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西谷裕氏インタビュー

2015/06/29 於:京都 聞き手:長谷川 唯


西谷 裕:宇多野病院名誉院長


西谷:これはなんのときや。

長谷川:すごく面白いので。

西谷:これはなんて本やろね、これは。

長谷川:この論文ですか。

西谷:これは一緒に書いたんかなあ。

長谷川:それ、すごい面白い論文で。

西谷:2008年か。

長谷川:はい。それも参考に。

西谷:参考に。

長谷川:はい。きょうは難病大綱のできるまでの動きとかにも関わった先生とか団体とかが詳しいこととか、前にこうして京都の動きとかを知ってらっしゃったら京都の動きも聞きたいなと思っていたのと。あと、それが分かる資料とかあるのでしたら、また教えていただけたらうれしいなっていうことがあります。

西谷:そうですか。意外と資料らしきものは。

長谷川:なかなかないですか?

西谷:たくさんは残ってないと思うんですけど。難病対策は昭和47年には厚生省が特定疾患対策って名前で始めたわけですけど。そのちょっと前ぐらいですね、ちょっと前から考えると話が分かりやすい部分もあるんであれしとくと、筋ジストロフィー対策というのがあったんです。それは昭和40年前後ですね。39年か40年、41年ぐらいにかけて。筋ジストロフィーだけが特別に取り上げられた理由は非常に遺伝がはっきりしてて、そして、なんの治療法もないと。そして5歳から10歳までぐらいのうちに小学校ちょうど上がる頃から足がだんだん歩きにくなってきて、今度10歳過ぎるとほとんど車いす状態。15歳車いす。で、その当時は15歳、20歳までは生きられないと。で、それが遺伝性で伴性遺伝です。お母さんがキャリアで。ほんで、子ども男の子だけが発病する。色盲と同じで、伴性遺伝という意味では。それが、日本でもかれこれ1万人近くおるんじゃないかという推計。京都で1万人おらんわね。京都だけで100人か200人ぐらいだから、一つの県辺り5,000人から1,000人ぐらいなんのかな。それぐらいなるかもしれないけども。男の子だけです。で、小学校入る頃。で、ずーっと教育がとてもできないということになると。そうすると、親としては見ておれないと。しかも、どこもそれを専門で扱ってる領域はなかったということはあるんです。というのは小児科で死ぬときにはもう小児にちょっと進んでるぐらいで大人に近いところで亡くなってる。そして、整形外科、脚が悪いんだから整形外科行く当時の人も多かった、初めは。どの科も小児科が当然一番関係するはずだけども、そんなにたくさん見ないわけ。1人のドクター。はい、どうぞ。どうもありがとう。これがまだもうほとんどないんで。

〇〇:はい。分かりました。

00:05:00

西谷:一番あそこに明日だけあるわ。明日来るときにある。それで筋ジスの子どもさんを何とかしてくれという親の筋ジス守る会っていうのができたのが、そこの昭和40年の初めぐらいです。で、その頃の本の中で一番集中して取り上げたのは、そのときにはまだ筋ジスのことよりもそれちょっと遅れてるから難病に関することと。筋ジスの始まりら辺とかいうことを書いてあるね。難病の始まりら辺が書いてあるのは法律という雑誌の40年もうちょっと後やね。47年の難病対策が成立するちょっと前ぐらいやったか。成立する頃にその法律という雑誌に難病特集というのがありますわ。あれちょっと今のあれはどこに入れてるんかなあ。その本の中に引用してたかどうかやね。はい、『ジュリスト』っていう法律〔雑誌〕があって。この2番目のを引用してあるね。

長谷川:はい。

西谷:「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」、『ジュリスト』。これが1973年です(『ジュリスト臨時増刊』548、全文COPYあり)。1973年っていったら昭和48年やね。これが白木〔博次〕さんっていう神経病理の先生で東京都がその当時何とか〔美濃部〕都政や。割と有名な共産党を含めた社会党系の人たちが推して知事さんができて、その知事さんが東京都にそういう難病対策のモデルみたいなものをつくった時期があった。そのときに一番の推進力になってたのは、この白木さんっていう人なんです。で、神経学者、病理学者なんだけども、かなり積極的な急進的な考え方の人で、それを東京都の、そこに書いてありますね。東京都の○指定○という、ここに書かれてると思うんですけど。で、これは神経病理学者。で、それを神経内科でやってた人は冲中先生、冲中重雄っていって東大の教授がおられる。その人が筋ジストロフィーに関して、まず最初に国がもっと研究機関、研究を日本のいろんな学者を集めて、そして、あれする気だと。一つの、ここに書いてあります。昭和40年頃、筋ジストロフィー研究という大型のプロジェクトをつくって。これは冲中先生なんです。で、この頃、筋ジストロフィーの研究班というのは今までの研究班とは比較にならないような大掛かりな予算、数千万円規模の予算を年間つくって。そして、二つ研究用スクール、スクールということで、基礎研究をやるための研究班をオーガナイズ、組織しようと。

00:10:07

西谷:これは白木先生、冲中先生とそれからこの病理の東大の薬理の江橋〔節郎〕先生という人です。この人が2人組んで基礎と臨床とで50人近い日本中の研究する人を立ち上げたわけです。チームをつくって。それが一つのモデル。国が何かの病気を特定してやり始めモデルになったわけ。で、それが昭和40年から45〜46年までずっといって。で、結局どういうことをやったかって言うと、国立療養所の中に国立療養所というのは当時結核がだんだん減ってきたわけで、結核のためにつくられたところはある、ほとんどは。ハンセン病もあったけど。ハンセン病、それから結核のためにつくられた。で、結核はだんだん減ってきてる時代です、もう40年にしたら。だから国立療養所を運営してたのは厚生労働省なんです。で、厚生省も、その、全国で140、150ぐらいある療養所がどんどん患者減ってくるんで何か新しいフィールドをつくらなきゃいけないという考えはあったわけです。で、そこへ筋ジスの患者さんを収容すると。で、筋ジス病棟いうのをつくって。そこは学校、小学校を併設すると。大体において〓フカシカ〓関与してつくると。だから、要するに○に療養所の中にそういう教育施設をつくる。それも画期的なことなんだけど、当時としては。だけど、一つやろうということになって、それで一つ、例えば宇多野はそれに入ってます。宇多野の筋ジスが大体60、80人ぐらい、80床だったけど実際60人ぐらいずーっと○。で、京都の場合は市が協力するということで京都市の養護学校みたいなものです。それをつくって。で、そこに先生を張り付けちゃって、養護学校○とか、そういう所は今でもあると思いますけども。療養所の中にそういうもんをつくると。そういうのを全国の療養所の中で手上げた所に対しては予算を付けて、そういう病棟をつくるという。
 で、一方では大学のほうは今の冲中先生なんかが中心になって、研究班を組織すると。もう一つはそれを筋ジスを研究する若い人たちっていうのはもうほとんどまだ○病気や風邪の○少ない病気やし、遺伝性ということはもう当時から分かってたけども遺伝に関する知識というのは日本、あ、世界的にものすごいまだコアだったから、そんなんすぐ治ると思ったらもう考えられなかったし、何が原因だか分かんないということで。色盲と同じように伴性、劣性遺伝。伴っていうのは伴うっていう意味ですね。セックス・リンクと。男性に発症すると。で、キャリアはお母さんなんです。だから2人子どもあったら、お母さんのほうがキャリアだ。で、お母さんは発病しないんです。で、お父さんももちろんキャリアじゃないんだから発病しない。で、お母さんも発病はしないんだけれども、その、2分の1の確率で男の子に発症するという、そういうふうな病気だって。で、それは性染色体の上になんか遺伝子が乗っかってて、その遺伝子に異常があるんだろうという、その辺までは推測できてたんですけど。そっから何か分からないような病気であって。それに対して国が提案やったというのが一つの一番の始まりなんです。それはだから昭和20、40年の始まりぐらいからかれこれ10年ぐらいかけて、そういう組織ができてきた。

00:15:04

長谷川:それはやっぱり始めにおっしゃってた筋ジス守る会、親の会かなんかが結構大きな力になってますよね。

西谷:そう。親の会が陳情して。確かね、もう一つ病気あったんです。もう一つはね、重心、重症心身障害者っていうのがあって、今でもそれはもういろんな病気があるわけだけれども割と遺伝的な病気が多いとか。あるいは何も原因が分かんないという、訳の分かんない、もうウエストバスケットみたいな形で、そういう人たち。で、重症心身障害者のまたこれ組織というのが、あれはなんていったかな。女優さんで割と有名な、なんて名前だったかな、あの人は〔宮城まり子〕。一つ静岡の辺にそういう重心の施設をつくって一生懸命やってた人で。そういういろんな患者さんもそこへ、筋ジスと同じようにね。重心もこれも教育は特殊教育だから学校の中に療養所の中につくろうということだ。こういう二つの子どもに関する難病っていうか、そういう概念が少しできてきてた。だけど、まだそのときには難病という言葉は全然出てきてなかった。で、個別的に重症心身障害者と筋ジストロフィーという二つの病気に対して国が指導して収容施設をつくり。それから一方、大学に委託して研究をするという、そういうシステムのモデルみたいなものは大体かれこれ20年ぐらいの間にずーっと40年代の初めから後半ぐらいにかけてできてきてたのね。それがこの始まりなんです。

長谷川:じゃあ冲中先生、江橋先生たちも。

西谷:冲中先生。そう。この人たち。

長谷川:親の会と一緒になってっていうことですか?

西谷:親の会と親の会のほうは河端〔二男〕さんっていう人ですけど。河端なんていったかな。河端さんっていう人は国立の神経施設をつくれという要望を出したんです。

長谷川:それはどこに?

西谷:それは結局、武蔵療養所っていう、一つの療養所をそういうものに充てようという。東京の武蔵野にあるんですけども。そこには名前は初め筋ジスの研究というのを提案してたんだけども、それだけではなかなか国は動けないので、むしろ精神、神経、精神科。例えば、がんだったら国立がんセンターというのがあるわね。それから今だったら長寿に関しては長寿医療研究センターというのが名古屋の辺に大府っていうとこあるんですけど、名古屋の郊外に。それと同じように精神・神経に関する研究所をつくれという運動になってきたわけね。それが一つ流れとしてあるわけです。
 で、もう一つの大きな流れはちょうど昭和40年代というのは日本のちょうど今の中国と多分同じなんだけども、ものすごい世界の工場になっちゃったわけ。中国もついこの間までそうだった。今までもそうやけども。そこで何が起こるかって言うと、いわゆる公害というやつだね。ポリューションって公害。環境汚染。なぜ、環境汚染が起こるかって言うと、まず日本の場合はぜんそくがはやった。はやったっていうか、公害、煙、粉じんに対する四日市とか、それから九州とか、そういう工業地帯に公害がもう起こってきたわけ。そういう、粉じん、ぜんそくというものに対しては公害認定をしてくれとかいう。

00:20:01

西谷:そうかと思うと一方では水俣病もそうだけども。水俣病もあれ公害やわね。工場排水やと思ったんやけど。だけど、水俣病そのものはまだ始まりのときには難病対策が始まるときには入ってなかったんです。

長谷川:公害?

西谷:うん。むしろ、スモンというのがあって、キノホルムというお薬なんです。非常に単純な下痢したときに飲ます止瀉剤、下痢、下痢止めのお薬、キノホルムっていうのは。で、3グラムぐらいまでは大丈夫というようなことは当時、腸管を消毒するんであって体内には吸収されないというふうな考えだったんです。実際には吸収されてたんですけど。それが原因なんだけども。それで目がやられ失明、それから脊髄やられる、末梢神経もやられるということで。スモンという名前ですけど、どっかここら辺に書いてあると思うけども。そのスモンというのは〓サブアキュウ〓とメリンゴ、メリンゴっていうのは脊髄です。それからOはオプティック、視神経やられるから。それからNはニューライズ。つまり亜急性に脊髄、神経、眼神経、それから末梢神経、これだけのものがやられるという。そういう原因、このときの原因ははっきり全然分からなかった。1万人から2万人近い患者さんがちょうどオリンピックの頃だった、覚えてるけど。で、原因が分からないので、どんどん増えていく。それは特定の医者が割合と関係してたわけ。というのは非常に評判のいい先生で熱心な先生の所へは患者集まりますよね。で、その先生がちょっとした下痢でもキノホルム3グラムぐらい出すということが。で、その先生の患者さんがたくさん集まって発生する。そうすると医者はご自分自身もそれを出して飲んで、そういう病気にかかったという例はあったんです。だから、そういうとこ見てると感染者のように見える。で、神経内科というのはちょうどその頃に40年代に急激に専門家というのはぼちぼち増えてきたわけ。で、どうも今まで見てた教科書に書いてあるような脊髄炎とか○炎とは違うと。そして、やっぱりこれ日本だけじゃないみたいなことになってきて。それでだんだんにスモンこそものすごい大きな社会運動になったんや。で、ちょうどオリンピックのときに東京のちょっと近くに戸田っていうボートレースで有名な、オリンピックのときのボートレースの会場でもあるんだけど、そこでもスモンが発生した。そうすると、ちょうど今の時代と同じでオリンピックを日本が迎えようとしてるのに、なんかそのオリンピック会場の付近で訳の分からん病気が発症したら困るという問題になってきたわけ。国の威信に関わると。だからちょうど筋ジスに対して国が旗を振って、そして大学やとか○とか巻き込んで対策をしてるじゃないかと。それと同じものをスモンに関してもやるべきだと。で、一方では例えば心臓の手術がその頃できだしたんだけども、お金もかかるし。で、○の手術でもそうだし、心臓病の子どもを守る会とか。それから、スモンという病気対策とか。それからいろんなたくさんの合成の物質というのがいろんな形で工場の中に作られて。で、それが全部排水とかいろんなものを出して。水俣もそうだけども。水俣の場合には、あ、そうですよね、魚が食って、その魚を人間が食べるわけだから、こういうリンクはある。

