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近藤氏・樋口氏インタビュー

2016/09/12

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 ◇近藤 秀夫
 ◇樋口 恵子(ひぐち 恵子)
 聞き手:◇白杉 眞

近藤 …前まで、町田市の福祉事務所の職員だったのね。ケースワーカーをしていた。21年間ケースワーカーをして、定年になったらその翌年が、これが始まった。そういう流れになるんですよ。私はその時、東京の町田市にいたから。やめて一年目でしょう、しかも、障害者のあそこは、町田ヒューマンネットワークという事務所なんだけど、市役所のすぐ近くに構えていたから、定年になったらすぐ、もうそちらの職員のような動きもしていたから、辞めたら普通は五年間建築に来ないかという声がかかった。でも私はもういいですといって、役所を辞めて、残らずに、町田ヒューマンネットワークの方に移ったんです。天下ったのかな(笑)。
役所を辞めて一年たつか経たないうちに、私たちにこの事業が降りてくるということになるわけ。

樋口 最初に95年だったと思うけど、丸山一郎さんという厚生労働省の職員やったり、東京コロニーの事務局長をやったりした、障害のない人で、障害者支援をする人で、ダスキンの認定委員をやっていた人。

近藤 東京都の福祉工場の代表だった。東京コロニーのね。

樋口 この人が電話を掛けてきて、あなたたちが言っていることをちゃんと取り上げて、制度にするからね、と言って電話がきたけど、何のことかな?と思っていたらそのことだった。だから、96年の後期からというので、

近藤 10月からね。

樋口 本当にバタバタと準備を始めた。

近藤 一年前には僕がいた福祉事務所には、何の前触れも連絡もなく、厚生省が決めてしまっていた。立川、八王子と町田の三つの障害者団体に委託すると下ろしてきた。それが96年8月のこと。急に下りて来た。だから、障害者も「え?」って思ったし、役所も。福祉事務所が市役所のすぐ傍だし、手に取るように役所が分かって見える。障害者のことでは、辞めても毎日行っていたから。向こうの課長が来て、あまり物を言わない人だのに、「実は」といって困った顔をして、私たちの事務所に来て言うことには、支援事業が厚生省から町田市のこの団体に委託されたという。

樋口 東京都がじゃないの? 厚生省が?

近藤 最初は飛ばしてきたのよ。国から下りて来てびっくりしたのよ。後から東京がついてきた。東京都経由で、国からボンときて、三団体に、って言われて、役所も障害者も両方の方もびっくりした。それほど前触れが殆どない事業だった。中を開けてみたら、いろんなことが書かれていたとは言え、いわゆる、生活力を高めるための支援と、ピアカウンセリングというのが、主要項目に入っていた。それで、これは何だ?とよそでは思っただろうけれど、私たちにとってみたら、それを読み下した時に、まさに自立生活運動が中心としてやってきたことなのよね。これが全国に広がるって、そんなこと出来るんだろうか?と私たち自身が思ったのね。これは大変だと思ったもの。だって、特にピアカンと言ったら、障害当事者の問題じゃない? それが事業として下りて来たとは言え、全国に広げないといけないということでしょう? そんなことが、と思ったのね。でも、時代背景から考えてみると、確かに障害者問題っていうのは、ある行き詰まりがあった。いわゆる、何をしていいのか分からない。特に重度障害者に対してどういうサービスをつくっていいか分からない。その反面、介護保険、高齢者の方はどんどん事業が広がっていくわけじゃない?国とすれば、「何をやろうか?」ということだった。しかし、今言った丸山さんなどは、確かに厚生省の上部にいて、障害者問題には詳しいけれど、自立生活センターでかなり活発に動いているのは、重度障害者。それをどうしたら、行政の事業にできるかとういことに悩んだと思うの。それならいっそのこと、と言うので、確かに八王子の動きからすると、国に対してこの事業に対する意見を出していたとは思う。中西さんあたりはね。つながりも深かったから。それで、そのこともあって、こういう事業が生まれたことが後で分かって来るのね。でも、急に受けた私たちは本当にびっくりした。なぜなら、ピアカンとか、生活力を高めるための支援というような、あいまいな言葉があっても、一般の民間の普通に元気な人たちの福祉の現場では何を言われているのか分からない。こんな遠回しな言い回し方して。後で分かったのは、厚生省にすぐ「これは何だ?」と聞く電話がどんどん入ったらしい。
厚生省もそのために、障害者の三団体に直接下ろしたんだから、そこに聞いてくれと言って回されてきた。それで大騒動になっちゃった。電話がバンバン鳴り出したわけ。しかも、ILプログラムがそのまま生活力を高める支援になることは分かったけども、ピアカウンセリングが普通の人たちの中に広がるなんてことは、ふつうは絶対考えられないことじゃない。どうしたらこれになるんだろう、ということで、彼女辺りはピアカウンセリングのやっている中心にいたもんだから、すごい大変なことが起こった。
だから、少なくとも、私が障害者になって65年か66年になるその中で、いろんなことを体験したけれども、役所の福祉にも21年、障害者の自立支援活動の中にもいた私にとっては、両側が分かるだけに、すごい時代だったんだな、と思う。それだけに、障害者が持っている障害のある一面を障害者側はつきつめた。役所にはそんな力がない。ポンと下ろして来たら、あの人たちの事業を全国へ広げたらいいんだという感じで、そんなにおそらく、向こうは煮詰めもしなかったと思う。しかし、下ろしてきたのが東京のたった三団体では、みんなそこに集中して電話がかかってくる。ピアカンはそちらがやってくれるんですか?とピアカンのことについて聞きたいと言って。そんなことを言われても、人に説明するためのピアカンじゃないじゃない。しかも障害のない元気な人に説明するためにできたものでもない。それをこれからは、この事業を通してやるのなら、人に説明しなくてはならない。ピアカウンセリングとはとか、生活力を高めるための支援とは、とかみ砕かないといけないわけ。そういう研修を全国に広げないといけないということが、自立生活運動の中に降って湧いた大騒動になった。
当事者団体としては三団体に下ろされた。よそにも下ろしたんだけど、よそはピアカンもなにも分からないから、下ろされたところが三団体に電話してくる。厚生省からそちらに聴けと言われたと。これは国の制度だから、全国的に下ろしたわけでしょう。だから全国で分からないから、「それは何ですか」「どうしたらいいんですか」と電話がくる。それは、何の前触れもなく。僕たちが事業下ろされただけならわかるけど、よそに説明しなくてはならないというのが、ものすごく負担になった。
最初は国から出て来たのは、一団体につき、年間2,000万円の予算が下りて来た。すぐ値切られたけどね。事業そのものが短かったけど、それよりも早く値切りの方が行政から入ったね。最初国から出てきたのは、年間2千万円を国から1団体に下ろすということだった。確かに、今と違って障害者団体はお金がない時だから。

樋口 500万円単位じゃなかった?例えば社会生活力を高めるプログラム、自立生活プログラムに関しては、やる項目が四つあって全部やったら2,000万円になる。その中の一つ一つは、ピアカウンセリングだったり、自立生活力を高めるプログラムだったり、相談事業だったり、確か4つあった。一個一個は500万円で、自立生活センターは全部をやっていたから、満額を取れて2,000万円を取れたという計算だったというのが、私のうろ覚えの記憶。

近藤 そうでしょ。僕は一括して、これを全部やるってことは、全部やってたからね。年間2,000万円というように捉えてたけれども。いわゆる重度生活者と言われる人たちの自立生活運動の長い運動の中でも、この事業一つで、本当に大騒動になった。しかし、これは、何カ月も経たないうちに、電話がどんどん鳴るのではやっていけないと、中西さん辺りが全連協?をつくって、切り離そうとした。別のところに回さないと仕事にならない。仕方なく三団体に電話が入るけれども、切り替えたら全連協の方が一括して答えられるようにしようとした。そしてピアカンと自立生活プログラムを、いわゆる元気な人にかみ砕いて説明する団体をつくらないと、とうてい自立生活センターが持たないというので、つくったのが全連協なのよ。
だから、僕は役所から辞めた一年目だから、役所のことは詳しいだろうからと、回されて代表にされた。分かると言えば分かるんだけれども、簡単にはと思うが受ける人がいないから、中西さんから頼む頼むと言われて、とうとうやることになった。これが本当の筋書き。いいことに、三団体とも東京だったから、連絡は取り易かった。これが大阪がどうの、どこがどうのと、離れていたら連絡一つ取るのが大変だったろうと思う。それくらい大騒動だった。その大騒動の大きな部分が、ピアカウンセリングだった。どうするのか。とにかくやろうというので、一回ピアカウンセリングやってみたら、こんな人が来るのか、というくらい人が来てびっくりしたのがこちらたちなのね。

樋口 男が押し寄せて来たから。ピアカンって女の人が自分の気持ちを出し合える場として、広がっていたのに、仕事になるということで、社協とかに雇われて、相談員としてピアカウンセラーとして働けるじゃないかという人が出て来た。俄然、男市場になってしまった。認定員会を設けて、今まではピアカウンセリング委員会というのがJILの委員会のなかにあったんだけど、それだけでは無理だろうというのと、質を保っていかなくてはいけないので、一回、二回受けて、ピアカウンセラーと名乗って、何をしてもいいというわけにはいかなくなるので、定期的に研修会したりとか、質を保つためのことをしないといけないので。
ピアカウンセラーは集中講座と長期講座を受けて、そこで終わりで、後はオンゴーイングという形で、一緒にやった仲間で相互にセッションし合ってやっていく集まりだったのが、それでは済まなくなった。ピアカウンセラーの資格取りましたってことで、本当のピアカウンセリングできなくなる人もできてくるじゃないかってことで、ピアカウンセリング認定委員会をつくって、認定をするという作業が入って来た。集中講座受けて、長期講座を受けて、養成講座を受けて、こちらが出した質問にちゃんと答えてもらって、認定をするか否かという段階が96年に出来た。だから、例えば自分がちゃんとピアカウンセラーとして進んでいくためには、上手なクライエントができなければ、意味がないわけだから、カウンセリングはできますという人だけでは駄目。「あなたにとって、心を許して話せるピアカウンセラーはいますか?」といった設問もしていき、回答してもらったものに沿って、認定委員会で検討する。一人暮らしをしいていなくて、家族と一緒に暮らしている人が本当にピアカウンセラーと言っていいんだろうか、とか、ピアカウンセリングするということは、自立生活に向けてのいろんなノウハウを自分自身が習得していなければいけないわけで、家族と住んでいる人にそれができるとは言えない。家族と住んでいる人については、「あなたが自立をしたら、認定委員会としては認めます。」という言い方で返していく。でも、どこにもそれが出てこないで、認定の書類だけが出てくる人などもいて、要するに認定委員会に近い人がいたら損をするみたいなものも出来てきて。いろいろごちゃごちゃしながら、怒涛のようにやっていたら、どんどんどんどん、熱は収まって認定委員会は解散した。認定委員会はいつ解散したんかな。私もあんまり覚えてない。でも、しばらくはあって。支援事業が2001年から? 障害者生活自立生活支援事業が。(資料をめくる音)
認定委員会は人から恨まれたこともあったような気がします。センターからピアカウンセラーとして認定を受けたいと申し込まれても、その組織の中でセクハラを訴える人がいて、組織内でちゃんと整理できていないことはカウンセラーとしてはまずい。認定を受けられないと言いに行く役割もしなくてはいけなかった。すっきり納得のできる解決策はない。

