HOME > Archives >

小学生の頃の入院生活

古込 和宏 2016年3月 記

Tweet


 ※この文章は、当初著者匿名で掲載されましたが(→(匿名))、古込さんの退院に伴いその名を記すことになりました(立岩記)。

 最初は小児病棟に入院。病院内に設置されていた養護学校に転校。その頃、学校は新校舎を病院に隣接する敷地に建築中のため、病棟を教室として利用していたが、まもなく完成し病院と棟続きで車椅子のまま登校した。翌年、二つあるうちの筋ジス病棟へ転棟(小3)した。
 その頃は歩行困難で車椅子使用者になっていた頃で、病室は高さ30センチ程度の低床の大きな部屋で畳にカーペットか敷いてあり、車椅子からゆっくり滑り降りるように低床に着地していた。大部屋を四つ這いで移動し、食事はその部屋で摂り、夜は10人くらい、いやもう少し多かっただろうか、皆で雑魚寝していた。朝は6時に起こされ朝の支度を済ませ、7時に食事。食事は米飯に味噌汁、おかずは漬物とふりかけや、のり佃煮、たい味噌とセットで、よく付いていた記憶がある。あとセットでない日は単品で納豆や生卵とか。7時半には終わり8時半の登校時間までの約1時間は自由時間で、患者は皆、それぞれ思い思いに過ごした。8時半に登校。病院内の長い廊下を車椅子で自走して登校した。学校の午前の時間割は4時間あり、午前の授業が終われば、一旦、病棟に戻り昼食。午後1時にまた登校し午後2時過ぎには下校していた。学校の雰囲気は自由で明るかった。病院の職員も学校の教職員の先生方も二十歳前後までしか生きられない子供たちを前にして悩みながら必死に接してくれていた。登下校といえば、途中、長い渡り廊下があり傾斜地に立地しているので長い坂になっていた。登校時の時は登りだが下校の時は下りで、どこまでギリギリまでブレーキを掛けず猛スピード駆け下り、そんなことでスリルを求めていた。坂を降りきったところがT字路で曲がれなければ壁に激突する。一度、重心病棟に向かう配膳者の音に気付き、早くブレーキを掛けたものの間に合わず緩く衝突したことがあったが、給食の被害は軽微だったが私の足は痛い思いをした。地元の小学校の下校は家までの寄り道を楽しめたが、もうそれもなく本当に寂しかった。
 下校して病棟に滑り込むやいなや、食堂で小皿に一口程度に入れられたおやつを食べ番茶を流し込み、次の日課であるリハビリに取り組んだ。入院生活で辛い時間の一つがリハビリだった。リハビリの先生は優しくて厳しく、少しでも手を抜けば檄が飛んだ。ちなみに午前の授業の時間割の中に機能訓練という時間があり、学校内の機能訓練室で1時間程度のリハビリを毎日していた。正直、普通の授業の方が楽だった。今から思えば毎日授業を1時間も削って学力を犠牲にして得られた効果はなかったと思うが、当時の常識としてはリハビリをして少しでも機能維持をしようというものだった。リハビリを済ませると午後4時20分までの夕食までの約1時間が午後の自由時間で、夕食が午後5時過ぎに終わってから午後9時までの消灯時間も自由時間だった。病室が大部屋なので野球やゲームなどして楽しんでいた。また当時は患者自治会の活動が活発で先輩方が熱心に取り組まれていた。
 午後9時の消灯時間の電気が消えた後、小学生の頃は寂しくて布団の中でときどき泣くことがあり、地元や同級生の事を思い出すと特に辛くなり家に帰りたいと思った。私は両親に買ってもらった地図を見ながら指でなぞり、ガイドブックを開いて、よく想像で外泊したり旅行をしていた。


UP: 20160312 REV: 2017, 20190427
古込 和宏  ◇筋ジストロフィー 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)