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1950年代以降の日本と韓国におけるハンセン病施策の変遷

吉田 幸恵 2010/11/26
第1回障害学国際研究セミナー
主催:韓国障害学研究会・立命館大学生存学研究センター 於:韓国・ソウル市


 日本におけるハンセン病者(ハンセン人)への差別的な施策の最初のものは1907年に公布された「癩予防ニ関スル件」である。これは、当時全国を放浪していた、いわゆる「浮浪らい」と呼ばれたひとびとを強制的に隔離収容するための法律である。この法律をもとに実際には1909年頃から強制隔離は始まった。
一方、韓国では1963年にいわゆる予防法は廃止され、「定着村」はの移住がはじまった。ひとびとはそこで養豚や養鶏を営み、早くから「外での生活」を送っていた。まだ日本では強制隔離が行われていた時代に、だ。ここでは、日本と韓国のハンセン病施策変遷を整理する。

日本では飛鳥時代から奈良時代にかけ、仏教の影響を受け病者や貧者に対する公的な慈善活動が盛んであり、らい患者もその対象にあった。しかし、その後朝廷や寺院の勢力が衰退するとともに、このような慈善活動は低調になっていく。
16世紀に入ると、キリシタン宣教師のなかに、らい患者救済に熱心な人が現れその影響を受けて、キリシタン進行をもつ大名などによって、収容施設の設立などの救済活動がおこなわれた。
しかしその動きも江戸幕府のキリシタン禁制とともに止まった。江戸時代の厳しい封建制度の下で一部の患者たちは特定の居住地に閉じ込められ、不衛生な環境のなかで家族内感染を繰り返した。ここから「らいは遺伝病である」という誤認がはじまったと考えられる。1907年(明治40年)にハンセン病に関する「癩予防ニ関スル法律」が公布され、その後1931年(昭和6年)「癩予防法」改正制定。数回の改正を経て1953年(昭和28年)に「らい予防法」になり、療養所中心の医療が行われていた。この「らい予防法」には強制入所や、外出制限、秩序維持のための所長の権限などが規定されていた。医師が患者を診察した際に、感染させるおそれがある患者は療養所入所となり、そこで生涯を終えることが多かった。
■年表

◇日本

1951 「全患協」結成※入所者の全国組織
    ―「癩予防法」廃止運動を行う―

1953 「らい予防法」改正
     ・入所者の「解放運動」が盛んにおこなわれるようになる
     【ふたつの大きな要因】
     1:第二次世界大戦敗戦後の日本の民主化によって、患者の人権意識が著しく高揚
     2:治療薬(プロミン)の登場

1963 第1回らい予防法改正委員会開催

   全患協、らい予防法即時改正要請書を厚生大臣に提出

1964 国立らい療養所長連盟結成

   光田健輔死去

―医師の光田は、初代長島愛生園の園長である。ハンセン病患者の絶対隔離政策を推し進めた人物で当時は「救癩の父」とまで呼ばれる権力者であった。全患協がいくら要望しても隔離政策をやめようとはしなかった。それは衆議院議会答弁でもわかる。―

1977 全国退所者協議会結成

1979 「らい病」の呼称が正式に「ハンセン病」に改称される
―現在の日本では「癩」「らい」という言葉は差別的な意味合いを含むので「ハンセン病」に統一されている。―

1987 らい予防法問題第1回全国委員会開催

1991 らい予防法改正要請書を厚生大臣に提出

1992 第1回ハンセン病予防事業対策調査検討委員会開催

1995 厚生省(現厚生労働省)が「らい予防法見直し検討会」を設置

1996 らい予防法廃止に関する法律案可決 らい予防法廃止

―すべての入所者が、その対象者が存在する限り医療・福士・生活に対する施策を維持すること、在宅患者に対しても従来通り国の費用による援護がなされることを規定―

1998 熊本地方裁判所に国家賠償請求訴訟を提訴(原告・星塚敬愛園、菊地恵楓園入所    者)

