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視覚障害学生石川准と東大図書館員河村宏:その1970年代から21世紀へ

石川准河村 宏立岩 真也青木 千帆子
2014/03/22 於:静岡県立大学→
2016/03 科研費基盤(B)「高等教育機関における障害者の読書アクセシビリティの向上:ICTによる図書館の活用」報告書
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[解説] 植村 要
 本章では、石川准、河村宏、立岩真也、そして青木千帆子の各氏による座談会の記録を掲載する。
 義務教育過程など、初等・中等教育においては、定められた教科書が予め点訳されている。そこで、視覚障害がある児童・生徒は、健常児の場合と同様、いくつかの点字出版所から発行されている点字の教科書を、各学年の初めに手にすることができる。しかし、高等教育機関においては、教科書が事前に点訳・音訳されていることはない。図書館の蔵書にいたってはいうまでもない。そこで、視覚障害がある学生が教科書や図書館の蔵書など何らかの本を読もうとすると、自分で手配をして、点訳・音訳、その他の媒体変更をする必要が発生する。今日、この媒体変更にはIT技術の活用が欠かせないものになっている。
 一方、高等教育機関における障害学生への支援体制も徐々に整備されてきている。今日、 高等教育機関における障害がある学生に対する支援の多くは、学生からの求めに応じて実施されている。すなわち、障害者差別解消法がいう合理的配慮要求に応じる形で支援を提供している。これは、視覚障害がある学生が文献を講読する際に必要になる書籍の媒体変換についても同様である。
 こうした視覚障害者に対する情報保障へのIT技術の活用、および、高等教育機関における障害学生支援に先鞭をつけたのが、本章の座談会に登場する三氏である。
 石川氏は、視覚障害者が大学に進学すること事態が困難だった時代に、点字受験で東京大学に合格し、入学した第1番目の人である。石川氏は、後に視覚障害者がPCを利用するうえで不可欠な画面読み上げソフトであるスクリーン・リーダーを初め、自動点訳ソフトや音声ブラウザなどのソフトを開発することになる。また、紙に印刷された活字の本を裁断してスキャナで読み取ってテキストデータ化するという、今日でいう自炊による読書方法を提案し、広めることもした。今日の視覚障害者の読書には欠かせないこれらの技術のアイデアの源泉が、東京大学入学から続く石川氏の経歴の中にあるだろう。
 また、立岩氏は、石川氏がこうした技術を活用するようになる前段階である学生時代に、石川氏に対する情報保障を担っていた一人である。立岩氏は、石川氏が読みたい本を朗読し、それをカセットテープに録音することをアルバイトで行なってきた。立岩氏は、後に、ウェブがもつ即時性と可変性という特徴に注目し、情報の多くをウェブで発信する取り組みを始めることになる。ここには、様々な文献の全文が公開されており、障害者に対する情報保障にも活用できるようになっている。立岩氏が情報保障に対する関心をもつようになったきっかけの一つが、石川氏に対する情報保障のアルバイトにあっただろう。
 一方、河村氏は、石川氏が東京大学に在学していた当時、図書館の職員として石川氏の情報保障に携わってきた人物である。後に河村氏は、デイジーコンソーシアムの会長となり、デイジーを視覚障害者に対する情報保障に活用する電子媒体の標準的なフォーマットとして確立し、世界的に普及させることになる。河村氏がこうした障害者への情報保障への必要性に関心をもつようになったきっかけの一つが、図書館職員として石川氏への情報保障を担ったことにあるだろう。また、河村氏は大学職員であったことから、同じ事柄についても、学生であった石川氏とは異なるものとして見えていただろう。
 つまり、今日、視覚障害者が本を読むうえで欠くことのできないものとなっている技術の最初期の開発と導入に石川、河村、立岩の三氏が関わっているのだ。そして、この三氏が出会い、一つの流れが始まったのが、1970年代の東京大学においてだったのだ。そこで、石川、河村、立岩の三氏に、1970年代以降の東京大学において石川氏に対する文献講読の支援がどのように行なわれていたかを回想するものとして、座談会を企画した。この座談会を企画したのが青木千帆子である。
 本章は、今日、欠かせないものになっている視覚障害者への情報保障におけるIT技術の活用と、障害学生支援の歴史の一つの源泉として、この座談会の記録を掲載する。
 なお、本座談会は、2014年3月22日に、静岡県立大学において開催された。また、文字起こしの後、三氏による必要な校正を加えてここに掲載する。

[補足] 青木千帆子
 この座談会は、科研費基盤(B)「高等教育機関における障害者の読書アクセシビリティの向上:ICTによる図書館の活用」の「課題1:障害者と高等教育」の一環として実施された。
 高等教育機関による障害のある学生に対する支援の多くは、学生からの求めに基づいて――すなわち、障害者差別解消法でいうところの合理的配慮要求に応じる形で、例えば、書籍の媒体変換といった取組が行われてきた。しかしそのような取組は、それが個別的なものであるが故に、合理的配慮を成立させるために要求者側・提供者側双方が採用した技法が十分には共有されてこなかった。
 本稿で報告する座談会では、個別に取り組まれてきた合理的配慮に関する歴史を、共有できる形で記録に残すことが目的とされている。それは、70年代から今日まで続く営みであり、今後においても参考に値するものであると考える。
 なお、以下の記録においては、三者の発言以外に、座談会の企画にあたった当時のスタッフ(青木)の発言が含まれている。

[補足] 立岩真也
 〔 〕内の補足、註と文献表の作成は立岩が行った。まったく不十分なものであり、今後の研究に期待したい。また見出しも同じ者がとりあえずつけてみた。


■石川:駒場の頃
<青木> 本日お伺いしたいことは、石川先生が東京大学に在籍していた当時大学でどういうサービスを受けていたのかが1点目、その予算がどのように拠出されていたのかが2点目、3点目はその結果としての教材の入手状況です。とりわけ入手できていた資料が点訳ボランティアと大学で入手したものと公共図書館というか、国立を含めて、それがどのようなバランスだったのか。また、当時どのような出版社との関わりがあったのか。あったとしたらですが。次は河村先生にお聞きしたいことですが、大学図書館関係者間における障害者サービスをめぐる議論の変遷について。それからなぜ大学図書館での障害者サービスは、公共図書館と比して対応が遅れているのか。最後に障害者差別解消法の成立を受けて、今後の読書環境の変化に関する見通し、以上7項目です。なので、先にどのように資料や書籍のデータを入手していたのかを。
<立岩> 僕もそれ前から謎っていうか、どうだったのかなと思っていて、ただなんか前聞いたときには、文学部からか、文科省から文学部いって文学部からだったとか誰かが言っていたような気がする。そんなことなかったっけ。
<石川> まず駒場の2年間というのは、大学からの実質的な支援というのは僕の自覚ではほぼなかったと思います。
<青木> どうしてたんですか?
<石川> 点字の辞書ぐらい買ってもらったように思うんですけどなかったので、既存の点字図書館の個人朗読とか、それからボランティア、片っ端からボランティアに頼んでいました。
<立岩> 当時駒場にはそういうサークルみたいなのってあったんですか?
<石川> 点友会はずっとあったんだけど、僕が入った頃の点友会って点訳をしない点友会だったから。
<立岩> 点訳をしないテンユウ会。何をしていたんですか、じゃあ?
<石川> 社交。
<立岩> 社交していたんですか。そこのサークルは使ったの?
<石川> 全く使い物にならない。
<立岩> 使えなかったの?
<石川> 使えなかった。僕はまあ性格的に何といったらいいんですかね、そういう同級生とかあるいは先輩とかに組織して自分のために点訳してくれとか翻訳してくれってこういうふうに打ち解けていくという、そういうだけのなんというか強さがないので、ないんです。
<青木> そうなんですか? それは若い頃の話で。
<石川> 何が言いたいの君は。ないので。
<立岩> 点友会にも頼れないとなったら困るじゃないですか?
<石川> だから大学からの支援なかったと。2年間。

■点字図書館/視読協
<立岩> 点字図書館は使ったりはしていた?
<石川> 点字図書館の個人朗読のサービスとか、それから個人のボランティア、ボランティアグループ、例えばボランティアグループって聖心女子大のボランティアグループというのがあって、御心会というんだけど、そこが一番その関係が一番多かったかな。
<立岩> ミココロって御心?
<石川> 多分。なんかそういう。
<立岩> それは、どうやって例えばその聖心女子?
<石川> それは多分、点字図書館の担当者から紹介してもらったんだろうと思います。
<立岩> なるほど。あの頃大学のキャンパスに近い点字図書館ってどこなんですか?
<石川> 日本点字図書館が高田馬場だし、僕は点字図書館といえば日点しか利用してなかった、基本的に。日点の普通のライブラリーというのは一般人中心で、学生対応になんかなってない。ただ、個人朗読というのはあったんです。それは、借り手からいえばそんなに上手じゃないんだけど、みんなのために作る、正式に作る製作までにはちょっと難しいけれど、でも翻訳者として仕事したい、ボランティアしたいというふうな意思を持っており、ある程度難しい本でもというか、文芸書じゃなくても読みますよという人を割り振っていたかな。だから1つ1つの個人朗読のものというのは蔵書とはしないで全部いわば揮発していくというか、そういうものとしてあった。
<立岩> 対面では?
<石川> 対面は、都立中央図書館というのが、サービスを1970年代の前半ぐらいかな★01。当時「盲大学生会」というのが僕が入る前ぐらいまではちょっとあったんです★02。僕が入ったときまだあったんだけど、あって僕も一応会長やったんだけど、ほとんど機能停止していた。その前にはそういうのがあって、あと「視覚障害者読書権保障協議会」〔(視読協)〕★03というのがあって、それはまだ当時活発だった。それは公共図書館での対面朗読サービスとか、翻訳図書の製作とかを要求していた読書権というのを要求していた視覚障害者の団体で、代表、僕が学生の頃の代表は田辺〔邦夫〕さん★04という人。彼も英語の先生になりたい人だったんです。明治学院を出たんだっけな。
<立岩> みんなそのメンバーというのは学生、大学生?
<石川> 視読協のメンバーは、もうみんな卒業していた。卒業していて代表は田辺さん。他に中央図書館に就職した田中章治さん、今もお元気ですけど。田中章治(しょうじ)★05さん。
<青木> 田中章治さんも視読協だったんですか?
<石川> 視読協の中心メンバー。それから市橋正晴さん★06という弱視の人で、川崎市役所か川崎市の盲人図書館に勤めていたのかな。川崎市の市役所の職員になったんだけど、やがて独立して大活字という出版社作るんだけど事故で亡くなるんです。息子が今跡継いでいるんです。大活字という会社の。それから、あの人何て名前だったかな、大阪の方の高校の教員になった人がいて、この人は50歳ぐらいでがんで亡くなるんですけど、何て名前だったかな、調べれば出てくると思うんですけど、ちょっと鬱屈した気持ちをいつも表出するようなタイプの人だった。だから学校行っても多分孤立していたと思う。一般校に就職したんだけど、仲間の中でやっぱりみんなと仲良くならずに、ちょっと尖ったところのある人だったから。そういうメンバーでしたね。あと今、日盲連の情報部長を新聞社を退職してやっている大橋さんという人もいたり。僕が出入りしていた頃にはちょっと見かけなかったけど。それから、浦口さん★07というもともと健常者の人でボランティアから出発して、この分野にのめり込んでやがて名古屋の、最終最後名古屋ライトハウスの点字図書館長になってそこでやっぱりがんで60歳ぐらいで亡くなるんだけど。その人であるとか。そういう人たちが中心だったんです。
 で、まあちょっと話を戻すと、対面朗読というのは、ときおり利用していたんだけど、まず1倍速じゃない。正確には0.8倍ぐらいになるわけね。
<立岩> そうですね。
<石川> うん。効率が悪いわけです。日曜日とか、朝行って、夕方まで昼なんか食べて、朝から夕方までいて、何時間分のテープを録音できるかという話だったんだけど、それでも利用はしていたけども。
<立岩> じゃあ日点のほかは録音物をもらって?
<石川> 録音物。あと点訳もやっていたよ。統計学じゃないかもしれないけど英語かな。忘れましたが、希望点訳というか、個人。正確にはどっちかが個人でどっちかが希望でややこしいんだけど、希望点訳と個人朗読とかなんかそんなふうになっていたかもしれないけど、そういうこと。それとボランティアグループが中心で、大学からの
<立岩> 日点の方の録音物というのは使うたびになくなるみたいな物だったの?
<石川> いやいやカセット、自分がカセットテープを送って
<立岩> 自分がカセットテープをもらっているという。
<石川> いやもらっていない。自分が負担しているのテープは。自分のテープを送って。
<立岩> ああテープを負担して送り返してもらうというふうな。
<石川> そうそう。
<立岩> そうすると基本的には自分のものになるわけ。
<石川> 自分のものになる。
<立岩> ああそういうしかけか。
<石川> うん。だから私的複製みたいになるわけだよね。

■石川本郷学部時代・テープ録音バイト
とか駒場のときには間に合わせていた?
<石川> まあなんとかかんとかね。学部になったらそういうわけにもいかず、文学部で指導教員になった高橋徹(あきら)教授が事務局長や学部長ともかけあい、でも勝手にはできないお金だとは思うので。僕に対する説明としては、事務局長の頑張りによってお金を捻出したということになっているんだけど、学部としての裁量、やっぱり200万とか300万にはなっていたんじゃないかなと思う。つまり学生バイトで録音するというのを始めたんだけど、当時としては破格にデータが高かったのね。何千円だったの、1時間のテープが?
<立岩> それがはっきりしないんだけど、90分4,000円だったかと。
<石川> 僕もそう思うの。
<立岩> じゃあ、2人合意。
<石川> で、えらい高かったわけ。突出して高かった。だから結構やってくれる人は多く多かったのね。でも一番なんといってもダントツでやっていたのは立岩真也だったんだけど、クオリティも高かったのね。宮台も録音したことあったね。
<立岩> 宮台もやったことある? へえー。
<石川> だからレート良かったんだよ。
<立岩> 確かに良かったですよ。だってあの頃家庭教師っていいバイトでしたけど、それでも時給2,500円とか2,000円ぐらい。
<石川> まあ90分のテープを90分ではできないから、実際には1.2倍ぐらいかかるの、1.5?
<立岩> うん。そうね、まあ2時間、2時間だとしても時給2,000円じゃないですか。
<石川> 2時間じゃ終わらないだろう、多分ね。だから東大生の他のバイトと比較して、インセンティブが必要だという判断で、4,000円というレートになったような気はする。それで年間どれぐらい作る。やっぱり1冊カセットテープ10巻や12巻にはざらになったんで、90分のテープが。
<立岩> そうですね、長いやつだと10本超えましたよね。
<石川> だから1冊5万ぐらいね、多分。それで10冊、20冊作れば100万でしょ。だからまあ100万ぐらいだったのかな。20冊は作れなかったかもしれない。それだけの朗読者はいなかった気もするし、自分でもそこまでは読めなかったような気がするけど。でも10冊以上は作ってくれたような気がする。
<立岩> 教材は確保できていたんですか?
<石川> いや確保というか、聞いてもわからなかったね。まあ正直言って。わかんないことが多かった。わかんない社会学の本があまりにも本や論文があまりにも当時多かった。というのもありました。
<立岩> それは何、社会学に慣れてないとうかそういう感じの話ですか?
<石川> いや例えば廣松〔渉〕は社会学じゃないけど、テープで聞いてじゃあお前理解できるのかと言われたら難しいじゃない。
<立岩> 念仏みたいなものだもんね。
<石川> だからナビゲーションちゃんとして、やっぱり解読していかないとわかんないような文章って山ほどあるわけでしょ。だからずっと浮動していくというか流れていくままに聞いて、わかるって小説じゃないんだから、なかなか難しいし、難しかったよね。
<立岩> そうでしょうね。僕も最初わりとかたい真面目な社会学とは限らなかったような気がするんですけど、でもざっくり言ったらやっぱり社会科学の専門書だったと思うんです。それを指定されて短いやつだと8本とか、長くなると12本とかそのぐらいの本数になる。僕らはだけどまとめた仕事ができるから、まとまった金が入るわけです。そういう意味では家庭教師なんかだったら1回2時間とかしかできないじゃないですか。だけどあれは根性さえあれば1日10時間ぐらい話し続けて。
<石川> それは根性いるな。相当に。
<青木> その作業はやる場所があるんですか?
<立岩> いや自分の部屋で、自分の下宿でやった。
<石川> たまに犬の鳴き声とかする。
<青木> 入っているんですか?
<石川> 夜とかやっているとね。最初はピーター・バーガーとトーマス・ルックマンの『日常世界の構成』だとか、ゴッフマンだとかそういうのを読んでいたんだよね。最初は。だから今と比べたら圧倒的に読めなかった。今は、逆に言えば、圧倒的に読めると。
<青木> それはナビゲーション機能があるから?
<石川> いやまあOCRもあるし、キンドルもあるし、もう我々はいくらでも、OCRの精度を我慢すれば、がしがし読んでいけるので。当時と今とでは全く状況環境が違うと。だから結局は先行研究をきちんとやっぱり学んで、先行論文を読んで、そういうベースになる基本教養というか、社会学だけじゃなくて社会科学全体の基本的な教養というか、圧倒的に欠如していたと思う。今思うと。それでなんか論文書かなきゃいけませんと。修論書いてなんかどっかの論文書いてというふうになると、やっぱり自分のことを言語化していくという、今で言えば当事者研究みたいなものに活路を見出すしかないというか、我流でやっていくしかない状況だったというのが正直なところです。
<立岩> 学部3年生4年生の頃までは入手するデータというか、音源というんですか、そのバランスですね、ボランティアさんと大学のアルバイトの?
<石川> まあボランティアの方が多かったと思います。ボランティア。
<立岩> 比率でいうと?
<石川> 7対3とか、8対2とかぐらいじゃない。
<立岩> その場合のボランティアも基本的に録音するボランティア?
<石川> ほとんど録音じゃないと間に合わないから。

