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誰にも明かせない胸の内

古込 和宏 2016年3月 記

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 ※この文章は、当初著者匿名で掲載されましたが(→(匿名))、古込さんの退院に伴いその名を記すことになりました(立岩記)。

 いつも親が仕事で忙しいと言っていた気がする。しかし実家も遠いという理由もあり、小学生のとき周りの患者と比較すると面会は少なかった。入院してから3カ月、また2カ月に一度くらいで、30歳頃以降は月1回ペースだった。小学生のとき、面会日といわれる日には病室は保護者の姿と笑い声で包まれ、私は独りで食事をそそくさと済ませ逃げるようにその場から離れて、人のいない場所へ逃げ一人で本を読むどして過ごしていた。寂しさのあまり、それを紛らわすために他の患者に無茶な喧嘩を吹っ掛けることもあった。面会も少なく家族と会わない期間も長くなるため親子の間で何が起きても分からず、私が中学生のとき弟が一人で病院に来たと思ったら、父が吐血して緊急入院していると聞かされ驚いた事があった。私も両親の知らないことが多いが、両親も私の事は全く知らなかったというより知ろうとはしていなかったと思う。帰省は、ずっと年三回で、それ以上、帰省出来る事はなかった。家に帰れば父の機嫌次第で家の中の空気が変わるので、家族は父の顔色を伺っていた。母は特にそうで、私は父に何かしてもらうたび、お礼を言えとよく母に言われた。今から振り返っても母の父に対する気の遣いようは尋常ではなかった。帰省して窮屈な思いをしても子供にとって病院にいるより家に帰りたいのは当然で、我が家にまさる場所、家族の温もりにまさるものなどなかった。それは弟がいたからで、弟の存在は私の支えだった。外泊から病院に戻るのが嫌で、車中では無言で流れる車窓の景色を眺めながら、いつも堪らない気持ちになるしかなかったが、それを言葉にすることも、どうにかすることも出来ず、親にもっと帰らせてほしいと思っても忙しいのを知っていたので子供心に言ってはいけないと思っていた。医療依存度も高くないのに子供のころに親子が引き離されるのは辛く、子供にとっては残酷でしかないと思う。
 成人になると事情は少し変わってしまい、家にいても病院にいても辛くなり自分の居場所はないと感じるようになって生き辛くなり始めた。成人してからの事で、外泊で両親が私を病棟へ送り届け両親が実家へ帰ったタイミングが微妙に食事時間に近いと、職員から「少し前まで親がいたのに、なぜ食べさせてもらわない」と露骨に言われ職員と両親との狭間に立たされることはよくあり、その後、同じ状況になった時は「食事は済ませた」と職員に申告し自分を守った。こんなことで両親にも病院職員にも気を遣い顔色を伺うことに疲れて、家に帰らない方が楽になれるとも考えたりもした。しかし外泊できる患者はいいほうで家庭の事情で外泊できず家に帰られない患者さんで、職員に「なぜ帰らない」と激しく責められているのを目撃することはよくあった。不安定な立場の自分にも、いつかあるかもしれないと思いながら怯えることもあった。面会や外泊の機会の頻度で、職員の患者への態度や扱いは明らかに違うと思っていた。親が頻繁に出入りする患者は理不尽な思いをすることは少ない。しかしよく来る親は病棟や職員に物言う親でもあるので、そのような親は職員の陰口の標的にされる。今でも、その空気は変わらない。
 20代後半の事、食堂の隣の席の子が福山型の子だった。その子は家庭環境に恵まれず、祖母と姉が1年、または2年に一度病院に来て、少しの時間だけ顔を見に来る程度だけだった。私は盆や正月も帰省できないことがあったので、患者が帰省した静まり返った病棟にその子も含めて5人程度が居残り組としていて、その子たちと過ごす時間は他の患者よりは多かったと思う。いつのことだったか、たまにコンビニに散歩に行って買ってきたカップ麺やおにぎりを食べることがあった。食堂で食べはじめようとしたとき、隣の席から視線を感じることがあった。気がついて福山型の子と視線が合い慌てて視線を外したときは手遅れで、「ほしい…」って声が聞こえてきても聞こえないふりをしていると、何度も言い声も大きくなるので隣で泣かれながら食べるのも嫌なので結局二人で分けて食べたりすることがあった。カップ麺のときが面倒で職員に配膳室から器を持ってきてもらうために頼み、器に分けてもらい、その子が食べ始め静かになってから私も食べることが出来た。それはそれで喜んで食べてくれると私は嬉しかったのかもしれない。ただ、どう見ても周りから私がその子に面倒見良くしていると思われても仕方なく、くだらない勘違いをされることが多いのが鬱陶しく思うことが多かった。一度、ある男性ナースが私の行為に対して「同情しているだけ」と何人もの前で言い放った。私は返す言葉もなく本当にそうなのかと、しばらく考えることがあったが、その職員が最低な人間なだけと思い考えるのをやめた。その職員は泣き止まない、その福山型の子の頬を掴むようにして口を塞ぎ「うるさいと喉に穴開けて気切にして声出なくするぞ」と脅していた。そんな事をやっても、その子には理解できないことを知っているはずなのに本当に愚か過ぎる。一方で、よく面会に来る親の前では、いい職員を演じて家族からの信頼を得て好評だった。醜い裏側を見過ぎて、あまりにも人を信じることが難しいときがあった。今でも病院はそんな場所だと感じることがある。それでも私も含めて患者に許される居場所は今でも病院しかない。医療を否定して生きられると思う患者なんていないはず。だから誰も胸の内の苦しみを声に出せないのだと思う。誰も言わないのではない、自分を殺してまで生きるために言わないだけである。


UP: 20160313 REV:
古込 和宏  ◇筋ジストロフィー 
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2019/04/26