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病院からの発信

古込 和宏 2016年9月

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 夏の8月に入る直前、地域移行の準備を進めるために協力頂いているCIL富山より、「第22回東海北陸車いす市民集会」で、地域移行する身として話さないかと提案があった。一方では少し前に地域移行の準備を支援してくれるナースが(支援団体である「全国介護保障協会」より派遣) が退職され欠員となったことから、支援スタッフを急募する必要性があったので並行して出来るか不安はあったものの、支援に手を上げてくれる人へと繋がるのではとの期待と、当日、東海北陸地区のCIL関係者も集会に参加するとの事で、地域移行後にCIL立ち上げを希望する私としては良い機会と思い話しをさせていただくこととした。ただ私は病院で重度患者であるということと、短期間で外出の体制が組めないことから集会の当日はビデオメッセージ参加となった。
 話す内容について考え始めたが、そこには以前のように偏った考えに基づく主張がないようにと書くにあたり心がけはした。急変後の当時の言い分はあったにしろ、過去を引きずったままの表現では当事者目線だけの一方的な言い分になり誰も理解できないと思った。まずは地域移行決断に至るまでの部分は必要かと思った。長い入院生活の経験の中から自分がこの先どのように生きようか考えたうえで出した答えが地域移行で、いちばん言いたいのは入院も在宅医療も、どちらも選択肢のひとつに過ぎず、そのときの状況に応じて自分自身で必要なサービスを選択し利用することで生活の主体者となること。そして地域移行に対する期待ばかりを語れないと思い、自分の中にある地域での暮らしの不安も織り交ぜた。地域だろうが病院だろうが、どこで暮らすにも不安はつきまとうもの。どこで暮らしても不安を解消したり、自立への挑戦の手助けとなるための役割として、または自分が生きていくためにも必要な活動の場としてCIL立ち上げについても触れることにした。本当はいつも自信を持てない自分が、心の片隅のどこかにいるのを知っている。この何でもないことを書いたものについても受け止め方は人それぞれであり、それを聞いた人がどう受け止められるかが分からない怖さに私は怯える。それは常に正解が用意された世界で長年生きたためか、それとも自分の中にある苦手意識を持つ存在が、自分を怯えさせるのかどうかは分からない。あった事実に対して、更に向こうにあるものについて考え、向き合い、主張できなければならない。それができたか、そのように書けたか自信がない。
 9月に入りビデオ撮りの場所に悩んだのは、その自信のなさから生じた怯えなのか。病室のベッド以外の病棟のどこかで撮るとなると、業務の邪魔にならない場所で、個人上保護の観点から他の患者が映り込まない場所を考え病棟側に提示し交渉しなければならないのが骨の折れる作業であり気が重かった。何よりも憂鬱にさせるのは、病棟しては管理責任上として職員の誰かを立ち合わさなければいけない。立ち会った人間が私の主張をどう受け取るのか分からない怖さ。正直、田舎での噂の広がる速度は光回線よりも速い… とか思っていたら更に憂鬱になった。それを知った、長年「青い芝の会」の活動の支援に関わり、現在、私の地域移行後支援に入ってくれている方が「自立した先輩は、みんなそれと戦い乗り越えてきた」と。「今、私は試されている時」だと言われれば、確かに娑婆に出てからも、そんな感じでは先が思いやられ、私としては退くに退けなくなる。思い直らせてくれた言葉に本当に感謝している。
 その後、病棟との調整では病棟側は最大限の配慮を見せてくれ、必要な人員と場所を提供してくれ、ビデオ撮りのときは何かあった時のためと撮影場所となった会議室の外で職員を待機させてくれた。その会議室は間仕切りで仕切られ、そのとき、間仕切りの向こう側では会議がされていたため、撮影の途中で会議していた側から撮影を中断し撮ったものについては個人情報を含んだ音声が紛れ込んでいてはマズイとの事で使用しないでほしいと申し入れがあった。会議が終わるのを待ち、再度、撮り直しとなったが予定の時間を大幅に超えることになり病棟側に申し訳なく思った。撮り直しの直前で病棟側から、やはり会議室の外での待機は目が行き届かず安全管理上マズイとのことで、時間も超過させてもらっている事もあり間仕切りの向こう側で待機してもらうことで落としどころとした。撮影する人が私を気遣ってくれたのか気になる部分は省くなりしてくれてもいいからと言ってくれた。私としては、もはや内容を省いたり、主張も変える必要もなかったので、そのまま読み終わらせた。今になり振り返れば、そもそも私は得体のないものに怯え自分を鎖に縛り付けていただけかもしれない。こんな話も、10年後の石川では忘れ去られ話題にも出ないか、もしくは昔話か笑い話程度になっていると思いたい。