■国会図書館/視読協・続
<青木> 国会図書館とかに要望書出していらっしゃいましたよね。その頃はまだ?
<石川> 国会図書館はもうサービス始めていたように思うんですけど。僕、国会図書館の本で読んだ記憶にあるのは2冊あって、1つはバート&ラッセンの西洋哲学の歴史みたいなやつと、あとなんだっけな、川島一郎の日本人のなんとかみたいなやつ。有名な本。
<立岩> ちなみに先ほど〔インタビューが始まる前に話をしていた〕の魚津市〔石川の郷里〕の出身の人は広田伊蘇夫さんという精神科医でした。
<石川> ああそう。
<立岩> もう亡くなられましたけど、一昨年彼の蔵書をごっそり我々いただいて。
<石川> ああ。あの方が。
<立岩> そうそう。宇都宮事件の時とかに活躍された人です。
<石川> へえ、そうなんだ。
<立岩> 国会図書館は、何をしていたという?
<石川> 本当の専門書を国会図書館がやるということで、一応ね。国会図書館の中にも録音ブースはあって、最初は多分少しは国会図書館の中で優秀な翻訳者どっかから引っこ抜いてきてやっていたかもしれないんだけど、やがて全部アウトソーシングに変わっていくんです。それはいつからか僕は知らないけど。確かに最初の頃のバート&ラッセンだとか、それから川島一郎の本とかは非常によく上手な録音でしたね、確か。
<立岩> やっぱりそこも1人用の録音物を提供するという?
<石川> いやそこは蔵書蔵書、国会図書館の蔵書。蔵書だけど多分リクエストに基づいて音訳図書を作っていた。
<青木> 一般の蔵書を?
<石川> 蔵書です。自分とこが持っているもの。
<青木> 石川先生が視読協で申し入れをしていらっしゃったのを記録で見たことがあるんですが、それがきっかけで国会図書館は始めたんですか?
<石川> 全く記憶がないんですけど。いつから国会図書館始めたか。その頃だと思いますけどね。でも僕なんかやっていた? 僕視読協のなんか役員やっていた? やってないよね。
<青木> 『視覚障害』という雑誌に、最初は『視覚障害』という雑誌ではないですが、石川准先生かどうかはわかりませんが、石川という名前で何度か国会図書館の人と…
<石川> 対談している?
<青木> はい。申し入れをしている資料が初期にあったかと思っていますが。なので一時期視読協と一緒に。
<石川> はい、僕は視読協に一時、学生の頃は参加していました。はいはい。
<立岩> 1、2年生の頃ですか? 3、4年生の頃も視読協に?
<石川> いやわかんない。覚えてない。
<青木> 西暦では何年入学なんですか?
<石川> 77年。
<立岩> ああそうなんだ。2個しか違わないんだ。もっと上だと思っていたのに。
<石川> いやそんなに。
<青木> では、前から動いているんですね。視読協が1972年に全国図書館大会などで盲学生の読書環境改善に関する申し入れをしているとか、そういう記録があって。石川先生が入る前から。
<石川> 動いていましたよ。
<青木> あったんですね。
<立岩> さっきの話確認すると、その国会図書館は、具体的にはどういう?
<石川> だから専門図書についてリクエストがあったら音訳するということをしていた。
<立岩> その音訳というのはテープ媒体を提供する。テープを提供するという形?
<石川> テープをはいはい。図書館を通して貸し出すということをしていたと思う。個人に直接サービスはしてなかったと思います。
<立岩> 図書館を通して?
<石川> だと思うな。
<立岩> 国会図書館から○○図書館へということ?
<石川> まずリクエストも国会に直じゃなくてどっかの図書館を通して、僕の場合で言えば東大のこれ河村さんはわかっていると思うけど、総合図書館を通してリクエストを出すとかそういうふうにしていたと思う。貸し出しは、国会から直にきたかどうかは、ちょっとはっきり覚えてはない。今も基本的にはその辺変わっていないので、国会図書館に聞けばわかると思うんだけど。どっちだったかちょっと覚えてないですね。

■社会学(者)のこと
<立岩> じゃ私的なボランティアも、東大の文学部のどっかから出てきたお金を使ったバイトも、それからその国会図書館のそういう数は少ないけれども、そういうのもごくわずか使いつつ。
<石川> まあ中央図書館の対面朗読もごくわずかに使える。例えばいつ使ったかと言えば、教職のときかな。教職を僕受けていた。やっていたんです。だから教員実習やってんの。4年生のとき。
<立岩> 偉すぎる。
<石川> そのときに高校生に教えるときに対面使ったかな。
<立岩> 高校生向けの教科書とか指導要領とかそんなの?
<石川> うん。そういうふうな感じ。
<立岩> 教材みたいな。僕は教育はだめだったわ。「教育原理」という講義に出て1コマ目で挫折しちゃった。
<石川> あまりのつまらなさで。
<立岩> うん、あまりのつまらなさに。まあいいや、それはいいんですけど。それで3、4年をそうやってこなして、石川さんって卒論何書いたか覚えています?
<石川> ラベリング理論みたいなやつ。だけど卒論のことは言うな聞くなって感じかな。聞くなと。
<立岩> たしかにイントラクショニズムって、あの頃流行ってましたよね。
<石川> 流行ったよね、一応ね。ゴッフマンとかさ。僕は大村英昭宝月誠の『逸脱の社会学』〔1979〕とか好きだったんで、なんかラベリング理論とかちょっとってなって。
<立岩> あの本は結構まとまった本ですよね。
<石川> そうですね。社会学の本としてはなんかスマートだったんだと思っている。
<立岩> わりとしっかりしたもの。
<石川> うんうん。わかんない本が多い中、リーダブルでかつ面白かったんだと思う。
<立岩> 僕は後年、宝月さんに京大の院で集中講義した時にで会うことになって、ああこの方がと思いましたけどね。紳士な方。
<石川> 紳士でこつこつとした感じのね。地道な、大村さんとはタイプは大分。大村さんはちょっとね。
<立岩> 大村さんはちょっと坊主で社会学者。
<石川> 坊主だけどどっちかというと生臭坊主系で。本を読んでいたときの印象とちょっと違うんだな。
<立岩> 宝月さんはその後立命館に移って、立命館の図書館長やったんだよ。
<石川> まあとにかくそんなようなことで、基本的にその構造は学部、大学院、それから僕は就職して。90年代通じてボランティア依存ということで、基本的に脱却ができてないんです。それが今や翻訳図書というの一切使わなくなったから。もうかれこれ10年近いかな。全部OCR。最近はキンドルも入ってきた。
<立岩> 77年入学でしょ。ということは81年に学部卒、83年に修士卒。
<石川> 1年間アメリカ行って。ミスタードーナツでね。
<河村> 昨日広島で雑談していて、石川さんがアメリカ行く前に高橋徹とけんかした話を久しぶりに話しして。
<石川> けんかしたの僕じゃないよ。この男だよ。
<河村> 立岩先生がけんかしたの?
<石川> そうだよ。だって僕の送別会の日におおげんかして、酔っ払って、まあ高橋徹が悪いんだよ。でも普通みんな我慢して。僕もどんだけ理不尽な目にあったか。ここ来てからでさえ、なんて理不尽なと思う。これ録音していてもいいですよ。亡くなって、いや生きていてもいいんだけどさ、本当理不尽な人間だった。一方で情みたいなのを持ち合わせてはいたんだけど、でもそれを割り引いてあまりある理不尽さだったね。で、一応ゼミの指導教官ではない立岩は、なんだっけ、けんかになったんだよね飲み屋で。おおげんかに。
<立岩> なんかよく覚えていない。
<石川> いやまあどっちかというと高橋徹が自分を中心とした話じゃないことに怒ってなんか言ったんだよね。だと思った。
<立岩> 僕はなんかお前は差別者だというようなことを高橋さんに言った記憶はある。
<青木> わあ80年って感じですね。
<立岩> まあいいや。でもまあどっちも酔っ払っているから、高橋さんも次の日には忘れていて。
<石川> 本当かよ。
<立岩> そうみたいだ。忘れている感じだったよ。
<石川> いや、忘れたことにしたんじゃない。
<立岩> したのかな。あの後僕静岡県の某短大の。
<石川> それで悪いことしたなと思ったんじゃないの。
<立岩> そうかな。高橋さんが僕の就職の斡旋というか。それは結局消えたんですけど、どっかで間違ってなければ静岡の某女子短大が振り出しだったかもしれないですね。それは高橋さんとりもってくれた。だからすごい勝手な人情家というかさ。そういう感じの人だよね。
<石川> あのね、なんというんですか。
<立岩> 酒癖めっちゃ悪いという感じ。
<石川> まあ性格すぎて。
<立岩> 奥さんいい人だけど。
<石川> 奥さんいい人だけど、まあいいや高橋さん、別にここ高橋さんのことを言うためのあれじゃない。しかしいまだかつてああいう人に、あれと同じような人に会ったことがない。
<立岩> 暴君なんだよな。僕はそういう直接被害あんまり受けてないんですけど、ゼミじゃないし、だけど高橋ゼミだと京大の社会学の落合〔恵美子〕さんとか。
<石川> でも女の子には優しかった。まあいいや。でもまだ覚えているということはトラウマになっているのかな。

■レコーディング・フォー・ザ・ブラインド/米国留学
<青木> 先ほど先生がボランティア、7対3っておっしゃいましたけど、公立図書館でも多少は録音を作っていたのですか?
<石川> 公立図書館、ほとんど都立中央図書館が一番だった。
<青木> それが一位にくるという感じですか?
<石川> 一位に行くかいかないかでしょう。
<青木> それは修士のときも同じような感じで?
<石川> 変わんないですね。要はいわゆる図書館というものは学生にとってはほとんどまあ今もそうかもしれないけど、個人朗読とかそういうものを除けば、蔵書というのは非常に助けにならない。やっぱりそれぞれがカスタムに持っているリクエストに応じてくれなければ、やっぱりどうにもならないわけです。ある蔵書の中から選んで本読んでいって論文が書けるわけないんだから。
 で、僕は80年代の半ばぐらいからアメリカの、当時レコーディング・フォー・ザ・ブラインドと言って、これは国際的に海外に貸し出ししていたんです。今でこそなのか、知的財産についてうるさくなっていて、国内法で許諾しているから海外に出せない、つまり許諾なしに海外に出せないとかって言い出しているのねアメリカは。昔はそんなことなかったの。だから僕はRFBからも録音図書を借りて、84年にアメリカに行ったときももちろんそうだし、帰ってきてからもしばらくはよく借りていたんです。
<立岩> それは洋物ですか?
<石川> 洋物。じゃあどの程度あなたは理解しているのかと言われたら、100のうち10とか20とか理解を。でも日本語の本を日本語の専門書、社会学の専門書を音訳、録音したものの100のうち何十パー自分は理解していたと言えるかというと、これもはっきりしないわけです。それは英語よりはましだよ、だけども。でも英語のものもそうやって食らいつこうとはしていた。
<立岩> 留学はニューヨーク市立大学でしたっけ?
<石川> ニューヨーク州立大学のストーニーブルック。ステイト・ユニバーシティ・アット・ストーニーブルックって言うんです。
<立岩> そこD1のときに1年間。
<石川> D1で行った。向こうのPh.Dのプログラムに正式に入った。だから向こうでも単位取ったよ。
<立岩> 単位取れるようなタイプの?
<石川> だって一応普通に入学したんだもん。
<立岩> そうかそうか。
<石川> お金も払ったし。授業に普通に出たから。試験も受けたし。当時アメリカでどういう試験だったかと言われると、レポートだったんだけど。電動の普通のタイプライターでレポート書いていたもん。
<青木> 受験するときもレポートだったんですか?
<石川> 受験するときは、そこで勉強させてくださいとテープ送りつけてそれで合格したというだけの話で。まあいいんじゃない、これだけ英語できればみたいな。
<青木> テープって、録音したものを?
<石川> 僕はそこで勉強したいんですというテープを送っただけ。
<立岩> 郵送か何かしたわけ?
<石川> そうそう。
<立岩> 日本からアメリカにメッセージを送ったわけね?
<石川> そこにハナン・セルビンっていう全盲の教授がいたわけ。だからそのセルビンさんに僕はそこで勉強したいんですって言って、そのセルビンさんは学部長に、こういうふうに言ってきてんだけど、これだけきれいな英語話せるんだったら大丈夫じゃないみたいな、まあいいんじゃないみたいな感じで入ったわけ。その後、GRE受けなきゃいけなかったんだけど、なんだかんだ言って受けなかったんじゃないかな。受けた記憶がない。
<立岩> 先端研の入試もそんな感じあるかな。やりたいことはっきりしていればどうぞみたいな。
<石川> GREというのは、僕、受けなきゃいけないと言われていたんだけど、なんだかんだ言いながら結局受けなかったような気がするな。ただし行く前にTOEICか、当時はTOEICが中心だったよね、受けましたよ。それでその勉強はしていた、入学する前に。それこそ東大のラボで一生懸命勉強していて。そのときもテストは。中国系マレーシア人の女性の人に英語習っていたのね。その人が英語がほぼネイティブに近かったね。TOEICはICUで試験受けて問題読み上げて、それに答えるという、そういう形式だった。だから対面朗読式の試験だった。
<立岩> 英語で聞いて英語で答える?
<石川> そうそう。直接にその場で僕が答える。
<立岩> 試験官に対して?
<石川> そうそうそう。一問一問。
<立岩> ああそういうことね。
<石川> うん。そういうやり方。
<立岩> どうやって問題読む人を?
<石川> いやいや僕が連れて来た人だから。だって。僕が頼んだ人だから。多分TOEICの方はお金出してくれてないと思う。TOEICは会社でしょ。
<立岩> TOEICのところにその人連れて行って、問題文を石川さんが連れて行った人が読んでそれに対して答えて、答えたのをその人が記入するみたいな? 記入はしない?
<石川> いや記入はその人はしなかった。誰がしたかちょっと記憶にないんだけど、その人は読み上げる担当だったんじゃないかな。ちょっとはっきり覚えてないんだけどね。
<立岩> とにかく自分で答えて、それが採点されて。
<石川> そうそう。それで何点となってなんか640点ぐらい採ってまあまあ良かったんじゃない。当時。TOEIC620か40かだったと思うんだけど。まあそれだけ、だから向こうへ送ったデータそれだけ。TOEICのデータだけ点数だけで、あとはそのテープで大学で勉強したいんですというテープをハナン・セルビンに送りつけたら、なんか学部長に見せて、きれいな英語だから大丈夫じゃない、じゃあオーケーみたいな。で、正式にPh.Dプログラムの学生になった。単位も取ってきた。僕は2年間、一応なんだかんだ言って、そうはいったって一応修士やっているから、向こうの大学院生もスーニー〔SUNY:ニューヨーク州立大学〕はそんなにレベル低くないけど、そんなにめちゃくちゃ高いというわけでもないから、学生の感じも、いろんな年齢層の学生たちがいて、その中では、僕はちょっとアドバンテージがあった。
<立岩> 言葉さえなんとかなれば別にね。知識的に足りないということはなかったんでしょ?
<石川> そんなにはね。

