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「尊厳死の法制化を認めない市民の会」発足集会・呼びかけ人メッセージ

2012/08/27 広告[PDF]


■尊厳死に反対する

 尊厳死法の成立への動きは全国の障害者に大きな不安を与えています。障害者の中には呼吸器や経管栄養を長年にわたって利用しながら、学校に通い、社会参加をし、仕事をつづけ、幸せな結婚生活を送っている人も大勢います。この法律では、その人たちの人生途上での治療停止の恐れが懸念されております。医療は本来、命を支えるためのものだったはずです。尊厳死法では、医者の自殺ほう助を容認するような条項まであります。
 重度の障害者たちは地域サービスの未整備もあって、家族の介助に依存しなければ生きていけない人たちもいます。その人たちは、家族への遠慮から延命治療を選択しにくい状況にあります。この人たちにとって、この法律ができることは治療を停止して、死を選ばざるをえない状況に追い込むことにならないでしょうか?現実にそのような悲しい選択をした障害者たちを私たちはたくさん見ています。
 国連の権利条約が成立し、その中では地域での支援を受けての障害者の生活がうたわれています。改正・障害者基本法でもあらゆる障害者が地域で共生していくことをその第一条でうたっており、地域での介助を受けての生活は、日本においても法的に保障されているところです。地域によってはこのサービスが十分でないため、家族への過剰な負担がいまだに続いています。われわれは尊厳死法制定に反対し、さらなる地域生活支援サービスの充実を求めるものです。

中西正司

■尊厳死の法制化は、国家による個人の死の収奪である

平川克美

 わたしは、いわゆる安楽死、緩和医療、ホスピスなど一般を否定するものではない。どれも必要かつ重要なことだと思っている。医療の現場においては、それが病院であれ在宅であれ、治療の方法や、終末期に対するケアに関しては患者の意思、家族の意思、それら相互の関係、環境や経済状況などによってそれぞれに異なるだろう。
それらは、まさにその言葉の本来の意味においてケースバイケースであり、そうあるべきである。
 そのうえで、わたしは「尊厳死の法制化」には明確に反対する。
その理由は、原理的に言って、ひとの生き方が法律によって拘束されることがないのと同じように、ひとの死もいかなる法律によっても拘束されるべきではないと考えるからである。
 ひとが生きていくことに関して、何人もその生き方を拘束することはできない。生き方こそは、人間に与えられたもっとも基本的な自由であり、生き方の自由こそ人類が差別の歴史のなかから勝ちとってきた最低限の権利だからだ。
 死に関しても同じことが言える。
 なぜなら、死とは生き方のひとつであり、そのことに関して社会的コストといった功利的な理由や、医師の免責の理由や、家族の負担といった理由や、あるいは国家の財政的な理由などによってひとの死を法律によって拘束したり、収奪することはできないからである。
 尊厳死の法制化を主張する人々は、あくまでも個人の自由意志を尊重していることを主張するだろう。しかし、自由意志の尊重としての死の選択は、これをひとたび法制化すれば、もはや自由意志とは程遠いものとならざるを得ない。なぜなら、法制化なるものが「意志の強制」に他ならず、そこでは意志しないという自由は排除されることになるからだ。
 「尊厳死」も「延命」も選択しないという選択があるのだ。そしてほとんどの場合、ひとは自分の生について確固たる選択ができないように、自分の死に関しても事前にそれを選択することはできない。生も死も、その本源は自然に属しておりひとがそれを加工したり、捻じ曲げたり、やり直したりすることができないものだ。生の一回性ということが、哲学的な主題であったように、死の一回性もまた哲学的なテーマであり、当今の価値観や尺度によってそれらを計量したり、操作したりすることには十分慎重であるべきだろう。
生も、死も事後的に自分が何を選択したのかということがわかる。それが、一回性ということの深い意味だと知るべきである。それらを事前に決めることはできないのだ。
 誰が、如何なる権利において、人の死に方の選択を強要することができるというのか。いったい如何なる理由において、尊厳死なるものを法制化しようとするのか。
 法制化は、個別的であり、同時に普遍的でもある生と死の問題に、現世的で一般的な解決を与えようとするものであり、傲慢かつ性急な発想の所産である。
 冒頭に述べたように、生が個別的なものであるように、死もまた個別的なものである。介護や診療の現場において、どのような方法を選択すべきかは、あらゆる個別的な条件を配慮しながら、現場の医師とケアされるもの、その関係者によって決定されるべきものである。そこでは、多くの困難と解決の方途の見えぬ問題と逢着することになるだろう。しかし、それらの問題に対して、法律の名の下に簡易的な解決を与えてはならないだろう。どれほどの困難があるとしても、それこそが当事者が引き受けなければならないことであり、生も死もその引き受けの結果なのだ。もし、尊厳という言葉を贈りたいのなら、それは死に対してではなく、当事者が引き受けた労苦に対して与えられるべきだろう。
 対して尊厳死法案とは、死と直面している当事者に対して与えられるものではなく、専ら死の対岸に在るものの利便のための法案にならざるを得ないだろう。
 わたしは、「尊厳死」なるものを受け入れない。誰であっても、ひとの死を「尊厳のある死」と「尊厳のない死」という線引きをすることはできない。
 「尊厳死」の法制化に関しては、政治家や、医師、専門家だけではなく、様々な分野の人々が徹底して考え、議論する必要があると考える。なぜなら、この問題に関しては、すべのひとびとが「関係者」であり、その語の本来の意味における「当事者」なのであるからである。


UP: 20120826 REV:
安楽死・尊厳死 2012  ◇全文掲載 
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