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書評:立岩真也『自閉症連続体の時代』

石川 憲彦 2015/04/10 『精神医療』78:156-160

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■立岩 真也 2014/08/26 『自閉症連続体の時代』,すず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

『自閉症連続体の時代』表紙

『精神医療』78※,20150410,批評社,174p. ISBN-10: 4826506171 ISBN-13: 978-4826506175 [amazon][kinokuniya] ※
 ※第4次78号 通巻153

 書名通り、臨床に関わる人にとっては必読書。また、これからの時代を真撃に生きぬこうとする人々にも、ぜひ読んでほしい。それは、「ないよりあったほうがよい」ことが書かれている数少ない本だからだ。
 「ないよりあったほうがよい」。これが、キーワードだ。
 そんなことを書くと、「それなら読む必要がない」と感じる人が多いだろう。とりわけ医療関係者は、そうであろうと思う。しかし、実はそう感じる人にこそ必読書なのだ。きょっと謎めいた書き方になったが、この謎解きに私的な話を披露することから始めたい。
 年末に、旧友と会食した。乳腺外科のエキスパートが言う。「昔は、手術の腕の良し悪しで生命が左右されると信じ、猛特訓した。でも、今は遺伝情報と薬剤選択がほば全て。手術はうまい方がいいが、必要性は低下した。救急と心臓血管系以外の外科はその程度」。心臓外科の権威も続けた。「確かに腕の差は大きい。しかし結局は、心から祈り、見守ることしかできない」。精神科医との会話では久しく感じることのなかった「人間ししての謙虚さ」を久々に味わったひと時。最後に、前者が一言付け加えた。「でも、手術絶対から解放されたら、今は仕事がとても楽になった」。
 つまり、本書のあとがきを締めくくる上記のキーワードは、最新医学の素直な現状そのものなのだ。そのせいだろうか、けっこう謎の多い本だ。
 先ず、書名。
 いったい、「連続体」とはなんだろう? DSM5(2013年改定の米国精神医学会の診断マニュアル)が新規に採用した、「スぺクトラム」の訳語なのか? そう読める個所もあ"る(p186)。しかし、違ったふうにも読める。△
 「時代」というのも謎だ。近年、自閉症プームとか発達障害パブルなどと呼ばれる現象が起きている。この現象を明治、徳川、弥生などと同列に論じようというのか、それとも「私の青春時代はね」といった程度の意昧で考えようというのか?
 謎は次々と登場する。書名から離れて先に進もうとしてもたちまちまた謎につかまる。「まえがき」のない本書では、議読者は唐突に序章の次の一文に遭遇することになる。
 「1 発達障害者の苦難は明るい可能性を示している」(以下、序1と略)
 希望に満ちた書き出しだ。しかし、発達障害の現状を少しでも知る人なら、きっと首をかしげるにちがいない。
 最近脳科学は目覚ましく進歩した。とはいえ、せいぜいオキシトシンあたりに新薬の可能性を見る程度。また、認知行動療法やTEACCHに続く新たな心理・社会的アプローチに、それほど多くは望めない。いったい、苦難のどこに明るさがみえるというのか?
 そもそも著者は、医学の門外漢。「発達障害を身近によく知り、体験に裏付けられて書かれた本ではない。現代・現在の歴史をしよう」(あとがき)として、本書を書いたという。
 書物だけから、何が解るというのか?
 いや、そももそも歴史を「する」というのは、いったいどういうことなのか?
 こんなふうに、謎また謎。私などは出口の見えない迷路を進むような体験に陥ってしまった。その原因は、著者が過去とは異なる第4の道を模索しているのに対し、私は従来の学問体系や思考方法から自由になれないことにあるようだ。ひがみっぽく言うと、GPSを使いこなせない私は、北極星や羅針盤に頼って本書を読み解こうとするので、迷路の脱出にてこずるというわけだ。それでも読み通した今は、ほとんどの謎が氷解したように感じる。そして確信する。著者の示す第4の道は、障害者に特有の道どころか、次の時代を生きる大多数の人が辿らざるを得ない「時代」の本道だと。
 著者が長年葛藤を重ねながら取り組んでいるのは、膨大な資料。確かに、障害者に関連することなら、学術書、運動論から近年急増している障害当事者や家族の著作、それも成書はおろかネット上の小文に至るまで、丹念に目を配る。多分本書の一頁を書くために、その何十倍の様々な人の文章と格闘し、考え抜いたのだろうに、文章は読みやす△158 くすっと頭に入る。
 その新道を古い羅針盤で案内するのだから、私の解説は誤差が大きくなるだろう。それでも、先ずは序1の謎を検討してみよう。
@必需品の生産が、少数の人間で賄える時代になった。
A結果、対人関係に気を使う仕事しかなくなり、対人関係の苦手な人が発達障害として目立つようになった。
 かくして、発達障害とされる人の苦難が増強し、社会問題化した。こここまでは、よく知られた内容だ。しかし新しい道を歩くために、著者は、@に次のような予想外の再評価を試みようとする。