■東大図書館で
<立岩> 河村さんいらっしゃったけれども、東大図書館との関わりというか。
<石川> 東大図書館との関わりは河村さんに話してもらう方が正確だと思います。
<河村> 関わり?
<石川> 僕との。
<立岩> 河村さんは彼ら入ってきたときに知っていたというか、ああこういう人入ってきたって?
<河村> その入るちょっと前に東大の図書館ではバリアフリー化しようという委員会をやっていたわけ。それでそれは職員が卓球チャンピオンだった職員が突然、足ががくっときて、それで、何だ何だって言っている間に、膝から下切断したんですよ。それで石川さん入る1年ぐらい前、膝から下を切っているのに肺のレントゲンばっかり撮っているってその人がつぶやいていた。ちょうど僕が義理の母をがんで亡くしたばかりで肺のレントゲン撮っているって言うから、これはちょっと悪性なんじゃないかって僕はぴんときて、それでこの人だんだんだんだん切っていかなきゃいけないかもしれないから、車椅子になるかもしれないっていうことを組合で相談して、その人の就労を継続させるためということと、それだけじゃなくてやたら図書館階段だらけで車椅子の学生さんも入れないから、それを一緒に組合の事業としてバリアフリー化を提案しようというふうに提案したら、今度は図書館の事業としてそういう調査研究委員会を作ろうという話になって、半分業務で、組合も協力して、委員会をやっているときに全盲の学生が合格したというニュースが入ってきた。
<立岩> 組合というのは、東職というか、東大の職員組合?
<河村> 図書館の。
<立岩> 図書館の組合?
<河村> 図書館に単独の組合があって、図書館の職員がやっている。
<立岩> そこが当局に言っていったという感じで?
<河村> 要するに組合員の就労を守るというのが最初の動機なんだけど、それだけじゃ変でしょうというんで、やっぱり図書館全体の。そのときは、身体障害のことしか考えてなかったんだけど。そうやっていたら、全盲の学生が入ったっていうんで、じゃあそれも課題だよねっていうことで、石川さんに確か会いに行ったんだよね。
<石川> どっかで会った。駒場で会ったんじゃないかな。
<河村> 駒場の図書館かなんかで会ったんだよね。
<立岩> 入学前ですか?
<石川> いやいや入ってからだと思うけどな。入学の直前かもしれないけど、ちょっとわからない。
<河村> 4月の直前だと思う。
<立岩> 駒場の図書館、下駄履いて歩いていて叱られた記憶しかない。まあいいや、そんなことはいいんですけど。で、入ってくるというのを知ってということ。
<河村> それは教養学部の方から連絡がきたね。教養学部の図書館から連絡がきた。
<立岩> それで、もう入学する手続きとか、そのちょっと前ぐらいにお会いになって。
<河村> そう。何ができるのかよくわかんないんで、とにかく会ってどうやって本読んでいるのというのを聞こうと思って行って、目録調べたら本当に1冊も登録されている点字図書も録音図書も目録にはなくって、当時600万冊って確か言っていたけど1冊もなかったよね。
<立岩> その600万というのは東大の蔵書がということ?
<河村> 全学の蔵書。その頃、国会図書館より多かったから、日本で一番大きい図書館だった。
<立岩> そんなだったんですか。
<河村> そこに1冊もないねという話で、本当は寄贈されたのなんかあったんだけど、登録してなかったんですよ。どうせ目録とっても誰も読まないだろうと思って。
<立岩> ああ、はいはい。あるかもしれないけど、どこにあるかは誰も把握してない。
<河村> そう。目録になければもう出てこないから、どっかにあったって。
<立岩> 大学としてはそんな感じだったことがおわかりになって、石川さんと何のお話というか、どうしましょうかという話?。
<河村> ただね、石川さんからはあんまり具体的な要求はなかったんだよね。それでなんか周りの人が点訳や音訳やるしかないという話しかなくって。
<石川> だってまだ右も左もわからず、いきなり大学に入ったばかりのときに二十歳だったんだよね。2年間入院していたから。
<立岩> ああそうかそうか。
<石川> でも高校出ていきなり大学入ってだね。
<立岩> なんか要求していいとも思ってなかったんでしょ。
<石川> そうそう。そんなのわかんなかったしね。うん。

■当時の視覚障害大学生
<河村> だからしょうがないんで、これまで全国に大学生で全盲の学生がどんな人がいるかというのを調べ始めて、直接会いに行って聞き取りをやったんですよ。一番最初に聞き取りに行ったのは、当時のICUにいた草山こずえさん★08という人で。
<石川> でも同じ年に大学に入っているはずなんですよ。草山さんと僕は。
<河村> そうなの? じゃあ草山さんところ行ったのはもうちょっと後だ。草山さんから野村茂樹さん★09のことを教わったのか。野村さんと会いましたかと言われて。草山さんから教わって東大に実は石川さんの前に彼は障害等級1級だよね。野村茂樹さんは確か。
<石川> 1級かどうか知らないけど弱視で、でも大学に入ってから弱視になったんでしょ。
<河村> 入ってから。一夜で本当に一夜。3月の末ぐらいかな。文Tに入って法学部へ進学する直前に見えなくなって、視神経萎縮って言っていたかな。本当に一晩で見えなくなったって言っていた。彼は草山さんとはなんか盲ろう者の支援もやっている施設で。
<石川> 当時、盲ろう者って概念なかったですよ。
<河村> いやいや本郷の方にあったんだよ。盲ろう者の支援をやっている施設が。
<石川> 本当?
<河村> 本当だよ。そこで2人が知り合っているの。当時盲ろうの人を支援する組織っていうのは、なんか本郷の方にあって。
<立岩> それは福島〔智〕さんみたいな盲ろうということ、盲アンド、オア聾というか、どっちなんですか?
<河村> いやあ本当の盲ろうの話みたいな。それで少なくとも野村茂樹さんなんか僕なんかまだいい方でというふうに言っていたんだから。
<立岩> その法学部の直前にという方は、いつ突然に悪くなったの。覚えてらっしゃいますか?
<河村> 2年生で3年に上がる直前。
<立岩> それは石川さんの入学する
<河村> 入学する1年前だったかな。
<立岩> 全盲で入ったのは石川さんが最初だけども、その1年前にそういう意味で一夜にして…
<石川> 視覚障害の学生は存在していたんだ。
<河村> いた。
<石川> いた。いたのを発見されたの。
<河村> いたのを全然僕らは知らなくて、野村茂樹さんの方は、図書館があるというのはもちろん知っていたけれども、そういうところが何かをしてくれるとも思ってなかった。ひたすら病気の治療というか、治療に専念していたんですね。僕が会ったときはまだ治療に専念している状態で。
<立岩> その方はその後どうなされたの。
<河村> 結局20倍にすれば見えるということがわかって、それから視力を20倍で拡大読書器で使っても進行しないということも医者から言われていたので、拡大読書器がいいというので、20倍だから、1文字こんなでかいんだけど、すごい。それで六法全書って二段組とか三段組でしょ。あれの1段が縦に入らないのね。だからもう大変なんだよね。1行読むのにこうずらさないと読めないと。それで勉強していたのね。それとノート取らなきゃいけないんで、ノートを取るときに六法の厚さとノートの厚さが違うんで、いちいちピントを合わせないといけない。六法を見るときは六法用の厚さにピント合わせて、ノートを見るときは薄いものにもう1回ピント合わせ直してということを取っ替え引っ替えやっていたのね。
<立岩> こんな感じで。
<河村> でも彼は最終的には司法試験を拡大読書器で受けた最初の人で、合格をして1.33倍だったよね彼はね、点字受験が1.5倍だから弱視は1.33倍だってわけがわからない。
<立岩> 時間の伸ばし方が。
<河村> それで今でも1.33倍でしょ、弱視は。それの草分けの人。
<石川> 弱視系の人たちに言わせれば、自分たちの方が時間かかるんだと。それはそう思うよね。
<立岩> ああ点字読むより拡大を読む方が手間かかるって。
<石川> 読んでいるのを聞いていると、やっとやっと読んでいるのね。弱視の人は。
<立岩> 弱視は本当にいろいろあるじゃないですか。拡大すれば読めるという人と。
<石川> ほとんど正眼に近いような弱視もいるからね。全然、千差万別。
<河村> 具体的には石川さんと面接して、他の大学生とか酒井栄蔵さん★10なんかもう卒業していたんだけど、面接して。
<石川> 酒井さんというのは明治学院?。
<河村> 『視覚障害者が社大で学んで――5番教室の4年間』〔酒井[1977]〕だから、社事大だ。社会事業大学がまだあそこ神宮のそばにあった頃の。
<石川> 酒井さんというのもわりと社会派の人でいろいろと活動した人なんですよね。彼はね。
<河村> 酒井さんの本はすごく良くまとまっていて。これはすごく参考になりましたね。
<石川> もう卒業してたんですよね。
<立岩> 卒業していた。
<石川> 東京都の何区か。
<河村> 品川区に勤めているんだけど、都の職員なんだよね。彼は初年度は点字受験拒否されて、墨字の試験の前に1日座っていた人だよね。2年目でやっと許可されて。なかなか頑張り屋で。彼とか東北の東北大の人も聞きに行ったね。
 それから『123ページの伝言』。
<立岩> 「123ページの伝言」って本の名前ですか。この本のアマゾンの本のタイトルによると、「早稲田の法学部に学んだ視覚障害者の記録」という副題になっている。
<河村> 早稲田だったら指田〔さしだ・忠司〕さん★11だよね。
<立岩> 指田さんという方の著書になっている。ちょっと調べてみましょうかね。こんな本があるの全然知らなかった。〔この本、アマゾンの〕マーケットプレイスでは、「今お取り扱いしていません」ですね。
<石川> 酒井さんという人は、そういうふうに今河村さんが言ったようなタイプの人で。
<河村> 酒井栄蔵さん、栄えるに蔵だったと思う。
<石川> 30年ぶりに名前聞いた。
<立岩> 栄えるクラ。くさかんむりの蔵ね。確かエイゾウという名前だったと思うね。なぜ大体みんないくら聞いてもあんまり大学が何やってくれたという話はなくて、かなり孤軍奮闘で。
<石川> でね、ボランティアグループと一緒になんかこうみんなで関係の中で支援を受けつつ、自分も一緒にというのでわりと成功した事例が草山さんなんですよ。ICUの草山さん。
<河村> さっきの野村さんに話を戻すと、結局野村さんは実は2台拡大読書器がいるんだということがわかって、野村さんのために1台図書館で買って図書館で備えていたんだけど、当然、自宅で学習するためにも、彼はお父さんが当時70万円って言っていたよね。すごい大金だけど当時の70万円って。あんまり豊かでなかったと思うんだけど、うちは。お父さんが買ってくれましたって言って、自宅に1台持っていて、それでどっちも1台ずつ置いてあるんでピントの調節しながらやっていますという話聞いて、結局司法試験のもうこれから山場だというときには、他の弱視の学生さんいなかったんで、貸し出しちゃったんだよね。拡大読書器を自宅に。近かったんで、リアカーで運んでいった記憶があるけど。
 で、見事試験に合格したという人で、ただ合格してからがまた大変で、法務省の管轄の司法試験で、司法研修所が最高裁判所で、管轄が違うんだっていうのね。司法研修所で受け入れるときには、また法曹として自立してやっていけるということをちゃんと証明しろっていう難題が突きつけられて。結局、彼は最終的には、石川さんは一緒に行けなかったんだけど、アメリカに行って向こうのそういう視覚障害で活躍している法曹関係者の方と会った方が具体的にどうやっているかというのがわかって、証明するも何もアメリカではこうやっていますということをレポートすればそれでいいんじゃないかということで。
 石川さんはあのときは指導教官から待ったがあったんだよね。
<石川> 行くなと。4年生の12月だったの。卒論書く前にどこ行くんだって言って怒られてやめたんです。行くなと。
<河村> 野村さんは行って向こうで何人か全盲の法曹の人と会って、そのときに今のアメリカのNFBの会長、マウラーがまだ若い弁護士でどっかのシビルライツオフィスに勤める弁護士だったんだよね。そのマウラーともクリスマスパーティーに呼ばれて、NFBの本部で会ってるんだよ野村さんも。
<石川> ジャーニガンには会ってないんですか?
<河村> ジャーニガンにも会っている。
<石川> 当時ジャーニガンというのが会長だった。ジャーニガンも弁護士なんです。だからNFBは伝統的に弁護士が、今、日盲連も竹下〔義樹〕★12さんが弁護士だけど、当時既にアメリカの盲人団体の会長は弁護士がやっていた。
<河村> 向こうで見聞きしたり、調べたり資料もらってきたことをもとに青山教授という人が監修してくれて、『ジュリスト』に彼が投稿して、論文になって〔野村[1981][1982a][1982b]〕、それをもって証拠書類として最高裁判所に出してそれで受け入れられたんですね、研修生として。その後か竹下さんが点字で合格したのは。
<立岩> じゃその方が最初の最初みたいなことになるわけ、弁護士?
<河村> 視覚障害で、全盲弱視を含めての最初は、多分野村さん。
<石川> 竹下さんはいつ受かったの?
<河村> 確か野村さんよりもちょっと後。点字では第1号です。
<立岩> 今はぽつぽついらっしゃいますよね。
<石川> ええ、何人かいる。少なくとも3、4人います。
<河村> だからそういう特別措置をして合格した最初の視覚障害者が野村さん。今でも日弁連のなんか人権の部分の担当をやっているし、すごく社会的にも活躍していますよ。あとは盲ろう者協会の理事やってんのかな。

■石川と本郷図書館/レコーディング・フォー・ザ・ブラインド続
<立岩> そんなようなことをぽつぽつと拡大の機械入れたりとか、貸し出したりだとか、そういうのをしだして。
<河村> そうです。だからニーズベースでどういうニーズがあるかによって図書館でできそうなことをまあやるというスタンスでしたね。
<立岩> 石川さんって結局大学何年いたの?
<石川> 4年間。学部はね。大学院は2年と、1年間留学していなかったんで、あと3年間。
<立岩> いなかった1年も入れて3年。
<石川> いなかった年も単位取ってきたんで。
<立岩> 無駄になってないよね。
<石川> 無駄になってないね。学部が4年、修士2年、博士3年、学振の特別研究員っていうので2年。学生としては9年、あと2年。11年。
<立岩> あのときは学振の研究員だったときも東大だった?
<石川> 東大だった。
<立岩> 受け入れが同じでもよかった?
<石川> そうそう。
<立岩> その間のお二人、その11年を通してというか、接触というかというのは何かあったんですか?
<河村> 本郷に来てからはあったよね。まず図書館としては正式に外国、特にレコーディング・フォー・ザ・ブラインドからだけど、図書を借りてたから、録音図書、当時カセットだけど、目録を検索して石川さんのリクエストがあった本が向こうにあれば航空便で借りていて、その航空便の往復の費用は図書館の負担にしていたんで。結構100タイトルぐらい借りてんだよね全部で。
<石川> 全部読んだかな。
<河村> 読んだかどうかわかんないけど、借りることは借りていた。
<立岩> それは、さって言っていた海を越えてやってきた洋物のやつっていうことか?
<石川> そう、洋物洋物。最初は東大の図書館で借りていたんだけど、いつから始めたか覚えてないけど、留学して帰ってきてから自分で直接電話かけて、向こうのオペレーターにこういう本ありますかと言ったら、ノウとか言われながら、じゃあこれはとか言ったら、あるとかってじゃあそれっていうふうな感じで借りていた。
<立岩> それを東大の図書館経由で?
<石川> いや。あるところから個人ベースで借り入れていたと思う。
<河村> あれ、航空便で借りている航空便の費用は、図書館が出していたという記憶あるんだけど。
<石川> はっきり覚えてないな。
<河村> あれただ頼むと船便だから。
<石川> 船便で、なんかすごい変な箱で来たよね。
<河村> 船便だともうすごい時間かかって、ただの船便だから。
<石川> 覚えてない、飛行機だったのかな。でも、僕が勝手にリクエスト出しにくいでしょ、それだと。東大の図書館経由して申し込まないと。
<河村> 東大の図書館にはファイルがあったよ。石川さんのリクエストの授受の記録が。それで郵便料の。
<石川> それ、僕が留学から帰ってきてからもですかね?
<河村> 多分そうだと思う。
<立岩> 両方やっていたということかな。個人輸入と図書館経由と。
<河村> ただあれすごく高いよ、航空便の料金って。
<石川> ああそう。ちょっと覚えてないなそれは。
<河村> なんか多分ね。
<石川> リクエストは自分で検索して、特にアメリカに何かで行ったときとかにばっと頼んだりしやすかったんですよ。ばっと頼んで、当時は日本に住所が当然あったから。どうだったのかな。ちょっとあんまりはっきり覚えてないですけどね。
<立岩> 東大の図書館としては、石川さんに対してそういった中継ぎというか?
<河村> 既にある本に関して外国にあるものに関しては相互貸借で借りるというのが正式業務でした。
<石川> じゃ僕のアドレスが東大にあったのかもしれないけど、ちょっと覚えてないですね。
<河村> 少なくとも正式の図書館の業務としてはそういうのはあったね。

