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解放と包摂の理論――正常性批判から新たな社会の構想へ

出典:箱田 徹 2016 山田創平・樋口貞幸編『たたかうLGBT&アート――同性パートナーシップからヘイトスピーチまで 人権と表現を考えるために』,URP先端的都市研究シリーズ7,法律文化社,1-8. ISBN-10: 4589037335 ISBN-13: 978-4589037336 800+税 [amazon][kinokuniya]

テキストは著者のPCに保存された最終稿であり、印刷版とは同じでない可能性があります。

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last update:20221007


(要旨)
 性的マイノリティにかんする1960年代後半以降の実践と研究の最大のインパクトは、問いの向きを反転させたところにある。特定の性行為を犯罪とするいわゆるソドミー法が古くから世界各地に存在してきたことはもちろんだが、19世紀後半に同性愛(ホモセクシュアル)という単語が医学的に作り出されて以来、問いを向けられ答えるのはすべてマイノリティの側であった。自分自身についての説明を求められるのも、医学や心理学、精神医学など学術的な権威を自称する介入の対象となるのも、処罰の対象となるのもすべて「異常」とされた側だったのである。
 これに対して20世紀の後半に登場した運動と理論の画期的な特徴は、問われるべきなのは、自らの「正常性」を疑わず、その規範を強制する社会のあり方なのだと主張した点にある。性的志向やセクシュアリティが生来不変のものだという本質主義的な立場を取るにしても、それらは歴史的・社会的に生成されるものであって、年齢や経験、出会いに応じて変化し、自由な選択も可能だという社会構築主義の立場を取るにしても、またそれとかかわるかたちで社会的な権利主張へのスタンスが異なるとしても、まず問われ、変わるべきはノーマルであることを前提とし、それを強制する広い意味での制度やシステムにあるという基本的態度は共有されているだろう。本稿ではセクシュアリティをめぐる社会構築主義と正常性についての考え方をミシェル・フーコーの議論に即して整理したうえで、生の様式の多様なあり方の肯定が新たな社会の構想へと通じることを示す。

