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インタビュー:坂本 喜教氏(NPO法人くるめ出逢いの会代表)
場所:オープンスペースゆるか

聞き手:長澤 奈緒子(インタビュー所要時間:2時間9分34秒) 20140908,24p.

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last update: 20210529


■坂本 喜教氏について

◇arsvi.com内にある、坂本 喜教氏個人ページ


■インタビューPDFファイル

インタビュー:坂本 喜教氏(NPO法人くるめ出逢いの会代表),場所:オープンスペースゆるか、
聞き手:長澤 奈緒子(インタビュー所要時間:2時間9分34秒) 20140908,24p. [PDF]


■インタビュー本文

坂本:立ち上げの経緯はあの藤林、あのまあ、初代の代表がですね、肥前の方であの、ソーシャルワーカーしてた経緯がありまして。

長澤:あ、肥前なんですね。

坂本:はい。で、あの、まあ、子どもができて辞めて、ま、ママさんしてるときに、あのまあ、たまたま尋ねたあの、精神障害者の作業所で。そこで、指導員をやってくれる人を探してると。で、他のところでなんかこうまた別な話を聞いたらしい。会話が、要望するけん、お互いの会話が繋がってないと。だ、A41枚でいいから情報を伝えるような発信をしたいと。ま、それを考えて、あの昔のあの、県庁、あそこであの、集まりを開いたんですよ。で、そこに集ってきた仲間たちがあの、藤林と一緒に作ったのが「くるめ出逢いの会」で。あの、藤林自体股関節の手術をして、当時はあの、松葉杖をつきながらだったけど。で、あの、ほんとその、A4一枚でいいから情報を伝えるものがいる、そういう情報の発信源になりたい、十字路になりたい。

長澤:「交差点」っていってる。A41枚というのは、発信するものというのは、どういうものを発信したいと。

坂本:それはまあ、作業所をやってる家族会の人たちが指導員を雇いたいと思ってる、探してると。そういった、繋がらない情報をつなげたい。

長澤:個々に探すのではなく、それぞれの作業所がみんな困ってるっていう状況

坂本:いやそうじゃなくて。あの、要するに情報が、あの、こっちではこう考えてるんだけど、こっちではそれを待ってる人たちもいるんやけど、その情報が伝わってない。要するに情報が行きかってない。そういう行きかうような交差点。それが、出逢いの会の最初の考え方。だからあの、出逢いの会発足当初は、学習会、交流会を月に一回ずつ、交代でやってたんですよ。で、あの、その当初そういうのやるの珍しかったからですね。だから、物凄い参加人数でやってたけど。それもまだ、Kさんとかもですね精神に関しては素人だった。ボランティアとしてはけっこう有名だったけど。精神の方ではもう素人で。いろんな疑問があったんです精神に対して。

長澤:はい

坂本:だからその疑問をそのまんま交流会の話題にしたりですね。あの、学習会の話題にしたりすると他の人たちも同じようにそういった疑問持ってるじゃないですか。だからそういった人たちがどんどん集まってくる。だから、素人だからこそできた情報発信なんです。だから僕らもあの最初の頃はあんまり口が重かったり。やっぱりあの、人が聞いてくれると話せるんです。昔、福岡の方では精神障害者っち言ったら「話せない障害者」っていわれてた。だから僕らが話し出してるのを聞いて、他のとこから出逢いの会はどういう教育をしたらああいう当事者が話せるんですか、そんなことが言われるような時代だった。37、38年前。

長澤:95年設立って書いてあるんですけど。

坂本:平成7年です。

長澤:平成7年ですね。学習会自体も平成7年

坂本:平成7年からずっとやってる。学習会、交流会も月1回交代で。

長澤:学習会、交流会は交互にしてるんですね。学習会っていうのはえと自分たちも勉強する、参加者も勉強する、ボランティアさんも一緒に勉強するってことですかね。

坂本:そうそうそう。だから、スタッフそのものがまだ勉強、知らないことを話題にしてるからね。スタッフ自体が参加しながらどんどん吸収していくし。で、僕らも自分たちの思いとかがテーマだから話すんですけど、その中でまた確認してくとか。お互いに勉強していってるみたいな感じ。で、それがだいたい5,6年はそういった感じでやってたんですけど。それからどういう風にやっていくか、出逢いの会ができて、その当時県の保健所があちこちあったじゃないですか。あの、藤林に当事者のことを話してくれないかって依頼なんかが結構来てたんです。で、保健所で藤林が一人行って話すんやけど、あの、なかなか通じないと。理解してもらえない。ということで、当事者と一緒に行ったらどうやろかってことになって。で、当事者が一緒に行くようになったんです。そういった形で、あの当事者が講演にずっと参加するようになってですね。最初の一年位は藤林の謝金を分けるような形でやってたけど。

長澤:活動費に充てるってことですね謝金を。

坂本:いや、活動費じゃなくて僕らの話した人間がわけてたんです。

長澤:アルバイト料みたいな感じで。

坂本:そう、でも次の一年から当事者そのものに謝金がつく。藤林は藤林で謝金をもらって、僕らは僕らでもらうって形になって。そうなってくると、まあ実際的にあのいろんな手続きとか作業しているのは出逢いの会の他のメンバーだから、そりゃあんた、そげんもらうのはってなってきて。で、出逢いの会にこれだけ入れて、俺たちこれだけもらってみたいな形になった。

長澤:でも、そんなに大きな額じゃないですよね。(お茶がでてくる)あ、ありがとうございます。

坂本:あの当時で12,000円くらいは出てた。

長澤:そうですか、一人当たり。

坂本:はい。で、そうやって何年かやってるうちに、他の地域でもですね皆当事者が話し出したんですよ。

長澤:長崎とか

坂本:長崎も行きましたけど、長崎の方はこっちよりもっと進んでましたけど。患者、県連があったからですね。長精連。長崎に精神保健福祉センターあそこが力入れて作ってたんですよ。だから、こっちが勉強するようなもんです。

長澤:皆がしゃべりだしたというのは

坂本:福岡県内の。そして皆が話し出すと僕らがわざわざ声に出す必要がないんです。地域に、その地域の人たちでちゃんと話ができるんです。ま、僕らは「出逢いの会効果だ」っていってたけど。僕らはまあどうやって話に行くのがなくなるのが、ま、障害者が自分のいいたいこと、思ってること話せるような関係になっていったんだってそう思ってたんです。だからもう、講演の依頼なんてのはほとんどないから。

長澤:今も講演活動されてるんですか。

坂本:講演活動自体はしてますけど。要望があれば。

長澤:最初話すことへの抵抗みたいなのは全然なかったんですか。

坂本:あったです。実際ですね。自分たちのことをまともに聞いてくれるかってのが物凄い不安なんですよ。否定されるんじゃなかろうかと思うんですよ。あそこん家にあの人がいるよ、あんた幻聴みとっとじゃなかねとかね。だから、受け入れてもらえたから話せるようになった。

長澤:受け入れてもらえたのは藤林さんがいらっしゃったからってのが大きいんですかね。

坂本:あ大きいです、はい。だから、まあ、最初、あの、出逢いの会っていうのは本当いろんなものを生み出してきたんですよ。ただ、あの、出逢いの会がその当初、当事者に対して直接支援をしないっていうのでできたからですね。だから、あの、結構、あの会が大きくなってくるといろいろ求められるんです。こういった支援をしてほしい、ああいった支援をしてほしい。

長澤:直接支援をしないというのは

坂本:どういったらいいのかな。

長澤:個人が自発的に参加する

坂本:そういうことですね。やっぱり、確かに。直接支援をしないっていうのは、だから、あの、直接助けたりはしないってことですよね。要するに、情報を伝えるところって考えです。でも、そういうことをいいながら