第22回東海北陸車いす市民集会 原稿
 皆さん、こんにちは。
 私は、金沢市の国立病院機構医王病院に入院している、古込和宏です。
 現在、長らく入院していた病院を退院して地域で暮らすことを目指すため、地域移行の準備を進めています。
 私は5歳のときに、デュシェンヌ型の筋ジストロフィーであると診断を受け、小学校の1年生の時だけ故郷の輪島の小学校に通いました。私が子供のころの当時は、社会の中にバリアフリーやインクルーシブといった考えもなく、学校側の受け入れが困難になると障害児は養護学校に通うのが普通の時代でした。私も、8歳のときに学校教育を受け続けるために故郷を離れて、現在、入院している病院にお世話になることになりました。気が付けば44歳になっており、36年の入院生活となります。デュシェンヌ型の患者としては長く生きたほうだと思います。
 長い入院生活を振り返ると楽しいこともありました。学生生活のときは養護学校の囲碁の好きな熱心な先生に出会えたこともあり、囲碁を教えてもらい、一生続けられる趣味となりました。学生時代は囲碁に打ち込み、学生の大会で幸運にも何度か県代表となることができましたが、全国の壁は私にとって厚く、全国大会では勝てず全国大会で勝つことが目標でした。大会へは先生が他の教諭にも呼び掛け数人の教諭がボランティアの体制を組み、何人もの筋ジス患者の生徒を大会参加のため引率してくれました。私が対局するときは碁石を盤に置けないため指し棒で示したところに、介助者の先生が石を置いてくれました。そのおかげでハンディを感じることなく、障害の有無に関わらず、誰とでも対等に勝負できたことは刺激的な経験でした。囲碁大会という機会を通して、病院の外の空気に触れたことで院外への強い憧れを持ちましたが、そんな私の気持ちに反して容赦なく病気は進行しました。
 高等部を卒業すると毎日を病棟で過ごす生活になり、病気の進行により囲碁も出来ない身体になり、目標も失くし、自分がなぜそこに存在し、なぜ何のために生きているのかも分からず無気力になり、自己否定も強くなるばかりでした。あらゆる規則や制約、職員の個人的価値判断に縛られた生活は、常に息苦しさや、ときには自分が抑うつ感の中にあるという自覚もありました。入院生活である以上、病院には個々の居場所がないことは諦めていましたが、それに対する反発も次第に大きくなり、荒んだ心を覆い隠すことができず表出されることもよくありました。そんな苦しみや悩みを誰にも相談できない生活を長年、ずっと続けました。4年前の誕生日に、私は手術を必要とするほどの急変に遭い、大きな人生の転機を迎え、様々な困難に直面しました。生死の境を彷徨ったところから目が覚めてからQOLが大幅に低下し、気管切開して発声できなくなったことにより意思疎通への職員の対応では、口パクで読めることを理由に文字盤を使う事を省略され、忙しさを理由に後回しにされる事もあり、用件を予めパソコンで文字を打っても過密な業務を理由に拒否されるもありました。また呼吸器の管が緩み呼吸ができなくなる事故が3度あり、病院にいながら命を守れないとの危機感を持ちました。これでは様々な場面で不利益を甘受せねばならず、はたしてこの状況で自分は意思を持って尊厳を持ちながら生きているのかさえ疑問に思いながら不信感だけが募り、両親にも、それを口にすることもできず、諦めを強いられる環境の中で死ぬまで生き続けるのかと思うと絶望的にもなりました。完治しない難病患者は諦めることで前に進めることも確かにありますが、喪失した身体機能については、可能である配慮もなしに「諦め」に追いつめられる事は、これ以上ない理不尽だと思いました。困難な局面に立って、それまで無意識のうちに逃避していた問題が一気に噴出したとき、事の重大さに気付き、もっと言えば、これまで自分の中に押し込め、先送りにしていた問題に対してはじめて目を向けたという言い方が正しいかもしれません。その問題とは両親から自立していないこと。これまでに、すべてにおいてお膳立てされた病院という恵まれた環境で過ごし、育ってきた私は、自己責任を負い自己決定を行使することの意味を知らず、手術後の希望を主張していたこと。何よりも病院では自己責任が許されない環境であることの認識が私には欠落していたこと。それには職員の誰も理解を示しにくかったことと思います。他には「患者」と「職員」という院内の狭く限定された人間関係しかない環境で、患者同士の横の繋がりも希薄なこともあり、手術後の困難に陥った私は他の入院患者や、院外の障害者の知り合いや友人と言える人もいない中で、相談できる人もなく、これまで自分の人生に無関心だったこと、おなじ障害者である当事者に無関心だったことに、ひどく後悔しました。その後悔から私はSNSなどを通じて、おなじ障害者である当事者の生活に目が向くようになりました。その皆さんたちの生活を見て驚いたのは、たとえ重度の障害を抱えていても、地域で暮らしていることでした。でもそれは大都市だから可能なのではないかという疑問もありました。しかし入院生活の中で置かれている個の存在も認められなにくい環境の中で、患者は保護者ありきの存在でしかない自立も許されず、閉塞感しかない状況を考えたとき、地域移行への私が感じるリスクへの大きな不安はあるにしろ、地域で暮らすことに活路を見出すことを決めました。
