楠敏雄さんへのインタビュー(その5)
2011/04/10 聞き手:
岸田典子 場所:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
last update:20220727
◇2011/04/10 楠敏雄さんへのインタビュー(その5)
語り手:楠 敏雄
聞き手:岸田典子
◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録
※下記インタビューは、当時、楠氏が語ったままの内容を基本としており、客観的に検証されたものではないことをご承知おき下さい。
視覚障害学生に対する配慮のない中での勉学
岸田)4月10日です。前回は楠さんが龍谷大学に入られて、大学側は入学はさせたけど一切支援はしない、自分でやってください。他の障害のない学生と同じようにしますからということで、入学式から下宿探しから、単位登録はどうしてるんですかとか、同じ北海道の人をさがしてもらって、その人はいい人だったんだけれど授業が始まったら麻雀が好きであまり学校も行かないし、授業も支障を来したので同じクラスの人に本を読んでもらったり、京都のライトハウスに対面朗読に行っていたというあたりまできました。今日はもうちょっと詳しいことを伺いたいのですが。入学後、同じクラスの人に読んでもらったり、遠いライトハウスまで一時間半かけて行ったりしてはったんですが、それだけではまわらない、勉強が進まない、学校から支援を受けられないから。点訳サークルの方が先なんですか? 障害者解放委員会より。
楠)点訳サークルはまだできていなかった。
岸田)人の善意に頼っていたのは1年目だけですか。
楠)1年目もね、盲人問題研究会というのを作って。
岸田)それは楠さんが作った。
楠)そう、ゆるやかな名前で。誰でも入りやすいように。まず点字を覚えてもらうことと、視覚障害者のおかれている現状を知ってもらうことくらいを目標にしてサークルを呼びかけて、10人くらい集まった。最初は4、5人だけど、2年目に新入生が入ってくれて15,6人いたかな。その人たちに交代で本を読んでもらう。点字をちゃんと打てる人、教科書点訳までできる人はほとんどいなくて、ドイツ語の点字を打ってもらったりとかしたけど、間に合わない、授業に。せいぜいテキストを読んでもらうくらいだったかな。点字はぼちぼち練習してもらうということでいっぱいいっぱいだった。
岸田)今でも間に合わないことはあるらしいですが、今はパソコン点訳がありますが、当時は点字版というか、点字の原型を使ってポチポチと書いてはった?
楠)そう。授業のノートも、先生がふつうのスピードでしゃべったりする。ついてくのが必死で、板書なんかされたら何書いてるかわからない。話を聞きながら要点をまとめてついていくのに必死で。教授の中には一生懸命点字を打ってたら、いたずらしてるの誰やって怒られて。これは点字やっていうと、止めなさい。人に迷惑かけないようにしろって。
岸田)盲人問題研究会を作って、楠さん一人で声かけて、Aさん入りましょうよ、Bさん入りませんか、みたいな感じで募集してたんですか。
楠)北海道の友達はそんなのには関心なかったんだね。協力はしてくれたけども。クラスの友達2人くらいが、むこうから手伝おうかって声かけてくれた女性が一人と、もう一人たまたま僕の席に座った福井出身の男性が点字を覚えてくれて、3人で盲人問題研究会を呼びかけて、あと2、3人入ってもらって、2年目も新入生を募集してという感じ。
岸田)楠さんに直にお聞きしたと思うのですが、1年生のときは、ものすごく勉強して授業もばりばり出てやってたということですが、英文科はけっこう大変やと聞くんですけど。テストも多いし。
楠)ペースも速いしね。1日に早い人は10ページくらい進むから。点字はせいぜい2、3ページしか打てない。読んでもらっても、タイプライターでは。そしたら間に合わない。いつも講義に間に合わない。で、たまに先生もあてる。楠くん読んで答えろって。テキストあったら読んでるけど間に合わないから、すいません、テキストできてないんですって。
岸田)先生は協力的だったんですか? 購読とか演習とか。
楠)あんまり協力的じゃない。点字も知らないし。カセットとらせてくれっていったら、外で利用されたら困るからって言う固い人もいたしね。
岸田)じゃ、その頃からカセットは持ち込んで。
楠)オープンリールとカセットと両方使ってね。
岸田)その時の点字版もタイプライターも重いのを自分で持って、盲人問題研究会もクラブじゃないからボックスもないし。けっこう大変だったんですね。
楠)部屋借りて点字とか学習会したり。あいてる部屋をこっそり使ったりして。
岸田)なかなか、ぱっぱと打てるようになるまで時間かかりますもんね。
楠)教科書はなかなかね。しかも、日本語ならまだいいけど、英語なんかスペル間違ったら、一生懸命辞書ひいても単語がない。DとLが違ってたり、DとJが違ってたり。点がひとつ違ったら綴りが違ってくるから、いくら調べても単語がないからおかしいなと思ったら間違ってたとかね。責められないしね、ボランティアでやってもらってるから。
岸田)好意でやってもらってるのに、ここ違ってるやんって言えない(笑)。そんな中で、はじめのうちは手伝ってくれるから勉強せなあかんという意欲も。盲学校からやってきたというのでコンプレックスというか、がんばらなあかんというのもあって、いそしんだ?
