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『生存学 Vol.8』内容紹介:特集「クリエイティブ母」

村上 潔 2015/05/16・19 立命館大学生存学研究センター Facebook

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last update: 20150520


■『生存学 Vol.8』内容紹介:特集「クリエイティブ母」

┃2015年5月16日22:55 立命館大学生存学研究センター Facebook
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1598314940435487

生存学研究センターの村上潔です。

ここでは、私が構成を担当しました、『生存学 Vol.8』の《特集2:クリエイティブ母》について、簡単な紹介(お読みいただくための誘[いざな]い)をさせていただきます。

なぜ私がこの特集を組んだのか、その背景・趣旨については、
◇村上潔「特集解説:なぜいま「クリエイティブ母」なのか」(pp.208-212)
に記してありますので、そちらをお読みいただければと思います。
ここでは少し別の角度から、この特集を発案した経緯を説明します。

「母」は、「主役」にはなれても/(なりたくないのに)させられても、「主体」にはなれません。ならせてくれません。
「ていねい」な母も、「意識高い」母も、そして「クリエイティブ」な母も、しばしば女性誌やライフスタイル誌の主役に引っ張り出されますが、それは“外から”(主に消費の範疇で必要とされて)付与させれた規定/像であって、生きて暮らす母そのものの主体を示すものではありません。

生身の母は、そういった主役化にちょっと喜び、同時に戸惑い、時にはいらつきながら、生きて暮らしています。ただ、そういった感情や感覚が言語化され、社会に共有されることはまずありません。そこをまず問題にしてみたい、きちんと言語化されたものとして残したい、と思いました。

次に、「では本当の主体性をもった母の行為とはどういうものなのか。いま、それはどうやったら遂行可能なのか」という課題を設定する必要があると感じました。
もちろん、本当の主体性をもった母の行為など存在するのか、という問題はありますし、あったとして、それは(主にジェンダーの問題として)よいことなのか、という問題もあります。そこはたしかに重要です。重要ですが、それを先に言ってしまってはつまらない、と思いました。とりあえず、あったらおもしろいのだから、おもしろいことを先に考えよう、と。

とはいえ、これが、追究していけばいくほど、あんまりおもしろそうでなくなってくるのです。言い換えると、ポジティブじゃないんですね。でも、かわりに、そのおもしろそうでなくなってしまうことそのものが、おもしろくなってきました。「クリエイティブ母」の何がおもしろいかといえば、その、ポジティブには考えられない、おもしろくなさの様態と内実です。
まあ、うんざりする話もたくさんあるわけですが、うんざりする現実を目の前にして、でも目の前にいる子どもや友だち(ネット上だけの友だちも含む)と、一日のうちになるべく多く、楽しい時間、何かを共有する時間、何かを創造する時間を作り出す。日常の生活にぶつぶつ文句も言いながら、頭の残りの部分で考えて、家事・育児の片手間にやってみる。失敗して落ち込んでも、夫にいやみを言われても、また次の日に別のことをやる。その一連の(あまり発展的には見えない)過程が、たぶんいちばんおもしろい。それを私は確信しました。
そうして、この特集を構成することができたわけです。

とはいえ、私の確信などとは別問題に、単純に「クリエイティブ母」という名指しに期待がもてると思う人、もしくはむかつくという人、どちらもいるでしょう。いずれにせよ、みなさんには、この特集をお読みいただいたうえで、お好きなように、自分なりの「クリエイティブ母」を実践したり、くさしたりしていただければと思います。うさんくさい、と思われたら、じゃあうさんくさくない「クリエイティブ母」ってどんなだ?、と考えてみてください。そしてよければ(できれば)、自分なりの考えや実践を、ブログなりZineなりで発表してみてください。他の人の反応を聞いてみてください。それでうれしくなったり、落ち込んだりしてみてください。
それが本当の、主体としての「クリエイティブ母」の出現(増加)につながってくるのだと思います。私はその力を信じています。