近藤 2005年2月に、障害者自立支援法が国会で通った。

樋口では、認定委員会は10年近くはあったのか。

近藤 全連協をつくることによって、全連協に入っていることのメリットがある、という考え方が全国に広がっていった。一番多い時はピアカウンセラーが1137名が相談業務についていたというデータが出ていた。これは、これまでの障害者のピアカウンセラーではなくて、障害のない人たちが自分がピアカウンセラーと名乗っていた人がこれだけの数になっていた。職業につけるメリットがあると、この事業で全国で広がった。それだけに、本当の当事者は全然気持ちが違うから大変。片一方では、私たちにとって、重度障害者の今までの運動が社会的に認められたことになる。だから、これだけ元気な人たちまで入ってきたら、自分たちはどうしたらいいのか、当事者団体の支援事業の自立生活センターからは研修をやってくれと、全連協にきた。障害のない人に、ピアカウンセリングとはとか、自立支援とはとか、生活力を高める支援とは、とかいう話を講演で行うのと同時に、本当の自立生活センターからは、違うニーズが生まれて、話を聞きたいと。自立生活センターのピアカウンセリングと本当に一緒なのか、全然違うのになぜやれるのか、という矛盾が全連協に寄せられた。どうしたらいいのかということで、僕などが何回も呼ばれて講演をさせられた。僕は講演したのは、中心になって言ったのは、これは全国に障害者運動が認められたことを、意味しているんだと。今までやってきたことは、ただ単に障害者のための運動ではなく、やはり大きな人間の自立を支える支援というところでは、国そのものが認めたのだ、もっと自信を持て、と。元気な人が入って来たから、困った、ではなく、その元気な人に、全連協にではなく、地元にある私たちところへ聞きに来なさいと言えるだけの自信を持つべきだという話を至るところでやった。その中にピアカンとか、生活力を高めるための支援とは何かということを、私はどうかいうと、新しい障害を持った仲間に対して、それこそ自立生活運動をもう一回見直し、深め、高める時期が来ているのだ、だから自信を持てとよく言った。今こそ、重度障害者とは何かという原点に立ち返って、障害と言うものを見直して、社会にアピールすべきだというような話が、私の障害者に対して話す中心だった。障害のない人に対して話すのは、障害者はここまでやっているんだぞ、と。今までの行政がやってきたのとは全然違う質が必要なのだと、元気な人に対しては言った。それがすごく、障害のない人にとっては、大きなインパクトを与えたわけよ。そこまでやっているのかと。
改めて自立生活センターに来た重度障害者のニーズを捉えた捉え方と、それをもっとかみ砕いて、重度障害者が自立して生活するまでの過程、段階的な過程を記録していって、いわゆる、障害と言うものが、障害を持ちながら自立をするということが、もう一度人間の持っている自立の概念の基本に帰ることを意味するんだと、いうような話をしたわけ。私は障害者に対して、障害を持った仲間に対しての(資料をめくる音)…

