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「自己犠牲の死 称揚するな――「いのちの教育」がはらむ矛盾」

大谷 いづみ 20100409
『京都新聞』朝刊:6
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last update:20100524


「自己犠牲の死 称揚するな――「いのちの教育」がはらむ矛盾」

 昨秋、勤務先で「いのちの教育」なる講義を開講した。講座の企ては「いのちの教育」を手放しで推進することではなく、「いのちの教育」が流行する社会的文脈や、教室で子どもたちに語られる「いのち」のありようの批判的解析であるから、話はちょっとややこしい。
 子どもの自殺や殺人がメディアで報じられるたびに「死」や「いのち」を学ぶ教育の必要が叫ばれてきたが、昨今では臓器移植法や終末期医療への問題と重ねて、死生観教育への期待の声が医療界のみならず経済界からさえ聞こえてくる。だからこそ、そこで描かれている死生のイメージ、育成を期待されている死生観がどのようなものかは吟味されてしかるべきであろう。
 たとえば、愛の贈り物として提供された臓器で健康を取り戻したというお話をクリスマスシーズンの道徳の時間に子どもたちに聞かせたなどという報告がある。だがいったい、長期脳死児・者の存在はこの「お話」のどこにどう位置するのだろう。死生観教育の提唱者が日本の伝統的死生観としてしばしば引用する「檜山節考」や「切腹」の作法も、いわゆる「死を学ぶ教育」がねらいとして挙げる「死の受容と自殺予防」を考えると奇妙である。
 少なからぬ学生が、先のねらいが前提とする天命として受容されるべき「よき死」と、予防されるべき自殺=「悪しき死」の区別がはらむ矛盾を直観的に指摘する。それは、年間自殺者が3万人を超すかたわらで、本人の意思に基づく「尊厳死」法制化が推進されていることの矛盾に通底するものである。
 しかしながら、自己都合によって自ら(のみならず身近な他者を悲嘆にさらして)遂行する自殺を「悪しき死」として排除しつつ、家族や社会の負担となることをおもんばかって自己犠牲の死を選ぶことを「尊厳あるよき死」として弁別しているのだと考えれば、自殺予防と死の受容の共存は、何の矛盾もない、実によくできたわかりやすい話である。「いのちの教育」は、提唱者が自覚するとしないとにかかわらず、実は社会防衛にも通じる発想を「愛」や「尊厳」といったマジックワードで包み込んでいるのである。
 大学生ら若者と接して感じるのは、死へのハードルが年々低くなっていることだ。終末期医療をめぐって語られる「進みすぎた医療技術によって強制される生」を、自らの生きづらさと重ね合わせている節も見受けられる。「死を見つめて生の大切さを知る」というスローガンの内実も、そんな視点からあらためて吟味される必要がある。
 だからここで、希望の実例を示そう。京都には、ALSという最重度の難病で四肢麻痺となり気管切開しながら、文字盤で意思疎通し、在宅独居で生き抜く人たちがいる。それは「あんなふうになってまで」と形容されるような生を豊饒に生き抜いている姿である。かれらの生は献身的な家族愛に支えられているわけではなく、患者本人の強さに依るものでもない。私たちは誰もが迷ったり揺らいだりする弱い存在である。
 同時に、誰もが自分のためだけでなく、誰かの何かの役に立ちたいと願っている。そんな素朴な願いを「死」をもって成就するようなことを教室の場で称揚してはならない。役に立たない、役に立てなくなった者を排除する社会は、役に立つ者を使い捨てにする社会である。それを、私たちはいま、イヤというほど目の当たりにしているはずだ。

*作成:
UP:20100407 REV:0521 0524
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