00:25:08

西谷:循環のリンクの中で人間が巻き込まれるというケースもあれば、ぜんそくのように直接、煙がたくさん出されて、人間、子どものとこに多くぜんそく、小児ぜんそくが多発するとか、そういうことはもういろんな所で起こってきたわけだ。だから、そういうのに対して最初に〓トリガー〓なったのは、その親の会なり、何々を守る会なり、何々を対策を訴えるとかいう、そういう患者会、そういうものが昭和40年代の初めぐらいから急に増えてきたわけ。大体ちょうど44年ぐらいを中心に。スモン自身が46年ぐらいに解決したんですけども、その頃までに何十種類っていってもええようなものが。一つ例えば別の例を挙げればカドミウムという物質があるんだけれども、これがどうもイタイイタイ病といって全部の骨や肉を侵されていって、手足の骨や、なんていうか非常にボロボロになっちゃうというそんな。それはイタイイタイ病という分かりやすい名前だけども。これもどうもある種の工場排水、工業用の石炭、炭坑から出てきたものらしいとか、いろいろなことはいわれてたんです。そういう、あらゆる物質がたくさん、その他に有機物質っていうのはビニールとか、そんなん作ってる所は、もう、ものすごい増えてきたわけです。そんな物質は新しい物質なわけですから。何が弊害あるか分かんないわけ。そういう状態になってきて、高度成長期という時期は同時に高度な公害を多発したり。これはちょうど中国でも同じだと思うんだけど。日本はもっと前に早い時期にそういう時代が起こってきたわけです。で、それをどうするかということになって。それでちょうどいわゆる人権運動みたいなもの。人間の安全を守るというか。そういうことをするための何をすべきなのか。やっぱり原因が分からないといけないということになって、そこでだんだんに難病対策というものをつくれって。これは朝日新聞がやっぱりあのときはかんでたです。で、朝日は社説で難病対策という言葉を初めて提案したことになってるんだけど。で、論説の中にも出てたと思うんだ○けどね、社説○つながりも。で、厚生省は受け身ではもちろんあったわけだけれども、初めは。そういう対策をどうしたらいいか。その辺のことについては僕はここに割合と書いてあると思うんですけど、難病の対策の。

長谷川:筋ジスがそれはやっぱり足掛かりになったっていうことですか?親の会とかがあって。で、筋ジストロフィーってわりかし症状とかも明確になっていた部分があって。で、その部分から筋ジスの親の会の○が筋ジスに対して、もうちょっと研究をせえというふうな要請なり施設をつくれっていうような要請なりをしていく中でその研究者、医者とかもそこに入って。それが筋ジスの一つの制度みたいになったのか、法律みたいになって。で、その同時期ぐらいにスモンとか、そういった患者とかの。

西谷:その公害とか環境汚染とかの。

長谷川:とかの問題も多発してたんですね。

西谷:うん。そう。そういう二つがうまくいって。だからここに書いてある〓GII〓エネルギーというのは市民運動になってきたわけだね。で、その市民運動の患者会というのは、ここにはスモン、戸田地区でスモンが起こったとかやっぱ書いてある。それからその他、随分あるんだ。心臓病の子どもの、それからリウマチ友の会とか、筋ジストロフィー協会。

00:30:05

西谷:それからベーチェット病という病気が、これも珍しい病気なんだけども、日本に割合多いんです、だから。

長谷川:この精神障害者家族の会っていうのも入ってたんですか?やっぱり精神障害、この時点では難病っていう概念ってあんまなかったですかね?

西谷:これはいろんな所から起こってるから、それぞれが違う病気、違うことが目標になるわけ、当然。だけども要は難病というのにまとめられるような、つまり難病ということの概念の一つは一体なんなんだということになったんやけど、それがここん所だね、どうしたらええのかということになってきて、ここに厚生省でまとめようということになって。で、二つほどの概念ができて難病というのをまず国がなんかやるときには法律を本当は決めないかんわけや。どういうもん、定義が要る分わけやな。で、その定義としては、ここに二つの定義が実はされてるんですけども。今さっき言った白木先生と、この白木さんも東大の病院の神経病院の教授なんですけど。ここに書いてある二つの概念、原因が不明、治療方法が全部未確定であって、まず後遺症を残す恐れが少なくない疾病と。この定義は冲中教授がした概念なわけ。それから第2概念と。これはこの整理は厚生省がやったわけだけども。これも似たような部分もあるけど、経過慢性で単に経済的な問題のみならず介護などの○人手を要するために家族の負担が重いと。で、精神的にも負担が多い病気と。小児のがんとか、小児のネフローゼ、あるいはぜんそく、筋ジストロフィー、それから人工透析の患者。これも今でも人工透析って難病という概念に入らんぐらいに大きくなってきてるんだけども。患者が増えてるから。これはもうシラキさんによる定義という、二つの概念に整理されて。これはあるときの昭和46年6月に、社労委、社会労働委員会やね。衆議院の中の社労委っていう所、あるいは社会部会とかいう所でこういう2人を呼んで公聴会を開いて。あと2人は呼ばれたかもしれんけど主にこの2人の発言が一番有力だったんだと思うんで。こういう二つの概念で積み合わさったものとして難病と。ここにも定義書いてあるけど、難病の定義というのは、だから何でも医学事典引いてもないんです、難病というのは。日本語でも英語でもないんです。で、難病対策と銘打ったものは昭和以降には存在しないと。ところが医学の進歩、社会生活の1日変化によって今まで宿命的とされて放置されてきた疾病や症状が難病として掘り起こされてきたんだと。しかも社会環境の複雑な要因によって、さまざまな健康阻害要因が増大しつつあるために原因不明、治療法が分からない新たな難病の発生の可能性が増えつつあるという。こういう認識を示して定義をして。で、こういう人に対して研究を推薦するということと、ここです、調査研究の推薦。で、施設を整備する。これは今の筋ジスで既にやってたわけです、療養者を使ってやるとか、そういう方法。それから医療費の自己負担を解消するという。この医療費の自己負担がもうどんどん増えてきて、最近問題になってようやく個人負担を所得によって差を付けるという今度のこの4月からそういう方向に変わったとこだけど。こういう三つぐらいの柱、3本柱として難病対策をしとるわけだ。

00:35:08

西谷:で、難病対策室というものも厚生省の中に新しく立ち上げて、そしてそこはお金とかのあれ、組織をつくるとかいう仕事も全部やって。で、そこで一つのモデルになったのは筋ジス対策なんですよ。どうしてそんな大きな研究を立ち上げて、組織して予算を作って、それぞれ消化してということをやるかと言うと、やっぱり1人のドクター、その研究の中心になれるような人をまず決めて、その人のオーガナイズを全面的にお金を含めて委託して。で、その人が中心になって班をつくる。だから何々研究班というのが次々、もう40、多いときは50近くまで研究班ができてたわけです。1年に二つか三つか班ずつつくっても幾らでもそれに対応するような難病っていうものは増えてく一方なんです。予算も随分大きなものになってきたな。そういう状態が難病対策は昭和、結局48年に○はスタートして、そのときは八つの疾患だけだったんですけど。

長谷川:この八つの疾患っていうのはどうやって決まったんですか?

西谷:それは結局、そういう委員会が審議会があって、審議会の中で審議会のメンバーというのは大体20人ぐらいの全国の大学の主な先生、神経内科〓ビョウイキ〓は割に多かったから神経内科の先生が一番、教授が一番多かったけれども、それ以外にも小児の先生とか整形外科とか、あるいは内科の先生とか呼吸器の先生とか、そういうような人たちが寄って。今年はこれだけをそれにしようと、その次にはこれを取り上げていくとか、そういうことを選定して。で、それを厚生省が答申を受けて決めていくいうか。そういう形になったわけやな。

長谷川:じゃあ例えば患者会とかがその先生とかに。

西谷:もちろん患者会の、○とかがするわけやけど、実際には。実際の大きな被害、だからその辺がね、非常にイーブンになかなか公平にできないという問題が起こってくるんですよ。そういう取り上げ方だから。誰もが万人がそれはもっともだなという病気もあれば、こんな病気はもうちょっと大変ではないのにとかいう病気も選定のプロセスでは幾つかドロップアウトして。例えば甲状腺炎なんていうような病気も一時期取り上げられてるけども、甲状腺炎なんていうものはそんなに大きな難病といっても今それこそチェルノブイリじゃないけども、ああいう放射線影響もあるし。それから自己免疫疾患的なところもあるから治るとまではいかんけども、ステロイドをやったりして治すこともできるし。それから甲状腺がゼロになったとしてもホルモンは合成のホルモン毎日飲んどれば日常生活がやれるという、そういうものまで実は一時期含まれたんですけど。そういうものはだんだんにドロップ〓アプソ〓して。で、今でも当時取り上げた難病はどれ一つ治ったというのはスモンだけなんです。スモンはお薬やったから分かったけども。で、だから初めのスタート時点では、ちょうどスモンが解決される、もちろん解決されなかったら当然取り上げられてると思われてたけども、実際には取り上げられて一番大きな対象にはなったんですけれども。半分以上分かりきってたところが昭和48年ぐらいだと思うんですけど。で、キノホルム説が確定したのは46年○確定してるんで。

00:40:03

西谷:少し対象としては本当は対象外ではあったわけだけども、実際には取り上げられてずーっと残ってたわけですけど。

長谷川:さっき精神病って出てたんですけど、精神病とかっていうのも取り上げられたことってあるんですか?

西谷:精神病はそこに一つの問題があって。非常にこのどの一つ取っても特にお金のかかるわけやね。だから、患者が大体全人工の中で1万人ぐらいっていう漠然とした上限をつくってたわけやね。で、パーキンソンなんかは僕らもパーキンソンにはだいぶかんでた、やってたんですけども、そのパーキンソンなどは、ちょっと多くなってくるだろうなというのはあって。その辺が一番多い病気に現在なってはおるけども、それでも3万人までぐらいじゃないかなと思われるし。だけど、一方でがんとかそういうものは、がん対策というものは他に形でやられてるから難病対策だけが医療、国がやってる医療対策ではなくて、がん対策もあれば、その後には今、でも今言ってた問題なのは痴呆やわね。アルツハイマー病を中心にした地方対策なんてものはものすごい金かかってるわけで。実際一番金かかってる○ね。それで精神病も同じあれで、精神分裂病は統合失調症という名前に変わってるけども、結構数が多いわけです。100人に1人ぐらいはあるわけで。それからうつ病にいたってはもっと多いし、そういう意味で精神病はほとんど取り上げられてないです、ここには。難病対策には。

長谷川:ただ、社会運動の中でそうしたのが精神病の家族とかも流れには入ってきただけで。

西谷:うん、そう。だから精神病の家族の会とかいうの、それは別個に民間から起こるものだからそれはどこを整理するというあれはないわけなんですけども。難病対策の場合はもう何も打ち出の小槌じゃないんだから何もかもはやるということはできないだろうと。それまではやらないと。しかし、そうはいっても、新しい病気で原因が分からない病気というのはもう本当にこれもあるわけで。どんどん増えていくわけです。100、200というふうに一斉に増えてきたわけだね。今度、医療費も当然それ、自己負担をするかしないかを当然今の審議会で決めるんですけど。で、この病気は自己負担もしようというのとしないというのと振り分けみたいな○はっきりした理由はなくて、非常に患者の経済にまで影響するような、お金のかかる病気であるとか。あるいは家族全部がそのために非常に困窮するとかいうふうな状態に対しては医療費をもちろん持つということがなってくわけです。そうすると患者が増えてくとかなり大きな金額になっていくんで、難病対策が始まってからいつもどういう形で収束するかというのは、お役人が一番頭痛めてただろうと思われるし。で、現実にもいろんな形でキャップをどういうふうにつくるかというのは、キャップというのは出る、お金の上限をどういうふうに抑えるとかいうのも行政側としては困るわけです。で、お金は国が半分とそれから府県です、地方自治体、府県が半分と、というふうに、こういうものにかかったお金というものはです。特にこの自己負担の分は国とあれとは半々というふうに初め決めてたんでフィフティーフィフティーという。だから実際には国のほうが予算がなかなかありませんというようなことで、結局自治体のほうに少しロクヨンぐらいの割合にオーバーになって自治体に負担が掛かってるっていうのはあると思いますけど。

00:45:00

西谷:そういうことも検討しなきゃいけないとか、いろんな問題が、これ一つの制度ですから必ずどっかで何らかの手直しが必要になってくる。特に経済的な手直しというか。そういうものをどうするかという、経済的な原則からの手直しです。そういうものも当然、絶えず審議会みたいのをつくってはやってたんだけど、なかなか皆が、抑えるほうっていうのは嫌われるほうです。やるほうもなかなかしんどいとこあって、なかなか思い切った手が打てなかったです。それともう一つの問題はこの初めのほうにも書いてあるけど、結局、法律という形にしにくい。一番大きな理由は難病という定義が分からないもの、できない。倫理的に第1概念とか、第2概念とか、こんな言葉は法律ではあらへんわけや。そういうものを踏まえて、それに合うもの、合わないものという格好で作っておこうと。ここにもちょっと書いてあるけども、厚生省の中にチームのプロジェクトチームができたんです。この僕は所におった若い人がおったもんだから、この辺の実情は書いてあるとおり何かにもちょっとこの辺のことは書いてあったと思うんで引用してあるけども。結局、国民の難病対策の重点を難病のカテゴリーを無制限に膨張していく危険がある。あるいは長期慢性化する、するもの全てを含めるのはかえって難病対策の〓ジュウジツミ〓をぼかすことになるというふうなことで。特殊な秘策として早急な医療研究を促進する。そして、医療福祉の逆転を補完する、補強するという意味。で、生きる人の権利、あるいは患者の復権、健康への復権を保障するというのが難病対策であると。従って疾病の主症状を抜け出してその対象として指定するんだと。当座の研究、当座の政策というものは可能性を少し含めてあったわけです。だから、一定の研究が進んだりすれば、難病治療の対象から取り外すべきだという、そういうことが書いてあった。で、これが最後、最初に対象になったのはスモンなんです。というのはもう増えることもないし、原因もキノホルムだということがあって、キノホルムもやめたらスモンの患者は○後遺症を負った人はたくさん残ってたんやけど。1万人近く残って現在は1,000人を割る、もう3,000〜4,000人なってると思うんですけど。まだ生きてられるけども、大体がもう70以上の人ばっかりです。で、新しくキノホルムというのは、もうその時点で投薬、発売を禁止したからもう出ない。
 それじゃあ水俣病はどうか。水俣病もこれは結局、最後まで難病対策の対象にはならなかった。で、○、もうスモンでこれ出たから。公害のようなものは対策の中には外していこうという考え方です。原因が分かったわけだから、公害をやめたら亡くなるんだから。だから水俣病でも確かに患者、悲惨な人もあったわけだけれども。原因にあるチッソです、いわゆる肥料ですか、肥料の工場、工場排水を止めたらそれで長いサイクルの元の所で止めたんだから魚も有機チッソに変わって、体内に有機チッソを持ってる魚っていうのが○おらへんと。

