HOME > BOOK >

「ベ平連の反「入管体制」運動――その論理と運動の展開」

盧 恩明 2010 九州大学政治研究会『政治研究』第57号,59−93.

last update: 20110624


■盧 恩明 2010 「ベ平連の反「入管体制」運動――その論理と運動の展開」九州大学政治研究会『政治研究』第57号,59−93.


■目次

はじめに
第一章 反「入管体制」運動の背景と契機
 第一節 ベ平連の反「入管体制」運動の背景
 第二節 ベ平連の反「入管体制」運動の契機
第二章 ベ平連の入管法案反対運動
 第一節 入管法案反対運動への参加の論理
 第二節 「大村解体闘争」と入管法案反対運動の展開
第三章 ベ平連の反「入管体制」運動への発展
 第一節 反「入管体制」運動論理の深化
 第二節 反「入管体制」運動の高揚
おわりに


■引用

「1969年から71年までの反「入管体制」運動を検討するに当たって、間接的当事者であるベ平連がなぜ反「入管体制」運動にかかわるようになったのか、その背景と契機について検討する。」(62−63)

「中国の文化革命の影響と陳玉?留学生事件、李智成の服毒自殺事件などは、在日華僑青年たちの意識を大きく変えていった。まず、ハワイ大学に留学中、ベトナム北爆反対デモに参加した台湾政府から留学継続申請を棄却された陳は、帰国の途中で日本に寄り留学を要請したが法務省入管局によって拒否され強制送還された。その後、陳が台湾で死刑を宣告されたことに激怒した在日華僑青年は、1969円3月9日、華僑青年闘争委員会(以下「華青闘」)を結成した。華青闘は華僑連合や華僑総会とは違い、入管法案・外国人学校法案反対運動を「戦闘的」に展開することを決意した。
 さらに、華青闘の李智成が二大法案に反対する遺書を残して服毒自殺した事件は、華青闘にさらなる衝撃を与え、華青闘は入管法案反対運動にとどまらず、排除と差別の「入管体制」全般に対する抗議運動を展開するようになった。華青闘の反「入管体制」運動は、日本人やアメリカ人との「国際連帯・共同闘争」の形で行われた。一方、在日韓国人の反対運動とハンストから強い影響を受けた改正等と国際青年共闘は、7月1日から新宿駅西口広場にすわり込み、ハンストを繰り返した。韓青と華青闘のハンストは、在日韓国・朝鮮人と在日中国人の連帯を通じて日本社会に入管法案の重要性を訴え、日本人の入管法案反対運動を促す役割をしたと評価された。」(65−66)

「反戦と関連して「入管体制」の問題点を喚起したもう一つの事件は、韓国軍脱走兵金東希の亡命要請である。[…]67年3月、京都ベ平連を中心に作られた「京都金東希望を守る会」と「金東希・東京連絡会議」は、各地のグループと共に、348人の署名を集めて「共同声明」を出した。[…]一方、金は京都ベ平連に「大村収容所からの手紙」を送り、収容所内の人権問題について告発し、大村収容所の実態に対する関心と調査の必要性を喚起した。」(67)

「任錫均は『大村収容所』という本や講演などを通して、大村収容所の非歴史的・非人道的性格および収容所内部における激しい抵抗や弾圧を暴露した。」(68)

「入管法案上程の背景は、第一に、日韓条約以降の在日韓国・朝鮮人の処遇に関する日本政府の裁量権増大による統制強化の意図、第二に、反戦留学生・脱走兵の問題などに対し国内治安を強化する必要、第三に、日本経済のアジア進出に伴うアジア諸国からの移住者の流入を遮断する必要などであると見られる。」(68)
→法案の廃案

「反戦留学生と脱走兵金東希に対する強制送還への脅威とそれをめぐる対立は、戦後の平和と豊かさの裏に、旧植民地出身者への排除と差別を制度化した戦後「入管体制」と大村収容所が潜んでいることを日本社会に知らせた。その上、日本政府は在日外国人の政治活動をより厳しく規制する入管法案を上程し、それを同化と追放政策の強化と判断した旧植民地出身者はハンストを含んだ激しい抗議運動を展開して日本社会に入管法案の不当性と重要性を訴えた。さらに、入管法案は日本人関係者をも処罰することができるようにしたため、反戦脱走兵を支援していたベ平連と対峙するかたちとなり、その反対運動にベ平連の参加を促す直接的な契機になった。」(70)

