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「書評 『プシコ ナウティカ』イタリア精神医療の人類学 松嶋 健 世界思想社 2014」

安原 荘一 20150710 「精神医療」79,特集 自閉症スペクトラムの〈支援〉と〈治療〉を問う,pp.116−120.

http://www.hihyosya.co.jp/ISBN978-4-8265-0623-6.html

last update: 20150716
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書評 『プシコ ナウティカ』 イタリア精神医療の人類学 松嶋 健 世界思想社 2014
安原 荘一(立命館大学 客員協力研究員)


 本著のタイトル『プシコ ナウティカ』とは著者によれば「魂の航海(術」」という意味である。イタリアの精神医療全波の改革に関しては、例えばジャーナリスト大熊一夫氏による『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』,岩波書店 2009等優れた紹介が出版されておりお読みになられた方も多いかと思う。医療人類学者である松嶋氏は現代思想的な背景をおさえて、7年間にもわたる長期間のフィールドワークを行って本著を書き上げた。
 従来混乱の原因ともなってきた「精神と身体」「抑圧と自由」「正常と病」等々の様々な二項対立図式が理論的にも実証的にも大変丁寧に論じられているのは本著の特徴の一つである。また「地域」等人によって今まで様々な使われ方をされてきていた概念もイタリアの文脈に沿って具体的に論じられている。本稿では著者が主張する論点をまずは理論的な部分から紹介していきたい。

1.病気を括弧に入れるということ。

 (精神の)「病気」という概念それ自体が「社会的な産物」でもあるという論点は、医療人類学者のみならず当事者活動家や一部の専門家が社会的観点から「精神病」を論じる際に、昔から数多くの人々が主張してきた議論である。「精神疾患の原因は社会にある」、あるいは「精神病」と言うカテゴリー自体が近代精神医学という「統治の技術」の産物であるといった主張である。では括弧に入れて何を観るのが具体的に重要なのだろうか?著者は「精神病」とは当事者にとって「病」というよりは「人生の危機」であると説く。この「人生の危機」をのりきっていくことをどうやって支えていくのかが精神保健従事者の一番大切な役割である。そして「人生の危機」というのは誰にでも起きうることなのだから、単に精神障害当事者や精神医療/保健従事者のみならず現代を生きる多くの人にとって切実かつ根源的な問いだと私は思う。これらの問いに生涯をかけて取り組んだバザーリアやの取組を具体的に詳細に紹介していくことから本著は始まる。

2.イタリア「地域」精神医療/精神保健について―「地域」とは何か

 1978年イタリアが精神病院を180号法(いわゆるバザーリア法)によって精神病院を閉鎖する方針を国家として決定したことはご存知の方も多いだろう。その具体的な歴史やプロセスは本著の前半部分において大変詳しく記述されている。この点に関心がある方はそれだけでも本著を一読するに値するであろう。特にイタリアの「地域精神保健」に関しては詳細な紹介やその理論的思想的背景がこれまでなされてこなかったのでご一読を強くお勧めしたい。
 ちなみに本著によれば有名なケネディ演説をきっかけに「脱施設化」が進んだといわれるアメリカの地域精神保健体制下では、いわゆる「回転ドア」現象(退院:入院の繰り返し)が起きていたこと、さらには地域から「患者」の精神病院収容の機能さえも果たしていること等もバザーリアは知っていた。ただ単に精神病院を「改革」「閉鎖」するだけではなく、「社会」や「地域」をも変えていかなければ意味がない、精神病院だけの「改革」では、たとえ、それが精神病院の全面的廃止であろうと、地域精神保健体制や地域が代わりの機能を果たすであろうといったバザーリアの論点は今まで充分に日本に紹介されてこなかったと思う。また「解放の道具」は「抑圧の道具」に容易に転じうることも彼は理解していたことも是非付け加えておきたい。
 重要なのは絶えざる闘争=運動による関係の「真正の水平性(レヴィ・ストロース)」の実現であり、〈主体性〉の奪還である。そしてそれは「地域」によって初めて可能であるという点が本著の基本的な論点である。「五千の人々が作る社会は、五百の人々の作る社会と同じではない(同)」。
 これは端的に規模の問題であると同時に質的な問題でもある。例えば国家等、規模が大きい単位の社会においては、マスメディアや法や選挙制度といった「媒体」に媒介されたコミュニケーション(「障害者」「高齢者」といった一般的なカテゴリーと、「危険」や「弱者」といった極度に単純化されたイメージとの結合)に基づいて政治が行われるのに対して、規模の小さな社会においては集会等具体的な「個々人の顔」見える関係での直接的なコミュニケーションに基づき、個人が直接参加した形での政治が行われるのである。著者は観客との複雑なやり取りや様々な出来事が生じる音楽のライブ演奏とその複雑性を大幅に縮減して制作されるCDの音楽とを対比させてその違いを説明する。