長澤:十字路ですね。

坂本:そこが基本にあるから直接支援はしないっていってきたんだけど。ま、結果的に今は、こうやって「ゆるか」運営してるから、直接支援に入ったんだけど。だから、僕らはあの、名前は結構知られてきたところで、相談とか、電話かかってくるんですよねどうしても。でもあの、そういう風に、名前が知れてくるとこの人やったら相談しても大丈夫やろって、藁にも掴む気持ちでかけてくるんですよね。だから、あの自然と相談なんか受けるようになったけど。それでもあの、出逢いの会は発足当初一年位前、一年くらいたってから、あの、日本財団から百万円もらったんですよ。

長澤:はい

坂本:それを使ってあの、大きな講演会をやったんです。あの、東京大学のあの、誰やったっけ、大島先生か。その当時助教授やったけど。精神の方では一番やった。その先生とJHC板橋を呼んで講演会をやったんです。

長澤:JHC板橋

坂本:そのときにJHC板橋がピアカウンセリングを久留米に持ち込んだんです。で、僕らはその話を聞いて、是非学びたいと。それで、あの、藤林

長澤:ピアカウンセリングで名前聞くところですもんね。

坂本:日本で一番最初に伝えたところです。で、あの、JHC板橋の方にアプローチかけてたんです。その、そのアプローチの成果もあって、JHC板橋の方は今度、あの、カナダからサクラメントから、ピアカウンセリングをやってる当事者の方を呼ぶと。そんなにあれだったら、久留米で勉強会やったらという話になってですね。その当初あの、まあそこまで発展すると思わなかったけど。久留米で勉強会やろうってことになって。あの、5日間くらいぶっ通しの勉強会をですね、それも一日八時間をやるようになったんです。

(来所者あり中断)

勉強会がですね、藤林のコネであの、県のあの、精神保健センターの所長さん、を巻き込んでですね、行政と一緒にやったんです。だから行政が伝えられる部分は行政に伝えてもらったんで。あの、それこそ宮崎からは当事者の方2人ですね。宮崎精神保健福祉センターのお金で派遣されるみたいに。そんな形で全国、いや九州中から皆集まってきたんです。総勢50何名か、僕が把握するくらいで57、58名くらいの参加者があった。行政の方とか、専門家の方とか、当事者、当事者も十何人くらいいたんですね。

長澤:当事者少ないですね。

坂本:当事者少ないですよ。やっぱり当事者お金ないんですよ。

長澤:あ、そっか。行きたくても

坂本:行けない。そんときに長崎の方から一人参加者があって、まあ、その縁もあって後で長崎の方にもちょっと呼ばれたりしたんです。だから、どうしても金券、でやっと来れる程度なんです。ちょっと外れてしまうと当事者来れないんです。

長澤:当事者の方のための

坂本:だけど。ピアカウンセリングってのは当事者のためのあれなんだけど、あの、参加できる人は少ないと。でも十何人来れたってことは凄いことなんです、その当初。で、講演会、その勉強会やったのは、平成9年くらいやったかな。そこで僕らピアカウンセリングを学んで。で、あの、要するにあの、サポートするときに注意しなければならない点、重視しなければいけないこととか。そういったことを学んだんですけど。実際いま振り返ってみると、あの、ピアサポ、日本では難しいんですよね。自己決定ってのはあの、一番要求されることですもんね。こちらからの、上から押し付けるんじゃないんですよね。お互いに話しながら、本人が考えて、本人が自己決定するんですよね。けど、日本人ってのはなかなか自分で決めないんですよね。

長澤:あーそれで難しいんですね。引き出せないんですね。

坂本:どうしてもあの、3つか4つくらいアイディアを提供するんやけど、そしたら、どれがいいですかって聞いてくる。そこは、あなたに決めてくださいって返すんだけどなかなか決められない。で、結果的に決められないまま終わってしまう人もいる。だから、ほんとに日本では難しいなと思ってですね。だから、それを何回か繰り返してるうちに、なんで3つも解決プランを出してあげるんやろ。結果的には誰も選んでくれないのに。話の中に工夫をしてですね、本人が話しながら考えていけるように、本人が自分の考えをまとめていけるような聞き方をしたらどうやろかと。そしたら話して終わる頃には本人が自分の中で決めてくれてしまうんじゃないかと。だから、そういった方向性の方がいいんじゃないかと思ったんです。

長澤:ピアカウンセリングっていうのは今も

坂本:やってるっちゃやってるんです。元々、ピアカウンセリングは傾聴、要するに聞くことなんですよね。

長澤:ピアカウンセリングの知識がなくて。

坂本:一番要求されるのはよく話を聞く、で、その聞いてるってことをちゃんとシグナルで送りながら聞く。相手が、本人がちゃんと話しやすいように配慮する。そういった技術なんですけどね。だからあの、なんてか、こう話してると日本人の場合同じことを繰り返すんですよね。でも、そこをしてしまうと次の話ができないし。だからこう、日本とアメリカの違いみたいな、結構感じたですね。やっぱりあの、ストレートに自分の意見を言う国と言わないのが奥ゆかしいと言われている国との違い。外国の方に言わせると日本人は表現しないと。自分の主張をしないと。そこが、癌みたいに言われますね。ほんと自分の主張をしてくれたら楽だと思うんですよね。

長澤:何を考えているか

坂本:何を考えてるかわからないが一番怖いんです。あの、わかっていれば話しようがあるけど、分からないことには話しようがないですから。特に電話になると相手が見えてない。だからあの、よく、あの、昔なんかよくあの剃刀を手に付けたまま話してますなんて言われたことあるから。

長澤:電話でですね。

坂本:なんちゅうか、あの、あ、相手が見えないで話してる怖さはあるです。みえてれば、ま、分かるからいいです。だから一つにはあの、なんちゅうかね、よくいのちの電話なんかにかける人がいる。要するにピアくるめが最初立ち上がったときですね、24時間対応の電話受付やってたけど、だからあの、あれでも結構あの、あれなんですよね。みんな一生懸命でてるんやけど五十何回もかけてるのに、出てなかった人もいるなんてのが結構あったんですよね。

長澤:スタッフが?

坂本:スタッフが持って、夜なんですよ。持って、携帯持ってるんやけど、あの、でることができずに、よく数えてみたら五十何回も同じ人からコールがあってたみたいな。だ、はっきりいって、出れないなら出ない方がいいかもしれないですね。時間もないのに出たりして、できないのに出たりしたら相手の方がショックですよね。出た瞬間あ、すみません用事があるんでって言われたりしたら。かえってあれやけど。しょうがないやんて思ったんですよね。俺だってあの、夜かかってきた電話でれんことあるばいっち。職員なんのかんのいってもしょうがないやん。

長澤:夜もとにかくせっぱつまる方がいるからそれをやり始めたんじゃないんですか。

坂本:ていうより、はっきりいって、あの、相談先がなかったんですよ。その当初は、あのいのちの電話はあったんやけど、いのちの電話の方にあの、精神に詳しい人とかいなかったし、だからあの、はっきりいって、なんていうかな、電話しても、自分の話したいことを最後まで聞いてもらえないんですよね。相手がわかってないけん。どうしてもあの、とにかく話したいから電話してるんです。答えが欲しいのなんのかんのじゃないんです。ただ聞いてもらいたい、ただそれだけで電話してるんです。だからあの、よくいったのがあの、聞くための電話って。だから、いろんな質問に答えるんじゃなくて、ただ聞いてるだけの電話名なんです。胸の中にたまってるものをただ吐き出したいだけ、そういう吐き出す場、交差点、十字路ってのはそういう吐き出す場でもある。だから出逢いの会の最初の感覚で、ピアくるめが始まったとき、24時間電話応対を入れたんです。