1 セクシュアリティにかんする社会構築主義


 フランスの思想家ミシェル・フーコーは『知への意志』(Foucault 1976=1986)で、今日ではセクシュアリティの社会構築主義と呼ばれる立場を提示した。フーコーはキリスト教における告解の歴史と、司法制度における証拠調べの歴史、とくに自白をめぐる歴史を分析し、両者にまたがる主体の「真理」を探る手続きが、人間を対象とする諸科学の成立と深く関わると論じた。認識する行為と認識対象との関係は、純粋な真理の探究などではなく、認識という暴力によって認識対象を発明する営みと捉えるフーコーは、それを〈権力-知〉という独自の表現で提示した。
 西洋近代における人文学の学知は、検査・鑑定という手法を通して国家による住民管理と深く結びついているとフーコーがいうとき、そこで想定されるのは社会学や心理学、精神病理学、犯罪学、精神分析といった学問分野である。人びとは集団としても個人としても、学問的知と一体となった権力技術によって自らの身体や行動に直接的な介入を受け、一定の規範に従った主体となるように馴致される。こうした近代的な〈権力-知〉の規律化作用の主な舞台は工場や学校、刑務所といった収容型の施設だ。人は収容されることによって集団に属し、産業資本主義を担う主体として生産されるのである。他方で家族もまた日常的な介入の場として重視される。核家族化する近代家庭は、労働者の日々の、また世代間の再生産の舞台であり、夫婦や子どもの性的活動、広い意味でのセクシュアリティを管理する時間的・空間的に主要な場だからだ。
 セクシュアリティをめぐって近代都市は両義的な役割を果たす。19世紀の産業資本主義の拡大に伴う都市化は、一方で労働者人口の増大を招き、家族のセクシュアリティを管理する必要性を高めたが、他方では農村では暮らしにくい人々が都市で匿名性を獲得するとともに、見知らぬ者どうしとして出会う場を得るという効果も生んだ。さまざまなセクシュアリティを実践する人が行き交う場としての都市は、医学や司法、警察による観察と管理の対象ともなった。そうしたなかで同性愛の権利を擁護する初期の人権運動が起きたのは19世紀末のことだった。
 ところで同性愛が発明された、あるいは社会的に構築されたというのは、男性どうし、女性どうしの性愛が近代のある時点で突然生じたという意味ではない。古代から世界各地で、現在異性愛とされる以外の性愛も当然さまざまなかたちで存在してきた。しかし西洋近代社会では、セクシュアリティが正常と異常という二分法のなかに配置され、病理学と社会統制の対象となる。このとき同性愛を含むセクシュアリティは一つの「問題」として発明されるのである。
 フーコーが西洋のセクシュアリティを本格的に考察し始めるのは1970年代前半だ。同時期にはオーストラリアのデニス・アルトマンが先駆的な業績(Altman 1971=2010)を発表したほか、セクシュアリティ論の優れた概説書の邦訳(Weeks 1986=1996)もあるイギリスのジェフリー・ウィークスもフーコーと同様に社会構築主義の立場を取っていた。その直接的な背景には60年代の世界的な社会反乱の時代に登場したラディカルな社会運動の高揚があった。現代的なゲイ解放運動 の契機は、一般に69年の米ニューヨークのストーン・ウォール暴動であるとされる。事実その後に運動は急拡大し、新たな運動体も生まれ、「ホモファイル」と呼ばれた同化志向の既存の同性愛者運動との主導権交代も起きている。
 だがそうした急展開が可能だったのは、当時の女性解放運動や新左翼運動、民族運動などから直接間接の影響を受け、あるいはそうした運動で活動していた新世代の活動家や運動体が存在していたからだ。たとえばフランスで1971年に結成されたFHAR(革命的行動のための同性愛者戦線)には、「1968年5月」という大規模な社会運動の一時期を経験し、そこで女性や同性愛者の問題がクローズアップされないことに不満を抱いた活動家が多数参加していた。同性愛にかんする社会構築主義的な見解は、当事者による新たな運動の展開と表裏一体をなしているのである。
 フーコーの議論の独自性は、こうした運動の展開を背景にしながら、セックスとセクシュアリティのみならず、広く権力を語る際に用いられる抑圧と解放の図式に根本的な疑問を投げかけたところにある。西洋近代社会は性について語ることを抑圧しており、私たちの性は資本主義体制のもとで搾取され、その本来的に自由なあり方は奪われている。そうした体制からの解放を運動の目的とする性解放論を、フーコーは当時の議会外左翼の傾向も念頭に置きながら「フロイト=マルクス主義」と呼んで批判する。ここには深刻な思い違いがあるとフーコーはいう。主権的な権力から規律的な権力への移行というプロセスのなかでは、抑圧する権力から生産する権力への転換が起きているのであり、セクシュアリティにかんしても同じことがいえるとフーコーは考えていたからだ。
 まず対抗宗教改革を経て整備されたカトリック教会の告解制度は、性について語ることを禁止するのではなく、逆に告解というかたちで自らの性を語ることを促している。時代を下り、性にかんして慎みを求めたはずの19世紀のヴィクトリア朝もまた性についての言説であふれている。告解など世俗化した20世紀に関係がないというのであれば、同性愛を分析対象として発明した性科学や精神分析を含めた精神医療、それに性犯罪にかんする司法精神医学や裁判制度のことを考えてみればよい。これらはすべて、人は自らの性のあり方について語ることをつうじて、自らの本質に属するなにがしかのことを明るみに出すと考える点では変わらない。近代人は自らの性に自分についての真理があるという考え方に囚われている。言い換えれば近代人の主観性は、性にまつわる言説実践によって生産される。そのように性について語りを促すさまざまな仕掛けこそが、近代的な「生産する」権力装置なのである。
 『知への意志』の結論部は「この装置の皮肉は、そこにわれわれの『解放』がかかっていると信じ込ませていることだ」という一文で締めくくられている[Foucault1976=1986:202]。フーコーにとって性の解放という発想、すなわち「権力の抑圧仮説」とは、本来的に自由な性を想定する点で誤りであり、性についての語りを強いる近代的なセクシュアリティ管理体制の補完物だ。他方でフーコーの議論は社会構築主義に通じる。性についての「真理」というかたちで自分の本質に属するとされるなにものかが、近代医療や司法という〈権力-知〉と密接に結びついた「語ること」の体制、一種の言語ゲームを通じて構築されると論じたうえで、同性愛を初めとするセクシュアリティのさまざまなカテゴリを歴史的・社会的生成物と捉えるからである。
 