楠)コンプレックスというか、健常者に負けたくないというかな。やっぱり盲学校は、盲人は無理だとか思われたくない。大学に対する意地もあって、厳しい中でも勉強して、自慢じゃないけど語学は全部90点以上。英語もドイツ語も。必死になって勉強してた。1年、2年は。
岸田)じゃ、キャンパスライフは全然? 勉強ばっかり?
楠)そんなことはない。サークルなんかで時々コンパやったりしたし。昼間はけっこう、生協にみんなで一緒にメシ食いに行ったり、そういうつきあいもしたし。夜は遅くまで、とくに語学の前の日は本箱の前に座り込んで、点字の辞書は本箱いっぱいになるからね。その頃英語の辞書は70冊、ドイツ語でも20冊だから。本箱の前に座り込んで辞書引くのに必死。
岸田)今では想像できないような方法で勉強してはった。それで健常者には負けたくないというか。盲学校でもいい成績とりなさいと言われませんでした? 出るときに、視覚障害者の代表なんだからって。
楠)それは言われるわな。恥ずかしいぞと。
岸田)それは、私なんかも、ライトハウスから某銀行に就職する時に言われましたね。とくに全盲の人は、そういうプレッシャーがあって。そうして勉強してはったのは、1966年あたりですか。
楠)67年。
岸田)3年生あたりが67年。
楠)3年生は69年ですよ。
部落問題研究会から部落解放同盟との出会い、学園紛争
岸田)2年が68年。ここで世の中、全学共闘会議、全共闘の運動が燃え上がってくる時で、運動というと楠さんは大阪府盲で共産党系の民主青年同盟というところに、入ってはないけれども関心を持ちはって。大学行ってからはどうだったんですか。
楠)サークルで部落問題研究会というのがあって誘われて。僕は人権問題には関心があったからね、部落研に出入りしてた。一般の学生とも交流も持ちたいし勉強もしたいと思って。そしたら部落研の人たちからね、楠さん、もうひとつ部落解放研というのがあるからね、あの連中はトロツキストで、ひじょうに危険な連中だから近づくなと言われた。だいたい同和問題ということはほとんど知らなかった。北海道には同和問題はないからね。同和というと子どもの童話の話かと思ってた。そしたら、大阪や京都はその問題も運動もさかんだと。しかも、共産党系とそうじゃない人たちの分裂があるというのを知って、驚いて、なんでそんな対立があるんだろうと関心を持ちだしたんだけども。何回かのぞいてたら、どうも民青系の部落問題の人たちというのは、なんかしゃべる内容までほとんど同じことを言うんだね。それに違和感を持ち出して。トロツキスト批判とか。何かを伝えずにあんなとこに近づくなというし。言われると、僕はへそ曲がりだったので、どんな人たちかと思って、話しませんかと言われて、その連中の話も聞いたことがあるんだよね。その時に言われたのが狭山問題。石川一男さんという人が冤罪ででっちあげられて死刑になろうとしている。この人の無罪をはらさなきゃならないんだという運動があると。その学習会もちょっとのぞいたりして。69年くらいかな、その集会に東京に一緒に参加したこともある。そのへんから、学園闘争が龍大でも。
岸田)学園紛争がわかりにくい。楠さんが入学したころから、ぐちゃぐちゃ言うてたんですね。
楠)龍大はまだ遅れて始まったので、67年からあちこちあったけど、ピークは68年、69年だね。龍大でも、69年くらいに、西本願寺が権限を仕切ってると。西本願寺の権力を糾弾しなあかんというので。
岸田)ものの本によると、学園闘争、全共闘というのは、どこのセクトにも所属しなくて、はじめは大学のあり方が問題だとか、だいたい民青が自治会を掌握してたけど、本質をついてないということで全共闘がだんだん自治会を掌握するようになって、クラス討論なんかを執り行うようになったということなんですけど。
楠)それはだいたいそうです。龍大でもそう。だから僕も大学の勉強を必死になってやってたけど、講義の内容がつまらない、マスプロ教育で700人とか800人の大講堂でマイクで先生が講義するような科目もけっこうある。だいたい、2、300人の講義が多い。必死でノートとる。同じようなノートを学生にとらせてる講義がほとんどで、なんやこれは、努力したって中身がなさすぎるじゃないかというので、僕も全共闘系の主催の集会に行って、一緒に行動したり参加してた。
岸田)そうすると、部落問題研究会を卒業して。
楠)そう、民青の方にはもう顔出さなくなった。むしろ全共闘の方に親近感を持って。学園の民主化とか、民主的な学園とか、生ぬるいというか、本質的なことを言ってないと。むしろ大学の講義のあり方がおかしいとか教授の姿勢がおかしいとか、かなり鋭いラジカルな主張をして教授に迫ったりする、そっちの運動の方がおもしろかったし、好きだったし、親近感を持ったね。だから、全共闘寄りの過激な部落解放研究会の方にむしろ参加した。
岸田)全共闘の学生たちとともに、解放同盟の人たちとのつながりが。
楠)直接、すぐじゃなかったけど、解放同盟とつながってる学生の連中の集会に。
岸田)その後、障害者解放委員会の次は全障連だと思いますが、解放同盟との関係が続いていくわけですか。印象的な出会いはあったんですか。
楠)最後の集会で…
岸田)最後の集会というのは?
