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発病から入院

古込 和宏 2016年3月 記

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 ※この文章は、当初著者匿名で掲載されましたが(→(匿名))、古込さんの退院に伴いその名を記すことになりました(立岩記)。

 5歳の時、父の両親の友人が私の歩き方がおかしい事に気付き、両親が私を市立病院に連れて行き、医師から筋ジストロフィー(以下、筋ジス)かもしれないと告げられ、家へ帰る車の中で両親が泣いていたのは今でも僅かに記憶している。しかし当時の私は歩けて自転車に乗れていたこともあり、私に病気である自覚は薄かったが、近所の子のように走る動作が出来ず自分でも不思議でしかなかった。
 その後、(当時)国立療養所(現 国立病院機構病院)で検査し、その夜(日を改めてか記憶が定かでない)筋ジス病棟で母と宿泊の体験をした。そのとき自宅から病院への移動は国鉄の列車で、人生で最初で最後の列車体験と今のところなっている。
 その後、(当時)国立療養所の職員が自宅に来て私の様子を見に来ていたのは覚えている。当時、筋ジスは患者団体の要望を受け政策医療ということで、国は全国の国立療養所に筋ジス専門病棟を整備し患者を収容し、安定して医療や療育、教育を安定して受けられる場とした。政策医療のことは最近になり知った。
 1979年に地元の小学校に入学。一人で通学していたが、その頃は歩行中の転倒も見られるようになり回数も増えていき1限目の開始に間に合わず、たまに遅刻していた。その頃、父は必死で私のために良さそうなものを試した。鍼灸院に通わせたり、霊験ある霊水を汲みにいき私に飲ませたりした。その頃の父は私や仕事の心労で心身とも衰弱し、私に強く当たる事もあった。
 2年生の初めは登校していたが、ある日、両親から「明日から学校へ行かなくていい」と言われ、その後、入院するまで何カ月か教育を受けられなかった期間が発生。両親は入院させることを迷っていたと思われる。入院しなければならないと
 母から聞かされた時は一緒に大泣きした。あと、その頃の事で憶えていることとして小学校の校長と教頭が家庭訪問で養護学校を勧めていたこと。担任が冷たかったこと。昼間に友達の家に行っても学校でいなく、授業中の誰もいない校庭で少し時間をやり過ごして、諦めて帰ったこと。憶えている事は、ただ、それだけ。
 だからこそ1年生の時に私を受け入れてくれた担任と友達には本当に感謝している。友達とよく遊び、虫を捕ったり、川で遊んでいて流されそうになったとき助けてくれたこと。いたずらで悪さしたこと。寄り道しながら下校したこと。突然の雨に打たれながら道を歩き、雨上がりに振り返ったとき大きな虹を見たこと。あまりにも時間を忘れ遊んでいて、家に帰りつけたのが夕食の時間で、怒った親が玄関の鍵を開けてくれず、疲れて、そのまま寝てしまったこと。1年生を故郷で過ごしたことで強烈に記憶を焼き付けた。
 1980年に入院。入院した日の事は今でも忘れずに記憶している。生まれた日と同じくらい自分の中では重要な位置付けにある。あの日は大雪で**まで辿り着くまで長く感じたのを憶えている。父が体調不良で弟と家で留守番となるので家を出るとき小さい弟は、オモチャの無線機の片方を私に渡そうとしたが、私はそれを弟に返した。なぜなら病気を治して、すぐ家に帰るつもりだったから。今、思えば、とんでもなく甘かった(笑) それにしても母は電車かバスで一人で帰ったわけだが、道中に何を思ったのだろうかと今さら思う。 私の頭の中にいまあることは、私が死ぬことで両親の肩の荷を降ろすのではなく生きているうちに何とか荷を降ろすこと。今の日本の社会では「キミのその体で、どうやって?」と思う人が大半なら、まだ数少ない証明する側に立つしかない。それも寿命が持ち間に合えばの話。


UP: 20160311 REV: 20190427
古込 和宏  ◇筋ジストロフィー 
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