長澤:ピアくるめでやってるのも延長線上で

坂本:違う違うじゃなくて。ピアくるめは各団体の人たちが集まって作った会で出逢いの会が作った会じゃないからですね。ただあのそういったのも必要じゃないねって意見をだした。で、それが受け入れられた。

長澤:そしたら、出逢いの会はそのとき24時間対応

坂本:いやいや出逢いの会が対応したんじゃなくて、そのとき補足としては、まず身体の支援事業から始まったんです。そのときは専門相談員が一人で、当事者の方2名ほど、サブが2名程度だったんで。あのほんと、Nさんが最初、携帯持って、昼間かかってくる電話に応対してという形で始まったんやけど。なんていうか、一人でやってると無理なんですよねどうしても。

長澤:想像するだに恐ろしいですよね(笑)びっくりしました。一人でね。

坂本:一人で持たせてるから俺たちも悪いことは悪い。その頃ですよ五十何回コールがあっても出てないって。

長澤:そりゃでれない。

A:聞き流せんと思うよね。

精神の相談じゃないやん。聞いてればいいんやけどね。

長澤:聞いてたら大変ですよ。

坂本:聞いてなきゃダメなんですよ。ちゃんと聞いてますよってシグナル、相手に伝えないといけないから。

A:結局、答えは自分の中にあるの。アドバイスしても出てるから。その通りにはせらすんですよね。いうて、聞いてほしいっちゃね。

坂本:だから、こうなんていうかな、相手が話しやすいようにこっちが誘導してあげると、話してる間にAさんが言うようにまとめちゃうんですよね、答えを。だから、後でいろんなアドバイスするより、その方が一番いいんですよ。日本の場合は。

A:話すことによって自分の頭のなかを整理するようなとこあるんじゃないんですかね。特に日本人にはそういうとこが強いみたいですね。

A:特にそのアドバイスは求めてない気がしますね。あまりあの、アドバイスをなんとか療法どんなのですか、えらい、そういうのをえらい、探し、どうにか完治を目指して、あちゃこちゃなんとか療法の情報を探してくれとかいう電話がたまにありますね。

長澤:今でもですね。

A:今、私持ってないんで。Sさんが。

坂本:だから出逢いの会は最初の内は連絡先もなんもなかったから。藤林さん家の家の電話だけ公開してたから。あの、なんてか、とにかくあのレインボーマップっていう機関誌発行してるじゃないですか。あれはあの、創立当初から出してたからですね。あれで、活動資金を捻出してたからですね。

長澤:そのときにすでにってことですね。

(雑談)

長澤:今と全然違いますよね90年代って言ったら。

坂本:その当時はほんと、あの、名前を公表していいって当事者は物凄く少ない時代だったからね。だからあの、先生は名前を公表したり、写真を載せたりできる人しか書かないって。だから、俺はその当初から大っぴらに公表してたから、それで先生(田中英樹)からインタビュー受けた。

長澤:大っぴらに公表するっていうのに、その、紆余曲折、全然自分の中で葛藤はなかったんですか。

坂本:葛藤があったのはね、実際出逢いの会以前の問題なんですよ。俺があのその、県の久留米保健所に精神科デイケアが在ったじゃないですか、そこに行くようになった頃に、まだ俺も籠り気味の頃やったから。まあ、そこではじめてあの、地域で暮らしている当事者と知り合ったんや。で、あの最初の人はいろいろ話してるうちに、自分もあの当事者でもいいかみたいな感覚になったんやけど、あの、なんちゅうかね、こう行っててね何年か経つと、その人たちがさ社会の隅っこにいるんよね。人、ほんといい人ばっかりなんよね、親切な人がたくさんいて。その人たちが社会の隅っこで、私社会のお邪魔になりませんみたいに隅っこにあの、隠れるように暮らしてるんよね。なんでやろって。なんで精神障害者になっただけでそんな生活送らないけないんだろって。人間として最低限度の生活はちゃんと保障されてるじゃないかって思ったんだ。

長澤:その頃、障害者でもないですよね。疾患しかないですもんね。

坂本:うん。実際的に、なんちゅかね、ほんと。だからそういって思ってた頃に出逢いの会ができたけんね、旗揚げしたけんね。最初から交流会、勉強会に参加してて。俺は半年遅れで合流したんや、出逢いの会の活動には参加してたけどさ。

長澤:ごめんなさい。半年遅れで合流したっていうのは

坂本:結成から半年後に世話人になったって。最初の頃、僕もね、あの、精神障害者のためにどこまでしてくれるかって不安だったって。

A:出逢いの会自体が?

坂本:結果的に精神障害者のボランティアをするっていう、ただそれだけの話で終わるんじゃなかろうかと。その当初、あんた、精神障害者にスポット当てたボランティア団体ってなかったけんね。だし、精神障害者に手を、手を差し伸べてくれるところなんてなかったんよね。だから物凄い不安やった。ただあの、自分たちの都合のいい扱い方するんじゃなかろうかって。でも、あの、半年くらい勉強会参加しながら、ちょうどあの、その頃あの、世話人会をね、梅林寺の中にある梅園でやってたんよね。そこに僕らは家族会の作業所になってたけんね。僕ともう一人ね、ボランティアでね、作業所の運営をやってたって。そこで世話人会やってたから自然と世話人会参加してたんよね。だから最初のころから世話人会ずっと参加してるような状況やったけんが。まあ半年後

長澤:家族会とリンクしてるんですか。

坂本:リンクしてない。リンクしてるっていうか、あの、要するにあの、家族会の会長とかってのもちゃんと出逢いの会の世話人してたし。

長澤:両方在籍っていうか

坂本:俺は、母親が家族会の会員だったんで。ちょっと暇やけんが、ちょっと家族会の方に協力してたっていうかさ。そういう形で入ってったんやけど、だからあの、発足当初から勉強会、交流会の担当っていうことでやってたし。JHC板橋、大島先生が来てくれた時は、あの、そのときがあれかな。最初の世話人としての仕事をしたときかな。世話係をしたけんが。で、ほんとあの、はっきりいってね、僕らってのははがさ、籠ってる我を剥がされたんじゃないよね。自分で我を破って出てきた。そういった人が出逢いの会にあの、皆いたから、当事者が結構中心的にやれたんよね。やっぱ剥がされた人ってのは、籠っちゃうけんね。

長澤:一回は出てきても、元に戻ってしまうと。

坂本:だから、あの、出逢いの会が講演活動しててあちこちに話す人が出てきたように、あの、そういった人たちも剥がされたんじゃない、自分で殻破って出てきたんよ。だからあの、今でこそ、精神障害者っていらんことまで話すとかって言われるくらい話すけど、あの当初は話す障害者っていなかったんよ。

長澤:いないですよね。今でもやっぱり

坂本:人によってはね。人によっては人前に出ると貝みたいに口つぐんで話せない人も結構いるけど。あの、当事者同士の時はベラベラ話すのに。だから、あの、僕はあの出逢いの会に入って2年目かな、2年か3年くらいに「言いたい放題」って会を立ち上げたんよ。そのときに、最初の出だしがあの、台風の中やった。

A:日頃の、日頃の行いが悪いけんが(笑)

そこに繋げるのか(笑)

T:認めるんだ(笑)

A:認めたと?