■ブレーリング/石川プログラミング学び出す/80年代前半PC事情
<石川> あとブレーリング〔Brailling〕という点字の端末、本当に一番走りの頃の点字端末、今こういうのあるでしょ。こういうのもっとでかい巨大なキーボードをフルキーボードがついていて、向こうの方に点字のディスプレイがついているやつで、百何十、160万ぐらいしていた。イギリスのクラーク&スミスというやつのを、東大の図書館が買ってくれたんですよ。それでユニックスのワークステーションとかにつないだりして、ネット検索したりしていたのかな。
<立岩> でかいからそこに置いとくしかない?
<石川> いや、東大が図書館で買ってくれたから。というか河村さんがとにかくねじこんでくれた。
<立岩> 物はどこにあったの?
<河村> 図書館に。
<立岩> 図書館に行って使っていたということでしょ?
<石川> 最初ね、やがて自分でも買ったんです。輸入したの。自分というか父親が買ったんだけど。同じものを。それは東大を離れることになるような時期だったと思うけど。
<立岩> 石川さんは、学振終わった年にここ〔静岡県立大学〕に来ている?
<石川> こっち来ているから。
<立岩> 幸せな人なのね?
<石川> 幸せというか、ずっといるつもりはなかったんだけどね。
<立岩> いいじゃないですか。一番無駄のない学者人生ですよ。
<河村> まあ図書館がやっていたのは、オンラインでビデオ・グラフィック・データの検索ができていたので、せめて書誌の検索は自分でオンラインでできるようにしよって、それで、そのブレーリングを入れて、大型計算機センター最初300ボーのモデムで内線電話で大型計算機センターにつないで、それで一番いいデータは大型には入っていなくて。最初にバックスに入ったのね。バックスに入ってバックスからいったんだ。そうしないとデータがうまくとれなかったんだ。
<立岩> バックスって何?
<河村> ユニックス。
<石川> 当時あそこレックという会社のユニックス・マシーンじゃなかった?
<河村> レックのね、128キロバイトのメモリのある超近代的マシーン。128キロバイト。
<石川> 当時はね。今考えたら。今考えたら本当、チープなものよ。当時はなんかものすごいもののように思われていて、ただそれが自分の研究に足しになったかと言われると、まああれなんですけど。でも、そういう新しい機械に触れるチャンスがあって、コンピュータだとかいろんなものに触って、ああ面白いなってすごく思ったのね。触って自分で操作ができたりするって。それでC言語、パスカルとか。まずはパスカルか。ターボパスカルの勉強始めたんですよ。
<立岩> そのときは、マシーンというか、何年だったか覚えている? 例えば石川さんが最初に自分で機械買ったのいつだった記憶がある?
<石川> 明確にあるのは留学から帰ってきてからだと思うんだけど。僕はまだ『思想』の論文〔石川[1985]〕を書いていたんです。85年に『思想』の論文を出したんだよ。それは帰ってきてから1年後なんだけどね。そのときはPC98、音は出なかったのをアルバイトの女の子に、僕が操作して変換して正しかったら、はいとか言ってもらって確定して書いていたの。当時。
<立岩> 『思想』の論文を書くときは、PCはあったということね?
<石川> パソコンはあったけど、音声での読みはなかったの。人間が確認していたわけ。餅つき方式だったわけ。はい、はい、はい、みたいにして。そういうふうにしてやっていたのね。その後点字プリンター端末みたいなものが出てきたりとか、ちょっと音声でしゃべるようになったりとか。それから、僕はアメリカで点字プリンター買ってきたのかな。アメリカで点字プリンター買ってきたんですね。それでそういうものをパソコンにつないで、なんかぱたぱたと点字で出したりできるようになってから、ターボパスカルだのDベースだのって当時、河村さんも当時、確かターボパスカル勉強したんだよね?
<河村> ターボパスカルで、石川さん用の特別のコードのカタカナとひらがなと。
<石川> 点字とかなの変換みたいなやつね。
<河村> 書き分けられる点字コードを作って、それを墨字に変換するプログラム書いていた。
<石川> で、Dベースも書いていたよね。だから、河村さんと僕は、ほぼ同時に、まず河村さんが勉強し、僕も勉強しみたいにして、ターボパスカルとDベース勉強したの。
<河村> 二人三脚でやってたの。
<石川> 僕はだんだん、やがて河村さんを越えて、どんどん開発をするようになっていったわけですよ。
<立岩> プラグロラムのね。ちょっと待って。アメリカ行っていたのが何年だって言っていた?
<石川> 83年から84年。
<立岩> 84年ね、84年に帰ってきて。
<石川> まだ1年ぐらいはまだ何もなくて、日本にはなかった。ただアメリカから点字プリンター。
<立岩> アメリカにはあるんだということがわかって帰ってきた。それで帰ってきたけどまだ機械はないと。だけど、まあそのうちみたいな。
<石川> そのうちやりたいなとかね。

■1981年河村・石川ドイツに行く/ブリスタ、他
<河村> 81年にライプチヒとかロンドンとかマールブルクとかか行ったら、情報。
<石川> 81年って、だって僕4年生のときだから、あれ。
<河村> 行ってるよ。ライプチヒ、行ってる。
<石川> あれ、でも怒られて行かなかったの、81年じゃないの。
<河村> 違う80年。80年の12月。
<石川> 81年というのはマスターに入っていた年か。
<河村> 国際障害者年。
<石川> 81年の秋ぐらい。
<河村> 81年の夏。
<石川> じゃ81年の4月に僕は大学院に入っているから、マスターの1年だった。IFLA〔イフラ、国際図書館連盟〕)というインターナショナル・フェデレーション・ライブラリ・アソシエーションズっていうのがあって、その大会がライプチヒであって、河村さんが行くっていうんでみんな引き連れて行ったんです。72時間かけてえらい思いして。アンカレッジで管制官のストライキかなんかがあって、戻って今度南回りで、バンコクでエンジントラブルとかいってさ。エンジントラブルでその飛行機乗り換えて。それでちょっと何時間かホテルに泊まったんです。それで、ローマに着いたの。
<河村> ローマでも泊まったんだよ。
<石川> ローマでも泊まって、それでローマからフランクフルト、72時間かかって。着いたときになんか向こうのなんとかバッハ、なんだっけ、マールブルクの職員のなんかえらい背の高いドイツ人、エッシェンバッハじゃなくて何だっけな。なんとかバッハですよ。
<河村> でかいやつでしょ。
<石川> 背高かった。
<河村> 背高いだけじゃなくて、体重100キロ。
<石川> そうなの? 体重まで触ってないからわからない。なんとかバッハだよ。
<立岩> なんとかバッハがどうしたの?
<石川> いや会ったんだけど、みんな寝ちゃって、ビール飲みながらしゃべっていて、全員寝ていて。でも72時間かけてフランクフルトに着いて、着いたときにもう会って、なんかしゃべってんだからさ。わけわかんない英語で。そこはマールブルクに視覚障害者の学校ですか、あれは拠点になっている。今も拠点。
<河村> ドイツの中心的な視覚障害者の。
<石川> リンデンシュトゥディーデンアンシュタッドていうんじゃない。
<河村> マールブルガーっていう、テープの出てくるタイプライターを作っているところ。
<石川> こういうロード式のテープでタイプ打つと紙がずっとこう出てくるわけ。
<立岩> じゃまだコンピュータではないわけ?
<石川> そうそう、全然コンピュータじゃない。紙に穴が空いて、ロード式。
<立岩> 和文タイプみたいなやつの点字版みたいな感じかな。
<石川> こういうロード紙にぱぱぱっと打つと。
<河村> 福島〔智〕さん支援の不可欠な武器だ。
<石川> ブリスタっていう名前。僕がそれは日本で一番最初に使ってたの、多分。
<立岩> ブリスタっていうんですか?
<石川> そうブリスタ。
<河村> 施設そのものがブリスタというんだよね。略して。
<石川> そうそうそう。多分だから81年に行って見て買ったんだと思う。ブリスタ。多分大学院になったらそれ使っていたと思う。学部のときはまだ使ってなかったんじゃないかな。とにかくそれで、そこ行って、そこから東ドイツのライプチヒに行った。
<河村> あとリーズも行っているよね。
<石川> リーズも行ったね。
<河村> リーズは大学の人に会ってんじゃなかったっけ。
<石川> ミリガンという全盲の教授に会ったの。何の専門だったか忘れたけど。
<河村> 障害学?
<石川> いやあ当時あったのかどうかわからない。リーズ大学なんですよ。
<立岩> 調べたらわかるかもしれないね。
<河村> それでRINBも行って。

■1980年代、音が出るPCの登場
<石川> 今ね、障害者の権利委員会の委員にミリガンという人がいるんだけど、確かそれは女性で、もっと若いから、そのミリガンとは違うと思うけど。当時もう一定の年だったから。でもやっぱりカルチャーショックはアメリカです。アメリカでそういうものがあった。あとはアップル2、CだかEだかで音声パソコンとして使っていたから。83年に行ったとき。それからカーズワイルのリーディングマシーンもあったもん大学に。
<立岩> 83年のときにはアップルで声が出るマシーンがあったわけ?
<石川> うん、それは専用のアプリケーションで。スクリーンリーダーではないと思うけど。それも、全盲のプログラマーが作って売っていた。当時からもう全盲の人でプログラミングができて、それをビジネスにするという。日本で言えば、斎藤正夫さんという人がいて、アクセス・テクノロジーという会社〔石川県小松市、http://www.accesstechnology.co.jp/index.html〕を作って、MS-DOS用のスクリーンリーダー、「VDM」というんだけど、作って売っていた人がいた。今もいるけど。
 そういうのって世界的にあったんです。もうちょっと、80年代の後半になるとテッド・ヘンターという人が「JAWS(ジョーズ)」というスクリーンリーダーを作る。この人は工学系の人なんだけど、なんかジェット・スキーというの、海用のスキーって何ていうんですかね、ジェット・スキー?
<立岩> 船に引っ張らせるやつ?
<石川> 船に引っ張らせるやつね。あれに乗って水上スキーみたいなやつで、転覆かなんかして失明したという人なんだけど。彼がヘンタージョスっていうのを作って、JAWSというスクリーンリーダーを開発するんですけど。DOS版。彼を中心としてね。それが80年代後半、その前に「フリッパー」という、やっぱりMS-DOSのスクリーンリーダーみたいなのがあって、それはUCバークレーの准教授だったスティーブ・スミス(John Stephen Smith)というえらいまたでかい男がいて、奥さんが全盲で、そのうち1回行ったけど、盲導犬がいて、もう毛だらけのうちで、汚いから写真写すなって言ってた。そういうのがあって、それは80年代。留学が終わってからも、当時は頻繁にわりとアメリカに行っていたんです、ときどき。何かの機会があると。
<立岩> 83年に行ってとにかくこういうものがあると、これは少なくともそのうちいける、日本でもいけるようになるという?
<石川> いけるようになるし、自分もこういうの作れるといいなと思ったね。思った。
<立岩> 戻って来たときにはまだ音が出るやつ。
<石川> なかった。

■80年代中盤PC事情
<立岩> うちで買えるぐらいのPCそのものはあった?
<石川> パソコンはだから僕らの世代ってPC98を70、80万ぐらい出して買った世代だから。
<立岩> 98って80年代半ば、もっと前?
<河村> もっと前。〔PC-9800シリーズはNEC製。初代のPC-9801は1982年10月発売。〕
<立岩> そうか、8インチのフロッピーとかがあったやつ?
<石川> だって、僕はそれで書いているからさ。その84年ぐらいに書いているから。
<立岩> そうでした、石川さんの『思想』は85年です。今調べたら85年の10月です。
<石川> だから84年に帰ってきてからは、そういうふうにして書いているから、当時PC98って結構山田〔昌弘〕も買っていたし、みんなわりと買っていたよ。何人か、野呂〔芳明〕とか。
<立岩> そうですね。僕は83年に修論出したんだけど、その年までうちの大学は手書きだったのね。手書きと決まっていて、84年からワープロOKになったの。あの頃、一番最初に出たとき200万とかそれぐらい、ただのワープロがすごい高くって、富士通のオアシスだけど、学校にしかなくて。でもその次の84年とかに40万ぐらいのやつがオアシスで出るようになって、僕ら最初それ使って、オアシス使っていて、それで98が、86年とか87年ぐらいになると、そこそこ20万とか。
<石川> 最初高かった。だから最初は金持ち学生しか使わなかった。
<立岩> 石川さんは金持ちだったから。
<石川> そうそう。階級社会だったから、上の人は買っていたね。
<立岩> 僕みたいに下々は買えなかった。
<石川> 下々というかワーキング・ステューデントはそうだったね。
<立岩> そうだよね。
<石川> だって最初は8インチのディスクだったんだから。
<立岩> 8インチのディスクでしたね。私は石川さんの自宅〔当時石川は吉祥寺、立岩は三鷹に住んでいた〕で見ましたよ、8インチのディスクというのはね。

■日本語を話すPC/石川プログラミングを学び自ら開発する
<立岩> 音が日本語で出るようになったのはいつだって覚えていますか。
<石川> 正確にはわからないんですけど、ずっと後。まず日本語と言っても仮名はしゃべるやつは比較的早く出たんですよ。だけど仮名に変換しなきゃいけないじゃないですか。あと僕が使っていたやつは漢字もしゃべるんだけど、漢字は音読み、もう1対1のテーブルが決まっていて、例えば「見つかりません」は、「けんつかりません」としゃべるわけ。それを聞いて結構使っていたから、音読みだけでも日本語を一定程度は理解できるようになっていた。
<立岩> 私が石川さんが自分の家でそうやってPCで音出させてものを読んでいるというか、聞いているというか、というのってけっこう昔だったような記憶がするんだよね。
<石川> 80年代後半だと思う。
<立岩> 80年代後半かな。そうですね。
<石川> 中条電気というところが「YL-V30」という音声合成装置を開発したんですよ。それが漢字を、一応音読みながらも、とにかく読んだ一番最初。その前は仮名だけ。仮名だけは、「VSS」っていうのと、その前にもう1つ〔おそらく「SSY-02」。1983年に亜土電子が発売した外付け音声合成装置、http://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_f/f-141/f-141_11.pdf(青木)〕なんかあったんだけど、VSSというのがありました。
<立岩> そうですね。80年代の後半は間違いないですね。僕が石川さんと研究で付き合いだしたのは、博士課程にあがった85年だから。本〔『生の技法』、1990年〕出す前だから。85年と90年の間。
<石川> やがて僕は自動点訳というのを。まず最初、英語だけ自動点訳、最初、ターボパスカルで書いていたんですよ。それがいつだったか忘れたけど。
<立岩> その頃私にプログラミングの本〔の録音〕ばかり発注するようになった。
<石川> そうそう。だからそのときまだ学生でいたはずなんだよね。その頃僕は一生懸命プログラミングの勉強していた。一番最初はカーニガンリッチのCプログラミングランゲージというのを、英語でね。それこそレコーディング・フォー・ザ・ブラインドで借りて、一生懸命聞いていたんだけど。
<河村> Cで書いていたら大変だもんね。
<石川> うん。
<河村> ターボパスカルはそれなり、あの頃使えるコンパイルできる。
<石川> でも最初はみんなパスカルやっていたんだけど、やがてみんなCに変わっていってパスカルすたれていくんですよ。だから、最初パスカルやったんだけど、しばらくして僕はC言語を勉強するようになった。そのCのコンパイダというのは、MS-DOS上でいくつか動くのがあったんです。それは、最初は点字端末というのがあって、それはアスキーコードね。だから数字とかアルファベットとか記号だけはちゃんと点字で出せるというそういう環境で、プログラミングやったりしていて、そのうち音声、そうやって作っていってやがて音声環境が少しずつ整っていったのかな。順序だてて、いつこれが実現し、いつこれが実現したというのはなかなかはっきりと覚えてないですね。
<立岩> でも、だいたい80年代の後半に起こった出来事なわけですね。
<石川> そうです。もう90年代になってからかもしれない、音声に関して言うと。
<立岩> かなり実用的なものになったというのは?
<石川> うん。
<立岩> ただ私の記憶ではもう80年代の末にはそうやってかなりの速度で、僕には聞き取れないわけわかんないスピードのやつを石川さんは聞いていた。〔これは、テープを(非常に)早回しで聞いていたのを聞いたということのようだ。〕
<石川> そのときはやってない、まだ日本語は。自分が持っている技術では日本語音声で正しく読ませることができなかった。
<立岩> それは既にあるやつを使って。
<石川> いや、それで斎藤さんは、VDMというので少し僕より先行して開発していたから、やっていたんだけど、僕は人の作った道具を使うのが苦手かつ嫌いだったので、使ってなかったの。だから僕はYL-Vという漢字を音読みしかしないやつでずっとやっていた、実は。やがてそれなりにちゃんと読めるようになるというのは、自動点訳エンジンというか、そういうソフトを自分で作って、その点訳というプロセスは、途中でかな訳を必ず挟むんですよ。まずかなにして、分かち書きの仮名にして、それから点字にするという、仮名訳にしたやつを音声に投げてやれば、シンセサイザーに投げてやれば、一応ちゃんと読めるわけ。そういうふうになってからやっと自分が作った道具でも日本語はそれなりにちゃんと読めるようになった。それは90年代だ。
<立岩> それは90年代またいでいるわけですね。
<石川> 90年、もう静岡に来てからだから。最初講師のときって授業も配慮されていたというか、なんというか、暇だったんです。最初は。コマ数も少ないし、今とは全く違うゆったりとした時間が流れていたわけだ。
<立岩> 僕は、本当に1冊まるっきりなんにも何が書いてあるか全くわからないものを読んでいた。
<石川> それは多分マクロアセンブラ〔アセンブリ言語によるプログラムの開発効率を上げるために、マクロ機能などを追加したアセンブラ〕だと思うね。あれをね、ムーブなんとか、AXなんとか何とかとかね、誰もわかんないよ、あれは。マクロアセンブラ入門を。ね。しかし、ま、よく読んでましたね、正確に。
<立岩> あれ、ちゃんとわかってから読んだ方が多分面白いんだろうなと思ったけど、わかる暇がないというか、とにかく金のためだけに1冊まるっきり全くわかんないものを読んでいました。
<石川> 非常に辛抱強く根気づよく正確に読むということでは屈指でしたね。