B大多数の人が生産の苦しみ(苦痛な労働;レイバー)から解放された。とすれば、だれもが自由な、楽な生き方をしていいはずだ。現実に今日の過剰生産は、そういった生き方を充分許容できている。
 もしそうなら、少数者の苦難が多数者の明るい可能性を示すという著者の言葉も理解できる。ただ、ここで注意すべきは、発達障害者の苦難が、苦痛な生産労働によって生じているわけではないという点だ。
 少し難しくなった。そこでキーワードに戻ろう。物事(もの・こと)には、「必要な物事」以外に、キーワードと「なくても(どうでも)いい物事」「あってはよくない物事」が:ちる。DSMiを片手に、なくてはならないことをしていると信じたい精神科医には了解しがたくとも、圧倒的多数の人間は外科医同様「必要な物事」とは言えない仕事についている。そして、「必要な物事」以外で、苦しみ悩んでいる。
 この問題の本質を展望しようとするのが本書の第一部の6つの章で、発達障害者自身の記録を中心に、彼らの苦痛が圧倒的多数者の苦しみと同質の起源をもつことになった直近の歴史を示していく。同時に、彼らも私たちも、ようやく入手したはずの明るい可能性をうまく使いこなせていない歴史もあきらかになってくる。
 ここで、私の羅針盤は先の大震災を指す。立ち尽くすだけで自分自身と精神医学に強い無力感を感じていた私。神戸以来、精神医学はトラウマとその予防・治療について、声高に語ってきた。しかし、福島にはなにも語れない。それは想定外だからではなく、精神科科医療が歴史から何も学んでこなかったことによる。
 著者は、歴史を通して「より広い範囲で知られてよいことがそのままにされている。考えられてよいことが考えられていない」現状を照らし出す。そして序章の2「知識・行為・責任」という項で、歴史を「知る」「考える」(つまり知識)が重要なのは、より有効な対処(つまり行為)につながるからだと宣言する。△158
 羅針盤は、住む土地の地震の歴史を知れと告げる。
 風は、いつ、どの方向に吹いたか?
 風向きを知れば、放射線をうまく避ける逃げ方を採用する可能性が高まる。原発と放射能の歴史では、普段は気にもかけないような卑近な「あったほうがよい」知識こそが、歴史上の重大事となることが少なくなかった。災害では、誰でも容易に知り得るはずの経験値こそ、臨床家以上に雄弁だったのではなかったか。
 本書にもどると、第一部は「発達障害」について、知り、解り、誤解や偏見から離れて自分を好きになり、うまい身の処し方を会得していくという一連の流れについて検討する。この流れの中で、誤解や偏見から障害者を解放しようとし、一定の前進と成功を獲得した道もあった。しかし、これらの道が、逆にうまく生きることを妨げる可能性を生み出してきた歴史もまたあったことが紹介される。
 最後に、様々な努力と工夫にもかかわらず未だにうまくいっていない点があぶり出される。読み進むうちに次第に明確になっていくのは、発達障害者の苦難は、実は現代の多数派が体験している(いくであろう)苦難であり、それ故「明るい可能性」も時代に向かって開かれているのだということ。そして、明るい可能性をうまく使うことができていない責任は、実は私達全員にあるということだ。
 責任?
 地震の場合、直接の責任を問われる人はいまい。予期できたのに警報が遅れた。無用の火災を出した。そういった人災については、限定的に責任を問われるかもしれないとしても。一方、原発問題では、責任問題は無限に拡散する。電力会社や政府はもとより、許認可を行った自治体、その住民、更には……。誰かが責任を取らないと、生きていけなくなる人もいる。
 責任が問われるところでは、人は免責を求めざるを得ない。原発では、責任と免責は全有権者に及ぶ。最大の被害者とて、責任や免責の対象となる部分がある。このことは本来なら、連帯的な連続性を生む筈だ。しかし、いざ賠償となると、被害者間でも加害者間でも分裂と責任のすり替え合いが起きたりして、ついには誰が加害者で誰が被害者か、一番単純なはずのことまでが混乱し、分断と対立の渦に巻き込まれてしまうことも起る。
 必要なのは、今の「時代」の免責の不均衡をどう解決し、未来にどのような明るい可能性を求めようとするのかだ。序章の3は、「誰にとってのことか」_と間い、「V社会Vを問題にするもう一つの捉え方が有効」だと予言した上で、本書第二部で第4の道への提案がなされる。△159
 さてー本文を各々のGPSで読み解いていただく時が来たようだ。最後に文初の書名の謎に戻ろう。
 スべクトラムという言葉は、プリズムを通して自然光が分光されるところから生まれた。しかし、DSM5はこの言葉を「自閉性」「統合失調」などの部分的区別を強調するるために使用し、大本の自然光と切り離し別物にしてしまった。私は、これによってDSM5が医学の流れからも社会の動向からも完全に取り残されたと考える。この私論は別稿(「発達」No139, 2014)に譲るが、本書の「争いと償いについて」と題した補章を読めば、いかにDSM5が歴史性を見失い、道を誤ったのかについて貴重な示唆が与えられるだろう。
 書名は、生きることの全体性と連体性のなかに「連続体」という言葉を位置づけようーとしたのではなかろうかと、わが羅針盤は指差すのだが……。」


UP:20151227 REV: 
石川 憲彦  ◇『精神医療』  ◇『自閉症連続体の時代』  ◇全文掲載 
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