[村上潔]

■【続】『生存学 Vol.8』内容紹介:特集「クリエイティブ母」

┃2015年5月19日22:55 立命館大学生存学研究センター Facebook
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1600890986844549

生存学研究センターの村上潔です。

5月16日に投稿した文章(https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1598314940435487)について、少し補足いたします。

先の文章を読んで、
◇家庭における母の(母的な)創造的な行為など、「(母であろうとなかろうと)女がずっとやってきた(やらされてきた)」ことではないのか。なぜいまさらそんなことを問題にするのか。
◇なぜ「クリエイティブ」などといううさんくさい冠をつけるのか。そんなことをしたら、性役割、感情労働、アンペイドワーク、といった「問題」が不可視化されてしまうのではないか。
という疑問・批判的見解をもったかたがいらっしゃるかと思いますので、あらかじめそれにお答えいたします。

「そもそも女はずっとやってきた(のに、不当にも無視されてきた)」という主張は、それこそ女性労働問題研究や女性労働運動の文脈(非正規雇用、アンペイドワーク、感情労働、そしてワーク・ライフ・バランス……)でさんざん「決めゼリフ」とされてきたものです。いまも――おそらくそれは(現実が変わっていない表れという意味で)不幸なことなのですが――されています。その主張は、そして、それをしつこく主張し続けることは、基本的に正しいと思います。ただ、それだけでは少しまずいと思います。
まずい、というのは、戦略的に有効でない、ということだけでなく、その主張に固執することで見逃す部分があるからです。
簡単にいえば、現在の、「学歴のある」・「余裕のある」・「能力の高い」・「意識の高い」アッパーミドルの主婦/母たちの動向を捉える際に、その物言いが有効・適切かというと、そうではないと思うわけです。従来、そうした層の動向を指して言われてきたような、「ニュー・ワーク」・「賢い消費者」・「生活者」・「オルタナティブ」・「ディーセント・ライフ」というような言葉では、いまの彼女らの利害や選択や妥協の意味をつかむのには十分ではありません。普遍的な労働・消費・アイデンティティの問題だけでなく、「手しごと」の意味づけの変化、変動的な文化受容形態、創作物を共有する「つながりかた」の選択、といった要素を考慮に入れて評価することになります。その際に、なにがしか、既存の市民社会的セオリーを少しばかりふみ出した、エキセントリックな大枠の規定が必要になると思うのです。
私が今回の特集で「クリエイティブ」といううさんくさいニュアンスの表現をあえて掲げたのには、そういう背景があります。「そもそも女は……」でいわれる文脈とは別の(プラスアルファとして、もしくはまったく異なる新しいものとしての)動向の重要性を指し示すために、いま思いつく限りでもっとも適切な・有効な言葉だと判断したのです。基本的には、いい意味。だけど、なんだか後ろめたい、気恥ずかしい、欺瞞的、揶揄的、自虐的、なニュアンスも入ります(これは日本語の文章でカタカナで書くとなおさらですね)。さらに、上記の要素に付随して、この言葉は、対象・主体の「階層性」への意識も促します。そうした点がいいなと思いました。よって、この言葉を使うことによって、当事者たちの、自尊心と挫折感、謙虚さと楽天性、やりがいと疲弊、といった自らの存在認識のバランスを、うまいこと表せるのではないかと思ったのです。
いずれにせよ、これからの「母の家庭における創造的行為」に関する研究・論評においては、従来指摘されてきたことと、それでは捉えきれないことの、連続性と断絶、普遍性と特殊性、可能性と危うさ、の両面をきちんと――分けられない部分も含めて――提示する成果が必要になってくるのだと思います。本特集が、そのための足がかりになれば、と願っています。

[村上潔]

*作成:村上 潔
UP: 20150520 REV:
全文掲載  ◇『生存学 Vol.8』 
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