楠)石川一男さんという部落の青年が殺人犯としてでっちあげられて証拠もねつ造されたような形で冤罪にされようとしていると。その石川さんと取り戻そうという運動がいわゆる狭山闘争。裁判糾弾闘争というのが69年くらいから高まってきた。そこへ何回か誘われて行った。その時に水平社宣言といって、解放同盟の綱領という立場で。その中で自らが部落民であるということを誇りに思え、誇りとして、差別された者こそが、本当の怒りと本当の情熱を持ってるんだとアピールする宣言を聞いてひじょうに感銘した。そうしたら、解放研の連中から、楠さんも障害者の差別の問題をやる必要があるんじゃないかと言われて、もちろん俺自身もずっと盲学校のあり方とか疑問を持ってたからね。自分も施設や盲学校のあり方に疑問を持ってる連中を集めて、障害を持った人たちと連帯した運動をする必要があるかなと思いだして、関西障害者解放委員会というのを作ることにした。1970年10月に初めて京都で京大から河原町までデモをしたのがデビュー。障害者運動としては。狭山闘争とか全共闘の集会には行ってたけど、狭山闘争や全共闘の集会は、障害者というので遠慮して、危ないからデモに出ない方がいいというのが、ヘンに配慮してくれる。僕としては不満で、こっちは出ようとしてるのに、デモに参加させてくれない。全共闘運動でも障害者は排除されてたから、障害者自身の運動を作らないといけないというので、障害を持った当事者が5人くらいと、施設の職員。京都とか。障害者の兄弟を持つ人とか10人くらいで関西障害者解放委員会を結成した。その頃は党派の応援もあった。白ヘル、中核の連中も応援してくれて、50人くらいの隊列で障害者が先頭に立った。その時のスローガンはね、松葉杖、白杖を武器に変え。
岸田)これは今までの価値観とまったく
楠)違う。障害者は保護される存在という扱いを受けてたし。左から右まで、左の連中も対等な仲間という感じより、守ってやるという対象でしかなかった。ちょっと話は戻るけど、全障研というのがその頃、67年に結成された。その時に誘われて1回行ったけど、何か物足りなかった。親が中心で、障害というのは訓練して直していく。どういう訓練をするのか、どういう治療をするのかという報告が中心で、権利の主体は親。障害者の親がいろんな苦しみを受けてるから、いい施設を作って、安心して預けられるようにみたいな。そこに違和感を感じて、全障研の大会は1回しか行かなかった。
岸田)杉本章さんの『障害者はどう生きてきたか』にも、分け方としては、全障研は研究者、教育関係者、福祉施設職員や親が中心の団体であると。楠さんのお話でも裏付けられる。
楠)当事者はほんとうに少なかった。視覚障害者が唯一。
岸田)視覚障害者はけっこう全障研の人多いんじゃないですか。
楠)でもね、さっき言った拠点は大阪府盲とか卒業生とか、学校の教師。視覚障害の人たちね。運動団体としては障全協、障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会というのが67年の12月にできてる。これは運動団体。全障研は半年くらい前に、清水貞夫さんとか大久保哲夫さんとか、田中昌人。
岸田)橋本宗明さん。
楠)あれは視覚障害者。
岸田)田中さんは京大の発達保障の先生。
楠)そういう人たちが全障研を作って、その後に運動団体として障全協というのができた。あわせて全障研運動という。
岸田)兄弟関係ですね。当事者というと視覚障害者の人は全障研とか障全協の人が多いですよね。
楠)守る会というのが点字民報というのを出してね。聞いたことない? 出してますよ、1カ月に1回くらいのペースで。点字民報社というのを作ってね。機関誌を。
岸田)共産党系の機関誌ですね。視覚障害者はけっこう口がたつから。
楠)障害者の運動としては権利を守るというか。最初は盲学校の教育を充実させようとか、そのうち働く視覚障害者の権利を保障しろとか取り組んだから組織も広がってきた。主体は盲学校の、理療科の先生。とくにマッサージの先生。その中に府盲とか市盲とか附属とかの先生方がリードして、民青の生徒たちとかね。
岸田)業者で賃労働の人は。
楠)そういう人たちはあまり、ほとんど運動に参加する情報もないし。一部入ってたけどね。
岸田)色分けということはないんですけども、障害を持ってない知り合いは、運動団体の始めとしては民青でイロハを習って、小学校を卒業するように全共闘運動に入ったという人が多いと言ってましたが、楠さんも基礎は、民青で手ほどきを受けて、成長して全共闘というか、障害者の自立。保護された障害者じゃなくて主体としてやっていくということに変換していくというか。そのあたりから教科書の問題とか学習支援とか、自分でやっていたことがおかしいということになっていくわけですね。
楠)それはもっと後やな。僕自身は2年間は自分の勉強についていくのに必死で、3年4年になったら、大学に対する幻想を捨てる。大学解体。こんな大学では存在意味はないというのでね、そっちの方に走ったから。勉強とか点訳保障とかは運動の主眼にはなかった。
岸田)あの時代は、それが普通の。
楠)問題意識を持ってる学生ならみんな、そういういわゆるノンポリ学生、政治思想がなくて、こんな大学おかしいという、先生の講義つまらないという不満を持ってる連中が集まって全共闘運動が高まった。党派の連中は中核とか革マルとかブントとか色々セクトがいたんだけども、たくさんの学生はむしろノンポリ、ノンセクトの学生。
岸田)授業もあまりない? 学生集会とかボイコットとか。
楠)最後の方は大学封鎖とかバリケードとかね。大学の門に机並べて針金でくくって封鎖してしまう。教授が入れないようにする。学部長とかつるしあげて糾弾するという運動。
岸田)あの頃学校封鎖をしてバリケードをして、授業できないようにしたというのは、学生の手で行われたんですが、楠さんはその時はバリケードの手伝いをしてたんですか。
楠)中に入ってたな。
岸田)中で合宿するんですか。
楠)教室に泊まり込む。
岸田)日本大学の人の本を読んだらけっこう楽しかったって。
楠)そんな機動隊が攻めてくるとか、民青とかはバリケード封鎖反対だから、立命なんか民青のあかつき行動隊というのが有名で。
岸田)あかつき行動隊って何ですか。
楠)要するに民青のゲバルト隊。ふつうは民青は歌うたって、がんばろうっておとなしい。でも立命の民青は、柔道部とかけっこういて強い。下手な全共闘なんかつぶされる。だから龍大でも自治会とったといっても、そこを全共闘派が追い出して封鎖したら、それを奪還するために、立命のあかつき行動隊が応援部隊としてやってくるわけ。
岸田)あかつきなんとかというのは、関西だけなんですか。
楠)立命がいちばん強かった。民青の行動部隊もいたけどね、全共闘に対抗するために。
岸田)いわゆる機動隊みたいな?