あなたが聞きたいというから…大部分は捨ててしまっているのね。パソコンの中に講演の資料がそのまま残っていて、それを引き出して来たら、自分の中で完全によみがえった。例えば生活支援事業の果たした役割というテーマで講演した資料が出て来た。障害者に向けての、自立生活センターからあった講演の下書き。「私の仕事はピアカウンセラー。障害が重いほど仲間に勇気を与える、住宅探しから介助者探し、自立生活センターの役割、福祉サービスの受け手から担い手に、当事者民間ワーカーとして、当事者の専門性、同性介護も24時間介護も。」同性介護というのはそれまで自立生活センターしかなかった。ヘルパーといったら女の人で、男にも女にも行っていた。24時間介護も、と。「体験から提案へ」。いわゆる自立生活センターにとっては、自分たちの体験が事業になったわけだから。「支援はつくるもの、隣のおばさんも。」つまり、ひと声かける隣のおばさんも、こちらが障害者だったら、支援なのね。そういう考え方。一番下に重度心身障害者のさきおも。さきおというのは、重身の女の子の名前。言葉もなければ、寝ているだけで、今でも東京の町田市で、親は別の家に生活して、24時間の介助を受けている。この時も、前の年まで役所に入ったケースワーカーでこんなことをしていたものだから、そういうことを、講演で話した下書き。これを頭の中に出してくるのなら、「われら障害当事者」とか、全部私の皆に話したテーマなのね。
みんなに、とは、むしろ元気な人ではなく障害を持った方に、今こそ自分たちが社会に意見を出すとき、出せる時だと、それは価値のある言葉なのだと。今までの一つの言葉の意味と、今、支援事業を通して出す言葉というのは違うんだと。それだけの意味の違いがあるんだということを自覚して、自分たちの意見をどんどん社会に出していい時が来たんだぞ、というようなことを、話したと思う。
それと実は先月、僕たち二人は札幌に行った。札幌で久しぶり、昔の古い話をしたんだけど、その時に、何を話そうかなと思った。実は向こうから呼ばれて私が話しに行ったんじゃなく、違うことで二人で札幌へ行く用事があったわけ。せっかく行くんだからとうので、彼女は向こうの仲間に、近藤も一緒に行く、こんな機会はそうないと思うから古い話だけどよかったら話ができるよ、と言ったら、向こうが喜んじゃって、いろんな人が集まったわけだ。その時の、何を話そうかと思った時の、一番最後の締めくくりが、今言った、さきおの話なのよ。重度心身障害者の自立と言うものはあり得る。かつて都知事が、この子たちに生きている価値があるんだろうかというようなことを言って、新聞に取り上げられたことがある。私たちが東京にいた時だったから、すごく反発を感じた。重身の施設に行って都知事が見学した時に、うかつにも「この子たちに生きるということはどういうことだろう」とを投げかけるのに、もっと浅い気持ちで、生きる価値があるのか、というような言葉を出したことがある。それは大きな問題になったけれども。
もう一つは、神奈川で元の施設職員が、重度障害者から手をつけたという話があったでしょう。ああいうことを含めて、時代背景として北海道で話すテーマが自然と自分の中で出来てたんだろうと思うんだけど、重度障害者の自立、自立とは生きる権利だよね。権利だというと固くなるから、生きる権利はあり得るのかということを、一番最後のテーマとして話した。障害当事者でないと、この重度障害者の自立の考え方をつくることはできないだろう、と。当事者こそ、重度障害者の自立の、という価値観をきちんと形として言語として、理念としてつくるべきだ、社会に出すべきだ。今こそ、というようなことをこの間、話してきたばかりのところ。そういうことが社会に向かってポンと話せる時代が、この支援事業の時代だった。チャンスだった。突き詰めればよ。ボンと下りてきて、電話が鳴って呼び出されて行ってと、もう頭が回らない。僕は全連協の代表と言われてたから、僕に与えられた仕事だった。今もそれはずっと続いていて、まだ社会に向かってきちんとこれがその結果だというものは出ていないと思う。それほど、障害者の自立の概念と言うのは、非常に深い、しかも大きい人間の生きるという基本にまで行きつかないといけないんだけれども、そこまで考えがまだ到達していない。自立という言葉はよく使われるけどね。先ほど言った、さきおと言う、親から離れて、重身でありながら生活し、本当にその状態を自立と言えるのか。その人がまだ小さい時、母子家庭でお母さんが何か仕事をしないと、生活保護を受けながら、このさきおと言う重身の女の子が生活しようとした時、私が地区担当員だったの。いわゆる、役所のケースワーカーだね。私が車いすに乗っている地区担当員だからというので、町田市の重度心身障害児を抱えるお母さんたちは、夏休みになると、五人くらい集まって、「近藤さん今年もキャンプをやるよ」と言うわけ。そのキャンプというのは何かと言うと、子どもを寝かしつけたら、あとはこの子たちに自立はあるのか、というのが親の最大のテーマだった。それを一緒に考えて、話し合ってくれるのが、障害を持ち、役所にいるケースワーカー、僕だと思われた。それでいながら片一方では、自立生活運動もやって、町田の生活自立センターに関わり、つくってきた。これだ!と思って親が食いついてきた。確か四年ぐらい5族と続いた。ところがお父さんがいない。なぜかみんな、お母さんと重度障害者が参加する。
僕は絶対ある、という立場を取る方。今のような言葉で親に、あなたたちの子どもの自立とは、ということが伝えられなかった。今ならもう、はっきりと伝えられるね。重度障害児の子どもを抱えた親たちに、あなたの子の自立とは、ということが今なら返すことができる。特にこの前の札幌に行く前に、きちんと整理してみた。そうしたら、ある到達点を自分の中に見出した。それはやはり、今町田で、重身の女の子で、親はいるんだけれども、親とは別の家に住んで、24時間介護者をつけて生活をしているさきおと言う女の子の生活のいたる過程の中に僕はいたから。そして今の時代で、自立はあり得るかという言葉に対しては、一つの到達点に達した言葉を世の中で出せるように、やっとなったんだと思った。だから、この前、先々月になるのか、札幌で話した時に、そのテーマを自分から作り出して言えたんだなと。そうしたら、相模原であんな事件も起きてきた。そういう、物を考えるきっかけを僕に与えてくれたのが、支援事業だったわけ。その最初が。
これは障害者の問題ではなく、一般の人たちにも言える事柄だということを、国がこの事業を自立生活センターに与えたくれたことをきっかけに、「そうか、国も普通の人にピアカウンセリングが必要だと思っているんだ」と。自立生活いうものが、普通の人にも必要だということを思っているんだ、と。今は障害者の問題として扱っているけどね。だから、そういう必要性をバックに感じたから、事業として国が下ろしてきたんだと僕は感じた。それは、行政を辞めて一年目だったから、町田市の福祉事務所が私たちの事業所にどういう立場で物を言って来たかということを振り返ってみても、まさにそうだった。私は町田市のケースワーカーとして21年いた。けれどそれは、すごく特殊なことで一般的なことではない、という態度が明らかに分かった。そういうことを考える余地と言うのは、役所にいるときは全然なかった。仕事はどんどんどんどん、させられたというより、事業を仕事を、自分でつくった。いわゆる僕はそういうことをするために市長が呼び込んだ職員だったわけ。
私が入る前に、その市にはいくつかの大きなテーマがあった。今でも非核三原則都市がどうとか言うじゃない? あれと同じように町田市に合った一つのキャッチフレーズで「緑と車いすで歩ける街づくり」と町田市の市長がつくった。おそらく日本で後にも先にも市のテーマに車いすという言葉が入ったのはこの時だけだろうと思う。それを本当に市が実行するのには、あまりにも資料がなさすぎるので、これはやはり車いす職員をつくらないと到底難しいと考えて、車いす職員を探したわけ。そして、あの近藤なら全国を回って仕事をしているから、あいつならいろんな障害者を知っているだろうから、町田市が掲げた考え方を一緒にやってくれる障害者を紹介してもらおう、という形で、私は町田市の人ではないのに。まあ、東京にはいたから。東大和市にいて車いす屋をやっていた。車いす製造業。車いすに乗って、自動車を運転して営業をするわけ。東京に事務所と会社を置きながら、青森と大阪京都、兵庫、の営業範囲を担当した。車いすの営業マンも当時はいなかった時に、私は車いす屋の営業マンとしてそんなに離れたところを担当したわけ。その頃はまだ高速道路はないからね。それを自分が運転して、しかも車いすに乗っていながら自動車を運転する人も全国ではまだ少なかった時代に、運転していったわけ。そういう時代の話なの。だから、あいつは業者だから全国の福祉事務所に業者だから回る、いろんなことを話す、そうすると全国の事業の話ができる。僕が行くとよそのことが聞けるから期待された。
これはすごくいろんな意味で、大きな役割を果たした。まだずっと後にまで。それがもとになって私は、沖縄の自立生活センターの理事長だとか、長崎の佐世保の自立生活センターをつくりあげた。だから理事長であり、代表なのよ。沖縄とか長崎とか、今でも福岡県の行橋市にある自立生活センターの理事長だよ。
それはなぜかというと、いまのは別だけれども、沖縄とか長崎は、あいつは全国の情報を持っている、役所にいるから役所に強いと、面白がられて話を聞く。障害者仲間はうまく僕を使うわけよ。今でもある沖縄の自立生活センターあたりは、近藤さんを連れてきて、ここの理事長に据えたら、役所から事業を受けやすいと。今の支援事業などは民間委託されたけれども、障害者運動はその地域でどういう運動をしていたかということで、行政と相反する運動になったことがあちこちでいっぱいある。そういうところにも、事業を下ろさないといけなくなるんだけど、役者側からみたら、頑としてあそこは到底下ろせないということがあったわけよ。ところが障害者側から見たら、役所と同じ膝をつき合わせて話すようになるのには、近藤を理事長にすることだという考え方で、私を理事帳にするわけ。だから沖縄に行ったら、那覇にある障害者事務所ではなく、県庁に連れていく。迎えに来た障害者の団体の車が、県庁に連れて行って、県庁の福祉課へ行くわけ。その次に事務所かと思うと、そうではなく、地域の市役所の福祉事務所に連れていくわけ。「来ました」という挨拶でいいから、やってくれと。そうしたら、来ましたで済まないわけ。向こうは近藤さんがまた来たから、何か新しい情報が得られるに違いないと思って、紙と書くものを持ってきてくれる。それで二時間ぐらい粘られるわけ。しかし、それを何年か続けたら、その団体の顔のようになって、そういうことがあるのなら、今までの動きもよく分かると。なぜそういう動きになったのかが分かるので、事業を下ろしてもいい、近藤さんもいるのだし、という形で下ろしてくれるのよ。それの典型的なのが、沖縄だったね。
佐世保市というのは不思議なところで、福祉部長が、三年に一回厚生省から下りてくるよう契約してたのよ。だから福祉部長が三年に一回、厚生省から天下りでくるわけ。その代わり、三年たったらまた帰っていく。ちょうどその時期が、支援事業が下ろされた時。
女の人だった。そして全連協の代表を呼ぼうというので呼ばれた。話したら、彼女が気に入って、うちに下ろしたいけど自立生活センターがないから、つくりたいと。資金としてはこの事業に年に二千万円出すからと。近藤さんあんた、つくってよと。簡単なことなのよ。
それで、長崎の佐世保に自立生活センターをつくって、その事業を下ろしてもらって。部長直属でしょう。普通ではありえない、福祉センターの中に事務所を置いてよいということで、用意してくれた。家賃もいらないわけ。役所お抱えのようなもんだけれど、そこの理事長であり代表が僕になっちゃった。そういうことのきっかけを下ろしてくれたのが、その事業なのよ。
僕はそれこそ当事者がすべきだと、障害者雇用をする。しかし、そういうところで障害者雇用をしてもなかなか障害者は育たない。いいことに、一人施設に居て、僕が自立生活センターを任された時には、地元の障害者で中心になって受けてくれた人が居た。ヘルパーステーションをつくって、彼を代表にしてやったんだけど。ところが彼はすごく上手くいったものだから、長崎市にも自立生活センターをつくって、ヘルパーステーションをつくりたいと言った。「俺が中心でないとできないから、ここは近藤さんに任すから」と言って、自分は長崎市に行ってつくってしまった。そこまで地元の障害者が育たないうちに。彼が居るからまず上手くいってたのが、だって僕は東京から通って行くんでしょう。というように、私の人生にこの事業は大きな影響を与えた。
人生のある時期、この事業のことで楽しい思いをしたね。元気だったから出来たんだと思う。そういう時期と言うのは、人と話さないといけない。話に来てくれというのだから。それには、話をまとめないといけない、ということで、すごくいい勉強をさせられた。だから、やはり、今の僕が思うのは、この時に、障害者に対する見方の掘り下げと言うのはかなり僕の中では深くできた。どこまで講演をすることで出せたかと言うと、その時ではまだ70%だったんじゃないだろうか。
この事業は、終わるのが二年ぐらいでしょう。市町村障害者生活支援事業と言うのは、すごい短かった。あなたにとってはいつ始まっていつ終わったか、いつ次の事業に移ったかは、簡単に洗ってみれば分かることだから、そこまで言わないけど。こういう事業の時に、これを受けた私たち団体がどういう目に遭ったのか。行政はどうだから新しい事業に移ったと言うだろうけれど、その時、私たちは何を得て何を失ったかということを考えるべきだろうなと。そこまで深く考えたり言ったりできるのは、僕の立場しかないんじゃないかと思ったね。それほど中心に置かれたし、すごい忙しい時だから、通り過ぎたという感じぐらい速い短い時間だから。しかしそれは、そこで終わったのではなく、その後も僕の中に続いた。今もある意味では、続いている。先ほど言ったように、先月だったか北海道に行ってというところまで続いているわけじゃない。そんな続き方をしているのが、僕にとってこの事業は、というテーマなんだろうね。あなたにとってのこの事業はというのは、また別にあると思うよ。今のあなたが調べてどうの、というのと。私にとっては、始まる前から、始まって終わっても、そして今でも、やっぱりこの事業の持つ本質というのが、むしろ広がってはいっても、すぼまるものではない。…というぐらい、大きなエネルギーであり、大きなテーマを持った事業だったね。
資料を見たものだから、なおさらその当時のことが出てくるわけだ。「我ら障害当事者」とか、「生活支援事業の昨今から」というテーマで話したんだろうね、これ。「当事者職を狙え」と、「自立生活プログラムとピアカウンセリング」これこそ当事者職なのね。自分たちのニーズを掘り下げてこそ、専門性となる。障害者、障害者と言うけれど、こういう時代を経て、障害とは、ある専門性という言葉に行き当たるのね。特にピアカウンセリングは。ピアカウンセラーの養成が必要だったわけだね。養成しないといけないといったら、専門性じゃない。そういう意味で、今私たちが持っている障害と言うものは、ある専門性なんだ。だから僕のところに、1980年代の国際障害者年を通して、その前まで日本の福祉の専門家という人たちが、何を日本に持ってきていたか。沢山の人が福祉先進国というスウェーデンとかアメリカに行ったにも関わらず、私たち当事者に何を与えたかということに、私はものすごく不満を持った。なぜなら僕は、そういう福祉のサービスを受ける当事者の障害者じゃない。それでいながら、自立生活センターにも身体を置いていたわけじゃない。国際障害者年の時には役所の福祉事務所のケースワーカーでもあったわけじゃない。だからすべてを見るわけよ。国際障害者年になったら、彼女辺りは日本の障害者を集めて、ツアーを組んでアメリカやスウェーデンにも行った。その時に見せた、私たちが目にした障害者の障害にとって何が必要かというものは、それまで与えられてきた福祉の専門家たちが、私たちに与えて来たものと全然違うものを見たのね。そうでしょう?それがすごい力になったわけじゃない。それだけに、福祉の専門性、福祉の専門家たちに対する疑問はすごく強いものがあった。
あれだけ沢山の月給をもらいながら、家族を養いながら、家を持ちながら、本職と言われる専門性は障害者に何をしてきたんだと。何を教え、感じさせてきたか、制度化してきたかといったら…。
僕は障害者になって施設に入っていたことが10年あるからね。だから施設生活も知っているのよ。それでパラリンピックにも出たからね。全部知ってるじゃない。福祉の専門家が教えてくれたんじゃなく、身体で体験することをした。施設の生活も、パラリンピックの体験も、自立生活の体験も。その中で専門家が与えてくれたのは何だということに対してものすごく不満を持ったわけ。
で、僕はそのことをよく他所に行って講演するとき、日本の福祉予算で一番沢山使われている部分はどこか知っていますかと聞く。みんなは何か分からないじゃない。人件費なのよ。これは厚生省の職員にしても、地方の福祉事務所の職員にしても一緒ね。福祉関係の職員の人件費を集めたら、国の予算の何分の一というものすごい福祉予算。20代の障害者も、50代の60代の障害者も、特色のない同じ生活をさせられている。それでいながら、一年の四季で折々に、誕生日、学校入学、孫がどうのと職員の話ばかりなのよ。だって、施設に入っている生活は変わらないから、あまり話題がないわけ。その点、孫が大学に行ったの、何か言われるのは全部職員の話し。こんな切り口で、話を聞いたことはないでしょう。つまり、そういう体験から僕は話を組み立てるわけ。あの時は、本当に市の職員どうのこうのと、「あぁよかったですね」、子どもがどうした、結婚がどうした「それはよかったですね」と、全部職員の話ですよ。私は10年いたわけ。ところがパラリンピックを通して外へ自立して、翌年にアメリカの企業の職員になって、それから二つか三つ仕事を変えて、行きつくところが福祉事務所の職員なのね。そういう体験をしてきた私にとっては、本当に真剣に障害者のことを考えているのか、あなたたちは、と言いたくなる。新しい提案も何もせず、本当に給料をもらいながら、自分の生活はどんどん上がっていく、子どもたちも育っていくし、学校にも行くし、就職もするし。人生を階段のように上がっていく。
しかし、その給料が入ってくる現場と言うのは、障害者はずっと一緒。病気したら病院にかかるだけで、それがなかったら、四季折々のお祭りのようなものをちょこっとしたら、それで終わっちゃう。誰も一人の障害者の人生というものに、タッチする人がいないわけ。それが福祉か、と言いたくなる。私が自分の中で問う。私は全部、自分の体験からなのよ。それでいながら、福祉予算というのは、どんどん上がって行って、ボーナスがどうのこうのと言うけれど、何を言っているの?と。
私は施設を出て自立生活をして、この家に来て、誰々が亡くなったという情報が電話で入った。それは施設にいた時の仲間なのよ。つまり、彼は施設にいて、施設で死んでしまった。確かに僕が入った時に、彼はいたか、いないかというぐらい同じぐらいの時よ。彼は男性で背が高くて、足が悪く変形しているけど歩ける人だった。重度障害者の買い物などしてくれてた。「今日は何かないか?」と言って回って、「何々が欲しい」と言うと、「分かった」と書いて行って、彼は自分で歩いて行けるものだから。そこまでなっていた障害者の彼が、なぜ私たちが出た後も、施設にずっといたのか。この三軒目の家を建てて二年目くらいに、何々さんが死んだと聞いた。どこでと言ったら、施設なのよ。そのままいたわけよ。私は自分の人生を振り返るわけね。僕の人生では、本当に山もあれば、谷もある人生じゃない。しかしそれが人生じゃない?そう思っている僕にとって、あれだけの軽い障害の彼が、なんでこの年月をずっと施設にいたんだろうと。施設職員が何をしたんだと。そんな疑問をすごく強くした。