00:50:00

西谷:で、実際に水俣病というものもその段階で新しい発症はなくなったんです。ただ実際には、新生児の水俣病って産まれたときに母親の胎内でチッソを汚染されたっていうか、そういう先天性の水俣病っていうのはある。産まれたときにできる水俣病です。そういうものが何人かおられるということが分かってて。そういうものはもちろん対象にするんだけれども。新しい発症はないから、これに関しては水俣病を難病に指定するという必要はないということになったんです。で、そういういろんなそれぞれの病気の特性によって、難病に指定されたりしなかったりするというのも、これも変といえば変なとこもあるわけや。だから、難病の定義をきちんとして法律化するということはこの問題が発生したときからのずーっとお役人が特に中心にして考えられてた一つの問題点というか、ブレークになってた考え方のストップをそれ以上発展させるとできないという考えの一つは難病の定義がはっきりしないんだから、それに次から次へお金を○そんなん病気が治らな、病気っていうものはほとんどはもう100パーセント分かるっていうのは実際あまりないんです。ほとんどは9割も分かればええ。あるいは分かったとしても治療法は何もないという場合もあるわけだけども。そういう形で病気というものは医学的に言えば進んでる。
 従って、外国のほう、教科書には難病という言葉はないわけです。で、日本でも教科書の中に難病というのはかえって取り上げにくいということがあって。難病、だから難病対策とか、何とかっていうハンドブックとかいろんなもの僕らもなんか幾つか作って手伝ったこともあるけど。いろんな病気にまたなってるわけですね。で、何回か本も改定したこともあるんだけども。例えばこれなんか割合最近の難病のあれだけど。もう僕も〓ゲンイン〓1回やめてから、これあんまりもろてないけども。これは平成9年。で、改定加えて17年前やけど。で、これなんか見てもいろんな病気があるわけです。で、関係それないわけやね。ある病気は変性疾患といわれるような、老化とかそんなもんとも関係して起こるやつもあれば、メニエール病みたいにまだ全然分かってないような病気もあるし。突発性なんちゅうような人も分かってないし。で、○型心筋症の一部は分かってるけど全部は分かっとらんとか。ミトコンドリア病でも原因は分かってないとか。どれを見ても、どの領域ということはないわけ。呼吸器もあれば神経ももちろん多いし、その他いろんなものが含まれていて教科書としてはちょっとないわけ。

長谷川:難病っていう。

西谷:難病という教科書は。教科書的に預かってる〓ヒト〓はだからあるけど。難病に指定されたということでそれなりの本は書けますけどね。だけども、普通の意味で例えばハンドブックみたいに、こういうアメリカの外国の本だとね、こういうワシントンマニュアルっていうのがこれが一番有名だけども。これはアメリカのあれを日本語に訳してあるんだけどもね。

00:54:58

西谷:こういうもので見て分かるけども、ワシントンマニュアルを何、どう取り上げてるかって言うと、難病患者のケア、ない、内科患者のケアとかっていう形でやってるけども、難病の患者をどう扱うかいうようなことは別に書いてはいない。そういう意味で学問と、学というのとはなかなかまとまっていかへんわけやね。心臓やったら心臓、これは心臓に関するものは一つのものによってずーっと取り上げられていって、その中でこういう病気は全く原因が分からないとか、そういう取り上げ方はされるけれども。難病という名前でこの中のどれ一つ入ってへんわけや。その辺でなかなか逆に学問的には対処のしにくいとこもあるわけだ。
 それで3年間ぐらい前に金澤一郎という東大の教授がトップになって。で、〓クリハラ〓さんという精神・神経センターでさっきの筋ジスが始まりでできたセンターがあるんだけど、その2人が大体、医院長、副院長を引き受けて、それでもう今までの個々の病気をこれは難病である難病じゃないというふうな取り上げ方をしていくのが無理なんだという。しかし一方で分かってきた、これは一つの新しい概念なんだけども、人間の病気というのはかなりのものが環境因子じゃなくて遺伝的な理由で起こってくると。遺伝そのものではないとしても遺伝的な理由で起こってくる。そうすると誰でもなるもんだと。どういう人でもなり得る危険、リスクを持ってるもんだと。で、そうしてその結果としてそうなった人は、だから自分のせいでなったわけじゃないんだということね。生活習慣病とはそれは違うわけや。生活習慣病というのは自分がコントロールしよう思えば、例えば肥満にならないでおこうと思えば肥満にならないし、そうするとコレステロールも高くならないし。タバコをやめれば肺の閉塞性肺疾患にもならないんだから。これは生活習慣病。それで、ところが、突然に何も自分が原因じゃなくて、自分が悪いことをしたわけでもないのに突然に誰でも起こり得ることと。で、それが少ない、数少ないために誰も研究していないという状態。あるいは研究法が治療法が見つからないという状態って誰でもあり得ると。そういう意味では難病というのは特殊な人だけがなる恐れがあるとかっていうもんではなくて。人間は進化する過程でいろんな遺伝子の組み換えやら突然変異やら、そのうちの一つが、あー、病気の原因になってることが非常に多いんですけども。で、それにプラス環境因子みたいな、どういう形が何パーセントか、環境因子もあっても。要するにどんな人でも起こり得る病気、なんだというか、考えをまず認めて。これはだから医学の本質になるわけですけど。そういうものを認めて、そしてかかった人だけが不平等になるということは非常になんていうか、あるべきじゃない。人間、人権の健康に関する要は権利っていうか、そういうものが失われてしまうという状態が誰でも起こるんだと。で、それを考えると難病を特別指定するとかいうことはあんまり意味がないと。むしろ誰でも起こり得る病気だって、誰もがかかり得る状況、状態、悪化、生命ということに対してリスクをさらされてしまうという状態は誰にもあるんだという。そういう考えで言うならば難病の定義が全然変わってくるわけや。つまり結果から起こるんじゃなくて原因から人間がもう手を付けようがないところで、その生まれた人は気の毒だというだけのことだ、ではあるけれども、それに対して手を差し伸べないという社会は、これ社会のほうに責任があると。

01:00:05

西谷:だから者会全体の責任として難病というものは取り組まなきゃいけないんだということをあらためて見直そうじゃないかと。そういう形で難病対策を見直したわけだ。そうすると難病対策の対象になり得るものっていうのはものすごく増えてくるわけや。

長谷川:そうですね。そうすると。

西谷:で、そこで問題は一方でそういうことを認めておいて、そしてお金がかかるということに関する問題もこれは〓カンレキ〓してくる。すると、今まではそういう病気にかかった場合には結構なお金持ちもかかるし、貧乏な人でも誰でもかかるんだから。そうすると、それに対する自己負担、治療の負担というものは実際においては社会生活の中で言えば、所得に応じてやっぱり困窮度は違うわけやからね。お金のある人はかかったとしてもそれなりのいろんなデバイス、それを。例えば気管切開を受けるとか、あるいは新しい機械を導入して何とかできる、自分でできる人もあるわけだけども。そんなものしてたら家政が崩壊しちゃうという、そういう人も当然あるわけだ。じゃあ、難病にかかることがもうすぐに医療方法の対象になるかならないかとうふうに持っていくのは限度はある限り国の社会保障に対するお金の限度がある限りは結局分けて、所得に応じて負担を決めるという。難病になった人が全部負担を○じゃなくて、その難病になった人は難病で認定したらいい。して、そういう人たちが何らかの新しい治療を受けるときには必要な治療を受けるための権利を持ってるということを認めておればいいわけで。で、それをお金をどれだけ要るからあなたは認定しないとかいうことじゃなくて、そういうことと関係なしに認定はもう全部認定しようと。だから難病の問題の対策の一つの初めから思ってた矛盾というか、それは定義できないものを定義して、それに対して社会、社会的に対策を打つと言えば矛盾した不可能なことをやろうとしてたわけ。そこんところをはっきり認めて、これは実は誰もがかかるんだから、かかり得るんだから、そこでこの病気は難病であるないとかっていう選別をすることはやめようと。で、医療費が非常に要る、○研究が非常にお金がかかるとかいう、そういうものはまだ研究費のお金を出す所は別にしたほうがいいという考えもあるわけや。研究は、研究者の中で言えば難病対策になったから治療しようというつもりではなくて、これは医学全般に言えることだけれども、治らない不治の患者さんに対して研究者はやってるわけで。それが偶然難病対策にかかってたら、その人だけ研究費余分にもらえる。で、こちらのもっと変わった、分からない病気研究してた人のそれが難病対策で入らなかったら研究費はもらえないという、そういう不平等も起こり得るわけだけども、難病対策というもの、そのものを推し進めようとすると。だからそれは別個に、一つのなんていうかな、新しい難しい病気に対する研究費というものをつくればいいじゃないかと。だから切り離してやっていこうという、そういう方向を大体大筋において認めて。だから、今この4月から始まった難病対策というのは、この今さっき見せた、ああいう三つの柱ではなくて。まず難病対策、難病というのを認めるのは、これはもう幾ら認めて、それまでは年に二つぐらいしか認めないとか。で、これはちょっと数が少ないから認める、数多いから認めないとかということをそんなことで幾つもの矛盾が逆に生じてたんだけれども。

01:05:05

西谷:そういう矛盾を解決して、むしろ難病そのものはもう難病だといって認めてもいいけれども、そこにその人に医療費を出すか出さないかっていうこと。これに関しては得た所得、持ってる所得、得たっていうか。もともと所得の多いか少ないかによって医療費の補助の額も決めていこうという、そういうことなんだ。

長谷川:でも、もともと、でもその難病の新たに定義できないものを整理したもので言えば、筋としては病気の疾患名で要は決めていくのじゃなくて、その症状で難病にするかしないかっていうのを決めていくっていうのが一筋論ではあったんです、きっと。

西谷:うん。

長谷川:でもそれは基本的にはそれは医療費のやっぱり絡む問題としては何でもかんでも症状によってっていうことにしてしまうと難しいっていうことがやっぱあるんですかね。要はその所得の問題にしてしまえば、要はその人が所得水準見ればいいわけだから、その症状に対して例えば医療費を助成するときにはその所得に対して行えばいい話じゃないですか。で、ここには別に診断名を介する必要はないはずじゃないですか。でも、いまだにその診断名を一応基準としてるっていうところには何かやっぱりそういうとこ。

西谷:そこは微妙なとこですね。ただ言えるのは初めこの難病対策が生まれたのはもう19〔→昭和〕40何年、48年か9年かぐらい、8年ぐらいだと思うんです。その頃は世界の中にはどこにもない対策やった。で、非常に実は厚生省の考えの中にはスモンが、言えば難病対策の1号と言えば1号なんです。一番最初に指定されたのがスモン、パーキンソン、それからSLEっていう膠原病。それから、○という中に○多発性硬化症、こういう割に神経の患者が多かったけども、いろんな全科にわたっていろんな難病はあったんやけども。そういう一つ一つについてはさらに広げていけばこういうふうになっていくとかいうようなこと全然予測もできないし。そういう当時は言えば遺伝子のことは何も分かってなかったんじゃなかったっけな、1940年代っていうのは。遺伝子医療というのはもちろんなかったし。で、原因も今大抵の病気がかなり分かるようになってきている中で言えば、だから一番典型的なのはほぼこの20〜30年のうちにはっきりしてきた一番いい例で言えば、リウマチやね。これはかなり多い数の患者さんがおるわけ。それで多分、内科疾患の中でも一番多い数になってくると思うんですけど。そういうのは最近では自己免疫という考え方がちょうど難病が指定された頃から急速に免疫の知識っていうのはものすごい増えたわけ。今まで病気っていうものはそんなに免疫で起こるとは思ってなかった病気が、あ、これも免疫か、これも免疫かというぐらいにどんどん免疫に関係してることが分かってくる。そして免疫が遺伝子とも関係してるということ。そして、いろんな自己抗体というか、抗体ができるやつが多いということ。で、リンパ球にも抗体を産生やつと、それをレギュレートもしている、これがBリンパ球っていうんだけど、抗体をつくるKS細胞でつくるやつが血中を回って。

01:10:13

西谷:で、どっかのとこに引っ掛かってそれが外用するという考えがあんだ。で、もう一つはT細胞と呼ばれてて、これはそれをその免疫をレギュレートしてるリンパ球なんだ。これは抗体はつくらないけれども、免疫をレギュレートする抗体。で、それが今、そのレギュレートしてる抗体に対する、リンパ球に対する抗体というか、それをモジュレートし得る物質というか。そういうものはものすごく出てきたわけ。で、その結果として、今のリウマチっていうのは一番いい例だけども、それがT細胞のレギュレーションの問題だということになって、それに対するモジュレーションする物質というものはつくられるようになって。で、それをやり出したら、もう治る病気になっちゃったわけや。リウマチ、そのものは。そうすると別にそれを難病に指定する、してあったからじゃないけれども、やっぱり難病指定したり、いろんなことをして、いろいろな研究を集中的にして。で、免疫学者、臨床にも入り込んだり、いろんなあれを製薬会社まで入り込んできて、いろんな形でリウマチっていうものは急速に良くなる。もう治る病気なん。今まで手がこんなんなってたのはもうちゃんと普通になってたとか。こういうことは奇跡的といわれるようなことが実際には起こっている現実があるわけや。そうすると、何も難病にしてほしいということじゃなくて、実際にそれ治ることによっても別に難病であろうがなかろうが大きな問題じゃない。ただ、それが〓ドノグライ〓お金が掛かるかいって実際はものすごい金掛かるわけ。で、抗体なんかを含むモノクローナル抗体っていうものがあるんだけどね。それが主にモノクローナル抗体のターゲットはTリンパ球なんです。で、そっちに行くやつは、治療は○かかると思う。そうすると、むしろやってほしいことは原因を究明すること。それができたら今度はそれに対するお金をどういうふうにしたら一番効率よく使えるか。これやっぱりかかる人が多ければ多いほどなるべくたくさんの人に負担を平等に分担、平等というか。所得のある人と所得ない人とでは、それは困窮度っていうことで、いえ、言えば、全然違うわけだから。同じようにお金を出す必要は必ずしもないんですよね。で、お金持ってる人に対してはお金、お金での給付というものは、それほどありがたくないけども。困窮してる人に対してはそれは非常にありがたい社会的サポートなわけ。これが大事なんだということです。で、そうすると社会的なサポートって簡単に、それは公平っていうことやな。いわゆる社会的公平を期すためには、むしろ所得に応じて、医療費も負担したらいいじゃないかと。保険でも全部そうですよね。医療費、医療保険、社会保険でも所得に応じてあれは出してるわけ。保険はね。だけど同じ考え方をそこに持ってくるんならば、それは難病の人だからといって難病であるから、非難病の病気にかかってるのよりはたくさんお金を出す必要があるかないかという、そういう倫理的な問題にまで関係してくるわけやな。そういうものをクリアするためにはむしろいつまでも難病の定義にこだわってるんじゃなくて、それは難病の定義はもうそれでやったらいいと。究めて原因が分からなくて、そして長期、かん、あれを○するものを国が定義したらいいと。定義すること、そのことは、それをしてもらうのはもう鬼の首を取ったような形で患者会やそういう所が圧力をかけて社会的な不法性を逆に生み出すような組織っていうか、システムっていうか。

01:15:12

西谷:それはあんまりいいことないんじゃないということなだけで。ただ、そこにかなり思い切った発想の転換をしたらどうかというのが、この今の2人の先生がたが一生懸命考えてやってくれたことで。それは僕も賛成やと思うんです。大部分の難病対策をあずかってた人たちもそれには賛成。患者会にとってみたら今までただやったのが少しは負担しようということになってきて、ちょっとおかしいなって思う向きももちろんあったけれども。でも、それは今言った社会的公正という意味で言うと、特定の病気だけを負担するよりも、その負担をむしろ多くの人に与えたほうがいいわけで。自分らだけが免れてたのが他の人も一緒に助かったらそれはいいじゃないかという。そういう発想の転換○一つあるわけやな。

長谷川:もともと、その難病っていう言葉自体は朝日新聞が出したってさっきおっしゃってのは、それはなんかそこに概念的なものが先に出てきて。で、難病ってそれに当てはめたわけじゃなくて、本当その患者団体とかの、その総称として難病っていうものを付けたっていうことなんですか?