坂本:俺皆に言われてるんよね。その当初、言いたい放題に集まるメンバーもね、やっぱ話せなかった。そこで話したことが他に伝わると嫌だけんが。仲間だけで集まって、当事者だけなんよね。他は全部シャットアウトで、入れてない当事者会なんやけど。そこに参加してる仲間が話すって。それも親しい仲間ばっかりなんや。それなのに、信頼関係がまるでなかったんや、お互い。ただあの、なんてか、自分がストレス発散するときに聞いてくれる人くらいなもんだった。

長澤:どこでやってたんですか。

坂本:梅林。だからあの、そういう状況の中で、5年位はそういった状況が続いたかな。まあ、6年目くらいからは逆に名前がちょっと知れてきて、で、レインボーマップの中でどんどん書いて出したりして。色々書いて出したから。したら、福岡とかさ、佐賀とか、あちこちから来るようになったんよ、当事者。したら地元じゃない、地元じゃないところで何言われてもいいわけよ。だから自然と話せるんよね皆。

長澤:ですよね。自分の住んでるコミュニティじゃないから話せるってありますよね。

坂本:そういった人たちが話すようになると、周りもつられて話すようになる(笑)。だから、言いたい放題解散する頃になると、あんた、始まるも何もワーワー騒ぐように皆が。

長澤:自分も、自分もと。

坂本:だから、そういった仲間たちに囲まれて、まあ、そのおかげで僕は成長してきたと。でも、お金、あの言いたい放題解散したときも、もう役目が終わったと思ったったい。

長澤:いつですか解散したの。

坂本:もう、10年くらい前になる。だって、もうその当初になってくるとね、あちこちにいろんな会できて、で、ピアくるめもまだフリースペースやってた状況だったし。だから、言いたい放題がなくても話せる場所はあるし、くるめ出逢いの会も事務所借りて、あの、当事者が集まる環境あったし。だからもう、もういいやって。俺一人で運営してくのも、運営が一人やったけんね。もう、病状も結構悪かったりあったけんが。あの、もうここいらで閉めようかってことで閉めたんやけど。だから、まああの、後継者を育てきらなかったっていうか。だから、あの、まあ、ここの始まりの「金曜サロン」を始めたのも実際的に言ったら。

長澤:金曜サロン。すみません、それ初めて聞きました。

坂本:あの、「ゆるか」の前身になるったい。

長澤:えーるピアじゃないんですよね。

坂本:金曜サロンはあの、えーるピアじゃなくて高牟礼会館の前かな。サンライフじゃなくて、あの、福祉会館の横のあの、総合福祉センターか。あの、社協が入ってる、あの茶室でやってたんよ最初。あそこがただでねお金かからなかったんで、月に一回そこで開いてたんよ。で、そこでやってて、出逢いの会があの、えーっとTさん厚労省の事業って何年やったかな。

T:平成19年。

坂本:その事業やったときにですね、あの、週1回、月4回サロンをやろうってことで高牟礼会館のところにサロンを移してやったんですよ。厚労省の金がついたけん。

T:サロンと絵本とWRAPの3本立てでやろうということで。自分はま、出逢いの会でなくて。

坂本:実際ですね。出逢いの会ってのは結構あちこちから援助を受けてきてる。そのおかげで生き延びてきたのもある。だって、最初のころはあの、レインボーマップ、あの、送るのはあの普通料金で送ってたけんね、3紙じゃなくて。だからあの、だいたい900円くらいかかったんかな。年間。で、振込賃、帰りの振込賃が80円か何かかかるのを、それも出逢いの会が負担してたから。600何人かいたんよね、会員が。でも、実際のところ運営に使えるのはほとんどなかった。

長澤:これだって(絵本製作)どうしてこのお話が来たんだろうって感じですよね。

坂本:最初はね、あの、最初は、あの、藤林さん厚労省のとBさんが知り合って、藤林さんが東京帰られて、なんか事業やったらどげんねって言い出してBさんが。出逢いの会で。で、それであの、最初は僕がちょっと、Iくんなんかと話し合ったことをちょっとまとめたような文章を作って。予算をぱぱっと立てて、あの。ちょっとBさんに持ってって、こんなんでどうやろかって話よって、あの、じゃ坂本さんが作った予算書と計画書ちってを藤林さんに送ろうって言い出して。送るんやったらきちんとせないけんやろって、藤林さんがパパッとパソコンで打って、文章なんかもやり直して、で、一応送ったったい。で藤林さんが担当の人に繋いで、後は担当と藤林さんが話し合いながら、予算書からあの、計画書なんか作ったんやけど、そのときになったら俺の言った言葉は何も入ってなかったりして(笑)。最終的には上がってきた予算書みて、全然金額、金額なんか2倍から3倍くらいになっとるもんな。俺、俺の計画書はどうなったんや。

長澤:色がついたんですよ(笑)色が。

坂本:それがやっぱ、担当と話してると、取れるように、取れるように向こうが指導するわけよ。最新の、画期的なように、それじゃ取れないみたいに。

長澤:モデル事業ですもんね。

A:先進的じゃないと

坂本:だから、最初の内は小学校でね、授業やるなんてのは入ってなかったんよ。それも、急に、藤林さんから電話かかってきて、小学校で授業できるって聞くからさ。あ、出来るでしょって言った(笑)。俺たちがするんやったらえらいことになるなって思ったけど。そしたら、その。

A:これもですね。こんな柔らかい絵じゃなかったんですよ。もうちょっと、精神障害者のね、あの、ね、全然違うタッチの絵だったんです。

T:その時の聞き取りの内容がエンパワメントしたとき、それとパワーレスになったとき、あと何かあったよね。

リカバリーしたとき。

A:そういうもので

T:出てきたものを抽出して絵本にしようって。

坂本:同時並行に言ったもんやから間に合わなかったんよ。

長澤:同時並行っていうのは。

坂本:要するに聞き取りと絵本作ろうってのが、あの、同時進行みたいな形やったんや。

A:こんなハッピーエンドのはなしはないっち。

坂本:や、それはな、実際的には。

N:読んでないんですけど中身は。ハッピーエンドなんですね。

坂本:なんちかな、ハッピーエンドだから安心して読めるって人もいるんよ。で、希望が持てるって。それは取り方次第。

長澤:読み手の自由ですもんね、形になったら。

坂本:なんていうかな、こ、厚労省の事業の時がね、厚労省の方に何回か足を運ばせてもらって。あの、藤林さんにお願いして事業する前にね。あの、ポレポレがメインで久留米フォーラムっていくのやってるんよね。あの、それの2回目やったかな。精神障害者のあのミニ芝居をやった。あの、全部で15分程度。それを藤林さんが久留米フォーラムの時に見てね、あれをあの、厚労省でやってほしいって。で、厚労省の体育館で全国課長者会議のときにやったんよ。そのときMさんも聞いてくれて、見てくれて、そのとき壇上に上がって。

長澤:何名くらい行かれたんですか。

坂本:24名くらい。前乗りして準備する係の人もおるんよ。それも入れたら24、25名くらい行っとった。

長澤:裏方さんと。

坂本:で、参加あの、芝居に参加するものだけでも10名くらいおったけんね。で、当事者役で2人参加してたんで、そのときの当事者役の1人が私だった。そういった関わりがあって、それが、厚労省の事業に繋がったんやけど。

長澤:この事業取る前に、前段階が芝居だったんですね。

坂本:藤林さんと会ったのも、久留米フォーラム関連でBさんが藤林さんと知り合ったのが。だからあの、なんちか、あの、結構ね。出逢いの会ってとこはいろんなことやってるよね。アメリカからそれこそあの、人呼んで講演してもらったりね。その度にいわれたけどね。アメリカだからできるのよ。日本じゃできないわよ。