それでも福祉のお金をずっともらい続けている職員、しかも辞めたら恩給で、年金で生活していけるだけのお金を当然もらうよね。国家公務員じゃない。その人たちがそこで仕事をしなくなっても、もらえるお金を、それで人生を生きている彼たちが障害者に何を与えたんだろうということを、その亡くなった障害者を通して僕は考えちゃうわけだ。そんなことが、自分の中で出てくる。これが私の人生なのよ。しかし、そういう人生を私に与えてくれた、そして一番大きなエネルギーをどーんと与えてくれて、その時、力いっぱい全国を走り回る原動力になったのがこの事業だった。それと同時に、他の障害者にとっても障害とはただ単にマイナスのものじゃなく、大きなエネルギーでもあるのだと。「これはいいぞ」と思い出したのが、この事業が福祉社会に出た大きな意味じゃないかと。
だから、それは今でも場所を考えてみれば、NPOを取ってヘルパーステーションを取ったら、障害がどんなに重くてもこの事業はやっていける。その皮切り、先端をつくったんじゃないかと。それまでの事業というのは、仲間と一緒に自立生活センター自身が、システム的に、回る金を自分たちで作り出さなくてはならなかった。会員制度であるとか、どこかの補助金をもらうとか。しかし、この数年後にできたNPO法人を通して、障害者も元気な人と対等に事業を興せる、しかもその事業が自分たち障害者の一番の生活の元に必要なヘルパー事業という。そういう事業が持つ本当の意味を知らせてくれたのがこの事業だった。
私にとっては大きな大きな、どかーんと落ちて来たエネルギーのようなもの。右往左往したけれど。考えさせれたし、それは、自分の人生の大きな糧にもなったし。おそらくこの事業を通して、こういうことが言えるのは私だけだと思う。

98年に、僕は身体障害者介護等支援専門員養成指導員の資格を取った。これがケアマネを育てるための指導員の資格。この指導員の資格を障害を持ちながら取ったのは、僕が一号だった。一号、一号が続いているのは、それだけ古い障害者なのよ。しかもいろんな体験をしているものだから、「あいつなら」というんでやる。これは中西さんが、障害者がこの資格の中に入る障害者といったら「近藤さん、あんたしかいない」と言うわけ。「あんたこれを取りなよ」と、取ることによって障害者の持つ意味をまた広げる大きな役割ができるんだからと。僕は腰が重い障害者なのね、それを中西さんが押し出した。僕の場合は21年間の福祉事務所の職員の経験があるので、どこにでも通ると。障害者でありながら、普通の資格で使える者がいないから、「近藤さんこれを取りな」というので、彼がどこでどうしたのか…。僕はあまりやろうという気はなかったのに、押した。

樋口 厚生省とのやり取りで、(名前を忘れた)某大学の男の教授が?障害者の話し合いの中で、「私がピアカウンセラーとして認められる人は日本には近藤さんしかいない」と言った人がいて、その辺りからじゃないか。その時に、佐野さんとか中橋さんとか、高橋修さんとかいたから、90年代後半だったと思う。そこでそういうやり取りがあって。そこに(近藤氏が)いたんじゃないかと。だから資格として認められるのは近藤さんしかいませんと言われて、そういうんだったら近藤さんは認めるんだな、という形で、まず第一回目の講師養成するところに障害者でいける人に。各県から二人ずつ選ぶというときに、一人は障害者で一人は障害じゃない人という風に徐々になっていった。

近藤 名古屋で一回目だった。名古屋大が国から任せられて養成講座の場所を全部持っているわけよ。そこであるケース事例を通して、全国からきていたから、それを五つのブロックに分けて研修して、その中の一つに僕は入った。全部が同じケース事例でやった。障害者にどういうサービスを与えられるかというテーマだった。その時は、家の問題は、国の事業、サービスの中には全然出てきてなかった。家の問題は住宅公社の問題だと任せられていた。その時、町田の自立生活センターでは、そんな障害者が出たらすぐ不動産やに行くわけ。今回こんな人が出たから、この人と意見調整して自立させたい、家を探しているということまでILセンターはやっていた。
 だから不動産屋もあなたたちが横についてくれているんなら、ヘルパーもきちんとつけてくれるから、少々重度でも安心して任せられるとアパートも貸してくれるようになっていた時なんだ。ケース事例の時に、僕は出せる自立に向けてのケース事例だから。自立生活センターしか言えないこと。福祉事務所は住宅制度を持っていない。住宅局のようなところに行って相談するしかなかったわけ。それを僕は自立生活センターで相談して家まで見つけ、その家に入って生活史、ヘルパーを使って日々がやっていけるところまでのプログラムを自立生活センターはもう作れたわけ。
 それが自立生活運動だったから、僕にとっては何でもないわけ。その時は「こうするよ」と。自立生活センターを使うことが、僕には非常に沢山出て来た。だって、一般事業にはないから。そうしたら皆は、急に自立生活センターってなんだということになった。そして、自立生活センターとは何ですかと言われて、ある一定の時間、自立生活センターについて僕が皆に言う時間ができた。それを聞いた集まった人たちは、翌日のプログラムには自立生活センターという名前をどんどん使い始めた。僕から聞いただけで、自立生活センターを知りもしないのに、自立生活センター以外に持っていくところがないと。そういう時代背景があった時に、自立生活センターをやっていた僕は、これこそ障害当事者が障害者のために動ける本当の意味の運動だと実感を持った。自立生活運動に対しても他のセンターとは違って、私自身はそういう場所もつくれたわけよ。そういう考え方、そういう言葉を自分の中でも作れたのがこの時代だったわけ。それは、この事業がなくなって、一、二年してからのことじゃない?この事業は短かったから。僕にとっては、この事業が終わったからもうない、というのではなく、むしろ自立生活センターが社会に理解してもらったという時代だったから、それからあとの運動がすごく楽になった。自立生活センターを広げる役も出来たし、先ほど言ったように、沖縄とか長崎にも回って広げて行けたから。力を持った事業と言うのか。その力というのは、皆がそこに行き渡ったのではなく、僕にとっては、ものすごい時代だったし、その中で考えるだけの、また動くだけの力を与えてくれた。自立生活支援事業という、ピアカウンセリングとか生活力を高めるための支援という、この二つを特記して社会にアピール出来た。

次の事業で押し上げられてしまって長持ちしなかったね。それがどういう原因でそうなったかというのは、また一つ大きなテーマとして考えてみる要素はある。それまでの自立生活センターの収入源というのは、会費であったり、私たちが町田に居て大きな収入と言うのは助成金のような事業費をもらって。行政が認めて、かわきりになったのがこの事業。

樋口 全国的に言うとそうだけど、東京都は地域福祉振興基金と言うのが1988年ぐらいからあった。ヒューマンケアで1500万円ぐらいの、500万円が一口で四分の三、375万円ずつの補助というのが出た時期があった。行政から出てくるお金としては、東京都はそういうのがあったが、他にはなかった。福島県が後から300万円つけるという風になった。というのが行政から自立生活センターが障害者支援をやっていることに関して出てくる補助金だった。知的の人のヘルパーを認めさせることは、大阪、関西はすごく進んでいた。

近藤 自分たちは事業所を持って、この制度をやったら資金が入ってくる、というきっかけになったのはこういう事業。「この支援事業をやったら」と言われたけれど、ヘルパー事業は、どこがやってもきちんとやって認められたら、それでお金が入ってくるようになったから。障害者の持っている生活ニーズを事業化したという歴史的時代というのは、非常に社会の中で大きな障害者にとって、着眼点が見い出せた時じゃないかな。「これがそうか」、「これでやっていけるのか」と。
その事業をきちんと障害者がやっても認められるきっかけというのが、市町村障害者生活支援事業で、ここから始まったように思う。だから、恐らく今ではそこにニーズがあったら、日本のどこでも事業所を開ける。そんな時代になった。どの程度の人がそれを知っているかは別にしても。特殊な技能がなくても、NPOは取れるし、障害者でもヘルパーステーションを立ち上げることは十分可能なんだから。しかも本当に重度の障害者が自分のための介助を中心にしたヘルパーステーションを立ち上げることが可能になっているじゃない。

樋口 京都市には人口が多いわりには、自立生活センターは三つしかないんだ。矢吹さんのところと、スペクトラムの岡田さんのところと、大学の先生で谷口さんは自分では自立生活センターをしていると言っていたけど、なくなった?

(谷口さんは一般の支援センターをやり、職員の育成をしていた。)

矢吹さんのところは、日本自立生活センターだからね。なんたってすごいよね。81年ぐらいからその名前は使っているから。自立生活センターと名付けて使っているのは、矢吹さんのところが圧倒的に早いけど、ヒューマンケア協会はアメリカ型の自立生活センターを相当きっちりと踏襲した形で活動してきたというところでは、矢吹さんのところよりは、早い。その流れが出て来た辺りで、矢吹さんのところも作業所よりは、自立生活センターに力を入れる場所に変わっていったというのが見方としては正しい。矢吹さんと永橋さんと。

近藤 伝説の人でしょう。僕などは永橋さんとの付き合いが長いのね。僕は車いす市民集会を通して、永橋さんと一緒に作った方だったから。
間違いなく国が介護保険と言う介護を日本に全般的に広げるためのシステムの中の、きちんとした調整機関としてケアマネをつくった。だから立場が全然違うよね。例えばこの厚木市にもヘルパー事業所はいくつもあるわけ。しかし、僕が来た時も、向こうの町田で介助を受けていたから、自分が作った自立生活センターからだったけれども、こちらに来ても当然、介助はあるからと思って行ったら、「はい、私のところも障害者の人にヘルパーを出していますよ」とどこに行っても言うわけや。そのことは一緒なのよ、しかし、これは障害者の福祉法に基づいたヘルパー制度ではなく、全部、介護保険なの。そして介護保険の資格を県に申し出て取るときに、介護保険だけじゃだめだ、障害者もやらないと、と言われて「分かりました、障害者にもヘルパー出しますから」と言って出しているわけ。障害者にとって一番大事な自立の概念が全然違うわけよ。だから、障害児に対してのヘルパー制度もあるじゃない?子どもの時から高齢者まで障害者がいるわけだ。しかし片一方、高齢者のための介護制度といったら、人生をずっと歩んで来た人の一番最期のところだけじゃない?だから自立に対する全然違うわけだ。それを同じヘルパーがやるというのは、内容が変わるのは当たり前じゃない。それを「ハイ分かりました、うちでもやっていますよ」というような形でヘルパーを出すわけ。だから介護保険に準じたヘルパーが障害者のところに来て、あれは駄目、これは駄目と皆言うわけ。僕などは町田からここへ来て、びっくりしちゃうわけ。「おい、ちょっと待ってよ」と言いたくなるわけだ。でも、他にステーションがない。だからそれを求めるのなら自分で作らざるをえなかった。ないんだもの。だから今でも、「お宅はそれもやれるの?これもやれるの?」と言われるわけよ。「うちはやってますよ」と言うわけ。
そのように自立の概念と言うと固くなるけれども、サービスを出す基本となる考え方になる。それがもう、全然違う。介護保険の自立と言うのは恐らく、リハビリ訓練ぐらいのものだろうから、全然違うわけ。だからその話をしなくてはならない。その話ができるのは、うちと高知市の中にいる一人の障害者くらいじゃない。こちらに来てもヘルパーが来てくれないのでびっくりした。だから、自分で探してヘルパーの資格は持っているけれども、ヘルパーをしたことがない人を探し当てて、その人に来てもらって、それで私たちのやってもらうことを伝えた。