2 セクシュアリティをめぐる正常性批判


 フーコーはセクシュアリティの「本質」を問うこと、あるいは性的同一性(アイデンティティ)という問題を立てることを避ける。なぜなら「私は~である」というかたちでの言明が、宗教的な告解と司法的な自白の交点にあり、告白する主体を行為遂行的に作り出すのであり、そのような言明こそが性にかんする権力装置の核心にあると考えるからだ。フーコーの権力論はしばしば「下から来る」と表現されるが、これは権力とは、国家が上から人々を抑圧するのではなく、下にいる人々が自発的に、あるいは結果的に国家の介入を招き入れることによって作動するという図式のことである。これをセクシュアリティにかんする議論に当てはめるならば、ある個人が自らの「秘め事」について自発的に語り、それを近代的な〈権力-知〉による鑑定に差し出すことにより、自らに「正常」や「異常」の判断を与えるプロセスを考えることができる。
 ではこの正常と異常を定める基準とはどのようなものか。フーコーはそれを規範(ノルム)と呼び、自然法則に基づくものではなく、権力行使の土台となる「正常化=規範化」のはたらきをもつ一種の「政治的」概念として捉えている[Foucault 1999=2002:46-55]。この規範化のもたらす権力作用もまた抑圧的ではなく生産的なものだ。性的異常や反自然的とされた人々をただ排除や抹殺するのではなく、司法精神医学などの学問的な分類と介入の対象としたうえで、そこから卑近で日常的な異常性についての説明原理を産み出し、その管理に用いるからだ。こうして異常性にまつわる「科学的」分析から導かれた知見は、セクシュアリティ一般を正常化作用によって管理する役目を果たす。フーコーはこのことを「セクシュアリティは『自然的に』存在するものとして定義された。病理学的プロセスによって読み取ることができ、したがって治療と正常化の介入を要求する領域とされた」[Foucault 1976=1986:89]と記す。このとき病理学と正常化の対象として定義されたセクシュアリティには、「ノーマル」ではないあらゆる性愛や性行動が含まれる。そうした「アブノーマル」なもののなかでさらなる分類が行われ、個々人はそうした細分化されたセクシュアリティをもつ存在としてグループ化され、社会管理と司法的・医学的介入の対象となるのである。
 セクシュアリティの管理はマイノリティに留まるのではなく、マジョリティにも及ぶ。きわめて「周辺的」でマイナーな異常性やセクシュアリティのあり方の管理から始まった、規範化と規制・制御を通して生に行使される権力は、病理学化のプロセスを経由することで、その対象を社会の成員すべてに拡大する。あたかも植民地で実践された統治技法が植民地本国で適用されるようにだ。こうして私たち一人ひとりは自らの性についての真理を問いただされ、どのような欲望を持っているかを告白することが求められるのであり、その実践をとおして私たちは告白する主体、性的なアイデンティティをもつ存在として作り上げられるのである。
 フーコーによる権力の抑圧仮説と正常化作用への批判を引き継ぎ、1990年代のクィア理論の隆盛に先鞭をつけたのはジュディス・バトラーとイヴ・セジウィックだった。バトラーはフェミニズムの成果、精神分析とポスト構造主義などを接続することで、セックスとジェンダーという自明視された区分について、一見科学的とされるセックスそのものも強制異性愛的な規範によってジェンダー化されているとの批判を行う一方で、男らしさと女らしさの区分としてのジェンダー規範の撹乱をもたらす行為遂行的な実践(ドラァグなど)を高く評価した[Butler 1990=1999]。バトラーの自然科学にかんする記述は後年の著作も含めておかしな部分もあるが、アイデンティティ・ポリティクスに潜む本質主義を批判するだけでなく、ポスト構造主義を利用して社会構築主義の立場を鮮明に打ち出したことが大いに注目された。またセジウィックは「ホモソーシャル」という概念を広めることで、男性どうしの性的でない、しかし濃密な関係に生じる欲望のなかに女性嫌悪と同性愛嫌悪が混在する状況を、文学テキストの分析を通じて描き出した[Sedgwick 1990=1996]。この2人が90年代のクィア理論の隆盛に先鞭をつけた功績はきわめて大きかった 。
 正常性と異常性をめぐる一連の議論は今日では、エイドリアン・リッチが1980年代に提唱した強制異性愛社会概念のほか、今では一般に用いられる同性愛嫌悪とトランス嫌悪、そしてクィア理論を通じて90年代に広まった異性愛規範への批判と通じている。異性愛規範とはマイケル・ワーナーによって人口に膾炙したが、異性愛関係を「正常」、同性愛関係を「異常」あるいは「逸脱」とする支配的な仮定を支える構造や社会文化的な枠組みのことである。
 