「ベ平連の周辺で、加害者意識を日本の過去にまで拡張していく際に、脱走兵の金東希事件は重要な役割を果たした。まず、金の成長記や家族史は、戦前からの日韓関係の歴史にまでベ平連の認識の地平を広げた。さらに、金東希の「大村収容所からの手紙」が、67年12月、京都集会ティーチ・インで読まれた。このことは、大村収容所を含んだ「入管体制」の問題について、多くの人々の関心を呼び起こした。
例えば、東京ベ平連の中心人物であった鶴見俊輔は、68年7月の講演で「国家の原犯罪」を説いた。鶴見は、アメリカの黒人奴隷化と同様に、日本は「日中戦争での虐殺」と「関東大震災の直後の朝鮮人の虐殺」に「原犯罪」を持っていると主張した。そして、日本における「中国人、朝鮮人、台湾人」は「国家の原犯罪」を日本人に問う存在であり、「国家の原犯罪」を傍観することは、それに加担した「国民の犯罪性」の自覚や追及を欠いていることだと指摘したのである。このように、60年代後半からベ平連運動にかかわった人たちの間で、過去の歴史に対する加害者意識、すなわちアジアへの戦争責任についての認識が広がった。
戦争責任の認識は、さらに「在日」の旧植民地出身者に対する処遇問題につながっていった。小田は、1968年2月、階級意識が弱まった先進資本主義国家では、階級の原理ではない「人間の原理」の立場に立ってこそ、自分たちの豊かな生活が「国内のほかの被差別集団、あるいは他国の民族の犠牲の上に」成立しているということが分かると書いた。さらに、「黒人問題」を日本国内の旧植民地出身者・部落民に対する観点と結び付け、黒人は米国籍があるから差別すべきではないが、旧植民地出身者は外国人だから差別しても構わないという論理に反対した。」(71)

「このように、反戦運動からはじまった加害者意識は、金東希事件と旧植民地出身者の問題に直面して、戦争責任論と旧植民地出身者の権利擁護論へと発展していったのである。」(72)

「ベ平連は[…]反戦活動の初期から「国籍・民族の別」を超える「市民的不服従の国際連帯」を強調した。しかし、1968年までベ平連が反戦運動のために行った様々な国際的連帯活動は、アメリカ新聞への反戦広告、日米共同デモ、日米市民会議、米軍脱走兵への支援など、アメリカを対象とするものにとどまっていた。
 ベ平連が「アジア」との連帯に取り組むようになったのは、脱走兵の金東希を通して「日本の中の朝鮮」、ひいては「アジア」と再会してからである。ベ平連がはじめて「大村解体闘争デモ」を行った69年3月31日、鶴見俊輔が「私たちは、アメリカのベトナム戦争脱走援助はやってきたが、韓国の金東希さんに対しては、なにもしなかった」、「アジア人に対する差別」などと叫んだことは、それを表す発言といえるだろう。したがって、「大村解体闘争デモ」こそが、ベ平連がアジアとの連帯に積極的に取り組むことを宣言する行為だった。」(72)
→連帯とは何か?

「そこには当然、在日アジア人との連帯も含まれていた」(73)

「3月31日、大村収容所の前で57から59人のデモ隊が、最初の「大村解体闘争デモ」、つまり、日本人による最初の反「入管体制」運動を行った。このときデモ隊は、日本政府に戦争責任を問い、在日朝鮮人への抑圧中止、祖国往来の自由保障、日韓条約の廃棄、被収容者の全員釈放と収容所の「解体」を要求した。」(73)

「69年6月8日の「6・8大村収容所解体集会」[…]関西および九州地域のベ平連、全共闘、反戦青年委など約410名が参加し、大村収容所の前で「出入国管理法粉砕・大村収容所解体・全国入管事務所解体・ASPAC粉砕・沖縄闘争勝利・大学治安立法粉砕」などを要求した。」(73)