―星塚敬愛園(鹿児島)と菊地恵楓園(熊本)の入所者13名が国に対して謝罪とひとりあたり1億1500万円の賠償請求。弁護団は当初137名であった。この通称「熊本裁判」に続くように多磨全生園(東京)と栗生楽泉園(群馬)の入所者が東京地裁に、邑久光明園(岡山)と長島愛生園(岡山)の入所者が岡山地裁の訴訟をおこしていく。最終的に原告団は1702名まで膨れ上がり、この3つの訴訟は原告側の勝訴となった。―

2001 国賠訴訟原告側全面勝訴

2004 社会生活一時金制度、退所者給与金制度開始


◇韓国

1954 伝染病予防法制定 らい患者の隔離収容を規定した法律

1960 第2共和国成立

1961 軍事クーデタ

  ・「定着村」事業開始 このから「社会」に出て生活を営む人たちが出てきた

1963 第3共和国成立(朴正煕政権)

  ・伝染病予防法改正(事実上、らい患者の隔離収容法がなくなる)

1966 癩移動診療班増設

1971 「定着村」に子豚を分配

1973 朴大統領が韓国協などの会費募金を中止させ、国費・地方費により補助することを   内閣に指示

―朴大統領はハンセン病施策に熱心だったと言われる。しかしこの間も患者の移住反対デモや殺人などの差別事件は発生している―

1983 伝染病予防法改定(国家補助の法的根拠を明示)

*韓国では現在国立病院は小鹿島をはじめ4ヶ所となっている。強制隔離はなくなったものの、韓国でも元患者への偏見は強く、なかなか一般社会の中にスムーズに受け入れられなかったという状況もあった。1946年頃から自立生活を営む人たちが増え始め、社会復帰の施策として1961年から「定着村」事業がはじまった。
 興味深いのは、第二次世界大戦が終わった1945年から韓国では、ハンセン病患者たちの自立生活がすすめられてきたのに対し、日本では逆に締め付けが厳しくなっていったことである。今後報告者は韓国定着村の現状を継続して調査する予定である。

■まとめ
度重なる予防法改正は何を示しているのか。そこには予防法は差別法であったと同時にハンセン人たちの生活保障法であったという側面もある。実際、ハンセン病違憲国賠訴訟の原告団は当初13名だった。その他大勢の当事者たちは、報告者の聞き取りによると、遠巻きに見ていたという。それはこの法にぶら下がり生きていくしかなかったという現実があったからである。
 国費で全ての生活が賄われ、「黙っていれば」静かに療養所内で暮らすことができる、国を相手に裁判を起こせばもしかするとここから追い出されるかもしれない、という不安がつきまとっていたからである。
 すでに高齢となった入所者たちは2004年の「社会生活一時金制度」「退所者給与金制度」を利用し、療養所から出たくても出られない状況にある。韓国では1960年代からハンセン病者たちの外での生活が保障されていった。日本でも同じことが行われていれば、この現状は変わっていたかもしれない。
 ハンセン病者の多くが現在も生活する療養所は(国立13、私立2)はどこもある程度整備されており、脱走を防ぐための高い壁も今は存在しない。ここを訪れる人は皆口を揃えて「良い所ですね、自分もここに住みたいくらいだ」(杉野 2009)と言う。
 現在はそのような場所であっても約90年もの間、隔離収容を規定していた「らい予防法」は人権を無視した法律であったことは確かである。そしてそれに「頼って」生きていかなければならない人も多く、今後の社会復帰支援を試みるだけでは、真の意味での「解放」とはならない現実がある。



*作成:吉田幸恵
UP: 20101209 REV:
全文掲載  ◇グローバルCOE「生存学」創成拠点 国際プログラム(2010年秋期)  ◇ハンセン病 leprosy  ◇障害学(Disability Studies) 
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