 地域移行の準備に取り掛かりましたが、当初は地元の相談支援事業所さんと地域移行の準備を進めていましたが、相談支援事業所と病院との連携がうまくいきませんでした。私は両親に地域移行を反対されていたため親子の問題の調整や、院内調整など問題は山積みでした。私は地域移行の準備に、どう臨めば良いか分からず、問題に関しては事業所さんに任せるしかありませんでした。今の段階の時期では詳細を語れませんが、その後、事業所さんとの関係を解消せざるを得ない状況になりました。そんな中で「全国障害者介護保障協議会」と「さくら会」に支援を求め、自薦ヘルパーの助けを借り独居による自立を目指すことにしました。障害を持つ当事者が講師となる、私はILPを受け、自立とは何かという意味を教えていただき、自己責任による自立への意識をより強くしました。そして制度の知識やヘルパーとの関係など自立生活に必要なノウハウも学び、自立生活の姿が少しずつ見え自信になりました。しかし私は地域移行を達成できずに、現在もなお病院にいるので、学んだことの意味が本当に分かるのは移行後になると覚悟しています。覚悟と同時に、自己責任が許されない環境にある病院生活に、長年、浸かりきった私は新しい概念に触れ、移行後にある不安の大きさと同じくらい、病院にはない生活や人生を送り自己回復できるのではと期待も大きいです。
 私は重度障害を持っていても、やりたいことはたくさんあります。病院では重度だからということでできなかった車椅子への移乗や外出や外泊。学生時代に打ち込んだ趣味の囲碁で、人との繋がりを増やし人生の幅が広がるのではとの期待もあり、そして、また大会などにまた参加したい。これまで限られた人間関係しかなかったので、人との繋がり方や関係性の築き方に、自分の中に苦手意識があるのか繋がり方が分からないのか不安があります。障害のない人もそうですが、人との繋がりなしに社会生活を営むのは困難です。私は重度障害を持つからこそ、多くの方の力を借りないと地域で暮らせません。人とどれだけ繋がれるかで自立生活の成否を決めます。これは長い入院生活で、限られた人間関係しか持たず、使うべき社会資源を一極集中させたことで、私は困難な状況に陥りました。裏を返せば私は自ら限定された場所を依りどころとして依存させられていた。この病気は進行により重度になるほど医療依存度が高くなることもあり、そんな患者を支えられる社会資源など地域社会になく病院以外生存は不可能とされた、それまで私の中に他者より植えつけられた常識があったのですが、困難に陥った経験からILPを受け学んだことで、植えつけられた、それまでの常識は破壊され、重度だからこそ家族と医療への全依存と全否定ではない、使うべき医療と福祉の社会資源を必要に応じてバランス良く使える力を身に付け、依存ではなく共に生きている関係を築きたいものです。
 私もそうでしたが、実態が表面に出ることのない、困難に陥っても限られた人間関係しか持てない、孤立した障害者の方はいると思います。もし、私でできることが可能なら手助けの力になれるよう、仲間を集めCILを立ち上げたいです。これは人の手助けをするためだけではなく、結局は最終的に支え合う関係を拡げ、自分のためになるからです。ILPを受け、その重要性が分かりました。まだ地域移行もしてないので、まだCIL立ち上げの話しは先になりますが、今から視野に入れ心の準備や、今できる準備をしておきたいです。最後に、今日この会場にCIL関係者の方がいれば私という存在を知って頂けるということで、病院から外出体制が整ってないということで、外出許可が下りずビデオメッセージとなりました。CIL関係者の皆様には、CIL立ち上げの際、いろいろ教えていただき、ご協力をお願いしたいと思います。今後とも宜しくお願いします。


UP:20160928 REV:
古込 和宏  ◇病者障害者運動史研究  ◇自立生活センター  ◇自立生活/自立生活運動  ◇さくら会  ◇全国障害者介護保障協議会  ◇全文掲載  ◇筋ジストロフィー 
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