西谷:うん。だから定義に困ったわけや、最初の段階で。

長谷川:パッと新聞社がまとめていろんな団体がそのスモンの社会運動とかいろいろあった中でいろいろな団体も動き出して市民運動が盛んになってきた中でそういうものを一個一個列挙するんじゃなくて、まとめて難病団体みたいな形で難病っていうものに使ったってことですよね。そこの部分を今度じゃあ実際に制度にしようっていったときには、法律にしようっていったときには、その定義っていうものが必要になってきて。で、それをみんながどうするかっていうのを○したっていうことですよね。

西谷:そうそう。

長谷川:筋ジストロフィーっていうのは、もともと筋ジス対策っていうのはあって。で、それは一方でこれからその難病の政策にいくときにこれが大きなモデルとなったと思うんですけど、その筋ジス。

西谷:うん。なるんだけども、傑作なのはね、筋ジスそのもの、筋ジストロフィー自身は直接国に働き掛けて研究所まで造らしたり、そして学校までずーっと負担して。学校生きてる間どれぐらい掛かってるかっていうのは僕も計算したこともあるんです。1人の患者が○の病院に〓マルイッテン〓入院してたときに筋ジストロフィーの患者さんがどの程度の費用を国から支出してるかということをね、調べたことがある。大体1,000万、1人の患者に掛かってた。そのときのデータ、ずっと○数カ所の施設でその調査をしたことがあって。800万から1,000万ぐらい○ね。で、大きな額なわけや。なんでか言うたら看護師さんも全部もちろんそのための病棟だから、80床なりを持つためには2単位の看護婦さんが要るし、医者も数人ぐらいは張り付けないかんし。その土地の病院というものを造ることから全部入れていくと随分大きな金が掛かってるわけです。だけども、それで筋ジスは親は自己満足って言ったら悪いけども、親としてはものすごい負い目だったと思うんです。自分の子どもっていうのはこれ親の遺伝でこんな病気になったんだと。だから親としては何でもやろうと。だから国に要求したと。で、国から研究費用の勝ち取り、それから子どもは普通の学校行ってたら、もう歩けなくなったら階段上がれなくなったらもう小学校行けへんやないの。2年、3年なったらもう階段使わないかんでしょ。で、それを一つの病棟にまとめて入ってもらって。で、その間ずーっと教育、学校の先生が来て、そこに一つの特殊教室つくって、そこでやって。それも計算の中に一切入れないかんだけど、そこまでは入ってなかったかもしれんけど。とにかくそういう特殊な教育はしてた。それで僕らもその当時、筋ジスの後、宇多野病院の副院長してた時分やったから、よう小学校の先生○聞いたことあんねん。この、この頃は多分二十歳ぐらい。

01:20:01

西谷:あるいはもうちょっと生きるとしても、要は社会的には何ら貢献できないということで先生はそれやったら何を目的に教えるんですかと言うてディスカッションしたことがあるんや。そらあ、これはだから、この子はなんか社会に還元して何かをしてくれるということではないんやね、目的は。だから人間が生きているために最小限度の人間的な礼儀、知恵、そういうものを教えるということはどうしてもそれが中心になってくる。で、しかもそれは結局それは二十歳ぐらいになったらもう終わりだという。だから非常に難病のこういうとこで生きてる養護学校の先生っていうのは矛盾は多いんですよ言うたら認めてたけど。それが一つの例、同じような例になるんだけども、難病も似たようなことはあるわけです、ほとんどの難病は。100パーセント社会復帰できる人っていうのはあんまりないような病気が多いわけだから。だけども、これは考えを全然変えて、この病気は言ったら人間というもの自体の特に遺伝が多いということが分かってきてからは遺伝というものはそもそも一体なんなんだということになるわけ。そうすると、実は遺伝というものは進化の一つのプロセスなんや。で、その遺伝の中のいいほうへ遺伝した場合には進化した何かが含まれていくし。人間のいろんな進化というものを考えた場合には遺伝というのは人間を助けてる部分もあるんよ。で、助けてる部分があって人間が進化していくんだけども、その間違って進化したらこれは病気になっちゃうわけや。一つの例で言えば、赤血球に非常に特殊な鎌状赤血球という形をしている病気があるんだけれども、これなんかももうほんの一つのワンポイントのミューテーションで起こってきます。ワンポイントのミューテーションって、これも宇宙線との関係とか必然のいろんなことで起こってくるんであって、それがいいほうへワンポイント変えてもらったら、その赤血球はひょっとしたら違う形になって、より強い赤血球になってるのかもしれないけども。それが悪いほうへいって、それが子どもへもずっと遺伝していくという。これもだから人間の進化の一つのプロセスで得ている自然現象というか。それには方向性がないということになるわね。ダーウィンの進化はいいほうへセレクションするというんだけれども、そのセレクションするか、されるかということは結果悪いほうに移ればもうそれは駄目になっちゃうし。それがよければ進化のほうへいくわけです。だからこれ上いくのか、下いくのかっていうのは人間にも決められないもので左右されて、それが病気になる。1人はかえって、いい遺伝を受けてるかもしれないし。そういう繰り返しの中で人間っていうのはずーっと長い歴史の中で進化してきてるわけやから。そういうことを考えれば誰もがどの人間も同じような自然の淘汰というものを受けてるわけやから。それの淘汰されて結局若い、早く発病、病気になってしまうような形でそういう遺伝子を親から引き継いだ人だけが何ら他に理由もなしに病気で一生終わらないかんとかっていうことになってくるわけや。だからそこを考えれば、誰しもが私もひょっとしたらそうなったかもしれないけども、ならなかったという、それだけのことだから。そういう医学というものの一つの倫理的な考え方の中に遺伝子というものが、いいものか悪いものかというようなことは言えない、実際は。これはもう必然に起こってくる現象なんで。その結果が難病なるし、免れた人はそれで普通に生活ができるという、それだけのことなんや。

01:25:00

西谷:そういうことを考えれば、社会がもう誰もがそれは間違えてなかったかもしれないというふうな考え方で見れば、特定して、それを難病であるかないかということで医療費の配分を決められるとかいうことは、なんか不公平感がやっぱ出てくるわね、そこに。

長谷川:筋ジスは別立てでずっとくるんですか?難病対策の前に筋ジスの。

西谷:結局面白い話やけども、結局筋ジスは難病に入ってない。

長谷川:そうなんですよね。なんかそれを私この間、難病センターの方に聞いて、ずっと筋ジスって難病だと思ってたのに。

西谷:違うんです。それは筋ジスの親の会がわれわれは別にわれわれの努力で筋ジスのための精神・神経センターもつくったと。で、親の会が希望して協会もつくり、自分の独自の、は、努力で国とも働き掛け、大学とも働き掛けて、筋ジスの研究、それから治療、それから教育と治療と一体化したような施設、そういうものを全部勝ち取ったんだということを言わはるわけ。そうすると、難病対策はそれから遅れて実際は来てるわけです。だからそっちに入っても得はないというようなわけ。

長谷川:という意味。

西谷:親の会の判断としては。

長谷川:親の会がそういうふうに判断したってことですね。

西谷:うん。それで実は筋ジスは僕○さっき言ったように難病対策ができるときの生みの親ではある、モデルではあるんです。だけれども入ってないんや。

長谷川:それは今言った親の判断が。

西谷:親の判断、親の会の判断が中心だったと思うね。

長谷川:でも、それでも筋ジスの研究にあたってた先生方がでも難病対策のほうには入ってるんですね。

西谷:そう。たくさん入ってる。

長谷川:むしろ中心的な役割を担ったのがその方たちですよね。

西谷:冲中さんなんかは一番○だと思うけど。冲中さんは難病対策の生みの親だけども、あとは割に長い間10年ぐらいもう病気されてなくなったからあれだけども。その後○で行った人たちもみんなやっぱりどっちかというと、筋ジス会が入らないのは〓マモリ〓もないと。彼らが獲得したものは大きいもんがあるわけだから、みんなそれは分かってるということで特殊扱いしてた。だけども、アイデアは実はその筋ジスにあったわけや。この難病対策全体の。流れの中で言った場合は。で、実際に筋ジスがあんなに早く遺伝が原因がはっきりするとは誰も思ってなかったわけですけど。非常に今ではもう他の病気ととっても分からんぐらいに細かな所までは分かってきたけども。だけどいまだに治療法は一つもないわね。筋ジスのそういう遺伝的な治療法で成功したものはないわけや。だけども方向としてはもうこれしかないだろうといわれるぐらいに遺伝にディペンドしてるわけで。非常に環境因子ってものほとんど関与してないわけや。筋ジスの場合には遺伝で○もう本当に決まったように4〜5歳で脚がちょっとヨタヨタしだして。それでもう小学校の2〜3年生ぐらいになったら階段上がれなくなって。で、もう小学校上がる頃、終わる頃にはベッドに寝てないかんやろと。それは車いすをやるとか、そういうこといろんなことによって。あるいは最近だったらそれこそマッスルヘルパーとかなんとかっていう機械があるじゃない。ああいうものを使ったら立てなかった子どもが歩ける可能性は出てきたわね。だけど、それは機械一つに何百万も掛かるから、それはお金持ってる人はもう使ってやられたら歩けるようにはなるんです、今や。そこまで来てるわけ。だけど本質的な治療は何もまだ遺伝子操作っていうのはそこまで進んでないけども。いずれは遠い先にはそういう治療法はできるんじゃないかという考え方はある。

01:30:03

西谷:というのは発病することが非常にはっきりともう分かってるわけです、遺伝子。最近実は筋ジスは数減ってきてんのよ。それはなぜかって言ったら、胎盤からの細胞でその子どもの細胞を取ることできるわけ。そしたら、その細胞を増殖させたら筋ジスの細胞かどうか分かるわけや。そしたら、もうそこの段階で中絶すれば子どもはないわけや。前は2人、3人、4人と筋ジスの子どもさんずーっと産んでる人がおったわけや。ところが今ではもう1人目が仮に2〜3歳ぐらいになって、ちょっと歩き方おかしい、4〜5歳でおかしなったらもう2人目は産まないと、こうなるから。だから減ってきたんや、実際には。だからこれはもう知識の普及意外にはないわけだけど。

長谷川:なるほど。遺伝だって分かってから、その1人目産んで、それで筋ジスだったらもう2人目も筋ジスだと。

西谷:うん。だから次は実際女の子やったらええわけや。だけどその女の子はキャリアである可能性あるから、その人が結婚するときにはまた同じ悩みが出てくるわけやけど。それでもその女の子は育つでしょ。でも、その人が結婚するときに悩むわね。だけど結婚しなきゃいいっていう選択もこの頃では女の人でもあるわけやから、それはその人、一生は普通の人と同じように育つわけや。そういう人はたまにはおると思うんだけども。

長谷川:でも、筋ジスで国立療養所とかに筋ジスの病棟とかいろいろ○わけじゃないですか、筋ジスの活動のおかげで。そこに今度難病のものって統合されていくような感じがするんですけど、そこではあんまり筋ジスのその人たちと難病の、その進める政策とでは対立は起こらなかったですか?

西谷:難病対策の中に入るか入らないかという場合?

長谷川:うん。

西谷:いや、だからそれは誰もが不公平だなというのは、まして厚生省なんかは初めは自分たちも積極的に進めてたわけだけれども、その次に新しい政策をですね、筋ジスの対策のときには、実は筋ジスは法律にできてるんです。

長谷川:法律にできてる?

西谷:うん。法律にできてるからこそが〓コウ〓まで付けられるわけ。

長谷川:なるほど。

西谷:うん。それで国が筋ジスの子どもの教育の義務を負ってるの、法律上。

長谷川:法律上?