長澤:言われたって誰にですか。

坂本:専門家とか、やっぱいうもんね。そうたい。そういうこと言う奴に限ってアメリカいっとるるもんね。はっきり言って、日本はアメリカより50年遅れとるとかさ、いわれるけどね、あのアメリカの人たちだって薬はきちんと飲まなきゃいけない、今、はっきりいってアメリカ徹底されてる。当事者、あの、来てくれた当事者の方がはっきり言うもんね、薬はきちっと飲まなきゃいけないよって。それが治る最善の路だから。だから、

長澤:当事者全員ですか。疾患はいろいろあるわけじゃないですか。

坂本:うん。たいてい精神の患者さんはそうだって。だからそういうところは要するに教育がきちっとしてるって言われればそれまでなんやけど。で、あの、アメリカは当事者組織がいっぱいあるやんね、そこで活躍してる人たちがそういったことちゃんと言うけん。そこに出入りしてる人たちも、そうなんだって思う。要するにあの、日本に来てくれるような人たちはアメリカのあちこちで活躍してる人たちやけんが。そこは、統一されているかなと思ったけど。ま、それでもアメリカでも飲まない人はいるやろと思うけど。で、まアメリカは3日間入院したら4日目から裁判所の許可がいるとかさいう話を聞いて、そのころからたい、日本では最低でも1年から半年入院しとかないかん。そういうこと聞くと日本は遅れてると思うんやけど、でも、アメリカのスタイルをそのまま日本に持ち込んでもそこは通用しないもんね。実際的にね。第一あの、アメリカの場合、自己決断・自己判断の世界やけんね。

長澤:きちんと自己主張ができる

坂本:その世界に、日本の古い考え方した人たちがポンと入ったら、浦島太郎やんね。そういうこと考えるとやっぱしょうがないのかなって。やっぱ、あの、僕らが主張してきたのは、昔から言ってたんやけど、あの、精神障害者も一人の人間だと、障害者である前に一人の人間だって。人間、日本の法律では、人間は最低限度の幸福を追求する権利がちゃんと与えられているんだって。それをちゃんと認めてくれって。あの、まあそう思って、最初のはじまったころからずっと言ってたんやけど、あの

長澤:講演てのはそういったことを喋ってたんですか。

坂本:とか、自分の経験とか。自分の病気、薬飲みだして、途中で薬やめたり。あの、いろんな仕事行ったりして。ま、自分の経験談みたいな。それとか実際的に、あの、講演の内容によっては、藤林さんが質問を投げかける、それに答えるみたいなやり方もとったり。だから、何通りかのやり方使ってやっとったけど。

長澤:それをするというのは自分のなかでは、最初理解がないじゃないですか、それを変えたいなみたいな

坂本:変えたいなっていうより、あの、なんてか、精神障害者もちゃんと話せるんです。あなたたちがちゃんと聞こうとする耳を傾けてくれればちゃんと話せるんです。そこを主張してた。僕ら呼ばれるということは向こうが聞こうとする体制やけん。ね、だから話せる。だから普通の会話のなかでもあなたたちがちゃんと聞こうと思えば皆話すんです。伏線的にそういったことを。

長澤:そうですね。立場として

坂本:まあ、皆話せるようになったのも、最初、確かに、話せない障害者って言われてたけんが皆話を聞こうとしなかったよね。でも、僕らが話し出したことによって、話せない障害者がちゃんと話せるんだってことで聞こうとする耳を皆向け出した。聞いてくれる体制が相手にあるっていうんなら、皆話ができるようになった。そういったことが連鎖的にバーッて広がったから、皆あちこちで話話せる人が出てきた。僕らがここに来よってから一番の情報の仕入れ先って、煙草吸うとこなんよ。煙草こうパカパカ吸って、隣で話してる人たちの話聞いたりさ。そこでちょっとどうですかって聞いたりとか、それで少し話をまとめたりとかさ。あの、だから、なんてかな、そこの場所の条件に結構合わせて話したりしたけんが。でも、一番の効果はあれやろね。当事者が話すってことを目の前で見てる、自分たちが聞いてる、だから当事者の話に耳を傾けるってのが生まれたけん。

長澤:セッティングってことですよね。

坂本:でも、ほんとはあの、12,13年、もう15,16年になるかな。ほんとそのわずかな期間で、何十年も話せないって言われてた障害者がさ、ちゃんと話せるってことが伝わった。

長澤:今いっぱいいますもんね。いろんなところで。

坂本:出逢いの会も講演会も、出逢いの会だけじゃなくてさ、他のちょっと話したいなって人たちとかも呼んで話してもらったりしてるし。

長澤:今でもですね。

坂本:今はもう講演会自体ほとんどない。地元の方で済んじゃうけん。あの、講演会ってのがほとんどが地元の方でも話せる

長澤:身近でですね。

坂本:だから、遠くから呼ぶ必要がなくなった。

長澤:話すっていうことそのものが啓発になった。今やってらっしゃるのは上映会とか

坂本:上映会はね、「ゆるか」を始めるんでお金が必要なんです。資金稼ぎのためにやったんよ。

長澤:そうなんですか、知らなかった。「ゆるか」始めるってここの場所。

坂本:いえ、ここの場所じゃなくて、まだ場所が決まる前に要するにあの、えーっとね、あの当初、南町の話があったすかな。そこになるとAさんの出番。


A:あれに書いたけどな増刊号に。

Aさんがオープンスペースやりたいっていいだしたんです。

A:まあ、このレインボーマップの増刊号に、なんで私がこういうことしたくて始めたかっていう経緯と、今の状況とか。なんか質問があれば答えますけど。

A:転機がですね。引きこもりとか何仕事してもうまくいかない、家とも折り合いが悪い。特に親父の方と。兄貴とも折り合い悪い。兄貴の場合、人を操作する

長澤:(聞いても)いいですか?

A:俺でも話したいんですよ基本的に。ずっと話しますからね。そこら辺で色々十数年、家でて路頭に迷っとったみたいな感じです。仕事転々として、怪しい防犯の会社入ったり、で、ね、怪しいおじさんに引っかかってから借金背負わされたりね。んーまあ、どうしようもなくなって、家にどーしても帰りたくなかったけど、どうしようもなく家に帰って引きこもりとかしよって、ん、ちょっと待てよ。『精神科いこう』ってなんか漫画があったんです。それを偶然立ち読みして、やっぱ、うん、俺おかしいよな、小学校のころから給食一緒に食べれなかったんですよ。会食恐怖っていうのかな専門用語的に言えば。それがずっとあって、それでうん、ちょっと精神科ってとこちょっと行ってみようかなって、つまらんかったら帰ってくりゃいいしってそう思えたのかな。それまで自分をちょっとやっぱ根性がないとか攻めよったわけですよ、ね。なんかやり方悪い、考え方が間違ってたとか。