■河村、東大図書館でコンピュータに取り組む
<青木> 3年生の頃から予算が年間100万か300万に?
<石川> 200〜300万というのは僕の推測で、そこまではいってないような今気がしました。
<河村> 僕は100万って聞いてたよ。
<石川> 1本4,000円だから、100万ぐらいじゃないかな。4,000円だったら100万ぐらいじゃないかな。
<青木> それは文学部だけで100万。図書館はまた別ですか?
<石川> 図書館は基本的にはそういう予算はなかったと思う。
<河村> 図書館は、コンピュータに関するサポートが図書館ができることで、コンテンツを作るというのはもう無理だというので、図書館ではやってなかったです。まるっきり。
<石川> 学部のときは、多分、図書館としての取り組みというのはなかったんじゃないかなと思う。コンピュータだって、まだコンピュータ、その頃バックス・ユニックスだっていったって、ブレーリングが入ったのは僕が留学から帰ってきてからじゃない。
<河村> かもしれない。だけどその前にいくつか時代があるんだけど、最終的にはエプソンの端末を入れて、ブレーリングとつないでそれから大型計算機センターとつないだ。
<石川> そうすると、PC98の互換機ですね。当時はね。互換機。だから、それはもう80年代だもん。MS-DOSのエプソンの互換機が出てきたというのは、PC98がばっと爆発的に売れて、エプソンもじゃあ互換機作ろうとなった。
<立岩> 僕、最初に〔たぶん1987年に〕買った98は、エプソン〔のPC98の互換機〕です。
<石川> 80年代半ばだから。
<河村> だからCP/M〔Control Program for Microcomputer、1970年代にデジタルリサーチ(Digital Research Inc.)の創業者ゲイリー・キルドールによって開発、1976年に発売された、パソコン用のシングルユーザー・シングルタスクのオペレーティングシステム(OS)(Wikipedia)〕だよね、あの頃。
<石川> CP/M?
<河村> CP/Mだよ。
<石川> CP/MだったらMS-DOSとCP/Mがまだ両方とも生きていた時代。16ビットでしょ。8ビットじゃないでしょ。
<河村> エプソンは8ビット。
<石川> うそー。じゃあそれPC?
<河村> PCじゃないんだよ。エプソンは。
<石川> もっと前ということ? 98の互換機の前ということ。
<河村> 通信ソフトが作りやすかったんで、エプソンにしたんで。
<石川> それは互換機じゃないじゃん。
<河村> PC98の互換機じゃないよ。
<石川> それより手前という。
<河村> 手前というか、独立しているか。なんかCP/Mマシーンだったよね。
<石川> CP/M?
<河村> うん。CP/Mってあったでしょ。
<石川> あったけど、それ8ビットってことですか?
<河村> 8ビット。8ビットのCP/M。
<石川> それ何と合わせて使っていたの?
<河村> ブレーリンクとつないで。ブレーリンクってモニターがなかったから。
<石川> ああ単にそういうことか。だから、本当につなぎたかったのはユニックスなんですよ?
<河村> そうそう。
<石川> だけど、いずれにせよ、それは80年代の、84〜85年ですよ。かなり高い買い物だし。だって学部のときそんなのなかったもん。点字ディスク自体が。ブレーリング買えたのは80年代の半ばで、確か他のメーカーのやつを買おうとしたけど、見たら壊れていたんでやめたって、河村さんが言っていたのが、カナダのどっかのメーカーとか言ったな。
<河村> 最終的にクラーク・アンド・スミスだった。
<石川> 本当はブレーレックスっていうドイツのパペンマイヤーのが、当時一番良さげではあったんです。それは、あまりにも高すぎて手が出なかったんで、本当に町工場で作りましたみたいな、イギリスのクラーク・アンド・スミスの、ほどなくその会社はなくなるんだけど、ブレーリングというのにした。
<河村> 工場まで行ってきたよ。図面もらいに。だから、図書館がやっていたのは、どのくらい役に立ったかわからないけど、とにかく大型計算機センターとつなぐということと、点字で読み書きできるようにすると。一応書いたものが読めて、当時のブレーリングは20キロバイトのカセットテープだよね。データカセットで、それだけだと何にもできないので、モニターとつないでバックスの作業をモニターするということをやってて、当時、64キロバイトまでは、メインメモリをメモリダンプ〔memory dump、ある瞬間のメインメモリの内容の一部または全部を、ハードディスクなどの外部記憶装置に記録したもの〕できたんで、ずっとやりとりしたログがメモリに残っているわけ。それをデバッグ側を使ってメモリダンプしてファイルにして提供したりするというのをやっていた記憶はある。どのくらい役に立ったかわからない。
<石川> でも、とにかくそうやって、そのようなことは楽しかったんです。未来につながっていくという希望が。だからなんというか、先が見えなかったんです。やっぱりそういう中でこういうITというものと直接触れることができたというのは、やっぱりすごく大きかった。そのときに現実的に何かに役に立つかというよりは、もうちょっと未来への希望みたいな。

■1990年代:石川、スキャン→OCR始める/その前の米国製
<立岩> そのうち何かなるかもしれないみたいな感じね。それで、その後というかとにかくそうやって入力したのが音で聞こえるというのひとつあるじゃないですか。その後スキャニングしてOCRかけてみたいな。
<石川> そうそう。
<立岩> そういうことしだすでしょ?
<石川> そうしだす、しだす。
<立岩> あれは静岡来てから?
<石川> そう。完全に静岡来てから。あれも。
<立岩> OCRって80年代からあることはあったんじゃなかったっけ。
<石川> いや、日本語は、85年ぐらいにNECが通産省のお金で開発したんです。しようとしたんですが、それは駄目だった。それは『雪国』という小説を読ませるというデモまでやる。その後、ページめくり機も作るということになってたの。それは実現しなかった。
 アメリカではじゃあどうだったかっていうと、レイ・カーズワイルという発明家がいて、彼はいっぱい本を出していますよ。未来予測系の本をいっぱい出していて、最近だと『シンギュラリティ』という本を出しているけど、彼はもともと70年代にフラット・ベッド・スキャナとか音声構成とか、それからOCRとかそういう技術をいろいろと開発していて。ハードウェアもソフトウェアもやっていたと思うけど、自分でベンチャー企業作って、なぜか「カーズワイル・リーディング・マシーン」っていう、視覚障害者の読書を支援するようなものを作ったりしていたんです。当時何百万ですよね。何百万。日本円にすると500万とか800万とかするようなものを大学の図書館とか買っていて、さっき僕が留学したところにもあったんです。
<立岩> それは、例えば80年代のその頃には英語ベースでいえばもう使えるというか?
<石川> うん。まあ、どのぐらい使えるかというのはクエスチョンマークつくけど。まあ読めるような感じがするというか。
<立岩> 読めるような感じがする?
<石川> うん。やがてそれはだんだんと低価格化していって精度も上がっていくんだけど、80年代の後半ぐらいにカーズワイル・パーソナル・リーダーというのを作る。これは百何十万に落ちるんですよ。それでこの前ちょっと20年ぶりになんかコンタクトがあったインク会社の、何だっけ?
<河村> サカタインクス〔http://www.inx.co.jp/〕。
<石川> サカタインクスというのが日本でも取り扱う。確か河村さんの紹介で取り扱うことになるんだけど、その前に、我々はボストンに行って、カーズワイルの会社行ったよね。

■河村・石川、IFLAの大会であちこち行く
<河村> 87年。オーストラリアの後行ったんだよね。オーストラリアのIFLAの大会で。
<石川> 知らないな、オーストラリアなんて。河村さんの記憶は全部IFLAベースだから、IFLA時間だから、わかんないよ。
<河村> 86年が東京大会で、87年はオーストラリアで、オーストラリアからロサンゼルス経由で行ったんだよ。
<石川> オーストラリアって僕も行ったの。行ってないよね?
<河村> 行ってんじゃない。
<石川> 行ってないよ。オーストラリア。いや違う違う違う。カナダでしょ。ああ違う違う、シカゴ、シカゴのとき。
<河村> シカゴは85年。しょっちゅうIFLAの大会来てたよ。石川さん。
<石川> 何を言っているんですか。来い来いって、一緒に行くって言うから、じゃあ付き合おうかって感じで。せっかく連れて行ってくれるというんだったら、まあ行くかということ。81年がライプチヒでしょ。
<河村> 82年がモントリオール。
<石川> これは、すごい時間軸としては結構重要だと思うんで。河村さんの記憶ここに基づいているわけだから。81年がライプチヒ、それで。
<河村> 82年がモントリオール。
<石川> ここ行ってないね。僕はね。83年は。
<河村> 83年はこれは3年はどこだったっけな。モントリオールの次。ちょっと覚えてないな。5年がシカゴだよ。
<石川> 85年がシカゴ、ここは行きましたよ。ここは行って、僕は通訳させられたんです。
<河村> 86年が東京。87年がメルボルンだったか、シドニーかメルボルン。
<石川> ここは行ってない、僕は絶対これ行ってない。南半球行ったことない。88年は。
<河村> 88年、北京かな。
<石川> 行ってないね。この辺は行ってないですよ。シカゴまでしか行ってない。あとソウルでやった比較的最近のに行ったぐらいです。東京のときは僕もいましたね。確か。85年、86年、ああそうなんだ。じゃあだけどボストン行ったのはいつなんだろう。サカタインクスも行ったよね。だってカーズワイルに会ったんだもん。
<河村> ボストン、市橋さんもいるよね。いなかった?
<石川> 栗原さんはいる?
<河村> 栗原さんはいた。じゃあそれ間違えなく87年。
<石川> だって僕メルボルン行ってないんですよ。
<河村> だからどっかで合流したんじゃない?
<石川> 合流したんだ。アメリカで合流したんだ多分。この頃僕は非常にモビリティが高い時期で、一人で海外行っていた。
<河村> カーズワイルと会ったときには一緒にいたもんね?
<石川> うんいたいた。
<河村> 栗原さんもいたもんな。
<石川> 87年ですか、じゃ?
<河村 栗原さんというのがまた別の弱視の人で。この人は視野狭窄の人。中心視野がない人。
<石川> アニマさんのところで。アニマ老人の弟子のカマエさんの弟子という感じ。物理学の人です。今どこか、物理系のところに戻ってるんじゃない。
<河村> ああそうなの?
<石川> カマエさんが言っていた。

■米国製機器続
<立岩> 80年代の頭とか中盤ぐらいにあった英語のOCRって、機械としてはどういう形状のものなの?
<石川> まず、「カーズワイル・パーソナルリーダ」というのはフラットベッドのスキャナがあって、それから音声合成装置は、パソコンと一体になっていたと思うけど、わりと大型の箱があって。あと、キーボードが、テンキーみたいなキーボードがあった。それがカーズワイル・パーソナルリーダで、これ87年に見て欲しくて欲しくて、それで静岡に来てから買ったと思う。
<河村> 東大も買ったんだよ。90年か91年、有馬〔朗人、学長任期1989年4月〜1993年3月〕さんが学長のとき買って。それで有馬さんがわざわざ見に来て、ああ僕より英語うまいやとか言ってた。読ませて。
<石川> 「レックトーク」ね。レックトークっていうんですよ。
<立岩> 石川さんがいたときの総長って誰だったっけ?
<石川> 僕いたとき、向坊さん〔むかいぼう隆、学長任期1977年4月〜1981年3月〕。
<河村> 石川さんが行かなかった時っていう80年のときは向坊さんで、事務がものすごい邪魔をしたんだけど、向坊さんが公務出張にできないで申しわけないけど、頑張って行って来てくれって電話くれたんだ。
<石川> ライプチヒ?
<河村> ライプチヒじゃないアメリカ、石川さんが行けなかったとき。
<石川> ああ80年ですか?
<河村> 80年。

■上級公河村、図書館の組合で活動
<石川> 河村さんは図書館の中で組合の人であり、かつなんかキャリア官僚なんですよね?
<河村> 上級公〔国家上級公務員〕だからね★13
<石川> 上級公で当時はなんか上級公の中に図書館司書というのがあったんです。だから、技官とか事務官じゃなくて、司書というふうになっていたんですか?
<河村> そういうのはなかったけど。事務官だった。文部事務官。
<石川> だけど、どこにも転勤せず。なんかもう。
<立岩> 中央官庁のお役人だった?
<河村> 国家公務員。
<立岩> 文部省から出向という形?
<河村> 違う違う、最初から上級公で大学図書館を取ったんです。専門職として。そういうふうに大学図書館専門職員っていうのがあったんだ。
<石川> 霞ヶ関には1回も行かないで、ずっと図書館回るという、そういう上級公のそういうのがあったの?
<河村> あった。昔はあった。今はいない。廃止された。
<石川> そういう人たちはやがて図書館長になったりしていくわけですか? 最終的に。
<河村> 大体そうだね。図書館長にはなってないね。事務部長だね。大学図書館の。
<石川> あるいは霞ヶ関に行くこともあるんでしょ。ないの?
<河村> いや僕は入って1年目で霞ヶ関来いって言われて、そんなとこ図書館ないから行きませんと言ったら、なんか逆鱗に触れたらしくて。そんなこと言ったやつは。
<石川> いまだかつてそれはいないよ。だって辞令に対して行かないなんていうことはあり得ないもん、普通は。あり得ない、そんなもん。
<河村> あの時代だからね。
<石川> あの時代だろうがこの時代だろうがあり得ない、それは。
<立岩> そのときに河村さんというのは組合の図書館の組合の中でとか、あるいは図書館の中でとか、の中でそれなりに総意を取ってというか、やっていたのか、けっこう浮いていた感があったのか?
<河村> 1年経ったらとにかく新入りを役員にするという伝統のあるところで、就職後1年したら書記長にされていた。
<立岩> 組合のね?
<河村> うん。次の年委員長にされていたから。
<立岩> それは図書館の?
<河村> 図書館の組合。
<立岩> 図書館の組合というと、東職というか東大全体の組合の一部分であるわけですか?
<河村> そうそう。
<立岩> それって、全体の中でちょっと違うとか、そういうことはなかった?
<河村> 東職とはちょっと違っていたね。東職ってどちらかというと共産党系って言われているんで。図書館の組合はごっちゃまぜで、社会党の人もいれば、共産党の人もいるし、創価学会の人も多かった。組合員に多かった。
<立岩> 東大の中の組合の僕は、演習林、ああいうちょっと危ない感じの人たちがいるところも知っていますけど、ちょっと場所によって違いますよね。その図書館の組合の中では、そこそこヘゲモニーというか。
<石川> 河村さんが牛耳ってたもん。だって、人望があった。
<河村> 牛耳っていたというか、僕は時間を割いて組合のみんながやらないことをやっていただけ。
<石川> だからリーダーではあった。
<河村> 奉仕していた。
<石川> 若いながらもリーダーであったわけ。
<河村> そうしないと、やっぱり上級公なんか入ってくる、とみんなからにらまれていたわけだから。
<石川> まあエリートだもんね。
<立岩> まあ頑張って仕事もして、組合のための仕事もして、理解してもらって、それなりに河村さんは考えておられることを図書館の中で実現できたかなという感じですか?
<河村> けっこうみんな人がいい人が多くて、だから障害のある人のために何かしなきゃと言うと、そうだよそうだよと言って、みんなばっといろんなことやるようなとこでしたね。
<石川> 30代でしょ。だって。40代。当時。
<河村> 僕あなたと9歳違い。常に9歳違い。
<石川> 常に。だから、80年でいえば。
<河村> 20歳だとすれば29歳だし。
<石川> だから30そこそこだったわけ。シカゴに行ったときですらですよ、シカゴじゃないや。この87年ボストン行った時って、僕はだって31だから、40歳か。
<河村> 40歳。もうその頃はなんかあれだよね、IFLAの役員やらされていた。
<石川> やっていました。