西谷:うん。だから、小学校、中学校まで負ってたんや。だけど、高等学校までつくれと言われて高等学校もつくったけども、もう実際に高等学校行ったときにほとんどもう子どもは3分の1ぐらいは死んでしまってるんだけども、それでもつくった。だから高等学校の先生も余分なぐらい余ってくるわけだけども。で、ある時期から、今、現に調べてみたら分かるけども、うちの病院なんか筋ジスの病棟っていってつくったわけです。それ80床あったけど。実際は60床ぐらいにして使ってる。で、さらにもう今では、その筋ジスの中でもそういうタイプの筋ジスじゃなくて、筋緊張性ジストロフィーという別のタイプの大人になって発症して、40、50になるともう歩けなくなるような人も入院させてるんです。だからそういう人に対してはデュシェンヌ型筋ジストロフィーを定義してたんです、法律のは。だから違うジストロフィーは対象にならないということなるわけや。

長谷川:そこの法律から筋ジスの法律からって考えると。

西谷:だから対象にはならないんです。ならないんだけれども、空いてる病棟だからそこへ入って最後は見れるようにはしてるんだけども。3分の1ぐらい、デュシェンヌ型の3分の1か5分の1ぐらいの数しか居ないということと、もう50、60でだんだんに歩けなくなるというんだから、そんなに、それでもまだ車いすで行けるし。あとは少しやられるけれども、それでも何とかいけるという状態で一生過ごせる人たちだからそんなに強い要求にはならないんで。

01:35:07

西谷:この人たちも実はこの難病、中には入ってないんですよ。

長谷川:難病対策にも入ってないんですね。

西谷:入ってない。で、こういう人は多分これからもう認めるわけですよ、今度のあれでいけばね。

長谷川:難病対策として難病として認めていくということですね。

西谷:で、その中で医療費は所得に応じてある程度カバーされるというか。そういう治療にかかるならば。ところが実際においてはそういう人たちは介護保険の対象にはなるけれども。それ、介護保険の中に入ってるんです。筋緊張性ジストロフィーは。だから55歳○50歳以上他の介護保険の中には特殊な対処として入るようになってきてるわけだけど。その辺は介護保険でカバーしてもらえるということにはなるわけだよね。

長谷川:宇多野病院とかも多分そうだと思うんですけど、筋ジスの病棟があって、もともと筋ジスの対策でそういうものが整備されてきた中で難病対策ができるじゃないですか。そうすると難病対策でその対象となる人たち、あるいはその難病、その難病相談支援センターみたいなものができてく中で筋ジスがあった病棟にその難病がくっつくみたいな、その体制になっていくじゃないですか、病院が。そのときには、筋ジス側と難病対策側を推し進める、その人たちとでは対立はなかったですか?

西谷:それは医者の側ではない。というのは、医者はやっぱり難病対策をやってる人を含めてそんなに患者会では違うから。保険、いわゆるお金の経費がどれだけなるからどうという考え方はあんまり医者の側にはないから。それだけに空いてるんだったらそれは、○筋緊張性ジストロフィーの人が入ったらいいやと、埋めてもらったらそれでいいし。で、われわれもそれ見ますよと。で、見方としては○とはちょっと違うけれども、大体似たようなコースを取るんだけれども、知ってるから。治療上の難しい点はないわけでやりやすいと思ってるから引き受けるわけや。で、今ではあの病棟にALSの患者さんも入ったりしてるよね、宇多野の中には。それはもう何ら矛盾、だから医者とはあの病院の職員の中では筋ジストロフィーと難病とを区別するという考え方はあんまりないわけや。ただ、一方は法律で決められてこういう特権を持ってるということはみんなうすうすは知ってるけれども。それはそれで治療するのに何ら支障は、問題は、差はないわけですから。それはいいわけだけど。患者会で分かる。見たらやっぱりいろいろな公平感っていうのはそこに出てきてたのは事実でしょうね。

長谷川:なるほど。これの論文読んでて面白かった所がレスピレーター、人工呼吸器の話がちょっと載ってて。で、人工呼吸器って多分すごい当時大きかったんだろうなと思うんですけど。

西谷:大きかったよ。

長谷川:それで台数も限られてたんだと思うんですけど。その筋ジスを要は病棟で大体その呼吸が苦しくなったら呼吸器付けるじゃないですか。そしたら、今ではそれ選択みたいな形になってるじゃないですか。そのALSの人であっても、いろんな人であっても呼吸器っていうのは付けるか付けないかっていうのは自身の選択の問題にされてるじゃないですか。でも、ここの読んでると、アメリカに行ってた先生が戻ってきて、筋ジスの子にそんな人工呼吸を付けてる姿を見て「そんなんじゃ駄目だ」って言って、その子の選択に委ねたら、その子も付けたくないっていうような選択をしたときにだんだん苦しくなってって、結局医局で話し合ったら付けるようになったって書いてあるんですけど。人工呼吸器のそういうなんか装着に関しての意識みたいなのって変わってきてるんですか、やっぱり。

西谷:変わってきたんです、確かに。気管切開する○が一番簡単なわけだけどね、人工呼吸も。その前、マウスやったらり、アップっていって、口の中に入れたりするようなものを使ったりもしてたけれども、筋ジストロフィーに関して言うと、ここ切開するだけでやっぱり何年も長く生きられるわけや。

01:40:04

長谷川:ここ○切るだけで。

西谷:切開するだけで。呼吸器を付けなくてもまず切開をする。10年とか生きるわけ。そうすると、アメリカでは筋ジストロフィーの患者さんには気管切開すべきじゃないとか言ってはるのが多いよ、ほとんどの教科書に。で、彼女もアメリカでこうやったからってやって。で、ショック受けて、なんか危なくなって慌てて付けたとかいう話もあったんですけども。付けてみたらやっぱり、まだ他の臓器、他の部分はまだまだ生きられるわけですよ。呼吸筋だけがかなり難しい状態になってくる。それ、人工呼吸器付ければ心肺機能っていうのは最後に残ってくるんです。心臓と肺と両方一つに考えた場合の。今度は呼吸筋は少しあれでこういうふうにやればいいけども。心臓そのものも、筋ジストロフィーではやられるところがあって。最後に心肺機能が残るというのは一つの考え方だけども、それにしても10年の単位ぐらいの進行やから。そうすると、お年寄りの人がここに切開だけするというのは、もうあんまり今しなくなってるけれども。それでもやる場合もあります。そのときの選択は子どもの選択○もっと親が考えてるわけだから、もう1分でも長く生かしてほしいというのがあるわけです。で、子どもにしてもそりゃあもちろん自分の命っていうもの1分でも長く生きたいというのがこれがある。しかも、頭はまだずーっと肺さえCO2さえ出せれば切開、ここから要は口から鼻から出そうが出せるんだから。そうすると割に長く生きられるわけだからね。そういうチョイスで言えば誰でも親も子どもも切開してくれっていうチョイス取るわ。で、子どもの10年と、もう80ぐらいの年寄りの10年とはだいぶ意味が違うから。

長谷川:アメリカのその経験されてきた先生のそのアメリカの教科書では気管切開をするなんていうことはほとんど書いてないっていうのは、それはもう宗教的というか、そういうことですか?

西谷:やっぱりその経済的理由もあります。アメリカは特に。そっからのお金がどっから出るんだっていうことになってくるわけ。それで日本の制度のほうはいいわけです。子どもというのの可能性を考えればね。

長谷川:には筋ジスの人に対しては、もうみんな全然自己決定とかそんな感じじゃなくても付けるのが当たり前だったっていうような時代だったってことですよね。

西谷:うん。

長谷川:それは、他の例えばALSの成人の、子どもじゃない成人の人に対してもそういう感じだったんですか?○。

西谷:日本ではALSの患者は日本に〓ネンダイ〓の社会的風土っていうか、生命に対する考え方も含めて日本の風土っていうものは、子が親を見なきゃいけないということを含めて、できるだけ1分1秒でも長生きさせてあげたいとか、お互いにしたいとかという、そういうことに対する問題というのは確かにあるよね。今の例になった、そのアメリカへ行って帰ってきた人のときにはちょうどそういう時期があったんです、あれ。昭和50年の初めぐらいだったと思うけど。日本の週刊誌に筋ジスの子ども、アメリカで筋ジスの子どもが死んでいくというときに母親もあなたは天国に行くんだというふうな、キリスト教のかなりの、その影響下に生命観そのものは違うから。

01:44:56

西谷:そうすると、現世だけではなくて次の天に行って神様に召されていくんだからというふうな教えがとおるような社会風土っていうものは、キリスト教○あるいは、もっとあれの場合はアラブ〓ショケン〓なんかがあれもそうですよね。そういう意味で現世における生命と、それからもうそれ以後の生命というものに関する考え方にかなり基本的に違うところがあるわけで、日本はもう死んでしまったらしまいだという考え方が強いから。そうすると、あなたの命っていうものは今が、その現世が全てですということになるわけや、日本人の考え方では。死んだら灰になるんだと、こういう考え方なわけ。そういう社会とそれからなんかもう別の世界が一つあるという世界と、やっぱり医療にもそういうことがある、あるわけだね。

長谷川:じゃあこの当時はそんなに成人の人であっても今みたいにかっちりこう、自己、自己決定みたいな同意書とかは取らずに。

西谷:え?

長谷川:今みたいな形で付けるか付けないかっていうのを本人の選択でないまま、苦しかったら付けてたっていうような時代だったですか?その成人の人に対しては。

西谷:そうやね。

長谷川:それはやっぱりそういう今言った、その、現世の生命っていうものもあっただろうし、それは子どもだけじゃなくてっていうことですよね。

西谷:子どもだけじゃない。

長谷川:成人に対しても、苦しそうだったら付けたっていう話ですよね。

西谷:そう。

長谷川:それが今みたいな形になってきたのはそれは。

西谷:それはどうしてかねえ。もうちょっと今あれが変わってきて気管切開そのものはそんなに医療負担として大きくないけれども。ペグっていうのはあるわね。ペグ〓クテイナス〓にPでしょ。Eは〓エスハイ〓の内視鏡を使って皮膚から胃につないで、ここへものを入れると。そうすると口を通さなくて栄養はここからダーッと流し込めば胃に入るんだから、もう何年でも生きられる。極端に言ったら人間が嚥下するというのは極めて高度な脳の機能と関係してるんだけれども。だから知能は全然駄目になったらほとんどは実際は、もしそういうペグなんていう他になかったら大変なわけ。毎食、毎食。鼻から通す。うちの母ちゃんも実は7年前に死んでるんだけど、そのときにはこれをやろう思ったらこれもできないと言われて、鼻からだったら全然通せるかもしれないって鼻から通したら鼻から通った。で、鼻から通すほうが難しいんだけど、偶然何だかうまくいって、それで鼻から通してやったら、やっぱり栄養がどんどん良くなってきたら、もうかなりあの1カ月かなりのあれなんか思われるぐらいに悪く、栄養状態悪してきてたのに回復してきて。それ回復すると意識も回復するのよね。それで半年間ぐらいだな。数カ月間ぐらいは話もできるようになった。だから、ペグっていうのはだからものすごくいい方法なわけ。栄養を補給するのには。今の呼吸、酸素を補給するということだけでは駄目なんだけども、栄養も補給できるようになると、さらに植物人間だって長生きしようと思ったらできることになっちゃうわけや。で、うちの場合には植物人間にはなってなかったから、もう栄養は落ちたことによって意識も○ボワッとしてたのが栄養回復したら、鼻からだったのに回復したら意識も回復してきて、みんなと話もできるようになったんやけど。○はすごうてなと思ったけど、結局、大動脈解離やったからそれが破裂して、それで死んだんやけど、最後は。でも最後の数カ月間っていうのは一つの、やっぱりもし彼女にその最後の数カ月間がなかったとしたらなんかちょっと最後は悲しくなるような感じやったけれども。

01:49:54

西谷:ある程度親っていうか、家族も本人もある程度まだこれから何が起こるか分かんないな思いながらもずーっといってた時期っていうのも一つの、それも人間の生き方だったんだよね、含めてね。数カ月間プラスされたものはあったけどもね。そういう意味ではペグもいいんです。ところが、今やられてるペグの大部分はもうほとんどもう植物人間になって嚥下ができないから、開けましょう。そうするともう毎日、毎日3食こうやってるともう植物人間で寝たきりの人でも、もう「こんにちは」言うても答えもできない、返事もないような人でも体だけは生きてる、脳は半分死んでるという、こういう状態をずーっと続けられるような状態がひどくなってきて、そういうのを病院の例えばベッドのもう何十パーセントかを占めるようなことだってあったわけ。で、それに対して、医療費の問題もあるけれども、果たしてこれでいいんだろうかという考え方が医者の中にもあり、それから学会関係もそういうことを本気で考えだして。で、最近ペグの問題っていうのは大きな問題になって。で、見通しのない、付けたから生活が回復される、人間らしさが回復されるということでなければ、もう付けんほうがええという考え方にここ5年ぐらいの間に急速に変わってきたね、日本人の考え方も。

長谷川:それは呼吸器も一緒ですか?

西谷:ええ。

長谷川:呼吸器も○。

西谷:呼吸器の場合も同じなんだけれども、呼吸器の場合は例えばALSやわね。ALSなんかだと声も出ない。で、呼吸ももちろん呼吸器がやられるからもう○てくるという。しかし、本人の脳はしっかりしてるわけ。

長谷川:ちょっと筋ジスに似てますよね。

西谷:同じや、ほとんどね。ただ、筋ジスよりも進行は早いんです、実際は。5年ぐらいで、仮にあらゆることをやったとしても結局はやっぱり肺炎○いろんなことで亡くなってしまう場合がほとんどなんで。その間、本人の生きる意思っていうものが非常に尊重され重要だという考え方で付けたいという人には付けるということ。僕らの宇多野病院はあれはどれぐらいのときからかなあ。昭和50年代の後半ぐらいから家族と相談して、付けますか、付けたら、〓アンテナ〓のALSの人にも付けたらそれはいいけれども、家族も大変だし、本人ももうそれにどれだけの意味があると考えられるかということによると。で、例えばホーキングみたいな人がおるやないの。あの人なんかいったら声も出ないけど車いす乗って。で、声もなんか機械を使って自分で発言して、頭はしっかりしてるから人に〓コウジ〓までできるわけよね。こういう人にとっては呼吸器の補助もこれやっぱり本人のためだけじゃなくて社会のためにもなるぐらいの生活、あれをしてる人なんだからそれはできるだけ生きてほしい、生かしてあげたいということになるわけだね。だから、その人間の質と量との問題っていうのは出てくるわけよね。

長谷川:筋ジスの人は今でもあれですか、子どもの場合っていうのは、だいぶ治療法は長いとしても結構生きる率が高くなってるじゃないですか。二十歳超えても生きてる人が多い○。

西谷:30近くまで生きられるわね。

長谷川:それでも結局、さっきの筋ジスの方の例えば教育とかぶるんですけど、教育だけでも二十歳とか30とかで亡くなってしまうけれども、社会に還元できないまま亡くなってしまうけれども、それでもこの子たちに教育をさせるし、あるいは呼吸器を付けてきたわけじゃないですか。そういうところは今でも変わってないんですか?