楠)スローガンは大学封鎖反対。ちゃんと民主的な勉強、学習権を保障するべきだという主張だった。当然ぶつかる。
岸田)あの頃のことを本で読むと、全共闘も私らから見たら暴力的で、ゲバ棒持ってヘルメットかぶってやるわけで。障害を持ってたら前線に出られないというか。自分らの仲間の頭打つかもしれないし。そういうのは、楠さん的には? これ、障害者が加わることはできなかったんちゃうかな。どう考えたらいいのかなわからない…。
楠)その頃は障害者で大学に入ってる人が希だったから。あんまり障害者運動とは。
僕はたまたま党派の人と一緒にデモの部隊に入ったから。デモするときも一緒、逃げるのも一緒。
岸田)ヘルメットかぶって?
楠)もちろんもちろん。
岸田)棒持って?
楠)棒持って、もちろん。好きやったから。機動隊の盾の音聞いたら血が騒いで。むしろ危ない、楠さんやめておけっていうのに機動隊の方に接近してた。
岸田)そうしたら、剣道の竹刀みたいに棒ふりまわすんですか。
楠)僕は白杖ふりまわす。白杖を武器に変えて。それが好きだった時代。そういう障害者というのは数えるほどしかいなかった。前線でなんて無理です。実際俺が円山公園に全共闘の連中と一緒にデモ行った時、機動隊がわーっと来て、みんな逃げて行って、僕だけつかまって。
岸田)(笑)その時つかまったんですか。
楠)その時はすぐ解放されたけどね。
岸田)記念すべき務所入りというのは?
楠)それは沖縄。70年の4月28日の沖縄闘争というのがあって。
岸田)どこであったんですか。
楠)難波。もちろん全国であったけどね。難波でデモしたらね、僕は30pの折りたたんだ白杖をポケットに入れてデモに行ってたら、つかまった。その時は白ヘルかぶってたけど。
岸田)逮捕はされてない? 車に乗せられた?
楠)もちろん。機動隊の装甲車に乗せられた。3泊4日。記念すべきムショ生活。
岸田)その頃は、視覚障害者がそんなことするなんて…
楠)警察も夢にも思ってない。
岸田)目を開けさせられたという(笑)。
楠)白杖を鉄パイプと間違えられて。長さ30pの鉄パイプ4本持ってることになってた(笑)。尋問した人が、目をこじ開けて立たせて、懐中電灯で照らして、今だったら人権問題やね。
岸田)考えられなかったんでしょうね。
楠)目が見えないふりをしてるんだろうと思われたんだね。盲人がデモなんかできるはずはないと。あんた、ほんとに目が見えないのかって何度も聞かれた。
岸田)尋問もあったんですよね。
楠)もちろん、入れ替わり立ち替わり。だいたい3通りのパターンがあって。脅かし型の警察。「お前ら、隠したってすぐばれるんだ。家にも通告するし、親から仕送りも受けられなくなるぞ」
岸田)それは、すごく怖いんですか?
楠)怖い。それから、「君の気持ちもわかる。君たちもやっぱり日本の社会はおかしいと思うんやろうな。うちの息子も実はこういう運動やってて、困ってるんだ」というパターン。もう1つは笑いを誘う。「やあ、ヘルメットの勇猛果敢な若者ですね」って冗談を言ってアメでもどうですかって笑いを誘う。その3パターンが入れ替わり立ち替わり来る、3泊4人。
岸田)尋問は長いんですか。
楠)1時間くらい。
岸田)よく12時間とか言いますが。
楠)そんなのは、殺人とかそういう犯罪。僕らのようなのは、現行犯逮捕だし、はっきりしてるし、名前言えとか住所言えとか、なんでこんな運動してるかとか、どういう人と一緒にやってるかとか、そんなことを聞く。午前中1回、午後1回、夕方1回でだいたい1時間ずつ。
岸田)その頃の、野次馬が石を投げて逮捕されたとか聞きますが、楠さんの場合は3泊4日だけで不起訴になったんですか。
楠)白杖だということがはっきりしたしね。凶器持ってたわけじゃないということで。
岸田)楠さんが黒いメガネかけてデモに出てはる写真を見たことがある。
楠)デモは何回も出たよ。
岸田)視覚障害者でそういう人は初めてじゃないですか。天王寺高校の教員も初めてですけど、運動で警察にご厄介になったのも初めて。
休憩
関西障害者解放委員会の結成と運動
岸田)ところで、点訳サークルはいつの話になりますか。
楠)もうちょっと後なんですよ。71年に。
岸田)大学院の頃?