■OCR・スクリーンリーダー/MS-DOS→ウィンドウズ
<立岩> それじゃ、話もう1回戻すと、アメリカにはそれなりに高かったけど、そうやってそれなりに使えるOCRがあったと。で、日本は、開発はやっぱり漢字の問題とかあって遅いわけですよね。あれがそれなりに使い出せたのは。
<石川> 2000年ぐらいかな。もうちょっと前から使おうと思ったら使えたかもしれないんだけど。僕は、多分一番初めぐらいなんです。大体こういうのは一番最初にやっているんだけど。
<立岩> 2000年ぐらいまで引っ張られたと。
<石川> 2000年ぐらいかな。もうちょっと前から可能ではあったと思うんですけど、まず専用機としては、「読めーる」というのをアメディアという会社★14が出したの。視覚障害者専用機読める、読めーるというのと同じ時期に「読み友」というのも出たよね。これは何年に出たかなんだけど、その前にオーストラリアの会社が日本語版も出したいって言ってちょっと出したことがあるんですけど。「エスプリ」って名前だったかな。エスプリね。だけどやっぱりほとんど読めなかった。高かったし読めなかったったんだけど、その後、読めーるというのを作った。アメディアが作ったの。
 当時は既にエンジンがアメリカから供給されていたから、だからアメリカはいろんなOCRソフトを持っていました。リコーも持っていたし、メディアドライブも当時もう既にやっていたと思うし、いろんなとこがやっていました。だから、ちゃんとその気になればできる環境にはあったんですよね。あとはどうそれにふんぎって切り替えるかという問題ではあった。
<河村> いつまでもPC98に寄り添ったソフトが多かった。
<石川> 多かったんです。だから、まずウィンドウズ関係はちゃんときちんと自分の道具とならないと、OCRもなかなかどうにもならないということがあって、結構MS-DOS環境を手放す、いつ手放すかということで、みんなそれぞれの自分なりのあれがあったと思うんですね。僕は基本的に一番風呂に入るタイプなんだけど、でも自分が仕事で使っている道具の効率性って落とすわけにいかないから、わりとMS-DOSは長く使っていた方なんです。開発は開発でやっていたけど。そういう意味でウィンドウズ環境に完全に移行したのは、人々が思っているよりもはるかに遅いの。僕は実は。
<河村> 「アルティア」って最初MS-DOSで作ったでしょ?
<石川> それで同じ環境をウィンドウズで作りたくて、強引にアルティアをウィンドウズ版にしたんだ。それでウィンドウズに移行することができた。
<河村> アルティアを最初に作ったのはいつ頃?
<石川> 最初は「ベガ」という名前で90年代の半ばぐらい。
<河村> その頃日本語使えていた?
<石川> 使えていた。
<河村> それが一番早かった日本語使い始めた頃じゃない?
<石川> 僕はね。あとはVDMユーザーはもうちょっと前から使えていたと思うけど。僕は「ベガ」っていうリーダーを作ったんですよね。最初は「エクストラ」っていう自動翻訳ソフト作って、その次ベガっていうのと、あと「グラスルーツ」というMS-DOSのスクリーンリーダー。スクリーンリーダーがどうしても作りたかったの。
<立岩> それってどういうものなの?
<石川> 音声で読みあげてくれる。あと点字でも表示できる。
<河村> 点字で表示ができて、音声が出るという。
<石川> 文章が書けるという。漢字は詳細を認識してくれると。そういうの作りたかった。
<立岩> それは90年代の出来事だけれども。
<石川> その環境と同じ環境を、ウィンドウズになっても作りたかった。作らないとウィンドウズに移行するだけの踏ん切りがつかなかった。僕はね。もともと趣味でやっている人は、意外とすんなりとウィンドウズに移行できる場合もあったんですよ。つまりそんなにクリティカルなことしていたわけじゃないから。逆にブラウザとか、当時IBMの「ホームページリーダー」という音声ウェブブラウザ。あと富士通の北海道も、本当は一番最初に、名前は忘れてしまいましたけど音声ウェブブラウザを作ったんです。富士通北海道。だけどIBMのものが強くて、みんなそれを使うようになった。そういうインターネットを使うだけでよければ、ウェブだけでよければ、ウィンドウズへの移行は比較的簡単にできたんだけど、仕事で使う道具という意味では、かえってかなりソースを引っ張ったし、MS-DOSで自分が作った環境をウィンドウズでも実現したかった。

■1997年、河村リハ協に移る:DAISY/DINF
<石川> そのときにちょうど河村さんが、90何年だっけな、リハ協〔日本リハビリテーション協会〕に移ったんです。
<河村> 97年、僕が移ったの。
<石川> 50歳の時か。移ったんですよ。それでなんかリハ協が開発費を出してくれて、それでフリーで提供するようにした。ベガと同じ名前じゃまずかろうというんで、アルティアにしたと。ベガとアルティア。
<立岩> リハ協に移られたときというのは何か思いがおありになって?
<河村> 思いというよりもDAISYコンソーシアムを立ち上げる時で、1年間かなり外へ出なきゃなんなくなって、それでスウェーデンの国立図書館から東大にその1年間スウェーデンに来てくれないかという依頼が来たんだけれども、東大は断ったんだよね、それを。それでじゃあどうしようということになったら、点字図書館の人たちが厚生労働省に陳情に行って、あいつがDAISYコンソーシアム作ってくれないと困るからというんで、結局国リハ〔国立障害者リハビリテーションセンター〕の研究所の研究職の公務員があって、そこの研究職、技官なんだけど、技官の辞令とそれから事務官の文部事務官の辞令と両方持っていれば、技官だと公費がなくても外国出張できるんです。助手なんかと同じで。つまり事務官だと公費出張しか外国出張できない。だけどお金がなくても教員って出張できるでしょ。
<立岩> できますよね。勝手に行ける。
<河村> 要するに職務専念義務免除で。研究職公務員もそうなんです。それで研究職公務員とダブルインカムすれば外へ出られるじゃないというんで、ダブルインカムを1年やって、だから僕は東大の職員であり、国リハの研究員であるというのを1年やった後、いつまでも東大に給料払わせて厚労省の方で使うわけにはいかないからという話になって、リハ協行かないかということになった。よくわかんないけどね。
<立岩> 給与は一応東大が出していたんですね?
<河村> 東大の給与。
<石川> じゃあ当時はまだ独法前だから。
<河村> 出向してたんだ。
<立岩> それ文科と厚労の間でそれは調整ができないとできない話。
<河村> 調整したんだ。両方の人事課で。
<石川> よくやりましたね。
<河村> 東大から国リハに1年出向をやった後、いつまでもそれを続けるのは難しいからというんで、リハ協に行って、リハ協の情報センターの仕事として、DAISYのコンソーシアムの仕事と、それからちょうどその頃補正予算があって、最終的に13億円もらったのかな。リハ協にその13億円をもらって全国の点字図書館のDAISY化というのをやったんです。そのときついでにその頃ディンフっていうのも作ったのね。今、ディンフってあるでしょ。DINF〔障害保健福祉研究情報システム(Disability Information Resources)、http://www.dinf.ne.jp/〕。あれの立ち上げと、DAISYの全国への導入というのは、同時進行。
<石川> ここで一番大きな謎は、厚労の人事課が文科の人事課とかけあうって、相当大変な話だと思うので、これを実現するためには
<河村> 板山〔賢治〕さん★15の大号令。
<石川> だけど板山さんはもう当時もう厚労を辞めているでしょ。辞めているよね?
<河村> ノンキャリのドンだよ。
<石川> ノンキャリのドンだけど、厚労辞めている人じゃん。
<河村> 板山さんの盟友が当時の初山〔泰弘〕総長★16
<石川> 国リハ側はね。
<河村> 国リハの。うん。それで初山さんとそれからその下に研究所長の山内繁さんがいて、それで僕は板山さん、初山さん、山内シゲルさんに1回面接をされているんです。何をやりたいんだと言われてこういうことをやりたいんだと言ったら、よしわかったと言って、あと任しとけって言われて。
<石川> いや、いくらノンキャリのドンといえども、97年と言えば今から何年前、16年。彼はもう70近いときでしょ。人事に対して影響力を行使するということは非常に困難。ま、国リハの方で動いたんでしょうね。
<河村> 国リハで動いてくれた。
<石川> 動いたんでしょうね。国リハが動かないと無理だもん。
<河村> 結論から言うと、初山さんも山内さんもすごくいいプロジェクトだというふうに認めてくれた。DAISYの立ち上げのとき。
<石川> 相当頑張ったと思いますね、これは。
<立岩> それが97年ぐらい。
<石川> 文科の方としては河村さんの処遇に困ってもいたんだと思うんですけどね。上級公でずっと平でいるという状態というのは、あまりにも異例。
<河村> ただ文科はなんだあんなやつとるんだと文句言ったみたいだよ。
<石川> 文句言った。邪魔しに行ったんだ、わざわざ。
<河村> 邪魔しに行ったみたい。挙句の果てに板山さんが言うには、あいつは共産党だからやめとけって言ってきたというんで、お前が共産党なわけないじゃないかとか笑った。
<立岩> 勝手なことしているわけだから。
<河村> 共産党はもっときちんとしている。

■石川、本を切って読むようになる
<立岩> もう1回さっきのそれこそ今でいう自炊、そういう要するにスキャナかけてOCRというのが、90年代には日本語のOCRがまだ未熟というか、中で2000年ぐらいって言ったよね?
<石川> 僕はね、だけど「読めーる」という専用ソフトと「読み友」96、97年に出ているでしょ。
<立岩> 私その頃かなんか買ったけど、これは駄目だと思って捨てた。
<石川> 当初はまだ認識精度悪かったんです。しかも「読めーる」というのは1枚1枚めくってスキャナーにかけて読ませていたから、そんなもの使えないと思ったのね。やがて僕はなんだ、カッターで切って全部いっぺんにスキャンしたらいいじゃないかと。つまり、ドキュメントスキャナーというものがある程度使える。使えるというか、価格的に手が届くようになったんですよ、その頃。
<立岩> オートシートフィーダーがついているということ。
<石川> オートシートフィーダがついていてしかもスタックにいっぺんにどんと載せる。
<立岩> どんと載せて、ダッーっていくやつね。
<石川> 当時数十万しましたけどね。フラットベッドって、要するにベッドの上に1枚ずつ寝かしていくわけだから、そんなもの1枚読んでまた1枚って、そんなのやってられないじゃないですか。それが専用機なんですよ。今でもそれは変わってない。だから、多くの人たちはそういうの今でもやっている。
<立岩> そうですね。
<石川> だから「読めーる」、「読み友」、それから「マイリード」って3つあるんだけど、基本的に変わってない。「読めーる」はやがて「読むべえ」という専用機に変わっていくんだけどね。基本的に変わんないの、その考え方は。僕は当初からそんなのやってられないと思って、電動カッターとドキュメントスキャナーとOCRソフトでテキスト化して読むというふうにしていた。それをやりだしたのは、多分2000年。少なくとも前出した本にはそういうこと書いているので、それが2004年に出している本だから、その前ぐらいにはもうやっているんです。もうその頃には、ボランティアも実は高齢化していて、自分が頼んでいたボランティアは引退というか、もう数人しかいない状態になっていて、新しいボランティアは自分がつかまえてくるということも静岡に行ってなかなかできなくなっていた。
<立岩> 難しくなってきて。静岡が何年からだったっけ?
<石川> 88年ぐらい。
<立岩> でもなんだかんだ言って10年ぐらい経っているんだ。そうやってその次の体制というか。今みたいにカッターで切って、OCRかけてオートシートフィーダーでみたいなことは、そこそこ経ってから。
<石川> データを見ると、やっぱり2000年ぐらいからのものが残っているんで、その前はあんまりあやってなかったんだよね。それをやるきっかけになったのは、北陸先端大の木村さんという教授、OCR専門の教授が当時いて、その人のプロジェクトに誘われて、僕は一緒にやっていたんですよ。そのプロジェクトにはPFUから出向して大学院にいた人もいたりして、その頃は東芝の「エクスプレスリーダー」だとか、いろいろ出てきていたんです。メディアドライブの「ウィンリーダー」とかそういうものを使ってみて、まあまあ結構いけるなと思って、これだったらいけるんじゃないかなと思って始めた。一番きっかけはそのプロジェクトで、率直に言うと高いドキュメントスキャナをただでもらったんです。
<立岩> ちょんぎってというのは、石川オリジナルなの、そのアイデアは?
<石川> でもアメリカとか海外だとそういう発想していたよ。とっくに常識だったから。でも日本ではすごい抵抗感があって、僕は最初にそういうことやっていたら、なんてことやるやつだというふうに言われたね。なんという残酷なことをするんだ。
<立岩> 残酷なことを。本を切り刻むなんて。
<石川> そうそう。そういうふうに言われた。なんていうことをするやつだと。
<河村> アメリカの場合、ヨーロッパもそうだけど、著作権法で、2000年代にはみんなテキストにアクセスできていたでしょ。日本はずっと点字はオーケーだけど、テキストは駄目だって。視覚障害者でもテキストのアクセス駄目だったからそれがずっと点字図書館やなんかが、それができないって、足かせになってたよね。