西谷:そういうのは今でも日本では保障されてると言うべきかな。

01:54:56

長谷川:さっき言ってた筋ジス対策の所で法律的にもこの子たちの生っていうのは要は後ろ盾みたいなものがあるから、それは呼吸器を付けても何とかなるっていう見立てはあるのも含めて付け、付ける、付けないという問題にならない。

西谷:言ったらそういう人を含め、社会がそういう人を一つの答えとして、その生命を尊重するかどうかという姿勢になってしまうわけや。

長谷川:今んところは子どもっていうこともあってっていうことで付ける、付けないっていうのはそんなに筋ジスの中では問題にならない、ALSほど。でも、ALSの人たちとか他の本当に成人でむしろ40とか50代以降に発症してしまう人たちっていうのはやっぱり、その呼吸器の問題って経済的にももちろん大きいとは思うんですけど。むしろなんか医療者側の態度としては昭和40年、50年のときっていうのは、今は宇多野病院では50年ぐらいのときからもう家族に対して説明をして付ける、付けないっていうのは決めてもらってたっていう話ですけれども、それ以前っていうのは、そういう話し合いもなく、こういう苦しそうな人になったら付けるっていうことが主流だった時期があったってことですか?

西谷:ありますね。そんなに長くはない。ないというのは呼吸管理がうまく何年にもわたってやれるというのは昭和40年以後の話だから。それまではなかなか付けたらいいだろうと思ってても、それを維持できる機械そのもののほうも今のような完璧な機械ではないから、いつどうなるか分からん。電気が消えたらあれやし。機械そのものもそんなに高価なものだからなかなか入らない。病院の経営上から言ったって一時期、そのALSの呼吸問題に関しては一番とことんまでいってたのは都立神経病院っていう所で。そこの院長、〓ツバキ〓先生というのは神経の言ったら生みの親の1人であって、水俣病とかスモンとかで活躍した先生が都立神経病院の院長になった。で、やっぱりちょっと1、1分1秒でも長生きをしなさいという。あなたが助かるという保証はないけれども、しかし、助からないということを決めつけることもできないと。助かるかもしれない。どれだけ長生きできるかは、あなたによってると。だからできるだけ長生きしなさいという立場やったから。これ、あっという間に20代、30代の呼吸器が入ってったわけや。で、だけどそうなると、やっぱり音を上げたんは周りの医者とか。今度、呼吸器を管理が下手になって、下手で殺したとなると、これは医療法の問題になってくるわけや。だから看護婦も大変だし。そんなもんたくさんの張り付けなきゃいけないということで、あっという間に都立神経病院は赤字になって。で、結局ものすごい赤字。僕は知ってるけど、僕はちょうど同じ頃に宇多野病院の院長やったから知ってるけども。それはやっぱりすごい赤字になるんですよね、病院経営から言ったら。ベッドを取ってしまうわけだから。それで、そのための管理人、一応保険は適用されるけれども、人手ということを考えたり、いろんな入れなきゃいけない問題とかそんなもん全部含めていくと、やっぱり赤になっちゃうわね。

長谷川:それ。

西谷:だから、都立神経病院が一番有名な赤字病院だった時期がある。

長谷川:それはやっぱり呼吸器自体の性能もよくないし、それから呼吸器自体の台数っていうのがやっぱ限られてたんですかね?多くの患者さんに。

西谷:いや、同じ人の一遍付けたら5年ぐらいその人に付けないかん。で、そういう人は次々とあそこではそういうふうにしてもらえるということなんで、そこに患者集まるわけよね。

長谷川:それでも呼吸器結局足りなかったら無理ですもんね。

西谷:うん。だからやっぱり▼あそこの病院がちょっと元気なくなった理由の一つはALS問題。で、何人か辞めたりした人もおったと思うけども。それやるほうの人たちが中心になって、あの病院を動かしてた時期あったね。だからそういう、経営上の難しい問題も実際は含まれてるんですけど。▲

02:00:04

長谷川:今、宇多野病院では50年ごろから家族説明してっていうのはそういう背景もあってっていうことですか?

西谷:うん。宇多野病院では経営的なもんはそんなに僕らは気にはしてなかったけれども、本当にそれがいいのかどうかということやね。患者さんにとっても、あるいは家族にとっても、なおのことやけど。だから患者の意思を尊重するという、そういう立場でそれぞれの医者が判断しなさいということになってた。

長谷川:それはなんか医局とかで話し合われて、そう決まった?

西谷:医局ん中ではやっぱり全体的な流れとしてはもうやっぱりしないほうがいいんじゃないということになってきたわけやね。

長谷川:それ、宇多野病院の中の医局ってことですよね?

西谷:そう。

長谷川:それは付けた患者さんとかを見た実感的なものとしてってことですか?

西谷:え?

長谷川:その、付けないほうがいいんじゃないかっていう話っていうのは。大体みんながそういうふうにちょっと思ってたっていうのは付けた人を実際にちょっと見て。医療者側も結構大変だって話じゃないですか。呼吸器自体がいいものじゃないから。付けた後の管理っていうものはすごく難しくきっとなるだろうし、その時代のことだから多分呼吸器を付けて外に出るっていうことは多分あり得ないじゃないですか。

西谷:それはあるね。

長谷川:だから病院の中でそういうふうにずっと居ると。で、家族の負担っていうのはそれを要は看護師だけでは扱え。

西谷:ALSの場合特に一時期在宅に持って行こうっていう考え方があったわけよ。それ付けてね。

長谷川:付けて。その時代にですか?

西谷:その時代に。それで家に帰って。で、家で何人かのボランティアを募って、何人かの人が。家族だけではもう無理なんです。なかなかいろんな、付け外し、トイレ、その他全部、寝たきりで全部やらないかんということになってくる。そういうのを含めてネットワークをつくってやっていた病院もあります。あそこの豊岡、豊岡病院、豊岡公立と豊岡病院って、兵庫県の北のほうにあるんだけど、あそこに〓コンドウ〓君という人が中心になってやってた○。彼は結局のところ家族を家に、ALSの患者を家に帰して、そして、こういう機械そのものを貸してあげて。で、家族を教えて。で、家でやってたときもあったな。

長谷川:それがこの昭和50年、40年ぐらいのときにですか?

西谷:もう現在もやってると思う彼らはな。

長谷川:でも、この昭和50年ぐらいのときっていうのは呼吸器のその大きさとか質っていうものが。

西谷:いや、そんなに大きなものじゃないから。この冷蔵庫のぐらいのもんやから。だから、もしやろうとすればやっぱり結局負担は家族に掛かってくるわけやな。

長谷川:そういうことも含めて他の病院では家族に対して言うっていう。

西谷:そうやねえ。

長谷川:一応、帰すっていうことも。

西谷:何ら治療法がないということは○前提やね。筋ジスもそうだけども、ALSの場合だと、しかもある程度の期間っていうのは、いつどうなるか分からないような筋ジス、呼吸器いうのはもっとリスクが多いんで。僕らはそんなに長いこと生きてる人っていうのは見たことがなかったです、その当時は。今ではやっぱりいろんなものがおのずから知識も蓄積されて。そして、それが結構長く生きられるということになってきてるから、逆に判断に悩むようなことにはなってくるはね、実際は。患者さんが望むんだったら、だからやったらいいというふうな形になってきてはいるけれども。僕はその当時は宇多野病院におるときにちょうどそういうケースがあって、1人長岡京ってあるでしょ。あそこの保健所へ行ってたことがあって、そこに1人ALSの患者さんで女の人で30代、40代ぐらいで発病して。

02:05:00

西谷:で、「家から入院したくない」と言うわけね。で、その患者さんがもうよく、もう何回も往診してたから覚えてるけれども、家まで覚えてるけれども、家からも離れない。なぜかと言ったら子どもが2人おったんだけどね、小学校ぐらいの子どもで。で、私が入院したらもう子どもが悲しむし。私はもうここに居たいんですというふうな。で、そのくせ気管切開もしたくない○。そうするとどうなるかって言うと、結局口ん中に入れたものをグッとこうやって喉へ、こう、入れるんだけど、ごくわずかなものをね。その操作がもう大変なわけね。で、それ自分で、その人は〓イン〓が特にやられてた。手、手なんかは割にあれだったから自分でこうやって入れられるんだけど、こっから口から喉から下へ入れることはものすごい時間が掛かる。こうやって、ウッてやって。それで入るんです、それでも。それを1年ぐらいもうやってて。最後は窒息だったと思うけど、亡くなったけども。子どもから離れたくないという、それだけの理由で。だけどそれはそれで立派な母親としてはもうそれが望みだったんだからね。そういう形で亡くなったのも覚えてるけどね。気管切開もしたくない。しかし、死にたくもない。じゃあどうすんのかっていうので、もう毎食に1時間か2時間ぐらい時間かけて少量ずつ自分でこうやって飲んで喉へやってっていう、その操作が。舌がだんだん、こう送れ、送るという操作が舌がもう出なくな、動かないわけだから大変なわけだね。そういう生活をしてはったのを覚えてるけどね。だから、人間のあれっていうのは、それは何がしたいんかということやわね。つまり、その生きてる間に。で、私はやっぱり長生きしたいという人はやっぱり、どんなことがあっても生きてたいんだという人に対して、それを気管切開やめなさい、あるいはペグをやめなさいとは言えないわけです。だからペグだって同じ問題ですよね。意味はないっていうか、もう人間性、人間性っていうか、植物人間という形になってしまったらそっから戻ってきようもない。脳自体がやられてしまってるんだから。そしたらもう生ける屍の一番いいとこで。で、それを生かしてくということは体に栄養を与えておいて脳はなくて、脳以外の体全体に栄養が行き渡ってしまうわけや。そういう中途半端な生という意味をどこに意味を見つけられるかって言ったら、もうほとんど生というのの人間としての生というものはないような状態をいつまで持たしておくのかというのが今のペグ問題の基本的なことやと思うんだけど。だから今ではごく最近ではもう、むしろペグをやめようやないかという方向に日本も出てきてると思うんだけど。

長谷川:なんか韓国とかでは、呼吸器とか多分ペグの問題っていうのは選択の問題じゃないんです。医療のやっぱり治療の一環としてあるというような位置付けで。

西谷:韓国ではな。

長谷川:韓国では。で、そういう時代がきっと日本にもあったんじゃないかと思って。要は呼吸器についても。で、それが今みたいな判断に切り替わっていくっていうのはどうしてだったんだろうと思って。

西谷:今、ペグの問題は一番ホットな問題で。あれは岩波新書かなんかに人間と医学っていう、僕らの同級生なんだけど、井村君という人は編集者になって、今度の29回の日本医学会総会の寸前に岩波新書で人間と医学という特集、そういう題の本が出てるわ。その中に一番最後にペグの問題っていうのがあって、それを書いてる人は東大の保健学科とかいうのがね、そこ教授してる人だったと思うんだけどね。

02:10:07

西谷:その人は今の日本のペグ問題のきれいに整理して、そういうこと書いてるけど。彼女は学会の勧告が正しいんじゃないかという観点で。学会の勧告というのは要は生命擁護は分かってる、そういう形の植物人間に対してやるべきじゃないという考え方だと思うんだけど。

長谷川:でも、こうしたALSの人に対しての。

西谷:ALSは一番難しいわけよ、だから。

長谷川:ああいう呼吸器とか、ペグにしてもどちらにしても、意識としては生命のまま、その意思を表しできなくなってしまう人に対しての呼吸器の選択だったり、いろいろ選択だったりっていうのが要はそれ自体も治療なんだと一種の。その筋ジスとはちょっと違うかもしれないけど、筋ジスも生きて、子どもで生きて1分でも1秒でも長く生きていてほしいっていうことで、そんな付けること自体が問題にならないのと一緒で。ALSの人もそんなにそれを経済的なことはあったとしても医療の問題としては、やっぱりできる限りは付けるっていう方向性をいくっていうのはないのかなと思って。そこら辺は昔だったら例えば今の韓国みたいにそういう状態になったら状態で見て、そういう状態だったらこれは付けていこうっていうようなものがあったのか。それとも、もう初めから結構高齢になってのことだし、これを付けてしまってもね、その性能からいっても5年ぐらいだとした場合にはそんなに社会的なことを生み出すわけでもないじゃないですか、患者さんが。としたら、動けないし、付けてる間も。見てると、その本人が幸せかどうかっていうのは分かんないとした場合にはやっぱりその選択の問題として患者さんに決めてもらうっていう流れだったのか。

西谷:その辺は例えば呼吸、予期しないときに呼吸器の障害っていうか、そういうことが起こる場合が特に問題なんだけども。もうスパゲッティ症候群はもう嫌だというふうに考えてる人はたくさんあるわけ。大部分の人はもうそんなまでして生きとうないわという考え方、日本人のかなりの人がある年齢になったらあると思うんです。だけども、そういう状況っていうのはこういう人頭で考えてるんじゃなくて突如として起こるわけで。で、気管切開をするかしないかという〓デシロン〓を最終的にしなきゃいけないときの状態というのは、今、目の前の人はこのままでこうして見てたらもう呼吸はできなくなってしまいですと。だけども、切開すれば呼吸器は、呼吸の生涯は改善するし。かなりの期間生きられますよというふうに家族なりが判断を任されると、やっぱりかなりの人が日本人の場合には、「もうできることだけのことやってください」ってこうやって言うわけ。で、親子の間が一番それは強いと思うけども。子どもとしてはもうやれることに多少お金が掛かっても、そんなことはもう構いませんと、こういうことになるんですよね。で、そうすると、そのときに、そうすることによって結果的にもたらされるもの、これから5年間家族はこの人1人のために張り付けになっちゃいますよということを、あるいは本人も決して楽しいことじゃないんですよと。苦しいことのほうがむしろ多いかもしれませんというようなことは、なかなか言えないのよ、その状況においては医者も。

02:15:03

西谷:だから突き詰めて判断はなかなかできない状況において判断をしなきゃいけないという問題があるんだね。〓トウザ〓ともこれ開ければ、一気に楽になるし、死ぬことはないんですと、こういうことになったらね。それは親、子どもとしては、いや、やっぱり親は、なん、できるだけやってくださいってこういうことになるわけやね。そういう中で今まではやられてたと思うのね。で、そういう風土というものはそう簡単には変えられないんで。だから現在でも学会が問題にしてまできたということは逆に言えば、もうこのままでおったら医療費がパンクしますよとか。あるいは、家族がとてつもない負担を追わなきゃいけないんですよとかいう、そういう観点を重視するのか。あるいは、命はお金には変えられないという、どっちを選ぶんかという問題に対して日本人が統一的な考え方っていうのはなかなか生まれないんじゃないかね。

長谷川:どちらにしろ究極的な場面っていうか緊急の場面ではどっちにしても、親であれ子どもであれ長く生きる方法を当事者的には選んでしまうと。その未来がどうであれ。ただ、その選んだ後にはこういう家族の介護負担であったり、いろんなものがあるけれども、その時点ではそういうことを抜きにして選んでしまうと。で、医者もその時点ではやっぱり言えないと、その先のことまでは。言えない状況があって。で、だから事前のほうに安定したときに言って、一応その擁護も言っておこうっていうことで今そういうふうになってきたっていうような感じですよね、多分。

西谷:そういうことですね。

長谷川:で、その態度については今も、その、どっちと決められないってことですよね、多分。はっきりとは。

西谷:そう。

長谷川:多分。

西谷:今でもそういうことです。今でも画一的には言えない。で、その家族の中における1人の個人というものはどういうふうに見られてるかということを含めて、かなりは家族の意思に任されて。で、任された家族はもうずーっと考えてやっぱり大変だというよりは、やっぱりやってくださいという方向に選ぶ人のほうが多いんじゃないの、今の日本で。

長谷川:かなりの部分は多分そういうふうに先生みたいに説明してくださると多分そっちを選ぶとは思うんですけど、説明されるときの医療者のスタンスっていうのがすごく影響するじゃないです○。

西谷:それはあるかもしれん。

長谷川:だからそこでは結構いい先生に出会えるか出会えないかっていうのも一つのやっぱり選択の幅ではあるんですけど。ただ、医療者側もやっぱりどっちかっていうのを決められないっていうのはどの医者もあるんだとは思います。そのスタンスとして付けたほうがいいって言うのか、いや、付けないほうがいいんだと思うのかっていう、この付けるか付けないかっていうものをどう判断するかっていう、ここの迷いっていうのはどのお医者さんにもあって。で、それは一応やっぱり説明のところでどれだけの濃さとしてそれが出てくるのかっていうところだと思うんですけど。やっぱりなかなか難しいですよね。そういうところがその病院の医局じゃなくて、京都だったら京都の医者のつながりみたいな中での方針とかっていうのも結構影響するんですか?