楠)僕が大学院の時に、4人の盲人が龍谷大学に入学してきた。弁護士になった竹下義樹さんとかね、教授やってる愼英弘さんとか、Kちゃんと、ナンパのKくんと。そうしたら大学がものすごく焦った。大学はびっくりして、こんなに入ると思ってなかった。
岸田)学部は違うんですか。
楠)竹下、Kが法学部。Kさんは英文学部で、愼さんは経済学部。そんなんで大学がびっくりして、これからはどんなに成績よくても視覚障害者1人しかとりませんと、各盲学校に通達出したんですね。
岸田)全国に?
楠)進学校に。それがばれて
岸田)どんなふうに?
楠)そんなのが来てるらしいでって、盲学校の教師に情報が入って。僕らがそれを白紙撤回せえ、差別だと署名運動を起こして。民青、全共闘問わず、僕らが独自に運動して署名集めしたり座りこみしたり。その時に点訳サークルを作って。
岸田)はじめは障害者解放委員会の前に点訳サークルから出発したんですか。
楠)4人の学生を支援するために大学は何もしてくれないし。
岸田)その頃もまだ何もしてくれない。
楠)だから、点訳サークルで点字打つ人を増やして教科書を点訳しなきゃついていけないだろうと思って僕が呼びかけて作った。その時はあまり理屈を言うとみんな怖がって入らないから、とにかく点字を覚えて盲人学生を支援してくださいというちらしを作って、点訳サークルのボックスに貼って。
岸田)71年あたりは全共闘運動は下火だったんですよね。楠さんのムショ体験も70年ですよね。そこがピークで、一緒に運動やってはったけど、4人が入ってきたので障害者の方に戻ってきたんですか。
楠)戻ってきたというか、70年の10月に関西障害者解放委員会というのを作って。
岸田)じゃ、点訳サークルの前に関西障害者解放委員会があったんですか?
楠)それは前にあった。龍大だけじゃなくて、京大の学生とか労働組合とか看護学校の生徒とか。龍谷の中には関西障害者解放委員会のメンバーは数人。障害者、健常者。
岸田)京大にSさんとかいたんですか?
楠)Sさんって?
岸田)三療業者のなんとかを考える会のSさんではなくて、別の人ですか。
楠)別。点訳サークルは龍大だけ。あまり運動的なことを言うと人が集まらないので、点字を覚えて学生を支援してほしいという目的で作ったわけ。点訳サークルはイコール運動体ではない。
岸田)関西障害者解放委員会は、全共闘から派生したもの。
楠)あと、部落解放運動ね。
岸田)障害者解放という以上、いろんな障害者がいたんですか。
楠)松葉杖とか。白杖。施設職員。聾学校の先生で今の教育はおかしいと矛盾を感じている人とかが参加してきた。
岸田)そうなんだ。関西障害者解放委員会で扇町で行動したというところを詳しくお聞かせいただきたいんですけど。
楠)左翼運動はね、69年から70年にかけて、狭山闘争とか、三里塚、成田空港の反対運動とか、沖縄問題とか、安保運動とか、全共闘運動からもうちょっと政治的なグループ、中核派とか、社青同とか、そういうグループが集まって運動したんですね。政治運動。その集会が扇町で開かれて。何度か。たとえば佐藤栄作が沖縄返還で何度か訪米して実現したとか、ノーベル賞もらったけど、そういう人たちの訪米反対とかね。ニクソン、フォードが日本に来るのは軍事同盟を強化するものだ、ベトナムから手を引けとか、反戦運動とかがあった。そこへ参加して、関西障害者解放委員会を代表してアピールした。
岸田)楠さんが?
楠)そう。障害者でもあんなことを言う人がいるんだとびっくりされた。
岸田)で、扇町の集会で、関西障害者解放委員会として演説して、そういうのがあるんだと知らしめた。そうすると、障害者解放委員会というのは、どういう経緯でできたんですか?
楠)さっき言った狭山裁判とか、在日外国人、朝鮮人、中国人に対する入管闘争というのが昔あった。
岸田)それは?
楠)日本へ入国したり出たりするのに、チェックが厳しかった。指紋押捺の問題とかね。そういうのは差別だということでね。期限が切れてるのに日本にいるのを強制的につかまえて、子どもがいるのに親子別々にされて強制送還とか、そういうのに対する反対運動。その時に、朝鮮人の人たちが、日本人は、日本政府は無理矢理自分たちの両親を連れてきて強制的に働かせて、今になってから帰れというのは差別だと。日本の運動はそういう人たちのことを考えない。政府もひどいけど、それを許してる日本人、労働者も問われるべきだ。そういうのが入管闘争。これは、中国朝鮮の人たちの日本人に対する告発を発表した。これが有名な7・7告発。70年の7月7日に在日の中国人、朝鮮人の人たちが告発の声明を発表した。それを受けて障害者も反差別の運動を自らすべきだと。
岸田)それは、楠さんが思った?