樋口 2000年だったと思うけど、障害者ケアマネジメント検討委員会が厚生労働省で持たれて、私はその当時、ジル(JIL)の代表だったから、それで委員に入れられていた。その前は障害者御三家というと、日身連、日盲連、聴覚障害連(全日本ろうあ連盟)という三団体からしか、障害を持つ委員というのは選ばれていなかった。それで、確か2000年から20001年からの半年くらいで、介護保険と並んでやっていくように、肩を並べるような形での障害者ケアマネをやりたかったというのが厚生省、厚労省の狙いだったと思う。その時に、中西さんと北野先生からやいやいと意見を聞いて、その委員会に反映させながら、障害者も80%くらいはセルフプランが作れると頑張った。私もその年、参議院選に出るので、バタバタした時であわただしかったんですけど。でもなんとか、介護保険とは並ばないぞというところを踏ん張ったのが、あの時の私の役割だったと思う。私を選んできたのは、障害者のケアをしている経験を持っている団体というのがその中にはいなかったから、そういう意味で私は選ばれていたと思う。半年くらいで、結論はセルフケアプランありね、というところまでで終わった。だからケアマネージャーに圧倒的な力が、介護保険だったらケアマネージャーが作らないと動けない者になっているでしょう、そこが死守できた感じがしている。確か半年くらいの短い間でザクザクやろうとしてきたと思う。

近藤 本当に死守したというくらい、国は介護保険と一緒にしたかったのよ。でも、もし障害者にやるとしても、かなり意味の違うものでないと、高齢者のような形でやられたら大変だというのが障害者の仲間にも広がったのよね。これだけは死守しようと、介護保険になったら大変だぞということだった。確かに今、考えて今やってみても、介護保険に準じてやっていますという言葉の濁りの中で、生活がすごい大変。
ただ、そうはいっても、障害者自身も65歳に達して介護保険の方に移るじゃない。この時には、自分の生活が維持できるだろうかと大きな不安を抱く。これに対して国と言うのはなかなか、障害者が安心できる方向性を、あるのかしれないけれども、出してくれなかったね。僕の年代表を見ると、2000年に町田市の介護保険認定審査会の委員になった。それからずっとここに来るまで、審査員だった。だからあちらもやり、こちらもやりで。私自身がその年齢に達している。しかも福祉事務所に長い間いたから、審査員に使える人が市民ではいなかったので、適役だからとこの制度が始まると同時に私に下ろしてきた。「近藤さんなってくれるよね」と、役所からなるのが当たり前だと言わんばかりに。「ああ、あれね、じゃあやるよ」とやったわけ。ところがやってみたら、私を入れたばっかりに矛盾が出て来た。  
障害者でありながら65歳になったら介護保険の法律に移ると。障害者にもヘルパー制度があったじゃない?それが65歳になったからと言って介護保険に移ったら、生活で出来ないことが出てくるわけじゃない? 障害を持ち続けているから一緒なのに、なぜここに切り替えて出来ないことが出来るのだと、これではもう自立はあり得ないじゃないかと、いうようなことが出るわけ。それを僕は立場からうるさく言ったわけよ。
そうしたら近藤さんはうるさいと。でも確かにどの委員もそこでは困っているんだから、この障害を持ち続けて65歳になった人が、介護保険に移ったところの審査するケースは全部、近藤さんのところに送ろうと。そうしたら、自分の体験からきちんと処理してくれるはずだ、ということが町田市に出てきちゃったわけ。で、私は全部65歳になった障害を持った人のケースは処理する立場になっちゃった。私はきちんと切り替える。いわゆる高齢者になったら出来いと言うのでは困ると。高齢者になっても生活を維持できる方法がないといけない、というテーマで、この人は介護保険にやるべきではない、と介護保険では出来ないところがあるんだから。庭のあるところで、一人暮らしで生活していたら、65歳になったら庭の草むしりもしてくれないんでしょう。それじゃあ困る。草がぼうぼう生えてくる。そういうことを言うのなら、介護保険の方がこの人を受け入れるべきでないと。
これは障害者の法律に残すべきだというシステムを自分の中に作って、こうすべきだと言っちゃうわけよ。僕は審査員だから。「ああ、そうか」と皆納得するけど、他の人から何か言われた時には答えられないので、近藤さんに任せようとなり、僕のところに全部くるわけ。そういう時代に、町田市ではそういう役職を持ったのが僕だった。だから、町田市は矛盾がなかったわけ。自分は障害者で、一級の一種で、障害者で一番重い。だから介護保険に入ってももう、一番上になっちゃう。ところが、こちらへ来たら、全然違うわけ。
こちらへ来たら、要支援か要介護かというところをウロウロしちゃうわけ。認定員がここに来て、調査して、あなたは要介護ではなく、要支援ですと出しちゃう。それでは私は生活できなくなるわけよ。だから、その要支援か要介護かというところの判定が、マイナスのところに来たら、決定が降りた日に介護保険に行っちゃうわけ。これでは私は生活できませんと。私自身が変わったんじゃないんだ。私自身の障害がよくなるわけがないんだから。もう何十年も前から、歩けるようにはならない。高齢になったら悪くはなっても、よくなるはずない障害なんだから。
それが、町田市では介護保険も一番上の三だったのが、なんで同じ国の同じ制度を使いながら、ここに来たら支援になるのですかと。しかも支援になったら六カ月で切り替え切り替えをやる。本当にこの市はお金がないところ。今は一万八千人くらいの人口。本当にお金がないと言いながら、その調査にかけるお金は必要じゃない?町田にいるときは、三年だったかな、ここは六か月ずつの切り替え、そんなお金使うからだ。考えてみても分かる、障害者自身が軽くなるわけがないじゃないと。なんで同じ国の同じ制度でそうなったのか。是が言えるのが、そういう役割を町田市で僕が受けていたから。だから僕は今度また要支援を切り離すという考え方があるじゃない?それで、また今度はそれでうるさくなって出来ないからと言って、要介護ににまで上げたわけよ。一だったらウロウロするじゃない、まだ。だから要介護二まで。なんにも変わってないのに、もううるさく言われないために、要介護二に抑えてしまっているね。それが何年もかかってよ。六か月の切り替えがどんどん来て。その度に介護保険の窓口に還すわけ。これでは今までと同じ生活ができない。なんにも変わっていないのに、もう一回考え直してくれと言う。

樋口 私も今年の二月で介護保険の年齢に達しまして、その前に福祉に行って、私は介護保険になったら、きっと何の支援も得られないから、生活が出来なくなるので、介護保険にはなりたくありませんと言いにいった。そうしたら、認定を受けてくださいと、認定を受けた上で、それで今までの生活に支障きたすようなら、障害者支援でカバーしますからと言った。「ハイ、分かりました」と言って、認定を受けたら、非該当と来たので、だから今も自立支援法のままでいっているけど、29年までか、30年までの区分認定があって、障害区分三になっている。それがいつだめになるのかな、と思っているんですけど。

近藤 でも僕たちは自立生活センターでヘルパーステーションを持っていて、ヘルパーを抱えている方じゃない?そうしたら、市民の中には、障害を持ちながら、これから介護保険に切り替えられると、生活が出来ないんじゃないかと不安を持っている人がどんどん出てくるわけ。それに対して積極的に、そうなったら、こうなるんですよと行政はなぜか言わないのね。どう思っているのか分からないけど。なぜはっきり、明確にしないのか。障害者から切り替えられる時に、みんな、不安を持つよ。だからマイナスになった時に、障害者の方に切り替えられるんですよ、ということを、きちんと言語化して伝えたら安心すると思うんだけど。みんな不安を抱えているところを見ると、あまりきちんとした言語化がなされていないみたいね。僕たちは言うんだよ。その時、私たちはこうしているから、これでいいんだよ、と言うんだけど、あなたたちが言ってもこれは行政がやることだからと不安がる。
 
