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「女の時間」をたぐり寄せるために――舞台公演「おしもはん」レビュー

村上 潔 2015/11/27

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last update: 20151127


 「おしもはん」は、「からだ」の中でも特に「しも」の問題に焦点を当て、「からだ」と「コミュニケーション」についての表現を試みた舞台公演である。ここでは、(身体性の問題はひとまず措き)「時間」をキーワードに、「おしもはん」で提示された世界を大まかに読み解いてみたい。
 「おしもはん」の舞台上には、主に3つの時間が設定されている。
@不特定で普遍的な(社会的位置づけをもつ)人間の一生
A生物が胚胎し、産み、生まれた命が育まれる過程
B女の家事ならびに生業の時間
 これらが並存的に、また断続的・循環的に進んでいく。3つは基本的には等価値に位置づけられるが、Bは基本的に「後景」として比較的長い時間提示される。
 Bには@・Aのようなわかりやすい、エンターテイメントになりやすい側面はない。いちいち解説されることはなく、ただたんたんと、平板な時間の流れが描かれる。
 生殖(A)と再生産(B)では、やはり前者のほうが華々しい。感動がある。対して後者は退屈である。
 @は(明示されないが)少なくとも生産に携わることが前提となる人間の姿だ。よって語るだけで(そしてそれが大きな男の声であるのでなおさら)ドラマティックな「人生」のイメージがある程度担保される。
 ライトが当たらず、自己主張することもなく、ただ居続ける/働き続ける存在が、Bの時間の住人たち(全員が女)だ。しかしこの存在こそが、この舞台の秩序を大きく構成している。
 @を体現する存在(男)は、ドラマティックに登場し、ドラマティックに去っていく。つまり、@の時間は「終わる」。
 AとBの時間は終わらない。Bの時間については、「始まり」さえ明示されない。なぜなら、Bの時間を体現する存在だけは、公演が始まる前からその場所(舞台のいちばん後方)にいて、(自然な素振りで)その働きをしているのである。
 実際の舞台上で、いちばん長い(実際の)時間を保有していたのは、Bである。始まる前からあり、終わった後もおそらくあり続けるはずの時間の枠だ。
 @とAはほぼ同じ(実際の)時間を保有するが、先述のとおり、@は(ストーリー上は)公演終了を待たずに「終わる」。したがって、非常に限定的な位置づけである。ある意味では「刹那的」と言ってもよい扱いである。
 Aは概念的・間接的・婉曲的に示される時間である。それはたしかに本質的にそのようにしか提示できない時間であるから、それはもっともな示しかたである。これは基本的に終わることが想定できないような、(実際の時間秩序から考えれば)まったく次元の違う時間の枠である。言うまでもないことがだが、人間の認識からすれば数秒の時間であっても、生殖の場の「内側」で流れている時間は、ある意味では悠久ともいえるような茫漠たる規模の時間である。俗な言い回しをすれば、「一瞬でもあり永遠でもある」時間だ。そのような両義的で、これも俗な言い回しをするなら「神秘的」な時間を、Bと突き合わせるすることで何らかの意味を導き出そうとしているのが、この舞台だ。
 共通するものはなにか。それは「母」という存在になるだろう。生命を育む母。生まれた子をケアする母。子を育てるために家事や生業をする母。
 舞台上では、「母性」が強調されることはない。と同時に、「母性」に疑義を呈することもなされない。母性の存在は、(肯定的にであれ否定的にであれ)語るまでもない自然な前提として設定されている。それは、おそらく社会的に称揚されたり批判されたりする母性とは異なる、もっと根源的に生命にコミットする要素としての母性の存在を示そうという狙いに基づくのだろう。
 そこで問題になるのがBだ。Bの時間の存在に対しては、観る側はどうしても「社会的な」母性を投影してしまうことが予想される。それを避けるためには、Aというまったく次元が違う時間を同時に示す必要があった。これらが対比的であると同時に並存しているということは、期待され想定される社会的な母性を、より自然の・生物的な文脈に引き戻していこうという狙いの表れだろう(もちろん言うまでもなく、自然な母性、生物的な母性、などというイメージ自体も「社会的」なものである。それはそれとして指摘する必要はあるが、その指摘だけではあまり意味がないので、先に進む)。
 こうして、人間の社会の「おかあさん」と、自然界の「母なるもの」が等価値に位置づけられ、並存することで、それぞれの「神話」が後退させられる。よって、ここでの母の総体的なイメージはどこかドライなものになる。とはいえ、それは「顔が見えない/温かみを感じない」ということではない。むしろ、脱神話化するからこそ、ひとりひとりの母としての/女としての顔と体温が身近に感じてくるのだ。おそらく観客は、ライトを浴びるひとりひとりの顔と動きを、親密さをもって受け取っていただろう。また、反面、暗くて顔が見えにくい場所にいたBの女たちにこそ、自分の姿を投影した人もいるだろう。どこかに「自分と同じ」母の/女の姿を見つけ、安心した観客は少なくないはずだ。