楠)そうそうそう。それで、いろんな人たちに誘われて、僕もそう思って、障害者、部落、在日朝鮮人・中国人の3つが反差別の運動だった。
岸田)それは各大学から共鳴して来たんですか?
楠)関西障害者解放委員会は中核派に近い人たちが来た。
岸田)その頃に、盲学校の乱入事件があったんですか。私が楠さんを初めて見たのは盲学校に乱入してきた時なんですが。盲人部を作って。盲人部の他にも活動があったんですか。
楠)知的障害、その頃は精神薄弱者問題と言ってたけど、その小委員会と、聾、聴覚障害者の小委員会と3つあったね。
岸田)3つですか。いわゆるCPの人はなかったんですか。
楠)CPは、別個に青い芝の会に行ってた。
岸田)関西に青い芝の会はあるけど、解放委員会の中には入ってなかったんですね。盲学校に乱入したのが盲人部。
楠)それと、Sさんのグループとかね。連携して盲学校に対する告発、盲学校の教育のあり方はおかしいというので抗議した。70年だったかな。
岸田)京都ライトハウスに乱入したのも同じ時期ですか。
楠)そう。同じような時期。
岸田)関野光男先生という当時、理療科の先生。私は知らなかったんですけど、けっこう偉いさんだったんですね。
楠)ずっと関西の盲界を牛耳ってた。その人に、ライトハウスをみんなに解放しろ、もっと自由に使えるようにしろと交渉したんだけど、関野さんが「君らと話しても無駄だ」と言って帰ろうとした。そうするとムラカミっていう弱視のが、関野さんのネクタイつかまえて、「帰るな、まだ話し合いは続いてるじゃないか」と言って。それでネクタイ引きちぎられたとか、ボタンが取られたとか、大騒ぎした。
岸田)鳥居先生はいなかったんですよね。もう亡くなってましたよね? このあいだのインタビューで、盲学校の教師のあり方という意味で抗議の意味で乱入したということを聞いて初めてわかった。関西障害者解放委員会が70年あたりにできて、他の聴覚障害や知的障害の部の人は何をやってたんですか?
楠)手話の取り組みをして手話を広げるとか、手話でパンフレット作るとか。聾学校のあり方とか、聾の子をクリーニング屋で働かせたりとかね。でも労働条件を変える働きかけを全然しない。ただ押し込むだけ。とくに施設の中では知的障害の子に乱暴したり虐待したり、今でもあるけど。当時、南山城学園というのが兵庫にあって。ここのおっさんがひどくて、障害者をこき使ってただ働きさせて、施設作るのにコンクリート積ませたり仕事させてるわけ。そういうことに対して抗議のビラまきに行ったりね。
岸田)あの時、京大のお医者さんいませんでした?
楠)Sさん。今は八尾の病院で医者やってる。
岸田)お元気なんですか?
楠)元気ですよ。中核派の…(聞き取り不能)
岸田)70年のその頃は、青い芝の会の、例の、母よ殺すなの、子殺しの事件が起こった頃ですよね。それは楠さんたちは知らなかった?
楠)あとで声明を見て知って、学習したけども直接は知らない。
岸田)今調べている途中ですが、関西青い芝の会とは直接は関係なかった?
楠)直接は関係なかった。批判的だった。なんでかというと、彼らは差別の問題とか政治の問題は関心なかった。要するに障害者の問題、CPの問題だけを中心にしてた。
岸田)ちょっと路線が違った?
楠)そう、方針が違った。
岸田)一応プッシュはしたんですか? 関西青い芝の会にも。
楠)してない。むこうも嫌ってた。楠ってのは、政治党派に踊らされてるだけだと批判されてた。
岸田)鎌谷さんですか。じゃあ、関西障害者解放委員会の時は青い芝は関係なかったんですね。じゃあ、河野のおっちゃんとかはまだ登場していない?
楠)河野さんは関西青い芝の会の影の黒幕。要するに支援部隊。青い芝は当事者だけでは運動作れないからね。河野さんとかゴリラとかね。その、関西青芝の会と、関西障害者解放委員会と、関東のいろんな障害を持つ当事者、府中療育センターとか、そのへんの話を今度すると思うけど、それが集まってできたのが全障連です。76年。だいぶ後です。
岸田)全障連ができるまでの過程がけっこう大事というか。おもしろいですね。知らないところで同じようなことが行われていた。関東では青い芝の会で横塚晃一さんが、横浜のあの事件。こっちでは関西障害者解放委員会があり、威勢の良いお兄さんが日本で初めて視覚障害者でムショ入りした。歴史的な功績を残していた。政治的な方針が変わっていくのはどのあたりからですか。
楠)71年ぐらいはそういう運動してたんだけど、僕にとって決定的だったのは中核と革マルが殺しあいを始めて、中核も革マル殲滅とかね。
岸田)中核も関西障害者解放委員会に入ってたんですか。
楠)もちろん。バックに中核がいたから。
岸田)中核さんはどんな理論かちょっとわからない。
楠)それは話したら長くなる。
岸田)革マルとか、本で読んだらフロントとかいうのもある。
楠)それは緑のヘルメット。
岸田)それから、社学同。
楠)それはブンド。
岸田)社青同…
楠)青ヘル。社会党の中の過激派。
岸田)革マル派。
楠)革マルってのは中核から分かれて、黒田寛一といって最後は全盲になったけど、有名なクロカンという人がいて、これが神様のような存在。ものすごい理論家でオウム真理教の教祖のような人で何十冊も本出してるけどね。一時革マル派ってのはものすごく強かった。
岸田)生きてるんですか?
