会→同和会→住民」という社会資源の分配回路は、「大阪市→市同促協→解放同盟→住民」に変容した。その結果、住吉部落に対する市同促協の財政的支援が同対法のもとで一層強化される一方、町会は衰退の一途をたどった。

以上のとおり、本章では1960年代に生じた住吉連合町会と部落解放同盟住吉支部という2つの再分配のアクターによる主導権争いの歴史が整理され、それが自治体の施策や国の施策に強く影響されてきたことが具体的に述べられている。

第5章「再分配をめぐる闘争」では、部落解放同盟住吉支部が、地域有力者であった天野要を糾弾した「天野事件」(1969年)の内実が大阪市立大学所蔵の一次資料の丹念な分析から明らかにされる。

天野事件は、1969年1月の民生委員推薦地区準備委員会の席上で、準備委員が「部落差別」と認知される発言をしたことを発端とする。その際、委員長であり市会議員でもある天野要が黙って聞きすごしたことの責任が追求されることとなった。部落解放同盟は周到に準備されたシナリオに基づき、これを「事件化」し、合理的かつ効率的に施策と運動とを結び付けた。

この出来事を通じて天野要は民生委員と町会長の役職を退くことになった。結果、生活保護申請と同和事業の窓口が隣保館に設置されるようになり、同和事業促進協議会と部落解放同盟住吉支部による新たな資源配分の基準がつくられた。このことによって住吉の生活保護受給率が急激に伸びた。1970年代に入ると、生活保護制度のなかに「同和加算」や「同和勤労者控除」などの実現を要求するなど、資源動員をめぐる闘争が展開された。著者はこの事件と闘争を契機に、住吉がそれまでの地域において支配的だった自民党と訣別していったことを明らかにしている。

第6章「再分配システムの果てに」では、住吉における資源分配の主導権を持った部落解放同盟住吉支部が、1970年代に進めたまちづくりが詳述される。建築学者の高橋恒は同和対策事業特別措置法に基づき、まちづくりのマスタープラン「住吉計画」を構想した。この計画においては、「地域的範囲で諸資源を活用し連帯的な人間関係を築くべきである」という行動規範が提示されている。こうした設計思想は、反都市的な共同体を目指すものであったが、人びとの生存を保障し続ける成果を得るまでには至らなかったと著者は分析している。なぜならば、それは「ほんとうに支援を必要とする人」のための社会政策ではなく、地域を経済的に活性化させるための資源投下による「まちづくり」だったからである。それゆえ、著者は「ほんとうに支援を必要とする人」に資源がゆき届きにくく、「スラム(化)→地域対策→再スラム(化)→地域対策」という悪循環が生み出されてきたと述べている。

終章では、それまでの章の内容が要約され、改めて本書の主題である資源分配システムの変容・継承の問題に焦点が当てられる。そして戦後部落解放運動の後退の要因が「人びとの生存保障システムの体制化の歴史」に無自覚であった点に見出される。そして1980年代以降は、解放教育を強化していくものの、部落解放運動が衰退するなかで、再び町会や民生委員といった旧システム、あるいは新たな「首長」や宗教システムによるまとめあげがおこなわれるようになったと指摘される。こうして人びとの生存をめぐるローカル・ポリティクスは、戦前から絶えず展開してきたことが総括されている。


本書の評価

評者は大阪市西成区あいりん地区(釜ヶ崎)を中心に貧困問題を研究してきた社会学者であり、被差別部落の専門家ではない。そのため、いささか的外れなコメントとなるかもしれないが、その点についてあらかじめご了承願いたい。

さて、本書の最大の貢献は、「被差別部落に暮らす人びとを誰がどのようにまとめあげてきたのか」という問いを特定地域の通史から明らかにしていることである。1969年の同和対策事業特別措置法の施行にともなって、同和地区指定された被差別部落に対して、公費に基づく資源が大量に投じられた。その際、部落解放同盟をはじめとするアソシエーションが、被差別部落に暮らす人びとの生存に多大な影響を及ぼしていったことは、比較的よく知られている事実だ。著者はこの事実をさらに深く掘り下げ、近代以降の被差別部落対策として、そこに暮らす人びとをまとめあげるアソシエーションがいかなる働きをしてきたのかに注目する。そのなかで何度も強調されたキーフレーズが、「地域ボスが人びとをまとめ上げるシステムの継承・変奏」だ。すなわち、著者は地域ボスが被差別部落に暮らす人びとに資源分配するメカニズムが形や担い手を変えつつも、長い歴史を通じて続いてきたことを明らかにしたのである。

「地域ボスが人びとをまとめ上げるシステム」は継承され、変奏されるため、それを通史的に把握することは容易ではないが、本書は住吉という特定の地域を対象に選ぶことで、見事に実証した。なお、著者が見出した論点は、被差別部落におけるアソシエーションだけでなく、マイノリティをまとめあげる中間集団全般にも適用可能なものである。したがって本書の学術的貢献は部落研究のみならずマイノリティ研究一般まで及ぶものといえるだろう。