 時間と性の話に戻っていこう。舞台上で時間を左右できる存在として、音楽家が挙げられる。この舞台には音楽家が二人登場する。一人は女性、一人は男性。女性の音楽家はたびたび前面に登場し、ライトを浴び、その歌で物語を牽引する役割を果たす。かたや男性の音楽家は、舞台奥(Bの女たちの手前)に位置し、動かず、音も控えめにしか出さない。時間の流れを切り裂くのではなく、引っ張るのでもなく、ただ、寄り添う存在だ。またこの舞台にはもう一人、男性の芸術家が登場する。彼は舞台奥でライブペインティングを行なっている。舞台上で起こっていることには何も関係せず、ただひたすら紙に向き合っている。彼の描いたものが舞台に影響を及ぼすこともない。彼には舞台上の設定とはまた別の時間が流れている。その時間は、ひたすらたんたんと進んでいく、周縁的な時間である(始まりと終わりが不明瞭である点では、Bに近い時間の流れである)。
 生と性を取り巻く物語のなかで、男たちの存在は中心にはいない。唯一舞台上で目立つ男性である、@の時間を体現しAの時間を誘導する人物も、設定としては狂言回し的な位置づけであり、また先述のように、最終的には退場していく。したがって、あくまでに舞台を動かす中心的主体ではない。
 少なくともいえることは、男たちはA・Bの時間には、直接的に関与できないことだ。それは排除されているというよりも、あらかじめ(当の男たちにとっても)埒外のこととして認識されているということだろう。そして、この舞台では、そのことを問題化(批判)するのではなく、ただそのことを象徴的に、ドライに、可視化している。そこでは、A・B=生殖と再生産を、女の特権だとアピールしているわけではない。しかし、その「よろこび」は(先述のとおり、こちらもドライに)示している。そして、その「よろこび」ゆえにつながれる女の共同性も描き出している。オプティミスティックではあるが、無理のある全体的ユートピア主義ではない。あくまで部分的・断片的・間接的なつながりの世界である。しかし、そうであるがゆえに愛おしい世界でもある。
 描きかたの問題でいえば、「それにしても、もう少し“きれいに”それぞれの時間を描き分けることはできたはずだ」という批評はありえる。もちろんできたであろうと思う。断片をそれらしくつなぎ合わせることもできたと思う。受け手にとっては、そうしてくれたほうがよかったかもしれない。しかし、「断片的にしか/断片としてしか語れないもの」はたしかに存在する。むしろそのことのリアリティを示す意味では、整理してつないだほうがよかったとは言い切れない。
 @〜Bの時間は同時にあり、つながっているのだということ、そして、3つそれぞれの時間は別の秩序で存在するのだということ。そのどちらもを理解してもらうには、時に並存し、時に錯綜し、時に入れ替わり、時に喪失する、そのようなぎこちない連続体の流れを作り出すしかないのかもしれない。もしこうした構成に「介入」し、すべてを整序する何者かが現れたとしたら、それは「権力」と呼べるものだろう。その権力はおそらく、@の「生産的な」ドラマは重視しても、A・Bの時間・存在の価値は軽視するだろう。もちろん、これまでも強調してきたとおり、AとBが同じスケールで並存し、一見脈絡のない両者の相関性を垣間見せながら舞台が展開するというそのことこそが、この舞台の要点であることを考えれば、その状況は――「女の時間」の否定という――大きな危機を孕むものとなる。
 幸い、この舞台にはそうした権力装置は存在しない。それはただそれだけで、とても意義あることである。そのことを確認すると同時に、それが「女たち」を中心とした世界であるからこそ実現している、と想定するほかないことに(過剰な意味づけは不要だが)注意する必要がある。
 アプリオリに設定された母性的ユートピアではなく、リアルな生殖と再生産の実感から、女たちの共同性を追求していく。「おしもはん」はそうした試みの端緒である。ここで示された断片は無数にあるヴァリエーションの一部、ということになろうが、ただ、冒頭で設定した3つの時間の枠というのは、おそらく普遍的なものだろう。どこに力点を置くのかによって様々な描きかたが可能になるがゆえに、「おしもはん」の世界は拡張可能性を大いに保持している。生殖と再生産を、隠された/神話化された領域から自分たちの手元に引き戻すために、様々な立場の者がこのアプローチの輪に加われば、より多様な展開が期待できるだろう。それはアート/身体表現/ケア/育児/性教育/フェミニズム/クィア(さらに付け加えるなら、セックスワーク)など、様々な領域の相互関係を変化させていくきっかけになるはずである。長い時間はかかると思うし、目に見えづらい変化になるだろうが、それはきっと意味のある変化である。


◆舞台公演「おしもはん――ひとがうまれてからしぬまでのおまつり」
2015年11月24日(火)19:00〜/11月25日(水)14:00〜
於:京都芸術センター フリースペース
構成・演出:伴戸千雅子
https://www.facebook.com/oshimohan/


*作成:村上 潔
UP: 20151127 REV:
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