長澤:自分を責めてた

A:うん、やっぱそういうことじゃないかもなって。病気かもしれないなって思い出して。薬飲めばちったは楽になるかなぐらいな感じで行ってみて、まあ、精神科に行きゃあ何かしらの病名どこに行ってもつくんですよね。病院変われば病名変わるし。ま、適当なもんですよ。あんまり言うと。そこの先生とかも適当なところで、特によかったなとか何ちもなかったっていうかな。ま、病名は、パニック障害、パニック障害の一種とか、その病名を言われた点で物凄くほっとした瞬間があったわけですよ。自分の性格だから悪いとか、根性がないとか、そういうんじゃなくて、俺病気やったんやなって。そのほんとに病気なのか、そこら辺もわからんですたいね。とにかく、先生から病名をなんかつけられたっちいうことで、なんか、ほっとして、物凄くほっとして気が楽になったんですよね。して、そっから、発想の転換、こー、なんか開き直れるっていうか、そこで、帰りにえーと、ソーシャルワーカーの人かなんかがピアくるめのパンフレット、仕事どうしてますかって、行くとこ、家とか、家、どうもなんか嫌な感じがあるし。なんか、ピアくるめってとこがあるけん、行ってみらんですかってリーフレットかなんか渡されて行ってみてからですね。そこで、当事者、精神、その頃結構藤林さんがセンター長やってたんで、精神の利用者が多かったんですよ。そこでやっぱ、ま、病名とか、経験とか悩みとか違うけど、そこで自分の、今まで、うん、人にどう説明していいか自分の状況、人と一緒にご飯ば食べれないとかどう説明していいかわからん。そこら辺、なんか話せるようになったんですよね。完全にコーンって開き直って、そこら辺が転機でしょうね。ピアくるめが僕にとってすごい良かったんですよ。良くて。基本何もないし自由にしといていいし、で、なんかちょっと相談したいときにはちゃんと制度を知っとる職員がおって、しかも、ピアの職員さんもおって。でも、一番よかったのは夜9時ころまで開けてたし。

長澤:へー、9時まで開けてたんですか。

A:そして帰りはですね。職員も利用者も関係なしで一緒に鍵閉めて何の利用者とか職員とか何も関係なしに一緒に飯食って、ね。酒飲んで。そういうのがちょこちょこしてて、物凄い良かったんですよね。そこら辺でしょうね私の転機は。藤林さんがYさんの身体の後釜で選挙に出るってことになって、私も丁度、そんな感じで藤林さんがいなくなって、ちょっとまあ、雰囲気、そうやっぱね、フリースペースやる利用者間の揉め事とかも、ちょこちょこ、ん、あったんですよね。自分がちょっと元気になってきたんでバイトとかしたりして、ちょっと足が、やっぱ元気になってきたんで遠のいとって、久しぶりに行ったらなんかもう次のセンター長が、知的障害畑の人がなっとって、精神の人がほとんどもういなくなって、で、しかも僕はもう一番、これはいかんなじゃないけど、ピアくるめにそげん行きたいと思わなくなったのは、1つはまあフリースペースをもう辞めてること、プログラムに参加する人じゃないと出入りしてもらってはちょっと困りますみたいな。受付に、久しぶりに来たら入り口で止められて、なんですかって、なんですかっていうかここを利用しとったもんで久しぶりに来たんですけどって言ったら、えっと、用事は何ですかとかって根掘り葉掘り聞かれて、もう、あもう、

長澤:誰ですか。

A:誰かわからないです。入口の窓口におる人かな。なんか色々物凄い聞かれるもんで、もうそげんいわっしゃるんならよかですって、特に用事あるんじゃなかですって、近くに来たから寄っただけですって、それからほとんど足が遠のいて、ほとんど行かなくなって。

そういうのが僕としてはああ、って思って。ガイドヘルパーとかの、うん、まあちょっと、まなんか色々あったんですけど。藤林さんかな、藤林事業所の。あの人との出会いって、前からちょこちょこ会いよったんですけど、それから何かまた、藤林事業所に行き出したんですよね。藤林事業所が面白くなってきたんですよね。やっぱ3障害一緒で。あ、ここ面白いなって、また藤林さんがまた、ああいうざっくばらんな性格だから、僕、硬い感じの人ちょっと苦手なんで。ああいう凄い良くて、ちょうどですね、ピアくるめがただでガイドヘルパーの講習をしたときに、何かよう訳わからんけど。

長澤:受けてるんですね、あれ。

A:何かくれるって、そう終了証くれるっていうから暇つぶしに行こうかって、何か行ってもろっとったと忘れとったですよね。藤林さんずっとくるもんやけんが、で一応運転もできるけんが、ガイドヘルパーはね、してみらんかって言われて、ガイドヘルパーって何ですかってね、自分が持っとる免許も知らんやったけんね(笑)まあ、何か運転手兼付き人の様ごたるね。何か俺の言うこと聞いとったらよかったいって。小遣い銭いくらかなるけんしてみらんねっていうから。ああ、小遣い銭にいくらかなるならそうです。ようと考えたらそげなこと俺、受けたことあったよねって思って。ピアくるめに、あの、電話して再発行してもらって。

長澤:再発行(笑)

A:で、藤林事業所でも土日祝日休みだから、土日あの藤林さん頼んでフリースペースやらしてくれって、Kっていう引きこもりの自分のマンション開放してやりよった人と2人でやってたんです、ちょっとだけ、3か月くらい。やりよったんだけど、俺が途中で、何かあんまり人も来んし、寝たりしよったんですよね。したらちょっと、何かな、利用者の人、そういう、一応藤林事業所は公的な補助金投入されて使わせてもらっているにもかかわらず、寝とるとは何事かみたいなことを利用者に言われたんですよね。ある利用者に。

長澤:何年位ですか、された時期。

A:ん、7,8年前くらいかな。いつ頃しよったかな俺。

坂本:四年前。だからそれからあんた、出逢いの会…

A:それで思ったんですよ。俺にとって理想はあの頃のピアくるめなんですよ。の感じでやりたかったけど、なかなか難しいし。で、うん、やっぱ無理やなってことで、一緒に手伝ってくれたKとも話して、やっぱ落ちだしたってのもあったし、ちょっと辞めよっかって辞めて。ガイドヘルパーでまあしばらくずっと、障害年金とヘルパーでボチボチ。実家暮らしなんで、それでいいかーくらいな感じで、結構行きよったんやけど。何の拍子で俺フリースペースしたいと思ったんやったかな。やっぱ、うん、やっぱどうしてもずっとその、やっぱ藤林事業所に行きよってもどうしても藤林さん、あそこは身体と知的がメインなんですよね。あの、精神の人もかなり潜在的にいるけど長居はできない人も多いから、でやっぱちょっと藤林さんと精神の人との話横で聞きよっても、藤林さんそういう言い方、俺たちにはきついっちゃんねってやっぱ、うん、それはやっぱしょうがないよねって、精神、5体満足で何しよっとかって思いは根底に絶対あるよねって思いながら、うん、ていうのがずっとガイドヘルパーでしながらやっぱ、ね、ちゅーたらやっぱ、自分ていうか、精神の人がホントにこうエンパワメントする場所を作りたいって、ずっとちょこちょこ思、ポンてこうしてみよっとかなってアイディアが出たり消えたり、繰り返しが何年かずっとあったんですよね。うん、それで、やっぱうん、まあ、出逢いの会が歴史が、一から立てるのが一番いいんやけど、出逢いの会の歴史があるけんが、ちょっと頼みに行ってみようかなって。ちょっと出逢いの会の中の一事業としてやらせてもらえないでしょうかって言って、頼み行ったのが始まりです。

坂本:出逢いの会でもあの、サロンをやってる、そういった場が必要だってのは皆

A:あそっか、これの前にずっとやっとったっちゃね。金曜サロンからの流れやんね。

N:「ゆるか」っておっしゃってるのはここのことなんですか。えーるピアでやってたのとはまた違うんですか。

坂本:一緒。

A:一緒です。金曜サロンも一緒。名前が「ゆるか」に変わっただけです。

坂本:金曜サロンをあの、続けてきたのを、市のキラリの事業、あれをとったときに、あの、週2日か、週2日空ける、その時に名前を付けたんです。金曜サロンじゃなくて「ゆるか」っち。(指さして)発案者。

A:えー「ゆるか」ってのはTさんが出したんですか。ほー

長澤:いつですか名前付いたの。

A:「ゆるか」の始まりっていったら金曜サロンからの流れけんが、それから考えたら大分長いよね。

T:13年

A:キラリの事業をとったから「ゆるか」って名前に変わったってだけなんです。で、場所を構えられたってやっと。で、今お金がなくて死にそうだっち(笑)基本全部貰いもんです。

長澤:あれ(ハンモック)は前来た時にはなかったと思うんですけど、何ですか。

A:僕が、僕が躁転したときに、躁状態の時に衝動買いをしてしまったものです。後は全部貰いもんです。

坂本:だから、必要な支援って言ったらほんと活動資金。レインボーマップと会費しかないけんね、実際的に。それと、ここ開いたときに、「ゆるか」キラリの事業で、あの、行政とあの、一緒にやったときに、その成果であの、障害者福祉課から一応部屋代、部屋代として年間50万円貰えるようになったけんね。オープンスペースの予算として。

長澤:予算として。はあ。

坂本:ただし使えるのが家賃と光熱費と。

A:おじいちゃんお茶飲む?