西谷:それはないんじゃないですかね。医局でもそんなに。例えばALSの患者なんてそうたくさん見るわけじゃないんで。僕ら大体、僕の代だけで整理しても100何人かぐらいあったぐらいで結構数は多かったですね。で、余計に筋ジス言うたらその倍になるわけで。

02:20:03

西谷:そういう中にずっとおったからかなりある程度いろんなことも考えて、みんなのもうそういう考えで大体かなり真剣に考えて、やっぱり最終的には医者一人一人に任されるということになったんやけど。それでその一人一人が考えることはこういうことだというところの統一ぐらいまではできたけれども。逆に言うと、医者がそこまで考えると、よほどの特殊な事情がなければもう気管切開しないほうがいいんじゃないと。病院というか医者としての立場でもね。という考え方で割り切ったとこはあるんですけど。

長谷川:それはどうしてですか?

西谷:え?

長谷川:その付けなくてもいい、いいかなっていう医者としての立場としてはそういうふうに言うっていうのは。

西谷:結局、とてつもない時間ですから、家族にとってみたら。それからあとの時間っていうのは。ほとんどはそうなっちゃうんですよ、家族の負担。犠牲において、その人が生きるというか。その生きている人も絶えず、なんでこんな形でずっと生きていなきゃいけないのかとかいうことも当然考えるでしょうし。そういうことを考えると情で決めるのには深刻な問題過ぎるなという気がするんだけど。

長谷川:どんだけ介護保険とか、いろいろな制度が充実してきたとしても家族の負担というのは免れないですよね。

西谷:ものすごい大きな負担ですよね。難しい問題やね。難病対策も似たような問題をいろいろあるわけだけども。だけど難病対策の場合も今言った、さっき言ったような誰もが、社会の誰もが実際はなり得るという考え方で整理しましょうという考え方は僕は今の時点では非常にいい方法だと思うんです。難病対策を前のな、かなり今日無理な分類をしてね。で、この病気は難病対策になったんやからこういうふうにお金は全部国が負担しましょうとか。で、隣の難病の同じような理由で、あるいは少し違う理由で難病対策になれなかった人はお金は医療費は全部持たないかんという、こういう不公平さという、社会的不公平さというものはやっぱりどっかで整理しなきゃしょうがないわけです、政策としては。だからこれはあくまで難病対策というのは政策なんだから、医療政策として考えた場合にはやっぱり別の観点を導入する必要あったんやね。これ、だから20年か30年かに一つの間に、こう、見れてた時期があって僕は実はもうなくなるだろうと思っとったんや、はっきり言うたら難病対策っていうものは。

長谷川:難病対策が。

西谷:なくなったらどうなると思う○なくなったらどうなるかって言うと、いろんなアメリカを見たらですよ。例えばパーキンソン協会っていうものがアメリカに四つぐらいもうできたぐらい○。で、それは全部みんなどないしよんのよって。お金を死んだ人は寄付していくとか、あるいは母、親戚の人は身寄りの人はこの病気で亡くなってから、この病気をなくすためにやってくださいとかっていうドネーション。あるいは会社のドネーションとか、そういうふうなもので協会みたいなものが難病対策に、そういう言葉やなくてパーキンソン協会とかね。そのパーキンソン協会ですら三つか四つか一時、アメリカ独自にそれぞれが動いてた時期があったんだから。そういうふうに特定の疾患に対してはなんていうんですかね、ボランタリーな組織やね。できて。で、その人たちが何らかの意味で身近にお金をもう投じてもいいような気持ちになってお金を出してという、そういうことで組織がつくられて。

02:25:09

西谷:で、その組織には研究者もおれば臨床家もおるしとか、あるいは患者、家族もおるしとか、そういうふうな会、それは患者会とはまた違うのね。だから患者会というのはね、これもまた日本、ある種独特なものがあって。昔から日本にはいろんな病気の人の、こ、こうっていうのがよくあったっていうのが。明治、江戸時代からね。病気の人たちが寄って、いろんな病気の自分のことを打ち明けたり話したり、相談だったりなってあげたりして、つくっていってたものに近いんやね、日本の患者会っていうのは。だからかえって医者は直接あんまりタッチしない場合が多いんですよ。患者会がやって、で、この先生今度は呼んでお話聞きましょうとかっていうようなことで、あとはもう医者のほうはどうもありがとうございました、先生ということで、あとは患者が何人かがお互いの身の負った不幸とかいろんな問題を話し合って慰めあって。で、お互いに力になりましょうという、そういう会なんです。どの患者会もそうなんだよね。だから僕は今ずっと難病、全難連という所の医者の顧問、京都の京難連という所の顧問はずっとやってて。で、患者相談、患者相談というあれがあってね。そこへ週に1回だけど、それは月に1〜2回だけども、今でも行ってるけれども。そこへ患者さんが来て、そこで僕が日程相談載ってあげるという、そういう形でやってる仕事はあるんです。これはボランティアで。それはそれでやっぱり成り立ってるんだけどもね。今ではそういう部分というのはかなりが今度もそうだけども、難病の相談というのは一時期京都府が金を出してたんですよ。で、今の〓ミズタ〓君っていう。

長谷川:そうですね。

西谷:彼がやってたとこあるでしょ。

長谷川:はい。

西谷:あそこは今度は京都府がやるようになって。今年の4月から。で、そこへなんか患者相談あったら相談行ってくださいということになって。もうミズタ君のほうはもう手を引いたんですよね。で、患者会がやるという、患者会じゃない府がやるということになった。それも難病対策の一つの柱になってるんですけどね、今は。今度の4月からはね。だからいろんな意味で随分流れてるか。合理的なほうへだんだんいくんだろうと思うんですよね。

長谷川:ありがとうございました。また次回なんですけど京都の、今日はちょっともう時間取っていただいたので、また先生のお時間がいいときに。京都のその難病の動きっていうのをお聞きしたいと思っていて。

西谷:それは僕はあんまり直接は当事者やないからあんまり分からないんだけど。偶然あれやけど、高谷さんっていう人がおる。高谷と書くんですけどね。

長谷川:あ、高谷。

西谷:高谷さん。京都、京都難病連の、京難連というのが、京都難病連というのは特殊な〓イタシ〓あって京都府との関係は非常に深くて。で、場所も提供してもらって、二条の二条城の真北に社会保険、社会福祉協会っていうのがあるんですけど。そこの4階か5階かな、なんか一番上に今でもあるんです。その社会福祉協、京都で京難連、京都難病連合会というのが。そこの初代の会長しとった人が今でも元気な人がおって。

02:30:00

西谷:で、もともとどっかの先生をしてた人じゃないかと思うんです。高谷修って。高いという字と、それから谷と修って修身の修やね。高谷修という人が今でもその雑誌の編集、責任者はずっとそのまま置いてあって、その人が名前要はなってるはずですけどね。今でも耐えずいろんな医療問題には関心がある人で熱心な人がおるんですけど。その人に聞かれたら京難連のその人の始まりの部分はよく分かってると思うわ。

長谷川:分かりました。

西谷:ここに、この雑誌これいつ書いたかな思うて、今もさっきから思うとってん。これどこに出てました?

長谷川:これ、『難病と〔在宅ケア』〕。

西谷:あ、これか。

長谷川:ええ。

長谷川:在宅ケアで。

西谷:こんなもん書いてんねやな。覚えてへんねんけどね。

長谷川:難病センターの所辺りの。その難病センターを立ち上げるときとかの話は少しだけ聞いたことがあるんですけど。難病連がやるのか、あるいは宇多野が委託で関係するのかっていう。あそこら辺の話とかちょっともめたみたいなところが書いてあったと思うので。そこら辺とか。

西谷:そのポイントにおいては、このとおりやと思いますけど。これいうの流れというのは今では新しい流れということになるんだろうけども。これはだから、あれが新しい方向へできた直後やから去年ぐらいとちゃうの?これ、書いたん。

長谷川:2000。

西谷:2008年か。だいぶ前やな。そっか、2008年にはもう書いてたわけか。あ、そうか。こんな本〓ヨンダ〓時代やな。だいぶ前やな。ある程度○。ある程度はね。

長谷川:そうですね。あ、じゃあ先生はずっとここの病院にいらっしゃるんですか、もう?

西谷:うん。僕は宇多野病院って平成6年だからだいぶ前や。

長谷川:あ、そうなんですか。

西谷:定年退官なったのはね。それで、それからこれは頼まれてちょうどその頃に京都専売病院っていうたばこ会社の病院があって、そこが京大系の病院で僕の友達がやってたんだけども、院長やったんやけども。ちょっといろんな看護婦さんの反乱やらに遭うて「もう、はよやめたい」って言い出して。で、さっきの井村っていう僕の同級生、京大の総長してた親しい男が「行ったってくれ」いうて言われて。で、6年ぐらい京都専売病院で今度ホテルになるとこがあるんですよ。東山の七条に。今もうホテルになってるけど。そこの土地でいい病院だったんだけども、100何床やろ、170床はあったかな。それぐらいの病院で5〜6年やって。その後、武田病院っていう○やけども、もう一つ武田病院って兄弟2人が同じ名前で、ここは京都武田病院で。で、駅前にもう一つ武田病院っていうのがありますね。

長谷川:ありますね。

西谷:あそこの名誉院長になってくれへんか言われて。専売辞めたときに行ったのね。そこに5〜6年おって。そしたらここが回復期のリハビリテーションっていうものを中心に今やりかけてたら突然その中心になってた人が〓イソガヤ〓さんって一つの上の、イソガヤさんって人が突然「辞めたい」言い出して困ってるんで。

02:35:04

西谷:で、兄貴のほうは兄弟だから兄貴のほうは兄弟だから兄貴のほうは弟に頼まれて、ここの病院の今は理事長だけど、その当時院長だったんだけどね、院長に頼まれて「あなた行ってあげてくれへんか」、「リハのまとめ役が居ないんで困ってるんだ」言われて。僕は神経やってたときのリハビリっていうのは、そう主にやってたわけやないけれども、○の割に早い時期にリハビリで浪人したという経験はあるし、ほな、勉強もしたいし行ってもいいですよって。それでここへ来たんです。で、ここ来てからもう10年ぐらいなるな。11年なのかな。

長谷川:先生はなんで難病というか、その神経内科の先生になったんですか?

西谷:だからそれは脳血管障害が中心やな。

長谷川:それ、大学のときにもうこういう道に進もうって決めてたんですか?

西谷:え?

長谷川:大学医学部入ってからもう。

西谷:僕が?

長谷川:うん。こういう道に進もうって。

西谷:脳がやりたかったということやね。脳の神経にもずっと一貫して興味があったから。で、その当時は難病が一番大きな問題で。僕はなんか目の前にあるものにもう従うという方針なんで。で、難病が中心になってきて。で、宇多野辞めてからはそんなに難病ってたくさんはないんだなあいうことも分かったけども。こっち来てみたら血管障害はもういっぱいおるし。今でもそうだね、僕はだからそこでは神経内科とはいいながら、難病、リハビリとはいいながらリハビリは一緒にそのカンファレンスで見るだけでね。これだけのこれ、毎日のカンファレンスや。

長谷川:すごい。

西谷:これは1カ月間にこれだけの患者。これ1ヵ月ね。平成10年。1000、2000。

長谷川:10年。

西谷:10年の3月でしょ。で、それ1カ月間。これ実際はもうちょっとあるんだけど、こっち3カ月ぐらいずつ退院、入院して退院していくので。この人なんか最近もう一遍入院してる人だけども。そういう人の、これは僕のメモなんだけどね。ずーっとこんだけなって。ここ○から向こうの端まである。3,000例ぐらいの血管障害見てるわ。

長谷川:すごいなあ。

西谷:で、見たときに僕は必ずチャートを書いて、ここに。絵を描くんですよ、これね。で、もう行く前に作っとくんやけどね、こういう図を。で、ここはリハビリテーションのカンファレンスのあれね。で、この頃はちょっとこんな絵描いてるけども、今はまだ○変わってきて、もうちょっとちゃんとした〓シホウ〓ができてきてるから。今だったらこんな絵を囲んでや。これは〓フィム〓っていう数式なんだけどね。これ、〓タケモト〓さんって、〓タケ〓さんって〓イケモトタケ〓さんっていう人だね。これ4月でしょ。で、12年の平成12年の4月19日。そのときのフィムはこんな量や。なんぼよ、これ。44やね。で、1ヵ月して5月30日にもう一遍カンファレンスで。で、カンファレンスのメモはここに書いてある。で、データは95まで上がってものすごい良くなってるけどね。病気は〓シュヨノウキョウ〓出血やからあんまりどこもやられてるように見えないけども。これやられてるやつは、この人なんかは、これまたなんつう名前や。〓ミョウガヤ〓さんか、ミョウガヤさん、ミョウガヤさんは5月、同じ日に5月29日、これ前、よく、前の日か。カンファレンスやってるけどね。そのときの、それ、もうあんまり脳萎縮はある、ここに。で、〓ピム〓は76やね。で、1ヵ月したらこれは同じ人やと思うけど。あ、これはまた別の人か。これ、〓ドバシ〓さんや。ミョウガヤさん1回だけで大体3ヶ月ぐらいおる。○96。この人は〓サカモトフサロウ〓さん。これは肺炎も、肺陽性のあれで肺。脳の血管障害はあまりないんですけどね。ちょっとあるけど。こんなひどいやつとか、もうほとんどの人がもうびっくりするような脳障害や。

02:40:00

西谷:で、だけど3カ月ほどおると、これで33、33、41。で、もう41、5月までおって、あまりよくならないんで、もう要するに転科したはずやけどね。大体3〜4カ月ずーっとおるわけやね。それが何人も。年間何百例になるかね。200例ぐらい。100例、100例は〓ボウ〓の週に5人ぐらい入ってくるんやけどね。で、それいろんな病院で急性期終わって、脳血管障害だから。急性期はいろんな手当が要るけども、あとはリハビリのほうが大事だっていうことで、リハビリ、ここはリハビリを中心にしたセンターがあるんだ。そこに神経内科医で立ち会ってる。それだけのことなんだけど。僕は脳血管障害ってあんまり専門にしなかったから勉強にはなってるけどね。だから今ではそっちのほうがよく見るわけだけども。たまには難病もいろいろ見るけどね。

長谷川:京大ですよね、先生?