本書のもう一つの貢献は被差別部落の生存保障システムの変遷を社会福祉史のなかに適切に位置付けて論じていることである。日本の社会福祉学の分野において、被差別部落の研究は極めて少ない。実際に被差別部落は貧困をはじめとする複合的課題を抱えているケースが多いにもかかわらず、である。本書は主に住吉という特定の被差別部落の歴史を取り上げたものだが、生存保障システムの変遷を取り上げることで、どのような福祉政策が展開されたのか、そしてそれらが住民の生活状況にいかなる影響を及ぼしたのか理解することができる。さらに、本書から一般的な福祉行政と同和行政(同和対策)の複雑な関係も紐解くこともできる。以上の点から、本書は社会福祉学のなかでも社会事業史と地域福祉の研究領域において非常に重要な業績となりうるものだと考えられる。

一方、本書には幾つかの課題も見出された。著者は終章において、本書の課題として以下の3点を挙げている。(1)1940年代から1950年代の記述が薄いため、ローカルな人びと(住吉に暮らす人びと)が戦争の影響をどのように受けてきたのか述べることができていない。(2)農民運動史、社会民主主義史、郷党社会制度史などをカバーしていないため、融和運動の系譜が十分に論じきれていない。(3)1980年代から現在にいたる「部落民アイデンティティ」の促進・教化の過程が捉えられていない。

これらの課題については筆者も首肯するところだが、本稿においては別の課題も2点提示してみたい。一つ目は事例の位置づけに関する課題である。本書では社会資源の分配方式の変遷から被差別部落の生存システムを明らかにしようとするものだが、住吉の事例の位置づけが十分にできていない。被差別部落としての住吉がどれくらいの規模を持つのか、各々のアソシエーションの組織率がいかほどであったのか、本書を読んでみても十分にわからなかった。また、他の被差別部落との比較が乏しいため、事例研究を通じて得られた知見の一般化ができていない点が惜しまれる。

二つ目は、被差別部落に生きる人びとの暮らしが見えにくい点を指摘したい。本書は住吉で展開したアソシエーションについて徹底的に調べ上げ、その成立・継承・変容を見事に整理している。しかし、アソシエーションに関わる人びとの姿については、あまり立体的に浮かび上がってこなかった。確かに4章と5章で詳述される天野事件を契機にして市同促協と部落解放同盟住吉支部が資源分配のヘゲモニーをつかむようになったことがわかった。そしてこの新たな体制によって、住吉の生活保護受給者が急増し、一連の運動の結果、同和加算や同和勤労者控除などを勝ち取り、1970年代の前半には、壮大なまちづくり計画に基づく改良住宅を獲得したこともわかった。しかし、住吉に暮らす人々の就業状況や就学状況にどのような変化が生じたのか、本書から把握することはできなかった。

同対法を契機にして、被差別部落に暮らす人々に対する奨学金給付や就労保障が進んだことは広く知られている。しかし、本書からは、こうした取り組みが住吉においてどのような影響を及ぼしたのか捉えることができなかった。また、部落解放同盟をはじめとするアソシエーションが、非常に大きな分配力を獲得するなかで権力をどのように集中させていったのか十分にわからなかった。

被差別部落に生きる人びとをまとめ上げてきた地域ボスの変遷に注目する著者の視点は非常に優れたものだ。こうした視点の強みをさらに活かすためには、「誰が地域ボスなのか」だけでなく、「誰が地域ボスに包摂されたのか」「誰が地域ボスから排除されたのか」を明らかにする必要があったのではないだろうか。

以上、2つの点から本書の課題を指摘したが、これらは本書の価値を貶めるものでは決してない。特に2つ目の課題については、本書で提示された視点を今後さらに発展させるための論点であり、著者を含む多くの研究者によって追究されるべきものだと考えている。

ここまで主に学術的な観点から本書を評してきたが、実践面においても学ぶべき点が多くあることを最後に付け加えたい。周知のとおり、同対法は2002年に終結し、同法に基づく事業の受け皿となってきたアソシエーションの多くは、資源分配の力を弱めている。その中で都市の被差別部落の中で顕在化しているのが、経済的安定層の流出、経済的不安定層の滞留・流入、高齢化などである。同対法の終結は、再び被差別部落の貧困問題を深刻化させており、改良住宅の一般開放に伴う混住化は誰を部落民と規定するのかをますます困難にさせている。

こうした課題を目の前にして、被差別部落で活動するアソシエーションが、いかに人びとをまとめあげることができるのか、そして「ほんとうに支援を必要とする人」を包摂しうるのかを問い直していく必要が、今日ますます高まっているといえるだろう。その意味で本書は歴史研究ではあるが、現代社会に向けたアクチュアルな問いを提起してもいるのだ。 (洛北出版社発行、2016年3月、2500円)



*作成:小川 浩史
UP: 20161108 REV: 20161109
「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) マイノリティ関連・戦後年表  ◇全文掲載
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