■これからのことを少し・1
<石川> それで最近共同自炊というのを始めたんですが。さらに共同でやろうということで、今やっているんですけど。
<立岩> 科研費取っているやつですよね、それで私はまあ今日は昔話だけで十分腹いっぱいなんですけど、実は、だけどみたいな話で、その今石川さんはそういうので共同自炊みたいなスタイルでちょっとやってみようかなという感じだと思うんです。まあこれから5年とかの間いくつかの道筋というのがあり得て、ベターベターでいくしかないんだけれども、そのここ数年ぐらい見たときにどういう予想というんでもいいし、期待でもいいし。
<石川> まあキンドル電子書籍は、どんどんシェアを伸ばし、新しく出版される本の中で、キンドル化されるものって、やっぱりもっと多くなっていくだろうと思うんです。
<立岩> それは予測としてそうだろうと。今アメリカだとほとんどそんな感じですか?
<石川> まあでも専門書はなかなか難しいと、アメリカでも難しいと思うけど、一般書はほとんどキンドル、紙の方は。むしろ売れない本は紙という感じじゃないですかね。売れる本はキンドルにすると。だからそういう意味で言うと、一般書、一般教養書、一般解説書、一般なんとか書みたいなものはまあ自由に読める時代になるだろうと。
 ただしですね、DAISYもそうなんですけど、僕は本をきちんと読もうというときに異次元的な空間の中で文書を頭の中で読んでいるんです。こういうふうに配列された一段落が一行という感じでこう並んでいるというイメージで僕は読んでいるわけ、横書きのね。それに対応してナビゲーションにしたいんです。だから、多分下カーソルを押すと次の段落を見ることができると。上カーソルを押すと一つ前の段落を読むことができると。左右カーソルだと一文字ずつ左右に動いていくとか、コントロールは左右だと次の文節のトップに移動するとかね。
 そういうイメージで読みたいんだけど、DAISYというのはもともとカセットテープをデジタル化するという、音訳図書のデジタルトーキングブックというぐらいだから、流れていくものなんです。ずっと左から右へずっと流れていくというイメージのナビゲーション。だから頭の中ずっと言葉がずっと流れている。流れていってそれを聞いているというイメージ。さっきの「アルティア」とかそういうものを使うと、一見読書の音を聞いているんで同じなんだけど、頭の中では二次元的に配置されたテキストを読んでいるのね。だから止めて次の前の段落もう1回読み直したいなと思うと、上カーソルを押すと前の段落が読めるわけです。そういうナビゲーションに既存のDAISYプレーヤというのはなってないの。上下キーというのでレベルを切り替えるようになってる。レベルって見出しのレベル。移動単位を決めているんですよ。左右で右キーとか左キー押すと今設定されたレベルで次の見出しへ移動するというキー。あとは再生か一時停止か停止か。だからメディアプレーヤーで音楽を聞いたりとか、どっちかというとそれに近いナビゲーションをする。
<立岩> 次の曲行こうみたいな感じ?
<石川> 次の曲。次の第一楽章から第二楽章とか、そういう楽章単位の移動じゃなくて、次の曲へ移動したいのか次の楽章へ移動したいのか、次のなんとかに移動したいのかと、そういうレベルを上下決めていて、移動したらそこでまた音楽が始まるわけよ。ずっと聞いているか、一時停止するか、また聞いているか、この違いしかない。だけど僕はそうじゃなくて連続的に読んでいる場合もあるし、一段落一段落読んでる場合もあるので、それを自由に自分で自律的に操作したい。で、キンドルであろうが何であろうが、なかなかそういうふうなナビゲーションにはなっていない。
<立岩> キンドルはどうなってる? 全然そういうの全く詳しくないんですけど。
<石川> キンドルはページ単位でずんずん読んでいく感じ。どっかで止めれば止まるんで止まったところからまた、止まったところから読むのは、止まったページの頭からは読みやすいんだけど、止まったところから読みにくいと思うな。できなくはないかもしれないけど。iOSでローターで文単位にすればできるかもしれないけど、まああんまりだからその辺はやっぱりそんなに自分で細かくナビゲーションするというよりは、やっぱりずっと流していようという感じ。
<河村> それはプレーヤーの仕様で。キーアサイン〔キーボードのキーの組み合わせにアプリケーションの機能を割り当てること〕して、ダイレクトにレベルを指定して、指定したレベルで。例えばレベル1で一つ前へ戻るとか、レベル2で一つ前へ戻るとか、ダイレクトに指定するキーアサインをすれば、それでできるんですよ。
<石川> そうですよ。だからユーザーインターフェイスの問題であって、DAISYの仕様とかEPUBの仕様に問題があるというわけではない。だからみんなの固定観念、みんなの固定観念がそうなっているという。
<河村> 特に開発側もということですよね。
<石川> まあユーザーもそうだけどね。僕に言わせれば、それは違うだろう。
<河村> だから、圧倒的少数派なんだよ、石川さんみたいな読み方。
<石川> そんなことない。だからそれは。
<河村> 違う違う、今のDAISYのユーザーの中で。
<石川> DAISYは、依然としてエンターテイメントとして読んでいるからそれでいいんですよ。だけどちゃんと理解して熟読、精読したいというような人たちにとって、じゃあ今のUIはベストマッチかといったらそんなことない。
<河村> GHプレーヤー試してみたことある? GH。
<石川> 同じ同じ。
<河村> あれは点字をサポートしているから、多分ちょっと違う、GHは。
<石川> でもそれ、パソコンだしね。しょうがないんで、「アルティア」に見出し、移動機能ってつけたんです。
<立岩> 自社の商品で勝負しようとそういう話になっていくわけ?
<石川> フリーなんだけどね。アルティアはフリーウェアなんだけど。要するに自分の道具はやっぱり自分が作るのが一番良いというのが、僕の結論なんで。隔靴掻痒感がないじゃない。自分はこれが一番いいと思うものを作ればいいから、そうやって作ってきた。そういう感じ。
<立岩> そういう言ったら最終的な言ったら本に当たる媒体としてどういうものがふさわしいかということに一方にあると思うのね。で、今その話じゃないですか。で、そういうのが欲しいなといったときに、今キンドルというのがシェア的には一番行けそうなというか、行っちゃっているところだと思うんだけれども、そこら辺のかねあいというのは?
<石川> キンドルとOCRと併用でいくしかないと思う、当分は。キンドルになってないものはOCR、ただOCRは誤認識がどうしてもやっぱりあるので、それをどうするかなんだけど。だから僕は、今、質よりも量と速度を重視しているわけ。

■これからのことを少し・2
<立岩> 石川さんが個人で使う分には、質より量でとにかくちゃっちゃっちゃっちゃやって、ミスらしいところは飛ばして読んでも確かに大体わかりますよね。想像もつくしね、間違いなく。それはそれでいいんだけれども、一つはそういう個々の機械っていうのもそうだけれども、今これの元の〔科研費の〕プロジェクトとしては、それをどういう形で公共図書館とかが供給するかみたいな話じゃないですか。そこのところっていうことですわ。
<石川> うん。図書館が不特定多数に適用するためには、校正するのは必須なんですよ。
<立岩> どうしてもそうなりますよね。
<石川> そこはしかし、人的パワー、マンパワーが必要で、この業界だけは、なぜか知らないけど、依然としてボランティアに相当程度依存しているわけね。自助・共助・公助のバランスというふうに僕はプレゼンすることにしているんだけど。ところが、ボランティアもいわゆる分厚い専業主婦層というのがいなくなっていく時代、ボランティアも高齢化しているんですよ。だからいつまでも頼れないと。そうしたときに点字図書館はどうやってやっていくのかという問題は、点字図書館側は考えている。考えているし、視覚障害者の読書を今まで支えてきたやり方が、これから先も続けられるかどうかは不安な点なんです。かといって、じゃあ今の総合支援法の枠組みみたいなものの中で何かしら入れていけるのかというと、どうでしょうか。
 だから、TTSを使わざるを得ないと思う。つまり人が音訳するということはもうあきらめて、TTSに読ませるためのデータをどうやって低コストで出版社から入手する枠組みを作るかということになると。やっぱり国会図書館に納本してもらって、デジタル化されたものについては納本してもらって。
<立岩> 国会図書館がデジタルデータを納品させるようにまずさせる。
<石川> 電子納本義務ね。で、DRMを外して電子納本してもらうというのが1つと。あと、紙のものは古いやつからデジタイズしてるんだけど、一番新しい方からデジタライズしていった方がいいんじゃないのと。ただその場合も、OCRかけるからすぐ誤認識出てくるんでどうするかという問題が残っている。年間数千タイトル作っているんですよ、点字図書館が。業界としてね。だから2,000〜3,000冊の本を作るのにOCRでいくのか何でいくのかわかんないけど、出版社からデータもらうにしても何にしても。
<立岩> 確かに人的には、そのボランティアいなくなるとすれば、お金のコストというのもちろんあるわけだけど、それはそれとしてというか大切なことだと思うけれども、例えば国会図書館なら国会図書館がそうやってかき集めるとするじゃないですか。それの供給といっても貸借といってもいいのかもしれないけれども、そういう体制についてはどういうやり方に?
 これも予測でもいいし、期待でもいいんだけれども、国会図書館なら国会図書館が仕切っちゃって、なんか別組織作ってもいいかもしれないけれども、とにかくその系列でなんかやっていくというのがあるかもしれないし、それから今、最初僕らが考えていたのは、例えば関西なら関西でそういうニーズのある学生がいる大学とかの横のネットワークというかな、そういうのを作って、ぼちぼち。それは最終的な形態かわからないんだけど、とりあえずそういうのやろうかねとか、そういう話もあったと。だから、とりあえずでもいいし、しまいにはでもいいんだけれども、あるいはとりあえずはこれでしまいにはこれだというのもいいんだけれども、どういう方角に?
<石川> 今までは分散型ボランティアベースでやってきたんだけど、成り立たなくなったら一つの中央館で、お金かけて、そのかわり効率的な制作をやっていくという方法で。そうすると、人間が音訳するんじゃなくて、やっぱりTTSベースでやっていく。そのデータをどうやってとるかというのは、出版業界との間の調整になると思うんで、データ出してもらうという形がとれれば随分違うと思うし、そうでないものに関しては、スキャンして校正かけるしかないと思うんだけど、年間どれだけ作るかということと、コストどのぐらいの予算で回っていけるかということ。大体1冊当たりやっぱり10万ぐらいかかると思うんだよね。ちゃんと校正しようと思うと。OCRからいくと。〔出版社から〕データもらえるとそんなことないと思うんだけど。
<青木> 国によってはその出版社からのデータの提供はライセンス制になっているというのもありますよね。例えばドイツとか、出版社に対して点字図書館がライセンス料を払うみたいな。
<石川> 払うということ?
<青木> はい。何ドルか払ってデータの提供を受けるとか。
<河村> 払ってるとこ、あるのかな。
<立岩> 個別には、そういう制度じゃなくて、例えば、読者としてデータ提供頼むと、やってもいいけど例えば大月書店だと6万円払ってくれ、みたいな。
<青木> 今は言い値状態なんですけど、そこら辺ってもうちょっと。
<石川> 大学が言うと、お金払ってくれって言うのね。
<立岩> 出版社の役割はもう少し変わらないんですか。出版社と点字図書館というか、データ欲しい側の関わりは?
<石川> いやだからそれは政策というかコンセンサスベースだから、そういうことでそういう規制をかけることが可能な条件があればだけど、難しいでしょうね。
<河村> 金払っているかどうかわかんないけど、現実的にスウェーデンの国立図書館がやっているのは、出版社からとにかくファイルをもらって、そのファイルを処理をしている。
<青木> 7割ぐらいの
<河村> PDFが多いけどね。
<立岩> スウェーデンで出る本の7割はそうしているということ?
<河村> なんらかのネゴしているのは確かだけど、金払っているかは。
<石川> 何らかのお金は払っている可能性はあると思いますよ。だけど、そんなべらぼうなお金だったら、じゃあOCRでやった方がいいよということになるから。
<河村> いや、そんなすごいお金払っているはずもないし、あとね、図書館が作ったものをDAISY化したものを出版社にまたあげて、出版社がそれを売ってもいいとやっているケースがあるね。で、また出版社は出版社で売るのね、それを、戻されるたものを。
<石川> 誰に売るの?
<河村> 普通にマーケットで買える。
<石川> 一般にね。で、それは、人間が音訳した場合ということ?
<河村> そう。
<石川> でも、その音訳の手間は、コストはどうなるの?
<河村> 音訳のコストは図書館がやっているの。
<石川> それボランティアじゃないでしょ?
<河村> ボランティアじゃない。
<石川> 有償、1冊当たり。アメリカで言えばオーディブルという企業ベースでやっているところがあるんですよ。だから、売れる本だったら、それでお金かけて作って売ればいいわけですよ。売れる本なら。何十万かかるのか知らないけど。
<河村> 例外的なのは、アメリカの連邦で教科書教材に採択されたものは、Kから12までだから高校までか、幼稚園から高校までが必ずリポジトリに納めなきゃいけない。
<石川> データの提供を受けれられるでしょ。教科書はそれできると思う。もともと教科書は国が買っているわけだから、それはできると思うんだけど、一般の民間の企業が出版しているものについてどこまで規制かけられるかといったら、日本の現状変えるというのはなかなか難しいと思うので、やっぱり電子化、アクセシブルな電子フォーマットでの出版を期待しつつ、そうなっていくであろうと。キンドル頑張れと言わざるを得ない、残念ながらね。アマゾン頑張れと。アマゾン一人勝ちでもいいというふうに言わざるを得ないんですよ、僕の立場として。しょうがないですよ、他やらないんだから。
<河村> それは、一人勝ちすれば後でろくでもないことが起こるよ。
<石川> だから、さしあたり。さしあたり。
<立岩> 例えばね、日本のキンドルなら日本のキンドル、アマゾンのキンドルでそういうふうになかなか自然と放置していてもそうはならない、アクセシブルなキンドルにならないという場合に
<河村> 学術書とか。
<立岩> 学術書にしてもなんにしても。キンドルの存在が大きいのは事実としてあるとして、キンドルで提供される電子書籍がさっきの読みやすさみたいな、その件に関して例えば何らかの規制じゃないかもしれないけれども、規格というかそういうものを提示するとかそういうのってありうるんですか?
<石川> アマゾンのキンドルというのは、アクセシビリティは何に依存しているかというと、アップルのボイスオーバーだったり、アンドロイドのトークバックというスクリーンリーダー機能に依存していて、そこのアクセシビリティを高めてくれというリクエストはグローバルにあるので、そこからのリクエストベースで、まあ結果的には改善されていく可能性はあると思う。
<立岩> それは日本語の本であっても同じ、基本は同じであると?
<石川> まあ日本語ならではの問題も抱えてはいるけれども。それはなかなか直らないって。つまりアメリカの国内制作に依存してフリーライドしている状態なんで、日本の独自の努力というか、日本独自の政策的な貢献というのはないに等しい状態なんですよ。だからまあ、そういう状況の中でアマゾンキンドルのユーザーとして期待するのはいたしかたなしという状況。
<立岩> あと大雑把な話を最後にすると、そういう商業ベースで出てくる電子書籍、あるいは電子書籍のアクセシビリティの問題と、さっき言った結局石川さんの場合だと、国立が頑張れみたいな話になるのかわかんないけれども、そういう図書館系の供給というものの兼ね合いというんですかね。バランスというんですかね。
<石川> エンターテインメント系に楽しんで読む読書については、やっぱり点字図書館というのはなんだかんだ言ってあるので、そこはやってきたわけだし、それをやめるということはないし、それだったら存在意義がなくなって店じまいすることになるから、そこはそれなりにやっていくことになると思う。
 ただ、それはあくまでも身体障害者福祉法という古い法律で視覚障害者の情報提供施設というのは存在しているんですよね。だから、福祉目的だから、就労支援だとか学習支援ということまでは、その法律では求めてないわけです。点字図書館に学生を支援しろとか、働いている人の仕事を支援するということまでを要求してない。あくまで楽しみとして生活の質を高めるための読書だから、それ以上のことを今所管している障害福祉部に行ってみても、うちとしてはこれ以上予算出せないとか取れないとかいう話になってしまうので。縦割り問題なんです。
 ただ、じゃあ視覚障害者の読書をじゃあ読書環境を高めていくためには、雇用系は何かできないのかとか、文科系はできないのかと。文科は、教科書はできるはず。教科書プラスアルファの高等教育のところでもっとできないかとかね。国立国会図書館なんかできるはず。どう考えてもできるはずで、他の国の国立図書館もっとたくさんやっていると。日本の国会図書館本当やっていないということは言えると思います。
<立岩> それはそれであり、商業的に行けているものはさしあたって現状がしかじかであるからっていう感じか。
<石川> 合わせ技でいくしかないとは思うのよね。どれか一つに特化して、それでうまくいくという見通しが立てば、そうだけど。戦略的に言っても、それぞれやっているやつをそれぞれ少しずつ伸ばしていくしかないんじゃないかなと思ってね。
<河村> もう一つは規格面で基盤的な技術開発をやって合理的配慮の敷居を低くしないと、多分合理的配慮といっても、それは負担が重すぎるといって逃げられちゃう。
<石川> それでね、いわゆるテキストデータを提供してくださいという個別の求めってあるじゃないですか。あれって、まさに合理的配慮要求なんです。あれ、努力義務だからうちはできませんて言えば言えるんだけど、実は、テキストデータ引換っていうのをみんながそう言えば、それに今までに比べると門前払いしづらい環境にはなると思うけど。
<立岩> それは差別解消法でということですか?
<石川> そうそう。合理的配慮、そんな過度な負担じゃないじゃないと。テキストデータ提供するぐらい。1人が個別にそれ求めたからといって。過度な負担ですかって。出版社にとって。
<立岩> まあコストがかかるって言うんならね。
<石川> でも、負担ではあるが過度な負担かどうかなんです。負担は負担ですよ。だけど過度かどうか。加重な負担かどうかという、あと努力義務なんで実際に運用してみてやはり民間は努力義務で動くのか、それでも指針に従ってそれなりに対応するのかによってそれを義務化した方がいいか、しなくていいかというところが決まってくると思うから、一つは差別解消法の見直しで、差別解消法というのは過度な負担と言っていて、合理的配慮義務って言っているわけです。ということは、それは、それの不作為が差別に当たるような行為に関して合意的配慮と言ってんだから、それを差別しないように努力しましょうというのは、論理的に破綻しているわけでしょう。もともと過度な負担でないという条件で合理的配慮って言っていて、それを提供しないことを差別だというんであれば、差別しないように努力しましょうねというのは、それは理屈としておかしいでしょうということにはなってくる。論理的には破綻していると思う。
<青木> PDFの提供ぐらいなら、過度な負担というようなエクスキューズができないのでは?
<石川> PDFの負担ね。テキストデータというと、テキストデータ作る負担が大きいなら、PDFでいいと思う、全然。
<河村> ただそのテキストが抽出できるPDFであれば、それでいいんだけど。
<石川> そうそう。でも、わざわざスキャンしないから、出版社は。
<河村> いや数式が一行入ってくると、今出してくるのはビットマップなんだよね。数式一行入っているだけで。現実に文科省が出してくるPDF、これをなんとかしたい。
<石川> だから、数式問題は、またあるんだけど。
<河村> 1枚1枚、ビットマップを出してくる。
<河村> 全ページ、ビットマップになっちゃう。数式が一行入っているだけで。今文科省が提供しているいわゆるデータは。
<石川> だからその辺の理系の問題は、依然として技術的な問題も含めて検討しているところです。
<立岩> さて、時間ももうずいぶん経ちまして、今日は終わりです。
<石川> はい。
<立岩> 富士山が見える静岡県立大学でした。
<河村> ありがとうございました。
<石川> なんか記憶がある程度でも2人で話を付け合わせていただくと、だんだんとちょっと記憶が戻ってくるね。
<河村> それでも曖昧だね。いろんなことが。今似たようなこと今大学図書館でも連中にやられてんだよ。今50ページぐらいになっているんだけど、昔のことを想い出せって言われて。
<石川> そうそう。だから僕も、早く生きているうちにちゃんと。元気なうちに聞いとけということじゃないの。

