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【研究エッセイ】主婦の抑圧・葛藤・主体性をどう表すか
村上 潔
2015/07/13 立命館大学生存学研究センター
[English]
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last update: 20150730
私が研究対象としている「主婦」は、時代や地域にかかわらず、多かれ少なかれ、抑圧や葛藤に苛まれる存在として位置づけられ、問題視され、表象されてきました。また同時に、主婦になるということは全面的な幸せを手に入れることなのだから、彼女らが抱く悩みは「贅沢な」悩みであり、問題にする必要はないのだと見なされてもきました。そうした外からの規定のあいだで、当事者たちのアイデンティティはゆらゆらと揺れ動いてきました。時に深刻に、時には開き直って。
そんな「主婦」の問題を捉えて表現する視角について、少し解説してみたいと思います。
主婦の抑圧や葛藤が社会的に取り沙汰される場合、まず多くは、「病理」的な評価をもとに語られます。「ヒステリー」・「教育ママ」といった言葉は、戦後日本では主婦を表す一般的な用語として定着しました。こうした枠組みは、主婦というカテゴリー全般に共通する集団的な病理の規定として使われることもあれば、同時に、当事者個々人がもつ病理を指すために使われる場合もありました。
その規定は、明らかに揶揄としての意味をもつわけですが、一方では、「この問題をこのままにしておくと、家庭が/社会が危うくなるからなんとかしないといけない」という意識、もしくは「苦しんでいる当事者を救ってあげなくてはいけない」という意識のもとになされていて、それは表面的には主婦を攻撃するのではなくフォローする(「善意」の)意味がありました。しかしそれも、主婦という存在を「社会的な解決課題」として見なしているという点、つまり自律的な個人(社会的な主体)としては見なしていないという点では、揶揄する立場と同じ視点にあった意識ではありました。
こうして主婦は「幸せな人」であると同時に「困った人/かわいそうな人/憂うべき現象」として設定され、当事者はその矛盾した設定の地表を生きてきました。時に自覚的に、時に戸惑いながら。
いま私たちが設定するべき視座は、主婦を「病理」として扱うのでもなく、またそうした主婦の規定を生み出した「社会的要因」を指弾していくことでもなく、主婦(たち)自身による自律的な主体性確立のための活動を確認し、共有していく視座です。
そうした取り組みは世界中にありますが、戦後日本に限定しても、多くの事例が見出されます。
◇生活記録運動
◇サークル運動
◇公民館の婦人学級
◇労働組合内の〈主婦の会〉
◇PTA活動
◇生協運動
◇
ワーカーズ・コレクティブ
(協同労働)
以上のようなものが代表的です。ここではそれぞれについて詳細な解説を加えることはできませんので、私が作成した
「「女子と作文×主婦と労働」文献案内」
(2014年1月26日)をひとまずご参照ください。
こうした事例は、必ずしも主婦たちが完全に独力で実践した取り組みではありません。そうしたまったくの自律的な試みを見つけるのは、かなり難しいでしょう。しかし、男性や指導的な立場の(社会的地位の高い)女性によって「与えられた」実践形態であったとしても、そのなかで主婦たちが「受け身」の立場から自律性を獲得していくことは可能であり、私はむしろそこにこそ意味・価値があるのではないかと考えています。
また、社会運動や文化実践として「社会的に」価値づけられる取り組みだけが、注目すべき対象なのではありません。主婦という立場性を考えれば、むしろ社会的に価値づけられない――ゆえに、記録に残されたりメディアに取り上げられたりしない――領域の、名づけようのない「動き/働き」こそが、主婦であるがゆえの精神的・実践的活動として意義づけられるべきものです。それは、当事者からすれば、特別に意識することのない、なんということはない日常の動き/働きなのかもしれません。
つまり、学者や専門家からはスルーされ、当事者もいちいち語ったり記録したり紹介したりする必要を感じないことや、当事者がいっぱいいっぱいの状態のなか、やむにやまれぬ事情から残した――けっして「作品」などとは認められない――未整理の書き物やプロダクトこそが、「主婦研究」――なるものが存在するとして――の最先端に存在する(し続ける)ものだ、ということは言えるかもしれません。しかしもちろん、そうした「対象」は、その性質ゆえに、認知し収集し整理するのが困難なものです。それは困ったことであると同時に、だからこそおもしろいことでもあります。言ってみれば、私はそうした世界に一生を捧げようとしている研究者なのです。
以上のような問題意識を反映させるかたちで、私は編集委員を務める雑誌
『生存学』第8号
(立命館大学生存学研究センター編/2015年3月発行)で、
「クリエイティブ母」という特集
を組みました。特別に「カリスマ」として注目されることもなく、特別な才能も社会的地位ももたず、特定の運動・活動に従事するわけでもない母/主婦が、日常を自律的に・実践的にマネジメントしていることを確認し、さらにその意味を確認することが、特集全体の趣旨です。この特集は、以下の3点によって構成されています。
1)村上潔「特集解説:なぜいま「クリエイティブ母」なのか」
2)[座談会]堀越英美×野中モモ×村上潔「母への抑圧/母からの創造――クリエイティブ母の条件」
3)[エッセイ]水越真紀「「ていねい」な女たちへの批判を越えて」
「クリエイティブ母」という言葉を見て、心躍った人にも、むっとした人にも、読んでいただきたいと思います。きっと、どちらの期待も裏切ることになるでしょうが、そこでなにがしかの割り切れないもどかしさを感じていただければ、私の目論みは成功したことになります。みなさまの反応を楽しみにしています。
[村上 潔]
*作成:
村上 潔
UP: 20150713 REV: 20150723, 0730
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『生存学 Vol.8』
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