3.「強い主体」と「弱い主体」

 「強い主体」というのは近代国家の成立と同時に誕生した、「市民権」を持ち「個」として直接に「国家」と関係するような「主体」である。簡単にまとめてしまうと「(強い)主体」というのは、学校や家族や教会などの様々な(国家)イデオオギー装置の産物であり、「生権力―(かつての権力が人々を死の中に投棄することによって作動していたのに対して、近代国家は様々な統治のテクノロジーを通して人々を生きさせることによって統治する)」(フーコー)のテクノロジーによって作られた「主体」である。いわゆる「福祉国家体制」も「生権力論」の観点から批判的考察の対象となる。
 さて「強い主体」と言うのは「個」の「万能感(全能妄想)」に依拠している場合が多く、それは、結果的にしばしば「鬱」状態に陥る事例が多いと言う。またこの「万能感(全能妄想)」に取りつかれている「強い主体」は、決して「病者」だけではないという本著の指摘は、昨今の政治家の言動等を見ていてもうなずける点だと思う。
 さて本著によれば「集合的主体性」として「存在」する「弱い主体」という考え方こそが近代の産物である「国家」と「強い主体」にこうしていくうえで極めて重要となる。そこにおいて初めて〈主体性〉と「自由」は病者に「返還」される。その際心理学でいうところの〈効力感〉(自分が誰かの役に立っているー他者やモノゴトに対して影響を与えているという感覚)が極めて重要であるという点は本著5章でのイタリアでの有機農法農場でブドウ摘み作業に従事する当事者への聞き取り調査等も含め大変興味深い。日本で作業療法にかかわっている方等にも参考になるであろう。他にも「実験演劇」(演劇療法―セラピーではない!)や「カーサ・ファミリア」(日本で言うところのグループホームに近いが、理念や実情は全く違うようである)、難民歴を持った当事者とのインタビュー等本著には大変興味深いエピソードが数多く収録されているが、その紹介は限られた字数では不可能でもあるので、実際に読まれた方のお楽しみということにさせて頂きたい。

4.「弱い主体」と「集合的主体性」と「地域」―イタリアと日本の対比

 まず、最初に誤解がないように私自身の考えを述べておくと、「自動車の運転免許資格問題」や「生活保護の各種扶助の切り下げ問題」等直接に当事者自身の利益に関わるような問題や多くの入院体験者が実際に直接見聞き、体験したはずの長期入院患者の問題や強制入院等に対してあまりにも多くの精神障害当事者が関心もなければ政治的にも無言であるような現代日本社会において「弱い主体」と言う誤解を招きやすいコンセプトを積極的に紹介することには、個人的には精神的抵抗がある。ましてこういうご時世である。「強い主体」「弱い主体」の問題以前に「たくましい主体」というものが日本ではまず現在必要とされていると私は主張したい。
 「地域」も日本の場合は極度に中央集権化された現在、その画一性、同質性が強まっており、地域コミュニティーと言うのも政府の掛け声とは裏腹にその「実質」は、行政の下請け機関化がますます進んで行くようさえ筆者には感じられる。
 実際著者の松嶋氏もあくまでイタリアの文脈に沿って論を進めており、直接日本の精神医療・保険体制については本著では一切触れられていない。イタリアの精神医療・保健改革に関しては「当事者(運動)の声が聞こえてこない」「先取りされた医療モデル改革ではないか?」と言った批判や疑問も筆者は耳にする。現在ではイタリアでも欧米流の当事者運動モデルも導入されつつあり、イタリアの精神医療:福祉体制も当事者運動もまだまだ変わっていくようにも思われるが。

5.「弱い主体」と「集合的主体性」−その持つ「思想的可能性」

 評者は前節で「弱い主体」というコンセプトを日本社会に紹介することに個人的な抵抗感があると記した。それは「社会的文脈」の違いで「解放の道具」が「抑圧の道具」になりかねないという危惧に基づいた私なりの考えなのであるのだが、著者の松嶋氏は特にその後半部分で「弱い主体」「集合的主体性」と言った「解放の思想」の理論的観点から論じている。やや評者には難解な部分もあるが、評者の理解しえた範囲でその解放の思想の観点を論じてみたい。
 「集合的な主体化」「個人化」ではなく「特異性」というのはフランスの精神科医、思想家のF.ガダリのコンセプトである。「ここでガダリが述べている『集合的主体化』とは、まさに国家と個人の〈あいだ.〉、集団と個人の〈あいだ.〉に生成するものである、ガダリはそれを『特異化』と呼ぶ。「私は個人化よりも特異化について語ろうと思います。つまり個人化というのは、私からすると、つねに主体性の複雑性さを縮減する何かなのです」。(本著 P.390)。この特異化を持った〈集合的主体〉とは、「弱い主体」とおおよそ同じ観点からとらえてもよいように評者には思われる。

6.「プシコ ナウティカ」―魂の航海に向けて

 「それに対して『弱い主体』が示唆す〈主体性〉は、同じ『主体』という言葉を使いながらも全く異なるものを指している。それは、あたかも凧のように、見えない大気の動きに触発されて動くところに見出されるエージェンシーのようなものである。見えない集合性の海のうねりや波に触発され、(中略)行為するとき、他人からみるとそれは、「わたし」が主体的に行為しているように見えるのだ、もちろんそこには、単に受動的に流されるのとは異なる「流れの統御」がある。そこでの〈主体性〉は、真の集合性の次元と切り結び応じる行為そのものの中で、流れを統御するところに生じる効力感にもとづきながら、生の海を難破せずに漕ぎ渡っていくところに立ち上がる。だからそれはまさしく〈プシコ ナウティカ〉なのである(本著P.434~P.435).


*作成:小川 浩史
UP: 20150710 REV: 20150716 
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