坂本:おじいちゃんていいなさんな、おじさんくらいにしときなさんね。

長澤:まだまだ若いですから。

坂本:なー、この世界では古株になってしもうた。

長澤:この(本に掲載された)とき43歳ですもんね。

坂本:だって遅咲きやったけんね俺が。

A:遅咲きってどげん花が咲いたと?(笑)

坂本:こいつら性根から叩き直さんといかんばい。(笑)やー、それとね、出逢いの会がここまで持ったのはやっぱりなんてかな、皆あの、自分たちの必要性ってのを感じてたんよね。やっぱあの、誰かが必要としてくれてたらやっぱりやりがいがあるよね。あの、会員も100人程度、100人程度まで減ったけど、それでもそれだけの人たちが出逢いの会を必要としてくれてる。だから、そういった人たちがいる限りは辞められないってのがある。だから、出逢いの会をやめるって話は何回も出たんよ。でも、やっぱりレインボーマップとってくれてる人たちに申し訳ないっち。

長澤:投稿する人もいる訳だし、紙でしか自分の思いを伝えられない人もいるでしょうしね。

坂本:実際的に、事務所持ってた当初から、あの来たくても来れない人たち、あの、ま、金銭的なとか関係なくてね、あの来ようと思えば来れるんやけど、あのやっぱあの、

(中断)

坂本:要するにまあ必要としてる人たちが少しでもいるけんがなやってる。

長澤:自分のためじゃなく、人がいるから頑張れる。

坂本:そうそう。要するに必要としてくれる人がいるけんが自分たちがやりがいがある。だ、あの、ほんと物凄い忙しいんよね。その忙しい中縫ってやってる。藤林さんにしても。レインボーマップの発行が9月分の発行が迫ってるんやけど、集まりはどげんなるやろかって心配しとるけど。そんな、集まれるか集まれないかわからないような状況が結構続くんやね。

長澤:溜まってはこないんですね。紙面を埋めるのが。

坂本:とにかく皆がちゃんとあの、持ってるスペースをきちんと埋めるのが。PC打つのでさえ、なかなか打つ暇のない人たちが集まっとる。で、いつまでに編集部に送ればいいかって、だいたいあの、レインボーマップの発行の月の初め位に、だいたいあの、世話人、編集員会みたいなの開くんよね。でも実際的にはあの、9月ってのは。 

(中断)

坂本:実際ね。こういう風にね連絡がつかんときもあるんよ。実際的に連絡して忙しすぎて見れないときもあるけんね。

A:まあ、それはスタッフ、現場のスタッフ以外は普通に仕事してあるんで忙しいって。

特に9月は藤林さんが外せない。それ言ってしまうと報告書がさ、だいたいあの9月締めって多いよね。藤林さんが9月になると動けないけん、誰が打つねって話になる。実際的にあの、通して関わってるってのは藤林さんなんよ。

長澤:なんですね、今でもですね。

坂本:だから通して関わってる人が書かないと全部書けないんよね。この部分は俺が書くって分けて書く訳にいかんのよ。だから、どうしても報告書が、あの、はっきり言って皺寄せががばっとくるよね。

長澤:報告書ってのは市に対してってことですか。

坂本:市じゃなくて、厚労省の事業受けた時には厚労省に言ったりしてるし。あの、だ、グリーンコープはKさんが出してる。

A:これ、役割分担でやってもらってるんですよ。グリーンコープは毎年助成金出して。貰ったら貰ったでやっぱこう使い道も限定されてくるし。これには使ったらダメですよとかあるし。貰ったら後で報告書あるし。それで、全部してもらえるのは凄い助かってますね。僕たち当事者はそげん計算とか書類とかは苦手やけんね。

坂本:得意な人っていうか、PCまともに使い切らんけんね。PC使えれば打てるんやけど。エクセルとか自由に使えればね。

長澤:AさんとかPCできそうですけどね。

坂本:Aさんできない。

長澤:嘘、藤林acebookとかどうしてるんですか。それとは

A:藤林acebookも「ゆるか」のこととか自分のこととかごちゃ混ぜでアップしよったけど、ちょっとそれはあまり良くないやろって、藤林acebookは個人のあれで。自分の藤林acebookはアップしないように、触れない。一緒に「ゆるか」のことも一緒にアップしよったけど、一切もう。あくまで個人で藤林acebookは。

長澤:グリーンコープは何か、グリーンコープの目的に合ってないとおそらく落とさないと思うんですよねお金って。

坂本:実際あれなんですよ、応募の時になんとなんと見るからね。

長澤:何に使ってくださいって言われてるんですか。

坂本:あの、そのときにあの、謝金じゃない、給料が、職員の人件費に使えることになってたんです。だから交通費で出したんです。

A:人件費には使われいかんていうことで、どげんしようかって、交通費という形出そうってことにしたっちゃ。

T:助成金てほとんど人件費として使えないのが多いです。

(雑談)

坂本:日本財団にしたって最初の目的は、日本財団のお金出したところのシール送ってきたんです。日本財団のあの、目印のシール、それをちゃんと貼ってくださいって。

長澤:あーそうですよね、スポンサーみたいなもんで。

だから要するにあの、モーターボートの。

A:イメージ戦略でもなんでもお金いただいて、こちらもいいし、向こうもいいし、利害関係っていうか。

(雑談)

坂本:キラリをとるきっかけはあの、Aさんがね、オープンスペースをやりたいって言い出して、出逢いの会で色々話し合いをしよったんやけど、そのときにKさんとあの、知り合ってね。共同団体であの何かの事業やろうって、それでキラリの事業はあったけんが。

A:ちょうど俺がフリースペースやろうって思っとったら、Kさんが来たんですよ、相棒連れて。で、Kさんはもう綿密にこげんしてこげんして計画書から作って、図面からPCで作ってきて、藤林さんとこに理事になってくださいってNPOから立ち上げるって来て。Aさんあんたと同じこと言いよらす方来とらすたいって、ちょっとこっちきて話きいてって。したら大体同じ事、俺よりもかなり具体的にして凄いっすねって言ったらま、それなりのことして来て仕事場とか相談員とか。だけんが、で、こっちも何とかやれるようになったんで、1団体で交渉するよりも連合体で組んで交渉していった方が話が通りやすいやろっていうんで連合体をま、ちょっと組んだんですよね。で、交渉を始めたんです。

で、そこでAさんが籠ったと。

A:で私が、市役所に話ししよって、やっぱこれ無理やなとか、何か勝手に勘違いして、一人で思って、何かどーんって鬱になって、で、私が8か月間引きこもったと。で坂本さんがもう一人のスタッフとずっと喧嘩しながらしよったと。

