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『極私的エロス・恋歌1974』とリブについてのメモ

村上 潔 2016/04/30

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last update: 20160502

◆2016/04/29 「原一男監督と考える 70年代の生の軌跡――障害・リブ・沖縄 〜初期ドキュメンタリー作品上映とトーク〜」
 (13:00〜18:30|於:立命館大学朱雀キャンパス5F大ホール)


私が上映企画の全体討論で話したこと+α:同時代のリブたちは主にタケさんへの憧れから『極私的〜』を観たいと強く思った。自主上映会を開いたりもする。しかしリブたちによる本作への反応は、戸惑い・違和感・失望感の表明が多かった(→[こちら]を参照)。それにはいくつかの理由が考えられる。

@観る側のリブたちには、「産む自由」を追求する意識が(「産まない自由」の問題化・闘争課題化に比べて)全体的に低かったこと。Aリブを代表する存在には(特に男性に対して)「甘さ・弱さ」を見せてほしくないという期待が強かったこと。B映画では女たちの共同実践の側面が(個の関係性の過剰な強調の反面)ほとんど描かれていなかったこと。

いずれにせよ、映画にまとめられたタケさんの言動と、リブの観客が想定する「あるべきリブ運動(家)の姿」とが、合致していなかったということだ。しかしそれは翻って、@自らの身体/性に向き合う覚悟、A自分と子や男や他の女たちとの関係性の再確認を、リブたちに突きつけた効果はもっていたのではないか。

この映画中のタケさんにもどかしい思いを感じたリブたちは、否応なく、己の運動理念と生身の身体/子産み状況との距離を測ることになるだろう。また、自らが、男や子や他の女たちからどれだけ「自立」できているのかを自問自答するだろう。それは当然厳しい作業となる。

結局、その自らの見つめ直しに耐え、「それでも自分は」と、地域の女たちと運動を構築していったリブたちは、おそらく各地で息の長い運動を続けたはずだ。これはタケさんが反面教師ということではなく、いったん解体されるべき前衛アイコンとして機能したということだろう。

そうした意味で(こそ)この映画は、リブ運動のなかで「機能した」と位置づけられるのではないか。そして、タケさんの短い「リブ活動家」歴も、(カリスマ化とは逆の)そうした視点を入れて評価されていく必要があるのだろう。また、彼女の「エゴ」に「リブ」はどう応答しえたのか/するべきだったのか、という問いも(いまなお)重要なはずだ。

それに関しては、まず田中美津・国沢静子による同時代の反応が確認できる。それは[こちらのページ]で紹介している。それ以外に、各地で「産む自由」の実践を行なっていた女たちの(ことば以外のかたちも含めた)「応答」をまとめ対比させていく必要がある。



【関連】
◇村上潔 2016/04/29 「[報告]ウーマンリブと「性」――産む自由の追求(との距離)」

【参考】
『極私的エロス・恋歌1974』


*作成:村上 潔
UP: 20160430 REV: 20160502
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