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互いに殺し合う存在

匿名 2016年3月 記

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last update: 20160307

 2016年2月、川崎の老人介護施設で起きた利用者の謎の転落事故が、実は職員の凶行だったという事で連日マスコミは競って取り上げ報道した。凶行が行われた時間帯が真夜中という事で、とある介護施設では一晩でナースコールの回数が90回あり過酷な夜勤の実態を報道する番組もあった。ネットでは容疑者を鬼畜扱いする動画など見かけたが決して違うと思う。ごく普通の人で社会の中で生活をしているが、職場環境に容疑者を豹変させるものがあり凶行に走らせた。それだけだと思う。私が分からないのは、なぜ直接的な行動に出たのかだが、「冷酷な理性」を駆使すれば見て見ぬふりをしても殺せるし、廃人にもできる。事件が容疑者の凶行として、社会の片隅にある閉鎖的で異質な空間の中にある闇の部分を覗き込もうとせず風化させて終われば、弱者に刃が向く社会は永遠に続くのだろう。
 そして報道は他人事ではない、私の入院している障害者病棟は50床あり常時満床に近く見守りが必要な患者ばかり。ウチは一晩で90回じゃきかないよ… そう思いながら報道を眺める。私もコールで鳴らす必要性に迫られ何度も呼ばざるを得ない患者。当然、円滑に業務が進まない要因となる患者の一人として、陰で不満を言われても仕方ないし、露骨に言われることもある。コールに対応しきれない現状が現場にはある。コールを取ったナースが「今、順番まわります」と、患者がどのような状況だろうが冷たい定型文で応答しても優しいほう。ときどきコールを無言で取り2、30分たって結局来ないことがあり、これが故意か過失かは問題ではなく、結果として放置状態にされた事実だけが患者に残る。そんな患者は時間をおかず職員が来るまででコールを押す事もある。いちばんこわいのがコールを取りっぱなしの状態にするボタンがあり、それを押されると緊急時に連打してもコールは鳴らない仕組みである。これも故意か過失かなんてことは問題ではない。これらを回避できるタイミングもあり、病室に職員がいるとき声掛けすればコールを押さずに済む。聞こえる声の大きさで呼んでも無言なので、3回ほど声掛けしてみても無言。来てはくれても刺すような空気が露骨に伝わってくる。それも嫌なので遠慮気味に弱いトーンで呼ぶと気が付いたら部屋に職員の気配はない。それはいいとして職員が部屋を出た後でも呼べばいいと思いコールを押すと、職員によっては「なぜ部屋にいるときに呼ばない」と言う。もっともだ。これが日常の風景である。
 私はたとえ嫌われても代償を払う覚悟で指摘する。憎まれて多くの職員に嫌われ、陰で中傷される。職員の意に沿わない患者は中傷の餌食になり、業務の流れの中で雑談でする光景を飽きるほど見てきた。彼らは出るところに出て自分たちの行いなど言えないだろう。しかし、私はわさわざ職員の前であろうが毒のある言葉や先鋭的態度で、自己防衛のため多くの職員を餌食にしてきた。2月のある日の深夜帯の朝方、用事が終わったと思った介護士が私のベッドサイドから3メートル離れたところで再び呼び止めたため、介護士から苛立ちをぶつけるように「立て続けに一度で言え」と言われ、それに反論しても仕方なく「申し訳ありません○○してください」と頼めば、「患者さまの言うとおりにやるのが仕事ですから」と嫌みを言われる。その日のうちに師長に朝あったできごとや、これまでのナースコールの対応の事も話した。「立て続けに一度で言え」という主張には、呼吸器の吸気の時間が1秒で呼気が3秒のうちに全部立て続けに言えない時もあり、次の呼気のタイミングを逃す場合もあるので物理的に無理であるという馬鹿らしい説明をさせてもらった。改善は求めないが、このような場合、患者はどうすれば良いか聞いたら、師長は目を赤くして職員にはよく伝え改善します。という言葉が返ってきた。私が聞きたかったのは、もしあなたが患者ならどうするかを踏み込んで聞きたかったのに、それを聞く気も失せた。答えようのない答えを求めた私が残酷なのだと思うことにした。翌日、介護士が謝りに来て「昨日は他にもたくさんコールが鳴りっぱなしでイライラしていた」って、その現状は私も知っているし、あなたの気の毒なほどの苛立ちも私は目の前で見てきた。八つ当たりであったなんて告白なんて聞いても今さらな話で返事などする気もなかったが、「ねえ聞いてる?」とまで言われ返事しなければ、謝ったのに無視したという汚名がさらに私に着くので、馬鹿らしい話を終わらせるためにも「その気持ちよくわかりますよ」と答えた私の語気は強かった。お互いの中に残ったものは、おそらく言わされた感だけだろう。
 体位交換でもそうだが個人の障害の特性による細かい要求には、過密な業務の中で職員は大きなストレスを感じる。私の場合、少しでも体位を長く持たせたいので細かく要望し指示を出すが、それとは関係なく二人がかりで大まかな職員の記憶で体位決めを流れ作業のように勝手に進めるときがあるが、それに私は強い口調で拒否感を示すが、どう見ても気性の激しさが出ていることがある。そんな私に限らず不器用で気の弱い患者は要領の悪さが出た時は強圧的に言われ、それに勇気を出して反論したところで互いに感情がエスカレートするだけ。私も、そんな一人。それぞれの持論で対峙する相手を説き伏せようとすれば、互いに残るのは不信感だけになり、また忘れたころに先鋭的な対立は表出しては引くの積み重ねを繰り返し信頼関係は経年劣化をし続けて、弱い方の刃はいつか折れる。職員から見て主張が強く手のかかる患者は彼らの意に沿わず、自分たちと他の患者を阻害する存在であるに違いない。それを示すかのように個性や主張が強い患者が外泊でいないときは「今日は○○がいないぶん業務が早く進み楽」なんて発言する場面を見る。彼らが安易に患者を評価する基準で、よく言葉にする「大人」とは、職員の都合を空気で読み、自己犠牲の精神が醸造された者で無色透明な存在である。その点の考えでは、私は彼らとは相容れず作用されないので、私は醸造されることはない。職員が(病院が職員に対してもそうだと言えるが)認める以外の個性は彼らにとって規格外でしかなく、存在する必要はなく多様性を認めない。開かれにくい病院は独裁小国家なのかもしれないが、彼らも社会の中で、ごく普通に生活する一般市民である事を忘れそうになる。患者は彼らの仕事の顔しか知らないが、仕事が終われば家に帰り家族や友人が待つ普通の人なのである。地域や家に帰られないとされる患者は、医療と生活の場を死亡退院するまで同じ場所に置き続け、依存すること自体が不自然で歪な関係を生むのだと思う。かといって、重度障害を持つ患者は地域の中で受け皿がないということで、社会から目の届きにくい病院という閉ざされた空間で、かろうじて存在している。人が人である以上、状況により様々な複雑な感情が生まれるのは当然である。その状況次第では人は何にでもなれるし豹変する。誰だって善と悪の仮面を持っているから。互いに良き隣人として居続け、付き合い続ける方法は、医療の場を生活の場にし続けないことに限ると思う。


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