■註

★01 『読書権ってなあに』(→註04)では1970年4月「都立日比谷図書館、対面朗読および録音朗読開始」(市橋著/視覚障害者読書権保障協議会編[1988:264])とある。同書にはこのことを巡る視覚障害者たちと図書館とのやりとり等についての記述がある。そして視覚障害者読書権保障協議会は1970年6月に結成される。
★02 註01で参照したのと同じ「視読協の歩み」には「日本盲学生会。後に視障学生会→グループ飛翔)」が視覚障害者読書権保障協議会の(発足時の)加盟団体の先頭に置かれている(市橋著/視覚障害者読書権保障協議会編[1988:264])。
★03 福井哲也「視覚障害者と著作権法をめぐる話」(福井[2000])より。
 「一九七〇年に発足した視覚障害者読書権保障協議会がまず取り組んだのは、公共図書館の視覚障害者サービスを進める運動であった。それまで、点字図書や録音図書は点字図書館の管轄と思い込まれてきたのだが、公共図書館が所蔵する豊富な資料を視覚障害者も利用したいとの強い願いから、公共図書館における録音、対面朗読、点訳等のサービスが徐々に広げられてきたのである。
 ところが、公共図書館における図書の録音には、著作権法上の障壁がある。37条3項は、図書を著作権者の許諾なしに録音できる機関を「点字図書館その他の視覚障害者の福祉の増進を目的とする施設で政令で定めるもの」に限定しており、公共図書館はこれには含まれない。このため、公共図書館では事前に著作権者の許諾をとる手続きを行っており、録音作業に入るまでに点字図書館よりも手数と時間を要している。また、少数ながら録音を許可しない作家がいることも重大である。[…]」
★04 田辺邦夫。『視覚障害者の読書と著作権――著作権問題討議資料集 第2集』(市橋編[1977])に「視覚障害者の読書――学習環境改善の運動について」(田辺[1977])。
★05 以下、「「田中章治氏の退職を祝う会」(記念講演会・記念式典・祝賀会)のご案内」(2007年、https://www.jla.or.jp/portals/0/html/lsh/2007tanaka.html)より。
 「「田中章治氏の退職を祝う会」(記念講演会・記念式典・祝賀会)のご案内
 日本図書館協会障害者サービス委員会では、昨年度をもって東京都立中央図書館を退職された田中章治氏の記念行事を計画させていただきました。
 田中章治氏は70年代の初めから「視覚障害者読書権保障協議会 (視読協)」の運動に参加され、74年に点字受験第1号合格者として東京都に入職、その後都立中央図書館の視覚障害者サービスの基礎を築き、発展させることに尽力されました。
 さらに、長年にわたり日本図書館協会障害者サービス委員会の委員長を務められ、全国の公共図書館の障害者サービスの普及と充実に寄与される一方、1989年結成の「公共図書館で働く視覚障害職員の会(なごや会)」の初代代表として障害者サービスの専門性の確立や後輩の育成にもご尽力されました。また、「全国視覚障害者雇用促進連絡会(雇用連)」の活動にも参加され、視覚障害者の就労問題にも深く関わってこられました。
 田中章治氏は、紛れもなく公共図書館の障害者サービスの生みの親であり、氏がいらしたからこそ多くの障害者が図書館サービスを利用できるようになったといって過言ではありません。現在は、再任用で同館に引続き勤務され後輩の育成に努められています。
 日本図書館協会障害者サービス委員会では田中章治氏のこれまでの功績を称え、特に図書館に関係する方々にお集まりいただく記念行事を計画させていただきました。なお、全プログラムは長時間となりますので、その一部のみの参加も歓迎いたします。
 時節柄お忙しい時期とは存じますが、ご出席いただけますようよろしくお願い申し上げます。また、お近くの御友人にもお声がけいただければ幸いです。
 御出欠につきましては、まことに勝手ながら2月20日(火)までにお知らせいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
 主催:日本図書館協会障害者サービス委員会 共催図書館問題研究会図書館利用に障害のある人へのサービス委員会 後援公共図書館で働く視覚障害職員の会(なごや会)
 1.日時:2007年3月12日(月) 午後2時〜8時[…]」
★06 市橋正晴。1946年東京都昭島市生。明治学院大学社会学部社会福祉学科卒業後、川崎市役所に就職、川崎市盲人図書館に勤務。1996年に退職、同年(株)大活字を設立。1997年2年に交通事故に会い、その2月後に亡くなる。それまて25年に渡って視読協の事務局長を務めた。市橋の死を受けて同年7月、視読協解散決定。以上、なんとかそれだけ入手できた著書『読書権ってなあに――視読協運動と市橋正晴 上・下」(市橋著/◆[2000]、大活字版)による。この本は、市橋が書いた文章を収録し、それに加え「視読協の歩み」(上巻)、「市橋正晴氏の足跡」(下巻)等を加えている。
★07 浦口明徳。以下「横浜漢点字羽化の会」のHP(http://www.ukanokai-web.jp/index.html)より。
 「名古屋ライトハウス情報文化センター所長の浦口明徳さんが、2007年10月6日に逝去されました。/浦口さんは長く視覚障害者の読書に関心をお持ちで、ボランティア活動、読書権運動、点訳並びに音訳ボランティアの組織作りと、人並みはずれた行動力・実践力を発揮されました。/近年、漢点字への関心を深められ、本会の活動の趣意の、人文系の資料を漢点字で読める環境作りにもご理解をいただけるようになった矢先でした。/享年60歳」(http://www.ukanokai-web.jp/General/064_tsuito_uraguchi.html
★08 草山こずえ。1977年にICUに入学。ICUに在学した視覚障害学生の文章にICUの教員が「はじめに」と「おわりに」を付した石田・西村[2014]に『明日への大学』(草山こずえさんのICU在学の記録を作る会[1981])への言及がある。
 「ICU の図書館内には、特別学習支援室といって、障害がある学生が学習サポートを受けるための部屋があります。その部屋があまりにも物置みたいになっていたので、ちょっと人に見せられるレベルに片づけようよとスタッフといっしょに本棚の整理をしていた時、『明日への大学』という一冊の本を見つけました。公に出版されたものではないのですが、ICUに一番最初の視覚障害学生として受け入れられた、草山こずえさんの在学記録です。
 三〇年以上前、全盲である彼女がみんなと同じように単位を修得して卒業できるだなんて大学側は信じていなくて、自分の成績や学校生活しだいで、今後視覚障害学生が続いて入学できるかどうかが決まるとプレッシャーを感じていたこずえさんが、四年間全力を尽くしていた様子が、周囲の人たちの文章で語られています。
 視覚障害に甘えてはいられない、特別扱いはされたくない…。当時はパソコンもないので点訳にも今より時間がかかって、したがって教科書の点訳が授業に間に合わないのが普通なのに、それを補うために夜もあまり寝ずに勉強し、寮長まで務めて、過労で倒れたこともあるとその本には書かれています。
 点字は、普通に目が見えている人と違って、斜め読みができないですし、下線部を探したり、図を理解したりするのにも時間がかかるので、試験を受ける時は一般の人の一・五倍の時間をもらえることになっています。でも、視覚障害を甘えに使いたくなかったこずえさんは、試験も一般の人と同じ時間内で受けて、それでも好成績を残しているんです。本の最初と最後の部分は、こずえさん自身によって書かれているのですが、「でもこうして、特別扱いされたくないと考えている私が一番、自分の障害を特別視していたことに気付きました」と述べられているんです。
 私にとって、ICU に視覚障害者が入学する道を切り開いてくれたこずえさんは、憧れの人です。自分とは比べ物にならない、遠い存在と思っていた人です。でも三〇年ちょっと前にこの場所で、彼女も同じようなことを気にして、同じようなことに悩んでたんだなって。目が見える友達に負けたくない、変に気を使われたくない、視覚障害を甘えには使いたくない… そうやって頑張って、でもやっぱり厳しい現実もあります。
 そんな中で、負けてたまるか、負けてたまるかって思っているうちに、無意識に周囲の友達がライバルみたいになってしまう…。障害を特別視されたくないって思って必死な自分こそが、周囲対自分みたいな、むしろ自分を特別視してしまう…。
 でもこずえさんは、四年間の大学生活の最後に、答えを出しています。
 「周囲からいろいろと助けていただく代わりに、私にできることは誠実でいることだけです」
 […]こずえさんが在学していたころは、今より本の点訳に時間もお金もかかったため、周囲の友達が分担して本を音読したのをカセットテープに録音し、それを頼りにレポートを書いていたらしいのです。ある意味、今の私よりずっとずっと周囲の助けを借りて過ごしているんです。でも、その本に記載されている周囲の人々の文章を見てると、誰一人としてそんなサポートをするのを迷惑だとは思っていないんですね。それどころか、こずえさんに憧れている後輩、音読することくらいしか私には手伝ってあげられないと悔しそうに書いている友達…。こずえさんの魅力だからこそですね。」(石田・西村[2014:70-72])
 また草山の著書として『彫刻に触れるとき』(草山[1985])があるようで、柘植[1995]で言及されている。
★09 野村茂樹。弁護士。以下、奥野総合法律事務所のHPより(http://www.okunolaw.com/profiles/nomura_s.php)。視神経萎縮により、1974年左眼0.03、1975年右眼失明(障害等級2級)。テレビ式拡大読書器を使用して読み書き、日本で初めての視覚障害者の司法試験合格者。東京大学法学部卒業、1983年東京弁護士会登録(35期)。2010年〜日本弁護士連合会「障がいを理由とする差別禁止法制に関する特別部会」部会長。2014年〜日本弁護士連合会第57回人権擁護大会シンポジウム 第二分科会 実行委員会 実行委員長。公益財団法人重複障害教育研究所監事、社会福祉法人全国盲ろう者協会理事、社会法人聴力障害者情報文化センター評議員、社会福祉法人日本盲人福祉委員会理事。
★10 酒井栄蔵。http://www.arsvi.com/m/sssc.htmに『月刊視覚障害―その研究と情報』の頁があり(青木千帆子作成)、そこから「福祉会館に就職して」(酒井[1978])があることが知られる。
★11 指田忠司。著書に『123ページの伝言――1978年春 早稲田大学法学部に学んだ視覚障害者の記録』(指田[1978])、『世界の盲偉人――その知られざる生涯と業績』(指田[1978])。
★12 竹下義樹。日盲連のHPに「会長からのご挨拶」がある(http://nichimou.org/introduction/greeting/)。
★13 2003年のプロフィール(http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/conf/seminar20060831/profile.html)では以下。「国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所障害福祉研究部長。東京大学理学部卒業。1970年から1997年まで東京大学総合図書館に勤務。 (財)日本障害者リハビリテーション協会情報センター長を経て、2003 年7 月から現職。 DAISY コンソーシアム理事、WAI/W3C 常任委員、GLADNET 理事、世界盲人連合技術委員会委員、アジア太平洋障害者センター支援委員、障害者放送協議会委員すべての人が共有する知識と情報のデザインを追及し、諸活動に従事。情報アクセス権と著作権の調和を目指した活動に取り組む。 また、ソーシャルインクルージョンの立場に立ち、緊急時の障害者への情報支援及び、国際協力に尽力」
 立岩がこの座談会の後に伺ったところでは、そしてそれは飲食しながらの会話においてであったからというわけではなく必ずしもなく記憶は定かでないのだが、全共闘運動の時期、河村はとくにどういう立場にというわけではなかったがゆえに、理学部のその運動のまとめ役?のようなことをしていたのだという。そして、積極的に就職する気持ちになれないまま、就職活動の時期もほぼ過ぎて、その時に河村が入ったところの採用があったので、という経緯であったという。
★14 『読書権ってなあに』(→註04)の「まえがき」(望月[1998])を書いている望月優(この文章の日付は、1998年7月15日、著者は望月優(視覚障害者読書権保障協議会代表)となっている)が設立した。「実は、市橋正晴氏本人も、この数年の間、アメディアで弱視者向けの事業をしたいということで、私に何回か相談にきた。結局、アメディアの業績の悪さと市橋氏のご家族の反対により、これは実現しなかった」(望月[1998:8])とも書かれている。
★15 板山賢治。1950年日本社会事業学校卒業。1978年厚生省更生課長。著書に『すべては出会いからはじまった――福祉半世紀の証言』(板山[1997]。障害基礎年金への板山の関わりについて高阪[2015]。2013年逝去。
★16 初山泰弘。1931〜2004。1981年、国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所長、85年同更正訓練所長、92年同総長。『国際医療福祉大学紀要』10-2(2005)に木村[2005]他の追悼文があり、年譜がある。

■文献

 ※のある文献は全文あるいは紹介がウェブ上にある。
福井哲也 2000 「視覚障害者と著作権法をめぐる話」,『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2000-10(vol.20, no.231) 
市橋正晴 著/視覚障害者読書権保障協議会 編 1998 『読書権ってなあに――視読協運動と市橋正晴 上・下」,視覚障害者読書権保障協議会,579p.
市橋正晴 編 1977 『視覚障害者の読書と著作権――著作権問題討議資料集 第2集』,視覚障害者読書権保障協議会,29p. 
石田由香里・西村幹子 2014 『<できること>の見つけ方 全盲女子大生が手に入れた大切なもの』,岩波ジュニア新書791
石川准 1985  「逸脱の政治――スティグマを貼られた人々のアイデンティティ管理」,『思想』736:107-126
板山賢治 1997 『すべては出会いからはじまった――福祉半世紀の証言』,エンパワメント研究所,203p.
木村哲彦 2005 「名誉教授・大学院長初山泰弘先生の死を悼んで」,『国際医療福祉大学紀要』10-2:1-2 
草山こずえさんのICU在学の記録を作る会 1981 『明日への大学――その一つの試み ICUにおける一盲学生の在学の記録』
―――― 1985 『彫刻に触れるとき』,用美社
望月優  1998 「まえがき」(市橋正晴著/視覚障害者読書権保障協議会編[1998:3-9]
野村茂樹 1981 「アメリカにおける盲人法律家・上」,『ジュリスト』755:102-112
―――― 1982a 「アメリカにおける盲人法律家・中」,『ジュリスト』757:84-93
―――― 1982b 「アメリカにおける盲人法律家・下」,『ジュリスト』758:129-136
酒井栄蔵 1977 『視覚障害者が社大で学んで――5番教室の4年間』,59p.
―――― 1978 「福祉会館に就職して」,『視覚障害――その研究と情報』37
指田忠司 1978 『123ページの伝言――1978年春 早稲田大学法学部に学んだ視覚障害者の記録』
―――― 2012 『世界の盲偉人――その知られざる生涯と業績』,桜雲会,281p.
高阪悌雄 2015 「ある行政官僚の当事者運動への向き合い方――障害基礎年金の成立に板山賢治が果たした役割」,『Core Ethics』11:135-145 
田辺邦夫 1977 「視覚障害者の読書――学習環境改善の運動について」,市橋編[1977]
柘植千夏 1995 「博物館と視覚障害者」,『博物館学雑誌』20-1・2(23):31-39 


UP:201603 REV:20210730
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