僕は今、81歳だからね。障害者になって65年。炭鉱の事故で。時代の節目節目に生きてきているのね。だから最初、子どもの時に受けた大きな問題というのは、戦後の石炭と石油を切り替える時のチェンジの大きな変動の時に、炭鉱にいたでしょう。だから炭鉱というところで働いていて、事業者が急に石炭に国が切り替えるからと言って、炭鉱を止めてしまう。そういう時にどういうことが起こるか。しかも、三井系の炭鉱だったから大企業。大企業だから国と一緒になって石油に切り替えた。その時、労働者にどういうことが起こるかというようなことを、子どもながらに鮮明に頭の中にあるのね。
それから戦後でしょう。戦後の焼け野原になって、目でぱっと見た時に、ここと、ここに人の死骸を積んで火をつけて、それが燻って変なにおいが町中に漂っているという、そういう所を子どもの時に体験してきている。だから戦争とは何かということに対してまで、教育で、学校で習った。学校の音楽の時間に、耳を養うと言って、ぶーんと飛行機の音が聞こえたら、これは戦闘機か爆撃機か、言うことも音楽の時間に習ったんだよ。まさに音楽の時間。今、私の二階にはある一つのレコードがあって、ドーナツ盤があって、それが入っている。これはカーチス何々の戦闘機である、と見分けるための素材に使われた資料のレコードがある。そういう時代時代に、なぜそうなったのか。
自分が障害者だからというのなら、他の障害者もいっぱいいるけれど、何でか分からないけど、子どもの時からもう意識があったんだね。だから障害者のDPIという組織あるでしょう。あれをまだ作っていない時で、シンガポールで作るという時にあるところから情報が入って、日本からもシンガポール来てくれと言われた。第一回目の一番大きなテーマが「障害とはどうして生まれるか」ということだった。その時に、行こうという声を出したのが僕たちだった。日本で行きたい人を募って行った。障害とはどうして出来るか、どこから生まれるか、というようなテーマに関して、日本から何を資料として出すかというのは、行こう行こうと言うだけで誰も考えていなかった。そういう情報が入った時に、「行こう」と言い出したのが僕だったから、言い出しっぺとして日本の出し物として何を持っていくか、困り果てた。行く一週間前ぐらいにベトナムの枯葉作戦が起こった。ベトナムの枯葉作戦に対して日本のテレビのディレクターがベトナムに入って、それを写して来た。ところがベトナム問題というのは、問題にはなっていたけれども、映像というのはどこの国もまだ流したことがなかった。なぜなら映像はアメリカがすぐ抑えてしまうから。耳から来る情報とか、言葉で新聞に書かれた枯葉作戦があっても、目で見る映像はどこにもなかった。それを日本の朝日放送の轡田さんというディレクターが持って帰ったらすぐ、それを世界でトップにテレビ放映してしまった。そして大きな問題が起こった。ところが僕は何かをしていてそれを見ていなかった。人から聞いたら、「この前すごいの見た?すごかった!」と言うわけ。それを聞いた瞬間にテーマにしよう、これを持って行こうと思った。そんなこと出来るかどうかも僕は知らないけれども、これこそ持って行けるだろうと思って、轡田さんに会いに行った。東京にいたしね、それが会えたのよ。DPIという障害者の国連のようなものをつくる予定があると。「障害がどうして生まれるか」というのが一回目のテーマなので、日本から持って行くのに何もないから、何かと思っていたら、それが夕べ放送されたことを聞いた。私は見ていないけれども、ぜひそれを出したい。それこそ、障害とはどういうことから生まれるかというテーマには一番いいと思うので。放映した資料を貸し出すということは、普通は絶対にあり得ない。でも私は持ち出すことができるし、あなたに是非それを使ってほしい、フィルムを貸すと言われた。すごいことでしょう?こんなに荷物をもっているわけにはいかないし、向こうで映すと言っても何時間も取れないだろうし、資料として持って行くにはどうしたらいいかと、文章はどうかと言っても文章だけでは駄目で、目で見たら大きな感動が僕の友だちから寄せられたから。
これをあなたに貸し出すから、8ミリにしなさいと言われても、まだ8ミリと言うものがどういうものか僕は分からなかった。行くのにいろんなお金を使って、僕の手元には5万円しかなかった。それで、16ミリの大きいテレビに使ったフィルムを8ミリにするにはどうしたらいいのか、全然知らない世界のこと。誰かに言っているうちに、横浜の人でやってもいいという人がいたと。すぐ会ったわけ。一分が一万円だって言うのよ。そしたら5万円持っていても5分ぶんしかない。でもそれしかないよの。それでもやりますと言って、とうとう5分ぶん作ってもらった。5分間といっても前のテーマとかちょっとはあるんだけど。僕は見たことがなかったから、どこをどう5分にするかというのも、私が一々観て言う時間もない、持って行くまで一週間もなかったから。テーマはこういうことだからと、任せて作ってもらったんです。そのフィルムもまだ二階に持っています。
1981年国際障害者年の始まりにシンガポールで開かれた大会。国に入る時に、持ち物検査がある。是は何かと言われたから、実はこの大会のテーマである「障害とはどうして生まれるか」ということに対する日本の資料と答えた。そういう映像は入れる前に検閲を受けなければならない、と検閲を受けた。そうしたら、アメリカを悪く言っている、攻撃するための資料だと、だから持ち込むことはできないと取り上げられてしまった。そんなこと言ったってねぇ。それが目的でも何でもないじゃない?中に入って、シンガポールの障害者にそれを伝えたわけ。そうしたら力のある人がいて、それはおかしいと。私が動いてみますと言って取り返してくれたの。そして、大会開催中に、ある企画をやってその中で映してくれた。その時、初めて僕はそのフィルムを見た。それはもう、ぞっとするような…。家の玄関から障害者が這って出てくる。枯葉剤で歩けなくなった障害者が、みんな道に這って出てくる。ケアするものが何もないから。そのフィルムは強烈なところだった。ところが、その時にまたやっぱりアメリカを攻撃するための材料だと言う声が上がった。でもはっきりこの大会のテーマが「障害がどうして生まれるか」ということで出したものだと言ったら、それが通った。後で分かったことなんだけど、シンガポールという国は労働者が働いて税金を納めてその税金が国の費用になるけれど、国を動かす大本の財源は輸入関税。アメリカあたりが一番大きな輸入元だから、そこを悪く言うフィルムでは駄目、国は受け入れない。その中で引っかかった。こういう国もあるんだと。つまり税金と言うのは国の費用。国の費用をどこから上げているかと言ったら、所得税とか取得税とか色んな税金があるけど、そこは輸入関税が一番多い。70%くらい賄われたの。そういうように、一つの国の中に障害者がいたんでは、そんなことに遭うことは絶対にないじゃん。国ってこういう作られ方しているんだと。だから関税を通らなかっただけで大騒ぎするのではなくてね。
もう一つのシンガポールの括られ方で、すごく頭に残ったのは…。僕は呼びかけ人として言ったから、事務局長のような役割なのね。交流会の時に中華料理が出た。そうしたら、日本から連れて行った女の子の介助者とオーストラリアかな?どこかの女の子の介助者が中華料理を食べている中で、急にぶったおれちゃった。大騒ぎになって医者を呼んだ。その医者はちょっとその女の子たちを診ただけで、これは「味の素病」だと。「味の素」というのは、有名だけど、「味の素病」は日本では聞いたことがない。ホテル付きの専門医ですぐに来てくれた医者は明らかに味の素病と言う。ちょっとしたら女の子たちはすぐに立ち上がってあとは、どうもなかった。ところが、その時に偶然か分からないが二人も出たものだから、食事の会そのものが問題ではないかと、どういう調理室になっているか調べたわけ。味の素病と言われていたから、どんなに使われているのか?ドラム缶を切ったような高さがこのくらいの中に味の素が入っているわけ。大きな鍋の中に、それよりももっと大きい丼のようなもので、がばっと入れる。え?そんなに?と思うほど。無造作にがばっとドラム缶から入れる。大量に使うものだということが分かった。それにしても、味の素病というものがあるとは。実はあちらではある。日本では味の素は病気に効くとか頭にいいとかよく言われた時代。でも皆だんだん使わなくなったと思ったの。そうしたら東南アジアではすごく使われていた。味の素ではなかった、化学調味料。化学調味料の成分を出すとすぐ作るわけよ。どこの国でも薬品会社が味の素をつくる。味の素という名前ではないけれど成分は同じ。それを沢山食べたら毛細血管が麻痺しちゃうんだって。女の子で生理とぶつかった時にそういう現象がたまたまではなく、よくその現場では起る。だから味の素病という名前までついている。それを知って、お医者さんを訪ねた。オーストラリアの事務局長と一緒に行って、会いに行ったが、医者が会ってくれない。どうしてだ、どうしてだと分からなかった。だんだん話を煮詰めて分かってくれたら、医者がこれ以上のこの病気に関与したら、医者の資格すらはく奪される羽目になる可能性があるんだって。なぜといったら、国策で輸入しているものだから。味の素病の味の素とは、作っているのが別でも。ただそれを味の素病と言えない訳よ。私たちは診断書を要求する、味の素病の問題はどんなことがあるのかということを書いてもらくれたら、国に持って帰ってすぐ対処するからと言うために医者に会いに行った。そう言われることが分かっているからもう、会わない。何を言われたかというと「私の医師の資格をはく奪させないでください」という言葉なのよ。ちょっと待って何を言っているの?と僕とかは思う。それも後で分かったが、いわゆる輸入製品にケチをつけることは許されない。そういう国策があってこそ、輸入製品に税金をかけて、その税金が国の費用の70〜80%占めるような位置を保っておくことが必要だった。国が違ったら全然分からない。そういう勉強をする。日本に帰ってきても、その勉強は頭に残っている。味の素というのはそういう成分があったんだな、そういったら味の素の成分を長い間公表しなかった。頭のいい子ができるとか言うような形でしか伝えられていないけども、何かがあるのよ、やっぱり。それが大量に使えるようになった東南アジアでは、現に起こっていた症状なのよ。その名前が味の素病だったのよね。こんなこと日本では考えたことも聞いたこともない話。つまり、障害を持った僕たちが行ってこそそれに触れ合うわけよ。もっと広い立場から物が見えてくるわけ。それが僕は障害者自身が国から離れて外を出て行くようになったメリットだと思った。そういうことは、福祉の専門家は同じような立場で行って起こったとしても、意味をそこに結び付けない。僕たち障害者はやはりそれが障害の元であるのなら、こうして言う。そういう考え方や体験が国際障害者年以降の、私の生きる中心に強くあって、よそで講演するときにはよく使ったね。障害者自身が国際会議に何を出すのと言うけれど、そこには元気な人とは全然違う問題があるのだと。元気な人たちの国際会議と障害者の国際会議はテーマが全然違う。国際会議が開かれる度に感じた。だからこそ、障害者も国際会議を自分で持たなくてはならないと思った。自分たちの問題として問題が見えてくることは、先ほど言った福祉の職員じゃない。福祉に身体を、人生を任せている人間じゃない?立場が違うのよ。だってこんな話を聞いたことがないじゃない?
だからやはり、元気な人がこの支援事業を例えば卒業論文のテーマにするのと、障害を持った当事者が同じ材料を扱って論文にするのとは、意味が違うということが、そこまで行ってほしい。明らかに違う。数字なら、2×2は「ににんがし」、それは障害者がやっても元気な人がやっても一緒。しかし、こういう問題に関しては、元気な人が取り上げた結果と障害者が取り上げた結果と、視点が違う。同じ事業でも。

樋口 なかなか含蓄のあるお言葉を発せられるでしょう。年輪だからね

近藤 シーラカンスと言われる(笑) 。この視点は永橋さんとぴたっと合った視点だった。しかしこれが喧嘩の元でもあった。僕は大喧嘩をした(笑)。僕もしつこいしね。

(取材者の地元に関する話題)

国際障害者年と言うのは、いろんな人にいろんなチャンスを与え、情報を与えて来ただろうけど、その時、動ける障害者の場所にいた私にとってはすごい大きなものだった。国際障害者年がなかったら、知識的にも考え方が伸びなかっただろう。いい体験ができなかったと思う。福祉事務所にいて公務員と言う立場だった。しかも東京の政治のお膝元にいて、労働省から建設省から通産省から全部で、国際障害者年のための特別プロジェクトというのを卒園生?で政府に作らされた。行政に反対する立場の人が障害者だったから、障害を持った当事者は行政が取り上げる中に入れにくい。その点あいつなら市民も納得する障害者公務員だから、あいつを入れたら代表的意見だと皆が納得していると思ったのか、全部のプロジェクトに入れられた。だからすごい体験をした。東京にいて近いし安心して呼べたのだと思う。
どんな体験かと言うと、21世紀の住宅はというテーマがあって、茨城県のつくばの広い土地に21世紀の住宅を建てる。そのプロジェクトに入れられるわけ。それは普通通り傍を通ってみたら、普通の一階建て。ところが地下が二階ある。事務所とか社会的なものは上に伸ばして使われ、住居は地下にもぐる。どうしたら太陽光を地下の家に送れるかなど。そうなると、国際障害者年の中の実験だから本物を造って、エレベーターを造る。住宅用の一般のエレベーターが必要。通産省が持っているプロジェクトだが、工業用しかなかったところに、ホームエレベーターを今から認可するの?と言ったら、それを認可するかどうかというのは、別のセクションだと言う。ただ地下で生活すると言ったら、絶対これが必要なんだと。国際障害者年だから、障害者も共に生活できるということが頭につく。それにはエレベーターをつけないといけない。今、一般的に言われるホームエレベーターをポンと造っちゃう。認可するのは通産省ではない、同じ建物の中の違うところで、完全に認めてしまう。そういう感じのプロジェクトに入ってみると、面白い体験がある。空気をどうして地下に送り込むか、とか、太陽の光を明かりでななくどうして地下に取り込むのかとか。エレベーターも日本ではまだない認可の問題だった。
僕は当時、エスカレーターにポンポン簡単に乗っていた。むしろ、エレベーターで前に人垣ができるくらい待って乗るよりも、常に流れているエスカレーターにポンと飛び乗れて一番、楽だった。ところがそういうプロジェクトの中にはエレベーター業者もエスカレーター業者もいる。「近藤さんはどうしてる?」と皆がすぐ言う。障害者年のためのプロジェクトだから。僕は、エスカレーターに乗ってるよと言ったら、エレベーター業界が怒ってね。これは国を代表する通産省の国際障害者年のためのプロジェクトなのだと、あなたはその障害者の代表としてこのプロジェクトに入っているんだから、迂闊に言わないでくれ、というわけ。軽々しく言われるのは困る、と。障害者でもエスカレーターでいいんだということを意味する。どこの国にエスカレーターに障害者を載せている国がありますか?と言うわけ。そんなこと私は知らない。自分のことを言っただけなのに、エレベーター業界の代表者が剥きになって怒るんだ、これが。つまり、言ってることそのものが議事録に残って、国の障害者の代表者として言葉が残る。それはカットしてくださいと言う。何を言っているんだ、僕は自分のことを聞かれたから言っただけじゃないかと思うんだけど、迂闊に言ってはいけなかった。後で訂正されるのなら、そんな訂正はない、聞き方が悪いんじゃないかと僕は思う。そんなことがどんどん出てくる。

ピアカンの養成講座が今はなくなっているのは、このサービスの事業をやった方向性と関係があるのか。

樋口 認定制度を作らなくてはと思った要件自身がなくなったというか。障害者自身がピアカウンセラーとして雇われるというよりは、やはり健常者中心の仕事場の中に、週に一回ボランティア的に半日だけここで座って、ピアカウンセラーとして来てくれる人を受け入れてくださいという形に、自立生活センター以外は、大枠が市町村生活支援事業自体終えんをしていったというか、収まってしまった。そんなんだったらしんどい思いをしなくてもいいんじゃないか、ということでなくしたんじゃないか。私がなくすまではいたと思うんだけど。2001年でジル(JIL)の代表は引いて、選挙に出て、委員会では残っていた思うけど、文京の人になっていた。2005年で養成講座がまだあった?