楠)もう死んだ。そのクロカンがね。クロカン哲学といわれたくらいの人だけど、もともと革共同というのを作って。革命的共産主義者同盟。
岸田)民青とは違う?
楠)もっと過激。共産党から出た人たち。共産党から分裂して。だいたいの左翼は幹部は共産党から出た連中。みんな分裂していろんな党派ができていく。
岸田)障害者解放委員会に戻ると、中核とは分かれるんですね。
楠)革マルと中核の殺しあいが始まって、関西障害者解放委員会に対しても、中核が、革マル殲滅のスローガンあげるべきだ、そういうヘルメットを書くべきだという。僕らはそれはおかしいと。障害者差別を基本課題にしながら、もちろん狭山の問題とか他の問題にも連帯はするけど、あくまで主要な問題は障害者差別の問題だ。それを革マル殲滅とか殺し合いのようなスローガン出すのはおかしいと反対した。そこで中核派ともめて分裂した。
岸田)中核さんて、けっこう怖いんですよね。仏大に中核さんがいて、やめはった人がいて会う約束をしたんですけど、喫茶店を指定するのに表通りはだめって言われたんです。裏の路地みたいなとこにしてくれと。元中核さんで、中核さんに顔見られたらやばいって。そんなんほんとですか?
楠)その頃はね。組織が強いからね。社青同とか、社学同は過激だけれど勢力が小っちゃいからしれてるけど、中核は集会したら1000人くらい集まるから。
岸田)そしたら、そこから抜けるのは大変…
楠)殴られたり、足の1本くらい折られたり。
岸田)楠さん、よく狙われなかったですね。
楠)僕らは逆に中核が革マル殲滅問題で僕らが反対したら、自分らで関西障害者解放委員会の会合を開いてた。密かに。それを察知してあいつら勝手にやってる、許せないというので、20人くらいで殴り込みかけにいった。むこうは武装してて50人くらいいたかな。そこに僕らが行って。暴れ回って。白い杖持って、スエミツのおっさん2,3発殴ってね(笑)。今から思えばようそんなことしたなと思う。中核派の幹部何人かいたのを殴った。むこうも障害者だから一応手出したらあかんと思ってる。防衛はするけど。そうしてケンカして正式に分裂した。だから、こっちが先に仕掛けたから。
岸田)そのあたりが、東京の横塚さんらとは違うんですよね。あとの方になって学生がかかわったみたいですけど、その頃にはもうセクトはしょぼくなっていた。
楠)むしろ横塚さんたちは、元々は大仏明って、お寺の和尚さんが支援して脳性麻痺の人のグループを作りなさいと応援したから、発生、出生が違う。大佛さん自身は黒人運動、公民権運動とか影響は受けてた。Black is beautifulという思想があるでしょう。黒人こそが美しいという。だから彼らは脳性麻痺こそが美しいとか、価値観を問うとか、愛と正義を否定するとかいう青い芝の行動綱領があったでしょ。そういう既成の価値観を問い直すという告発運動から出発してるから。
岸田)出発点が違う。
楠)それが75年くらいから一緒に準備を始めたのが全障連。
岸田)このインタビューの動機は、視覚障害者は日本盲人会連合があって、視覚障害者の運動だけをひじょうに熱心にしてるし、橋本宗明さんも理論家ですよね。視覚障害者だけの運動のみ、ですよね。でも楠さんはあらゆる障害者の問題を取り上げている。これは視覚障害者としては珍しいというか。今の若い子は広く取り上げるけど、昔、楠さんの年代では珍しいと思うんです。それには、解放同盟のこととかもあるんですか。
楠)入り方がね。僕は視覚障害者の問題よりもむしろ、狭山差別問題とか、部落問題とか、在日朝鮮人の問題とか、反差別。差別される側から自己主張していこうというところに共感して始めたから。その頃そういう運動にかかわってる障害者というのはほとんどいなかった。だからどうしても、そういう形になった。その頃障害者で強かったのは脳性麻痺。だから青い芝とくっついていく。結合するというスタイルになった。
岸田)点字毎日とかでは、あまり取り上げられなかった?