喧嘩しながらやないよ、仲良くしてたよ。朝出てこいっち言うのに出て来んし。

A:この頃ね坂本さんが良く言いよったよね。Sさんと2人でするとどげん大変かしらんめって言いよったのをようわかってきたこの頃。坂本さんのよーあのセリフのいいよるのが、えらいこの頃しみじみと、こういうことやねって。

長澤:坂本さんはないんですか。

坂本:波あるよ。俺の波は物凄いよ。Sよりか揺れてるもん。揺れてるのを平衡に保ってる。

A:坂本さん声のボリュームの調整のあれが、つまみが壊れてるよ。

T:そうそうそう、甘いけん。空回りする。

坂本:その声の上がってるときってのは、物凄い自分の中で揺れてるの。

A:ちょっと調子悪いってこと。

坂本:だからその声のボリュームの上がり下がりがひどくなってきたらね、大体あの平均的に取れなくなってるなって周りが気付く合図。

(雑談)

長澤:ちょっと話し戻していいですか。Aさんが8か月籠るじゃないですか。そのときに坂本さんがAさんのいないときに一生懸命埋めるじゃないですか。でも、坂本さんも同じことがあるじゃないのかなと思うわけですよ。

A:坂本さんくらいの年齢になると気力体力の衰えが出てきて、あの、これあれですよ真面目な話ですよ。精神症状の波の激しさが緩くなるんですよ、たぶんそんな感じじゃないかなって思うんですよ。

長澤:ですか。

坂本:いや、ちゅうよりもあれよ。長年やっててね。自分でここんところは押さえんと危ないなってのがわかる。

A:そう、病気のプロっちゅうかね。

坂本:危ないところまで上がってきたら、自然と自分で落とすってのができるようになってきたってだけ。

T:Aさんが休んだ時に坂本さんが穴を埋めたんじゃん。坂本さんが休んだ時周りの人がどのようにしてるのかみたいなことが知りたいってこと。

A:今は坂本さんが家の事情でちょっと、あんまり、来れる時しか来れない状態ですから。ま、それなりに。

坂本:それなりにっていうか、Aさんが埋めてますよ。

T:一緒にこのときやってた時は何回か坂本さんも途中

坂本:あった、1か月間抜けたんよ。

A:え、あった?

T:俺も抜けたもん。違うことが起きてるような気がして、ちょっと俺はこれじゃないとかいって。

A:あー

T:これに関わること嫌やったけんが、ちょっと抜けるって言って、考え直して。そんときってピアはわかるんで。抜けてまた戻ってくるとか、歓迎とかそういうのも普通にあるんで。穴を空けるとか、穴を埋めるとかって感覚じゃないんよ。

長澤:じゃないんですね。

T:いないときには誰かがやれるときにやる。ちょこちょこ頑張ってみようっていう。話したりしてますよね。

仲間が色々なこと始めるとさ、必ずどっかで自分の方向性と違うって感じる時あるよね。同じこと考えてる仲間なんやけど、全員が同じように鏡に映ってる状態じゃないけんね。やっぱいろいろと考え方あるけんね。そのときに自分とは違うなと、自分の方向性と違うなと思う時あるんよね。そういうことをあんまりくどくど考えて悪いこと考えると結構長引くんやけど。あの、ポッ思ったときに抜けたりすると、考え方また変わってポっと戻ってくる。仲間とちょっと離れるとまた磁石みたいに寄ってくる。

長澤:皆さんがそういう同じ共通の感覚を持ってらっしゃるんですね。

T:困難な状況にあったときに自分はやっぱ自分は社会と断絶してるわけじゃないですか。そういう経験があるとなんとなくそこは感覚的に。そこがきっかけで元気になると、そこがきっかけで出会ってるわけなんで。一緒にやってる、そういう感覚は、そこは皆あるんちゃうかな。口とか言葉ではなく感覚的なもの。これは病気だからっていうわけじゃない。

長澤:それぞれ病名も違うわけじゃないですか。それでも同じようなそういう感覚ってのはあるんですね。

A:なんとも人に言い難い辛い感じ、それは病名違っても皆過ごしてるんで。八方塞がりっていうか。例えば病名が全く一緒でも、現在置かれてる生活環境とか生立ちとかで皆症状も違うよ。病名一緒でも全然違うよ。病名とか関係ないよ。

長澤:この場がある意味ってのは、皆さんが過ごす場として、居やすい、心地いいっていう感覚があるってことですよね。

A:ここで、やっぱ、中で、病気とか何かで落ち込んでるとき、体調崩してるとき、中でもうとにかく今までの、頭を整理したりとか、ゆっくり何もせんでいい。ゆっくりしてもらって自然に同じ経験した人と話したり、一緒に空間を共有してる中で自然と元気になっていったりしたらいいなって思ってる。ま、そこら辺で、皆元気になってくると誰も来んことになって、あの認可が下りないっていう。でも、ほんとはですね。こういうところはあってはならないまでも、ない方がいいんです。

長澤:そうですよね。

A:社会にこういう人受け入れる場所がないから、受け皿がないから、こういうとこ必要だし、人も来るんだろうと思う。ほんとはこういうところは負ければいいんですよ。身体にしても、あの、作業所とかあの、老人ホームにしても、施設にしても。ほんとはあのね、なければない方がいいんです。だからあの、

A:結局、病院抱え込みと一緒の現象が起きるんですよ。こういうフリースペースでも。でしょ。

温室効果。

長澤:わからない、すみません。

A:全部自分のとこで作業所、A型、B型、援護寮とか作るじゃないですか、ずーっと回すじゃないですか。良くなったらA型、悪くなったらB型、悪くなったら入院、退院したらデイケア、で良くなったらB型、もうちょっと良くなったらA型、悪くなったらまた入院。ずっとチャリンチャリン、ガバガバの仕組みにしてるじゃないですか。そういう現象が起こってますよっていうこと。起こると思うんですよねとか、色々言うてみたけど、なかなかまあ、福祉課の人個人、その人レベルではそりゃわかるって感じなんやけど、やっぱ、どうしても財政の壁破れない。

坂本:障害者が道具に使うってのは昔からあった。身体の形式ってのはさ。トップがさ自分の思い通りに動かしてあった。そういう歴史もさ。

A:道具にされてもいいんやけど。もうちょっと、ちゃんとしたワンクッションいれるとか。ほんとに精神のこととか何もわかっとらん人を他にしよる、知的も、とりあえず頭数集めてから、ごちゃごちゃ現場は揉めようとに抑え

坂本:押さえつけるならいいけど。ここで当事者を使う奴がおるたい。当事者をあんたちょっとまとめんかいと。最終的に全部そいつにひっかぶせてね。そいつを追い出して丸く収めるみたいな。昔そういうところもあった。だからあの、実際的に祭り上げられた人は最初の内はいい気持ちなんやね。けどあと考えんねって。あんた追い出されてるって。

A:A型のあの補助金の出し方は、あと何年間で外されるじゃないすか。梯子を外されるんじゃないすか。

坂本:だからくるめ出逢いの会はいつ辞めてもいいんよ。

長澤:守りたいとやってきた訳ではないんですね。

坂本:守りたいってやってきた訳ではないん。ただ必要とされるからやってきた。だからあの、さっきも言ったように何回も辞めようかって話は出てる。けど100人からの会員がいるやんね、100人からまだ必要としてる人がいるんだみたいな。実際ね、何で必要とされているかっていうと、まだまだ精神の人たちに光が当たっとらんよ。だから出逢いの会なんてのは無くなって当たり前、そういう世界が僕らの望んでいたことなんよね。何の役目も必要ないみたいな。

長澤:それがいつかですね。わかりましたありがとうございます





*作成:岩ア 弘泰
UP: 20210529 REV:
全文掲載
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