近藤 自立支援法が成立した年だね。

樋口 ピアカンそのものは変わっていないけど、認定と言うのは市町村生活支援事業のピアカウンセリングという項目の助成金を受けるための必須のものだった。そこが揺らいだからでは。私はピアカン委員会ではなくて、人権委員会に関わって虐待防止ワークショップとかをやっていた。2001年あたりから。人権委員会はジルの委員会の一。東さんが委員長だったけど鳴かず飛ばずで、散会しますということをずっと続けてきて、2002年あたりにアメリカで虐待防止ワークショップを受けに、東さんとピアカン委員会から村山みやさんを出して何人かでいった。その中に佐野さんもいた。帰ってきて人権委員会で虐待防止ワークショップの一連の流れを作って、マニュアル化して、それを何回か試行して全国展開、世界展開をしていくときに、私も人権委員会に加わっていた。韓国にも台湾にも行った。人権委員会ではなく、韓国とか台湾の自立生活センターを作っている人たちから呼ばれて行った。虐待防止ワークショップをしに行った。海外では私は、台湾とソウルだったと思う。
虐待防止ワークショップをしに行った。ピアカンの講座に台湾へ行った。

近藤 虐待防止はDPIのひとつの委員会だったの?

樋口 虐待防止はJILの人権委員会の仲間。そこで人権委員会が活動して、権利条約の総合委員会とかがスタートして東さんが参加した。

近藤 人権問題とピアカン委員会は重なってない。切れてる。ピアカン委員会がある種終えんを迎えて…

樋口 いや、終えんを迎えたのはピアカン委員会ではなく、認定委員会。

近藤 事業そのものが性質、変わっていったからね。そのためにつくった委員会だったから。

樋口 ピアカン委員会の中で議論したのは、ピアカウンセリング協会を作って委員会の一つではなく、独立した形でやった方がいいんじゃないかという意見が出た。でも常任委員会では認められず、ピアカン委員会の中に認定委員会を作った。ピアカン委員全員が加わるんじゃなくて、ピアカン委員会の内の何人かが認定員として、どういう質問をするとを検討する。

近藤 認定委員会そのものが、この事業のために作らざるを得なかったから、作られた委員会だった。対応するために。

樋口 ピアカンを認定する審査項目の中で、自立した暮らしではなく親元にいても私は自立していますと言う人もいたが、認定委員としては、「お気持ちは分かりますが」云々という感じで(笑)。認定委員と親しい人は可哀そうだったということもある。知られずに取っていた人もいるから。近しい関係じゃない人なんかは。ピアカン委員会は、まずは市町村が持っている障害者の日身連とかがやってきた身体障害者相談委員との境目をつけるのに、相談員とピアカウンセラーという区切りで分けてやってきたけど、その人たちがどっと支援事業や、市町村障害者生活支援事業へ組み込まれようとしたので、そこで認定委員会を作った。
だから言語障害のあるピアカウンセラーのリーダーとかいたら、全然聞き取れないおじいさんたちもいるわけよ。ピアカン受けに来た人の中に。本当に口をあんぐりと開けて「この人は一体何を言っておるのだ?」みたいな感じで、感心しながら眺めている人もいた。だから重度障害者がピアカウンセラーとして人に力を与えられるということ自身が、彼らにとっては学ぶ機会にはなったとは思うんだけど。

 認定委員会は2005年にやったっていうのが、そんなにまでやってたかと思って。私は2007年にこっちに来たけど、JILの委員会からは抜けてたよね。人権委員会のメンバーではあったけど、人権委員会のメンバーとしてJILの常任委員会に出るということはなく、それまではピアカン代表としてやって、ピアカン委員会の委員長としてやって、認定委員会の委員長としてやってという時期があった。

(養成講座がなくなるちょっと前に、認定委員会はなくなった)

近藤 ピアカン養成講座は今でもあるんじゃない?

樋口 ピアカンは集中講座と長期講座で、養成講座はここ数年はやっていない。

近藤 ありそうでないんだ(笑)。

樋口 ピアカンの理想は、フリーダムというか自由な。障害者のエンパワメントが一番のポイントだろうけど、自由に生きるというか、その縛りをなくしていくことが、ピアカンがやってきたことじゃないかな。なかなか、でも人は弱音を吐いたりできないものだね。吐いてもいいよと言ってもなかなか吐いたりできないというのは感じる。

(最近JCI京都の日本自立生活センターの矢吹さんとは別の昔からやっている人たちと喋って、ピアカンというのは支援事業に巻き込まれる形になって、ピアカン講座を受けたらそれで終わりと言う人が一杯でてきて、結局、国の政策に巻き込まれて行って一番失敗していると言っていた。)

近藤 そうか、そういう考え方もあるのか。僕は逆に、障害というものがマイナスではなくプラス要素を国が認めたからこそ支援事業が成り立ったと思う。それが普及するなかで、一つは政策的にというよりも、国と言うのは政策を退化させていく部分と、進化させていく部分とがある。新しい事業が持っている、今までの事業を伸ばす部分となくなる部分と。事業のつくりかたは、こうなって、こうなって、つくられていくのね。予算でも景気のいい時はパッと広げ、よくなくなったら、こうなる。それに振り回された感じはすると思う。しかし、逆にあの時期に、僕から言うと改めて障害というものが社会的に見直された、そして認知されて見直された時代だったというものを得た時期。失ったものではなく。認知されたものは尾を引く。それが今の障害者の自立生活運動の経済的な部分をNPOとして大きく支えている。だって最初事業が認められた時にはNPOはなかったからね。NPOは違う意味でできたにしろ、障害者がNPOをうまく使えた時期だと思う。そういう形は違っても乗り換えられる時代に入ったということが言えるんじゃないかと。

樋口 選択肢が広がった。それこそNPOはおぼつかないからと言って、小規模社会福祉法人を1000万円投じて作った障害者たちもいた。でも全然、NPOでいいんじゃないかと、今や思える。

近藤 確かに一つの運動体だったから、国が制度として取り上げたことによって振り回されたことはものすごくある。しかし振り回されることによって、社会が見えてきた。運動とは何かということが見えてきたし、私としては障害の本当のエネルギーとか障害とは何かとうものが見えてきた。それはマイナスではなくて、むしろこの事業を通して障害者が得た体験というのは、国際障害者年と相まってすごく大きなものがあったんだろうなと。時代的にね。その時代の中で、成長した。しぼんだのではなく、すごく大きなものを得たと思う。それは、例えば高橋(永橋?)さんと僕たちがつくった車いす市民集会も、おしまいには消滅したのか何になったのかを論議する人がいるかもしれない。しかしあれを作った張本人の僕たちは、僕は、あれはすごく大きな足跡を時代に残したと思う。障害者が社会に出て行くための足跡を残したと思う。そういうような評価がないと、障害者の障害というのは元の古い、「だから駄目だ」に帰っていくんじゃないかと。何を残したか、何を得たか。何が無くなったかではなく。体験はプラス思考でないと。だから、体験が人間に与える評価というものは、時代によってマイナスがあるとよく言う言葉を聞くけれど、新しい体験というのは何らかのプラス面を残してきている。作った人間はそれを一つの足掛かりとして次の時代を生きるから生きられるのであって、マイナス評価が残るのなら、福祉の社会がしぼんでいく。
 福祉というものが、これだけ障害者自身が社会で生活する基盤を得た中には、障害者の一つひとつの体験の積み重ねがあるという上に成り立つんだと思う。積み重ねの体験だよ。積み重ねはプラス。それはなぜ無くなったかという評価は必要だけども、痕跡と言うのはプラス評価を、生きている人間はすべきだと思う。

樋口 それこそ矢吹さん集団というのは、論理的に批判的に物事を見ると言う立場を常に取っているから、そういう方向の結果が出たのでは? むつ何とかさんとか、いろんなピアカンとかの人たち。明らかに自分たちがその中でエンパワメントしてきたけれど、自分自身はその中で得て来たものだっていっぱいあるということは分かっているだろうけど、社会に対してとか、他の障害者に対してどうだったのかというあたりでちょっと…

近藤 僕はね、人から教えられたというよりも、私が意志をかけて作り上げる大きなテーマの中に、「歴史の中の障害者たち」というものがある。すごい大きなテーマね。そういうものは、その時にマイナスのような形であっても、時代から見ると残した痕跡は大きいものがある、という見方を常にするから歴史は成り立つ。障害者の歴史を積み上げて行かないと、マイナス思考で焼却してしまったんでは歴史は残らない。
僕のなかにもあるの。1988年の世界リハビリテーション会議が日本の新宿であった時、僕は英語も何も分からないからそこへ行く気はなかったんだけど、その中で自分が出来る面白いことはないかと思った。世界リハビリテーション会議が開かれるホテルの一番上のスイートルームを、その期間全部借りたの。何かをしようとしたわけ。スイートルームだから高いよ、でも会の人に言ったら「いいよ」、と言うものだから。何をするの?と聞かれたから、こういうことをしたいとは答えて、「いい?」と聞いたら「いいよ」と言われた。ところが英語の一つもできない私が、英語が主に話される世界会議で何をするのというのがあっただろうけど。結局、なんであんな企画が当時そこでなされたのかを後で考えてみたら、その前にもあれがあり、後にもあれがあったというように、自分の中の足跡の一つになる。
新聞も出そうとした。障害者自身の英語の出来る人を集めて、参加費は僕たちがもつから、全部の分科会の中に入れるように、そこに入っていって何がなされたかを自分で取材せえと、日本語にして教えてくれと。僕の方で今度はそれを英語に変える障害者を置いておいて、英語に変えて、日本語と英語の分科会の報告を新聞にして出すと。それは全分科会。それを会議がある期間中、自分で全部にやりたいという企画を持った。やったのよ、それを。
新聞を出すとなると、前の国際障害者年の国民会議もやったんだけど、その時にはガリ版でみんなに書いてもらったの。そしたら手首を痛めてしまった。今度は輪転機を回そうという形になった。輪転機と言う印刷機をどこから持ってくるのかというのもあったけど、そういうことならと、ある人が、大手の会社が都合つけてくれるかもしれないよと言って、一番新しい輪転機を会社が「そういうことに使うんなら」といって持ってきてくれた。紙も持ってきてくれた。一遍動き出した新聞は止めるわけにはいかないから、普通使いなれない人たちが使うから、故障したら止めなきゃいけないじゃない。故障が起きた時のために、すぐ直せるように技術者までつけてくれた。ある会社がね。その輪転機を屋上のスイートルームに置いた。
コミュニケーションアドバイザーと書いた腕章をつけた人に会ったら、いつでもその人を通して英語で通訳してくれるから、その人を通訳で使ってもいいよと。障害者の英語の出来る人にそれを、つけさしたらいいと。すべての分科会に一人ずつ英語が分かる人を派遣して、それを聞いたら自分で解釈した言葉でいいから日本語に訳して出してくれと。英語と日本版と両方を輪転機にかけるからといって、やったのよ。三日か四日ぐらい、それを続けたの。
スイートルームはベッドも一つの部屋だけじゃないのね。浴槽も、トイレも何か所かある。そうしたら、瞬く間に外国の障害者が来て、ごろ寝するようになった。あそこに行くとお金がいらないで寝られるという情報がなぜか流れちゃったのよ。そのうちに日本人まで来て「ここは泊めてくれるんだって?」と言ってくるようになった。その代わり、輪転機の側だけは朝の五時以降寝ている奴は追い出すよというのが、僕の仕事だったわけ。だって僕が出資者で、僕が企画しているから。そのうちに食べるものも、どこかのおばさんたちが、持ち込んできてくれて、おにぎりは出てくるわ、果物は出てくるわ、お菓子は出てくるわで、サロンができちゃった。そのうちに関西の方から電話があって、関西のこういう団体だけど、そちらに行っていいかと言うから、いいよと言ったら、来たんだけど、それたちがある一角を占領してしまったわけ。ノートパソコンを持ち込んでバシバシ打ち出したわけ。僕はパソコンだなんて、知らないから、「ああやってるわ」って。