「69年の日本人による入管法案反対運動において最も特徴的なことは、国際的共同闘争組織を作って全国単位の「統一入管闘争」を展開したことである。国際的共同闘争組織としては、まず「国際青年共闘」が3月25日に結成された。そこには、日本マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟、通称ML派)、華青闘、東南アジアからの留学生、アメリカジン平和活動家などが参加した。同月28日に結成された「出入国管理法案粉砕東京実行委員会」(以下「東京入管闘」)には、チョッパリの会の呼びかけで、ベ平連、国際青年共闘、中核派などが参加した。そして6月はじめには、日中学院やその他の中国語学校、朝鮮語学校の学生を中心に「語学共闘」が発足し、アジアに対する民族責任と国際連帯を掲げ、入管法案反対運動に参加した。ベ平連も、非暴力直接行動の原理に基づき東京入管闘に参加し、これら共闘組織と共に「全国統一入管闘争」を展開した。」(74)

・1969年6月1日 東京入管闘主催 「出入国管理法案」粉砕全国統一入管闘争(第1波)

「「第二派入管闘争」の後、新宿ベ平連、中野ベ平連などが、新宿西口広場で繰り返された華青闘と国際青年共闘のハンストを支援した。」(75)

「しかし1969年までは、まだ反戦・反「安保」に比べ「入管法案阻止」は副次的な課題として扱われ、ベ平連の中でも、単に反戦と人権の観点から入管法案反対運動に参加した人も少なくなかった。」(75)

「「入管体制」を在日韓国・朝鮮人に対する差別の構造として認識し、いち早く反「入管体制」運動の必要性を強調したのは、福岡ベ平連の倉田令二郎であった。[…]大村収容所には「日本帝国主義の朝鮮人抑圧と差別の凝縮」があり、「差別と差別観念は、支配階級によって作り出されたものだ」と述べた。[…]日本の「細分化された社会的労働の最底辺に朝鮮人や部落民が」あり、在日朝鮮人の視点に立つとき、過去100年間の日本資本主義の真実の姿をあらわにする」ことができると述べた。こうした認識に立って倉田は、「差別撤廃運動」は「本土―沖縄人民―朝鮮人民の連帯」によって行われるしかないと強調した。」(76)→倉田令二郎、1969、「朝鮮人差別の基本構造――任錫均氏事件におもう」『朝日ジャーナル』1969年9月14日号、37−38

「東京ベ平連でも、在日朝鮮人・中国人に対する「救援活動」が「かわいそう的な視点」だけをもち、「民族的責任」を欠落させ、「内なる差別」の告発なしの運動に終わってはいけないと批判した。」(77)

「「第二の朝鮮戦争」が起これば、日本人が戦争に巻き込まれ再び「朝鮮」に対して加害者になるしかないという憂慮がベ平連の中に広がっていた。特に、69年11月21日の「日米共同声明」を契機にして、朝鮮半島はベトナムに続き「東アジアにおける第二の反共の重要地点」として認識され、ベ平連の憂慮はより現実味を帯びることになった。」(77)

「一方、「安保闘争」が自然消滅した1970年6月以降、全共闘もセクトも「日帝のアジア再侵略」に対する「アジア人民の国際連帯」のため、「入管体制解体闘争」を課題として掲げたが、「差別構造解体」論者から民族責任・民族差別への認識が足りないと批判された。
 このような対立と摩擦が頂点に達したのが、「7・7盧溝橋33周年、日帝のアジア再侵略阻止人民大集会」で行われた華青闘の告発であった。この華青闘の「7・7告発」は「新左翼的ナショナリズム」に対する批判で、セクトには「抑圧民族としての日本人」という歴史性に対する認識と実践が欠けていると厳しく批判した。華青闘による民族責任・民族差別への告発は、若い活動家たちに強烈な衝撃を与えた。」(78)

「日本人である「自己」が戦争責任と民族差別問題に対する反省を通じて変化することによって、自らが反「入管体制」運動の「主体」かつ「対象」になってこそ連帯運動としての反「入管体制」運動が可能であると考えたのである。したがってベ平連の入管活動家たちは「自己」の変革はもちろん市民の認識変化をも追及する反「入管体制」運動を展開していった。ベ平連は同時に内部から運動の論理を深化させ、中央ではなく地域での反「入管体制」運動を展開し、一層実質的・具体的な「アジアとの連帯」をも成し遂げようとした。」(84)


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110634
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 「雑誌」
TOP HOME (http://www.arsvi.com)