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太田裕美“葉桜のハイウェイ”についてのノート

村上 潔 2016/04/10

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last update: 20160410


 以下の文章は、大衆文化・昭和歌謡に造詣の深い近しいかたが、とある場で、「戦後大衆歌謡がほとんど桜を歌わなかったのは、@戦争/ファシズムと桜とのつながりに対する忌避、A詩作における桜の扱いの難しさ(陳腐さを回避しえない)、がその理由としてあり、加えて、Bかつては人が花をきちんと見ていた、あるいは接していた、ということでもある」と指摘されていた(左の文章は村上が大意を編集したもの)のに対して村上が応答した文章に、加筆修正を施したものです。
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 そういう意味では、太田裕美“葉桜のハイウェイ”(1983)は興味深い題材だと思います。主人公は(葉)桜そのものは見ず、「空」――しかも「みかん晴れ」という、いわゆる桜の「風情/抒情」とは(満開状態の桜と葉桜とではその「風情/抒情」の性質は異なりますが、しかしいずれに対しても)ミスマッチな状態な空――を見ている。そして、過去に恋愛中だった「あなた」と「ふたりで」見た桜も、「ガラス越し」(おそらく車の中から)という、間接的なアプローチです。さらに、(失恋した状態の)いま考えることは、「早く帰っておフロに入ろう」、「角のお店でシャンプーかわなきゃ」という、非常にミクロな(自分ひとりの)日常生活のこと。つまり、徹底して桜は「外部化」されています。
 そのうえで、この曲がおもしろいのは、最後に、この道=「ハイウェイ」を走ることで「だんだん心が花になる」こと。つまり、自分の外部にある(葉)桜をめでて自分を慰めるのではなく、自分のなかに「花」(「桜」としないところは注目すべき)を生み出すのです。ひとことでいって、とても自立的な世界観です。とはいえこれは人間中心主義であるとか、形而上的であるというわけではありません。「自然」との関係が重要な要素としてあるのです。彼女の「心が花になる」には、その前段階として、心が「風」・「空」になるというプロセスがあります。それを経て「花」になる。さらに「季節もちょうど変わり頃」というタイミングも要因として機能します。よって、外の(大きなレベルの)自然・環境を吸収することで自分のなかに「花」という小さな自然を根付かせているのです。
 ここからは、「(葉)桜」という、人間の(手垢のついた)抒情性に縛られるファクターから距離をとり、より大きな自然の秩序に自分を晒すことで、自分のなかに(いかなる社会の規定からも自由な)「花」=自立した精神性を獲得する、というプロセスが読み取れます。そしてそれは、いうまでもなく(自分自身によって)肯定・祝福されるプロセスとしてあります。ここで大事なのは、主人公が女性であることです。仕事で成功したいとか、でかいことを成し遂げたいという男性的な野望と正反対の、「早く帰っておフロに入ろう」、「角のお店でシャンプーかわなきゃ」というミクロな生活(を大事にする)感覚。そのミクロな生活感覚が、マクロな自然・環境・季節と呼応する条件として機能しています。だからこの曲は女性が主人公である必然性がある。
 この曲の主人公の自立性には、1980年代の「女性の自立」志向という社会的背景があると思います。しかしそれは、「職場に進出して自分の地位をつかむ/上げる」といった(社会的な)「自立」のありかたではなく、ミクロな生活(感覚)を大事にしつつ自然・環境・季節と寄り添う意識・適応性を保持・発揮することで(自然に)成し遂げられる「自立」なのです。ある意味では、エコフェミニズム的な設定といえましょう。
 この曲の作詞の「山本みき子」は、詩人として有名な銀色夏生さんです。彼女の懐の深い世界観が垣間見える一例として、この曲を位置づけることができるでしょう。また、この曲は、太田裕美さんが、新しい自分なりの表現を模索していた時期のものでもあります。社会的な成功・評価(=「桜」)ではなく、人からなんと言われようと自分が納得できる音楽表現(=「花」)を追求し、もがき、それを獲得しつつあった裕美さんの当時の状況が反映されているようにも思え、そうした意味でも感慨深く・愛おしい曲です。


*作成:村上 潔
UP: 20160410 REV:
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