楠)点字毎日というのは視覚障害者の雑誌だし、視覚障害者しか読んでないから。最近でこそ障害者の制度改革とか障害者全体の問題にはコメントするようになったけども、70年代には視覚障害者の問題しか採り上げなかったから。僕なんか完全に無視されてた。楠というのがいるらしいけど、あれは過激派だと。
岸田)過激派ブランドはありましたね。でも、そうではないので、お話しを聞いておく意味があると思ってるんですが。
楠)そこで関西障害者解放委員会というのは、中核派から分かれて、独自に障害者差別のことは問題にする。保護される存在だったり、専門家主体の全障研とは違った流れとしては、維持しようということで運動してた。独自に。
岸田)三条京阪の…
楠)そうそう、横断歩道を占拠して。
岸田)それはどういういきさつで、そうなったんですか。関西障害者解放委員会の時ですよね。
楠)障害者差別に対する告発運動をしようということで。たとえば森永ヒ素ミルク事件も、森永に対してデモして、障害者に謝罪すべきだと。ヒ素ミルクを飲ませて障害者を作って、しかも差別してるということで糾弾したり。東京のいろんな個別の障害者の運動には支援に行ったりね。
岸田)あの、国立でしたか。
楠)府中。
岸田)それは、障害者解放委員会の時ですか。
楠)もっと前からやってた。闘争はずっと続いてたから。
岸田)それは、関西障害者解放委員会にも入ってきたんですか。府中の情報が。
楠)入ってきた。連帯要請もしてきたしね。
岸田)そのあたりから東京とのつながりが出てきたんですか。
府中の闘争というのは、元々は。
楠)きっかけは、府中療育センターという施設の障害者に対して、職員が管理的な扱いをする。女性障害者の髪を洗うのがめんどくさいから切りなさいとか、一方的に本人の意志を無視して髪を切らせたとか、ひどいのは、生理なんか関係ないからというので摘出手術したりとか、ごはん食べさせないような手抜きをしたりとか、そういうことに対してニッタ兄弟とかいろんな障害者が介護を拒否する。障害者を人間として扱わないような人たちの介護を拒否するという闘いを始めたんですよ。それは青い芝とはまた別の流れだけどね。いろんな活動家の情報や影響を受けた支援もあったしね。そういう影響を受けた人が職員として入ってきたりね。職員がこんな施設のあり方はおかしいと情報提供するわな。そしたら彼らは腹立ってるから、ハンガーストライキして介護いらない、死んででも抗議するという闘いが立ち上がって、それが新聞に取り上げられる。そしたら府中療育センターは重度の人たちをもっと山奥に移してしまおうというのを打ち出してきた。
岸田)隔離。
楠)これに対して、東京都は重度の人たちを山奥へ隔離するのはおかしいというので、府中療育センター移転阻止闘争というのが始まる。一部の障害者と支援者が都庁前にテントを張って反対運動を起こした。
岸田)その時には関西障害者解放委員会は支援を出してたんですか。
楠)支援に行ってました。
岸田)いつ頃から?
楠)70年くらい。
岸田)横須賀さんとかは連絡はないけど、府中とは。
楠)府中とか、荒木裁判闘争とか。
岸田)知的障害でしたっけ。
楠)いや、脳性麻痺で、運転免許を取ろうと思って拒否される事件。本人はちゃんと練習して、その頃荒木さんはまだ1人で歩けたからね。免許取ろうとしたのに取らせてくれない。彼は仕方ないので無免許で運転して起訴されて裁判になった。その裁判の傍聴に僕らも行った。裁判所に対して抗議したりね。障害者の言葉をもっと聞けと。
岸田)荒木さんの情報はどこから入ってくるんですか。
楠)それはいろんな活動家が応援して、新聞に取り上げられて。
岸田)じゃ、やっぱり活動家とのつながりがあって、そこから東京の情報も。関西だけではなくて傍聴など行って支援を始めるようになった。そうすると全国、首都圏と関西とのつながりが出てくるわけですね。
楠)それが全障連につながる。
岸田)全障連はまた次回たっぷりとお聞かせいただくことに。
楠)その前に、中核と分かれた後、僕らはいくつかの、関西障害者解放委員会の独自の闘いをするんだけども、その1つが龍谷大学では白紙撤回を迫る闘い。あと、京阪三条封鎖の闘いをしたり。
岸田)それはけっこう大きなニュースだったんですか。
楠)まあ、新聞に取り上げられたからね。
岸田)陸橋封鎖した。
楠)障害者がそんなことするのは初めてで予想外で、びっくりして。
岸田)さっきの視覚障害者の三療業者のあれも一緒にやってたんですか。
楠)あれは運動にならなかった。当事者が立ち上がれなかったから。組合作ろうと思ったけど。
岸田)そうすると、やっぱり横塚さんとのころとかなり違いますよね。
楠)関西障かい連は片平闘争といってね。堺養護学校の非常勤で働いてた脳性麻痺の人が、一方的に首になると言われて、それに対する抗議の行動で、これは労働組合とか解放同盟とか横のつながりで連携して。
それから大原闘争といって、視覚障害者、弱視のおっちゃんが環状線の福島駅から落ちて両足を切断したことに対して、本人の不注意で落ちたんだからというので、国鉄が見舞金3000円ですまそうとしたので裁判を起こした。
岸田)その頃は組合も元気だったから、運動家とのつながりも。
楠)ある程度はね。労働組合そのものはあまり動いてないけどね。意識的な活動家ね。
■そのほかのインタビューへのリンク
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その4) 2010/11/21 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その3) 2010/11/21 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その2) 2010/10/17 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その1) 2010/10/03 聞き手:岸田典子・野崎泰伸 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2011 インタビュー 2011/10/02 聞き手:中村 雅也 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)