3 新たな生の様式と社会の構想へ


 セクシュアリティにかんする社会構築主義の擁護と正常化作用への批判は、異性愛・男性中心的な社会文化規範への挑戦であり、それを前提とした政治経済体制の変革を求めることだ。そのイメージはアルトマンの近著の表題でもある「同性愛者の終わり」、つまり同性愛者と異性愛者というカテゴリが無用になるような状況を目指すこと、あるいはフーコーがたびたび述べた表現を使えば「生の様式」を作り出すことである。フーコーにとって同性愛とは友愛的な関係を築くことと同時に、強制異性愛社会のなかで自分なりのライフスタイルを見つけ出し、他者とのあいだで独自の関係性を構築することであった。だからこそフーコーは「ゲイネスをめぐって、ゲイでない人々を最も困惑させるのはゲイのライフスタイルであって、性行為ではない」と考えていた[Foucault 1982=2001:155-156]。
 しかし新たな生の様式に価値を置くこうした議論を、いかにしてLGBTを含めた社会全体の構想に結びつけるべきか。ここで思い出すべきはセクシュアリティをめぐる現在の「真理」のありよう、フーコーふうにいえば真理体制とは、私たちすべてがそこに参加する戦略的なゲームだ。このゲームのルールは不変ではないし、そこでは複数のポジションをいつでも選択することができる。私たちは自らの主体的な選択によって、性をめぐる「真理」に基づかないアイデンティティを集合的に構成することも、それを不用として廃棄することも可能である。
 ただしそれは身体と精神を切り離し、物質的諸条件を初めとするさまざまな社会経済的制約を無視することではない。異性愛規範と正常化のおりなす権力のネットワークのなかにある自分たちのなかに、現在の権力の布置を組み替える可能性を作り出すことにあるからだ。こうした発想に基づく社会の構想は、「~である」ではなく「~になる」を、同一性ではなく生成を重視することを通じて、既存の社会のあり方を変えていくきっかけを主体がもつ力量の側にも探し求める。そうした試みは、法と権利のモデルでマイノリティのあり方を考えがちな社会的包摂の理論にとって、異なる視角からの問題提起を行うことにもなるだろう。

〔参照文献〕

※紙幅の都合で引用箇所の頁は邦訳のみ記したが、訳文は文脈に沿って改めた。
Altman, D. 1971 Homosexual: Oppression and Liberation, Outerbridge & Dienstfrey.(=岡島克樹ほか訳2010『ゲイ・アイデンティティ:抑圧と解放』岩波書店)
Butler, J. 1990 Gender Trouble: Feminism and The Subversion of Identity, Routledge.(=竹村和子訳1999『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社)
Foucault, M. 1976 La Volonté de savoir: Histoire de la sexualité I, Gallimard.(=渡辺守章訳1986『性の歴史Ⅰ:知への意志』新潮社)
--- 1982 "Choix sexuel, acte sexuel." In: Foucault, M. 2001 Dits et écrits, tome 2: 1976-1988, Gallimard, pp. 1139-1154.(=増田一夫訳「性の選択、性の行為」、蓮實重彦・渡辺守章監修2001『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ』筑摩書房136-158頁)
--- 1999 Les Anormaux: cours au Collège de France (1974-1975). Gallimard/Le Seuil.(=慎改康之訳2002『異常者たちコレージュ・ド・フランス講義一九七四─一九七五年度』筑摩書房)
Sedgwick, E. 1990 Epistemology of Closet, University of California Press.(=外岡尚美訳1999『クローゼットの認識論:セクシュアリティの20世紀』青土社)
Weeks, J. 1986 Sexuality, Ellis Horwood and Tavistock.(上野千鶴子監訳1996『セクシュアリティ』河出書房新社)


*作成:箱田 徹
UP: 20221007 REV:
全文掲載  ◇Foucault, Michel
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