西谷:え?

長谷川:京大出身。

西谷:うん。京大を卒業したのは昭和29年やからね。1900何年や。1954年か。54年や、卒業したのは。

長谷川:そっからもう難病の?

西谷:うん。そっから初めは難病というわけじゃなくて一般の神経学をやってて。で、アメリカに行く前にもう博士論文は終わってたんやね。博士論文は脳波を見るという仕事で脳波で内部密度疾患の脳波とかいうのをやってたんやけどね。それで論文書いて。それから昭和40、39年にアメリカに行って、2年間おって日本に帰って来て。そこで初めて神経内科という小さい外来をつくって。で、10年ぐらいおって、それから大阪北野病院っていう所行って。そこでまた神経内科。そこはもうたくさん患者集まったけどね、難病やってるということでね。○だけでも京大で70〜80例見て、で、大阪北野へ行ったら3年ぐらいで40例ぐらい見たかな。だから、200例近い患者を○200床という難病の一つだけでね、一番患者たくさん集めてた一つだったけどもね。で、3年○たときに今のスモンの問題が出てきて。で、スモンの問題をまたスモンの問題やるとは思ってなかったけれども、難病というのはただ急性期の病院、北野病院っていうのは忙しい病院なんだけども。もう目の前からいろんなパーキンソンとかそういう患者さんはどっか来るんだけども、どっか行っちゃってどうなったんか分かんないというあれが多かったわけね。こんなことしとったらあんまり勉強ならんなという気がして。そうしてるときにちょうど難病問題が出てきて。で、「宇多野にもつくるし、来んか」と言われて、それで行ったんですよ。

長谷川:じゃあ難病のその、それこそ概念自体がないときからそういうのに取り組んで。で、その過程でなんかスモンとかいろいろ出てきて、難病っていうものが出てきてっていう。

西谷:そうやねえ。流れに任せてるんだけどね。

長谷川:そうですか。なんかその時代とかって京大とかとのつながりずっとあったんですか?

西谷:いや、もう初めなかった。初めはね、京大には神経内科っていうのはできたんは55年ぐらいじゃないかな、昭和。1955○。

長谷川:先生が大学されたときにはなかったんですか?

西谷:昭和40、昭和55年頃。だから、あるときそういう小さいクリニックである程度患者バーッと集まってきてたんやけれども、大学の講座としてはなかったんですよ。神経内科学という講座は。

長谷川:じゃあ先生が大学されたときにはなかったんですね、それは。

西谷:僕なかった。僕はだから内科の第2内科の神経外来というのをつくって。で、患者が入ってきたら、そこで外来で見て。で、入院が第2内科に入って。で、何人かの若い人と一緒に見てたわけね。で、僕が持つ病院、部屋、第2内科という所は随分プロフェッサーが次々と代わって。

02:45:02

西谷:僕が入ったときは内分泌の先生がプロフェッサーやったんだ。で、そこへ行って「あんた何がやりたい?」言われて「僕は神経内科やりたいんです」って言ったんが始まりやけどね。それは3年間、高松日赤という所におって最初に赴任したとこは高松日赤の内科の医院に行って。で、見てるうちにいろんな病気があるけれども、神経が一番分からんのよ。分からんし、あんまり何だか、面白そうやなあという気がしてたから「神経やりたい」と言って、〓ミヤケ〓先生に言ったら「いいだろう。1人ぐらい神経やる人がおってもええ」って言われて、それでそこで神経始めたんやね。で、それからずーっと流れ、流れていろんなことやって。次の教授は今度は、僕もアメリカ行って帰ってきたら、今のミヤケ教授という内分泌の教授が辞めておられて、今度は免疫の先生だって。で、帰ってくるなり、ミシガン大学っていう所におって帰ってくるなり「あんた何やりたい?」って言われて、「いや、僕はアメリカで2年間○神経の臨床も見てきたし、神経で飯が食えたらいいんですけど」って言ったら、先生面白いよ、はっきりもの言う人で「君、神経なんかで飯食えないよ」言われて。いやあ、食えるはずやと思たけどもね。だけど、患者はおるという確信はあったからね。だから、それは、やれると思ったけれども。その先生が二つ目に神経だけじゃ飯食えないと。で、「わしはもう免疫を専攻するから、免疫の研究できない限りは君はうちにおってもうてもしょうがない」と、こう言ってはっきり言ったからね。困ったことになったなと思って。だけど神経内科というのと免疫をどう結び付くのかっていうような、全くその当時頭の中では神経、免疫の、神経、というのは脳というのは免疫の外界からの侵襲からは免れるというのは脳の特徴だといわれてたんやね。例えばばい菌が、こう、血中を回ったとしても脳には回らないとかね。そういうふうにバリアーがあるとね、外敵に対する脳は独自の脳のバリアーがあるから入らない、リンパ球も入らないという、そういう考えただったんだね。だけども、実際にはやっぱり入って、いろんな問題を起こすことはだんだんに分かってきて。だから神経免疫って学問は僕は行って初めてやり始めてみて、何人かの人がそういうことを言い出して、それで始まったみたいなもんやな。だから今のところ、だけど神経免疫学というのは結構大きな領域になってきてるんですけどね。だけどだんだん難しくなってきて、さっきのTさる、T細胞、V細胞という程度でやってたときには僕もキャッチアップできたけども、どんどんT細胞も、よん、42とか33とか44とかいう番号をうつぐらいまでT細胞の分類までできてきた。その辺なるともう追いつかないなと思って。もう年齢、定年だし、もう、と思ったらちょうど血管障害の話が出てきたから、もうちょっと勉強してみよう。幸い目の前に来るのはちょっと普通で考えられないような患者さんがたくさん来るしね。だからこの歳でもまだやることはいろいろあるんだけどね。

長谷川:すごいなあ。ありがとうございます。多分またお話を本当に面白かった、聞かせてもらうことがあると思う。これなんですけど、今日のインタビューで謝礼を本当にわずかなんで出せ、出せって。で、そのためにはちょっといろいろ書類のことを書いていただいて、よかったら返送して。

西谷:はい、分かりました。公共政策学部っていうんだな。

長谷川:はい。今居る所は。前は立命館大学の先端総合学術研究科っていう所に居たんですけど。

西谷:学術振興特別研究会、研究員というのは何年生なの?

長谷川:今3年生です。

西谷:3年間は給料はもらえるわけだね?

長谷川:はい。

02:50:00

長谷川:難病の概念があんまりなかったっていうのはすごい面白いな。

西谷:そうですね。

長谷川:今やっぱそこで揺れますよね、皆さん。やっぱり難病というものをどういうふうに位置付けるかっていうのが。

西谷:うん。

長谷川:難しい論点。

西谷:その問題の僕はインターネットに書いてるでしょう。

長谷川:はい。

西谷:今の本の最後のほうのあれは実はインターネットで出してるけど。あそこに書いてあるけども、ちょうどその仙台病院行ってたとき、暇ができたし、難病、一つは難病の歴史みたいなものは残しといてもええなということがあったんと。それから、これからじゃあ難病はどこへいくのかというのをね、自分でも知ってみたいな、知りたいなというのが両方の意味があって、いろいろ読めるものは読んでたんやけども。その中で一番参考になったのは、そこにちょっと書いてあるけども、慶応大学のね、何とかって○なあ。キャンベル、この人は慶応の何ていったけな。慶応の池上〔直己〕先生という教授が〓イワラハッタ〓わ。政策医療、慶応の政策医療の研究者の中に。その人ん所へキャンベルさんは1年か2年か来て、今、日本、日米の関係、国際関係やね。いわゆる政策、政策関係っていうか、お互いの。それの一番のボスやけど、今では。ここへ来て。で、日本政府と高齢化社会という題で割に、ぼ、膨大な本だけどね。この本を読んだんですよ。で、この難病も政策関係の一つだしと思って見てて。
 で、そん中で彼が割合と上手に整理してて。難病対策のことは意外に書いてないんですけどね。こう、高齢対策というかね、高齢化という問題を中心にして日本は政策医療を次々とやってるとね。これはそやな。日本研究というのの今ではトップになってるけど、キャンベルって。ミシガン大学やったかな、の人やけどね。で、彼が日本の政策っていうのは割合と次々と転換してってるという考えで。なぜ、どうして転換に成功してるかと。日本のほうが老人対策一つとっても、結構時代をキャッチアップしてるのはなぜだろうと。そういうことで池上さんと一緒になって、この、こういう問題を考えだして。で、彼は四つのモデルというのを考えて。政策○終わった後、ポリティカルにエネルギーが起こってきた。つまり変革なエネルギーですね。これがあって、解決するためのアイデアというものも十分に準備された段階でできた。こうなるのが一番いいというわけね、政策は。で、だけども実際にはエネルギーがなくなってしまうと、〓ルチ〓になって慣例的になってしまうんだと。で、そうなると政策はもうあんまりよくならないと。だからそういう目で日本の政策の変換というものは、ずっと行われてるし、これからもそういう方向だろうという考え方だったんだ。で、その中で高齢者との問題を中心にこのアイデア誰がやったかと。この人はどういう人がこのアイデアを出したかっていうこと、そういうとこ詳しいことまでつくってやってるわけね。で、ポリティカルで進められててもやね、エネルギーがなくなるだろうと。

02:54:58

西谷:で、なくなったときには新しいエネルギーの持ってきた波にさらされてそっちが中心になっていくという考え方なわけだ。僕もそれ賛成だなと思って割りと詳しいそれを読んでみたんやけども。僕はこの段階では難病は先覚なエネルギーが非常に多かったと。これ時代のエネルギーやったからものすごい大きかったと。で、そこへアイデアは今の冲中さんがやったああいう方法で集中してやるという方法。だからアイデアはどっから生まれたかというのは、つまり冲中さんの筋ジスに対する取り組みというのの中に多くのアイデアが含まれてたん違う○な。そういう考えで書いてみたんや。一つの骨子としてね。何か骨子がないと書けへんので。そうなると、今度どうなるかと言うと実はこのときには、この時点では僕はアメリカ流に財団が難病取って代わっていくと。そして実際にはこれを、この、生まれたアイデア、変革のエネルギーがだんだんなくなってきてるわけだから。そうすると、ルーチン化してしまうと。で、何か次のものにいくだろうと。その次のものが高齢社会、高齢化対策、あるいは地方対策とか、そういうふうな大きな次のエネルギー。これ確かに今一番大きいよね、考えたら。だからそっちにそっちの中の一部としていくだろうというのは考えあったわけだ。で、多分僕は福祉がやっぱり中心になっていくだろうと。医療が中心になって押してきたけれども、いずれは日本のいろんな問題見てたら福祉のほうが大きな問題になってくるわけで、福祉の中に取り込まれてしまうん違うかなという考え方ではあったんやけどね。実際に一部は難病の患者も福祉の中に今一部として取り込んでるけどね、あんまりうまくいかなかったんですけれども。実は思いがけない遺伝という考え方から人間のは、誰でもなるんだという考え方でもう一遍、みなお、難病、たい、難病を見直してみたら全然発想を転換させたことになるんだけ、と思うんだけども。遺伝というものによって誰でもなるもんならば、特定の人だけが恩恵を受けてる。で、隣の難病は恩恵を受けないという不公平な政策が成り立たなくなってるわけ、現在ね。だからそれが今度の4月において、かなり明確に打ち出されてるだろうが、成功するんじゃないです。それしかなかったかもしれないなと思うんですけどね。ある種うまくやったんと違うんかなと思うんです。難病対策の収束の仕方としてはね。

長谷川:でも全体としてはそういうふうな収束の仕方ってことですよね。個別のもちろん難病団体とか患者会の意向は別としても全体としての収束の仕方としてはそれだったということですよね。

西谷:そういうふうに見れるんだけどね。それが僕のおち。あとはなんか役に立つ文献がないかな。○実はね、少しなんか、なんていう人やったかな、あの人は。〓コウノ〓何とかっていう人が東京におる人で大学の、大学院の修士論文を今書いてる人おるわ。難病対策中心に。その人が来たときにだいぶいろんな資料貸してあげて、そのままになって、今度送り返しますって言うてそのままになってるんだけどね、これは最後に僕が作ったやつで、平成6年か。辞める寸前にね。それはあげるわ、もう。もう余分な○。

長谷川:そうなんですか。ありがとうございます。

西谷:これは持ってるか?

長谷川:それなんです?

西谷:これは僕の神経学の○。

長谷川:○。

西谷:これも余分なのあるし、あげるわ。

長谷川:ありがとうございます。なんかすごい資料頂いてうれしいです。すごい。

03:00:01

西谷:何か論文ができたら送ってください。

長谷川:はい。またお話も聞かせてください。

西谷:はい。

長谷川:ありがとうございます。


UP:20180821 REV:
西谷 裕  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇声と姿の記録  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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