樋口 (88年だからワープロかもしれない。…尾上さんとかが…)

近藤 そんなのを持ち込むかと思っていたら、どんどん障害者が集まって、それたちが交通機関をチェックするバリアフリーをやり出したわけ。それとか、どこからどこまでデモをするとかね、というような企画をし出した。そんなのが拠点にしてしまった。

樋口 共通行動の日と言うのが、RI以降の88年以降に出来たわけだから。RIでそういう呼びかけをやって、毎年その時期にやってその一回目だった。

近藤 それがすごい新聞に載ったりしたわけ。ところがRIをやっているところは、そんな新聞どこから出ているのか知らないわけよ。参加者はこの新聞がどこから出ているかよりも、今度はいつ出るんだ、と楽しみに待っているわけ。だって新聞はそれしかなかったから。
そういうことを企画して実行するのが、僕は大好きだったのね。ところが、それが終わってしまったら、関西の障害団体から電話がかかってきて、「あれ、場所代にお金がかかっただろう?」と言うから、「お金これくらいかかったよ」と言ったら、それを全額うちで出していいよ、と言うのよ。「え?ほんと?」と返したが、結局出してくれたの。ところがその会は自分たちで、作ったようにしてしまった。ところが、その会を僕がやったんだという気持ちはないわけ。ということが目的でやったんじゃないから。ところが、残っている資料では、全部その会がやったという記録で残ってしまったね。なるほど、こういう形で歴史も作られることもあるだろうな、という勉強をさせられました。
だからそれは、今いう、リハビリテーション世界会議の日本版の中でやったの。国際障害者年の時の国民会議の時にも情報を出したいと思ってやって、それが一回目だったんだけど。その時にも同じことをやった。僕も国民会議の運営員だった。それが国民会議の中でやるとは言わず、裏でやってしまったわけよ。後になって国民会議が終わってから、「そういやあの時に出た新聞を、俺は全部持ってるんだけど、あれはどこでやったんだ?」ということになったわけ。皆知らない。ただみんなが必要だから、期待して「次はいつか?」と読んでそれを持っていた。結局、あまり言わなかったけれど、私がやったということを言ったら、「そういえば、あの時、何の役も持たなかったな。そんなことをやってたのか」と言われて、ひんしゅくを買ったことがある。
でも、僕は好きでやるんであってね、他の運営委員会の中で任された仕事というよりも、はるかにそれの方が面白いものだから。そういう中から自分のやるべきことをやり、そしてその中からテーマを見つけるというのが僕は好きなんだよ。後になって自分にとってあれは何だったのかという、社会に対してのアピールではなく、自分の中の位置付け、自分の人生の位置づけには、すごく大きな役割をするの。だから面白い体験があるんだけどね。それは外から見たら社会的なものであっても、僕は社会に対してどうのではなく、仲間に対してというのはあっても、自分が好きでやったことなのね。そんな記憶があるよ。

(残り時間について確認)

だからそういうことを作ったりするのが、自分の中で好きなことはあったんだろうね。そんなことを何回かやったから。言われてやるんじゃなくて、自分が何かをやってみたくて。その時までその時まで、だれが障害者で英語が話せるか考えたこともなかったの。ところがこの指止まれで行ってみたら、いるんだよね、障害者で英語がペラペラなのが。え?こんなにいるのか、というくらい。芋づる式に、それをやるなら、あの人も話せるよ、この人も話せるよとポンポン出て来たね。残念ながらそんなやり方だから、後にまでは残ってないのね。

(インタビュアーの交通手段などについて雑談)

樋口 パラリンピックがらみで、ちょくちょく人が来ます。50何年前のパラリンピックで、日本人って、その当時ほとんどメダル取れてない。障害者といったら家にいるか、病院か施設でしょう。訓練とかもなかった時代だから、スポーツという文化がないわけで。でもやるからと集められて、並んでるだけの人で、スポーツなんかやったことない人ばっかりでやるから。メダルとかもらっている人は、誇りに思っているから人前で喋りたいだろうけど、そういう人がいないから、結局口の上手さで「近ちゃんに回すよ」と回されてきて。東京オリンピック、パラリンピックが決まって以来、15回以上は行ってるね。新聞社もいっぱい来たし。テレビも来た。NHKで『50 ボイス』(フィフティーボイス)という夜の11時からやる30分番組で、50人の声を集めた番組をやるらしく、一人一分もないのに、二時間以上もかけて延々と暑い中でカメラを写し、ライトをてかてかとやり大変でした。こないだ来たのが東京新聞。

近藤 今度、テレビ大阪が来るとか言っていたね。

樋口 センター関係の人は、福島から原発の後しばらくいたりとか、ちょくちょくお友達とか来ます。福島の原発の30キロ圏内にいた田村市の人が京都市左京区に住んでいるよ。鈴木絹江さんと言う。京都の暑さは東北の人には厳しいんじゃないかと思う。帰れないというのは可哀そうだよね。帰りたくても帰れないし。彼女は体が小さいから、それだけ敏感だから、帰っただけで体調が悪くなる。京都も福井とか日本海側に一杯あるから危ないよね。どこも危ないけどね。それなのに、なかなか減らさないから、滅亡への道を歩んでいるかもしれない。この辺も津波とか来たら相当ダメージがあるからね。皆すごく意識して、防災は頑張ってるけど。
まだ役員とかいくつか残しているので、五月の総会とかの時期には東京に行きます。ダスキンの研修はもう体力的にしんどくなったんで辞めた。アドバイザーでついていくのが大変だったし。その時はサクラメントとサンフランシスコでしたね。みんなは、オークラ&何とかへ観に行ったけど、私たちは行かなった。

近藤 何もするつもりがなかった。そのままここで、運動的なことはしないで、楽しくと思って区切りをつけてここに来たつもりだった。二年ぐらいはよそに呼ばれて、高知はどうですかと聞かれるのよ。いい所で生活はしやすいけど、障害者にとって住みにくいですね、とかね、福祉にとっては何もない、東京とくらべてこれが同じ国かなと思うぐらい感じることがありますね、と話していたら、そればっかり話していても仕方がないじゃん。何かやろうということになって。
自分たちも介護保険の中に適用されていながらも、やはり障害者だからという気があるけれど、障害者だというところが全然ないところになっちゃうから、自分たちでやれるところはやろうかと、こうなった。とうとう自分たちの生活は自分たちで何とかと思って作り出した。全国のヘルパー組織で無くなったところ、なんだったっけ?

樋口 コムスン。

近藤 コムスンという組織がヘルパー介助事業をやっていた。さすが夜中にも介護保険でも障害者でも来てくれていた。ところが不正があって、その不正の方を止めるのかと思っていたら、コムスン自身が介護事業から引くと言って撤退してしまった。だからそれで助かっていた人は、本当にどうしたらいいか分からなくなっちゃうわけ。とうとう、夜の介助があるからと、コムスンに頼んでいた人は、夜の介助が無くなって、一般事業所の中で夜はやってくれないからと施設に入った人がいるの。それは障害者が大変だったね。自立して一人で生活したいけれど、夜はなくなったからと施設に入っているというから。彼女にとってここは、生まれて育ったところ。僕にとっては知らないじゃない? 人間関係も何もないし。風土的にもどういう所だろうと、分からない。僕は僕なりに、役所にいた経験があるから、市議会の二年間の報告書を借りてきて読んだ。そうしたら、市議会が取り上げた障害者問題は二回。年に何回も市議会を開きながら二年でたった二回しか障害者問題が出ていない。それを見てびっくりした。東京の町田にいる時は、議会一回でも福祉の問題が出てこないことないからね。常に大きな問題が定義されていたのに、ここはそんなところかよとびっくりして、これはいかんと思った。これは何とか自分たちで考えざるを得ないなと言うことから、その施設に入っている女の人に会いに行ったの。もし昔のように夜の時間にヘルパーが来てくれるのなら、秋に帰って元の生活をしたいという希望があるかないかを聞きに行った。僕たちそんな風に聞きに行っても全然向こうは知らない人じゃない? 最初は、ほんとうにうさん臭くて、何を知らない障害者二人で言ってるのと言わんばかりの扱いだったけど、何回か行くうちに、四回目ごろかな、信用されるようになって。できたら施設もそんなに長くいるところではないと。自分が住んでいた家はそのまま残しているから、介助があるのなら帰りたいと言われた。
「じゃあ、夜もいけるヘルパー事業所をつくりましょう」と、あなたに提供しますよ、と言った。疑心暗鬼だったけど、おしまいにはその気になっちゃって、その人がうちのヘルパーのお客さんの第一号なの。
その代わり事業所を立ち上げて、僕は車を持っているじゃない? 家族ではなく僕たちが迎えに行って、車いすに乗せたまま車に積んで帰って来た。その日からヘルパーが入って、第一号。まだ今でも生活してますけどね、わがままなお客さんで、うちの一号ですけど。そうやって作り上げてきたのよ。
だから、普通のヘルバーステーションでは夕方で終わっちゃうのね。朝早くても8時くらいからかね。夜遅くても9時までか。9時までいるところがあるのかな。それじゃあ重度障害者は生活できないじゃん。だからうちで派遣して、そして、重度訪問介護というのがあるじゃない? 僕たちは二人とも重度訪問介護の講師をしていたから、僕たちの町田の自立生活センターで訪問介護の講習会を開いていて。こちらであれをやって、ヘルパーを育成しようと、県庁へ行って、そんなの知らないと言うの。どこもやってないんだもの。実はあの重度訪問介護の制度は長崎の佐世保でも知らなくて、県庁に行ってくれと言うわけ。でも県庁に行っても知らなくて。ILセンターの立川から、あれの官報はあるかと言ってあるというから、何年何月の官報かと聞いて、県庁の職員に教えて、そうしたら調べてみるから一週間の余裕をくれと言われた。五日目くらいに電話がかかって、「ありました、この県でやったことがないから知らないんですよ」と言った。それで、「やりたい」と言ったら、講師資格がどうしたらいいか分からないと言われて、私たちは東京でやってきたからと言ったら、講師資格があるかを審査するから書いてくれと言われて、もうやってきているから通用するわけよ。
高知県では、うちの事業所だけで重度訪問介護の研修はできる。うちだけが。その代わり県が今度はいつしますか言うて、いついつですと言ったら、それを県の方に問い合わせて来た人に、障害者団体がこういうプログラムをやると言っていいですかと。県内のどこかで参加したいと来た人を受けてくれますかと言うわけ。だから、やらざるを得ないじゃない。その代わりそう言う人は有料にするけどね。有料にしたらと言ったら、もちろんそれでいいですよと言うから。何回かやった。それは長崎もそうだったけど、県すら知らないね。だから言わないといけない。そういう役割が僕たちにはあるんだな、と思いながらやって来ましたけどね。




UP:20171221 REV:
樋口 恵子  ◇町田ヒューマンネットワーク  ◇病者障害者運動史研究 
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